Coolier - 新生・東方創想話

斜陽は紅く、落陽は蒼く (上)

2005/04/10 02:58:23
最終更新
サイズ
44KB
ページ数
1
閲覧数
884
評価数
1/40
POINT
1880
Rate
9.29





 一番星が空に輝く頃、私は人通りの少ない道を歩いていた。
 大学の講義が終われば、サークル活動のない日はそのまま家に帰る。私たちのサークルは大学からスペースを与えられていないので、いざという時の集合場所は大学の近くの喫茶店になっている。
 今日は偶々、蓮子の都合が悪いとかで打ち合わせ自体無しになった。彼女がさっさと正門を潜ってしまったので、取り残された私はすることもないからさっさと帰ることにしたのだ。
「買い置きがあるから、夕食は大丈夫よね……」
 インスタントはあまり好きではない。堕落している気がするから。
 かといって、完全に自炊できるレベルには到達していないのだから、いまいち締まらない。忙しさや物価の高騰を理由にすることも出来るが、包み隠されずに言えば私はあまり手先が器用な方ではない。流石に砂糖と塩を入れ間違えるといった古典的な過ちこそ犯さないが、塩の分量を間違えてえらくしょっぱいサニーサイドアップが完成してしまったことはある。一回や二回くらい。
「スーパーって便利よねぇ……。まあ、便利なだけが世の中じゃないけど」
 悟ったような言葉を口にする。独り言が多いのは、別に寂しいからじゃない。思ったことを口に出さないと我慢がならない性分なだけだ。……同じことかしら?
 街灯はまだ光を与えられていないから、鉄塊の向こう側に消えていく陽光を頼りに家路を急ぐ。特に何がある訳ではないが、霊能サークルという怪しい組織に属している身分であっても女性は女性、日があるうちに安全な場所に隠遁しておきたいと思うのは自然な感情だろう。
 右手には、昔ながらの公園がある。
 ブランコに滑り台、鉄棒や砂場などが設置された一般的な遊戯場。箱型のブランコは問題があるとかで撤去されてしまった。そういう思想でいくと、鉄で武装された鉄棒や、幼児の身長の何倍もの高さに設定されている滑り台などは危なくて仕方ないと思うのだが、そこのところはどう考えているのか。不思議でならない。
「……あれ」
 閉鎖された空間の中に、小さな影が居座っていることに気付いた。
 その女の子は、砂場で一生懸命なにかを形作っている。正体不明の物体は、礎の部分から想像してみてもやはり正体不明だった。城や山の類なら話は簡単だが、女の子はどうやら四角い何かを作り上げようとしているらしい。とはいえ、粒状の砂礫で角を表現ずるのは非常に難しい。まして、ご丁寧に大人たちが用意してくれた、子どもにとって危険でない程度の砂粒では、水を吸収する能力すらない。
 だが、私は女の子から眼を離すことが出来なかった。
「熱心ねぇ……」
 それでも、飽きることなく少女は手を動かす。愚痴を零すよりも砂を掻き集めることを選ぶ。
 遊びにこれほど本気になれるのは、子どもだけに与えられた特権だろう。何の意味もない、何も得るものがない行為を、達成できる筈がない遊戯と知りながら延々と続けられるのは、酷く純粋な人間でなければ成し得ることの出来ない能力なのかもしれない。
 ――例外として、子ども以外にその純粋な人間とやらを私は知っている。
 私の目の前で、夢を現実に変えると豪語してみせたあの少女――というのには年齢を重ねすぎているきらいがあるが、言ったら絶対殴り掛かって来る――秘封倶楽部代表、宇佐見蓮子。
 その類稀なる行動力は、うさんくさい霊能サークルをれっきとした墓荒らしに変貌させるほどだ。いつか逮捕されるんじゃないかと私は本気で思っている。
 別に迷惑とか厄介とかそんなことは考えていないけれど、私の能力が変に開眼してしまったのは向こう側を見すぎてしまったせいに違いない。蓮子と出会う前は意図的に向こう側を見ないように振る舞っていたのだが、秘封倶楽部の一員として動くようになってからは、目を逸らすのではなく逆に目を凝らしていたのだし。
 同じものばっかりじぃっと見続けていたら、そりゃあ目が悪くなるのも当然というもの。私の場合、視力が悪化する代わり『結界の境目を見る能力』が無駄に拡張された形となってしまったのだ。南無。
 やれやれ、と溜息を零した時、視界の端を紫色の影が横切っていった。
「――――」
 錯覚かと思いながら、公園の四隅、砂場で遊ぶ少女の更に向こうの植え込みを確認する。凝視する必要はない、ただ見るだけで事の是非は明らかとなる。確かに、これでは視力が悪化しよう筈がない。むしろ遠くを見ているから逆に良くなるかも。
「……在った」
 境目は紫で彩られていた。
 綺麗に刈り込まれた植え込みのわずか上、にやりと笑んでいるかのような下唇の線が、空中で不気味に待ち構えている。
 私が主に見るのは、怪しげな場所に張られた結界の境界であるが、ごくたまに布の解れのような境目が見えることもある。服の袖からはみ出た糸を、後先考えずに無理やり引き抜いてしまった後の袖を見るような、不自然なジグザグ模様。長さはまちまち、直線も曲線も曼荼羅や魔方陣、蜘蛛の巣やアミダクジを模したものまである。そこまで来ると、何か作為的なものを感じないでもない。
 それは街の至るところに在り、気にせずに無視しているといつの間にか消えている。境目が判らない人は触れても何の問題もなく、黙って踏ん付けて何事も無かったかのように通り過ぎていく。
 ただ、その境界を意識できる人間――私のような能力を持ったものが触れたら、一体何が起こるのか。
 試したことはないから、その先は想像できない。というより、あまりしたくない。
 それでも無理やりに空想してみると、いつか見た、桜の花で埋め尽くされていた結界の向こう側に、ここからでも辿り付けるということなのか――。
「……なんか、ぞっとしないわね」
 知らず、肩を抱いていた。
 女の子は、少女から見て何もないはずの植え込みを眺めている私を不審に思ってか、正体不明物体Xの構築を放棄して早々に公園から退散してしまった。駆け抜けていく少女の小さい背中を見て、不意に溜息を漏らす。これは、あんまり良い傾向じゃないなあ、と。
 もしかしたら、公園に不審人物が出没します、みなさん注意しましょうなんて注意書きが、回覧板に載って近所周辺に広まるかもしれないし。
 ぽりぽり、ニキビもシワもないであろう頬を掻く。
 空を仰げば、北斗七星が燦々と輝く時間帯に突入しているようだった。






 翌日も、倶楽部活動が無いのをいいことにその公園まで足を運んでいた。というより、家と大学とを結ぶ直線状にその公園があるから、行きも帰りもどうしたって通らざるを得ないのである。買い物でもして行くのならともかく、何も無い時には自然とその寂れた公園が視界に入って来るのだ。
 だから、見てしまう。
 在ると判ったら、進路を変えてでも避けて通るべき何かの境目――私に見えるということは何らかの結界であるべきだろうが、そう決め付けるのは早計であるようにも思う――。あれは、こちら側の世界に良い影響を及ぼさない。むしろ、危険であると解釈する方が自然だ。
 だからこそ、こちらの社会では異世界への接触がタブー視されている訳だし。法整備こそ行われていないが、良い年してオカルトに興味津々だと、周りからあまり良い顔をされない程度の風潮は立派に蔓延している。
 ……なのに、来てしまった。買い置きの食料も少なくなって来たから、そこいらのスーパーに寄り道するという立派な言い訳も立つというのに、何故か、あっちとこっちの歪みを目の当たりにしてしまう不自然な空間に。
「それに……。居るしね」
 歩みを進めるごとに大きくなる公園には、昨日と同じように小さな女の子が配置されていた。
 小学校に上がるか上がらないかという年頃の少女は、短く揃えられた髪と腰元の紅いリボンが特徴的だった。今日もせっせと砂を掻き集めては、誰の手でも不可能な正方形状の何かを構築しようとしている。真剣な表情は、カラスの鳴き声や棹だけ売りの声にも決して揺らぐことはなく――ただ、手を休める時には決まって砂場の向こうにある植え込みを見詰めていた。そこに、少女の疲れを癒してくれる何かがあるとでも言うように。
「……まさか、ねぇ」
 ざく、ざく、と錆びたシャベルで砂場を抉る。一心不乱なその動作が、死体を埋めるための穴を掘っているみたいだ、と感じた。
 集中しているせいか、女の子は私の存在に気付かない。公園の入口は、私が歩いている道とその反対側にあり、砂場は私の側の入口に沿って作られている。入口のある辺にはフェンスが、入口のない辺には植え込みが設置されている。
 その入口に立ち、女の子が見ていたであろう紫の境界線を視認する。
 確かに、今もまだその線は存在していた。幅は軽自動車より若干狭い程度で、下に小さく弧を描いている。
 しばらく立ち止まり、何かしらの境目を眺めていると、どこからか熱心な視線を感じる。境界線に払っていた注意を解いて、唐突に目線を下げてみる。
「…………」
 そこには、疑念と困惑の眼差しをたたえた砂場の主が居た。
「……こんにちは」
 とりあえず、挨拶してみる。反応は無かった。
 女の子は、片手にシャベルを握り締め、さっきまでとは正反対に怯え切った表情を晒している。その原因を推測してみるに、事の発端はどうやら私であるらしい。……困ったことに。
「あー……。別に、何がしたい訳でもないから」
 だったらなんで黙って突っ立っているんだ、という鋭い質問が返されると答えに窮してしまうのだが、幸いにも女の子からは何の質問も発せられなかった。
「だから、今まで通りに遊んでてちょうだい。ね? 私のせいで楽しい時間が台無しになっちゃったんだとしたら、素直に謝るわ。ごめん。……私はこのままさっさと消えるから、じゃあね」
 それは純粋な謝罪だった。ただ植え込みを眺めていただけとはいえ、自分に非があるのは間違いないのだし。私はさほど実感はないのだが、女の子が私の存在に恐怖を覚えたのだとしたら、それは立派な威嚇行為に値する。小さい者からすれば、大きな者が立っているだけでも威圧的に感じるもの。それを弱虫だとか意気地無しだとか貶すことは出来ない。
 軽く手をひらひらと振って、女の子の視界から消えるために足を進める。紫の線がまだ心にシコリを残していたが、本来ならば何も見なかったと忘れ去っていた筈の現象だ。今回は、只の気紛れで所在を確認しまっただけの話、すぐに忘れることが出来るだろう――。
 歩き出し、夕べの風が頬を冷たく通り過ぎようかという時、
「……昨日もいた」
 必死に振り絞った声が、私の背中に弱々しく命中した。
 か細い音色が耳に届いたのは、偶然と呼んでも差し支えない。なにせ革靴の足音ひとつで掻き消されてしまう余韻だ、カラスが一鳴きしていたら風と共に風化していたに違いない。
 それでも、今の女の子にはそれが精一杯だったのだろう。
「ええ、居たけど」
「……今日もいた」
「そうね、あなたの見間違いでなければ」
 もう少し愛想のある言い方は出来ないものか。自分でもそう思ったが、子どもに媚びるような言い方はあまり好きではない。子どもも敏感にそれを感じるだろうし、無駄に不信感を与えるよりは、等身大の自分を出した方が話をスムーズに進められると思う。
「……もしかして、怖かった?」
 私の腰あたりにある頭が、小さく下に傾いた。肯定、ということはやっぱり私は恐怖の大魔神と化していたようだ。そりゃあ、あの境界線を確認するために少し目は細めたと思うけど。
「だとしたら、ごめんなさいね。あなたを睨んでた訳じゃないんだけど……まあ、そんなものは言い訳にもならないわよね」
 自虐気味に呟くと、突如女の子が首を横に振った。その仕草が露を払う猫のように激しいものだったから、私も二の句が告げられなくなる。額面通りに受け取るなら、「そうではない」と言いたいのだろうが、一体どこがどう違うのだろう。皆目見当が付かないのだが、そう簡単に問い返せるほど女の子も気さくな性格ではないようだし。
 どうしたもんかと不意に視線を外してみると、そこには図ったように紫の線があった。
 ――なんとなく、その歪みが私たちを笑っているように見えて、思わず顔をしかめる。
 そして、すぐに後悔する。戻した視線の先に、先程とは違った顔を見せている女の子があったから。
 泣いてしまいそうな心と、それでも泣くことを良しとしない頑固な堤防とがせめぎあい、その葛藤が表情に出てしまったのか。というか、子どもはすぐ泣くから苦手だ。なぜ泣く。私も昔は子どもだったらしいのだが、残念ながらその頃の記憶が薄いために子どもの感情を理解することはままならない。非常に困った。現在進行形で困っている。
 そうこうしているうちに、彼女の堤防はもう決壊寸前のところまで来ている。瞳のたもとに滲んでいる涙は、やたらと澄んでいるように見えるから不思議だ。
「あ……。あのね」
 怒ってる訳じゃないのよ、とまた姑息な言い訳を吐き出す前に、女の子のしなやかな髪が翻る。脱兎のごとく、という表現がしっくり来るような、陸上選手も開いた口が塞がらないほどの猛ダッシュ。クラウチングスタートでもないのに、地面から凄い量の砂煙が立ち昇っている。
「あー……」
 引き止めようとする声も、いやに間延びしたものになってしまった。足を踏み出す度に上下に振られる可愛いリボンを見送りながら、これはもう不審者確定かなぁと肩を落とす。
 顔を横に向けなくても、紫色の境界線が不均等な唇で笑っているのが判った。






 蓮子の用事とは一体何なのかと問い詰めてみても、「信用は大切にってこと」なんてよく判らないことを言ってはぐらかされる。そんな訳で、三日連続でサークル活動は休止。休止と言っても、明確な指標がないうちは喫茶店で紅茶を飲んだりワッフルを食べたりするぐらいなのだが、って食べてばっかりなのは何故。ああ、喫茶店だからか、だったら仕方ない。と若干豊かになった感のある腹部を撫で付ける。大人ってずるい。
 そう自分の胃袋に言い聞かせ、日が長くなった夕方の道を歩く。たまに擦れ違う人の顔は、名前が浮かぶ以前に何処の誰かも判らない。挨拶を交わすことにいちいち理由を探してしまうのは、酷く滑稽な気もする。しかし、現代ではそれが通例なのだ。そういう生き方をした方が、この環境では過ごしやすいとされている。
 だから、私は擦れ違ったおばあちゃんに小さく「こんにちは」と言い、たとえ挨拶を返してくれなくても拗ねたりしない程度の大らかは常に持つように心掛けている。おばあちゃんは、「おやまあ」と何だか驚いたような声を出した後、「はい、こんにちは」と言って、にこやかに通り過ぎていった。
「……ま、こんなものよね」
 いつから声を出すことがしんどい世の中になったのか。まだまだ若い私たちには捉え切れない深みがあるようだが、それを解き明かすより先に私たち秘封倶楽部は一足飛びに幻想へと辿り着こうとしている。それはいわゆる未来のカンニングみたいなものだが、将来の演算が非常に難しい現代社会において、少しぐらい幻想の世界からヒントと貰ったところで罰は当たるまい。……多分。
 気分の赴くままに足を進めると、身体は自然にあの公園へと導かれる。
 あたかも、あの境界線に招かれているかのよう。あの歪みこそこの世界の招かれざるモノなのに、アレはこちらの人間を喜び勇んで手招きする。そして、招かれざるモノに招かれてしまった人間の末路は――。
「……どうなるっていうのかしら……」
 首を傾げる。結局のところ、境目に飛び込んでみなければそれが何処に通じているかは判らない。
 夕暮れの紅に染められた滑り台、乗せるべき子どもの姿もないブランコが目に映り、同時に分不相応な砂が集められた砂場も視界に入る。しかし、そこに昨日一昨日と腰を落ち着けていた女の子の姿は見当たらない。代わりに、砂を運搬するためのバケツが横に転がされている。
 まあ、そう毎日毎日遊んでいる訳にもいくまい。現代っ子はやらなければならないことが多い。小学校で受験があるくらいだから、自宅にこもりっきりでペンだこを作っていても別段驚くに値しないというものだ。
「――と、思ったけど」
 やっぱり居た。
 彼女が陣を張っている砂場ではなく、あの、不気味に笑う紫の境目が鎮座している植え込みに、女の子は昨日と同じ格好で身体を伸ばしている。違うとすれば、汗と砂で汚れた頬と少し乱れた髪の毛くらい。
 ただ、違和感があった。
 いや、それは危機感と言った方が適切だろう。私には結界の境目が見える。結界でないものの境目すら見える時もある。紫色であったり橙色であったり藍色であったり、多種多様な歪みが現界を侵食している様が見える。
 気付かない人間には無害、しかし気付いた人間には、どうか――?
 咄嗟に、私は駆け出していた。嫌な予感というものは理屈ではない。だから走った。その喧しい足音で、植え込みに上ろうとしている女の子の注意を引くために。
「……あっ」
 幸いにも、女の子は植え込みに掛けた手を離し、私の方へ顔を向けた。驚きの余り、その手からピンク色のシャベルを取り落とす。鉄と砂利が擦れ合い、一瞬だけ不快な音を立てた。
 泣いてはいなかったが、泣き出しそうなのは相変わらずだ。見も知らぬ大人、というだけで簡単に恐れ戦いてしまうのだから、最近の子どもは幸せ者である。それ以上に恐ろしいものなど、そこらじゅうに存在するというのに。
 だから、私はあえてにこやかに挨拶をしてみる。
「こんにちは」
 本来は、挨拶をすることに理由なんていらない。
 それなのに、女の子がそれを口にするにはしばらくの猶予が必要だった。目も合わせず、小刻みに震えた身体から想像するに、私のことを妖怪やら悪魔などと勘違いしているのか。
 酸素を欲しがる金魚のように口をぱくぱくさせて、ようやく女の子は当たり前の言葉を言う。
「こ……こんにちは」
「うん。よくできました、と言いたいところだけど……。そんな様子じゃ、言い終わるまでに日が暮れちゃうわね。そうしたら『こんばんは』って言わないと間違いになるし」
 女の子は神妙に聴いている。とりあえず、こちらが滅多なことをしなければ泣き出したりしないらしい。
「だから、挨拶くらいすんなり言えるようにならないと駄目よ。言いたくなかったら言わなくてもいいけど、挨拶されたら挨拶し返さないと、バランス悪いから」
「……バランス?」
 小首を傾げる。地面に落ちたシャベルのことなど、とうの昔に忘れてしまったようだ。春の風に晒されるシャベルを横目に、上手い説明を考える。
「簡単に言うとね、私はあなたに挨拶すると嬉しくなる。で、あなたにも挨拶されると、もっと嬉しくなるの。別に、挨拶されたいからあなたに挨拶する訳じゃないんだけど、無視されるのは悲しいじゃない? そういうことよ」
 世の中でいちばん大切なのはバランスだ、とはよく言ったものだ。
 均衡が保たれていればこそ、争いが最小限に留められる。綱引きだって、両方から引っ張られていなければ空中に留まることは出来ない。あなたが居るから私が居る、という論法は、必ずしも的外れではないのだ。
 しかし、女の子はいまいち要領を得ないというような顔をしていた。
「……よく、わかんない」
「まあ、無理に判れとは言わないわ。でも」
「……でも、悲しいのは、いやだから」
 唐突に、頭を下げる。
「ごめんなさい……」
 一体、何に対して謝っているのか理解できなかった。ただ、顔を上げた女の子の辛そうな瞳が、許しの声を求めていることに気付く。
「謝られても困るけど。そんなに卑屈に生きてたら、大人になった時に困るわよ?」
「いいの」
「あら、そうなんだ。立派ね」
 素直な感想を述べる。女の子の手が、地に落ちたシャベルを掬い上げる。私に対するための武器を手にした、という意味ではないだろうが、このまま他愛のない――女の子にとっては桁違いなのかもしれない――会話を進める訳にもいかない。
 元より、私の目的はたったひとつ。
 さっきから、不気味な曲線で私たちを俯瞰している、その境界線。紫色の、歪み。
「……あなた、あれが見える?」
 常人には見えない線を、私は人差し指で指し示す。
 それにつられて、女の子の首が背後の植え込みに回る。しばらく、私が示した場所を虚ろな眼差しで眺めて、腕を平行に伸ばすのにも少しばかり疲れを感じてきた頃に、女の子は不思議そうな顔で回答を告げた。
「きれいな、線だよ?」
 それがどうかしたのか、とでも言いたげだった。この女の子は、私なんかよりよっぽど素直にあの境界線を受け止められている。いつもいつも素通りして、見なかったことにして忘れてしまう私とは違って。
 それも、子どもならではの純粋さがそうさせるのかもしれないが……。
「ああ、見方によってはそうなのかもしれないけど……。さっき、あの線に触ろうとしてたでしょ」
「うん」
「どうして」
「……うん?」
 縦に振った首が、上げた直後に横へ揺らぐ。
 ちょっと可哀想な質問だなぁとは思ったが、これを聞かなければ始まらない。危険だからやめなさいと断ずるよりも、女の子の気持ちを優先した方が遥かにマシだ。
 沈黙とは異なる熟慮の時間を経て、女の子は探り探り言葉を宙に乗せていく。
「えーと……。あれはきれいだから、触ってみたくなって……。だって、きれいだもん」
「……まあ、見ようによってはそうなのかもしれないけどねぇ」
 少なくとも、私はあれを美しいとは思えない。形式美として考えるなら、確かに綺麗な曲線を描いているとは思うが、それ以上の異質さをあの線は秘めている。とてもじゃないが、ビー玉や宝石に触れるような手付きで撫で回そうとは思わない。
 けれども、目の前に居る純粋無垢な女の子は違うのだ。
「……おねえちゃんの髪も、きれい」
「え?」
 一瞬、何を言われているのか理解できなかった。が、女の子の嬉しそうな表情を確認して、どうやら私の髪を褒めたのだろうということが、朧気ながら理解できた。
 それというのも、あまり私の容姿を褒めるような人間が近くに居ないせいなのだが……。
「……あぁ、うん。ありがとう。でも、あなたの髪もちゃんと手入れされてて、凄く綺麗だと思うわよ」
「……あ、ありがと、う」
 照れながら、必死で感謝の言葉を述べる。最後の方は声が掠れていたが、女の子の想いは私に届いた。だから問題ない。
 不器用な祝辞を述べ合っているうちに、お互いの表情は自然と澄んだものになっていた。私はもともと普通に振る舞っていたのだが、女の子から見てそれは尊大に映っていたらしいので、今のようにぶっきらぼうな態度で臨んだ方が好印象っぽい。『普通に振る舞う』やら『自然な態度で』などという意識で人と接することが、むしろ不自然であることを女の子は本能的に理解しているのだ。
「おねえちゃんは、あれに触ってみたくないの?」
「私は……お断りするわ。もしかすると、触っただけで別の世界に跳んじゃうような気もするから」
「……べつのせかい?」
「といっても、アメリカとかロシアとかイランとかじゃないのよ。たとえば、あなたのお母さんもお父さんも、幼稚園の先生もお友達も、誰も何も親しい人が隣りに居ない場所。独りぼっちの、とても寂しくてとても広い場所のこと」
 言葉を進めるたび、女の子の顔にひとつまたひとつと怯えの色が付け足されていく。しかし、私の言っていることはきっと真理だろうから、子どもに優しい着色料は使わないでおく。
 それを知ってもなお、興味本位であの線に触れようと手を伸ばすのなら、私は女の子を止めたりはしないだろう。意志は尊重されるべきだと思う、それが子どもの浅はかな望みであっても、どれほど向こう見ずな希望であったとしても。
 女の子は、小刻みに震える肩を自分で抱き締めて、それでも私からは目を逸らさずに居た。私が真剣に話をしているから、ちゃんと聞かなくてはいけないと思っているのだろう。やっぱり良い子だ。
「……寂しいのは、嫌い?」
 こくり、小さな顎が下がる。
「……私にも、あの線が何かは判らない。どこに通じているかも定かじゃない。でも、もしあなたが誰も知らない世界に言ってしまったら、あなたは寂しい思いをしなくちゃならない。たった独りで、生きていかなきゃならない。……それが、今のあなたに出来る?」
 ぶん、小さな頭が横に振られる。強い拒絶だった。
 思えば、これこそ脅迫なのかもしれない。あの線に触れるなと、大人の圧力で子どもを締め付けただけに過ぎないのかもしれない。それに、いつもいつもあの線のような結界の境目を飛び越えていく私が、あの線に近付くななどとよく言えたものだと思う。
 けれど、矛盾していても構わない。
 それで私が責められるのなら、甘んじて受けよう。
 私は自分が否定されるよりも、この女の子が何も知らずに消えていく方が嫌だ。寂しいのは嫌いだと、悲しいのは嫌だと、泣きそうな顔で認めた名も知らない女の子が、訳も判らない世界に跳んでしまうのが嫌なだけなんだ。
「今度、紫色の綺麗なビー玉でも買ってきてあげるから」
 弾かれるように、俯いた女の子の顔が浮き上がる。なにぶん身長差があるので、私の顔を直視すめには首を思いっきり後ろに下げる必要がある。いつまでもそんな体勢を続けさせるのは流石に酷だと思って、私は中腰になって女の子と水平の視線を保つ。
「別に、あの線に触らなくてもいいでしょ」
 神隠しは私たちだけでいい。何も、まだまだ先のある女の子を連れ去る必要もないだろう。……まあ、私たちにだってまだまだまだ先はあるんだろうけど。
 女の子は、ようやくその顔に光を取り戻し、満面の笑顔で微笑んでみせた。
 これ以上ないくらい可愛らしい表情につられて、私も不意に顔が綻ぶ。そしてついでに、あまり柄にもない言葉を口にしてしまう。
「それに、二人で居れば寂しくもないだろうし……ね」
 あの線は、笑っているだろうか。
 だけど、それでも構わない。見ようによっては、あの不気味な曲線も私たちを祝福しているように取れるのだから。






「こんちはー!」
 蓮子は元気だった。なんとなく目を逸らしてしまいたくなる程に。
 講堂の出入り口付近でそんな大声を張り上げていたら、誰だって目を逸らしたくもなる。目だけじゃなく顔まで逸らしていたとしても、彼女は小走りにこちらへと向かってくるからあまり意味はないのだが。
 とりあえず、御機嫌ようと上品そうな挨拶を返す。柄じゃないけど。
「ありゃ、しばらく見ない間に随分とお澄ましさんになっちゃって」
「お澄ましさんって……またしばらく聞かない言葉を」
「まあ細かいことはいいじゃない。それより、休みにしてたサークルの打ち合わせ、今日から再開するわよー。ちょうどネタも入ったしね」
 そう言って、さっきから握り締めていたらしい写真をひらひらと振ってみせる。用事がどうこうというのは、どうもこの写真に関するものらしい。例の裏表ルートが一枚噛んでいると見て間違いあるまい。蓮子以外にも、そういう結界や幻想に興味があって、なおかつ冥界やら魔界だのに干渉する能力を秘めた人間がいるかと思うと、この世界も案外物騒なんじゃないかという気さえしてくる。
 やたら嬉しそうな蓮子の顔を下手に崩すのも悪いとは思うのだが、こればっかりは仕方ない。約束まで取り付けてしまったし、今日行かなければ人間として駄目な部類にまで落ち込んでしまう。それだけは避けたい。
 私は、講義後のざわめきに掻き消されない程度の声量で、蓮子に呟いた。
「あ~、ごめんなさい。今日は私、ちょっと別の用事があって……」
「……別の? これ?」
 訝しがり、右手の薬指だけをピンと立てる蓮子。人間にはなかなか難しい動きだと思うのだが、残念ながら意味も判らない。
「……病院に通ってる訳じゃないけど」
「……あ! 間違えた、こっちだわ」
 今度は小指を綺麗に直立させる蓮子。……惜しい。というか本当にそう思ってるのだとしたら、小一時間ほど本気で問い詰めたい衝動に駆られたりもするが、今日はそんなことをしている暇さえ惜しい。
 私は、大学の正門に向かって走り出しながら、振り向きざまに謝罪する。
「だからごめんね! この埋め合わせは、いつか必ずやろうと思ったらするから!」
「それは確約になってない気が――」
 蓮子のぼやきは最後まで聞き取れない。それからはもう振り返りすらせず、目的の雑貨屋まで休むことなく駆けて行く。講義のひとつやふたつ休んでも構わないのだろうが、それはそれだ。慣れないことをすると、余計なところで予期せぬことが起こるもの。たとえば蓮子が道徳について説き始めたら、翌日はバレーボール大の雹が降り注ぐとかいったような。
 細かいことを言えば、わりと長いスカートを翻して疾走するあたりも、私の日常からかなり懸け離れた行為ではあるのだが、急いでいる時には誰だって走る。猫だって走るし鼠や兎だって二本足で走るだろう。世の中そんなものだ。
 ビー玉程度ならそこいらのコンビニエンスストアでも購入できそうなものだが、そういう出来合いのものはよろしくない。具体的にいうと、私の気が許さない。プレゼントすると言ったからには、あの女の子から見て魅力的な線の呪縛を解き放ってあげられるような、心温まる淡い色彩の球体で女の子を魅了させなければならない。これは結構難しい仕事だと思うのだが、そういう難題をズバッと解決してこその秘封倶楽部――はあんまり関係ないけど。
 雑貨屋の目星は、今日の朝につけておいた。ちょうど家とあの公園の近くなので非常に便利である。しかし、建物が相当古いことを考えると運営しているのは結構お年を召した方だと思う。そうなると、呼んでも来ない、そもそも居ない、近所を徘徊して嫁を困らせている、みたいな状況になっていることも考慮に入れるべきかもしれない。まして、雑貨屋のビー玉の方がコンビニのそれよりクオリティが高いというのも、私が勝手に思い込んでいる幻想でないと言い切れる材料は、今のところ存在しないのだ。
 もう、コンビニも大学の正門も遥か向こうに消えてしまった。なるようになれ、と心の中で呟き、私はその雑貨屋の前で足を止める。錆びた看板、寂れた店内、くすんだ空気の中を掻き分けて進んでいく。
「……あ」
 その途中で、顔を見合わせる。
 古いタイプのレジの後ろに座っているのは、昨日私と挨拶を交わしたおばあちゃん。にこにこ笑っている顔に見覚えがあった。おそらく向こうも気付いているだろうが、あえてそのことは口にしない。
 ……こんな偶然もあるんだなぁ、と感心しながらも、私はとりあえず「こんにちは」と言った。おばあちゃんも昨日と同じように、「こんにちは」と返す。きっとこの雑貨屋では、遥か昔からそんな当たり前のやり取りが交わされていたのだろう。でも、いつからかその言葉は絶えた。子どもが大人になるように、時は流れて、便利な方へ、綺麗な方へ人が流れていった。挨拶の言葉を置き去りにして。
 私は狭い店内の端っこに、埃ひとつないビー玉の塊を見つけた。みかんを纏める赤い網の中に、赤やら青やら緑やら紫やら、煌びやかな珠が一括りにされている。私が拾い上げると、それらはかちゃかちゃと懐かしい音を立てた。
 それを二束ほど見繕って、おばあちゃんの前に差し出す。
 「お願いね」と言って、「ありかとう」と笑う。ただそれだけの会話が酷くむず痒くて、お釣りを貰うとすぐに身を翻した。
 でも、背中に「また来てね」と言葉を掛けられたら、私も振り返って「来ようと思ったら、来ます」と捻くれた答えを返すしかなかった。まだまだ、子どもの頃のようには行かないらしい。
 ――だいぶ時間を喰ってしまった。駆け足であの公園へと急ぐ。なんだか最近は走りっぱなしのような気もする。明日、筋肉痛にならないといいけど。
 いつもの通りとは違う入口から、公園の様子を探る。
 女の子は、滑り台の上にぽつんと独りで座っていた。紅い斜陽を一身に浴びて、身じろぎひとつせずに。
 膝を抱えて俯いているその姿に、言いようのない虚しさが私を締め付ける。
 その辛さで声が出なくなる前に、私はなるだけ大きな足音を立てて公園に踏み入った。
「――あ」
 滑り台から、女の子が歓喜の体で滑り降りてくる。その手に握られたシャベルが、滑り台の鉄と交わって擦り切れた音を立てる。そんな不協和音も、公園には有り触れた音だ。
「こんにちは」
「……こんにち、はっ」
 つたない発音で、精一杯挨拶をする。まだ、知らない人に言葉を掛けるのは慣れないらしい。私もそんなに達者な方ではないけれど。
「で、まあ。約束だからね」
 勿体ぶる趣味はないので、ポーチからビー玉を一気に抜き取る。二束まとめて引っこ抜いたので、玉と玉とが絡み合ってじゃらじゃらじゃらじゃら喧しい。
 それでも、女の子は夕日の紅に反射したビー玉以上に瞳を輝かせて、喜びのあまり何も言わずにビー玉を強く握り締めていた。
「っと、まだ早いわよ。その前に言うことがあるわよね?」
「……あ」
 お礼を言われたいから買って来た訳じゃない。ただ単純に女の子と遊ぶのも良いと思ったからだし、泣き顔を見たくなかったというのも偽らざる本音だ。けれども、どんな時だって筋は通すべきだと思う。
 女の子は一旦きらきら光るビー玉から手を離し、緩む表情を抑え切れないまま私に言った。
「おねえちゃん、どうもありがとう!」
 笑った顔。笑った声。笑った瞳。
 その表情全てに感化されて、私も知らないうちに笑っていた。
「いえいえ。どういたしまして」
 差し出した煌びやかなビー玉を、おそるおそる手に取る女の子。角度を変え、玉を覗き込み、ぶんぶん振り回す仕草は本当に子どもらしい。つい先日まで、たった独り砂場を占領していた女の子と同一人物とは思えない。
 ところが、女の子がビー玉の袋を覗き込んだまま、不意に俯いてしまった。
 いきなり翳ってしまった表情を不安に思い、事の真相を確かめてみる。
「……どうしたの? 玉の中にバクテリアでも棲んでた?」
 まさかこんなところに化石が混じっているとは……なんて下らない妄想を広げる自分とは違い、女の子は至って深刻な表情のまま、告げる。
「……開けかた、わかんない……」
 本気で泣きそうになっていた。






 ハサミがないので、赤い網を強引に引き千切る。幸いにも爪が伸びていたので話は早かったが、その様子を見て女の子が「おーっ」と感心していたのが少し気になった。別に剛力な訳じゃないと弁解しておいたが、ちゃんと理解していないような感じもする。
 兎も角も、私は蓮子とのサークル活動をほったらかし、夕暮れに沈みかけた公園にて年端もない女の子と一緒にビー玉遊びをしている。
 事実だけを挙げ連ねていくと私がとんでもない怠け者のように見えるが、真実は決してその通りという訳でも――ないのかしら。ごめん蓮子、でもやっぱり当てのない旅よりは、寂しい女の子との約束の方が大切なのよ。
 遊び場はいつもの砂場。数日前より一人多くなった女の子の領地には、私の居場所も丁寧に用意されていた。だから今日は、懸命に掘り返していた砂場を平らにならして、その上に買ったばかりのビー玉をばら撒いていく。
 そういえば、地上の星なんていう歌もあったっけ。藍に橙、紅に紫、黒や白は見当たらないけれど、ここは確かに見紛うばかりの星で埋め尽くされている。夕陽に照らされなければ輝けない半端な恒星だけれど、わずかな時間でも誰かの瞳に光を宿せるのなら、それは立派な星と言えるのではないだろうか。
 女の子は、中でも紫の玉に魅せられたようだった。砂場に埋もれた紫のビー玉を、飽きもせずに細い指で撫でている。
「あなた、本当に紫色が好きなのねぇ」
「うん。おねえちゃんは?」
 紫を摘まみ上げて、そのガラス玉越しに質問する。
 私は、ばら撒かれた星々の中から、これぞという色の玉を拾い上げた。
「……あお?」
「そう。青と一口に言っても、深みや淡さでいろいろと言い方も変わるから、その分だけ味わいがあるのよ。色だけど」
「うん、とってもきれい」
 小さな青玉を取り上げて、手のひらの上で転がす。太陽の紅に染められた青は、ちょうど紫の度合いが強くなっている。紫はより紅が濃く、赤はより禍々しい色彩を強め、全ての色が夕紅に征服されているようでもあった。
 よく、昼と夜の境目、夕暮れの時間帯を『逢魔ヶ刻』と言う。何とはなしに、その言葉を思い出した。
 あるいは、紫色に惹かれること自体が逢魔ヶ刻の入口なのではないか――とさえ思えて来る。あの得体の知れない境界線に手を伸ばしてしまう、この女の子のことを思えば。
「……? どうしたの、おねえちゃん」
「――いえ、何でもないの。ちょっと、友達のことを思い出して」
 嘘も方便。その犠牲者としてわざわざ蓮子を選ぶ義理もないのだけど、これも人間関係を円滑に進める術だと思って割り切ってほしい。
 ところが、ただの方便だと思っていたものが、不意に女の子の表情を曇らせる。
「ともだち……」
 言葉の意味を確かめるように呟いて、目はビー玉の中身を覗き込む。まるで、その中に自分の友達が隠れているのではないかと疑うように。
「ね、おねえちゃん」
「……うん?」
 急に女の子の声が上り調子になり、ビー玉ではなく私の眼をじっと見詰めている。
「もしかしたら、あの線の向こうには――」
 その先を聞くべきかどうか、迷う。この告白を聞けば、きっと自分は余計な重荷を抱えてしまうことになる。逃げることも引くことも出来る立場であるのに、私は何故か、女の子の声に耳を塞ぐことが出来なかった。これだけ真摯に、私のことを信用して告白してくれているというのに、その信頼を無視して自分だけ楽な道に逃げようだなんて、とてもじゃないが出来る訳がなかった。
「――そこには、わたしのともだちになってくれるひと……。たくさん、いるのかな?」
 期待と希望に満ちた問いかけだった。その淡い望みを打ち砕くような真似はしたくない。なにせ、女の子を悲しませたくないからビー玉を買い、一緒に遊んだ。子どもが泣くのは好きじゃない。涙を流さないために適当な嘘を付いてあげるのも、利口で狡猾な大人の役割だろうと思う。
 けれども、今回ばかりは分が悪い。
 私が女の子の希望に答えてあげることは、すなわち女の子の命を危険に晒すということ。
 あの、一歩間違えれば別の世界へと跳んでしまう境界線の、片道切符を手渡してしまうことになる。
「おねえちゃん――」
「ごめんね。私にも、よくは判らないけれど……。あの線を越えても、そう簡単に友達なんて作れないわ」
「……そうなんだ」
 女の子は簡単に意見を取り下げる。
 そして、再びビー玉の中に視線を戻して、ぽつぽつと語り出した。思い出を引き千切るように、千切っては投げ、掴んでは放り捨てる。
「わたし……。あんまり、ともだちいなかったから」
 かちん、と右手の中の玉と玉とがぶつかり合う。紫と青は、見せ付けるように寄り添いあう。
「いっしょにあそんでくれるひと、いなかったから」
 砂場の外に置いたシャベルを取り出して、適当に砂をかき混ぜる。掘り起こされたビー玉が、あっと言う間に砂に埋もれて消えていく。
 ざく、ざく、繰り返される掘削の最中も、女の子は顔色ひとつ変えなかった。
 これが遊び。女の子がいつも真剣に反復している、果てのない遊戯なのだ。誰も禁止しない、誰も声を掛けないから、いつまで経っても砂を掘り起こしているだけ。
 ただそれだけの遊びを、ずっとやって来たのだ。
「……だから」
 限界に達したのか、女の子の声が急に震え出す。堤防が決壊すると読んだ私は、即座に女の子の手を握り締めた。このままみすみす泣かせてしまったら、一体何のためにここにいるのか判らない。
「あー、もう! 嫌なことがあったからってそう簡単に泣くんじゃないの! ……それに、その問題はもう解決してるでしょう? だって、私がいるんだから」
「……え」
 予想だにしていなかった、という声。それも失礼な話だ。
「判らない? 今、あなたの隣りには私がいる。それが決定的な違い。友達の定義なんてどうでもいいの。挨拶したから友達? ビー玉をあげたから友達? そんなの、後付けもいいところよ。ここが友達とそうでない人の境界線だなんて、誰にも決められやしないんだから」
 切欠は挨拶だったかも知れない。しかし、切欠は所詮発端に過ぎないのだ。そこから私が進展を求めたから、こうして女の子と一緒に遊んでいる訳だし。
 女の子は、私の言ったことの半分も理解していないような感じだったか、『友達』という言葉を耳にして、ぱっと顔を輝かせた。
 ――残酷な話だが、女の子は友達であるということがどういう意味が、本当に判らなかったのかもしれない。
 ずっと一人だったから、友達の作り方も、友達との遊び方も知らなかった。友達になるということが、友達であるということが、感覚として理解できていなかったのだとしたら。
「……ともだち?」
「うん。まあ、そういうことよ」
 探り探り言葉を選ぶ女の子に、胸を張って答える。年齢こそ離れているが、そんな理由で差し伸べた手を引っ込めるほど非道ではない。
 私が発した言葉の意味を充分に噛み砕いて、喉の奥にぐっと飲み込んでから、女の子は繋いだ手を強く握り締めた。
 片手にビー玉、片手に硬く繋がれた手。二つが二つとも、友達であることの証。
 本当は、そんな明確な形は必要ないのかもしれないけれど、女の子には無くてはならないもの。女の子はビー玉を大切にしてくれるだろうし、私は繋いだ手をなるだけ長いあいだ握っていなければならない。
 まあ、無期限という訳にはいかないだろうが、時間のあるうちは一緒に遊ぶのも悪くない。
「――と思ったけど、もう暗くなっちゃっうわね。そろそろ帰らないと」
「あ……」
 空と地面の境界線に、紅い太陽が半分くらい落ち窪んでいる。残念そうな溜息が漏れ、縋るような目で私を見上げる女の子。昨日も日没までがタイムリミットで、それ以後は私が女の子の背中を押して家へと帰らせた。女の子の家がどこにあるかもよく判らないし、そもそも女の子の名前だって知らない。でも、必ずしも名前を知る必要はないと思う。顔を見てそれでお互いの存在が知覚できるのなら、余計な名称は余計なものだと言ってもいい。
 実を言えばそれは建前で、ただ単に名乗るタイミングを見失っていただけなのだが……。
「さ、名残惜しい気持ちは明日にとっておいて。今日のところはお開き、ね?」
「……うん。わかった」
 硬く握った手を離して、砂場に散らばったビー玉を手当たり次第ポケットに詰め込む。ピンクのシャベルは反対側のポケットに。
 その重さで少しズボンがかなりずり落ちているのだが、女の子はそれでも元気に別れの挨拶を交わす。
「さよなら、おねえちゃん!」
 走り出し、振り返りざまに手を振って来る。私も、女の子ほど思い切りではないが、その挨拶に答えられる分だけ大きく手を振り返す。
「さようなら。お母さんによろしく――は言わなくてもいいわ」
 誤解を与えかねないから。
 それに同意したのかどうかは判らないが、女の子は何も答えずに夕日の没する方へ駆けて行った。その紅く滲んだ背中が見えなくなり、そこでようやく挙げた手を下ろす。
 砂場には、私の分のビー玉がところ狭しと散らばっている。おそらく、女の子が拾った玉の中に私のものも混じっているのだろうが、それならそれで構わない。女の子の方が大事にしてくれるだろうし。
「……ふぅ。子どもがいつもあれくらい可愛かったら良いんだけどねえ」
「まあ、そういうことよ」
「そういうことって、どういうことよ…………って!」
 背後から飛び込んできた声に、思わずその場から飛びのいてしまう。
 振り返るまでもなく、私はその人物が誰なのか判った。彼女がここに現れた理由までは判らないが、とりあえず驚かしてくれた分の怒りと恥ずかしさを込めて、力強く叫んでみる。
「蓮子ッ!!」
「ご明察ー」
 フェンスに腕を乗せ、何か言いたそうなにやついた目で私を見ている。なんか無性に癇に障る。
「なんでこんなところに……」
「いやぁ、メリーだってこの辺りに住んでるじゃない。自分の住処を『こんなところ』呼ばわりとは、なかなかブルジョワジーな発想ねメリー」
 へらへらと笑う。大人って、こういう笑い方をするから嫌だ。蓮子の場合は、どことなく人を小馬鹿にした感じだけど。子どもっぽいというか、容赦がないというか。
「……言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどう?」
「メリーのロリータコンプレックス」
「言葉を選べ!」
 ビー玉を弾く。いわゆる指弾という奴だが、フェンスに遮られて呆気なく墜落してしまった。根性なしめ。
「あ、懐かしいわねー。ずっとビー玉で遊んでたの?」
「まあ、ね。あの子が欲しいって言うもんだから……。って、そこの女子大生。厭らしい顔をするんじゃない」
「いやはや、メリーさんも意外とやるもんですねー。あながち私が言ったことも間違いじゃなかったかも? かも?」
「二回言うな」
 小指を立てて絡んでくる蓮子に、溜息しか返せるものがない。
 とりあえず、そこらに散らばったビー玉をひとつひとつ拾い上げていく。蓮子も、入口から公園の中へと入って来て、子どもの頃を思い出したのかブランコの上に乗って立ち漕ぎを始めたりしている。ほんと、アクティヴというか夢追い人というか。ほら、あんなに勢いよく漕いでるもんだから、トレードマークの帽子が落下してるし。
 蓮子は、帽子が地面に不時着したのを確認すると、あろうことかブランコの鎖から手を離し、勢いのままに板から飛び降りた。
「――よっ!」
 簡易カタパルトから射出された蓮子は、二メートルほどの滑空を体感した後、砂利を踏み締めて美しく豪快に着地してみせた。砂煙の向こう側、体操選手のごとくY字のポーズを取っている蓮子を見ると、本当に人生が楽しくてしょうがないんだろうなぁと思えてくる。
「どう? 愛の証は集め終わった?」
「愛の証じゃない。友情の証」
「なるほど……。まずはお友達からっていう」
「まずもからもない」
 気を取り直し、ビー玉の数を数える。……やっぱり、かなり数が足りない。特に紅や紫といった系統の色が皆無に等しい。仕方がないので、明日女の子に返してもらうことにしよう。別に譲っても構わないのだし。
「……あ、そうだそうだ。メリーに聞きたいことがあるんだったわ」
 胸ポケットから取り出されたのは、何の変哲もない一枚の写真。――かと思ったが、蓮子が勿体ぶって差し出したものに、何の変哲もない訳がない。
 差し出された写真の端を摘まみ、そこに写し出されたものを覗き込む。
 見渡す限りの竹林に――天然なのか養殖なのかは判らないけれど――紫の裂け目。その不気味に笑っている曲線と、その向こう側に見える不恰好な鉄塔に、思わず目を見開く。
「ん? UFOでも写ってた?」
 蓮子の声も耳に入らない。弾かれるように首を巡らせ、焦点を砂場の彼方にある植え込みに合わせる。
 私が初めて気付いた三日前から、あそこでずっと笑っていた紫色の境界線は――。
「――もしかして、あそこに結界が?」
 蓮子の言葉にも、すぐには反応できない。少しばかり間を取って、植え込みから視線を外す。
「……いえ。ここに境目なんて無いわ」
 首を横に振って、断定する。
 見間違いや勘違い、ということはないだろう。あの境目は昨日までは確かに在って、今日になって初めから何も無かったかのようにあっさりと消滅した。植え込みの景色は実に滑らかで、嘲笑うかのように空間を切り裂いていた境界線は影も形もない。
 よくある話だ。空間の歪みは不意に現れ、予告もなく消える。
 そこに因果関係はない。誰かが結界の境に呑み込まれたから、その境から悪魔を吐き出したから、役目を終えて消滅したなんて話、今まで一度も聞いたことがない。
 ――判っている。矛盾していることは。
 でも、あえて訂正はしない。結界は去った。だからそれでいいじゃないか。あの女の子が、何かの間違いで境界線を越えることもなくなったんだから。一度消えた境界線が、もう一度同じ場所に現れたことは、私の確認した限りでは一度もない。
「ふぅん、そうなんだ……。メリーがそう言うなら確かなんだろうけど。私が見ても、天然か養殖か合成か判らない竹林が、延々広々と広がってるだけだからさ」
 写真を西日に掲げて、透かしを確認するように何度も何度も翳す蓮子。あたかもフィルムを現像する時のようなセピア色の空間に包まれながら、私たち秘封倶楽部は幻想への入口をひとつ放棄した。
 その写真から入口が見えても、こちら側の扉が開いていなければ行きようがない。
 嘘を言った訳でもないのに、誰かに責められているうな気がして、不意に辺りを見渡す。
 公園の全域を見渡しても、結界の境界は見えない。当たり前だ、境界は消えたのだから。
 それと同時刻に、蓮子は思い出したかのように空を見上げて、
「一番星……。十七時三十八分、四十秒」
 時計を見るまでもなく、極めて正確な現在時刻を割り出した。






 いろいろと誤解はあるようだが、蓮子も私の事情に理解を示してくれたようで、しばらくはサークルの打ち合わせを日没後の時間に設定することに同意してくれた。その代わり、喫茶店の注文費用は私持ちで。蓮子だって自分の都合でサークル活動を休止していたんだから、今度は私の都合を認めてもおかしくないだろうに。
「だめだめ。私がやっていたのは立派な資料採集よ? でも、メリーの場合は現代版光源氏」
 そんなことを言って追求を回避する。ちなみに光源氏は関係ないと強く念を押しておいたが、効果があったかどうかはいまいち判らない。
 何にしろ、これで心置きなく女の子との約束を果たせる訳だ。正門をくぐり、角のコンビニを曲がり、そこから最短距離を闊歩する。いつの間にか速めていた足を、急く心を懸命に殺す。自分はなんでこんなに急いでいるのだろう、別に女の子が逃げる訳じゃないのに。おかしな話だ。
「メリーは心配性なのよ。ほら、案ずるより生むが易しって言うじゃない?」
 昔、蓮子がそんなことを言っていた。確かに自分でもそう思う。考えても詮無いことを考えてしまうのが私の性分でもある。しかし、それを否定しては私の存在がままならない。思考を展開するからこそ見えることもあるのだと信じている。それは、物理学者である蓮子とて同じだろう。
 陽は陰り、逢瀬の時刻が近付く。自然と、公園にあるべき光景が頭に浮かぶ。
 昨日と同じように、滑り台の上に座っているのか。それとも、砂場にビー玉をばら撒いているのか。もしくは、もう見えなくなってしまった植え込みの線を眺めているのか。
 けれども、女の子の表情は一様に寂しそうだった。
 早く駆けつけたい。そして、あなたは一人じゃないんだと言い聞かせてあげたい。
 本来は、私が言うべきことではないのかもしれない。母親なり先生なり、同年代の友人なりが教えて聞かせるべきものなんだろう。しかし、あの公園に私しか訪れる人間が居ないのなら、女の子にそれを教えるのは私の役目だ。
 ――出過ぎた真似かどうかは、後でわかる。今は、一刻も早く公園に行こう。でなければ、計算式そのものが成り立たない。
 一歩ずつ、踏み締めるようにコンクリートを蹴って行く。
 緑色のフェンスが見え、滑り台も目に留まる。砂場にはいつかと同じように不器用な山が築かれていて、夕暮れの風に乗るべき人の居ないブランコが静かに揺れている。
 不意に、逢魔ヶ刻という言葉が頭を過ぎった。
 疼く心臓を押さえつけ、砂場に足を踏み入れる。
 紫に紅、藍に橙の光の粒。その位置が正座の形を示している――なんてこともなく、てんでバラバラに散りばめられている。夕日に反射して煌びやかに輝く地上の星は、確かに美しかった。
 ピンク色のシャベルは、砂場の隣り、植え込みに近い場所に落ちていた。よく見れば、いくつかのビー玉が砂場と植え込みの間に転がっているのが確認できる。そこからゆっくりと視線をあげれば、やや荒らされた形跡のある植え込みが見て取れる。
 そして、空間を真一文字に切り裂いたかのような、紫色の傷痕も。






 女の子は来なかった。
 名前も家も知らないから、どこにいるのか判らない。私に出来るのは、公園の中で呆然と突っ立っていることぐらい。
 紫の境界線を背景に、来るはずがないと知っている女の子を待つ。
 完全に日が暮れて、蓮子との約束の時間が訪れて、携帯電話の着信音が聞こえるまで、私はその場を動くことが出来なかった。何度目かの着信音を聞き、諦めの悪い蓮子の執念に負けて携帯電話を取る。
「……もしもし」
『はい、どなたですかー』
「……そっちから掛けて来たんだから、どなたですかは無いでしょう」
『いや、最近流行りのもしもし詐欺かもしれないじゃない』
「……何それ」
 蓮子のネタにも付き合っているあたり、自分は割りと薄情な人間なのかもしれない。だが、蓮子は私の陰鬱な声から大体の状況を推理したようだった。
『……なんか暗いわね。まさか、浮気の現場を目撃したとか?』
「してない。というか、昨日からそればっかりね」
『冗談よ。あなたがそんな風だと、気が滅入って仕方ないから。……あの女の子に、何かあった?』
 ご明察、と答えるまでもなく、わずかな沈黙から蓮子は事の次第を把握したらしい。気の置けない友人というのは、こういうとき助かる。その意味では、私はまだあの女の子との間に小さからぬ壁があったのだろう。あの線に触れるな、あの線を越えるなと口を酸っぱくして言わなくても、友達が出来たと知ればあれに近付くことはないだろうと、勝手に安心していたのだから。
『メリーは今どこ?』
「昨日の公園。……それと、先に謝っておくわね。あの写真のことで、ひとつ嘘をついてた」
『え、それって筍に関係する話題?』
「全然関係ないから安心して。とにかく、詳しい話は蓮子が来てからするわ。出来るだけ早く来て。――お願い」
 あそらく私は、最後の言葉を口にしたかった。
 頼るべき相手が居る。それだけで、大抵のことは成し遂げられそうな気さえする。
『判った。十分以内に行くわ』
 電話はそこで切れた。
 上空には、星の海が鈍く輝いている。砂に埋もれた地上の星は、既にその輝きを失っていた。





 続きます。

 そういえば、実家の近所の滑り台はいつの間にか撤去されていました。
 今は、幻想郷の公園にでも設置されているのでしょうか。
藤村流
http://www.geocities.jp/rongarta/index.html
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.1780簡易評価
38.100名前が無い程度の能力削除
b