過ぎ行く日々は早く、もう山々の木々が赤く染まる秋が来ていた。
それでも私の生活は変らわない。相も変わらず主殿に使われている。
今日も今日とて使いの品を片手に持って、博麗神社の境内を踏む。
掃除をしていた博麗殿が、私が来たので手を止めた。
「いらっしゃい、藍ちゃん。今日は饅頭よ」
「来るなり食べ物の話ですか? 私そこまで食い意地張ってないですよ」
笑いながら博麗殿の後に続いて、いつものように社殿に上がり込んだ。
シュレーディンガーの忘眠 ~ 夢の泡、幻の影
私は何をすればいいのですか?
貴方が求めているのは何ですか?
貴方は何をなくしてしまったのですか?
私は、何が出来るのですか?
使いの品を渡した後、縁側に私と博麗殿、二人並んでお茶を飲みながら四方山話に花を咲かせる。
こうして使いに来たとき、そのまま少しの間話し込むのがいつもの事となっていた。
主殿もそれくらいは許してくれているので、お仕置きはない。
「あぁ、大変だったんですよこの前。
主殿が、何かいい酒はないか、なんて言って蔵の酒を全部飲み比べさせてきたんですよ。おかげで次の日、頭痛が酷くて酷くて……頭痛止めの薬もらわなければ仕事にもなりませんでした」
「あら、いいじゃない。酒池肉林ね」
「何事も程ほどですよ」
私から博麗殿にする話は、大概主殿の愚痴となる。と言っても、私の世界は限られているし記憶も制限されているから、それくらいしか話の種がないのだが。
反対に博麗殿からの話は、今のこの世情とか私にとってなかなか有難いものが多い。
「で、何かいいのは見つかったわけ? 私にも勧めてくれると嬉しいんだけど」
巫女がそう酒とか飲んでいいのかなぁ、と苦笑しながら私も答える。
「主殿が気に入ったのなら。
ええと、確か出雲の方の地酒だったかなんだったか。べろんべろんで飲んでいたので、味以外ほとんど覚えてないですけど。口当たりが良かったのでお勧めしたら、えらく気に入られまして」
それに、博麗殿は少しだけ眉を上げた。思案するように腕を組む。
「出雲、ねぇ……」
「何か?」
「いや、話だとここ数百年出雲は避けてたんだけどな、あいつ。それだけの事よ。
それより、藍ちゃん」
にやにやと、博麗殿は悪戯でもしたかのように笑いながら、
「ずいぶん紫の事話すねぇ。そんなにあいつが気に入った?」
なんて、とんでもない事おっしゃりやがった。
思わず飲んでいたお茶を吹きかけて、何とかこらえる。ひとしきり落ち着いた後、私は猛然と反駁した。そりゃそうだ、何でそんな事言われるのか理解できない。
「何でそうなるんですかっ! 私はマヨヒガ以外、あんまり外に出ないから話が主殿のものになるのは仕方ないじゃないですか」
「へぇー、そう。言われてみれば、まあそうかもね」
絶対、聞いてない。そう思わせる口調とそぶりで博麗殿はにやにや笑う。
この人もつくづく性格が悪い人だと思う。何でこう、どこかずれた人ばかりなのか。
そこで博麗殿は、そうそう、と思い出したように付け加えた。
「あ、藍ちゃん。大丈夫だと思うけど、多少紫の周り気をつけてあげて。
あいつ、人間にしろ妖怪にしろ、あちこちから恨み買ってるから。尤もそれは私もだけど」
なんでもないように、さらりとそう言うが、それに私は眉をしかめる。
そんな事まるで知らなかった。主殿も口にだしたことはないが、知らないというのがどうも腹立たしい。
「どうして、ですか? 主殿はともかく、博麗殿は──」
「これがあるんだな。私と紫はね、ちょっとした調停者みたいな役割してるのよ。
その関係で色々やってるんだけど、その裁量を疑われる事が都度都度ね。全く、出来うる限り調整してるのに欲張りなものだわ、人間は。困った困った」
とても困ったようには見えない様子で、とても冗談では済みそうにない事をあっさり言う。
しかし妖怪と人間の間の調停、か……うまく行くはずないと思うのだが。
顔に出ていたのか見透かされたか、博麗殿は肩を竦めた。
「そうね、確かにそうなんだけど。事情があるから仕方がない。いつかそれも話してあげる。
さて、今日は早めに帰りなさいな」
縁側から立ち上がり、私を見下ろして、
「少し、嫌な予感がするから」
そう一言漏らして博麗殿は障子の奥に消えた。
嫌な予感。普通なら顔をしかめる程度で済むのに。博麗殿のそれは、妙な現実味を伴って私の耳に届いた。
嫌な予感って……そんなことは、ない、と思うが……
戸惑いながら、私は博麗神社を発ってマヨヒガへと向かう。
神社の近くの森の中に、ぽつんとある小さな寂れた古い社。その鳥居こそがマヨヒガへの正規の入り口なのである。マヨヒガの名のとおり、たまにどこからか入り込んでくるものもいるそうだが。それらを除けば、帰る手段はこの鳥居しか私は知らない。
小さな鳥居なので飛んでくぐるのはなかなか危ない。そのため、私は一度地面に降りてからそれをくぐった。
すると、一瞬景色がぶれた様になり、そしてマヨヒガに──
「あれ……?」
──転移、しなかった。
「おかしいな、こんなこと一度もなかったんだけど……」
この半年以上の間暮らしてきて何度も外に出た事はあるが、初めての事である。
主殿の悪戯──にしては性質が違う。あの人はこういう種類の悪ふざけはしない。
ならば……
考えて、ついさっき聞いたばかりの博麗殿の言葉が頭によぎる。
嫌な予感。あの、博麗殿の、嫌な予感。
もしかしたら、主殿の身に何かあったのかもしれない。
この“扉”も主殿の力でマヨヒガに繋がっている。主殿に何かあれば、もちろん何らかの異常を見せるだろう。例えば、今のような。
私は慌てて、もう一度鳥居をくぐる。向こうの風景は変わらず、壊れかけた社が寂しくあるだけだ。
「くそっ!」
落ち着け私。もう一度だ。もう一度やってみて繋がらなければ、博麗殿のところに行こう。あの方ならここ以外にあるかもしれない入り口を知っているかもしれない。
そう決めて、鳥居をくぐる。
と、やっと慣れたあの感覚が通っていった。
切り替わる景色。向こう側には紅葉がはらはらと舞うマヨヒガが広がっていた。
安堵する。何の違いもなかった、何も起こっていなかった、と。
同時に、それが主殿への“ある感情”から来るものだと悟り、苛立った。
「莫迦な事を……」
それは何に対していった言葉か。己か、あの方か、はたまたそれ以外か。もしかしたら全てだったかもしれない。自分でもよく分からない。
ゆるゆると頭を振り、中央の屋敷に帰る。
ぐるりと屋敷を取り囲む回廊。その適当なところから上がって、主の部屋へと向かう。帰ってきたらそれを報告するよう言われているのだ。
先ほどの事のせいか、いささか足音荒く畳の上を、板敷きの廊下を歩き抜け、主の部屋の目前で、私はそれを見つけた。
「な──!?」
部屋の隅に撒かれた血。鮮血と言っていいほどの鮮やかさで、畳を赤く染めている。
その血に、主殿の香りを感じた。
血の気が引く。思考が真っ白になり、真っ黒に塗りつぶされる。
止まる呼吸。私は悲鳴を上げるように、あの方を初めて名前で呼んだ。
「紫様っ、ご無事ですか!」
駆け込んだ主の部屋。その窓際で、壁を背に主は秋の陽に当たって目を閉じていた。
目が、ゆっくりと開いて私を見る。
「あら……おかえりなさい、藍」
夢見心地のようなぼんやりとした声。
一気に力が抜けるのを感じながら、私はへたりこんで恨みがましげな目を向ける。
「ね、寝ておられたのですか、主殿……」
「馬鹿な妖怪を相手にして面倒だったから。
ああ、掃除を忘れていたわ。それで、ね」
私の慌てていた原因を察したらしく、主は浅く笑う。
主の言葉からして、どうやらやはり襲撃があったらしい。入り口に異常があったのもその関係だろう。
「ごめんなさいね、今片付けるわ」
と、ついと主殿は指を振る。おそらく、隙間をいじるか何かして片付けたらしい。
血から主殿の匂いがしたのは、気のせいだったか。まあここは主殿の住処だから混ざってしまったのだろう。そう、思う事にした。
そんな私に、主殿はややぎこちない笑顔で問いかける。
「さっき──」
「え?」
私が声を上げたのは、その問いかけにだったか、それとも、その表情にだったか。
「さっき、貴方、私をなんて呼んだの?」
「う……」
しまった。失敗したのに気づいた。今からでは到底遅い。
主殿に、いつものからかうような調子はない。似ていると言えばそう、私に料理を教えると言った、あのときのものが似てはいる。
「できれば、これからもそう呼んで。
そろそろ主なんて呼ばれるのにも飽きたから」
微かに微笑む紫様に、私は渋々──渋々である、間違えてはいけない──頷いた。
その日はそれで、後には何事もなく平穏に過ぎ去った。
普通の、なんの変化もない一日のように記憶にしまわれるはずだった。
私がその日の事を、後悔と共に思い出すのには、まだしばらくの時間が横たわっていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
藍はもう既に寝付いたであろう深夜。
紫は独り起き上がり、炯々と光を放つ月に向かって呪を紡ぐ。
月とは太陽に対して太陰と称されるように、陰の極み。
示すものは、神秘、女性、そして、死。
その月に向かい、紫は淡々と呪いを歌う。
「眠れ、眠れ、暗闇に。
理(ことわり)、運命、必定、宿命、泡沫の夢に規律を忘れ。
沈め、沈め、水底に。
過去、今、未来、誰も知らない泉に堕ちろ」
即興の詩のような韻律を、目を閉じ、口ずさむように歌い続ける。
祈りと願いを歌に込め、ただひたすらに歌い続ける。
「輪廻を外れ、現世に留まり、夢を現に、死を────ぐっ」
その途中、紫は詞を止め、口元を押さえた。
続いて、何度も激しく咳き込む。何度も。何度も。
ごぼりとあふれた水音。彼女の口の端から、とろりと赤い血が流れる。
それを手でぬぐい、しばらく見つめ──何の表情もなく、手近な布でふき取った。
「まだ、早いわ。春までは掛かる。まだ、術式が足りない……」
呟き、そして歌を続ける。
今を維持し、そして未来を動かす歌を続ける。
蒼ざめた月だけが、それを見ていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
紅葉は落ち、木枯らしの吹く冬がやってきた。
山間の方では既に雪がちらつき始め、外を吹き抜ける風は日々を追うごとに冷たさを増していく。それは外の気候に合わせて変化するマヨイガの中でも同じだった。
「どうせなら常春にでもすればいいのに……」
ぼやきながら箒を動かす。枯れ落ちる葉はたくさんあって、やってもやっても終わらない。
マヨヒガに植えられた無数の木々。その大半は紫様は自然に任せているが、屋敷の近くのものだけは掃除するようにしていた。
しかしそれでなお、常駐の庭園役の式だけでは手が足らず、かといって他の式をいじってこちらに回そうとしても、式達の主である紫様が書き換えてくれなければ役に立たない。。
結果、私も掃除に勤しんでいるわけである。
ひゅうと吹いた木枯らしに、少し肩を震わせる。そろそろこの辺りでも雪が降り始めるかもしれない。
しばらく掃除を続けて、なんとか辺りの木の葉は一山に集まった。これを向こうの森のほうに放り込んでおけば終わりである。
そのとき、珍しく来客を告げる式が私の元にやってきた。
「うん? 博麗殿が?」
こくこく。無言で頷く式。私はその式に、博麗殿を適当に見苦しくない部屋に通すよう命じて紫様の方に向かった。
紫様はいつものように手近な縁側で茶を興じている。時にそれは酒の事もあるが、今日は薄い茶の方だった。
「紫様、博麗殿がお見えになりました」
「あら……珍しいわね、あいつから来るなんて」
持たれていた柱から身体を起こし、ゆるゆると首を振る。もしかしたら寝ておられたのかもしれない。最近、寝顔を見る機会が増えたな、と意味もなく思い出す。
と、博麗殿を案内するよう命じた式がこちらに戻ってきた。後ろに博麗殿を連れて。
「悪いわね、ちょっと急ぐ用事だからこの子に無理を言ってこっちに連れて来て貰ったわ」
疑問の声をあげる前に、例によって例のごとく博麗殿がそれに答える。
しかし急いでいる、といっている通り何時もより確かに急いでいるようだ。
博麗殿は紫様に目をむけ、前置きなしに話を切り出す。
「紫、仕事よ」
「昼間だってのに、大変な事ねぇ……今日は、そちら?」
「そう、こっち。場所は南東の境界線辺りね」
私には分からない会話を交わして、紫様はやはり眠たそうに目を瞬かせながら立ち上がる。
首をかしげる私を見て、得心したように頷いた。
「霊夢、あなたこの子に事情説明しておいてくれない? 先に行くから」
「あぁ……まあ、いいわよ。今のままじゃさっぱり分からないだろうし」
確かにさっぱり分からないので、それはありがたかった。博麗殿はすたすたとこちらに歩み寄り、逆に紫様はマヨヒガの出口の方へ歩き出し、
二人がすれ違ったところで博麗殿は、
「待て、紫」
物凄い形相で、紫様をにらみつけた。
その迫力と裏に満ちた霊力に、私ですら総毛だった。いつか、紫様が博麗殿を“妖の処断者”と言ったのを思い出す。
普段の博麗殿とは隔絶したその姿。確かにこれなら、それも頷けた。
博麗殿は私に眼を向けない。ただ紫様だけを半ば憎悪に近いほどの眼差しで見つめている。
「あんた、自分がなにやってるかわかってるの」
重々しく問う。私には分からない問い。紫様はそれに、
振り返り、浅く、儚く笑って──姿を消した。
ぎりり、と異様な音にそちらを見れば、それは博麗殿が歯をかみ締めた音。びくりと私の体が震える。
一層、鬼気迫るほどの視線を紫様がいた場所に叩きつけ、
「いいわ、分かった。私はあんたには何も言わない。言って分かるなんて思えない。
ただ、この答えは考えておきなさい。
──お前、何様のつもりだ」
静かに烈火の怒りを言葉に変えた後、博麗殿は大きく息をついた。
同時に、辺りを覆っていた緊迫感が霞みと消える。私も博麗殿と同じように大きく深呼吸して自らを落ち着けた。
博麗殿が私を見る。その目はもう、いつもの博麗殿に戻っていた事に安堵する。
だが次の瞬間、私は博麗殿に腕をつかまれ空にいた。
「行くわよ、藍ちゃん」
「え、そんな、私はここを」
「いいから来なさい」
強引にひっぱられ、しかたなく付いていく。
向かっているのは南東方面……という事は、さっき話に出ていた場所だろうか。
「前に、私と紫が調停者みたいなのしてるってのは話したわね」
感情を消した博麗殿の声が、前から私の耳に届く。
「莫迦らしい話よ。
妖怪は人間を食べる。人間はそれに抵抗する。それが自然の理。
でも人間も妖怪も、だんだんそれを簡単に、確実にするような技術やら物やら作り出したのよ。それも分からない事じゃないけど、一部の連中にはそれは危険に映ったらしいわ。このままでは双方とんでもない物を作ってしまうんじゃないかって」
冷たい口調とは裏腹に、博麗殿は何かを回想するようにすこし上を向く。
「その一部の人間と妖怪が、たまたま権力と実力を持っていたから話は面倒になった。そいつらはそれぞれの種族に戒めをつけたの。
妖怪は人間以外の食事で賄う事。人間は妖怪に食料をある程度提供する事。
でもね、こんな規則守るはずないでしょう、どちらも。それはあなたもよく分かるんじゃない?」
「それは……まあ」
私は戸惑いつつも頷く。人間同士、妖怪同士でさえ、裏切りはある。ならば人間対妖怪の約束事など、破られることは自明だ。
だから、と博麗殿は続ける。
「私や紫がいるの。私たちは監視者で調停者で処罰者。戒めを守らない者に対する懲罰者。
そういう位置づけだから、どちらにも恨まれてるわけよ。
妖怪側は言うまでもなく、人間側にはもう少しこちらに有利にしろとね」
博麗殿は微かに、呆れたような吐息を漏らした。
「まったく、ふざけるなっての。私が子供の頃、“あらゆるものを見通す程度”の能力なんか持ってただけで石投げてきたくせに、いまさら人間の味方しろとか。
神主さん……私を拾った先代の遺志じゃなけりゃあ、とっくに見捨ててるわよ」
殊更に冷淡に、殊更に感情の色なく、博麗殿は言い捨てた。そして無言の私を振り返る。
「あそこらへん、もう紫が派手にやってるわ」
森の一点、少し広場になっている場所。そこを指差し、速度を上げる博麗殿にしたがって、私も急いでその場に至る。
そこは今でこそ広場だったが、きっと数刻前までは森のはずだった。
大きく抉れた大地。周りの木々すら削り取り、地をへこませたその中心に、紫様の傘が突き立っている。
その隣で、紫様はその傘に座るように佇んでいた。
あまりの光景に絶句する。一体紫様は何をやったのだ。
動じる私とは裏腹に、博麗殿はするすると高度を下げ、紫様の隣に降り立つ。私も慌ててそれに続いた。紫様に、何でこんな所にと睨まれたが。
地に降りた博麗殿は、森の中で紫様を睨みつけていた妖怪、人間双方を見渡した。
「今日は人間側が仕掛けたのよね」
確認するような口調だが、返る声を期待していない。
不満の声が上がる中、冷淡に冷徹に、博麗殿は人間たちを見る。
「今年不作なのは分かるけれど、規則を破られては困るわね。
他に対処の仕様がないじゃない」
沸きあがる罵声。それに、紫様が面倒そうに腕を一振りする。
それだけで声はぴたりと止んだ。紫様が薙いだ腕に刈り取られたかのように、その方の木々が一斉に倒れ込んだのだ。
罵声以上の轟音と鳥のわめく声に、人間達は沈黙する。いい気味だと嗤う妖怪達も、紫様の一瞥に凍りついた。
それらに構わず、博麗殿は変わらない声で宣言する。
「今回の件により、前回の妖怪側への罰則規定を取り消します。
文句がある場合は今どうぞ。最も、うちでは葬儀は取り扱わないから、死後の面倒までは見れないけれど」
言外に、逆らう場合は容赦しないと告げている。確かにそれだけの実力は博麗殿にもあるのだろう。あの紫様と同じく、調停者の役割をになっているのだから。
殺気が満ちる。私は念のため、直に動ける体勢をとるが肝心のお二方はまったくそのまま動こうともしない。
しばらくの間、睨み合いが続いたが、やがてそれは消えて人間達はまばらに森に消えていく。
それを見て妖怪達も去っていった。
ようやく場を占めていた緊張感がなくなり、私は大きく息をつく。
しかし、それにしても、
「圧倒的、ですね……」
そうとしか言いようがない。自分を含め、この場にいた妖怪の中で紫様の力は群を抜いている。その紫様が認める博麗殿も、おそらく。
その力に、素直に憧れた。
力さえあれば、裏切る必要はないし、裏切られる恐れもない。きっと静かに穏やかに暮らせるはず。紫様達だって、こんな面倒事に巻き込まれなければ、そう暮らしていただろう。
自由になれる。幸せになれる。力さえあれば、それが可能になる。
だから、私は憧れた。
つい、と紫様の目が私を見る。心まで見透かすように、淡い眼差しで私を見る。
「藍、力がほしい?」
紫様は問いかける。
私は戸惑いながらも、答えた。
「それは……もちろん、です」
自分が何故戸惑ったのか、分からない。最前の言葉も忘れたかのように、そう答えるのが間違いであるとどこかで訴えてくるものがあった。それを見ないふりをして、答えた言葉。
間違っていないはず。間違っていないと、思う。
だって、紫様はこんなにも穏やかに微笑んで、
「そう────よかった」
酷く、私を不安にさせた。
何故だか分からない。理論が通らない。理屈が合わない。この感情に、理由を見つけられない。
なのに、どうしても私は、紫様をここでお止めしなければ。
私を置いて、どこか遠くに行ってしまいそうな予感を覚えた。
「ゆかりさ──」
「先に、帰るわ。お疲れ様」
紫様は足元に開けた穴に吸い込まれるように消え。呼びかけた声は虚空に散った。
伸ばした手は届かず。既視感に嘆息しながら腕を下ろす。
振り返れば、博麗殿が呆れたように紫様のいた場所を見つめていた。
「くそ、むかつく」
小さく罵倒する声。
その様子に、私は一層の不安を覚え、さっきの事を話そうとして、「無理。口止めされた」
あっさり、一蹴された。でも口止めしなければならないという事、なにかあると言う事は判別した。
それだけでも、良しとすべきだろうか。
思案する私に、博麗殿は眦を吊り上げたまま続けた。
「でもあの莫迦むかつくから、ちょっとだけ情報をあげる」
「本当、ですか……」
私が顔を上げるのを待って、博麗殿は口を開く。
「藍ちゃんがあいつに捕まったとき、藍ちゃんが蝶であいつは蜘蛛。
でも捕まった瞬間、その関係は入れ替わった。あなたが蜘蛛で、あいつが蝶。
これが大本の仕組み。これがわかれば、なんとかなるかもね」
「それ、たとえ話、なんですよね……?」
少し考えてみたが、さっぱり分からない。尋ねると博麗殿は首を振る。
「結構そのままよ。
今はわからないかもしれない。でも、覚えておきなさい。よく考えなさい。
後悔、しないようにね」
そう言って、博麗殿は背を向ける。話は終わりと、そういう事だ。
こうなっては仕方がない。ある程度教えてくれただけ、破格なのだのだと納得しよう。
そうして、私達は家路に付いた。
木枯らしは一層寒さを増し、いつしか、雪が降っていた。