Coolier - 新生・東方創想話

雪が、止んだら

2010/10/30 23:50:16
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「本当に、宜しいのですね」
 磨きぬかれたタイルのように、その声の響きは私の心の細部までを映しだすのでした。
「はい。もう決めたことですので」
「最終確認です、今後一切、その言動覆すこと罷りなりません。……貴女の選択は、きっと誰も救えないでしょう。それでも貴女は自らの意志を貫き、伴う責全てを己が身に背負うことを誓いますか」
 
 私はこれまでの人生を思いました。両親のこと、ぼろ小屋のこと、ひび割れた花瓶に挿した一本の薔薇のこと――それから、きっと寒さに震えながら眠っているであろう妹のことを。
 切れ切れに浮かぶ言葉の断片を繋ぐ直前、最後に過ぎったのは紛れもない、何よりも望んだ妹の笑顔でした。

「はい。誓います」
 これより他に、後はないのですから。
 


   *


 
 地霊殿には薔薇の香りが充ちている。これは比喩でもなんでもなくて、本当に強烈な、咽かえるようなそれが常にわたしたちに纏わりつき、肌の裏に壁紙の背に花びらを押しこめているのではないかと思われるくらい、匂いは日常に浸透していた。広い割に何もなかった地霊殿の庭先、地底特有の乾ききった土壌に、お姉ちゃんは熱心に薔薇を植えている。わたしたちがここに引っ越してきてからずっと、植え続けてきたのだ。赤、黄、紫、白……それはもう、沢山。初めは館に寄り添うように小ぢんまりと並べられていた花たちは、いつの間にか庭園中に咲き乱れ、浜辺に打ち棄てられた巻貝のような花弁を揺らして蜜の香りを風に運ばせている。
 
「こいしは、薔薇が好きだったでしょう?」
 いつだったか、お姉ちゃんはこんなことをわたしに言った。多分、地霊殿に来て間もない頃だったと思う。
 だった。……そう、好きだった。わたしは確かに薔薇を好いていた。地霊殿に引っ越す前、地上のぼろ小屋に暮らしていたときは、わたしはどんな花より薔薇が好きだったのだ。何故好きだったかは思い出せない。理由なんてなかったかもしれない。小屋には花瓶が一つだけ置いてあって、それに紫色の薔薇が活けられていたことを思い出す。薔薇を買ってきたのはわたしだった。あのとき、どういう思いで薔薇を選んだのかは判らない。ただ事実として、埃の溜まっていた花瓶の水を入れ換え、丁寧に挿しこんで小さな部屋の小さなテーブルの真ん中に載せてお姉ちゃんの帰りを楽しみに待っていた記憶が名残っているだけ。
 今のわたしは、薔薇なんか好きではない。むしろこんな花、世界から消えてなくなってしまえばいい、と、本気でそう思っている。一体どういう紆余曲折を経て嫌うようになったのか、それももう、判らない。審査過程はわたしの心を侵す無意識の水底に沈殿してしまって、嫌いだという感情の判決結果だけが水死体のように浮かんでいるのだった。
「昔はね」
「えぇ。好意も愛情も、過去にしか存在できないものなのです」
 お姉ちゃんは文庫本に目を落として、わたしを見ようともしない。自分から話を振った割に、どうでもよさそうな様子だった。とは言え、お姉ちゃんは何事にも無関心なのが常だ。どこか遠くに焦点をぼかすような視線は、心を読める能力のせいなのだろうか。皮膚を透かし、心の奥底を見下ろす瞳はどこまでも冷たく、排他的で、孤独だった。
 
 お姉ちゃんの孤独は、どこから始まったのだろう。その面影に冷気と厭気を含むようになったのは、いつからだったのだろう。まぁ、お姉ちゃんは元々明るい性格ではなかったし、どちらかと言えば内向的な性質の心をしていた。少なくとも、わたしが心を読めていたときはそうだった。それが地霊殿に住み始めた初めの頃も変わらず、むしろ肥大化して常に影に付きまとうようになっていたのは、わたしが第三の瞳を閉じたことが原因の一つとして挙げられるかもしれない。
 唯一、お姉ちゃんの心を理解でき、唯一、わたしの心を理解できる。わたしたち姉妹はそういう、大海原に取り囲まれた孤島のように小っぽけな世界に生きていた。心を読み、読んでもらうことで、独りぼっちではなかったけれど――海流をどこまで進んでも、ずっと二人ぼっちから逃れることはできなかった。前提として、世界がわたしたちにこの上なく排他的だったのだ。両親を早くに亡くしたわたしたちは、たった二人の家族だった。だからわたしはお姉ちゃんに自分の居場所を求め、お姉ちゃんはわたしに自分の居場所を求めた。盛大な自己満足の世界、凄惨な自己完結の世界に、わたしたちは身を寄せ合って暮らした。
 心を読める、という能力が欠陥や汚点として認識されていた地上では、欠陥品であるところのわたしたちは互いに部品を寄せ集めて補完し、騙し騙し歯車を回していかなければならない存在だった。例えば温もりだったり、優しい言葉だったり、愛情だったり。そういったものを総て、二人で交換して日々を過ごしていたのだ。他の誰も、そんなものはくれない。たとえ嘘でも、そんなことをしてくれるひとはいる筈もなかった。
 
 そして、わたし一人が心を閉ざした。
 わたしの消えた世界に、お姉ちゃんはたった独り残された。


「貴女は最近、よく笑うようになりましたね」
 それから長い歳月を経た今日、お姉ちゃんの表情から、孤独の影は幾分薄らいでいるように思う。これはきっと、お燐やおくうのおかげなのだろう。心を読めずとも、わたしたちを理解してくれるペットができた、これは地霊殿に来てから経験した、最も大きな変化の一つだった。
「そう、かなぁ」
「昔より、ずっといい顔をしてくれるようになったと思います。あぁ、誤解しないで下さい。私は貴女の泣き顔もちゃんと好きですよ?」
「あははっ。お姉ちゃんも変わったね。サド属性が追加されたみたい」
「何、違いますよ。私は貴女が表情をつくってくれるだけで、とても嬉しいのです。たとえそれが悲しみだったにせよ、貴女の気持ちが判ることが、私は何より嬉しい」

 心を閉ざしたとき、わたしは一度、ばらばらに砕け散った。自分で言うのも何だけど、この比喩は中々言い得て妙だと思う。わたしの心は確かにばらばらになったのだ。わたしは感情を表に出すことができなくなった。心を閉ざす前はそんなこと考えもしなかったけれど、当たり前の話だった。心は完全に世界との接続を遮断され、通信する手段は失われてしまっていたのだから。端的に言えば、表情をつくれなくなった。嬉しい、悲しい、寂しい、楽しい……それらの感情を顔に刻ませようとする度、鍵の掛かった心の扉が跳ね返してしまう。感情は勢いあまって無惨に砕け、欠片が飛び散る。虚しい残響が心の中で響きわたる。……それを何度、繰り返しただろう。お姉ちゃんがわたしに笑いかけてくれたとき、わたしは何の反応もできなかった。仮面のような色のない顔が、お姉ちゃんを見つめているだけだった。
 今は大分、色んな表情ができるようになった。幾つかの接続が復旧したのだ。これもきっと、地霊殿での生活のおかげなのだろう。
 
「それに、どんな顔をしていても貴女は可愛いですし」
「お姉ちゃんはわざと可愛さから真逆の位置に立ってるよね。ぶすっとして、何を考えてるのか全然判らない顔をしてさ」
「生まれつきです」
「冗談、冗談。そういうお姉ちゃんがわたしは好き。昔みたく、寂しそうな顔をしなくなったし」
「貴女が寂しいときは、私も寂しくなるのです。だからあんまり、私にそんな顔をさせないで下さいね。泣き顔だってたまに見るからいいのであって、そうしょっちゅう見せられたら私も悲しくて寝込んでしまいます」
「どっちなの、もう。我侭なんだから」
 我侭はきっと、わたしの方。お姉ちゃんの顔がちょっと緩んだ。

「私は我侭ですよ。だから、ずっと私に笑いかけていてくれないと、駄々をこねてしまうかもしれないので」
 そう言って、お姉ちゃんは珍しく、本当に珍しく、にっこり笑った。嫌いな筈の薔薇が、どうしてだか心の表面に一瞬、花開いて融けた。
 ――あぁ。お姉ちゃんがもし、これからもこんな顔を見せてくれるのなら。

 知りもしない、微かな恋の香りがはためくカーテンの隙間から零れ落ちた、ような気がした。
 


   *



 ――こいし、ねぇ、こいし! 聞いて下さい、ねぇ……

 冷たい、朝だった。白銀に反射する光が曇った窓から降りそそぎ、わたしは眠気が重く圧しかかる瞼を薄く開いてぼやけるお姉ちゃんを見つめていた。

 ――こいし、お引越しですよ、大きなお屋敷で暮らすんです……

 吐く息の煙りか、眠気が引いているのか、視界は白く濁っていた。ただ、お姉ちゃんの嬉しそうな弾んだ声だけが大きくわたしの中に響いていた。
 ぼろ小屋の戸は開け放たれ、そこから乾いた凍えるような風が吹きこみ、直後、わたしの視界は黒く覆われた。お姉ちゃんの匂いと、体温と、鼓動がゼロ距離で踊っていた。寝覚めで氷のように凝固した頭は使い物にならなく、わたしはされるがままになっていた。一通り髪を掻き乱して寝巻きを皺くちゃにして、お姉ちゃんはわたしの頬にキスをした。頭が回らないわたしは寝惚け眼のまま、泣いているような笑っているような変な顔をしているお姉ちゃんの瞳を見つめていた。お姉ちゃんは喜んでいるんだなと思い、「よかったね」と呟いた。肩が湿って暖かかった。お姉ちゃんは泣いていた、きっと嬉し涙だったのだろう。
 
 ――……、……

 混濁する意識と無意識の合間に、お姉ちゃんの小さな呟きが滑り落ちた気がした。何と言っているのか聞き取れなかったけれど、わたしは異常な焦燥に駆られて急いで目を覚まそうとした、それから――


 あの日の夢を、見た。
 わたしの心に鮮烈に色彩を融かす、あの日の情景。あの朝の冷気が、今も指先に残っているような感じがした。静かに蕾を膨らませるように、最近あの日はわたしの夢に現れ始め、パステル画から写真へと景色が鮮明に描写されていくような浮遊感を覚えた。
「悲しい夢でも見ましたか?」
 朝食の席、お姉ちゃんはわたしの顔を覗きこんで言った。
「ううん、きっと楽しい夢」
「その割に、幾分寂しそうです」
「楽しい夢は覚めると切なさになって尾を引くんだ」
「切ないの?」
 ――お姉ちゃんの隣はいつだって切ないよ。
 こんな文句が浮かんだけれど、喉の奥で飲みこんだ。これを言葉に出したところで、わたしが伝えたいどんな意味も、意義も、意思もその中には存在できないだろう、と思って。
「今はもう、平気。平気だよ」
 先の夢のしこりを取り除くために、わざと強情に振舞った。お姉ちゃんは眉を八の字に曲げ、少しだけ困ったように微笑む。その瞳に、天窓の灯りが揺らめいている。いつも通りの、よく判らない表情なのだった。


「こいし様とさとり様って、全然似てないですよね。あらゆる側面を観測して、と言うか、多角的視野から判断して、と言うか……取りあえず、すっぱり血の繋がりを断ったようにかけ離れていますよ、お二人は」
 灼熱地獄跡動力管理室に遊びに来ていたわたしは、お燐からこう言われた。
「それはきっと、心の性質の違いを根底にしているんだろうね」
「心の性質、ですか?」
 お燐は何気なく、多分話のきっかけをつくろうとして話しかけただけで、特に深い洞察と観察を基にした言葉という訳ではなかったのだろう。だからわたしの提示した意見は彼女の耳をすっぽり通り抜けてしまったに違いない。
「わたしもお姉ちゃんも、お燐もお空も、みんな心を一つずつ持っている。そしてそれらの心には色んな特徴があるんだよ、温度の違い、色の違い、大きさの違い、領域の違い……」
「領域の違いって、どんな違いなんですか?」
「意識と無意識の領域の、広さの違いだよ」
「意識と、無意識の違い……」
 言葉を反復するのは、大抵意味を汲み取れていないときだ、とお姉ちゃんから聞いたことがある。お燐は尻尾を手持ち無沙汰に振り、曖昧に微笑んだ。

「わたしはね、お燐。心を閉ざす前から、自分の中に限りなく広い無意識の海があることを知っていたんだ。お姉ちゃんはわたしと違って、お父さんやお母さんとの思い出を多少なりとも持っていたし、その暖かさにも触れていたんだと思う。わたしが物心ついたときにはもう、二人とも死んじゃってたから、わたしにとって家族という概念はお姉ちゃんだけを指していた。そして、家族以外にわたしたち覚りに手を差し伸べてくれるひとなんて、一人もいなかった。つまり、わたしの世界はどうしようもなくお姉ちゃんの後ろで閉じきって、お姉ちゃん一人が外の世界の窓口だったし、世界そのものと言ってもいいくらいだった。お姉ちゃんはわたしよりはまだ外に関係を持っていたけど。そうしないと、生きていけなかったからね。でもわたしは自分の、厚く固い殻に閉じこもっていた。閉じこもるっていうのは、広がる無意識に身を浸すって意味。わたしは無意識に隠れて、自己防衛をしていたんだろうね。無意識の中なら、何の言葉もかけられない。何の痛みもない。孤独さえも感じない。傷一つつかずに、嫌なことなんて何にも考えずに生きていられた。外の世界に背を向けていたの。多分、お燐がわたしとお姉ちゃんの間に感じている違いっていうのは、こういうものなんだと思う」

 だから、わたしが第三の瞳を閉じて心を読む能力を失った後、無意識を操る能力を代わりに得たのは、きっと道理だったのだろう。

「……そんなに、そんなにお二人は寄り添って生きていたのに、どうしてこいし様は心を閉じてしまったんですか」
 できれば聞こえてほしくない、でも万が一聞き取ってくれたなら、答えてほしい――心を読んだらそんな言葉が聞こえそうなくらい、お燐は小さな声で呟いた。

「わたしたちは、あまりに近すぎたんだよ」
 あの頃、融け合うほどに、わたしとお姉ちゃんの間には距離がなかった。
「心を読むことでわたしたちはお互いの温度、愛情を通わせることができた。ねぇ、お燐。わたしはあんまりお姉ちゃん過ぎて、お姉ちゃんはあんまりわたし過ぎたんだ。通じ合うそれらの中に、毒が含まれていたって不思議じゃない。さっきも言った通り、わたしの心は無意識が強すぎた。わたしの無意識はお姉ちゃんの心まで、侵食していった。そうして、ごく当たり前のように、滑らかに緩やかに、お姉ちゃんは破綻した」
「それって……」
「わたしの無意識に、心を喰いちぎられそうになったんだ。心というのは、一人一人に違う性質のあるものだって、言ったよね。お姉ちゃんの心のキャパシティじゃ、わたしの無意識に耐えられなかったの」
 
 室内の壁際に設置されたボイラーから、蒸気がもうもうと溢れだす。煙は渦を巻いて、わたしとお燐の間に薄い壁をつくった。この壁は手で掴むことは永遠にできないんだ、とわたしはぼんやり考えた。押し破ることだって、できやしない。膜のようにわたしの皮膚に張りついて、もしお燐に触れたところで、そこに感じるのはお燐の皮膚でなく、蒸気の壁を通した紛い物の温度であり、触感なのだ。
 もどかしい。あの頃の、わたしの心みたいだ。

「無意識に侵され、次第に衰弱していくお姉ちゃんを見て、わたしにできることなんて一つしか思い浮かばなかった」
 
 お姉ちゃんの心を、もう二度と見ることができなくなるとしても。
 お姉ちゃんの温度を、もう二度と感じることができなくなるとしても。
 お姉ちゃんの優しさに、もう二度と触れることができなくなるとしても。

「わたしに後は、なかったんだ」

 そうしてわたしは、お姉ちゃんとの、世界との接続を絶った。無意識はわたしの中に淀むだけになり、お姉ちゃんにまで流れていくことはなくなった。心を閉じるためには、ナイフ一本あれば足りた。

「まぁ、ずっと昔の話だよ。わたしたちが地上に住んでた頃の、遠い遠い、過去の話」
 わたしはお燐に微笑みかけたけれど、うまく笑顔をつくれたかどうか判らない。
「そんな!」
 お燐は今にも泣きだしそうな顔をして、目を伏せた。
「……そんな、惨い話って、ありますか」
「いいんだ。もう、終わったこと。地霊殿に来て、わたしの心はどうやら大分外に向きかけているみたいだし、ね」
 この回復は、わたしにしてもお姉ちゃんにしても、予想を上回っていたと言っていい。死んだも同然の心をお姉ちゃんに僅かでも伝えたいという希望は、地霊殿に引っ越した当初は完全に潰えていたほどだったのだから。

「貴女たちのおかげだよ。わたしも、お姉ちゃんも、どれだけ感謝してもしきれないくらい、貴女たちには感謝してる」
 今度はちゃんと、綺麗に笑えた気がする。お燐も顔を上げて、薄く笑った。
「あたいたちにできることなんて、ここの火力、亡霊管理くらいです。さとり様を本当に支えてあげられるのはこいし様だけ。こいし様を本当に支えてあげられるのはさとり様だけ。だって、姉妹じゃないですか」
 願いをこめるような、透きとおった声で、お燐は言う。
「だからここの仕事はあたいたちに任せて、是非さとり様と一緒にいてやって下さい。あの方も、きっと寂しいんです。それを理解し合えるのは、傍に寄り添えるのは、お二人だけ。お二人の、仕事です」
 地獄の猫は、そう言って瞳を閉じた。三つ編みが蒸気に湿って、きらきら輝いている。
 わたしの顔はどうなっているのだろう。わたしは今、どんな表情をしているのだろう。
「ねぇ、お燐」
「はい」
「地獄って案外、暖かいんだね。もっと焼け焦げるくらい熱いものだと思ってた」
「これから寒くなりますから、きっと過ごしやすいでしょう」
 猫の顔で、お燐は笑った。猫ってこんなふうに笑うんだ。
 ちょっと真似して、お姉ちゃんに見せてやりたい。
 わたしにもこんな顔ができるだろうか。冬までにはこんな笑顔ができるようになりたい。
 
 冬になったらこんな暖かい表情で、お姉ちゃんの心の暖炉になれたらいい。そう思った。
 


   *



 ――ちれい、でん?
 ――そうです、地霊殿。凄くいいところなんですから。貴女もきっと気に入りますよ。
 ――いいところ。
 ――えぇ、もう何も心配する必要はありません。貴女と私、二人でようやく、誰にも邪魔されずに生きてゆけるんですよ。ねぇ、可愛いインテリアを買いましょう。真っ白のレースのカーテンを引きましょう。貴女の好きだった、薔薇の花を植えましょう。大きい庭もありますから。地底一杯に、地獄を埋めさせるくらいに咲かせましょう。悲しみも苦しみも、その中に融かしてしまいましょう。
 ――おねえちゃん、いま、しあわせ?
 ――えぇ、えぇ。こいしっ、私はね、こいし。幸せになりますよ、貴女の隣で、きっと、幸せになれますから。
 
 ――だから、……、…… 


 また、夢を見た。全く同じ、あの日の夢。地霊殿に移ることが決まった、あの朝。お姉ちゃんの最後の言葉だけが空白で。まるで砕かれた窓硝子の破片のように、それはどこかへ紛れこんで、見つからない。割れた硝子から、冷たい風が吹きこむようだ。細雪の混じった風が鳴っている、冬の日の夢。

「ほら。またそんな顔をしてる」
 非難の色を帯びた呟き。お姉ちゃんだっていつものように色のない表情で、わたしの向かいに腰掛けて文庫本を読んでいるくせに。
「どんな顔?」
 寂し可愛い顔、と言ってお姉ちゃんは本に栞を挟んでわたしを見つめた。
 試しに満面の笑みってやつをつくってみる。その無表情という要塞を、笑顔弾頭で迫撃してやる。
 お姉ちゃんの砦は瞬く間に崩壊した。装備の脆弱さを恥じる司令官のように、お姉ちゃんは咳払いを一つして誤魔化す。

 ちょっと沈黙。お姉ちゃんはまた本を開き、二、三頁繰ってまた閉じた。「んぅ……ん」と伸びをする。
「さて。どこか出かけましょうか」
 いきなりの提案。わたしが何か言う前に、お姉ちゃんは立ちあがってコートを羽織った。
 こんな強引なお姉ちゃんは珍しい。どうしてだか、とても懐かしい感じがした。
「よしきた」
 
 旧都への道は寒い。わたしは何度かくしゃみをした。
「寒いですか? 私が暖めてあげましょう」
 ばさり、とコートごと被さろうとするお姉ちゃんを振りきり、街道を駆けた。お姉ちゃんも何とかついてこようとしたみたいだけれど、すぐにへばったらしく、わたしは都の商店街の入口を示すアーチの下で長い間待たなければならなかった。
「酷いです」
「こんなんで疲れるなんて、ちょっと運動不足が過ぎるよ」
「はぁあ」
 と、うんざりした様子でお姉ちゃんは白い息を吐く。
「冬になれば、ぬくい我が家でずっと暖まっていたいですね」
「一年中我が家に居座ってるくせして」
「哀しいかな、それが主の定めです」
 わたしたちは特に目的もなく賑やかな商店街を歩いた。こんな喧騒はお姉ちゃんには不快だろう、と思ったけれど、隣を歩く横顔は、頬が少し緩んでいるらしい。他人が見れば強張っている、と表現するかもしれないこの表情は、長年連れ添っているわたしに言わせれば笑顔、に区分される。

「でもどうして急に外出しようなんて思ったの?」
「いえ、大した理由はないですけどね」
 ただ何となく、とお姉ちゃんは言う。
「何となく、見慣れた地霊殿より、滅多に来ないこういう場所で、貴女のいい顔が見たいな、と思いまして」
 それだけのことです、と語尾をすっぱり刎ねて。

「だから今日は一日、ずっと笑顔でいなさい。これは地霊殿の主人としての命令」
「越権行為だ!」
「じゃあ、お姉ちゃんからのお願い」
「まぁ、それなら」
 と言っても、お姉ちゃんが隣にいるだけで、わたしの無意識は笑顔を強制することが常なのだけれど。
「どこか、行きたいとこある?」
「花屋に行きましょう」
「花屋?」
「薔薇の種を買おうかと」
「じゃ、行こう」

 わたしたちは路地裏を巡り、方向感覚を失いそうになるくらい歩き回って古びた店舗に辿り着いた。お姉ちゃんが言うには、花屋は旧都にこの一軒しかないらしい。何だって足繁く都に通うわたしよりも、こういう辺鄙なところに詳しいのだろう。こんな子供が授業中に自由帳に描いた迷路のゴールのような店に、お姉ちゃんは毎回ただ薔薇の種子を買うためだけに訪れているのか。

「よくやるねぇ」
「仕事みたいなものですから」
 薔薇の種を可愛らしいリボンで結った包みに入れてもらい、勘定を払った。
 帰り道、お姉ちゃんはその包みを、まるで大切なひとのためにつくった焼きたてのクッキィでも入っているかのように、優しく両手で抱きこむのだった。

「お姉ちゃん」
「どうしました」
「今、幸せ?」
 わたしとお姉ちゃんとの間には、風が流れる隙間もない。お姉ちゃんの体温は、わたしのコートに染み透って、皮膚の奥、心の芯を融かそうとしているようだ。
 何となく、聞きたくなった。
 地霊殿の生活、お姉ちゃんはちゃんと幸せだった?

「貴女が心配してくれている以上には、きっと幸せなのでしょう。今ここでキスをしてくれたら、文句なし」
「してほしいの?」
「少なくとも、私も貴女も暖かくはなれます」
 きっと熱くなるだろう。コートなんか脱いでしまいたいくらいに。
「保留」
「そんなぁ」
「後でいくらでもしてあげるよ。だから――」
 
 今はもう少し、滅多に見られないお姉ちゃんのコート姿を目に焼きつけていたい。



   *



 ずっと昔の夢を見た。
 お姉ちゃんが、部屋の端っこで泣いていた。わたしは眠ったふりをして、ぼろぼろの毛布の中で身を硬くしていた。
 世界の果ての岩礁に、波が打ちつけられるような、孤独な啜り泣きが聴こえた。
 
 景色が不意に切り替わり、強烈な白銀に瞳を焼かれそうになる。
 ――貴女の隣で、きっと、幸せになれますから。
 あの日の光景。お姉ちゃんに抱きつかれていた、痛いくらいに強く。わたしの肩に、熱が二、三、点った。
 ――おねえ、ちゃん?
 血潮のように熱く、肩が湿っている。 
 ――だから、……、……
「お姉ちゃんを、赦して下さいね」

 ――え?

 鋭いナイフで切り落とされるように、夢はそこで途切れた。
   


   *


  
 地霊殿で過ごす、六十回目の冬が来た。
 
 すぐ融け去ってしまいそうな僅かばかりの雪が降った日、突然それは思考の表面に浮かび上がった。泡沫のように、あるいは雪を掘り起こすとひょっこり顔を出す薔薇のように。
 わたしはそんなふうに考えるのはむしろわたしの心のひねくれ具合を象徴しているようだと思い、こんなつまらないことに貴重な思考労働力を浪費するのは止そう、と脳内一致で可決させた。つもりだった。
 けれど、大した問題ではない筈のこの疑問が、じわじわと無遠慮にわたしの頭の中を掻き混ぜていくのを、結局脳細胞たちは喰いとめることができなかったらしい。
 
 どうやって、お姉ちゃんは地霊殿を譲ってもらったのだろう? 
 お姉ちゃんは閻魔様から地獄管理の仕事を条件に譲り受けた、と言っていたけれど。
 それは本当なのだろうか。
 たったそれっぽっちの仕事の見返りにしては、あまりに贅沢な待遇じゃないか。
 地霊殿に引っ越してから、昔なら考えも及ばないほどの充ち足りた生活を、わたしたちは送っている。庭も、バスルームも、食堂もある。お姉ちゃんは結構なお給料を貰っている。
 ここに来て、わたしとお姉ちゃんは信じられないくらい、健康になった。精神的にも肉体的にも。
 わたしの心は開くことはないと言え、順調に外との関わりを回復し始めている。壊れた心もここでの生活を経て大幅に修復されてきた。
 お燐におくう、家族が増えた。
 
 まるで、数百年間地上で味わった孤独と不幸を、大急ぎ平穏と幸福で埋め合わせようとしているかのように。
 この地底での六十年は、あまりに平和で、幸せすぎやしないか?
 どこか人工的で、不自然なほど完璧じゃないか?

 ――別におかしいことなんて一つもないじゃない。わたしも、お姉ちゃんも幸せになれた。それでいい、それで充分。
 そう、おかしくなんかない。わたしは一体、何を考えているのだろう? 幸せすぎて文句を吐きたくなるくらい、幸せだってことだろう? 何が悪い。何もかもが良いことじゃないか。
 
 今更と言えば今更すぎるこの疑問は、それでも何故かわたしの心の内側にべったり張りついて剥がれようとしなかった。
 

 それと時を同じくして、お姉ちゃんが風邪を引いて寝込んでしまった。「旧都の方でも流行っているみたいですから、気をつけて下さい」、とベッドの上でもわたしを気遣おうとするお姉ちゃんを無理矢理寝かしつける。
 今年の冬は一段寒くなりそうですね、なんておくうが言っていた。わたしは、貴女たちは毛や羽がふさふさでいいね、なんて答えた気がする。まぁ、人型になってしまえば変わらないのだけれど。
「運動不足が祟ったようです。はぁ、寒さなんぞにやられては主の名が廃ります……」
「反省は次に活かさないと教訓にはなれないよ」
「心得ておきましょう」
 ベッドに上半身をもたせて、お姉ちゃんは外を眺める。真っ白のレースカーテンが引かれた小さな窓からは、薔薇の花畑がよく見える。薄い霜を花弁に塗して、寒そうに風に震えていた。
「薔薇、枯れてしまうかもしれませんね」
「また来年、春になったら植えればいいじゃん」
「私たちが地霊殿に来てから、……もう、六十年が経つんですね」
 懐かしむように、慈しむように、お姉ちゃんは瞳を細めて白く煙る地底の大地を見下ろす。
 その瞳の光は寂しそうに、薔薇の一本一本を捉えようと揺れ動いている。午前の淡い射光が滑りこんで、花びらに強い色彩を刻む。それらに目を向ける度、お姉ちゃんは棘が喰いこむかのように眉根を寄せた。
 まだ六十年ぽっちじゃない、とは言えなかった。何か錆びついた計り知れない重みを伴う感情が、お姉ちゃんの瞳に映しだされているようで。
 
 そうして一週間、わたしたちは何も変わらない、強いて言えば激しく寒さを増し続ける日々を過ごした。
 ……異常に気がついたのは、七日目の朝のことだった。

 眠っているお姉ちゃんの、白い額に掌を押し当てた。――看病はずっとしていたけれど、お姉ちゃんは毎日自分でさっさと測ってしまっていたから、わたしはお姉ちゃんの熱がどれくらいあるのかを正確には知らなかった。その日の朝は特別空気が冷たく、小さな寝息を立てて眠るお姉ちゃんの額は暖かそうだ、と思ってすっかり冷えきった指先で触れたのだ。
「え、」
 初め、わたしの手は氷並に冷たいんだな、とぼんやり考え、
「……は?」
 徐々に感覚を失っていく、額の上のそれを見つめ、
「どういう、こと、……ッ」
 圧倒的な現実感をもってわたしの掌を吸い寄せる、その異常を識った。

 これは、風邪を引いてベッドに伏せる者の体温ではない。
 どころか、生きている者が纏う温度でさえ、なかった。


 昼過ぎに、お姉ちゃんは目を覚ました。いつもと何ら変わらない表情で、いつもと何ら変わらない瞳で、遅めの昼食を運んできたわたしを出迎えた。
 その冷たいような優しいような、普段は心地いい筈のよく判らない視線が、今は嘘のように思えた。お姉ちゃんの細い指先も滑らかな髪の毛も儚げな面影も、何もかもが偽りに見えた。
「ありがとう、こいし。まだちょっと熱はあるみたいです」
 白々しい、降り積もった雪のように白々しい嘘を、平気で吐く。
「……」
「結局、冬は寝て過ごすしかありませんね。まぁ、風邪など引いていなくとも外に出る気は起きなかったろうとは思いますが。今年の冬は厭に寒い」
「……ねぇ」
「はい? ――ッ!」
 細い体躯を折ってしまいそうなくらい強く、抱きついた。その、血液の代わりに氷水を流しこんだみたいに冷たい手を握って、額を押さえつけた。かじかんで感覚はすぐに消えうせる。お姉ちゃんは急に、何かに怯えるように「駄目っ」と、叫んだ。
「どうして、黙ってたの」
 お姉ちゃんは答えない。向かい合う瞳から平生の落ち着きは融け去っていた。
「お姉ちゃん、これ、風邪じゃないでしょ?」
 わたしの温度に触れて、初めて自分の冷たさを自覚したとでも言うように、お姉ちゃんは震えだした。
 崩れるような、音が聴こえる。
「こんなに冷たいなんて、おかしいよ! こんな体温、有り得ない……お姉ちゃん、平気? 大丈夫なの?」
 鼓動だ、と気付いた。どっちの鼓動なのかは、判らない。リズムを打っていた脈動は、
「ねぇ、お姉ちゃ――」

「出て、行ってッ!」
 
 あんまり唐突に、爆発した。
 レースのカーテンを、シーツを、布団を、毛布を、心を、感情を、何もかもを、引き裂いて轢き割いて粉々に押し潰す、叫び声。
「お願い、お願いです、お願いですから、私を、一人に、して、下さい……ッ」

 悲観と悲歎の綯い交ぜになった、零れ落ちる涙のような感情の塊り。わたしの全存在を跳ね除ける、絶望的に巨大な壁がお姉ちゃんを取り囲む。
 いつだって終りは、用意を与えてくれはしない。



   *


  
 わたしには判らないことが多すぎた。三日が経ち、お姉ちゃんは眠っている時間が増えた。あれから、お姉ちゃんに何一つ聞き出すことができなかった。また拒絶されるかもしれない、と考えると、とても問いつめられるだけの強さをわたしは持ち合わせていない。積もり積もる疑念だけが、実体を持たずにわたしの意識を責めたてる。
 いつからあんなに身体を温度を失ってしまったのか。それはどうしてなのか。どうして隠していたのか。風邪を引いた、などと嘘を吐いて。そして、初めて見せた激情――わたしの人生の中で、お姉ちゃんがあれほど感情を露にすることはなかったのだ。たった一度も。
 
 それら総ての疑心は、冬の初めに感じたあの疑問に集束されていき、わたしの足はある一室へ向かっていた。
 お姉ちゃんの、書斎。お姉ちゃんは普段この部屋で仕事をしているから、あるいはわたしの知らない情報の断片があるかもしれない、と僅かばかりの希望を抱いて。
 六十年間で、書斎に入ったことは二、三度しかない。お姉ちゃんの仕事場だから、無闇に出入りして大事な書類でも失くしてしまったら悪い、などの気持ちがここへ来ることを妨げていたのだろう。
 八畳ほどの広さで、入口の扉の向かい、奥まったところにデスクが置かれ、両側の壁には本棚が埋めこまれている。わたしはデスクまで行き、肱掛椅子に座ってみた。別に大した理由はない、お姉ちゃんが座った感触をわたしも感じてみたいと思ったから。
 だから、そのデスクの、左から三番目の引き出しを開けてみたことにも、特別な理由はなかった。そう、理由なんてない。誰もわたしの無意識に論理性を求めないのと同じだ。

 わたしは運命という言葉が好きではないけれど、ここで敢えて使わせてもらおうと思う。冬の初め、ふと感じた疑問から今日に至るまでの経過を思い、それから、この六十年間で今日この日に初めて引き出しを開けて中を覗いたことも、その一枚の紙切れを見つけたことも、よく考えればあまりにできすぎていた。冬に冷気が集約され収束されて綺麗な花の形に結晶するように、何もかもが運命じみていたのだ。
 とんでもなく都合のいい、それでいてとんでもなく残酷な、運命だったのだろう。

「何、これ」
 そして、

 ――だから、私に残された六十年限りを、一緒に生きてくれますか。もう嫌気が差すくらい、貴女も幸せになってくれますか。もう一度、笑顔を見せてくれますか。……お姉ちゃんを、赦して下さいね。

 記憶が、繋、がった。
「……おねえ、ちゃんッ」
 けれど、一度硝子に走った亀裂は、二度と元には戻らない。


 『地霊殿譲渡の契約について
 古明地さとりは正式に灼熱地獄跡地管理舎地霊殿の譲渡を受け、その管理者にかかる責務を履行することを誓約する。なお、次代の管理者古明地こいしに負荷される予定の業は既に支払われているものとし、現管理者古明地さとりの寿命限界である六十年後の今日に自動的に管理者の引継ぎが行われるものとする。 
 誓約者:古明地さとり 保証人:四季映姫・ヤマザナドゥ



   *



「いやぁ、今日は格別冷えこむねぇ」
 咽るほど濃い霧にラッピングされた、元気のいい声が飛んできた。
「あんたが次のお客かい?」
 湿気で艶を塗した赤い髪を両側頭部で束ね、身の丈ばかりある大鎌の柄を肩にあてがった、背の高いお姉さんが霧もやから姿を現した。
「貴女がここの死神さん、ですよね」
 慣れない敬語を使う。自分の口でないように思えた。お姉ちゃんが乗り移って、代わりに喋っているみたいだった。
「ん? 何であんた、話せるんだい」
 死神のお姉さんはわたしの目の前まで来て、顔を覗きこむ。
「四季、映姫様にお会いしたいんです」

 ポケットに突っこんだ紙切れを思う。誓約書、と銘打たれた小っぽけな一枚に、わたしの心はすっぽり包みこまれ、盲になったように世界が重く暗く圧しかかってくる。

「四季様? どうして」
「聞かなくちゃいけないことが、あるんです」
 わたしの声は、震えていたかもしれない。中空に淀む灰色の霧が、亡霊のように蠢き、囁きかけるみたいにか細い雪を零す。体重が柔らかい土に沈みこむ。わたしに向かい合う死神さんの背後には、もやに霞んで遠くまでは見渡せない、大きな川が横たわっている。
 死神さんはわたしの胸の瞳に目を向け、何かを思い出そうとするように顔を霧の天井へ向けて、ちょっとの間押し黙った。

「……もしかして」
 永いときを砂浜に埋もれ過ごした、異国のメッセージボトルを見つけた少女のような表情を浮かべて、
「あんたは、古明地さとりの妹、かい?」


 わたしたちは小さな渡し舟に乗りこんで霧もやを進む。とうに死んでしまった川に水音は聴こえない。跳ねる水滴は衣服に触れると染みもつくらず、消え去ってしまう。ここは幻想郷で一番幻想的なところだ、と思った。煙る世界は夢のようだった。
「六十年前だ」
 死神さんは鉛のような声色で言う。
「六十年前、あんたの姉も今のあんたと同じ顔をしてやって来た」
「地霊殿を、知ってますか」
「……あぁ」
「お姉ちゃんは、六十年前、ここに来て地霊殿を貰ったんですよね」
「地霊殿は元々、是非曲直庁が建てたものだからね」
「ただで、譲ったんですか」
 霧は重なったティッシュペーパァを一枚一枚剥がすように厚みを失っていき、彼岸花の咲き乱れる川岸がぼんやり映りだす。 
「……さとりはあんたに、何の説明もしなかったのか」
「教えて下さい、六十年前、お姉ちゃんが何をしていったのか」
「あたいからは、言えない」
 あたいはただの船頭だから、と。
「渡すこと。それだけがあたいの役割で、檻でもある」
 辛さか、懐かしさか。そんな微かな名残を言葉に織りこんで、
「……四季様が、きっとみんな話してくれるだろう」
 

 この、何もかもが淡くおぼろげな彼岸に、鮮烈に色を放つのは彼岸花だけだ。魂を送る花だよ、と死神さんは言った。
「花がどこでも強い色と匂いをしてあたいらの前に咲くのは、それだけの意味があるからさ」
 お姉ちゃんが植え続けた薔薇の花に、どんな意味があったのだろう。わたしが昔、薔薇を好んだことにも、意味があったのだろうか。そんなどうでもいいことばかりが思考を充たすのは、一種の防衛本能のようなものかもしれない。渦巻く不安と焦燥を少しでも和らげて、感情の決壊を防ぐための。結局、わたしの無意識はそんなものにしか役立ってくれないのだ。忘れてしまったお姉ちゃんとの思い出の一つや二つ、拾い上げてわたしに差し出すくらい、してほしかった。得体の知れない寂しさと寒さに、身は凍りついてしまいそうなのだから。

 例えるなら、繊維の荒いスポンジ。無駄に大きいくせに、実体を持たない幽霊みたいな建物に辿り着いた。スポンジの幽霊だ。
 門をくぐり、怪物のように身構える建物に入り、タイル張りの回廊を下る。わたしの影は真っ白の壁紙に揺らめく。一歩遅れて、ついてくる。これから起こることの全てを傍観者の立場で見つめ続けることができるのは、この真っ黒の映し身だけなのだろう。

「四季様」
 小さめな、漆塗りの光沢が際立つ扉の前で、死神さんは呼びかけた。
「どうぞ」
 星の砂を数粒入れた、ガラス瓶の反響みたいな音階。およそ想像していた閻魔様の声とは違っている。
 死神さんに続いて部屋に入る。正面にデスク、壁に埋めこまれた本棚には書類の端の三角形が幾つも飛び出している。お姉ちゃんの書斎によく似た、小さな事務室だった。
 デスクに、声と同じく若そうなひとが座っている。四季映姫様、なのだろう。
「お待ちしておりましたよ、古明地こいし」
「待ってた、んですか? わたしを?」
「えぇ。貴女の姉のことだから、こうなるのだろうとは思っていましたので」
 そう言って、閻魔様は引き出しから手鏡のようなものを取り出した。

「伝える用意は、こちらにはありますが」
 清流のような、一滴の濁りも淀みもない、まっさらな言葉。それは暗に選択の全てをわたしに委ねているような透明さだった。
「貴女が今日、ここへ来たのは恐らく偶然ではないのでしょう。明日の夜更けが、丁度六十年前――古明地さとりが私の元を訪れた日です。そして、今からお見せする記憶に総て、貴女が欲している情報は含まれている」
 しかし、と閻魔様は鏡を掴み顔の前に持ち上げて言う。
「知りたいことと、知りたかったことは、往々にして異なるものです」
「……構いません」
「本当に、宜しいのですね」
 わたしはどこか、全く別の世界に立っている感じがしていた。
「えぇ」
 無意識の布団に包みこまれるような、海のど真ん中に浮かんでいるような……
「判りました。――今から貴女にお見せするのは、浄玻璃の鏡と呼ばれる、過去を映し出す手鏡です。本来の使い道とは異なりますが、これに私の記憶を映します。六十年前の、あの日の記憶を」
 閻魔様はわたしに鏡を手渡し、瞳を閉じた。
 軽い手鏡の奥は霞み、ぼやけている。
 縁をなぞって、雪のような白い筋が這い、中心へ集まっていく。
 浮遊感。細波。涙。夢が融けて混ざり合うみたいに、鏡は輪郭を失い、わたしの視界を覆う。

「ひとが終りに考えるのは、いつだって始りのことなのです……」
 誰のものか判らない呟きは、風となり、意識の砂浜を撫ぜていく――



   *



 ――失礼、します。
「どうぞ」
 ――お初にお目にかかります、古明地さとりと申します。
「始めまして。私は四季映姫、ここの閻魔を担当しています」
 ――存じております。
「その胸元の瞳。貴女は覚りですね」
 ――そうです。……あぁ、別に何とも思いませんから、そう気を遣わないで下さい。
「やはり、何でも判ってしまうのですね」
 ――えぇ。重要なことは大抵、自分の意思に関係なく実行されるのです。いつだって、そう。
「貴女が来たのも、そういう訳なのですか」
 ――そうかもしれません。
「どういった用件で」
 ――貴女方は、地底の灼熱地獄跡に被せて建てた、地霊殿という建築物の管理者を探していましたでしょう?
「……はい」 
 ――まだ、見つかっておりませんね?
「それは、貴女が管理者を申し出る、という意味ですか」 
 ――そうです。
「……これまでの期間、何故管理者の任に就きたがる者が全くいなかったのか、その理由を判っていながら、仰っている?」
 ――多少、予想はしていましたが。
「止めておいた方がいい。たかが屋敷一つに、リスクが大きすぎます」
 ――いえ。初めから覚悟は決めておりましたので。
「……地霊殿の管理者になるというのは、地獄の管理責任を背負うという意味です。地獄を、その身に担ぐという意味です」
 ――承知しております。
「本来、生身の者に扱えるものではない。幻想郷、つまり此岸に住む者に、彼岸の先の地獄の管理を任せるなど、有り得ないことです」
 ――えぇ。
「正直に言って、私共はこの件を放棄する選択を取るつもりでした。彼岸の不況が酷く、管理を任せる人手もないからと言え、私は納得しかねたのです。地霊殿で入口を塞ぐだけで、本来の目的である亡霊の抑制は大部分行えるのですから」
 ――はぁ。
「生身の者が地霊殿の管理者に就く。これは業を背負うこと。判りますか。形式的にであれ、地獄を支配するということ。灼熱の海にわだかまる、幾多の罪をその身に受けるも同義です」
 ――罪人になるのですね。管理者自身も。
「はい。そうです。それがリスク。川底の、水流に削られ続けて丸み小さくなっていく石ころのように、管理者の魂は罪の炎に焼かれ侵されていく」
 ――成程。そういう、ことですか。
「寿命を削られ、最終的には自らも地獄に堕ちる……一体誰が就きたがるでしょうか」
 ――何年です? 何年、早まる?
「灼熱地獄の使用されていた期間分。……五百年。これで覚悟は揺るぎませんか」
 ――構いません。そのために来たのですから。
「私には、理解しかねます。覚り妖怪の寿命限界を知っているでしょうに」
 ――……一つ窺いたいことがあります。
「どうぞ」
 ――私には妹が一人います。私が死んだら、妹に地霊殿を引き継がせてやりたいのです。……妹にかかる業を、私が代わりに支払うことは可能ですか?
「……は?」
 ――だから、……
「何故! どうしてそんな馬鹿げたことを。妹がいるのなら尚更、貴女が自分を棄てる意味が解せません!」
 ――貴女に判るものですかっ! 私たちがこれまでどういう生活をしてきたか、覚りがどういう扱いを受けてきたのか、貴女に何が判るというのですか! 
「……ッ」
 ――……もう、後はないのです。
「……血縁同士であれば」
 ――それは良かった。
「もう五百年の寿命削減と、地獄での断罪期間の倍増を貴女に課せば、貴女の妹は何の業も受けることなく、地霊殿の主を受け継ぐ権利を得る」
 ――お願いします。あぁ、そうだ。私の寿命から、削られる千年を差し引いて、何年残りますか?
「……六十年、です」
 ――充分です。閻魔様、今宵は、本当にありがとうございました。……



   *
    


 鏡の景色が引く。力を失って崩れ、震えだす身体を、わたしは他人のように見ていた。
「これが、貴女の望んだ六十年前の記憶、総てです」
 タイルは天井の木目を背景にわたしの顔を映しだしている。穴が開くように、わたしの顔に透明な丸が点る。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、……そんな」
 タイルも油彩みたいに滲んで掻き消える。
「……誰も救えないと、言ったのに」
 閻魔様の言葉は消え入るように小さい。

「お願いです、お姉ちゃんの寿命を、返してあげて下さい!」
「それはできません。彼女が誓約書にサインをした時点で、既に千年の未来は失われてしまったのです」
「あぁ、うぁあッ……なんでッ」
「貴女の姉が、決めたことです」
「お姉ちゃんッ、」
 
 六十年が、終わってしまう。わたしとお姉ちゃんの。お燐とおくうの。家族の。地霊殿の。
 どうしてなのだろう。

「帰りなさい、古明地こいし。姉と最期のときを共に過ごしてあげること。それが妹の貴女にできる、ただ一つの善行です」

 あの肌の冷たさは、冬そのものだった。
 わたしの孤独の寒さを代わりに引き受けて、お姉ちゃんは凍えそうなほど寒かったのに違いない。
 
 どうしてなのだろう。
 
 ――こいし様とさとり様って、全然似てないですよね。
 どうして、わたしたちは姉妹なのに。世界で一番愛してるって、それだけは確かな筈なのに。
 なのにどうしてこんなに遠い。

 お姉ちゃんと生きたい。それだけがわたしの幸せで。たった一つの願いだったのに。
 たったそれだけが、果たせない。

 ――貴女が心配してくれている以上には、きっと幸せなのでしょう。
 ねぇ、お姉ちゃんの幸せは、どこにあったの?



   *



「あたいらに、本当にしてやれることはなかったんでしょうか」
「貴女の役目は運ぶこと。私の役目は裁くこと。それだけです」
「……納得できません」
「人生は納得のために足を止めてくれません。貴女も早く、仕事に戻りなさい」
「……」



   *



 拝啓、古明地こいし様。
 
 私は生来、感情を伝達する能力に乏しかったことは貴女も承知のことと思います。実を言いますと、手紙など書くのは生まれて初めてなのです。幼い頃から、貴女は私の常が仏頂面であることをからかいましたね。私は自分が無愛想なのを心を読めるために淡白になったからだと思っておりましたけれど、貴女の弾むように元気な姿を見ると、持って生まれた負の資質だったのだと認めない訳にはいきませんでした。
 心に散らばる断片を繋ぎ合わせながら、私は何とか、筆を執っています。
 
 さて、何から書きましょうか。あぁ、両親のことを、私は貴女に何にも話しておりませんでしたね。貴女が知りたがっているかどうかは判りませんけれど、まずはその話から始めましょう。
 父と母の記憶を、貴女は殆ど持っていないでしょう。私自身、両親と過ごしたのはあんまり小さい頃だったもので、思い出は大分不鮮明なものが多いです。でもね、貴女もしっかり、父の、母の手に抱かれて安らかに眠っていたことを覚えています。貴女はまだほんの幼子で、立って歩くこともままならない年齢でした。そうだ、私はその頃、貴女の顔を突いたり引っ張ったりして、悪戯を沢山した覚えがあります。貴女が今でも私をからかって遊ぶのは、そういった幼心の記憶の仕返しなのかもしれません。まぁ、とりあえずそういう訳で、貴女は私の妹として両親と共に暮らしておりました。それなりに平和な生活でしたね。しかし、平和を感じてしまった故に、私は後に平和というものが大変不確実で、曖昧で、空論のように掴みがたいものであるということを、心に刻みこまねばならなくなってしまったのです。
 
 両親は覚りという立場をよくよく判っていたのだと思います。だから村の外れに小さな家を建て、私たちを村の人々をあまり関わらせないようにしたのでしょう。「ごめんな」、父に幾度かそう言われたのを覚えています。それが覚りという境遇の下に私たちを生んでしまったことへの謝罪なのか、単に家が貧しく、暮らしが大変だったことへの謝罪なのかは、判らないですけれど。少なくとも、その当時の私は覚りであることにも、貧乏であることにも何の不足も不満も感じておりませんでした。家族がいて、毎日食卓を囲んでいられる、それだけの幸福で充分すぎるほど満足しておりましたから。

 しかし、あるとき事件が起こりました。村の富裕な家庭の子供が失踪してしまった、というのです。村人たちは懸命に捜索を行いました。両親も加わりました。捜索は三日三晩に渡り、四日目の朝日が山間から顔を覗かせる時刻に、遂に発見されました。偶然にも、見つけたのは父だったのです。子供は妖怪に惑わされ、村を囲む深い林の中に迷いこんでおりました。父は衰弱した子供を抱え、村に戻ったのです。初めは村人たちも父に感謝し、子供の父親などは私たち家族を夕食に招待してくれました。……それでこの件は終る筈でした。ところが、それから数日の後に、奇妙な噂が流れ始めました。「あの事件は、覚り妖怪の仕業だったんじゃないか」、「覚りなら子供の親が留守にしている時間帯を、心を読んで知ることができる」、「攫って喰っちまう腹積りだったんだろう。それがことが大きくなったもんだから、怖くなって、自分が見つけたことにしようとしたんだ」、どういった経緯で囁かれ、広まっていったのか知りませんけれど、私たちにとっては迷惑千万な話でした。

 それから明らかに、村の人々の私たちに対する風当たりは強くなっていきました。買出しに村へ行くだけで、雑言を吐かれ、酷いときには石を投げつけてくる者さえありました。あまり村へ出向かない、内職をしている母や私でさえこれだったのですから、毎日村の職場に出勤していた父への嫌がらせは、並大抵のものではなかったのでしょう。
 事件から数ヶ月たったある冬の晩、父は首を吊って自殺しました。朝一番に起きる母が、自室で縊死している父を発見したのです。遺書が父の机に置かれていました。「お前たちには俺の分まで幸せになってほしい」とか、そんなことが書かれてあったと思います。冬が終る少し前、最後の雪が降った晩、母もまた、流行り風邪で亡くなりました。妖怪を死に至らしめるほど厄介な病ではなかったのですけれど、きっと、父の自殺からくる精神的負担が原因だったのでしょう。母は死ぬ間際、私に言いました。「覚りは蔑まれてきた種族です。私もお父さんもそうでした。だから、貴女たちだけは幸せになりなさい。さとり。貴女はこいしと幸せを見つけなさい。幸せとは何なのか、よく考えて生きなさい」、そう言って、亡くなったのです。
 私は父と母の言葉を片時も忘れたことはありません。私は隙間風に吹かれ冷たくなっていく母の枕元に誓いました。こいしだけは、貴女だけは、絶対に、何があっても幸せにしてみせよう。父と母の果たせなかった幸せを、妹と果たしてやろう、と。
 
 その後、私は貴女を連れて家を離れ、偶然見つけたぼろ小屋に住み着きました。
 それから色んなことがありましたね。私は貴女に頼りっきりでした。貴女を幸せにすると言いつつ、本当に幸せだったのは私ばかりだったのかもしれません。
 私は貴女に謝らなければなりません。私の弱さ故、貴女は心を閉じることになってしまったのでしょうから。
 
 私は貴女のために働いていたつもりでした。しかし、結果を見るに、その頃私のやっていたことは完全な空回りだったのでしょう。私が働きに出ている間、貴女は独りぼろ小屋で孤独だったでしょう。私はそんなことを全く考えておりませんでした。貴女の内の孤独が腫瘍のような塊りとなって貴女自身を蝕んでいくのに、私は気付いてあげられませんでした。孤独から逃れるために貴女が無意識に潜りこみ、更に独りになろうとするのを、その手を取って引き上げてやれませんでした。
 後になって私はどうにか、貴女の心を抱きとめようとしました。けれど、遅かったのです。私の心は貴女の孤独を包んでやれるほど強くはありませんでした。貴女は無意識に侵された、と表現しましたけれど、私は自分で勝手に貴女の孤独の淵に手を伸ばして、勝手に引き摺りこまれてしまったのです。決して、貴女のせいではありません。
 
 私が目を覚ましたときには、貴女の第三の瞳は閉じておりました。私は立つ地を、世界の足場を失ったように思いました。私の心からはあらゆる感覚機能が失せ、雪崩に押し潰されるように、急速に色を、温度を失っていったのです。私は悟りました。私が望む幸せは、手を伸ばしたくらいでは届きようもないものであることを。恐らく、そのときからでしょう。私の内に、ある種の意地と信念紛いの強い感情が芽生えたのは。
 私は二度目の誓いを立てました。貴女の盲になった胸の瞳に。貴女には二度とこんな辛い思いをさせてなるものですか、たとえ自らの身に代えても貴女だけは幸せにする。貴女が失ってしまった笑顔と心の鍵を取り戻してみせる。かつて母の前で誓った文句を、段違いの意志をもって心に刻みつけました。
 
 もう、昔話はお仕舞いにしましょう。

 私が地霊殿を手に入れた経緯を、私は最期まで貴女に話すことはないでしょうし、ここに書くつもりもありません。少なくとも、私は望んだ殆ど総てを、この、地霊殿での六十年間で得ることができたのです。思いがけない、家族もできましたね。ここで過ごした六十年間は、間違いなく私の人生で最も幸せで充足した時間です。あぁ、書きたいことは山ほどあるのです。しかし、それら総てを書きとめることはとてもできません。不本意千万ではありますけれど、仕方がないので、最後にどうしても伝えたい幾つかを記して終りにします。

 貴女は心を閉じて少し経った頃、薔薇の花を買ってきたのを覚えていますか。それはそれは驚きましたよ。貴女が花に関心を持っていたなど、私は全く知らなかったものですから。当時住んでいたぼろ小屋に、小屋の持ち主が棄てていったらしい花瓶がありました。貴女はそれに薔薇を一輪挿して、テーブルの上に飾りましたね。仕事から帰ってきた私は、疲労から、貴女の話に取り合わなかったのです。テーブルにつくこともなく、そのまま眠ってしまいました。
 翌朝起きたとき、テーブルから転がり落ち、ひびの入ってしまった花瓶と、小さくできた水溜りの上に浮かぶ紫の薔薇を見つけました。そこで初めて、貴女が昨日薔薇を買い、私に見せようとテーブルに載せておいたことを知ったのです。それから、今朝までの、貴女の気持ちも。
 
 私は貴女にもう一度謝ります。私は本当に愚かしい姉です。重要なところでいつも、私は貴女を見ていない。
 けれど、挿した薔薇に貴女が込めた意味くらい、いくら駄目な私でも判りました。もし、万が一、これが外れていたとしても、私は後悔はしません。きっと死ぬほど恥ずかしいでしょうけれど。
 
 私が貰ったのは薔薇一本分の、無意識じゃないかと疑うくらい洒落た、素敵な愛情表現だと、解釈しました。多分、貴女自身、どういうつもりで薔薇を買ってきたかなど覚えてはいないでしょうから、好き勝手、私に都合よく解釈させてもらいます。貴女は私への愛を薔薇で伝えようとしたのでしょう。きっとそうだ。そうですね。
 だから私は、地霊殿に引っ越してからずっと、薔薇を植えてきたのですよ。貴女がくれた一本の薔薇に相当する愛を、地底を埋め尽くすくらいに何百倍返ししようと思って。
 これは私の望んだ、一番贅沢な幸せです。
 
 私の幸せは、薔薇の香りに隠しておくことにしますね。これからも、ずっと。
 
 私は、こいしのことが大好きです。燐と空がたまにつくってくれる、焼きたてのクッキィも大好きです。勿論、燐と空も大好きです。
 本当なら原稿用紙二百枚くらい使って、貴女たちへの愛を込めた一大抒情詩を書き上げたいところですけれど、私に残された時間はあまりに少ないのです。
 
 えぇ、もっとこいしへの愛の言葉を叫びたかったですし、口に出せないようなこともいっぱいしたかったですし、燐の肉球を一日中触っていたかったですし、空の羽毛に抱かれてくつろいでいたかったですよ、私は!
 
 私はこれから、二度、嘘を吐きます。今まで散々吐き続けてきたのですから、閻魔様もきっとこれくらい赦して下さるでしょう。

 貴女は怒っている。貴女の下着はスノウ・ホワイト。私は笑っている。私が読みかけていた小説はディケンズの「クリスマス・カロル」で、百二十九頁に栞が挟んである。私は燐より猫舌。貴女は幸せになる。燐と空と貴女で、幸せになる。この部屋は暖かい……
 
 

   *



 地霊殿へ帰り、お姉ちゃんの部屋に入ると、お姉ちゃんは四つ折にした紙をびりびり破いていた。
「何してるの」
「要らなくなった仕事の書類を整理しているんです」
「あっそ」
「怒ってます?」
「笑ってる」
「ココアでも飲みますか?」
「お姉ちゃんが飲めば」
「ココアの気分じゃないですね」
「どんな気分?」
「貴女の下着の色の気分」
「寒そうな気分だね」
「この部屋ほどじゃあ、ないです」
「暇なら本でも読めば?」
「昨日まで棚の上に置いていたんですけれど、逃げていってしまったようです」
「今日は、地霊殿に引っ越してきて、丁度六十年目だね」
「えぇ。……あ、そうだ、前に貴女と買った薔薇の種、今度一緒に植えにいきませんか?」
「いつ?」
「雪が止んだ日くらいに」
「いいね」
 ――雪が止んだら、って辺りが特に。
 いつだって、お姉ちゃんは嘘つきだ。
「とっても素敵」
 だからわたしも嘘を吐く。生まれて初めて、嘘を吐く。小さな小さな嘘だから、きっと赦してくれるよね。

「雪が止んだ日には、絶対行こう」



   *



 薔薇の色と匂いが強いのは、それだけの意味があるからだ。それに、薔薇は嘘を吐かない。



   *



「四季様、います?」
 控えめなノックと一緒に、萎れた声色。
「どうぞ」
 映姫は束になった書類の端をピンで留め、引き出しに仕舞う。
「昼食でもどうかと」
 小町はそう言い、二人分の弁当を包みをぶら提げてドアを開ける。
「仕事はどうしたんです」
「ありゃりゃ……あたいには昼食休憩の時間も割り振られていないんですか」
「働いた者に、休憩は与えられるのです」
「失敬な、ちゃんと一人運んできましたよ」
 弁当をデスクに置き、パイプ椅子に腰掛けた。
「行かなくていいんですか? ――おっと」
 小町の肘に滑ってデスクから数枚の書類が舞う。タイルに重なった、その内の一枚を摘み、ちょっと文章に目を通し、「ん?」と首を傾げた。
「あれ、四季様。これって……」
「私はこれから出廷するので、昼食は独りで済ませて下さい。それと、貴女に頼みたいことが」
 映姫は襟元を正し、書類の束を脇に抱え、壁に掛けてあった大きめの帽子を被る。
「その紙に書かれてあることを、地霊殿の新しい管理者に伝えて下さい」
「え? えッ!? これ、本当ですか?」
「貴女一人を騙すためにそんな面倒なことはしませんよ」
「『貴殿の請願書、幻想郷、地底灼熱地獄跡の一部再開に関する提案を承認する。具体的な設備の導入等については追って連絡する』って、なんで、え? どうしてこんな案件通ったんですか!」
「財政が逼迫していますからね。少しでも地獄の管理を地方に分散して、負担を押しつけたい上の判断でしょう」
「と言うことは、つまり、灼熱地獄跡をあたいらんとこの管理下に置いて、人手と費用を捻出させるってことですか」
「えぇ。とにかく、そういうことになった、と電話でもしておいて下さい。――あぁ、後、」
 映姫はドアノブに手をかけ、
「すぐにでも一人目が送られてくるでしょう、と」
 小町をちらりとも見ず、出て行った。
 
「……ははっ」
 とりあえず弁当を食べることにした。
「あたいの役目は送ること。四季様の役目は裁くこと」
 ――あんたら姉妹の役目は、一緒にいること。それだけ、だろ?


 一定間隔に窓を取りつけた廊下は、冷気に充ちて息が曇る。
 映姫はカーテンのない窓の傍に寄り掛かり、鍵を外して開け放った。途端に皮膚に刺さる乾いた風が吹きこむ。雪は止んでいた。
 霧は薄く、空は珍しく晴れていた。彼岸花が揺れている。
「古明地さとり」
 まだ早い、春のような陽気な風が頬を撫ぜる。
「妹を二度と泣かせないこと。それが姉の貴女にできる、たった一つの善行です」
 それに、と誰にともなく言葉を零す。
「薔薇は一人で植えるよりは、二人で植える方がいいでしょう」
 
 微かな薔薇の香りが舞いこんでいく。六十一年目の、春風に乗って。









 了。
初投稿になります。
読んで頂いてありがとうございました。
※追記
あの、携帯の方でSSを確認してみましたところ、ひどいことになっていたので一部タグを外しました。携帯で読んでくれた皆さん、ごめんなさい。
坂崎作介
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コメント



0.1080簡易評価
4.80名前が無い程度の能力削除
文字をいじった演出が上手く使われていて、心の叫びが伝わってくるようでした。
こいしがどうなってしまうかと心配しながら読みましたが、
二人の要素が揃ってこその古明地姉妹だと思えるような物語を楽しませて頂きました。
18.100名前が無い程度の能力削除
中盤から最後にかけての展開に不覚にも目頭が
いい話でしたよ
25.100名前が無い程度の能力削除
とても、良かったです。
26.100非現実世界に棲む者削除
良い話でしたよ。とっても。