秘封倶楽部というのは結界を捜して侵入して廻る、部員二人だけの弱小倶楽部だ。
結界が『視える』特技を持つメリー、念写のできるわたしとで活動している。
現代日本とは言っても、『秘境』はまだ残ってる。
いや、『隠されてる』と言った方が正確か。大抵、結界で覆われ、外部からは窺えないようになっているのだ。
そこを二人で探索するのが、主な活動、というか趣味だった。
わたしが念写で仕入れた情報を元に、メリーが結界を『視る』のがいつものパターン。
危険は数多くあれど、二人で無事に乗り越えてきた。
ま、あくまでこれまでは、なのだけれど……
――――この隔離された世界でたった一人、インスタントカメラを通して行う念写と、夜空から現在時刻と場所を割り出せる程度の能力を持つ人間に何ができるのか、先行き不透明以外の何物でもなかった。
生き残れるかどうか、正直、五分五分だ。
+++
――はあ、と、わたしはため息をつく。身体のあちこちが悲鳴を上げ、軋んでいた。
慣れぬ、硬すぎる寝床のせいだろう。
革靴で歩き続けたためか、靴擦れがあちこちに出来ていた。
この種の痛みは、情けない癖に無視できないのが厄介だ。
指先の痛みともあいまって、不機嫌さが加速度的に増加する。
とりあえず探索を始めるより先に、汚れた素足を小川で洗うことにした。
清水がこそばゆく肌をくすぐる。
夏の陽射しとの温度差が心地良い。
ついでに顔なども洗いながら、わたしは再びため息を、はあ、と吐いた。
現状を悲観しているわけではない。
実を言うと、この程度の危機は体験済みだった。
現世と冥界の境界を崩してしまい、多量のゾンビと死霊とに迫られたことがあった。
おいてけ堀では命を置いてかれそうになり、封鎖された食人植物園に侵入したこともあった。
たかが遭難したくらい、普段であれば鼻で笑える。
「はあ……」
三度目のため息。
いい加減、幸せどころか魂までもが逃げ出そうだ。いま念写をすれば、口から良いエクトプラズムが写せるだろう。
――メリーがいない。
普段と現状の、最大の違いが、それだ。
いつもであればワクワク出来るところを、ひたすらに重苦しく、億劫であるのは、傍に慣れた存在がいないからだった。
例えば、である。
突如、雨が降ったとしよう、それも身体の芯まで凍える氷雨である。
そんな時、一人でいれば不機嫌になる。ここで笑顔でいられるのはメリーくらいのものだ。
眉間に縦ジワを作り、早足に歩く他にすることは無い。
だがしかし、その脳天気な彼女が一緒であれば、不機嫌を馬鹿笑いに変えられる。
彼女には、そんな不思議な作用があるのだ。
「まったく、わたしの方こそ子どもみたいじゃない……」
いつも脳天気で、天真爛漫な彼女を笑うことは出来ない。
一人じゃ遭難から脱出することもできないのだろうか、わたしは?
情けなさに涙が出る。
「相棒は、今はコイツだけか」
黒色の、インスタントカメラを撫でる、確かな質感が頼もしかった。
「――『媒体』、ね……」
藍が言った言葉を思い出す。
心当たりは、確かにある。
だが、あってもそれだけだ。
『念写できること』を『補助輪』扱いされても、こちらとしては、どうしようもない。
「はあ……」
四度目。
戯れに、景色を収めて写してみた。
ここで念写をすれば、何かヒントでも出てくるのでは、と期待したのだ。
何億回とした動作、被写体を捉え、凝と『視つめ』、その内部を、本質を暴きだす。
わたし自身を器物と化し、身体が一個の目的となる。
――カシャリ――
知らぬうちにシャッターを切っていた。
カメラが生乾きの写真をベロリと出す。
写真の隅を持って上下に振り、より早く乾くようにする。
「ふーん……」
写っていたのは、見ている光景と寸分違わぬものだった。
これでは何の参考にもならない。
わたしは足を振って水気を飛ばし、再び靴を履きながら、背後の森を撮ってみた。
――カシャリ――
首もとのネクタイを緩めつつ、浮き上がってくる映像を確かめると――
「……え?」
にじみ出るように、森の木々を押し退け、満面の笑みを浮かべた少女が浮かび上がった。
思わず顔を上げるが、何もない。
写真を見下ろす。
深い森は背景としてしか写らず、少女だけがごく近くにいた。
白と黒のさっぱりとした服装。髪は金いろ、メリーを彷彿とさせる頭髪。胸元と頭にある、真っ赤なリボンが特徴的だ。
「そーなのかー」
わたしのではない声。
今度は写真から目を離すことも、再び前を確かめることも出来なかった。
逃げ出すための足も、その役目を果たさない。
「そーなのかー、そーなのか」
南天にあるはずの太陽が、その役目を忘れて翳った。
曇り空によるものではない、光子が量を減らしている。
ぽたり、と写真に冷や汗が落ちた。
目だけをおそるおそる上げると、とても見覚えのある妖怪。
どこかで確実に見た姿。
「ひ、ひさしぶり……?」
声は震える。
森の奥の向こうとこっち。距てる樹はひとつも無く、その姿はハッキリ見えた。
30m程度の距離をあけ、わたしと妖怪は対峙した。
「そぉぅーなぁのぅくぅぁー」
青筋が額に浮かんでた。
声はドスの効いたものに変化してた。
――以前、逃げ出す際に、メリーが踏みつけにした妖怪だった。
よく見ると、靴跡が顔についている。
相変わらず、十字の姿勢を取っていた。
違っているのは凶悪で凶暴な目つき。エナメル質とは思えぬ輝きを放つ牙の数々。
全体的に言えば、菩薩と般若ほどの違いがある。
凶悪な面構えは、同一妖怪とは思えない。
人間が怒り狂う以上の、限界突破した怒気。
……黒い十字架姿が、ふわりと軽く浮き上がり、反動をつけたかと思うと、凄まじい勢いで加速した!
「わ!?」
反射的に屈めた頭上を、おそろしい風音をさせながら通り過ぎる。
飛沫が小川を高く横断し、岩や倒木が真っ二つになっていた。
彼方で止まり、クルリと反転するのを見つつ、わたしは抜けかけている腰を叱咤し、森に向けて走った。
足が接地する感触が、まるで夢のように遠い。
「そーなのか! 夜符・ナイトバードぉ!!」
背後からの叫び声は、光弾を伴なって放たれた。
着弾音が、こちらの疾走速度とは比べ物にならない速さで迫る。
「くっ!」
踵と頬を掠める弾に死神を感じつつ、わたしは何とか巨樹の背後へ飛び込んだ。
妖怪は、相も変わらず「そーなのかぁ!」と叫びながら、こちらに向けて攻撃を放っていた。
遮蔽などまるで気にせず撃ち続けてる。
樹を削って行く。嫌な衝撃が背中越しに伝わった。
「ったく!」
――これが役に立つとは!
わたしは舌打ちしつつ、カバンの中からSIG SAUER P228を急いで取り出した。
コンパクトな銃身に似合わず握りやすいグリップが特徴の品だ。
残弾数を確かめ、安全装置を解除する。
え、銃刀法違反?
なにを言ってる、『弾を放出してる』のは向こうも同じ。
妖怪相手に法律論を唱えるほど無意味なことはない。
残念ながら銀製でも無く退魔陣を彫ってるわけでも無いが、それでも普通に人を殺傷するくらいの威力はある。
問題なのは――
「そーなのか! そうなのか! そうなのかっ!」
完全に我を忘れて攻撃している妖怪だ。
弾切れなんて概念すら無いのか、実に気持ち良さそうに撃ちまくっていた。
遮蔽から顔を出すことも出来ない。
……以前、見た時には、ここまで『狂って』いなかったと思うのだけど――
ともあれ、このままではジリ貧だ。
周囲は、刻一刻と暗くなり続けていた。
真の闇に落ちるのも近い。
わたしは右に拳銃、左にカメラを持って目を閉じる。
「ふう」
呼吸を整える。
反撃のための準備をする。
自分の身体を世界に溶け込ませる。
夜空を『視る』時の、あの忘我の境地に身をひたす。
そう、わたしは必ずしも目で夜空を確かめているわけではないのだ。
メリーが結界を視るように、わたしは世界の姿をあまさず視れる。
――弾が行く――
風を切り、岩を砕き、木の葉を焦がす。
その軌道を、弾幕の三次元の動きを『視る』。
脳内に、土が爆け、飛び散る様までをも『写し取る』。
「フっ!」
――後ろも見ずにカメラで撮った。
フラッシュが焚かれ、闇を一瞬だけ切り裂く。
「そなのか!!?」
妖怪が閃光に怯んだのを『視た』。
手で目を覆い、乱発してた弾が止んだ。
このチャンスを逃さず、わたしは後ろの樹を蹴りつけた。
足裏は充分な感触を伝える。大半を削られて不安定になっていた巨木は、音を立てて向こうへ倒れた。
「そー!?」
狙いはあやまたず、妖怪の直上を襲った。
地響きを聞きながら、荷物を捨て去り、銃を構える。
身体のバランスを意識し、両手の押し引きの真中にグリップを置き、余分な力を全て抜く。
「なのかー!」
予想した位置に、予想通りのタイミングで妖怪は脱出した。
装弾してある十三発の弾丸は、その頭にすべて吸い込まれる。
火薬の爆けるニオイと音、反動の確かな感覚が、全弾命中したことを教える。
「チッ」
――そして、だからこそ無駄に終わったことも同時に分かった。
血は一滴も出ず、全弾、甲高い音をさせてはじかれた。
まだまだ元気でいることは疑いない。
いや、手負いにした分、むしろ厄介か?
置いてたカメラとカバンを引っつかむと、わたしは急いでその場を後にした。
いま必要なのは、何よりも時間だった。
体裁なんか気にせず、少しでも明るい方向へひた走る。
フラッシュを焚いた時に撮った写真がベロリと吐き出されてた。祈る気持ちでそれを乾かす。
ヒントがあるとしたら、ここ以外に無い。
「そouNあnoぅKyuぁぁAああ゛あ゛!!!!」
もはや呪詛としか思えない音で、妖怪は吠えた。
物質化した闇を噴出させる。
両手を振り下ろす動作と共に、それは濁流のように押し寄せた。
「うわ! なんか汚い!?」
思わず叫びつつ、再充電したフラッシュを焚いた。
闇には光が定石。
たとえ効かなくとも、念写をすることでヒントを更に掴むことは出来るはずだ。
――濁流は、閃光に触れた瞬間、沸騰したように爆けた。
「NぁnoKaっ!」
妖怪は奇矯な悲鳴を上げた。
まるでクラゲのように闇は萎縮し、範囲を狭めた。
(――?
直接攻撃したわけじゃなのに、効いた?)
光に弱いのだろうかと思いながらも、念写した写真を見つめた。
濃い粘性の闇はともかく、全体の光量までもが急激に減っていて、見るのが難しかった。
わたしは必死に目を凝らす。
とてもじゃないけど視認不可能な光量。
見るのは無理かと諦めかけた時、赤いライトで照らしたように、妖怪の姿が浮かび上がった。
通常の視界とは明らかに違う。
写真を経由しない理解。
脳裏に映像が『現れた』。
――そこにあったのは、鬼面などではない、「まいったなあ」という少女妖怪の困り顔だった。
肌が少しばかり焦げ、頬を人差し指で掻いている、そして――
「!」
『それ』に気がついた。
ちょっと見には分からない、間違い捜しのように些細な違い。
続いて情報が奔流となって流れ込む。
理解が沸騰し、視界すべてが赤く染まる。
名が、音が、相手の過去情報をあまさず『識る』。
――木の根に足を取られないぬよう注意しながら、わたしは再び川の方面へと走り戻った。
上から見れば大きな『く』の字を描く走路だ。
妖怪は一時だけの萎縮を止め、獣の唸りを上げ、弾幕を放つ。
それは無尽の破壊力を発揮した。
木々をものともせずに貫いてる。
「つッ!」
遮蔽が効かない攻撃を相手にしては無傷というわけにもいかず、左脇腹と右ふととももを弾が掠めた。
靴擦れや指先の傷とは比べ物にならない、ヤスリ掛けでもされたような痛み。
ジグザグに走り、何とか的を絞らせてないようにしているが、満身創痍のまま、どこまで持つか。
「くそっ!」
頭の中は、先ほど視た情報だけが駆け巡る。
幾度も転びそうになりながら、カバンの中から目当てのものを探り当てた。
掴んだと同時に、川岸に――開けた場所に到着した。
わたしは砂利石を蹴り飛ばし、背後を振り返る。
もう真夜中のような暗闇の中、わたしは妖怪を睨みつける。
「…………」
「――――」
こっちの雰囲気を悟ったのか、巫山戯た口癖を止め、何も言わずに向こうも睨んでいた。
「……そーなのか――」
いや、そうでもないのか……
宵闇の妖怪は、もはや原形を止めていなかった。
シャツの部分すらも闇に染まり、金の髪はたゆたう黒流のように長く、顔は黒色に覆われ、ただ真っ赤な口と目だけが見えている。
もはや、蠢く闇に目鼻が付いているだけだ。
手足のある位置から、どうやらまだ十字架姿だと分かる。
まるで彼女の内側から、新たな妖怪が這い出そうとしているような、異質な闇への変化。
「貴女はメリーに一度、負けたわ」
だが、そんなことは気にせず、囁いた。
余裕を口調の端々に混ぜる。
相手の意識をこちらに引き込む。
「なら、わたしが負けるわけが無いわよね?」
破顔一笑、我ながら不敵な笑みで『持っていたもの』を上に投げた。
天高く、矢のように飛んでゆく。
敵の視線がそちらに向いたのを確認。
同じ手でポケット内の拳銃を抜いた。
「!」
先ほどの攻撃を思い出したのか、妖怪は両腕で顔を覆った。
だが、それこそ『こちらの望んでいた体勢』!
カチン、と撃鉄は虚しい音だけを出した。
既に弾は撃ち切っているのだ、予備弾薬なんてものは持っていない。
これはただのブラフ。
『相手を定位置から動かさない』ための行動。
三次元的に位置関係を整理する。
ミリ単位で距離を測る。
揶揄われたとでも思ったのか、闇が吠え、攻め来るが、それより先に、わたしは自ら走り寄り――
「喰らえッ!」
フラッシュを焚く。
圧倒的な光源は、
一瞬だけの集中光は、闇を真っ二つに引き裂いた。
鬼相を浮かべた少女妖怪の姿が見える。
焦げて嫌なニオイをさせている両手も気にせず、牙を開け、こちらに向かって咀みつこうとしてた。
「貴女の名前はルーミア!」
走りながら全力で叫んだ。
ビクリ、とルーミアの動きが躊躇した。
「宵闇の妖怪、真の名は『ÅδЙ¢Э仝§£』!!」
限りなく発音しにくい音で呼ぶ。
今度こそ、完全にルーミアは停止した。
その隙を逃さず、わたしは彼女の頭を掴み、何よりも先に『ほどけかけた彼女のリボンを絞める』。
「ア――」
彼女の身体が震える。
鬼相が抜け落ちる。
赤いリボンに弾かれるようにして、凝固し、わだかまっていた闇が吹き飛んだ。
顔は穏やかなものに戻り、たおやかにわたしに向かって寄りかかる。
力無い様子は、現在、気絶しているのだと知れた。
「ふう」
五度目のため息をつき、わたしも緊張を解いた。
――どうしてなのか、自分でも分からない。
けれど写真に浮かんだ、あの困ったような表情を視た瞬間、解けかけている真っ赤なリボンが原因であると確信していた。
わたしは相手の背中をぽんぽんと叩く。
完全に目を閉じ、眠っていた。
命を取られかけた相手ではあるけれど、どうしても憎む気にはなれない。
彼女を抱きかかえ、寝床にしていた場所に寝かせた。
あまり寝心地は良くないが、地面に下ろすよりはマシだろう。
+++
もう一度、小川に戻り、治療をする。
ここに何日間いるのか見当もつかないが、『傷口が化膿して動くこともできない』なんてことになったら目も当てられない、こまめな手当ては必須だった。
ハンカチに水を含ませ、傷痕付近の汚れを拭き取る。
――尋常じゃなく滲み、思わずのた打ち回りたくなる。
脇腹やふくろはぎを擦った弾は、ぞっとするような跡を付けていた。
生きてるだけで丸儲け、と言いたいところだが、流石にこれほどの激痛を前にしては、そんな言葉は喋れない。
わたしは痛みが引くのを待ちながら、先ほどの出来事を再考する。
「変だ、な、これは……」
わたしは、メリーに比べて低い能力しか持っていない。
余りに限定された能力なのだ。
念写は出来るものの、『写ったものを見て』はじめて分かる。
あくまで写真というワンクッションが必要なのだ。
それなのに、先ほどは暗闇の中で、写真を見ずとも念写された情報を『識った』。
しかも通常の念写以上の情報を、だ、
こんなことは初めてだ。
「『媒体』、あと『補助輪』、か」
先ほど出会った狐の変化、藍が言った言葉。
つまり、カメラが無くても、わたしは自分の瞳で『念写が可能』ということなのだろうか?
視るだけで相手の過去、未来が分かるのは、確かに便利なのだろうが……なにか、違う気がする。
藍の視線は、その程度のことを意味していなかった。
「うーん……」
他に、自分には何ができるか考えてみる。
星空から現在の時間を知ることは出来るが、これは別段、特別なことではない。正確な観測と、少しばかりの暗算ができれば誰にでも可能なものだ。
複雑なのは経度による時差で、これはとんでもない計算量が必要となる。
普通に計算すれば半日はかかる。
まー、慣れればたいした事は無いのだけれど……
現在地が分かるのも、北極星の角度を精密に測ることで緯度を、月の昇降する時刻から経度を割り出してるだけだし……
「どれもこれも、そんなに特別なことじゃないわよね……」
うん、どれも普通人が出来ることしか、わたしには出来ない。
ふくろはぎの傷をハンカチで縛り、脇腹を上着で圧迫し、歩く準備を終えた。
これ以上、考えても仕方がない。
寝床を見ると、ルーミアがぐーすか眠っていた。
これから先、もう会う事も無いだろう。
少しばかりの名残惜しさを感じつつも、わたしは踵を返し、その場を後にする。
ようやく川沿いを歩き出した。
不安はなぜか、どこにも無い。
――まるで何年もここを旅しているような気がしていた。
まだ一泊しかしていないのに、なにか、とてつもなくこの土地と馴染む。
暖かな感情が胸に湧き、切羽詰るとか、本当の意味で絶望的な気分になることが無かった――
「写真、か……」
歩く道すがら、わたしは更に考えた。
古来、『相手の姿をそのまま写す』のは禁忌とされていた。
戦国武将の肖像が、実際とはかなり異なっているのは有名な話だ。
当時の執筆法が写実的では無かったということもあるだろうが、それ以上に対暗殺、対呪術としての意味が強かったのだろう。
中国の始皇帝は自分の肖像画を各地に配布して威光を示そうとしたが、結果、叛乱が起きた史実がある。
配置した各地で「こいつを倒せば、俺も皇帝になれるのか」と思わせたのだ。
肖像画が恨みや権力欲を集積したわけだ。
写真は、精密画の最たる物。
呪術関連と結びついても、仕方が無いのかもしれない。
「ん、あれ?」
考え込んでいた為だろうか、気がつくのが遅れた。
しばらく歩いたのに、周囲が『いまだに暗い』のだ。
一時期、復活していた明るさが、ふたたび元の暗さに還る。
太陽と地上との間には青空しか無いというのに、光子が量を減じていた。
まるで、こっちの視神経が徐々に消失してるみたいだ。
首筋が冷える感覚。
意識が急激に引き締められる。
わたしはカメラだけを構えた。
銃はもはや弾切れだ。役に立たない鉄の塊でしかなかった。
カメラのフラッシュであれば、少なくとも目潰しくらいには使えるだろう。
その隙に逃げられるかもしれない。
戦闘は、やはりどう考えてもわたし向きではなかった。
「…………」
左右を見渡す。
闇は濃くなりつづける。
妙に粘っこく、わたしの周囲を包んでた。
地面近くで一際濃く澱んでいる。
そこかしこから――全方位から――気配が出現する。
ほんのついさっき、感じたもの。
ルーミアから生じ、わたしが吹き飛ばした闇が凝固し、また再び形を取りつつあった。
本人が操ってる、というわけではなさそうだ。遠くでいまだ気絶してる姿が見える。
取り巻きだったのがやる気まんまんなだけだ。
ボコリ、と音を立て、闇が姿を獲得する。
巨大なムカデ、異形の猿、四翼の烏、見も知らぬ蟲、吠える顎、蠢く何か――
暗き夜天に潜む生き物が、ボコリボコリと出現する。
忌わしいまでの百鬼夜行。
全員、敵意をこっちに向けていた。
動物特有の呼吸音が響く、ナイフのような爪が地面を削り、擬った瞳がわたしを拘える。
吐き気がしそうなほどの緊張感。
――秘封倶楽部の、これまでの経験から分かった。
こいつらは、間違いなく、人を喰う妖怪だ。
「は、はは……」
思わず笑ってしまった。
先ほどが最大限の、絶望的な状況だと思ってたら、それ以上に絶望的な状況に陥ってしまったのだ。
笑わずにはいられない。
手元のカメラを握る。
汗で滑るそうになるのを、震える指先で抑える。
このフラッシュで、恐らく『一度は』撃退できるだろう。
あの闇が凝固したというのなら、弱点もまた同じであるはずだ。
だが、それでも撃退できるのは一度に一方向のみ。360°囲まれてる現在では、むしろ彼らを刺激するだけだ。
180°を光で照らす間に、逆の180°から襲われてしまう。
足が震える。
尻餅をついてしまいそうになる腰を、意志の力だけで耐えた。
(考えろ、考えるんだ!)
己を叱咤する。
絶望を変える手段を見つけようとする。
状況は、刻一刻と悪くなり続けていた。
(闇妖怪たちは増えつづけてる、薄い箇所を一点集中突破するのは無理! フラッシュは連続で焚けない、どのみちわたしの足の速さじゃ追いつかれる!)
考えるほど八方ふさがりだった。
全方位を同時に写すなんて裏技でも使わない限り、わたしに勝機は無い。
いっそ、飛び上がって真上から写そうかと考えるが、平均ていどの垂直跳びしか出来ない人間が行なうのは無謀でしかない。
妖怪たちは余裕たっぷりに、わたしを追い詰めようと近づいてくる。
「考えろ、考えろ……」
呪文のように呟く。
ふいごのように呼吸は荒い。
彼らがその気になれば、きっと秒を待たずに、わたしの意識は消滅する。
(闘って勝とうと思ってはいけない、それでは思考は限定される。むしろ、いま一番必要なのは『ここから逃げ出す手段』。考えろ、わたしに何ができる!?)
何だ!
何ができる!?
わたしにできることは――
そう、できるのは、『空間を捉えること』。
至極正確な夜空の観測を行ない、器物を通してその行く末と来た道を写し、この世界に広がる、ありとあらゆるものを差別無く『視れる』。
メリーは通常は見えないものを視れるが、わたしは通常見えるすべてが視れる。
――だが、それが何だというのだろう。
襲いくる様子が精密に分かっても、この数が相手では――
――ゴクリと、咽を鳴らして唾を飲む。
自分が閃きが、信じられなかった。
唯一の解であることは理解できる。
だが、可能なのか?
こんな土断場で出来るのか?
そもそも、人にそんなことが出来るのか?
百の疑問が脳裏を過ぎる。
だが、それでも行うしかなかった。
闇妖怪たちの戦意は、これ以上ないほど盛り上がっている。
わたしが脅えなくなったのが気に食わないのか、すぐにでも襲ってきそうだ。
躊躇してる場合ではない。
小刻みに速く、過呼吸に近い速度で酸素を吸って吐く。
――写真に撮ることで、相手の情報が写るのであれば、それは『相手の情報が写真上に移動した』とも言える。
「そして、情報が移動可能なら、物質だって移動可能」
わたしの仮説はこうだった。
念写は、ある種の特異な『移動』である。
情報を相手から写真上へと移動させる。
なら物質を――この身体を移動させることも出来るのではないか。
始皇帝が肖像として描かれたことで、遠く離れた場所でも本人の役割を果たしたように、わたし自身を『写すことで』、『遠くへ行かせる』ことが出来るのではないか……?
……我ながら、無茶苦茶な仮説だ。
だけど、わたしには『空間が視える』、それなら、『空間を操る』ことだって可能なはずだ!
――四足の闇獣が、捕食する予備動作を行なった。
闇妖怪の焦点にいるわたしを、喰い殺そうとしている――
わたしは決意した。
もはや秒の躊躇も許されない。
意識という意識を白熱させ、集中する。
全能力をにつぎ込む。持った手を上方に突き出し、くるりとカメラを回転させる。
そこから――レンズを通して――『自分の姿を視る』!
妖怪が襲って来てるのは、もはや意識の外だった。
わたしの能力がわたしを見るという奇妙な感覚。
合わせ鏡のような無限が生じる。
不可思議な拗れが空間を軋ませる。
意識するより先に、シャッターを下ろした。
瞬間、毒杯をあおる幻視が襲い――
――
視界が歪み、景色が変わり、シャッター音があらゆるものを消し去った。
――何か、よく分からぬものの助力を感じた。
無音。
消失。
滅却。
散華。
――――空間の砕ける音を、確かに聞いた――
+++
――
―――――
――――――――――あ……
+++
――――呆然と、していた。
「え、と……?」
カメラを自分に向けた、すこし滑稽な格好で、わたしは一人、夜空の下に立っていた。
シャッター音が鳴った後、『わたし以外の風景すべてが』一変していた。
周囲はひたすら静かで、妖怪なんて一匹も無く、わたしの心臓だけが、場違いな早鐘を打ってた。
恐る恐る、カメラを下ろす。
口の中が乾いてた。
『夜のような昼間』から、『本当の夜』になっていた。
横には小川が流れ、周りを森林が囲み、その位置関係は、一瞬前とほぼ変わっていないのに――恐らくは同じ場所であるのに――凄まじく何かが異なっている。
「木々が……弱々しい……?」
いや、違うか。
これは、『木々が細い』んだ。
わたしが抱えるなんて不可能な巨木が列んでいたのに、今は平均的な樹木しかない。
さらに詳しく調べてみると、違いが更に際立った。
ルーミアが破壊した跡は存在せず、倒した樹も無く、作った寝床も消え失せてる。
大まかな位置関係が同じなだけに、それは凄まじい違和感だった。
「これは、どういう……」
ハッ、と気付き、
わたしは星を見上げた。
緯度と経度を観測し、現在の時刻、場所を測ろうとするが……
「え――」
出来なかった。
地軸の延長線上に、もっとも近い星が、わたしが知っているものとは僅かに異なっている。
見えない回転の中心点が、別の場所になっている。
こんなことはありえない。
こんな光景が見えるはずが無い。
一朝一夕で変わるようなものじゃないのだ。
地軸は確かに日々揺らいでいるが、それが観測できるのには長い時間が――
「なんて、こと……」
わたしは、ようやく気がついた。
「……ここ、現代じゃ無い」
自分自身への念写は、更なる厄介ごとを巻き起こした。
ただでさえ遭難中だっていうのに、
――わたしは、タイムトラベルまで体験していた…………
琴線に触れた
続き読んできまつ。