行こうと思えばいつでも行けた。
別に昨日でも明日でも……来年でも再来年でも一向に構わなかった。
だから、今日行くことにした。
笹の先端が辛うじて雪の中から顔をのぞかせている林の中。
地肌は未だ見えず、氷の粒に化けた雪は氷菓子のような音を立てて私の足跡を刻んでいく。
いくら進めど、そこにあるのは見渡す限りの白く埋もれた大地と幹のみとなった木々。
私はその一見荒涼とした景色に足を踏み入れ、容赦なく木の枝を折り取った。
たったそれだけのことなのに、一瞬手のひらに焼きごてを押し付けられたような錯覚を覚える。
もちろんそれは本当に錯覚で、単に外気で冷え切った素手が木の枝の温もりに驚いてしまったからに他ならない。
人間というのはいくつになっても外見で物事を判断してしまう。
ホント、毎年のことなのだから私の感覚神経もいい加減慣れて欲しい。
そんな嘆息を交えながら、手の中にある枝の皮を剥ぎ取った。
そんなに力をいれずに剥ぎ取られた枝の内側には、一足早い春の新緑。
幹の根元に目をやれば、その周りだけ土が顔を覗かせていた。
木の発する熱で雪が溶けただけの、言ってしまえばただそれだけの現象に過ぎない。
だけど私はこの風景が好きなのだ。
誰に向けられたものでもない微笑みを浮かべてしばらく幹に寄りかかっていると、林の外の方から風が流れ込んできた。
雪の上を滑る風は私の肌に爪を立てながら通り過ぎていく。
それはまだ冬の装いを崩さない風であったが、微かに春の匂いが混じっていた。
何かが燻っている様な……そんな匂い。
「生命の燃焼している匂い」なんて云えば聞こえはいいかもしれないが、別に生命じゃなくても…………
と、そこまで考えて止めた。
この木々に対して些か無粋なように思えたのだ。
「それじゃあ、私も今日くらいは気張って見ますかね?」
今日出かける理由があるとしたら、つまりはそういうことなんだろう。
私は幹の隙間を縫うように大空へと舞い上がった。
雪化粧を施した禿山から進路を南にとる。
上空から差し込む日差しは暖かいが、懲りもせず風はまだ冷たい。
こういう日は風の無いところで日向ぼっこするのが乙なのだが、スタート地点で挫折するほどその日暮しな性格はしていない。
目的地はもう少し暖かい場所なのだからと気合を入れなおす感じに自分に言い聞かせて出発した。
禿山を越え、山をまたひとつ越えていくごとに景色は色彩を取り戻していく。
雪が消え、新芽がほのかに山を色づけ、咲き誇る紅梅が久しく忘れていた柳緑花紅という言葉を思い出させてくれる。
更に先にはコブシの花が絹のように光に映え、雲海のような桜並木を飛び越え、野草がぽつぽつと花を咲かし始めていた。
のんびり飛んでいたため、もう小一時間くらい飛んだだろうか?
最初から見えていた鳥居も大分大きく見え、既に桜前線を通り越して山々は一気に青々としていた。
目を凝らすとなんか赤っぽい人影がうっすらと見える。
こんなに若緑であふれる場所で赤い色を発しているものは、あのおめでたい巫女か鳥居くらいなものだろう。
私はちょっと本気を出して残りの距離を縮め、上空から紅白巫女に呼びかけた。
「春ですよ~、春が来ましたよ~。」
その声に反応して私の方を振り向き、意外そうな表情を浮かべる。
そして軽く溜息なんかつきながら
「春になると途端に多くなるのよねぇ……。」
とまあ、こんなことをのたまった。
「こらこら、人を変質者みたいに言わない!」
「あら、私は花粉の話をしただけだけど。」
「人間以下なの!?」
「それで、自意識過剰な紅白さんは何の用でここに?」
なんかいろいろなことを棚に上げて、澄ました感じでそんなことを訊く紅白巫女。
私は頭に手を当てながら、巫女の正面になるように降り立った。
「もっと紅白な人に『紅白』って言われたくないなぁ~。」
無論、私も『紅白』とか『赤い』とか散々思っていたわけだけど……。
「それはそれとして、今日は単にお参りに来たの、初詣に。」
「遅っ! もう春じゃない。というよりも初夏よ? まあ、別にいつ来たって構わないんだけどね、オ賽銭サエ納メテクレレバ……。」
何度も裏切られているのだろう、後半の言葉は事務的というよりも機械的に近い口調で声を発していた。
私はシニカルな笑みを浮かべ伏目がちに顔を背けている巫女に麻の袋を手渡す。
「何、これ?」
それがあまりにも想定外の出来事だったのか、巫女の顔には私が見た中で一番の驚きの感情が表れていた。
「だから奉納品。神社にお参りするのに手ぶらなわけないでしょ?」
私としては至極当然の言葉に、巫女は先程の驚き顔をあっさりと上回る『絶句』としかいえない表情で応えてくれる。
「……あんたっていいやつだったのね、妹紅~。」
言葉からは今にも抱きついてきそうな勢いが感じられたが、その場を一歩も動かないのがなんとも博麗の巫女らしい。
「それで中には何が入っているのかしら? 蓬莱の玉の枝とか持ってこられても困るからね。」
ある程度感情の起伏が収まったのか、巫女は普段の澄まし顔で何故か袋の口を覗くようにしながら問いかけた。
「それはそれで愉快だけど……、残念ながら山菜よ。この辺じゃあもう取れないでしょう?」
「残念なんてとんでもない。蓬莱の玉の枝は食べれないけど、これは食べられるわ。だからこっちの方が何倍も優れているわよ。」
世辞なんて言える性格をしてないから、それがこの巫女の基準なのだろう。
輝夜の難題に対して「くだらない」の一言で片付けてしまう巫女の様を思い描き、私は自然と笑みをこぼしていた。
「それじゃあ、本殿に案内するからついてきて。」
その声で現実に引き戻された時にはマイペースな巫女は数歩先に進んでいたが、慌てて追いかける気にもならず私はその間隔を維持したままついて行く。
「そういえば、最初の春の妖精じみた挨拶はなんだったの?」
別に立ち止まるわけでもなく、天気について話すくらいの気軽さと唐突さで話しかけてくる。
「ああ、あれ? なんかいっぱいいっぱな氷精が『この翼は間違いない、懲りずにまたやってきたのね春の妖精!』とかなんとか言って襲ってきたから……。言うまでもなく叩き落したけどね。」
「だけど、春の妖精と間違えられるのも悪い気はしないと思わないでもなかったり……。」という言葉は胸の中にしまっておく。
「なるほど。あいつは相変わらずバカやってるのねぇ……。」
巫女は何に思いを馳せたのかわからないが、軽く嘆息をついていた。
本殿の前に来て自分が鳥居の前での一揖や、手水など色々な手順を素っ飛ばしてしまったことに気がついた。
急遽、本殿に向かって一揖し、二拝二拍手一拝一揖の順で普段はやらない丁重な形式で参拝する方法に変更する。
賽銭代わりの奉納品は巫女に既に渡してあるから、そのまま鈴を鳴らし、直角を意識して頭を二度下げ、手を二回打つ。
「祓い給い 清め給え 守り給い 幸え給え」
神拝詞を奏上して、もう一度深く頭を垂れ、去り際に会釈をする。
これくらい誠意を込めてやれば神様も大目に見てくれるだろう。
そんなことを考えていたら、肝心の願を掛けそこねてしまったことに気がついた。
一瞬足を止め、踵を返そうか悩んだが、そのままこの場を去ることにした。
……まあ、良いか。
私は口元を軽く吊り上げて笑みを浮かべる。
偶然とはいえ「神様、大目に見てください。」というのもなかなかに洒落た願い事のように思えたのだ。
日はまだ高く、地熱を蓄えた風は這うように足元から吹き上げていく。
裾から抜けていく風は、水仙をしきりに揺するわりにハナミズキの淡い花にはてんで無関心であった。
そんな境内の様子を観察しながら、巫女のいるだろう社務所の方へ向かう。
こっちも遠路遥々参拝に来たのだ、茶のひとつ要求したくらいで神様は私の願い事を反故にはしないだろう。
「あら、思ったよりも早かったわね。祝詞でも奏上していると思ったのに。」
急須から自分の分のお茶を淹れながら、巫女はそう話しかける。
「やらないやらない、そりゃあ一通り唱えられるけどさ。」
一応神様の敷地内なので「めんどい」という言葉は口外にしなかった。
私はお茶が置いてあるお盆を隔てて、隣側に腰掛ける。
「あっと、私の分の湯呑みまで用意しているなんて気が利いてるじゃん。」
「参拝客には優しいのよ、私は。」
私以外の人物にも言い聞かせるような口調で、神社の巫女は私の分のお茶も注いでくれる。
「あんたのことだから結構頻繁にお参りに来ているんでしょうけど、どうしてわざわざここまで来たの?」
湯呑みを両手で持って、境内の景色を眺めるような姿勢で巫女は問いかけてきた。
私もそれに習い、視線を巫女の横顔から境内へと移す。
「どうしてって、特に理由はないよ。博麗神社は昔からここらで有名な神社だったし、興味は前々からあった。今日という日を選んだのは文字通り『風の気まぐれ』ってやつかな?」
「ふうん……里の人にはここって結構有名なんだ。」
別のところに興味を持ったのか、妙にそわそわした様子で巫女は反応する。
「そりゃあ、空気が澄んでいる日は私の住んでいる山からでも大鳥居が見えるもの。まっ、有名というよりは既に伝説かな? 誰もこんな物騒な山奥まで参拝に行ったことないし。」
「あんたが連れてきなさいよ。」
「いやだ、面倒くさい。」
「楽ばかりするとすぐ呆けちゃうわよ? あんたいい齢なんだから。」
「不老不死に老いも呆けも無縁だよ。」
「じゃあ、お茶請けの羊羹に手を出さないでよ。」
「何を言う、性質上色々な死に方を経験してきたけど餓死が一番辛いのよ。あれは折角生き返っても何も食べなければ翌日にはまた餓死するの。いやなループだと思わない?」
「満腹で生き返るというのも妙な話だけどね。」
お茶を膝の上に置きながら、お互い適当に会話を交わしていく。
話題は取りとめもなく、言葉は洗練されず、ただ思いついた言葉を境内に向かって発しているような感覚だった。
だからこそ……
「輝夜のことはまだ憎んでいるの?」
こんな問いにしても、やけに素直に答えてしまったのかもしれない……。
「もちろん、それがルールだからね。」
「ルール?」
「悠久なる時を経て原因とか過程とかそんなものは当に擦り切れて、あいつも私も辛うじて残ったものは殺し殺されの敵対関係だけだった。それが何なのかわからないから『憎しみ』という名前を付けてみたのよ。」
日が西に傾くにつれて風は勢いを増し、ハナミズキの赤く染まった花びらを刈り取っては流れていく。
握り締めた湯呑みはずいぶんとひんやりしてしまっていた。
「私たちは死なない。……だけど忘れてしまう。言ってしまえばこれは、お互いを忘れない為の儀式なんだと思う。」
「だから『憎しみ』というのは原則だと?」
「さぁてね。」
ちょっとおしゃべりが過ぎたようだ。
私は冷たくなったお茶を一気に飲み干し、話を打ち切るように立ち上がった。
だが、巫女は相変わらず境内を見つめたまま、こんな独り言を呟く。
「たとえ人間でも妖怪でも幽霊でもここにいる限り『産まれなかった』ということはないわ。だけど同時に、『産まれてくる』ことを選べる者なんて1人もいない。私たちは元々不自由な存在なのよ。だから代わりに『死』というその気になれば『生』を放棄できる自由が与えられる。幽霊の場合は逆の公式が成り立つのかしらね?」
そして、数刻ぶりにこちらに視線を向けて
「ねえ、妹紅。死が生への見返りだとしたら、それが無いあなたにはきっと代わりの自由が与えられているはずよ。もしかしたら、あなたたちが一番自由な存在なのかもね。」
相変わらずの澄まし顔で博麗の巫女はそう結んだ。
「……それは御神託か何かなの、霊夢?」
この場において私は初めて巫女の名を口にする。
特に意識したわけではなかったが、名を呼んだことでどうしても言葉に迫力というものが生まれてしまっていた。
「さあ、どうかしら? 当たるも八卦当たらぬも八卦。答えを決められるのはあなただけ、言葉の主が誰かなんて些細なことよ。……まあ、お賽銭のお返しってところかしら?」
そこに沈黙が発生したなら剣呑な雰囲気だと称されるかもしれないが、一瞬の間も空けることなく巫女は答える。
この絶妙な間の取り方こそが空飛ぶ巫女の真骨頂なのだろう。
「じゃあ、話半分に聞いておくよ。ここの巫女は日ごろの行いが悪いから。」
なんとなしに肩透かしを食らったような疲労感を覚えながら、私は鳥居の方に足を向けた。
「あら、帰るの? 今度は他の参拝客も連れてきてね。」
「あー、はいはい。考えておくよ。」
参拝客の少なさは思ったよりも深刻らしい……。
私はまあ、手の平をひらひらさせて聞こえているという反応だけは示しておいた。
帰りの道程は桜前線を追い越し、再び雪のある山中に戻るというだけのこと。
日は完全に傾き、全ての景色は一様に紅蓮の炎で灼かれているかのごとく赤黒い。
しかし、そんな夕景はただ私の目の前を通過しては消えていくだけであった。
……そう、私は頭の中には巫女の残した言葉の方が大きな位置を占めていたのである。
そりゃあ、生死の輪廻から逸脱した私は自由な存在ととれないこともない。
だが、肝心の私の主観はそんな解答では到底納得できなかった。
「うん?」
無意識に手を入れたポケットになにやら異物が入っていることに気がついて、私は一旦空中で静止する。
ポケットに手を入れる癖は慧音に散々注意されてしばらく封印していたのだが、徐々に下がる気温と思索に耽っていたことで知らずに封が解けてしまったようだ。
指先からは尖った固形物の感触。
別段警戒したところで死んでも死にはしないのだからと無造作にポケットからその物体を取り出す。
「ああ、これか……。」
それは今朝方手折った木の枝であった。
そういえば、わざわざ折った枝をそこらに投げ捨てるのも気がひけて、ポケットに入れたままにしておいたのだ。
私は握り締めている枝をもう一度確かめるようにじっと見つめる。
そこにあるのは、皮を剥かれてややささくれ立った白い枝。
今にして思えば全てのきっかけはこれと、あともうひとつにあったように感じられる。
そのあともうひとつ……。
私は目を閉じて風を探るが、黄昏の風は緩やかに冷たくしっとりと湿り気を帯びていた。
朝方に感じた風の片鱗すら感じられず、そこにあるのは夜の匂いだけ。
だから、
「一発芸『春風』。」
そんな宣言と共に、握り締めた枝を不死鳥の劫火で一気に焼き尽くす。
一瞬にして灰燼に帰した枝は、姿は失えども木の焼けた香ばしい匂いを漂わせていた。
それは今朝山中で嗅いだ、あの燻ったような香りになんとなく近い感じがする。
「…………なんてね。」
生命の燃焼はあくまでも比喩であって、実際に燃焼させることに意味なんてありはしない。
くだらないことをしてしまったと苦笑いしながらも、胸のうちは妙にすっきりしていた。
蓬莱の薬だって、火にくべりゃあ燃えてしまう。
不死の煙だって、風に吹かれりゃあ散ってしまう。
なら、この身は灰となって春風に溶けたい。
ふと浮かんだそんな願望。
叶わぬ願いと否定することは簡単だが、なんとなく否定する気にならなかった。
時間はそれこそ無限にあるが、この余情は今だけのもの。そこに水を差すのは我ながら野暮ってものだろう。
香りはもうすっかり風に流され、宵闇から微かに映える山の残雪。
冷たいはずの風は、私の起こした炎の残滓で幾分か生温い。
……でもまあ、当面はふらふらと風任せに漂っていても良いだろう。
少なくとも今年中は神様も大目に見てくれる筈だ。
春風とはまた趣の違う生温かい風に抱かれて、私はそう軽く微笑んだ……。
まあ、参拝自体が挨拶なわけだから構わないんだろうけどね。