<注意事項>
妖夢×鈴仙長編です。月一連載予定、話数未定、総容量未定。
うどんげっしょー準拠ぐらいのゆるい気持ちでお楽しみください。
<各話リンク>
第1話「半人半霊、半熟者」(作品集116)
第2話「あの月のこちらがわ」(作品集121)
第3話「今夜月の見える庭で」(作品集124)
第4話「儚い月の残照」(作品集128)
第5話「君に降る雨」(ここ)
第6話「月からきたもの」(作品集132)
第7話「月下白刃」(作品集133)
第8話「永遠エスケープ」(作品集137)
第9話「黄昏と月の迷路」(作品集143)
第10話「穢れ」(作品集149)
第11話「さよなら」(作品集155)
最終話「半熟剣士と地上の兎」(作品集158)
ひどく無機質な灰色の光を、彼女は見上げていた。
その光は、彼女がかつて居た場所だった。
彼女が生まれ、育ち、仲間たちと過ごしてきた場所だった。
今はもう、そこがあまりにも遠く、小さく霞んでいる。
暗い闇の中を、雫が一筋こぼれ落ちていくように、彼女はその場所から遠ざかっていく。
――これで良かったのだろうか、とふと考える。
暗闇の中にひとり取り残され、遠ざかる故郷の光を見上げながら、本当に自分の決断は正しかったのだろうかと考える。
けれど、今さらもう遅いのだ。
もうあの光には手は届かない。今から引き返すことは、出来はしない。
ならばもう、進むしかないのだ。
彼女は頭上の灰色から目を逸らす。そして、眼下に広がるもうひとつの光を見下ろした。
それは、闇の中に静かに浮かぶ青い光。彼女たちが、地上と呼ぶ光だ。
彼女は、そこを目指していた。
穢れた大地。果てしない彼方の監獄。咎人たちの這いつくばる不浄の世界。
それを目指して、彼女はゆっくりと舞い降りていく。
月と地上の狭間に、誰にも知られぬ滓かな軌跡だけを残して。
その軌跡を見送る者は、今はいない。
誰も、いない。
第5話「君に降る雨」
1
空を覆っていた曇天は、午後になって堪えきれなくなったように、大粒の雨を注ぎ始めた。
間断なく茶店の窓を打ちつける雨音に、妖夢は顔を上げる。静かな店内には、外の雨音がはっきりと聞こえてきていた。窓の外を見やれば、既に里の家並みは雨粒の向こうに煙っている。
「こりゃ、ひどいや」
バケツをひっくりかえしたような、という形容がふさわしい土砂降りだった。妖夢はひとつ息をついて、椅子に置いた傘を見やる。やっぱり幽々子の言うとおり、傘を持ってきて正解だったらしい。
ほどなくぱらぱらと、雨を逃れてきた客たちが店内に満ち始める。妖夢は時計を見やり、それから目の前の空席を見つめた。そこに座るべき彼女は、まだ来ていない。
もう一度、外の土砂降りを見る。彼女は――鈴仙はちゃんと傘を持っているだろうか。この雨でずぶ濡れになったりしてはいないだろうか。……心配したところでどうしようもないのだけれど、ついまた傘に目をやってしまう。
アイスティーに口を付け、読みかけの文庫本に目を落とす。読んでいたのは、西行寺幽々子の第三作『蝶』だ。
それは、一羽の蝶であったという。
爛漫とした月光の下、青く輝くその蝶は、夢幻がごとくに陶然と、月輪がごとくにおぼろげに、散華がごとくに艶やかに、墨を落としたような夜の闇に舞い踊り、やがて音もなく消えていったのだ、と彼女は語る。
そんな書き出して始まるのは、生と死にまつわる幾つかの断片的な物語だ。他人の命を奪わねば生きられぬ盗人、生まれたばかりの我が子を間引く母親の苦悩、女郎に身をやつした女の悲哀、飢饉で村が死に絶えていく中に取り残された幼い兄妹。それぞれは何らかかわり合わぬいくつもの人生を、彼らの目の前を通り過ぎる青い蝶という幻のような存在が緩やかに繋いでいき、最後に語り部である《彼女》の物語が紡がれるとき、物語の全貌が明らかになる――という、詩的で優美な文体とトリッキーな仕掛けが絡み合った傑作だと妖夢は思っている。いや、幽々子の作品は三作とも傑作だけども。
既に何度となく読み返した一冊だが、何度読んでも新しい発見がある。細部まで考え抜かれた構成、さりげなく張り巡らされた伏線の妙、何よりも美しい韻律で綴られる文体は、真似ようと思っても真似られるものではない。読み返すたびに己の未熟さに打ちのめされ、主への尊敬の念と、最近主が小説を書いてくれないことへのもどかしさを新たにするばかりだ。
はあ、と感嘆とも諦観ともつかぬ息を吐き出して、手癖のついたページをめくろうとしたところで、茶店にまた新たな客が駆け込んできたことに気づいて、顔を上げた。
「おひとり様ですか?」
「あ、いいえ――」
店員に答える声が聞こえて、妖夢は本を閉じる。視界に現れたのは、見慣れたハンチング帽を被ったブレザー姿。いつもと違うのは、その帽子も髪もブレザーも、雨を吸い込んで重そうに濡れそぼっていることだった。
「鈴仙」
思わず声をあげた。その影がこちらを振り向き、安堵したような笑みをこちらに向ける。
「妖夢」
鈴仙・優曇華院・イナバは、前髪から滴る雫を右手で払って、妖夢に向けて手を振った。
◇
「雨、すごいね」
妖夢の差し出したハンカチで眼鏡を拭いながら、窓の外を見やって鈴仙は呟いた。叩きつけるような雨は相変わらず弱まる気配を見せず、道には既に小さな川ができあがっている。
拭い終えた眼鏡を掛け直そうとして、あ、と気づいたように鈴仙はこちらを見つめた。赤い狂気の瞳に、くらりと視界が歪みかけたが、数度まばたきして妖夢は世界の輪郭を取り戻す。――やっぱり、鈴仙の目を見ても耐えられるようになってきている。
「妖夢、平気?」
「……うん」
「そっか」
鈴仙は微笑んで、眼鏡をブレザーのポケットにしまった。眼鏡も別に似合っていないわけではないけれど、掛けてない方がやっぱり鈴仙は可愛いなぁ――と考えて、自分の思考に妖夢はひとりで赤面した。
「か、傘持ってなかったの?」
それを振り払うように咳払いして話を逸らすと、鈴仙は小さく首をすくめる。
「だって、出てきたときは晴れてたし……聞いてないよ、こんなの」
頬を膨らませた鈴仙は、妖夢の席に緑色の傘が立てかけられているのを見て、目を丸くした。
「準備いいね、妖夢」
「ああ……幽々子様が持たせてくれたんだ」
白玉楼を出てくるときは、冥界もよく晴れていた。なのに出がけに幽々子が「一応、持っていくといいわよ~」と傘を差し出したのだ。半信半疑で受け取ったものの、結果として外はこの土砂降りである。相変わらず主の慧眼には感服するほかない。
「そっか。買い出しはこれから?」
「うん、そのつもりだったけど……雨、止んでからの方がいいかも」
この雨の中では、買ったものもすぐずぶ濡れになってしまうだろう。
「鈴仙は?」
「私は、一件届け物と、あと本屋さん」
「本屋さん?」
「師匠と姫様が、買ってきてほしい本があるって」
でもこの雨じゃね、と鈴仙もため息をつく。いずれにしても、この突発的な豪雨をやり過ごさなければ動くに動けないのが現実だった。
「お待たせしました」
店員が鈴仙の前に紅茶を置いていく。湯気が白くふわりと、店の空気の中に溶けて消えた。
「雨が止むまで、ゆっくりしていこう」
「そうだね。……そういえば妖夢、何読んでたの?」
「え? ああ、幽々子様の」
伏せていた文庫本の表紙を示す。鈴仙は目を細めてひとつ頷いた。
「好きなんだね。妖夢」
ふと鈴仙が口にしたその言葉に、妖夢ははっと顔を上げた。目の前にあるのはいつもと変わらない鈴仙の微笑。けれどそこに得体の知れない戸惑いを覚えて、妖夢は視線を逸らす。やっぱり、狂気の瞳にあてられているのだろうか。
「す、好きっていうか……幽々子様は、私の憧れだから」
事にあたれば、誰よりも早く物事の本質を見通し。超然としたその態度と説明なしの行動に振り回されはすれども、隠れた幽々子の働きかけがどう作用してか、最終的に物事は収まるべきところに収まっていく。決して慌てることも動じることもない落ち着きと、深い洞察と思慮。自分の未熟さを感じるにつけ、あのような大人の態度でありたいと思うが、思って出来れば苦労はしない。
文章もそうだ。幽々子の優美な文体は決して本質的なことを語らず、物語は読者に想像の余地を残して閉じられる。たとえば第一作の『桜の下に沈む夢』は、平行して語られる夢と現実が次第に交錯していく幻想的な恋愛小説、と紹介されるが、そもそもあの作品が《恋愛小説》であるというのも「そういう読み方ができる」という解釈のひとつでしかない。たとえば妖夢にはむしろ、あの作品は夢が現実を浸食し世界を蝕んでいく恐怖小説に思えたものだ。
「憧れ、かぁ」
不意に鈴仙はそう繰り返して、湯気をたてる紅茶を口にする。
「鈴仙は――」
「うん?」
「あ、いや、何でも」
言いかけた言葉を途切れさせて、妖夢は小さく首を振った。鈴仙の憧れは、彼女が師匠と呼ぶあの八意永琳だろう。わざわざ聞くまでもない。
文庫本を手持ちの鞄に仕舞って、妖夢は自分のグラスに少しだけ残っていたアイスティーを飲み干した。溶けた氷と混ざって薄まった紅茶は、微かな渋みを口の中に残していく。
「そういえば妖夢、あれの続きってどうなってるの?」
「え? ……あ、ああ、『辻斬り双剣伝』のこと?」
鈴仙は頷く。妖夢は曖昧に苦笑した。続きを書くことを決めてから一月ばかり、原稿の進捗が順調かと言われれば、正直に言って首を傾げざるを得ない状況ではあった。
書きたいイメージはある。場面もある。ただ、それに至る主人公の――妖忌の思考と行動。それがまだ、自分の中で咀嚼しきれていないのだ。祖父が何を思ってその剣を手に取り、何のために、誰のために刃を振るったのか。『辻斬り双剣伝』は小説だが、半分は祖父の伝記に近い。祖父の想い、祖父の意志を本人から聞ければ早いのだが、何しろ本人は行方不明なので、未熟な自分の想像力で補うしかないわけである。
「頑張ってはいるけど……あ、あんまり期待しないでね」
「別に急かしてるわけじゃないよ。いつでもいいから、楽しみにしてる」
笑って言う鈴仙に、妖夢は何と答えていいか解らず、紅茶を飲んで誤魔化そうとしたが、既にグラスは空だった。その様子に、鈴仙がまた笑みを漏らす。
――楽しみにしてる。そう言ってもらえることは嬉しいのだけれど。
今の自分が、あの作品を書き上げることが出来たとして、それは鈴仙の期待に応えられるものになるのだろうか。――それを考えるのは、少し恐ろしかった。
期待される、というのは、結構大変だ。
今さらのように、そんなことを思った。
2
雨は相変わらず止む気配はないものの、土砂降りからは次第に弱まり始めていた。
「そろそろ出ないと、お使い済ませる前に暗くなっちゃうね」
時計を見上げて、鈴仙が言う。確かに、このまま止むのを待ち続けていたらそのまま夕方になってしまいそうだ。あまり戻るのが遅くなってもいけない。
「じゃあ、お会計してくる。……あ、でも鈴仙、傘は?」
鈴仙から小銭を受け取って、伝票を手に妖夢は立ち上がる。弱まったとはいえ、相変わらず雨は降り続いている。傘を持っている自分はともかく、鈴仙はこのまま出たら濡れ鼠だ。
「仕方ないから買うよ。向こうの帽子屋で確か傘も売ってたし」
「うん、解った」
鈴仙も荷物をまとめて立ち上がり、先に店の出口へ向かっていった。でも確か、帽子屋ってここから少し離れてたはず、と考えながら会計を済ませて、妖夢も小走りに店の出口へ向かう。
軒先で、鈴仙はぼんやり雨の降る空を見上げていた。妖夢が「お待たせ」とそこに駆け寄ると、鈴仙は笑って、「じゃあ、ちょっと走って行こうか」と鈴仙は雨の中に足を踏み出そうとした。思わず、妖夢はその手を掴む。
「妖夢?」
「や、やっぱりこの雨の中じゃ、濡れちゃうって」
雨の中、灰色にくすぶる人里の街並み。帽子屋まではそう遠くはないにしても、もう夏でもないのだ。冷たい雨に濡れたままでいたら身体にもよくない。
「でも、まだ止みそうにないし」
重たく覆い被さるような雲は相変わらず陰鬱に空を覆っていて、風に流れていく様子もない。そうしている今も、雨は間断なくふたりの足元に雫を散らしている。
「傘、鈴仙が使って」
「え? でも――」
「私はほら、半霊で凌ぐから」
ふわふわ漂う半霊を、頭上に浮かべる。感覚は繋がっているので、体感的に冷たいことにはあまり変わらないのだが、半霊の方は風邪を引かない、この差は大きい。固体化しておけば雨露ぐらいは凌げるだろう。
「その半霊、妖夢と感覚繋がってるんじゃなかった?」
「そうだけど、平気だから」
「だめだよ。そもそも妖夢の傘なんだし、私はちょっと濡れるだけだから平気――」
「ここに来る前にもう濡れてたんだから、これ以上は身体によくないよ」
「私は平気だから」
「わ、私だって――」
押し問答である。雨の中、茶店の軒先で傘を押しつけ合うふたり。傍から見たら相当間抜けな光景であることにふたりが気付くまで、しばしの時間を要した。
「……どうしよう?」
このままここで譲り合っていても仕方ないのだが、さりとて鈴仙が雨に濡れるのは妖夢としては避けたいし、けれど鈴仙も同じ主張を譲らない。しかし傘はひとつきりである。
「――その傘に、ふたりで一緒に入ったらいいんじゃないのか?」
第三者の声。はっと振り向くと、青い傘を揺らして呆れ顔でこちらを見やる顔がある。妖夢にも見覚えのある顔だった。上白沢慧音だ。
苦笑しながらの慧音の言葉に、妖夢は鈴仙と思わず顔を見合わせる。
妖夢の手元にある緑色の傘。……これに、ふたりで一緒に?
「入れなくはないだろう?」
「は、はあ」
盲点だった。確かにそれならふたりとも濡れずに歩いていける。
「仲が良くて結構だが、仲良しなら仲良しらしく、肩を寄せ合って歩くといいさ」
どこか愉しげな笑みを浮かべたまま、鼻歌交じりに軽く手を振って慧音は去っていく。通りすがりの寺子屋教師の背中を見送り、それからもう一度妖夢は鈴仙と顔を見合わせた。
「……ええと、じゃ、じゃあ」
傘を広げる。目の前に広がる鮮やかな翠緑の布地を、雨が静かに濡らしていく。傘を頭上にかざして、妖夢は雨の中に足を踏み出した。そして軒先へ、傘を傾ける。
鈴仙は少し気恥ずかしそうに視線を彷徨わせて、それから傘の下へ足を踏み入れた。雨の中、傘が切り取る雫の空白地帯。狭いそのスペースに、ふたりぶんの影が重なる。
「ちょ、ちょっと狭い、かな」
苦笑混じりの鈴仙の言葉が、吐息と一緒に頬に触れて、妖夢は顔が熱くなるのを感じた。
妖夢が傘を持った左手側に、鈴仙が肩を並べる。ほとんど触れあうぐらいまで身を寄せないと、肩の先が雨に濡れてしまいそうだった。
――幽々子様が渡してくれたのが、少し大きめの傘で良かった、と妖夢は思う。
横目で、鈴仙の方を見やった。鈴仙も、こちらを横目で見やっていた。
思わず視線を逸らしてしまう。――距離が近すぎて、落ち着かない。左手が傘で塞がってさえいなければ、手を繋いだり腕を組んだりしている距離。
……鈴仙と手を繋いだり、腕を組んだりして歩く。
その想像が急に脳裏に浮かんで、傘を持つ左手に鈴仙の手の感触なんかを思い浮かべてしまったりして、妖夢はあまりの気恥ずかしさにひとつ咳払い。
「妖夢?」
「い、行こう、鈴仙」
「う……うん」
なんだか人形のようなぎこちない動きで、妖夢は雨の中を歩き出した。隣を歩く鈴仙が傘からはみ出してしまわないように、しきりに傘を持ち替える。会話はない。こんな近くで、鈴仙に掛ける言葉が思いつかない。
――どうしてこんなに、息が詰まりそうなんだろうか。
いつもならもう少し、自然に鈴仙と並んで歩けるのに。お喋りだってできるのに。
同じ傘に入って、肩を寄せ合って歩いているというそれだけで、言葉は消えて、心臓がやけにうるさくて、頬が熱くて――だけどそんな、熱に浮かされたみたいな感覚が、不快じゃない。
鈴仙もちらちらと横目にこちらを見ながら、けれど無言で、ただ操り人形のように雨の中に足を進めていく。
歩きながら、ときおり肩がぶつかって、そのたびにふたりとも小さく身を竦めて、
だけど雨の中、同じ傘に身を寄せ合って、言葉もなく歩き続ける。
――胸のあたりがきゅうっと痛いのに、けれどこの距離が、この時間が、終わってしまってほしくない。
帽子屋の看板が見えてきたところで、そう思っている自分がいることに、妖夢は気付いていた。気付いていたけれど、それがどういう意味なのかは、よく解らないままで。
「……えへへ、相合傘だね」
ぽつりと鈴仙が、そんなことを言った。
振り向くと、鈴仙が赤い顔でこちらを見ていて、――小さく笑った。
心臓が、喉から飛び出してしまうかと思った。
――得体の知れない胸の拍動に、妖夢はただもごもごと、言葉にならない不思議な感情を口の中で持て余し、飲みこむしかないのだった。
◇
鈴仙の届け物というのは、この人里で一番大きなお屋敷が目的地だった。
門に掛けられている表札には、達筆な《稗田》の文字。即ち、幻想郷の歴史編纂事業者であり、同時に『幻想郷縁起』シリーズを初めとした数多くの本を刊行している幻想郷の最大手出版社《稗田出版》でもある稗田家である。
妖夢自身は、幻想郷縁起の取材を受けたことこそあるが、稗田家とはあまり縁はない。幽々子や自分の本は、幽々子が独自に《白玉書店》名義で出版している。
「ここの当主様の薬も、師匠が出してるんだ」
そう言った鈴仙は、既に帽子屋で新しく買った赤い傘を揺らしている。正直、同じ傘に入って帽子屋まで歩く僅かな時間は、体感ではとてつもなく長く、天国のようで地獄だった。あんな時間、買い出しの間中なんて耐えられるはずもないのである。
……ただ、少しの名残惜しさをまだ覚えている自分がいるのも、否定はできなかった。
ともかく、門の呼び鈴を鳴らすと、女中が現れて敷地の中に通される。玄関で傘を畳み、靴の泥を落としてから、女中に促されて引き戸を開け、
――出迎えた姿に、妖夢と鈴仙は一様に硬直した。
「あら、いらっしゃい」
迎えた女性の満面の笑みに、ぞくりと身が泡立つのを感じて、妖夢は思わず楼観剣に手を掛ける。目の前にあるのは絶対的な強者の笑み。――何故、彼女がここにいるのだ。
「え、ええと?」
隣の鈴仙も軽く後ずさりしながら首を傾げる。鈴仙も、目の前にいる妖怪のことは知っているらしい。それもおおよそ、妖夢と同じような認識で。
「そんなに警戒しなくてもいいのよ? 今は貴方たちをいじめてあげるつもりは無いもの」
「今は、って……」
妖夢たちを門まで迎えた女中が、玄関に走った緊張に目を白黒させる。
その中で、妖夢と鈴仙を出迎えた風見幽香は、「あらあら」と小首を傾げて見せた。
女中が困惑の声をあげ、妖夢と鈴仙は顔を見合わせた。どうして風見幽香が稗田のお屋敷にいるのかは定かでないが、とりあえず向こうに敵意は無さそうである。妖夢は楼観剣にかけていた手を離した。異変でもないのに、他人の家の玄関先で刃傷沙汰を自分から起こそうと思うほど妖夢だって普段から好戦的ではないのである。
「阿求なら座敷に居るわ。こっちよ」
幽香はそう言って、こちらの返事も待たずに勝手に歩き出してしまう。妖夢はもう一度鈴仙と顔を見合わせて、その場に残っていた女中に頭を下げて屋敷に上がり込んだ。
「……どうして貴女がここにいるんですか。貴女のテリトリーは太陽の畑じゃ」
先を歩く幽香の背中に追いついて、妖夢はそう問いかける。幽香は足を止めることなく、視線だけで一度こちらを振り向くと、どこか苦笑じみた笑みを浮かべて肩を竦める。
「花の咲く場所は、全て私の場所よ。どんな花であれ、ね」
煙に巻くような言葉。幽香に限らず、永く生きている妖怪は、誰も彼もこんな調子だ。せめて八雲藍ぐらいには、他人にも解る言葉で話してほしいと妖夢はときどき思う。主にそう思う対象は、幽々子と紫なのだが。
「……庭の花壇の手入れとか、そういう仕事でもしてるのかな?」
鈴仙が小声でそう耳打ちしてくる。それなら庭師の自分と近しい立場だから親近感も――いや、幽香に対しては少し難しい。どうにも、花の異変のときの問答無用な印象が強いのである。
ともあれ、ほどなく幽香は立ち止まり、障子を開けて「阿求」と呼びかけた。広い和室で、文机に向かっていた人間の少女が、その声に顔を上げ――その表情をほころばせた。
稗田家当主、九代目阿礼乙女、稗田阿求である。
「お客様よ。永遠亭の」
「これはこれは、ようこそ。……あら、珍しい取り合わせですね」
幽香の背後、肩を並べた妖夢と鈴仙の姿に、阿求は不思議そうに首を傾げた。
「妖夢は付き添いです。冥界からのお迎えとかではありませんので」
「そうですね、まだ縁起の編纂も終わっていないのでお迎えは困ります」
鈴仙がそんな軽口を言い、阿求が笑って返す。お迎えって、それではまるで自分が死神のようではないか、と妖夢は軽く頬を膨らませた。小野塚小町と一緒にしないでほしい。
「私は隣の部屋にいるから、何かあったら呼んで頂戴」
「ああ……はい、解りました」
幽香が障子に手をかけながら声をかける。阿求は顔を上げ、どこか名残惜しげな顔で幽香の方を見やる。幽香はそんな阿求の反応に小さく微笑み、すっと阿求へ歩み寄った。
座ったままの阿求へ、幽香はかがみ込む。その頬に手を添えて、阿求の前髪をかき上げ、幽香はその唇を阿求の額に寄せた。
阿求の顔が、かーっと沸騰したように赤くなる。そんな様子に、幽香は優しく微笑んで、阿求の頬をそっと撫でた。――異変のときの悠然とした態度とは違う、丹念に育てた花を愛でるかのような、慈愛に満ちた微笑みだった。
「……ひっ、人前でそういうのは、その」
「そうね。……続きはまた後で、かしら?」
幽香が耳元で囁くと、阿求は真っ赤になったまま何か呻いた。
目の前で繰り広げられるそんな睦言に、妖夢と鈴仙は思わず目を白黒させる。
――いったい、このふたりの間に何があったというのだ?
「それじゃあ、またあとで、ね。阿求」
子供の頭を撫でるように幽香は阿求の頭を軽く叩き、立ち上がって座敷を出て行く。阿求はその背中をぼんやりと見送って、それから妖夢たちの視線に気付いてごほんとひとつ咳払いした。しかし取り繕うにも、その顔はまだ真っ赤なままである。
「……失礼しました。いつものお薬ですね?」
「ええ、そろそろ無くなる頃合いかと思いまして」
鈴仙が背負っていた薬籠からいくつか包みを取り出して、座卓の上に並べる。阿求はその数を確かめて、「はい、確かに。では、代金は女中の方からお受け取りくださいな」と頷く。
そんな様子を正座してぼんやり眺めながら、鈴仙が薬売りの仕事をしているところは、そういえば初めて見たなあ、と妖夢は思う。鈴仙と出会って、いろいろな言葉を交わして、友達になって――けれどまだ、見たことのない鈴仙の姿はいくらでもあるのだ、ということを今さらのように実感した。
それから、風見幽香のことを考える。――妖怪対策の書物であるはずの幻想郷縁起、その著者の家に妖怪が入り込んで、当主と何やら、ただの友人というにはいささか過剰な雰囲気で親しくしているという、この幻想郷では珍しくはないにしても、どこか不思議な光景。元から妖に近しい博麗霊夢や霧雨魔理沙ならまだしも、阿求は基本的に力のない人里の人間のはずだから尚更である。
――というか、本当にこのふたりはどういう関係なのだろうか。
幽香が阿求の額に口づけた場面が、脳裏に甦る。……普通の友人同士で、あんなことはしないだろう。たぶん、きっと。しないと思う。しないんじゃないだろうか。
――たとえば、たとえばの話として。自分が、鈴仙に同じことをしたら。
もしくは、鈴仙が自分に、同じことをしたら。
想像してみた。……恥ずかしすぎて顔が爆発するかと思った。
「妖夢?」
「なっ、なんでもない、なんでも」
振り返って首を傾げた鈴仙に、妖夢はぶんぶんと首を振って顔を伏せた。
自分がするにしても、されるにしても、想像するだけで耐えられそうにない。先ほど相合傘をしていただけでものすごく恥ずかしかったのに。
小さく唸りながら、けれど妖夢は、深いところまでは考えられずにいた。
――どうしてそこまで、鈴仙と触れあうことが恥ずかしいと思ってしまうのか。
すなわち、その根本的な原因までは。
3
稗田家を辞したときにはかなり弱まっていた雨は、霧雨書店にたどり着く頃にはもうほとんど止んでいた。雲間から光も差し込みはじめ、家の中でうずうずしていたらしい子供たちが、ぬかるんだ地面に歓声をあげてまだ小降りな中を飛び出す姿が見える。
「傘、いらなくなっちゃったね」
手のひらをかざして、鈴仙は苦笑混じりに言う。額に当たる雫も、もうほとんど感じない。これならやっぱり、もう少しあの茶店で粘っているべきだったかもしれないが、今さら言っても詮無いことではあった。
「鈴仙のおつかいは、あとここだけだっけ?」
「うん。妖夢はこれからだよね。荷物持ちぐらいならするよ?」
「あ、う、うん……」
思わず遠慮しそうになるけれど、この状況でそれも野暮だった。――それに、そうすることで鈴仙といる時間が少しでも長くなるなら、そうしたい。自然とそう思っている自分のことを、妖夢はもうほとんど疑問もなく受け入れていた。
とかく、傘を店先の傘立てに置いて、霧雨書店の扉を開く。雨のせいか、店の中には客の姿は見当たらなかった。カウンターでは朱鷺色の羽根の少女が、退屈そうに文庫本を読んでいる。人里の本屋なのに、昼でも妖怪の少女が店番をしているのが不思議といえば不思議な店だ。
「えーっと、毒草目録、毒草目録……」
八意永琳からの頼まれものなのだろう、医学薬学関係のコーナーに鈴仙は足を向ける。そのあたりは門外漢の妖夢は、新刊の並ぶ平台をぼんやり眺めた。
「……あ、『幻想演義』の最新号」
そういえば、昨日が発売日だった。手にとってページをめくると、目次には《剣豪小説大特集》の文字が躍る。そうだ、蓬莱山輝夜――永月夜姫の新作が載っているはずだ。以前に永遠亭を訪れたときに、成り行きで自分がモデルを務めることになったあれである。そうでなくても、永月夜姫が剣豪小説を書いたとなれば読まないわけにはいかない。
『幻想演義』は、稗田出版と鴉天狗出版部が共同で発行している、幻想郷で最初の小説専門誌である。様々なジャンルで特集を組んでの短編の競作や、人気作家の連載作品が誌面の中心だ。看板作品である大橋もみじの『白狼の咆吼』を筆頭に、上白沢慧音の歴史長編『懐かしき幻想の血脈』や、昨年の稗田文芸賞を獲った八坂神奈子の新作『神の器』が連載中である。
連載ものはどれも楽しんでいるが、とりあえず今はそれより永月夜姫の新作が気になった。微妙に自分が関わったというのもあるし、個人的に永月夜姫はファンなのだ。その正体が永遠亭の蓬莱山輝夜だというのには正直驚いたが。
「立ち読みはご遠慮ください」
と、そのページを開こうとしたところで、朱鷺色の羽根の店員に刺々しい声をかけられた。なんだか以前のことで目を付けられてしまったらしい。妖夢は「すみません」と慌てて本を閉じた。まあ、どうせ『幻想演義』は毎号白玉楼にも届く。帰ってからでも読めるだろう。
棚にはたきをかける店員の少女の羽根を見やりながら、妖夢は鈴仙の姿を探す。ほどなく、店の奥の方から本を抱えて鈴仙が姿を見せた。カウンターに向かう鈴仙の姿に気付いたか、店員の少女がはたきを手にそちらへ駆けていく。
会計をする鈴仙の姿を、妖夢はぼんやり眺める。自分も買いたい本はなくもなかったが、今日は余分なお金をほとんど持ってきていないので、買いたくても買えないのだ。
――と、鈴仙がお釣りを受け取ったところで、突然「えっ」と声をあげた。
「どうしました? お釣り、間違えましたか?」
店員の少女が首を傾げるが、鈴仙は答えず、ある一点に視線を向けたままその目を大きく見開いた。その視線の先に何があるのか、妖夢の位置からは解らない。
「……その、本」
と、鈴仙が震える声で指差す。店員の少女は「こちらですか?」とカウンターの向こうから一冊の本を取り出した。さっきカウンターで読んでいた、古びた文庫本のようだ。
「これは売り物では――」
「ちょ、ちょっとその本、見せてください。――少しで、いいんです」
カウンターに身を乗り出した鈴仙に、店員の少女はのけぞり、訝しげな顔で本を差し出す。鈴仙はその文庫本を受け取ると、後ろのページをぱらぱらとめくって――息を飲んだ。
「……この本、どこで手に入れたんですか? これ、幻想郷にある本じゃないですよね?」
震える声でそう訊ねた鈴仙に、店員の少女は首を傾げて、「貰ったんです」と答える。
「霖之助さんから、新しくこんな本を拾ったって、今朝」
「香霖堂の?」
「はい」
その答えが鈴仙にとってどんな意味を持ったのか、そもそも一冊の本にどうして鈴仙がそこまで大げさな反応をするのかも、見つめるだけの妖夢には全く解らない。
ただ確かなのは、鈴仙の横顔に浮かぶ、信じられない、と言いたげな顔。
その表情は、驚愕とともに――どこか、泣き出しそうにも見えた。
「鈴仙?」
妖夢が呼びかけても、鈴仙は振り向きもせず、ただその本を静かにカウンターに置いた。
「……なんで? なんでこれが、ここにあるの……?」
呆然と呟く鈴仙の言葉の意味は、鈴仙以外の誰にもおそらく解らないものだった。
「すみません。ありがとうございました」
店員の少女に頭を下げ、鈴仙は踵を返した。どこか悲愴な表情を浮かべて歩き出すその姿を、妖夢は慌てて追いかける。何がなんだかさっぱり解らない。感じ取れるのは、鈴仙にとって、何かとても重大なことが起こっているらしい、ということだけだ。
「れ、鈴仙――」
「ごめん、妖夢。……私、ちょっと急用。また今後ね!」
それだけ言い残して、妖夢を振り返りもせず、鈴仙は霧雨書店を出るとそのまま走りだしてしまった。足の速い鈴仙の姿は、あっという間に角を曲がって見えなくなる。妖夢はそれ以上追いかけることも出来ず、ただ鈴仙の消えていった後を見送って。
「……あ、傘」
傘立てに、帽子屋で買ったばかりの赤い傘が、まるで妖夢の気持ちのように、その場にぽつんと取り残されていた。
4
白玉楼に戻る道すがら、また静かに雨が降り出した。
「あれ、晴れてるのに……」
雲間からは、まだ光が差し込んでいる。けれどぱらぱらと額に当たるのは、紛れもなく雨の冷たさだった。傘を差そうかとも思ったが、飛びながら傘を差してもそれほど意味は無い。このぐらいの降りなら、速度を上げて突っ切った方がいい。
「……鈴仙、大丈夫かな」
額や頬に当たる雫の冷たさを感じながら、妖夢は買い物袋と一緒に下げた傘を見やった。幽々子から渡された緑色の傘の他に、今はもうひとつの傘がそこに下がっている。帽子屋で鈴仙が買って、霧雨書店に置き忘れていった赤い傘だ。
結局あのあと、鈴仙を探そうにも心当たりもなく、妖夢は自分の買い出しを済ませる以外に無かった。鈴仙の傘をどうするかは迷ったが、鈴仙が気付いて取りに戻ってくるのがいつになるのか解らない以上、自分が回収して後で永遠亭に届けた方が間違いがない。
――それは単に、永遠亭に行く口実が欲しいだけかもしれないと、自分でも思うけれど。
「濡れて、風邪でもひかなきゃいいんだけど」
既に遠くなった人里の方を振り返る。雲は向こうの方が厚いようだった。雨は里の方が強く降っているかもしれない。傘を持たない鈴仙は、ちゃんと雨宿りしているだろうか? ずぶ濡れになって震えていたりしないだろうか――。
引き返して鈴仙を探したい欲求がむくむくと膨れあがってくるのを、妖夢は首を振って払う。
鈴仙だって子供ではない。雨が降れば雨宿りもするだろう。自分が心配するほどのことは、きっとない。そのはずだ。
――ただ、どうしても気になるのは。
いったい鈴仙は、何を見て急に霧雨書店を飛び出していってしまったのか、だ。
あのとき、店員の少女が持っていたのは古びた文庫本だった。あの少女は妖夢にはその本を見せてはくれなかったから、鈴仙がその文庫本に何を見たのかは解らない。
鈴仙について、やっぱりまだ自分は知らないことが多すぎるのだ。
彼女が今も囚われているらしい過去。月にいた頃のこと。どうして鈴仙が月を離れ、この地上にやって来たのかも。月で何があったのかも。――どうしてお月見の夜、泣き出しそうな顔であんなことを言ったのかも。
知りたい、と思う。教えてほしい、と思う。
鈴仙を縛り付けている鎖。その顔にときおり浮かぶ陰の正体を。
それを知ることが出来たら、自分は――自分は。
「れい、せん」
その名前を呟く。その顔を思い浮かべる。隣を歩く横顔。彼女の笑顔。
――ずっとそんな風に、笑っていて欲しい。隣を歩いていて欲しい。
そのために、彼女のことを守りたい。
今はただ、そう思うのだ。
◇
白玉楼に辿り着く頃には雨も止んで、かなり傾いた陽が紅く屋敷を照らしていた。
「ただいま戻りました」
「あらあら、おかえり~」
いつも通りに玄関の戸を開け誰にともなく声をあげると、応える主の声がある。
意表を突かれて妖夢は目をしばたたかせた。幽々子が玄関に出迎えに来てくれるなんて相当に珍しい。当の本人は相変わらず、飄々とした笑みを浮かべるばかりだが。
「傘、役に立ったみたいね~」
「あ、はい」
「――でも、どうしてもう一本傘が増えているのかしら?」
赤い傘に目を留めて、幽々子は不思議そうに首を傾げる。ええと、と妖夢は買い物袋を玄関に置いて、傘立てに二本の傘を立てかけた。
「忘れ物なんです。持ち主は解ってるので、後で届けようと思いまして」
「ああ、永遠亭の兎さんの?」
「ええ、まあ、そういうことです」
楽しげに笑って言った幽々子に、何かこそばゆいものを感じて妖夢は顔を伏せた。
鈴仙と友達であるのはは先日幽々子の前で自ら口にしたことでもあるし、最近自分のおつかいが長くかかっている理由が概ね鈴仙であることも幽々子はもちろんお見通しで、その上で許してくれている。それはとてもありがたいことで、妖夢は感謝しているのだけれど。
こう目の前ではっきりと鈴仙のことを口に出されるのは、何かこう、気恥ずかしいのだ。
「でも、今から届けたら遅くなっちゃうわよ~」
「……そうですね」
既に陽はかなり傾いている。夏も終わって、すっかり陽が沈むのも早くなった。何しろ永遠亭はここから遠いので、今から行って戻ってきたらすっかり暗くなってしまうだろう。
「明日になさいな」
「はい」
頷いた妖夢に、幽々子は広げた扇子で口元を隠しながら笑う。
「――永遠亭に行けるのが、そんなに嬉しい~?」
「えっ」
思わず自分の頬を触った。――そんなに自分は緩んだ表情をしていただろうか。
いや、永遠亭に行って鈴仙に会えるのは、嬉しくないわけはないのだけれど。
「あ、いえ、その」
「いいのよ~? 別に、あの兎さんと遊んできても」
「そっ、そんな。庭師の仕事もありますから――」
慌てて言い返す妖夢に、幽々子はただ楽しげに笑って「そうね~」とだけ返した。
そのままふわふわと去っていく主の姿に、妖夢は小さく息を吐く。
――あれ、ひょっとして自分の仕事って、実はそれほど重要視されてない?
一瞬そう思ってしまったけれど、考えないことにした。
◇
夜。
「……ダメだ、こうじゃない」
くしゃくしゃと紙を丸めて放り出し、文机を見下ろして妖夢は息を吐いた。
行燈の照らす中、筆を走らせていたのは『辻斬り双剣伝』第二巻の原稿だった。取りかかり始めてから一月ばかり、こうして書いては捨て、書いては捨てを繰り返すばかりで、原稿は遅々として進まない。
祖父から聞かされた武勇伝が元なのだから、今回も物語の大筋は決まっている。祖父がかつて、まだ生きていた頃の幽々子と出会い、幽々子を守る者としてその傍らに仕えることになったときの出来事。幽々子と出会い、彼女を狙う悪漢との戦いがあり、その結果西行寺家に仕えることになるという、話自体はシンプルなものだ。
それが全く進まないのは、ただひとえに――祖父・妖忌が主に仕えようとした、その意志。主を護ろうと決意した心の動きが、掴みきれないままだからだ。
祖父はどうして、生前の幽々子にその剣を捧げることを誓うまでに惹かれたのか。
どのように祖父は主と近づき、心を通わせ、その傍らに仕えることを誓ったのか。
――それを上手く言葉にできないのは、まさに自分が未熟である証なのかもしれない。
「永月夜姫は、あんなに上手く書いてたのになぁ……」
読んだばかりの、永月夜姫の新作短編『月下白刃』を思い返して、妖夢は息を吐く。
白玉楼に届いていた『幻想演義』を、幽々子に断って先にそれだけ読ませてもらったのだ。一読して妖夢が驚嘆したのは、著者初の剣豪小説でありながら、剣戟の感触や、剣豪同士の心理的な駆け引きが緻密に、抜群のリアリティを持って書き込まれていたことだった。確かにあのとき、それに関する簡単な質問は受けたけれど――自分も大した答えを返した記憶は無いのに、まさに自分自身がその場で刃を手にし、敵と対峙しているような緊迫感を持った描写が生み出されていた。
言っては悪いが、永月夜姫――蓬莱山輝夜本人は、見た限り剣なんて生涯一度も手にしたことが無さそうである。だというのに、まるで熟練の剣士が己の経験を記したかのようなあの描写はいったい、彼女のどこから生み出されたのか。
――売れっ子作家は凄い、と改めて思うと同時に、それを本職としない作家の手すさびにも遠く及ばない自分の作品が悲しくなってくる。自分には、あれほど緊迫感のある駆け引きも、躍動感のある殺陣も果たして描写できるのか。……できる気がしない。
祖父ならどうだろうか。祖父は文筆の趣味は無かったと思うし、祖父の書いた文書の類は残っていないから、祖父がものを書いたらどんなものになるかは想像もつかない。
ただ、少なくとも剣士の心理描写に関してはきっと、自分には無い深みのある表現を生み出せるのだろう、という気はする。
その《深みのある表現》がどんなものなのかは、上手く想像できないわけで。いや、想像できたらきっと自分でも書くことができるのだろうが、今は少なくともできそうにない。
例えば、己が剣を振るう理由とか、意義とか。
例えば、その剣が切り裂くものへの葛藤とか、奪うものへ向ける感情とか。
祖父はどう思っていたのか。祖父の見ていたものは、まだ想像もつかない。
結局それは、自分がまだまだ祖父の教えを理解できていないということであり。
――自分がどうして西行寺幽々子という主に仕えているのか、その理由さえ上手く説明できないということに他ならないのだ。
『自然に、そうありたいと思っていればいい。君が幽々子様に誓う忠義のように、な』
いつだったか、八雲藍にそんなことを言われたのを思い出す。
幽々子に対して誓う忠義。西行寺幽々子をお守りするということ。それは魂魄家に生まれた妖夢には最初から定められたことであって、疑うことも、言語化する必要もないことだった。自分は西行寺家の従者であり、幽々子様は自分がお仕えする主。それはあまりにも自明のことであって、わざわざ確認することもないただの事実だった。
だがそれを、物語という形で言語化するということは。
自明であるただの事実を、他人に解るように伝えるということに他ならない。
幽々子が幽々子だから、で納得できるのは妖夢自身だけなのだ。なぜ幽々子なのか、どうして主を守ろうと思うのか、それを読者に伝えられなければ、この作品は不出来になる。
しかしそれは即ち、妖夢にとっては疑問を差し挟む余地すらないただの現実である、《自分が幽々子に仕えている》ということそのものに、問いかけをぶつけることだった。
――何故なのか? と。
何故自分は、西行寺家の従者として生きているのか? と。
その問いかけはあまりに哲学的に過ぎて、妖夢には答えられない。
答えられないから、原稿は進まないのだ。
「ああ……どうしよう」
こんな調子で、いったいいつこの原稿は書き上がるというのだろう。
楽しみにしてる、と鈴仙は言ってくれたのに、それに応えられない自分がもどかしい。
苛立ちを紛らわすように、妖夢は立ち上がって部屋を出た。月明かりが照らす庭へ降りたって、白楼剣を抜き放つ。月光に煌めく白刃に、惑う自分の顔が映っている。
白楼剣は迷いを断つ刃だと、いつか祖父は言った。
けれどこの迷いに、振るう白楼剣の軌跡は答えを返してはくれない。
――やっぱり、自分は未熟者なのだ。
月を見上げる。冴え冴えとした青白い光。この光の下に、鈴仙も今いるだろうか。
また寂しそうな顔をして、この白い月を見上げているのだろうか――。
「あら、まだ起きてたの~?」
と、縁側の方から声を掛けられて、妖夢は振り返る。寝間着姿の幽々子が、眠そうに目を細めてこちらを見つめていた。
「すみません、少し気晴らしを。幽々子様こそ、そろそろお休みになってください」
「そうね~、言われなくても眠いわ~」
ふわぁ、と欠伸をひとつ漏らして、幽々子はひとつ首を振った。
『それなら、何か必要なものがあればいつでも相談なさいね~』
ふと、主がいつか言ったことを思い出した。それは確か、『辻斬り双剣伝』の続きを書きたい、と告げたときのことだ。幽々子は笑ってそう答えた。
「……あの、幽々子様」
「なに?」
「――祖父が西行寺家に仕えはじめた頃のことを、覚えてらっしゃいますか?」
もちろん、幽々子の話が聞けたからといって、それで祖父の想いが理解できるかは別だ。そもそも幽々子は、生前のことはあまり覚えていないらしいし。
ただもし、出会った頃の妖忌のことを、幽々子が少しでも覚えていたら、それは何か、進まない原稿のヒントになるかもしれない。そんな微かな期待を込めた問いかけだったが、
「妖忌と初めて会った頃のこと? そんな昔のこと、覚えてないわ~」
あっさり主にはそう首を横に振られてしまった。予想通りである。
「でも、私が覚えてる限り、妖忌はいつも変わらなかったと思うわ~。勤勉で、実直で、頑固。寡黙で、堅物で、自分にも他人にも厳しい。……妖夢のよく知っている妖忌と一緒よ~」
それは確かに、幼い頃の記憶に残る祖父の印象と一致する言葉だった。
祖父はいつも勤勉で、また寡黙で頑固であった。幼い妖夢に対しても厳しく、また曲がったことは決して許さなかった。祖父の笑った顔は、ほとんど見た記憶がない。
――けれど、それは本当に祖父の全てなのだろうか。
今は、そんな疑問を覚えるのだ。
たとえばそれは、鈴仙が自分に語らない過去を抱えているように。普段の笑顔の裏側に、過去にまつわる悲しみや苦しみを隠しているように。
妖忌もまた、自分や幽々子には決して見せない何かを抱えていたのかもしれない。
流浪の剣士であったという祖父が、庭師という立場に身を置いてまで西行寺家に仕えることを選んだその理由は、その祖父の裏側を知らずには語れないのではないか――。
とはいえ、祖父が行方不明である以上、やはりそれらは不可知なのかもしれず。
どうすれば、知り得ざる祖父の想いを知ることが出来るだろうか――。
「でもね、妖夢。ひとついいことを教えてあげるわ」
と、幽々子はまた扇子を広げると、月光の下、妖夢の傍らにふわりと舞い降りる。
ざあっ、と風が吹いた。幽々子の周囲を、朧に光る蝶たちが、桜吹雪のように躍った。
それは蝶でありました。
青く輝く一羽の蝶が、私の眼前をひらひら、ひらひらと通り過ぎて往きました。木の葉のように、花弁のように、それは生の気配すらも纏わぬ、風にただたゆたうが如き、あてもない羽ばたきでありました。
私はその蝶に手を伸ばしました。その青く霞みゆく光こそが、私の手のひらからこぼれ落ちていったあの子の命に違いないと、魂の欠片に他ならぬと、そう覚ったのでした。――……。
「この世には、今は解らないことは無数にあるけれど、決して解り得ないことは無いのよ」
そう言って微笑んだ主の傍らを、また夜風が吹き抜けていき、妖夢は腕で風を防いた。
――右腕を下ろしたときにはもう、主の姿は目の前にはない。
「あまり月ばかり見上げていたら、また狂気にあてられるわよ~」
声は縁側からだった。振り返れば、主の姿はいつの間にかまたそこにあった。
幻想のように掻き消え、また現れるその姿。いや――今のは現実だったのだろうか?
目を擦った妖夢に、幽々子はけれど、不意に無邪気な笑みを浮かべて続けた。
「それに、月には妖夢の好きな兎さんは居ないわよ?」
――真っ赤になったのは、妖夢の目ではなく顔の方だった。
5
そんなわけで、翌日。
「……えーっと」
再び、妖夢は迷いの竹林で道に迷っていた。
手には鈴仙が忘れていった赤い傘。それを届けにやってきたわけだが――やはりこの竹林、何度か案内してもらっただけで攻略できるものではなかった。藤原妹紅に道案内を頼もうにも、そもそも妹紅の家が竹林のどこなのかも解らないのではどうしようもない。
人里で慧音に、妹紅の家の場所を聞いてくれば良かった、と今さら思っても遅いのだ。
「うう、参ったなぁ……」
ざざ、ざざ、と風に竹の葉がざわめく。
物陰に何かが潜んでいそうな気配は、たぶんに自分の錯覚なのだろうけれども。
――いやいや、しっかりしろ魂魄妖夢。今はまだ昼間だ。お化けは出ない。
こんなところでひとり不安がっているから未熟者なのだ。ぺちぺちと頬を叩き、妖夢は顔を上げて前へ一歩踏みだし、
がささささっ、と竹の葉の中から、目の前に突然何かが降ってきた。
「ひゃああああっ!?」
悲鳴を上げてたたらを踏んだ妖夢は、そのまま尻餅をつく。
ぶらん、ぶらんと目の前にぶら下がるのは、遠目に見れば人の形に見えなくもない、布を丸めて作った塊だった。それが逆さ吊りのような格好で、振り子のように揺れている。
……なんだ、これ。幽霊の正体見たり枯れ尾花とは言うが、これは枯れ尾花ですらない。
草を払って立ち上がると、「お?」と今度は声とともに、目の前に降り立つ影があった。
「誰か引っかかったかと思ったら、なんだ、あんたか」
揺れる人形モドキを伝って降りてきたのは、永遠亭のいたずら兎の方である。
「よく引っかかるねえ、鈴仙とそっくり」
にしし、と笑って、因幡てゐは楽しげに布の塊を丸めて懐に抱える。妖夢はごほんとひとつ咳払いした。――同じ兎でも、こっちは鈴仙とは大違いだ。
「鈴仙に会いに来たの?」
「ああ――うん。忘れ物があるから、届けに」
妖夢が手にした傘を掲げると、「ふうん?」とてゐは首を傾げる。――そういえば、この傘はあの日鈴仙が人里で買ったものだから、てゐは知らないのか。
「んじゃ、私が預かるよ」
にっ、と笑って、てゐがこちらに手を伸ばす。妖夢は慌てて、傘を引いた。
鈴仙から、嘘つきでいたずら好きという話はよく聞いている。ここで傘を預けたところで、ちゃんと鈴仙の元に届くなんて保証は無い。
――というか、傘をここで渡してしまったら、永遠亭まで行く理由が無くなってしまう。
「なにさー、ひとが親切に言ってるのに」
「……話もあるから、ちゃんと本人に会って渡す」
「話って?」
「そ、それは私と鈴仙の問題だから」
「ふうーん?」
にやにやと嫌らしい笑みを浮かべてこちらを見るてゐ。――実際、何を話すかなんて考えてはいなかったりする。単に自分が鈴仙に会いたいだけといえばその通りだ。それを目の前の妖怪兎に見透かされている気がして、妖夢は首を横に振った。
「でも、今行っても鈴仙と話なんてできるかな?」
「え?」
「鈴仙、昨日倒れて寝込んでるよ」
――血の気が引く、という感覚を、久しぶりに味わった気がした。
◇
永遠亭の長い廊下を、妖夢は足音が響くのも構わず走っていた。
てゐから無理矢理聞き出した鈴仙の部屋へ、足をもつれさせながら走る。焦ったところで何がどうなるわけでもない、寝込んでいるという鈴仙に何ができるわけもないのに、ただ気ばかりが急いて、走る足は今さら止めようがなかった。
――自分のせいだ、とそう思う。
帰る途中に降っていたあの雨。傘を霧雨書店に置き忘れた鈴仙は、やはりあの雨に濡れていたのだ。あるいは忘れたのを取りに戻ったのかもしれない。だけど傘は自分が回収してしまっていたから、鈴仙は傘もなく秋の冷たい雨に濡れて、そのせいで――。
息が苦しくなる。胸が締め付けられるように痛む。
『鈴仙の笑ってる顔を、守りたいって――そう、思うんだ』
お月見の夜に自分が言ったこと。守りたい、と思う気持ち。
それはただ、笑っている顔だけじゃなく。自分は――鈴仙を守りたいのに。
「鈴仙――」
その名前を口にしたところで、突き当たりに襖が見えた。――あそこだ。
襖の前に足を止め、妖夢は息を吐く。鈴仙は起きているだろうか? それとも眠っているだろうか? 苦しんではいないだろうか。うなされては、いないだろうか。
自分のせいで、辛い思いをしては、いないだろうか?
襖に手を駆ける。僅かの逡巡。けれど、こうしていても仕方ないのだ。
顔を上げ、襖を開けた。「鈴仙」と、彼女の名前を呼んだ。
畳に敷かれた布団の上。
聴診器を手にした永琳の前で、胸元をはだけた鈴仙の姿があった。
「……え、妖夢?」
鈴仙が、こちらを振り向いた。上着の前をはだけたままで。
――顔の血液が沸騰したかと思うほど熱くなって、視界が狂気にあてられたみたいに歪んだ。
「ごっ、ごごご、ごめんなさいッ――」
全力で襖を閉めた。ずるずるとその場に座り込んで、盛大に溜息を吐き出した。
――何をやっているんだ、自分。呻いて、妖夢は自己嫌悪に頭を抱える。
と、背後で襖の開く音。顔を上げると、永琳がこちらを苦笑混じりに見下ろしていた。
「もういいわよ、入っても」
「あ、ええと――」
何と答えていいのか解らず口ごもった妖夢に、永琳は優しく目を細めた。
「――あの子にとっては、それが一番の薬だから」
「え?」
言葉の意味を計りかねているうちに、永琳は軽く手を振ってその場を立ち去ってしまう。
その背中を見送って、妖夢はそれからゆっくりと立ち上がった。
一度深呼吸。落ち着け、落ち着け魂魄妖夢。冷静に事態に対処せよ。
永琳が閉めていった襖に手を掛ける。開こうとして、待て待て、と内心で自制の声。
「……鈴仙? 入っても、大丈夫?」
襖越しに、恐る恐るそう声をかけた。
少しの間があって、「どうぞ」と鈴仙の声がした。もう一度息を吐いて、妖夢は襖を開ける。
布団の上、身体を起こしてこちらに苦笑いを向けた、鈴仙の姿があった。
上着の前は、既にちゃんと閉じられている。
「えと、いらっしゃい、妖夢。……こんな格好でごめんね」
「あ、ううん、こっちこそ――ごめんなさい、本当に、なんていうかその」
慌てて頭を下げた妖夢に、鈴仙はどこか楽しげに笑った。
「いきなりだったから、びっくりしたよ」
「だ、だって、鈴仙が倒れたなんて聞いたから――その」
「そりゃもう、文字通り血相変えてたもんねえ。ていうか絞め殺されるかと思ったよ」
背後からの声に振り向けば、てゐがこちらを覗きこんでいた。
「てゐ。あんた、また何か話を大げさにして吹き込んだんでしょ」
「事実を伝えただけだよー。鈴仙が倒れて寝込んだってさ」
大仰に肩を竦めて、てゐはそれから、にしし、とまた意地の悪い笑みを浮かべた。
「ま、お邪魔する気は無いよー。ごゆっくり」
じゃーねー、と手を振って、襖が閉まる。てゐの足音が遠ざかっていくのを聞きながら、妖夢は布団の傍らに腰を下ろして、鈴仙の顔を覗きこんだ。いつもより少し、顔色が蒼白い気はするけれど、そこまで重症という様子でもなさそうだ。
「大丈夫、なの?」
「ああ、うん。ただの風邪だから、心配しないで」
「――やっぱり、昨日の雨に濡れたせい?」
そこで、そもそもの用件を思い出して、妖夢は持ったままだった傘を差し出す。
鈴仙はそれを見て、「あ」と目を見開いた。
「そっか、忘れてたんだった……ごめん、わざわざ届けに来てくれたんだね」
「う、うん」
「ありがとう、妖夢」
渡そうと思ったけれど、よく考えたら布団で寝ている鈴仙に傘を渡してもどうしようもない。仕方ないので傘は足元に置いて、それから妖夢は「……ごめん」と頭を下げた。
「え、な、なに?」
「昨日、また雨が降り出したとき、この傘持ってたんだから、鈴仙のこと探しに行けば――ううん、そもそも鈴仙が忘れていったとき、すぐに追いかければよかったのに、そうしなかったから、だから」
「いや、そんな、妖夢のせいじゃないってば。風邪引いたのは確かに雨に濡れたせいかもしれないけど、傘忘れたのは私だし、構わず走り回ってたのも私だから――ほんと、妖夢は気にしないでよ。そんなに気にされたら私が困るよ」
ね? と首を傾げた鈴仙に、妖夢は顔を上げる。
「鈴仙」
「ほら、それに、私が寝込むことなんてそんな珍しくないんだからさ」
取り繕うように苦笑しながら、鈴仙はそう言った。
「……え?」
それは鈴仙にしてみれば何気ない一言だったのかもしれない。しかし、妖夢にとってはいささか聞き捨てならないことではあった。
「珍しくないって……鈴仙、身体弱いの?」
「え? あ、いや、そういうわけじゃない……と思うけど」
思いがけないことを訊かれた、という顔で、鈴仙は首を傾げる。
「それにほら、寝込むのはヘマして師匠にお仕置きされるときとかだし――」
「……寝込むようなお仕置きって」
「ああいや、うん、まあたまにそういうこともあるってだけで。だから気にしないで、ね」
無理矢理話を終わらせにかかる鈴仙。妖夢としてはいささか承伏しがたい話がちらほら紛れ込んでいたが、鈴仙がこれ以上続けたくないのなら無理に聞き出すわけにもいかない。
ただ――鈴仙がよく寝込む、という話はどうにも気に掛かった。
月の兎を、幻想郷の妖怪と同じに考えていいのかはよく解らない。ただ少なくとも、ごく普通の妖怪であれば、そもそも風邪を引くこと自体滅多にないはずだし、数日寝込むなんていうのはそれこそよほどの大怪我でもしたときぐらいのはずだ。妖怪と人間の大きな差は、何よりもその体力、再生能力なのだから。
しかし目の前の鈴仙は、まるで人間のように風邪でこうして伏せっている。
月の兎というのは、もともとそんなに身体の強くない種族なのだろうか。
まあ実際のところ、鈴仙も何度か弾幕りあった限りでは、身体能力的にも幻想郷では決して強い方ではないとは思ったが――。
「妖夢は、風邪とかひかなかった?」
「わ、私は平気だよ。傘もあったし」
急に問われて思考が途切れ、妖夢は慌てて首を横に振る。
それなら良かった、と鈴仙は優しく目を細めて、こちらを見つめた。
鈴仙の赤い瞳。それに見つめられて、妖夢は小さく唾を飲みこむ。
心臓が急に高鳴って、そわそわと落ち着かなくなるのは、狂気の瞳のせいだろうか?
「昨日はごめんね、急にいなくなって」
「いや、それは別に、気にしてない――けど」
嘘だ。気にならないと言えば嘘になる。――あのとき、鈴仙が何を見たのか。
それは、鈴仙の過去にまつわることなのだろうか。だとしたら、自分はいったい、それに対して何ができるだろう? 鈴仙の心に巣くっているらしい痛みとか、憂いとか、そういうものに、自分はどうすればいいんだろう。
「あのね……鈴仙」
「うん?」
――鈴仙のことを知りたい。
鈴仙が何に悲しんで、何に憂えて、何を恐れているのかを、知りたい。
それを知ることができれば、自分にも何かができるかもしれないのに。
「――――」
だけど、その気持ちばかりが空回りして、言葉は口の中で形にならずに消えてしまうのだ。
お月見の夜のときのような勇気がほしい、と思う。
あのときのように、真っ直ぐに鈴仙の目を見て、自分の気持ちを伝えたいのに。
目の前にある鈴仙の微笑に見つめられると、言葉は喉につかえてしまって。
「妖夢?」
「あ、う、うん」
「どうしたの? ……顔、赤いよ?」
鈴仙の手が、不意にこちらに伸ばされた。少し熱っぽいその指先が、頬に触れた。
また心臓が音をたてて跳ねる。ぐるぐると視界が揺れる。目の前に鈴仙の狂気の眼――。
「やっぱり、妖夢も風邪ひいたんじゃ」
「え、ち、違」
「師匠呼んで、診てもらう?」
「違っ、そうじゃなくて、鈴仙――」
思わず、鈴仙の手を掴んだ。きょとんと目を見開いた鈴仙の顔を、まっすぐ見つめた。
――勇気を出せ、魂魄妖夢。一昨日、お月見の夜、自分は言ったじゃないか。
鈴仙のことを知りたい、と。
自分の知らない鈴仙が、どんな鈴仙であっても、嫌いになんかなったりしない、と。
その言葉を、鈴仙は受け入れて、妖夢を友達と呼んでくれたのだから。
「……昨日、霧雨書店で、何があったの?」
「え――」
鈴仙が息を飲んだ。妖夢はぎゅっと鈴仙の手を握りしめて、言葉を続けた。
「あのときの鈴仙――お月見の夜のときみたいな顔してた」
霧雨書店で、店員の少女が持っていた本を見た鈴仙の顔。驚愕に目を見開いたその横顔に浮かんでいたのは、お月見の夜に妖夢に見せた憂いと悲しみの色によく似ていた。
それは、鈴仙が月を見上げながら浮かべた表情。
――どうして鈴仙は、かつての故郷を、そんな顔をして見上げるんだろう。
「…………妖夢」
「私――鈴仙が、どうしてあんな顔をしたのか、知りたい」
できることなら、そんな顔をしてほしくはないから。
鈴仙には、いつも笑っていてほしいと、そう思うから。
「――――っ」
妖夢に握られた手を下ろして、鈴仙は顔を伏せた。その肩が震えた。妖夢は思わず手を離す。
ああ――何をやっているんだ。鈴仙にこんな顔をしてほしくないだけなのに、自分は、
「……解らなくて」
「え?」
「あれがどうして、こんなところにあるのか、解らなくて」
「あれって――あの文庫本?」
問いかけた妖夢に、鈴仙はこくりと頷く。そして、部屋の一角を見やった。そこにはさほど大きくない本棚が備え付けられていて、鈴仙のものなのだろう本が並んでいる。
「そこの二段目。……妖夢の本の、後ろ」
言われて、妖夢は立ち上がって本棚に歩み寄った。二段目に、鈴仙の言う通り『辻斬り双剣伝』の単行本がある。自分の本が鈴仙の本棚にあることに少しのこそばゆさを覚えながら、妖夢はそれを取り出す。
――その後ろに隠すように、一冊の古びた文庫本があった。
「……『小川未明童話集』?」
著者名もタイトルも聞いたことのない本だった。背表紙には《新潮文庫》の文字。――新潮文庫? 幻想郷にそんな文庫のレーベルは無かったはずだ。
「それ、外の世界の本なんだ」
こちらに視線を向けずに、ぽつりと鈴仙は言った。妖夢はもう一度本を見下ろす。――外の世界の本。なるほどそれなら著者も出版社も聞いたことがないのは道理だが――。
「私が月にいた頃に……お世話になってた人から、もらった本なの」
月の都。妖夢はあのロケット騒ぎのときに幽々子に連れられて忍び込んだが、幽々子に従って動いていただけなので、月についてはほとんど何も知らないままだった。
ただ――そういえば、と思い出す。
幽々子が紫と共謀して忍び込んだ屋敷には、鈴仙のような月の兎が多くいた。妖夢はほとんど隠れていて、それらの兎と話をしていたのは専ら幽々子だったのだが。
――今にして思えば、あれはかつての鈴仙の仲間たちだったのだろうか。
だとしたら期せずして、あのとき自分は鈴仙の過去に忍び込んでいたのかもしれない――。
「……その本は、月には二冊だけあったんだ」
腰を下ろしてぱらぱらとページをめくる妖夢の耳に、呟くような鈴仙の言葉が届く。
中身はいわゆる童話らしかった。幻想郷で子供向けの読み物といえば、門前美鈴の『風雲少女・リンメイが行く!』シリーズあたりが有名だが、あちらとは少し毛色が違うように感じる。
「一冊は、それ。……もう一冊は、私の……友達の」
はっと、妖夢は振り返る。鈴仙は、いつの間にか布団の中に潜り込んで、こちらに背を向けていた。枕に顔を押しつけるようにしながら、鈴仙は小さな声で喋り続ける。
「最初に貰ったのは私で、私がいつもそればっかり読んでたから――サキもいつの間にか手に入れて、読むようになってた。……同じ本で紛らわしいからって、最後のページに名前を書いておいたの」
奥付のページを開くと、拙い文字で確かに名前が記されていた。――レイセン、と。
そこで、妖夢は霧雨書店で鈴仙が何を見たのかを理解する。
「じゃあ、あの文庫本って――」
「――ねえ、どうして? どうして、サキの本が、この幻想郷にあるの?」
もちろん、その問いかけに妖夢が答えられるはずもない。
サキ、というのは、鈴仙の昔の友達の名前なのだろう。その友達が持っていたはずの本が、どういうわけか幻想郷の、霧雨書店に存在していた。――まさか幽々子が持ってきたわけでもあるまいに、どうして月にあるはずの本が幻想郷に存在するのか。
答えられるはずもないけれど、考えれば可能性は思いつく。
「……本人が、幻想郷に来てる、とか」
ああ、だから鈴仙はあのとき飛び出していったのか、と妖夢は得心した。
あるはずのない、友達の持っていた本が幻想郷にあった。それが落とし物だとすれば、持ち主がこの幻想郷に来ているのではないか――そう考えて、鈴仙は探しに行ったのだ。
けれど結局見つからず、雨に濡れた鈴仙は風邪をひいてこうして今伏せっている。
「そんなこと……無いはずなのに」
枕に顔を埋めたまま、鈴仙は震える声で呟いた。
――まさか、その友達というのはもう亡くなっているのだろうか?
「鈴仙」
「……ごめん、妖夢。やっぱり、ひとりにして。……ごめん」
布団に潜り込んで、鈴仙は震える声でそう言った。
すぐそこで、鈴仙がきっと泣きそうな顔をして震えているのに、妖夢の手はもう届かない。妖夢の言葉も、もう届かない。鈴仙が、それを拒んでいるから。
妖夢にできるのは、ただ静かに立ち上がることだけだった。
6
襖を閉めて廊下に出ると、詰めていた息を吐き出して妖夢は天井を見上げた。
鈴仙から聞かされた過去の断片。月にいた頃の友達。その友達の持ち物が、ここにあった。
そのサキというらしい友達が、今どうしているのかは解らない。幽々子がお喋りしていた兎の中にいたのだろうか。それとも、もうどこにもいないのだろうか。
どこにもいないのだとすれば、鈴仙の背負っているものは、自分が考えているよりもあるいはずっと重い枷なのかもしれない。
――それは、自分に背負えるものなのだろうか。
いや、自分が背負うことを許される類のものなのだろうか――。
「……あら? 白玉楼の剣士さんじゃない」
と、ひたひたと廊下を歩く足音とともに声をかけられて、妖夢は振り返った。
蓬莱山輝夜は、妖夢の顔と、その背後の襖を見比べて、納得したようにひとつ頷く。
「ああ、鈴仙のお見舞いに来てたのね」
「え、あ、はい。お邪魔しています」
ひとつ会釈をして、それから妖夢は目の前の輝夜の姿に目を細めた。
蓬莱山輝夜。永遠亭のお姫様。幻想郷から満月を隠した主犯。――月の姫。
彼女は、鈴仙の過去を知っているのだろうか。
「うん?」
妖夢が何か言いたげにしているのに気付いたか、輝夜は不思議そうに首を傾げる。
――知っているとして、それを果たして、鈴仙の主から聞いてもいいものなのだろうか。
「鈴仙は寝てるのかしら?」
「あ……は、はい」
不意に訊ねられ、慌てて妖夢は頷く。実際は、そういうわけでもないのだけれど。
「そう。じゃあちょっと、場所を変えましょう」
両手を合わせて笑った輝夜に、妖夢は目をしばたたかせた。
◇
そんなわけで、別の和室に場所を移し。
「この前、モデルをお願いしたアレ、覚えてるかしら?」
そう言って輝夜が取り出したのは、『幻想演義』の最新号だった。
「あ、はい。昨日読みました」
「あら、もう? ありがとうね」
モコモコした兎を膝の上に乗せて撫でながら、輝夜はお茶を啜る。
「どうだったかしら? 本職の目から見て」
「ほ、本職って」
「あら、『辻斬り双剣伝』って貴方の作品でしょう? 剣豪小説家、魂魄妖夢さん」
――言われてみれば確かに、読まれているのは鈴仙から聞いていたけれど。
永月夜姫からそんなことを言われるというのは、何というかこう、物凄く落ち着かない。
「い、いえそんな、全然本職とか剣豪小説家とか名乗れる立場じゃないですから」
「そうかしら? あれはあれで、私は楽しんだけれど」
「そ……そうですか?」
お世辞なのかもしれない、というか間違いなくお世辞だろうとは思う。
それでも、個人的にファンである作家からそう言って貰えるのは、鈴仙からの言葉とはまた違った意味でむずがゆく、――端的に言えば嬉しかった。
「文章も人物の思考回路も、堅苦しくてお行儀が良すぎる気はするけどね。もう少し『白狼の咆吼』みたいに後半はっちゃけてもいいんじゃない?」
「は、はあ」
とりあえず、ありがたいアドバイスとして受け取っておこう。――具体的にどうすればいいのかはよく解らないけれども。
「まあ、それはそれとして。『月下白刃』、どうだったかしら?」
「あ――ええと、面白かったです。殺陣の描写、実際に剣を持ったことがないと解らないような感覚とか、心理描写とか、すごく良く書けてると思いました」
「本当? それなら良かったわ、専門家にそう言ってもらえれば一安心ね。これで門外漢に『リアリティが無い』とかいちゃもんつけられても平気。心強いわ」
あの殺陣の描写にリアリティが無いなんて、いちゃもんでもつけられる気がしない。そんなことを言うのはどんな相手だろう。剣のことなんて何も解ってない輩なのは確かだ。いや、未熟者の自分が剣について解っているなんて言うのはおこがましいけれども。
そんなことを思いつつ、妖夢は輝夜を見やる。細い腕、華奢な指、白い肌。やはりどう見ても彼女はお姫様であり、剣なんて持ったことが無いに違いない。
やはり彼女は想像だけで、あの作品を書いたのだろうか。だとすれば――そもそも元から比べる気にもならないけれど、同じ剣士である祖父の心理さえ想像できずにのたうちまわっている自分とは、根本的に物書きとして立っている場所が違う。
「ねえねえ」
と、急にこちらに身を乗り出して、輝夜は妖夢の顔を覗きこんだ。
「もこたんのとどっちが面白かった?」
「も、もこたん?」
「富士原モコの『必殺不死鳥剣』」
言われて思い出した。同じ剣豪小説特集に載っていた短編である。
富士原モコといえば、永月夜姫と同時期にデビューした作家で、主に《不死》と《復活》をテーマにしたミステリー風の作品を書いてる作家である。
「あ、そっちはまだ読んでない、です」
「あら、そう。まあ、私の方が面白いのは確定的に明らかだから、別に読まなくてもいいわよ」
「……はあ」
得意げにそう言う輝夜に、妖夢は目をしばたたかせる。何か因縁でもあるのだろうか。
「あの――」
「ん?」
言いかけた言葉を、咄嗟に妖夢は飲みこむ。
今、自分が訊ねようとしたのは、何についてだっただろう。
――鈴仙の過去? それとも、『月下白刃』について?
本当に訊ねたいことは、きっと前者だった。だけどそれが、輝夜に訊ねてもいいことなのかは解らない。――さっきのように、少しずつでも鈴仙が話してくれるのを待つべきなのだろうか。時間はかかるにしても、……焦っても仕方ない、のか。
「剣を、握ったことは、あるんですか?」
「無いわよ」
結局口に出したのは後者の問いで、返事は即答だった。
「じゃあ、あの描写は全部、想像で……?」
「そうねえ。そういうことになるけど。どこかおかしかった?」
「いえ――逆です。想像で書いたものとは思えなくて」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわねえ」
ニコニコと笑って、輝夜は膝に乗せた兎に「褒められたわよー」と笑いかけた。おめでとー、と兎は飛び跳ねて返事をする。
「……どうやったら、想像だけであんなにリアルに書けるんでしょう」
「そう言われてもねえ、私はただ頭で思い描いたお話を出力してるだけだし」
お茶を飲みながら、輝夜はあっさりとそう答える。
「要は想像力と思考力の問題じゃない?」
「はあ」
「だいたいね、経験が無ければリアルな描写は無理って発想が小説に対する冒涜だと思うのよ、私としてはね。経験の無いことについての描写がおかしいとすれば、それは書いた当人の知識と想像力と思考力が足りないだけで、経験が無いことが問題なんじゃないわ」
何かスイッチが入ったのか、急に輝夜はまくしたて始める。
「そもそも小説なんてものは、自伝じゃない限り他人の人生を想像して描くものじゃない? 自分は自分自身にしかなれない以上、他人の人生を描く小説は全て想像の産物なのよ。それに対してやれ実感が無い、経験に裏打ちされたリアリティに欠けるとかいちゃもんをつけてくる輩の多いこと。うんざりするわ」
「……は、はあ」
「たとえばそう、恋愛をしなければ恋愛小説は書けないのか。書けないって言う輩が多いけど、そんなわけないじゃない。自分の経験した恋愛は、自分の経験でしかないの。それは作中の登場人物の恋愛とは似て非なるものよ。経験が無ければ書けないのはエッセイ。経験が無ければ恋愛の機微など理解できない、書けるはずが無いっていうのは思考停止、想像力の欠如よ」
よほど腹に据えかねる文句でも言われたことがあるのだろうか。口を尖らせながら早口に語り続ける輝夜に、妖夢は面食らいながらただただ相槌を打つ。
「人物の思考回路が理解できないって、だったらあんたは他人の考えてることが何でも理解できるのかっていうの。誰にでも解る理屈だけで動く者しかいない物語なんて、それこそ書き割りだわ。物語の人物にだって人間的自由があるのよ。読者に理解しがたい動機や理屈で人物が動いちゃいけない、なんて読者の勝手な思考停止に作家が付き合う道理なんて無いのよ。だいたい読者の読解力の欠如の責任まで作家に押しつけられちゃたまらないわ」
「……でも、それが伝わらないのはやっぱり問題なんじゃ」
「書いてあることしか読まない連中のために一から十まで説明してあげるっていうなら、別に止めはしないけど、私はそんな面倒なことはパス。――『あの月の向こうがわ』のラストにトンチンカンなこと言われたから、もう諦めたわ」
――ああ、あれか。輝夜が何に怒っていたのかようやく理解して、妖夢は頷いた。
永月夜姫の第二作、『あの月の向こうがわ』が出てすぐの頃だ。文々。新聞の文化欄に載った上白沢慧音による書評が、わりと手厳しかったのである。特にラストのある登場人物の選択については随分厳しい言葉で批判されていた。妖夢自身も少し引っかかりを覚えた箇所ではあったが、何もそこまで言わなくても、という文章だったのを覚えている。輝夜はどうやらその批判に納得がいっていないらしい。
そういえば、今年の稗田文芸賞は『あの月の向こうがわ』が有力候補のひとつだが、慧音は稗田文芸賞の選考委員でもあるので受賞は難しいかもしれない、というようなことを伊吹萃香が文々。新聞のコラムで書いていた。他の有力候補は『白狼の咆吼』や、風見幽香のデビュー作『優しい花を咲かせましょう』だとか何とか。
話が逸れた。
「……そういうもの、なんでしょうか」
「もちろん、その想像力と思考力を身につけるための経験は必要でしょうけどね。ただ、作家が小説の人物と同じ経験をしてなきゃいいものが書けないなんて理屈は無いし、それをどう想像力でもっともらしく見せるかが腕の見せ所なのよ。そんなにリアリティ、リアリティ言うならノンフィクションだけ読んでなさいっての」
――想像力で、もっともらしく、か。
輝夜ならきっと、祖父の、妖忌の思いも、その想像力でもっともらしく書き上げるのだろう。
それを為し得ているのは、恐らく彼女自身の、自作に対する並々ならぬ自信だ。
言葉の端々から、輝夜が自分の書いたものに、絶対の自信を持っていることが伝わってくる。サスペンスを書いても、青春小説でも、剣豪小説でも、その筆が迷わないのは、ひとえにこの自信ゆえなのかもしれない。だからこそ『月下白刃』であれほどのリアリティある描写を成し遂げられたのか。
それはつまり、逆に言えば。
自分が『辻斬り双剣伝』の二巻を書き進められずにいるのは、ひとえに自信のなさゆえだ。
己の書くものが良いものなのか、面白いものなのか、他人の読むに耐えうるものなのか、それに対して自信がないから、筆は迷い、進まない。
――どうすれば、これほど自分の書くものに絶対の自信を持てるのだろう。
自作の面白さなんて、他人の評価を聞いてみなければ解らないものなのに。
いや、こんな考え方がそもそも自信のなさの現れなのか――。
妖夢はこっそり溜息をつきながら、冷めてきたお茶を啜った。
――そしてきっと、自分の自信のなさは、小説だけの問題ではないのだ。
「あ、そうだ。それはそれとして」
と、輝夜が不意に相好を崩して、ぽんと手を叩いた。
「どう? 鈴仙とは上手くいってる?」
「へ?」
「お友達なんでしょ? 鈴仙の」
「は……はい、そ、そうですけど」
急に話が変わって、妖夢は目を白黒させる。輝夜はマイペースに微笑んで、妖夢の目を覗きこんだ。鈴仙の目のように視界がぐらつきはしないが、これはこれで落ち着かない。
「あの子、付き合いづらくない? 難儀な性格してるでしょ」
「え、ええと……別に、そんなことは」
「そう? だいたい鈴仙って何も言わずに抱え込むし、肝心なところでヘタレで臆病だし、あれで結構性格悪いところもあるし、割と自分勝手だし、イライラしたりしない?」
「そこまで言わなくても……いや、そんなことないですよ」
いくつか思い当たる節は無いでもなかったが、妖夢は首を横に振る。
少なくとも、鈴仙に対して苛立つことなんてない。もどかしいことはたくさんあるけれど。
それに、鈴仙は明るくて優しいではないか。性格悪くなんかはないと思うのだが。
「いやね、あの子がここに来てから何十年だったか忘れたけど、あの子ったらずっと、他のイナバたちぐらいしか友達いなかったのよ。まあ、八割ぐらいは私たちのせいだけど」
「……そうなんですか」
「鈴仙が余所に友達作ってきたのは、私の覚えてる限り貴方が最初ね」
妖夢を指差して、輝夜は呆れたように息を吐く。
「だから心配なのよー、主として。せっかくできた友達だもの、あの子の難儀なところに辟易してあっという間に疎遠になっちゃったり喧嘩別れしないか心配で」
「い、今のところ、そのつもりは無いです」
「そう? それなら良かった」
満面の笑みを浮かべて、輝夜は「いい友達ねー」と抱いた兎に話かけた。ねー、と答える兎。
そして輝夜は、目を細めて妖夢を見つめて。
「――鈴仙を、よろしくね?」
ひどく優しい声音で、そう口にした。
妖夢はただ、無言ではっきりと、それに頷いた。
7
「……鈴仙? 起きてる?」
輝夜との話から解放されたあと、妖夢は再び鈴仙の部屋へ足を向けていた。
鈴仙はもう落ち着いているだろうか。あるいは風邪を引いているわけだし、眠ってしまっているかもしれない。回復のことを考えれば、その方がいいのだろう。襖の向こうに声をかけて返事を待ちながら、そんなことを考える。
――あのとき、鈴仙に言われるまま部屋を出たのは、正しかったのだろうか?
ふと、そんな疑念が頭をもたげた。本当はあのとき、自分はあの場に居続けて、鈴仙の話を聞き続けた方が良かったのではないだろうか。鈴仙は……言葉通りのことを望んでいたのだろうか。それとも、言葉とは真逆のことを望んでいたのだろうか?
解らない。考えても、解るはずがない。
『人物の思考回路が理解できないって、だったらあんたは他人の考えてることが何でも理解できるのかっていうの』
全く、輝夜の言う通りだ。小説の人物のように、鈴仙の心理を誰かが説明してくれればどんなに楽だろうか。――いや、それも想像力の欠如なのかもしれないけれど。
「鈴仙……寝てる?」
もう一度、襖の向こうに声をかけた。……返事はない。
やっぱり眠っているのだろうか。せめてそれを確かめてから帰ろう、と妖夢はそっと襖を開ける。和室の中、鈴仙は布団を被って横になっていた。
足音をたてないように、そっと布団の傍らに歩み寄る。見下ろした鈴仙は、目を閉じて静かにその胸を上下させていた。やはり、あのまま眠ってしまったらしい。少なくとも寝たふりには見えなかった。
これでいいのだ、とその寝顔を見下ろしながら妖夢は思う。風邪を引いているときは、暖かくしてゆっくり眠るのが一番いい。そのお邪魔をしてはいけない。
「……鈴仙」
傍らに腰を下ろして、寝顔を覗きこんだ。安らかな寝顔。無防備な表情。思わず手を伸ばしそうになって、慌てて引っ込める。起こしたらいけないのだ。見るだけ……見るだけ。
静寂が、鈴仙の部屋に落ちる。響くのは鈴仙の微かな寝息だけ。気詰まりではない、どこか穏やかなその静けさの中、妖夢は自分の胸元に手を当てて、小さく息を吐く。
「ねえ、鈴仙」
起こさないように、小声で鈴仙の寝顔に、妖夢は話しかけた。
「私は、未熟だし、自分に自信もそんなに無いし、きっと、頼りないよね」
もし鈴仙が起きていて、聞かれていたらどうしよう、と一瞬考える。
――いや、そんなことは考えても仕方ないのだ。
「でも……そんな私でも、鈴仙の友達でいていいのなら」
少しだけ躊躇して、妖夢は鈴仙の前髪にそっと触れた。さらりとした感触が、指先に心地よかった。鈴仙の長い、綺麗な髪。それをそっとかきあげる。
「……いつか、打ち明けてほしいよ。鈴仙の抱えてるもの、鈴仙が苦しんでること。それがどんなに重くても、辛くても……私で良かったら、一緒に背負うから。重くて大変なものでも、ふたりで抱えれば、きっと少しは軽くなると思うから――」
こんな言葉を、鈴仙がどう思うのか。鈴仙がどんなものを抱えているのか、それを理解できる想像力や思考力があればいいのだけれど、未熟な自分にはそれは無いから。
せめて、鈴仙が話してくれるまで、自分は鈴仙のそばにいたい。
「鈴仙。……私は、鈴仙のそばにいるから。隣に、いたいから」
眠る鈴仙の表情は変わらない。どんな夢を見ているのだろう。
せめてそれが、辛い、悲しい夢でなければいい、と思う。
「れい、せん」
かきあげた前髪の下、鈴仙の額に、妖夢はそっと顔を寄せた。
――それは昨日、稗田家で風見幽香が稗田阿求にしてみせたこと。
さすがに、鈴仙が起きているときにする勇気は無いから。
いや、今勝手にこんなことをするのも、どうなのかとは思うのだけれど。
自分の今のこの気持ちを、自分への証として、示しておきたかったから。
妖夢はそっと、ついばむように一瞬だけ、鈴仙の額に唇を寄せた。
「………………うわ、わ、わわわ、わっ」
顔を上げて、微かにむずがった鈴仙の寝顔を見下ろして。
その瞬間、猛烈な気恥ずかしさが襲ってきて、妖夢は狼狽えて視線を彷徨わせた。
――何をやっているのだ、自分。寝ている鈴仙にこんな、勝手に、
「よう、む……」
声。それと一緒に、膝元に触れる手の感触。――心臓が止まるかと思った。
「れ、れいせん、」
その顔を見下ろした。……鈴仙はまだ目を閉じていた。
布団からはみ出した手が、力なく妖夢の正座した膝に触れていた。
「……ね、寝言?」
驚かせないでほしい。大きく息を吐いて、それから妖夢は確かめるように、自分が唇で触れた鈴仙の額に、そっと指先で触れる。
――ねえ、鈴仙。今、どんな夢を見ているのかな。
自分はそこにいるのかな。それは――幸せな夢、なのかな。
「鈴仙」
妖夢は、そっと鈴仙の手を握りしめた。優しく、けれどしっかりと。
本当は、そろそろ白玉楼に帰らないといけない時間だったけれど。
もう少しだけ、ここでこうしていたかった。もう少し、あと少しだけ。
鈴仙。
君に雨が降り注ぐなら、私は君の傘になりたい。
君に矢が降りかかるなら、それを防ぐ盾になりたい。
君を縛りつける鎖があるなら、――それを断ち切る刃になりたい。
ただそれだけが、今、魂魄妖夢の望むことなんだ。
――ねえ、鈴仙。
* * *
彼女はただ、ぼんやりと頭上の青白い光を見上げていた。
夜の闇、帳の下りた、人気のない森の片隅。鬱蒼と生い茂る木々の合間から見えるのは、真円から少しだけ欠けた月。深い漆黒の中にぽっかりと、切り抜いたような白が浮かんでいる。
大樹に背中を預けて、その遠すぎる光に、彼女は目を細めた。
こんなに、地上から月は遠かったのか。こんな遠いところに、あの子はいるのか。
――そして自分も、ここに来てしまったのだ。
ずきり、と捻った足が痛んで、彼女は顔をしかめた。痛みと腫れはまだ引く気配がない。今夜は大人しく、この場所で夜を明かした方がいいのかもしれない。
深く息を吐き出して、彼女はその場にへたり込むように腰を下ろした。
それから、ポケットをまさぐる。月からたったひとつだけ、彼女が持ってきたもの。それを取り出そうとして――けれど次の瞬間、彼女はその顔を青ざめさせた。
無い。……あの本が、無い。
慌てて周囲を探したが、どこにもそれは見当たらなかった。どこかに落としてしまったらしい。今さら引き返して探そうにも、この夜の闇の中ではどうにもならない。
膝に顔を埋めて、彼女は足首の痛みに少しだけ嗚咽を漏らした。
――どうしてこんなところに来てしまったのだろう。
そんな弱気が顔を覗かせる。あの本すら無くして、足を挫いて、ひとりきりで。
だけど、……だけど。
顔を上げる。ぎゅっと目をつぶると、大切な友達の顔が浮かんだ。
そう、あの子のためだ。そのためにここに来たのだから、負けるな。挫けるな。
あの本はどこかに落としてしまったけれど、それであの子との絆が失われたわけではない。
――そのはずだと、信じたかった。
だけど、今は休もう。もうすぐだ。自分の目指している場所は、もうすぐのはずだ。
きっとそこに、あの子はいる。
もう二度と会えないと思っていたあの子が、そこにいるはずだから。
「……レイセン」
彼女は、目指す先にいるはずの、大切な友達の名前を呟いた。
不意に吹き抜けた風に、ふわりとした桃色の髪が、音もなく揺れていた。
<第6話へつづく>
ところで『幻想演義』の最新号ってどこで手に入りますか?
誤字報告 ×鈴仙の長い、綺麗な紙 ○鈴仙の長い、綺麗な髪
今回もおもしろかったです。書店とか文芸賞とかゆうあきゅとか他作品の話にもにやにや。
輝夜とゆゆ様もすてきでした。
次も楽しみにしてます。
姫だけでなく、執筆者でもある輝夜様も生き生きとしていて良いですねぇ。
嗚呼、一度は行きたい霧雨書店……
妖夢すごい可愛かったですが
輝夜の論理にすごく感動しましたw
想像力かー考えさせられますねw
次も頑張って下さい
続きも楽しみにしています
本格的に意識し始めた妖夢が可愛い。次回も楽しみにしています。
なによりも幽あきゅの不意打ちに完全にしてやられた
かわいいなぁもう!
しかし「確定的に明らか」「稀によくある」辺りは、ブロント語とは言われますが普通に使える文だと思うんですよね。意味読み取ろうと思うと深いし。
そう言えば、これ第6回稗田文芸賞の候補が決まる前の話なんですね……以前のも読み返してみたり。あぁちくしょう面白い。『輪廻の花』読みたいなぁ(こっちは第7回だけど)…
とまぁ文章構成完全無視で感想書き込んでしまいましたが、一番最初にも言及したモブの兎が特に可愛すぎて死にそうですw
3行しか出てきてないのになんですかあのさりげない破壊力はwww
次回も波乱の予感が……!
ところで今回姫様が小説について熱く語っていますが、登場人物が長文を熱く語るときは作者の地が出ると考えています。姫様の言っていることと逆方向の理論とも言えるかもしれませんが、妖夢の筆が進まない悩みも合わせてそのあたり気になりますね。
想像力か・・・
次回出てくるサキちゃんがうどみょんにどう絡むかが楽しみです。
面白かったです。