耳に届くのは歌。
話に聞く金糸雀を思わせる儚くも美しい硝子細工の歌声。
金糸雀――あながち的外れでもない例えなのかもしれない。
異国では歌姫のことを歌う鳥という名で称するのだったか。
歩を進めるごとに歌声ははっきりと聞こえてくる。
歩を進めるごとに足音さえ薄れ歌しか聞こえなくなる。
黄金のように。
宝石のように。
心を突刺し抉り貪り魅了する――魔性の歌声。
故に、ひどく……心地良く、耳に滑り込む。
それこそ――――心を奪うかのように。
やがてそれは見えてくる。
灯りの無い暗い橋。その上に佇む少女の姿。
その身に鬼火を纏わせ暗い橋を尚薄暗く照らす少女のあやかし。
「――あら」
金糸の髪が揺れる。
「ごきげんよう。さとりさん」
にこにこと、狂気を孕んだ魔性の緑眼を輝かせたまま少女は笑う。
「水橋――パルスィ」
胸が、締め付けられる。彼女を直視できない。
千年の昔歌に詠まれた幽玄な美しさは視る者の心を苛む。
嘗ては神と崇められたものの半身。
正と邪の信仰の果てに切り離された妖怪としての側面だけの存在。
守り神が捨てた邪なる欠片――嫉妬の橋姫、水橋パルスィ。
痛む胸を手で押さえる。
力だけなら鬼たちには敵わない。妖力も私のペットにさえ及ばない。
されど地底でも数少ない純粋なる悪神を前に余裕など持てなかった。
ずきりと、胸が痛む。
鬼火が揺れる。それを呼び掛けと感じたのか、応えるように彼女は歌を再開した。
青白い、鬼火の輝きが増したように見えたのは――錯覚か。
彼女は何を歌っているのだろう。
それは異国の言葉で、欠片でさえも理解出来ない。
ただ、意味などわからぬのに……心が落ち着く。
胸の痛みを忘れるほどに、歌に聴き入ってしまう。
……私はこの歌に誘われたのだろうか?
彼女に会えば嫌な思いをするだけだと知っているのに来てしまうのは――歌のせい?
まさか。それではまるで異国のあやかしだ。いずこかの川で人を惑わし沈めるという魔女。
彼女は水に関わりある者ではあるがそのような能力を持っているなんて聞いてない。
私が、足しげくこの橋に通っているのは……
「寂しい歌ですね」
言葉を吐くことで思考を遮る。
苦みに口元が歪む。目が細められる。
嘘など幾万幾億と視てきたのに、なのに、己の嘘は、苦々しい。
「鎮魂の歌――ですか」
嘘を続ける為に彼女の周りを見て言葉を紡ぐ。
幾つもの鬼火。あれは、死した人間の魂だ。
この地底に、旧地獄にあるということは……
「……さて?」
彼女、水橋パルスィは笑っていた。
鬼火に、死者の魂に囲まれながら浮かべる笑みは陰鬱なものではない。
朗らかな、優しげな笑み。狂気に囚われていると知らねば愛らしいとさえ云えるかんばせ。
思えば――私は、彼女の笑み以外の表情を見たことがない。
「まあ、確かにこの子たちは嫉妬に塗れ塗れて地獄に落ちることすらできなかった魂ですが――
どうでしょうね? 私はこの子たちを慰めようとしているんでしょうか?」
緑眼が私を見る。
答えられない。
私なら、いつもの私なら簡単に答えられる。
古明地さとりにとってそれは問いですらない筈なのに。
ことり。
足音。パルスィは私に歩み寄ってくる。
白魚のような指が伸ばされ、それは私の胸に。
「いけませんねぇさとりさん」
私の胸の、第三の眼に、届く。
「パル――スィ」
かたかたと膝が笑う。眼球に指が届いているのだ、怖がらぬ方がおかしい。
しかし彼女は眼には触れない。撫ぜるように第三の眼の周りを、指が蠢いているだけ。
「ねえ、さとりの妖怪。古明地さとりさん」
心の臓を鷲掴みにされたに等しく私は動けない。
眼に指が届いているからでなく、金糸雀のようだと評した声に捕われて。
「あなたはいつも私を視ない。第三の眼は逸らされたまま。それではあなたは無力な少女。
私たちが襲い喰らう人間と変わらないじゃありませんか」
逸らされた眼の周りで白い指が蠢く。
視えない。私は、彼女を視ていないから。
「あなたは他人の心を暴き立て鏡を見る猿のように怯えさせるのが存在意義。
何もしないのならあなたは無害で無力で無意味な少女でしかない――」
捕われたから逃げられない。
囚われたから逃げられない。
「それとも? 私にはそう見て欲しいのですか、さとりさん?」
魔性の緑眼に覗き込まれて、私の身体は石と化す。
「そんな、こと」
僅かに残った矜持か、口から出るのは否定の言葉。
彼女の眼にはどう映ったのか。笑みは深まる。
じわりと、指先から浸食される錯覚。
川の中に身を置いているかのように動けない。
彼女が捕えて放さぬから私は彼女の為すがまま。
そこに私の意思など――
「ああ」
歌うように。
「私のせいにしたいのですね」
彼女は言う。
ずきり。
――ずきり。
「なにを、パルスィ。私、は」
痛い。
胸の奥が痛い。
息が出来ない。
「私の力など届かぬくせに」
ぐらぐらと、頭の中が揺れ出す。
「私があなたを狂わせているなんて、本気で」
指が離れる。眼への圧迫感が消える。
突き飛ばしていた。
荒く、息を吐く。
パルスィは――笑って、いた。
「強いくせに、弱さを振りかざすなんて――――妬ましい」
背筋が冷たくなるほど鮮やかに、笑っていた。
頭の中にノイズが走る。
逸らしていただけで、閉じてはいない私の眼は――
予期せぬ動きに反応し切れずに、パルスィを視てしまっていた。
頭に彼女の思考が流れ込む。視るまいとしていたパルスィの心が。
私の生まれ持った力が、水橋パルスィを暴き立てる。
それでも彼女は、笑っている。
「ふふ、妬ましい妬ましい――大きなお屋敷優しいペット♪ なにもかもが妬ましい♪」
そっと、胸の眼を手で隠す。心読む視線を手で遮る。
それはまるで、私の心を覆い隠そうとしているかのよう。
否、その通りだったのだろう。そうしなければ己の愚かしさに耐え切れぬ。
視てしまった。知ってしまった。
狂気に蝕まれた心でも、痛い痛いと血を流し続ける――大きな傷を。
「――パルスィ」
否。否――私は知っていた。だから、幾度もこの橋に足を運んだ。
癒したいと、心の内でしか流せぬ涙を止めたいと、願って。
それでも、認めるのが嫌だった。そんなことはないと、否定したかった。
「……何を視ました? それが何でも、忘れてください。そうすることが互いの為でしょう」
彼女は笑っている。
ああ。ああ……どうして気づかなかったのだ。
何時見ても変わらぬ笑み。そんなもの、仮面でしかあり得ない。
パルスィは何時如何なる時でも、笑みの仮面で心の傷を隠していたのだ。
「やめてください、パルスィ」
「なにを、やめろと?」
「私を、遠ざけないでください」
道化た敬語。笑みの仮面。
決して本音を晒さぬというポーズ。
私を突き放して、近寄らせぬと語る、ポーズ。
「おかしなことを。この捨てられた地獄の管理人たるさとり様に横柄な態度を取れと?
そのような恥知らずな真似、出来ますまい。折角戴いた姫の名が腐れて落ちてしまいます」
彼女は変わらず浮かべている。――空虚な笑みを。
「あの人には、平気で罵声を浴びせるのに」
心を司るこの私が、衝動を抑え切れずに言葉を漏らした。
「あのひと?」
揺れる。
ほんの僅かに笑みが消える。
彼女は私の眼に触れなかったのに、私は彼女の傷に触れてしまった。
第三の眼で視るまでもなく、彼女の心に鬼の姿が浮かんでいるのを察する。
とても背の高い、一本角の鬼の姿。
彼女は、私の力など届かぬと言っていたけれど、届いていたのかもしれない。
私が抑え切れなかった衝動。それは間違いようもなく、彼女の司る嫉妬だったのだから。
私は、あの鬼に――嫉妬している。
「――なんのことか、わかりません」
偽物の笑みで、パルスィは嘘をついた。
私を、突き放した。
違う。――違う。
私はあなたを傷つけたいんじゃない。
私は、私は……
「言ってはだめ」
開きかけていた口が止まる。
微笑んだままの彼女の制止に従ってしまう。
「――パル」
「そろそろお帰りくださいさとりさん」
崩れぬ仮面の笑み。
「これ以上はあなたを傷つけてしまいます。――それは私も望みません」
傷つける? 知らず、声に出ていた。
彼女は私を見る。濁りのない、翠玉の瞳。
「あなたがとても傷つき易そうに見えるからです」
「それは……外見の話?」
「いいえ。内面の話です」
「内面などと。あなたも心が読めたのですか」
「生憎とあなたのような桁外れの眼は持っておりません。この眼は唯魔性を表すのみ。
それでもモノは見えています――隠しもしてない心なら、並の眼でも見えますよ」
どくんと、心の臓が一際強く跳ねる。
見える? 視える?
そんな、まさか。
「か、隠してない……などと」
「あなたは少々即物的過ぎる。直に心が視えるあなたなら無理もありませんが――
本来心とは態度や表情、言葉から読み取るものです」
そんなこと言われても、わからない。
そんな風に読み取るなんて、したことない。
視えぬのならわからぬと、苦しみ、悲しんだことしか、ない。
だって、きっと、そんなことをしたって、あの子の心は決して視えない。
だから私は、己を責めるしかなくて、謝り続けることしか出来なくて。
苦しくて、悲しくて……
「見透かされるのは慣れてませんか?」
彼女の手はもう私の胸に伸びていないのに、心の臓を鷲掴みにされているかのよう。
嘘じゃない。パルスィは本当に、私の心を見抜いている。
私の傷に、触れている。
それでも――いい。
それでも、構わない。
私だって彼女の傷を暴いてしまった。
彼女が私の傷を暴いたって、構わない。
怯えていた。
隠した傷を見破られることに。
塞がらぬ傷に触れられることに。
だけど、もう、いい。
なにをされたって、構わない。
「でも、パルスィ、私は」
「だめ」
一言で止められる。
構わないのに。そう、決めた筈なのに。
「さとりさん。私は今からあなたを傷つけます」
いつの間にか、彼女の周りから鬼火が居なくなっていた。
「――え? ぱる、すぃ?」
疑問の声を投げかけるも彼女は揺らがない。
「私に安らぎを求めるのは筋違いですよさとりさん」
宣言通りに私に言の葉の刃を向ける。
「心を読めるあなたなら私の傷を癒せると思いましたか? あなたなら私の傍に居られると?
それは大きな間違いですよ。だって、私にはあなたの傷を癒せない」
「そんな、わからないじゃないですか。まだ、なにも」
「己のことなら、わかります」
嘘だ。嘘だ。
あなたは己のことすら、わかっていない。
わかっているのならこんな孤独に耐えられる筈がない。
ずっと前から、あなたは独りきりだった。旧都の鬼たちの誘いにも乗らず独りだった。
あなたはずっとずっと独りで嫉妬狂いの狂気を抱え込んでいた。
心を閉ざして。
誰かと言葉を交わしても受け流して。
関わる誰かを過ぎる風と見逃して。
あの鬼に手折られても……心許さず孤独のままで。
私はそれを、ずっと視てきた。
「何故、何故私じゃだめなんですか」
「違うから、です」
心に刃物が刺さる。
意味などわからぬのに、さくりと深く、突き刺さる。
「あなたは、私と違う」
なにが。なにが違うと。
「私を視ないのは、心を読まないから嫌わないでと言外に告げているのでしょうか?
それじゃまるで脅迫です。好意の押し付け――ですよ」
聞きたいのはそんなことじゃない。
私はそんなこと考えていなかった。
「一方通行なんですよ、あなたの愛情は」
ざくりと、深く、深く、言の葉の刃が、突き刺さる。
「な――そんな、パルスィ」
「あなたのそれは小鳥を鳥籠に閉じ込めて可愛がるのと大差ない。私だけがあなたの理解者だと縛り付ける。
鳥籠の外は危ないからと鎖で繋ぐ。私はねさとりさん。あなたのペットじゃありません」
揺らがない。
彼女の仮面は、笑みのまま。
「あなたと私の孤独は違う。私はあなたを理解出来ない」
それで、いいじゃないか。
理解出来ずとも、傍に居られれば孤独は和らぐ。
言葉を交わし続ければ、いつかは、
「私は――傷の舐め合いを好みません」
それが、とどめだった。
反論の余地さえ奪われた。
「――嫌われ者同士、傷の舐め合いなんかしても意味がないですよ」
私の想いが否定され尽くす。
言い返したい。否定し返したい。
だけれど、何を言えばいいのか。
どうすれば、覆せるのか。
もう、わからない。
「酷いひとだ――強いひとだ。あなたは前を見ているのですね」
「当然です。でなくば生きているとは言えません」
笑みが歪む。
初めて見る、笑み以外の顔。
それが泣いているように見えたのは、私の願望なのだろうか。
「……パルスィ」
きっと彼女は気づいている。
縋るのを一度でも許せば私は彼女に縋り切る。
きっと私は彼女なくしては息も出来ぬ程に溺れてしまう。
宝石を手に入れた人間のように、手放すことなんて出来なくなってしまう。
だから私は――彼女に縋れば二度と前へ歩めなくなる。
気付いているから彼女は――私を。
「だから」
歪んだ笑み。
私はそれを直視する。
彼女の決意を焼きつけるように。
「さとりさん」
歌うように彼女は告げる。
ああ、なんて酷いひと。
心読める私の眼を見ながら、
「私はあなたが嫌いです」
そんなうそをつくなんて。
山とか落ちとかが欲しい
なんていうかつらい
よーわからん。
静かな文体がドロドロした関係によくマッチしてました。
ただ、背景の描写が分かりづらい面もあったので、この点で。