「今までありがとう、お姉ちゃん」
いきなり自分の妹が部屋に入ってきてこんなことを言われたら、どんな姉だってびっくりするだろう。案の定お姉ちゃんも何か反応を示すというよりは、ぽかんとしてしまっている。手に持っている本から目を放して、私を見ていた。
「私ね、そろそろ行こうと思うの」
内容をはっきりと喋らないせいか、余計にお姉ちゃんが困惑しているのが分かる。
「こいし、それはどういうことです?」
「まんまの意味だよ?」
そう、そのまんま。今までありがとう、今日、今すぐ私は行こうと思います。
「どこに行くのですか?」
「深淵」
お姉ちゃんが困惑しているのが分かる。そりゃそうだよね。私の説明が足らなかったんだと思う。でも上手く言葉が見つからないから、暫く私は指を顔の横でくるくるさせて考えていますというアピールをする。
「そうそう、無意識の深淵」
それを聞いた瞬間、お姉ちゃんは手に持っていた本を床に落とした。
「こいしっ! それはどういう!」
つかつかと歩いてきて、私の肩を強く掴んだ。
「無意識の深淵って、無意識により近づくということですか? それ以上心を削って、どうするのです!」
お姉ちゃんも知ってる通り、私の能力は無意識を操る程度の能力。これは先天的に持っていたものではなくて、後天的に私が望んで手に入れた能力。
無意識に近づく度に、心を削る。心を削って感情を無くすたびに、無意識に近づけるのだ。無意識に近づくとどうなるかというと、無意識を操る私の力は強くなる。
力を得るためには、無意識に近づかなきゃ行けないんだよ。そして私は、私達は力を手に入れる必要がある。
私はお姉ちゃんをの腕を掴むと、霊力を使ってお姉ちゃんを軽く後ろに飛ばした。霊撃と呼ばれるある程度霊力がある人なら誰でも使える技だ。それでも、持っている力によって強さの差は出る。
「うあっ! つぁ……」
お姉ちゃんは急に飛ばされたもんだから、反応出来なくて壁に叩き付けられた。
そしてそのままお姉ちゃんの首を掴んで、空に固定する。
お姉ちゃんはもがくけど、私の方が霊力が強いからちっとも外れない。
お姉ちゃんの足からスリッパが落ちた。
私はお姉ちゃんを開放する。げほげほと咳き込んで、私の足下に喉を押さえてお姉ちゃんはうずくまった。
「わかる? お姉ちゃんってさ、こんなに弱いんだよ」
咳は止まらない。本当に弱いなぁ。
「この種族で妖怪やってる以上さ、私らを嫌う奴らなんて五万といるよ。それでお空や私よりも強いやつが攻めて来ちゃったら、お姉ちゃんどうするつもり?」
机に掴まって、なんとか立ち上がったのを見て、私はお姉ちゃんの椅子に腰かけた。
「そのときは……それまでです」
「それじゃあ駄目なんだって。お姉ちゃんありがとう、今まで守ってくれて」
私達悟り妖怪は、翼も無いし、発達した牙も無い。鬼のように大きな角も無ければ爪が発達しているわけでもない。早くも走れなければ、長く水に潜るだとか、そういう身体に関する能力は人並みと言っても過言ではない。
さらに加えて言うならなば、私達は弾幕以外に攻撃手段を持たないのだ。
他の種族ならば、例えば氷を飛ばすだとか、炎を発生させるだとか、時を止めるだとか、そういった攻撃方法を持っている。
しかし我々悟り妖怪は、心が読めた所で次の相手の行動予測が出来る程度で攻撃までは至れない。読めた所で、身体が他の種よりも劣っているのだから、どうしようもない。
そうなれば、私達は妖怪の力の源、霊力そのものを強くするしか無いんだよ。
「これからは、私がお姉ちゃんのことを守るから」
そしてこれが、一番効率よく霊力を高める方法。一度心を手放して無意識になった私は、もうこれしか強くなる道は無いんだよ。
「こいし」
お姉ちゃんがすがる様に私に寄ってくる。
「無意識に近づくたびに、貴女の心はすり減って行くのですよ?」
「とっくに知ってる」
「これ以上、これ以上心が無くなったら、貴女は……」
「とっくに」
つばを飲み込む。お姉ちゃんの今にも泣いちゃいそうな顔を見ているのが辛くて。
「心なんて無いよ?」
それがお姉ちゃんをどんなに傷つけたのだろう。心の無い私には、もう理解出来なかった。
「聞いて、こいし」
なぁに、お姉ちゃん?
「このまま心を無くして、完全に無意識に到達してしまったら。このまま、このまま……。このままどこか遠くへ消えて行ってしまうんじゃないかと心配なの」
お姉ちゃんが泣いている。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんとずっと長く一緒にいるためにこうしてるんだから」
そうじゃないよね、分かってるよ。今はまだちょっとだけ残ってるからこういうことが言えるってことくらい。これ以上無意識に近づいたら、どうなるかどうかは正直私にも分からない。
「お願い近くにいて。それだけで私は幸せだから」
泣いている。しくしくと泣いているお姉ちゃんを見て、あんまり色々なことを考えられないくらいには、私の心はもう無いんだよ?
「貴女までいなくなったら、私はどうすればいいの」
泣いている。
「ごめんね」
相手を泣かしてしまったから、ごめんね。
ごめんね、お姉ちゃん。もう何を言っているのかいまいち分からない程度には、こういうときにごめんねとしか言えない程度には、こういう理由でしかごめんねを言えない程度には心が無いの。手遅れなの。
「お姉ちゃん」
呼びかけると、お姉ちゃんは顔を上げて私を向いた。
「ここ」
私は自分の頭を指差す。
「私ね、本来心って、脳だと思うの。脳がある限り私は思考をするし、判断もする。欲望だってあるだろうし、自重だってするんだと思う。無意識に行ってしまっても」
多分だけどね。
次に私はその指でそのまま私の左胸を指差した。
「で、今私達が言っている心って、この心臓のことだと思うの。ハート。感情って言った方が正しいかもね。嬉しいだとか、悲しいだとか、寂しいだとか、楽しいだとか。そういうのを感じるのが、ここ」
少し自虐的に笑って、お姉ちゃんを見る。
「私ね、こっちはもう空っぽに近いんだよ? ぽっかり穴が空いてるみたいに」
楽しいだとか、悲しいだとか、そういうことを今はほんのちょっとだけ感じることが出来る。だから表情だって変えることが出来る。感情をもう理解出来ない程度には空っぽなんだけれども。
ただそれを、本当に空っぽにして、最後の一滴、搾りかすまで拭き取ってしまおうかって話。
多分そうするともう一生嬉しいだとか悲しいだとか感じることは無くなって、表情だって変化することは無いだろうけど、別に思考出来なくなるわけじゃないんだよ。
だから、一緒にいられると思う。
「ごめんね」
とりあえず今は、これだけは分かる。
「ごめんね。私、悲しませてるよね。ごめんね、お姉ちゃん。信じて欲しいの。お姉ちゃんに泣いて欲しくてやってるんじゃなくて、笑って欲しくてやってるの。もう一度、ずうっと昔みたいに、お姉ちゃんに笑って生活して欲しいからやってることなの」
だから、私はもっと強くなるね。誰よりも強くなるね。
どんな存在がお姉ちゃんを攻撃しても守れる様に、誰よりも強くなるからね。
「それじゃあ、お姉ちゃん、行ってきます。部屋やリビングでココアでも飲みながら、次の夜明けを待っててね」
「待って! 行かないで!」
お姉ちゃんが部屋から出ようとする私を掴んで、放さない。
「お姉ちゃんは信じてくれないの? 無意識になった私と、お姉ちゃんはもう繋がらないの? 違うでしょ?」
お姉ちゃんの視線に合わせる様に屈んで、そのどこまでも優しい小さな手を握って、おでこをお姉ちゃんのおでこにくっつけた。
「種族も、血も、思考も、おでこも、ほら、こうして手だって沢山繋げるんだよ?」
私が無意識の深淵に到達したときに、心を最後の一滴まで拭き取られたときに、無意識に私が呑み込まれるか、私が無意識を呑み込むか。それだけの話。
無意識に呑み込まれたら、きっと私はお姉ちゃんの言う通りどこかへ消えていってしまうだろう。
でも私が無意識を呑み込む事ができれば、もうお姉ちゃんは泣かなくて済む。
「賭けだよ」
そう、賭けだ。奇数か偶数か。赤か黒か。呑むか呑まれるか。
「賭けてよ、私に。私を信じてよ」
それでもお姉ちゃんは放してくれない。行かないでと言って涙し続けている。
これではらちが明かないと思った私は、お姉ちゃんに至近距離から弾幕を当てた。
「あぐっ……」
至近距離からの弾幕を避けられるわけもなく、お姉ちゃんは気を失ってしまった。
「ごめんね。もう決めたんだ、行くって」
立ち上がって、息を立てて眠っているお姉ちゃんを暫く眺めてから、私は部屋を後にした。
「私はお姉ちゃんとの繋がりを信じているからこそ、行くね」
なんとなく、伝えたいことは分かります。
強くなるために、リスクを背負って私は帰る! という意気込みのようなものは分かります。
しかし、その動機というか、必要性、そしてメリットがどれだけあるか、というのが特に気になりました。
そのバックストーリーを描いてこそ、話に深みが増すように思います。
って言った時のこいしの表情がありありと浮かんできた。
こいしのシリアス顔って新鮮だ。
>奇声を発する程度の能力様
ごめんなさい。幸せになって欲しいのですが、中々難しい。
>3様
今回ばかりは私も痛い程反省しております。話の流れは好きなのであんまり後悔はしてませんが。
>爆撃様
申し訳ないの一言です。焦りました。
>10様
ありがとうございます。私の中の古明地はそこそこシリアスです。