作者注釈:このストーリーにおいては、呼びやすくするために「大妖精の名前はトリル、小悪魔の名前はリトル」を採用しております。どうかご了承下さい。
「…え?」
咲夜は思わず間の抜けた声を上げた。目の前には、美鈴が二人。二人が四人。四人が八人。八人が…。
「美鈴に分身系のスペルなんてなかったはず…?!」
驚愕の声に構わず、六十四人の美鈴が一斉にクナイを投げ打った。無数のクナイが、蜘蛛の糸より細い弾幕の道を作り上げる。
「時符『プライベートスク」
咲夜のスペル宣言を縫い止めるように、レミリアの鋭い声が飛んだ。
「あなたは魔を感じ、幻を打ち破る人間よ。能く目を使いなさい、咲夜!」
「えっ…」
ふと、彼女の瞳がひとりでに紅く染まる。そして、その刹那彼女は理解した。
「幻符か。そう言えばあの子の弾幕はいつだって相手を幻惑するものだったわ。…やられたわね」
無数のナイフを手のひと振りで何処へともなく消し去った彼女の眼前には、もう誰もいなかった。気配の欠片すら残っていない。…逃げられたのだ。
「あの子の狂気が宿っていても、不利な状況から逃げはするのか…かえって厄介ね。いっそ自分を省みないくらいに狂い切っていてくれれば、ここで捕らえられたものを」
いつの間にか咲夜の背後に佇み、レミリアが苦々しげに舌打ちした。そんな彼女に咲夜は問いかけた。
「お嬢様、一体美鈴はどうしたんです?あんな美鈴、今まで見たことも…」
結界の中だが、フランドールも咲夜と全く同じ問いかけのこもった視線を投げかけていた。
二つの視線を受け、親友の魔女を抱きかかえたままレミリアは紅い目を鈍く光らせる。
「あの子、無茶をし過ぎたのよ。気を使う能力でフランの狂気を一部引き受けようとして…制御し切れずに逆に乗っ取られたの。しかも、そのおかげでフランの力の一部を宿しているわ」
咲夜には、視界の外でフランドールが息を呑むのが感じられた。
「この件については後ほど指示をするわ。まずはパチェを運んでやらなくちゃ。フラン、しばらくそこでじっとしてるのよ。これ以上事態を悪化させたくなかったら…ね」
黒い翼で冷えた空気を情け容赦もなく打ち、彼女は優しく飛び立った。
後には彼女の妹とメイド長だけが残される。フランドールは、先ほどまでの狂気はどこへやら、不安そうに咲夜を見上げた。
「ねえ、咲夜…美鈴、ちゃんと戻って来るよね?美鈴は私のせいで…」
咲夜は、内心はどうあれいつもの笑顔でこう答えた。
「大丈夫ですよ、フランドール様。この咲夜、必ずやあのバカ中国を連れ戻して参ります。それと、フランドール様に責任などありません。彼女は館を守り、主の手を煩わせないよう全力を尽くしただけのこと。それが仕事なのです。私達はいつだってそれに満足していますよ」
「うん…ありがと。お願いね、咲夜?」
フランドールが今頼れるのは咲夜しかいなかった。だから、願いのありったけをこめて見つめた。
あの紅白と黒白の一件で495年の幽閉が解けてから、レミリアの指示によってフランドールの食事は咲夜が運ぶようになっていた。
不機嫌だった時に持って来た食事を叩き付けられても、遊びたかった時に殺されかけても、いつも咲夜はその翌日には何事もなかったような顔で食事を運びに来て優しく話しかけた。
いつしかフランドールは彼女に興味を抱き、やがて近しい友人としていたのだ。
「お任せ下さい、フランドール様。…それでは、しばし失礼致します」
胸に手を当て、彼女は瀟洒に一礼した。そして、居心地悪げに部屋の外で佇んでいたメイド達に声をかけて取りまとめると、速やかにその場から姿を消した。
その頃、美鈴は白い息を荒く吐きながら、銀雪のちらほらと舞う宵闇の森の中を他人を避けて疾駆していた。
危ないところだった…あの幻術を用いた一瞬に全力で紅色の底から這い上がってきていなかったら、間違いなく逃げた通り道のメイドや部下達を皆殺しにして行っていただろう。
そして、今はまだ辛うじて身体が勝手に動くのをある程度制せはするが…頭上からの紅い光を浴びれば浴びるほど意識を侵蝕する紅色の力は強まり続け、いつまで持ち堪えられるか疑問だった。
彼女の能力が気を使う能力でなければ、意識が戻ることさえなかったに違いない。そう考えている間にも意識にどんどん靄がかかって行く。
ああ、あまりにこの光は深すぎる。濃密な赤に染まった空気はまるで血の海のようで、呼吸はどんどん荒くなり、溺れているかのように思えた。
非常にいけない。意識のある内に博霊神社まで辿り着ければ自分自身を封印してもらうつもりだったのだが…これではとてもそこまで保ちそうになかった。
そして、意識さえなくなってしまえば、狂った彼女はわざわざ自分から封じられたり殺されたりしに行くことはないだろう。
昼は忌むべきものである日光をどこかに潜んで避け、夜は手当たり次第に殺し回るに違いない。
「駄目…そんなことになったら…!」
ぞっとするのを通り越して、泣き叫びたくなった。まだ館からそれほど離れてはいない…それは即ち、おてんばチルノやしっかり者トリルやくいしんぼうルーミア、それによく遊びに来る元気なリグルや悪戯っ子のミスティアや無邪気な橙も近くにいると言うことだ。
彼女らは美鈴に狂気が憑り付いたことなど知らない。よく遊び相手になっている彼女の姿を見かけたら、何の警戒もなく近づいて来るだろう。
そして、彼女は自らの手で…いや、いけない。絶対にいけない。そのくらいなら命を絶った方が…しかしそう思っても、自殺出来る程には身体の支配権は取り戻せていなかった。
どうしようもない絶望感と強まる侵蝕にただ悶えながら飛び続ける目の前でふと森が開けて、木々に囲まれた広場が見えた。
その瞬間、彼女は運命を魂の底から呪った。よりにもよってそこにはチルノとトリルがいたのだ。凄まじい形相で駆け寄ってくる彼女に、きょとんとした目を向けながら。
七色のしゃぼん玉を飛ばしていたらそれを楽しそうに、液がなくなるまでずっと追いかけ続けていたチルノ。
通りがかりに疲れて休んでいた美鈴を見つけて、細い手でとんとんと肩を叩いてくれたトリル。
二人が無防備にすぐ近くにいるのに、身体の奥底から湧き上がる殺戮への欲求は絶望的なまでに強かった。…しかし、二人の背後を見た瞬間、美鈴は今度は少しだけ運命に感謝した。
冬の黒幕、レティ・ホワイトロック。彼女が厳しい表情で佇んでいたからだ。
彼女の力は未知数だが、時折感じる背筋の冷たさが気のせいでなければ、そしてあの鋭さを秘めた眼差しが自分の思った通りのものであるなら、きっと…最後の希望が美鈴の脳裏に稲妻のごとく閃いた。
彼女はこの最悪の中でまだしも最善に見える選択肢に躊躇うことなく賭け、呪符を取り出し、ことさらに高らかに叫んだ。
「華符『芳華絢爛』!」
――どうか、私を止めてください――
一方、紅魔館。咲夜はあの後速やかに人員を集め、安全を確保出来るだけの人数の振り分けを迅速に済ませ、館の周囲の捜索に当たっていた。
彼女をリーダーにして、フランドール付きの戦闘力にかけては選りすぐりのメイド達と、志願を止めることの出来なかった美鈴の部下達によって構成された探索部隊の行動は非常に素早かった。しかし、それでも美鈴を見つけることは出来なかった。
なにぶん紅魔館周辺は森が深く、空からの見通しは利かない。そして、上空には美鈴の姿は今のところ発見されていない。
(どこに行ったのよ、美鈴…)
密かに苛立ちを募らせ始めていた咲夜の所に、館から一人の伝令が飛んだ。館に襲撃があった、と。
「この忙しい時に!」
舌打ちと共に、彼女は部隊を一つに集合させて防衛優先での探索を指示し、自身は時間を止めながら館へと急ぎ戻った。
お嬢様は小悪魔のリトルと共に倒れたパチュリー様に付き添っている…邪魔をさせる訳には行かないのだ。
どんな愚か者か知らないが、紅魔の館に来たことを後悔させてやる。いや、後悔させる時間などいらない。無音瞬殺、速やかに探索に戻るとしよう。
そして、瞳を月の色に染めて飛び来った彼女が目にしたのは…少々意外な相手だった。
「あ、来たなこの犬メイドっ!」
「犬言うな!」
反射的に言い返しながら、咲夜は館に入るなり投げつけられた氷柱の嵐をナイフの嵐で仮借なく打ち落とした。それは一般的なごっこの弾幕ではなく、明らかな敵意のこもった戦闘のための弾幕だった。
居住まいを正しながら咲夜が声の主を確かめると、それはややたじろいだ表情の青い髪の氷精だった。
ついでに、何かを抱えて座り込んだままその袖を懸命に引っ張っている緑髪の氷精もいる。
「チルノ…一体なによ、いきなり。返り討ちにされ過ぎて切れでもした?言っておくけど、今は」
「うるさい!お前だな、美鈴お姉ちゃんをおかしくしたの!いつもいじめてたし!」
咲夜の言葉を遮ってチルノがそう叫び、スペルカードを構えたその瞬間…チルノの喉元に、ひたりと冷たい銀の刃が当てられていた。
「…あなた、もしかして美鈴を見かけたの?」
「う、うぅっ…」
チルノの喉がごくりと鳴った。傍らでトリルが短い悲鳴を上げる。
「答えなさい…いえ、お願いだから教えて。早くしないと…」
と、ちょうどそこに弱々しい声が割って入り、渦巻いていた刺々しい空気をぴたりと止めた。
「…大人しくしてなさいって言ったでしょう、チルノ…。…そこのメイドさん、知りたいことは教えてあげるから、そのナイフどけてあげてくれない?いきなり攻撃したのは謝るわ…」
咲夜は声の方に目をやると、眉を軽く上げてナイフをどこへともなくしまい込んだ。チルノがへたへたと腰を落とす。
「久しぶりね、黒幕。あなた、その怪我は…」
「…大したことはないわよ…」
トリルに抱かれ、脇腹を押さえて横たわっていたのはレティだった。
彼女はかなり酷い有様だった…右脇腹が大きく抉られ、身体中にいくつも打撲の痣があり、右足は力なくだらんと垂れ下がっていた。
あちこちに焦げ痕があり、服もボロボロだった。
「…でも、さすがに聞かせてもらいたいわね…何があったの、美鈴に?ああ、あの子のことなら当面は心配いらないわよ。急がなくてもね…うっ」
「レティ!」
痛みに顔をしかめたレティに、チルノが駆け寄って自分の冷気を分け与えた。氷の一族である彼女らの生命力は即ち冷気だから。
「あの…」
見ていて哀れなほどに心配そうな表情でその様子を見つめながらも、トリルがおずおずと切り出した。
「…さっき美鈴さんがいきなり、その…襲い掛かって、来たんです。レティは私達を守って彼女と戦って…何とか氷で封じたんです。美鈴さんに攻撃された上に、レティがあんなにされちゃって…チルノちゃん、すっかり頭に血が上っちゃって。暴れてしまってごめんなさい」
そこまで聞いて、咲夜はだいたいの事情が水を飲むようにさらりと腹に収まったのを感じた。
「…いえ、謝ることなどないわ。むしろ謝るのはこちら…うちの従業員が迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい」
紅魔館の顔として威儀を正し、彼女は三人に深く頭を下げると、レティの手当てをするよう眼差し一つで部下に素早く促した。
「…それで…結局何があったの?あれは明らかに、ただ迅速に大量に殺戮することを楽しんでいる攻撃だったわ。なのに、あの子は泣いていた。初めに襲い掛かった一瞬だけだけど…確かに、あの子は紅い涙で泣いていたわ。そして、最後の一撃は明らかに遅らされていた…」
そんな儀礼は今はいいわ、とばかりに投げ遣りに手を振ると、レティは再び口を開いた。
その内容を聞いて咲夜は表情を曇らせた。そして、後ろにいた門番達のうち数人が盛大に鼻をすすり上げた。
「そう…まだ抵抗してるのか。あの子ったら…」
悲しげに首を振ると、彼女は面を上げて、一連の事件について三人に説明した。
魔に狂ったフランドールのことと、狂気を呑み込んで狂気に囚われた美鈴のことを。
そして、
「…レティ・ホワイトロック。私個人として心から感謝するわ…加減してくれたのでしょう?」
もう一度彼女が頭を深く下げると、レティは軽く肩をすくめて視線を逸らした。
「…別にあなた達のためじゃない…レティとトリルのお友達だからよ…」
「それでも感謝するわよ。あれでも私の部下だもの」
レティはやれやれと言うように小さくため息をついた。
「…なら、好きになさいな…」
咲夜には分かった。殺せなくて封じたのではない…彼女は、殺さないようにしてくれたのだ。
彼女はフランドールと違って戦いの術というものをよく弁えている…同類の直感で、咲夜はそれを感じ取っていた。
また、以前やり合った時はただのちょっかいだったが、レティがひとたび本気になったらその実力は未知数であることも咲夜は見抜いていた。
彼女の季節である冬の盛りは過ぎている上に足手まとい二人を抱えてなお今の美鈴を封じることが出来たのが、その何よりの証拠である。
もしも最初からその気なら止めは十分に刺せたはずだし、その方が楽だったはずだ。
そうしなかったのは、美鈴の涙から何かを感じ取ってくれたからに違いなかった。
「…そんな事よりも、誰か早く助けに行ってあげた方がいいんじゃない…?話からすると、吸血鬼の力を得てるんでしょ…。あまりぐずぐずしてて朝になったら危ないんじゃないの…。場所に案内してあげるくらいはおまけしてあげるわよ…」
メイド達に丁重に怪我の手当てをされながら、レティが大儀そうにそう指摘した。
咲夜は目を見開いた。そう言えば、美鈴の本来の性質ではないので失念していた。確かに、氷に閉じ込められたまま陽光を浴びたら今の美鈴は危ないかも知れない。
「そうね…ありがとう、教えてくれて。早く行かないと…ちょっと待ってて、これからお嬢様に」
「その必要はないわ」
階段の上から声が降り、咲夜の動きを止めた。
「お、お嬢様」
いつからそこにいたのか、ステンドグラスを通してもなお紅い光を広げた漆黒の翼に受けながら、正面大階段の広い踊り場にレミリアは静かに佇んでいた。
その場にいる全員の視線をごく自然に受けながら、一歩一歩ゆっくりと彼女は階段を下り、階下へと降り立った。
そして、その場の全員が仰天したことには、氷精三人の前でゆっくりと頭を下げた。
幻想郷に恐れるものとてない真紅の悪魔(スカーレットデビル)が、夜の一族からすればただの妖精ども風情に、である。
「使用人が迷惑をかけたこと、主としてお詫びするわ。部屋を用意させるからあなた達はそこで休んで行ってちょうだい。安全はスカーレットの名にかけて保証する。使用人の捜索のほうは、口頭で教えていただければ十分。使用人の問題は使用人かその主人がケリをつけるのが筋よ」
しかし、その内容と声音は、やはり反論を許さぬ貴族の言葉であった。
もちろんチルノは相手の如何に構わずその高圧に反発しようと口を開きかけたが、青くなったトリルが後ろから必死でその口を塞いだ。
レティはしばらく彼女と視線を合わせていたが、やがて軽く頷いた。
「いいわ…滅多にない機会だもの。チルノ、トリル、お邪魔させてもらいましょう。夜の王のおもてなし、存分に見せてもらうわ」
「は、はい?!」
「むぐむぐ?」
冬を体現しているレティは、夜を体現しているレミリアと見事な好一対を示し、レミリアの本領たるこの館の中にあってもけして貫禄負けをしていなかった。…背後の二人がどうかは…まあ言うまでもないだろう。
レミリアはそんなレティの態度を気に入ったのか、小さく声を立てて笑った。
「言ってくれる…少しでも気を抜いたらスカーレットの名折れになるわね。あなた達」
レミリアが軽く視線を向けると、固まっていたメイド達は速やかに整然と動き出した。客人に対して最高のもてなしを整えるために。
「咲夜…あなたはこちらにいらっしゃい。本当はあなたに取り仕切らせたい所だけど、話があるわ」
自らの腹心を軽く手招きすると、レミリアはメイドに連れられてその場を去りかけていた氷精達にもう一度向き直り、先程よりもさらに深く頭を下げた。
「主として心から感謝するわ…不出来の使用人とは言え、我が一族に属するものを救ってくれたことに」
レティはすっと目を細め、トリルは目を大きく見開き、チルノは口を塞がれた。
そして、その場に残ったまま何かを言いたそうにしていた門番達が完全に硬直し…やがて、堪え切れない様子で低い嗚咽を洩らし始めた。
「もがもが…ぷはっ!こら、犬メ…十五夜咲夜!」
(間違えてるし)
レミリアの後に続いて歩き始めていた咲夜に、どうにかトリルの手を振り解いたチルノが叫んだ。
「美鈴お姉ちゃんをきっと助けてあげてよね!そしたら、私は今夜のこと許してあげるから!そうでなかったら今度こそぶっ飛ばしてやるんだからね!いーい?!」
「チ、チルノちゃんってば…!」
「もが、ふがもが」
レミリアが咲夜に軽く視線を向けると、彼女は頷いて一度振り返った。
「今夜は安心してお眠りなさい」
穏やかに笑ってそれだけ言うと、悠然と向きを変えて彼女はその場を去って行った。
「…え?」
咲夜は思わず間の抜けた声を上げた。目の前には、美鈴が二人。二人が四人。四人が八人。八人が…。
「美鈴に分身系のスペルなんてなかったはず…?!」
驚愕の声に構わず、六十四人の美鈴が一斉にクナイを投げ打った。無数のクナイが、蜘蛛の糸より細い弾幕の道を作り上げる。
「時符『プライベートスク」
咲夜のスペル宣言を縫い止めるように、レミリアの鋭い声が飛んだ。
「あなたは魔を感じ、幻を打ち破る人間よ。能く目を使いなさい、咲夜!」
「えっ…」
ふと、彼女の瞳がひとりでに紅く染まる。そして、その刹那彼女は理解した。
「幻符か。そう言えばあの子の弾幕はいつだって相手を幻惑するものだったわ。…やられたわね」
無数のナイフを手のひと振りで何処へともなく消し去った彼女の眼前には、もう誰もいなかった。気配の欠片すら残っていない。…逃げられたのだ。
「あの子の狂気が宿っていても、不利な状況から逃げはするのか…かえって厄介ね。いっそ自分を省みないくらいに狂い切っていてくれれば、ここで捕らえられたものを」
いつの間にか咲夜の背後に佇み、レミリアが苦々しげに舌打ちした。そんな彼女に咲夜は問いかけた。
「お嬢様、一体美鈴はどうしたんです?あんな美鈴、今まで見たことも…」
結界の中だが、フランドールも咲夜と全く同じ問いかけのこもった視線を投げかけていた。
二つの視線を受け、親友の魔女を抱きかかえたままレミリアは紅い目を鈍く光らせる。
「あの子、無茶をし過ぎたのよ。気を使う能力でフランの狂気を一部引き受けようとして…制御し切れずに逆に乗っ取られたの。しかも、そのおかげでフランの力の一部を宿しているわ」
咲夜には、視界の外でフランドールが息を呑むのが感じられた。
「この件については後ほど指示をするわ。まずはパチェを運んでやらなくちゃ。フラン、しばらくそこでじっとしてるのよ。これ以上事態を悪化させたくなかったら…ね」
黒い翼で冷えた空気を情け容赦もなく打ち、彼女は優しく飛び立った。
後には彼女の妹とメイド長だけが残される。フランドールは、先ほどまでの狂気はどこへやら、不安そうに咲夜を見上げた。
「ねえ、咲夜…美鈴、ちゃんと戻って来るよね?美鈴は私のせいで…」
咲夜は、内心はどうあれいつもの笑顔でこう答えた。
「大丈夫ですよ、フランドール様。この咲夜、必ずやあのバカ中国を連れ戻して参ります。それと、フランドール様に責任などありません。彼女は館を守り、主の手を煩わせないよう全力を尽くしただけのこと。それが仕事なのです。私達はいつだってそれに満足していますよ」
「うん…ありがと。お願いね、咲夜?」
フランドールが今頼れるのは咲夜しかいなかった。だから、願いのありったけをこめて見つめた。
あの紅白と黒白の一件で495年の幽閉が解けてから、レミリアの指示によってフランドールの食事は咲夜が運ぶようになっていた。
不機嫌だった時に持って来た食事を叩き付けられても、遊びたかった時に殺されかけても、いつも咲夜はその翌日には何事もなかったような顔で食事を運びに来て優しく話しかけた。
いつしかフランドールは彼女に興味を抱き、やがて近しい友人としていたのだ。
「お任せ下さい、フランドール様。…それでは、しばし失礼致します」
胸に手を当て、彼女は瀟洒に一礼した。そして、居心地悪げに部屋の外で佇んでいたメイド達に声をかけて取りまとめると、速やかにその場から姿を消した。
その頃、美鈴は白い息を荒く吐きながら、銀雪のちらほらと舞う宵闇の森の中を他人を避けて疾駆していた。
危ないところだった…あの幻術を用いた一瞬に全力で紅色の底から這い上がってきていなかったら、間違いなく逃げた通り道のメイドや部下達を皆殺しにして行っていただろう。
そして、今はまだ辛うじて身体が勝手に動くのをある程度制せはするが…頭上からの紅い光を浴びれば浴びるほど意識を侵蝕する紅色の力は強まり続け、いつまで持ち堪えられるか疑問だった。
彼女の能力が気を使う能力でなければ、意識が戻ることさえなかったに違いない。そう考えている間にも意識にどんどん靄がかかって行く。
ああ、あまりにこの光は深すぎる。濃密な赤に染まった空気はまるで血の海のようで、呼吸はどんどん荒くなり、溺れているかのように思えた。
非常にいけない。意識のある内に博霊神社まで辿り着ければ自分自身を封印してもらうつもりだったのだが…これではとてもそこまで保ちそうになかった。
そして、意識さえなくなってしまえば、狂った彼女はわざわざ自分から封じられたり殺されたりしに行くことはないだろう。
昼は忌むべきものである日光をどこかに潜んで避け、夜は手当たり次第に殺し回るに違いない。
「駄目…そんなことになったら…!」
ぞっとするのを通り越して、泣き叫びたくなった。まだ館からそれほど離れてはいない…それは即ち、おてんばチルノやしっかり者トリルやくいしんぼうルーミア、それによく遊びに来る元気なリグルや悪戯っ子のミスティアや無邪気な橙も近くにいると言うことだ。
彼女らは美鈴に狂気が憑り付いたことなど知らない。よく遊び相手になっている彼女の姿を見かけたら、何の警戒もなく近づいて来るだろう。
そして、彼女は自らの手で…いや、いけない。絶対にいけない。そのくらいなら命を絶った方が…しかしそう思っても、自殺出来る程には身体の支配権は取り戻せていなかった。
どうしようもない絶望感と強まる侵蝕にただ悶えながら飛び続ける目の前でふと森が開けて、木々に囲まれた広場が見えた。
その瞬間、彼女は運命を魂の底から呪った。よりにもよってそこにはチルノとトリルがいたのだ。凄まじい形相で駆け寄ってくる彼女に、きょとんとした目を向けながら。
七色のしゃぼん玉を飛ばしていたらそれを楽しそうに、液がなくなるまでずっと追いかけ続けていたチルノ。
通りがかりに疲れて休んでいた美鈴を見つけて、細い手でとんとんと肩を叩いてくれたトリル。
二人が無防備にすぐ近くにいるのに、身体の奥底から湧き上がる殺戮への欲求は絶望的なまでに強かった。…しかし、二人の背後を見た瞬間、美鈴は今度は少しだけ運命に感謝した。
冬の黒幕、レティ・ホワイトロック。彼女が厳しい表情で佇んでいたからだ。
彼女の力は未知数だが、時折感じる背筋の冷たさが気のせいでなければ、そしてあの鋭さを秘めた眼差しが自分の思った通りのものであるなら、きっと…最後の希望が美鈴の脳裏に稲妻のごとく閃いた。
彼女はこの最悪の中でまだしも最善に見える選択肢に躊躇うことなく賭け、呪符を取り出し、ことさらに高らかに叫んだ。
「華符『芳華絢爛』!」
――どうか、私を止めてください――
一方、紅魔館。咲夜はあの後速やかに人員を集め、安全を確保出来るだけの人数の振り分けを迅速に済ませ、館の周囲の捜索に当たっていた。
彼女をリーダーにして、フランドール付きの戦闘力にかけては選りすぐりのメイド達と、志願を止めることの出来なかった美鈴の部下達によって構成された探索部隊の行動は非常に素早かった。しかし、それでも美鈴を見つけることは出来なかった。
なにぶん紅魔館周辺は森が深く、空からの見通しは利かない。そして、上空には美鈴の姿は今のところ発見されていない。
(どこに行ったのよ、美鈴…)
密かに苛立ちを募らせ始めていた咲夜の所に、館から一人の伝令が飛んだ。館に襲撃があった、と。
「この忙しい時に!」
舌打ちと共に、彼女は部隊を一つに集合させて防衛優先での探索を指示し、自身は時間を止めながら館へと急ぎ戻った。
お嬢様は小悪魔のリトルと共に倒れたパチュリー様に付き添っている…邪魔をさせる訳には行かないのだ。
どんな愚か者か知らないが、紅魔の館に来たことを後悔させてやる。いや、後悔させる時間などいらない。無音瞬殺、速やかに探索に戻るとしよう。
そして、瞳を月の色に染めて飛び来った彼女が目にしたのは…少々意外な相手だった。
「あ、来たなこの犬メイドっ!」
「犬言うな!」
反射的に言い返しながら、咲夜は館に入るなり投げつけられた氷柱の嵐をナイフの嵐で仮借なく打ち落とした。それは一般的なごっこの弾幕ではなく、明らかな敵意のこもった戦闘のための弾幕だった。
居住まいを正しながら咲夜が声の主を確かめると、それはややたじろいだ表情の青い髪の氷精だった。
ついでに、何かを抱えて座り込んだままその袖を懸命に引っ張っている緑髪の氷精もいる。
「チルノ…一体なによ、いきなり。返り討ちにされ過ぎて切れでもした?言っておくけど、今は」
「うるさい!お前だな、美鈴お姉ちゃんをおかしくしたの!いつもいじめてたし!」
咲夜の言葉を遮ってチルノがそう叫び、スペルカードを構えたその瞬間…チルノの喉元に、ひたりと冷たい銀の刃が当てられていた。
「…あなた、もしかして美鈴を見かけたの?」
「う、うぅっ…」
チルノの喉がごくりと鳴った。傍らでトリルが短い悲鳴を上げる。
「答えなさい…いえ、お願いだから教えて。早くしないと…」
と、ちょうどそこに弱々しい声が割って入り、渦巻いていた刺々しい空気をぴたりと止めた。
「…大人しくしてなさいって言ったでしょう、チルノ…。…そこのメイドさん、知りたいことは教えてあげるから、そのナイフどけてあげてくれない?いきなり攻撃したのは謝るわ…」
咲夜は声の方に目をやると、眉を軽く上げてナイフをどこへともなくしまい込んだ。チルノがへたへたと腰を落とす。
「久しぶりね、黒幕。あなた、その怪我は…」
「…大したことはないわよ…」
トリルに抱かれ、脇腹を押さえて横たわっていたのはレティだった。
彼女はかなり酷い有様だった…右脇腹が大きく抉られ、身体中にいくつも打撲の痣があり、右足は力なくだらんと垂れ下がっていた。
あちこちに焦げ痕があり、服もボロボロだった。
「…でも、さすがに聞かせてもらいたいわね…何があったの、美鈴に?ああ、あの子のことなら当面は心配いらないわよ。急がなくてもね…うっ」
「レティ!」
痛みに顔をしかめたレティに、チルノが駆け寄って自分の冷気を分け与えた。氷の一族である彼女らの生命力は即ち冷気だから。
「あの…」
見ていて哀れなほどに心配そうな表情でその様子を見つめながらも、トリルがおずおずと切り出した。
「…さっき美鈴さんがいきなり、その…襲い掛かって、来たんです。レティは私達を守って彼女と戦って…何とか氷で封じたんです。美鈴さんに攻撃された上に、レティがあんなにされちゃって…チルノちゃん、すっかり頭に血が上っちゃって。暴れてしまってごめんなさい」
そこまで聞いて、咲夜はだいたいの事情が水を飲むようにさらりと腹に収まったのを感じた。
「…いえ、謝ることなどないわ。むしろ謝るのはこちら…うちの従業員が迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい」
紅魔館の顔として威儀を正し、彼女は三人に深く頭を下げると、レティの手当てをするよう眼差し一つで部下に素早く促した。
「…それで…結局何があったの?あれは明らかに、ただ迅速に大量に殺戮することを楽しんでいる攻撃だったわ。なのに、あの子は泣いていた。初めに襲い掛かった一瞬だけだけど…確かに、あの子は紅い涙で泣いていたわ。そして、最後の一撃は明らかに遅らされていた…」
そんな儀礼は今はいいわ、とばかりに投げ遣りに手を振ると、レティは再び口を開いた。
その内容を聞いて咲夜は表情を曇らせた。そして、後ろにいた門番達のうち数人が盛大に鼻をすすり上げた。
「そう…まだ抵抗してるのか。あの子ったら…」
悲しげに首を振ると、彼女は面を上げて、一連の事件について三人に説明した。
魔に狂ったフランドールのことと、狂気を呑み込んで狂気に囚われた美鈴のことを。
そして、
「…レティ・ホワイトロック。私個人として心から感謝するわ…加減してくれたのでしょう?」
もう一度彼女が頭を深く下げると、レティは軽く肩をすくめて視線を逸らした。
「…別にあなた達のためじゃない…レティとトリルのお友達だからよ…」
「それでも感謝するわよ。あれでも私の部下だもの」
レティはやれやれと言うように小さくため息をついた。
「…なら、好きになさいな…」
咲夜には分かった。殺せなくて封じたのではない…彼女は、殺さないようにしてくれたのだ。
彼女はフランドールと違って戦いの術というものをよく弁えている…同類の直感で、咲夜はそれを感じ取っていた。
また、以前やり合った時はただのちょっかいだったが、レティがひとたび本気になったらその実力は未知数であることも咲夜は見抜いていた。
彼女の季節である冬の盛りは過ぎている上に足手まとい二人を抱えてなお今の美鈴を封じることが出来たのが、その何よりの証拠である。
もしも最初からその気なら止めは十分に刺せたはずだし、その方が楽だったはずだ。
そうしなかったのは、美鈴の涙から何かを感じ取ってくれたからに違いなかった。
「…そんな事よりも、誰か早く助けに行ってあげた方がいいんじゃない…?話からすると、吸血鬼の力を得てるんでしょ…。あまりぐずぐずしてて朝になったら危ないんじゃないの…。場所に案内してあげるくらいはおまけしてあげるわよ…」
メイド達に丁重に怪我の手当てをされながら、レティが大儀そうにそう指摘した。
咲夜は目を見開いた。そう言えば、美鈴の本来の性質ではないので失念していた。確かに、氷に閉じ込められたまま陽光を浴びたら今の美鈴は危ないかも知れない。
「そうね…ありがとう、教えてくれて。早く行かないと…ちょっと待ってて、これからお嬢様に」
「その必要はないわ」
階段の上から声が降り、咲夜の動きを止めた。
「お、お嬢様」
いつからそこにいたのか、ステンドグラスを通してもなお紅い光を広げた漆黒の翼に受けながら、正面大階段の広い踊り場にレミリアは静かに佇んでいた。
その場にいる全員の視線をごく自然に受けながら、一歩一歩ゆっくりと彼女は階段を下り、階下へと降り立った。
そして、その場の全員が仰天したことには、氷精三人の前でゆっくりと頭を下げた。
幻想郷に恐れるものとてない真紅の悪魔(スカーレットデビル)が、夜の一族からすればただの妖精ども風情に、である。
「使用人が迷惑をかけたこと、主としてお詫びするわ。部屋を用意させるからあなた達はそこで休んで行ってちょうだい。安全はスカーレットの名にかけて保証する。使用人の捜索のほうは、口頭で教えていただければ十分。使用人の問題は使用人かその主人がケリをつけるのが筋よ」
しかし、その内容と声音は、やはり反論を許さぬ貴族の言葉であった。
もちろんチルノは相手の如何に構わずその高圧に反発しようと口を開きかけたが、青くなったトリルが後ろから必死でその口を塞いだ。
レティはしばらく彼女と視線を合わせていたが、やがて軽く頷いた。
「いいわ…滅多にない機会だもの。チルノ、トリル、お邪魔させてもらいましょう。夜の王のおもてなし、存分に見せてもらうわ」
「は、はい?!」
「むぐむぐ?」
冬を体現しているレティは、夜を体現しているレミリアと見事な好一対を示し、レミリアの本領たるこの館の中にあってもけして貫禄負けをしていなかった。…背後の二人がどうかは…まあ言うまでもないだろう。
レミリアはそんなレティの態度を気に入ったのか、小さく声を立てて笑った。
「言ってくれる…少しでも気を抜いたらスカーレットの名折れになるわね。あなた達」
レミリアが軽く視線を向けると、固まっていたメイド達は速やかに整然と動き出した。客人に対して最高のもてなしを整えるために。
「咲夜…あなたはこちらにいらっしゃい。本当はあなたに取り仕切らせたい所だけど、話があるわ」
自らの腹心を軽く手招きすると、レミリアはメイドに連れられてその場を去りかけていた氷精達にもう一度向き直り、先程よりもさらに深く頭を下げた。
「主として心から感謝するわ…不出来の使用人とは言え、我が一族に属するものを救ってくれたことに」
レティはすっと目を細め、トリルは目を大きく見開き、チルノは口を塞がれた。
そして、その場に残ったまま何かを言いたそうにしていた門番達が完全に硬直し…やがて、堪え切れない様子で低い嗚咽を洩らし始めた。
「もがもが…ぷはっ!こら、犬メ…十五夜咲夜!」
(間違えてるし)
レミリアの後に続いて歩き始めていた咲夜に、どうにかトリルの手を振り解いたチルノが叫んだ。
「美鈴お姉ちゃんをきっと助けてあげてよね!そしたら、私は今夜のこと許してあげるから!そうでなかったら今度こそぶっ飛ばしてやるんだからね!いーい?!」
「チ、チルノちゃんってば…!」
「もが、ふがもが」
レミリアが咲夜に軽く視線を向けると、彼女は頷いて一度振り返った。
「今夜は安心してお眠りなさい」
穏やかに笑ってそれだけ言うと、悠然と向きを変えて彼女はその場を去って行った。
脳内での美鈴ゲージがどんどん上がっているのを感じます
あんたは最高だ!(100点)
続き楽しみにしてますね♪
とにかく自分の中で黒幕指数急上昇中。めいりんも。
続き楽しみにしています。
チルノの間違いでは?