大地に寝転がり、空を仰ぐ。
青い空に、真っ白な入道雲がべったりと張り付いている。
今日は風が吹かない日のようだ。
遮るものも無く、一年で最も強烈な日差しが燦燦と降り注ぐ。
日差しに熱せられた空気が動く事も無く、澱んで陽炎を生む。
まるで、釜で焼かれているよう。
地底の異変を思い出す。
あの鴉と戦った時も、確かこんな感じだったか。
じりじり、じりじり。
肌を焼かれているのがよく分かる。
このまま日焼けしたら、きっとパンダになってしまう。
日向ぼっこと洒落込むにも、熱すぎて全然楽しくない。
今日は早く帰って、沐浴して、風鈴を出して、神社でだらだらするに限る。
でも、暑すぎてここから動く気も起きない
ああ、熱い。
もう動きたくない。帰る事すら面倒くさい。
まとまらない思考のまま肌を焼いていると、幽かな花の香をまとい、モンスターが姿を現す。
「いつまで寝てるのかしら? そんなところにいると、踏んでしまうわよ」
傘で陽を遮り、幽香が見下ろしてくる。
急に出来た日陰に目が慣れず、幽香の表情を知る事は出来ない。
きっと、不遜な表情をしているに違いない。
今の構図は、まさに勝者と負け犬といったところだろうか。
畜生。
この暑ささえなければ、叩きのめしてやるものを。
影を睨みながら、顔の見えない相手に言葉を返す。
「これだけずたぼろにしておいて、まだ物足りないって言うの?」
挨拶代わりの弾幕戦。
会釈をする間も無く、目が合った瞬間に弾幕を撃ち込んで来た。
こっちはただ花を見に来ただけだというのに、大層なもてなしだ。
制止の言葉にも耳を貸さないので、適当に相手していたら反撃の糸口も掴めず撃ち落とされた。
おかげでこの有様。この服は燃えるごみね。
暑さのせいで調子が出なかったし、地の利も取られてたから仕方ない。
もう少し涼しくなったら、三倍返しにしてやるから覚えてなさいよ。
幽香の顔がある辺りを睨みつける。
すると気のせいか、人影が微笑んだような気がした。
嫌な気配がしたので、すかさず上半身を起こす。
……。
巫女の勘は伊達ではない。
さっきまで私の顔があった場所を、幽香が踏みつけていた。
「正直、物足りないのよねえ。いくら暑いと言っても、弾幕ごっこくらいやる気出しなさいよ。
あなた、仮にも博麗の巫女なんでしょ?」
仮にも、は余計だけど。
幽香がしゃがんで、互いの目の高さが同じくらいになる。
傘の影に入り、幾分夏の日差しが和らぐ。
ようやく暗さに目が慣れてきた。
幽香は遊び足りない子供のような顔をしている。
元気が有り余ってるというか、そんなに暇なのか。
夏の暑さにやられて、テンションが上がってるの?
「異変でもないのに、そうそうやる気なんて出ないわよ」
「異変の時だって、大してやる気ないくせに」
ご尤も。
でも、一応解決してるんだからいいじゃないの。
そんなに退治されたいなら、もっと過ごしやすくなってからいくらでも退治してやるわよ。
狭い傘の下、幽香が一層顔を近づけて聞いてくる。
なんでそんなににこにこしてるよ。
「それで、今日は何しに来たの?」
「なにって、私は付き添いよ。あの子に聞きなさいよ」
「花を見に来たんじゃないの?」
「まあ、花も見てくけど」
「今だと幻想郷で一番美しい花畑が見れるわよ」
「うん」
「ふふ」
幽香が頭を撫でてくる。
姉のような、とでも言えばいいのだろうか。
そんな感じの優しい笑みを浮かべている。
花のこととなると、人が変わったように親切になるんだから。
さんざん痛めつけてくれたくせに、この変わりようと来たら。
攻撃的なところが無くなってくれれば、もう少し頻繁に訪ねてきてもいいんだけど。
花の美しさに見とれて、棘があることを忘れると痛い目に遭う。
紫とはまた違った意味で、厄介な妖怪だ。
「ついでに、私に会いに来てくれたのかしら?」
「まあ、それも少しは期待してたけど。いきなり弾幕ごっこをする羽目になるとは思わなかったわよ」
「ここでは挨拶みたいなものじゃない。発案者が何を言ってるのよ」
「それはまあ、そうなんだけどさあ」
「ほら、そろそろ立てるでしょ。私の自慢の庭に招待するわ」
「ありがと」
幽香が差し出した手を取り、立ち上がる。
服がぼろぼろなのは仕方ない。後で着るものを借りるとしよう。それまで少しの我慢。
幽香が私の手を握ったまま歩き出す。
引っ張られるように、遅れて私も歩き出す。
「ちょっと、まさか手を繋いで歩くの?」
「駄目かしら?」
「駄目っていうか、その……」
「私の傘もそんなに大きくないんだから、ちゃんと近くにいないと影に入れないわよ」
「むう」
この強烈な日差しを浴び続けるのは確かに辛い。
手を振りほどかなければならない程の理由も見当たらなかったので、仕方無しに幽香と手を繋いだまま、傘に隠れるように歩いていく。
こんなところをブン屋に見つかりたくないし。
そうじゃなくても、あんまり見てほしいものではない。
繋いだ手がじんわりと汗ばむ。
幽香が私の緊張を見透かして、「相合傘ね」などと言って冷やかしてくる。
本当、性質が悪い。
指を絡ませてくるな、馬鹿。
幽香の顔を見ることも出来ず、しばらく俯きがちに歩いていると、唐突に幽香が立ち止まる。
何事かと顔を上げると、楽しそうに笑う幽香の顔が目に飛び込んでくる。
そして、私のおでこにキスをしてくる。
私が恥ずかしがる暇もなく、手を繋いだまま私から一歩離れて、勢いよく傘を空に放り投げる。
大げさに手を振り、翳り一つ無い完璧な笑顔で、こう叫ぶ。
「太陽の畑へようこそ! 歓迎するわ、霊夢」
その声と同時に、突然目の前に広がる、向日葵の鮮やかな黄色。
そのあまりの眩しさに、目が眩んでしまう。
目の前には向日葵畑を割いて続く一本の道。
右を見ても、左を見ても、視界を埋め尽くさんばかりの向日葵の群れ。
地の果てまで、際限なく向日葵畑が続いていると勘違いしてしまいそうだ。
いきなり目の前に現れた向日葵畑に、心奪われる。
幽香の能力で一気に咲かせたのだろうか?
いや、違う。
私が今の今まで、太陽の畑にいることに気がつかなかっただけだ。
傘で目隠しをして、私がきょろきょろしないようにわざと手を繋いで歩いたのだ。
要するに、ここまで全て幽香の計画通り。
まんまとしてやられたわけだ。
幽香の方を見る。
私の驚いた顔を見て、とても満足そうに微笑んでいる。
さっきの弾幕ごっこに続き、またしても幽香に大敗を喫してしまったわけだ。
悔しいけど、でもそれ以上に感動している。
興奮に任せ、幽香に抱きつく。
幽香も向日葵も、どちらもとっても素敵。
「感動してくれた?」
「うん、とっても綺麗」
自慢げな幽香に、弾んだ声で応える。
恥ずかしさなど、どこかに吹き飛んでしまった。
「それじゃ、向日葵畑を歩いて私の家に行きましょうか」
「うん」
幽香の傘はどこかに消えてしまった。
でも、日差しももう気にならない。
向日葵と同じ陽を浴びるのが誇らしいくらいだ。
幽香と手を繋いで、残りの道を歩いていく。
恥ずかしさなんて、とっくに吹き飛んでしまった。
むしろ見せ付けてやりたいくらいだわ。
・・・
向日葵畑を通って幽香の家に着くと、そこで阿求に出迎えられた。
そうだ、そういえばこの娘の付き添いでここまで来たんだった。
幽香に絡まれてからほったらかしにしてたけど、どうやら無事だったみたいね。
幽香の縄張りで無茶をする妖怪は、流石にいないか。
せいぜいが陽気な妖精くらいか。
「お帰りなさい。アイスティーを淹れておいたので、中でお茶にしませんか?」
「それもいいけど、霊夢は先にお風呂に入るといいわ。着替えも貸してあげるから」
「そうね。お茶はその後にするわ」
「あれ、霊夢さん?」
「お風呂はあっちよ。あるのは好きに使っていいわ」
「ありがと」
幽香からタオルと着替えを受け取り、お風呂場へと向かう。
阿求がなんとも言いがたい表情で見てきた気がするけど、気が付かなかったことにしよう。
幽香もそんなに無茶はしないだろうし、何より汗でべたついて気持ち悪い。
服もぼろぼろ。こんな状態でお茶なんて楽しめない。
ばいばい阿求。また会えるといいわね。
☆
日陰に入り、腰を下ろして人心地付く。
向日葵畑は確かに見事だけど、この炎天下でいつまでも眺めているのは辛いものがある。
日傘でもあれば随分違うのでしょうけど、虚弱な私はここらで一休み。
涼しい場所で見世物を見物させてもらうとしましょうか。
向日葵畑から顔を上げ、空を彩る弾幕に目を向ける。
一緒に来た霊夢さんは、この暑い中弾幕ごっこに励んでいる。ご苦労な事です。
近くに私がいたというのに、いきなり弾幕ごっこを始める幽香さんの気が知れません。
幸いにも一発も当たる事は無く、こうして生き永らえることが出来ましたけど。
もしものことがあったら、どう責任を取るつもりだったのでしょうか。
滲む汗を拭き、少し服を緩めてばたばたと風を送る。
日陰のここですらこんなに暑いのです。
日を浴びながら弾幕ごっこをしているお二人の気が知れません。
私は一足先に幽香さんの家の中で涼ませてもらいましょう。
お二人の弾幕戦はもう十分堪能しました。
というより、これ以上見ていても仕方ありませんし。
霊夢さんは本調子じゃない様で動きに精彩を欠いてます。十中八九幽香さんの勝ちでしょうね。
ほら、またピチュった。
あらあら。やっぱり幽香さんを退治した事があるというのはデマだったんですね。
分かりきってましたけど。
それにしても、幽香さんは実に楽しそうですね。
なんであれほど元気なのか理解出来かねます。
実に楽しそうに霊夢さんを嬲ってます。
そんなことをしているから、危険度極高・人間友好度最悪なんて書かれちゃうんですよ。
そしてそれを信じる人も出てくるんです。
幽香さんが怖がられてるのは、私のせいだけじゃないですって。
弾幕ごっこの観戦に見切りをつけ、幽香さんのお宅へと足を運ぶ。
幸いにも鍵は開いていたので、遠慮せずに家の中へと入る。
お邪魔しますと一応言っては見たものの、やはり誰も居ないようですね。好都合です。
玄関から内装を一望してみる。
家の中と外ではまるで別世界。
天窓からは夏の柔らかい日差しが降り注ぎ、眩しくないよう適度に葉で陰が作られている。
あちこちに種々雑多な夏の花が咲き誇り、見事にガーデニングされています。
魔法でも使っているのか、外よりも遥かに涼しい。
歩くたびに新しい花が現れ、違った香りに包まれる。
大きめの窓から覗く景色は、向日葵の黄色と、広く青い空が素敵なコントラストを描いている。
普段は住所不定の根無し草のくせに、夏になるとここに入り浸っている理由が分かる気がします。
ここはとても素晴らしい。
花の妖怪だから、どうすれば花が一番美しく見えるのか知っているのでしょうね。
これだけのセンスがあれば、花屋でも開けばあっという間に繁盛してしまいそうな気がします。
怖がって誰も来ないかもしれませんけど。
さて、各部屋も一通り見終わりました。そろそろお茶の準備でもしましょうか。
下手に家捜ししてる所を見つかっても大変ですし。
私なら一目見れば写真のようにばっちり記憶できます。
後で思い出して、花道の参考にでもさせてもらいましょう。
他に何かおもしろいものでも見つかれば儲けものですけどね。
お湯を沸かしている間に、キッチンを漁って必要なものを揃え終わりました。
来客用のティーセットまであるとは、幽香さん完璧ですね。
一体誰を連れ込むつもりだったのでしょう?
それはそうと、こちらのやたらと高価そうなペアのティーカップは誰と使うつもりなんでしょうね。
やけに使い込んでますけど、これは一体。
ポットから湯気が沸き立つのを横目に、紅茶の缶を開け、香気を確かめる。
あら、随分といい香りが。相当上質なのを使っているようですね。
私が普段飲んでいるものよりも良いものかもしれません。
あとで分けてもらえないか聞いてみましょう。
その辺で売っているのならば私も楽なのですが。
人里でも香霖堂でも、これ程のものは見たことが無いです。
まさか、紅魔館産……?
おっと、床下にくーらーぼっくすなるものを発見。
氷精でも監禁されてないか期待したのですが、中身はただの氷でした。残念です。
符のようなものが貼られ、これで温度を管理しているみたいですね。
何気に魔女と交流があるんでしょうか? いや、多分強奪でもしたんでしょう。きっとそうですよ。
魔理沙さんも可愛そうに。いや、アリスさん? まさかパチュリーさんなんてことも。
ともあれ、丁度いいですし、これでアイスティーでも作りましょうか。
紅茶の抽出時間はもう少し長めにしましょう。
さて、また少し暇になりましたね。
家捜しを再開しましょうか。
お二人がようやく帰ってきました。
幽香さんはほぼ無傷で、ほとんど汗をかいていません。
対する霊夢さんは、額に汗を浮かべ、まさにボロ雑巾のよう。
よくもまあここまで。
でも、霊夢さんの機嫌が良さそうなのは何故なのでしょう。
私の見てない間に何かあったんですかね?
あ、霊夢さんがお風呂に行ってしまいました。
何のためのボディーガードなのか。
相変わらず仕事をしませんね。
でも、ここまで送ってもらえただけありがたいですかね。
目の前の大妖怪は、一応は紳士的ですし。
そこまで危険は無いでしょう。多分。
・・・
霊夢さんを見送った後、幽香さんに紅茶を供する。
お茶請けはありませんけど、構いませんよね。
「随分と珍しい組合せね」
「人里で見かけたので誘ってみたんです。面倒くさそうでしたけど、意外と乗り気で助かりました」
幽香さんが座っている丸テーブル、それの幽香さんと対面になる席に座る。
一対一で話すのなら、互いの顔が見えるこの位置がいいでしょう。
幽香さんとの距離は1m弱。
大丈夫とは思いますが、念のため手の届く範囲からは離れておきたいですし。
「嫌われたものね」
「そういう意味では無いんですけど、万が一何かあったら困りますし」
「何もしないから安心なさい」
「そう言われて安心する人なんていませんよ」
幽香さんはつまらなそうに溜息を吐いてから、紅茶を口にする。
表情から察するに、紅茶の味には満足していただけたようだ。
「それで、今日は何をしにきたの?」
グラスを置き、幽香さんが私を品定めをするかのように視線を這わす。
まるで、私を楽しませないと食べてしまうぞ、と言わんばかり。
何もしないと言った矢先にこんな態度なんですから、やれやれですね。
あ、今、蛇の絵が浮かびました。
獲物を前にしてちらちら舌を出してるやつ。
今の幽香さんもちょうどそんな感じです。
「何って、向日葵を見に来ただけですけど」
「それだけ?」
「それだけです」
「他に大事な用事があったんじゃないの?」
「何も無いですよ。全て世は事も無し、です」
「ふぅん」
舐めるように私に視線を這わせてから、幽香さんが頬杖をついて前のめりになる。
二人の距離が若干縮まったことで、私の体が少し強張ってしまう。
その反応を見て、幽香さんが満足そうに口の端を歪ませる。
蛇そっくりの執拗さ。
とても厄介な手合いです。
「それなりの付き合いだもの。私が何を言いたいか分かってるわよね」
「ええ。でも駄目ですよ」
「まだ何も言ってないじゃない」
「幻想郷縁起の幽香さんの項目。人間友好度と危険度を書き直して欲しいんですよね?」
「正解。いい加減この問答も飽きてきたし、そろそろ諦めてはくれないかしら?」
「もっと悪し様に書いて欲しいだなんて、幽香さんも物好きですね」
「その綺麗な指を、一本一本へし折られたいのかしら?」
微笑んだまま、何かを連想させるかのように指をぱちん、ぱちんと鳴らす。
その笑顔がゾッとする程に美しい。
強者は大抵笑顔ですが、強者の笑顔ほど恐ろしいものもあまり無いですよね。
並の者ならばこれだけで泣きを入れてしまうところですけど……。
今日は霊夢さんという保険もありますし、そもそもこれはただの交渉ゲーム。
お遊びです。
余程のことがあったとしても、幽香さんは脅しを実行に移したりはしないでしょう。
そうとは分かっていても、最初の頃は身が竦んでしまいましたけどね。
幾多の経験を積み、今ではこの程度の脅しには屈しなくなってしまいました。
私がここまで図太くなれたのも、風見幽香様様です。
そこまでありがたくもないですけど。
「指が折れては筆が持てません」
「折るのは左手だけにしてあげるわ」
「墨が磨れなくなります」
「墨くらい私が用意してあげるわよ」
全く持って口の減らない。
ここははっきりとNOを突きつけましょうかね。
「熟慮の末、ああいう記載に決定したんです。カフェーで暇潰しに読む、書き殴っただけの新聞とは違うんですから。
だから、私の代の幻想郷縁起はあれで完全版です。どう言われようと、書き直しはありません」
「けち」
唇を尖らせて、あっさりと引き下がる。
最初の頃はぶーぶー文句を言ったり強引な手を使ったりしてきましたけど、今では半分諦めてるみたいです。
幻想郷縁起に関する押し問答は、もはや形だけの挨拶のおまけみたいなもの。
会話のきっかけとして、天気の話をするのに近いですね。
それでもしつこくこの話題を掘り返すのは、やはり幾許かは期待しているのと、単に幽香さんが暇だからでしょう。
こちらとしては、幽香さんのような大物と話をするのはいい娯楽となっていますし。
時折持ってくる袖の下の花々がとても綺麗で、日持ちがするのでとってもありがたいのです。
恩に着たり、心苦しく思ったりは全くありません。
だから、書き直す必要も全くありはしないのです。
そんなことを思っていると、
パァアンッ!!!
突然、炸裂音が鳴り響く。
耳を劈く轟音。
とまではいかないが、音の衝撃で周囲の花が揺れる程度には大きな音であった。
あまりに唐突だったのと、そのボリュームに呆気にとられる。
豆鉄砲を食らった鳩のように、目を見開いて体が固まってしまう。
一体なにが……。
「驚いてくれた?」
突き出した手を合わせて、幽香さんがおかしそうに笑っている。
それを見て、すぐに何が起こったか理解する。
種を明かせば何てことは無い。ただ、幽香さんが手を叩いただけ。
俗に言う猫騙し。
いや、これだったら熊ですら恐れをなして逃げていきますって……。
「え、ええ。それはもう」
別に余所見をしていたわけではない。速過ぎて動きが見えなかったのだ。
ただの猫騙しでも、幽香さんがやるとこれ程の破壊力を持つ。
妖怪の中でも最高クラスの身体能力を持つ幽香さんだから出来る離れ業だ。
「そう。それは良かった」
幽香さんは手で口元を隠し、実に楽しそうに微笑んでいる。
その様子を見てるとなんだか無性に悔しくて、つい眉間に皺がよってしまう。
それがばれないように、手を額に持ってきて前髪を直す振りをする。
実際、前髪が乱れたのだからさほど不自然ではないはずです。
それでも、幽香さんは全部見透かしてそうですけど。
全く以って腹立たしい限りです。
「いい加減やめてもらえませんか。この悪戯、心臓に悪いです」
たまーに。本当に極稀に、この猫騙しで私を驚かせてくる。
こちらが慣れてしまわないように、本当にたまにしかやらないけど。
私が気を抜いている時や、忘れてしまった頃を見計らって仕掛けてくるからさらに性質が悪い。
御阿礼の子は体が弱いのだ。
こんなことをしていては、いつか本当にショック死してしまいかねない。
ただでさえ短い寿命、これ以上短くするなんて絶対にご免です。
「嫌よ。あなたの驚いた顔、面白いんだもの」
幽香さんの玩具を見るような態度がますます腹立たしい。
これ以上続けるようなら、もっと酷い事書いちゃいますよ!
「貴女があんなことを書いたせいでストレスが溜まってるのよ。このくらいの仕返しはいいじゃない」
幽香さんは決して私に手を出さない。
いや、こういう悪戯や嫌がらせはしょっちゅうしてくるんですけど。
私を傷つけたり、何かを壊したりということは絶対にしない。
むしろ、私が困っているときは助けて恩を売ってくるくらいだ。
北風と太陽の童話を知っているのかもしれません。
仮に私に手を出せば、幽香さんは危険な妖怪だという証明になり、人里に近付く事すら出来なくなるかもしれません。
幻想郷縁起の記載を変更するのは、変更するに足る根拠を示し、互いの同意の上でなければ意味が無い。
そのくらいのことに頭を働かせ、自制するだけの思慮分別はあるようです。
まあ、だからこそ搦め手を使ってきて厄介極まりないという話もあるのですけど。
あるいは、そういったことは全然考えてなくて。
面白そうな玩具があるから、これが死ぬまでちょっかい出して遊び倒してやろう。とか考えてるのかもしれませんけどね。
いや、それが本当でもさして驚きませんけど。ねえ?
紅茶を飲み、ゆっくりと息を吐いて気持ちを落ち着ける。
よし、迎撃態勢が整いました。
二回戦といきましょうか。
「そうは言いますけど。幽香さんだって今の生活は満更でもないはずでしょう?」
「そんなに悪くは無いけどね」
「ならいいじゃないですか」
「あんまり良くもないのよね」
幽香さんは幻想郷にそれなりの歳月いるらしく、先代達の幻想郷縁起にもちらほら名前が出て来ている。
その頃は相当やんちゃだったらしく、強そうな相手には手当たり次第喧嘩を吹っかけていたらしい。
暇潰しで人間に無茶振りをして、痛めつけた事もあったそうな。
そのことを幽香さんに問い質してみた所、言葉を濁されてしまいました。
多少の誇張はあるにせよ、概ね事実に間違いありませんね。
その頃なら【人間友好度最悪・危険度極高】と書かれても文句は言えなかったそうなのですが。
最近では大人しくなり、人里にも顔を出しているのだから少しは斟酌してくれないかと、幻想郷縁起の編纂中に頼み込まれましてね。
心づけに綺麗な花束を頂いて、しばらく話したりもしたんですが。
紳士的な態度と色香にころっと騙されそうになりましたけど。
妖怪の賢者と相談の末、甘めに書いて問題を起こされては大変と思い直し、これまで通りの記載にすることになりました。
でも、挑発しなければ害は無いって書いたんですよ? 最大限の譲歩じゃないですか。褒めてくださいよ。
縁起が出てからは、まあ。
暴力沙汰にはならなかったものの、家に居座られたり、そこら中を花だらけにされたりとさんざん嫌がらせを受けましたけど。
可愛いものですよね。
「下手に好意的に書いたら、幽香さんに恋心を抱く男性達が次々求愛に来ますよ?
それこそ、向日葵に集まるアブラムシの如くに」
「いい喩えね。すごく悪意を感じるわ」
「鬱陶しくて潰したくなる辺りも、まさにそっくりだと思いますけど」
「否定しようがないわね」
「幽香さんと人間、双方のためにもあのくらいきつめに書いておいたほうがいいんですよ」
「そうかしらねえ……」
あの記事のお陰で、幽香さんに下手なちょっかいを出す輩がいなくなったのもまた事実。
誰に邪魔される事なく、花を楽しむことが出来るのもひとえに私のお陰なのです。
幽香さんの美貌もさることながら、その振る舞いに惹かれる人は多い。
今は怖い噂のせいで近づかない人が大半ですけど、下手に人間達と仲良くなったら大変ですよ?
「五月蝿くなるのは嫌いだけど。もう少し好意的に対応してもらいたいものね」
幽香さんの目が細まり、少しだけアンニュイな雰囲気を醸し出す。
表立って迫害されるようなことはないものの、それなりに冷遇されてきたのも事実なのかもしれません。
いくら妖怪とはいえ、それはそれでちょっと可愛そうな気もします。
半分くらいが自業自得でしょうけど、少しは私も責任を感じてしまいます。
ちょっとだけ、蜘蛛の糸を垂らしてみてもいいかもしれません。
そこから先は、幽香さん次第と。
「じゃあ、こんなのはどうでしょう。私の屋敷に毎日花を届けてくれませんか?
毎日じゃなくてもいいです。気の向いたときに来てもらえれば。
屋敷の庭に花壇を作るのもいいかもしれませんね。
その季節の花を、一番美しい姿で見れるように屋敷を飾ってもらえませんか?
幽香さんだったら、そのくらいお手の物ですよね」
「そのくらい構わないけど、どういうつもり?」
「幽香さんの項目を書き換える必要があるかどうかの査定です。
頻繁に顔を見せるようになれば、それだけ里の人たちも親近感が湧きますし。
ふとしたきっかけで話すこともあるかもしれません。
綺麗な花を譲ってもらいたいと頼む人がいるかもしれません。
ある程度人間と仲良くなったらその時は、幻想郷縁起の幽香さんの項目を大幅に書き換えますよ」
「随分と回りくどいこと。そんなことをするくらいなら、今すぐ書き換えてくれればいいのに」
「末代まで残る幻想郷縁起に、適当なことは書けません。だって、困るのは末代の私なんですもん。そんなの嫌です。
改訂して欲しいのなら、幽香さんにも相応の覚悟を持ってもらいたいんですよ。
面倒かもしれませんが、人間の世界ではそうやって少しずつ信用を築いていくものなんですから」
「面倒だけど、私の庭が増えるのならそんなに悪くは無いわね。いいわ、その提案に乗ってあげる」
契約成立。
これで私の庭も賑やかになりますね。
そして一応の目標を立てたことで、それが達成されるまでは幽香さんもしつこく絡んでは来ないでしょう。
もし本当に人間と仲良くなってしまったら……。
その時のことはまたその時になったら考えましょうか。
なんですか幽香さん、そんなにやけた面で見てきて。
なんだかとっても気持ち悪いんですけど。
「私と会う口実が出来て良かったわね」
「は? ……え?」
「あら、違うの?」
「違いますよ。そういうつもりはありませんし」
「そう、残念ね」
幽香さんはさほど気落ちした様子も無く、椅子に座りなおして紅茶を飲み始める。
どういうつもりなんでしょうか。
別にそっちの気はありませんし。
幽香さんに対して特別な感情は持ってませんから。
綺麗で立ち振る舞いも優雅だから、少しお手本にさせてもらおうとは思ってますけど、それだけです。
からかうのもいい加減にしてくださいよ。
「霊夢。そんなところにいないで、そろそろ出てきたら?」
「霊夢さん?」
振り向くと、霊夢さんが壁に隠れてもじもじしている。
そんなキャラじゃないでしょうに、とつい呆れてしまう。
私達の会話に入りづらかったんですか?
「だって、この服……」
「自分で出るのと、引っ張り出されるの、どっちがいい?」
「分かった、今出るわよ」
既に揺るがしがたい力関係が構築されているようですね。
幽香さんの脅しにあっさり折れて、溜息を吐き、壁の影からひょっこりと姿を表す。
その姿は、いつもの腋巫女とは違っていて。
「あら、似合うじゃない」
「わぁ、見違えましたね」
いつもの巫女服ではないので、一瞬誰か分からなかったくらい。
白いシャツを着て、その上に幽香さんとお揃いの格子柄のワンピース。
髪を黄色いリボンで縛って、フェルト地の赤いカンカン帽を被っている。
帽子に挿した百合の白がいいアクセントとなっています。
ぱっと見はいいところのお嬢さんといった風情で、とてもとてもあのぐうたらな巫女とは思えないお洒落さです。
「おかしくない?」
慣れない服装に戸惑っているのか、霊夢さんが自信なさげに聞いてくる。
恥ずかしさのせいで出るに出られなかったのですか。
あの巫女にも、ちゃんと可愛らしい一面があるんですね。
でも、帽子と袖のある無しくらいで、色合い的にはいつも通り紅白ですよね。
霊夢さんの緊張を和らげるように、幽香さんが優しい笑顔で褒めてあげる。
「とても似合ってるわ。たまにはお洒落もいいでしょ?」
霊夢さんはむず痒そうにはにかんでから、幽香さんの隣に座る。
二人の真ん中ではなく、わざわざ幽香さんの傍に座ったのは何故でしょうか?
「そうね、たまにならね」
お披露目が終わると、霊夢さんは被っていた帽子をテーブルに置く。
すると百合の花が転がり、素敵な香りを辺りに振りまく。
大輪の白い花に甘い香り。
この花は霊夢さんよりも、大人な幽香さんに似合いそうですよね。
「サイズがぴったりなんだけど、これってどうしたの?」
「生地が余っていたから、古道具屋の店主に頼んで作ってもらったのよ。貴女になら似合うと思ってね」
「ありがと」
霊夢さんがそっけなく感謝を口にする。
隠していても、その声音からとても喜んでいるのがばればれです。
でも幽香さん。ちゃんと代金は支払ったんですか?
「着れるか心配だったけど、体型が変わってないようで安心したわ」
「それって嫌味?」
「ごめんなさい、他意はなかったの」
反省してる様子も無く、しれっと謝罪の言葉を口にする。
さっきとは一転、むっとした表情になる霊夢さん。
幽香さんのナイスプロポーションをまじまじと見つめた後、長い溜息を吐く。
気持ちは分かりますけどね。
「まさかこれを着せるために、巫女服を台無しにしてくれたの?」
「そんなところよ。普通に頼んでも四の五の言って渋るだろうから、この方が手っ取り早いと思ったの」
さも当然のように微笑む幽香さんと、呆れ返り溜息を吐く霊夢さん。
そんなに溜息ばかり吐いてると、幸せが逃げますよ?
それと幽香さん。
そういうことをしてるから、人間友好最悪とか、危険度極高とか言われちゃうんですよ。
疚しい所ありまくりじゃないですか。
霊夢さんもそう思いませんか?
「そんな調子で里の人たちと問題を起こさないでよ? あんたを退治するなんて面倒はごめんだからね」
「普通の人間相手にそんなことはしないわ。霊夢が特別なのよ」
「あまり嬉しくない特別扱いね」
「なあに? もっと優しくして欲しいの?」
「そんなんじゃないけど」
「拗ねない拗ねない」
ぶーたれる霊夢さんを抱き寄せ、頭を撫でてあげる幽香さん。
元々が虐めっ子気質なんでしょうけど、可愛さ余って意地悪しているようにも見えます。
霊夢さんの妖怪に好かれる気質は健在のようですね。
霊夢さんも仏頂面をしてますけど、内心では満更でもないご様子。
ここに誘ったときもそんなに嫌そうでも無かったですし、意外と幽香さんのことが好きなのかも?
何にせよ、珍しいものを見ているのは間違いないでしょう。
お揃いの柄の服を着ていることもあってか、姉妹のように見えなくもないですし。
恋人、というには少々距離がありますね。
ちょっとからかってみましょうか。
「お二人は、いつからそんなに仲が良くなられたんですか?」
思いがけない質問だったのか、私の言葉を受けた二人の動きが止まってしまう。
仲がいいように見えるの?とでも言いたそうな目で、私を見つめてくる。
いや、そう見えるからこんな質問をしたわけなんですが……。
まさか、犬猿の仲だ、とは言いはしませんよね。
「仲がいいの?」
幽香さんが霊夢さんに尋ねる。
なんだかよく分からない二人ですね。
仲が悪いわけじゃなさそうですけど。
「別に悪いわけじゃないけど」
そう言って不機嫌そうに幽香さんに寄りかかる。
「気がつけば神社に居座ってるし。暇潰しで弾幕ごっこ挑んでくるし。こっちの都合お構いなしだし。
勝手に花は植えてくし。そのくせお賽銭とかお供え物をちゃんと持ってくるから邪険にもできないし。
こっちはいい迷惑よ」
霊夢さんがこれ見よがしに頬を膨らませる。
そんな顔をしても全然怒ってる風には見えないんですけど。
それに、前半は他の妖怪達も当然のようにやってることですし、後半は良い事じゃないですか。
文句を言うほどのことでもないでしょうに。
「だそうよ。そんなに仲良しでもないんじゃない?」
幽香さんは終始楽しそうに、そんな霊夢さんの頭を撫でて髪で遊んでいる。
その姿からは仲が悪いようには到底見えません。
これはあれですね、惚気ですね。
ごちそうさまです。
こんな質問をした私が馬鹿でした。
「ああ、分かりました。お幸せに」
「ありがと」
「どういう意味よ」
霊夢さんの追求をそ知らぬ顔で聞き流す。
幽香さんはそんな霊夢さんを微笑ましく見守りながら、白百合を手に取り、くるくる回している。
本当、絵になりますね。
まさに高嶺の花。
幻想郷縁起の記載を変更した所で、畏怖が崇拝に変わるだけで、幽香さんに近づける人はいないのかもしれませんね。
「百合の花言葉、知ってる?」
「知らない」
「雄大な愛、よ」
百合の花を霊夢さんの顔に近づけて、その香りに惑わす。
霊夢さんは少し鬱陶しそうに顔をしかめてから、花を受け取って元通り帽子に挿し直す。
「言ってて恥ずかしくない?」
「別に」
「そう」
……。
会話が止まりました。
一息ついて紅茶でも飲むとしましょうか。
グラスを持ち、反対側に目を向けると、二人も同じタイミングでグラスを手にしている。
向こうも気付いたようで、アイスティーのグラスを持ったまま、少しの間三人で視線を交わす。
何となくおかしくなって、皆で笑いあう。
そして、ゆっくりとアイスティーを飲み干す。
ここは静かで、優雅で、花の香りで満たされた、とっても素敵な花園です。
幽香さんを悪鬼羅刹の如くに恐れている人達は、絶対にこの楽園を知ることは無いでしょう。
だから、もうしばらくは、ここでのお茶会は私達だけの秘密。
出来ることなら、来世の私にも同じ幸せを感じてもらいたいですね。
「別にこのままでいいんじゃない? 人里に行けばそれなりに人と話せるんだろうし、神社に来れば私も他の妖怪もいる。
ここは静かで綺麗だし。余計な奴が近付かないように、怖がられたままの方がいいと思うけど」
「でもねえ」
「多数決だと3対1で幽香さんの負けですよ。これは覆しがたいですね」
「私と阿求と、あと一人は?」
「もう一人、あなた達の同類がいるのね」
「まあ何と言いますか。全ての元凶です」
「それが誰なのよ」
ここで言葉を切ると、二人が興味深そうに、私の次の言葉を待っている。
言っていいんですかね、これ?
でもまあ、いつまでも私一人が悪者扱いされるのも嫌ですし。
元はと言えば、その方に諭されたからああいう風に書いたわけですし。
この際、責任転嫁しちゃいましょうか。
わざと大物ぶって焦らしてから、それとなくヒントを与えてみる。
「私の幻想郷縁起に口出しできる人なんて、数えるくらいしかいませんよ」
その言葉だけで、二人はすぐに合点がいったようだった。
もしかしたら、うすうす気付いていたのかもしれません。
「ああ、あいつか」
「ええ、あいつです」
「そう、私よ」
・・・
その声の余韻が消えるや否や、幽香さんの背後にスキマが開き、深淵から気味の悪い目玉が私達をねめつける。
そこから紫様が飛び出し、後ろから幽香さんに抱きついて臆面もなくキスをする。
キスを……、って長いですね。随分と濃厚なキスです。
いいんですか? 一部始終観察してますよ?
見せ付けてるんですか?
「おはよう、幽香」
「いらっしゃい、紫」
幽香さんに向けて甘く微笑んだ後、当然のように幽香さんの隣に座る紫様。
紫様が幽香さんに寄り添うように座ると、反対側に座っていた霊夢さんがゆっくりと幽香さんから体を引き離す。
紫様は私達の会話をいつから見ていたのか、どこまで聞いていたのか。
最初から全部覗き見してたと考えた方が良さそうですね。
霊夢さんなら気付きそうなものですけど、浮かれていたのですか?
紫様が来ただけで、にわかに周囲の空気が淫靡に変質する。
今日の服装はいつもの帽子と、紫色のドレス。それと白絹の長手袋。
胸の谷間が見えるようなあからさまなことはしてないですが、それなりに胸が強調された服装です。
美味しそうな唇に真っ赤な口紅。そして首には血のように紅いリボン。
その紫色の瞳に睨まれれば、それだけで男は骨抜きにされてしまいそうですね。
女の私ですら、ともすれば危ういかもしれません。
あんなお方と日常的に付き合いがある霊夢さんも、あんなキスをされて理性を保っている幽香さんも。
一体どういう神経をしているんですか。
慣れですか?
「私にも紅茶を淹れてくれないかしら?」
紫様がその唇を動かし、私に命令してくる。
「私が、ですか?」
「他に誰が?」
紫様から視線を引き剥がし、他の二人の様子を見る。
突然現れた紫様相手に、不機嫌を隠そうともしない霊夢さん。
まるで腰を上げる気配がありません。
「私は動けないわよ」
「そういうこと」
紫様がしなだれかかり、幽香さんを掴まえている。
まあ、別にいいですけど。
頭を冷やすためにも、中座したかったですし。
「お、ね、が、い」
「分かりました。暫しお待ちください」
「ありがと」
紫様がしなをつくり、妖艶に言霊を紡ぐ。
その言葉に敢えて逆らう気も起きず、紅茶を淹れるため席を立つ。
そろそろお代わりが欲しかった所。ついでにみんなの分も淹れてきましょうか。
さて。
私が離れてから、あの三人はどんなことを話すんでしょうね。
☆
「あんたが入れ知恵したの?」
「だって、幽香に変な虫がついたら嫌だもの」
「虫がいなかったら花は咲かないのよ?」
「花くらい、私がいくらでも咲かせてあげるわよ」
「そうじゃなくて、あんた以外にも話相手がいないと暇なのよ」
「だからって、こんな小娘達にちょっかい出さなくてもいいじゃないの」
「誰にならちょっかい出していいのよ。それに、そんなこと言ってると刺されるわよ」
「私が死んだら悲しんでくれる?」
「刺されたくらいじゃ死なないでしょ」
「少しくらいは心配して欲しいんだけど」
「そうなったら看病くらいしてあげるわ」
「あら嬉しい。そういうことだから霊夢、刺してみてもいいのよ?」
☆
あーあ。出てきちゃったよ。
ずっと覗き見してればよかったのに。
阿求が水を向けたせいよ。
いきなり人の横でキスしないでよね、このバカップルが。
さっきからべたべた触って甘ったるい声で囁いてるし。
甘ったるいのはその香水だけにしてよね。
幽香もそんな申し訳無さそうな顔しないでよ。
いいのよ。
紫があんなんなのは最初から分かってることだし。
私なんか気にせず思う存分いちゃついてればいいじゃない。
あーあーやだやだ。
ほっといてさっさと帰ろうかしら?
「霊夢、刺してみてもいいのよ?」
……。
紫の方を見る。
その言葉に、考えるよりも先に手が出てしまう。
腰を浮かせ、右ストレートを、打つ。
ばしん。
「霊夢、おいたは駄目よ」
その手は紫に届くことなく、間に居た幽香によって止められる。
何よ。いいじゃないの。
あんまり紫ばっかり贔屓しないで欲しいんだけど。
幽香を軽く睨むと、窘めるように私を座らせる。
「駄目よ。また今度遊んであげるから、ね?」
「はぁ。分かったわよ」
「いい子ね」
幽香が優しく微笑んで、頭を撫でてくる。
誤魔化されたような気もするけど、ここで喧嘩腰になっても仕方ないし。
この鬱憤は、今度紫に会ったときにまとめてぶつけてやればいい。
幽香にひっついたままの紫に舌を出す。
心配しなくても奪いやしないわよ。
奪いはしないけど、あんたがいない時にちょっと借りるから。
あと、幽香の方から遊びに来たときはしゃしゃり出てこないでよね。
あんた達二人がいちゃついてるところなんて、見せられたって面白くないんだから。
☆
「あれ? 席移動したんですか?」
「問題ある?」
「いえ、私は構いませんけど」
「霊夢に嫌われちゃったわ~」
「あんたも煽らない。大人しくしててよ」
「はーい」
アイスティーをポットに入れて持ってくると、少し様子が変わっていた。
霊夢さんは私の座っていた席の横に移り、頬杖をついて明後日の方を向いている。
帽子を元の席に置き去りにしているのは、ただ単に気が回らなかったのか、ささやかな抵抗のつもりなのか。
霊夢さんの目の前に置かれたクッキーは、紫様が持ってきたのでしょうか。
さっきから霊夢さんしか食べていませんけど。
ご機嫌取りとも思えませんし、幽香さんのために持ってきたのを、食い意地のはった霊夢さんが独り占めしてるのでしょう。
今まで以上にぶすっとしてて、不機嫌さをアピールしています。
可愛くない表情ですけど、可愛げはあります。
幽香さんを取られて、そんなに悔しいんですか?
幽香さんと紫様はというと、相変わらずいちゃついている様子。
椅子をぴったり寄せて、体がくっつくくらい近くにいますね。
主に紫様の方からアプローチしていますけど、幽香さんも大人しくそれを受け入れています。
さっきちらっと見たのですが、テーブルの下で手を繋いでいましたよ。
しかも、恋人つなぎ。
霊夢さんが距離を取りたくなるわけです。
「ありがと」
「どういたしまして」
至近距離で紫様と目を合わせないように気をつけながら、グラスに冷えた紅茶を注ぐ。
全員のグラスに紅茶を注ぎ終わり、自分の座る席を探す。
さっきと同じところに座れば角は立たないですが、すぐ目の前にカップルが居るというのは、あまり気分よくありませんね。
霊夢さんも席を移動した事ですし、ここは一つ。
「幽香さんの隣が空いているようなので、私はそこに座りましょうかね」
言い終わるよりも早く、紫様と霊夢さんの両方から睨まれる。
半分くらいは冗談のつもりだったのに、そんなに過敏に反応しなくてもいいじゃないですか。
「やっぱり、さっきと同じ席に座ります」
「その方がよさそうね」
幽香さんに同情されてしまいました。
なんというか、幽香さんも大変ですね。
今なら幽香さんの一言で、幻想郷が傾くんじゃないですか……?
☆
御三方から発せられる何とも言いがたい空気に呑まれないよう気をつけながら、ちびちびとアイスティーを口にする。
まさか、これは俗に言う修羅場ですか?
霊夢さんはだんまりを決め込み、無感動にクッキーを口に運ぶばかり。
幽香さんは優雅に紅茶を飲んでいるだけ。何も喋りませんが、この空気を楽しんでいる風にも見えます。
紫様は幽香さんを眺めているだけで楽しそう。
私はと言えば、そこまでか細くもない神経がきりきり言っています。
幻想郷トップ3とも言える面々がこんなムードを醸し出していれば、誰も近寄りたいとは思いませんよ。
出来る事なら、私もこの場から速やかに立ち去りたいです。
そして安全なところから、この三人の成り行きを見守りたいです。
そんな失礼なことを思っていると、唐突に紫様が口を開く。
「阿求。幻想郷縁起の記載、勝手に替えたりしたら駄目よ。少なくとも、私が許可を出すまではね」
私の幻想郷縁起なのに、なぜに紫様が決定権を持つのかはこの際置いておきましょう。
でも、元はと言えば紫様に諭されたからああいう風に書いたわけであって。
私としてはもっと穏当な書き方をしても別に構わないんですよ。
幽香さんが触れるもの皆傷つけるギザギザハートじゃないのは、私が一番よく知っていますし。
幽香さんとの繋がりを失うのが嫌だから、改訂するのを先延ばしにしてるだけですし。
まあ、紫様がそう仰るのなら、それについては一任してしまいましょうかね。
これを断って紫様の不興を買ってしまうのも怖いですから。
「分かりました、紫様」
「紫、あんた許可出す気ないでしょ」
「うん」
らしいです。
幽香さんの夢は叶いそうにないですね。
「人里なんかで道草食ってないで、私の屋敷まで足繁く通えばいいのよ」
紫様が幽香さんの耳元で囁き、胸を押し付ける。
おお。
幽香さんの腕が、紫様の胸に沈んでいます。
なんという……。
露骨な色仕掛けもあったものです。
それを涼しい顔で受け流す幽香さんも大したものですが。
もう慣れっこなんでしょうか?
それはそれで、なんか凄いですね。
その様子を見た霊夢さんは眉間に皺を寄せ、また横を向いてしまいました。
先程からずっとクッキーをやけ食いしてますね。
これが煎餅だったら、もっと派手な音がして嫌がらせにもなったのでしょうけど。
さくさく小気味いい音を鳴らしていて、いまいち締まりません。
「阿求のとこには明日から顔を出すわ」
「えっ」
思いがけない言葉に、つい間抜けな声が出てしまう。
ああ、そういえばそんな約束もしていましたね。
でも、私を懐柔してもあまり意味がない気もしますけど。
「あの、そもそも紫様を説得ないと――」
「紫のとこに行って、そして阿求のとこにも行くのよ。どうせ紫は昼間は寝てるし、そのくらいの余裕はあるわ」
「いやでも」
「信用を築くには長い時間が必要なんでしょう? 名実共に人間と仲良くならないと意味が無いのよ」
「それはそうですけど」
「もう決めた。文句を言っても駄目よ」
幽香さんがにっこりと微笑む。
その微笑で、それ以降の私の言葉が封じられる。
私は今すぐ書き直してもいいくらいだ、とか言ってもきっと無意味なんだろうなあ……。
いや、私は別に構わないんですけどね?
紫様が睨んできて怖いんですよ。
もしかして、嫉妬されてますか?
そんな関係じゃあないのに。
幽香さんからも何か言ってくださいよ。
気付いていますよね? もしかして、この展開を期待しての所業ですか?
嫉妬に駆られた紫様の相手なんて、私には荷が重過ぎます。
ちょっと幽香さん。私を心労で早死にさせるおつもりですか?
幽香さんと紫様の板ばさみなんて、私には無理ですよ。
「良かったわね、阿求。これから楽しくなりそうじゃない」
「あんまり良くありません」
霊夢さんに嫌味を言われる。
そんなつもりは無かったのかもしれませんけど、嫌味にしか聞こえません。
泣きたいですよもう。
「幽香、恋人の目の前で逢引の話し合いなんて感心しないわね」
「ただのお茶の約束よ。そんな色気のある話じゃないわ」
「それでも、私を差し置いていい度胸じゃない?」
「ちゃんとあんたのとこにも行くから、それでいいじゃない。紫が寝てる間は好きにさせてもらうわ」
「それって浮気じゃないの」
「浮気じゃ無い。やきもち焼くのもいい加減にしなさいよね」
「やだ。それだけ幽香が好きってことなんだからいいじゃない」
「まあ、悪い気はしないけどさ」
あらあらまあまあ。
いつの間にかお二人が大人な雰囲気になっちゃってますね。
紫様が幽香さんに擦り寄り見上げると、幽香さんも紫様を見つめ返す。
見つめあい、今にも口付けをしてしまいそうな。
私と霊夢さんがここにいることを忘れちゃってますね。
ここまで来ると見事としか言いようがありません。
冷やかす気も止める気も起きやしませんよ。
私のことなんか忘れて、四六時中いちゃついていてくれませんか?
ダンッ!
霊夢さんが床を踏みつけ、大きな音を鳴らす。
その音で幽香さんが我に返り、私達に向き直る。
澄まし笑顔で、大して慌てもせずに言葉を紡ぐ。
「そういえば、貴方達もいたわね」
「ずっといましたよ」
「忘れないでよね」
完全に二人の世界に入っていたようですね。
霊夢さんが止めなかったら、一体どこまでいたしていたのか。
座り直した幽香さんに寄りかかったまま、二人の世界から抜け出せていない紫様。
手を伸ばし、幽香さんの顔を掴み、自分の方を向かせてキスをする。
割と本気めのキスを、何度も、何度も。
「「はあ……」」
それを見せられて、思わず溜息が漏れる。
霊夢さんも同様のようで、ハモってしまう。
もうなんと言うか。
二人で死ぬまでやっててくださいって感じですね。
紫様が私に嫉妬しなければいけない理由が見当たらないのですが。
ようやく落ち着いた紫様が、椅子にちょこんと座る。
幽香さんも幸せそうに溜息を吐いて私達の方に向き直る。
そこでようやく、霊夢さんが野次を入れる。
「あんたら、いっつもそんな調子なの?」
「まあ、大体は」
「あら、羨ましいの?」
「別に」
霊夢さんはもはや嫉妬する気も失せたようで、興味をなくして余所見をしている。
部屋中に咲き乱れている花を、一つ一つ見比べている様子。
綺麗ですよね、この部屋。
一つ一つの花が主張しているのに、全体として調和が取れている。
派手な花も、地味な花も、そのどれもを美しく見ることが出来る。
植物園というよりは、生きた芸術と言った方が相応しい。
非の打ちようがないです
流石は花の妖怪。花道のお手本にしたいですね。
「あの寂れた神社もこのくらい綺麗に飾れば、参拝客も来るようになるんじゃない?」
「手間のかかるのは御免よ」
「どうせ暇なくせに。女の子らしい趣味の一つでも作ったら?」
「余計なお世話」
つまらなそうに言い放ち、クッキーを一枚口に放る。
さっきまでばかすか食べていたのに、今ではちびちびアイスティーを飲むばかり。
食べ飽きたんでしょうかね?
霊夢さんからクッキーを貰い、それとなく皆さんを観察する。
さくり。
霊夢さんは先程まで不機嫌そうでしたけど、今ではいつも通りぼやーっとしてます。
二人の間に入り込むスキマがないと、諦めたようにも見えますね。
元々が恋愛感情ではなく、少し甘えたかっただけなのかもしれませんけど。
さくさく。
紫様は幽香さんのことしか目に入ってないご様子。
私達に見せ付けて楽しんでいるんですかね。趣味の悪い事で。
まあでも、幽香さんと熱々なのも確かなんでしょうね。羨ましい事で。
これで嫉妬心がなければ、私の心の平穏も保たれるのですけど。
ごくん。
このクッキー美味しいですね。もう一枚貰いましょう。
さくり。
その幽香さんといえば、案外涼しい顔をしています。私達の目の前で紫様に付き合わされて内心困っているはずなんですが。
適当にあしらっているかと思えば、紫様一筋のようでちゃんと応えてあげていますし。
私達がいなければ、もっといちゃいちゃしたりするんですかね?
今でも十分いちゃついてますけど、もっとでれでれしてる幽香さんを見てみたいですね。
でも、何故だか見るのが怖い気もしますね。
さくさくさく。
「随分おいしそうね。私にも分けてくれない?」
「……ん」
幽香さんが頼むと、霊夢さんは紫さんを一瞥してから、クッキーを一枚差し出す。
「ありがと」
さくり。
霊夢さんが持ったままのクッキーを幽香さんが齧る。
信じられないものを見たといった風に霊夢さんの動きが止まる。
まさに鳩が豆鉄砲を食ったよう。
それを見て紫様が拗ねたように頬を膨らませています。
幽香さんは知らん振りでクッキーを賞味中。
三者三様の反応で、見ていて面白いですね。
「あら、本当に美味しいわね」
幽香さんが驚きの声を上げる。
幽香さんが半分齧ったクッキーを持ったまま、ぴくりとも動かない霊夢さん。
その残りのクッキーの行き場所に悩んでいるのでしょうか。
「あーん」
霊夢さんが持っている齧りかけのクッキーめがけ、紫様が口を近づける。
それを見てようやく霊夢さんが我に返って動き出す。
「あんたにあげるのは、なんか嫌」
「じゃあ、どうするのよ」
「私が食べる」
「太るわよ?」
「大丈夫よ」
言い合いながら、機械みたいに緩慢な動作で、幽香さんの齧りかけのクッキーを口に運ぶ霊夢さん。
それを指をくわえて眺めてる紫様に、やたらと包容力のありそうな微笑み方をしている幽香さん。
というか幽香さん。絶対わざとやりましたよね。相変わらず性質の悪い。
霊夢さんが食べ終わったのを見てから。
「美味しいわね」
「うん」
含みのある笑い方で幽香さんが尋ねる。
しばらく二人で見つめあった後、霊夢さんが目を逸らし、横を向いて顔を隠してしまう。
こちらからだと見えづらいですけど、照れているようです。
まあ、そりゃそうですよね。相手はあの幽香さんですし。
「幽香」
「なに?」
「私にもクッキーちょうだい」
「自分で取れるでしょ」
「手袋を汚したくないの。分かるでしょ?」
言い方がきつくなり、紫様の瞳が、いくらか鋭さを増す。
その瞳は幽香さんしか見ていない。
クッキーが食べたいんじゃなくて、霊夢さんに対抗したいと思っているようです。
さんざんいちゃついておいて、その程度で目くじらを立てる必要も無いと思うのですが。紫様の嫉妬心も相当ですね。
幽香様も最初からそれを分かっているみたいで。
「分かったわよ」
幽香さんが手を伸ばし、霊夢さんの前にあるクッキーを一枚抓み取る。
霊夢さんはそれを制止するでもなく、横目でぼんやり見ているだけ。
まだショックから抜け出していないんですかね。
「はい」
「ありがと」
紫様がにっこりと微笑み、クッキーを齧る。
さくり。
一口目で半分ほどを食べ。
二口目で幽香さんの指ごと口の中に入れてしまう。
幽香さんの指を舐め取り、クッキーをたいらげる。
「美味しいわね」
「そうね」
満足そうに紫様が微笑む。そしてそれに応えてあげる幽香さん。熱々です。
どうやら紫様の機嫌は直ったようです。
それとは反対に、今度は霊夢さんが機嫌を損ねてしまいそうですけど。
「帰る」
ようやく踏ん切りがついたのか、そう言って霊夢さんが立ち上がる。
あちらを立てればこちらが立たず。幽香さんも大変ですね。
いや、幽香さんは紫様を贔屓しているから、大変なのは霊夢さんだけですね。ご愁傷様です。
「紅茶、まだ残ってるわよ」
幽香さんが落ち着いた雰囲気で声をかけ、霊夢さんのグラスを指差す。
確かにアイスティーが半分くらい残っています。
霊夢さんはそれを見て、どうしようか少し悩んでから一気に飲み干しました。
「ごちそうさま」
そう言って玄関へと向かう霊夢さんを、再度幽香さんが引き止める。
「忘れ物よ」
「そんなのないわよ」
「帽子」
「ああ」
頭が寂しいのに気付き、霊夢さんが立ち止まる。
普段の巫女服だとリボンをつけていますけど、今日は着替えて帽子を被っていましたね。
幽香さんが帽子を持って立ち上がり、霊夢さんの方に歩いていく。
帽子を被せ、髪を整え、おまけに頬に口づけをする。
幽香さんと霊夢さんが視線を交わす。
頭一つ分くらい幽香さんの方が背が高いので、霊夢さんが見上げる形になる。
幽香さんが優しく微笑んで、霊夢さんにさよならを告げる。
「この服はあげるわ。またいらっしゃい」
親戚の娘に言うように、歓迎の意を表す。
この辺の気配りと余裕は、さすが大人の女性という感じですね。
ちょっぴり意地の悪さが気になりますけども。
「また、向日葵を見に来るから。今度は紫がいない時に」
「ばいば~い♪」
霊夢さんが幽香さんの背中越しに、軽口を叩く紫様を睨みつける。
邪魔者がいなくなるので、紫様はどこか上機嫌ですね。
霊夢さんが何かを企んでいるような不穏な笑みを口元に浮かべ、幽香さんに向き直る。
ちょっぴり髪を弄ってから、また幽香さんを見上げ、名前を呼ぶ。
「幽香」
「なにかしら」
「また来るわ」
そう言ってから、少し背伸びをして幽香さんにキスをする。
唇に数秒触れるだけの軽いキス。
そして踵を返し、外に出る。
「ばいばい、幽香」
してやったりといった風の満面の笑みを残して、向日葵畑に吸い込まれてしまう。
あらあら。中々大胆なことをしますね。
紫様があんぐりと口を開いていますよ。
開いた口が塞がらないとはこういうことを言うんでしょうね。
からかいすぎるから、こうやって反撃されるんですよ。自業自得ですね。
……。
観察に専念していたら帰るタイミングを逸してしまいました。
今から霊夢さんを追うのも間が抜けていますし、何よりこの後のお二人の愁嘆場が気になります。
もう少し、観察を続けるとしましょう。
どうやって帰るかは、また後で考えればいいですよね。
☆
霊夢を見送った後、紫が服の裾を掴んでくる。
拗ねたような顔をして、すごく子供っぽい。
私にあんなキスをしてきた相手と、本当に同一人物なのか疑わしくなってくる。
多少の面倒臭さを感じつつ、それが面白くもある。
さっきまであれだけ生意気そうな顔をしていたくせに、ちょっとしたことですぐ自信なくすんだから。
「なに?」
「キスした。それも唇に」
「そうね」
紫が拗ねたように唇を尖らせる。
そのやきもちがどこまで本気だか分からないけど、最後にはちゃんと機嫌を直してくれる。
構って欲しいだけなのよね。
本当、子供みたいなんだから。
「その前はほっぺにもちゅーしたし」
「あれは挨拶みたいなものじゃない。紫にするのとは全然違うわよ」
「お揃いの服着てた」
「それはまあ、そういうこともあるわよ」
不満そうな雰囲気が伝わってくる。
まだ全然納得してないみたいね。
どうすれば機嫌を直してくれるのかしら。
本気で怒っているわけじゃないのは分かっているから、そこまで心配する必要も無いんだけど。
「帰る」
「来たばっかりでしょ。ゆっくりしてきなさいよ」
「やだ。帰る」
面倒臭い奴。
帰ってからすることと言ったって、どうせ寝るだけでしょうに。
別に紫の家まで乗り込んでもいいんだけど。
出来る事なら、向日葵の見えるここで一緒にいたい。
頬を膨らませ、わざとヒールを鳴らして私の横を通り過ぎる。
本気で帰るつもりだったら、スキマを使って何も言わずに消えてしまえばいいのにね。
帰る気が無いのは見え見えだ。
ほら、やっぱり。
ドアの前で立ち止まって、声をかけてくれるのを待っている。
本当、面倒臭い奴だ。
その可愛らしい反抗に笑い出したくなるのを堪え、真面目ぶって声をかける。
「帰るんじゃなかったの?」
「さよならのキス。まだしてもらってない」
「帰って欲しくないから、さよならのキスはしないわよ」
「……」
「……」
根競べ、というほどの駆け引きがあるわけではないけれど。
結局のとこ、これはお遊びだもの。
結末の見えた寸劇。
適当に相手して、からかって、甘やかしてあげればそれでいい。
そして、キスをして仲直り。ただそれだけのこと。
「いじわる」
「あんたが面倒臭いのよ」
紫が振り向き、目と目が合う。
その目にはまだ幾分かは、非難の色が含まれているだろうか。
私はまだ、許されてはいないようだ。
「じゃあ、お詫びのキスしてよ」
「仲直りのキスね」
「どっちでもいいわ」
紫が静かに目を閉じ、顔を上に向ける。
キスをすれば、さっきのことは水に流してくれるらしい。
軽く溜息を吐き、今度は焦らさず、紫にキスをする。
体が触れる距離まで近付き、抱き寄せ、顔に手を添え、今日で一番濃厚なキスをお見舞いしてやる。
お子様が居る前でさんざん誘惑してきてくれたけど、我慢するの大変だったのよ?
もうあんな悪戯する気が起きないくらいに、たっぷりお仕置きしてあげるから覚悟しなさい。
それと、浮気の心配する必要がないってことをちゃんと教えてあげないとね。
私が愛してるのは紫だけってことを、ちゃんと伝えてあげるから。
大好きな紫。
今日はもう離してやらないんだから。
☆
「きゃっ」
「ぐぇ」
「いたたた、ここは一体……」
「きゅぅ」
「あ、霊夢さんすみません!」
下で潰れている霊夢さんから急いで飛びのく。どうやら私は霊夢さんの上に落ちてしまったらしい。
ええと、ここは一体?
確か霊夢さんが帰って、お二人がいちゃつきだして、突然足元が消えてしまったかのような浮遊感に包まれて、
気が付いたら霊夢さんの上に居た。
ああ、きっとスキマに吸い込まれたんですね。
それで、霊夢さんの上に放り出されたと。
周りには背の高い向日葵が咲き乱れているので、ここはまだ太陽の畑なのでしょう。
恐らく幽香さんの家からはさほど遠くない位置。
もうじき夕方、昼間の暑さも多少和らいできました。
それでも、幽香さんの家に比べればだいぶ暑いですけど。
「阿求、あんたどこから降ってきたのよ」
「紫様のスキマですよ。私にはどうしようもありませんって」
「あいつか」
決して幽香さんに投げられたわけではありませんので。はい。
霊夢さんがのそのそと立ち上がり、埃を払って服を点検する。
帽子を被りなおして溜息を一つ。
今日は溜息吐いてばっかりですね。
「一発殴っておけばよかったかな」
「今から乗り込むのは止めといた方がいいですよ。きっとお楽しみ中ですから」
「……」
いや、私に睨まれても困るんですけど。
というか、酷いと思いません?
邪魔だからっていきなり放り出されたんですよ?
お茶のお礼も言えませんでしたし、さよならも言わずじまい。
そんな細かい事を気にする相手とも思えませんけど、私は気にします。
でも、今からあの家に戻る蛮勇があるわけじゃないですし。
今日はこのまま退散するのが吉ですね。
「帰る」
「途中までご一緒してもいいですか? 一人で帰るのは怖いですし」
まだ明るいとはいえ、日が落ちてしまえば一気に暗くなる。
そうでなくとも、黄昏時にもなれば妖怪の活動は一気に活発になる。
人里までの帰り道、用心のために護衛の一人はいてほしい。
「歩くと時間かかるわね」
「そうですね。でも、他に方法も無いですし」
「紫に送ってもらえば?」
「今はお取り込み中ですって」
「終わるまで待ってるとか」
「嫌ですよ」
「そうよね」
仕方ないか、と呟いて霊夢さんが歩き出す。
一緒に帰ってくれる気になったらしいです。
これで一応、身の安全は保障されました。
・・・
てくてくてく。
てくてくてく。
太陽の畑を離れてからしばらく経つ。
会話も無いまま、人里までの道を歩いていく。
もう日が落ち、辺りが暗くなっています。
星明りがあるので、道を見失う事はありませんが。
少し、長居し過ぎましたかね。
歩くペースは、私には少し速い程度。でも、ついていくのがそこまで大変なわけでもない。
霊夢さんは何を考えているのか、私の方を見もせずに黙々と歩いている。
忘れられてるんでしょうか?
時折漂ってくる百合の香り。
霊夢さんの帽子に挿してある百合が香りの出所です。
幽香さんからのプレゼントだけあって、今なお凛とした姿で独特な香りを振りまいています。
その香りに想起されてか、今日の出来事をあれやこれやと思い出す。
「そういえば霊夢さん」
「何よ」
こちらを振り向こうともせず、ひたすら前を見て歩き続けている。
もしかして、嫌われてるんでしょうか?
「幽香さんとキスしましたよね」
「そうね」
「どんな感じでしたか?」
霊夢さんがぴたりと立ち止まる。
そしてこちらを振り向く。
「どういう意味よ」
「あの紫様を虜にするくらいだから、きっと凄いんだろうなーと思ったんですけど」
あの、その阿呆を見るような目はやめてもらえませんか。
ちょっとしたお年頃の好奇心じゃないですか。
傷つきますよ? 泣きますよ?
「今度、自分からしてみたら?」
「いや、それは流石に」
「じゃあ、そいつに聞いてみるといいわ」
「そいつ?」
私の方を見て、霊夢さんが『そいつ』と口にする。
この場には、私と霊夢さん以外は誰も居ないはずですが?
私が『そいつ』に思い至るよりも早く、目の前の空間がひび割れる。
そこから手が伸び、私を掴まえる。
スキマから紫様が這い出し、私に向かって妖艶に微笑む。
その瞳に魅入られ、動く事もできなくなってしまう。
恐怖や驚愕といった感情が湧くよりも早く、その雰囲気に呑まれてしまう。
紫様がスキマから身を乗り出し、私に顔を寄せてくる。
そして、
「いただきま~す♪」
私にキスをする。
唇を重ね、息を交わし、舌でなぞり、唇を食んでくる。
その感触と、紫様から発する甘い匂いに、思わず気が遠くなる。
目の前が真っ白になり、体中の力が抜けてしまう。
「幽香との間接キス。お味はどう?」
「きゅぅ」
「あら、少し刺激が強すぎたみたいね」
「当たり前でしょ。いきなりそんなことされたら、誰だってそうなるわよ」
「幽香はこうはならないわよ?」
「あんたらは別よ」
「それに、水を向けたのは貴女でしょ?」
「そこまでやれと言ってない」
「ぴゃぁ……」
脚がもつれ、倒れそうになるのを後ろから紫様に抱きかかえられる。
あれ? さっきまで目の前にいたはずなのに、いつの間に。
っていうか、おっぱい! おっぱいが背中に当たってますって紫様!
そんなに押し付けたら駄目ですよ! 駄目ですってば!
「幽香といちゃついてるんじゃなかったの?」
「幽香なら今お風呂に入ってるわ。覗いてみる?」
「止めとく」
「その方がいいわ。自分の体と比べて、ショックを受けるのが目に見えてるもの」
「うっさい」
「それに、頼まれたって見せてあげないけどね~♪」
楽しそうな紫様が、腕を巻きつけ抱きしめてくる。
紫様から発する甘い匂いがより一層強くなり、紫様の柔らかい体が押し付けられる。
頭に血が上って目の前がぐるぐる回転しだす。
これは、色々と刺激が強すぎます。
こういうのはもっと、耐性のある娘相手にやってください。
卒倒しちゃいますよ?
紫様、あんまり胸を押し付けないで。
自分の体と比べて悲しくなるから。
「それで、貴女は幽香の事をどう思っているの?」
「綺麗だと思うわよ。ただそれだけ。その他大勢の妖怪と大差ないわ」
「模範解答をありがとう。皆に平等に、それが貴女のポリシーだものね」
「なによ」
「もうちょっと色気のある関係じゃないの?」
「探りを入れても無駄よ。本当に大した仲じゃないし」
「そういうことにしておきましょうか。阿求は私が送ってあげるから、あなたは好きにするといいわ。
帰りしなに、目に付いた妖怪相手に憂さ晴らししてもいいわよ」
「しないわよ、そんなこと」
「幽香に貰ったお洋服が汚れたりしたら大変だものね」
私に頬ずりして、ころころと笑う紫様。
霊夢さんがすんごい渋い顔をされました。
図星なのか、紫様がしつこすぎてうんざりしているのか分かりかねます。
というか、いい加減放してくれませんかね、紫様。
そろそろ鼻血出そうなんでやめてください。割と本気で。
「それじゃあ、また会いましょう。ばいばーい」
「さようなら」
はっきりと別れの挨拶を口にしてから、霊夢さんが空に浮かび、彼方に消えてしまう。
あがったままの私は、またしても別れの挨拶を言えませんでした。全て紫様の責任です。
ろくに動く事もできず、紫様に抱かれたまま、飛んでいく霊夢さんを見送る。
私と紫様の二人ぼっち。
あの、割と本気で、私の貞操の危機なんですけど……。
「阿求、キスのお味はどうだった?」
楽しそうに、実に楽しそうに私の耳元で囁く。
息が吹きかかり、耳まで真っ赤になってしまう。
そういうのは幽香さんとやってください。
これ以上生娘の私を誑かさないでください。
お願いしますから。
「と、突然だったのと、凄すぎたのとで何が何だかわかりませんでした」
「それじゃ、もう一回してみる?」
「勘弁してください。幽香さんに怒られますよ?」
「怒った幽香の顔も可愛いのよねえ」
「惚気ですか」
「そういうこと。屋敷まで送ってあげるわ。これ以上幽香を待たせたら、本気で怒っちゃうものね」
「ありがとうございます」
ぬいぐるみのように抱かれたままスキマをくぐると、そこは見慣れた我が家の門前。
そこでようやく紫様から解放される。
香水の匂いなのか、紫様の女の匂いなのか、この甘ったるい匂いはしばらく取れそうにない。
「今日のことは、きっと一生忘れないでしょうね。思い出してむらむらしたら、いつでも呼んでね♪」
「本気で勘弁してください」
「あと、少しくらいなら幽香と関係を持っても多めに見てあげるわよ?」
「無いですから。浮気は許せなかったんじゃないんですか?」
「さっきのは演技よ。あんなキスくらいじゃ騒がないし。それに、浮気するくらい元気な方が可愛いってものよ」
「そうですか」
「そうよ。それじゃ、おやすみなさい、また明日」
「おやすみなさい」
とても演技のようには見えなかったのですが、どこまで本当なんでしょうね。
私のような小娘には、紫様のような古狸の考えは見通せそうにありません。
それに、今の頭では何も考えられそうにありません。とにかくお風呂……。
スキマに消えた紫様を見送ってからは、夢遊病者のようにふらふらしていた気がする。
自分の部屋に行き、鏡を見て、唇についた紅を落とし、湯浴みをして、浴衣に着替え、今は布団の中に居る。
未だに紫様から移された甘い匂いが体から取れない。
その匂いのせいで、先程の紫様のキスが思い出されてしまう。
せめて目を閉じておけばよかった。
紫様と幽香さんのキスも、紫様の私へのキスも。
全てはっきりと覚えている。
そして、映写機以上に鮮明な映像が頭の中で流れ続ける。
求聞持の能力を恨んだのはこれが初めてです。
この悪夢のような淫夢のような出来事が、頭にこびりついて離れない。
この甘い香りが消え、お二方としばらく距離を取れば、少しは印象が薄れるのかもしれないけど。
幽香さんとは明日会う約束を取り付けてしまったし。
さっきの口ぶりだと、紫様も乗り込んでくる気でいるようだ。(起きられればの話でしょうけど)
ああ。
全く以って、なんと厄介な妖怪に目を付けられてしまったのでしょうか。
体にこびり付いたこの甘い匂いも、きっと紫様の策略なんでしょうね。
目が冴えて全く眠れそうにありません。
紫様。恨みますよ……。
これからもずっとあの二人に付き纏われるだなんて、考えるだに恐ろしい。
さっさと眠って、全てを忘れてしまえたらどんなに素晴らしい事か。
ああ、……ああ。
★
私の愛を疑うなんて、一体どんな神経してるのかしら。
寝すぎて頭がボケてるの?
私に相応しいのは貴女しかいないっていうのが分からないのかしら。
今は式に仕事を押し付けて暇してるみたいだけど。
それでも、一日の半分以上は寝てるじゃない。
私を独り占めしたいんだったら、ちゃんと一日中傍にくっついてなさいよ。
私が他の娘にちょっかい出す理由知ってる?
どこで何してるんだか知れやしないあんたが、やきもち焼いて私に会いに来てくれるからよ。
可愛い子を虐めるのが好きっていうのも勿論あるけど。
そうでもしないとろくに捕まらない紫が悪いのよ。
あんたは私のことを覗き見して満足かもしれないけど、こっちは待ってるしか出来ないから寂しいのよ。
だから、私が他の子と仲良くするのは当然の権利なの。
でも、あんなお子様にまで嫉妬して対抗心を燃やすなんてどうかしてるわよね。
引っ掻き回してくれるし、紫の色んな表情が見れて、私は楽しいけどね。
形はどうあれ、私への愛情表現だもの。
どこまでが本気なのか分からないのが、ちょっと嫌だけど。
一度くらい、本気で怒ったり泣いたりしてる表情も見てみたいわ。
どんな悪戯をしかければ、そんな顔を見せてくれるのかしら?
地底には嫉妬狂いの鬼がいるらしいし、少し相談してみよう。
「幽香を放っておくのが心配だから、今年からは冬眠しないことにするわ」とか言ってくれるかしら?
話しかけても応えてくれないあんたを見てるのは辛いもの。
たまにでもいいから。
ほんの短い時間でもいいから。
冬の間も、私に会いに来てくれないかしら?
夢でもいいから、あなたと話がしたいもの。
今から冬のことを心配しても仕方ないか。冬の事は一旦忘れてしまおう。
心配を抱えていては、夏を存分に楽しめなくなる。それでは勿体無い。
会えなくなるんだったら、今の内にめいいっぱいいちゃついておこう。
冬になったら、面白いものを探して幻想郷を見て回ろう。
冬の間寂しくなったら、その時は。
他の娘に浮気してしまおうかしら。
そうすれば、紫がヤキモチ焼いて起きてくるかもしれないし。
そうじゃなくても、冬眠から目覚めた紫をからかう格好のネタになるのは間違いない。
怒った紫を宥める方法も考えておかないといけないわね。
どんな風に紫が取り乱すか、考えるだけで今から楽しみだ。
ようやく紫が帰ってきた。
私をほったらかしにしてどこに行ってきたのか、問い詰めてやらないと。
色んな相手に色香振りまいて弄んで、私の方が嫉妬してしまいそうよ。
長い長い人生。
花のある日常で満足とはいえ、たまにはイベントがないとうんざりしてしまう。
恋愛を長く楽しむためにも、少しはスパイスを加えないとね。
紫。
あんたが死ぬまで、私の遊びに付き合ってもらうから覚悟しなさいよ。
青い空に、真っ白な入道雲がべったりと張り付いている。
今日は風が吹かない日のようだ。
遮るものも無く、一年で最も強烈な日差しが燦燦と降り注ぐ。
日差しに熱せられた空気が動く事も無く、澱んで陽炎を生む。
まるで、釜で焼かれているよう。
地底の異変を思い出す。
あの鴉と戦った時も、確かこんな感じだったか。
じりじり、じりじり。
肌を焼かれているのがよく分かる。
このまま日焼けしたら、きっとパンダになってしまう。
日向ぼっこと洒落込むにも、熱すぎて全然楽しくない。
今日は早く帰って、沐浴して、風鈴を出して、神社でだらだらするに限る。
でも、暑すぎてここから動く気も起きない
ああ、熱い。
もう動きたくない。帰る事すら面倒くさい。
まとまらない思考のまま肌を焼いていると、幽かな花の香をまとい、モンスターが姿を現す。
「いつまで寝てるのかしら? そんなところにいると、踏んでしまうわよ」
傘で陽を遮り、幽香が見下ろしてくる。
急に出来た日陰に目が慣れず、幽香の表情を知る事は出来ない。
きっと、不遜な表情をしているに違いない。
今の構図は、まさに勝者と負け犬といったところだろうか。
畜生。
この暑ささえなければ、叩きのめしてやるものを。
影を睨みながら、顔の見えない相手に言葉を返す。
「これだけずたぼろにしておいて、まだ物足りないって言うの?」
挨拶代わりの弾幕戦。
会釈をする間も無く、目が合った瞬間に弾幕を撃ち込んで来た。
こっちはただ花を見に来ただけだというのに、大層なもてなしだ。
制止の言葉にも耳を貸さないので、適当に相手していたら反撃の糸口も掴めず撃ち落とされた。
おかげでこの有様。この服は燃えるごみね。
暑さのせいで調子が出なかったし、地の利も取られてたから仕方ない。
もう少し涼しくなったら、三倍返しにしてやるから覚えてなさいよ。
幽香の顔がある辺りを睨みつける。
すると気のせいか、人影が微笑んだような気がした。
嫌な気配がしたので、すかさず上半身を起こす。
……。
巫女の勘は伊達ではない。
さっきまで私の顔があった場所を、幽香が踏みつけていた。
「正直、物足りないのよねえ。いくら暑いと言っても、弾幕ごっこくらいやる気出しなさいよ。
あなた、仮にも博麗の巫女なんでしょ?」
仮にも、は余計だけど。
幽香がしゃがんで、互いの目の高さが同じくらいになる。
傘の影に入り、幾分夏の日差しが和らぐ。
ようやく暗さに目が慣れてきた。
幽香は遊び足りない子供のような顔をしている。
元気が有り余ってるというか、そんなに暇なのか。
夏の暑さにやられて、テンションが上がってるの?
「異変でもないのに、そうそうやる気なんて出ないわよ」
「異変の時だって、大してやる気ないくせに」
ご尤も。
でも、一応解決してるんだからいいじゃないの。
そんなに退治されたいなら、もっと過ごしやすくなってからいくらでも退治してやるわよ。
狭い傘の下、幽香が一層顔を近づけて聞いてくる。
なんでそんなににこにこしてるよ。
「それで、今日は何しに来たの?」
「なにって、私は付き添いよ。あの子に聞きなさいよ」
「花を見に来たんじゃないの?」
「まあ、花も見てくけど」
「今だと幻想郷で一番美しい花畑が見れるわよ」
「うん」
「ふふ」
幽香が頭を撫でてくる。
姉のような、とでも言えばいいのだろうか。
そんな感じの優しい笑みを浮かべている。
花のこととなると、人が変わったように親切になるんだから。
さんざん痛めつけてくれたくせに、この変わりようと来たら。
攻撃的なところが無くなってくれれば、もう少し頻繁に訪ねてきてもいいんだけど。
花の美しさに見とれて、棘があることを忘れると痛い目に遭う。
紫とはまた違った意味で、厄介な妖怪だ。
「ついでに、私に会いに来てくれたのかしら?」
「まあ、それも少しは期待してたけど。いきなり弾幕ごっこをする羽目になるとは思わなかったわよ」
「ここでは挨拶みたいなものじゃない。発案者が何を言ってるのよ」
「それはまあ、そうなんだけどさあ」
「ほら、そろそろ立てるでしょ。私の自慢の庭に招待するわ」
「ありがと」
幽香が差し出した手を取り、立ち上がる。
服がぼろぼろなのは仕方ない。後で着るものを借りるとしよう。それまで少しの我慢。
幽香が私の手を握ったまま歩き出す。
引っ張られるように、遅れて私も歩き出す。
「ちょっと、まさか手を繋いで歩くの?」
「駄目かしら?」
「駄目っていうか、その……」
「私の傘もそんなに大きくないんだから、ちゃんと近くにいないと影に入れないわよ」
「むう」
この強烈な日差しを浴び続けるのは確かに辛い。
手を振りほどかなければならない程の理由も見当たらなかったので、仕方無しに幽香と手を繋いだまま、傘に隠れるように歩いていく。
こんなところをブン屋に見つかりたくないし。
そうじゃなくても、あんまり見てほしいものではない。
繋いだ手がじんわりと汗ばむ。
幽香が私の緊張を見透かして、「相合傘ね」などと言って冷やかしてくる。
本当、性質が悪い。
指を絡ませてくるな、馬鹿。
幽香の顔を見ることも出来ず、しばらく俯きがちに歩いていると、唐突に幽香が立ち止まる。
何事かと顔を上げると、楽しそうに笑う幽香の顔が目に飛び込んでくる。
そして、私のおでこにキスをしてくる。
私が恥ずかしがる暇もなく、手を繋いだまま私から一歩離れて、勢いよく傘を空に放り投げる。
大げさに手を振り、翳り一つ無い完璧な笑顔で、こう叫ぶ。
「太陽の畑へようこそ! 歓迎するわ、霊夢」
その声と同時に、突然目の前に広がる、向日葵の鮮やかな黄色。
そのあまりの眩しさに、目が眩んでしまう。
目の前には向日葵畑を割いて続く一本の道。
右を見ても、左を見ても、視界を埋め尽くさんばかりの向日葵の群れ。
地の果てまで、際限なく向日葵畑が続いていると勘違いしてしまいそうだ。
いきなり目の前に現れた向日葵畑に、心奪われる。
幽香の能力で一気に咲かせたのだろうか?
いや、違う。
私が今の今まで、太陽の畑にいることに気がつかなかっただけだ。
傘で目隠しをして、私がきょろきょろしないようにわざと手を繋いで歩いたのだ。
要するに、ここまで全て幽香の計画通り。
まんまとしてやられたわけだ。
幽香の方を見る。
私の驚いた顔を見て、とても満足そうに微笑んでいる。
さっきの弾幕ごっこに続き、またしても幽香に大敗を喫してしまったわけだ。
悔しいけど、でもそれ以上に感動している。
興奮に任せ、幽香に抱きつく。
幽香も向日葵も、どちらもとっても素敵。
「感動してくれた?」
「うん、とっても綺麗」
自慢げな幽香に、弾んだ声で応える。
恥ずかしさなど、どこかに吹き飛んでしまった。
「それじゃ、向日葵畑を歩いて私の家に行きましょうか」
「うん」
幽香の傘はどこかに消えてしまった。
でも、日差しももう気にならない。
向日葵と同じ陽を浴びるのが誇らしいくらいだ。
幽香と手を繋いで、残りの道を歩いていく。
恥ずかしさなんて、とっくに吹き飛んでしまった。
むしろ見せ付けてやりたいくらいだわ。
・・・
向日葵畑を通って幽香の家に着くと、そこで阿求に出迎えられた。
そうだ、そういえばこの娘の付き添いでここまで来たんだった。
幽香に絡まれてからほったらかしにしてたけど、どうやら無事だったみたいね。
幽香の縄張りで無茶をする妖怪は、流石にいないか。
せいぜいが陽気な妖精くらいか。
「お帰りなさい。アイスティーを淹れておいたので、中でお茶にしませんか?」
「それもいいけど、霊夢は先にお風呂に入るといいわ。着替えも貸してあげるから」
「そうね。お茶はその後にするわ」
「あれ、霊夢さん?」
「お風呂はあっちよ。あるのは好きに使っていいわ」
「ありがと」
幽香からタオルと着替えを受け取り、お風呂場へと向かう。
阿求がなんとも言いがたい表情で見てきた気がするけど、気が付かなかったことにしよう。
幽香もそんなに無茶はしないだろうし、何より汗でべたついて気持ち悪い。
服もぼろぼろ。こんな状態でお茶なんて楽しめない。
ばいばい阿求。また会えるといいわね。
☆
日陰に入り、腰を下ろして人心地付く。
向日葵畑は確かに見事だけど、この炎天下でいつまでも眺めているのは辛いものがある。
日傘でもあれば随分違うのでしょうけど、虚弱な私はここらで一休み。
涼しい場所で見世物を見物させてもらうとしましょうか。
向日葵畑から顔を上げ、空を彩る弾幕に目を向ける。
一緒に来た霊夢さんは、この暑い中弾幕ごっこに励んでいる。ご苦労な事です。
近くに私がいたというのに、いきなり弾幕ごっこを始める幽香さんの気が知れません。
幸いにも一発も当たる事は無く、こうして生き永らえることが出来ましたけど。
もしものことがあったら、どう責任を取るつもりだったのでしょうか。
滲む汗を拭き、少し服を緩めてばたばたと風を送る。
日陰のここですらこんなに暑いのです。
日を浴びながら弾幕ごっこをしているお二人の気が知れません。
私は一足先に幽香さんの家の中で涼ませてもらいましょう。
お二人の弾幕戦はもう十分堪能しました。
というより、これ以上見ていても仕方ありませんし。
霊夢さんは本調子じゃない様で動きに精彩を欠いてます。十中八九幽香さんの勝ちでしょうね。
ほら、またピチュった。
あらあら。やっぱり幽香さんを退治した事があるというのはデマだったんですね。
分かりきってましたけど。
それにしても、幽香さんは実に楽しそうですね。
なんであれほど元気なのか理解出来かねます。
実に楽しそうに霊夢さんを嬲ってます。
そんなことをしているから、危険度極高・人間友好度最悪なんて書かれちゃうんですよ。
そしてそれを信じる人も出てくるんです。
幽香さんが怖がられてるのは、私のせいだけじゃないですって。
弾幕ごっこの観戦に見切りをつけ、幽香さんのお宅へと足を運ぶ。
幸いにも鍵は開いていたので、遠慮せずに家の中へと入る。
お邪魔しますと一応言っては見たものの、やはり誰も居ないようですね。好都合です。
玄関から内装を一望してみる。
家の中と外ではまるで別世界。
天窓からは夏の柔らかい日差しが降り注ぎ、眩しくないよう適度に葉で陰が作られている。
あちこちに種々雑多な夏の花が咲き誇り、見事にガーデニングされています。
魔法でも使っているのか、外よりも遥かに涼しい。
歩くたびに新しい花が現れ、違った香りに包まれる。
大きめの窓から覗く景色は、向日葵の黄色と、広く青い空が素敵なコントラストを描いている。
普段は住所不定の根無し草のくせに、夏になるとここに入り浸っている理由が分かる気がします。
ここはとても素晴らしい。
花の妖怪だから、どうすれば花が一番美しく見えるのか知っているのでしょうね。
これだけのセンスがあれば、花屋でも開けばあっという間に繁盛してしまいそうな気がします。
怖がって誰も来ないかもしれませんけど。
さて、各部屋も一通り見終わりました。そろそろお茶の準備でもしましょうか。
下手に家捜ししてる所を見つかっても大変ですし。
私なら一目見れば写真のようにばっちり記憶できます。
後で思い出して、花道の参考にでもさせてもらいましょう。
他に何かおもしろいものでも見つかれば儲けものですけどね。
お湯を沸かしている間に、キッチンを漁って必要なものを揃え終わりました。
来客用のティーセットまであるとは、幽香さん完璧ですね。
一体誰を連れ込むつもりだったのでしょう?
それはそうと、こちらのやたらと高価そうなペアのティーカップは誰と使うつもりなんでしょうね。
やけに使い込んでますけど、これは一体。
ポットから湯気が沸き立つのを横目に、紅茶の缶を開け、香気を確かめる。
あら、随分といい香りが。相当上質なのを使っているようですね。
私が普段飲んでいるものよりも良いものかもしれません。
あとで分けてもらえないか聞いてみましょう。
その辺で売っているのならば私も楽なのですが。
人里でも香霖堂でも、これ程のものは見たことが無いです。
まさか、紅魔館産……?
おっと、床下にくーらーぼっくすなるものを発見。
氷精でも監禁されてないか期待したのですが、中身はただの氷でした。残念です。
符のようなものが貼られ、これで温度を管理しているみたいですね。
何気に魔女と交流があるんでしょうか? いや、多分強奪でもしたんでしょう。きっとそうですよ。
魔理沙さんも可愛そうに。いや、アリスさん? まさかパチュリーさんなんてことも。
ともあれ、丁度いいですし、これでアイスティーでも作りましょうか。
紅茶の抽出時間はもう少し長めにしましょう。
さて、また少し暇になりましたね。
家捜しを再開しましょうか。
お二人がようやく帰ってきました。
幽香さんはほぼ無傷で、ほとんど汗をかいていません。
対する霊夢さんは、額に汗を浮かべ、まさにボロ雑巾のよう。
よくもまあここまで。
でも、霊夢さんの機嫌が良さそうなのは何故なのでしょう。
私の見てない間に何かあったんですかね?
あ、霊夢さんがお風呂に行ってしまいました。
何のためのボディーガードなのか。
相変わらず仕事をしませんね。
でも、ここまで送ってもらえただけありがたいですかね。
目の前の大妖怪は、一応は紳士的ですし。
そこまで危険は無いでしょう。多分。
・・・
霊夢さんを見送った後、幽香さんに紅茶を供する。
お茶請けはありませんけど、構いませんよね。
「随分と珍しい組合せね」
「人里で見かけたので誘ってみたんです。面倒くさそうでしたけど、意外と乗り気で助かりました」
幽香さんが座っている丸テーブル、それの幽香さんと対面になる席に座る。
一対一で話すのなら、互いの顔が見えるこの位置がいいでしょう。
幽香さんとの距離は1m弱。
大丈夫とは思いますが、念のため手の届く範囲からは離れておきたいですし。
「嫌われたものね」
「そういう意味では無いんですけど、万が一何かあったら困りますし」
「何もしないから安心なさい」
「そう言われて安心する人なんていませんよ」
幽香さんはつまらなそうに溜息を吐いてから、紅茶を口にする。
表情から察するに、紅茶の味には満足していただけたようだ。
「それで、今日は何をしにきたの?」
グラスを置き、幽香さんが私を品定めをするかのように視線を這わす。
まるで、私を楽しませないと食べてしまうぞ、と言わんばかり。
何もしないと言った矢先にこんな態度なんですから、やれやれですね。
あ、今、蛇の絵が浮かびました。
獲物を前にしてちらちら舌を出してるやつ。
今の幽香さんもちょうどそんな感じです。
「何って、向日葵を見に来ただけですけど」
「それだけ?」
「それだけです」
「他に大事な用事があったんじゃないの?」
「何も無いですよ。全て世は事も無し、です」
「ふぅん」
舐めるように私に視線を這わせてから、幽香さんが頬杖をついて前のめりになる。
二人の距離が若干縮まったことで、私の体が少し強張ってしまう。
その反応を見て、幽香さんが満足そうに口の端を歪ませる。
蛇そっくりの執拗さ。
とても厄介な手合いです。
「それなりの付き合いだもの。私が何を言いたいか分かってるわよね」
「ええ。でも駄目ですよ」
「まだ何も言ってないじゃない」
「幻想郷縁起の幽香さんの項目。人間友好度と危険度を書き直して欲しいんですよね?」
「正解。いい加減この問答も飽きてきたし、そろそろ諦めてはくれないかしら?」
「もっと悪し様に書いて欲しいだなんて、幽香さんも物好きですね」
「その綺麗な指を、一本一本へし折られたいのかしら?」
微笑んだまま、何かを連想させるかのように指をぱちん、ぱちんと鳴らす。
その笑顔がゾッとする程に美しい。
強者は大抵笑顔ですが、強者の笑顔ほど恐ろしいものもあまり無いですよね。
並の者ならばこれだけで泣きを入れてしまうところですけど……。
今日は霊夢さんという保険もありますし、そもそもこれはただの交渉ゲーム。
お遊びです。
余程のことがあったとしても、幽香さんは脅しを実行に移したりはしないでしょう。
そうとは分かっていても、最初の頃は身が竦んでしまいましたけどね。
幾多の経験を積み、今ではこの程度の脅しには屈しなくなってしまいました。
私がここまで図太くなれたのも、風見幽香様様です。
そこまでありがたくもないですけど。
「指が折れては筆が持てません」
「折るのは左手だけにしてあげるわ」
「墨が磨れなくなります」
「墨くらい私が用意してあげるわよ」
全く持って口の減らない。
ここははっきりとNOを突きつけましょうかね。
「熟慮の末、ああいう記載に決定したんです。カフェーで暇潰しに読む、書き殴っただけの新聞とは違うんですから。
だから、私の代の幻想郷縁起はあれで完全版です。どう言われようと、書き直しはありません」
「けち」
唇を尖らせて、あっさりと引き下がる。
最初の頃はぶーぶー文句を言ったり強引な手を使ったりしてきましたけど、今では半分諦めてるみたいです。
幻想郷縁起に関する押し問答は、もはや形だけの挨拶のおまけみたいなもの。
会話のきっかけとして、天気の話をするのに近いですね。
それでもしつこくこの話題を掘り返すのは、やはり幾許かは期待しているのと、単に幽香さんが暇だからでしょう。
こちらとしては、幽香さんのような大物と話をするのはいい娯楽となっていますし。
時折持ってくる袖の下の花々がとても綺麗で、日持ちがするのでとってもありがたいのです。
恩に着たり、心苦しく思ったりは全くありません。
だから、書き直す必要も全くありはしないのです。
そんなことを思っていると、
パァアンッ!!!
突然、炸裂音が鳴り響く。
耳を劈く轟音。
とまではいかないが、音の衝撃で周囲の花が揺れる程度には大きな音であった。
あまりに唐突だったのと、そのボリュームに呆気にとられる。
豆鉄砲を食らった鳩のように、目を見開いて体が固まってしまう。
一体なにが……。
「驚いてくれた?」
突き出した手を合わせて、幽香さんがおかしそうに笑っている。
それを見て、すぐに何が起こったか理解する。
種を明かせば何てことは無い。ただ、幽香さんが手を叩いただけ。
俗に言う猫騙し。
いや、これだったら熊ですら恐れをなして逃げていきますって……。
「え、ええ。それはもう」
別に余所見をしていたわけではない。速過ぎて動きが見えなかったのだ。
ただの猫騙しでも、幽香さんがやるとこれ程の破壊力を持つ。
妖怪の中でも最高クラスの身体能力を持つ幽香さんだから出来る離れ業だ。
「そう。それは良かった」
幽香さんは手で口元を隠し、実に楽しそうに微笑んでいる。
その様子を見てるとなんだか無性に悔しくて、つい眉間に皺がよってしまう。
それがばれないように、手を額に持ってきて前髪を直す振りをする。
実際、前髪が乱れたのだからさほど不自然ではないはずです。
それでも、幽香さんは全部見透かしてそうですけど。
全く以って腹立たしい限りです。
「いい加減やめてもらえませんか。この悪戯、心臓に悪いです」
たまーに。本当に極稀に、この猫騙しで私を驚かせてくる。
こちらが慣れてしまわないように、本当にたまにしかやらないけど。
私が気を抜いている時や、忘れてしまった頃を見計らって仕掛けてくるからさらに性質が悪い。
御阿礼の子は体が弱いのだ。
こんなことをしていては、いつか本当にショック死してしまいかねない。
ただでさえ短い寿命、これ以上短くするなんて絶対にご免です。
「嫌よ。あなたの驚いた顔、面白いんだもの」
幽香さんの玩具を見るような態度がますます腹立たしい。
これ以上続けるようなら、もっと酷い事書いちゃいますよ!
「貴女があんなことを書いたせいでストレスが溜まってるのよ。このくらいの仕返しはいいじゃない」
幽香さんは決して私に手を出さない。
いや、こういう悪戯や嫌がらせはしょっちゅうしてくるんですけど。
私を傷つけたり、何かを壊したりということは絶対にしない。
むしろ、私が困っているときは助けて恩を売ってくるくらいだ。
北風と太陽の童話を知っているのかもしれません。
仮に私に手を出せば、幽香さんは危険な妖怪だという証明になり、人里に近付く事すら出来なくなるかもしれません。
幻想郷縁起の記載を変更するのは、変更するに足る根拠を示し、互いの同意の上でなければ意味が無い。
そのくらいのことに頭を働かせ、自制するだけの思慮分別はあるようです。
まあ、だからこそ搦め手を使ってきて厄介極まりないという話もあるのですけど。
あるいは、そういったことは全然考えてなくて。
面白そうな玩具があるから、これが死ぬまでちょっかい出して遊び倒してやろう。とか考えてるのかもしれませんけどね。
いや、それが本当でもさして驚きませんけど。ねえ?
紅茶を飲み、ゆっくりと息を吐いて気持ちを落ち着ける。
よし、迎撃態勢が整いました。
二回戦といきましょうか。
「そうは言いますけど。幽香さんだって今の生活は満更でもないはずでしょう?」
「そんなに悪くは無いけどね」
「ならいいじゃないですか」
「あんまり良くもないのよね」
幽香さんは幻想郷にそれなりの歳月いるらしく、先代達の幻想郷縁起にもちらほら名前が出て来ている。
その頃は相当やんちゃだったらしく、強そうな相手には手当たり次第喧嘩を吹っかけていたらしい。
暇潰しで人間に無茶振りをして、痛めつけた事もあったそうな。
そのことを幽香さんに問い質してみた所、言葉を濁されてしまいました。
多少の誇張はあるにせよ、概ね事実に間違いありませんね。
その頃なら【人間友好度最悪・危険度極高】と書かれても文句は言えなかったそうなのですが。
最近では大人しくなり、人里にも顔を出しているのだから少しは斟酌してくれないかと、幻想郷縁起の編纂中に頼み込まれましてね。
心づけに綺麗な花束を頂いて、しばらく話したりもしたんですが。
紳士的な態度と色香にころっと騙されそうになりましたけど。
妖怪の賢者と相談の末、甘めに書いて問題を起こされては大変と思い直し、これまで通りの記載にすることになりました。
でも、挑発しなければ害は無いって書いたんですよ? 最大限の譲歩じゃないですか。褒めてくださいよ。
縁起が出てからは、まあ。
暴力沙汰にはならなかったものの、家に居座られたり、そこら中を花だらけにされたりとさんざん嫌がらせを受けましたけど。
可愛いものですよね。
「下手に好意的に書いたら、幽香さんに恋心を抱く男性達が次々求愛に来ますよ?
それこそ、向日葵に集まるアブラムシの如くに」
「いい喩えね。すごく悪意を感じるわ」
「鬱陶しくて潰したくなる辺りも、まさにそっくりだと思いますけど」
「否定しようがないわね」
「幽香さんと人間、双方のためにもあのくらいきつめに書いておいたほうがいいんですよ」
「そうかしらねえ……」
あの記事のお陰で、幽香さんに下手なちょっかいを出す輩がいなくなったのもまた事実。
誰に邪魔される事なく、花を楽しむことが出来るのもひとえに私のお陰なのです。
幽香さんの美貌もさることながら、その振る舞いに惹かれる人は多い。
今は怖い噂のせいで近づかない人が大半ですけど、下手に人間達と仲良くなったら大変ですよ?
「五月蝿くなるのは嫌いだけど。もう少し好意的に対応してもらいたいものね」
幽香さんの目が細まり、少しだけアンニュイな雰囲気を醸し出す。
表立って迫害されるようなことはないものの、それなりに冷遇されてきたのも事実なのかもしれません。
いくら妖怪とはいえ、それはそれでちょっと可愛そうな気もします。
半分くらいが自業自得でしょうけど、少しは私も責任を感じてしまいます。
ちょっとだけ、蜘蛛の糸を垂らしてみてもいいかもしれません。
そこから先は、幽香さん次第と。
「じゃあ、こんなのはどうでしょう。私の屋敷に毎日花を届けてくれませんか?
毎日じゃなくてもいいです。気の向いたときに来てもらえれば。
屋敷の庭に花壇を作るのもいいかもしれませんね。
その季節の花を、一番美しい姿で見れるように屋敷を飾ってもらえませんか?
幽香さんだったら、そのくらいお手の物ですよね」
「そのくらい構わないけど、どういうつもり?」
「幽香さんの項目を書き換える必要があるかどうかの査定です。
頻繁に顔を見せるようになれば、それだけ里の人たちも親近感が湧きますし。
ふとしたきっかけで話すこともあるかもしれません。
綺麗な花を譲ってもらいたいと頼む人がいるかもしれません。
ある程度人間と仲良くなったらその時は、幻想郷縁起の幽香さんの項目を大幅に書き換えますよ」
「随分と回りくどいこと。そんなことをするくらいなら、今すぐ書き換えてくれればいいのに」
「末代まで残る幻想郷縁起に、適当なことは書けません。だって、困るのは末代の私なんですもん。そんなの嫌です。
改訂して欲しいのなら、幽香さんにも相応の覚悟を持ってもらいたいんですよ。
面倒かもしれませんが、人間の世界ではそうやって少しずつ信用を築いていくものなんですから」
「面倒だけど、私の庭が増えるのならそんなに悪くは無いわね。いいわ、その提案に乗ってあげる」
契約成立。
これで私の庭も賑やかになりますね。
そして一応の目標を立てたことで、それが達成されるまでは幽香さんもしつこく絡んでは来ないでしょう。
もし本当に人間と仲良くなってしまったら……。
その時のことはまたその時になったら考えましょうか。
なんですか幽香さん、そんなにやけた面で見てきて。
なんだかとっても気持ち悪いんですけど。
「私と会う口実が出来て良かったわね」
「は? ……え?」
「あら、違うの?」
「違いますよ。そういうつもりはありませんし」
「そう、残念ね」
幽香さんはさほど気落ちした様子も無く、椅子に座りなおして紅茶を飲み始める。
どういうつもりなんでしょうか。
別にそっちの気はありませんし。
幽香さんに対して特別な感情は持ってませんから。
綺麗で立ち振る舞いも優雅だから、少しお手本にさせてもらおうとは思ってますけど、それだけです。
からかうのもいい加減にしてくださいよ。
「霊夢。そんなところにいないで、そろそろ出てきたら?」
「霊夢さん?」
振り向くと、霊夢さんが壁に隠れてもじもじしている。
そんなキャラじゃないでしょうに、とつい呆れてしまう。
私達の会話に入りづらかったんですか?
「だって、この服……」
「自分で出るのと、引っ張り出されるの、どっちがいい?」
「分かった、今出るわよ」
既に揺るがしがたい力関係が構築されているようですね。
幽香さんの脅しにあっさり折れて、溜息を吐き、壁の影からひょっこりと姿を表す。
その姿は、いつもの腋巫女とは違っていて。
「あら、似合うじゃない」
「わぁ、見違えましたね」
いつもの巫女服ではないので、一瞬誰か分からなかったくらい。
白いシャツを着て、その上に幽香さんとお揃いの格子柄のワンピース。
髪を黄色いリボンで縛って、フェルト地の赤いカンカン帽を被っている。
帽子に挿した百合の白がいいアクセントとなっています。
ぱっと見はいいところのお嬢さんといった風情で、とてもとてもあのぐうたらな巫女とは思えないお洒落さです。
「おかしくない?」
慣れない服装に戸惑っているのか、霊夢さんが自信なさげに聞いてくる。
恥ずかしさのせいで出るに出られなかったのですか。
あの巫女にも、ちゃんと可愛らしい一面があるんですね。
でも、帽子と袖のある無しくらいで、色合い的にはいつも通り紅白ですよね。
霊夢さんの緊張を和らげるように、幽香さんが優しい笑顔で褒めてあげる。
「とても似合ってるわ。たまにはお洒落もいいでしょ?」
霊夢さんはむず痒そうにはにかんでから、幽香さんの隣に座る。
二人の真ん中ではなく、わざわざ幽香さんの傍に座ったのは何故でしょうか?
「そうね、たまにならね」
お披露目が終わると、霊夢さんは被っていた帽子をテーブルに置く。
すると百合の花が転がり、素敵な香りを辺りに振りまく。
大輪の白い花に甘い香り。
この花は霊夢さんよりも、大人な幽香さんに似合いそうですよね。
「サイズがぴったりなんだけど、これってどうしたの?」
「生地が余っていたから、古道具屋の店主に頼んで作ってもらったのよ。貴女になら似合うと思ってね」
「ありがと」
霊夢さんがそっけなく感謝を口にする。
隠していても、その声音からとても喜んでいるのがばればれです。
でも幽香さん。ちゃんと代金は支払ったんですか?
「着れるか心配だったけど、体型が変わってないようで安心したわ」
「それって嫌味?」
「ごめんなさい、他意はなかったの」
反省してる様子も無く、しれっと謝罪の言葉を口にする。
さっきとは一転、むっとした表情になる霊夢さん。
幽香さんのナイスプロポーションをまじまじと見つめた後、長い溜息を吐く。
気持ちは分かりますけどね。
「まさかこれを着せるために、巫女服を台無しにしてくれたの?」
「そんなところよ。普通に頼んでも四の五の言って渋るだろうから、この方が手っ取り早いと思ったの」
さも当然のように微笑む幽香さんと、呆れ返り溜息を吐く霊夢さん。
そんなに溜息ばかり吐いてると、幸せが逃げますよ?
それと幽香さん。
そういうことをしてるから、人間友好最悪とか、危険度極高とか言われちゃうんですよ。
疚しい所ありまくりじゃないですか。
霊夢さんもそう思いませんか?
「そんな調子で里の人たちと問題を起こさないでよ? あんたを退治するなんて面倒はごめんだからね」
「普通の人間相手にそんなことはしないわ。霊夢が特別なのよ」
「あまり嬉しくない特別扱いね」
「なあに? もっと優しくして欲しいの?」
「そんなんじゃないけど」
「拗ねない拗ねない」
ぶーたれる霊夢さんを抱き寄せ、頭を撫でてあげる幽香さん。
元々が虐めっ子気質なんでしょうけど、可愛さ余って意地悪しているようにも見えます。
霊夢さんの妖怪に好かれる気質は健在のようですね。
霊夢さんも仏頂面をしてますけど、内心では満更でもないご様子。
ここに誘ったときもそんなに嫌そうでも無かったですし、意外と幽香さんのことが好きなのかも?
何にせよ、珍しいものを見ているのは間違いないでしょう。
お揃いの柄の服を着ていることもあってか、姉妹のように見えなくもないですし。
恋人、というには少々距離がありますね。
ちょっとからかってみましょうか。
「お二人は、いつからそんなに仲が良くなられたんですか?」
思いがけない質問だったのか、私の言葉を受けた二人の動きが止まってしまう。
仲がいいように見えるの?とでも言いたそうな目で、私を見つめてくる。
いや、そう見えるからこんな質問をしたわけなんですが……。
まさか、犬猿の仲だ、とは言いはしませんよね。
「仲がいいの?」
幽香さんが霊夢さんに尋ねる。
なんだかよく分からない二人ですね。
仲が悪いわけじゃなさそうですけど。
「別に悪いわけじゃないけど」
そう言って不機嫌そうに幽香さんに寄りかかる。
「気がつけば神社に居座ってるし。暇潰しで弾幕ごっこ挑んでくるし。こっちの都合お構いなしだし。
勝手に花は植えてくし。そのくせお賽銭とかお供え物をちゃんと持ってくるから邪険にもできないし。
こっちはいい迷惑よ」
霊夢さんがこれ見よがしに頬を膨らませる。
そんな顔をしても全然怒ってる風には見えないんですけど。
それに、前半は他の妖怪達も当然のようにやってることですし、後半は良い事じゃないですか。
文句を言うほどのことでもないでしょうに。
「だそうよ。そんなに仲良しでもないんじゃない?」
幽香さんは終始楽しそうに、そんな霊夢さんの頭を撫でて髪で遊んでいる。
その姿からは仲が悪いようには到底見えません。
これはあれですね、惚気ですね。
ごちそうさまです。
こんな質問をした私が馬鹿でした。
「ああ、分かりました。お幸せに」
「ありがと」
「どういう意味よ」
霊夢さんの追求をそ知らぬ顔で聞き流す。
幽香さんはそんな霊夢さんを微笑ましく見守りながら、白百合を手に取り、くるくる回している。
本当、絵になりますね。
まさに高嶺の花。
幻想郷縁起の記載を変更した所で、畏怖が崇拝に変わるだけで、幽香さんに近づける人はいないのかもしれませんね。
「百合の花言葉、知ってる?」
「知らない」
「雄大な愛、よ」
百合の花を霊夢さんの顔に近づけて、その香りに惑わす。
霊夢さんは少し鬱陶しそうに顔をしかめてから、花を受け取って元通り帽子に挿し直す。
「言ってて恥ずかしくない?」
「別に」
「そう」
……。
会話が止まりました。
一息ついて紅茶でも飲むとしましょうか。
グラスを持ち、反対側に目を向けると、二人も同じタイミングでグラスを手にしている。
向こうも気付いたようで、アイスティーのグラスを持ったまま、少しの間三人で視線を交わす。
何となくおかしくなって、皆で笑いあう。
そして、ゆっくりとアイスティーを飲み干す。
ここは静かで、優雅で、花の香りで満たされた、とっても素敵な花園です。
幽香さんを悪鬼羅刹の如くに恐れている人達は、絶対にこの楽園を知ることは無いでしょう。
だから、もうしばらくは、ここでのお茶会は私達だけの秘密。
出来ることなら、来世の私にも同じ幸せを感じてもらいたいですね。
「別にこのままでいいんじゃない? 人里に行けばそれなりに人と話せるんだろうし、神社に来れば私も他の妖怪もいる。
ここは静かで綺麗だし。余計な奴が近付かないように、怖がられたままの方がいいと思うけど」
「でもねえ」
「多数決だと3対1で幽香さんの負けですよ。これは覆しがたいですね」
「私と阿求と、あと一人は?」
「もう一人、あなた達の同類がいるのね」
「まあ何と言いますか。全ての元凶です」
「それが誰なのよ」
ここで言葉を切ると、二人が興味深そうに、私の次の言葉を待っている。
言っていいんですかね、これ?
でもまあ、いつまでも私一人が悪者扱いされるのも嫌ですし。
元はと言えば、その方に諭されたからああいう風に書いたわけですし。
この際、責任転嫁しちゃいましょうか。
わざと大物ぶって焦らしてから、それとなくヒントを与えてみる。
「私の幻想郷縁起に口出しできる人なんて、数えるくらいしかいませんよ」
その言葉だけで、二人はすぐに合点がいったようだった。
もしかしたら、うすうす気付いていたのかもしれません。
「ああ、あいつか」
「ええ、あいつです」
「そう、私よ」
・・・
その声の余韻が消えるや否や、幽香さんの背後にスキマが開き、深淵から気味の悪い目玉が私達をねめつける。
そこから紫様が飛び出し、後ろから幽香さんに抱きついて臆面もなくキスをする。
キスを……、って長いですね。随分と濃厚なキスです。
いいんですか? 一部始終観察してますよ?
見せ付けてるんですか?
「おはよう、幽香」
「いらっしゃい、紫」
幽香さんに向けて甘く微笑んだ後、当然のように幽香さんの隣に座る紫様。
紫様が幽香さんに寄り添うように座ると、反対側に座っていた霊夢さんがゆっくりと幽香さんから体を引き離す。
紫様は私達の会話をいつから見ていたのか、どこまで聞いていたのか。
最初から全部覗き見してたと考えた方が良さそうですね。
霊夢さんなら気付きそうなものですけど、浮かれていたのですか?
紫様が来ただけで、にわかに周囲の空気が淫靡に変質する。
今日の服装はいつもの帽子と、紫色のドレス。それと白絹の長手袋。
胸の谷間が見えるようなあからさまなことはしてないですが、それなりに胸が強調された服装です。
美味しそうな唇に真っ赤な口紅。そして首には血のように紅いリボン。
その紫色の瞳に睨まれれば、それだけで男は骨抜きにされてしまいそうですね。
女の私ですら、ともすれば危ういかもしれません。
あんなお方と日常的に付き合いがある霊夢さんも、あんなキスをされて理性を保っている幽香さんも。
一体どういう神経をしているんですか。
慣れですか?
「私にも紅茶を淹れてくれないかしら?」
紫様がその唇を動かし、私に命令してくる。
「私が、ですか?」
「他に誰が?」
紫様から視線を引き剥がし、他の二人の様子を見る。
突然現れた紫様相手に、不機嫌を隠そうともしない霊夢さん。
まるで腰を上げる気配がありません。
「私は動けないわよ」
「そういうこと」
紫様がしなだれかかり、幽香さんを掴まえている。
まあ、別にいいですけど。
頭を冷やすためにも、中座したかったですし。
「お、ね、が、い」
「分かりました。暫しお待ちください」
「ありがと」
紫様がしなをつくり、妖艶に言霊を紡ぐ。
その言葉に敢えて逆らう気も起きず、紅茶を淹れるため席を立つ。
そろそろお代わりが欲しかった所。ついでにみんなの分も淹れてきましょうか。
さて。
私が離れてから、あの三人はどんなことを話すんでしょうね。
☆
「あんたが入れ知恵したの?」
「だって、幽香に変な虫がついたら嫌だもの」
「虫がいなかったら花は咲かないのよ?」
「花くらい、私がいくらでも咲かせてあげるわよ」
「そうじゃなくて、あんた以外にも話相手がいないと暇なのよ」
「だからって、こんな小娘達にちょっかい出さなくてもいいじゃないの」
「誰にならちょっかい出していいのよ。それに、そんなこと言ってると刺されるわよ」
「私が死んだら悲しんでくれる?」
「刺されたくらいじゃ死なないでしょ」
「少しくらいは心配して欲しいんだけど」
「そうなったら看病くらいしてあげるわ」
「あら嬉しい。そういうことだから霊夢、刺してみてもいいのよ?」
☆
あーあ。出てきちゃったよ。
ずっと覗き見してればよかったのに。
阿求が水を向けたせいよ。
いきなり人の横でキスしないでよね、このバカップルが。
さっきからべたべた触って甘ったるい声で囁いてるし。
甘ったるいのはその香水だけにしてよね。
幽香もそんな申し訳無さそうな顔しないでよ。
いいのよ。
紫があんなんなのは最初から分かってることだし。
私なんか気にせず思う存分いちゃついてればいいじゃない。
あーあーやだやだ。
ほっといてさっさと帰ろうかしら?
「霊夢、刺してみてもいいのよ?」
……。
紫の方を見る。
その言葉に、考えるよりも先に手が出てしまう。
腰を浮かせ、右ストレートを、打つ。
ばしん。
「霊夢、おいたは駄目よ」
その手は紫に届くことなく、間に居た幽香によって止められる。
何よ。いいじゃないの。
あんまり紫ばっかり贔屓しないで欲しいんだけど。
幽香を軽く睨むと、窘めるように私を座らせる。
「駄目よ。また今度遊んであげるから、ね?」
「はぁ。分かったわよ」
「いい子ね」
幽香が優しく微笑んで、頭を撫でてくる。
誤魔化されたような気もするけど、ここで喧嘩腰になっても仕方ないし。
この鬱憤は、今度紫に会ったときにまとめてぶつけてやればいい。
幽香にひっついたままの紫に舌を出す。
心配しなくても奪いやしないわよ。
奪いはしないけど、あんたがいない時にちょっと借りるから。
あと、幽香の方から遊びに来たときはしゃしゃり出てこないでよね。
あんた達二人がいちゃついてるところなんて、見せられたって面白くないんだから。
☆
「あれ? 席移動したんですか?」
「問題ある?」
「いえ、私は構いませんけど」
「霊夢に嫌われちゃったわ~」
「あんたも煽らない。大人しくしててよ」
「はーい」
アイスティーをポットに入れて持ってくると、少し様子が変わっていた。
霊夢さんは私の座っていた席の横に移り、頬杖をついて明後日の方を向いている。
帽子を元の席に置き去りにしているのは、ただ単に気が回らなかったのか、ささやかな抵抗のつもりなのか。
霊夢さんの目の前に置かれたクッキーは、紫様が持ってきたのでしょうか。
さっきから霊夢さんしか食べていませんけど。
ご機嫌取りとも思えませんし、幽香さんのために持ってきたのを、食い意地のはった霊夢さんが独り占めしてるのでしょう。
今まで以上にぶすっとしてて、不機嫌さをアピールしています。
可愛くない表情ですけど、可愛げはあります。
幽香さんを取られて、そんなに悔しいんですか?
幽香さんと紫様はというと、相変わらずいちゃついている様子。
椅子をぴったり寄せて、体がくっつくくらい近くにいますね。
主に紫様の方からアプローチしていますけど、幽香さんも大人しくそれを受け入れています。
さっきちらっと見たのですが、テーブルの下で手を繋いでいましたよ。
しかも、恋人つなぎ。
霊夢さんが距離を取りたくなるわけです。
「ありがと」
「どういたしまして」
至近距離で紫様と目を合わせないように気をつけながら、グラスに冷えた紅茶を注ぐ。
全員のグラスに紅茶を注ぎ終わり、自分の座る席を探す。
さっきと同じところに座れば角は立たないですが、すぐ目の前にカップルが居るというのは、あまり気分よくありませんね。
霊夢さんも席を移動した事ですし、ここは一つ。
「幽香さんの隣が空いているようなので、私はそこに座りましょうかね」
言い終わるよりも早く、紫様と霊夢さんの両方から睨まれる。
半分くらいは冗談のつもりだったのに、そんなに過敏に反応しなくてもいいじゃないですか。
「やっぱり、さっきと同じ席に座ります」
「その方がよさそうね」
幽香さんに同情されてしまいました。
なんというか、幽香さんも大変ですね。
今なら幽香さんの一言で、幻想郷が傾くんじゃないですか……?
☆
御三方から発せられる何とも言いがたい空気に呑まれないよう気をつけながら、ちびちびとアイスティーを口にする。
まさか、これは俗に言う修羅場ですか?
霊夢さんはだんまりを決め込み、無感動にクッキーを口に運ぶばかり。
幽香さんは優雅に紅茶を飲んでいるだけ。何も喋りませんが、この空気を楽しんでいる風にも見えます。
紫様は幽香さんを眺めているだけで楽しそう。
私はと言えば、そこまでか細くもない神経がきりきり言っています。
幻想郷トップ3とも言える面々がこんなムードを醸し出していれば、誰も近寄りたいとは思いませんよ。
出来る事なら、私もこの場から速やかに立ち去りたいです。
そして安全なところから、この三人の成り行きを見守りたいです。
そんな失礼なことを思っていると、唐突に紫様が口を開く。
「阿求。幻想郷縁起の記載、勝手に替えたりしたら駄目よ。少なくとも、私が許可を出すまではね」
私の幻想郷縁起なのに、なぜに紫様が決定権を持つのかはこの際置いておきましょう。
でも、元はと言えば紫様に諭されたからああいう風に書いたわけであって。
私としてはもっと穏当な書き方をしても別に構わないんですよ。
幽香さんが触れるもの皆傷つけるギザギザハートじゃないのは、私が一番よく知っていますし。
幽香さんとの繋がりを失うのが嫌だから、改訂するのを先延ばしにしてるだけですし。
まあ、紫様がそう仰るのなら、それについては一任してしまいましょうかね。
これを断って紫様の不興を買ってしまうのも怖いですから。
「分かりました、紫様」
「紫、あんた許可出す気ないでしょ」
「うん」
らしいです。
幽香さんの夢は叶いそうにないですね。
「人里なんかで道草食ってないで、私の屋敷まで足繁く通えばいいのよ」
紫様が幽香さんの耳元で囁き、胸を押し付ける。
おお。
幽香さんの腕が、紫様の胸に沈んでいます。
なんという……。
露骨な色仕掛けもあったものです。
それを涼しい顔で受け流す幽香さんも大したものですが。
もう慣れっこなんでしょうか?
それはそれで、なんか凄いですね。
その様子を見た霊夢さんは眉間に皺を寄せ、また横を向いてしまいました。
先程からずっとクッキーをやけ食いしてますね。
これが煎餅だったら、もっと派手な音がして嫌がらせにもなったのでしょうけど。
さくさく小気味いい音を鳴らしていて、いまいち締まりません。
「阿求のとこには明日から顔を出すわ」
「えっ」
思いがけない言葉に、つい間抜けな声が出てしまう。
ああ、そういえばそんな約束もしていましたね。
でも、私を懐柔してもあまり意味がない気もしますけど。
「あの、そもそも紫様を説得ないと――」
「紫のとこに行って、そして阿求のとこにも行くのよ。どうせ紫は昼間は寝てるし、そのくらいの余裕はあるわ」
「いやでも」
「信用を築くには長い時間が必要なんでしょう? 名実共に人間と仲良くならないと意味が無いのよ」
「それはそうですけど」
「もう決めた。文句を言っても駄目よ」
幽香さんがにっこりと微笑む。
その微笑で、それ以降の私の言葉が封じられる。
私は今すぐ書き直してもいいくらいだ、とか言ってもきっと無意味なんだろうなあ……。
いや、私は別に構わないんですけどね?
紫様が睨んできて怖いんですよ。
もしかして、嫉妬されてますか?
そんな関係じゃあないのに。
幽香さんからも何か言ってくださいよ。
気付いていますよね? もしかして、この展開を期待しての所業ですか?
嫉妬に駆られた紫様の相手なんて、私には荷が重過ぎます。
ちょっと幽香さん。私を心労で早死にさせるおつもりですか?
幽香さんと紫様の板ばさみなんて、私には無理ですよ。
「良かったわね、阿求。これから楽しくなりそうじゃない」
「あんまり良くありません」
霊夢さんに嫌味を言われる。
そんなつもりは無かったのかもしれませんけど、嫌味にしか聞こえません。
泣きたいですよもう。
「幽香、恋人の目の前で逢引の話し合いなんて感心しないわね」
「ただのお茶の約束よ。そんな色気のある話じゃないわ」
「それでも、私を差し置いていい度胸じゃない?」
「ちゃんとあんたのとこにも行くから、それでいいじゃない。紫が寝てる間は好きにさせてもらうわ」
「それって浮気じゃないの」
「浮気じゃ無い。やきもち焼くのもいい加減にしなさいよね」
「やだ。それだけ幽香が好きってことなんだからいいじゃない」
「まあ、悪い気はしないけどさ」
あらあらまあまあ。
いつの間にかお二人が大人な雰囲気になっちゃってますね。
紫様が幽香さんに擦り寄り見上げると、幽香さんも紫様を見つめ返す。
見つめあい、今にも口付けをしてしまいそうな。
私と霊夢さんがここにいることを忘れちゃってますね。
ここまで来ると見事としか言いようがありません。
冷やかす気も止める気も起きやしませんよ。
私のことなんか忘れて、四六時中いちゃついていてくれませんか?
ダンッ!
霊夢さんが床を踏みつけ、大きな音を鳴らす。
その音で幽香さんが我に返り、私達に向き直る。
澄まし笑顔で、大して慌てもせずに言葉を紡ぐ。
「そういえば、貴方達もいたわね」
「ずっといましたよ」
「忘れないでよね」
完全に二人の世界に入っていたようですね。
霊夢さんが止めなかったら、一体どこまでいたしていたのか。
座り直した幽香さんに寄りかかったまま、二人の世界から抜け出せていない紫様。
手を伸ばし、幽香さんの顔を掴み、自分の方を向かせてキスをする。
割と本気めのキスを、何度も、何度も。
「「はあ……」」
それを見せられて、思わず溜息が漏れる。
霊夢さんも同様のようで、ハモってしまう。
もうなんと言うか。
二人で死ぬまでやっててくださいって感じですね。
紫様が私に嫉妬しなければいけない理由が見当たらないのですが。
ようやく落ち着いた紫様が、椅子にちょこんと座る。
幽香さんも幸せそうに溜息を吐いて私達の方に向き直る。
そこでようやく、霊夢さんが野次を入れる。
「あんたら、いっつもそんな調子なの?」
「まあ、大体は」
「あら、羨ましいの?」
「別に」
霊夢さんはもはや嫉妬する気も失せたようで、興味をなくして余所見をしている。
部屋中に咲き乱れている花を、一つ一つ見比べている様子。
綺麗ですよね、この部屋。
一つ一つの花が主張しているのに、全体として調和が取れている。
派手な花も、地味な花も、そのどれもを美しく見ることが出来る。
植物園というよりは、生きた芸術と言った方が相応しい。
非の打ちようがないです
流石は花の妖怪。花道のお手本にしたいですね。
「あの寂れた神社もこのくらい綺麗に飾れば、参拝客も来るようになるんじゃない?」
「手間のかかるのは御免よ」
「どうせ暇なくせに。女の子らしい趣味の一つでも作ったら?」
「余計なお世話」
つまらなそうに言い放ち、クッキーを一枚口に放る。
さっきまでばかすか食べていたのに、今ではちびちびアイスティーを飲むばかり。
食べ飽きたんでしょうかね?
霊夢さんからクッキーを貰い、それとなく皆さんを観察する。
さくり。
霊夢さんは先程まで不機嫌そうでしたけど、今ではいつも通りぼやーっとしてます。
二人の間に入り込むスキマがないと、諦めたようにも見えますね。
元々が恋愛感情ではなく、少し甘えたかっただけなのかもしれませんけど。
さくさく。
紫様は幽香さんのことしか目に入ってないご様子。
私達に見せ付けて楽しんでいるんですかね。趣味の悪い事で。
まあでも、幽香さんと熱々なのも確かなんでしょうね。羨ましい事で。
これで嫉妬心がなければ、私の心の平穏も保たれるのですけど。
ごくん。
このクッキー美味しいですね。もう一枚貰いましょう。
さくり。
その幽香さんといえば、案外涼しい顔をしています。私達の目の前で紫様に付き合わされて内心困っているはずなんですが。
適当にあしらっているかと思えば、紫様一筋のようでちゃんと応えてあげていますし。
私達がいなければ、もっといちゃいちゃしたりするんですかね?
今でも十分いちゃついてますけど、もっとでれでれしてる幽香さんを見てみたいですね。
でも、何故だか見るのが怖い気もしますね。
さくさくさく。
「随分おいしそうね。私にも分けてくれない?」
「……ん」
幽香さんが頼むと、霊夢さんは紫さんを一瞥してから、クッキーを一枚差し出す。
「ありがと」
さくり。
霊夢さんが持ったままのクッキーを幽香さんが齧る。
信じられないものを見たといった風に霊夢さんの動きが止まる。
まさに鳩が豆鉄砲を食ったよう。
それを見て紫様が拗ねたように頬を膨らませています。
幽香さんは知らん振りでクッキーを賞味中。
三者三様の反応で、見ていて面白いですね。
「あら、本当に美味しいわね」
幽香さんが驚きの声を上げる。
幽香さんが半分齧ったクッキーを持ったまま、ぴくりとも動かない霊夢さん。
その残りのクッキーの行き場所に悩んでいるのでしょうか。
「あーん」
霊夢さんが持っている齧りかけのクッキーめがけ、紫様が口を近づける。
それを見てようやく霊夢さんが我に返って動き出す。
「あんたにあげるのは、なんか嫌」
「じゃあ、どうするのよ」
「私が食べる」
「太るわよ?」
「大丈夫よ」
言い合いながら、機械みたいに緩慢な動作で、幽香さんの齧りかけのクッキーを口に運ぶ霊夢さん。
それを指をくわえて眺めてる紫様に、やたらと包容力のありそうな微笑み方をしている幽香さん。
というか幽香さん。絶対わざとやりましたよね。相変わらず性質の悪い。
霊夢さんが食べ終わったのを見てから。
「美味しいわね」
「うん」
含みのある笑い方で幽香さんが尋ねる。
しばらく二人で見つめあった後、霊夢さんが目を逸らし、横を向いて顔を隠してしまう。
こちらからだと見えづらいですけど、照れているようです。
まあ、そりゃそうですよね。相手はあの幽香さんですし。
「幽香」
「なに?」
「私にもクッキーちょうだい」
「自分で取れるでしょ」
「手袋を汚したくないの。分かるでしょ?」
言い方がきつくなり、紫様の瞳が、いくらか鋭さを増す。
その瞳は幽香さんしか見ていない。
クッキーが食べたいんじゃなくて、霊夢さんに対抗したいと思っているようです。
さんざんいちゃついておいて、その程度で目くじらを立てる必要も無いと思うのですが。紫様の嫉妬心も相当ですね。
幽香様も最初からそれを分かっているみたいで。
「分かったわよ」
幽香さんが手を伸ばし、霊夢さんの前にあるクッキーを一枚抓み取る。
霊夢さんはそれを制止するでもなく、横目でぼんやり見ているだけ。
まだショックから抜け出していないんですかね。
「はい」
「ありがと」
紫様がにっこりと微笑み、クッキーを齧る。
さくり。
一口目で半分ほどを食べ。
二口目で幽香さんの指ごと口の中に入れてしまう。
幽香さんの指を舐め取り、クッキーをたいらげる。
「美味しいわね」
「そうね」
満足そうに紫様が微笑む。そしてそれに応えてあげる幽香さん。熱々です。
どうやら紫様の機嫌は直ったようです。
それとは反対に、今度は霊夢さんが機嫌を損ねてしまいそうですけど。
「帰る」
ようやく踏ん切りがついたのか、そう言って霊夢さんが立ち上がる。
あちらを立てればこちらが立たず。幽香さんも大変ですね。
いや、幽香さんは紫様を贔屓しているから、大変なのは霊夢さんだけですね。ご愁傷様です。
「紅茶、まだ残ってるわよ」
幽香さんが落ち着いた雰囲気で声をかけ、霊夢さんのグラスを指差す。
確かにアイスティーが半分くらい残っています。
霊夢さんはそれを見て、どうしようか少し悩んでから一気に飲み干しました。
「ごちそうさま」
そう言って玄関へと向かう霊夢さんを、再度幽香さんが引き止める。
「忘れ物よ」
「そんなのないわよ」
「帽子」
「ああ」
頭が寂しいのに気付き、霊夢さんが立ち止まる。
普段の巫女服だとリボンをつけていますけど、今日は着替えて帽子を被っていましたね。
幽香さんが帽子を持って立ち上がり、霊夢さんの方に歩いていく。
帽子を被せ、髪を整え、おまけに頬に口づけをする。
幽香さんと霊夢さんが視線を交わす。
頭一つ分くらい幽香さんの方が背が高いので、霊夢さんが見上げる形になる。
幽香さんが優しく微笑んで、霊夢さんにさよならを告げる。
「この服はあげるわ。またいらっしゃい」
親戚の娘に言うように、歓迎の意を表す。
この辺の気配りと余裕は、さすが大人の女性という感じですね。
ちょっぴり意地の悪さが気になりますけども。
「また、向日葵を見に来るから。今度は紫がいない時に」
「ばいば~い♪」
霊夢さんが幽香さんの背中越しに、軽口を叩く紫様を睨みつける。
邪魔者がいなくなるので、紫様はどこか上機嫌ですね。
霊夢さんが何かを企んでいるような不穏な笑みを口元に浮かべ、幽香さんに向き直る。
ちょっぴり髪を弄ってから、また幽香さんを見上げ、名前を呼ぶ。
「幽香」
「なにかしら」
「また来るわ」
そう言ってから、少し背伸びをして幽香さんにキスをする。
唇に数秒触れるだけの軽いキス。
そして踵を返し、外に出る。
「ばいばい、幽香」
してやったりといった風の満面の笑みを残して、向日葵畑に吸い込まれてしまう。
あらあら。中々大胆なことをしますね。
紫様があんぐりと口を開いていますよ。
開いた口が塞がらないとはこういうことを言うんでしょうね。
からかいすぎるから、こうやって反撃されるんですよ。自業自得ですね。
……。
観察に専念していたら帰るタイミングを逸してしまいました。
今から霊夢さんを追うのも間が抜けていますし、何よりこの後のお二人の愁嘆場が気になります。
もう少し、観察を続けるとしましょう。
どうやって帰るかは、また後で考えればいいですよね。
☆
霊夢を見送った後、紫が服の裾を掴んでくる。
拗ねたような顔をして、すごく子供っぽい。
私にあんなキスをしてきた相手と、本当に同一人物なのか疑わしくなってくる。
多少の面倒臭さを感じつつ、それが面白くもある。
さっきまであれだけ生意気そうな顔をしていたくせに、ちょっとしたことですぐ自信なくすんだから。
「なに?」
「キスした。それも唇に」
「そうね」
紫が拗ねたように唇を尖らせる。
そのやきもちがどこまで本気だか分からないけど、最後にはちゃんと機嫌を直してくれる。
構って欲しいだけなのよね。
本当、子供みたいなんだから。
「その前はほっぺにもちゅーしたし」
「あれは挨拶みたいなものじゃない。紫にするのとは全然違うわよ」
「お揃いの服着てた」
「それはまあ、そういうこともあるわよ」
不満そうな雰囲気が伝わってくる。
まだ全然納得してないみたいね。
どうすれば機嫌を直してくれるのかしら。
本気で怒っているわけじゃないのは分かっているから、そこまで心配する必要も無いんだけど。
「帰る」
「来たばっかりでしょ。ゆっくりしてきなさいよ」
「やだ。帰る」
面倒臭い奴。
帰ってからすることと言ったって、どうせ寝るだけでしょうに。
別に紫の家まで乗り込んでもいいんだけど。
出来る事なら、向日葵の見えるここで一緒にいたい。
頬を膨らませ、わざとヒールを鳴らして私の横を通り過ぎる。
本気で帰るつもりだったら、スキマを使って何も言わずに消えてしまえばいいのにね。
帰る気が無いのは見え見えだ。
ほら、やっぱり。
ドアの前で立ち止まって、声をかけてくれるのを待っている。
本当、面倒臭い奴だ。
その可愛らしい反抗に笑い出したくなるのを堪え、真面目ぶって声をかける。
「帰るんじゃなかったの?」
「さよならのキス。まだしてもらってない」
「帰って欲しくないから、さよならのキスはしないわよ」
「……」
「……」
根競べ、というほどの駆け引きがあるわけではないけれど。
結局のとこ、これはお遊びだもの。
結末の見えた寸劇。
適当に相手して、からかって、甘やかしてあげればそれでいい。
そして、キスをして仲直り。ただそれだけのこと。
「いじわる」
「あんたが面倒臭いのよ」
紫が振り向き、目と目が合う。
その目にはまだ幾分かは、非難の色が含まれているだろうか。
私はまだ、許されてはいないようだ。
「じゃあ、お詫びのキスしてよ」
「仲直りのキスね」
「どっちでもいいわ」
紫が静かに目を閉じ、顔を上に向ける。
キスをすれば、さっきのことは水に流してくれるらしい。
軽く溜息を吐き、今度は焦らさず、紫にキスをする。
体が触れる距離まで近付き、抱き寄せ、顔に手を添え、今日で一番濃厚なキスをお見舞いしてやる。
お子様が居る前でさんざん誘惑してきてくれたけど、我慢するの大変だったのよ?
もうあんな悪戯する気が起きないくらいに、たっぷりお仕置きしてあげるから覚悟しなさい。
それと、浮気の心配する必要がないってことをちゃんと教えてあげないとね。
私が愛してるのは紫だけってことを、ちゃんと伝えてあげるから。
大好きな紫。
今日はもう離してやらないんだから。
☆
「きゃっ」
「ぐぇ」
「いたたた、ここは一体……」
「きゅぅ」
「あ、霊夢さんすみません!」
下で潰れている霊夢さんから急いで飛びのく。どうやら私は霊夢さんの上に落ちてしまったらしい。
ええと、ここは一体?
確か霊夢さんが帰って、お二人がいちゃつきだして、突然足元が消えてしまったかのような浮遊感に包まれて、
気が付いたら霊夢さんの上に居た。
ああ、きっとスキマに吸い込まれたんですね。
それで、霊夢さんの上に放り出されたと。
周りには背の高い向日葵が咲き乱れているので、ここはまだ太陽の畑なのでしょう。
恐らく幽香さんの家からはさほど遠くない位置。
もうじき夕方、昼間の暑さも多少和らいできました。
それでも、幽香さんの家に比べればだいぶ暑いですけど。
「阿求、あんたどこから降ってきたのよ」
「紫様のスキマですよ。私にはどうしようもありませんって」
「あいつか」
決して幽香さんに投げられたわけではありませんので。はい。
霊夢さんがのそのそと立ち上がり、埃を払って服を点検する。
帽子を被りなおして溜息を一つ。
今日は溜息吐いてばっかりですね。
「一発殴っておけばよかったかな」
「今から乗り込むのは止めといた方がいいですよ。きっとお楽しみ中ですから」
「……」
いや、私に睨まれても困るんですけど。
というか、酷いと思いません?
邪魔だからっていきなり放り出されたんですよ?
お茶のお礼も言えませんでしたし、さよならも言わずじまい。
そんな細かい事を気にする相手とも思えませんけど、私は気にします。
でも、今からあの家に戻る蛮勇があるわけじゃないですし。
今日はこのまま退散するのが吉ですね。
「帰る」
「途中までご一緒してもいいですか? 一人で帰るのは怖いですし」
まだ明るいとはいえ、日が落ちてしまえば一気に暗くなる。
そうでなくとも、黄昏時にもなれば妖怪の活動は一気に活発になる。
人里までの帰り道、用心のために護衛の一人はいてほしい。
「歩くと時間かかるわね」
「そうですね。でも、他に方法も無いですし」
「紫に送ってもらえば?」
「今はお取り込み中ですって」
「終わるまで待ってるとか」
「嫌ですよ」
「そうよね」
仕方ないか、と呟いて霊夢さんが歩き出す。
一緒に帰ってくれる気になったらしいです。
これで一応、身の安全は保障されました。
・・・
てくてくてく。
てくてくてく。
太陽の畑を離れてからしばらく経つ。
会話も無いまま、人里までの道を歩いていく。
もう日が落ち、辺りが暗くなっています。
星明りがあるので、道を見失う事はありませんが。
少し、長居し過ぎましたかね。
歩くペースは、私には少し速い程度。でも、ついていくのがそこまで大変なわけでもない。
霊夢さんは何を考えているのか、私の方を見もせずに黙々と歩いている。
忘れられてるんでしょうか?
時折漂ってくる百合の香り。
霊夢さんの帽子に挿してある百合が香りの出所です。
幽香さんからのプレゼントだけあって、今なお凛とした姿で独特な香りを振りまいています。
その香りに想起されてか、今日の出来事をあれやこれやと思い出す。
「そういえば霊夢さん」
「何よ」
こちらを振り向こうともせず、ひたすら前を見て歩き続けている。
もしかして、嫌われてるんでしょうか?
「幽香さんとキスしましたよね」
「そうね」
「どんな感じでしたか?」
霊夢さんがぴたりと立ち止まる。
そしてこちらを振り向く。
「どういう意味よ」
「あの紫様を虜にするくらいだから、きっと凄いんだろうなーと思ったんですけど」
あの、その阿呆を見るような目はやめてもらえませんか。
ちょっとしたお年頃の好奇心じゃないですか。
傷つきますよ? 泣きますよ?
「今度、自分からしてみたら?」
「いや、それは流石に」
「じゃあ、そいつに聞いてみるといいわ」
「そいつ?」
私の方を見て、霊夢さんが『そいつ』と口にする。
この場には、私と霊夢さん以外は誰も居ないはずですが?
私が『そいつ』に思い至るよりも早く、目の前の空間がひび割れる。
そこから手が伸び、私を掴まえる。
スキマから紫様が這い出し、私に向かって妖艶に微笑む。
その瞳に魅入られ、動く事もできなくなってしまう。
恐怖や驚愕といった感情が湧くよりも早く、その雰囲気に呑まれてしまう。
紫様がスキマから身を乗り出し、私に顔を寄せてくる。
そして、
「いただきま~す♪」
私にキスをする。
唇を重ね、息を交わし、舌でなぞり、唇を食んでくる。
その感触と、紫様から発する甘い匂いに、思わず気が遠くなる。
目の前が真っ白になり、体中の力が抜けてしまう。
「幽香との間接キス。お味はどう?」
「きゅぅ」
「あら、少し刺激が強すぎたみたいね」
「当たり前でしょ。いきなりそんなことされたら、誰だってそうなるわよ」
「幽香はこうはならないわよ?」
「あんたらは別よ」
「それに、水を向けたのは貴女でしょ?」
「そこまでやれと言ってない」
「ぴゃぁ……」
脚がもつれ、倒れそうになるのを後ろから紫様に抱きかかえられる。
あれ? さっきまで目の前にいたはずなのに、いつの間に。
っていうか、おっぱい! おっぱいが背中に当たってますって紫様!
そんなに押し付けたら駄目ですよ! 駄目ですってば!
「幽香といちゃついてるんじゃなかったの?」
「幽香なら今お風呂に入ってるわ。覗いてみる?」
「止めとく」
「その方がいいわ。自分の体と比べて、ショックを受けるのが目に見えてるもの」
「うっさい」
「それに、頼まれたって見せてあげないけどね~♪」
楽しそうな紫様が、腕を巻きつけ抱きしめてくる。
紫様から発する甘い匂いがより一層強くなり、紫様の柔らかい体が押し付けられる。
頭に血が上って目の前がぐるぐる回転しだす。
これは、色々と刺激が強すぎます。
こういうのはもっと、耐性のある娘相手にやってください。
卒倒しちゃいますよ?
紫様、あんまり胸を押し付けないで。
自分の体と比べて悲しくなるから。
「それで、貴女は幽香の事をどう思っているの?」
「綺麗だと思うわよ。ただそれだけ。その他大勢の妖怪と大差ないわ」
「模範解答をありがとう。皆に平等に、それが貴女のポリシーだものね」
「なによ」
「もうちょっと色気のある関係じゃないの?」
「探りを入れても無駄よ。本当に大した仲じゃないし」
「そういうことにしておきましょうか。阿求は私が送ってあげるから、あなたは好きにするといいわ。
帰りしなに、目に付いた妖怪相手に憂さ晴らししてもいいわよ」
「しないわよ、そんなこと」
「幽香に貰ったお洋服が汚れたりしたら大変だものね」
私に頬ずりして、ころころと笑う紫様。
霊夢さんがすんごい渋い顔をされました。
図星なのか、紫様がしつこすぎてうんざりしているのか分かりかねます。
というか、いい加減放してくれませんかね、紫様。
そろそろ鼻血出そうなんでやめてください。割と本気で。
「それじゃあ、また会いましょう。ばいばーい」
「さようなら」
はっきりと別れの挨拶を口にしてから、霊夢さんが空に浮かび、彼方に消えてしまう。
あがったままの私は、またしても別れの挨拶を言えませんでした。全て紫様の責任です。
ろくに動く事もできず、紫様に抱かれたまま、飛んでいく霊夢さんを見送る。
私と紫様の二人ぼっち。
あの、割と本気で、私の貞操の危機なんですけど……。
「阿求、キスのお味はどうだった?」
楽しそうに、実に楽しそうに私の耳元で囁く。
息が吹きかかり、耳まで真っ赤になってしまう。
そういうのは幽香さんとやってください。
これ以上生娘の私を誑かさないでください。
お願いしますから。
「と、突然だったのと、凄すぎたのとで何が何だかわかりませんでした」
「それじゃ、もう一回してみる?」
「勘弁してください。幽香さんに怒られますよ?」
「怒った幽香の顔も可愛いのよねえ」
「惚気ですか」
「そういうこと。屋敷まで送ってあげるわ。これ以上幽香を待たせたら、本気で怒っちゃうものね」
「ありがとうございます」
ぬいぐるみのように抱かれたままスキマをくぐると、そこは見慣れた我が家の門前。
そこでようやく紫様から解放される。
香水の匂いなのか、紫様の女の匂いなのか、この甘ったるい匂いはしばらく取れそうにない。
「今日のことは、きっと一生忘れないでしょうね。思い出してむらむらしたら、いつでも呼んでね♪」
「本気で勘弁してください」
「あと、少しくらいなら幽香と関係を持っても多めに見てあげるわよ?」
「無いですから。浮気は許せなかったんじゃないんですか?」
「さっきのは演技よ。あんなキスくらいじゃ騒がないし。それに、浮気するくらい元気な方が可愛いってものよ」
「そうですか」
「そうよ。それじゃ、おやすみなさい、また明日」
「おやすみなさい」
とても演技のようには見えなかったのですが、どこまで本当なんでしょうね。
私のような小娘には、紫様のような古狸の考えは見通せそうにありません。
それに、今の頭では何も考えられそうにありません。とにかくお風呂……。
スキマに消えた紫様を見送ってからは、夢遊病者のようにふらふらしていた気がする。
自分の部屋に行き、鏡を見て、唇についた紅を落とし、湯浴みをして、浴衣に着替え、今は布団の中に居る。
未だに紫様から移された甘い匂いが体から取れない。
その匂いのせいで、先程の紫様のキスが思い出されてしまう。
せめて目を閉じておけばよかった。
紫様と幽香さんのキスも、紫様の私へのキスも。
全てはっきりと覚えている。
そして、映写機以上に鮮明な映像が頭の中で流れ続ける。
求聞持の能力を恨んだのはこれが初めてです。
この悪夢のような淫夢のような出来事が、頭にこびりついて離れない。
この甘い香りが消え、お二方としばらく距離を取れば、少しは印象が薄れるのかもしれないけど。
幽香さんとは明日会う約束を取り付けてしまったし。
さっきの口ぶりだと、紫様も乗り込んでくる気でいるようだ。(起きられればの話でしょうけど)
ああ。
全く以って、なんと厄介な妖怪に目を付けられてしまったのでしょうか。
体にこびり付いたこの甘い匂いも、きっと紫様の策略なんでしょうね。
目が冴えて全く眠れそうにありません。
紫様。恨みますよ……。
これからもずっとあの二人に付き纏われるだなんて、考えるだに恐ろしい。
さっさと眠って、全てを忘れてしまえたらどんなに素晴らしい事か。
ああ、……ああ。
★
私の愛を疑うなんて、一体どんな神経してるのかしら。
寝すぎて頭がボケてるの?
私に相応しいのは貴女しかいないっていうのが分からないのかしら。
今は式に仕事を押し付けて暇してるみたいだけど。
それでも、一日の半分以上は寝てるじゃない。
私を独り占めしたいんだったら、ちゃんと一日中傍にくっついてなさいよ。
私が他の娘にちょっかい出す理由知ってる?
どこで何してるんだか知れやしないあんたが、やきもち焼いて私に会いに来てくれるからよ。
可愛い子を虐めるのが好きっていうのも勿論あるけど。
そうでもしないとろくに捕まらない紫が悪いのよ。
あんたは私のことを覗き見して満足かもしれないけど、こっちは待ってるしか出来ないから寂しいのよ。
だから、私が他の子と仲良くするのは当然の権利なの。
でも、あんなお子様にまで嫉妬して対抗心を燃やすなんてどうかしてるわよね。
引っ掻き回してくれるし、紫の色んな表情が見れて、私は楽しいけどね。
形はどうあれ、私への愛情表現だもの。
どこまでが本気なのか分からないのが、ちょっと嫌だけど。
一度くらい、本気で怒ったり泣いたりしてる表情も見てみたいわ。
どんな悪戯をしかければ、そんな顔を見せてくれるのかしら?
地底には嫉妬狂いの鬼がいるらしいし、少し相談してみよう。
「幽香を放っておくのが心配だから、今年からは冬眠しないことにするわ」とか言ってくれるかしら?
話しかけても応えてくれないあんたを見てるのは辛いもの。
たまにでもいいから。
ほんの短い時間でもいいから。
冬の間も、私に会いに来てくれないかしら?
夢でもいいから、あなたと話がしたいもの。
今から冬のことを心配しても仕方ないか。冬の事は一旦忘れてしまおう。
心配を抱えていては、夏を存分に楽しめなくなる。それでは勿体無い。
会えなくなるんだったら、今の内にめいいっぱいいちゃついておこう。
冬になったら、面白いものを探して幻想郷を見て回ろう。
冬の間寂しくなったら、その時は。
他の娘に浮気してしまおうかしら。
そうすれば、紫がヤキモチ焼いて起きてくるかもしれないし。
そうじゃなくても、冬眠から目覚めた紫をからかう格好のネタになるのは間違いない。
怒った紫を宥める方法も考えておかないといけないわね。
どんな風に紫が取り乱すか、考えるだけで今から楽しみだ。
ようやく紫が帰ってきた。
私をほったらかしにしてどこに行ってきたのか、問い詰めてやらないと。
色んな相手に色香振りまいて弄んで、私の方が嫉妬してしまいそうよ。
長い長い人生。
花のある日常で満足とはいえ、たまにはイベントがないとうんざりしてしまう。
恋愛を長く楽しむためにも、少しはスパイスを加えないとね。
紫。
あんたが死ぬまで、私の遊びに付き合ってもらうから覚悟しなさいよ。
すばらしい
それにしても空気にされた時の帰るタイミングの難しさは異常。
妖怪の妖は妖しいの妖なだけにオトナだなぁいや本当
紫の方は言われてみれば演技に見えるしなあ・・・駆け引きは色恋の重要な要素ですよねw
惚れたもん負けだ
ゆかゆうかも、ゆうかれいむも、幽あきゅも全部流行ればいいのに。
霊夢さんの巻き返しに期待したい
頑張れ霊夢さん
ゆかゆうかやら幽霊夢やらゆかあきゅやら、、、
当分は百合モノ見れないな。
百合厨の俺に死角はなかった!