「邪魔するぜ、えーりん!アリスが病気にかかって変なんだ!」
診療所で患者のカルテを整理していた永琳の元に、魔理沙がいつも通りの傍若無人さで駆け込んできた。
地球人には呼びにくいらしい『えいりん』を崩して片言で呼ばれるのも、診療所に急患やら魔法使いやらが飛び込んでくるのもいつものこと。
永琳は慌てることなく魔理沙を目の前の椅子へと座らせた。
「まずは落ち着きなさい。落ち着いたら、一体アリスがどうしたのか話して頂戴」
整理の途中であったカルテをまとめて机の端へ重ね置く。
そして魔理沙のほうへ向き直ると、魔理沙は事の次第を一つずつ話し始めた。
†
そもそもの始まりは昨晩魔理沙が夕飯の支度をしていたときのことだった。
よく意外だと言われるが、魔理沙は料理が得意な方である。
昨夜も自分で採取した山の幸や森の幸などをふんだんに使い、鼻歌交じりに料理をしていた。
「きのこっのこ~のこげんきのこ……っと、お客様だぜ?」
すると、そこに来客を告げる魔法のドアベル、またの名を侵入者検知器の音が鳴り響いた。
いくら幻想郷の住人とはいえ、ちょっと魔法が使える普通の少女に過ぎない魔理沙は、念のために護身用の八卦炉を持って玄関に出た。
「はいはい、どちらさま……ん?珍しいな、アリスじゃないか」
「ん」
しかし、予想に反してそこにいたのは魔理沙の友人であるアリスだった。
魔理沙もすぐに外用モードの声を解除し、いつもの調子で話しかける。
「まあ入れよ。それにしてもこんな夜遅く、一体どうしたんだ?」
「……た、から」
「ん?」
「おなか、すいたから」
「はあ?」
後から考えると、都会派魔法使いを自称するアリスがこれだけの理由で友人の家に訪ねてくること自体がおかしいのだが、この時魔理沙はそこまで考えがまわらず、研究に熱中しすぎて食材を買い込み忘れたのだな、くらいの推測で納得してアリスを家に招き入れてしまった。
自分の基準で物事を測ると失敗しやすいのである。
それから魔理沙は急遽作る分量を増やして料理を再開し、一方アリスは居間の安楽椅子に腰掛けて大人しく出来上がりを待っていた。
この時点でも魔理沙の頭が料理以外のことにまわらなかったのは、一つには自分の手料理を初めてアリスに振舞う緊張感によるところも大きかったのかもしれない。
ともかく焼き魚になめこ汁、特製きのこサラダという予定通りの品目を完成させ、魔理沙はアリスと共に食卓を囲んだ。
「どうぞ召し上がれ、だぜ」
「うわぁ、美味しそう……頂きます!」
照れくささからつい荒っぽい物言いになってしまった魔理沙を意に介さず、アリスは食べ始めた。
ぽつりと漏らした感想もお世辞ではない様子で、量が足りなくなってしまうのではないかと魔理沙が心配するほどの食べっぷりだった。
「そこまで慌てて食べなくてもいいじゃないか。そんなに美味しいか?」
「うん、すっごく!」
「そ、そうか。それはよかったぜ」
いつもと比べ物にならない速度で、いつになく素直な感情をぶつけつつ、魔理沙の手料理を食べるアリス。
それをじっくり眺めてようやく、魔理沙の胸の中にも何かが普段と違うという感情がわきおこってきた。
しかしどう考えてもその変化は悪いものには思えず、自分の料理をまっすぐにほめられた嬉しさもあって、魔理沙はその感情を気に留めなかった。
人形使いとして鍛え抜かれた細い指で器用に箸を操り、口から納豆の糸をひきつつ和食を食べているアリスの様子を、不思議なもんだな、と思いつつただただぼんやりと眺めていた。
「ごちそうさま」
「お粗末様」
普段とは逆の配役で食事の終わりが告げられるまでに、そう長くはかからなかった。
圧倒的な勢いで魔理沙の料理を平らげたアリスは、心底満足したように、安楽椅子の上で微笑んでいた。
そんなアリスの様子に魔理沙もまた満足し、そろそろ重い腰をあげて皿洗いでも始めるか、と思ったその時、
「あれ、どうしたアリス?なんか顔赤くないか?」
「んー、そお?」
アリスの頬が不自然に上気していることに気がついた。
もともとアリスは色が白いこともあり、ちょっと酒が入ったり感情が高ぶったりすると赤くなりやすい。
しかし、今日に限ってはお酒も飲んでいないし、まさか料理が美味すぎて頬が上気することもあるまい。はてどうしたことか、と魔理沙が近づくと、
「魔理沙……」
「ん?どうかしたか?」
「魔理沙……。えへへ、呼んでみただけ」
「おいおい本当にどうしちゃったんだよ。まさか酔っ払っちゃいないよな?」
アリスはこんな調子で繰り返し魔理沙の名前を呼んだ。
よく見れば両の瞳は潤んでいて、熱っぽい視線で魔理沙のことを見上げていた。
「酔っ払ってないよ。今日はお酒飲んでないもン」
「お、おいくっつくな!暑苦しい……というかお前、本当に熱いな!」
そしてぺたぺたと、あるいはべたべたと魔理沙にくっついてくるアリス。
それを引き剥がそうとしてふと顔に触れた途端、思わず手を引っ込めそうになるほどの熱さが伝わってきた。
「ちょっと待て、そこでストップ。こっちにおでこ出してみな?」
「ん」
思い出したいのかそうでないのか、過去に自分が熱を出したときに母親と交わしたやりとりの記憶。
その記憶にしたがい魔理沙は、素直に差し出されたアリスのおでこと自分のおでこをくっつけてみた。
予想通り、アリスのおでこのほうがはっきりわかるほど熱い。これは間違いなく……
「熱、出てるな。アリス」
「そお……かも。ふらふらする」
またしても間延びした声で返事が返ってくる。
上気した頬も、ふわふわした言動も、いつもと違ったふるまいも、全て病気のせいと思えば合点がいった。
自分の料理をほめたことまで病気のせいなのかと思うと癪でもあったが、そんなことを考えている場合ではない。魔理沙はむりやり気をひきしめた。
そもそも体が丈夫であるはずの妖怪のことである。ちょっと風邪をひく程度でもそうそうないことなのだ。
「ほら、もう動くのしんどいだろ?今日はここに泊まってけよ。それで明日になったら医者に見てもらおう。な?」
「んー」
魔理沙の提案に対し、アリスの返事はひどく眠そうだった。
病気による眠気だろうし、このまま寝室に連れて行くのが良かろうと判断した矢先、
「おっと……。おーい、危ないだろ!こんなとこで立ったまま寝るもんじゃないぜ」
「…………」
アリスの体がふらりと傾ぎ、危うく倒れそうになったところを間一髪で受け止めた。
アリスはすっかり眠りに落ちてしまったようで、まだ頬は赤いながらも穏やかな寝息を立てていた。
熱が出ていることに気づいたときは少し心配したが、なにせ妖怪、大人しく眠っていれば治ると楽観しても大丈夫だろう。
そう思って魔理沙は軽く嘆息した。
「はぁ……。まったく、人騒がせなやつだぜ」
軽い非難は誰に向けるでもない照れ隠し。
アリスに劣らないほど顔を赤くしつつ、安心しきって眠っているアリスの体をお姫様だっこで寝室まで運んでいく魔理沙だった。
†
「なるほどね。それで、あなたは何しに来たの?ノロけに?」
「い、いや、いやいや!断じて違う、だぜ!」
それまで黙ってうなずきつつ聞いていた永琳が、突然非難するような調子で話の腰を折ってくる。
その言葉に魔理沙も、今までの話が他人にとってはただの惚気話に過ぎないと気づき、頬を赤く染めた。
「それなら一体なんなのよ。熱が出たことだけ言ってくれれば風邪薬くらい出せるわよ?」
「違うんだ。私が言いたいのは、今のアリスが熱を出しているだけじゃなくて、こう、何ていうか、いつもと違うんだよいつもと」
それは昨日、余っていた客人用の布団にもぐりこみ、顔の熱もようやく冷めて冷静になったところで改めて思い返してみて、ようやくはっきりと認識した違和感だった。
昨日のアリスの行動は、一言で言えば素直にすぎたのである。
それは、恥ずかしがり屋で容易には本心を表に出そうとしないアリスにとって、異常と言っても良いことだった。
「いつもと違う、ねぇ。具体的にはどんなところ?」
「そうだな、例えば美味しそうに和食を食べていたり、作った料理を手放しで褒めてくれたり、私にあ、あまえてきたり……」
「ちゅっちゅしてきたり?」
「茶化すなら帰る!」
「そう怒らなくても……。たかが冗談じゃないの」
そして、永琳にとってみても、魔理沙の感じた違和感というのは聞くに値するものである。
何か病気を抱える患者と最も親密に付き合っている者が、その病状について医者よりも鋭い指摘をするのはよくあることなのだ。
永琳は天才であるがゆえにそのことを深く理解し、かえってこういう近親者の勘には信用を置いていた。
医者として真面目に話を聞く際に軽い冗談を言って場を和ませることも、半分は相手の言葉を引き出すための永琳の工夫であった。少なくとも、半分は。
「大体理解したわ。熱を出したアリスの振る舞いが余りにも普段と違うから、何か変な病気にかかっているのではないか、と」
「ああ、そうだぜ」
「でも一つ聞いていいかしら。そう思うなら何故、アリスをここに連れて来なかったの?」
「もちろんアリスも連れてこようと思ったさ。でもあいつは行きたがらなかったんだ」
「行きたがらなかった?」
「本当にもう、小さい子供みたいに駄々をこねてな。病院なんかに行きたくない、って座りこんじまったんだよ」
それを聞き、永琳の表情がわずかに変わった。
魔理沙はその変化を見逃さず、どんな情報でも聞き逃すまいと永琳を問い詰める。
「おい、なんかわかったのか?わかったなら何でもいいから教えてくれよ」
「まだわかったというほどじゃ……。ただ、今のアリスに良く似た症例ならば知っているわね」
「そうか。じゃあそれは一体なんだ。アリスはどこが悪いんだ?」
「今アリスに見られるのと似た症状は、」
「症状は?」
「幼児退行よ」
「……幼児退行?」
聞きなれない単語が飛び出て狼狽する魔理沙。
聞き間違いかと思って確認するも、どうやら間違いではないようで、かと言って永琳は冗談や嘘を吐いている顔でもなかった。
「信じていないわね。私も訳あって踏み込みたくない分野だというのに、厄介なことを……。ともかく、今聞いた限りではアリスの症状に最も近いのがこれなのよ」
「そうか……。しかしお前、幼児退行なんてそう簡単に起こることなのか?」
「そう簡単に起こらないから半信半疑なんじゃない。でも原因になり得ることならあるわ。まさかとは思うけど魔理沙、あなたアリスに変なキノコを食べさせたりなんかしていないわよね」
そんなことしない、とすぐに言い返したかった。いかにキノコ好きで他人の迷惑を――本人曰く、比較的――考えない魔理沙とても普段ならばそうできるはずだった。
ただ、今回ばかりは少し心当たりがあったのである。
思い返せば、それは一週間ほど前のこと。
その日は真夏の日差しと鮮やかな向日葵畑が思い出されるような快晴で、絶好のキノコ日和だと判断した魔理沙は魔法の森へ狩りに出ていた。
鼻歌交じりに進むキノコ狩りに、手にしたバスケットには収穫の重みが増していく。
そんな中、魔理沙は前方に見慣れぬ物体を発見した。
「ん?あれはなんて名前のキノコなんだぜ?」
瘴気の立ち込める魔法の森で、木陰に数本ひっそりと生えていた茶色のそれは、魔理沙の記憶にないキノコだった。
大体こんな常識外れの地味な色をしているなんて、きっと大当たりか大はずれのキノコに違いないぜ。
そう考えた魔理沙は、赤色やら黄色やら派手な色が目立つバスケットにそのキノコも放り込んだ。
キノコ狩りを終え予想以上の大猟にほくほくしていた魔理沙は、帰り道の途中でアリスに出会った。
ちょうど実家から仕送りが届いて一人では食べきれないので、一緒に昼食でもどうかというアリスの誘いに魔理沙は乗った。
昼食へ招待されるのは久しぶりだった。もっとも、昼食をご馳走になるのはせいぜい三日ぶりだったが。
アリスの家で昼食が出来上がるのを待っていた魔理沙は、徒然なる心地に任せて怒られない程度にアリス邸を物色していた。
すると、ふと目に止まる段ボール箱が一つ。アリスによれば、魔界にあるアリスの実家の畑で収穫された『しいたけ』なるものが詰まっているらしい。
(あれ、魔界ってそんな所だっけ?)
ふと疑問が頭をかすめたが、所詮は魔界の記憶など子供の頃のもので当てになりはしない。
そんなささやかな疑問は、何気なくその箱を開けてみて驚きの声を上げ、アリスに不審がられて弁明しているうちに吹き飛んでしまった。
「こ、これは……!」
抱えるほどもある大きな箱の中に詰まっているのは、目立たない茶色をした大きな『しいたけ』。
それはまさに、先ほど魔理沙が見つけ、名前もわからないままとりあえず取ってきたキノコだった。
しかし、魔理沙を驚かせたのはそんなことではなく、箱一杯に詰められたしいたけを見て脳裏に浮かんできた記憶である。
とっくに葬り去ってしまったように霞んではいた、しいたけを使って美味しいバター炒めを作ってくれた自分の母親の記憶が魔理沙によみがえってきたのだ。
それはとても懐かしい匂いと味、そして愛情にあふれた記憶だった。
久方ぶりに思い出した心地よい記憶に浸りつつ、箱から数本のしいたけを取り出して自分のキノコと見比べる。
あの頃食べた美味しいキノコは確かにこれだと確信を持ったところで、不意に後ろから声をかけられた。
「お昼の支度終わったわよ……って魔理沙、何してるの?私の家でキノコ狩りなんか始めたら承知しないわよ」
「うわ、っと……。驚かせるなよアリス。盗みやしないから安心しろって。それより早く昼食にしようぜ!」
「はいはい、わかったわよ……」
この時、アリスの声に突然現実に引き戻され、驚いた魔理沙は手に持っていたキノコを箱の中に落としてしまっていた。
そこで、振舞われた昼食を平らげた後で箱の前にそっと舞い戻ると――どれでもしいたけなのには変わりないかと思って――目に入る中で最も大きなしいたけを元あった本数だけ箱から拝借して帰った。
盗んでないぜ、物々交換だぜ、と誰にともなく言い訳しながら。
「い、いや、でも、あれは間違いなくしいたけだったぜ?だから問題ないはずだ」
「これを見てもまだそんなことが言えるかしら?」
洗いざらいを永琳に話してなおも申し開きをしようとする魔理沙に、手書きのノートが突きつけられる。
開かれたページには見慣れたしいたけのスケッチと共に、余白の部分に丁寧な文字で詳細が書き付けられていた。
~~~~~~
名称:『しいたけEX』
効用/症状:幼児退行、副作用として発熱。
特徴:しいたけに酷似した形を持つ。しいたけより若干小さいことで見分けられる。
分布:幻想郷、魔法の森内部のみ。八意永琳により発見、命名。
~~~~~~
「しまった、しいたけと思ったあれは毒キノコだったのか。これじゃアリスに申し訳が立たないぜ……とでも言いたげな顔ね」
「……図星だぜ」
「一体これで何度目なのよ……。あなたが毒キノコを掘り当てる度に治療薬を作らされる私の身にもなりなさいよね」
「精進するぜ」
「それで、今回はどうするの?そもそも患者をここに連れてきてもらえないと、薬を作るにもひどくやりにくいのだけれど」
その言葉を聞いた魔理沙は、苦々しい顔でしばし逡巡した。
嫌がっているのを無理やり連れてくることはしたくないという気持ちもあったが、それ以上に、普段自分の願望を真っ直ぐ伝えてくれないアリスがせっかく素直になったチャンスなのだ。こんな時くらい普段なら出来ないほど思いっきり甘やかしてやりたいと心のどこかで思っていた。
「そこを何とか、薬だけ作ってもらえないか?この毒キノコだったことは間違いないんだ」
「まあ、出来ないこともないけれど……。よし、わかったわ。それなら明日までに薬は作っておくから、朝になったら取りに来なさい。あと、今日一日分の解熱剤もつけておくわ。その代わりとして、報酬はたんまりはずんでもらう、そういうことでどう?」
「わかった。出来ることならなんでもするぜ」
「そうね……。それなら今回の騒動の元となったしいたけEX、これを籠に一杯分、取ってきてくれるかしら」
自分で命名したキノコの名を口にする永琳は、妙に嬉しそうな顔をしていた。
その様子と提案してきた要求の奇妙さに、魔理沙は首をかしげる。
「まあそれくらい何てことないが……。それにしたってそんなにたくさん取ってどうするんだ」
「一部は更に詳しい研究にあてるわ」
「へえ、それは熱心なことだな」
「あと、自白剤の原料に使うものもあるわね」
「ああ、食べたら素直になるからだな。で?まだ余るだろ、残りはどうすんだ」
「……趣味に使うのよ」
「ししょー!」
奇しくもその時、診察室の入り口から幼い声がしたかと思うと、まずは見慣れたうさ耳が診察室に入室し、続いていつものブレザーを身にまとった鈴仙がとてとてと走り寄ってきた。
といっても、うさ耳の入場から本体の登場までには優に五秒のブランクがあった。うさ耳なげぇ。いや、鈴仙がいつもより小さいのか。
「あれは」
「趣味よ」
なるほど、と今日一番の大きさで納得するのは口に出さず。
魔理沙なりの優しさと、なんだかんだで薬を作ってくれる永琳への感謝をこめて、魔理沙は全てを見なかったことにして心の奥に封印した。
「そうか。何にしろありがとよ。じゃあまた明日来るぜ」
†
「ただいま」
「おかえり、魔理沙!」
家に帰るなり、魔理沙の帰りを待ちわびていたらしいアリスが飛び出してきて腰に勢いよく抱きついてきた。
キノコの毒のせいだとわかっていても、その子供っぽい様子に魔理沙は頬が緩むのを抑え切れなかった。
「アリス、もう熱は大丈夫なのか?」
「大丈夫!それよりお腹すいた。なんか作って?」
「よしわかった。ちょっと待ってろよ」
アリスの体調が存外悪くないようでホッとした魔理沙は、昼食の用意をするために台所へと向かった。
抱きついたまま横をついてくるアリスの姿に、ふと思いついて頭をなでてみる。
自分の頭より高いところにある大きな子供の頭はなでにくかったけれど、それでもアリスは喜んでくれた。
昼食を終え、食器の片付け、洗濯、掃除、そしてまた夕食の準備と、その日一日の家事をこなす間ずっとアリスは魔理沙にくっついて離れなかった。
さらには、余りにも傍を離れないからという大義名分のもと、魔理沙はお風呂までアリスと一緒に入ることになった。
なるほど精神が幼児退行しているらしいアリスは、恥ずかしがるでもなく体の洗いっこを要求してきた。一方の魔理沙はそんなアリスを直視することも出来ず、かといって頼みを無下にするわけにもいかず、目のやり場に困りつつ体を洗ってやったものである。
しかし、そんな恥ずかしさを感じつつも、一日限りの微笑ましい時間を楽しいと思う自分にも気づく魔理沙だった。
夜、はしゃぎ疲れたのかアリスが昨日と布団にもぐりこんで眠ってしまった後、魔理沙は寝室備え付けの机に座って考え事をしていた。
題材は、ちょうど今勉強中で、アリスとも何度も議論を交わした魔法の研究について。
今日はずっとアリスと一緒で何も研究を進めることが出来なかったので、寝るまでに少しやっておこうという魂胆だった。
しかし、その日に限ってそれは難しい相談だった。
いくら魔法のことに集中しようとしても、今日一日のアリスの様子が頭に浮かんでは消えるのだ。
子供っぽく甘えてすがりついてくるアリスの匂い。初めて一緒に入ったお風呂で見てしまったアリスの白い肌。
そんな甘い記憶がまぶたの裏でちらつく度に、思考がどこか遠くへと飛んでいきそうになっては集中しなおすことを繰り返していた。
「あー、もうやめだやめだ!今日はもう、寝る!」
とうとう諦めの境地に至り、誰に言うでもなく叫んで立ち上がる。
言葉通りに寝る準備をしようとして、布団を引き始めたところに控えめなノックの音が響いた。
「魔理沙……起きてる?」
「ん、アリスか?起きてるから入ってきていいぞ」
ドアが開き、魔理沙のお古の寝巻きに身を包んだアリスが現れる。
胸の辺りが少し苦しそうなのは見てみぬふり。都合の悪いことには見ざる聞かざるが有用である。
「どうしたんだアリス。寝てたんじゃなかったのか?」
「うん。でもね、お腹がすいて、目が覚めたの。だからね……」
これには魔理沙も呆れる他なかった。
何しろアリスは、昨晩魔理沙邸を訪れてからと言うもの、夜、朝、昼、夜と四食全てをいつもより多めに平らげており、それだけでも少食派のアリスにとっては珍しいことなのだ。
しかし魔理沙は、元々アリスの病気が自分のせいである罪悪感もあり、異常な食欲も病気のせいかもしれないと思うことにした。
「仕方ないな。じゃあ今からなんか夜食でも……ってアリス?」
ところが、その瞬間夜食を作ってやるべき相手が視界から消えた。
慌てて前へ一歩踏み出そうとしたところで、下腹部に衝撃を受けて吹き飛ぶ。
視界がぐるりと回り、何かやわらかいものの上に着地すると同時に、体の上に何かの重みが加わる。
これが一瞬のうちに起こった。
いつの間にか視界に入らないほど近くにいたアリスに、布団の上に押し倒されたのだと気づくまでにはしばしの時を要した。
気づく頃にはアリスの体重で身動きでがきなくなり、アリスの顔がほんの目の前にあった。
「ア、アリス?」
「魔理沙……」
恋人のように互いの名を呼び合う二人。片や当惑の色を、片や甘い響きを声音に乗せて。
キスを迫られるような体勢で魔理沙は、アリスの温もりを体全体で感じ取る。
その温もりが体だけでなく脳まで溶かして魔理沙の判断能力を奪っていくように思えた。
「魔理沙……魔理沙……」
ささやきながら更に体を密着させてくるアリス。蛇に睨まれた蛙のように、体をすくませることも出来なくなる魔理沙。
アリスの声はどんどんと近くなり、吐息を顔に感じるまでになって、パジャマ越しの胸の感触が体に押し付けられた。
沸騰しそうな頭の片隅で、魔理沙は昨日以上に上気したアリスの頬の赤さを認識していた。
「魔理沙…………!」
アリスの動きが止まり、二人の荒い息遣いだけが聞こえる音の全てとなる。
急に訪れた静寂の中、口付けの寸前で焦らされるようなタイミングに、魔理沙は我知らず胸の高鳴りを感じた。
「アリ……ス?」
「魔理沙!!」
と、その瞬間、アリスのしなやかな指が魔理沙の細い首にまとわりついて、力をこめた。
息が詰まる感触。急に呼吸が出来なくなる焦りに、脳が酸素を欲して警鐘を響かせる。
魔理沙はもがこうとしたが、アリスの温かい重みがそれを許さなかった。
(ああ、アリスの眼……)
唯一自由に動かせる目と頭とで、自分の首を絞めるアリスの姿を観察する。
寝巻きに身を包んだごく普通の姿。目を閉じれば風呂上りの髪のいい匂いまで思い出せる気がする。
だが、アリスの眼だけが彼女を『少女』と呼ばせない迫力を持って輝いていた。
まさに人間を手にかけようとているアリスのその眼には、『捕食者』の眼にふさわしい力が宿っていた。
(そうか、あいつも妖怪だったもんな。へへ、納得だぜ)
頭の中の妙に冷静な部分が笑う。強がりなのかどうかはわからない。もうそれを判断する能力は残っていなかった。
ところが、命の危機という感覚さえ遠い昔の出来事のように薄れ、心地良い無意識へとブラックアウトする、まさにその直前、首にかかっていたアリスの指から力がほんの少しだけ抜けた。同時に魔理沙の体には力が戻ってくる。
「いい加減にしろよ!」
その好機を見逃さず、魔理沙は思い切り力をこめて跳ね起きると同時に、自分を押さえつけるアリスを振りほどいた。
怒鳴られて突き放されたアリスは、しばし呆然としていたかと思うと、次の瞬間には泣き出してしまった。
「ご、ごめんね。すごく魔理沙が、おいしそうに見えた、から……。ごめんね……」
先ほどまでの怪しい眼の輝きはどこへやら、途端にまた幼児退行してしまったようにしおらしくなるアリスに、魔理沙はなす術がなかった。
顔を伏せて涙を手で拭いながら呆然と立ち尽くすアリスに近寄り、魔理沙と同じリンスの匂いをまとった髪をただただ優しくなでてやった。
「ごめんね……」
「もういいって」
「ごめん……」
「わかった。もうわかったから、今日は寝ろよ。ほら、ここで寝たらいいから」
そのままではいつまで経っても動きそうにないアリスを見かねて、魔理沙が先手を打って布団の上に体を預けると、アリスもそれを真似るよう隣に体を横たえ、おずおずと魔理沙にすがり付いてきた。
しばらくその姿勢で鼻をすすっていたアリスだったが、程なく泣き疲れたように静かな寝息をたて始めた。
それを確認し、魔理沙はほっと小さなため息をつく。
先の出来事だけで、今日一日楽しかったことが全て吹き飛んでしまったような感覚だった。
(アリスも根は妖怪、か……)
先ほど自分で考えたことを思い出す。
普通の友人として今まで付き合ってきて、今日だってあれほど楽しい時間を共にすごしたアリスの豹変ぶりに、魔理沙はショックを受けていた。
今まで彼女の妖怪らしいところを全く見たことがなかったために、なおさらそう感じるのである。
人間を襲うことくらい妖怪としては当然のこと、と割り切ろうとしても、そういう典型的な妖怪達と自分の中のアリス像とのズレは容易に埋められるものではなかった。
(ほら、アリスって奴はさ。いつも友好的で、素直で可愛くて、つい構ってやりたくなるような……)
あれ、と気づく違和感。
こうして魔理沙が挙げたアリスの特徴は、全てと言わないまでもほとんどが幼児退行を起こした後のアリスの性格であり、それはまた魔理沙がずっとアリスに求めていたことでもあった。
いつも魔理沙のことになど興味がないような態度をとっているアリスに、何とか好意を寄せられたい。本音を明かしてもらいたい。ずっとそう望んでいた。
そのため、今回のことで魔理沙は、自分がアリスに毒を食わせた張本人であるにも関わらず、アリスと共にすごす一時を心から楽しんでいた。
魔理沙がそれを楽しく思うのも全ては、これからもアリスとこれまで以上に親しく、普通に付き合っていきたいと言う願望があるからこそ。
そのためにはアリスの内なる妖怪らしさを認めるわけにはいかない。
だからこそ魔理沙は先ほどのアリスの姿を異常なものとし、その異常の原因を他に求めることで心の平穏を得ようとした。
「さっきは怒って悪かったな。いいか、今日のアリスはなんにも悪くないんだ。悪いのは……」
悪いのはアリスに取り憑いた病気であり、ひいてはアリスに毒キノコを食べさせた自分だから。
それでも興奮した心はなかなか収まらず、アリスが時々寝言を言う横で、魔理沙は長い間眠れなかった。
†
白い、白い空間。何もない。
そこに、魔理沙ともう一人の『少女』だけが、ぽつんと立っていた。
『少女』の顔立ちや着ている洋服などはアリスとそっくりで、身長だけがもともと小柄な魔理沙よりも更に低く、ちょうどアリスが子供を産めばこんな感じだろう、という姿をしている。
『少女』は魔理沙をじっとみつめていた。魔理沙も目を逸らしはしなかった。否、逸らせなかった。
小さな少女の体に似つかわしくないほど強い力がその瞳には宿っていて、爛々と輝く様子がまぶしすぎて、魔理沙は金縛りにかかったように動けなかった。
ふと、魔理沙の名前を呼ぶ声がどこからか聞こえてくる。
最初は消え入りそうだったその声は、段々と大きく、近くなり、魔理沙は声の発生源を探そうとしたが、探す必要は元からなかったことにすぐ気がついた。
声は、目の前にいる、小さな『少女』が発していた。
それまで魔理沙が気がつかなかったのも当然で、声はしっかりとどこかから聞こえてくるにも関わらず、『少女』の口は全く動いていなかった。
『少女』の呼びかけに気づくと、魔理沙は急に無言でいることに耐えられなくなった。
「なあ、お前一体……」
「ねえ、魔理沙」
言いかけた言葉を、これまでになくはっきりした声でさえぎられる。
何故か、続く言葉を聞きたくないと咄嗟に思ったが、耳をふさぐには遅すぎた。
その時とうとう『少女』の口に動きが見られ、ほんの小さな隙間が赤い唇の間に現れる。
出来た隙間がどんどんと広がっていく、その様子は魔理沙にはスローモーションでも見ているかのようにのろのろと感じられた。
「魔理沙、おいしそう……」
開いた口は赤く、大きく、この世の全てのものを飲み込んでしまいそうに見えた。
魔理沙は声にならない悲鳴を上げた。自分の悲鳴が耳に届く前に、意識がどこか遠くへと飛んでいく……。
ガバっと慌てて起き上がり、魔理沙は初めて自分が寝ていたことに気がついた。
アリスの異常は病気のせいと割り切ったつもりが、こんな夢まで見て汗だくになり、最悪の目覚めだった。
カーテンを開けると時間はちょうど日が昇ったくらい。
早めだが起きてもいい頃か、と布団を片付けようとして、隣で寝ていたはずのアリスの姿がないことに気がついた。
「アリスー?」
とりあえず布団を畳むだけ畳み、物音の聞こえてきた方へとアリスを探し歩く。
アリスは居間にいた。きちんと椅子に座り、どこから持ってきたやら、何やら缶詰のようなものを勝手に取り出して食べていた。
「また何か食べたくなったのか?言ってくれれば何か作ったのにな」
「うん」
「……まあいいか。それより、私は今からアリスの薬を貰いに永遠亭に行ってくるぜ。ちゃんと朝食の時間には帰ってくるから留守番頼んで大丈夫だよな?」
「うん」
アリスの返事が上の空という感じだったので、魔理沙は会話をさっさと切り上げて永遠亭へ向かうことにした。
早くアリスの病気を治してやりたいのもあり、そして何よりも普段と段違いの食欲をあらわにするアリスを見ていると、昨晩のことを思い出してしまいそうで嫌だった。
「じゃ、行ってくる。永琳の薬なら病気なんか半日で治るから安心しとけよ?」
†
永遠亭に到着して診察室に通されてみると、永琳は今日もまたカルテの整理に追われていた。
「あら、早かったわね。すぐ片付けるからそこに座っておいてね」
「おう」
永琳が机の上のカルテを一箇所にまとめる間、魔理沙はどこともなく中空をみつめていた。
永琳もすぐにその様子に気づき、魔理沙の穏やかでない心情を悟った。
「どうしたのよ、一体。アリスのことで何かあった?」
魔理沙はそう問われてやっと我に返ったような様子で、ぽつぽつと昨晩あったことを話し出した。
病気にかかってから食欲だけが妙に旺盛な妖怪のアリスに、人間として、襲われそうになったこと。
昨晩の出来事全てを聞き終えると、永琳は納得したような顔でうなずいていた。
「そう、そんなことが……。恐らくそれも医学的見地から説明がつく行動ではあるけれども、まあ、まずは病気の話から始めるわね。アリスの症状は昨日言った通り、これは間違いないわ」
「じゃ、やっぱり幼児退行ってことか?だがそれだと納得いかないことがあるんだが」
「何かしら?」
「ほら、さっきも言っただろ?アリスは一昨日からずっと食欲が旺盛なんだ。幼児退行のせいでそんなことが起きたりするのか?」
もっともな疑問。だが当然永琳はそこまで考えて診断を下している。言いよどむことなく魔理沙に解答を示した。
「そのことに関しては、今回は少し事情が特殊ね。アリスの出で立ちが少し関わってくるわ。聞くけれど、アリスが元々人間で、修行して種族魔法使いになったことは魔理沙も知っているわよね」
「ああ、アリスから聞いたことがあるぜ」
「それで、こんなことを魔法使いのあなたに教えるのはおかしいのだけれど、種族魔法使いというのは一切の飲食休息が必要ない種族なの。人間がある日突然そんな存在に変わるとどういうことが起きるかわかるかしら?」
「やったことがないからわからないが……とてつもない違和感を感じるのは間違いないじゃないか?」
「そうね、ある意味正解だわ。違和感、自分の体の中での不和。それも、あなたが言ったのは単に精神的にそう感じるという程度の意味かもしれないけれど、実際は肉体や無意識の中に刻まれるとてつもない違和感として表れるわ。何せ、それまで三大欲求と歌われた生理的欲求のうちの二つまでを同時に失うのだからね」
ここで永琳は言葉をいったん切り、対面した魔理沙をみつめてきた。
将来魔理沙自身も経験するかもしれない違和感というものを説明する永琳の瞳は、職業意識というやつなのか、普段の様子とはかけ離れて真剣に見え、魔理沙は思わず身震いした。
「そして、失われた欲求のその後はというと、これらは失われたと言っても消えたわけではないわ。その欲求を必要としない肉体に跳ね除けられ、精神の奥底に押さえつけられているだけ。ずっと精神が正常で魔法使いとして生きている間はそれでもいいのだけど、何かの拍子にそれが解放の糸口を見つけてしまうと……」
「爆発する、ってわけか」
「そうよ。今回のアリスの場合は、幼児化という形であらゆる欲望に素直になり、その爆発が起こったということ。聞いた感じでは睡眠欲の方はあまり刺激されていないようだけど、それは恐らく、魔法使いになってからも毎日人間の頃と同じくらいの睡眠を趣味として取っていたということでしょうね」
人間から種族としての魔法使いに変わり、疲労を一切感じなくなって、気まぐれに『趣味』として食事や睡眠を楽しむ。
そんな生活を魔理沙は想像しようとしてみたが、どこか自分とは関係のない遠くでの出来事のような気がして考えられず、すぐにやめてしまった。
「そうか、それで食欲のことは納得だぜ。だがもう一つ、わからないことがある」
「何かしら。聞いてみて?」
「何と言っていいか、ほら……。例えばだが、生まれてこの方一度もしいたけを食べたことがないやつは、いくら腹が減ったからと言って突然しいたけが食べたいと言い出したりはしないだろ?それなのに幻想郷育ち、箱入り妖怪のアリスちゃんはどうして急に人間が食べたくなったんだ?」
自分がおいしそう、とアリスに言われてからこの疑問はずっと魔理沙の中で渦巻いていた。
純粋な人間であり、これからもその心を失わないつもりでいる魔理沙にとって、生身の人間が『おいしそう』というのは理解できない感覚で、それを口にするアリスは狂っているとしか思えなかった。
実際昨晩アリスは病気でおかしかったのであり、永琳にもそういう趣旨の返答を期待していたのだが、予想とは違い、永琳は哀れむような、困惑したような目で魔理沙を見つめ返してきた。
「あら、それじゃあ魔理沙は知らないのかしら」
「何がだ?まさかこの幻想郷で、アリスがずっと人を食べているなんて言わないよな」
「えーと、まあ最初から話すとね。スペルカードを初めとするルールが出来る前の幻想郷は、文字通り妖々が跋扈する、人間にとってはとても危険な場所だった。そこで、平和を維持するために妖怪の賢者たちが話し合って今のようなルールを定めた。そう聞いているわ」
「そうだな。だが、それと人を食べることと何の関係がある」
「大有りよ。その時定められたルールの一つが、今では常識となっている『妖怪は幻想郷の人間を食さない』というものだったのだから。ただ、このルールには一つ問題があった」
一体なんだかわかるか、とでも問いたげな永琳に、魔理沙は答えずに無言で先を促した。永琳の思わせぶりな言い方が気になってしょうがなかった。
「それは、妖怪たちに我慢を強いなければならないこと。言うなればこれは……そうね、あなたがこれからキノコなしで生活しろというくらいの提案かしら」
「無理だぜ」
「そうでしょうね。例え生死に関わるようなものでなくとも、我慢できる欲求とできない欲求がある。我慢できない類のものを長い間無理に押さえつければ、それこそさっき言ったように欲望が爆発してしまう。そこで、賢者たちは代替策を提案した」
ここまで聞いて、魔理沙は昔聴いた話を思い出してハッとした。それは、その他のよくある都市伝説と一緒に笑い飛ばして記憶の片隅に追いやっていた噂だった。
「ああ、あなたも噂くらいは耳にしたことがあるのかしら?そう、その代替案というのが、外の世界の人間を神隠して作られる『人肉の缶詰』よ」
どこか面白がっているような表情でそう言い放った永琳の様子は、魔理沙には全くの場違いとしか感じられなかった。
神隠し?人肉缶詰?食人習慣?狂っている、何もかも、ナンセンスだ。
今まで鼻で笑い飛ばしていたはずの話も、昨晩アリスの本性を覗いてしまったがために、逆に妙な現実感を持って魔理沙にのしかかっていた。
「代替案は概ねの妖怪に好評で、うちではほら、鈴仙もよく美味しそうに食べてるわね、あれ」
昨日、まさにこの診療室で、ししょーと幼い声で呼びかけていた鈴仙の姿を思い出す。
可愛らしい仕草や外見の裏にどんな欲望を隠しているのだ、と考えるとあれも到底まともだとは考えられない。
いや、妖怪なのだから当然か。
「あまりにも美味しそうなものだから、私も今度ちょっと食べてみようかなあ……なんて」
しかし、こうなっては人間も信用できない。八方塞がり、四面楚歌。周りにいるのは狂ったやつらばかり。
この世界は、いつの間にこれほどおかしくなっていたんだ?
魔理沙は突然立ち上がり、デスクの上に置かれていたアリスへの処方薬をひっつかむと診療室を飛び出していった。
永琳が声をかける暇さえ与えない。乱暴に閉められたドアの舞い上げた埃が再び地面に戻るまで、永琳は呆気にとられて身動きできなかった。
「魔理沙にとってそんなにショックな話だったのかしら……?ただの冗談のつもりだったのだけれど」
急いで追いかけて誤解を解くべきか考えあぐねていると、やがてししょー、ししょーと呼びかけながら兎がやってきて、返事のないことを悟ると拗ねて頬を膨らませた。
†
以上が、主として魔法の森界隈を賑わせた、通称しいたけEX事件の全貌である。
もちろんというべきか、アリスの異常は永琳が処方した薬であっという間に完治し、アリスは何事もなかったかのように自分の家へと帰っていった。
魔理沙もそれを大いに喜び、アリスに自分の不手際を詫びるとともに、永琳には約束通り籠一杯の毒キノコを謝礼として手渡した。
後に偶然出会った鈴仙(通常タイプ)によると、謝礼を受け取った日から永琳は妙に機嫌がいいということだった。永琳の喜びを我が物のように語る彼女は、果たして自分が被害者だと気づいているのだろうか。
アリスの病が治った後の日常は、あれほどまでの異常事態が起こったことが不思議に思えるほどいつも通りのものだった。
ただ一つ、変わったところをあげるとすれば、それはアリスが魔理沙の家で食事をご馳走になる機会が増えたこと。
何でも、病気をしていたときに食べた、慣れない手つきで作られた魔理沙の洋食が残念な出来だったので、この機会に洋食の作り方を仕込んでやろうと息巻いているらしい。
今日もそういうことで、アリスは魔理沙の家を訪ねていた。
「ほら、魔理沙!また塩入れ忘れてるわよ」
「おっと……。一つまみ、これくらいの量でよかったか?やれやれ、洋食は忙しいぜ」
パスタを茹でる際の塩の量一つとっても、アリスはとても口うるさい。
なんでも、入れる量が多すぎるのはもちろん少なすぎてもパスタは非常にまずくなるらしい。
特にミートソースの時はひどいんだから、とつぶやくアリスは、過去の自分の過ちを思い返しているに違いなかった。
「後はそれをかけて……。よし、完成ね」
「よーし、終わった!段々うまくなってきた気がするぜ」
魔理沙がこう言うのも嘘ではなく、実際訪れるたびに手際がよくなっているのをアリスは感じていた。
そもそも今食卓に並んでいるスプーンとフォークでさえも、アリスが訪れるようになるまではほとんど使われていない代物だったのだ。
それなのに、今や魔理沙は音を立てず器用にパスタを口に運ぶまでに成長していた。
「じゃあありがたく……いただきます」
アリスに料理を教授してもらった後は、出来上がったものを先に口にしてもらい、感想を受け取る。
それがいつの間にか二人の間の不文律となっていた。
今日も今日とて小さく口を開けたアリスをぼんやり見つめて感想を待ち受けていた魔理沙は、ふと思い出さなくてもいいことを思い出していた。
(あいつが私を食べようとしたんだもんな……)
あの夜の出来事はまるで夢の中の出来事のようで、それでいて全てしっかりと記憶に残っていた。魔理沙、と呼びかける声、風呂上りの匂い、体に感じた温もりまで含めて全て。
永琳の薬で正気に戻った後、アリスは一体人間を食べたことがあるのかないのか、魔理沙は何度もたずねようと思ったが、どんな答えが返ってくるのか想像してしまうと聞けなくなった。
戻ってきた日常は幸福すぎて、それを壊すような真似をするには余りにも忍びなかった。
「あ、おいしい。やっぱり前よりもうまくなってるわね。ちょうどいいアルデンテだわ」
アリスに自分の料理を褒めてもらえて、自分が茹でたパスタを本当に美味しそうに食べてもらえて、魔理沙は素直に嬉しさを感じていた。
だろ?実は最近ちょっと練習したからな。頬が緩むのを抑え、得意げな気持ちを混ぜてそう言おうとしたが、
「本当においしいわね、このパスタ……。でも、魔理沙だってきっと負けてないわよ?」
魔理沙の笑顔は凍りついた。
でも面白かったです。
面白かったです。
アリスの実家は魔界、元々人間から魔法使いに変化した。この二つの事実がイコールで結ばれない、
原作云々は別としてですね。魔界に捨てられた、或いは攫われた人間の赤子という設定でしょうか?
魔理沙について。彼女が妖怪の深淵に触れて、今更そんな衝撃を受けるのかな、と。
そこまで初心じゃないだろう、お前さんは、とね。これは理屈ではなく完全に私の押し付けです。
最後に物語を拝読して一番考えたこと。
アリスが食べていた缶詰をアレだと仮定する。ならば彼女はいつの時代にアレを最初に食べた?
捨食の法を得て魔法使いになったと更に仮定するなら、基本食事を必要としないこの時期は不自然か?
このお話の魔法使いアリスの前身はなんと説明されていた?
──こいつはかなりホラーだぜ。
ちょっと怖かったかな。
睡眠欲が趣味程度の睡眠で抑えられるなら、同じように食欲も趣味程度の食事で抑えられて然るべきなのでは、という疑問が浮かびましたが、それは睡眠に比べて食事の方は比較的少なかったから、ということでしょうか。
あと食事の不要な魔法使いでも妖怪である以上は人間を欲するということでいいのでしょうか?それは人間から転身した云々とは無関係の次元ですよね。それとも、単に試しに食べてみた缶詰がおいしかったから、なのか。しかしそれならば本能的に襲う動機には足らない気がする。
自分には①アリス特有のバックグラウンド(人間からの転身)②妖怪であること③種族魔法使いであること の間の整合性がうまく取れず疑問が残ってしまいました。読み落としがありましたらすみません。