春の白玉楼は二百由旬。とは言っても季節でそれが変わるわけではないのだから夏でも白玉楼は二百由旬だ。もちろん秋でも冬でも二百由旬である。一由旬が約七キロメートルであることを考えると二百由旬の白玉楼の広大さというのはそこに棲んで久しいはずの妖夢をして想像を絶する。だが、その二百由旬というのが幽々子の誇張であると知っている妖夢にしてみれば、実際のところの白玉楼の広さというのが気にならないでもない。今度測ってみようかしら、とか思う。そんなことをしたらしたで、「そんなことをしてる暇があるなら仕事なさい」と幽々子にどやされることは目に見えているので実際に行動に移したりはしない。が、仕事の合間に暇を見つけてこっそりやってみようかな、なんてことを妖夢は時々現実逃避気味に考えたりもするのだ。
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早朝、夜の明けたばかりの白玉楼を妖夢は歩く。白玉楼の長い廊下は二百由旬はないにしたって、それでも長いことは長い。いつだかに訪れた竹林の永遠亭の廊下も馬鹿みたいに長かったが、ここの廊下も負けてはいない。そんな廊下を酒瓶を片手に竹箒を携えて妖夢は歩く。別に妖夢が飲むわけではないが、酒瓶を片手に竹箒を携えててくてくと歩く。
庭に面した長い廊下はちらりと視線を横に向けるだけで、満開の桜を望むことが出来る。幽々子いわく二百由旬の白玉楼を埋め尽くす満開の桜、黄桜、紅桜。染井吉野に山桜。枝垂桜が幽美に頭を垂れるその脇に、豪奢に無数の花弁をつける菊桜。色とりどり、というわけにはいかない桜たちは、しかしその色の濃淡で多様な美しさを演出する。淡い薄紅から始まって、薔薇の如くに赤い花をつける品種もある。それらの桜が我が物顔で咲き誇り、風に揺られて花弁を散らす桜吹雪のその様は、美しいという言葉以外で表すのがいっそ難しくさえある。しかし妖夢にはその言葉以外で表現を行う語彙を持たなかった。
かといってそれが惜しまれるわけでもない。基本的に単純な性格構造をしている妖夢だから、彼女の持つ楼観剣と白楼剣がたった一つの真実を教えてくれるように、そしてどっかの誰かが言っているように真実は一つでいいと考える。そして今目の前に広がる無限の桜たちのたった一つの真実とは、つまりは「美しい」と、それだけでいいと思うのだ。
――剣が全てを教えてくれる。
それは妖夢の師であり祖父である魂魄妖忌が教えてくれた、これまた一つの真実だ。斬れば分かると、つまりはそういうこと。妖夢が見出した桜の真実、「美しい」、というそのことは、しかし妖夢が剣に因らず自身で見出した貴重な真実だ。剣が全てを教えてくれると日頃から公言して憚らない妖夢が見つけたそんな簡単な真実を、だからこそ幽々子は喜んでくれた。だからこそ言えない、流石に桜を斬るわけにはいかないから一生懸命考えたんだけどそれしか思い浮かばなかったんです、なんて真相は。
酒瓶を片手に竹箒を携えて妖夢は庭へ降りる。降りた庭先からまっすぐ桜の森へ歩く。森に入る少し前からその兆候はあったのだが、一旦森に入ってしまうと辺りは途端に霞掛かって足元も覚束なくなった。視界が霞むのは、降りしきる桜花弁が目の前を閉ざすから。足元が覚束なくなったのは、降り積もる桜花弁が地面を覆い隠すから。ただでさえ淡く揺れる冥界の曙光を、間断なく降り注ぐ桜吹雪が更に幻想じみた色彩に変えていく。むせ返るような桜の香りは、その強さに反して不快ではない。前も桜、後ろも桜。右を向いても左を向いても上を向いても下を向いてもどこもかしこも一分の隙無く桜咲く咲く桜山。
失いかけた方向感覚を慌てて手繰りよせ、妖夢は桜の森を歩く。降り積もった花弁が真新しい新雪のように地面を覆い隠す桜の森を妖夢は歩く。歩く妖夢の足取りはどこか奇妙に慎重で、どこか奇妙に楽しげだった。その心情は、それこそ真冬の早朝、夜の内に降り積もった新雪に神妙な表情で足跡をつけてはほくそ笑む童女のそれに近いのかもしれない。一歩を踏み出せばくるぶしまでが桜に埋まり、その一歩を引き抜けば、桜の絨毯にぽっかりと妖夢の小さな足跡が残るのだ。だがその足跡も飽きることなく降り続く薄紅色の花弁の前に、やがて消える。もし幽々子がこの場にいたならば、生まれては消える自分たちの足跡に諸行無常の理や、侘び寂びの有様を説いたのかもしれない、二割くらいの確率で。大抵の場合の幽々子はふわふわと宙に浮いているので自分の足跡など残さないのだ、これが残り八割。
桜の絨毯の上をさくさくと歩いて妖夢は森の中、少し開けた場所に出た。ひたりと立ち止まってくるりと辺りを見回すに、広さは充分で、庭の主の如く好き勝手無秩序に並び立つ桜たちの品種も種々類々。今年はこの辺りでいいだろう、と妖夢は一人頷いた。桜の森を歩く内に妖夢の頭の上にはすっかり桜の花弁が積もっていた。ぷるりと頭を振るとふわりと広がる銀の髪、ふわりと散らばる桜花弁。一瞬の出来事だったのだが、その一瞬がまるで弾幕のように綺麗だったので妖夢は微かな笑みを口元に浮かべた。それにしても弾幕とはまた物騒な例えだ、と自分の思考回路に苦笑する。
さて、森の中の広場に立って妖夢はここまで持ってきた酒瓶の栓を抜いた。開けたとたんになにやらモワッと強烈なアルコールの薫りが立ち上る。お酒があまり得意ではない妖夢は若干顔をしかめた。春の白玉楼、今日は毎春恒例のお花見大会である。このお酒は紫が毎年花見のために持ってくる特別なお酒で、簡易的な結界が仕込まれているのだ。いかに白玉楼が桜の名所とは言え、二百由旬の庭園に数るのも億劫なほどの大量な桜とあっては、降りしきる花弁が多すぎて逆に花見を楽しめないという事態が巻き起こる。花見を楽しむのに桜吹雪が邪魔になるという凄まじい矛盾が発生するのだ。そこでかの大妖怪が持ち出したのがこの結界酒で、これを適当に振り撒けばその辺り一帯の桜吹雪の量が減少するのである。
妖夢が朝もはよから酒瓶片手に桜の森を歩き回っていたのはこの結界酒を振り撒くためであり、同時に花見に適した場所を探すという仕事があったからである。竹箒を持っていたのは用意した花見席の簡単な掃除のため。今年のお花見大会は去年までのものとは一味違う。去年までは八雲一家を招いての、小規模ながら温かみのあるお祭りだったのだが、今年から一味違う、二味は違うかもしれない。今年からは博麗神社の空飛ぶ巫女さんが来るし、魔法の森の普通の魔法使いが来るし、そこら辺の人間関係から広まった人間でないたくさんのお客さんが来ることになっている。今年からのお花見は大規模で盛大なものになるだろう。そしてその後片付けを私がするのね、と妖夢は項垂れた。去年の夏ごろ、連日続いた宴会の後片付けに文句たらたらだった空飛ぶ巫女を思い出す。今日霊夢が来たら少し優しくしてあげようと妖夢は思った。優しくしてあげた見返りに後片付けを手伝ってくれたら最高だ、と妖夢は真剣にそう思った。
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幻想郷の遥か空高くにある幽冥の境を更に飛び越えるという荒行を果たすと、そこには人の人生と同じくらい長いかもしれないと言われる白玉楼階段がそびえている。無闇に長い白玉楼階段の両脇も、その階段の果てにある白玉楼とおんなじで無数の桜が乱立している。その桜たちが思い思いに花弁を散らす様を、これこそ弾幕よねぇと見下ろす少女がいた。朝ごろ白玉楼の桜の森で酒を撒いていた魂魄妖夢である。
昼の白玉楼階段で、妖夢は両手に愛剣をぶらさげて立ちんぼしていた。今までの宴会経験から察するに、気の早い連中はこのくらいの時間ごろから会場入りを始める。一番乗りでやってくるのは恐らく魔法の森の普通の魔法使いだろう。もしかしたら一人百鬼夜行な宴会好きの酔っ払い鬼なんかは霧に溶けてもう冥界に入っているかもしれない。そしたらあの酔っ払いが一番乗りだ。
まぁ別に誰が一番乗りでもいいんだけど、とひとりごちて妖夢は手にした楼観剣を振るう。ブン、と巻き起こった剣風が長い階段を滑り降りて、降り積もった桜花弁を左右の桜並木へ吹き飛ばした。ちょっと隙を見せるとすぐに階段が桜で埋まってしまう。放置しておくと白玉楼階段は白玉楼桜坂へと姿を変えてしまうのだ。定期的に階段を下りて花弁の掃除をしなくてはならない。妖夢も満開の桜を眺めるのは好きだが、こういった必然的に生まれる雑事が疎ましいと思えることもある。
妖夢は朝に酒を振り撒いたがごとく剣風を振り撒きながら、階段を下まで降りる。両脇の桜並木を傷つけないように剣を振るうのはなかなか繊細な作業で、すわこれは新しい修行法の確立か、と目を見開いた。見開いたはいいが、その発想が現実逃避から生まれたものだというぐらいは自分でも理解している。階段の一番下まで舞い降りて、深いため息をついた。そしてまた剣風を撒き散らしながら階段を昇っていく。
ふと思った、みんなこうして飛んで行くんだから、それを考えるとこの“階段”という存在には一体如何程の存在意義があるのだろう。そしてその使われもしない階段をこうして掃除している自分の存在意義とは如何に? 決して守れもしないくせに必死で門を守っている門番以下に? 深く考えると何だか切ない結論に達しそうだったので妖夢はすぐに考えるのを止めた。白玉楼階段を昇りながら、降りしきる桜吹雪に目を細めてみる。軽い現実逃避だ。
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夕暮れ時の白玉楼を妖夢はちょこまかと移動する。両手に支え持ったのはお銚子の乗ったまぁるいお盆。昼過ぎから集まり始めた花見客は、日の高い内から押し寄せてきた連中だけに気も早くて、既にお花見を始めてしまっていた。幽々子もその席に加わり、あの生粋のザルっぷりを発揮して次から次へと妖夢に酒もってこいコールを連発する。死んでるくせに生粋のザルとはこれ如何に、なんて下らない発想に自分で座布団を上げつつ、妖夢は白玉楼の廊下をちょこまかと駆け回っていた。
ああ忙しい忙しい。右へ左へ、左へ右へ。縦横無尽に酌して回り、酒が切れれば屋敷へ戻り、酒を運び終えたと思えばつまみの追加が注文される。目も回るような忙しさの中では本日の主役である満開の桜を楽しむ暇もなかった。参加している花見の客の面々もいちいち桜を愛でているようには見えない。見えないところが憎らしい。宴会がしたいだけなら何も家でなくともいいだろう、確か博麗神社の裏にも桜の木が生えていたはずだし。愚痴りたい気持ちに駆られるが、愚痴った傍から「そんなこと言ってる暇があったらお酌なさい」と幽々子に怒られた。酷くやるせない気持ちになる。幽々子が酒と桜と人に囲まれて楽しそうにしているのが分かりやすいからその気持ちは余計に強い。
早く紅魔館の連中とか、紫さまご一行とか来ないかなぁと妖夢は思った。具体的には紅魔館のメイドと八雲一家の中間管理職が来ないかなぁと思った。あの二人は働いてくれる。同じような立場にある永遠亭のウサギ娘が自分と同じく小間使いをしているのを見る限り、あの二人も率先して働いてくれるはずだ。そんな確信のもとに妖夢はお客の増援を望んだ。程なくして彼女の望んだ増援は駆けつけるのだが、追加された小間使いの面々の数に比しても花見客の数が多すぎるためまさに焼け石に水という状況だったのは余談である。
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人が増えれば宴が進む。宴が進めばお酒が進む。お酒が進めば仕事(小間使い)が増える。事態の発展は実に分かりやすく、そんな経緯を経ている内に日は没し、空には星が、そして冴え冴えと美しい下弦の月が昇っていた。満月のそれと比べたら控えめな月光は、しかし地上を敷き詰める薄紅の花海には充分すぎる明るさで冥界を照らす。仄かな銀光を受けて夜闇に浮かび上がる桜たちは、昼の日中で見る姿とは違ってどこか鋭角的な印象を受ける。その淡色の色合いで、濃紺の夜空を切り裂いているように見えるのだ。
そんな桜の下で妖夢は珍しく仕事の合間、幽々子が酌をしてくれたお酒をくぃっと呷って、ホウ、と熱い吐息を漏らした。流石幽々子だ、珍しく酌をしてくれたと思ったら恐るべき強さの酒である。ついた吐息の熱さより、なお熱いものが胃の中で渦巻いている。ついでに妖夢の視界もぐるぐると渦巻いていた。そんな妖夢を見てくすくすと笑っているのが幽々子と、その隣に座っているすき間妖怪である。
――おにょれ、謀りましたね幽々子さま、紫さま。
――ごめんねー、妖夢ー。
――君はいい友人の庭師だったが君の父上の父上がいけないのだよ。
以上、へろへろの妖夢に悪びれたそぶりも見せない幽々子、すき間妖怪は伊達ではない紫の台詞である。先代庭師の妖忌は紫に何かしたのだろうか、何もしてないだろう。ただそういう台詞があったから使ってみたかっただけの紫である。
ともあれへろへろの妖夢はそこでばたんきゅーであった。しかしここで潰れてしまったおかげで忙しい小間使いの仕事から解放されたのは不幸中の幸いであったかもしれない。幽々子は僅か一杯で酔い潰れた妖夢を抱き寄せると、その小さな頭の下に自分の膝を滑り込ませた。膝枕をしてやりながらふくふくとした柔らかなほっぺを突付いてやる。ぷにぷにした感触が心地よくて、うーんと不快げに唸る妖夢が可愛らしくて、幽々子は飽きることなくそれを繰り返していた。
そんな妖夢の様子に誰が最初に気を利かせたのかは知らない。ただ、宴会の雰囲気は酔い潰れて眠る妖夢を休ませてやるかのように、静かな、落ち着いた雰囲気のものに変わっていった。騒がしいのが大好きだと公言して憚らない普通の魔法使いや酒乱の鬼などは若干不満そうにしていたものの、この場での有力者である大妖怪とかそういった類の人々は、往々にして風流や風情を好む傾向がある。一度静かな落ち着いた雰囲気に浸ってしまえば、それをことさら乱すような真似をする者はいなかった。ついさきほどまでちんどん屋がましく軽快でテンポのいい曲ばかりを選んで演奏していた騒霊三姉妹も、緩やかな調べの楽曲を演奏し始める。
お酒のペースは見る間に落ちた。その場にいる誰しもが、誰がそう薦めたというわけでもなく、満開の桜に目を向ける。三姉妹の演奏の裏で微かに聞こえるサラサラという清流の水音にも似た音は、風に波打つ降り積もった桜花弁の奏でる音色だ。それに気づいた紫が手を振って騒霊三姉妹の演奏を止めさせると、辺りには限りなく無音に近い、しかしこれぞ風流と言わんばかりの桜の音色が満ちていく。
楽器は桜、奏者は夜風。吹き渡る春の涼風は木々を揺らし、酒に火照った頬を優しく撫でる。ともすれば見飽きてしまいそうな桜の園庭は、しかし一瞬一瞬にその表情を変え、見るものたちの目を楽しませていた。
紫の結界酒に遮られて、花見の席の中に舞いこんでくる桜の花弁は驚くほど少ない。けれどそれも全くの皆無というわけではなくて、時折きまぐれな花弁がお猪口に滑り込んで風流を漂わせるくらいの“すき間”は開けられている。幽々子が相変わらず妖夢の寝顔楽しんでいたそのとき、不意に紛れ込んだ桜の花弁が幽々子の手に持つお猪口と、その幽々子の膝の上でうんうん唸っている妖夢の鼻の上に舞い落ちた。それを見た幽々子がふっとした笑みを浮かべ、雰囲気に酔うようにして口を開く。
八重桜 十重に二十重に 賑わえば
忙し我が子も 酒に酔いけり
あら幽々子、上手ね。と微笑んだのは紫だけである。その他の人々は酔わせたのはあんただろうに、という顔をしていた。もちろん幽々子も紫も、そんな程度の視線にいちいち反応するような面の皮ではない。
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宴会もやがてたけなわになり解散の時が訪れる。後片付けは例によって誰もやっていかなったが、宴会の主催にはそれを咎める権利は無い。一人、また一人とそれぞれの棲み家へ帰っていき、白玉楼の桜の森には幽々子と妖夢だけが残された。妖夢は相変わらず目覚めない、幽々子の膝の上で今は安心しきった笑みを浮かべて眠っている。
そんな妖夢の、月のような銀髪を愛おしげに撫でながら、幽々子は優しげな笑みを浮かべた。今だけはそっとしておいてあげよう。明日になれば妖夢には宴会の後片付けに延々従事してもらわなければならない。辺りを見回せば、宴会終盤のしっとりとした雰囲気の残り香など微塵も感じさせない凄惨なありさまで、幽々子は苦笑してもう一度だけ妖夢の髪を撫でた。
春の白玉楼、二百由旬の庭園に夜を渡る風が吹く。冴え冴えとした銀光で冥界を照らす下弦の月が西の空に傾き始めた頃、幽々子もまた、妖夢に膝枕をしたまま眠りに落ちていた。星と月と、そして桜だけがそれを見ている。いつしか紫が酒に仕込んだ結界の効果が切れると、花見の会場となった辺り一帯にも新雪のような桜の花弁が降り積もり始めたのだった。
静かな静かな一時を。 とても良い花見でした。
美しい一幕をありがとうごさいます。
あまりに綺麗にまとまりすぎていて、それ故に静謐な読後感と一種の物足りなさを感じてしまうのですが、これ以上を望むのは贅沢というものでしょう。
あっこがっれるぅー!
朝、昼、晩とまるで違った姿を見せてくれる様。
そして、その横合いでせっせと働く妖夢の姿。
いや、もう、参りました。
これぞまさに幻想郷の春だなあ、と感嘆するばかり。
背景の桜模様が目に染みます。
お見事な桜花でした。
静かに心に染み入っていくる、とても綺麗な作品でした。
杯を手に 落花の中に 風流を
美しい花見をありがとうございます。
お見事の一言に尽きます。こんな花見を体験してみたいものですね。
やっぱり最後はゆゆみょんだね。