第七夜
こんな本を読んだ。
どうやら小舟に乗っている。軽い木でできたもので、私は艫の側で座していた。ところがここからは殆ど何も見えない。どちらを向いても薄い靄が遠くにかかっている。けれども川だということだけは解った。ただ両岸も行き先も見えない。
進んでるのか停まってるのか、景色からは判然としなかったけれども、船縁から覗けば水面に線状の波紋が立ち、流れていた。どうやら進んではいるようだ。
私の他には誰も乗っていない。舳先で櫂を取っている、大きな身体をした赤髪の女だけだ。風光も絶景もなければ繁盛するわけがないがないだろう。交通の益のない場所なら尚更だ。
船漕ぎに運賃はいるかと訊くと「いるよ」と云う。それなら閑古鳥ばかり乗せていても仕様がないと思う。こんな辺鄙な処では稼ぐのもままならないだろう、という旨のことを伝えた。鼻歌の似合う声で船漕ぎはこう答えた。
「銭が稼げないからって何がどうなるわけでもないし、別段困ったりはしないよ。お客がいないとヒマには違いないけどね。それに今はアンタがいるじゃないか」
確かにその通りだと思った。女が人間でないことも大体分かった。しかし――欲こそなさそうだけれども――金銭を稼ごうとする妖怪というものを私は初めて見た。
「渡し賃はアンタ次第。渋らなければいくらでも。どうせこの先使い用途(みち)はないだろうから、全部出してくれても困らないだろうよ」
私は生憎と貨幣の類を持っていない。私以外にも価値を見出せるものというならば、懐の本くらいだろう。しかし人間が金銭を払うようなものかといえば甚だ疑わしく、何より私自身、手放す気になれなかった。
素直に一文無しだと船漕ぎに話すと「いや、アンタの懐に銅貨が入ってるだろう。そいつで払ってくれればいいさ」と云った。
そんな貨幣を持った記憶はなかった。しかし船漕ぎは「いや、あるはずだよ。あたいはアンタを聞いてるから」と云う。疑心のまま探ると、確かに五枚の銅貨があった。それでこの船漕ぎが死神だということにも気付いた。仕事をしている死神に会うのは初めてのことだった。
私は舳先の方へ寄った。舟は少しばかり左右に触れて、手中の銅貨がかちゃりと鳴った。船体の軋みもあった。死神は櫂を繰っているのだと思っていたが、それにしてはどうも持ち手が細い。私はいつの間に死んだのだろうと思いながら、元々金銭に対する価値観もなかったために銅貨五枚を死神に手渡した。手を移るときにもそれは金属らしい音を立てた。私たちの声を除けば、此岸と彼岸の境界では貴重らしかった。死神は「確かに」と、櫂を引き上げた。なるほど、大鎌だ。如何にも死神といった風情はいつか読んだ本の通りだった。紅魔館の地下図書館、702番の棚にあったはずだ。タイトルは何だったか……。
「じゃあ、そうだね。向こうに着く前にアンタの話を聞かせてもらおうか」死神は船首の段差に腰を下ろすと、大鎌を肩に立てかけてそう云った。刃の切先から雫が、一滴、二滴と落ちた。向こうとは何処のことだろうか。そもそもこの舟は進んでいたのだろうか。私は急に寂しくなった心地がした。「アンタのは銅銭はいい銅銭だから愉しみだよ」なのに死神は子供のように微笑んでいる。「死ぬ前に色々とあっただろ? 何でもいいから話を聞きたいんだ。時間だけは使い切れないから安心しな」
そうは云っても何を話せばいいか、私には分からない。死ぬ前も何も、私はいつ自分が死んだのか、その理由も状況も憶えてはいない。本のタイトルさえ忘れてしまった。
「それこそ何でもいいんだ。知らない人生の話はそれだけで面白いんだから。思いつかないのなら知人のことでもいいさ。親しかった友人たちがいるだろう? どんなやつらだったか、聞きたいね」
なるほど、彼女たちの話ならばできそうだった。紅魔館で共に生きた五人の友人たちだ。先ず美鈴が浮かんだ。私は不思議なほど饒舌に語り続けた。語る内に靄の向こうに霞んでいた日が落ちていき、やがて夜の暗さになった。
「もう、辺りも見えないね。今日はこのくらいにしようか。明日はまた、次の人の話を聞かせておくれ」死神のこの言葉で、舟が渡し場へ着いていたことを知った。ここで降りるのかと訊くと「いや、アンタはまだだよ」と答えた。けれども何かが降りたらしく、舟が僅かに傾いた。見えない乗客でもいたらしかった。その乗客に死神は銅貨を渡した。あれは確か、私の払ったものである。見えている銅貨だけが渡し場から去っていった。舟は岸を離れ、やがて渡し場も靄の中へと消えていった。
私と死神は舟の上で眠った。
目を醒ますとどうやら小舟に乗っているようだった。軽い木でできたもので、私は艫の側で臥していた。起き上がれば、しかし何処なのかも分からなかった。どちらを向いても薄い靄が遠くにかかっている。けれども川だということだけは解った。ただ両岸も行き先も見えない。
船首には大鎌を担いだ赤髪の女が座っている。この女の顔を見ると何故だか寂しくなった。そしてその寂寥で私は女が死神であることを思い出した。
「あたいが分かるかい」
分かると答えると死神は「じゃあ、昨日の続きをしようか。今日は誰の話だい?」と云った。それで私も昨日のことを大方思い出した。向こう側へ着くまでの時間に、紅魔館で共に生きた四人の友人のことを話すのだった。先ず咲夜が浮かんだ。私は不思議なほど饒舌に語り続けた。しかし舌は動くには違いないが、違和感もまた付き纏った。咲夜を語るには何か不足している、どうにも誰かが足りない気がする。私は時折閊えたが、死神は微笑んだままだった。語る内に靄の向こうに霞んでいた日が落ちていき、やがて夜の暗さになった。
「もう、辺りも見えないね。今日はこのくらいにしようか。明日はまた、次の人の話を聞かせておくれ」死神のこの言葉で、舟が渡し場へ着いていたことを知った。多分、私はここでは降りないだろう、そして舟の上で眠るのだろう。そういう気がした。代わりに何かが降りたらしく、舟が僅かに傾いた。見えない乗客でもいたらしかった。その乗客に死神は銅貨を渡した。あれは確か、私の払ったものである。見えている銅貨だけが渡し場から去っていった。舟は再び岸を離れた。私には既視感だけが残った。
目を醒ますと小舟に乗っているだろう、そう思いながら目を開けるとやはりそうだった。同じことを幾日か繰り返しているはずだった。はずというだけで確信はない。薄い靄も船首に座した死神も、担がれた大鎌から落ちる水滴もきっと同じだと思った。
「あたいが分かるかい」
この問もまた同じだろう。何度目になる? 四度目か、五度目か。やはり判然としない。
分かると答えると死神は「じゃあ、誰の話だい?」と云った。私は紅魔館で共に生きていた、悪魔の司書のことを話す手筈だった。 私は吶々と語り始めた。死神は相も変わらず微笑んだままだ。
私は不安になってきた。語るほどにその不安は増大した。心の裡に仕舞っていた記憶が声の形をして落っこちていくような気がし始めた。遂に私は口を閉ざした。死神が「どうしたんだい? 続きを頼むよ」と促すけれども、私は黙って俯いた。それぎり、しん、とした。その無音のまま夜の暗さになった。
「仕方ない、元より今日で終いだ。明日にはアンタの岸に附けるから、もう眠るといいさ」
いつもの通り――そう、これはいつも通りのことのはずだ――渡し場で見えない乗客が舟から降り、死神が銅貨を渡した。彼女の手にはもう一銭も残ってはいなかった。私のものだった銅貨を全て渡し終えたのだ。そうして舟は岸を離れ、周囲の見えない川へと動き出した。
死神が寝息を立て始めた後にも私は目覚めたままだった。薄ぼんやりとした膜に覆われてはいるものの、頭の中にはまだ小悪魔が残っていた。しかし心許ない。眠ってしまえば私は彼女を忘れるに違いなかった。現にそうして、誰かを忘れ続けたのではないかという、奇妙な確信があったからだ。失くしてしまわないよう、彼女を想い続けようと、じっと座していた。早く夜が明ければいい。そこに水面で何かが跳ねた。ぱしゃりと水が弾け、あっと思ったときにはもう遅かった。生前、私はひとりで紅魔館に暮らしていた。
理由の解らない空虚のために、まともな姿勢を取るのが辛くなった。身体が傾いだ。すると胸に何か固いものが当たり、痛みがあった。半分倒れたような状態で懐を探ると、一冊の本だった。生前に幾度も読んだものだ。私はまたもや忘却の不安に駆られ、確かめるためにページを開いた。そこで、紙の合間に、死神に全て渡した筈の銅貨が挟まっているのに気がついた。恐らくは本当に最後の一つだった。同時に、私は生前の友人が頭の中にまだひとりだけ残っていることも悟った。彼女にこの本を貸していたのだということも。
このまま朝日が昇れば死神に最後の銅貨を渡すはめになるだろう。そうなれば最後の友人をも忘れてしまうに違いない。私はこのまま舟に乗り続けるのが恐ろしいことに思われて、船縁から川面を覗いた。無論、暗い。一寸の透明度すらない。顔を上げ、岸を探すも勿論、何も見えはしない。天上を仰いでも変わりない。だが舟の上へ留まる方が余程恐ろしい。右腕で本を抱え、更に銅貨を確(しっか)と握り締めると、私は船縁を越え、ゆっくりと水に足先を浸けた。死神から逃れなくてはならない。
水は酷く冷たかった。身体全てを沈めてしまえば、骨の髄から痺れるようだった。それでも行かなければならない。死神が目を醒ましては困るから魔法も使えない。私は舟から左手を放し、泳ぎだそうとした。
ところが脚が重い、腕が重い。それも冷たさのせいではない。どうやら尋常の川の水ではないと解るに至って、失策だったとようやく悟った。生身では引き摺り込まれるばかりの、三途の川だった。私はそれでも本と銅貨を離さないよう、両腕を使って必死に抱き、握り締めた。にも関わらず私の肉体だけが川底へと落ちようとする。本と銅貨はまるで固定されたかのように付いてきてはくれない。水の重さが私と、本と銅貨の距離を広げようとするばかりだった。魔法を唱えようにも、最早水中に沈みきった私には手段がない。水の闇が私の視界を塞いだ。本と銅貨はおろか、私自身の肉体さえ闇に溶けた。こんなことならば次の朝を待つ方が良かったと、押し潰されそうな後悔と、記憶から消えていく魔理沙の顔と共に、私は無限に深い川の底へと落ちていった。
こんな本を読んだ。
どうやら小舟に乗っている。軽い木でできたもので、私は艫の側で座していた。ところがここからは殆ど何も見えない。どちらを向いても薄い靄が遠くにかかっている。けれども川だということだけは解った。ただ両岸も行き先も見えない。
進んでるのか停まってるのか、景色からは判然としなかったけれども、船縁から覗けば水面に線状の波紋が立ち、流れていた。どうやら進んではいるようだ。
私の他には誰も乗っていない。舳先で櫂を取っている、大きな身体をした赤髪の女だけだ。風光も絶景もなければ繁盛するわけがないがないだろう。交通の益のない場所なら尚更だ。
船漕ぎに運賃はいるかと訊くと「いるよ」と云う。それなら閑古鳥ばかり乗せていても仕様がないと思う。こんな辺鄙な処では稼ぐのもままならないだろう、という旨のことを伝えた。鼻歌の似合う声で船漕ぎはこう答えた。
「銭が稼げないからって何がどうなるわけでもないし、別段困ったりはしないよ。お客がいないとヒマには違いないけどね。それに今はアンタがいるじゃないか」
確かにその通りだと思った。女が人間でないことも大体分かった。しかし――欲こそなさそうだけれども――金銭を稼ごうとする妖怪というものを私は初めて見た。
「渡し賃はアンタ次第。渋らなければいくらでも。どうせこの先使い用途(みち)はないだろうから、全部出してくれても困らないだろうよ」
私は生憎と貨幣の類を持っていない。私以外にも価値を見出せるものというならば、懐の本くらいだろう。しかし人間が金銭を払うようなものかといえば甚だ疑わしく、何より私自身、手放す気になれなかった。
素直に一文無しだと船漕ぎに話すと「いや、アンタの懐に銅貨が入ってるだろう。そいつで払ってくれればいいさ」と云った。
そんな貨幣を持った記憶はなかった。しかし船漕ぎは「いや、あるはずだよ。あたいはアンタを聞いてるから」と云う。疑心のまま探ると、確かに五枚の銅貨があった。それでこの船漕ぎが死神だということにも気付いた。仕事をしている死神に会うのは初めてのことだった。
私は舳先の方へ寄った。舟は少しばかり左右に触れて、手中の銅貨がかちゃりと鳴った。船体の軋みもあった。死神は櫂を繰っているのだと思っていたが、それにしてはどうも持ち手が細い。私はいつの間に死んだのだろうと思いながら、元々金銭に対する価値観もなかったために銅貨五枚を死神に手渡した。手を移るときにもそれは金属らしい音を立てた。私たちの声を除けば、此岸と彼岸の境界では貴重らしかった。死神は「確かに」と、櫂を引き上げた。なるほど、大鎌だ。如何にも死神といった風情はいつか読んだ本の通りだった。紅魔館の地下図書館、702番の棚にあったはずだ。タイトルは何だったか……。
「じゃあ、そうだね。向こうに着く前にアンタの話を聞かせてもらおうか」死神は船首の段差に腰を下ろすと、大鎌を肩に立てかけてそう云った。刃の切先から雫が、一滴、二滴と落ちた。向こうとは何処のことだろうか。そもそもこの舟は進んでいたのだろうか。私は急に寂しくなった心地がした。「アンタのは銅銭はいい銅銭だから愉しみだよ」なのに死神は子供のように微笑んでいる。「死ぬ前に色々とあっただろ? 何でもいいから話を聞きたいんだ。時間だけは使い切れないから安心しな」
そうは云っても何を話せばいいか、私には分からない。死ぬ前も何も、私はいつ自分が死んだのか、その理由も状況も憶えてはいない。本のタイトルさえ忘れてしまった。
「それこそ何でもいいんだ。知らない人生の話はそれだけで面白いんだから。思いつかないのなら知人のことでもいいさ。親しかった友人たちがいるだろう? どんなやつらだったか、聞きたいね」
なるほど、彼女たちの話ならばできそうだった。紅魔館で共に生きた五人の友人たちだ。先ず美鈴が浮かんだ。私は不思議なほど饒舌に語り続けた。語る内に靄の向こうに霞んでいた日が落ちていき、やがて夜の暗さになった。
「もう、辺りも見えないね。今日はこのくらいにしようか。明日はまた、次の人の話を聞かせておくれ」死神のこの言葉で、舟が渡し場へ着いていたことを知った。ここで降りるのかと訊くと「いや、アンタはまだだよ」と答えた。けれども何かが降りたらしく、舟が僅かに傾いた。見えない乗客でもいたらしかった。その乗客に死神は銅貨を渡した。あれは確か、私の払ったものである。見えている銅貨だけが渡し場から去っていった。舟は岸を離れ、やがて渡し場も靄の中へと消えていった。
私と死神は舟の上で眠った。
目を醒ますとどうやら小舟に乗っているようだった。軽い木でできたもので、私は艫の側で臥していた。起き上がれば、しかし何処なのかも分からなかった。どちらを向いても薄い靄が遠くにかかっている。けれども川だということだけは解った。ただ両岸も行き先も見えない。
船首には大鎌を担いだ赤髪の女が座っている。この女の顔を見ると何故だか寂しくなった。そしてその寂寥で私は女が死神であることを思い出した。
「あたいが分かるかい」
分かると答えると死神は「じゃあ、昨日の続きをしようか。今日は誰の話だい?」と云った。それで私も昨日のことを大方思い出した。向こう側へ着くまでの時間に、紅魔館で共に生きた四人の友人のことを話すのだった。先ず咲夜が浮かんだ。私は不思議なほど饒舌に語り続けた。しかし舌は動くには違いないが、違和感もまた付き纏った。咲夜を語るには何か不足している、どうにも誰かが足りない気がする。私は時折閊えたが、死神は微笑んだままだった。語る内に靄の向こうに霞んでいた日が落ちていき、やがて夜の暗さになった。
「もう、辺りも見えないね。今日はこのくらいにしようか。明日はまた、次の人の話を聞かせておくれ」死神のこの言葉で、舟が渡し場へ着いていたことを知った。多分、私はここでは降りないだろう、そして舟の上で眠るのだろう。そういう気がした。代わりに何かが降りたらしく、舟が僅かに傾いた。見えない乗客でもいたらしかった。その乗客に死神は銅貨を渡した。あれは確か、私の払ったものである。見えている銅貨だけが渡し場から去っていった。舟は再び岸を離れた。私には既視感だけが残った。
目を醒ますと小舟に乗っているだろう、そう思いながら目を開けるとやはりそうだった。同じことを幾日か繰り返しているはずだった。はずというだけで確信はない。薄い靄も船首に座した死神も、担がれた大鎌から落ちる水滴もきっと同じだと思った。
「あたいが分かるかい」
この問もまた同じだろう。何度目になる? 四度目か、五度目か。やはり判然としない。
分かると答えると死神は「じゃあ、誰の話だい?」と云った。私は紅魔館で共に生きていた、悪魔の司書のことを話す手筈だった。 私は吶々と語り始めた。死神は相も変わらず微笑んだままだ。
私は不安になってきた。語るほどにその不安は増大した。心の裡に仕舞っていた記憶が声の形をして落っこちていくような気がし始めた。遂に私は口を閉ざした。死神が「どうしたんだい? 続きを頼むよ」と促すけれども、私は黙って俯いた。それぎり、しん、とした。その無音のまま夜の暗さになった。
「仕方ない、元より今日で終いだ。明日にはアンタの岸に附けるから、もう眠るといいさ」
いつもの通り――そう、これはいつも通りのことのはずだ――渡し場で見えない乗客が舟から降り、死神が銅貨を渡した。彼女の手にはもう一銭も残ってはいなかった。私のものだった銅貨を全て渡し終えたのだ。そうして舟は岸を離れ、周囲の見えない川へと動き出した。
死神が寝息を立て始めた後にも私は目覚めたままだった。薄ぼんやりとした膜に覆われてはいるものの、頭の中にはまだ小悪魔が残っていた。しかし心許ない。眠ってしまえば私は彼女を忘れるに違いなかった。現にそうして、誰かを忘れ続けたのではないかという、奇妙な確信があったからだ。失くしてしまわないよう、彼女を想い続けようと、じっと座していた。早く夜が明ければいい。そこに水面で何かが跳ねた。ぱしゃりと水が弾け、あっと思ったときにはもう遅かった。生前、私はひとりで紅魔館に暮らしていた。
理由の解らない空虚のために、まともな姿勢を取るのが辛くなった。身体が傾いだ。すると胸に何か固いものが当たり、痛みがあった。半分倒れたような状態で懐を探ると、一冊の本だった。生前に幾度も読んだものだ。私はまたもや忘却の不安に駆られ、確かめるためにページを開いた。そこで、紙の合間に、死神に全て渡した筈の銅貨が挟まっているのに気がついた。恐らくは本当に最後の一つだった。同時に、私は生前の友人が頭の中にまだひとりだけ残っていることも悟った。彼女にこの本を貸していたのだということも。
このまま朝日が昇れば死神に最後の銅貨を渡すはめになるだろう。そうなれば最後の友人をも忘れてしまうに違いない。私はこのまま舟に乗り続けるのが恐ろしいことに思われて、船縁から川面を覗いた。無論、暗い。一寸の透明度すらない。顔を上げ、岸を探すも勿論、何も見えはしない。天上を仰いでも変わりない。だが舟の上へ留まる方が余程恐ろしい。右腕で本を抱え、更に銅貨を確(しっか)と握り締めると、私は船縁を越え、ゆっくりと水に足先を浸けた。死神から逃れなくてはならない。
水は酷く冷たかった。身体全てを沈めてしまえば、骨の髄から痺れるようだった。それでも行かなければならない。死神が目を醒ましては困るから魔法も使えない。私は舟から左手を放し、泳ぎだそうとした。
ところが脚が重い、腕が重い。それも冷たさのせいではない。どうやら尋常の川の水ではないと解るに至って、失策だったとようやく悟った。生身では引き摺り込まれるばかりの、三途の川だった。私はそれでも本と銅貨を離さないよう、両腕を使って必死に抱き、握り締めた。にも関わらず私の肉体だけが川底へと落ちようとする。本と銅貨はまるで固定されたかのように付いてきてはくれない。水の重さが私と、本と銅貨の距離を広げようとするばかりだった。魔法を唱えようにも、最早水中に沈みきった私には手段がない。水の闇が私の視界を塞いだ。本と銅貨はおろか、私自身の肉体さえ闇に溶けた。こんなことならば次の朝を待つ方が良かったと、押し潰されそうな後悔と、記憶から消えていく魔理沙の顔と共に、私は無限に深い川の底へと落ちていった。
銅貨が減っていくところがなんだかいいですね。
ただ、オチもそうですが、やっぱりテーマがうまく見えませんでした。