さぁ、風の声を聴け。
外へ出て身体を伸ばすと、これから一日を元気に過ごすぞ、という心を折らんと空っ風が吹き降ろした。反射的に身体を丸めて布団に潜り込みたくなる。
ここ数日で気温がすっかり落ち込んで、朝夕には夏が恋しく思えてくる。毎年恒例の不毛な考えだが、四季が春と秋だけになってはくれまいかと、毎年毎年懲りもせずに本気で望むわけである。
何もせずに立っていると寒風が辛い。動き続ければ寒さも忘れるに違いない、と気分を無理矢理前へ向ける。こうした日こそ面白い出来事が起こるかもしれない。団扇にカメラ、そして命の次に大切な手帳と、身支度が完了していることを確認した色味に乏しい少女、射命丸文は本日も面白おかしいネタを探して幻想郷の空へ舞い上がった。
季節は秋を過ぎ、すっかりと空から見下ろす情景も冬めいてきた。
ついこの間まで美しい紅を誇っていた山肌はうっすらと白み、春先から続く木々の勢いも目に見えて失速気味である。一年の間に繁栄と衰退を見るようで一抹の寂しさを感じるも、また時が経てば再び生命は力強く芽吹く。あらゆる生命世界の縮図の一端をそこに垣間見ることができる。
空は朝からどんよりと曇り、蓋をするかのように厚い雲が世界を閉じ込めている。鼻をひくつかせても埃の匂いはしてこないので雨の心配はいらないが、こう寒いとほんの僅かでも日の光が恋しくなるのは必然であることだろう。
眼下では一部ののん気者を除いて冬支度を始める様子が伺える。ぽつぽつと灯る明かりの下でせっせと動く妖怪や人間たちを見ていると、何だか微笑ましく思えてくるのが不思議だ。
「面白そうだし、ちょっと様子を見ていこうかしら」
予定は未定。モットーは地域密着。文の記者活動は常識に囚われない。
さて、そうと決まれば誰へ取材するかを考えなければならないのだが、これまでの経験上忙しそうにしている時に取材を頼んでも相手にされなかったり片手間に適当な返答があるだけで、正直ろくな記事にならない。地域に密着はしているが信頼とエンターテイメントがなければ読み物として面白みに欠ける故、文の目指す理想の『文々。新聞』には程遠い。
面白さとは何だろう。文は時々考える。
思うに、それは新鮮味。そして既知とのギャップだ。
読み手の知らないこと、己の知識を塗り替える行為、これが面白さになる。驚きと知識に満ち満ちた新聞、文はそんな新聞を作りたいと思う。
しかし破天荒なだけでは新聞足りえない。真実を伝える媒体である以上、主観で真実を歪めてはいけない。ありのままを面白おかしく読者に伝える。矛盾した二つの要素を絶妙なバランスの上で両立させる必要があるのである。ジャーナリズムとはかくも奥深いものか、と文はしみじみ思う。
「(うーん、皆さん忙しそうですねぇ……。誰か暇そうにしてないでしょうか)」
ゆっくりと高度を下げながら視線を巡らせていると、通りを何かに追われるように去っていく影を見つけた。この場を離れようとするならきっと取材くらい受けてくれるだろう。文は勝手にそう思い、湖へ向けて飛んでいく影を追いかけた。
ある程度距離が縮み、町から逃げていく影の正体が判然としたところで文は呼びかけた。
「おーい、ちょっと待ってくださいチルノさーん!」
呼ばれたチルノは振り向くと、眉間にシワを作って不機嫌そうに言った。
「何よ新聞屋じゃない。あたいは新聞なんて読まないって言ってるでしょ」
「いえいえ、今日は勧誘じゃありません。ちょっと取材させていただきたくて。それに──」
「何よ?」
「……いや、何でもありません」
文は「読まないのではなく読めないのでは」と口にしそうになって慌てて飲み込んだ。彼女は馬鹿にされることに対してどういう訳か非常に敏感なので、取材をお願いする際には気を遣わなければならない。
言葉を濁した文を見て、チルノは腕を組んだまま「取材ならお断りよ。あたい今忙しいのよッ」と言い放って再び湖の方へ飛んでいく。
「湖へ行くんですか?」
その背中を追いかけて、文は尋ねた。
「あんたには関係ないでしょ、ついて来ないで!」チルノは速度を増して文を引き離しにかかる。
しかし文とて伊達に幻想郷最速を名乗っているわけではない。チルノが加速したと確認するやいなや、彼女の加速を遥かに凌ぐ加速を以って文はチルノに並んだ。
「ちょっとちょっと! ついて来ないでっていったでしょ?!」
飛びながら器用に手足をバタつかせて苦言を呈するチルノに、文はあくまでも冷静に言葉を返す。
「まぁまぁ、そんなに邪険にしないでくださいよ。湖畔でゆっくりお話でもしませんか?」
「嫌だって言ってるじゃないの。少しは人の話を聞きなさいよぉ!」
「何をそんなに怒っているんです。気に入らないことは誰かに話した方が楽になりますよ」
こういう場面で正論を持ち出すのは卑怯なやり方だが、ネタのためには仕方がない。結果的に諭すような運びになったものの、こうでもしなければ天真爛漫でわがままな性格の彼女は頷かないだろう。
頭を抱えながらくるくると錐揉みしながら唸るチルノは、しばらく悩んだ挙句「分かったわよ。あたいの怒りを食らうといいわ」とぶっきらぼうに笑った。
〆
妖怪の山の麓に位置する霧の湖、周囲を背の高い針葉樹が囲む湖畔で文は手近な倒木に腰掛けて足を組んでいた。一方のチルノは宣言通りに何らかで溜め込んだ怒りを湖に向けて発散中である。
かれこれ二十分が経過しただろうか。そろそろ湖の水面がすべて氷に変わろうかというタイミングで文はため息をついた。この様子では取材などするよりも日が暮れる方が早い気がする。いつものことながら適当に暴れればすぐに気も晴れるとたかをを括っていたのだが、どうやら今回は面倒であることに気付くのが遅すぎた。
「(──まぁったく。頼んでおいて何ですが、私も暇ではないんですけどねぇ)」
文は頬杖をつきながら内心毒づく。見ている限り埒が明きそうにもない。文は気合を入れるようにぽんッと膝を打って立ち上がった。
「そろそろいいですか? それ以上やったら来年の夏まで融けなくなっちゃいますよ」
その声に振り返ったチルノは欲求不満そうにむくれると「別にいいじゃない。あたいは困らないもん」
「他の妖怪いや妖精たちが困ってしまいますよ。滑って遊んでいられるのもせいぜい春まででしょうしね。飽きがくれば文句言われてしまいますよ?」
「ふん、そんなのが怖くっていたずらなんてやってられないわよ」
どこまでも自分本位な彼女に、文はやれやれと肩をすくめる。妖精などそんなもんだと言ってしまえばそこまでだが、ここまでわがままだと少々手に余ってしまうのもまた事実であったりする。
「まさかとは思いますけど、湖の氷が融けないと異変だと騒がれる可能性もないとは言い切れませんよ? そうなればあなたも酷い目に遭うに決まってます」
チルノの肩が跳ね上がる。脅しの効果はてきめんである。流石は幻想郷における脅威の一人といったところだ。
「あの怖い人間を怒らせるのは死んでもごめんだわ。……分かったわよ、取材でも何でもすればいいわ」
それほどまでに巫女のことが怖いのか、先ほどまでの跳ねっ返りは完全になりを潜め、水色の髪を片手で梳きながら文のもとへ戻ってきた。
「で、あたいに訊きたいことってなによ?」チルノは怯えた犬のような目付きをしている。
「えぇ、最近めっきり寒くなりましたからね。少し事情を伺おうかと思いまして」
「ちょっと、それってどういう意味よぉ! 寒くなったのはあたいのせいってこと?!」
怒れるチルノはさっと顔を真っ赤に染めると猛然と食ってかかる。しかし当然そうなるだろうと予想していた文は飛び掛ってきた彼女を横へかわした。
「落ち着いてください。別にあなたが悪いなんて言ってません。何か知らないかと思って訊いただけですよ」
倒木へ顔面を強かに打ちつけたチルノが顔をさすっている横で、文はそう釈明する。釈明されている本人は痛い痛いと喚いていて、耳に届いているかは怪しいものであるが。
「さて、それでなんですが。最近の寒気について何か知ってませんか?」
「そんなの知らないわよ。あたいは寒い方が好きなんだもん。ずっとこのままでもいいくらいね」
チルノは赤くなった鼻に触れながら、倒木を忌々しげに蹴りつけてからそれに腰掛けた。
「寒いままは困りますね。寒いと私も飛びにくいですし、あまり寒いのは好きではありません」
「ていうか、もう冬なんだから寒くなるのは当たり前じゃない。異変でも何でもないじゃん」
「別に私も異変、とまでは思っていませんけど。例年通りに考えるとちょっと冬が近くなったような気がするんですよね」
文はそう言って身体を震わせた。上着は着ればいいが、頭が寒いのは如何ともしがたいところである。天狗の帽子だけでは冷たい風を防ぎきるのは難しい。いい機会なので冬用の新しい帽子でも買おうかと思う文である。
チルノは少しの間額に指を当てると、顔を上げて言った。
「気のせいじゃないの?」
「見も蓋もないですね」
「だってそうでしょ。冬が寒いのは当たり前だし、ちょっとくら早かったり遅かったりしたくらいで騒ぐことじゃないわよ」
チルノはそれ以上何も言う気はないらしく、自分で凍らせた湖面の上を滑り始めた。最初からそうして遊ぶために凍らせたのではないかと思わせる周到さである。最早何に対して怒っていたのかもすでに知る由はない。
文は再度倒木に腰掛けると足を組んだ。
どうにも腑に落ちない……いや、単純に違和感があった。何か重要なことに気付いていないような不安が胸の奥に燻っている。果たしてそれが本当に近頃の気温の変化についてなのかもよく分からなかったが、ある種の虫の知らせのような感じであった。
氷上を縦横無尽に滑走するチルノを眺めながらしばらく違和感の正体を探ってみたが、ついぞ判然とすることはなかった。文は諦めて何の気なしに文花帖を開く。これまでに書き溜めた大小様々な新聞のネタが徒然と書かれている。そこから何か新聞になりそうなネタを探していると、妙なことに気付いた。
「この手帳、古いやつを持ってきてしまったのかしら……?」
呟く文の頁をめくる速度が上がる。目線で書き連ねた手記を追い、ついに自身が最後に書き記した項を超えてしまった。まだその先は何も書いていないはずなのに、項を進めるごとに次々と現れる自分の文字。なおも頁は続く。
「何なの、これ……」
ついに頁は最終へと辿り着く。文は手の文花帖を今すぐにでも投げ出したい衝動に駆られたが、開かれた最後の頁に書かれた一行に心を奪われた。
『以上で、この幻想郷について私が記すべきことは全てである──』
それで文章は終わっていた。一冊の手記をしめる文句にしては言葉が大き過ぎる。試しに文花帖の背表紙を見てみたが、共に時を重ねた安心感があるだけで目を引く変化はなかった。
背中を冷たいものが伝い、文は身震いした。
幻想郷では不思議なことが起きるもの。そう思っているし、実際にそういった異変を多く見てきた。しかし、目の前に記された意味深長な文章は一体何だというのだろうか。これまで経験してきたどのような異変よりも気持ちの悪い異変だ。何度読み返しても紙上の文字は文本人の筆致であるし、書いてある内容は薄ら寒さを禁じえない。
世界を襲う大きな事象でなく個人を襲う小さな事象はなにぶん初めてと言っていい。こと世界の異変となれば動く者は大体決まっていて、嬉しいことに結果的に解決できると相場も決まっているのだが、個人の問題となれば自分で動く他あるまい。
まだ実害を被っていない段階でこれだけの不安を煽るというのは、いかに既知が安心を呼ぶのかを端的に表している。既知が良かれにしろ悪かれにしろ、自分の知識や経験をもとに行動するしかないのも道理であり、必然である。
文は迫る気味の悪さを無理繰り押し返して文花帖の頁を捲る。開いたのは今日の出来事がいくつか箇条書きにされている頁。そこに書いてある文章に目を走らせた。
その一番目にはチルノが凍った湖に落ちる旨が走り書されている。まさか、とは思うが自分で凍らせた湖に自分で落ちるなんことがあるのだろうか──と思った矢先、湖畔に黄色い悲鳴が響いた。
馬鹿な、と思うより早く身体が反応していた。膝に乗せた文花帖を放って立ち上がった文が氷上に目を向けると、ちょうど湖の中心に氷塊が見え、そのすぐ手前で水柱が上がっているのを見つけた。
まさか本当に自分で張った氷の隙間に落ちたのか、と思いながら文は地面を蹴って氷の隙間へ飛んだ。
ものの数秒で現場に降り立った文は、綺麗に人一人が縦に通り抜けられるくらいの穴からひっきりなしに上がる水柱に向けて叫ぶ。
「大丈夫ですか?! この手に掴まってくださいッ」
右手を身も凍るような冷水に突っ込んだ文は手探りでチルノを引っ掴むと、そのまま力任せに引き上げた。普段からあまり腕力を使うことがなかった文にとっては、たったこれだけでも半日分の体力を消費するほどの重労働である。
氷上に打ち上げられたチルノはかたかたと小刻みに身体を震わせながら独り言のように「死ぬー」と繰り返していた。生きていて何よりである。
一先ずチルノを湖畔へ引きずっていき、文は尋ねる。
「一体何事ですか? まぁ、大体事情は分かりますけど」
「それなら訊かないでよね。まさか氷が割れるなんて思わなかったんだから」
「自業自得ですね。あなたなら死ぬことはないと思いますが、万が一どざえもんにでもなられた日には私の寝覚めが悪くなるので」
そこまで辛く当たる必要もなかったのだが、その他に抱える不安が自然と文の言葉尻を強くしていた。
案の定、チルノは不貞腐れた様子でそっぽを向いてしまった。完全に怒らせたことは明白である。
こうなれば当初の予定通りに取材という訳にはいかない。文は予定を取り止めて他へ向かうことにした。正直を言えば新聞のネタ集めよりも、今は文花帖に書かれた事が実現したことへの気がかりの方がよっぽど大きかったから、というのも大きな理由である。未だに信じがたいことであるが、目の前で実現したことは事実なので、これについて少し検証してみる必要を文は感じたのである。
〆
次に文が向かったのは、魔法の森……いや、正確には森にある魔理沙の家である。
理由は簡単だ。文花帖に突如として書き込まれた未来の出来事を検証するために他ならない。
今日の頁の二行目には、魔理沙が研究に必要な書類を紅魔館の図書館から盗み出し……もとい、勝手に借りていき、後に騒ぎになる旨の書き込みがある。それを確かめにいくのだ。
霧の湖の真南に広がる魔法の森の上空をいっきに飛び越え、僅か五分ほどで魔理沙の自宅へ到着した文は玄関前に降り立つなり乱暴に戸を叩いた。
文がこの場所を訪れるのは久しいことである。彼女とは日常的に空の上で出会うことが多く、二、三言交わしてそのまま別れるのがほとんであるし、自宅までやってくる用事も滅多にないので必然的に足も遠退く訳である。
彼女の性格を考えるとストレートに「あなたこれから図書館へ盗みに入るつもりですよね」と訊けば「いかにもその通りだぜ」と返しそうなものだ。
とは思ってみたものの、肝心要の彼女の反応がない。留守なのかと思い、文がもう一度戸を叩こうと戸に近付いたと同時、木戸が建付けの悪そうな音を立てて勢いよく開いた。
「あ、おはようございます。射命丸です」
顔面に迫る戸の角をひょいと避け、文は奥から緩慢な動作で現れた魔理沙に笑いかけた。
「何だ、新聞屋じゃないか。こんな時間に何か用か?」
文からすれば、こんな時間にまだそんな起き抜けの顔をしている彼女の方が何事かと言わざるを得ないのであるが、彼女に関しては今更何を言わんやだ。
本来流麗であるはずの金髪は、寝癖でぼさぼさになり、黒いパジャマは半分脱げている。何たる姿かと文は呆れた。乙女がそのような格好で云々と高説をたれてやりたいところだが、生憎今はそんな余分な些事に時間を割いている時間的猶予も精神的猶予もない。
「こんな時間じゃないですよ。もうすぐお昼になろうかとしてるんですよ」
「あー? そうか、もうそんな時間か。今日はちょっと、出かける予定があるんだったっけな」
はだけた胸元から手を突っ込んで、脇のあたりをぼりぼりと掻きながら、魔理沙は夢見半分の目で口にした。
出かける予定がある、の部分に文は素早く反応した。これから文が確認しようとしていることのとっかかりになりそうな言葉だったからだ。
「あのぅ、つかぬことを尋ねますけど。今日の予定って何です?」
「あん? 大したことじゃないぜ。ちょっとパチュリーんとこに本を借りにいこうと思ってるだけだ。それが何か関係あるのか?」
やはりそうなのか。文は心中で確信した。
文花帖に自分が書いた(と思しき)事柄とまたも一致しそうなのである。次第に身体がそわそわしてくるのを感じた。
文は「さて、準備するか」と引き返そうとする魔理沙の肩をとっさに掴んでいた。
「ちょっと待ってください。邪魔は絶対にしませんから、私も同行していいですか」
「……はぁ? いきなりだな」
「邪魔はしないと誓います。お願いします」
文の鬼気迫る語気に押されて目を白黒させた魔理沙は流されるように首を縦に振った。
「(よし、これでまた確かめられる)」
「何だよ気持ち悪い奴だな。いきなりやって来たと思えば一人でニヤつきやがって」
「え、あぁ、すみません。どうぞお気になさらず、ははッ」
わざとらしい愛想笑いを浮かべる文に怪訝そうな目を向け、魔理沙は何やら独り言を呟きながら奥へ消えていった。
彼女の後姿が完全に見えなくなってから、文は大きく息を吐き出した。怪しまれてはネタの検証どころではない。確証を得るまでは慎重に行動すべきだろう。
さて、と文は文花帖を開く。彼女が準備を終えるまでの時間で今後の行動方針を定めてしまおうという腹積もりだ。場当たり的に行動してもいい結果は出ないのは自明なので、最低限当面の方針は決めておいた方が賢明である。
今日の日付で記されている記事は二つ。一つはすでに確認できたので、もう一つの記述である魔理沙の事件を追う必要がありそうだ。
幸いかどうかは分からないが、事件の当事者ないし容疑者は文自身と比較的友好的な人物ばかりなので何とか理屈をこねて側近から事件を見物することができそうである。
記事を追うのは可能であるとして、問題はどこまで確認した時点でその先を信じるか、という部分だ。多少強引な理屈をつければ、チルノの件はたまたま起こった事件だと言えなくもない。そして魔理沙の場合もパチュリーと双方合意の上で本を借りるだけなのかもしれない。まぁ、彼女の場合は過去にも前科が多いので人間的に信頼するかと訊かれれば即答しかねる点は否めないのだが。
兎にも角にも、確かめてみるしかない、というのが、魔理沙が身支度を終えて「ほら、行くぞ」と出てくるまでの二十分ほどの思案の結果であった。確かに、やってみなければ分からない。
そしてもう一つ、今日の分が記述通りになった場合、文は自分の文花帖を信じてみようと決めた。
「おい、ぼけっとするな。置いてくぜ」
行動するとなると早い彼女である。見ればすでに愛用の箒に跨り、屋根の高さに浮いていた。
「あぁ、待ってくださいッ」
下から丸見えのドロワーズを追い越して飛び上がった文は「さ、行きましょうか」と、黒い服で身を包んだ魔法使いと共に紅魔館へ飛んだ。
〆
「最近急に寒くなりましたよね」
「ん? あぁ、そうかもな。私は最近家から出てなかったからあんまり気にしてなかったけど、こうして久しぶりに外に出てみると確かに少し寒い気がするな」
「私、寒いの苦手なんですよね。飛んでるともう堪りませんよ」
「それはお前、私だって寒いのと寒くないのじゃ寒くない方がいいに決まってるぜ」
「うーん、まぁやっぱりそうですよね」
と、このような不毛な会話を投げ合いながら二人は寒空を突っ切って霧の湖へやって来た。文にとっては来た道を途中まで戻った形になり、当然ながら本日二度目の訪問である。湖畔の様子に別段変わった様子はない。先ほどチルノが落ちた穴もそのままに、ただ彼女自身の姿がなくなっているだけだ。
「おいおい何だこりゃ。湖が凍ってるぜ。今日ってそんなに寒かったのか」
湖面を見た魔理沙が、箒の上で大袈裟なほど身体を仰け反らせて驚いた。そんな訳はないだろう、と即座にツッコみたい文であったがこれも不毛な会話になりそうだと悟って無言を返した。
何も言わなかったことをどう受け取ったのか知らないが、箒の向きを変えた魔理沙は、ふよふよと凍った湖見物を始めるべく予定のコースを外れていく。好奇心やら興味がたくましいのは結構なことだが、目的を前にして余所見をするのは大変いただけない。
文は湖畔を周回しようとする魔理沙の前に回りこむと、やんわりと口を開いた。
「あのぅ、図書館に行くのではないのですか? 湖が凍っているなんてさほど珍しい光景じゃないですよ」
「まぁ……確かにそうか。湖は帰りにでも見物していくか」
思いのほかあっさりと言うことに従ったので、文は軽い肩透かしを食らった気分である。残念なことに物分りのいい知り合いはあまり多くない。魔理沙を筆頭に、付き合い方には神経を使うことが多い。
改めて軌道を紅魔館へ修正し、しばし飛ぶと湖のほぼ中心に城と館の中間のような建造物がそびえている。何十年前、何百年前からそこに建っているのか。その外見からは容易に想像させない幽玄さと確かな存在感を放つその館の名は紅魔館といった。
「相変わらず馬鹿みたいにでかい家だぜ」魔理沙が呟く。
彼女の言うとおり、この馬鹿みたいに大きな建物は主であるレミリア・スカーレットの自宅以外の何物でもなく、広い館で侍女や同居人と共に暮らしている訳である。
二人は正門を迂回して、そのまま林に囲まれた裏手へと進んでいく。ちょうど木々の頭ほどの高さを飛べば周囲をぐるりと湖が臨めるという素晴らしい立地条件。文は思わず住んでみたいと思ったが、冷静に考えると自分がこの館で暮らす様を想像してすぐに思い改めた。分相応が一番である。
館の裏手で着陸し、二人は屋内へ入っていく。
そして、しばらく歩いたところで、
「そう言えば、魔理沙さん」
「あー? 何だよ」
「他人様のお宅にお邪魔するのに、たまたま鍵の開いていたテラスから侵入するっていうのはいかがなもんでしょうか」
文は先頭を切ってずんずんと歩を進める魔理沙に尋ねた。まさに勝手知ったる何とやらである。自分の家の如く躊躇いが感じられないのが何よりも恐ろしい。人並み外れた度胸なのか単に常識がないのか。後ろからそわそわしながらついていく文はさながら黒子のようである。
「大丈夫、私はいつもこうやって入ってるんだから、いつもと違う方が変ってもんだぜ」
「これって空き巣って言いません?」
「家人がいるんだから空き巣じゃないさ」
言いながら魔理沙と文は階段を下り、仄暗い通路を奥へ。経年による落ち着いた色味の赤い絨毯を踏みながら進むと、通路の突き当たりを頑丈そうな木戸が塞いでいた。
「ここ、ですか……?」
魔理沙は答えずに両手を戸に当てると「よっと」と気合を込めて木戸を押し開いた。
途端に向こう側の空気が漏れ、埃とカビの臭いを運んだ。文は反射的に口と鼻を手で覆い、出そうになったくしゃみを堪えた。お世辞にも衛生的とは言えない空間である。
「さて……と」
慣れているらしい魔理沙は、文の様子など気にもせず地下図書室へ足を踏み入れる。文も続いて進むと、魔法の灯りで照らされた薄暗い室内に並べられた数百数千にも及ぶ蔵書の山が眼界を埋め尽くした。
相も変わらず節操のない図書室だ。歴史に関する書物に始まり魔法の学術書、伝記やら怪しいからくり図鑑など、方向性の定まらない蒐集家のようなラインナップである。文も何度かこの場所を訪れているが、家主の目を気にせずに一冊一冊手にとって眺めるのは初めての経験であった。
書棚の隙間を縫いながら本を眺めていると、奥のほうに他と比べて若干明かりが強い場所があるのが分かった。誘蛾の如く明かりのもとへ出てみると、整列する書棚に寄り添うように置かれた机があった。分厚い本が山積する机上には魔法のものと思われるスタンドが設置され、壁のランプと相まってその場所だけは読書に適した明るさを実現している。
「──あら、いらっしゃい。招待した覚えはないけど」
机に積まれた本の向こうから細い声がした。床に臥せている病人のように弱い声である。
「あ、そこにいらっしゃいましたかパチュリーさん」
突然かけられた声に、文は落ち着いた返事を返す。別段驚くような展開でもない。何しろここは彼女、パチュリー・ノーレッジの私室でもあるのだから。彼女がいるのは何ら不思議なことはない。
文は机を回り込み、当たり前のように読書に精を出しているパチュリーに「お邪魔しています」と一応の挨拶をする。魔理沙の差し金とはいえ勝手に入ったことへの気まずさがあったのである。
桜色の服にナイトキャップを被ったパチュリーは、視線で紙面をなぞりながら「何の用?」と短く問うた。
その質問は少しばかり答えづらい。文は二秒ほど考えてから、はっきりとした口調で言った。
「あのですね。あなたに少しお聞きしたいことがありまして。質問です」
「あなたが質問に来るのは珍しいことじゃないけど」
「今回は取材ではなく何と言いますか、個人的な事情なのですよ」
「……そう」
つい、とパチュリーが涅槃の目を本から外して文を見つめた。半分開いた目は眠そうにも見える。けれど彼女の瞳は睡眠を欲しているわけではなく、何か他のものを求めているかのように底が見えない。本ばかり読んでいる彼女の本当に欲しいものとは一体どのようなものなのか、文は視線を交わした数秒の内にそんなことを考えた。
パチュリーは目を本へ戻して読書を再開するかと思いきや、厚い本を静かに閉じると自分の背後に向けて「──咲夜」とよく通る声を発した。
彼女の背後には果てまで書棚が続いている。その並びを這っていった声はやがて細く消えていった。文は首を傾げる。彼女の呼び声に応えるべき館の侍女の姿はそこにはない。
しかし──
「お呼びですか、パチュリー様?」
唐突に流れた優雅な声は、背後から聞こえた。完全に背を見せていた文は、すっ転ぶ勢いで振り返る。
「……げ」
裏の裏ならぬ後ろの後ろをとられた文は、思わずそんな声を漏らした。対する白いメイド、十六夜咲夜は片方の眉を器用に下げると、
「げ、とは何ですか。まさかあなたまで魔理沙に加担していたとは思いませんでしたわ」
咲夜の横には、拗ねた表情をした魔理沙が腕を組んで立っていた。一体どういう状況だこれは、と文は首を捻る。
「わたしは盗みに入ったわけではありません。パチュリーさんに個人的な質問をしにきただけで──」
「売りやがったなこのッ」
とっさの判断で、知らぬ存ぜぬを決め込もうとする文へ飛び掛かる魔理沙を、咲夜は片手で制する。
「お二人の事情は知りませんが、当館に無断で侵入したことは、間違いありませんわ」
「私はただ、本を借りに来ただけだぜ」
「私はただ、質問をしに来ただけです」
頑として自分を正当化しようとする二人を一瞥した咲夜は、眉間を指で押さえながら「もう、結構です」と大きく息を吐いた。
気を取り直すように表情を引き締めた咲夜は、侍女然とした慇懃な動きで、パチュリーの傍へ寄る。
「それで、どのような御用でしょうか」
「少し休憩するわ。お茶を淹れてくれるかしら」
「場所はどういたしますか?」
「そうね……」
パチュリーは地面に視線を落として、しばし逡巡してから顔を上げた。
「たまには外の空気を吸いたいわ。テラスにしましょうか」
〆
「……寒いわ」
予想していたが、案の定、パチュリーは湯気を昇らせる紅茶のカップを大事そうに手で包みながら、そう言った。
文と魔理沙が入ってきたテラスでは、パチュリーとメイドの咲夜を交えて、四人のお茶会が催されていた。
寒風に曝されながら飲むお茶は、味がよく分からない。風は切るように冷たいし、テラスから望む湖はほぼ全面凍結という有様である。この状況で笑顔を浮かべながら楽しくお茶を飲めるわけがない。
「寒い寒いって言うから余計寒く感じるんだ。お前は普段から引き篭もっているんだから、たまには自然を堪能したほうがいいぜ」
お目当ての本を手に入れられなかった魔理沙は、自分の悪事を棚上げして、不機嫌そうに言い放つ。彼女自身は言うだけあって露骨に寒がっている様子はない。しかしカップを傾ける手が小刻みに震えているのを文は見逃さなかった。
「パチュリー様、やはり室内で改めましょう」
身体を丸めて寒さに耐えるパチュリーを見かねた咲夜が申し出たが、本人は魔理沙の言葉が引っかかったらしく、妙な意地を張って動こうとはしない。かれこれ三度目のやりとりだ。
二人が互いをどう思っているのかは判然としないものの、どちらに正義があるかは明白だと思う文である。文としては早く自分の話を切り出したいところであるが、気温も手伝い場の空気が凍ったままではどうにもペースを作りづらい。
「あのぅ」
文は色々と考えあぐねた結果、待っていても経験上埒があかないので、強引に切り出すことにする。三人の視線が一斉に自分へ集まり、緊張を覚えながらもつとつとと話を始めた。
「実は私の文花帖のことなんですけど」
背中から手帳を引き抜くと、今日の出来事が記された頁を開いてテーブルに置く。使い込んでごわごわになり風になびく頁をひょいと摘んで引き寄せた魔理沙は、前後の数頁をめくってから「何だよこりゃ」と顔をしかめた。
「ちょっと失礼します」
魔理沙がテーブルの上に投げ出した手帳を拾い、咲夜はパチュリーのもとへ持っていく。
「……自作自演かしら」
「にしては内容がくだらな過ぎますね」
二人は口々にそう言うと、魔理沙と同じように頁を二、三めくってから手帳をテーブルに置いた。
「今朝まではそんなこと書いていなかったのですよ。当然私自らが書いたわけではありません」
「つまり、自分で書いたことをまったく覚えていないということかしら」
パチュリーは半目を向けて、非難めいた口調で続ける。
「大方あれよ。また宴会にでも行って記憶が飛ぶまで呑んで、酩酊したまま書いたメモがたまたま現実と一致した、というところね」
「それはありません。昨晩の記憶はしっかり残っていますし、そもそも昨夜は宴会なんてなかったじゃないですか」
自分自身で信じていないとはいえ、頭から否定されるとカチンとくる。テーブルから身を乗り出すと、手帳の頁を指差して、
「いいですか。前提としてまず、この記述は私が書いたものではないということと、事実ここに書かれた出来事がすでに二件実現していることをもっと真剣にですね──」
「おいおいちょっと待ってくれ。二件ってのは私のことも含まれてるんだよな。だとしたら実現したのは最初のだけだぜ」
「何故です」
「私は結果的に何もしていないからな」
侵入罪を綺麗になかったことにして、しれっと口にした魔理沙は、冷たくなった紅茶に口をつけて、すぐに渋い顔をした。「新しいの淹れてくれ」
「しかし分からないぜ」魔理沙は、中身の残ったカップを咲夜へ突き出しながら言う。
「何だってお前はそんなにその走り書きのことが気になるんだ。仮に本当に知らない間に未来の出来事が書かれていたとして、別に気にするようなことじゃないと思うぜ」
「私はそこまで言いませんが、少なくとも現状で気を張る必要はないかと思いますわ」
滔々と湯気を上げるカップを魔理沙の前に置くと、咲夜も口を揃えた。
文は冷静さを取り戻すために着席し、目の前のカップに口をつけ、苦味ばかりが強調された紅茶で顔をしかめる。これはとても飲めたものではない。文も代わりを頼むことにした。
しかし、彼女たちの言うことも一理ある。
幻想郷において、常識の斜め上をいく摩訶不思議など珍しくもない。いちいち気に留めて悩むようでは、胃が蜂の巣になってもまだ足りないほどである。細事に気を取られるなというのはよくよく言い得た教訓ではあるかもしれない。そうだ、たしかに一理ある。
しかし、それが真理ではない。
馬鹿な妖精が穴に嵌ろうと、手癖の悪い魔法使いが窃盗を働こうが、文にしてみればどうでもいいことだ。文花帖の頁のその先に記された出来事も別段神経を尖らせて阻止しなければならない類の出来事ではない。ないのだが、手帳の最終頁、そこに書かれた一文が幻想郷の存在を直接揺るがすように文には読み取れた。もとより自分の字なのだから、書いた本人が何を考えてその一文を記したのかは想像できるというもの。普段の自分ならばあのような不安を煽る書き方はしないというのに。文は顎に手を当てて自己の思考にのめり込んだ。
ふいに、昔とある妖怪から聞いた言葉を思い出した。
「あのねぇ、偶然の出来事というのはそれ以前の出来事から生まれているのよ」彼女は確か、そう言っていた。
他にも、因果律とか難しいことを言っていたけれど、文の記憶に深く残ったのは、その台詞だけだった。
つまりどういうことか。細分化された無数の事象を大きく捉えれば、理屈はごくごく明白で、結果として捉えた出来事は偶発的に生まれたものではなく一刹那以上前の出来事が引き金になって生まれた、ということである。一言でまとめるなら『偶然なんてない』ということになるのだろうか。視点を変えて少し考えれば自明である、と文は思う。時の流れと共に変化する出来事の種が後々になって芽吹く。そういうことなのだろう。
けれど、だとしたら──
「ここに書かれた出来事が皆実現したら、最後には幻想郷がどうにかなってしまうんじゃないかと思うのですよ」
文は知れず、うわ言のようにそう口にしていた。意識を表に向けると、三人の白々しい視線が文を刺していた。
一瞬言葉に詰まったが、志を形にするように、文は深く息を吸い込んだ。
「まだまだ分からないことが沢山ありますけど、私はどうにもここに書かれたことが冗談には思えないんです」
だが、言葉が終わらないうちに固めるはずの想いは冷たい視線にいなされて、次第に弱くなっていく。言葉は尻窄みになり、文は一度上げた視線をゆっくりとテーブルに向けて落としていった。
「で、あなたはどうするつもり?」
「……え」
風に乗って届いたように自然な声であった。文が顔を上げると、今まで口を開かなかったパチュリーが真っ直ぐな目で問うていた。涅槃の目はそのままに、つい先ほどまで丸めていた身体は筋が通っている。普段の彼女からは想像だにしない姿である。その視線はどこか責めるようでもあり、同時に疑問を投げかけているようにも見える。
「それは……」
「あなたが何をしたいのかは分からないけれど、闇雲に動くのはどうかしら」
「それはそうですが。まだ私は──」
「あなたが動くことで、幻想郷に混乱が生まれるのなら、あなたは動くべきではないわよ」
パチュリーはぴしゃりと言い放つ。そして、それ以上何も言うことはないとでもいうように、続く言葉はなかった。
文は言葉に詰まって、中空に目をやった。相変わらず灰色の厚い雲が空を覆い、雪でも舞いそうな寒気を地上に押し留めている。上からの重圧というのはやはり心を重くする。物言わぬ自然だからこそ、見上げているだけで逆らう気概すら奪っていってしまう。
しかしどうだろう、彼女の言うことは真理であると言い切れるのだろうか。
行動することでリスクは生まれる。
何かを成すためには別の何かを失う。
少なくとも、実感できる程度には、世界のルールだろう。
だが、それがあることで踏み出せる最初の一歩はたしかに今、目の前にある気がするのだ。
文は眼前に広がっていた無数の道の一本が、鮮明に浮かび上がる幻を見た。
「確かに動くべきじゃないかもしれませんけど」
道が見えた。そう確信した文は、不思議な開放感と安堵感を胸に、続けた。
「私は私の思うように、信じるままに動きます」
言ってから、それが本当に自分の言葉なのかと疑問に思う。文はこれまでに、そんな言い方をしたことはなかった。いつでも事実を追いかけながら、斜にかまえていたような気がする。新聞を発行することで、無意識のうちにそういう冷めた自分を正当化しようとしていたのかもしれない。
でも、終わりにする時が来たのだろう。
きっかけはどんなことでもよかった。何かの拍子に自分が変われるのなら、そんな契機が巡ってきたのなら、文はこれまでの自分をかなぐり捨ててありのままに現実と向き合おうと思う。
のらりくらりと、最後の瞬間まで生きることは簡単だ。何の気負いも心配もなく時間を過ごすのなら誰にでもできる。けれどそれを良しとはしたくない。そう文は考える。こと、この件に関しては。
未体験の衝動は、安い使命感や正義感というよりも、ことの最後を見届けたい、胸に燻る得体の知れない不安を払拭したいという、潜在的な野心に根付いているだろうと思う。
想うほどに、衝動は確かな実体を持ち始め、文を突き動かす力に変わっていくのである。
「まぁ、それもいいわ。私は私で変わらない生活を送るわ。それにしても……」
文の言葉を反芻するように目を閉じていたパチュリーは、口端をほんの僅かに持ち上げると、
「あなたらしくもない言葉の使い方ね」
「そうですか?」
「そうよ。少なくとも私の知るあなたは、もっと露骨に本心を隠すもの」
あぁ、と文は感嘆した。自分よりも自分をよく知る人物というのはいるものなのだ、と。
「なるほど、そういえばそうでしたね」
文は口調を普段のものに改めると、にやりと笑った。不敵で底の見えない笑み、それこそが射命丸文であると誇るように。
「協力はしないわ。あなたは好きなように動けばいい」
「そうだな。私も手は貸さないぜ」
穏やかな顔を見せる二人を交互に見やり、咲夜も安心したような表情で目を閉じた。
〆
寒風吹きすさぶテラスで、文句を言いながらもひとしきり紅茶をご馳走になった文と魔理沙は、他愛もない世話話をしながら紅魔館を後にしていた。二人並んで飛んではいるが、特に目的地が定まっているわけではない。
「あー、くそぅ」
「何ですかいきなり」
「お前がよく分からない話をしてくれたおかげでパチュリーの奴から本を借りれなかったじゃないか」
魔理沙は箒に跨りながら文を睨む。
「それは私のせいじゃありません」
「邪魔しないって言ったはずだぜ」
「本を借りられなかったのはあなたが咲夜さんに捕まったのがいけないと思いますが」
そこで、文ははたと気がついた。
文花帖には、魔理沙が本を盗み出すと書いてあった。しかし、現実にはそのような出来事には至っていない。文が同行したことによって、記述と現実に誤差が生じたとも考えられる。これは、未来を改変してしまったことにならないだろうか。
もしや小さな誤差を重ねることで、やがて来るであろう大きな軋轢も回避することが可能かもしれない。そう文は思い至った。
「今から戻っても貸してくれないだろうし、急にやることがなくなっちまったぜ」
「……何故こちらを見ながら言うんでしょうか」
「別に、特に理由はないぜ」
文は怪訝な顔で「そうですか」と口の中で呟いて視線を前へ戻した。
ふいに風が吹いた。頬を撫でたそれは、一刹那の後には遥か後方へ置き去りにされ、次の刹那にはもう軌跡すら残さずに消えていった。
ただ一つ、風の運んできてくれた声だけを残して。
「──ぁ」
文はその時、確かに風の声を聞いた。
外へ出て身体を伸ばすと、これから一日を元気に過ごすぞ、という心を折らんと空っ風が吹き降ろした。反射的に身体を丸めて布団に潜り込みたくなる。
ここ数日で気温がすっかり落ち込んで、朝夕には夏が恋しく思えてくる。毎年恒例の不毛な考えだが、四季が春と秋だけになってはくれまいかと、毎年毎年懲りもせずに本気で望むわけである。
何もせずに立っていると寒風が辛い。動き続ければ寒さも忘れるに違いない、と気分を無理矢理前へ向ける。こうした日こそ面白い出来事が起こるかもしれない。団扇にカメラ、そして命の次に大切な手帳と、身支度が完了していることを確認した色味に乏しい少女、射命丸文は本日も面白おかしいネタを探して幻想郷の空へ舞い上がった。
季節は秋を過ぎ、すっかりと空から見下ろす情景も冬めいてきた。
ついこの間まで美しい紅を誇っていた山肌はうっすらと白み、春先から続く木々の勢いも目に見えて失速気味である。一年の間に繁栄と衰退を見るようで一抹の寂しさを感じるも、また時が経てば再び生命は力強く芽吹く。あらゆる生命世界の縮図の一端をそこに垣間見ることができる。
空は朝からどんよりと曇り、蓋をするかのように厚い雲が世界を閉じ込めている。鼻をひくつかせても埃の匂いはしてこないので雨の心配はいらないが、こう寒いとほんの僅かでも日の光が恋しくなるのは必然であることだろう。
眼下では一部ののん気者を除いて冬支度を始める様子が伺える。ぽつぽつと灯る明かりの下でせっせと動く妖怪や人間たちを見ていると、何だか微笑ましく思えてくるのが不思議だ。
「面白そうだし、ちょっと様子を見ていこうかしら」
予定は未定。モットーは地域密着。文の記者活動は常識に囚われない。
さて、そうと決まれば誰へ取材するかを考えなければならないのだが、これまでの経験上忙しそうにしている時に取材を頼んでも相手にされなかったり片手間に適当な返答があるだけで、正直ろくな記事にならない。地域に密着はしているが信頼とエンターテイメントがなければ読み物として面白みに欠ける故、文の目指す理想の『文々。新聞』には程遠い。
面白さとは何だろう。文は時々考える。
思うに、それは新鮮味。そして既知とのギャップだ。
読み手の知らないこと、己の知識を塗り替える行為、これが面白さになる。驚きと知識に満ち満ちた新聞、文はそんな新聞を作りたいと思う。
しかし破天荒なだけでは新聞足りえない。真実を伝える媒体である以上、主観で真実を歪めてはいけない。ありのままを面白おかしく読者に伝える。矛盾した二つの要素を絶妙なバランスの上で両立させる必要があるのである。ジャーナリズムとはかくも奥深いものか、と文はしみじみ思う。
「(うーん、皆さん忙しそうですねぇ……。誰か暇そうにしてないでしょうか)」
ゆっくりと高度を下げながら視線を巡らせていると、通りを何かに追われるように去っていく影を見つけた。この場を離れようとするならきっと取材くらい受けてくれるだろう。文は勝手にそう思い、湖へ向けて飛んでいく影を追いかけた。
ある程度距離が縮み、町から逃げていく影の正体が判然としたところで文は呼びかけた。
「おーい、ちょっと待ってくださいチルノさーん!」
呼ばれたチルノは振り向くと、眉間にシワを作って不機嫌そうに言った。
「何よ新聞屋じゃない。あたいは新聞なんて読まないって言ってるでしょ」
「いえいえ、今日は勧誘じゃありません。ちょっと取材させていただきたくて。それに──」
「何よ?」
「……いや、何でもありません」
文は「読まないのではなく読めないのでは」と口にしそうになって慌てて飲み込んだ。彼女は馬鹿にされることに対してどういう訳か非常に敏感なので、取材をお願いする際には気を遣わなければならない。
言葉を濁した文を見て、チルノは腕を組んだまま「取材ならお断りよ。あたい今忙しいのよッ」と言い放って再び湖の方へ飛んでいく。
「湖へ行くんですか?」
その背中を追いかけて、文は尋ねた。
「あんたには関係ないでしょ、ついて来ないで!」チルノは速度を増して文を引き離しにかかる。
しかし文とて伊達に幻想郷最速を名乗っているわけではない。チルノが加速したと確認するやいなや、彼女の加速を遥かに凌ぐ加速を以って文はチルノに並んだ。
「ちょっとちょっと! ついて来ないでっていったでしょ?!」
飛びながら器用に手足をバタつかせて苦言を呈するチルノに、文はあくまでも冷静に言葉を返す。
「まぁまぁ、そんなに邪険にしないでくださいよ。湖畔でゆっくりお話でもしませんか?」
「嫌だって言ってるじゃないの。少しは人の話を聞きなさいよぉ!」
「何をそんなに怒っているんです。気に入らないことは誰かに話した方が楽になりますよ」
こういう場面で正論を持ち出すのは卑怯なやり方だが、ネタのためには仕方がない。結果的に諭すような運びになったものの、こうでもしなければ天真爛漫でわがままな性格の彼女は頷かないだろう。
頭を抱えながらくるくると錐揉みしながら唸るチルノは、しばらく悩んだ挙句「分かったわよ。あたいの怒りを食らうといいわ」とぶっきらぼうに笑った。
〆
妖怪の山の麓に位置する霧の湖、周囲を背の高い針葉樹が囲む湖畔で文は手近な倒木に腰掛けて足を組んでいた。一方のチルノは宣言通りに何らかで溜め込んだ怒りを湖に向けて発散中である。
かれこれ二十分が経過しただろうか。そろそろ湖の水面がすべて氷に変わろうかというタイミングで文はため息をついた。この様子では取材などするよりも日が暮れる方が早い気がする。いつものことながら適当に暴れればすぐに気も晴れるとたかをを括っていたのだが、どうやら今回は面倒であることに気付くのが遅すぎた。
「(──まぁったく。頼んでおいて何ですが、私も暇ではないんですけどねぇ)」
文は頬杖をつきながら内心毒づく。見ている限り埒が明きそうにもない。文は気合を入れるようにぽんッと膝を打って立ち上がった。
「そろそろいいですか? それ以上やったら来年の夏まで融けなくなっちゃいますよ」
その声に振り返ったチルノは欲求不満そうにむくれると「別にいいじゃない。あたいは困らないもん」
「他の妖怪いや妖精たちが困ってしまいますよ。滑って遊んでいられるのもせいぜい春まででしょうしね。飽きがくれば文句言われてしまいますよ?」
「ふん、そんなのが怖くっていたずらなんてやってられないわよ」
どこまでも自分本位な彼女に、文はやれやれと肩をすくめる。妖精などそんなもんだと言ってしまえばそこまでだが、ここまでわがままだと少々手に余ってしまうのもまた事実であったりする。
「まさかとは思いますけど、湖の氷が融けないと異変だと騒がれる可能性もないとは言い切れませんよ? そうなればあなたも酷い目に遭うに決まってます」
チルノの肩が跳ね上がる。脅しの効果はてきめんである。流石は幻想郷における脅威の一人といったところだ。
「あの怖い人間を怒らせるのは死んでもごめんだわ。……分かったわよ、取材でも何でもすればいいわ」
それほどまでに巫女のことが怖いのか、先ほどまでの跳ねっ返りは完全になりを潜め、水色の髪を片手で梳きながら文のもとへ戻ってきた。
「で、あたいに訊きたいことってなによ?」チルノは怯えた犬のような目付きをしている。
「えぇ、最近めっきり寒くなりましたからね。少し事情を伺おうかと思いまして」
「ちょっと、それってどういう意味よぉ! 寒くなったのはあたいのせいってこと?!」
怒れるチルノはさっと顔を真っ赤に染めると猛然と食ってかかる。しかし当然そうなるだろうと予想していた文は飛び掛ってきた彼女を横へかわした。
「落ち着いてください。別にあなたが悪いなんて言ってません。何か知らないかと思って訊いただけですよ」
倒木へ顔面を強かに打ちつけたチルノが顔をさすっている横で、文はそう釈明する。釈明されている本人は痛い痛いと喚いていて、耳に届いているかは怪しいものであるが。
「さて、それでなんですが。最近の寒気について何か知ってませんか?」
「そんなの知らないわよ。あたいは寒い方が好きなんだもん。ずっとこのままでもいいくらいね」
チルノは赤くなった鼻に触れながら、倒木を忌々しげに蹴りつけてからそれに腰掛けた。
「寒いままは困りますね。寒いと私も飛びにくいですし、あまり寒いのは好きではありません」
「ていうか、もう冬なんだから寒くなるのは当たり前じゃない。異変でも何でもないじゃん」
「別に私も異変、とまでは思っていませんけど。例年通りに考えるとちょっと冬が近くなったような気がするんですよね」
文はそう言って身体を震わせた。上着は着ればいいが、頭が寒いのは如何ともしがたいところである。天狗の帽子だけでは冷たい風を防ぎきるのは難しい。いい機会なので冬用の新しい帽子でも買おうかと思う文である。
チルノは少しの間額に指を当てると、顔を上げて言った。
「気のせいじゃないの?」
「見も蓋もないですね」
「だってそうでしょ。冬が寒いのは当たり前だし、ちょっとくら早かったり遅かったりしたくらいで騒ぐことじゃないわよ」
チルノはそれ以上何も言う気はないらしく、自分で凍らせた湖面の上を滑り始めた。最初からそうして遊ぶために凍らせたのではないかと思わせる周到さである。最早何に対して怒っていたのかもすでに知る由はない。
文は再度倒木に腰掛けると足を組んだ。
どうにも腑に落ちない……いや、単純に違和感があった。何か重要なことに気付いていないような不安が胸の奥に燻っている。果たしてそれが本当に近頃の気温の変化についてなのかもよく分からなかったが、ある種の虫の知らせのような感じであった。
氷上を縦横無尽に滑走するチルノを眺めながらしばらく違和感の正体を探ってみたが、ついぞ判然とすることはなかった。文は諦めて何の気なしに文花帖を開く。これまでに書き溜めた大小様々な新聞のネタが徒然と書かれている。そこから何か新聞になりそうなネタを探していると、妙なことに気付いた。
「この手帳、古いやつを持ってきてしまったのかしら……?」
呟く文の頁をめくる速度が上がる。目線で書き連ねた手記を追い、ついに自身が最後に書き記した項を超えてしまった。まだその先は何も書いていないはずなのに、項を進めるごとに次々と現れる自分の文字。なおも頁は続く。
「何なの、これ……」
ついに頁は最終へと辿り着く。文は手の文花帖を今すぐにでも投げ出したい衝動に駆られたが、開かれた最後の頁に書かれた一行に心を奪われた。
『以上で、この幻想郷について私が記すべきことは全てである──』
それで文章は終わっていた。一冊の手記をしめる文句にしては言葉が大き過ぎる。試しに文花帖の背表紙を見てみたが、共に時を重ねた安心感があるだけで目を引く変化はなかった。
背中を冷たいものが伝い、文は身震いした。
幻想郷では不思議なことが起きるもの。そう思っているし、実際にそういった異変を多く見てきた。しかし、目の前に記された意味深長な文章は一体何だというのだろうか。これまで経験してきたどのような異変よりも気持ちの悪い異変だ。何度読み返しても紙上の文字は文本人の筆致であるし、書いてある内容は薄ら寒さを禁じえない。
世界を襲う大きな事象でなく個人を襲う小さな事象はなにぶん初めてと言っていい。こと世界の異変となれば動く者は大体決まっていて、嬉しいことに結果的に解決できると相場も決まっているのだが、個人の問題となれば自分で動く他あるまい。
まだ実害を被っていない段階でこれだけの不安を煽るというのは、いかに既知が安心を呼ぶのかを端的に表している。既知が良かれにしろ悪かれにしろ、自分の知識や経験をもとに行動するしかないのも道理であり、必然である。
文は迫る気味の悪さを無理繰り押し返して文花帖の頁を捲る。開いたのは今日の出来事がいくつか箇条書きにされている頁。そこに書いてある文章に目を走らせた。
その一番目にはチルノが凍った湖に落ちる旨が走り書されている。まさか、とは思うが自分で凍らせた湖に自分で落ちるなんことがあるのだろうか──と思った矢先、湖畔に黄色い悲鳴が響いた。
馬鹿な、と思うより早く身体が反応していた。膝に乗せた文花帖を放って立ち上がった文が氷上に目を向けると、ちょうど湖の中心に氷塊が見え、そのすぐ手前で水柱が上がっているのを見つけた。
まさか本当に自分で張った氷の隙間に落ちたのか、と思いながら文は地面を蹴って氷の隙間へ飛んだ。
ものの数秒で現場に降り立った文は、綺麗に人一人が縦に通り抜けられるくらいの穴からひっきりなしに上がる水柱に向けて叫ぶ。
「大丈夫ですか?! この手に掴まってくださいッ」
右手を身も凍るような冷水に突っ込んだ文は手探りでチルノを引っ掴むと、そのまま力任せに引き上げた。普段からあまり腕力を使うことがなかった文にとっては、たったこれだけでも半日分の体力を消費するほどの重労働である。
氷上に打ち上げられたチルノはかたかたと小刻みに身体を震わせながら独り言のように「死ぬー」と繰り返していた。生きていて何よりである。
一先ずチルノを湖畔へ引きずっていき、文は尋ねる。
「一体何事ですか? まぁ、大体事情は分かりますけど」
「それなら訊かないでよね。まさか氷が割れるなんて思わなかったんだから」
「自業自得ですね。あなたなら死ぬことはないと思いますが、万が一どざえもんにでもなられた日には私の寝覚めが悪くなるので」
そこまで辛く当たる必要もなかったのだが、その他に抱える不安が自然と文の言葉尻を強くしていた。
案の定、チルノは不貞腐れた様子でそっぽを向いてしまった。完全に怒らせたことは明白である。
こうなれば当初の予定通りに取材という訳にはいかない。文は予定を取り止めて他へ向かうことにした。正直を言えば新聞のネタ集めよりも、今は文花帖に書かれた事が実現したことへの気がかりの方がよっぽど大きかったから、というのも大きな理由である。未だに信じがたいことであるが、目の前で実現したことは事実なので、これについて少し検証してみる必要を文は感じたのである。
〆
次に文が向かったのは、魔法の森……いや、正確には森にある魔理沙の家である。
理由は簡単だ。文花帖に突如として書き込まれた未来の出来事を検証するために他ならない。
今日の頁の二行目には、魔理沙が研究に必要な書類を紅魔館の図書館から盗み出し……もとい、勝手に借りていき、後に騒ぎになる旨の書き込みがある。それを確かめにいくのだ。
霧の湖の真南に広がる魔法の森の上空をいっきに飛び越え、僅か五分ほどで魔理沙の自宅へ到着した文は玄関前に降り立つなり乱暴に戸を叩いた。
文がこの場所を訪れるのは久しいことである。彼女とは日常的に空の上で出会うことが多く、二、三言交わしてそのまま別れるのがほとんであるし、自宅までやってくる用事も滅多にないので必然的に足も遠退く訳である。
彼女の性格を考えるとストレートに「あなたこれから図書館へ盗みに入るつもりですよね」と訊けば「いかにもその通りだぜ」と返しそうなものだ。
とは思ってみたものの、肝心要の彼女の反応がない。留守なのかと思い、文がもう一度戸を叩こうと戸に近付いたと同時、木戸が建付けの悪そうな音を立てて勢いよく開いた。
「あ、おはようございます。射命丸です」
顔面に迫る戸の角をひょいと避け、文は奥から緩慢な動作で現れた魔理沙に笑いかけた。
「何だ、新聞屋じゃないか。こんな時間に何か用か?」
文からすれば、こんな時間にまだそんな起き抜けの顔をしている彼女の方が何事かと言わざるを得ないのであるが、彼女に関しては今更何を言わんやだ。
本来流麗であるはずの金髪は、寝癖でぼさぼさになり、黒いパジャマは半分脱げている。何たる姿かと文は呆れた。乙女がそのような格好で云々と高説をたれてやりたいところだが、生憎今はそんな余分な些事に時間を割いている時間的猶予も精神的猶予もない。
「こんな時間じゃないですよ。もうすぐお昼になろうかとしてるんですよ」
「あー? そうか、もうそんな時間か。今日はちょっと、出かける予定があるんだったっけな」
はだけた胸元から手を突っ込んで、脇のあたりをぼりぼりと掻きながら、魔理沙は夢見半分の目で口にした。
出かける予定がある、の部分に文は素早く反応した。これから文が確認しようとしていることのとっかかりになりそうな言葉だったからだ。
「あのぅ、つかぬことを尋ねますけど。今日の予定って何です?」
「あん? 大したことじゃないぜ。ちょっとパチュリーんとこに本を借りにいこうと思ってるだけだ。それが何か関係あるのか?」
やはりそうなのか。文は心中で確信した。
文花帖に自分が書いた(と思しき)事柄とまたも一致しそうなのである。次第に身体がそわそわしてくるのを感じた。
文は「さて、準備するか」と引き返そうとする魔理沙の肩をとっさに掴んでいた。
「ちょっと待ってください。邪魔は絶対にしませんから、私も同行していいですか」
「……はぁ? いきなりだな」
「邪魔はしないと誓います。お願いします」
文の鬼気迫る語気に押されて目を白黒させた魔理沙は流されるように首を縦に振った。
「(よし、これでまた確かめられる)」
「何だよ気持ち悪い奴だな。いきなりやって来たと思えば一人でニヤつきやがって」
「え、あぁ、すみません。どうぞお気になさらず、ははッ」
わざとらしい愛想笑いを浮かべる文に怪訝そうな目を向け、魔理沙は何やら独り言を呟きながら奥へ消えていった。
彼女の後姿が完全に見えなくなってから、文は大きく息を吐き出した。怪しまれてはネタの検証どころではない。確証を得るまでは慎重に行動すべきだろう。
さて、と文は文花帖を開く。彼女が準備を終えるまでの時間で今後の行動方針を定めてしまおうという腹積もりだ。場当たり的に行動してもいい結果は出ないのは自明なので、最低限当面の方針は決めておいた方が賢明である。
今日の日付で記されている記事は二つ。一つはすでに確認できたので、もう一つの記述である魔理沙の事件を追う必要がありそうだ。
幸いかどうかは分からないが、事件の当事者ないし容疑者は文自身と比較的友好的な人物ばかりなので何とか理屈をこねて側近から事件を見物することができそうである。
記事を追うのは可能であるとして、問題はどこまで確認した時点でその先を信じるか、という部分だ。多少強引な理屈をつければ、チルノの件はたまたま起こった事件だと言えなくもない。そして魔理沙の場合もパチュリーと双方合意の上で本を借りるだけなのかもしれない。まぁ、彼女の場合は過去にも前科が多いので人間的に信頼するかと訊かれれば即答しかねる点は否めないのだが。
兎にも角にも、確かめてみるしかない、というのが、魔理沙が身支度を終えて「ほら、行くぞ」と出てくるまでの二十分ほどの思案の結果であった。確かに、やってみなければ分からない。
そしてもう一つ、今日の分が記述通りになった場合、文は自分の文花帖を信じてみようと決めた。
「おい、ぼけっとするな。置いてくぜ」
行動するとなると早い彼女である。見ればすでに愛用の箒に跨り、屋根の高さに浮いていた。
「あぁ、待ってくださいッ」
下から丸見えのドロワーズを追い越して飛び上がった文は「さ、行きましょうか」と、黒い服で身を包んだ魔法使いと共に紅魔館へ飛んだ。
〆
「最近急に寒くなりましたよね」
「ん? あぁ、そうかもな。私は最近家から出てなかったからあんまり気にしてなかったけど、こうして久しぶりに外に出てみると確かに少し寒い気がするな」
「私、寒いの苦手なんですよね。飛んでるともう堪りませんよ」
「それはお前、私だって寒いのと寒くないのじゃ寒くない方がいいに決まってるぜ」
「うーん、まぁやっぱりそうですよね」
と、このような不毛な会話を投げ合いながら二人は寒空を突っ切って霧の湖へやって来た。文にとっては来た道を途中まで戻った形になり、当然ながら本日二度目の訪問である。湖畔の様子に別段変わった様子はない。先ほどチルノが落ちた穴もそのままに、ただ彼女自身の姿がなくなっているだけだ。
「おいおい何だこりゃ。湖が凍ってるぜ。今日ってそんなに寒かったのか」
湖面を見た魔理沙が、箒の上で大袈裟なほど身体を仰け反らせて驚いた。そんな訳はないだろう、と即座にツッコみたい文であったがこれも不毛な会話になりそうだと悟って無言を返した。
何も言わなかったことをどう受け取ったのか知らないが、箒の向きを変えた魔理沙は、ふよふよと凍った湖見物を始めるべく予定のコースを外れていく。好奇心やら興味がたくましいのは結構なことだが、目的を前にして余所見をするのは大変いただけない。
文は湖畔を周回しようとする魔理沙の前に回りこむと、やんわりと口を開いた。
「あのぅ、図書館に行くのではないのですか? 湖が凍っているなんてさほど珍しい光景じゃないですよ」
「まぁ……確かにそうか。湖は帰りにでも見物していくか」
思いのほかあっさりと言うことに従ったので、文は軽い肩透かしを食らった気分である。残念なことに物分りのいい知り合いはあまり多くない。魔理沙を筆頭に、付き合い方には神経を使うことが多い。
改めて軌道を紅魔館へ修正し、しばし飛ぶと湖のほぼ中心に城と館の中間のような建造物がそびえている。何十年前、何百年前からそこに建っているのか。その外見からは容易に想像させない幽玄さと確かな存在感を放つその館の名は紅魔館といった。
「相変わらず馬鹿みたいにでかい家だぜ」魔理沙が呟く。
彼女の言うとおり、この馬鹿みたいに大きな建物は主であるレミリア・スカーレットの自宅以外の何物でもなく、広い館で侍女や同居人と共に暮らしている訳である。
二人は正門を迂回して、そのまま林に囲まれた裏手へと進んでいく。ちょうど木々の頭ほどの高さを飛べば周囲をぐるりと湖が臨めるという素晴らしい立地条件。文は思わず住んでみたいと思ったが、冷静に考えると自分がこの館で暮らす様を想像してすぐに思い改めた。分相応が一番である。
館の裏手で着陸し、二人は屋内へ入っていく。
そして、しばらく歩いたところで、
「そう言えば、魔理沙さん」
「あー? 何だよ」
「他人様のお宅にお邪魔するのに、たまたま鍵の開いていたテラスから侵入するっていうのはいかがなもんでしょうか」
文は先頭を切ってずんずんと歩を進める魔理沙に尋ねた。まさに勝手知ったる何とやらである。自分の家の如く躊躇いが感じられないのが何よりも恐ろしい。人並み外れた度胸なのか単に常識がないのか。後ろからそわそわしながらついていく文はさながら黒子のようである。
「大丈夫、私はいつもこうやって入ってるんだから、いつもと違う方が変ってもんだぜ」
「これって空き巣って言いません?」
「家人がいるんだから空き巣じゃないさ」
言いながら魔理沙と文は階段を下り、仄暗い通路を奥へ。経年による落ち着いた色味の赤い絨毯を踏みながら進むと、通路の突き当たりを頑丈そうな木戸が塞いでいた。
「ここ、ですか……?」
魔理沙は答えずに両手を戸に当てると「よっと」と気合を込めて木戸を押し開いた。
途端に向こう側の空気が漏れ、埃とカビの臭いを運んだ。文は反射的に口と鼻を手で覆い、出そうになったくしゃみを堪えた。お世辞にも衛生的とは言えない空間である。
「さて……と」
慣れているらしい魔理沙は、文の様子など気にもせず地下図書室へ足を踏み入れる。文も続いて進むと、魔法の灯りで照らされた薄暗い室内に並べられた数百数千にも及ぶ蔵書の山が眼界を埋め尽くした。
相も変わらず節操のない図書室だ。歴史に関する書物に始まり魔法の学術書、伝記やら怪しいからくり図鑑など、方向性の定まらない蒐集家のようなラインナップである。文も何度かこの場所を訪れているが、家主の目を気にせずに一冊一冊手にとって眺めるのは初めての経験であった。
書棚の隙間を縫いながら本を眺めていると、奥のほうに他と比べて若干明かりが強い場所があるのが分かった。誘蛾の如く明かりのもとへ出てみると、整列する書棚に寄り添うように置かれた机があった。分厚い本が山積する机上には魔法のものと思われるスタンドが設置され、壁のランプと相まってその場所だけは読書に適した明るさを実現している。
「──あら、いらっしゃい。招待した覚えはないけど」
机に積まれた本の向こうから細い声がした。床に臥せている病人のように弱い声である。
「あ、そこにいらっしゃいましたかパチュリーさん」
突然かけられた声に、文は落ち着いた返事を返す。別段驚くような展開でもない。何しろここは彼女、パチュリー・ノーレッジの私室でもあるのだから。彼女がいるのは何ら不思議なことはない。
文は机を回り込み、当たり前のように読書に精を出しているパチュリーに「お邪魔しています」と一応の挨拶をする。魔理沙の差し金とはいえ勝手に入ったことへの気まずさがあったのである。
桜色の服にナイトキャップを被ったパチュリーは、視線で紙面をなぞりながら「何の用?」と短く問うた。
その質問は少しばかり答えづらい。文は二秒ほど考えてから、はっきりとした口調で言った。
「あのですね。あなたに少しお聞きしたいことがありまして。質問です」
「あなたが質問に来るのは珍しいことじゃないけど」
「今回は取材ではなく何と言いますか、個人的な事情なのですよ」
「……そう」
つい、とパチュリーが涅槃の目を本から外して文を見つめた。半分開いた目は眠そうにも見える。けれど彼女の瞳は睡眠を欲しているわけではなく、何か他のものを求めているかのように底が見えない。本ばかり読んでいる彼女の本当に欲しいものとは一体どのようなものなのか、文は視線を交わした数秒の内にそんなことを考えた。
パチュリーは目を本へ戻して読書を再開するかと思いきや、厚い本を静かに閉じると自分の背後に向けて「──咲夜」とよく通る声を発した。
彼女の背後には果てまで書棚が続いている。その並びを這っていった声はやがて細く消えていった。文は首を傾げる。彼女の呼び声に応えるべき館の侍女の姿はそこにはない。
しかし──
「お呼びですか、パチュリー様?」
唐突に流れた優雅な声は、背後から聞こえた。完全に背を見せていた文は、すっ転ぶ勢いで振り返る。
「……げ」
裏の裏ならぬ後ろの後ろをとられた文は、思わずそんな声を漏らした。対する白いメイド、十六夜咲夜は片方の眉を器用に下げると、
「げ、とは何ですか。まさかあなたまで魔理沙に加担していたとは思いませんでしたわ」
咲夜の横には、拗ねた表情をした魔理沙が腕を組んで立っていた。一体どういう状況だこれは、と文は首を捻る。
「わたしは盗みに入ったわけではありません。パチュリーさんに個人的な質問をしにきただけで──」
「売りやがったなこのッ」
とっさの判断で、知らぬ存ぜぬを決め込もうとする文へ飛び掛かる魔理沙を、咲夜は片手で制する。
「お二人の事情は知りませんが、当館に無断で侵入したことは、間違いありませんわ」
「私はただ、本を借りに来ただけだぜ」
「私はただ、質問をしに来ただけです」
頑として自分を正当化しようとする二人を一瞥した咲夜は、眉間を指で押さえながら「もう、結構です」と大きく息を吐いた。
気を取り直すように表情を引き締めた咲夜は、侍女然とした慇懃な動きで、パチュリーの傍へ寄る。
「それで、どのような御用でしょうか」
「少し休憩するわ。お茶を淹れてくれるかしら」
「場所はどういたしますか?」
「そうね……」
パチュリーは地面に視線を落として、しばし逡巡してから顔を上げた。
「たまには外の空気を吸いたいわ。テラスにしましょうか」
〆
「……寒いわ」
予想していたが、案の定、パチュリーは湯気を昇らせる紅茶のカップを大事そうに手で包みながら、そう言った。
文と魔理沙が入ってきたテラスでは、パチュリーとメイドの咲夜を交えて、四人のお茶会が催されていた。
寒風に曝されながら飲むお茶は、味がよく分からない。風は切るように冷たいし、テラスから望む湖はほぼ全面凍結という有様である。この状況で笑顔を浮かべながら楽しくお茶を飲めるわけがない。
「寒い寒いって言うから余計寒く感じるんだ。お前は普段から引き篭もっているんだから、たまには自然を堪能したほうがいいぜ」
お目当ての本を手に入れられなかった魔理沙は、自分の悪事を棚上げして、不機嫌そうに言い放つ。彼女自身は言うだけあって露骨に寒がっている様子はない。しかしカップを傾ける手が小刻みに震えているのを文は見逃さなかった。
「パチュリー様、やはり室内で改めましょう」
身体を丸めて寒さに耐えるパチュリーを見かねた咲夜が申し出たが、本人は魔理沙の言葉が引っかかったらしく、妙な意地を張って動こうとはしない。かれこれ三度目のやりとりだ。
二人が互いをどう思っているのかは判然としないものの、どちらに正義があるかは明白だと思う文である。文としては早く自分の話を切り出したいところであるが、気温も手伝い場の空気が凍ったままではどうにもペースを作りづらい。
「あのぅ」
文は色々と考えあぐねた結果、待っていても経験上埒があかないので、強引に切り出すことにする。三人の視線が一斉に自分へ集まり、緊張を覚えながらもつとつとと話を始めた。
「実は私の文花帖のことなんですけど」
背中から手帳を引き抜くと、今日の出来事が記された頁を開いてテーブルに置く。使い込んでごわごわになり風になびく頁をひょいと摘んで引き寄せた魔理沙は、前後の数頁をめくってから「何だよこりゃ」と顔をしかめた。
「ちょっと失礼します」
魔理沙がテーブルの上に投げ出した手帳を拾い、咲夜はパチュリーのもとへ持っていく。
「……自作自演かしら」
「にしては内容がくだらな過ぎますね」
二人は口々にそう言うと、魔理沙と同じように頁を二、三めくってから手帳をテーブルに置いた。
「今朝まではそんなこと書いていなかったのですよ。当然私自らが書いたわけではありません」
「つまり、自分で書いたことをまったく覚えていないということかしら」
パチュリーは半目を向けて、非難めいた口調で続ける。
「大方あれよ。また宴会にでも行って記憶が飛ぶまで呑んで、酩酊したまま書いたメモがたまたま現実と一致した、というところね」
「それはありません。昨晩の記憶はしっかり残っていますし、そもそも昨夜は宴会なんてなかったじゃないですか」
自分自身で信じていないとはいえ、頭から否定されるとカチンとくる。テーブルから身を乗り出すと、手帳の頁を指差して、
「いいですか。前提としてまず、この記述は私が書いたものではないということと、事実ここに書かれた出来事がすでに二件実現していることをもっと真剣にですね──」
「おいおいちょっと待ってくれ。二件ってのは私のことも含まれてるんだよな。だとしたら実現したのは最初のだけだぜ」
「何故です」
「私は結果的に何もしていないからな」
侵入罪を綺麗になかったことにして、しれっと口にした魔理沙は、冷たくなった紅茶に口をつけて、すぐに渋い顔をした。「新しいの淹れてくれ」
「しかし分からないぜ」魔理沙は、中身の残ったカップを咲夜へ突き出しながら言う。
「何だってお前はそんなにその走り書きのことが気になるんだ。仮に本当に知らない間に未来の出来事が書かれていたとして、別に気にするようなことじゃないと思うぜ」
「私はそこまで言いませんが、少なくとも現状で気を張る必要はないかと思いますわ」
滔々と湯気を上げるカップを魔理沙の前に置くと、咲夜も口を揃えた。
文は冷静さを取り戻すために着席し、目の前のカップに口をつけ、苦味ばかりが強調された紅茶で顔をしかめる。これはとても飲めたものではない。文も代わりを頼むことにした。
しかし、彼女たちの言うことも一理ある。
幻想郷において、常識の斜め上をいく摩訶不思議など珍しくもない。いちいち気に留めて悩むようでは、胃が蜂の巣になってもまだ足りないほどである。細事に気を取られるなというのはよくよく言い得た教訓ではあるかもしれない。そうだ、たしかに一理ある。
しかし、それが真理ではない。
馬鹿な妖精が穴に嵌ろうと、手癖の悪い魔法使いが窃盗を働こうが、文にしてみればどうでもいいことだ。文花帖の頁のその先に記された出来事も別段神経を尖らせて阻止しなければならない類の出来事ではない。ないのだが、手帳の最終頁、そこに書かれた一文が幻想郷の存在を直接揺るがすように文には読み取れた。もとより自分の字なのだから、書いた本人が何を考えてその一文を記したのかは想像できるというもの。普段の自分ならばあのような不安を煽る書き方はしないというのに。文は顎に手を当てて自己の思考にのめり込んだ。
ふいに、昔とある妖怪から聞いた言葉を思い出した。
「あのねぇ、偶然の出来事というのはそれ以前の出来事から生まれているのよ」彼女は確か、そう言っていた。
他にも、因果律とか難しいことを言っていたけれど、文の記憶に深く残ったのは、その台詞だけだった。
つまりどういうことか。細分化された無数の事象を大きく捉えれば、理屈はごくごく明白で、結果として捉えた出来事は偶発的に生まれたものではなく一刹那以上前の出来事が引き金になって生まれた、ということである。一言でまとめるなら『偶然なんてない』ということになるのだろうか。視点を変えて少し考えれば自明である、と文は思う。時の流れと共に変化する出来事の種が後々になって芽吹く。そういうことなのだろう。
けれど、だとしたら──
「ここに書かれた出来事が皆実現したら、最後には幻想郷がどうにかなってしまうんじゃないかと思うのですよ」
文は知れず、うわ言のようにそう口にしていた。意識を表に向けると、三人の白々しい視線が文を刺していた。
一瞬言葉に詰まったが、志を形にするように、文は深く息を吸い込んだ。
「まだまだ分からないことが沢山ありますけど、私はどうにもここに書かれたことが冗談には思えないんです」
だが、言葉が終わらないうちに固めるはずの想いは冷たい視線にいなされて、次第に弱くなっていく。言葉は尻窄みになり、文は一度上げた視線をゆっくりとテーブルに向けて落としていった。
「で、あなたはどうするつもり?」
「……え」
風に乗って届いたように自然な声であった。文が顔を上げると、今まで口を開かなかったパチュリーが真っ直ぐな目で問うていた。涅槃の目はそのままに、つい先ほどまで丸めていた身体は筋が通っている。普段の彼女からは想像だにしない姿である。その視線はどこか責めるようでもあり、同時に疑問を投げかけているようにも見える。
「それは……」
「あなたが何をしたいのかは分からないけれど、闇雲に動くのはどうかしら」
「それはそうですが。まだ私は──」
「あなたが動くことで、幻想郷に混乱が生まれるのなら、あなたは動くべきではないわよ」
パチュリーはぴしゃりと言い放つ。そして、それ以上何も言うことはないとでもいうように、続く言葉はなかった。
文は言葉に詰まって、中空に目をやった。相変わらず灰色の厚い雲が空を覆い、雪でも舞いそうな寒気を地上に押し留めている。上からの重圧というのはやはり心を重くする。物言わぬ自然だからこそ、見上げているだけで逆らう気概すら奪っていってしまう。
しかしどうだろう、彼女の言うことは真理であると言い切れるのだろうか。
行動することでリスクは生まれる。
何かを成すためには別の何かを失う。
少なくとも、実感できる程度には、世界のルールだろう。
だが、それがあることで踏み出せる最初の一歩はたしかに今、目の前にある気がするのだ。
文は眼前に広がっていた無数の道の一本が、鮮明に浮かび上がる幻を見た。
「確かに動くべきじゃないかもしれませんけど」
道が見えた。そう確信した文は、不思議な開放感と安堵感を胸に、続けた。
「私は私の思うように、信じるままに動きます」
言ってから、それが本当に自分の言葉なのかと疑問に思う。文はこれまでに、そんな言い方をしたことはなかった。いつでも事実を追いかけながら、斜にかまえていたような気がする。新聞を発行することで、無意識のうちにそういう冷めた自分を正当化しようとしていたのかもしれない。
でも、終わりにする時が来たのだろう。
きっかけはどんなことでもよかった。何かの拍子に自分が変われるのなら、そんな契機が巡ってきたのなら、文はこれまでの自分をかなぐり捨ててありのままに現実と向き合おうと思う。
のらりくらりと、最後の瞬間まで生きることは簡単だ。何の気負いも心配もなく時間を過ごすのなら誰にでもできる。けれどそれを良しとはしたくない。そう文は考える。こと、この件に関しては。
未体験の衝動は、安い使命感や正義感というよりも、ことの最後を見届けたい、胸に燻る得体の知れない不安を払拭したいという、潜在的な野心に根付いているだろうと思う。
想うほどに、衝動は確かな実体を持ち始め、文を突き動かす力に変わっていくのである。
「まぁ、それもいいわ。私は私で変わらない生活を送るわ。それにしても……」
文の言葉を反芻するように目を閉じていたパチュリーは、口端をほんの僅かに持ち上げると、
「あなたらしくもない言葉の使い方ね」
「そうですか?」
「そうよ。少なくとも私の知るあなたは、もっと露骨に本心を隠すもの」
あぁ、と文は感嘆した。自分よりも自分をよく知る人物というのはいるものなのだ、と。
「なるほど、そういえばそうでしたね」
文は口調を普段のものに改めると、にやりと笑った。不敵で底の見えない笑み、それこそが射命丸文であると誇るように。
「協力はしないわ。あなたは好きなように動けばいい」
「そうだな。私も手は貸さないぜ」
穏やかな顔を見せる二人を交互に見やり、咲夜も安心したような表情で目を閉じた。
〆
寒風吹きすさぶテラスで、文句を言いながらもひとしきり紅茶をご馳走になった文と魔理沙は、他愛もない世話話をしながら紅魔館を後にしていた。二人並んで飛んではいるが、特に目的地が定まっているわけではない。
「あー、くそぅ」
「何ですかいきなり」
「お前がよく分からない話をしてくれたおかげでパチュリーの奴から本を借りれなかったじゃないか」
魔理沙は箒に跨りながら文を睨む。
「それは私のせいじゃありません」
「邪魔しないって言ったはずだぜ」
「本を借りられなかったのはあなたが咲夜さんに捕まったのがいけないと思いますが」
そこで、文ははたと気がついた。
文花帖には、魔理沙が本を盗み出すと書いてあった。しかし、現実にはそのような出来事には至っていない。文が同行したことによって、記述と現実に誤差が生じたとも考えられる。これは、未来を改変してしまったことにならないだろうか。
もしや小さな誤差を重ねることで、やがて来るであろう大きな軋轢も回避することが可能かもしれない。そう文は思い至った。
「今から戻っても貸してくれないだろうし、急にやることがなくなっちまったぜ」
「……何故こちらを見ながら言うんでしょうか」
「別に、特に理由はないぜ」
文は怪訝な顔で「そうですか」と口の中で呟いて視線を前へ戻した。
ふいに風が吹いた。頬を撫でたそれは、一刹那の後には遥か後方へ置き去りにされ、次の刹那にはもう軌跡すら残さずに消えていった。
ただ一つ、風の運んできてくれた声だけを残して。
「──ぁ」
文はその時、確かに風の声を聞いた。
ただ、続き物とはいえ、山もオチもないまま終わってしまった印象。
そしてもうひとつ、自身の作品であったとしても、転載はまずいのでは?(規約)