地底の大妖怪、地霊殿が主、古明地さとりと言えば地底においてその名を知らぬ者はいない。しかし、その一介の覚り妖怪であるところの彼女がまったくの盲目である事を知るのは、浄玻璃の鏡を持つ姉の上司である四季映姫様、そして地霊殿においても実妹である私のみだ。
彼女は一見すれば、盲目であるようにはとても見えない。事実を知る私でさえ、時々、彼女が盲目である事を疑う。全部嘘で、本当は見えている癖にそう言って私をからかっているのではないかと思わせるくらい、その所作は隅々まで世間一般のそれと大差ない。だから地霊殿に住むペットにだって、長くに渡って秘匿していられるのだろう。
それが成し得るのはひとつに訓練の為だろうし、ふたつにあまり外出しない性分の為だろうし、みっつにその能力の為だろう。第三の眼が視力の代わりを果たしていると言っても良い。
おかしな話だ。
彼女が盲目になったのは能力の所為だと言うのに、その能力の為に盲目を隠し通せているという奇妙な事実。
とにかく、私のお姉ちゃんは目が見えないし、それを知るのは地霊殿では私だけだ。
盲目日和
「おかえり」
ぎぃ、とドアを開ければ、小さく柔らかい声が私を出迎える。そうすると、その都度、言い様のない気味悪さと安堵感が同居した、変な心持ちがするのだった。
私は無意識を操る筈。お姉ちゃんだって例外ではないし、私が意識的に働きかけを行わない限り、この存在が先に認識される筈はない。ドアを開ける音は聞こえてない(正確には、聞こえているけど意識出来ない)筈だし、ドアから姿を覗かせる私は見えていない(正確に言えば略)筈だというのに、お姉ちゃんはいつも私より先に挨拶をくれる。
なんで判っちゃうのよ。おかしいわ。私の能力が効かないの?
そんな風に問いつめてみた事があった。最後まで、ちんぷんかんぷんでとんちんかんな返事しか返ってこなかったけど。
――そりゃあだって貴方、私は眼が見えませんもの。
「ただいま。おっかしいなぁ、なんで判るんだろ」
私は脱いだ帽子をテーブルに置いて、ゆったり大きいソファの、お姉ちゃんの隣に腰掛けた。お姉ちゃんは煙管をくわえてぷかぷかやりながら、じっと本を見つめている。見えない筈なのに、読んでいるふりだろうか?
「こいしの能力は、正確には無意識を操る能力ではないからですよ」
「え、私の事全否定? 泣いちゃうぞ」
「貴方は無意識に関するいくつかの項目について、思い通り施行する事が出来る。例えば他者の夢に潜り込む事や、その姿を相手の無意識の領域に移して存在を感知されなくする事。違いますか」
「だから総称して無意識を操る能力で良いじゃない」
「まぁ、そうですね」
「なによぅ、何が言いたいのかわかんない」
「突き詰めて言えば、五感のキャンセルでしょう」
「そうだよ」
相手の視界に入ったとしても、その視覚情報が思考中枢に辿り着く事はない。だから私を認識できない。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、全部私の手の内だ。故に、私の能力の前ではすべての意識が無価値になる。
だからその総称で無意識を操る程度の能力でいいじゃん。
「つまり、初めから見えていない私は、少なくとも視覚において貴方の能力の対象外なのです」
「だとしても一緒じゃん。見えてないんでしょ」
「見えてないからこそ、視えるものもあります」
「何それ、意味わかんない」
「つまりお姉ちゃんすごいぞ!」
「すごいぞ! なでなで」
「わぁい」
お姉ちゃんは、二百年前だか三百年だか前に、その視力を失った。失うべくして失った。それは私が第三の眼を閉じたのと同じ理由、いや、あるいはまったく逆の理由か。
私が、ひとの心というものから逃げたくてみっつめの瞳を閉じたのなら、お姉ちゃんは、ひとの心というものと真っ直ぐ向き合う為に、その両眼を閉じたのだった。私が恐れから逃げるなら、このひとは恐れに向き合った。それは強さではなくて、もっと小さな、愛とも呼べるような、温かなものなのだろう。
お姉ちゃんは優しい。見ていてため息が出るくらいに、優しい。そうしてその優しさは、あまりも不器用すぎて、ほとんど誰にも気付かれない。それを歯がゆく思うと同時に、私は否応なく気付かされた。
誰かを想うという事は、そういう事なのだと。誰にも気付かれず曖昧に、誰にも悟られず茫洋と、誰にも理解されず漠然に、誰にも知られずに淡々と、包み込むようにゆるりと覆う薄い膜となる。それこそが優しさで、気遣いなのだ。見返りも報酬も利益も求めず、当たり前の事を当たり前に行うように。
お姉ちゃんはすぐに情を移してしまう。困っているひとがいたら放っておけないお人好し。だから地霊殿は保健所みたいな形相になってしまった。行き場も生き場も逝き場もない動物、妖怪たちの、唯一の拠り所。それが地霊殿の実際だ。
そうしてすぐ、愛してしまう。どんなペットも等しく全員、お姉ちゃんは心の底から愛している。だからこんな口下手で不器用で弱っちいお姉ちゃんを、地霊殿に住むみんなは大好きで、誰より慕っているのだ。
お姉ちゃんは、誰より、どんな覚り妖怪より、心そのものを愛している。
それにしても、と辺りをぐるっと見回した。煙のにおいが充満して、むわっとした空気が部屋中で沈殿している。
「何平然と吸ってるわけ」
「えっ」
「たばこやめなさいって言ったでしょ」
「ストレス社会に生きる貴方へ、ニコチンから愛を込めて」
「そんな有害な愛情はヤンデレで充分だよ」
「吸いたいのです、吸いたいのです。後生ですから」
「小さくても、火は危ないよ。すぐ火傷してたじゃん」
「今は昔の話です」
「そりゃ今は慣れたものかもしれないけどさ。こうなるまでに何度指を炙ったんだか」
「私は過去を振り返らない女なのです」
「なんで吸っちゃうわけ? 身体に悪いんだってば。百害あって一利なしって言葉知らない?」
「すとれす……」
ストレスまみれの中間管理職と話をしても無駄だと思い、諦めた。所詮私はぷー太郎。お姉ちゃんの稼いだお金から小遣いをもらって遊んでいる私に、お仕事の辛さなど判らないし、強く言える権利もないのである。南無三。
「ところでさ、どうして本を開いてるの? 読んでるふり?」
ぱっと見、随分歴史を感じる古書のようだった。私の指先から肘くらいまでの大きさがあり、ずっしりと厚みがある。書いてる文字はインクが滲んでいたり霞んでいたりして読める状態ではないし、そも、印字がはっきりしていても読めないような知らない言語らしかった。
読んでいるふりにしてはご大層なものだ。
「私でも読める本なのですよ。というか、私にしか読めない」
首を傾げた。点字があるわけでもないし、まずお姉ちゃんは点字をあんまり覚えてない。お姉ちゃんによれば、「別に必要ありませんから」、らしい。思考を読む時はいつもそれらは文字として浮かんでくるらしい。だから眼は見えなくとも文字は毎日見ている、と。
実はその辺のところは覚り妖怪の中でも個人差があって、私が心を読めた頃はすべてイメージで流れ込んできていたのだ。その所為で私が幼い頃は、絵を描くのが上手だったけれど文字を覚えるのがなかなか遅くて、教えるのに難儀したものだ――なんてお姉ちゃんから聞かされたり。
うむ。脱線した。
「これはね、こいし。心の残留した本なのです」
「何それ」
「さぁ、なんなんでしょうね」
「おいおい」
肩すかしの返答にため息をついた。
「なんらかの魔法か呪いか、はたまた何かの霊が乗り移っているのか、判りませんけども。とにかくこれは、まさに文字通り心の籠もった本なのです。色々な方面から、こういった本を見つけてはなんとかお願いして譲ってもらうのです、毎回。部屋にある本は全部そうですよ」
「心の籠もった本、」
「えぇ。それはもうやたらめったに、話しかけてくるのですよ。本に書いてある通りなのか、全然関係ない話をしているのか、私には確かめようもありませんけど。とにかく、私はこういった本を読むのが好きなのです。まっさらな心がそこにあるから」
お姉ちゃんの言葉は、夢の中で響く声のように甘い調子を持っていた。
第三の眼を閉じた私に、その楽しみは判らない。その本がお姉ちゃんの言う通り、本当に心を保存してあるのかさえ判らない。私からすれば、読めない本を眺めているようにしか見えないのだから。
もやもやと、ぐらぐらと、鈍い鉤爪が私の心のどこかを引っ掻いた。
「素敵な事だね」
思いついたままに呟いた。それに満足したように、お姉ちゃんは深く微笑んだ。
そう、素敵だ。そこに私はいないけれど。
「全部共有出来たら、良いのに」
ぼろり、ぼろぼろ。
言葉が無意識から剥がれ落ちた。
「そしたら私の見た綺麗なものだってお姉ちゃんに見せられるしさ、お姉ちゃんに聞こえる素敵な声だって、私は聞く事が出来るのにね」
どうしてこの身体は分離しているのだろう? 私にはお姉ちゃんが必要で、お姉ちゃんには私が必要な筈なのに。お互いが必要としているのに、どうしてひとつじゃないのだろう。
「こいし?」
見せたいものがたくさんあるんだ。見せなくちゃいけないものがたくさんある。お姉ちゃんが見た事のない、そして一生見る事の出来ない、素晴らしい景色を私は幾らでも知っている。
だけどどうやって伝えたら良い? 言葉がどれだけの意味を持つだろう? くすんだ地底の空の深さと、かすれた地上の空の青さも言葉に出来ない私に、一体何が伝えられる?
このひとは何も知らない。視力を無くしたあの日からどれだけの月日が流れて、その月日が私を変えた事も。私の見える世界とこのひとの見えた世界が如何に変わってしまったか、何も知らないのだ。
――こいしは童顔ですね。いやいや、可愛いと言っているのです。こいしは、べっぴんさんですよー。もっと大きくなったら、さぞ美人さんになるでしょうね。お姉ちゃんがそう言うから、間違いないのです。うんうん。笑った顔も泣いた顔も怒った顔も、嬉しい顔も悲しい顔も楽しい顔も苦しい顔も、全部まるごと可愛くてしょうがないのですよ。貴方が大きくなったら、どんな子になるのでしょうねぇ。
私はもう大きくなったのよ。お化粧を勉強した。服も自分で選んで、靴なんて特注なのよ。髪だってねぇ、寝癖じゃないんだから。あんまり地霊殿にはいないけど、毎日ちゃんとセットしてるし、他にも、さぁ。大きくなって、こんな子になったのよ。
なのに、どうして私が見えないの?
どうして「可愛くなったね」って言ってくれないの? お姉ちゃんにただ一言、そう言って欲しくて、私は。
心も読めない、姿も見えない、そんな貴方の世界に私はいるの?
私はまだ貴方の妹?
貴方の世界に私の席は残ってる?
「こいし。少し立ってみせて」
「いいけど、なに」
私が立つと、同じようにお姉ちゃんも立ち上がった。ゆるり、眼の前にお姉ちゃんの顔がある。そのみっつの眼はぼんやりと私を捉えているけれど、結局『ぼんやりと』でしかない。
手が煙管から私の頭へと伸びる。
「もうほとんど変わりませんね」
「何が」
「背」
「あぁ、うん。私はお姉ちゃんと違って、よく食べてよく寝るからね。すぐ追い越しちゃうよ」
その返事に、お姉ちゃんはちょっと面食らったような顔をして、
「……そうかぁ、うん、抜かしちゃう日が来るのかぁ」
しみじみ、そう呟いた。独り言なのだろう。少し俯き、自分の顎と唇と触って、緩く微笑みながら。
「急に、どうしたの」
「大きくなったなぁ、って、思いまして。こいしらしくない事を言うものだから」
「私らしくない? 何か言ったっけ」
「さっき。全部共有出来たらいいのに、なんて言ったじゃないですか」
身長はもうほとんど変わらない。今はまだ少しだけ高い位置にあるお姉ちゃんの眼は、遠い昔を見ていた。はにかむように笑って。
「あんなに、私と同じものを見るのを嫌がっていた貴方なのに」
「同じもの、」
「だからこれを閉じたんでしょう?」
私の第三の眼をつついて、そう言った。はにかむような微笑みのまま。
「お姉ちゃんはやっぱり、これ、開いて欲しいと思ってる?」
「えぇ、前までは」
ソファに座り直して、背もたれにくたっと身体を預けてしまった姿勢で、お姉ちゃんは言う。ぽすぽすと隣を叩くから、そのまま私も隣に座り直した。
「眼も見えて、心も読めた頃はね。いつになったらこいしが第三の眼を開いて、覚り妖怪に戻ってくれるんだろうって、そればかり考えましたよ。今の貴方は大分落ち着いていますけれど、色々な事が煩雑で滅茶苦茶な時期もありましたし。姉としては気が気じゃありませんよ、まったくね。貴方が何か得体の知れないものにしか見えなかったんですよ。私にとって心が読めない事は、それくらい重い意味を孕んでいたんですね。今まで理解していると思っていた貴方がいなくなって、急にまったくの別人に変わってしまったように見えた。それが怖かった」
「今は?」
「今の私の視界には誰もいない。心を読んでも、そこに貴方はいませんね」
いないの?
私はもういない?
「でも声は聞こえるし。隣にいるのも判る。見えなくても読めなくても、それくらい判る。貴方が大きくなったんだなぁって、それも判る。見えなくても読めなくても、判る事はたくさんあるし、見えても読めても、判らない事はたくさんある。この視力を失ってから、そう思うようになったんですよ。そして私が見たくて読みたかったものは、本当はなんだったのか、もう一度考えてみました。結局、私が見たかったのは貴方そのもので、私が読みたかったのは貴方の心でした。でもそれは、今でも『見える』し、『読める』よね?」
私はまだ貴方の世界にいるって、そう思っていい?
「見たくないものがあるなら、無理に見る必要なんかありませんよ。読みたくないものがあるなら、無理に読む必要なんかありませんよ。貴方がまだ見たくない、読みたくないものなら、まだその時ではないのでしょう。だから私の為とか、そんな理由で悩まないで下さい。貴方がまたいずれ、遠い未来か近い未来か、誰かの心に触れたいと思えたらその時は、よく考えて。それでも良いと思えたら、その眼を開いて下さい」
煙管をくわえて、煙をふかして。もわもわと浮かぶ煙が、このひとのにおい。しみついて、こびりついて。好きじゃないのに好き。きらいだけど、すき。
「なんてね。今の私が出せる精一杯の答えは、結局それくらいなんですよ」
充分だよ、と言いたくて、なのに声が出ない。言葉にしたら一緒に涙も出て来てしまいそう。悲しい訳じゃなくて、嬉しいから。
嬉しい時にも涙が出るんだって、私はどれくらい長い事忘れていたんだろう。
それでも搾り出して、別の言葉を必死で紡いだ。
「私、お姉ちゃんに何が出来るかな」
「見返りを求める程度の安い愛など持ち合わせていないのです、えっへん。……でも、そうね、」
右腕がにゅっと伸びて来て、私の右肩を掴んだ。引き寄せられて、頭と頭が軽く当たる。
「私がおかえりを言ったら、ただいまって言いながら頬にキスしてくれたら、最高ね」
つぎから、そうする。
声はもう、かすれて震えて、言葉にならなかった。
わざと間違えて唇にすっごいちゅーしてやるから、覚えてろよ。ばぁか。
だいすきだ。
おわり
可愛くなったわ、ね。うん。とても素敵でした。
どちらにしても、閉じたまぶたの裏に誰かの影がうつるという事は、この姉妹にとって幸いな事だと思います。
素晴らしかったです
視覚でも第三の眼でも、こいしを見ることができないって、中々面白い設定。
でも、だからこそ、もっと深いところで感じることができるんだなあと思うと、いいなあ。
残留心というのも印象深いです。
>キスしてきれたら→くれたらですかね
だいすきだ、ってちんぷなはずのことばがここまで響いてやばい
あんたのさとこいだいすきだ
気持ちが穏やかに嬉しく高ぶるという……
ただそれ以上の幸せが全てを包んで、何とも言えない気持ちにさせられる。
これだから貴方の話はやめられない。
独自設定だけなら後ろ向きなのに、中身はこんなに暖かいなんて・・・。
本当にいいお話でした。
面白いアプローチでした。あとこいしちゃんかわいい。
甘すぎて溶けそうです 素敵でした
心も姿も見えないなんて
それでもやっぱりこの姉妹は幸せなんだなあって…
そんな距離感大好きです