[The past 2 - Bedside -]
アリスから聞いた基本的な情報。
この世界は、幻想郷とは切り離された、魔界という場所であること。ただしアリスにとっては幻想郷と行き来することは簡単なことであること。
そしてつい先程、極めて異例なことに、人間の魔法使いがここに攻め込んできたこと。アリスは人間のくせに魔法使いというその存在に興味を持って立ち向かってみたが、まさかの敗北を喫したということ。少なくともこの世界に人間がやってきたのは初めてで、アリスにとってもそれが初めて出会った人間であったということ。
――なるほど。確かに、初めて人間の魔法使いがやってきたその直後に、私が人形となって現れたというのは、ただの偶然ではあるまい。
しかし、それだけといえばそれだけのことではある。わかったこと、といえば。
「ところで人形さん、ごはんとか食べるの?」
人形さんと呼ばれるのはどうにも抵抗がある。私は人形なんかじゃない。今は人形だけど。
ただ、自分の名前を思い出せない以上は、仕方ない。適当な名前で呼ばれるのも嫌だ。
私は、しばし考え込んで、お腹のあたりをさすってみる。
「食べられるような器官がついているようには思えないわ」
「そうよねえ。じゃあ、私は今からごはんにするから、おあずけしててね」
「……」
なんか、悔しかった。
「歩くのは歩けるのよね、普通に。飛べたりしないの? 自分でテーブルの上から降りられないようじゃ不便でしょ」
そんなこと言われても。
飛べるならとっくにそうしてますって話だ。人形自体に翼も何もない以上、魔法でも使わない限り飛べない。魔法が使えるならそもそもこんなにのんびりはしていないだろう。
「思い切って飛び降りてみたら、意外に飛べる自分を発見できるかも?」
「……」
ちゃんと地面に落ちる前に、支えてくれるんでしょうね?
「それじゃ、着替えさせてあげるから、じっとしててねー」
「へ?」
あ。いやん。とっさの事に、間の抜けた返事をしてしまった。
いやいやいや。なんだかとっても重大な発言があった気がする。
「着替え?」
「うん。ほら、ちょくちょく動いてたから服もちょっと汚れたでしょ。着替えなきゃ」
言うが早いか、アリスの手は私の体をがっしりと捕まえていた。
え……ええと。ええとお。
「ま、待ってよ。人形なんだから着替えなんてしなくていいでしょ、別に」
そりゃあ、気分的にはあんまりよくはないけど……その……
「ダメよ。私の人形がそんな汚れた服を着てちゃいけないわ」
アリスの指が問答無用と私のスカートを摘む。体自体を押さえられているから全く抵抗できない。
ほんの僅かな間に大ピンチですよ私。剥かれるー!
そ、そりゃあ、私の体ってわけじゃなくて、人形の体なんだから、全然気にすることなんてなくて、あうん。でも気持ちの問題ってものが。あるわけで。
「いいわ! 自分で着替えるから……っ」
万歳をさせられて、今まさにスカートを捲り上げられようとするところで、私は叫んだ。
ぴたっとアリスの手が止まる。まだスカートは手に持たれたまま。
じ……っと、大きな目で、私を見つめてくる。そしてアリスは、スカートから一度手を離して、人差し指を私に向けてびしっと立てた。
「人形を着替えさせるのは、所有者の権利」
はい、ゲームオーバー。
もはや次の反論の言葉を送り出す機会さえなく。
思い切り容赦なく剥かれました。
「やーーーっ」
これだけ圧倒的な力の差だと、じたばた抵抗することもできない。あっという間にワンピースはアリスの手の中で、私は下着姿。
下着というのもまた、私自身初めて見るのだが、人形用の割にずいぶんと細かく作ってあるのだった。私の視点からすると本物と大差ない。露になった肌の大部分は、顔や手と同様につるつると少し光沢のある素材で、やはり硬かった。
アリスはそんな私を見つめて……うう、私の体ではないとはいえ私の体でもあって……恥ずかしい。
「下着は、また今度でいっか。汚れないよね?」
「へ、変なこと言わないでよっ……人形、なんだから……うん……」
何よこの辱めプレイはっ。ああもうほら、顔が真っ赤に……なってないか。気分的にはなってるの!
……これから何度でもこれを体験する機会があるかもしれないと思うと、くらくらする。
「んーっと……これがいいかな」
アリスはそんな私の気持ちを知ってか知らずか、いたって平然と新しい服を選んで持ってきていたりした。なんでもいい。早く着させて。
目の前に差し出されたそれは、先程まで私が来ていたのより少しだけシンプルな構造のやはりワンピースで、率直に一目見た感想を言うと、
「また派手ね……」
だった。
主に、色使いが。彩度の高い色を大胆に使っているため、目が痛くなりそうだ。一言で言えば、赤い。赤と白とピンクと、一部青と……。
アリスは不思議そうに首をかしげた。
「これが?」
「ええ。もっと普通なのはないかしら。白くて落ち着いたのがいいわ」
本当は少しでも早く服を着たいところだけど、目が痛くなるような服をずっとつけているのも嫌だ。それに、私だって服くらいは好みのものにしたい。できれば。
「十分普通だけど……」
アリスのその一言は、私たちの感性がどこかで合致することはなさそうだと結論付けるに十分なものだった。希望は持てそうにない。悲しいことに。
仕方ない。今はとりあえずそれを着せてもらって、あとの機会にゆっくりコレクションを見せてもらおう。人形用の服なんてそんなにいくつもないだろうけど。
――というわけで。
「あっ、にゃ……っ、く……くすぐったいくすぐったい……っ……ひゃはぁんっ」
脱がせられるときより着せられるときのほうがさらに試練だということを知るのは、その直後だった。
通常ありえないくらいの面積の指で全身を撫でられるという体験は、貴重ではあるかもしれなかった。
「寝たりはするの?」
「私、最初寝てた状態から起きたような気がするから、たぶん」
質問攻めの夜がやっと終わろうとしていた。
本来の意味の「寝る」とは違う現象になるのかもしれないが、少なくとも意識が途絶える時間はあるだろう。実際常に起きっぱなしというのは精神がもたないのではないだろうか。
「そっかあ……あ、それじゃちゃんとパジャマに着替えたほうが」
「いい! いいから! このままで寝られるから!」
「……そう」
そんな寂しそうな声で言われても、ダメなものはダメで。
ついさっき着替えたばかりなのに、またあの体験が……あの感触が……なんて。
それより人形用のパジャマなんて持ってるんだろうか。さすがにパジャマくらいはそんな派手なものではないだろうという気がする。そうでなければおかしい。
「あ、人形さん用のベッドもちゃんと作ってあげないとね」
そう言うと、タンスを開けてさっと枕を取り出してくる。小さな、ふかふかの枕。
私の身長よりも大きい、小さな枕。
「ちょうどいいサイズね」
枕に白いシンプルなカバーをつけて、シーツ代わりに。
裁縫用と思われる布を適当に切って縫い付けて、あっという間に即席の毛布のできあがり。
持ち上げられて、枕の上にそっと下ろされる。
「寝心地はよさそう?」
「……よくわからないわ」
一度寝てみないことには。ふわふわしていて、柔らかすぎるかもしれない。でも人形の体にはこれでちょうどいいという可能性もある。よくわからない。
こういうところはちゃんと気を使ってくれるんだな、と感じてちょっと嬉しかった。
照明が消されて、おやすみという挨拶を交わす。
まもなく、いともあっさりと、私の意識も闇に落ちていった。
[The past 3 - Laboratory -]
本が読みたい。本を読めば何か思い出すきっかけがつかめるかもしれない。
そうでなくとも、少なくとも暇はつぶせる。
そう切り出すと、アリスは研究部屋兼書斎と称する部屋に私を案内してくれた。
さすがに魔法使いというだけあって、本はたくさん揃っていた。本のサイズがとても大きく見えるため、とてつもない量に感じる。
「読めるの?」
アリスは聞いてきた。私が本が読めないとでも?
一冊の本を取り出してもらう。目の前に置いてもらう。開けてもらう。
ほら。
「……文字が大きすぎて読みづらいわ」
「でしょ?」
うー。なんか、悔しい。
「本を開けたまま床に置いて」
「ん」
テーブルの上から床までの距離。これくらいあれば文字がちょうどいいサイズになる。
文字も普通に読める。この本は農作物の収穫量を調整する魔法に関する論文のようだった。概要のページなので、とりあえずそれくらいのことがわかる。
「ページをめくって」
「……えっと、これって、私がつきっきりじゃないと人形さんが本を読むことできないってことよね?」
「……」
改良案。
本をテーブルの上に、立てて置いてもらう。そして見たいページを開ける。
……んしょ、んしょ。あああ。空気抵抗というものの力を実感できる実験だわ。
私は遠くまで歩いて、振り返って、文字を読む。
とてとてとて……
次のページが読みたいときはまた本のところまで歩いて、ページをめくる。
とてとて……んしょ、んしょ。
そしてまた遠くまで歩いて……ああああ、ページがめくれてまた勝手に戻っちゃった……とてとて……んしょ、んしょ……とてとて……。
そして読んで……次のページ……。
……。
「ほ……本を読むって、こんな重労働だったのね……」
ぱたん。
当面、アリスが何かの本を読む機会に、ついでに隣から読ませてもらうということで諦めることにした。アリスの肩に乗せてもらえば、なんとか読める。
今アリスが読んでいるのは、悪魔の力についての研究だった。
「新しい絶対の魔法の習得のためなら、どんな力だって利用するわ」
悪魔と言えば、世界中からの嫌われ者。例えば吸血鬼は、もっとも身近な悪魔の一例。
しかし、嫌われる最大の理由の一つが、そのあまりに強大な力にあるということは誰も否定はできないだろう。嫌ってはいるが、力は欲しいという者は少なくない。
ただ、その本に書かれている悪魔に関する記述は……
「悪魔と言っても、要するに強くてちょっと性格が悪いってくらいで、言われてるほど恐ろしい魔物っていうわけでもないのにね」
誇張が過ぎるように感じた。もっとも、大半の書物の悪魔に関する記述がそうなのだが。
そんな感想を漏らすと、ふとアリスが顔を上げて、肩の上に乗る私を覗き込んできた。
「……もしかして、人形さんの前世って、悪魔?」
「前世って言うのやめて。……悪魔かどうかは知らないけれど」
「悪魔のフォローしてる人なんて初めてだもん」
きっとそうに違いない、と、もう自分の中では納得している様子のアリス。
私が、悪魔? 否定はしきれない。何にも思い出せないからなんて言われてもそう簡単には否定できない。
もしそうなのだとしたら、なるほど、アリスの望みどおり、私は彼女に強大な力を与えることができる能力を持っているのだろう。そのために召喚されたと考えると辻褄は合わなくもない。記憶がなくなっている理由が不明だけど。
でも悪魔だったら私みたいにそんないい子じゃないわよ? なんて、心の中だけでこっそり思ってみる。言うとどうせ何か言われるだろうし。
「役に立たない本ね。悪魔が力持ちとかそんなことはわかってるのよ。悪魔を使役するような魔法はないのかしら」
「……ないと思うわ」
その後もいくつか本を見せてもらったけれど、私にとっても特に参考になる情報は、なかった。
ひとつだけわかったのは。私がかつて読んだことのある本(そんなことはしっかりと覚えているみたいで)もたくさんあって、少なくともここが私にとってまったくの異世界というわけではないということだった。
研究部屋の地下には、魔法訓練所と称する部屋があった。
石造りの壁に囲まれた広い部屋で、照明が点在していたり、ところどころに○や□のマークが描かれていたり、部屋の中央付近に格子状の檻のようなものがあったりする以外は何もない殺風景な部屋だった。
必要な際にはここで攻撃魔法を中心とした訓練、実験を行っているらしい。
どこか、懐かしい臭いがした。魔法の跡を重ねた場所に特有の。
せっかくなので、アリスの訓練の様子を見せてもらうことにした。アリスも、何かのきっかけになるかもね、と賛成してくれた。
入り口近くにある手すりのような高さの段差に私は置かれ、そこに腰掛ける。
「基本セットで行くわ」
アリスはそう告げて、私に背を向けて、対面の壁に向き合った。
一瞬の間の後、急激に場の魔力密度が高まる。魔法発動の瞬間。魔力が物理エネルギーへと、力へと変換されていく。
ぞくり、と私の背筋を走る痺れ。そうだ。これが魔法だ。
アリスが少し指を動かすと、魔力で生み出された光の矢が真っ直ぐに壁の○に向かって飛んでいき、その真芯に命中する。壁で、ばしんと矢が弾けて、消える。的までの距離はおよそ50歩。
続けて2,3,4発目を同時に、自らの真正面と少しずれた左右に生み出し、放つ。いずれも全く同時に的の真ん中に命中する。
5発目は壁ではなく、ほぼ真横に放つ。放たれた矢は途中からまるで放物線のように急激に曲がり、戻ってきて、やはり同じ的に命中する。
6発目は真っ直ぐに。7発目、8発目もそれぞれ少し間を空けて真っ直ぐに。それぞれ微かに速度の違う光の矢は、やはり、全くの同時に的に当たった。
……そこで、アリスの動きが止まる。ここまでの時間はほんの数秒。静寂は、すぐに戻ってきた。
私は、軽く手を叩いて拍手を送る。
「やるわね」
アリスは、ふん、と得意げに鼻息で答える。
「ほんの準備体操よ」
言うと今度は、部屋のもう少し奥まで歩いてから、構える。
両手をばっと上げる。先程より少し本格的な構え。
魔力が一気に集まり――アリスの両手から、一気にたくさん、私が見た限りでは合計16個の光の矢がアリスの前方と後方、それぞればらばらの方向に向かって飛んでいった。それらは壁でばしんと弾け消える。矢が当たったところは全て、○が描かれている場所だった。○は確かにその16箇所以外にはない。
なるほど、これは大したコントロールだ。これは立派に誇りに出来る。私の中にある魔法に関する知識が、この技術がなかなか素晴らしいものであることを教えてくれる。
ただ、先程も今回も、一つ、気になることはあった。それを指摘するべきなのか、どうか。
「最後!」
アリスは次に、部屋の中央部にある檻に向き合った。その距離――よくわからない。100歩くらいは先だろうか。
魔力の集中。そして生み出される光の矢。今度の1発は、今までより遥かに大きい。アリスの身長の半分くらいはある大きなエネルギーの塊。魔力が生み出す風が、私の体を撫でる。
それを檻に向かって真っ直ぐ解き放つ。周囲の空気を巻き込みながら、高速で進む矢。
あと少しで檻にぶつかるというところで、矢が破裂した――正確には、分裂した。一度に、無数に。
そして。
私は驚きのあまり我が目を疑うことになる。見間違えでなければ――32個に分裂した小さな矢が、全て、格子の32個の隙間を通って向こう側に抜けていったのだ。1個の格子の大きさなど、分裂した細かい矢の大きさとほぼイコールだ。矢が少しでも格子に触れたような反応も音も、全くなかった。
これはさすがに常識外れの制御力。こういった点で私の記憶が曖昧になっているということでなければ、こんな精確な魔法の制御など聞いた事がない。
……あまりのことに、魔法が済んで静かになっても、私は言うべき言葉を見つけられなかった。素晴らしい集中力と技術力だ。
ふふん、とアリスは私を振り返りながら微笑む。なるほど、自分自身の力にかなりの自信を持っている様子なのも、理解できる。
「完璧でしょ?」
ああ。完璧だったわ。私は、首を縦に振って答えた。
そう、制御は本当に完璧だった。桁違いだった。
「人形さんは、何か感じたかしら?」
「――アリス。貴方は、人間の魔法使いに負けたのよね」
ぴく。
私が指摘すると、アリスの表情が一気に険しくなった。逆鱗に触れる、とはまさにこのことだろう。
「くっ……それが、どうしたのよ……!」
「素直に指摘するわ。おそらく貴方の制御技術は誰にも負けない、最高の宝物よ。でも、魔力自体は、それほどでもない」
「な……!?」
私の言葉に、目を見開くアリス。
そう、先程から気になっていたのは、魔力の総量そのものだった。アリスが集めた魔力には、それほどの迫力を感じなかった。私の知っている魔力集中というのは、あの程度のものではなかったはずだ。
アリスは顔を真っ赤にして怒って、私に掴みかかってくる。言葉どおり、鷲づかみにされる。――痛い。これは。
「どういうことよ!? 魔法使いの私の魔法が、それほどでもない……たいしたことないですって!?」
「……ええ」
ぎし。アリスの手に力が篭る。体がぴし、と鳴るのが聞こえた。
漏れ出そうになる悲鳴を、なんとか抑える。
「あんたに何がわかるのよ……! 自分のこともわからないくせに!」
「……っ!」
声が出なくなった。力任せに私を握り締めてくるアリス。幸い、力はないようで、このまま一気に壊されてしまうというほどではなさそうだが、痛いものは痛い。
「そんなこと言うなら……あんたが魔法を見せてみなさいよ……!」
「……る……」
やっと。
微かな声を、外に出すことができた。アリスは、少し手の力を緩めてくれた。
きし、と体中が痛む。私は言葉を続ける。
「やり方は……思い出したわ。いえ、正確には、見て理解した。私の魔法がどんなのだったかは、まだわからない。でも、アリスが見せてくれた同じ魔法は理解した。魔力は、私のこの心の中にある。――できるかもしれない」
「……」
アリスは、険しい表情のまま、しかし私の言葉を聞いて、すっと手を離した。
体が動く。
厳しく睨みつけるアリスの視線を受けながら、私は今座っている手すりの上に、立つ。
「やってみるわ」
感じる。
この部屋で積み重ねられてきた魔法が残したエネルギーの残骸を。
感じる。
アリスの魔法を見た瞬間から、私の気持ちは歓喜に震えていた。魔法。そうだ――私は、魔法使い。
すう……っと、意識の奥底から順番に雑念を払っていく。
感じる。
私の中から溢れ出す、無限の勇気を。
イメージするものは、アリスの光の矢。それは純然たるエネルギーの塊。他の要素は不要。
かざした手の先から、魔力が流れ出していき、一点に集まる。
魔力は一瞬にして物理エネルギーに変わる。エネルギーを集めさせられた空気の塊は、少しでもそのエネルギーを発散させて楽になりたいと自ら発光する。これが光の矢の正体。
さらに風が生まれる。集中した膨大な熱量が生み出す空気の循環。部屋の中であるにもかかわらず、この瞬間、軽い物なら吹き飛ばしてしまうほどの風が吹いた。私も、壁を背にしていなければ耐え切れず飛ばされていただろう――この人形の体では。
それを、解き放つ。
光の矢は、真っ直ぐに的に向かって飛んでいった。○の中心部から僅かにずれたところにそれは当たり、轟音を残す。
エネルギーの塊を正面から受けた壁の表面部は、粉々に砕け散った。おそらくは特別に強化されている壁は自らの表面にクレーターを作ることによって、そのエネルギーを吸収し終えた。
――しん、と静寂が戻る。
そうだ。私は、魔法使い。魔法が使える喜びを、感じる。
しばらく経っても、アリスは、私が魔法を放ったその方向をじっと見つめたままだった。私からは後姿しか見えない。その表情は読み取れない。
アリスには申し訳ないが、魔力量の差は歴然としていたと、私自身思う。仮に魔力そのものの量を感知できなかったとしても、発生した風や壊れた壁を見れば、明らかだ。
沈黙は、その後、数分間も続いた。アリスも私も、何も話さない。まったく動かない。
そして、アリスは、振り向く。表情を消して。
私を両手で持ち上げて、いつものように肩の上に乗せる。歩き出す。地上の部屋に戻る道を。
道すがら、アリスは一言だけ、呟いた。
「あなたは、やっぱり悪魔だわ」
[The past 4 - Shell -]
その日以来、アリスは魔法訓練所に行くときには私を連れて行かなくなった。
長い時間篭って、帰ってくる頃にはいつもボロボロになっていた。無茶なことをしているのだろう。そんなことをしてもすぐに魔力が上がるわけではない、と諭したが、いいのよ、と突っぱねられるだけだった。不思議なのは、自暴自棄になったというわけではないことだった。その行動には何らかの意図が確かにあるようだった。それならば、好きにさせよう。
仕方ないから、私は、また1人で本を読む日々を過ごした。……頼んで最初から本をテーブルの上にいくつか立てておいて貰って、好きなものを読める状態にしておくという方法で。
悪魔。魔法使い。人間。
私は何? ここにいるのは偶然ではない。私は何を為すためにここに来たの?
私は――アリスのために何をしてあげられる? 人間の魔法使いなんかに負けないくらいの力を与える?
人間の魔法使い。それも引っかかっているところだった。どうしてだろう。私は、その人間に、とても会いたい。その人間こそが今の私と「私」の接点に違いない、そんな気がしていた。何故なら「私」はきっとその人間を知っているから。そうでなければ、今アリスに言いたくて言えないでいるこの言葉の理由がわからない。――貴方は決してその人間には勝てないと。少なくとも、魔法では。
そんな悩める日々に変化を与えたのは、ある日アリスが持ってきた一冊の本だった。
アリスの顔にあるものは、強い決意の表情。
私に黒い本を見せる。1ページずつ、ゆっくり読ませてくれた。
「究極の魔法よ」
驚いた。その本に書かれているのはまさに、究極と呼ぶに相応しい魔法だった。
いや――もっと驚いたのは、本当は別のことだった。私が読んだことのない魔法書があるなんて――と。魔法書? 違う。これは、魔道書だ。本そのものから魔力を感じる。重く、人を拒絶する魔力。
究極の魔法は、しかし、その弱点もすぐに読み取れた。この魔法は、誰にも使いこなせない。
アリスが使うには要求される魔力の容量が膨大すぎる。私が使うには制御が複雑すぎる。
そして、何より、使えたところで、身体に与える負担が大きすぎる。
「この本は、昔からここにあった。誰が何のために作ったのかは知らないわ。私にとっては、最後の切り札なの」
「切り札にもならないわ。誰にも使えない魔法なんて」
「使うわ」
「――まさか。無理よ」
私はテーブルに下ろしてもらい、その本を間近くから眺める。暗い魔力が、私が近づくことを拒んでいる。
私は吸い寄せられるように、本に触れた。
(究極の魔法、だったのよ)
(――だった?)
(もう私には必要のないものだから。今でも持ち運んでいるのは、私自身への戒めみたいなものよ)
――え?
まただ。また何か、聞こえた。今の会話は、何だろう。
1人の声は――私?
「人形さん。あなたのおかげで、吹っ切れたわ。私は、人間なんかに――なんて考え方は、もうしない。私は私の出せる全ての力を使って、あの人間ともう一度戦う」
はっと意識をまたこちら側に戻す。いつの間にか本からはまた距離が離れていた。
アリスは、出せる全ての力を使って、と言った。もう一度戦うと言った。
「だから……切り札を? でも、貴方に使いこなせるとは思えない」
使いこなせるどころか、下手をするとアリス自身を傷つけるだけの結果に終わりかねない。危険な魔法だった。
「そのときはそのときよ。やってみないとわからないでしょ」
「わかるわ」
「それでも、使ってみせる。人形さん、あなたは私の思い上がりを見事に壊してくれた。魔法使いとして私は、これを使わなければいけないのよ。これは、私が魔法使いとしてのプライドを守るための戦いなの」
――アリスのその言葉に、迷いはなかった。
そういうことか。アリスは、人間と戦いに行くのではない。魔法使いとしての自分の限界と戦いに行くのだ。
それならば、止めるわけにはいかない。おそらく、負けるだろうとわかっていても。
「……本当に正直なことを言うと、貴方の適正は、純粋な魔法なんかじゃないわ。最大の武器は貴方の人並みはずれた集中力と制御力よ。――なんて、今言うのは意地悪かしら」
本当に強くなるためには、アリスに必要なことは、今のように正直に魔法の訓練を重ねることなどではない。
誰にも到底理解できないほどの微細な制御をもってして、誰にも真似の出来ない自分だけの武器を見つけることだ。そうすれば、きっと、誰にも負けなくなる。
アリスは、私の言葉は、肯定も否定もしなかった。
ただ、
「ありがとう」
そう言って、私に。
思えば初めての、素直な笑顔を見せてくれた。
本当はアリスの戦いについていきたかったけれど。
アリスのことを見守りたかったけれど。
人間の魔法使いにも会いたかったけれど。
私の役割はきっと、アリスの決意を促した時点で終わっていた。
だから、このときからもう、収束は始まっていた。
アリスから聞いた基本的な情報。
この世界は、幻想郷とは切り離された、魔界という場所であること。ただしアリスにとっては幻想郷と行き来することは簡単なことであること。
そしてつい先程、極めて異例なことに、人間の魔法使いがここに攻め込んできたこと。アリスは人間のくせに魔法使いというその存在に興味を持って立ち向かってみたが、まさかの敗北を喫したということ。少なくともこの世界に人間がやってきたのは初めてで、アリスにとってもそれが初めて出会った人間であったということ。
――なるほど。確かに、初めて人間の魔法使いがやってきたその直後に、私が人形となって現れたというのは、ただの偶然ではあるまい。
しかし、それだけといえばそれだけのことではある。わかったこと、といえば。
「ところで人形さん、ごはんとか食べるの?」
人形さんと呼ばれるのはどうにも抵抗がある。私は人形なんかじゃない。今は人形だけど。
ただ、自分の名前を思い出せない以上は、仕方ない。適当な名前で呼ばれるのも嫌だ。
私は、しばし考え込んで、お腹のあたりをさすってみる。
「食べられるような器官がついているようには思えないわ」
「そうよねえ。じゃあ、私は今からごはんにするから、おあずけしててね」
「……」
なんか、悔しかった。
「歩くのは歩けるのよね、普通に。飛べたりしないの? 自分でテーブルの上から降りられないようじゃ不便でしょ」
そんなこと言われても。
飛べるならとっくにそうしてますって話だ。人形自体に翼も何もない以上、魔法でも使わない限り飛べない。魔法が使えるならそもそもこんなにのんびりはしていないだろう。
「思い切って飛び降りてみたら、意外に飛べる自分を発見できるかも?」
「……」
ちゃんと地面に落ちる前に、支えてくれるんでしょうね?
「それじゃ、着替えさせてあげるから、じっとしててねー」
「へ?」
あ。いやん。とっさの事に、間の抜けた返事をしてしまった。
いやいやいや。なんだかとっても重大な発言があった気がする。
「着替え?」
「うん。ほら、ちょくちょく動いてたから服もちょっと汚れたでしょ。着替えなきゃ」
言うが早いか、アリスの手は私の体をがっしりと捕まえていた。
え……ええと。ええとお。
「ま、待ってよ。人形なんだから着替えなんてしなくていいでしょ、別に」
そりゃあ、気分的にはあんまりよくはないけど……その……
「ダメよ。私の人形がそんな汚れた服を着てちゃいけないわ」
アリスの指が問答無用と私のスカートを摘む。体自体を押さえられているから全く抵抗できない。
ほんの僅かな間に大ピンチですよ私。剥かれるー!
そ、そりゃあ、私の体ってわけじゃなくて、人形の体なんだから、全然気にすることなんてなくて、あうん。でも気持ちの問題ってものが。あるわけで。
「いいわ! 自分で着替えるから……っ」
万歳をさせられて、今まさにスカートを捲り上げられようとするところで、私は叫んだ。
ぴたっとアリスの手が止まる。まだスカートは手に持たれたまま。
じ……っと、大きな目で、私を見つめてくる。そしてアリスは、スカートから一度手を離して、人差し指を私に向けてびしっと立てた。
「人形を着替えさせるのは、所有者の権利」
はい、ゲームオーバー。
もはや次の反論の言葉を送り出す機会さえなく。
思い切り容赦なく剥かれました。
「やーーーっ」
これだけ圧倒的な力の差だと、じたばた抵抗することもできない。あっという間にワンピースはアリスの手の中で、私は下着姿。
下着というのもまた、私自身初めて見るのだが、人形用の割にずいぶんと細かく作ってあるのだった。私の視点からすると本物と大差ない。露になった肌の大部分は、顔や手と同様につるつると少し光沢のある素材で、やはり硬かった。
アリスはそんな私を見つめて……うう、私の体ではないとはいえ私の体でもあって……恥ずかしい。
「下着は、また今度でいっか。汚れないよね?」
「へ、変なこと言わないでよっ……人形、なんだから……うん……」
何よこの辱めプレイはっ。ああもうほら、顔が真っ赤に……なってないか。気分的にはなってるの!
……これから何度でもこれを体験する機会があるかもしれないと思うと、くらくらする。
「んーっと……これがいいかな」
アリスはそんな私の気持ちを知ってか知らずか、いたって平然と新しい服を選んで持ってきていたりした。なんでもいい。早く着させて。
目の前に差し出されたそれは、先程まで私が来ていたのより少しだけシンプルな構造のやはりワンピースで、率直に一目見た感想を言うと、
「また派手ね……」
だった。
主に、色使いが。彩度の高い色を大胆に使っているため、目が痛くなりそうだ。一言で言えば、赤い。赤と白とピンクと、一部青と……。
アリスは不思議そうに首をかしげた。
「これが?」
「ええ。もっと普通なのはないかしら。白くて落ち着いたのがいいわ」
本当は少しでも早く服を着たいところだけど、目が痛くなるような服をずっとつけているのも嫌だ。それに、私だって服くらいは好みのものにしたい。できれば。
「十分普通だけど……」
アリスのその一言は、私たちの感性がどこかで合致することはなさそうだと結論付けるに十分なものだった。希望は持てそうにない。悲しいことに。
仕方ない。今はとりあえずそれを着せてもらって、あとの機会にゆっくりコレクションを見せてもらおう。人形用の服なんてそんなにいくつもないだろうけど。
――というわけで。
「あっ、にゃ……っ、く……くすぐったいくすぐったい……っ……ひゃはぁんっ」
脱がせられるときより着せられるときのほうがさらに試練だということを知るのは、その直後だった。
通常ありえないくらいの面積の指で全身を撫でられるという体験は、貴重ではあるかもしれなかった。
「寝たりはするの?」
「私、最初寝てた状態から起きたような気がするから、たぶん」
質問攻めの夜がやっと終わろうとしていた。
本来の意味の「寝る」とは違う現象になるのかもしれないが、少なくとも意識が途絶える時間はあるだろう。実際常に起きっぱなしというのは精神がもたないのではないだろうか。
「そっかあ……あ、それじゃちゃんとパジャマに着替えたほうが」
「いい! いいから! このままで寝られるから!」
「……そう」
そんな寂しそうな声で言われても、ダメなものはダメで。
ついさっき着替えたばかりなのに、またあの体験が……あの感触が……なんて。
それより人形用のパジャマなんて持ってるんだろうか。さすがにパジャマくらいはそんな派手なものではないだろうという気がする。そうでなければおかしい。
「あ、人形さん用のベッドもちゃんと作ってあげないとね」
そう言うと、タンスを開けてさっと枕を取り出してくる。小さな、ふかふかの枕。
私の身長よりも大きい、小さな枕。
「ちょうどいいサイズね」
枕に白いシンプルなカバーをつけて、シーツ代わりに。
裁縫用と思われる布を適当に切って縫い付けて、あっという間に即席の毛布のできあがり。
持ち上げられて、枕の上にそっと下ろされる。
「寝心地はよさそう?」
「……よくわからないわ」
一度寝てみないことには。ふわふわしていて、柔らかすぎるかもしれない。でも人形の体にはこれでちょうどいいという可能性もある。よくわからない。
こういうところはちゃんと気を使ってくれるんだな、と感じてちょっと嬉しかった。
照明が消されて、おやすみという挨拶を交わす。
まもなく、いともあっさりと、私の意識も闇に落ちていった。
[The past 3 - Laboratory -]
本が読みたい。本を読めば何か思い出すきっかけがつかめるかもしれない。
そうでなくとも、少なくとも暇はつぶせる。
そう切り出すと、アリスは研究部屋兼書斎と称する部屋に私を案内してくれた。
さすがに魔法使いというだけあって、本はたくさん揃っていた。本のサイズがとても大きく見えるため、とてつもない量に感じる。
「読めるの?」
アリスは聞いてきた。私が本が読めないとでも?
一冊の本を取り出してもらう。目の前に置いてもらう。開けてもらう。
ほら。
「……文字が大きすぎて読みづらいわ」
「でしょ?」
うー。なんか、悔しい。
「本を開けたまま床に置いて」
「ん」
テーブルの上から床までの距離。これくらいあれば文字がちょうどいいサイズになる。
文字も普通に読める。この本は農作物の収穫量を調整する魔法に関する論文のようだった。概要のページなので、とりあえずそれくらいのことがわかる。
「ページをめくって」
「……えっと、これって、私がつきっきりじゃないと人形さんが本を読むことできないってことよね?」
「……」
改良案。
本をテーブルの上に、立てて置いてもらう。そして見たいページを開ける。
……んしょ、んしょ。あああ。空気抵抗というものの力を実感できる実験だわ。
私は遠くまで歩いて、振り返って、文字を読む。
とてとてとて……
次のページが読みたいときはまた本のところまで歩いて、ページをめくる。
とてとて……んしょ、んしょ。
そしてまた遠くまで歩いて……ああああ、ページがめくれてまた勝手に戻っちゃった……とてとて……んしょ、んしょ……とてとて……。
そして読んで……次のページ……。
……。
「ほ……本を読むって、こんな重労働だったのね……」
ぱたん。
当面、アリスが何かの本を読む機会に、ついでに隣から読ませてもらうということで諦めることにした。アリスの肩に乗せてもらえば、なんとか読める。
今アリスが読んでいるのは、悪魔の力についての研究だった。
「新しい絶対の魔法の習得のためなら、どんな力だって利用するわ」
悪魔と言えば、世界中からの嫌われ者。例えば吸血鬼は、もっとも身近な悪魔の一例。
しかし、嫌われる最大の理由の一つが、そのあまりに強大な力にあるということは誰も否定はできないだろう。嫌ってはいるが、力は欲しいという者は少なくない。
ただ、その本に書かれている悪魔に関する記述は……
「悪魔と言っても、要するに強くてちょっと性格が悪いってくらいで、言われてるほど恐ろしい魔物っていうわけでもないのにね」
誇張が過ぎるように感じた。もっとも、大半の書物の悪魔に関する記述がそうなのだが。
そんな感想を漏らすと、ふとアリスが顔を上げて、肩の上に乗る私を覗き込んできた。
「……もしかして、人形さんの前世って、悪魔?」
「前世って言うのやめて。……悪魔かどうかは知らないけれど」
「悪魔のフォローしてる人なんて初めてだもん」
きっとそうに違いない、と、もう自分の中では納得している様子のアリス。
私が、悪魔? 否定はしきれない。何にも思い出せないからなんて言われてもそう簡単には否定できない。
もしそうなのだとしたら、なるほど、アリスの望みどおり、私は彼女に強大な力を与えることができる能力を持っているのだろう。そのために召喚されたと考えると辻褄は合わなくもない。記憶がなくなっている理由が不明だけど。
でも悪魔だったら私みたいにそんないい子じゃないわよ? なんて、心の中だけでこっそり思ってみる。言うとどうせ何か言われるだろうし。
「役に立たない本ね。悪魔が力持ちとかそんなことはわかってるのよ。悪魔を使役するような魔法はないのかしら」
「……ないと思うわ」
その後もいくつか本を見せてもらったけれど、私にとっても特に参考になる情報は、なかった。
ひとつだけわかったのは。私がかつて読んだことのある本(そんなことはしっかりと覚えているみたいで)もたくさんあって、少なくともここが私にとってまったくの異世界というわけではないということだった。
研究部屋の地下には、魔法訓練所と称する部屋があった。
石造りの壁に囲まれた広い部屋で、照明が点在していたり、ところどころに○や□のマークが描かれていたり、部屋の中央付近に格子状の檻のようなものがあったりする以外は何もない殺風景な部屋だった。
必要な際にはここで攻撃魔法を中心とした訓練、実験を行っているらしい。
どこか、懐かしい臭いがした。魔法の跡を重ねた場所に特有の。
せっかくなので、アリスの訓練の様子を見せてもらうことにした。アリスも、何かのきっかけになるかもね、と賛成してくれた。
入り口近くにある手すりのような高さの段差に私は置かれ、そこに腰掛ける。
「基本セットで行くわ」
アリスはそう告げて、私に背を向けて、対面の壁に向き合った。
一瞬の間の後、急激に場の魔力密度が高まる。魔法発動の瞬間。魔力が物理エネルギーへと、力へと変換されていく。
ぞくり、と私の背筋を走る痺れ。そうだ。これが魔法だ。
アリスが少し指を動かすと、魔力で生み出された光の矢が真っ直ぐに壁の○に向かって飛んでいき、その真芯に命中する。壁で、ばしんと矢が弾けて、消える。的までの距離はおよそ50歩。
続けて2,3,4発目を同時に、自らの真正面と少しずれた左右に生み出し、放つ。いずれも全く同時に的の真ん中に命中する。
5発目は壁ではなく、ほぼ真横に放つ。放たれた矢は途中からまるで放物線のように急激に曲がり、戻ってきて、やはり同じ的に命中する。
6発目は真っ直ぐに。7発目、8発目もそれぞれ少し間を空けて真っ直ぐに。それぞれ微かに速度の違う光の矢は、やはり、全くの同時に的に当たった。
……そこで、アリスの動きが止まる。ここまでの時間はほんの数秒。静寂は、すぐに戻ってきた。
私は、軽く手を叩いて拍手を送る。
「やるわね」
アリスは、ふん、と得意げに鼻息で答える。
「ほんの準備体操よ」
言うと今度は、部屋のもう少し奥まで歩いてから、構える。
両手をばっと上げる。先程より少し本格的な構え。
魔力が一気に集まり――アリスの両手から、一気にたくさん、私が見た限りでは合計16個の光の矢がアリスの前方と後方、それぞればらばらの方向に向かって飛んでいった。それらは壁でばしんと弾け消える。矢が当たったところは全て、○が描かれている場所だった。○は確かにその16箇所以外にはない。
なるほど、これは大したコントロールだ。これは立派に誇りに出来る。私の中にある魔法に関する知識が、この技術がなかなか素晴らしいものであることを教えてくれる。
ただ、先程も今回も、一つ、気になることはあった。それを指摘するべきなのか、どうか。
「最後!」
アリスは次に、部屋の中央部にある檻に向き合った。その距離――よくわからない。100歩くらいは先だろうか。
魔力の集中。そして生み出される光の矢。今度の1発は、今までより遥かに大きい。アリスの身長の半分くらいはある大きなエネルギーの塊。魔力が生み出す風が、私の体を撫でる。
それを檻に向かって真っ直ぐ解き放つ。周囲の空気を巻き込みながら、高速で進む矢。
あと少しで檻にぶつかるというところで、矢が破裂した――正確には、分裂した。一度に、無数に。
そして。
私は驚きのあまり我が目を疑うことになる。見間違えでなければ――32個に分裂した小さな矢が、全て、格子の32個の隙間を通って向こう側に抜けていったのだ。1個の格子の大きさなど、分裂した細かい矢の大きさとほぼイコールだ。矢が少しでも格子に触れたような反応も音も、全くなかった。
これはさすがに常識外れの制御力。こういった点で私の記憶が曖昧になっているということでなければ、こんな精確な魔法の制御など聞いた事がない。
……あまりのことに、魔法が済んで静かになっても、私は言うべき言葉を見つけられなかった。素晴らしい集中力と技術力だ。
ふふん、とアリスは私を振り返りながら微笑む。なるほど、自分自身の力にかなりの自信を持っている様子なのも、理解できる。
「完璧でしょ?」
ああ。完璧だったわ。私は、首を縦に振って答えた。
そう、制御は本当に完璧だった。桁違いだった。
「人形さんは、何か感じたかしら?」
「――アリス。貴方は、人間の魔法使いに負けたのよね」
ぴく。
私が指摘すると、アリスの表情が一気に険しくなった。逆鱗に触れる、とはまさにこのことだろう。
「くっ……それが、どうしたのよ……!」
「素直に指摘するわ。おそらく貴方の制御技術は誰にも負けない、最高の宝物よ。でも、魔力自体は、それほどでもない」
「な……!?」
私の言葉に、目を見開くアリス。
そう、先程から気になっていたのは、魔力の総量そのものだった。アリスが集めた魔力には、それほどの迫力を感じなかった。私の知っている魔力集中というのは、あの程度のものではなかったはずだ。
アリスは顔を真っ赤にして怒って、私に掴みかかってくる。言葉どおり、鷲づかみにされる。――痛い。これは。
「どういうことよ!? 魔法使いの私の魔法が、それほどでもない……たいしたことないですって!?」
「……ええ」
ぎし。アリスの手に力が篭る。体がぴし、と鳴るのが聞こえた。
漏れ出そうになる悲鳴を、なんとか抑える。
「あんたに何がわかるのよ……! 自分のこともわからないくせに!」
「……っ!」
声が出なくなった。力任せに私を握り締めてくるアリス。幸い、力はないようで、このまま一気に壊されてしまうというほどではなさそうだが、痛いものは痛い。
「そんなこと言うなら……あんたが魔法を見せてみなさいよ……!」
「……る……」
やっと。
微かな声を、外に出すことができた。アリスは、少し手の力を緩めてくれた。
きし、と体中が痛む。私は言葉を続ける。
「やり方は……思い出したわ。いえ、正確には、見て理解した。私の魔法がどんなのだったかは、まだわからない。でも、アリスが見せてくれた同じ魔法は理解した。魔力は、私のこの心の中にある。――できるかもしれない」
「……」
アリスは、険しい表情のまま、しかし私の言葉を聞いて、すっと手を離した。
体が動く。
厳しく睨みつけるアリスの視線を受けながら、私は今座っている手すりの上に、立つ。
「やってみるわ」
感じる。
この部屋で積み重ねられてきた魔法が残したエネルギーの残骸を。
感じる。
アリスの魔法を見た瞬間から、私の気持ちは歓喜に震えていた。魔法。そうだ――私は、魔法使い。
すう……っと、意識の奥底から順番に雑念を払っていく。
感じる。
私の中から溢れ出す、無限の勇気を。
イメージするものは、アリスの光の矢。それは純然たるエネルギーの塊。他の要素は不要。
かざした手の先から、魔力が流れ出していき、一点に集まる。
魔力は一瞬にして物理エネルギーに変わる。エネルギーを集めさせられた空気の塊は、少しでもそのエネルギーを発散させて楽になりたいと自ら発光する。これが光の矢の正体。
さらに風が生まれる。集中した膨大な熱量が生み出す空気の循環。部屋の中であるにもかかわらず、この瞬間、軽い物なら吹き飛ばしてしまうほどの風が吹いた。私も、壁を背にしていなければ耐え切れず飛ばされていただろう――この人形の体では。
それを、解き放つ。
光の矢は、真っ直ぐに的に向かって飛んでいった。○の中心部から僅かにずれたところにそれは当たり、轟音を残す。
エネルギーの塊を正面から受けた壁の表面部は、粉々に砕け散った。おそらくは特別に強化されている壁は自らの表面にクレーターを作ることによって、そのエネルギーを吸収し終えた。
――しん、と静寂が戻る。
そうだ。私は、魔法使い。魔法が使える喜びを、感じる。
しばらく経っても、アリスは、私が魔法を放ったその方向をじっと見つめたままだった。私からは後姿しか見えない。その表情は読み取れない。
アリスには申し訳ないが、魔力量の差は歴然としていたと、私自身思う。仮に魔力そのものの量を感知できなかったとしても、発生した風や壊れた壁を見れば、明らかだ。
沈黙は、その後、数分間も続いた。アリスも私も、何も話さない。まったく動かない。
そして、アリスは、振り向く。表情を消して。
私を両手で持ち上げて、いつものように肩の上に乗せる。歩き出す。地上の部屋に戻る道を。
道すがら、アリスは一言だけ、呟いた。
「あなたは、やっぱり悪魔だわ」
[The past 4 - Shell -]
その日以来、アリスは魔法訓練所に行くときには私を連れて行かなくなった。
長い時間篭って、帰ってくる頃にはいつもボロボロになっていた。無茶なことをしているのだろう。そんなことをしてもすぐに魔力が上がるわけではない、と諭したが、いいのよ、と突っぱねられるだけだった。不思議なのは、自暴自棄になったというわけではないことだった。その行動には何らかの意図が確かにあるようだった。それならば、好きにさせよう。
仕方ないから、私は、また1人で本を読む日々を過ごした。……頼んで最初から本をテーブルの上にいくつか立てておいて貰って、好きなものを読める状態にしておくという方法で。
悪魔。魔法使い。人間。
私は何? ここにいるのは偶然ではない。私は何を為すためにここに来たの?
私は――アリスのために何をしてあげられる? 人間の魔法使いなんかに負けないくらいの力を与える?
人間の魔法使い。それも引っかかっているところだった。どうしてだろう。私は、その人間に、とても会いたい。その人間こそが今の私と「私」の接点に違いない、そんな気がしていた。何故なら「私」はきっとその人間を知っているから。そうでなければ、今アリスに言いたくて言えないでいるこの言葉の理由がわからない。――貴方は決してその人間には勝てないと。少なくとも、魔法では。
そんな悩める日々に変化を与えたのは、ある日アリスが持ってきた一冊の本だった。
アリスの顔にあるものは、強い決意の表情。
私に黒い本を見せる。1ページずつ、ゆっくり読ませてくれた。
「究極の魔法よ」
驚いた。その本に書かれているのはまさに、究極と呼ぶに相応しい魔法だった。
いや――もっと驚いたのは、本当は別のことだった。私が読んだことのない魔法書があるなんて――と。魔法書? 違う。これは、魔道書だ。本そのものから魔力を感じる。重く、人を拒絶する魔力。
究極の魔法は、しかし、その弱点もすぐに読み取れた。この魔法は、誰にも使いこなせない。
アリスが使うには要求される魔力の容量が膨大すぎる。私が使うには制御が複雑すぎる。
そして、何より、使えたところで、身体に与える負担が大きすぎる。
「この本は、昔からここにあった。誰が何のために作ったのかは知らないわ。私にとっては、最後の切り札なの」
「切り札にもならないわ。誰にも使えない魔法なんて」
「使うわ」
「――まさか。無理よ」
私はテーブルに下ろしてもらい、その本を間近くから眺める。暗い魔力が、私が近づくことを拒んでいる。
私は吸い寄せられるように、本に触れた。
(究極の魔法、だったのよ)
(――だった?)
(もう私には必要のないものだから。今でも持ち運んでいるのは、私自身への戒めみたいなものよ)
――え?
まただ。また何か、聞こえた。今の会話は、何だろう。
1人の声は――私?
「人形さん。あなたのおかげで、吹っ切れたわ。私は、人間なんかに――なんて考え方は、もうしない。私は私の出せる全ての力を使って、あの人間ともう一度戦う」
はっと意識をまたこちら側に戻す。いつの間にか本からはまた距離が離れていた。
アリスは、出せる全ての力を使って、と言った。もう一度戦うと言った。
「だから……切り札を? でも、貴方に使いこなせるとは思えない」
使いこなせるどころか、下手をするとアリス自身を傷つけるだけの結果に終わりかねない。危険な魔法だった。
「そのときはそのときよ。やってみないとわからないでしょ」
「わかるわ」
「それでも、使ってみせる。人形さん、あなたは私の思い上がりを見事に壊してくれた。魔法使いとして私は、これを使わなければいけないのよ。これは、私が魔法使いとしてのプライドを守るための戦いなの」
――アリスのその言葉に、迷いはなかった。
そういうことか。アリスは、人間と戦いに行くのではない。魔法使いとしての自分の限界と戦いに行くのだ。
それならば、止めるわけにはいかない。おそらく、負けるだろうとわかっていても。
「……本当に正直なことを言うと、貴方の適正は、純粋な魔法なんかじゃないわ。最大の武器は貴方の人並みはずれた集中力と制御力よ。――なんて、今言うのは意地悪かしら」
本当に強くなるためには、アリスに必要なことは、今のように正直に魔法の訓練を重ねることなどではない。
誰にも到底理解できないほどの微細な制御をもってして、誰にも真似の出来ない自分だけの武器を見つけることだ。そうすれば、きっと、誰にも負けなくなる。
アリスは、私の言葉は、肯定も否定もしなかった。
ただ、
「ありがとう」
そう言って、私に。
思えば初めての、素直な笑顔を見せてくれた。
本当はアリスの戦いについていきたかったけれど。
アリスのことを見守りたかったけれど。
人間の魔法使いにも会いたかったけれど。
私の役割はきっと、アリスの決意を促した時点で終わっていた。
だから、このときからもう、収束は始まっていた。
流石アリスだ、素敵理論の構築に余念がないぜ!
続きの気になる終り方
最後はどうなるのか楽しみですよ