#1
絆というのは強いようで脆い。
私とメリーは同じ秘封倶楽部にいる。私もメリーも異質な目を持っている。それだけでよかった。だから私たちは同じ地平線上に存在していると思っていた。あのときのたった一分にも満たない会話はそれを証明したはずだった。
でもどうして、今、この厚いガラスが私とメリーを隔てているのだろう? どうして私が手を伸ばしてもメリーに触れることができないのだろう?
着慣れた白衣からはリンの匂いがした。蓮子はそれがふと気になって白衣の袖の匂いを嗅ぐ。リンのほかにも色々な化学物質の香りが混じっている。少なくともそれは幸福感をもたらす香りではなかった。
服の袖の匂いを嗅ぐなんてまるで意味の無いことかしら、と蓮子はふと思う。けれど、本当に意味が無いわけでもないかしら、とすぐに思い直す。あえて言うなら、この埃が舞いつづける状況から鼻と喉を守るためか。
袖を鼻にあてたまま蓮子はつぶやいた。
「こんなに埃っぽいなんて、ずいぶん先進的なのね」
「しかたないさ」
少し離れた場所から声が返ってくる。
「百数十年前にヒトゲノムの解析は完了しているんだ。今さらこんな古い設備を使って研究する必要がないからね」
これ以上皮肉ってもしかたないか、と蓮子は思い、袖を鼻から離した。そして横目で声の主を眺める。蓮子よりもずっと背が高く、細身で、少し長い黒髪を持つ青年だった。髪はまとまっておらず、いくつかの髪の束がおかしな方向へ向いていた。彼の瞳は深く黒かった。
青年も蓮子と同じように袖の匂いを嗅いで、顔をしかめた。
「人体生物学はとっくの昔に終わっていた学問だよ。人体実験に関わる規制も期限切れ。僕もこういう実験に立ち会うのは初めてだ。まったく、古典を学ぶつもりがとんでもないことになったな……この白衣もカビ臭いしね」
蓮子は彼に目を向けないまま、冷たく返した。
「それはとんだことだったでしょうね」
青年は息だけで笑って腕組みをした。彼と蓮子の視線の先にはメリーがいる。ただ、それは分厚いガラスの壁を通して。
それはは気持ちの悪い光景だった。メリーの体のあちこちにセンサーがはりつけられ、そこから解析マシンへつながる導線が、蓮子には、はみ出した血管に見えた。特に頭のほうがひどかった。メリーの髪はすべて後ろで束ねられ、額には四つのセンサーが意地悪くひっついている。メリーの座っている椅子は無機質にメリーの体を飲み込もうとしている。
メリーは教授の話を聞いていた。ときどき教授から視線を離すと蓮子と目が合って、そのときにはメリーは軽く笑って蓮子に手を振ってくれた。蓮子もメリーに手を振り返す。けれどその手の振りはぎこちない等速運動をしていた。
◆
「目の実験をするわ」
「そうなの」
蓮子はテーブルの上で忙しくペンを動かしながらぶっきらぼうに答えた。メリーも机で開いている本に真剣に目を向けていた。二人は黙々と自分たちの勉強を進めていた。メリーはユングとフロイトの議論をまとめた本を、蓮子は相対性理論の応用理論の演習を解きつづけていた。
学校構内のカフェにはメリーと蓮子以外、誰もいなかった。ほとんどの学生は試験が終わっている。まだ試験が残っている学生も食堂か図書館にこもって静かに勉強をしている。いくら親の金とはいえ、わざわざコストのかかるカフェに行こうと思う人はいない。
カフェの店員も一人しかいなかった。暇そうにカウンターに肘をついてうたた寝をしている。小さいカフェがその日だけはやたらとがらんと広くなって見えた。テラスに置いてある二つのテーブルが薄茶色に寂しく、来ないはずの人を待っていた。静かなカフェに響くのは店員のあくびと蓮子たちのペンの音くらいだった。
しばらくして、蓮子が音を立ててペンをテーブルに転がした。カフェにその音がこだまして、メリーも柔らかい音を立てて開いていた本を閉じた。
「何ですって?」
蓮子はいきなりそう言って、冷め切ったコーヒーの入ったマグカップに手を伸ばした。それからそれをぐいと一口飲んだ。
「目の実験をする……私、聞いてないわよ」
メリーは体の前で手を組んで、それを思いきり頭の上に伸ばしていった。ううん、という声を漏らしながら蓮子に応える。
「当たり前よ、あなたに一度も話していないもの」
伸びを終えたメリーがふうっと吐息を投げかけて微笑した。
「あなたがエスパーでなくてよかったと、私、思うわ」
「それは褒め言葉ではないと受け取っておくわね」
蓮子は苦笑しながらテーブルで頬杖をつき、脚を組み替える。
「で、これから実験をするためにどこかの教授のもとへお願いしにいくわけ?」
メリーはココアに手を伸ばしながらさらりと答えた。
「実験は明後日の午後やるわ」
蓮子はしばらくメリーを眺めていたが、そのうち空いていた右手でマグカップを手に取り、ずず、と音を立ててコーヒーを啜った。何とも言えない苦さが口の中に滑りこんできた。カップの中で蓮子は言う。
「メリーにしては私よりも行動力があるのね」
その声はひどくくぐもって聞こえた。メリーがその声に微笑を崩して少し眉を下げる。それでメリーの哀しそうな表情が作り上げられる。蓮子はその表情を今までに何度も見ている、それなのにメリーの表情からは何も読み取れない。
「あなたに今まで話さなかったこと、もしかして怒ってる?」
メリーの表情と潤いを含んだ声。蓮子は目を閉じてもう一度コーヒーを啜る。それからカップを静かにテーブルの上に置いた。かたん、という音がそれでも聞こえる。
蓮子は目を閉じたまま、つん、と顔をメリーからそらして答えた。
「ベータ崩壊が起きる程度にはね」
「その物理学的冗談が私にはわからないのだけど」
「……ちょっと、ってことよ」
蓮子が小さな声でそう言うと、メリーは哀しそうな表情を崩して、今度は安堵を作る。
「あら、ごめんなさい」
「あんまり反省してないでしょう」
「夢の中でなら反省するわ」
蓮子はため息をつき、うっすらと目を開く。メリーをしばらく見ている。メリーの目と唇と頬をじっと見つめている。そこから読み取れるものを探す。
少しの時間が流れ、そして蓮子はもう一度ため息をついて言った。
「私を実験の立会人にするなら許してあげるわ」
蓮子の言葉に、メリーが今度はにっこりと微笑んだ。
「ええ、お願いするわ」
そしてカフェがまた静寂に包まれた。
蓮子はシャーペンを手にとってまた机に顔を向けた。それは二人の勉強再開の合図だった。蓮子の視界の隅でメリーが少し首をかしげたのが見えたが、すぐにメリーもテキストを開いてそこに視線を落とした。
蓮子はシャーペンを動かしながら思う。メリーも今の不自然さに気づいたのだろう、と。実験の立会人となった私はもっといろんな事を訊くべきなのだろう。「どういう実験をするの?」「どういう教授に頼んだの?」「どこでやるの?」――さしあたっては、こんなところを。訊かないのは不自然だ。
けれど蓮子は何も尋ねない。その不自然さをあらわにしても、訊きたくはない。一度訊いてしまったら、必ず深い亀裂にぶちあたるに決まっている。
――どうして目の実験をしようと思ったの?
蓮子は少しだけ視線を上に向かせる。メリーが静かな表情で本を読んでいるのが見える。さっきまでの不思議そうな表情は吹き消されてしまっていた。もう何も気にしていないようだった。
違う、私は5W1Hを知りたいと思っているわけじゃない、蓮子は自分に反論する。私が言いたいのは、つまり――メリーには目の実験をしてほしくない、ということだ。
でもそれをメリーに言ったところでどうなる? メリーは実験をする理由を話す前に、私がどうして実験を止めようと思っているのか、客観的に「正当な理由」を求めてくるはずだ。
今の私はその「正当な理由」を持ちあわせていない。すぐにそれらしく見える理由を作り上げることはできるかもしれない。でもメリーはそれを看破するだろう、私を揺さぶることによって。私は実験を止めるだけの材料も自信もない。だから当たり前のことさえ訊くことができない。
ふと蓮子は自分の手が止まっていることに気がついた。あわてて問題に目を戻したが、そこに書かれている文字が理解できない。ゲシュタルト崩壊以上にひどかった。インクが紙の上に垂れているということだけしか理解できなかった。
そうやって現実を把握しそこねているうちに、また蓮子の頭はどこか別の場所へ浮遊してく。
メリーが何を求めているか? 想像ができない。仮にメリーがその答えを提示してくれたとしても、そしてそれが嘘ではなかったとしても、きっとそれを飲み込むことはできないと思う。
メリーは言葉の裏にものごとを隠してしまうのが得意。それは二年以上付き合ってきた私だからわかる、私でさえそのものごとをつかみかねるのだから。仮初の答えの裏にはどれほどのものが隠されているのだろう? 私がわかるのは多分、氷山の一角でしかない。
テーブルの向こうにいるメリーの吐息の音がかすかにして、蓮子はまた現実に戻ってきた。そこで蓮子は強引に頭の中でひとつの結論を作る――つまり、理由なんて訊かなくていい。そんなことでこの一日を壊したくはないから……。
◆
実験室に青年の声が響く。
「正直なところ、結果が出ると思っているかい?」
青年はポケットからタバコを取り出して火を点けながら蓮子に尋ねた。煙の匂いと埃の匂いが混じって蓮子の鼻に漂ってくる。どちらもどこか懐かしい匂いだった。
「出るかって?」
蓮子はその匂いを吸い込んで言う。
「出るわよ、当然」
そしてポケットに手を突っ込んで息をついた。
「……そうか」
青年もそれきり黙ってタバコを口にくわえ、大きく息を吸った。
ガラスの向こうで教授が物々しい機械を持っていた。メリーの頭にかぶせるらしい、ヘルメットの形をしたセンサー。
蓮子はポケットに突っ込んだ手の指を無造作に動かしている。指の骨と皮と関節を他の指で何度もなぞった。その感覚が腕の中を伝わっているのも感じた。ただ頭に届かなかった。
メリーがヘルメットをかぶる。メリーの青い瞳がヘルメットに隠される。
#2
メリーが目の実験の話をしてから、また長い時間がたった。蓮子がペンを転がして休憩のサインを出す。
「ねえ、これを見てよ」
蓮子は、椅子の背もたれにゆったりと身を任せてテキストを読んでいたメリーに話しかけた。その声が人の少ないカフェにがらんと響く。
メリーが蓮子の言葉に本から目を離してゆっくりと笑う。
「なあに、蓮子?」
その笑顔が素敵だと蓮子は思う。そうやって微笑むメリーの顔はどことなく可愛さをにじませながら、それでも大人らしい美しさも秘めている。その二つが混じり合っただけでこんなに胸を高鳴らせる笑顔ができるものなのかしら、と少しの嫉妬も覚える。
「この物理の問題なんだけどね」
少し身を乗り出して蓮子はメリーに複数枚のレポートを見せる。メリーはそれに一瞥をくれて困ったような表情を浮かべた。
「蓮子、私があなたに教えられるのは、どうやったら甘いものを好きになれるか、というノウハウだけよ」
「……甘いものは嫌いじゃないわよ。それにほら、ここだけはメリーでもわかるはずよ」
少し呆れている蓮子を見ながらメリーは息だけで笑い、そしてレポートの蓮子が指さす部分を覗き込む。
「0-0=0?」
メリーが読み上げると、蓮子はうんざりしたように腕組みをして椅子の背もたれに寄りかかった。
「いろんな公式や記号を使った挙句、最後に出てくるのがこの式。もう、なんでこういう式を解かなきゃいけないのかしらね?」
メリーはしばらくその問題をじっと見つめていた。その目が少しだけ見開かれているようだった。蓮子は腕を組んで椅子の背もたれに寄りかかった。
「昔、幼稚園でやったわ。ゼロの問題をね。1+0=1とかそういうのばっかり」
メリーはやっと目を上げて蓮子の顔を見た。
「あら、そうなの?」
「それはメリーだってやったでしょう?」
「ええ、やったわ。1-1=0、とかね」
「私がそれで思ったのは」
蓮子は天井をぼんやりと眺めて言った。
「どうしてこんな問題をやらされたのか、っていうこと。だって、ゼロの計算なんてすぐにわかるじゃない。いくつも解くものじゃないわ」
メリーはほとんど空になっているマグカップを手に取り、そして残っていたココアを飲み干した。
「ゼロの意味を理解していないのね、科学って」
メリーの声は無表情だった。蓮子は眉を潜めて身を乗り出す。
「意味? 何もないということではなくて?」
「それは意味ではなく定義。何もないということが定義ですら疑わしいけれど、今はそういうことにしておきましょう」
メリーは両手を組んで、組んだ手の上に顎を乗せた。それからふっと微笑みを浮かべた。
「ゼロはね」
柔らかい声が蓮子の耳をくすぐる。
「発明なの。それは無存在ということを客観的にしたのよ。だから他の数字とゼロを同格に扱うことができるの」
メリーはそう言って組んだ手の指をそっと滑らかに動かしていく。その目は潤っているように見える。その表情はどこか惚けているようにも見える。憧れの恋人を目の前にしたときのように。
「ゼロは境界を超えたのよ。何もないということが、何かがあるということと並んだの。それがどれほど素敵なことか、蓮子、あなたにはわかる?」
蓮子は腕組みをしなおした。いろいろ考えることはある。しかしその前にひとつ感じる。なぜだか、メリーの話は深くない、と。
ゼロということをもう一度よく考えなおしてみた。メリーの言葉には真実がある。確かにゼロは無存在と存在を並べることができる。それは偉大なものだからこそ、だろう。
けれどそれで終わり。偉大――終わり。それ以上の言葉が蓮子の中に生まれない。どうしてメリーがこうも熱っぽく話すのか、蓮子には理解できなかった。
蓮子は冷たくなってしまったコーヒーを飲み干して、それから反論する。
「発明、ではないわね。私が思うにゼロは発見でしかないわ」
メリーの目が少し揺らいだ。冷静な頭をくるくると軽く回転させながら蓮子は続ける。
「数直線での話、“1と2の距離”と“1と-1の距離”は違うものでしょう? どうやら1と-1の間には何かがある。誰かがそれに気づいただけ。ゼロは最初からあったのよ、名前がなかっただけで」
蓮子の話が進むにつれ、少しずつメリーの惚けた顔が冷めていく。蓮子にはそれがはっきりとわかった。
「だからゼロは発見なの。最初からあったものを誰かが名付けた。それが今にも受け継がれている……それだけの話じゃない?」
蓮子はそこで話を締め括った。メリーは組んでいた指をほどき、テーブルの下に手を入れた。それから少し頬を膨らませて言う。
「なあによ、蓮子ったら、ロマンがないわね」
頬を膨らませているメリーの表情が面白くなって、蓮子は思わず吹き出してしまった。その笑い声でメリーがますます眉をひそめる。
「ごめんごめん、メリー。ちょっと面白い顔よ」
「蓮子さんったら、容赦ないわね」
メリーはそう言って薄く笑った。
「でもね、本当のところ、ゼロは無意識の発見よりも偉大だと思うの」
「それじゃあ、あまりすごくないわね。私、あんまりフロイト好きじゃないもの」
蓮子は椅子を引いて立ち上がった。からから、という音がカフェに乾いて響く。
「もうひと頑張りする前に飲み物買ってくるけど、メリーは何かいる?」
「じゃあ、私もコーヒーにしようかしら?」
蓮子はそれからカウンターでホットコーヒーを二つ頼み、また元の席に戻って椅子についた。コーヒーのカップをメリーの前に置くと、メリーは楽しそうにミルクと砂糖をその中に入れた。蓮子はそれを見てふふっ、と苦笑する。
「ブラックのほうが美味しいのに」
ミルクとコーヒー、白と黒の境界がコーヒーの表面で滲んでいく。メリーがぼやけていた境界をかき回し、境界はコーヒーとミルクの間に溶けてなくなっていってしまった。
◆
蓮子とメリーは八時近くまで、カフェに居座って試験勉強を続けた。蓮子は家で食事を作るのが億劫になって、結局二人は外でパスタを食べてメリーと別れた。
それから蓮子は切れていたインスタントコーヒーを買いに行くことにした。その帰り、蓮子はあの電話ボックスを目にした。亡霊のようで、でも電話ボックスは確かにそこにある。
無機質な緑と白で彩られた電話ボックスは、夜の黒い闇の中にぼんやりと浮かんでいる。どこまでいっても無機質で暖かみはなかった。でもそこにあるという事実は決して変わらない。
あの日以来、コーヒーを買いに夜、ここを通るたびに電話ボックスはその姿を見せてくれていた。もう蓮子の目から姿を消すことはなかった。ただそこに存在する。それは蓮子にとってひとつの柱となっているようだった。
たとえ誰の目に見えなくとも、蓮子には見える。ただそれだけで十分だった。そこにあることが確かであるかぎり、蓮子は夢を信じつづけることができた。
だって、私はあの日、メリーと愛について語り合ったのだから――。
アスファルトで覆われた地面とそこに立ち止まっている自分の足を見つめながら蓮子は思った。
問題はむしろ、明日の実験のこと。勝手に立会人になったけれど、まだそれでいいのか確信が持てない。不安の渦は残っている。
メリーがそういう実験でひどく扱われることも怖い。でも、それよりももっと怖いことだってある。
私たちの目の秘密が暴かれたら、もう私たちは不思議を探せないのかもしれない。どういう理屈でもないけれど、なんとなくそんな予感がする。
電話ボックスを見つめていた蓮子は小さくため息をついた。白い息が電話ボックスの光に照らされて白く踊る。蓮子は小さく身を震わせ、インスタントコーヒーの入った袋を握りしめた。もう片方の手で首元のマフラーを上げ、それからコートのポケットにその手を突っ込んで家に向かって歩きはじめた。雪の降らない冬の夜は厳しい冷たさを抱きこんでいた。
ねえ、メリー。本当にどうして、あなたは目の実験をしようと思ったの?
ふと電話ボックスのガラスの向こうに何かが映ったような気がした。蓮子はそれに気づき、何であるかを判別しようとする。けれどその映像はまるで影のようにして消えてしまった。
蓮子はそれを錯覚だと思う。何の意味もない錯覚。無数の目、白い手、そして一冊の本――。
#3
ガラスの向こうのメリーはじっと座っていた。雪の中でうずくまる狐のように身動き一つせず。ヘルメット型のセンサーに隠されて青い瞳を覗けない。彼女の鼻と口からは何も読み取れない。呼吸すらしていないように静かに座っていた。
ガラスのこちら側では解析マシンが空気の唸りを立てて発熱している。排熱口から出るぬるい空気が実験室を満たして、冬なのに妙に汗ばんだ湿っぽさが部屋に満ちる。部屋の隅には大きな綿埃があって、ときどき風もないのに揺れてときには転がった。地上へと続く階段は明かりがついていない。
解析マシンの隣にあるパソコンの前で、教授と助手である「彼」がモニターに映し出される何かを見つめている。薄汚れたクリーム色のパソコンだった。モニターの画面の黒い背景に回虫のような白い文字がのたうちまわっている。
蓮子はガラスの前に立ってじっとメリーを見つめていた。何が起きるわけでもない、それは蓮子もわかっている。ただそうする以外なかった。両手をポケットに突っ込んでただじっとメリーを見つめていた。実験の間、ずっとそうだった。
本当にたまに、蓮子は視線をメリーから横に移すときがある。横に向いた蓮子の視線の先には棚があって、その棚の上には銀のトレーに入ったいくつもの古い注射器が見えた。針が欠けていて、筒の部分にわずかに水らしい液体が入っていた。はるか昔に実験に使われていたものなのだろう、と蓮子は思った。前時代的で、非人道的な匂いがする。
やがて教授が大きなため息をついた。
「……Null」
そう言って教授は古くなってクッションの綿の抜けた回転椅子の背に寄りかかった。
「Null?」
助手である青年の声が柔らかく部屋の壁にあたって反響する。「どういう意味ですか?」
「昔のプログラミング用語だ。まあ……今で言うところの“Nothing”といったところか」
「“Nothing”? それはゼロとは違うのですか?」
青年の声に蓮子は思わず振り返った。唐突に振り返ったので首と背中に痛みが走ったが、そんなことは気にならなかった。――ゼロとは違う? 蓮子は教授と青年の背中を眺める格好になる。
「厳密には違うものだが、今はそんなことはいいだろう」
教授はそう返して腰を曲げて椅子から離れる。それから首を振りつつ青年に顔を向けて、厳しい顔をする。
「とにかく実験は失敗だ。仮説と違う結果が出るならそれもいい。だがその『違う』という結果すら得ることができない。何もわからないままに終わっている……この実験が無駄以外の何ものでもない」
教授は肩をすくめながら蓮子の前に歩み寄る。蓮子は礼儀として教授に体を向けてポケットから両手を引っ張り出した。できるかぎり無表情の目で何も語らないように努める。その裏にあるものを今この教授にだけは知られたくないという思いから。
教授は面白くない、という表情をほんの僅かの間だけ見せて、それからメリーの方に視線を移した。その視線のまま、おそらくは蓮子に向けた言葉を投げる。
「聞いていただろうが、この実験には何の反応もなかった。すべてが正常値、ゲノムにしても視神経にしてもニューロン回路にしても、つまり視覚に関わる分野すべてが正常な人間と異ならないという結果を示した」
そこまで言って、教授は蓮子に興味を失ったとでもいうように蓮子から離れていく。そしてガラスの向こう側に行く扉に向かってこつこつと革靴の音を立てて歩いていった。
「今度は別のアプローチで実験する。それでいいだろう? 新しいアプローチの目星がついたら、またハーンくんに連絡する」
教授は重い緑色の鉄の扉を開けて、ガラスの向こう側の部屋へ行く。蓮子はまたポケットの中に手を乱暴に突っ込む。肩に要らない力が入っていることに気づかない。その奇妙な格好のまま、教授の近寄るメリーに目を向け、じっと彼女を見つめていた。
ふと音もなく助手の青年が、蓮子から少し離れたところのガラスの前に立った。ガラスの向こうで話している教授とメリーを彼も静かに眺めていたが、すぐにポケットからタバコの箱を取り出し、火を点けてそれを吸いはじめる。
「こんな実験、一度でいいと思っていたけどね」
彼が吐いた息が蓮子の鼻に漂ってくる。けれど今度はその匂いが激しい嫌悪感を蓮子にもたらした。蓮子は白衣の袖を鼻にあてて匂いを遮ろうとした。それでも腕と鼻の隙間からじりじりと煙が潜り込んできた。
彼はメリーを見つめたまま、言った。
「まるで彼女がモルモットみたいじゃないか。遠く昔に人間に使われるだけ使われて、そして絶滅していったあの可哀想な生物」
ヘルメット型センサーをとったメリーが教授の話を聞いているようだった。彼女の目が見開かれて、両手を口で抑えたのが蓮子の視界に映る。メリーの瞳が揺れているのが蓮子からははっきりと見えた。
「何がモルモットよ」
蓮子は鼻と口を袖にあてたままつぶやいた。
「あなたがメリーの何を知っているというの」
できるだけ冷たい声で蓮子はつぶやく――彼にも聞こえるように。青年も蓮子のつぶやきが聞こえたようだった。ちらりと横目で蓮子を見て、胸ポケットから携帯灰皿を取り出し、吸いはじめたばかりのタバコの火を潰す。
「……ごめん」
彼は小さくそう言ってガラスの前から離れる。蓮子の後ろを通りすぎて緑の扉の取っ手に手をかけてそれを開く。蓮子はそれを少しの間目で追ったが、やがてまたメリーと教授の二人に視線を戻した。もうメリーは手を膝の上に置いて、姿勢よく教授の話を聞いていた。さっきの揺らぎはもうどこにもなかった。
さっきの言葉は何だったのだろう、と蓮子はガラスに淡く映った自分の顔を見て思った。「あなたがメリーの何を知っている」か。それは彼に向けた言葉ではなく、むしろ私自身に向けた言葉なのかもしれない――私がメリーの何を知っているというのだろう?
蓮子は袖を顔から離した。まだタバコの残り香がかすかに鼻をついて蓮子は思わず目を閉じる。それでも両手をポケットに入れ、拳を握りしめることでそれに耐える。
どうして私はメリーを信じている? どうして私はメリーが見たものを信じることができる? その明確な理由は自分でさえも言葉にすることができない。理由すら今は持ちあわせていないのかもしれない。
けれど、過去に私はメリーを強く信じようと思ったのだ。メリーなら私は信じることができると思ったのだ。それを確信させる何かがあったというのに、今の私はそれを置き去りにしている。揺らぐ――揺らぐ――メリーへの心が。
眼を閉じている蓮子の瞼の裏には泣きじゃくるメリーがいた。
#4
「退屈な試験が終わってしまえば」
メリーがココアのカップに口をつけながらぼんやりと言った。
試験が終わっても学校のカフェはがらんとしていた。春休みに入って半分近くの学生は実家に戻っていった。残り半分は学校にいようとは思っていなかった。キャンパスにいるのは蓮子とメリーと、それから数少ないサークル活動をする人たちだけ。
ココアを一口飲んでメリーは小さく息をつく。
「今度は退屈な春休み。去年は本当に何もすることがなかったけれど、今年はちょっと違うわね、同じ退屈でも」
鞄に手を突っ込んで探し物をしていた蓮子の手が少しだけ止まった。けれど、すぐにその手を再開させる。蓮子はカバンからメリーに視線を移し、鞄をまさぐりながらメリーに返した。
「残念だけどメリー、今年は退屈になる余地がないわよ……って、どこに入れたかしら」
蓮子ががさごそと探しているのをメリーは目を細めて見つめている。小さな笑みがその顔には浮かんでいた。そのうちに蓮子の指先に薄い平面の角が当たった。蓮子はそれをつまみあげて、ぺらんと揺らしてメリーに見せる。
「そう、この写真」
「……山?」
蓮子のつまんでいるその写真には、確かにメリーの言うように山が写っていた。一見すると雑多な木に覆われた普通の小さな山にしか見えなかった。メリーは蓮子から差し出された写真をもう一度よく見てみる。しばらくしてメリーの表情がゆらりと動いた。
「不自然な空間があるわね」
「そうね、そこだけやけに木の成長が遅いと思わない?」
写真の中の他の木に比べ、半径三十メートルほど背の低い木が並んでいる箇所があった。蓮子はそれを不自然だと思っている。つまり、以前はそこに木が生えてなかった――人の手が加えられていた可能性が高い、とメリーに話す。
蓮子の説明が終わってしばらくメリーは手を組んで考えごとをしていたが、やがて手をほどいて蓮子に尋ねた。
「それで、それが私たちの活動とどう関係あるの?」
「私の情報筋によるとね、どうやらかなり昔にここにお寺が建っていたらしいの。ただあるときからこの山では神隠し事件がいくつか発生してね、お寺に来る人が減ってしまったらしいのよ。人や物が忽然と消える山、というところかしら」
蓮子がそこまで言ったとき、メリーの手が一瞬震えたのが蓮子の目に見えた。けれど次の瞬間にはメリーが薄く笑っていて、錯覚だったのかもしれないと蓮子は思い直した。
「確かにそれはミステリーね」
「でしょう?」
蓮子は帽子に手をかけながら得意げに言った。
「だからあなたの次の実験が始まる前に行っておきましょう、ね、メリー」
その声がカフェによく響きわたった。カウンターにいる店員が蓮子をちらりと見るくらい透き通っている声だった。蓮子が少し椅子を引いた音もがらんとした静寂に響いた。
そして音が響き渡って、潮が引いていくように、また静寂がカフェを包みこむ。蓮子は帽子に手をかけたままで、けれど彼女の表情から何かが確実に失われていった。メリーは指を絡ませたまま何も言わない。奇妙な静けさ。微妙な違和感。絶妙なすれ違い。
「どうしたの?」
蓮子がテーブルに腕を置いてメリーに問いかける。
「もしかして境界がそこに見えなかったのかしら? ……ああ、ちょっと映っているところが小さすぎて見えないかもしれないわね」
蓮子はそう言いながらまた鞄に手をかけて開こうとする。
「だったらもっと昔の写真もあるのよ、ちょっと今探して――」
「違うの」
メリーの声は小さかったが、蓮子の動きを止めるには十分だった。蓮子は鞄の中からメリーに視線を変える。メリーの顔から微笑が失われていた。小さく首を横に振って言う。
「違うの、そういうのじゃ、ないの」
メリーは少しうつむき加減にココアのカップを見つめる。蓮子は手を止めてメリーを見ていた。
「……何が言いたいの、メリー」
蓮子は鞄を閉じて椅子に寄りかかった。メリーはうつむいたまま蓮子を見る。その上目遣いのような視線には明らかに何かが含まれている――明るい感情ではない、何か。
「怖くないの?」
メリーの小さな声が震え気味に蓮子の耳に伝わる。蓮子は腕を右手で左肘を持ち、左手で自分の顔の下半分を隠した。
「神隠しが?」
メリーは頷かなかったが、蓮子はそれを肯定の意味で捉える。
「そうね、確かに神隠しが怖くないと言ったら嘘になるわ。でもそれは今までの私たちの活動だってそうでしょう? 半分神隠しじみた場所へ赴いて、境界を超えてきたのだし」
そこで息をついて、また蓮子は話を続ける。
「境界が見つかるかどうかの不安もある。それだって今までの活動で何度か経験したこと。私が見た電話ボックスだって最初はそうだったわ」
落ち着いた蓮子の声がカフェにはっきりと響く。それでもメリーは依然として首を小さく横に振る。哀しい蒼を抱えた瞳で。
店員はカウンターの奥に行ってしまって、蓮子たちの場所からは姿が見えない。カフェには二人しかいない。
蓮子はもう一度口を開こうとした。けれどその前にメリーの声が弱々しく空気を揺らす。
「違うのよ、蓮子」
何が――。
「ねえ、蓮子。あの電話ボックスのとき、確かに私はあなたから電話を受けて、それで電話ボックスの中にいるあなたと言葉を交わした……私はそう伝えたわよね」
蓮子は黙って頷く。メリーが僅かに顔を上げて続けた。
「でも、もし仮に……あなたが電話で会話したのは事実だとしても。次の日に会って、私が何も知らないと言ったら? あなたが私に尋ねてきても、私はそのことについて何も触れなかったら? 私はそのときそこにいたと言えるの? 私は電話ボックスの向こうに存在していたの?」
蓮子はメリーの言葉を咀嚼しようとした。言葉としての意味は蓮子にも理解できた。ただその裏にあるものがわからなかった。メリーの得意な隠しごとではなかったのに、それでも蓮子にはメリーが何を言おうとしているのかがわからない。
蓮子はうなずきもせず口を開くこともせず、ただ黙って頭の中で黒い回路を開く。メリーはつぶやくようにしてまた言葉を紡ぐ。
「神隠しとは、そういうことなのよ。もし誰かがいなくなったら、もう誰にも、消えてしまった人がそこにいたことを証明できないの」
するすると蓮子の黒い回路で思考がひとつの道筋を作り上げた。
「じゃあ、見えたんだ」
蓮子は突き放すようにして言う。メリーがはっと顔を上げる。その目には明らかな哀しみが浮かんでいる。それでも蓮子はまったく動揺しなかった。少しも姿勢を変えないままでメリーに言葉を突きつける。
「そういうふうにいろんなことを私に言って、私が少しでも怖がればいいと、そういう期待があるのでしょうけれど……生憎、そんなことで私は行動しなくなることはないの」
蓮子は脚を組み替えて、テーブルに頬杖をつく。
「もし境界がまるで見えていないなら、あなたはそんなことを言わない。境界なんてどこにもないと言うはずよ。それなのにそう言わない、それがあなたが境界を見たという証拠」
蓮子はメリーに指を突きつける。メリーは口を開こうとするが蓮子がそれを一方的に遮った。
「さっきも言ったでしょう? 今までの探索だって危険はあった。二度とこちら側に戻れなくなるかもしれない、亡霊が私たちの命を奪うかもしれない……そんなことを、いくつも。今さらそれと何が違うというの?」
メリーはまたうつむいてしまう。蓮子はそれを見届けてコーヒーを啜った。ぬるいコーヒーの苦味がいやに強かった。じわりと舌の横に広がってくるのが不快だった。
長い長い沈黙に二人は押しこまれた。カフェの奥から小さなくしゃみが一度だけ沈黙を揺らした。暖房の風が二人の髪を揺らして、それがさらさらと静かな音を立てた。
蓮子はメリーから天井の方に視線を移す。天井に小さな茶色の染みがついていた。蓮子は黙ってそれを見続けた。そこに何の意味も見出すことはなく。
五分近くがたった。蓮子は天井の染みを見たまま言った。
「決まりね」
言葉の語尾の切り方があまりにも切れ味がよく、その切っ先でメリーの胸を刺してしまうような、蓮子には自分の声がそんな響きに聞こえた。
メリーがゆっくりと顔を上げる。もうその顔に哀しみは残されていなかった。代わりに置かれていたのは蓮子ですら裏を読めない表情。薄い笑みを浮かべているメリーの表情。
「さて、時間と場所を決めてしまおうかしら」
そのメリーの表情に蓮子はぞっとする。けれどその動揺を顔に描くことはない。蓮子は胸ポケットから小さな手帳を取り出して机に身を乗り出す。
どこかがすれ違っている。けれど表層的にふだんの秘封倶楽部の会話へと戻る。色々なことが軋む音を立てながら、何かが崩れることを望みながら。
大学の最寄り駅の改札前に、朝八時で集合することになった。その決定がなされ、それから少しだけ他愛もないおしゃべりをして二人は学校の出口で別れる。
「じゃあね、メリー。私はまだ研究室のレポートが残っているから」
学校の門の前で蓮子がそう言うと、メリーは軽く笑って手を振る。
「私も家で明日の準備をしておくわ」
飄々とした表情でメリーはそう言って蓮子に背中を向けて歩き出した。ピンクのマフラーがメリーの金色の髪を優しく包んで、背中で揺れていた。蓮子はその色彩を立ったままじっと見つめていた。赤いマフラーにできるだけ顔をうずめるようにして。
今、私はメリーのことがわからない、と蓮子は思った。メリーの後ろ姿は何も語らない。あの背中の裏にはどんな表情があるのか、マフラーもあの髪も何も語ってくれない。
メリーが実験で何を求めていたのか、メリーは神隠しが怖いのか、なぜ境界が見えたことを私にすぐに話さなかったのか。蓮子が知りえないことは数多くある。
私は――蓮子はうつむいてマフラーに鼻までうずめた――本当に私は、メリーの何を知っているというのだろう?
陽が遠くの建物の縁に隠れ、蓮子のまわりをそっと闇が染色していった。メリーの金色の髪もその闇の色にじっとりと染まった。
#5
「何の変哲もない」
蓮子は山に向かって大声で言った。
「普っ通の山ね」
「地元の人も結局、何も言っていなかったわね」
メリーが蓮子の隣で首をそっとかしげた。太陽がメリーの後ろから射しているせいで、メリーの表情が少しだけ陰になっている。蓮子は指で髪をいじりながらメリーに応えた。
「この山で林業は行われていないから、入る人もいないしね」
そして蓮子はコートのポケットにたたんでいれておいた地図を取り出して広げた。蓮子たちが今立っている位置が写真からでもわかる。「ここで間違いないわね、メリー、境界は?」と蓮子はメリーを見て尋ねた。
しばらくメリーは林を見て考えていたがやがてかぶりを振った。
「いいえ、ここには何も」
「オーケー」
蓮子が黒い手袋をはめ直して歩きはじめた。「だったら行きましょう。それしかないわ」
何もない山だった。冬だが雪は積もってはいなかった。小さな獣道はあったが案内板も特になかった。その小さな獣道も落ち葉が敷き詰められていて、かろうじて道とわかる程度のもの。蓮子とメリーが履いているブーツが落ち葉の上を通るたびにかさりという音が響く。けれど蓮子とメリーが発する音以外、何も聞こえない。鳥のさえずりも虫のさざめきも。
山にある冬の樹木はほとんどが葉を枯らしていた。蓮子の視線が上に向けば、木々の枝の間から少し雲のかかった薄い空色が見えた。その光景は冬にふさわしく寒々しかった。蓮子とメリーの吐く息が白い尾を引いて後ろに流れていく。
蓮子とメリーの服装はブーツを履いていること以外、何も変わっていない。黒と白い帽子、黒と白のコート、赤とピンクのマフラー――なぜならこれはサークル活動であって登山ではないからよ、蓮子はメリーにそう言った。
けれどそういう格好ではひどく登りにくかった。ときどきマフラーが背の低い樹の枝に引っかかり、ブーツは岩の苔で滑り、手袋は木の樹液で汚れた。
「月が見えないと、今どこにいるのかがわかりにくいわね」
蓮子は手元の地図を見ながらつぶやいた。
「蓮子」
後ろからメリーの声が聞こえる。蓮子が足を止めて振り返ると白い息を刻むようにして吐いて少し頬が高調していた。
「ちょっと……手を貸してくれないかしら……私、疲れたわ」
「だめよ」
蓮子は冷たく突き放す。
「だって疲れた顔してないもの」
「そう……ね、ものすごく疲れた顔をしているわよ……」
メリーは苦しそうに笑った。蓮子はそれにいたずらっぽく微笑み返して、けれど手を差し伸べないまま進むべき方向に向いた。
「それにもう少しで着くはずよ。距離でいうなら五百メートルくらいかしら?」
「蓮子、もう少しじゃないわよ、それ」
蓮子はメリーの言葉を軽く流してまた歩きはじめた。メリーが「なによお、蓮子お」と恨み言を投げてくるのを背中に感じたが、それも軽く受け流した。
それから十分ほどして蓮子は写真と地図を照らし合わせる。
「だいたいこのあたりね」
蓮子は立ち止まってメリーに振り返った。メリーはゆっくりと歩きながら蓮子のいる位置まで登ってきた。そして膝に手をつけて肩で大きく息をつく。
「お疲れさま、メリー」
「私お疲れさま」
「でもまだ終わりじゃないのよそれわかってる?」
「蓮子って本当、容赦ないのね。私怖い」
メリーは大きく息をついて姿勢を正した。蓮子はそれを見て笑う。けれどすぐにふっと表情を切り替える。そしてメリーに投げかけるひとつの問い。
「メリー、見える?」
蓮子は目的である空間に視線を投げた。かつて何かがあったと思わせる場所。そこだけ木の背丈がまわりに比べて低い。写真で見た場所のそばに蓮子とメリーは立っている。
メリーは少し息を吸って目を開いた。少しの間、青い目をいろいろな場所に向けて走らせる。落ち葉、雑草、きのこ、葉のない木、尖った常緑樹――。やがて彼女は口を開いて言う。
「……ええ、見えるわ」
「具体的にどのあたりに?」
蓮子が顔を寄せて訊くと、メリーは静かに腕を上げてあるものを指差す。それは大きな傷がついている木だった。細くも太くもない、傷がついている以外はいたって普通の冬の木。蓮子はその木を見て首を傾げる。
「本当にそこにあるの? 特におかしな兆しも見えないけれど」
蓮子の言葉にメリーは力なく腕を下ろす。そしてメリーはクリーム色の手袋に包まれた手を体の前で組んだ。蓮子はそのことに気づかない。
「まあいいわ、行ってみましょう」
そう言って蓮子はメリーを置いてさっさとその木に向かって歩き出した。
◆
そして蓮子は消えた。
「――蓮子?」
メリーの目が見開かられる。蓮子の行ってしまった先を見つめる。瞬きは一度もしていない。メリーは少しも蓮子から目を離していなかった。それなのにたった今、自分の目の前で蓮子が消えてしまった。
「蓮子」
メリーはゆっくりと蓮子が消えてしまった木の前に歩み寄る。メリーの足音は自分の耳に届かない。地面に足をつけているかなんて、どうでもいい。蓮子は――蓮子はどこへ行ってしまった?
その木の前に立った。そして震える腕を伸ばしてメリーは傷のついている木に触る。けれど何も起きない。ただ冷たい風がさあっ、とメリーの髪を揺らして後ろへ通り抜けていく。その風の冷たさにメリーは全身の肌がぞわりとしたのを強く感じた。
心臓が激しく鼓動を打ちはじめる。鼓動の強さにメリーは自分の頭がくらくらしはじめる。何かが起きた。それは間違いないのだけれど、何が起きたのか、メリーの頭はそれを受け容れることを拒否しようとしている。
「蓮子、れんこ……」
メリーはふらふらと空間を歩きまわる。どこかに蓮子が隠れているかもしれないと、自分でも信じていない可能性を頭の中に必死で光らせる。夢遊病患者のように歩く。でもどこにも蓮子はいない。境界さえも見当たらない。
突然、メリーは自分の体がバランスを失うのを感じた。地面の何かにつまずいたか、あるいは自分の足がもつれてしまったからか。メリーは地面に思い切り顔を打つ。その痛みが鋭くメリーの頭に伝わった。その瞬間、痛みの中で痛烈に感じた。
蓮子が消えた。
ひとときの努力をすべて水泡に帰し、無情な顔をしてやってくる現実。夢など吹き消してしまう覚醒。たったひとつの事実からすべての物事が絡まってどこかへ消失する。
メリーは両手を地面について上半身だけ起こした。頬がひりひりと痛む。傷がついてしまったのかもしれない。その頬を撫でてメリーは小さく言う。
「いやよ……」
メリーの目から涙がこぼれ落ちる。
「蓮子、蓮子……いや、いや……!」
そしてメリーは激しく泣きじゃくる。
様々なことがメリーの胸に深く突き刺さる。けれどメリーはそれを理解したくない。深く突き刺さったまま、メリーは血を流し、涙を流す。その慟哭が冷たい山の中に弱々しく響く。どこにも、誰にも届かない叫び。
#6
真っ暗な闇だった。どこにも明かりはなかった。蓮子は参ったとでもいうように頭をかく。
「なあんにも見えないわね」
蓮子は背後に向かって、けれど顔は向けずにそう呼びかけた。しばらく蓮子はそのまま立っていたが、一向に目が暗闇に慣れるわけでもない。闇はいつになっても何の輪郭も浮かび上がらせなかった。
蓮子はコートのポケットに手を突っ込み、ポケットの中にあった四角い携帯電話を取り出した。携帯電話の懐中電灯機能でもないよりはましだと思った。蓮子は携帯電話のボタンを一度押す。けれど何の反応もない。操作ミスかと思い、もう一度ボタンを押した。それでも携帯電話の液晶は何も映してはくれなかった。
フリーズしたのだろうと、一度電源を落とし、もう一度つけてみようとした。けれどその操作を行っても携帯電話は一向に起動しなかった。そもそも電源が落ちたかどうかですらまるで確かではなかった。まるで電池を抜かれてしまったかのように。
「参ったわね」
今度はそれを言葉に出した。蓮子の発する声はどこにも響かない。蓮子はゆっくりと闇の中で後ろを振り返った。
「メリーのはどう? 懐中電灯じゃなくてもいいけれど、明かりになりそうなものはある?」
蓮子は返事を待った。けれど何の反応もなかった。何かがおかしい。蓮子は直感して、何も見えない中で耳を尖らせるように澄ませた。
メリーの言葉は聞こえない。それどころか、メリーの息をする音も何も聞こえない。音を立てるものは蓮子の呼吸と脈を打つ音だけだった。
「メリー?」
もう一度蓮子はメリーの名前を呼ぶ。けれどどこからも何の反応も返ってこなかった。
本当に参ったわね。蓮子は大きなため息をついた。どうやら境界に入るときにメリーとはぐれてしまったらしい。メリーがこちらに来れないのはおそらく私が入った直後に境界が閉じてしまったからだろう。
蓮子は暗闇を見つめて冷静に観察し、思考する。今自分がどういう状況に置かれているのか、できるかぎりの推測をする。
何も見えない――それは十分な推測の材料になる。上を見ても太陽も星も月もない。つまりここはどこかの建物の中。いちばん可能性として高そうなのは窓を作っても無意味な地下室。物音一つしないのだから、かなり奥深い場所かもしれない。
屋内だということならあまり深く考えることはない、と蓮子は思った。歩き続ければどこかの壁に出会うことができる。そうしたらあとはその壁に伝って歩いていく。それだけで外に脱出することは可能だ。この空間が作られたものだとしたら、必ずそこには出口がある。それは人工的なものではなくて境界かもしれないけれど、必ず出口はある。
その推測の元、蓮子は歩きはじめた。いつも歩いているような速度で。ゆっくり歩いて無駄に消耗するよりは、少しくらい痛くても早く壁に当たったほうがいい。この闇の中にいつまでもいるわけにはいかない。
蓮子は歩きつづけた。足を確実に地面につけ、歩きつづける。何も蓮子を止めるものはなかった。何かにつまずくこともなかった。ただ蓮子は足を地面につけて、離して――その運動を繰り返す。
◆
――おかしいわね。
どれだけ自分が長い時間歩いたかはわからない。星が見えないから今何時かもわからない。けれど歩いた時間は少なくとも数分ということはないはずだった。数十分、あるいは一時間以上歩きつづけているかもしれない。
それなのに一向に壁にぶつかることはない。壁の気配を感じることもない。ただ闇の中を歩き続けるだけ。何かがおかしい、と蓮子は思った。いくら広い空間とはいっても、半径がキロ単位の部屋なんてあるのかしら。人工物にしては不自然。
蓮子は立ち止まってまた考えてみる。ふとあることに気づいて、蓮子は脚を曲げた。朝から歩きつづけていた疲労がぐっと蓮子を襲うが、蓮子はそれに耐えてしゃがむ。そして右手で自分が立っている「はず」の地面を触ってみた。
地面であることはわかった。ものすごくしっかりした感触が手の表面でわかる。ただその地面は冷たくも温かくもなかった。温度というものがないようだった。次にその地面を撫でてみた。つるつるとした感触や、ぬるぬるとした滑りがまるで感じられなかった。ガラスを撫でているのとも違う感覚だった。
これは、本当に本格的な神隠しね。私は神なんて信じていないけれど。
蓮子がそう結論づけるまでにはそう時間がかからなかった。
しかたなく蓮子は地面に腰を下ろした。だいぶ荒々しく座ったつもりだったが、それでも腰が痛いという感触もない。何の音も響かない。ただ自分が地面に座っている感覚があるだけ。
具体的に神隠しにあったという記述を蓮子は見たことがない。神隠しがあった「らしい」記述ならいくらでもあった。百数十年前の日本の軍隊にも同じことが起こったらしい。それも一人だけではなく、大勢の人間が。そういう不可思議なことは必ずどこかで記述として残っていた。
けれど誰ひとりとして「神隠しはこういうものだった」と語っている人はいない。当たり前、神隠しから帰ってきた人がいないのだから。そして帰ってきてしまっては神隠しではないのだから。
「現実」を生きている人間は神隠しがどういうものかを「想像」するしかない。
蓮子にはある仮説があった。神隠しというのがどういうものか――それは「ゼロ空間」という空間ではないか、と。かなり昔のある都市伝説として、現代ではあまり囁かれてはいない。けれどひとつだけ昔の文献がインターネットにあった。「ゼロ空間は光も色も音も重力も、何もない空間。本当の無の世界」。それがゼロ空間のざっとした説明だった。
私がいるのは――と蓮子は考えを巡らせる。そのゼロ空間の擬似空間かもしれない。
確かに光はないし音もしない。けれど今私がここに座っている地面の感触はある。私が座っているということは重力がある。私が呼吸しているということは空気がある。そして何より、私がここにいるし、私が身につけているものも確かにここにある。
そういうところから考えると、完璧なゼロ空間にいるわけではない。いろんなところで穴がある。やはりここは「擬似ゼロ空間」でしかない。そうなると「何もない」わけではないから、境界もきっとどこかにあるに違いない。
蓮子はこうしてまたひとつ結論を導く――脱出する術はある。あとはそれをどうやって探すか、その方法を知ればいい。
「とはいっても、私には境界が見えないのよね」
蓮子は座ったまま大きなため息を吐く。丸く響くため息の音。
境界が見えない以上、あとは偶然の出会いに期待する以外にない。そしてその偶然の出会いは向こうからやってくるのではなく、蓮子が歩きまわって初めて出会うもの。それとも「擬似ゼロ空間」ではあっても境界はなくなっている可能性はある?
また蓮子の思考が闇の中に広がっていく。巨大な集積回路が蓮子の頭の中から光を出して現れるほどに。けれど有効な仮説を得ることはできなかった。
蓮子はとりあえず、また歩くことにした。
#7
どれだけ歩いてもこの空間の端、境界に出会うことはできない。蓮子の体内時計が狂っていなければ、もう三時間以上は歩きつづけているはずだった。何も得られず、ただ無駄に疲労ばかりを身体に溜め込んでいくだけだった。身体は鉛のように重くなっていた。
そして蓮子はとうとう地面にゆっくりと倒れこんだ。手足が地面に重く張りついて、動かそうと思ってもなかなか動かせなかった。
疲れているのね。蓮子はそれを強く感じる。肉体的にもそうだけれど、何も見えない今の環境に。正直なところ、冷静な思考はできるけれど不安だってある。私だって少しはクールじゃないときもあるのよ、メリー。
いるはずのないメリーに呼びかけて、蓮子はごろりと仰向けになった。仰向けといっても空が見えるわけでもなく、ただ背中を地面に預けているのがわかるだけ。もうしばらく動く気力が湧いてきそうにない。もしここが和室だったらどれほど気持ちよく寝られただろう。蓮子は小さな妄想をする。蓮子は自分の帽子をとり、それを胸の上に載せた。
そして蓮子は闇のなかで目をつむる。目をつむっても目を開いているときと同じ闇が蓮子を包むだけ。それはとても甘くて無情な闇。それはすぐに蓮子を眠りの世界へ引きずり込む。何の思考を挟みこむこともなく、意識を飛び越えて無意識の深淵に。
◆
長い時間がたった。蓮子はゆっくりと目を開いた。けれど目を開けても光があるわけではない。闇はずっと続いていた。どこまでも深く、それなのに遠く先を感じさせることもなく。ただ厳然として空間は闇。
手足が痺れているような感覚がした。右腕を上げることはできたが、うまく指には力が入らなかった。ふと自分の帽子が気になり、蓮子は右手で胸の上に手を載せる。帽子はまだしっかりと蓮子の胸の上にあるようだった。けれど右手で帽子を触っているという感触が薄かった。あるということがわかったのはどちらかというと自分の胸。
闇を見つめたまま蓮子はぼんやりとしていた。何かを考えようにも、なぜか思考がうまく開かない。脳が強い重力に引っ張られているように。
自分が今、どんな状態にあるのか、蓮子にはよくわからなくなっていた。闇の中で仰向けに寝ている。はっきりと理解できるのはそれだけだった。どうしてここにいるのかも、今まで何をしようとしていたのかも、記憶までが曖昧になりかけている。
もう一度、右腕を動かす。確かに動いている感覚はある。ただその感覚がどうも鈍い。右手が自分の体の中心から遠く離れているようだった。服のポケットに手を入れて、そこに携帯電話があることも確かめられる。けれど、服に触れるまで自分が服を着ているということも、携帯電話に触れるまで携帯電話を身につけていたということも、何もかもが曖昧になっていた。
長い時間寝たはずなのに空腹感がなかった。しっかりとした地面で寝ていたはずなのに体のどこにも痛みがなかった。自分の体の感覚でさえどこか遠いものを見ているかのよう。
唯一はっきりとした感覚はみぞおちのあたりで心臓が動いている、ということだった。その鼓動が肌でむずむず疼いていた。
私は何をしているんだろう、蓮子はうまく回らない頭で思った。視界の隅が滲むように黒くなっていくように感じる。
私は今、何をしているんだろう。もう一度蓮子は思う。いや、今私は何もしていない。ただこうやって仰向けになっているだけだ。そうして私の体は少しずつ私から離れていく。私の頭も、私の手も、私の足も、私の腹も――最後には何もかもなくなってしまうのかしら。
そこまで考えて、そのおそろしい思考に蓮子はぞっとした――肌に鳥肌が立つ感覚もどこか遠くにあるようだった。
蓮子は慌てて上半身を起こした。地面の感触が背中から離れていく。胸から帽子が落ちる。蓮子はそれを左手で拾い、思いきり頭を横に振った。振るたびに髪が頬にあたっているはずなのに、それさえも希薄な認識しかできない。あまりに強く振りつづけて頭がくらくらする。そこで動作を止めた瞬間から、またすっと感覚が蓮子から逃げていく。果てしない眠気が体を冒していくように。
不安と恐怖。蓮子はその二つをぼんやりとした意識の中で感じた。まるで自分の体がなくなっていくみたいだ、と。
違う、なくなっているわけではない。蓮子は指を絡めて自分に言い聞かせる。闇の中でただ私の姿が見えないだけ。体は間違いなくここにある。今絡めている指がそれを教えてくれる。蓮子は思う。
けれど指と指が触れているということがすぐにわからなくなる。摺り合わせても、もう何も感じなくなる。
怖い、と蓮子ははっきりと思った。「体はここにある」ということが意識ではわかっていながら、私自身が知覚できない。肌でそれを証明することができない。視覚でも聴覚でもわからない。
蓮子の思考が先へと続く。もし仮に、私が何も体で感じることがなくなったら? もし五感すべてを失ってしまったら? 「ある」ということがわかっていても、私自身がそれを一切感じることができなくなったら? それは――。
蓮子の心臓が遠くで収縮する。ぎゅっとできるだけ小さくなるように心臓は縮みこむ。何かから身を守るように、あるいは逃げるように。
もし私が一切何も知覚できなくなったら、それはないのと同じことなのかもしれない。
それからゆっくりと時間をかけて蓮子の五感が奪われていく。
視覚を奪われた。何も見えない。何の輪郭もつかめない。
聴覚を奪われた。何も聞こえない。手を叩いても何の音も聴こえない。
嗅覚を奪われた。自分の体の匂いもわからない。
味覚を奪われた。自分の指の味もしない。甘くも苦くもない。
そして最後に触覚を奪われた。自分の指も、中にあるはずの心臓も感じることができない。
触覚を失って、蓮子は叫んだ。もう何も聴こえない。どれほど大きく叫んでも胸の痛みもない。鼓膜の震えもない。地面についているはずの足の感覚もない。そして自分の帽子がどこにあるのかも、わからない。
――残ったのは蓮子の思考だけ。
#8
永続的な時が過ぎた。意識だけが作用する空間では体内時計も機能しなかったが、それでも途方もない時の経過だけは蓮子もどこか遠くで理解できた。
ただ、自分がどの状態にいるのかは理解できない。静止状態なのか、運動状態なのか、あるいはそのどれでもないのか。自分の身体などとうに奇々怪々な物体に捕食されているのかもしれない。そういう想像すら浮上してくるが、そうと認識させるものはない。
完全なる理解は、感覚をすべて放棄させられた今こそが完全な「ゼロ空間」の在り方だということだった。何も存在しない、知覚できない、何も作用しない。何も、何も、何も、何も「存在しない」。
自分がここに存在するのか?
その疑問すら声として反響せず、あるいは発声すらされず、ただ意識の中で浮遊するのみ。思考だけが空虚に回転しつづける。それでも模索せずにはいられない。ここから抜ける方法を。今はそれだけを必死に。
しかしそのうちにその無駄な思考にも飽きが来る。吐息を漏らそうにも呼吸の感覚がない。実感は死する沈黙。意志は意識の中で行き場を見失う。
メリー。蓮子はゼロ空間の中で存在するはずのない人物を呼ぶ――正確には意識の中で想起する。その行為はメリーという人物が自分の眼前にいるように錯覚させることが可能だった。触れることも、見ることもできないが。
蓮子は意識の中で仮説を立てる。もしメリーが存在し、自分の手を握れば、蓮子は蓮子の身体を奪還できることが可能なのか、と。蓮子は未だかつてメリーの身体を知覚したことはないが。
その仮説は簡単に否定される。不可能だ、と。なぜなら現在の蓮子は五感を喪失しているから。メリーが蓮子にいかなる作用をもたらしても蓮子自身は身体が存在することを理解できない。それどころか、メリーがそこに存在するかどうかですら認識するのは不可能。
蓮子は蓮子自身に閉鎖される。他の誰が蓮子を認識しようと、蓮子は自分を認識できない。
そこで蓮子は唐突に「ゼロ」の会話を思い出す。
メリーがゼロを語るときの熱色の表情を想起する。
「ゼロはね」
蒼色の瞳孔を想起する。
「発明なの」
絡めた指の仕草を想起する。
「それは無存在ということを客観的にしたのよ」
もしかしたら、と蓮子は不意に突き当たる。
人間は「ゼロ」を渇望したからこそ、その姿を創造したのではないか、と。そしてゼロを創造した人間の周囲の人間もその存在を信頼した。ゼロを欲した。ゆえに「0」は「1」と同列に扱われた。
発見なんて不可能だ、と蓮子は痛感する。知覚できないものを発見するのは不可能だ。今の蓮子がメリーに触れられてもそれを知覚できないように。他の誰が蓮子の意識に直接「メリーが存在する」と囁くとも、蓮子はそれを確信できない――それはメリーが存在しないに等しい。
◆
そして蓮子の意識が覚醒する。メリーの揺れる青い瞳、闇にじっとり染まる金色の髪、悲しみに満ちる表情――メリーの一部が細い糸となり、他の糸と絡まりあい、一度はほつれながらもまた絡まり、そして大きな糸を紡ぎ、それははっきりとした道筋になる。蓮子はそれを意識でしっかりと握った。二度と離さないように。
メリーは、そう、だから目の実験をしたのね――蓮子はしっかりと意識の動きを感じた。
自分の知覚を認めてもらいたかった、自分が見た境界がそこにあるという「真実」を求めた。誰もが見えるような「客観的」な形をもって、すべての人に認めてもらいたかった。相対性精神論を専攻しているからこそ、その思考がきっと生まれてくる。どこかには必ず「絶対的真理」が存在していると。
でもあなたはそれがわからなかった。自分が見たものが存在しないと言われてしまった。教授はそれを信じてくれなかった。だからあなたは自分が見たという事実すら疑ってしまった。だからあなたは自分の目が怖くなってしまった。
だからあなたは――蓮子は叫びたい衝動に駆られた。けれどその衝動はすべて意識の中で反転して戻ってきてしまう。それでも蓮子は強く思った。
そう、だからあなたは自分自身が存在しているか、それさえも疑いたくなってしまったのよ。
ロジックはなかった。ただ強い感情に駆られて言葉を組み立てただけだった。蓮子はそれを理解している。ただロジックが通ってはいなくても――そういうことなのだと、それだけを強く思う。
自分が存在していることを疑うことが、どれほどに恐ろしいことか。私には欠片もわかっていないかもしれない。私はここにいる、その当たり前すぎることを疑うことは科学にはできなかったから。科学は決してそういう学問ではないから。
でもね、と蓮子は闇の中で優しく笑う。
客観的な真理なんて、存在しないのよ。今ならわかる。客観なんて、主観の束でしかないの。存在なんて、誰か一人が否定すれば揺らいでしまうほどもろく、弱いものなの。
その中でもひとつだけ確かなことはあるわ。
私はここにいる。今こうして、ものを思う私は確かにここにいる。たとえすべての感覚を失っても、それでも今こうして考える私は、ここにいるんだから。
そしてメリーは私の外に、そして内にいる。
たとえ他の誰が認めなくても、私は願う。メリーが存在することを、メリーが見たものを。
なぜなら、私は――――
#9
すとん。
軽い落下と共に蓮子の体にすべての感覚が戻ってきた。それは羽のように軽く、そして風のように爽やかに。自分の体が異様に軽いことに蓮子は軽く目眩を覚えた。するりといろいろな現実が耳と肌と目と鼻と舌から入り込んでくる。
五感から入ってくる現実は意識で速やかに処理されてひとつの結論を出す。今、私は病院のベッドで寝ていて、外は夜で、ベッドは柔らかくて薬の匂いがして、そして口の中が乾いていて、私は天井を見ている、と。
自分がこうしてベッドに運ばれるまでの記憶を映像として思い返そうとする。神隠しの山に入り、メリーと二人で登った。私はメリーが見た境界に足を踏み入れた。そこで私は確か神隠しにあったはずだ――と、そこまでは思い出せる。
そこまでは覚えているのに、その後は何もなかった。自分がその先で何を見たのか、そしてどうやってそこから出ることができたのか。映像のコマがそこだけすっぽりと抜け落ちているようだった。思い出すための足のかけどころもなかった。
記憶の旅路を辿るのをやめて、蓮子はゆっくりと体を起こした。その体の軽さにどうしても蓮子は慣れなかった。けれど、体の感覚は確かにある。指を曲げると確かに握りこぶしを作れる。息を吸えば確かに肺に空気が入った感覚がする。そして自分の膝もとを見れば、メリーが頭を載せて寝ている。
メリーの姿を見て、なぜか蓮子は自分の頭がやけに気になり、そっと左手で自分の頭を撫でてみる。帽子はなかった。横に視線を投げると、ベッドのそばのミニテーブルに帽子は載せられていた。よく見ると自分の服装も山に入ったときの服装ではなかった。清潔さを感じさせる淡青の病院着。蓮子がいるのは病院の個室だった。
長い夢を見ていたのかしら、と蓮子は思った。途方もなく長く、そしてどこまでも暗い、そんな夢を。
蓮子は小さく息をついて、それから自分の膝もとで寝ているメリーの姿を見た。とても安らかな寝息を立てて、メリーの表情はとても穏やかだった。肩がメリーの呼吸に合わせて上下して、その度にメリーの肩にかかる髪の光がさらさらと流れた。けれど彼女の頬には擦り傷があった。目元は赤くなっていた。
メリーは、と蓮子は思う。メリーはずっと私のそばにいたのだろうか? 私が目を覚ますまで、ずっと? どれくらいの時間? 泣き疲れてしまうほどに?
蓮子は時間を知ろうとした。けれど窓にはカーテンがかかっていて、外の星がレースにまぎれて見えなかった。まわりを見回してもなぜかカレンダーも時計もなかった。本当に知りたければベッドから出てしまえばよかったのだろうが、メリーが膝もとにいる今、蓮子にはそれができなかった。メリーを起こしたくはなかった。
「蓮子……」
メリーの唇が動いて蓮子の名前を漏らした。声にならないような声で。蓮子の胸がどきりと激しい鼓動を打った。何かが深く蓮子の心臓を揺るがした。メリーは私の夢を見ているのだと、どういう根拠もなかったが、けれど蓮子にははっきりとわかった。
「メリー」
蓮子はメリーを起こさないような声で、小さく、優しくメリーに伝える。
「私もきっと、あなたの夢を見ていた。私もきっと、あなたのことを強く求めた。それがどういうふうに夢の中で起こったのか、私にはわからない。夢の内容を全然覚えていないから……それでも私は強く思ったの」
蓮子はそう言って、そっと右手を掛け布団から出した。そして自分の膝もとに置かれているメリーの手に、自分の手をそっと重ねた。その手を優しく握る。
「私はここにいる」
そして蓮子は薄く微笑む。
「メリーはここにいる」
たったそれだけのことが証明できない。それがどうしてこれほどまでに心細いのだろう。どうしてこれほどまでに哀しいのだろう。その儚さを蓮子は強く、強く感じてしまう。切なくて涙が出そうになる。
だからこそ、蓮子は信じ、願う。
「私たちは、ここにいたい」
それがどれほど心細いものだとしても、今、手をつないで熱を通い合わせることだけで、それを信じきれると思った。だから蓮子はメリーの手を離さない。優しく触れているくらいの力で包んで、離さない。
メリーがぎゅっと、蓮子の指を握った。
#10
「実験を中止にしてください」
教授はすごい勢いで蓮子に振り返った。背中がねじ曲がってしまうのではないかと思えるほどに。その顔には明らかに驚きの色が浮かんでいた。
「なんだって?」
教授は少し上ずった声を出す。
「実験を中止?」
「ええ」
蓮子は小さくうなずいて返す。
「もう私も、メリーもこれ以上の実験の結果を求めてはいませんから」
「冗談じゃない」
教授の顔は驚きから苛立ちの色に変わる。音を立てて椅子から立ち上がった。
「ここで実験を中止するのか? あの古臭い脳科学科の奴らからもう少しで視覚ヴィジョンモニターを借りられるところだったんだ。あの頭の固い奴らから! あの胡散臭い奴らから! そうなればこの実験は大きく前進する、それがわかっているのに?」
教授はマシンの前で右へ左へ歩きまわった。やり場のない苛立ちをどこにぶつけようかで悩んでいて、それがよけいに自分を苛立たせているようだった。蓮子は黙って教授の様子を見ているだけだった。
やがて教授は立ち止まり、蓮子に視線を向けてくる。それは同意を求める視線――ただし、懇願ではない、上から見下ろしているような位置で。
蓮子は首を横に振った。
「実験に前進は要りません」
教授の目が鋭くなる。
「この実験はハーンくんも望んだことだ」
蓮子の胸の琴線にその言葉がかする。それにどきりとして、けれど蓮子は拳を握りしめて言った。
「確かにメリーはそれを望んだかもしれない。でも今は……わかる、メリーはこんなことを望んでいない」
教授は荒いため息をついた。そして今度こそ苛立ちのこもった口調で蓮子に言葉をぶつけた。
「君にハーンくんの何がわかる? 所詮、君は君だ。ハーンくんの友だちでしかない」
「なんて……」
蓮子は思わず握った拳を前に振りだそうとした。そしてその瞬間、蓮子の中に様々なことが渦巻いて、その感情を吹き飛ばしてしまった。まるで平原の竜巻のように。
少しの沈黙、それから蓮子はゆっくりと握りこぶしを解く。
「何を知っているか?」
蓮子は教授を見据えて言う。異様なほど声は実験室に静かに響いた。
「確かに私はメリーのことをほとんど何も知らない。メリーの過去も、メリーの見える世界も、メリーの心の痛みも。どうしてこの実験を望んだかも、私には確信を持って言えない」
それから蓮子はふっと微笑んだ。自分の目の前にメリーがいるような、そんな気がした。
「何も知らないけれど、でも私は――」
突然蓮子の視界が遮られた。何が起きたのか、蓮子は一瞬世界を把握しそこねた。けれどすぐに、自分の前に「彼」が立っているとわかった。自分と教授を隔てるようにしてあの助手の青年が立っていた。
「教授、僕もこの実験には反対です」
蓮子は二歩下がって青年の後ろから教授を見る。教授は明らかに驚き、そして戸惑っていた。
「どうして君までもが反対する? 君だって人体生物学科の研究生だろう」
「理由は二つあります」
青年は至極冷静に教授の言葉に返す。
「ひとつ目。いくら様々な法律や条約がなくなったとはいえ、この実験は非人道的です。ふたつ目。今回の実験対象はあまりにイレギュラーな存在です。それを研究する意味は科学としてはほとんどありません」
教授は青年の言葉を理解する。そしてその意味を考える。
「ちょっと」
蓮子は青年に呼びかけた。
「どうしてあなたが――」
蓮子が前に出ようとすると、さっと青年の腕が伸びて蓮子の道を遮った。
「……あなた」
蓮子は小さくため息をついて腕を組んだ。
「一番面倒なことになるのはあなたよ」
「それでもいい」
青年は冷静な表情をぴくりとも動かさずに答えた。青年の向こう側にいる教授がやがて青年の言葉の裏を読み抜いて、怒りに満ちはじめた。白くなりかけの髪が逆立ちはじめた。
「僕に任せてくれ」
青年は言葉にはせずに、口だけを動かして蓮子に言う。蓮子は少しの間考えて、そしてこの変わり者に今を任せることにした。そしてしばらくの間は観察に回ろうと思う。
この青年が、彼独特の落ち着いた語り口調で、怒り狂いはじめている偏屈なあの教授を、どこまでも冷静に説得させてすべてを平穏に戻す、その道筋を――。
#11
「不思議な人だったわ」
ごうごうとエンジン音が響く飛行機の中で蓮子は言った。
「まあ、あのときも変な人だとは思ったけれど」
「きっと優しいのよ」
メリーは愉快そうに手を口にあてて笑う。
「その行動が他人の理解を超えているだけで」
「それは間違いないわね」
息声で蓮子はメリーに返す。
もう夜だった。機内の明かりはほとんど消え、乗客と眠りの世界を共にしている。窓から入ってくる月の光が青白く寝ている人間の顔を照らす。とても静謐な光景だった。
蓮子とメリーはその静寂の中でひそひそと話す。他に小さなしゃべり声は聞こえない。まだ起きているのは蓮子たちだけだった。
イギリス行きの飛行機は八時間。どんなに人類の技術が発展したとはいえ、庶民が外国へ行くにはまだ古い技術に頼るしかなかった。飛行機はまだ消えていない。ジャンボジェット機もまだ残っている。
イギリスへ行こうといったのはメリーだった。実験がなくなったということを知ってすぐにメリーが言い出したのだ。行き先をメリーが決めるなんて、ずいぶん珍しいことね、と蓮子は思った。
メリーはイギリス旅行の目的も何も話してくれなかった。けれど蓮子にはなんとなく目的が想像できた。イギリスはメリーの生まれ故郷だから。だから私はメリーに付き添うだけでいい。メリーには、メリーなりにしたいことがあるのだから、私はただメリーのそばにいて、彼女を支えているだけでいい。
そうして三月に入って二人は日本を発った。だから今、夜が満ちる飛行機の中で小さな内緒話をしている。
「あの人も多分、蓮子のことが嫌いというわけではないのよ」
メリーはいたずらっぽく笑った。「それはどうも」と蓮子は返した。その言い方が面白かったのか、メリーはくすくすと笑う。蓮子は小さなため息をついたが、それでもメリーの笑いにつられて同じように笑った。
やがてその笑いはおさまり、二人は静寂の中、向き合った。翼が空気を切る音が聞こえる。
「ねえ」
蓮子の声が機内に小さく小さく響く。蓮子はメリーにぐっと顔を寄せた。メリーの目が柔らかく光る。メリーの甘い吐息が蓮子の鼻にかかる。それでも蓮子は目を離さない。
「私、ゼロのことをあれから考えてみたの」
――あれからメリーは何が起きたのか、何も話さなかった。どうして蓮子が病院に運ばれたのかも、空白の時間に何があったのかも、結局境界がどうなったのかも。
それでも蓮子はよかった。大体の想像はついていたし、メリーがそれを話さないことに意味があるなら、私はそれを信じる。それだけの話だから。
蓮子の言葉にメリーの瞳が収縮する。それからまたゆっくりと蒼い瞳がもとの大きさに戻っていく。
「なあに?」
「私、ゼロの存在を知っている。信じている。ゼロは私に欠かせないものだと思っている」
「うん」
メリーの瞳が少し潤んだ。
「私もよ、蓮子」
メリーは少しだけうつむいた。
どうしてだかはわからない。けれど蓮子は衝動的にブランケットから手を出した。指先まで冷え切っている両手を出した。そしてメリーの、ブランケットの下に潜むメリーの手に触れた。そっと肌と肌が触れ合う、あのくすぐったい感覚がした。
「メリー」
メリーがはっと顔を上げた。蓮子はメリーを見つめる。メリーの目をじっと見つめる。
「私は、あなたといたい。あなたがいてほしいの」
自分がこれほど強くメリーを――と蓮子は思った――こんなにメリーを求めたことは、今までに一度もなかった。手にさえ触れてはいけないと思っていた。でも、今は――たまらなくメリーが愛しい。
「蓮子」
メリーの目から涙がこぼれた。
「蓮子……」
そしてメリーの顔が小さくゆがむ。頬を涙が伝っていく。伝って、メリーの顎から落ちて、ブランケットの上で小さく撥ねた。どこまでも澄んだ涙だった。
メリーが蓮子の手を強く握った。蓮子もその手を強く握り返す。
電話ボックスの向こうではない。今、メリーはここにいる。強い実感を伴って、蓮子の胸はその現実を受けとめる。それはものすごく重く、濃く、大きいものだけれど、それでもその重さを感じながら、受けとめる。
メリーはここに存在する。ちゃんと存在して、境界を見ている。私はそれを信じる。どこまでも、いつまでも。なぜなら――
「メリー」
蓮子はそっとメリーに微笑みかける。
「だって、私、メリーのことが好きだもの。とても、たまらなく」
月が映る窓を背にして、メリーは笑う。美しく、素敵に笑う。
「私もあなたが好きよ、蓮子」
メリーの過去が何であれ、見たこともないイギリスが何であれ、私たちは不思議を信じてそれを探しつづける。それで私たちはどこまででも行ける。
蓮子は強く信じた。強く願った。そして望んだ。
夜空に光る星たちは二人の遥か向こうで光っている。時を刻む。
ごめんなさい
2人がここにいるということを証明出来ずとも「私たちはここにいたいんだ」という結論を出せた蓮子に乾杯したいです。
他の人よりも不確定なメリー自身の不安も、メリーに対する自分自身の戸惑いや躊躇いも、この蓮子ならば受け止めてくれそうだと頼もしく思いました。
理数関係がさっぱりなので話が分かりにくく感じたところもありましたが面白かったです。
次回も楽しみに待ってます。
前作より遠慮が無くなってて見ていて微笑ましいけどまだまだもどかしい友情関係ですねw
これからも楽しみにしてます
零から認識(認知?)に繋げるとは・・・
面白かったです
そうだ、
ずっとこんなSFが読みたかったんだ。
無駄に飾らないシンプルな文章であるのに独特の空気というものを感じる。そこがスゴイ。
よくぞここまで表現できるものだと感嘆するばかりです。
こういう理数系の物語は一体どうやって着想しているのか、同じ物書きとして非常に気になるところ……。
もし差し支えなければ参考として教えていただきたいです。
次回作も当然期待してます。これからこの秘封倶楽部がどんな道を歩んでいくのか注目したいところですね。
存在否定...か。
してはならないことで、でもそれをきっかけに新たな自分を知ることができる。
裏表の答えを導き出すのは難しいです。