Coolier - 新生・東方創想話

伊吹 ーIBUKIー 改帳

2010/11/14 22:25:14
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 夕暮れの、幻想郷。
 赤みを帯び始めた木々の葉に、渇いた音を立てながら風が通り過ぎる。
 私は、自分の体をなでていく風に清涼な心地を覚えた。
 その風の流れに、自分の素肌を溶かし込んでみると。
 さぁと、肘の先がまるで砂みたいに自分の体から流されていくのが感じられた。
 やがて、肉体ではなくその御霊(みたま)へと。
 自分というその物を、取り巻く風に任せてみる。
 途端に、自分という溶液が広がっていく感覚。
 液体というよりかは、もっとそう、大気そのものの様な。
 そうして、私は地を駆け、木の葉に絡み、空へと散在してゆく。




 やがて、私の一陣が、里の民家へ辿り着く。
 そこは大して目立ちもしない、ごく普通の庶民的な家だった。
 私は家の壁をすり抜けて、空気の動かない家の中に沈下した。
「おにーちゃーん、おれの獲んなよぉっ!」
「とってねぇじゃん、嘘つけ馬鹿っ」
 狭さを感じる部屋の真ん中で、もっと小さな食卓を家族らしい四人が囲んでいた。
「こらっ、たいちっ!弟のおかずとるんじゃねぇよ!!おらぇ見てんだかんなっ」
「ほらもう、仕様がないわね、お母さんの分あげるから」
 弟は、母親と見える女性の言葉を聞いてか聞かずか、夢中になって既に兄の口の中に放り込まれてしまった一品を腕を振り回して要求している。
「かいせよー!!おれんだぞ!!かいせよぅ!!」
「うっさいなぁ、母ちゃんがくれるっつってん………」
 言いかけた兄の鼻っ面に、振り回していた弟の手がぴしりと当たる。狼狽する様に鼻を抑えた兄は、涙目になりながら弟を睨みつけた。
「……っ。てんめぇ、そういうことすると……っ!」
「ひゃ───!!きゃ────!!」
 弟にタックルした兄は上に覆い被さると、身動きの取れなくなった弟の脇腹を乱暴にくすぐった。
 父親は「五月蝿い!!」と怒鳴り声を上げ、母親は仕様がなさそうにあきれて見ていた。
 その後も暫く続いていた兄弟二人の喧噪は、立ち上がった父親から放たれた二発の拳骨によって幕を閉じた。いつのまにか弟の皿には、母親の分は減ってないにも関わらず兄に奪われてしまった焼き魚の一片が復活していた。
 見ていて思わず、ふふ、と口も無い筈の私から息が漏れてしまう。
 暖炉も無く、狭くて薄ら寒いこの空間が、何故だか他よりも少し暖かく感じられた。



 やがて、私の一陣が、森の中にひっそりと佇む小屋へと辿り着く。
 鬱蒼とした木々、まとわりつく湿気、徘徊する奇形。
 そんな怪々とした森の奥に在りながら、その小屋は比較的小綺麗な様を保っている。
 森に鬱積した重い空気をかき分ける様に、風に乗った私は辺りを漂った。
 元々人の寄り付かないこの場所である、周囲は静かなものであった。
 聞こえるのは、季節を感じさせてくれる虫達の唄のみだ。
 その唄に混じって、小屋の中の声が微かに漏れて聞こえていた。
「おーい、おーい!そこの人形使いさん?聞こえてんだろ、そこのでっかい箸取ってくれよ」
「うるさいわねぇ、聞こえてないのはあなたでしょう?さっきから返事してるのに」
「ああ、悪いな。ついでにそれ」
「はい………だいたいアンタ、それ一人分でしょう、いくらなんでも作り過ぎじゃない?」
「なに言ってるんだ、人の家で料理するのに一人分しか作らないなんて道理があるものか。これはちゃんとアリスの分だぜ?」
「あのねぇ、そもそもあなたに料理してもらうほど私たちの仲はよかったのかしら」
「いいや。ただ単に偶然立ち寄った私が偶然お腹が空いてしまって偶然丁度材料が置いてあったからこの家で食べてしまおうと思っただけだ。何を誤解しているんだ?」
「あなたの頭の悪さ加減」
「なんだ、やっと分かったのか。やはり知性というものは得てして滲み出るものなんだな」
「無茶苦茶ね」
「さぁ、出来たぞ。私特製、旬・オブ・秋料理だ」
「だから無茶苦茶だっての」
「そうか?これでもこの栗とか鰍とか、いい感じだと思うんだけどな。ん!やっぱり旨いじゃないか。喰ってから言えよな、そういうの」
「見た目じゃなくて文法の事言ってんのよ………とにかくね、魔法使いは食べても食べなくても死にはしないの。私は私でやる事があるんだから、これ以上邪魔しないでくれる?」
「ふむ…そうか?参ったな。……そうだ!アリス、お前私に料理で負けるのが怖いんだろう?」
 ………その一言で会話が途切れる。
 二人のやりとりはどうにも微笑ましい。
 可笑しくて体を捩ると、あたりがザァ、と轟いた。
「ハァ?」
 沸き立つ怒りを抑えこむような、そんなアリスの震えた音色だった。
「つまりだ、お前はいま研究に行き詰まっている。さらにこの魔理沙さんが突然家に押し掛けて美味しそうな料理を作ってしまった。これでもし食べてみて、本当においしかったらお前は料理でも研究でも私に負けてしまう事になる。そしてそれを認めるのが、お前自身怖いんだろ。ほら当たってるからそんなに青筋が立つ」
「………いつ、魔法のほうで私があなたに負けたって?………そもそも、料理もわたしあなたに振る舞った覚えないんだけどね?」
「いいや観念しろよ。私には分かって…お、おいっ!!アリスあれっ!」
「へっ!?」
 小屋の中からがたんごとんと家具がぶつかりあう音がする。
 またも、暫くの沈黙があった。
 私は声を上げて笑っているというのに。
 辺りはいっそう、静かであった。
「………な?イライラした時って甘くてあったかいもの喰うと落ち着くだろう?」
「ん、む。……はぁ」
「ほらほら、溜め息なんてついてないで、にとりの鰍も今喰った栗も、冷めないうちに喰わないとまずくなるぜ」
「………あぁ、もう少しやり方はないのかしら………」
「無いな。このままでは折角作った料理が台無しだ。お前が食べてくれないと困るんだよ。うん………それに、なぁ、旨かったろう?」
「あなたって魔法使いらしくないわね」
「いいや、私は歴とした魔法使いだ!」
 その科白を、少女は驚くほどの快活さで言い切った。
「………これも、魔法だって言うの…頂くわ」
「おう、まだ暖かい」
 それからはかちゃかちゃとした食器の音しかしなくなった。
 森の空気はまだ新しい風を取り入れず、小屋の周りも先程から薄い私が立ち込めたままだ。
 もう一言を期待して、新しい風の気配を感じるもまだ窓辺に身を留める。
 だけど、なかなか二人は口を開こうとしない。
 時間がただ過ぎていく。
 ざぁざぁと、風が自分を攫っていこうとする。
 ──、まあこんなもんかと。
 そう心の中で呟いて、私は流れる風に便乗し、鬱々と暗くなりつつある森の中を駆け抜けていった。


 やがて、私の一陣が、郷の中でも一際目立つ洋館へ辿り着く。
 その洋館は、昼間なら遠目でもすぐに分かる赤い彩色の館なのだが、今は日が落ちかけ、ビスマスの様な際どい光をその肌に写されているので、本来の色は失われ、見た目は普通の洋館にしか見えていない。
 一日で一番、この館の魔力の弱まる時間である。紅魔館の名前も不甲斐無いというものだ。
 しかし、今の時間は見かけも対した事の無いこの館だろうが、これから夜が深まるにつれて、館の妖力も増えていくのだろう。夜の活動が主な館の主には相応しい機能と言える。
 窓が多いのもこの館の特徴である。そよぐ風が道中に選ぶのはそんな理由もあるのだ。
 丁度、館の主が活動し始める時分なのだろう、多くの窓が使用人によって次々開けられていった。
 とまぁ、説明口調でこの建物を分析しているうちにこのように丁度良く窓が開いたので、私は嬉々として館の中へ侵入出来た。
 香ばしい料理の香りを感じる。それに釣られる様に流されていき、ラウンジと思われる広間に着陸した。
 中央に設置された縦に長いテーブルには、座席分の食器や料理が並べられている。
 私はその耽美なご馳走の匂いにふつふつと自分の腹のもの哀しさを覚えながら、次々にテーブルへ集まる館の住人たちを観察した。
 真っ先に席へ着いたのは、柔らかくウェーブのかかった金髪を片側に束ねたフランドール・スカーレットだ。彼女は席に勢い良く飛び込んでから、目の前に置いてあるスープをスプーンも使わずに真っ先にごくごくと飲み込み始める。そんな仕草は、まだ垢抜けない幼稚さを持った彼女には全く相応しいものだった。
 次いで意気揚々と席に着いたのは、館の門番兼花畑管理人の紅美鈴。名の通り、長い朱色の髪が華やかな、凛とした美人なのだが、本人があまり凛とした表情をとらない為、またその性格から高尚な佳人というよりは可愛らしく元気の良い少女と言った形容があてはまる。メイドの一人に「ご馳走になります、咲夜さん」などと畏まっているところをみるとどうやらこの夕食には招待されたらしい。
 その次に上座の一つだけ象徴的に装飾された椅子に腰掛けたのは、館の主であるレミリア・スカーレットである。側で美味しそうにスープを飲み干すフランドールの実の姉であるが、その仕草までを内包する熟達した作法を見れば、誰も先程のフランドールと比較して二人がそれほど歳を離してはいない事に気付ける者はいないだろう。席に着いた彼女は料理には手をつけようともせず、静かに紅茶を啜っていた。
「咲夜、パチェはどうしたの?」
 女主はティーカップを静かに受け皿に戻すと、大皿を両手に持って配膳している綺麗な銀髪のメイドに尋ねた。
「ご研究がひと区切り着くまで図書館から出られないようです。食事をお持ちしようかと尋ねましたが、司書のほうに『食事は皆と一緒にとる』と言われたので」
 大きな皿を配りながらもメイドは器用に話す。
「あら、そうなの?じゃあ待っていた方が良いかしら」
「その必要は無いようです。『少ししたら向かうから、皆は先に食べていてもらって良い』と」
「そう、なら頂きましょうか。咲夜もそこに座りなさい。丁度良いわ、パチェの代わりよ」
「有難うございます」
 一礼してから咲夜と呼ばれたメイドは空いていた席に座る。
「咲夜、なにしてんの。自分の料理持ってきて無いじゃない」
 向かいのフランが飲んでいたスープから顔を上げて、可愛らしく首を傾げる。
「いいえ、実は用意してありますわ」
 ぱちりと指を鳴らすとその瞬間に咲夜の目の前にスープと生肉のマリネが現れる。
「わあ!」
 その手品を見て、フランの容姿の年頃に特有の、半ば反射的な歓声を彼女はあげた。しかし周りの反応が薄い事や以前にも同じような手口で騙された事を思い返し、今の催し物がインチキ紛いのものだと気付くと恥ずかしそうに顔を伏せ、またスープをこくこくと飲み始めてしまった。
 そんな様子にレミリア、咲夜、美鈴はお互いに顔を見合わせ、くすくすと笑いあう。
「さて、それじゃあ、頂きます」
 美鈴がそう言ってサラダを頬張ると、レミリアもスープを口に運んだ。
 咲夜はそれを微笑みながら見守っている。
 自分が作ったものを食べてもらえるというのは、存外それだけで幸せに感じるものなのだということを体現するかのように。
「あら、咲夜は食べないの?」
「ええ、頂きますわ。後ほど」
 そう言って咲夜はまた笑みをつくる。
 レミリアは最初咲夜の言った意味が汲めないと言うような怪訝そうな顔をしていたが、すぐに何かを思いついたように頷いた。
「ああ、そういうこと」
「咲夜、スープおかわり!」
 それまで器に口を付けてごくごく飲み干していたフランが、容器を置くと一呼吸も置かないうちに叫ぶ。
「只今」
 そう言うと咲夜は椅子から立ち上がり完璧な動作で満面の笑顔のフランの目の前にある食器を手に取ってゆく。
 フランは料理の味付けにさも満足したようで、満面の笑みでメイドに話しかける。
「さくやぁ、今日のすーぷおいしーね」
「妹様はオニオンスープが好きでしたからね」
 咲夜はにこりと微笑んだ。
 そこで、ふぅ、と館の主が息をつく。
「まったく、誰が本当の姉だか判ったものじゃないわね」
 独り言の様に呟いた。
「えー?にゃんのことれすか?」
 レタスを口一杯に含みながら、美鈴は目を丸くして答える。
 レミリアはやれやれと言いながら、しかし優しそうな顔で。
「あなたのことも、ね」
 美鈴は「はぁ」と答えた後、丸くなった目を今度は怪訝そうに屈めた。
「うん?わたしにいもうとなんていたっけな?」
「目の前に居るんじゃないの?」
 言いながらレミリアは、堪え切れずにふっふと吹き出す。
「姉様、なんの話?」
 スープの代わりに今度は新たにガーリク・フランスを手に入れ、小さな歯で噛み付きながらフランは尋ねた。
「なんですかねぇ。私に妹が居るやらいないやら」
「なにそれ?」
「そういう話です」
「?」
「アンタたち、可笑し過ぎよ」
 一層声をあげてレミリアは笑った。

「随分賑やかなのね。ご機嫌らしいわ、レミィ」
 気が付くと、広間の入り口に、帽子に月のモチーフを付けた、紫の淡い少女が立っていた。
 病人のような蒼さを湿らせた白い肌と、何か羨望的な儚さを含んだ憂い顔はしかし、魔法使いという種族である彼女にとっては副産的な現象としてしか捉えていないのだろう。
 彼女のいつもに増して不健康そうな顔は、私にふとそんなことを考えさせた。
 よたよたと危なっかしい足取りで先程咲夜が座っていた席へ歩いてゆき、どさっと勢い良く腰を下ろしたものの、彼女の質量が想像以上に少ない事は微動だにしない椅子から簡単に見て取れる。
「そっちは大変だったらしいわね、その様子じゃ。……大丈夫なの?」
「うん、全然ダメ。式の方は完璧な筈なんだけど、術の方がさっぱり動いてくれないのよ。おかげで今までの労力みんなパァ。さっさと見切りつけて来てやったわ」
 そう言って彼女は上を見上げ、まるで照明が眩しいかの様に目をぎゅっと瞑る。
「そう言う意味では無いのだけれど……。まぁ眠そうね、さっさと見切りつけたにしては。どのくらいやってたの?」
 呆れたようにレミリアは言う。
「待って…、ちょっと待って………そうね、だいたい二十日前から」
「起き通しでか。…そういえば最近貴女を見てなかったわ」
 彼女は起きているのが辛い様に目の周りをマッサージする。
 まるで万年も歳をとった老魔女のようだ。私だってまだそんな年寄りめいた事はしない。
「パチュリー様、ご気分のほうは如何でしょう。何か他の物をお作り致しましょうか?」
 そこへ、フランのスープを持って現れた咲夜がいかにも手慣れたような声色で尋ねた。
「うん、スープだけ飲ませて。丁度良いわ。咲夜のが冷めてるから、これもらうわよ」
 そう言って銀のスプーンでほんのりと温かみのあるスープを啜る。
「あら、パチュリー様は猫舌でしたっけ?」
 手にトレイを抱えながら咲夜は首を傾げる。
「そうね、実は、そうなのよ」
 咲夜を見ずにパチュリーは答えた。
「わたしったら、猫舌だったのね」
「はぁ………?」
「寝惚けてるのよ」
 きょとん、としている咲夜にレミリアが言う。
「ふふ、ジョークよ。……そんなに、私が言うジョークは……面白いのかしら?」
 なんだか定まらないような視線で気怠そうにパチュリーは話す。
「いえ、冗談よりもそんな冗談を言うパチュリー様に……。パチェ様、本当に顔色悪いですよ?」
 パチュリーの言った事がそんなに衝撃的なのか、……そうなのだろう。若干畏れるように咲夜は後ずさりしている。
「あははぁ……そんなに怖がんなくても良いのよ?メイドはいつも完璧じゃなきゃいけないんじゃなかったっけ。ふふっ?」
 どうやら本当に様子がおかしい。
 なんだろう、私も別におかしいことを言ってる訳では無いと思うが、……笑顔が怖かった。
「ふふっ。くふふ~っ……」
 そうだ、彼女は元々こんなに表情が豊かな性格では無い筈である。いつもの神社で催す宴会でも、彼女の表情は崩れない。例え酔っ払ったとしても、顔は紅潮するが表情はいつもと変わらず冷めたままだ。…どうにも合点がいかない。
 なんだろう、この嫌な予感から来る薄ら寒さは。
 先程咲夜が退いた理由が分かるような気がした。

「………うふ、ふふふ、ふ、くふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ。くひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひひゃひゃひゃ」


 紫の少女は突然、気の触れた様に笑い出した。
 日頃の不養生で頬は痩せこけ、酔眼朦朧な目つきの下には青緑色の大きなクマが出来たその青白い幽霊のような顔が口元を引き攣らせながらスープを啜っている有様は、異様とも言える程の迫力を醸し出す。
「あ、あの、え?ちょっと、咲夜さぁ~ん!?」
 突如隣で始まったサイケデリックな寸劇に、門番は半泣きで咲夜に助けを求める。
 一方の咲夜は、ひきつっているのか苦笑いなのか曖昧な表情で何も動けないようだ。
 この場で唯一、紅魔館の主人の二人の姉妹は、当然の物を見るような目で淡々と食事を続けていた。
「パチュリー大変だね。こんなんになるなんて、よっぽど実験がうまく行かなかったのが堪えたのかな。……ぶっとんじゃってる」
「そりゃそうよね。四五日も徹夜でやった結果が水の泡じゃ、悔し涙の一つも出るもんだわ。いくら見切りつけたって言っても、散々試して成功する見込みが無くなったから止めたんでしょうよ」
 さすがは旧知の仲。成る程、レミリア嬢は彼女の事が手に取る様に分かるらしい。
「なぁに?二人とも、ぜんっぜん違う事言ってるわ。………眠いとね、ふくく、楽しくなっちゃうの。ねぇめ──いりーんんんにゃははははははあっはははぁ!!!」
「ひぇーんっ」
 隣から尋常とは到底かけ離れた有様で覆いかぶさってきたパチュリーに対し、門番は目に一杯の涙を溜めながら悲鳴をあげる。
「成る程。確かに眠気の波を越えた時には躁になることもありますものね」
「れ、冷静に言ってないでどうにかしてくださいよ咲夜さぁーんっ」
 気違いの様にけらけら笑いながら迫ってくるパチュリーを必死に押しやりながら助けを求めるが、悲しいかな頼みのメイドは先程よりも距離を取って二人のやりとりを観察していた。
「ねぇ、ちょっ。パチュリー様。お疲れなんですから」
 たどたどしく美鈴は落ち着かせようと説得を試みる。
「ちゃんとお夕飯頂いて、今日はもう休みましょうよ。そうだ、寝る前に少しお酒飲んでも良いですね。リラックスするし、付き合いますよ」
 ねぇ、と提案する美鈴にパチュリーもそうね、と頷いた。
「咲夜。この前話したお酒があったでしょう。うんと強いやつ、アレ持ってきて。飲みたいの~」
「いや、ちょっと、そういうやけ酒は…まぁ良いかぁ…」
 少し形容し辛いが、流石は紅魔館の門番紅美鈴と言ったところか。彼女は気を自由に扱えるアビリティがある。その能力に準じて上司の悪酔いの付き人をするつもりだろう。その労力は想像を絶する物になる気がするが、そこをあえて受けて立とうという。まさに苦労人の鑑のような人物である。
「ねぇ咲夜、早くしてね。なんならあなたも一緒に如何?今日は仕事も忘れて酔いつぶれましょうそうしましょう!」


「ダメよ」



 暴走気味にはしゃいで言ったパチュリーの言葉は、予想外に荘厳な響きを持った主の声に打ち消された。
 それまで騒がしかったのが嘘だったかの様に、場は静まり返っている。
 皆、まさか主人が、旧友であるパチュリーの希望を阻むとは考えていなかったのだろう。ましてや研究が失敗し肉体的にも精神的にも疲弊した彼女を、擁護こそすれ制約を与えるとは思いもよらないことだったろう。
 当のレミリアは、まるで自分はこの場に干渉していないかの様に、平然と紅茶に口をつけていた。その清澄な仕草はもはや皮肉のようだった。
「なんでよ。意地悪しないで頂戴、私はお酒が飲みたいのよっ!!」
 一番納得いかなかったのは彼女自身かも知れない。パチュリーはさっきの享楽な表情とは打って変わって、その顔からは明らかに憎しみを含んだ苛立ちを感じさせていた。
 レミリアは音を立てずカップを置くと、怒るわけでもなく、責めるわけでもなく。
 静かに、口を開いた。
「酒なんか飲んでどうするつもりよ。酔いに任せて自暴でも起こすわけ?そんなの見たくも無いし聞きたくも無いわ。私は自分の友人が落ちぶれるのを許せる程大らかな性格はしてないの。パチェ、貴女が酒に逃げて堕落するのは勝手だけれどね、そんな勝手は私が許さないわ。どうしてもお酒が飲みたいのだったらそこら辺にある灯油でも飲んでなさい。この館にある物は全て私の物よ。貴女の鬱憤晴らしに私の私物なんて勿体無いくてあげられないわ」
 ガタンッ!!
 パチュリーが勢い良く立ち上がった所為で、座っていた椅子が大きな音を立てて倒れた。
 美鈴はぎょっとして顔を見上げる。
 しかし、パチュリーの顔は、意外にも今にも消え入りそうな程、悲痛な顔をしていた。ずれた帽子が、床に落ちる。
 やがて、絞り出す様にして声を出した。
「そんな事………分かってるわよ………」
 そう言った後パチュリーは歩いてレミリアの前まで移動する。
 かくん、と力が抜ける様にパチュリーは跪いた。
 そしてしばらくの間、パチュリーはレミリアの顔を見上げていた。
 「レミィ」
 ぽろり、と涙が彼女の頬を伝った。
 彼女は両腕で顔を覆う様にしてレミリアのももに顔をうずめる。
 「レミィ」
 もう一度彼女は呟く。そしてそれに返事をするように、レミリアは彼女の流れるような髪に手を置いた。
 場の沈黙が続いた。
 レミリアは静かに、動かす事なく彼女の上に手を置いていた。
 二人とも、そのまま、しばらくそうしていた。

 そうしてどのくらい経ったか分からない、実際にはそれほど時間は経っていなかったかもしれない頃、すっと咲夜が動いた。
「部屋までお運び致しましょうか?」
「そうね、少ししたら頼むわ」
 それまで閉じていた目を、細く開けてレミリアは言った。
 どうやら、そのままパチュリーは眠ってしまったらしい。
 咲夜は一体いつ気付いたのだろう。全く違いない二つ名だ。
「ありゃ、パチュリー様寝ちゃってたのか。すごいですね咲夜さん、私全然気が付きませんでしたよ」
 それまでぼうっとしたようにしていた美鈴は思い出した様に声を出す。尤も、ぼうっとしていたといっても、それはレミリアをさも敬慕しているような眼差しだった。
「美鈴、あなたぽけっとしてて全然ご飯食べて無いじゃない。全く、今日のおゆはんをちゃんと食べてくれたのは妹様だけなんだもの」
 美鈴ははっとしたように既に冷めかけているスープとビーフをかき込み始める。
「あれ、そういやフランはどうしたの?」
「ええ。先程一人でお戻りになられました。『先に部屋に戻ってるね』と私に仰ってから」
「へぇ、あの子も気が使える様になってきたのかしらね。じゃあ咲夜、パチェをお願い」
 畏まりました、とパチュリーを抱き上げる為に咲夜は前に進む。
「咲夜」
 不意にレミリアが言った。
「さっきのお酒なんだけど、後で皆で飲みましょう。……あのお酒私も飲みたかったんだもの、いくらパチェでも抜け駆けはずるいわよ」
「はい、今度はちゃんとパチュリー様もご一緒の時に」

 上目遣いで何やら恥じらうように言うレミリアに、咲夜は従者として瀟酒に受諾した。



 黒い切り絵となった木々の葉に、ざわざわ、と風が吹き付けた。
 随分と郷を巡って冷やされた風は、甚兵衛一つの私にとって身を冷やすのには十分なものとなっていた。
 霧になる前に感じた風情は何処へ行ったのか。
 いやしかし、この骨身に沁みる寒さこそ、秋の宵頃を感じる一つの情緒では無かろうか。
「っくしん!」
 否、そんな趣のある物では無かった。
 どうやらこの風情を楽しめる程私は人生を永く生きてないらしい、と粟肌が湧いた肩を抱いて思った。
 ふと、先程まで眺めていた色々な情景の有り様が頭をよぎった。
 狭い屋内で人肌のほのかな温度を感じた家、一人の温もりがもう一人を暖めていた二人の家、広くて大きな暖かさに満ちていた紅い家。
 思い浮かべていると、それらの記憶は懐炉の様に冷たくなった私の内をやわくほぐしてくれる様な…。
 はっと、顔を上げる。
 深い藍色の台紙には、黒い木々の切り絵が貼ってあって。
 真ん中には、卵黄みたいな月が出ていた。
「ああ───ふむ」
 何もこんなに冷たい夜に、一人でいる必要は無い。
 私は月が浮かぶもとへと歩き出す事にした。


 秋の夜長は、独りでいるには長すぎる。
 














    ーIBUKIー
















「うー、さむいさむい」
 そろそろ冬の頭角を模してきた秋の夜、博麗霊夢はそう呟きながら、一人縁側で晩酌をしていた。
「なんでこんなに寒いのよ。おかげでせっかくの名月が酔えやしない」
 言いながらちびりちびりと盃を舐める。
 確かに普段とそう変わらぬ整然とした顔は、まだまだ独り酒は序の口と言った様子である。
 しかしまぁこれだけ寒くても呑めば体もあったかくなるだろうと、お猪口に残っている酒をくいっと飲み干した。
「あー……しかし寒いわねぇ」
 さっきから同じような事ばかりを連唱する。
 しかし彼女が言う様に外気は相当寒かった。普通の人間なら暖を取って布団にでももぐり込んでいるのが適当だ。
 すーっと、触るように冷たい風に体をなでられる。
 ういぃ、と湯船につかる時に出してしまうような声を上げながら、彼女はびくんと体を震わせた。
 何も縁側に居なくても、茶の間でもどこでももっと快適に酒を呑める場所はあるだろうにと思うが、それはそれで霊夢にも分かっている事なのである。
 彼女は自分でも何やってんだろ、と思いながら場所を移す事をしないのだ。
 単にもう寝ようと思って戸締まりをしていたら、綺麗な月が出ていて、縁側で酒を呑んだら旨そうだ、と思いついてしまった。それだけなら確かに名案かも知れないが、実際呑んでみると格別旨いわけでもないし何より寒い、しかし条件と場面としては整っていると信じているので、なんだか引き返してしまうのも勿体無く、退くに退けない状況に陥ってしまっている。結局迷案となってしまった。彼女もそれは重々分かっている。
「あー。このまま酔えなかったらどうしよう、私」
 もしかしてこのままここに居なきゃいけないかなぁ、等と真面目に思案してしまう彼女はさすが博麗の巫女としての才覚が在る。
 とくとくと、目の前に浮かぶ山吹色の名月を見ながら酒を注ぐ。
 普段なら輪郭がおぼろげになって眠気を誘う良い薬になるのだが。
 じっと見つめていると名月はまるでその完璧な形姿を誇示するようにはっきりと浮かび上がってきた。円の切れ端までキリっと見える。
 いけないなぁ、と溜め息をついて霊夢は再び盃に口をつける。
 その時、突然月が消えた。
 あれ?と思う間もなく、一瞬にしてあった筈の山吹の円は忽然と真黒に塗りつぶされてしまったのである。
 さては、と霊夢は考えた。
 月は消えたのである。跡形も無く。こんなこと出来る奴は幻想郷には一人しかいない。一人しか居ないので特定は余裕である。
(さてはアンタね、ゆか──!!)
「よーう、れいむー」
「ぶふっ」
 視線を正面に戻すと、目の前、というか本当に鼻先に、少女の笑顔があった。
「すいかぁっ!?ていうか近過ぎ、離れて離れて」
 月が消えた理由はこいつか、と霊夢は怪訝な顔をする。
 つまり、萃香の顔が近過ぎて、その角の陰で月が隠れてしまったのだ。何も消えてしまったわけではない。全く人騒がせな事だ。
「なにか考察する前に、いきなり酒をぶっかけた事への言葉は何か無いのかね?」
 変わらぬ笑顔で萃香は答える。
 注視してみると、額には青い筋が何本か浮き出ていた。なんとなく笑顔も不自然な感じだ。
「細かい事は抜きにしてもさ、めちゃくちゃ寒いんだ。コレ?」
「アンタが急に出てきたのがいけないんでしょうが。妖怪の癖に何言ってんの」
 そう言って霊夢は悪びれる様子も無くくいっと酒を仰いだ。常識的な巫女の容姿では有り得ない様相に違いない。
 そこへ、ひゅう、と風が舞った。
 霊夢が「うう、さみぃ」と肩を竦めると、萃香が置いてあった酒瓶を手に取った。
「ちょっと、勝手に飲むなんて許さないわよ。それは私のなんだかんね」
「少しは、お前も、噛み締めろ」
「へ?」
 青過ぎて青黒くなった額をぴくぴくと動かしながら萃香は言った。
「寒過ぎてもはやヌクいぞ?思い知れ!この阿呆巫女!!」
「ちょっ、ぎゃあああああっっっっ!!!もったいないっっっっ!!!!」
 萃香が容赦なく霊夢の頭に逆さにした酒瓶をかざす。
 霊夢は酒を浴びせられた事よりも、次々に衣服や床、地面へ染み込んで消えていく酒の確保のほうが重要らしい。必死で手でお椀をつくり、顎から滴る酒を溜め込んでいた。
 そこへ、びゅう、と風が吹き付けた。
 ひっ、と霊夢の体が跳ねる。その寒さに硬直して、手からはせっかくの美禄がぼとぼととこぼれていった。
 おやおや、と萃香がおどけたように言う。
「惜しいじゃないか、せっかくの酒が。どれ、私が注ぎ足してやるよ」
 そうして腰の瓢箪の栓を抜いた。
「………や、ちょ、やめ………」
 寒さに思考が停止していた霊夢は、萃香のその行動に気付いて制止の声を上げるも、そのときには頭上に瓢箪が浮かんでいた。
「味わえ、霊夢」
「あああああああああっっっっさむいっっっっもったいないっっっっっっ」
 腕を払うか酒を掬うか、中途半端な位置で両手をわなわなさせている霊夢は、結局最悪の選択をしていることになる。
「止めてっお願いっ!その止めどなく溢れてくるお酒を無駄にしないでっ、私にはどうして良いか分からないわっ!?」
 そんな訳の判らない談判に奔っているのも、やはり博麗の巫女を勤めたる者の文句の無い証であるように見える。
「いやいや、遠慮するな霊夢。もうちょっとだ、もうちょっとだけ我慢すれば、そら。案外もう寒く無いぞ?実際私なんて温かいのか寒いのか痒いのか痛いのか自分でもどうなってんのかわからな………ぶべっ!?」
 そしてその博麗の巫女の、勤める者の才気は無意識に相手をぶん殴るという勇断に達していた。
 ノーガードで完璧な不意打ちを喰らった鬼の少女は、見た目通りの重さであることを証明する様に見事に素っ飛んでいった。
 そのまま頭から地面につくとごろごろと転がっていき、最後は大の字に伸びて動かなくなる。
「そーか。こうすれば良かったのね」
「……口切った……」
「アンタが悪い。明らかに今のは。ほら、さっさと起きてこっち来なさいよ。寒過ぎるから戸、閉めるわよ」
「……地面、あったかいかも……」
「じゃあね」
 ぴしゃん、と戸が閉められた。
「………」
 やれやれと言った表情で萃香は起き上がり、先程霊夢が座っていた縁側へ歩いて行き、月明かりを頼りに戸を引いた。
 入ったその部屋は掘り炬燵がおいてあり、霊夢が家にいるときの大半を過ごしている居間だ。その炬燵の上の葦の籠に入れられた蜜柑が目を引いた。
「うむ?」
 しかし、肝心の霊夢がその部屋には見当たらなかった。
 首を傾げて周りを見渡すと、じゃぼん、という水のくぐもった音が聞こえた。
 なるほど、風呂か、と萃香は風呂場へ向かう。
 おもむろにキンキンに凍えた顔に手をやると、飛ばされたときについた土埃が気になった。
 ついでに自分も入ってしまおうと、萃香は顔を擦りながら思う。
 脱衣所に入ると、磨りガラスの向こうに紅白の人影が見えた。
「れいむー、私も入るぞー」
 言いながら戸を開く。
「わ、なんだお前。そのまま入ったのか」
 巫女の装束を着たまま檜の小椅子に腰掛けお湯を浴びている霊夢は、寒いから閉めて、と気にも止めない様子で言った。
「ちょっと待て、お前じゃないんだ、私は脱ぐぞ」
 その霊夢らしい仕草にニヤリと笑いながら、萃香は衣服を脱ぎ捨てた。
「脱いでから開けなさいよ」
 そう言うと、霊夢は浴槽をまたいで衣装のまま湯の中に身を沈めた。湯に濡れ赤黒く染まった袴が、海草のようにどんよりと漂った。
「ははは、なんだかヤケになってないか?」
 ぴしゃっと戸が閉まる。
 オオォ──ォォ───ンン、と霧のような音が反響した。
「そのアホっぽい感じ、アタシゃ好きだね」
「めんどくさいのよ。どうせアンタに酒まみれにされたんだし、洗濯も兼ねてるの」
「普通、その発想は無いと思うけどなぁ」
 萃香はからからと笑いながら霊夢の隣に腰を下ろし、その華奢な体を湯に浸けた。
 見るに意外にも博麗神社の風呂は広い。萃香と霊夢二人が浸かってもまだ余裕があった。
「うー」
「うー」
 二人とも、凍えた身体に熱が入り込むくすぐったいような抵抗に、年寄った唸り声を絞る。
「あ~」
「あ~」
 やがてその熱が体に染み込んで行くのを感じると、抵抗するのを止める様に力みが取れて行く、と同時に、おんなじように力みのない声が口から漏れ出た。
「うぃ~」
「…おお、霊夢」
「何よ、連れないわね」
「ん?なにが」
「別になんでも。何よ」
「おお」
 萃香は顔をお湯で揉んでから、ふぅ、っと息をついた。少女の顔がぽっ、と赤くなる。
「あれだったぞ、今日、森の人形師のところに魔理沙が料理をしに行ってた」
 へぇ、と目を閉じたまま関心なさそうに霊夢は返事をする。
「なに、見たの?」
「ああ、霧になってな」
「アンタもどっかの妖怪と同じような事するのね。全く、感心しないわ」
「私のは紫ほど悪趣味ではないと思うけどな」むぅ、と拗ねた様に萃香が唸る。
「あいつらは仲が良いのか?」
「さぁね」霊夢は口だけ動かして答えた「そう言えば、永夜異変の時もあいつら組んでたわね。禁呪の詠唱チームだっけか、ガキっぽいわよねぇ」
「そういうお前達は、幻想の結界チームじゃないか。人の事言えんがな?」
「やっぱりアンタ悪趣味じゃない」
「あはは、違う違う。これは紫本人から聞いたんだよ」
「おしゃべりな賢者ねぇ。年寄ると口を開かずにはいられないらしいわ」
「その説は合ってるな。私だって思った事は大抵話す」
 そこで、初めて霊夢が動く。といっても、手をふやけるのを憂慮してか湯から手を出しただけである。湯船の縁に置かれた紅色になった腕からは、うすうすと湯気がのぼっていた。
「それで?何が言いたいの」
 ぼんやり暖まった手に顎を乗せて霊夢が言う。
「うん…うん、まぁ特に言いたいことは無いんだがなぁ………存外に魔理沙の手料理はおいしそうだったよ」
 ふぅん、と霊夢は鼻息を漏らす。眠いのか両目は閉じられたままだ。元来この巫女は話に興味があるのか無いのか、端的には判断しにくい話し方をする。そもそも、話自体を聞いていない事がままあるのだ。周囲の知人のだいたいはその事を分かっているので、今更それについては言及はしない。
「おいしんじゃない?魔理沙って意外と料理はするのよ、ぶきっちょだけど」
「うん、そうだな。あの人形使いも言ってた」
 それから、二人とも黙った。時々お湯をさらうちゃぷちゃぷした音が響く。
 ────。
「うん。魔理沙は面白い奴だな」
 そう頷いてから、萃香は立ち上がった。その影響で立った波の圧力を受け、霊夢は目を開ける。浴槽をまたいで先程自分が腰掛けていた椅子に座る萃香を霊夢は眺めていた。
 と、霊夢も湯から立ち上がる。びしゃぁ──、と独特の余韻をもった水音が響いた。少女の絹のような肌を、真珠の様に水滴がぽとぽとと転がっていく。
「背中、流したげる」
 そう言う霊夢の言動に、萃香はきょとんとした表情でかぶりを振った。
「おおー?良いよ別に。若いもん同士じゃあるまいし、自分でやるから」
「そのかわりアンタが私の背中を流すの。その方が楽だからね」
 霊夢は早速とばかりに手拭いに石鹸を擦り付け、泡を立て始める。
 意思の疎通があったのか、ふむ、と萃香は肯んじ、素直にその背を友人に向けた。見た目に添うような華奢な少女の玉肌かと思いきや、その体には長年死闘を演じ続けてきた者の証である古傷が、まるで持ち主を讃えるように数多に見受けられた。
 背に手をやろうとした霊夢が、困った様に溜め息をついた。
「アンタねぇ、風呂の時くらい髪結いなさいよ。洗いづらくって仕様がない」
 一方の霊夢は、湯に髪が浸からないよう纏め上げてあった。首筋に艶っぽい項が現れている。
「服着たまま入ってる奴に言われたくないなぁ」
 苦笑しながら萃香はその亜麻色の長髪を肩にかける。
 露になったその背の凄惨さを見てしかし、と霊夢は顔をしかめた。
「痛々しいわね、これ。痛くないの?」
「痛々しいのは仕様がない」まるで決めてあった様に萃香は即答した。そうして何かを考える様に視線を落とすと、ひと呼吸ついて語りだした。
「見た目に痛いのは、勲章に最適だ。………あぁでも、昔の傷でもう疼く傷なんかなくなったなぁ」
 そう目を細めながら話す萃香は、いささか感傷的なように映った。
「うん、なんか思い出が消えていってしまうみたいだ。あいつに負わされた切創、こいつにもっていかれた脇腹。私の思い出は、痛みと共にあるようなもんだ」
「やぁねぇそんな物騒な。考えただけでも面倒だわ。私がアンタなら100人中100人自決するわね」
「………まぁ分からんだろうよ。大結界とスペルカードルールを制定された巫女さまには。こうやって人間に背中を流される日が来るとはねぇ」
 むっとした表情で霊夢は言う。
「何よ、私がした事が気に入らないわけ?そうならそうとはっきり言えば良いじゃない。別に流したくて流してるわけじゃあ無いんだから」
 急に機嫌を悪くした霊夢に、寧ろ萃香はくっと吹き出した。
「いやなに、別に悪く言ってる訳じゃないよ。むしろ結界やルールを作ってくれた事は感謝してる。そうでもしなきゃあの乱世の時代は終わる事を知らなかっただろうし、そも、幻想郷自体の耐久が保たなかっただろうよ」目を瞑って、少し考える様に俯いた後、ただ、と萃香は語り出した。「あの時代に依存していた奴らは確かに居た。あの血を血で洗い日々闘争に明け暮れ、生き、殺し、剥ぎ、紡いで、求めた、そういう時代に縋っていた奴らを私は知っている。常日頃から争いの中心に居られる焦燥感、高揚感、不安感、充実感、そして………安堵感。それらがあったから彼らは生きていられた。逆に言えばそれらに活かされていた。生きる為に殺し、生きる為に殺される。まるで戦に囚われた家畜のようだったよ」
「…それでも、幻想郷は全てを受け入れるわね」
「そう、そうだな……。どちらにせよ、あいつらに将来は無かった。……魔法は、解けたんだ……それに」萃香の表情からは何も読み取れない。ただ無心になって出てくる言葉を口にしているようだった。それはまるで何か遠い、憧れのものを見ている、そんなようなぼやけた眼差し。「どう転んでも、あいつらは戦う事を止めなかっただろう。そう………なにがあっても………。純粋に、まるで子供が戯れる様に殺し合う。遊びだよ、ヨコシマなものは何もない、とても綺麗な奴らだった。生まれついての闘いの寵児………」
 ふぅ、と何かを諦める様にかっくりと息をついたあとに、萃香は続けた。
「私には、眩しかったんだ。いつまで経っても戦う事を止められない、遊ぶオモチャを離そうとしない、ただただ生きる。そんなあいつらの素直さが………」
 びちゃあ、と萃香の背に湯がかけられた。それから霊夢の手がぱちっと叩く。
「あい、終わり。次は私ね」
 はっと夢から醒めた様に萃香は体を起こした。霊夢に「ほら、どいてどいて」と急かされたどたどしい動作で体を入れ替える。
「お話としちゃあなかなか面白かったわ。ただまるで老人の妄想話聞いてるみたいだったけど」
 よっこいしょ、と椅子に腰掛けながら霊夢は言った。
「随分入れ込んでたみたいじゃない。そんなにそいつらが好きだった?」
 一瞬、萃香の表情が停まった。

それは 往年の


 鬼は、夢想する。

修羅を生きた稚児達への


 そんなたわいもない幻想を。

羨慕を伴う 情炎の憶持


 しまった、と言う様に苦笑いする萃香は、少々投げやりな感じで「そうだったかもな」と言った。
「んん、そういやもう数年経つけど、静かになったもんよねぇ。前なんて神社っていうものを目の敵にしてた奴らも少なく無かったから、そいつら追い払うのもひと仕事で………って萃香なにしてんの。さっさと私の方洗ってよ、寒くなってきちゃうじゃない」
 手拭い片手に何やら考え込む様に待機していた萃香は、驚いたように、呆れたように息を漏らす。
「はぁ。おい、その歳で惚けてるのか。洗うも何も服着たまんまじゃどうしようもない」
「あれ?」
 ほんのりと染められた霊夢の顔が、一段と紅に染まっていく。声を出そうとして出る言葉が無い様だった。
 それを見ながら、萃香は懐かしむようにふっ、と笑う。
 何やら萃香の動向を感じ取った霊夢が、衣装を脱ぎながら言った。
「なあに。あんたが変な話聞かせるからでしょうが。笑わないでよ」
「良いじゃないか。…全く、霊夢らしいよ」笑いながら言った「本当」
「それ…どう聞いても私の悪口よね」
 萃香は笑いながら、気にし過ぎだって、と霊夢の背中を擦り始めた。
 ゴシュゴシュと、白い肌に泡が立てられていく。
「霊夢、案外良い肌してるのな」
「あぁ?」
「すべすべだぞ。私、自分の傷だらけの肌くらいしか触ったこと無かったからなー」
「ううん……この歳で良い肌って言われても、なんとも言えないわね」
「ふむ…そうさなぁ」私も肌が良いと言われたところで嬉しくもないしな、と萃香は頷く。「ところで霊夢って幾つなんだ?」
「わたしぃ?魔理沙と同じくらいじゃないの」
「なんだよそれは。お前人間の癖に自分の年も知らないのか?」
「なによ、だから言ってるじゃない。魔理沙と同じくらいだって」
「魔理沙は何才なんだよ」
「知らない」
「おまえなぁ」
「そう言うアンタは自分の歳分かってんの?何百年も生きてるくせに」
「妖怪は分からなくて良いんだよ」
「なによそれ。ずるいわね」
「ほれ」
「うひぃっ!?」
 突然萃香に胸を掴まれ、霊夢は頓狂な声をあげた。
「なっあ………、この変態っ」
 ほぼ本能的に霊夢は萃香に拳を突き上げる。
 しかしその拳は萃香の小指一本で容易く受け止められてしまっていた。
「うん、まぁつまり、臆せずにこういう事が出来てしまうくらいの年齢ってことだな」
 霊夢の拳を押し下げ、磊落な笑顔で萃香は言った。
「お前もまだまだヒヨッコって事だな。同性に触られた程度でそんな声をあげてるんじゃぁ………ひょっとして、感じたか?」
 "カランっ"
 意地悪そうな笑みを浮かべている萃香の横を通り、勢い良く戸を開けて霊夢は出て行ってしまった。
 萃香はおやおや、と憫笑を保ったまま霊夢を目で追う。
「あ」
 と、その火照り気味で熱っぽかった面貌は、途端に冷水を浴びせられたように蒼白へと変わってしまった。
「や、やめろっ、おい」
 まるで身内を人質に獲られたかのような緊張がその表情からは感じられた。
 見ると、脱衣所には萃香とまるで相成すように全身を真っ赤に火照らせた霊夢が奇妙な格好をとっていた。眼は真っ直ぐ下を向き、片腕を振り上げ、まさにその手に握る物を叩き付けようとしているようである。その手には萃香自慢の伊吹瓢が握られていた。
「れ、れいむ!」
「なに?」
「いやっ、やぁ、めてくれそれはっ………」
「………ふっ」
「だ、だめだめだめっっっ!!」
 霊夢は冷徹に笑みを浮かべその腕を下ろそうとするも、萃香は必死とばかりに声を張り上げそれを制止した。
「なによ?」
「そ、それはだめだって!お前にはそれの価値が判っちゃいない!」何とか霊夢の注意を促そうと、ひたすらに言葉を紡ぎ出す「おい良いか!?単にその伊吹瓢は酒が制限無く出てくるだけって訳じゃないっ、永い間途切れる事無く酒浸しにして、瓢箪そのものの香りや渋み、甘みをこなれさせて、口当たりも何もかも私好みに育て上げてきた自慢の宝なんだよ、言うなれば我が子同然だ!それくらい大事に思っているものをお前はその手一つで壊すと言うのか、もしそうなら余りにも残酷だ。お前も人間なら子を取られた母親の無念が判るだろう?私も元々そんな種族だからな。そういう人間の顔は嫌って言う程見てきた。誰も彼もそれは皆辛辣を極めた様な表情をしていたよ、今思えば仕方ないが、それでも私の心は思い出す度にその辛さが伝わる様だ。なぁ霊夢判ってくれ。私はお前にそんな思いをさせたくないんだ。お前は今まさにその過ちを施行せんとしている…ッ」
「だから?」
 しかし歴戦の巫女にとってはそんな言葉はまるで茶番である。萃香の言葉は単にこの状況における霊夢の地位的圧倒性を萃香自身に認識させるだけであった。
「だ、だから、さぁ………、駄目だよ?止めよう?」
「………」
「だ、だめだってばぁあっ」
 鬼はか細い両腕をぶんぶんと振って、まるで駄々っ子の様に騒ぎ立てる。
「な、なんでそんなことするかなっ、ただ少しからかってみただけじゃんか!?」
 もはや萃香の目には涙が浮かび上がってきていた。
「ふーん。あそう。ならそれで良いじゃない」
「良くないっっ!だったらその手を放せっっ!」
「…放せ…?」

場の、雰囲気がガラリと替わった。

「ねぇ。さっきから思ってたんだけどさぁ………」
 先程までは萃香の大音声により、半ば姉妹喧嘩のような調子であったが、最前の霊夢の発言は明らかな怒気を含んだものだった。
 二人の間に流れる空気の重さに、思わず萃香は後ずさりする。
 鬼にとってこのような厄介な気配は苦手なものなのかも知れない。
 否、たとえ鬼という種ではなくとも、この場に居た者は皆尻込みしたに違いない。霊夢から萃香へ真っ直ぐに放たれる気配には、質量をもっているかのような錯覚を覚える程の覇気が籠っている。実際浴槽の湯は波立ちガラスの戸はまるで震える様にがたがたと音をたてていた。
「なんで」
 霊夢は明らかに言葉だけではなく、眉間に寄ったしわと笑った様に不自然に引きつったくちびる、更には血走ったその眼から、彼女の心情は怒髪の領域まで達している様子が伺えた。
「………なんでさぁ、わざわざ私がアンタの言う事を聞かなくちゃいけないわけ?」
(終ったっ………!)
 萃香の真っ青になった表情からは、そんな心の内が読み取れた。
 壊される、壊されてしまう、わたしの、大、切な瓢が、今まで、大切に使っ、てきた瓢が、霊夢に、なんで、ひどい、もう、好きな時、あのお酒、が飲めない、わた、しのだいすきな、あの味、嫌だ、いやだ、なんで、ひどいよ、ゆるしてよ、ゆる、して。
「う………」
 途端、萃香の眼から大粒の涙がぽろぽろと溢れた。
「う………っく、ごめ、なさいごめん………なさいごめんなさい、あたし………がっ、悪かったよぅ………、ゆるし、て………」
 くしゃくしゃに、萃香は幼い顔を歪ませた。
 嗚咽まじりで謝罪する萃香を横目で見ながら、しかし霊夢の姿勢は変わらなかった。
 萃香はそのままぺたり、と力が抜けてしまった様に座り込んでしまった。始めに膝をつき、手を絶望したようにだらんと下げ、と同時に正座する様な格好になった。目は虚ろで、ひっくひっくと体を震わせながら足下のどこか虚空を見つめていた。
 やってしまった、もう戻っては来ない。
 自分にとって大切なものが、何の前触れも無く消えてしまう。そんな突発的な無常感。
 それは逆に、幾多の修羅場を抜けて多くのものを失ってきた萃香に対してはこの上なく絶対的な現実感だった。
 伊吹瓢は死んだ。その冷徹な真実に対しての、超然とした否定と必死の肯定の狭間という虚空。
 それを、萃香は見つめているようだった。
「………どーしよー」
 見た目とは裏腹に、口調はあくまでも軽いものだった。それはまた、中身を失った容器のような忘我を思わせた。
 その顔からは、先程の涙は消えている。
 落涙の跡は消え、目も澄み、口を一文字に結んだ彼女の表情からは、先程までベソをかいていた少女にはとても見えなかった。
 代わりに、彼女の口からはこんな言葉が出た。
「いなくなっちゃう」
 どの感情から創られるのか判明しない、色の無い声。
 そも、中身がなくなってしまった彼女には、そんなもの在りはしないのかも知れない。
「これで、みんな」
 萃香は淡々と声を発していった。
 既成の思惟をただ口にする、そんな無機的な音。
 そして、最早概念となった彼女の意識が選び出した、その言葉が口から出ようとしたとき。
 パシャア
 と、萃香に何かが降り掛かった。
 それは、酒だった。
 割られた瓢箪の破片とともに、四方に散った伊吹の酒。
 その一片が、私のもとへ降り掛かったのだ。
 そう萃香は夢想した。
「熱………」
 彼女の内に息巻いていた断片的な言葉の数々は、結局、降り掛けられた酒の熱さと、温度に対する生物としての本能的な反射の応答によって、空気中に霧消してしまった。
 萃香の体を伝う雫。それはまだ生命の熱を持っているような温度で、彼女に自身の軌動を発信していた。
 その事を感じ取ったのか、空虚になった筈の萃香の表情はまた歪み、枯れた筈の両目からは粒になった酒とは別の雫がぽろぽろと頬を伝った。
 涙は確かに温かかったが、背中を流れた酒はもっと熱かった。
 ………。
 ………。
 ………。
 ………そう、熱かったのだ。
 萃香は鼻水を垂らしながら、きょとんとした顔になる。
 顔を上げる。脱衣所を見る。
 萃香の視線の先に霊夢はいなかった。
 ………酒も、割れた筈の伊吹瓢の残骸もそこにはない。
 彼女の呆然とした表情も無理は無い。霊夢があの姿勢から瓢を叩き付けたのだとしたら、容器の破片なり、破片は危ないから片付けたにしても酒の死水くらいは残っている筈。

 それに、酒は熱かった。

 萃香はバっと振り向いた。
 誰もいない筈の風呂桶に、霊夢が弛緩しきった面でどっぷりと浸かっている。
 桶に肘ついたその手の中には、伊吹瓢が握られていた。
「ふぇ゛?」
 状況が理解出来ない、といった萃香の口からは、鼻水混じりの間抜けな語が発せられる。
 それから、十数秒の沈黙の後、伊吹瓢の健在を確認した萃香は、歓喜とも怒気ともとれない声をあげた。
「あ、あ。あああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁあぁぁっ!!!」
 萃香の声量に、浴室がブウゥ──ンと低い音をたてて共鳴する。
「っるさいわねぇ。風呂場で大声出さないでよ」
「れ、れい、そ………それ………!」
 顔をしかめる霊夢と、湯船に浮かぶ瓢をとを、萃香は丸く見開かれた目で交互に見回す。
「何よ。私はただあそこにいたら寒くなってきたからお風呂に入り直しただけよ。いつまでもぐちぐちしてたのは萃香だけなんだから」
「で、でも、だってっ、お酒が、私に掛かってきてっ」
「アンタがいつまでたってもぼけーっとしたままだったから、私がコレにお湯入れて浴びせたのよ。お陰で眼ぇ覚めたじゃない」
「それに風呂の湯なんて入れたのかっ!?」
「なによ」
「あぅ、違う………いや」
 萃香は信じられないような茫然自失とした様子で、半開きになった口をぱくぱく動かしていた。
「ていうかアンタいつまでそうしてるつもり。いい加減体も冷えたでしょうに。入ってくれば?」
 言いながら妙に優しい顔をした霊夢は萃香の腕を掴んだ。
 その瞬間萃香は驚いた様に目を丸くする。先程放心していた時間がどれほどなのかは正確には分からないが、その間脱衣場から入ってくる冷気に晒され続けていたのだ。湯に浸かっている霊夢との温度差は相当なものの筈である。
「ほら、冷たい」
 そう言って霊夢は萃香を引き入れる。
 意図せず萃香は勢い良く片足を湯船に突っ込んだ。
「うぁ、あっちっ!熱い熱い!!!」
「最初は我慢、ほらほら」
 一気に襲ってくる灼熱の水温に萃香は目を白黒させる。なにやらやたら笑顔な巫女は熱い風呂が好みなので、萃香が感じているであろう+30℃強の温度には一層拍車が掛かっていた。
 霊夢はそんな萃香の気を無視する様にぐいぐいと引き込む。彼女の能力は無重力。故に他人の所感など知った事では無いのだ。
「ねぇ。最初だけ我慢すれば、暖かいでしょう?」
「あー………うん。私の、さっきまでの葛藤は、一体何だったんだ」
 顔を真っ赤に火照らせながら、萃香は湯の中に口を沈めてプクプクとあぶくを出す。
「ん、なあに?」
「………私が聞きたいってば。もう………」
「なあに」
「………もう、いいや。瓢も無事だったし」
「そうね」
「お前、話逸らそうとしてるだろう?」
「そうね」
 じんわりと痺れる熱湯の中では、考え事も散漫になるようだ。細かい事は気にしないという鬼の性分も手伝ったのか、萃香も、霊夢に対してはもう咎める気も起こらなかった。
「あー、さっきのお酒が熱燗みたいに感じられたのは体が冷えていた所為だったか」
「なあに」
「なんでもないよ………霊夢、さっきの私どんな感じだった」
 萃香はとろんとした目で、ふと思いついた様に口にした。
「泣いちゃっただろ、さっき」
「そうね」
「そのあと、なんか、凄いこと思い出してたんだけど。なんか言ってなかったか」
「そうね」
「なんて言ってた?」
「忘れた」
「ふぅん」
 まぁ良いかといった風に、萃香は話を切り上げる。
「なぁ霊夢」
「なあに」
「一発、殴らせろ。なんかそうしたい」
「良いわよ」
 ばちゃあ、と飛沫が上がる。
 霊夢が首を傾げていた。とろんと不思議そうな顔をしている彼女の顔の顎に当たる部分に、萃香の拳が触れている。
「なあに」
「駄目だな。水の中じゃうまく打てないや」
 萃香はそう言って拳を納めた。
 霊夢は首を傾げたまま、なにやらふふふー、と笑っている。
「じゃあ、萃香。殴ったんだから、私からもお願い良い?」
「なあに」
 萃香は霊夢の口調を真似て返事する。
「体も暖まってきたところ悪いんだけど、さっきから開けっ放しで寒い空気が入ってくるそこの扉、閉めてきてくれない?」
「………」
 暫く間を置いてから、はぁ、と溜め息をついて萃香は立ち上がった。
 びしゃびしゃと、水滴を滴らせながら湯船から足を出す。
 石が敷き詰められたひんやりと冷える風呂場の床を歩いて、ひんやりとした外気が流れてくる脱衣場の戸に手をかけた。
 その手に力が込められる瞬間、萃香の口元が微かに上がっていた。
 ぴしゃっと戸が閉まる。
 オオォ──ォォ───ンン、と。
 霧のような音が、反響した。




 博麗神社、母屋の一室。
 中央に炬燵が配置され、その炬燵の真ん中には籠に入れられた蜜柑が並んでいる。
 その内の一つを霊夢は手に取った。
「やー」
 手に取った蜜柑に、綺麗な形の丸い眼を寄せて言う。
「………私は、この時間が何と言っても一番素晴らしいものだと思うのよ」
「なにがだよ」
 濡れ髪をタオルで抑えながら萃香は苦笑した。
「風呂から上がって、こたつに入って、何も考えずに蜜柑の筋をとってる時間」
 そういう霊夢の言葉は如何にも真実らしく、彼女はぼうっと蜜柑の皮に指を入れ、その皮を剥いている。しかし不思議な事に彼女のぼうっとした筈の顔は、何も考えずにだらんと弛緩した低俗な惰性を感じさせるものではなく、むしろ口はすっと閉じており、その瞳は玩具を与えられた赤子のような不思議なまどろみを含ませながら奇麗に輝いていた。
「ふうん」
 髪の水気を取り終わった萃香は、指で髪を梳きながら息を漏らした。
「根っからの怠け者」
 蜜柑の皮を剥く手がぴたりと止まり、霊夢の顔が萃香に向けられる。しかし萃香は気にかける様子も無く、毛先をくるくると指に絡ませたりして戯れていた。
「………」
「………」
「………。」
 いつまでも反応を示さない萃香に呆れたのか諦めたのか、霊夢は再び蜜柑に目を落として皮を剥く作業を再開した。
 くすくすと、誰も話さない部屋で萃香の声を押し殺したような笑い声が波紋の様に消えていった。
 音は何もしなかった。
 時間が過ぎてゆく。
 萃香は顔を上げ、何かを探す様に部屋を観察した。天井の4つの隅、隅から隅、柱、箪笥の上、箪笥の根元、それからぐるっと床を見回して、最後に自分が入っている炬燵の上のテーブルを確認した。
 萃香はそれまで気付かなかったあることに気が付いた。
 彼女は思案する様に目を上に向けて、何度か瞬く。そのまましばらく動かなかった。
 霊夢はそう言った他人のいわゆるサブリミナルな行動を気に留めない性格なので、隣で目をぱちくりと動かしている萃香には見向きもせずに相変わらず蜜柑を弄くっていた。
「あー。ないのな」
「なにが?」
「時計が。この部屋」
「要らないじゃない」
 ──その言葉に対し、萃香が自身にある種の畏敬または敬服というような感情を霊夢に対して内包していることを雑然と感じたのは確からしかった。しかしそんな彼女が後に放った言葉は「そうだな」という至極簡潔なものだった。
 萃香は霊夢という人間の本質を思い浮かべながら概念としての"時"を連想した。
 彼女は時間を必要としていない。否、時間を認識することを必要としていない。
 時間とはそも、普通なら認識出来ないものだ。誰も時間の流れを五感で感じることは出来ない。仮に空腹を感じない人間が全面真っ白の無限方の空間へ閉じ込められたら、人の時間の定義は非常に曖昧なものになってしまうはずである。
 知覚での時間という概念を体感することは不可能だが、生物は時間経過の結果として起こり得た現象を認識し、逆説的に時間の存在を証明することになる。例えば腹が減る、老化する、景色が変わる、それらは全て何らかの動きがあり、その動きに対しての時間が存在した証明になっている。
 しかしそれならば、時計などと言った時間を計測する道具は要らないのである。時間は作られる物ではなく、在るべくして在るのだから。要は日常生活に便利だから用いるだけの事。自身の、文化的な人間の文化的な行動に、効率化と単純化を持たせたい更に文化的な人間が定めたツールが時計だ。
 言うなれば陰と陽。一方の存在によってもう一方の存在が成り立ち得る。
 しかし彼女はそれに依存しないと言い切ったのだ。十分に文化的で高度な生活を送っている人間が、それを構成する核となる時間の区切りなどは自分には関係の無い物だと主張するのである。そしてその二つの相関する事でしか成し得ない事象を、この巫女は両立させている。否、一方は捨て去っているので、正確には片方が存在するのでもう一方も当然存在するだろうと他人の目からは見えるだけだ。その巫女の所業はまるで陰陽の思想をそのまま屠殺しているかのようである。そして恐ろしい事に、屠殺したのは本来在るべき原動である筈の時間、つまり陽の方であった。
 然るにこの少女は、自分の巫女と言う生業の原典を、自らの存在によって破戒したのだ。紛う事無き禁忌である。
 ──無重力──。
 萃香の脳裏に、彼女の能力が浮かんだ。また同時に、その能力に言い得ない容積の奥行きを感じ取りブルリと震えた。
 


「お前、ホントは妖怪か?」
 萃香は何やらニヤつきながら霊夢に話しかけた。
 今まで全く動じず一心に蜜柑の皮を削って捕食時に一層の満足感を得るべく虚しい努力を実行していた霊夢は、その時初めてそれまで保っていた、その木像の釈迦に喩えられる在る種の半音階的な異様さを併せ持ったアルカイックフェイスを、一瞬阿修羅を思わせるような情けない憤慨の顔に変え、今度は見る見るうちに眉間にしわを寄せたまるでブルドッグの苦心と苦渋を知らしめるような表情に帰結した。
「なんだよ、その顔は。新手の宴会芸か?」
 確かにウケるぞ、と萃香は笑う。
「……私の苦しみなんて分からないわよ」
「ああ、苦しんでたのか?いや気付かなかった」
 そう言ってから、萃香は少し戸惑った。と言うのも、霊夢の、蜜柑を外皮から噛んでしまったような表情が、ハッキリと苦悩の実在を表していたからである。
「いや、ああ、悪い。なんだ、本当なのか。お前って悩まない奴だと思っていたよ」
 この科白も言ってしまってから一言余計だったな、と萃香は思った。
「別に、悩みって訳じゃないけどね」
 霊夢ははぁ、と溜め息をつく。この間は多分彼女が話す事を整理している時間なのだろう。それから彼女は、伏し目がちに語り出した。
「たださあ、なんだか気持ちが鬱陶しいのよね最近。近頃は私んところ来る奴ら増えちゃってさ。まぁアンタもその一人だけど、一層神社って名目が廃れてきちゃったって感じがしてね。構わないんだけどさそんな事は。でもお賽銭は欲しいし、信仰は一応持ってもらった方が良いと思うし、そこらへんの事がさぁ」
 そこまで一気に喋り通した霊夢は気怠げに首を後ろに傾ける。灯りのもと現れた白い首が小さく動いた「どっちつかずなのよねぇ。結局、私の中でさ」
 あーあ、と言いながら顔を戻して、再び拗ねたような視線を手中の蜜柑に注いだ。
「そこで妖怪の筆頭に、仮にもその対極にある巫女の私がさぁ?妖怪だろ、なんて言われちゃうんだもん。こたえたちゃうわよね」
 そう言って霊夢はもう一度溜め息をついてから、筋を取る事には飽きたのかやっと蜜柑を半分に割いた。
 萃香の眼が、その微睡みに不思議な色を乗せていた。
 二つに分かれた蜜柑のうち、片方をさらに半分に乱暴に割き、霊夢はそれを無理矢理口の中へ押し込んだ。口の容量に対してややオーバだった様で、一口噛んだところで唇から果汁が滴った。
「なぁ霊夢」
 「あーよぉ」と、口元を拭いながら霊夢は答える。さすがに喋り辛そうだ。
「私が、私達がここに来るのって、やっぱり変かなぁ」
 そう言うと萃香はこたつの上に腕を組んで顔を伏せてしまった。霊夢は相変わらずなかなか蜜柑を飲み込む事が出来ずもしょもしょと咀嚼に時間をかけている。
 時間が経つ。二人とも動かない時間が続いた。
 やがて霊夢がごくんと音を立てて飲み込むと、所在無さげに口を開いた。
「でも来たいから、来たんでしょ?」
「…うん」
 ならそれだけの事じゃない、と興味無さげに答える。
 萃香は顔を伏せたままだった。
 霊夢の視線が彼女に移った。
(長い角だなぁ)そう彼女は思うと、無意識にそれに手を伸ばしていた。コツコツとした手触り、温度を感じさせない無骨な角は、強者の印象を十分に与えている。
(与えている、ハズなんだけどなぁ)
 それでもこたつに突っ伏したままの彼女は、どこかしおらしい弱さを感じさせるところが在る様に思えた。角が生えている頭部は、入浴してからの艶の増した亜麻色の髪がするすると流れ落ちる川をつくっていた。
 霊夢はその髪を見ながら角の感触を楽しんでいた。細かな凹凸のある表面を、何度も指の腹で往復する。ゆっくりと、確かめるように、何度も何度も指を這わせた。やがて指先は角の根元へと滑っていって、今度は少女の髪を弄り始める。細いが腰のある髪だった。軽く指通りの良い毛髪を、時には梳く様に、時には一束取ってその質の良さを堪能した。くるくると指に巻くと同じ様にくるくると円を描いて元に戻った。霊夢はそれが気に入ったようで、しばらくそうやって遊んでいた。
「…く」
 それから暫くの間霊夢がそうしていると、萃香が何やら言った気がした。
「何か言った、萃香?」
 指を止め、話しかける。尤も萃香は顔を伏せたままなので、何かを言っても音が曇ってしまう。ひょっとして空耳かも知れないと霊夢は考えた。
「…ふっく、…」
 しかしどうやら様子が違うである。確かに萃香は何か発したし、鼻水を啜るような音もした。
「…萃香、アンタまさか泣いてやしないわよね…」
 霊夢は若干気後れしたような抑揚を落とした声で言う。しかしそれに対して返ってくる答えは変わらずむしろ先程より発声の勢いが強くなっているように感じられた。
「…う、く…うぅ…」
「ちょ…なんだってそんなになってんのよ、しみったいの嫌いなんだから、ねぇほら」
 珍しく霊夢の声には動揺が見られた。日頃からの怠慢な生活からこの女が瑣事で慌てたりすることは少なくなかったが、このように友人に対して困惑を伴った焦慮に駆られるというのはげに希有な事である。
「うぅう…ひぅ、うーうー!」
「あぁあ悪かったわよ、なに、ナニ?私がいけないの?ねぇ泣かないでよぉ」
 バっ。
 と顔を上げた萃香の顔は、別に涙で腫れて居るわけでも無く、今度は逆に泣きそうな顔になっていた霊夢に対して実に冷ややかな視線を送っていた。
「泣いてる訳無いじゃん」
「…泣いて無いじゃん」
 呆気にとられ呆然とする霊夢は、それしか言葉が出て来ないようだった。
「泣いてないよ!なにさ人の頭勝手に撫でやがって。もう寝るね、もう」
 そう言うと萃香はすっと立ち上がり、襖を開けて寝室へと行ってしまった。
「はぁ?なに意味の分からない…って家に泊まるの?そんなら最初から言いなさいよ」
 答えは無かった。
「布団は自分で敷きなさいよー」
 返事の代わりに布団の仕舞ってある押し入れの開く音がした。それを聞くと霊夢は立ち上がって、食べた蜜柑の皮を捨てた後部屋の灯りを落とした。その一瞬、卓上に粒状の反射があったのに彼女は気が付かなかった。


 霊夢が屋内の後始末をして寝室に入ると、既に布団が二つ用意されていた。萃香はと言うと、並んだ敷き布団のとなりに胡座をかいて座っており、膝に頬杖を立ててなにやらじっと睨んでいた。
「なにやってんの」
「うむ、いや…」
 話を聞くと、どうやら布団を出したは良いが、押し入れの一番上から引っぱり出したものであるからこれは霊夢愛用の物かと思った。なので今度はその下のを出して敷いてみたが、霊夢の事だからやはり一概には決めかねない。どうしようかと悩んでいるところという事だった。
「別に気にしないわよ」
「言うと思ったがな、気にするのはお前より寧ろ私の方だ。少しは客人の気になって考えてくれ」
「んなこと知らないってば。というか布団近過ぎるわよ。アンタと並んで寝たくないんだからもっと離して」
 霊夢はそうなんの気無しに言った筈である。しかしどうやら当人はそれ以上に言葉を汲んでしまったようだった。その鬼の、鬼とは懸け離れた瞳の色を、勿論霊夢が気付く訳も無い。
「近いとアンタの角刺さるじゃない。普通に痛いんだからそれ」
「ああそうか…。悪い」
 そう言うと霊夢と萃香は互いに布団を遠ざけた。霊夢の掴んだ布団は萃香が二つ目に出した物だった。
 着ていた外套を枕横に脱ぎ、寝床に入りながら霊夢は言う「んじゃ、灯り消してねー」
「届かない」
「…んもう」
 毛布を被りかけた霊夢はやれやれと言った表情で立ち上がり灯りを落とす。薄明りも無い真っ暗になった部屋で布が擦れる音をさせて、今度は床に着いた様だ。
「…てかアンタ、大っきくなれたわよね」
「加減が分からなくてな。寝る場所が無くなっても良いのか?」
「絶対ヤダ」
 声色からして霊夢はどうやら布団を頭から被っている様である。
 それからは暫く、しんとした空間が続いた。
 いつもなら響く虫達の音も、風のカタカタと硝子を叩く音も、何故か今日は遠く遠く聞こえた。
 代わりに聞こえるのはいつも以上に聞こえる両者の呼吸、動作に伴う音。過剰に不必要な気配。
「寝ないの?」
 顔だけ出して霊夢は尋ねる。
 「いや、」幾分か間が開いた「………寝るよ」
「なんか嫌な予感がするのよね」
「する」
「アンタじゃなくて私がよ」
「いいや、私だよ」
「あー?」
 最後の言葉はそのまま欠伸へと続いた。それから再び布団を被ると「良いや、どうでも。アンタも早く寝なさいよぉ」と言いそのまま動かなくなってしまった。
 主の監視から外れ、家屋の本質が現れる。
 今度こそ、本当に静かな時間が訪れた。
 先程の様に人の気配に邪魔されて、夜の密度が薄まる事も無い、本当の宵闇。
 霊夢の意識が失われて、部屋には凛々と響く虫の音と風音が、普段通りに聞こえてくる。
 暫く、萃香は動かなかった。
 呼吸するのも躊躇っているかの様に、全く微動だにしない。
 ふと、彼女は顔を上げる。僅かに入り込んだ月明かりが、定まらない眼光を彼女に与えた。
 そのようなので、その表情は酷く判断しづらいものだったが、何故だか頻繁に見る者には彼女の想いが伝わってくるようだった。



 静かだ
 …こんなに静かで澄んでいる夜だと言うのに…
 体の内は、どうしてこんなにも熱いのか

 ──はぁ──
 深く、息を吐いた。肺の中の空気が抜けるのに反比例して、胸の鼓動は大きく波打つ。全身に震えが伝播する。
 薄暗い天井を見上げていた。私が見上げる先には、今もあの名うての月が浮かんでいるのだろうか。
 私がその月を幻視すると、体中の肌が蛇を抱いたかの様に粟立った。
 …言うまい。何も月に晒されて過敏になるのは、妖怪にとっての性だ。何処を恥じる必要もない。
「ンむぅ」
 声の元に視線を移すと、霊夢が被っていた布団を剥いでいた。寝苦しかったのだろうか。しかしその行為のおかげで若干着衣も乱れていた。薄く開いた襟からは、扇情的な鎖骨の陰影が覗いている。
 ──はぁ──
 私は確実に自分の意志で、しかし矛盾するが引き寄せられる様に、彼女の方へと移動した。
 霊夢を跨いで仁王立つ。上半身を布団から出して、快適そうに寝息を立てていた。綺麗な黒髪が、絹の布地の様に広がっていた。起きた時の癖直しが大変かも知れない。
 すっと、顔を近付ける。霊夢の顔が間近になった。薄暗いながらも妖怪の私にはよく視える。
 おでこの生え際、濃い眉、控え目な睫毛、閉じた瞳、小さい鼻と薄い口。
 …全体的に起伏の少ない構造は、確かに少女の幼さを惹き立たせている。
 私の前髪が少女の額を撫でた。
 視界の隅で彼女の手が微かに動く。
 もっと顔を近付ける。
 彼女の寝息が柔らかく鼻をくすぐった。
 私は何をしているのだろう。
 近づくまぶた、今目を開けたら彼女はどういう表情をするだろうか。
 ──はぁ、はぁ──
 呼吸を抑えるのが辛い。この距離でこんなに荒げていたら、きっと彼女は眼を覚ましてしまうだろう。
 もしそうなったら、彼女はどう思うのか。
 卑しく俗物的な妖怪だと侮蔑するだろうか、所詮は人間とは位を隔てた魑魅魍魎とその符を以て斬り捨てるだろうか、──…否、寧ろ却って少女のその澄明な瞳を淫靡な猥色に染めるだろうか…──。

 ──はぁ──はぁ──あっ──
 ──触れ合う口唇、絡み合う舌先、粘度と水気が混じり合ったぴちゃぴちゃとした滴り、吐息、潤んだ瞳、紅い震え、歓楽の期待そして潰乱、混沌、幻惑、兇妄。もう、あと一寸弱顔を寄せれば、それが再現出来る距離だ。意識がぶれる、視界が暗転する。目の前の彼女の顔がじわじわと滲んだ。体中の力が抜けていく様だった。痺れる様に感覚が喪われて、既に私の身体は私自身の制御を受け付けなくなっていた。思考だけがぐるぐると突つかれた芋虫の様にのたうつ。呼吸は疾うに気付かれているのではないか。もう唇は触れているのではないか。既に彼女は受け入れているのではないか。或いは最早行為に入っているのではないか…?
 拡散してしまいそうな焦点を無理矢理引き戻す。目の前の物体を認知しようと努めながら必死に自身を戒めた。見ろ、どうだ。さっきから一分たりとも位置は変わっていない。同じ様に彼女の目蓋が目の前に在り、唇が在る。触れ合ってなんぞいない!ハッキリ観ろ…………!
 …静かに腕に力を込めて上体を引き起こす。まるで強力な磁石から引き離すような労力を要した。視界から彼女を排し、安堵する様に私は息を吐いた。吐いていく息の中に今までの情念が詰まっている様な熱のこもったモノだった。
(瘋癲だ)
 私はそう思った。
(私はキット瘋癲患者に違いない。そうでないならどう物言い出来る)
 熱い吐息を吐き出すと、代わりに入ってきたのは、今度はさっきまでの癲狂加減をそのまま正反対に置いたような、随分整然とした冷たい空気であった。

 そして逆転が起きる。
 私がその冷えた聡明な空気を体いっぱいに染み込ませると、さっきまでの妄信が嘘の様に信じられない、寧ろ嫌悪するような世迷い事であった気がしてきた。その代わりに私の心を占めた統率者は、この世の凡てを否定する、退廃的な思想を大志としているような奴であった。
 途端に私は何か物事が極度に理解出来たように、大変詰まらないものであるという気がしてきた。一体どうした事だろう。さっきまでが躁なら今度は鬱だ。感情の起伏が極極めて大袈裟である。しかし鬱というのとはちょっと違った様で在った。元来鬱という物は諦観やら卑下やらが行き過ぎて、あらゆる物事に対しての所作が面倒臭く意味の無い物に感じてしまうものであろう。が今の私の心中と言えば、頭の中の整理のつかなかった部分が綺麗に片付けられ、考える事が極度に純化されていて大変清々しく、またその所為か畏れる物などある訳の無いと言った実に自信に満ち安定した物であり、寧ろこちらが躁と言える物ではないかと思える程だった。
 私は天井を見上げその裏に浮かんでいるであろう名月を幻視すると、ふと、否。見るべくして足下に横たわる巫女を見下ろした。
 そして俊秀な私は直ぐに解答に至ると、
「なんだ。えらく簡単だな」
 と呟いて少女の細い首に手をかけた。
 このまま一気に力を込めてポキリとやってしまえばそれで終りであるが、それだと余りに味気ないし、それになんだか少女の反応を見たいという正直な願望もあったのでじわじわと窒息させることにした。
「が……!?こ…はっ」
 いきなり喉元を絞められた巫女は驚いたように目を見開き、次いで息が出来ない事を理解するとなんとか拘束を解こうと力の限り手足を振り回した。しかし到底力が足りない。彼女のその行動は単に自身の酸素を浪費するだけだった。次第に力が無くなってくる。彼女のその薄い唇からは別の生き物が這い出る様に舌が伸びてきた。やがて眼球も裏返り弱々しく空を掻いていた手も動かなくなると、いよいよ彼女は意識を失ったようである。このまま暫く絞めていれば、意識の戻る可能性は無くなるだろう。どうせこの後は大した動きは無いだろうし、もし失禁されてもこの体勢だと困る。ではいっそ折ってしまおうかと一層力を込めた。
「あ?」
 完全に息の根を絶とうとした刹那、力を込めた腕が逆らう様にびくりと震えた。
 畏れる様に震える腕を見ていると、何だか胸の中でざらりとした厭な予感が広がってゆくのを感じた。
 何。 「私の意識の中で何か強い思念が浮かんだ。」
 何よ。 「再び力を入れようとする手がぶるぶると震えた。」
 私は、何が。 「彼女から手を離す、手の震えが収まらない。」
 クソ、くそ。 「震える手をもう片方の手で必死に抑え込む、すると今度は伝染する様に体中が小刻みに震え出した。」
 嫌、厭ってば、こんなの。 「がたがたがたと体の振動が止まらない。そのうちさっきの思念がだんだん形をもって見得てきた。」
 あ!お前ら…っ 「それは、それらは遥か昔、最早お伽噺でしか語られる事の無い私の仲間達。それが、あの屈託の無い、全く純朴な笑顔で私を嗤っていた。」
 …なんだよ…。 「彼らは何も言わなかった。ただ嗤っていた。」
 なんなんだよ!!! 「ぽたり、と雫が垂れた。私は泣いているのだろうか。彼らは嗤っていた。私が泣いているから彼らに嗤われてしまうのだろうか。」
 …違うね。違うんだ…。 「彼らの一人が嗤いながら言った。そうじゃない。萃香は違うもん、と。」
 分かっている。
 もう私は気付いている。
 霊夢を見た。
 見ようとしたが、生憎目に溜まった涙が彼女の輪郭をぼやけさせた。
 そうして霧のようになったもう動かない霊夢を見てから、私は幼子の様に怏怏泣いた。


 目を開いた。
 薄暗い。影のある白い物が私の目の前でゆっくり動いていた。
 霊夢の白衣であった。目線を上にずらすとすやすやと寝息をたてている。
(────ああ────)
 どうやら私は霊夢に覆いかぶさる様にして寝てしまったらしい。仄かに伝わってくる体温が心地よかった。
 結局、何処からが夢だったのだろう。おそらく唇を近付けた時に気を失ってしまったのだと思うが。もしそうなら恥ずかしくって赤面どころの話ではない。
 霊夢の胸が上下するのを揺りかごの様に感じながら、私はさっきの夢を思い出していた。………そして、夢の内容をしっとりと消化していった。
(あいつら、楽しそうだったな。…私は違うって言ってた)
 そうするとなんだか可笑しくって、くつくつと声を噛み殺して笑った。
(そんなこと、分かっているよ)
 静かに身を捩って頭を霊夢の首の隣に置いた。首の後ろに俯せる様にすると、彼女の匂いがした。
 暫くそうしていた。
 そうしなければ、どういうわけか壊れてしまいそうだった。
 そう思うと自分の体は随分と消耗しているようだった。いつの間にこんな疲れてしまったのだろう。永らく疲弊など経験していなかったので気付く事さえ出来なかった。そう考える頭も重く、じりじりと灼かれる様に痺れて苦しい。
 体を動かすのも怠いので、相変わらず体の位置は替えず、彼女の香に顔を埋めた。

 
ふと、なんだかこのまま自分は死んでしまうのでは無いかという気がした。


 これまでに味わった事の無いような極度の疲労や、今日のそれまでの思惟の変遷を考えてみると、何となく妖怪としての寿命が自分にも訪れたように思えた。実際妖怪が老衰で死ぬのを看取った経験は無いが、逆にそう思ってみると特に理由も無く納得出来る。このまま彼女に身を預けながら死ぬのも悪くない。起きた時彼女にはひどく迷惑だろうが、まぁ自分の死にはそれくらいの対価が在っても良いじゃないか。…そう思うとなんだか愉快だった。
 ……………………………………………………………………………………………。
 意識がとびそうになる。なんとか堪えた。
 しかしその前にやる事が在る。
 実際それをする価値なんて微塵も無い事が分かっていたが、これはそう言うものじゃない。もとより意味なんてのは無いものだし求めてもいない。
 私は霊夢の耳元へ口を持っていこうと首に力を込める。
 途端に視界がびりびりと歪んだ。
 歯を食いしばってそれに堪える。
 頭が信じられないくらい重く感じた。頭部がそっくり巨大な鉄球にすり替わってしまった自分がイメージ出来る。
(何、ほんの鉄球くらい…!)
 更に力を込める。脳はぐらぐらと揺れ、視界はどこを向いているのか判らないほど朧げになり、首の繊維のびちびちと弾ける音が鈍重になった痛覚を醒まさせた。
 それでもなんとか顔を横にすると、今度は彼女に告げる言葉を探す。
 しかし脳は既に焼き切れてしまったのか、私にその言葉を告げる事はなかった。
 仕方ないので、もう体の方に用意されていたものを使う事にする。字数も少なくそれで自分の本懐が遂げられるのかこの頭では考える事も出来なかったが、今となっては他に選択肢は無かった。
 そうして私は小さく言った。
すき
 独り言の様に囁いた。余りにも小さい声だったので、自分でも彼女に聞いて欲しかったのかどうか分からない。
 ふっと、なんだか吹き出した。それからもう出ない声でこう繋げた。
「…駄目だな。私はやはり違うみたいだ」
 きゅ、っと体が寄せられた。
 驚いてしまって、一瞬霊夢に包容された事が分からなかった。
「…霊夢…?」
 愈々もって死ぬのだな、と往生際悪くそう思った。
 不意に彼女に優しくされて…状況が状況だけに死者への餞別ととっても仕方ないだろう。もしや抱いているのは死神か?
 そう思うと呆れたものだが途端に威勢が良くなる。切らんタンカも湧き水の様だ。
 さあ持っていけ。大往生とはいかなかったが、腐っても鬼の伊吹。自身の生涯には反故にし難い誇りがある。如何に閻魔王がこの身を裁こうが、それくらい飲み込んでくれよう。場合によっては挑んでやっても良い。かの裁判長を見るに閻魔というのは相当な手練が揃っているのだろう。きっと久々に面白い勝負が出来そうだ。よし、そうと決まれば未練は無い。早く私を連れて行ってくれ。地獄に鬼ヶ島なんぞ作った日にはさぞかし痛快であろう………。
 しかし高ぶるのは気持ちだけでいつまでたっても迎えが来ない。それどころか私は自分の身に起きている不思議な違和感を覚えた。
 彼女の柔らかな肌から、暖かい熱が伝わってくる。優しくて心地好い熱だった。
 それに、私は信じられないほど自分の体が癒えてゆくのが感じられた。体だけでなくこの停止しきった頭も、じわじわと暖かく回復した。前のあの冷気を一杯に含んだ明瞭さと比較するとその性質は全く違うものだった。それでさっきまでの威勢は何処ぞへ引っ込んでしまった。
 それが、私を包み込むその暖かさがなんなのか、私はその解答に至った。その解答に至ると、なんだかまた泣いてしまいそうになった。
 だから今度は私からも彼女を包む腕に力を込めた。
 ──そうするともっと、その暖かさを貰えるような気がした。
 一度抱き締めると、意識せずとも更に力が込められていく。これが、好きになるって事なのだ。
「……んカール…ゴッチぃ………むにゃ……」
「………」
 ………投げんなよ。
 私は以前彼女が拾ってきた雑誌に載っていた闘士を思い出し、幾許か真面目に心配しながら、一方でこの完璧に安寧な心地好さの中でゆっくりと微睡みに落ちていくのを感じた。



 目を開く。
 朝だった。小鳥の鳴き声と共に、朝日が透かすように差し込んでいる。
 ぐぅっ。と体を伸ばして、よいしょ。と体を起こした。外気に肌が触れ否応なく目が覚める。今日はちゃんと布団を掛けていた様だ。いつもは寝苦しいのかなんなのか、途中で布団を剥いでしまうようで朝起きると肩から腕が冷えている事が日常だった。
「…う。そういや嫌な夢見たわね」
 突発的に昨夜の夢の内容を思い出し顔を顰める。何故だか実体のない靄のようなモノに首を絞められる夢だった。もがいて必死の抵抗しても、ソイツの力が強くて全く解けない。将に悪夢だった。
「それにしても…アイツ泣いてたような」
 しかしどういう訳か夢の中のソイツは途中で手を解いてしまう。そして理解の範疇を越えているがソイツは靄のままキラキラ光る涙を流して号泣しているのだ。気味が悪いどころの話ではない。
「………あれ、萃香?」
 ふと隣を見てみると、敷いてあった布団は畳まれていた。萃香は言伝も無しに帰ったのだろう。
 全く勝手な奴だと思いながら、自分も布団を片付けるべく立ち上がった。
 と。
「なに、これ」
 私が寝ていた頭近くの壁に、大きな穴が空いていた。何かをぶつけた様に酷く欠損し、中の土壁が露見している。
 どういう事だ。なぜ一晩経ったら部屋の壁に穴が空いているのだ。この部屋に居たのは私と萃香だけ。私は寝ていたから残りは萃香。そしてその萃香は早々に出て行った。
 ………うん納得。
「こらぁぁああっ、萃香ぁぁあああ!!」
 取り敢えず今日の始まりはあの鬼を取っ捕まえる事だろう。私は彼女が開けたであろう穴を賠償させるべく、今日もまたどこかに溶け込んでいるであろう幻想郷に飛び上がった。


<終幕>
 読了有難うございました。お疲れ様でした。

 お久し振りでございます。
 前作から3ヶ月ぶりとなりました。然様ですので、前作をご覧頂いた方々にも改めて御挨拶を。
 初めまして。2と言う者です。
 はい、それでは今回の作品について随想を。
 始め、この作品のコンセプトは萃香ものを適当に書く、と言う事でした。コンセプトもへったくれもありません(笑)。当時何か書こうと思っても浮かぶ題材は無く、増して題材のストック等も在りませんでした。なのでとりあえずたわいないほのぼのものでも軽く書いてみようかと。しかし書き始めてみるとその筆の進まない事。最初に方向性を決めておく事の重要さというか前提を噛み締めました。
 結局ほのぼのなんて要素はいつの間にかどこかへ消え、代わりに自分好みのサイコじみた色合いが姿を現していきました。見事に序盤と終盤で生じたずれ、書き終わった時はホントどうしようかコレとか思いました(笑)。
 この作品が随所で整合がとれていないのもその所為です。というよりも修正してしきるだけの能力が俺に不足しているという云々。いかん、弱音は百害。
 そういう訳でこの作品は駄作なのです(←どうみても弱音且つ言い訳。なので許容出来る人のみご覧下さい)。ああもう、前回で精進するとか言っておきながらなぁ。
 今回のテーマは萃香、特に彼女の心の在り方になっちゃうんですかね、完璧に後付けですが(笑)。それでも彼女の心情は書こうと喘ぎました、俺なりに。……うああ、認め切れない!恥ずかしいいっそこれ無かった事にしようか今ならまだやり戻せるブラウザの戻るを押せばまたやり直せ(禅問答) 目指せ500点!

 最後に、この不完全で稚拙な文章をここまで読んで頂き本当に感謝の気持ちで一杯です。
 宜しければ、後学の為に真実な点数と感想をお入れ下さい。必ず消化します。

それではまた。

  11/24 追記 本文を加筆修正しました。

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 >>11様
  おおう、コチドリさんだ。毎度コメントお疲れ様です。
  きゃあ、褒めてもらって嬉しい…ですがどうやら勘違いしていらっしゃる様で、残念ながら俺にはそんな構成力も技術も無いようです。てか言葉使い巧いすね…。次回にご期待しやがってくだちい(////)有難うございました!

 >>15様
  有難うございます。こう言ってはアレですが、こんな感想が欲しかったっ!そうですね、この話は内容の軸が二つあります。しかしその内の一つは欠壊し、他方にもたれかかっている様な有り様で、読むと味わう奇妙な不足感、いまいち読解出来ない印象はそこから立ち上るものだと思います。因みにそれにつられて再読しようとしても更に迷うだけです。なにしろ冒頭がその入り口なので…。
  コメントして頂き創作する時の一つの指標が出来ました!感謝です。あとチート霊夢妄想するのって愉しいですよねうふふh

 >>16
  有難うございます。読んでいただけで嬉しいです。褒められると空回っちゃうから自粛じしゅく。。。
2
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コメント



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11.100コチドリ削除
散漫。疎の状態の萃香の如き散漫な物語だ。

厨二病をこじらせたが如き物語でもある。

つまり何が言いたいのかってぇと、
俺はこの物語が大好きだってことだ。

散漫な物語の外周を更に覆うわけのわからん緊張感、
意図して醸し出したのだとしたら、
貴方は凄ぇよ。
15.50名前が無い程度の能力削除
理解させる気が全く無いストーリーがわけわかりませんでした
月と霊夢に振り回されたってことなんでしょうか、ちょっとわけがわからない
文章のカオスさがその勢いを増してましたこれは分からない月型?
でも僕はあなたがこのノリのまま書いた長編が見たいです
霊夢の強さの描写はやってて飽きないですよね
16.80名前が無い程度の能力削除
よい雰囲気で