午後の日差しが降り注ぐ、妖怪の山。
秋の装いに包まれた山道の木々は、紅や黄にすっかり染め上げられている。時折風に舞い上げられる落ち葉は、まるで秋風の中で踊っているようだ。
そんな風情溢れる道を、私はある人の家に向かって歩いていた。
本来ならばこちらから赴くことなど絶対にないであろう、あの気に入らない記者の家へと。
射命丸様が、記者を辞める。
そんな話を仲間達から聞いたのは、つい先程のことだった。
時を遡ること約三十分前。
白狼天狗の詰め所で友人と話をしていた際、仲間の一人がこう大声で叫びながらこちらに走ってきた。
「た、大変だよ! 射命丸様が新聞記者を辞めるんだって!!」
「ええっ!? なんで、どうして!?」
「そ、それほんとなの!?」
突然の大発表に仲間達がざわつく。それもそのはず、彼女達は皆射命丸様の新聞の愛読者だった。
内容が不真面目なため新聞大会でこそいい成績を収めたことはないが、文々。新聞は若い天狗達の間で一定の地位を築いている。友人達によると、斬新な切り口や記事のデザイン、軽快な文章などがいいらしい。尤も、私には理解できないことだが。
ともかく、彼女達は射命丸様の新聞に夢中なのだ。それがなくなるかもしれないという話を耳にしたのだから、慌てないほうがおかしい。
「これを見て」
少し冷静になった友人が一枚の紙を取り出し皆に見せる。その瞬間、私以外の数人が食い入るようにそれを見つめた。
「なになに……『文々。新聞 休刊のお知らせ』ですって!?」
「一身上の都合って書いてあるけど、何かあったのかな?」
「さあ。これだけじゃ分からないね。そういえば、これどこから持ってきたの?」
「新聞屋のおじさんからもらったんだ。ここに来る前に買いに寄ったんだけど、文々。新聞だけ見当たらなかったの。だからおじさんに聞いてみたんだけど、おじさんも詳しくは知らないんだって」
「そうなんだ。売ってるおじさんが知らないんだから、私達が分かるわけないよね……」
「そうだね……ああ、なんで射命丸様辞めちゃうんだろうなあ」
思い思いに溜息を吐きながら、友人達はあれこれ話している。その様子を私はどこか冷めた目で見つめていた。
何かに夢中になるのはいいことだが、その対象は選ぶべきではないだろうか。少なくとも、あんなにいい加減な人物が書いている新聞など、面白いわけがない。そんなものに情熱を注ぐのは勝手だが、興味の無い私には友人達の姿が滑稽に見えて仕方ない。
なんだって皆あんなにいい加減な新聞に夢中になっちゃうんだろう。そんな事を思いつつ、私は小さく溜息を吐いていた。
「……そうだ! 椛に聞いてきてもらおうよ!」
友人の一人が突然そう口走ったのは、その直後だった。彼女の発言が全く予想外だったのもあって反応が遅れてしまった私を無視して、他の仲間達が騒ぎ始める。
「そうか! いくら射命丸様が話したくないんだとしても、椛にならきっと教えてくれるよね!」
「そうだ、それがいい! というわけで椛、お願いしたいんだけど……」
「やだ。射命丸様の処にわざわざ聞きに行くなんて絶対に嫌」
無関心を決め込みつつ、私はいつもより冷たい口調で彼女達に答えた。
正直、私はどうするべきか迷っていた。
私と射命丸様は、犬猿の仲という表現が最もふさわしいとまで言われた間柄だ。顔を合わせればいつも小競り合いになるし、口喧嘩程度ならそれこそ毎日のように繰り返している。
だから、記者を辞める話を聞いても特に何も感じなかった。彼女の仕事に懸ける情熱はそれなりに知っているが、仕事を辞めるのなんて人の勝手だし私が出る幕ではないと思っていたのだ。
けれど、一方で射命丸様を心配する気持があったのも事実だ。
どうしようもない相手だとわかっていても、何故かその人のことを心配してしまう。世の中には、そういう不思議な同情があるという。
そんな感情がどうして生まれるのかはよくわからない。けれど、そういった感情は確かにあるのだと、私は今確信している。だって、私の胸には確かにあのどうしようもない射命丸様を心配する気持が存在しているのだから。
二つの相容れない感情が、私の心に混在する。
けれども、そう簡単に会いに行くと決めるわけにもいかない理由が私にはあった。他でもない、私と射命丸様との関係のことだ。
私が会いに行ったとしたら、射命丸様はどんな反応を示すだろうか。彼女のことだ、大方私を散々馬鹿にした上で何も教えてくれないまま帰れと言ってくるだろう。そんな事をされれば、まず間違いなく喧嘩になる。いくら毎日のように繰り返しているとはいえ、そうなるのが分かった上でわざわざ出向くなんてごめんだ。
心配は心配だが、かといって行く気にもなれない。そんな中途半端な気持の間で、私は答えを出せずにいた。
しかしながら、この時の私には悩む権利すら与えられていなかったらしい。
「駄目だよ! 椛に行ってもらえないと私達が困るんだから!」
「そうだよ! これは私達の総意なの!!」
「さあ椛、射命丸様の処へ行きなさい! いや、行ってください!!」
「ちょ、皆落ち着いて……」
「これが落ち着いてられるもんですか! 椛、行くのか行かないのか、どっちなの?」
「どっちなの?」
先程の私の言葉を完全に無視して、友人達が騒ぎ立てる。妙に大きなその騒音に周りを見てみると、ついさっきまでは数人だった仲間達の輪はいまや十数人に達していた。つまりは、午前と午後の待機要員のほぼ全員が私をとり囲んでいるわけだ。それだけ文々。新聞の人気が凄まじいということになるが、それはそれでなんだか納得がいかない。
ともかく、この状況は私にとって好ましくないのは明白だ。
いくら友人とはいえ、殺気だった彼女達に答えを渋れば何があるかわからない。できれば自分で答えを出したかったが、こうなっては仕方ない。
渋々ながら、私は彼女達の要求を呑むことにした。軽く溜息を吐いて、興奮気味の彼女達に向けて言う。
「……わかった。行く、行きますよ」
「いやったーー!! それじゃあ、後で報告よろしくね! さて、心配事も片付いたし私達は仕事に戻るかー」
「じゃあ私らは帰るわ。椛、お疲れー」
「お疲れー……はあ」
この時ほど、他人の笑顔を憎く思ったことはない。できることなら、私だってそんなふうに笑っていたいよ。
がっくりと肩を落として、私は詰め所を後にした。
こうして、半ば友人達に無理矢理決められるような形で私は射命丸様の様子を見に行くことになったのだった。
気分が沈んでいたからだろうか。時折頬を撫でる秋の風が、この日はいつもよりも冷たいような気がした。
* * *
射命丸様の家は、白狼天狗の詰め所からそう遠くない場所にある。天狗の里などからもわりと近く、あちこち飛び回る彼女にはまさにうってつけの場所というわけだ。
その家の入り口に、私は今立っている。いると面倒だが、いなければいないで寂しい気がしてしまう私の天敵に真相を聞くために。
「射命丸様ー、いらっしゃいますかー」
軽くノックをした後、声をかける。けれども、すぐには反応が返ってこない。聞こえなかったのだろうと思いすぐにまた呼びかけたが、やはり玄関は開かない。それどころか、返事すら返ってくることはなかった。
さて、どうしたものか。
もしかしたら、留守なのかもしれない。記者を辞めるとすれば、彼女も色々と思うことがあるだろう。そんな時外に出て気分を変えたいと思っても不思議はないし、一般的な行動として十分に考えられる。
けれども、私には射命丸様が家にいるように思えて仕方なかった。
意地っ張りな彼女のことだから、記者を辞める理由なんて誰にも話したがらないだろう。そんな彼女が、気晴らしに家を出たりするはずがない。
自分の机に向かいながら、きっと射命丸様は一人でいる。いつしか、私の頭の中には彼女のそんな姿が浮かんでいた。
もしも射命丸様が一人でいたら、無理矢理にでも声をかけなければならない。
あの人が落ち込んだままなんて気持悪いし、それに仮にそんな状態だとしたら彼女を馬鹿にするまたとないチャンスだ。
これはもう、強硬手段しかない。
そう結論付けて、私は玄関に手をかけた。
音も無く戸を開け、射命丸様の姿を探す。
居間を通り、廊下に出る。
書斎で机に向かったまま俯いている射命丸様の姿を見つけたのは、それからすぐのことだった。
初めて見る、射命丸様の落ち込む姿。
普段の高飛車な様子とは違って、どこか儚げな雰囲気を纏っている。
見ているこちらまで切なくなってくるような彼女の姿に、私はたまらず声をかけた。
「落ち込むなんて、珍しいですね」
「……椛さん」
一瞬びくりと身を震わせた後、射命丸様は私を見てそう言った。
いつもとは違う、どこか寂しそうな瞳をした彼女は一瞬微笑を浮かべたかと思うと、すぐに普段どおりの口調で続ける。
「いったい何の用ですか? 無断で人の家に入った上こんなに奥まで来るだなんて、無礼にも程がありますね」
「返事すらしなかった射命丸様が悪いんです。それに、私だって好きでここまで来たわけじゃありませんよ。ただ……聞きたいことがあるんです。射命丸様、どうして」
「どうして記者を辞めることになったのか、ですか」
薄い笑みを浮かべた射命丸様の口から、そんな言葉が零れる。まるで私の心を見透かしているかのようなその言葉に、私は返事をすることができなかった。
それで満足したのか、彼女はうれしそうに微笑みつつ言ってくる。
「何故だと思います?」
「分からないからこうして来たんじゃないですか! ふざけないでくださいよ、まったく」
「あやや、相変わらず冗談の通じない人ですねえ。あなたも少しくらい息抜きしてみたらどうです? ほら、私のように」
「あなたの真似なんかしていたら哨戒任務が務まるわけないでしょう! もういい加減話してくださいよ」
「仕方のない子ですねえ……まあ、大した事ではないんですけどね。実は先日、愛用のカメラが故障してしまいまして」
「カメラが? そんなにひどい故障なんですか?」
「ええ、まあ。河童曰く、在庫切れの部品が必要だからいつ直せるか分からないんだそうです」
「そうだったんですか。だから、直る見込みがつくまで休刊になると。でも、他のカメラじゃ駄目なんですか?」
「駄目ではありませんが、あれは私の相棒ですからね。他のを使っても、おそらくいい写真は撮れないでしょう。写真がなければ記事もない、だから記者の仕事は休まざるを得ない、というわけです。……出来れば、こんなかっこ悪い話はしたくなかったんですけどね」
そう言って視線を落とした射命丸様は、普段の彼女とは別人だった。
自分勝手で傲慢な彼女が再び見せる、儚げな表情。それを見た瞬間、彼女がわざとふざけてみせた理由が分かった気がした。
射命丸様は、ただ悔しくて仕方なかったんだろう。大切な相棒であるカメラを故障させ、自らの誇りである新聞記者の仕事を休むという結果を引き起こしてしまった自身の不甲斐なさが。
普段の破天荒さに隠れてしまいがちだが、射命丸様の仕事に対する情熱は並大抵のものではない。一切の妥協を許さない取材、捏造と脚色の匙加減などそのスタイルは独特ではあるものの、新聞記者という仕事に彼女が懸ける想いは誰よりも強いのだ。
そんな彼女だからこそ、このような結果を招いた己の不注意を許せなかったのだと思う。普段はひねくれているくせに、どうしてこういうところだけ異常に真っ直ぐなんだろう。
「これで、いいですか」
不意に射命丸様が口を開いた。私の反応を待たずに、彼女は無機質な声色で続ける。
「用が終わったのなら帰ってください。私だって暇じゃないんですから」
「あ、あの、射命丸様」
「なんです?」
「ええと、その……」
「……帰ってください」
そう言って射命丸様は背を向けてしまう。慌てて何か言おうとするが、いい言葉が見つからない。
いまや、私の気持ちはたった一つに決まっている。
射命丸様を元気付けたい。何とかして、落ち込む彼女にいつもの調子を取り戻してほしい。いつものあの人は確かに憎たらしいけど、こんな顔を見るよりはましだ。
私の心は、いつしかそんな想いに満ちていた。
けれども、どうすればそんなことができるだろうか。
誰もが知るように、射命丸様はプライドが高い。それに、仕事に対する誇りまである。安易な言葉で、安直な行動で励まそうとしたところで、私の願いが叶うことはないだろう。
この人には、常道で挑んでも駄目なんだ。普通に声をかけたところで、彼女の心には届かない。うまく彼女の懐に入る方法を見つける必要があるけれど、いくら考えても私の固い頭ではどうする事もできない。
私では、落ち込む射命丸様の力になんてなれない。
ただの喧嘩相手だったはずの射命丸様。その位置づけがいつの間にか自分の中で変わりつつあるのにも気づかず、私は何も出来ない歯痒さから唇を噛み締めていた。
書斎のドアが勢いよく開いたのは、その直後だった。
「話は聞かせてもらったわ!!」
私も射命丸様もほぼ同時に振り返る。視線の先、部屋のドアにもたれかかり偉そうに腕を組んでいたのは、私達もよく知る若い烏天狗だった。
「はたて? なんでここに?」
「ちょっと文に用があってね」
「あんたはほんとに礼儀知らずね。普通挨拶もなしに他人の家に上がるかしら。まあ椛にも同じ事やられたけど」
「ちゃんと声かけたわよ! なのに全然反応ないから変だなーと思って入ってみたら、あんた達二人が話してるんだもの。真面目な感じだから割り込むわけにもいかず、今まで待ってたってわけ。ちゃんと呼んでから入ってるんだから、椛と同じく合法よ」
「ふうん、まあいいわ。それで、用って何よ」
射命丸様の問いかけに、はたてはわざとらしく咳払いをして間を空ける。胸を張った彼女は、誇らしげに口を開いた。
「ふふ、聞いて驚きなさい。あんたさ、私と一緒に新聞作る気ない?」
「は? 何言ってんのあんた、馬鹿じゃないの」
「ば、馬鹿とか言うな! 私は真剣に考えて」
「はいはい、あんたの戯言は聞き飽きたわよ」
「待ってください。もう少しはたての話を聞いてもいいんじゃないですか? ちゃんと考えた上での言動のようですし」
「そうだそうだ! ちゃんと話を聞け!」
「ったく……分かったわよ。聞いてあげるから早く言いなさい」
「じゃあ手っ取り早く話すわ。文、あんた今落ち込んでるでしょ?」
「は? この私が、どうして落ち込むのよ? そんなわけないでしょうが」
はたてがこのような事を言うなど、射命丸様は想像すらしていなかったのだろう。口調こそいつものままだったが、その表情は明らかに動揺していた。
はたてもそれに気づいていたようで、彼女は射命丸様に歩み寄りながら語気を強めていく。
「いいや、落ち込んでるね。あんたのライバルである私がそう感じるんだから間違いない」
「いや、意味わかんないし。だいたい私には落ち込む理由なんて」
「あるじゃないですか。射命丸様、本当は記者の仕事を休むことになったのが辛いんでしょう?」
「も、椛さんまで何を言うんですか。確かに記者を休むのは心苦しいですが、そんなことで落ち込んだりは」
「もう、いい加減強がるのやめなよ!」
はたての言葉で射命丸様が口を閉じる。
「私はさ、嫌なんだよ。あんたが辛い気持を一人で抱え込んでるのを見るのがね。たぶん、それは椛も同じだと思う。だからわざわざ文の家まで会いに来たんでしょ?」
「う、うん」
「ほらね文、あんたはこんなふうに少なくとも二人にこれだけ心配されてるわけよ。なのに一切頼ってくれないってのはずるいんじゃない?」
「……分かったわよ。じゃあ仮に、私が本当は仕事を休むのが辛くて、自分のせいでこうなってしまったのが悔しくて仕方ない、でも、いいえだからこそ誰にも話せなくて苦しんでいたとしましょう。それとさっきの馬鹿発言とはどう関係してくるわけ?」
「簡単よ。あんたに記者を続けてもらえばいいんだ。確かに写真は撮れないけど、取材したり記事を書いたりして雰囲気だけでも感じていれば休刊の時期も辛くないんじゃないかって思ったの。私も手伝ってもらえるし、一石二鳥でしょ?」
「……へえ。面白い考えね」
そう言うと、射命丸様は再び背を向けてしまった。
彼女でも駄目なのか。思ったことを素直に口に出すはたてでも、射命丸様の心には踏み込めないのだろうか。
はたてが口にした言葉は、紛れも無く彼女の本心だ。その真っ直ぐな想いさえ、射命丸様の心には届かないというのか。
再び打つ手のない状況に追い込まれた私は、きっと悲しそうな顔をしていただろう。
ちょうど目の前で俯いている、はたてのように。
「七十点」
不意に、射命丸様がそう口にする。驚いて顔を上げると、先程まで沈んだ雰囲気を纏っていたはずの彼女は普段どおりの不敵な笑みを浮かべていた。
意図が分からず唖然としたままの私達に半ば呆れたような表情をしつつ、射命丸様は続ける。
「はたてにしてはいい案だったと思うわ。正直、あんたを見直した。でもね、二人で新聞を作るのは勘弁だわ」
「な、なんでよ!」
「だって私達が組んだところで喧嘩するのが目に見えてるもの」
「そ、それは……」
「だから、第三者を挟む必要があるわ。ちょうどそこにいる椛さんのような人をね」
「わ、私ですか!?」
「ええ。記者以外の目線も大切ですし、適役だと思いますが」
そう言って射命丸様は私を見つめてくる。なんだかそれがくすぐったくて、私はつい視線を逸らした。
「ふ、二人が問題ないのなら、私は構いませんけど」
「当然、私は賛成です」
「私も賛成! 確かに文と二人だと面倒なことになりそうだし、椛がいてくれたほうが助かるもんね」
「決まりね。とりあえずは三人でやってみましょう。それじゃ、まずは何を取材するのか決めないと」
「何がいいかな。最近は面白いこともないし……椛は何かある?」
「ええと……普段あまり考えてないと思いつかないね」
「じゃあ、洋菓子店の実態調査なんてのはどう?」
「えっ」
「えっ」
射命丸様の言葉への反応が自然と共鳴する。
「そ、そういうところでよかったんですか?」
「ええ。ほら、里に新しく出来たお店があるじゃないですか。いつも行列が出来ていたから気になってたんですよね」
「ま、まあ、気になる店ではあるわね」
「確かに。でも、今からでは遅くないでしょうか? あのくらい人気だと今頃はケーキがなくなってるかもしれませんよ」
「そうかもしれませんね。ですが、人気振りが伝わりますしそれもいいでしょう」
「よし、じゃあ早速行くとしようか! しゅっぱーつ!!」
そう言ってはたては元気よくドアを開けると、行進でも始めるかのように意気揚々と歩き出した。きっと、射命丸様の表情から影が消えたことを素直に喜んでいたのだろう。自然と口元が緩んでしまっている、今の私と同じように。
「……羨ましいなあ、ああいう性格」
射命丸様がそう呟いたように聞こえた気がして振り返ったが、机の側にいたはずの彼女は既に私の隣にいた。私の素振りを滑稽に思ったのだろうか、彼女は意地悪な笑みを浮かべて言う。
「これだからのんびり椛さんは困ります。呆けてないで、行きますよ」
「わ、分かってますよ! それに、のんびりとは何ですか、のんびりとは!」
「きこえないきこえなーい」
私の言葉を適当に誤魔化して、射命丸様は書斎を出て行く。
その後姿はどこかうれしそうで、先程までの憂鬱そうな印象は全く感じられない。
それがうれしくて、彼女の後を行く私も自然と笑みを浮かべてしまっていた。
* * *
天狗の里は、白狼天狗の詰め所のある大瀑布から少し山を登ったところにある。
様々な物を取り扱う商店が軒を連ねるその一帯は、妖怪の山で一番の繁華街と言えるだろう。
射命丸様が提案した洋菓子店は、その中でもつい最近オープンしたばかりの店だ。
「里にケーキ屋さんがないのはおかしい! これは乙女に対する犯罪です!」
ある日里を訪れてそう叫んだ風祝の全面協力により作られたこの店は、外見こそ彼女のセンスのお蔭で浮いているものの味は確かなようで、リピーターも含め連日の賑わいを見せている。
私達がそこに着いた頃には、既に陽が傾き始めていた。人気の店だから満席も覚悟したほうがいいか、などと思っていたが、時間が遅いためか店の中に客の姿は見当たらない。
「ああ、やっぱり空いている時間帯はあるんですね」
「なるほど、この時間帯が狙い目ですか」
「よし! じゃあ早速行こうか!」
そう言ってはたては店に入っていく。それに続いて私達も進む。
中に入ると、ふんわりとした甘い香りが私達を迎えた。
「わあ、いい匂い! 楽しみですね」
「子供みたいな反応しないでくださいよ、仔犬の椛ちゃん」
「は? はしゃいで何が悪いんですか性悪鴉様」
「へえ、いい度胸じゃないですか」
「はいはい喧嘩しない! ていうか、間に入るはずの椛が喧嘩してどうすんのさ!」
「ちぇっ」
「ふんっ」
はたてに制されて仕方なく黙った私達は、彼女を先頭にしてケーキの並ぶウインドウに進む。
そこには数多くの、色とりどりのスイーツが所狭しと並べられている……はずだった。
「えっ!? あ、あの、これだけ?」
一番張り切っていたはたてが思わず店員にそう訊ねる。
無理もない。かなり広いウインドウには、たった一種類のケーキしか置いてなかったのだから。
困ったように眉を寄せた店員が頭を下げつつそれに答える。
「申し訳ありません。主だったものは既に売切れてしまいまして……ご好評をいただいているのは私共としましても大変ありがたいのですが、作業が追いつかず作るほうが間に合わないというのが現状なんです」
「あの、今日はもう他のケーキは作らないんですか?」
「生憎、材料が切れてしまったんです。そうなると、どうしてもシンプルなショートケーキしか作れないので……」
「まあ、時間も遅かったし仕方ないですね。それじゃあそれを三ついただけますか?」
「かしこまりました。本当に申し訳ありません。ケーキはお席までお持ちしますので、お好きな所へどうぞ」
そう言ってまた深く頭を下げた後、店員はウインドウにあるケーキを取り出し始める。いつの間にか取材用の笑顔を貼り付けていた射命丸様が先頭になり、私達はすぐ隣のスペースへと移動した。
「どこにする?」
「別に、どこでもいいよ」
はたては溜息を吐きつつそう言う。どうやらケーキが思いのほか少なかったのが相当効いているようだ。どこか幼さの残る彼女のそんな態度がおかしくて、つい笑みを零してしまう。
そうこうしているうちに、辺りを見回していた射命丸様がある席の前に歩き始めた。どうやらお目当ての場所が決まったようだ。
「じゃあ、ここにしましょう」
そう言って射命丸様が座ったのは窓際の席だった。西洋風の小物で飾られた窓からは外を歩く人々の姿がよく見える。この人は、本当に何かを見ているのが好きらしい。
「文はほんと外見るの好きだよねー」
「だって面白いじゃない。色々な人がいて楽しいわよ?」
「それもいいですが、周りの店から漏れてくる明かりも綺麗ですね。ぼんやりとしてて、なんだか不思議な感じがします」
「おお、そこに目がいくとはやりますね! さすが椛さん、賢いワンちゃんだこと」
「今のは聞き流してあげます」
「さすが椛さん、賢いワンちゃ」
「やめんか!」
「いや、大事なことなので」
「わざわざ火種作るな! ていうかさっきからなんで私が間に立ってんのよ!?」
「え、はたてが進んでそういうポジションになったんじゃないの?」
「いや違うし」
「さすがはたて、我が宿敵よ」
「なんか私の求めてるのとは違う気がする……」
「お待たせいたしました」
はたてが頬を引き攣らせたところで、店員がケーキを運んできた。
はたてに向けていた人を馬鹿にしたような表情を一瞬にして営業スマイルに張り替えた射命丸様が、その胡散臭い笑顔で彼女を迎える。
「ありがとうございます。わざわざすみませんね」
「いえ、お気になさらないでください。それでは、ごゆっくりどうぞ」
微笑みながらそう言うと、店員はどこかうれしそうに店のほうへ帰っていった。もしかしたら、彼女も射命丸様に毒された一人なのかもしれない。
そんな事を考えていると、素に戻った射命丸様が私達を見ながら言ってきた。
「じゃあ早速いただきましょうか」
「そうですね。ふふ、楽しみだなあ」
「では、いただきまーす」
おもむろにフォークを取り、目の前のケーキにそっと切れ目を入れる。
ふんわりとしたクリームに、しっとりとしたスポンジ。たまらず口に入れると、優しい甘みとともに豊かな風味が口いっぱいに広がった。
「おいしい……」
三人の口からは、自然と言葉が漏れていた。その途端、少し元気をなくしていたはずのはたてが突然叫びだす。
「おいしい! これ、すごくおいしいよ!」
「うん! なんていうか、優しい甘みがすごく心地いいよね」
「その後に広がる豊かな風味も素晴らしいわね。やっぱりケーキはシンプルなものに限るってことかしら」
「そうかもね。ああ、でもこれ食べたら他のも食べたくなっちゃったよ。きっとどれもおいしいんだろうなあ」
「じゃあ、また今度来ようか? 三人一緒なのも楽しいしね」
「ええ、構いませんよ。私も楽しみです」
「あれ、文が素直にそんな事言うなんて珍しいじゃん」
「だって三人一緒なら椛さんをからかえる上にはたてがあたふたする姿まで拝めるのよ? 面白い事この上ないじゃない」
そう言ってうれしそうに微笑む射命丸様。
普段ならばきっと腹が立っていただろうけど、この時は何故かその微笑がとてもうれしかった。
それからどのくらい話していただろうか。洋菓子店の閉店時間ぎりぎりまで粘っていたから、店に入ってからはだいたい二時間ほど経っていたんだと思う。ともかく、私達が洋菓子店を後にしたのは辺りが暗くなってからのことだった。
店に入る時は沈みかけていた夕日も、今はすっかり沈んでしまっている。店から漏れる明かりがその暗さをいっそう際立てて、より幻想的な風景に見える。
「いや、随分遅くなっちゃったわね」
里の大通りを歩きながら、射命丸様がそう口にする。
「ほんとだね。まあ楽しかったからいいんだけどさ」
「そうだね。でも、今度来る時はもっと早く来ないと」
「うんうん。出来れば午前中、いや朝かな」
「今度は他のを食べたいし、並ぶのも覚悟しないとね。ああ、それにしても今日は楽しかったわ。二人とも、ありがとう」
射命丸様が何気なくそう言ったのに驚いて、私とはたては固まってしまった。
その反応が納得いかなかったのだろうか、不服そうな顔で射命丸様が訊いてくる。
「な、なんでそうあからさまに驚くのよ」
「い、いや、文が素直に感謝するなんて初めてだったからさ」
「確かに、まるで射命丸様じゃないみたいだよね。偽者なんじゃないですか?」
「あんた達ね……私だって、素直にお礼を言いたい時くらいあるのよ。あんた達が来る前、私は本当に落ち込んでいた。二人が来てくれなかったら、たぶん今も私は書斎で一人泣くことしか出来なかったでしょうね。……要するに、それだけ二人の想いに助けられたってことよ」
そう言うと、射命丸様は恥ずかしそうに視線を外した。それを見て、思わずはたてと一緒に笑い出す。
「あっははは!! ありえない、こんなの文じゃないよ、あはは!!」
「ほんとほんと! こんな素直な射命丸様気味が悪いよ!!」
「や、やめろ、笑うな! ったく、これだから本音で話すのは嫌なのよ」
そう言って頬を染める射命丸様。普段見せない彼女のそんな姿を見て、私は自然と笑顔になっていた。
なんだか、今までいちいち射命丸様に腹を立てていたのが馬鹿らしくなってくる。今まで散々ストレスを生み出してきた彼女の傲慢さや自分勝手な振る舞いが、実は彼女の不器用さや真っ直ぐ過ぎる心からくるものだったのだから。
自分に嘘を吐けないから無理を押し通し、その結果誰かに迷惑をかけてしまう。そのくせ不器用だから謝ることもできないため、その相手には嫌な印象しか残らない。
結局は、周りにいる私達の取り方次第だったのだ。彼女の振る舞いを傲慢だと考えれば悪い印象にしかならないが、不器用さからくるものだと取れば許容するのは容易だ。場合によっては、それが彼女の個性だと捉えることだってできる。
これまでの私は前者。けれど、これからは後者だ。
ずっと手詰まりだったジグソーパズルがふとしたきっかけで一気に埋まっていくような、清々しい感覚。
そんな不思議な気持ちに満たされて、私は笑みを浮かべていた。
何とはなしに、隣を見てみる。
すっかり元気を取り戻した射命丸様は、相変わらずはたてとギャーギャーやっている。どうやら、この人は誰かをからかわずにはいられないらしい。
二人の姿がなんだかおかしくて、私はつい声を出して笑ってしまった。それに気づいたのだろう、少し不機嫌そうな表情で射命丸様が言ってくる。
「なによ椛、一人で笑ってるなんて。頭大丈夫?」
「ふふ、うれしいんですよ。射命丸様が元気になってくれたのが」
「なっ!?」
照れてしまったのか、射命丸様は一瞬固まっていた。どうやら、彼女の挑発的な発言をかいくぐった先にはこういう可愛らしい反応が待っているようだ。
「何言ってるんだか。うれしいだなんて意味わかんないし」
「でも、いつもの文に戻ってくれたのは私もうれしいよ」
「はたてまで……調子狂うなあ、まったく」
いつもと違う射命丸様を見て、はたてと一緒になって微笑む。
そうしているうちに、ある違和感に気がついた。
「あっ」
「何、どうかした?」
「ううん、ただ……射命丸様が私のこと、椛って呼ぶの初めてだなあって」
「ああ、確かに前はさん付けだったね。文、どういう心境の変化なのよ?」
「別に。ただ、椛をからかうだけの相手にしておくのはもったいないと思っただけよ」
そう言って射命丸様は視線を外す。
以前は射命丸様の意図がわからないことのほうが多かったが、今の状態の彼女ならば逆にわからないほうがおかしい。
私のことを認めてくれたのなら、私ももう射命丸様なんて呼んでいられないかな。
そんなことを考えつつ、笑みを零す。
今日は本当に楽しかった。きっと、二人も心からそう思っていたのだろう。
夜の大通りを行く私達三人は皆、幸せそうに微笑んでいたから。
* * *
それから一週間後の朝、私達は再び洋菓子店を訪れていた。
やっと戻ってきた、文様の相棒と一緒に。
「ふう、なんとか座れた。すごい人だったね」
「うん、まさかこんなに混んでるとは思ってなかったよ。でも、それぞれお気に入りを頼めたわけだしよかったじゃん」
「ええ、早く来た甲斐があるってもんね。誰かさんが寝坊なんてするから一時はどうなることかと思ったわ」
「いやいや、寝坊したのは文様でしょう。まったく、新聞記者が聞いて呆れますよ」
「ふん、尻尾振って働くワンちゃんと違って記者は忙しいのよ」
「狼だって言ってるでしょうが! それに、はたては寝坊せずに来ましたけど?」
「う、それは……あれよ、はたてが未熟だからよ」
「は? 意味わかんないんだけど」
「一流の新聞記者は、寝る間も惜しんで自分の作品に情熱を注ぐ。たとえそのせいで日常生活に支障をきたしても、それは仕方のないことだと諦めてね。つまり、はたてはまだその域にまで達していないというわけ」
「文様、それ大分苦しいですよ」
「一流だったらその情熱と日常生活を両立するんじゃない? それが出来ないってことはつまり、文が二流だってことじゃないの?」
「そこに気づくとは……やはり天才か」
「はたてェ……ってやかましいわ! なに言わせんのよ!」
「お待たせいたしました」
店員の空気の読みっぷりが今日も素晴らしい。白熱しすぎた場を落ち着かせてくれるのは本当にありがたい。
「秋のフルーツタルトにモンブラン、そしてこちらが栗のトルテになります。それでは、ごゆっくりどうぞ」
店員が目の前に置いたケーキを、私達は食い入るように見つめていた。見ている余裕がなかったので確認はしていないが、きっと三人ともうっとりとした表情を浮かべていたと思う。
「じ、じゃあ早速食べようか」
「そうだね。では、いただきます」
「……うーん、おいしい」
「ねえねえ、せっかくだし少しずつ交換しない?」
「いいね、他のも食べてみたいし!」
「しょうがないわね……はい」
「いただきます……あ、トルテっておいしいんですね! 今度頼んでみようかな」
「タルトも安定しておいしいわね。そういう点ではモンブランも期待を裏切らないけど」
「ふふ、物事は全て温故知新だよ。もちろんケーキもね。まあ、知らないものを試すのもいいけど」
「要するに、ケーキはおいしいってことだね」
「まあ、そうね。椛の単純さがよく出ていていいわね、その結論」
「ええ、私は文様のようにひねくれてませんからね」
そんな事を話しつつ、目の前のケーキに舌鼓を打つ。
気心の知れた三人で過ごす、温かい時間。
言い合いになったりもするけれど、それはそれで楽しいと思えてしまうような、不思議な空間。
こんな関係が、これからもずっと続くといいな。
そんなことを考えながら、私は微笑んでいた。
窓の外では、相変わらず風が踊っている。
いつもは少し寂しげな秋の風景が、なんだかこの日は温かくて優しいもののように感じられた。
ただ最初は仲が良くない設定のはずなのに椛が心の声でも文を様付けで読んでるのにちょっと違和感を感じました。