走る、走る、走る。
逃げる、逃げる、逃げる。
走っているのは、年端も行かない少女だ。
その本来は瑞々しいはずの肌は細かい傷に覆われ、冷たい地面を駆ける両足には靴さえ履いていない。
逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ。
「逃げなくてはいけない」、磨耗し切った彼女の意識はただその一言で塗り潰されている。
どこに向かっているのか、どこまで行けばいいのか、そんな事を考える思考力などとうの昔に失われている。
走る、走る、走る。
逃げる、逃げる、逃げる。
銀色の髪を振り乱して、少女は駆ける。
それはまったく当然の行動だった。
それはまったく正しい行動だった。
「銀色の髪は凶兆、邑(ムラ)の平穏が乱れる兆しなり」
邑の決して浅くはない歴史の中で、ただ一つの例外もなかった。
その邑では、銀髪の者は男女問わずに異能の力を持って生まれてきた。
曰く、齢十にも満たぬ幼子が己の背丈ほどもある長剣を軽々と振り回し、一夜のうちに両親を含む邑人十数人の血肉で成る屍の山を築いたという。
曰く、赤子が玩具を弄ぶように、魔力で造られた炎を自在に操り、瞬く間に邑の半分を焼き落としたという。
邑に語り継がれる異能の者の力はどれもが異なっていた。
唯一つ、その異能の力は例外なく邑人に向けられるという一点を除いて。
邑人たちが銀髪の子が生まれるたびに、「カエシ」と称して杜の奥深くの祭壇に布でくるんだ赤子を置く儀式を始めたのは当然のことだった。
幾人もの赤子を杜に打ち捨てながら、邑は平穏を保ってきた。
彼女もまた、忌むべき銀色の髪を持って生まれた者として、「カエシ」の儀式を受けた。
だが、例外は常に現れる。
「カエシ」の儀式が終わり、皆が邑へ帰っていった後、彼女の母親はこっそり道を引き返し、祭壇から娘を連れ去った。
自分が腹を痛めて産んだ子を、どうして見殺しになど出来ようか。当然の事だ。
母親は彼女を邑の外に隠し、夜陰に乗じて彼女の元へ水と食料を届け続けた。
幸か不幸か彼女は数年もの間、邑の誰にも見つかることも、また、獣の類に襲われることもなく、成長していった。
母親は安堵していた。
もう数年以上見つからなかったのなら大丈夫だろう。
母はある日都へ出かけ、全財産をはたいて毛染め薬を買った。
今まで働いて貯めたなけなしの金で買ったこの薬で髪を染めてやれば、もうこの子も何の心配もなく邑に入ることが出来る。
母は足取りも軽く都からの帰途についた。
母はこれからの幸せな生活を夢見・・・背後から忍び寄る気配にはついぞ気づかなかった。
もうすぐだ。後少しで娘の隠れ家だ。きっと娘は喜んでくれるだろう。
ほら、見えてきた。娘が駆けて来る。花のほころぶような笑顔に、銀色の髪が良く映えて―
背中が、なぜか、熱い。口の中も熱い。胸から何か生えて、鉄、矢尻、血、血、息が出来ない。
後ろ、邑の男たち、見つかってしまった、殺される、私も、娘も、だめ、娘だけは、それだけは、それだけは、あの子だけは、
「逃げて」と、それだけの言葉も言い終えぬ内に母は分厚い蛮刀で袈裟懸けに斬られた。当然の行為だ。
邑の掟を破った者は誰であろうと裏切り者だ。裏切り者を殺す理由はあっても、生かしておく理由などない。
肩口から鮮血を噴きながら倒れる母を打ち捨てて、男達は裏切り者よりもさらに忌まわしい銀髪の娘ににじり寄る。
娘の表情は凍り付いていた。
ただ、その瞳だけが、滲むように、たった今母から噴出して地面を染め上げた鮮血と同じ、深い、深い、紅に染まっていく。
異能の発現だ。
男達は娘に殺到する。
力の発現を許してしまっては、殺されるのはこちらだ。
母の死を目の当たりにして茫然自失している今こそが、娘を殺す唯一のチャンスなのだ。仕損じることは許されない。
先頭の男が蛮刀を振り上げ、無防備に立ち尽くしている娘の頭に振り下ろす。
だが、娘の頭をザクロのように叩き割るはずの刀身が、まだ届かない。
おかしい。体がおかしい。思い通りに動かない。体が重い。いや、違う。・・・遅い。
そう、まるで、時間が遅れているかのように。
娘は夢遊病者そのものの足取りでふらふらと男に近づき、その腰に吊り下げられた短刀をゆっくりと引き抜いた。
そのまま、なんの躊躇いもなく男の腹に刀身を沈ませる。
ひどくゆっくりと男の顔に苦痛の表情が広がっていく。
娘は残っている男たちも同じようにして殺した。当然の行動だ。
殺さなければ、殺されるのだから。
娘は母の骸を一瞥すると、その場から逃げた。
振り返るまでもなく、背後からは邑の者達が手に手に得物を持って追いかけてくる。
走って、走って、走って、逃げて、逃げて、逃げて。
どのくらいの時間逃げ続けているのかも分からなければ、今自分が走っているのか倒れているのかも分からない。
がちがちに固まった右手は、赤黒い血糊がこびりついた短刀を掴んだままだ。
視界もさっきからぼやけっぱなしだ。
血が目に入ったのか、かろうじて目に映るもの全てが紅く滲んで見える。
頬に感じる冷たい地面の感触で、自分が地に倒れ付していることが分かった。
体が動かない。
少女はまともな思考の出来なくなった頭で、ぼんやりと自分の死を受け入れた。
邑の男達に追いつかれなくても、このままで生きていられるはずもない。
とうとう幻覚まで見えてき始めた。
紅く霞んだ視界に、城といっても差し支えのない大きさの屋敷が見える。
視界が霞んでいるせいではなく、なんだかその屋敷そのものが、陽炎のように揺らめいているようだ。
自分は一体何を見ているんだろう、少女はそう考えたがすぐに考えるのを止めた。
自分はもう死ぬのだから、何を考えようと、何が見えようとそんなことはどうでもいい。
少女が諦観と共に意識を永遠の眠りの向こうに閉ざそうとしたとき、その声は聞こえた。
「大変そうね?」
鈴を転がすような、自分よりもさらに幼い少女の声。
その声で少女の意識は少しだけ浮上する。浮上した意識で、声の主を確認しようと首を巡らせる。
なんだ、これは。
声の主をぼやけた視界に捕らえた少女は、そう思った。
幼い声にふさわしい、幼い、幼女といっていい年恰好の少女。
しかし彼女の中の何かが、それを根源的に否定している。
違う。これは違う。幼い少女の姿をしていても、人の言葉を話していても、これが人間であるはずがない。
幼い少女・・・に見える何者かは、彼女の風体を無遠慮に一瞥する。
「貴女、随分面白い力を持っているのね。人間なのに。」
違った。幼い少女が見ていたのは、自分の風体なのではなかったことを知り、少女は戦慄する。
少女の赤い瞳は、自分の全てを文字通り見透かしているのだ。
反射的に、殺される、と思った。
邑の者達と同じように、この少女も自分を殺そうとすると確信した。
さらに、邑の男たちのように、殺される前に殺すことなど出来ないと確信した。
自分が満身創痍でろくに身動きが取れないからだとか、そういう次元の話ではない。
根本的に違うのだ。自分と、目の前の少女とは。それがなぜか、明瞭に理解できた。
「死にたくない?」
何を、言っているのか。
死にたくないに決まっている。死にたくないが、どうやって生き延びろというのだ。
「本当なら死にかけた人間なんてどうでもいいのだけれど、貴女の力に興味が湧いたの。
ごく限定された空間に対してとはいえ時干渉が可能な人間なんて、ここ最近見たことないわ。」
幼い、紅い瞳の少女は傷ついた少女の傍らに屈み込み、頬に手を沿えて母親が子供に言い聞かせるように言う。
「貴女が欲しいの。私にその血を捧げなさい。そうすれば貴女は生き延びることが出来る。
貴女には私の館に来てもらうわ。ちょうど人手が足りなくて困っていたのよ。
どう?悪い話しではないでしょ?ね?」
頬を這う冷たい指先がかろうじて感じ取れる朦朧とした意識の中に、その言葉が毒薬のようにじわりと染み込んでゆく。
傷ついた少女は、僅かに頭を動かし、「頷いた」と分かるだけの動作を見せた。
紅い瞳の少女は満足げに、次いで新しい玩具を手に入れた子供の笑顔を見せた。
「あはは、嬉しいわ。」
そう言って、本当に子供のように笑う少女の口元に、奇妙に長大な犬歯が覗き、
「じゃあ、貴女を貰うわね。」
傷ついた少女の首筋に、2本の牙が、突き立てられた。
奇妙な感覚だった。
自分の中にあるものがどんどん吸い出されていく。
記憶、過去、感覚、経験、・・・命。
「・・・っあ、か、ひ、ひあ、あは・・・」
「んっ、ん、んふ、んぅ・・・」
少女の喉からは、喘ぎとも呼吸音とも嬌声ともつかない声が断続的に漏れる。
その喉笛に口付ける紅い瞳の少女の喉が、時折何かを嚥下するように、こくりと動く。
赤い瞳の少女が唇を離すと、地面に身を横たえた少女の喉には、二筋の血痕。
「・・・邑から追われて、家族を殺されて・・・怖い思いをしてきたのね、貴女。」
紅い瞳の少女に、幼い外見に不釣合いな、妖艶、否、凄艶な笑みが浮かぶ。
「・・・とても、あまい、わ・・・」
吐息と共に陶然と呟きを漏らし、再び倒れ伏した少女の首筋に口付ける。
どのくらいそうしていただろう。
赤い瞳の少女は立ち上がり、まだ倒れ伏したままの少女を見下ろした。
「さあ、これで貴女は私のもの、よ。」
そう言うと、すいと片手を差し出す。
倒れていた少女が、よろよろと身を起こした。
そしてゆっくりと差し伸べられた手に、自分の手を重ねる。
「これまでの貴女は私が吸い尽くしたわ。貴女の過去(これまで)は、みぃんな私のもの。今の貴女はからっぽの、あたらしい貴女。
だから今度は貴女の未来(これから)を私のものにするために、あたらしい貴女に、あたらしい名前をあげる。」
銀髪の少女は、焦点の合わない茫洋とした視線で、紅い瞳を見上げている。
赤い瞳が、空を見上げた。
空は、夜空で、何時の間にか中空には月が鎮座している。幻想の如き、十六夜の月。
「十六夜 咲夜。」
「いざよい さくや・・・?」
赤い瞳が名を告げる。
その名は彼女の空白の魂に、まるでそこに収まるべくして収まったかのように、過不足なく定着した。
「そう、それが貴女のの名前。この私、レミリア・スカーレットに使える従者の名前。」
「レミ、リア・・・様・・・」
震える唇が、己の主の名を紡ぐ。
赤い瞳の少女―レミリアは、満足げに目を細め、両の手のひらでそっと己の従者の頬を包む。
「私と来なさい、咲夜。貴女は、ずっと、わたしのもの・・・よ。」
傷ついた少女の・・・咲夜の表情が震える。
畏れ・・・それと等量の、歓喜で。
その言葉は、全く自然に、体の内側から、染み出るように紡がれた。
「Yes My Master・・・!」
終劇