「はてな、秋ならば月見酒と洒落込むべきではないかね」
とう、と湖の岸辺に降り立ったのは子鬼である。常々から酒を懐に持ち、酔いを酒で迎えては酒で酔いを呼び込む。これぞ鬼よとばかりに酔わぬ日無く、今日もその限りに収まる千鳥足で湖畔に佇む人影に向けて歩を進める。人影には子鬼の捻り曲がる双角と違い、空の団子を突く串ひとつ。それが凛とした麗顔の額に映える。
「やあ萃香。これはこれで乙なものだよ」
かかる声に応、と答えた麗しの鬼は、しかし振り返ることも無くただ湖面を見つめている。瞳に映る湖面の輝きを写し込み、夜天に佇む名月には目もくれず。普段の鬼らしい酒浸しの笑みは影を潜めて、弱小妖怪が鬼を見て浮かべるような憧憬と畏怖を隠すことなく顔に表している。
それが子鬼にはいたくご不満のようで、踏みしめる土をそのまま押し込み、手持ちの瓢箪でひとつふたつと月を畏れる小さな背中を叩く。
「なんだいなんだい。勇儀ともあろう者が、お月様のご尊顔は畏れ多くて拝謁出来ませぬってかい」
「いやいや、まあ待っておくれよ。これにも訳があってだね」
ぷくっと頬を膨らました子鬼の猛攻にさすがの麗鬼も相好を崩して子鬼へと目を向ける。にやりと親しげな笑みの中にどこか獰猛さを感じさせる、常の鬼の笑い顔を見てようやく瓢箪の回転も止まり両者相好を崩しあう様となる。そのままげらげらと笑いあい、次第に湖上の氷精を驚かせるほどに。
「へへへ、いやでもどうしたっていうのさ。まさかお団子餌に湖の魚でも釣ってやろうって訳でもなかろうに」
「いやなに。お月さんを見ながら酒でもかっくらおうと思ってね」
と言ってひょいと掲げられる一升瓶ひとつ。麗鬼の自慢げな荒い鼻息と端を吊り上げた唇を見るに、なかなかの酒であることは間違いなく。しかし子鬼からすればどうにも納得しきれる答えではなかったようで、首を傾げつつ問いひとつ。
「はてな、月見酒と洒落込むならば月を見ると思うんだけどね。今の地下の流行かい?」
「いあいあ、萃香はちっと前から地上で酒をかっくらっているから慣れたかもしれんがね。まだまだ久しい私からすれば新鮮なうちに奇をてらっていきたいのさ」
にぃ、と笑って膝を曲げ、胡坐をかきつつ湖面の月に目を向けなおす。立てた片膝に杯を乗せてとくとくと鬼の水を注ぎ、子鬼を招く。受けて子鬼も隣に座り、片手を丸めて杯に模して瓢箪から一注ぎ。外の秋酒は手に冷たく、子鬼は顔を綻ばせる。
「地下は地下で気の良い奴等さ。地上のドンちゃん騒ぎも面白いがそいつはどっちがどこで勝ってるって話にはしないのが粋ってもんだね。だがお月さんはちと違う。地下じゃあ見えんから地上で飲むしかないが、ただ阿呆みたいに見上げて飲むのも……悪くない。悪くないけど独りで飲むってんなら阿呆になっても仕方が無い。阿呆になって一番楽しいのは誰かと飲むときだと思うからね」
とつとつと麗鬼は語り、二人でくいと酒を下す。語る横顔はどうにも神妙。その間もただひたすら湖月を見やり、だんだんと月への憧憬が顔を覗かせる。その様子に子鬼はどこか焦るように声をかけていく。
「ちぇ、なんだいなんだい私が居たらご不満かい。そりゃお月さんに比べたら地下には顔を出してるけどさ」
「はは、違うって。誰かと飲む酒も独りで飲む酒も味は変われど美味いことにはかわりないよ。たださっきまで独りで飲んでたんでね、それがちと抜けないだけさ」
そっと覗いていた顔は子鬼の声ひとつでまた身を潜めていく。ただその身は鬼から去ることなく、奥底で根付き続けている。故にそれを追うべく子鬼は豆を投げかける。
「ならその飲み方教えておくれよ。さんざん独りで楽しんだんだろ? なら今度は二人で、もうちょい楽しもうじゃないか」
「やれやれ。まあいいさ、ここいらで久しい旧友お月さんとサシで飲むのはやめにして、三人で盛り上がろうかね」
えいや、と声なき掛け声で投げつけられた豆にて憧憬畏れは追いやられ、麗鬼の一声でからがら逃げ去った。
「こうやって眼下に月を据えて飲むだろ? するとどうだい、地下の奴等とも一緒に月を肴に飲める気がしてね。それだけっちゃそれだけなんだが、地上と同じように地下でも飲めたら、面白いじゃないか」
ぽつりと呟く麗鬼だが、その顔に寂寥も憧憬もありはせず。ただただ楽しそうな声が響き渡る。青白い光が照らす中でも赤く強い鬼の色。
しかし子鬼はそれでも足りぬ。一度月に負けたのならばまたいつ憧れを抱き返さぬとも限らない。考え考え、ふと手元の酒に目を向けた後、にやりとひとつ。
「したらば勇儀さん、おひとついかがだい」
「応とも。何かは知らないが何なんだい」
うん? と不思議そうに隣の子鬼に目を向けて、杯を傾ける手を一休み。くつくつと可笑しそうに笑う姿を見て、一体何をするものかと瞳に期待の色を滲ませる。その目を向けられて子鬼も胸を反らして立ち上がり、やあやあ我こそは! と言わんばかりの立ち回り。大仰にのしのしと麗鬼の周りをくるりと一周、元の場所に戻るとダダンと足を踏みしめて。月に見せ付けんばかりに、大根役者が立ち回る。
「やや、ここには杯がないのかい! こいつぁいけない! いや、寄越さなくて良いよ……杯がないとなればここは手杯と洒落込もう! おやおやこれは如何なる事か! 手中に月が映っているではないか! ついぞ我も月を収める大妖怪となりんせん!」
瓢箪を振り回し、くわっ、と顔を七変化。轟く大声はうとうと眠りかけていた氷精を湖に突き落とし、傍の鬼の大笑いへと大変化。興に乗る子鬼はますますの歓声に気を良くし、ぐるりぐるりと舌を回して突き動く。掲げた手杯を一息に飲み下し、これまた大袈裟に。
「見たか者共! 月を下した私は月を愛でぬ! これからは月と飲んでは飲ませようじゃないか! さあさあ!」
やんややんやと手を打つ麗鬼に子鬼が一喝。一瞬をきょとんと呆け、しかしにやりと一笑いした後はこれまた立ち上がり、手杯に酒を注いでは月を落として見つめ、そこで何か思いついたようにもう片方の手に手近な石ころひとつ握りただ喚く。
「しかしどうだい大妖怪殿! おまえさんは月を手に収めたと言うが、あちらにおわす月の親分がこちらを見ているぞ! そら、そちらさんは私に任せて大したことのない子妖怪は寝潰れていたまえ!」
そいやと一息、振るうは右腕。鬼の気性か真っ直ぐに飛ぶ石ころは見事に湖面の月を真芯から捉え、轟音と大波を撒き散らして月の親分はお隠し遊ばれる。今度は子鬼がぽかんと呆け、しかしわははと一笑い。哀れ涙を溜めて吹き飛ばされる氷精まで飲み下し、湖畔は一晩静まらぬ宴会場に。
お二方止まらぬアドリブ演劇、やがて朝日が昇り月を落とすまで大立ち回りは続き、幾度と吹き飛ばされた朝日に輝く水面は、著しく減らしたその水量とあいまって杯に注がれた美酒のようであったという。
文々。新聞より。
古典芸術のようなテンポで、一気に読んでしまいました。
こういうお酒と勇儀姐さんの話は大好きです。
神主の酒好きもあって、東方には酒がよく合います。
日本酒も好きですが、私はジーマをよく飲みます。
しかし、酒など無くとも楽しませていただきました。
ありがとうございました!
芝居がかかった2人のしっとりとした雰囲気がよかったです