美しい殺し方をこいしは考える。
ただ殺すのは風情がない、とこいしは思う。そういうのは刃さえあれば誰だってできる。私は違う。気づかれずに相手の心臓を突き刺して殺せる。だから奥ゆかしい殺し方ができる。
もし殺す前に相手に気づかれ、抵抗を受けたならばとても見苦しい。殺す方にしても、殺される方にしても。もっと涼やかに静かに、そう、それこそ桜が散るように相手の命を吹き消してしまいたい。
私の白く細い指を、心臓から染み出した血の赤が塗りあげる。相手が倒れた地面に血が描きだすのは、左右の揃わないひとつの美しい絵。その絵を描けるのは他でもない、私だけ。
月に照らされて、こいしの顔は白く柔らかく光を受ける。地面にはたった今、命のともし火が消えたものが転がっている。すうとこいしの顔にわずかな笑みが浮かぶ。
すべてのものは私の前では意味を持たない、こいしは思う。この美しさは私だけが見ることができる。私だけが感じることができる。だから他に美しいものなんてどこにもない。花も、鳥も、風も、月も――姉さえも。
……。
卯月の空には太陽がのびやかに浮かんでいる。寒い冬のあいだはずっと縮こまっていたかのように、日射しも地霊殿まで届くことはない。けれどその日は地霊殿の屋根のてっぺんにどこからか日射しが射し込んでいる。
天気がいいから外に出かけましょう、と本を閉じ、さとりは薄く笑ってこいしに呼びかける。館のことはお燐とお空に任せておけばいいわ、とも言う。こいしが振り返ってさとりに訊く。
――ピクニック?
――ええ、たまにはいいかしら。
姉と出かけるのはいつぶりのことだろう、こいしは思う。私が外に出るのはいつものことだけれど、いつも地下にいる姉が出ていこうとするのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。でも楽しそうなピクニック。気づけばこいしは首を縦に軽く振ってる。
地上に通じる穴から出ると、春の陽が二人を優しく迎えてくれる。こいしは目を細めて陽の浮かぶ空を見上げる。底のない青の空にわたあめのような雲がふたつ、風の流れに乗って気ままに右から左へ流れていく。
森に入ると淡い緑の葉のあいだから木漏れ日の光が降ってくる。鳥の小さなさえずりが、風のさざめきに乗って運ばれてくる。葉と葉が擦れる音が満ちては引いていく。こいしの鼻をくすぐるのは、土から立ちのぼる春の匂い。
森を抜けると黄緑の緩やかな丘が二人を待ってくれている。こいしが足をそっと踏み込むと、軽い音が丘から返ってくる。それだけでこいしの胸ははずんで、次の一歩を踏み出している。ときどき草の中には鮮やかな赤と薄い黄色の花が咲いている。それを見つけるたびにちょっとした煌めきがこいしの胸ではじける。こいしは小さく鼻歌を歌う。自分が丘の地を踏む足音に合わせて。
そうやって軽い足取りで進んでいくと、もう丘のてっぺんにたどりつく。てっぺんでこいしはスカートを揺らして後ろを振り返る。さとりが薄い笑いを浮かべて丘を登っている。その向こうには淡い緑に染まる森があって、自分が出てきた深い暗い穴が口を開けている。
私だけのもの、とこいしは思う。私が見おろしているこの美しい世界を、私だけが美しく描くことができる。私の心の中で。
さとりがてっぺんについた頃にはもうお昼時になっている。さとりはひと息ついて、こいしの隣に腰を下ろし、手に提げていたかごから小さなポットを取りだす。
――お昼にしましょう?
さとりの言葉にこいしは小さくうなずいて、柔らかな草の上に腰を下ろす。スカートの裾が風に揺れて、こいしの白い脚がそこからのぞく。さとりはかごから小さなカップを取りだして、そこに紅茶をゆっくりと注ぐ。小さな滝を作ってカップに澄んだ赤いお湯が流れこむ。それを眺めるこいしの膝に載せられた手は半ば服の袖に隠されて、白く細い指だけが袖からのぞいている。
――はい、どうぞ。
――うん。
こいしはさとりから紅茶の入ったカップを受け取る。少し息を吸い込んで、紅茶の匂いを感じる。こいしの膨らみかけの胸が呼吸に合わせて動く。ストレートの匂いがこいしの鼻をつき、そしてこいしは息をゆっくり吐き出す。それから左手で耳元の髪をゆっくりとかきあげて、紅茶のカップに柔らかい唇をつけて紅茶を味わう。紅茶が春の日射しを受けて光り、その光がこいしの白い頬を煌めかせる。
さとりがかごからサンドイッチを取りだして、ひとつをこいしに渡す。人差し指と親指でサンドイッチを潰さないようにつまみながら、こいしはさとりに問いかける。
――お姉ちゃん、今日は何の日か知ってる?
さとりはサンドイッチをもう唇と唇のあいだにはさんでいる。その格好のままこいしに顔を向け、顎をゆっくり動かしながらこもった声で答える。
――四月一日、エイプリル・フール。
サンドイッチをひと口食べたこいしは、さとりの答えにうなずく。
――そうだよ。だからお姉ちゃん。
こいしはそう言いながら姉の方に体を傾けて、首をかしげる。
――ひとつ、何か嘘をついてよ。
さとりは左手にサンドイッチを持ち、カップを右手にとって、軽く目を閉じて紅茶をゆったりとした動きで啜る。それから少しのあいだ、さとりは何も言わず、静かに呼吸している。
やがてさとりは目を開いて、こいしを見る。ぼんやりとした深紫色の瞳が渦を巻いて、それからひとつの流れを作る。
――あなたに言われて嘘をつく、というのも変な話だけれど。
さとりはカップをかごの中に戻して、小さくため息をつく。
――「コトダマ」を知ってるかしら?
こいしは首を横に二回振り、知らないという動きをする。サンドイッチを食べおえたあとの指を組んで、さとりを見据える。
――「コトダマ」はね。
さとりはそこで一度言葉を切り、左から右へ首を動かす。幻想郷を端から端まで見渡すような動き。穏やかで静かな光をたたえるさとりの瞳。そしてさとりは再び言葉を紡ぐ。
――妖怪よ。とても強い力を持つ妖怪。
――強いの?
こいしのまぶたが少し持ち上がる。身体をわずかに前に傾けて、さとりの顔を覗きこむようにしてこいしは尋ねる。
――私よりも?
――さあ、どうかしら。
さとりは首を軽く横に振る。
――わからないわ。「コトダマ」の姿を見ることはできないから。
さとりがまたこいしに顔を向ける。
――でも存在はしているのよ、私たちの言葉の中に。
――言葉の中にいるの?
こいしは小さな息を漏らして笑う。春の暖かい空気がこいしの息に揺れて波を作る。その波はさとりのところにまで届く。さとりは眉を寄せてその波を受け取る。
――そう。「コトダマ」は言葉を実現させる力を持っている妖怪よ。楽しいことを言えば楽しいことが起こる。悲しいことを言えば悲しいことが起こる。そんな力を持つの。
――本当に?
こいしは組んでいた指を解き、右手の人差し指を唇にあてて、いたずらっぽい笑みを口もとに浮かべる。
――じゃあ、ちょっと試してみようかな。
こいしは背中を伸ばして視線をあげ、遠くの空に向かってひとつ呟いた。
――今から雨が降ってくるんだって。
空にはさっき見たわたあめ雲がふたつ浮かんでいるだけ。雨を降らせる黒い雲はどこからも流れてきそうにない。太陽は小さくあくびをする。雲はそれを気にもかけずに漂いつづける。こいしの薄緑の髪を揺らすそよ風。
――何も起きないね。
こいしは軽い笑いを浮かべたまま、空からさとりに視線を落とす。さとりは笑みもないままこいしを見つめている。言い訳をするように、さとりは小さくこいしに言う。
――嘘の話なのよ。
――面白いけど、楽しくはない嘘だね。
こいしは息だけで笑いながらそう言い、丘で背中から仰向けになる。草の湿っぽい匂いがこいしのそばに寄ってくる。太陽はこいしの視界のさらに上に留まっている。こいしは帽子をとり、お腹の上に置いてそこに二つの手を添える。
暖かい陽だまりの中で、こいしのまぶたが少しずつ重くなっていく。ときどき驚いたように目は開かれ、そしてすぐにまたゆっくりと閉じられていく。何度かそれを繰り返してこいしはさとりに言う。
――お姉ちゃん、私、ちょっとお昼寝するね。
さとりは膝の上で頬杖をついて遠くを見つめている。さとりの背中に太陽の光が優しく降りそそいでいる。こいしに振り向かず、さとりは応えた。
――おやすみ……良い夢を……。
その言葉を聞いてこいしは目をつむる。三つのまぶたが沈黙する。まぶたの裏にモザイクがかかって、それがひとつの絵になっていく。そしてこいしはある線の下をくぐって、海の中に入る。海のさらに深く暗いところへ潜りつづける。
そうしてこいしは夢を見る。いつもなら望んだとおりになる夢。
……。
足がついたところは扉のない小さな部屋。沈みきったことを感じたこいしは、部屋の中央に立ったまま静かに目を開いていった。銀と灰の混ざった色が視界を埋めつくす。こいしはその色に一瞬押し倒されそうな気がして、それでも細い脚で踏みとどまった。
左の壁に少し視線を移すとそこには歯車が埋まっている。ひとつだけではない。数えきれないほどの歯車がぎっしりとそこに詰めこまれていた。壁から角まで、角から天井まで、天井から向こうの壁まで。ガラス張りの壁の中にひたすら歯車がある。無数にある歯車は回っているものもあり、回っていないものもあった。
部屋の中には明かりがなくて、月の欠けた夜のように薄暗い。ぼんやりと壁が光っているように思えたのは、壁の中の歯車がぼんやりと光っているからだった。
こいしの正面の壁の中央に男らしい誰かが立っている。こいしに平たい背中を向けて何かをしていた。こいしは自分の立っている位置から少し左にずれて、男の正面を覗きこもうとする。
男は地球を回すようにして、壁から生えているハンドルを回していた。男の回しているハンドルから回転が伝わり、壁の中の歯車が回る。最初の歯車の回転が、空想のように壁に埋まる無数の歯車に広がっていった。
不思議な疎外感の種がこいしの胸に植えつけられる。無機質で色のない部屋の造り、回転以外の動作がない歯車、その原動力となるだけの男。どうしてこんな夢を見ているのだろう、とこいしは思う。私が望む夢は、私の描く夢は?
歯車にしても、この部屋にしても、男にしても、どうしてこんなものが私の夢の中に存在できるのだろう。こいしにとって、これは今までに見たことがない夢だった。
男は精一杯ハンドルを回しつづけている。首筋にうっすらと汗の珠が浮かんでいるのがこいしには見えた。男はハンドルを回しているだけで、背後にいるこいしに話しかけない。気づいているようでもない。こいしも男に話しかけず、そしてそうしようと思わなかった。こいしはスカートの裾を指先でつまんで、しばらく黙っている。
壁の中で歯車は回る以外の動きを選択肢として持っていなかった。規則的に同じ速さで延々と回りつづけるだけ。ふと、こいしはその光景をつまらなく思った。同じように回る歯車、同じように伝わる力、伝わった力によって回る別の歯車、延々と繰り返される規則性。男はどうして歯車を回そうとしているのだろう? 馬鹿馬鹿しいことを男がやりつづけているようにしか、こいしには思えなかった。気に食わない。
美しい花が欲しい。こいしは急に花が欲しくてたまらなくなった。薔薇でなくてもいいから、何かこの部屋に色をつけてくれる花が欲しい。そしてすぐにこいしはあることに気がついた。
そうだ、私は今花を咲かせることができる。男の心臓から花は咲く。心臓を貫いた出血で、歯車ばかりの壁にきれいで鮮やかな赤の花が描ける。美しく男を殺したい、とこいしは願った。そしてこいしはそうすることができる。
こいしはつまんでいたスカートの端を放した。そして自分の気配を消し、自分から流れる空気の振動を消す。いつも誰かを殺すときそうするように。それから何も考えず、ただ自分の美の本能だけを残して、こいしは男に近づいていった。
男までの距離は4メートルもない。男の首筋がこいしの視界に入ったままだった。けれどこいしはもうそれを首筋として認識することはできない。こいしの袖から見える白い指が血を求めてさまよいはじめた。
3メートル、男はまだ歯車を回している。ときどき荒い鼻息が壁にあたって跳ね返り、こいしのまわりの空気を揺らす。2メートル。こいしの目は焦点が合わず、口も軽く開かれたまま。1メートル。
男は振り返らず、けれど歯車を回す手を止める。
――私を殺すのはよした方がいい。
拍と拍の間が短い呼吸をしながら、そう言葉を口にした。首筋にはまだ小さな汗の珠が二つ三つ残っている。
こいしの身体に急に気配と思考が飛び込んできた。その突進の衝撃にこいしは思わず息を呑む。気づかれた? こいしは直感的にそう思った。いや、そんなことはない。霊夢でさえ、私の存在は勘でしか気づいていないのに?
突然、こいしの胸にぶら下がる目が震える。一度だけ、確かに大きく震える。
男は腕で額の汗をぬぐう動作をして、それからこいしに左の横顔を見せた。部屋が薄暗いせいで、こいしには男の顔の細かいところまでは見えない。男はしばらく横目でこいしを見つめていたが、やがてゆっくり口を開いた。
――ここの歯車の意味を、君は知っているかい?
その問いかけが複雑な軌道をたどってこいしの耳に伝わってくる。こいしを見つめている、灰で塗りつぶされた男の瞳。不意を突く質問に、こいしは肘を曲げて左手を口もとに寄せて、目を伏せることしかできなかった。その問いに答えることができない。言葉がこいしの喉から抜きとられてしまったように。
部屋中の歯車が音もなく回りつづけていた。けれどその動きは確実にこいしから殺す意思を奪っていく。美への灯火はあっけなくこいしの中で縮こまり、吹き消された。
男の首筋から珠の汗が消えて、彼の呼吸は眠っているように落ち着いてくる。消えた汗のかわりに汗の匂いが微かにこいしの鼻に漂ってきた。
――私が君の存在に気づいたことに、驚いているのかな?
こいしは伏せていた目を上げて男に視線を戻す。男はこいしに横顔を向けたまま続けた。
――君の気配はどこになくても、君の存在を感じることはできる。それだけの話だよ。
こいしの胸の前で左手が右手に握りこまれる。その手には冷たい汗がにじみはじめていた。目が男から離れられない。男も横目でこいしを見つめたまま黙ってそのまま立っているだけだった。
やがてハンドルの回転が止まったのにもかかわらず、こいしから見て右奥の壁の中の歯車が白く光りだす。それは今まで一度も回転していない歯車だった。超新星の爆発を地球で見たときのような色を放つその歯車に、男は気づいて視線を移す。こいしの視界には再び男の後頭部が映った。
男はゆったりとした歩みで光っている歯車のもとへ行く。壁の前に立ち、そこに腕を差し出して壁に突き刺した。こいしはその光景からも目を離すことができない。胸の前で握る手に力がこもった。何の音もなく男の腕はガラスの壁をすり抜け、その壁の中で男は光っている歯車を両手でつかむ。それからまた音もなく腕と歯車を壁の中から引き抜いた。
それから男は壁に背を向けるように身体の向きを変え、両手のひらに乗るほどの大きさの歯車を眺める。白く光るその歯車の光が男の顔をぼんやりと照らし出した。そしてこいしは男の顔に微笑が浮かんでいることに気づく。
こいしの胸の中の小石がことりと音を立てて転がったような感覚がした。歯車をいつくしむような男の目。こいしは嬉しくなりそうで、でも嬉しくなれないような、微妙な感覚に包まれている。こいしは握っていた手をほどき、床に座って男の様子を眺めることにした。座るときに髪に結わえていたリボンが軽くはずむように揺れる。
男は歯車をいろいろな角度から観察しはじめた。ときどきひとり言を呟くこともある。
――これはどこにつながるのだろうな? この歯車の数はあそこかもしれないけれど、別の場所にも似たような構造があったかな。
――たとえばあそこにはめこんだとして、さてどういう働きをするのだろう? あの歯車の回転が早くなり、そうするとあそこまでの経路はだいぶ変わる。
――もしかしたらあそこの機関が動くようになるのかもしれないな。そうするとこれはかなり大きな発見をしたということになる。
男は唸ったり、深呼吸をしたり、ときどき笑ったりした。そうして自分の思考回路を、ときどき行き止まりにもぶつかりながら、けれど確かに前進させているように見える。
こいしもその光る歯車に少しの興味を覚えはじめていた。男が一体何をするのかは彼女にはわからないが、何か面白そうなことが起こるのだろう。そして男が次にどうするのか、こいしもその結果が気になりはじめた。
……ひくひく。
男が歯車を分析するのにはそれなりの時間がかかった。彼の頭の中では途方もない思考経路が組み立てられているように、こいしには思えた。だからこいしも男を飽きずに見つめていた。ハンドルを回している男には興味がなかったが、歯車にはあった。
やがて男はひとつうなずいて、歯車の分析を終えた。そして落ち着いた足どりで壁のひとつに近寄り、右手で光る歯車を持った。その右手を壁の中に突き入れ、それから歯車と歯車のあいだにはめ込む。こいしはそれを期待するような目で見つめていた。
大きくて硬いものがぶつかる音がして、歯車は結合した。男はハンドルの前に行き、ゆっくりと徐々に力を入れてハンドルを回していく。光っている歯車に回転が伝わり、それは過去とは違う運動を部屋全体に広げていった。今まで動いていない歯車も動きだした。光っている歯車から他の歯車に光が分散し、部屋全体にほんのわずかな明かりをもたらした。こいしの背後の壁が少しだけ後ろに下がり、部屋自体も少しばかり大きくなったように感じられた。
男は薄い笑みを浮かべ、ハンドルを回しながら部屋全体を眺めた。その男の表情から、新しい試みが成功したことをこいしは知った。自分の心も少し軽くなる感じをこいしは覚えた。
――ああ、今回はうまくいったな。かなり緊張はしたが。
男はそう言ってハンドルを回す手を休めたが、歯車は男の力なしで勝手に回りつづけていた。男はこいしの方に近づきながら言う。
――今回はよかった。だが、こういかないときもある。新しい歯車を入れて今まで動いていた歯車が止まることもあるし、部屋全体を壊しかかったこともある。
しかし男はこいしの正面に立ち、座っているこいしを見下ろしながら低い声を出した。
――まあ、ざっとこんなものだ。なかなかすごいだろう?
男は誇らしげな笑いを浮かべ、こいしに同意を求める視線を送った。両手を腰に当てて胸を張って立つ男。自分の所業を誇示しているように見えた。
それでもこいしは嫌な顔は浮かべず、口に手をあててふふっ、と笑った。こいし自身は心の底から男の所業に感心していた。そして歯車が起こした奇跡を、こいしは忘れることができなかった。新しい歯車から光が広がる軌跡、部屋全体が力強く拡張するさま。たったひとつの歯車がそれほどの力を持つとは、こいしが想像もしていなかったことだった。
こいしは男を見上げてもう一度笑った。男も得意そうな笑顔を浮かべたままこいしを見下ろしている。けれどそのまましばらく時間がたつと、こいしの顔にふっと影が差した。それはこいし自身は気づかないことだったが、男は気づいた。
男の顔に浮かぶ笑みはより深くなった。
――君にこういうことはできないだろ?
男は重い口調でそう言った。こいしははっとした表情になり、笑顔を消して無表情になった。胸の目が緊張の痙攣を起こす。顔に影が差したままこいしは男の顔から視線を落とし、小さく首を縦に振った。男はこいしの様子を見ても、笑顔を消さなかった。消すつもりがないようにも見えた。
――君にはこの歯車の面白さを理解できても、操れはしない。だが俺にはできる。俺はこの部屋の面白さをわかっているし、この歯車を操ることができる。
男の口調が穏やかなものから刺のあるものに変わりはじめた。こいしの視線がだんだんと落ちていき、やがてうつむくような格好になる。膝を抱えたまま、こいしは男の言葉に相槌を打った。
――おまえはこの部屋では無力だ。
男は告発するように言った。その笑いは消えなかった。こいしはそれには首を縦に振らず、うつむいたまま口を開こうとした。しかし男がこいしより先に言葉を口にした。
――無意識の力が私にはある、と言いたいのか?
こいしは少し潤んだ目で顔を上げて男を見た。そしてしんなりと首を縦に振った。男は笑ったまま首を横に振って、両腕を広げた。
――それだけでは、おまえはただの妖怪でしかない。その力を持つだけなら、おまえは強くもなんともない。
こいしは何も言うことができなかった。何を言ってもこの男の前では無駄だと思った。自分がこの男に反抗することさえできない、その事実がこいしの影をより濃くした。
男がこいしに歩み寄ってきた。一歩一歩音を立てて足を進める。その足音にしても男の表情にしても、最初に出会ったときのような穏やかな感じはかけらもなかった。男の笑いは深く、足音も大きく、腕の振りも大きい。ぼんやりと光る無限の歯車を背にして、男の姿が膨張して見えた。
こいしは膝を抱えるのをやめて、立ち上がろうとした。それを見て男は言った。
――おまえの無力を証明してやろうか?
その言葉を聞いて今度こそこいしは立ち上がり、そして男に背中を向けて逃げようとした。けれど部屋に扉も窓もなく、ただ壁に歯車が埋まっているだけだった。こいしは首を振り返って男を見た。
男は笑ったままこいしを壁に追いつめようとしていた。
自分の身に危機が迫っていると、直感的にこいしは思った。男に得体の知れない恐怖を覚えはじめていた。その恐怖からは逃げられず、ただ押し殺すしかないと思った。こいしは壁に寄りかかるようにして体の向きを変え、男と向き合った。
男は少し驚いた顔を見せたが、すぐに余裕の笑みに戻った。何をしても自分が負けることはないと確信している顔だった。こいしはその男の表情から目を背け、無意識の能力を使った。こいしの気配が部屋から消え、空気の振動はこいしから生まれることはなくなった。
こいしは滑るようにして壁を伝って部屋の隅に移動した。そうして壁にたどりついた男の背後をとり、心臓を突き刺そうと思っていた。だが無駄だった。男が立ち止まり、こいしの移動に合わせて視線を動かしているのが、こいしにははっきりとわかった。霊を見透かすようなその視線は明らかにこいしの存在を認知していた。
――言っただろ、俺に無意識の力は効かないと。
こいしはその言葉を聞かなかったことにして、男の背後に近寄った。男は顔だけこいしに向けたまま、その場所に留まっていた。こいしが背後にまわり、男の心臓に向けて突き出したときも、男は何もせずにそこから動かなかった。
こいしの手はたしかに男の体には届いた。だが身体を突き抜けることはなかった。指が男の皮膚に触れただけだった。その皮膚でさえも何の傷も負っていなかった。手を突き出したこいしにも何の感触もなく、ただそこで手が止まったということだけが見えていた。
――何度言えばわかるんだよ、おまえはここでは無力だ。
男は刺のある口調でこいしに吐き捨てるように言った。その言葉にこいしの体が小さな震えを刻みはじめた。本当の恐怖の中で、こいしは手を引っ込めて急いで壁際までさがることしかできなかった。
歯車が回りつづける部屋の光が強くなった。無音だった部屋に歯車が回る音が響きはじめた。部屋全体に歯車が回る震動が伝わりはじめた。こいしはその部屋の変化にも恐怖した。
こいしに顔を向けている男が部屋から力を得ているように見えた。正確にいえば回りつづけている歯車から力を得ていた。そして時間がたつにつれて徐々に男の力が増大して、男の力が体からほとばしりはじめた。
男とは逆に、こいしは自分の力が相対的に弱くなっていくのを感じていた。自分の力が男にまったく効かない恐怖、逃げ場のない焦燥感。なぜ、とこいしは問いかける。どうして自分は今まで強かったはずなのに、この男の前では何もできないのだろう? 彼女の顔に明らかな焦りが浮かんだ。胸の目が震えはじめる。
部屋の向こうで立っている男は、それを見て口の端を吊り上げた。
――怖いか? 悲しいか? つらいか? おまえの無力。
こいしは目をつむって男の言葉に首を横に振った。こいしの本能が男の言葉に耳を貸さなかった。けれど胸の目は震えつづける。男は呆れたようなため息をついてふっと笑いを消した。そして苛立ったような足音を立ててこいしの正面に立ちはだかった。こいしを部屋の隅に追いつめる格好になった。
――いいかげん認めろ。
そう吐き捨て、男はこいしの両腕の手首を握り、それをこいしの頭上に持ち上げて壁に押しつけた。手首から走る痛みにこいしは小さくうめいた。こいしの抵抗さえ許されないほど強い力だった。
男はこいしの上から彼女を見下ろす。こいしはわずかにまぶたを持ち上げて、男を見上げた。男はこいしを睨みつけていた。影で暗くなっている表情の中で、目だけが異様に光っていた。
――おまえを支配してえな。
冷たくそう言って、男は自分の膝をこいしの両膝の間に入れようとした。こいしは必死で脚を閉じようとした。だが男がこいしの手首をより強く握った。鋭い痛みがこいしの感覚を麻痺させて、こいしの身体から力が抜けた。そして男の膝がこいしの脚の間に入った。
哀しい、とこいしは思った。悔しい、とも思った。恐怖心を上回ってその二つの感情が彼女の視界を渦巻いた。目の前の男の顔が歪んで、自分の目から涙がこぼれ落ちるのをこいしは感じた。
無意識の力を操れなければ、自分はただの女に過ぎないのだと、こいしは思った。そしてこの部屋の中では男に対して無力だと思った。こいしは目尻から涙をいくつもこぼした。それがこいしにとっての最後の抵抗だった。
けれど男は追撃をやめなかった。
――泣いたって許さねえ。
男はこいしに顔を寄せて熱い息を吐きかけた。こいしは不快感に顔をしかめて、涙をこぼしつづけた。男はこいしを睨みつけたまま続けた。
――許さねえ。おまえは最初に俺を殺そうとしたからな。だから俺はおまえに仕返しするんだよ。
嫌だ、とこいしは強く思った。たとえ夢の中でも自分が支配されるのは、逆襲されるのは嫌だ。どうしてこんなに怖い夢を見ているの? どうして私はあの男を殺そうと思ったの? どうして私は今支配されかかっているの?
その思考を開いた瞬間、突然こいしの胸の目が見開かれた。これ以上ないほどに見開かれた。黒い瞳が収縮し、まぶたは開いたまま激しく痙攣した。三つめの目で、こいしは過去に見たことがないあらゆるものを、押し寄せる波の中に飲み込まれるように、それこそあらゆるものを「見た」。そしてそのすべてがこいしの中に濁流のように流れ込んだ。
暗い絶望、無限の闇、永遠の螺旋、論理の果て、理性の破滅、深層の勝利。こいしの目の前ですべての色彩が混じり合い、混濁し、はじけた。観念が渦を巻き、時間の流れが逆行した。
三つめの目が滴を零した。それがこの男のすべて。この男を抱えている、「私」自身――。
こいしは泣くのをやめて男を正面から見た。男のぎらぎらと光る野獣の目、その背景には無数の歯車が回っていた。そしてこいしは気づいた。
「あなた、『コトダマ』でしょう?」
こいしは男を見据えて静かに言った。その声の響きが部屋で回りつづける歯車の音を打ち消すようだった。男の目から異様な光が消え失せて、穏やかな波をたたえる瞳が戻ってくる。男は少しのあいだこいしを見つめていたが、やがて少し顔を離して答えた。
「ああ、そうだ。僕は妖怪のコトダマ」
コトダマは押さえつけていたこいしの手を離した。ねじ込んでいた膝も抜いた。こいしの身体に充満していた痛みが外へ解放されていく。三つめの目の痙攣がおさまり、まぶたにこめられた力が抜けていく。こいしは力なく両手を下ろしてコトダマを見た。コトダマは無表情に問いかけた。
「どうしてコトダマだってわかったんだ?」
こいしは少しのあいだ考えて、コトダマの問いに答えようとした。けれど彼女が口を開いたとき、部屋全体が突然白く光り輝いた。コトダマの姿が光の影になって黒く染まる。部屋全体が白い光に吹き飛ばされていくのを感じながら、それでもこいしは答えようとした。
「本当だったんだ、コトダマは――」
そこでこいしは夢から覚めた。
……ばちん。
目の前にさとりの顔がある。空のてっぺんにある太陽を背にして、さとりの顔は影に染まりきっている。私が最後に見たコトダマの姿みたい、とこいしはぼんやりとした頭で感じる。
「こいし、こいし?」
波の乱れたさとりの声が眠っている耳を柔らかくつつく。こいしは手首に奇妙な感覚を残したまま、右手をさとりに振る。私は起きているよ、と口も動かしてさとりに伝えた。まだこいしの喉が開いていないので言葉は出ない。
それでも、さとりはこいしの顔を見つめつづける。こいしも焦点の合わない目でさとりをぼんやりと眺めている。胸の目は閉じたままだったが、まだあの妖怪の顔が視界の影から消えない。
長い時間がたって、こいしの身体に五感が戻ってくる。そして自分の肩に何かの力がかかっているのを感じる。首に力を移して左の肩を見ると、自分の方はやわらかい緑の草に埋もれている。それから肩に誰かの手がかけられている。
手首から鈍い痛みが走って、凍るこいしの背筋。自分の方にかかっている手があの妖怪を目の前に呼び寄せるような感じ。
「ああ!」
こいしは小さく叫んで目をつむり、その手から逃げるように身体を左右にねじる。恐ろしさがこいしの体を無理やりねじ曲げようとしている。こいしのその姿を見てさとりはますますこいしの肩を強くつかんで体を揺り動かす。
「こいし、こいし、私よ、さとりよ」
こいしは震えながら薄く目を開けてもう一度さとりの顔を見る。影の中で不安に染まりきったさとり。その顔がようやく恐怖の海からこいしを引き上げて、こいしはもう震えなくなった。小さく丸めた体を少し伸ばして草の中で転がる。さとりがこいしのかわりに大きなため息をついて、こいしの肩から白い手を離す。
こいしの目の前に空が戻ってきた。視界の下から灰色がかった鉛の雲が泳いでくる。その雲は太陽の前に立ちはだかって光を飲みこむ。やがて光を飲み疲れたように鉛色の雲は太陽から気力もなく立ち去る。
陽の光がこいしの目に刺さって、こいしは丘の上で体を起こした。こいしの隣にはさとりがいて、ぼんやりと遠くを眺めている。彼女の第三の目がときどきひきつったように動いている。どこから切り出すでもなくこいしはさとりに言う。
「夢を見たんだ」
さとりはこいしに目を向けないまま黙っている。鳥のさえずりがさとりの前に広がっている森から聞こえてくる。こいしは続けた。
「とても怖い夢だった」
「……でしょうね」
三つめの目をこいしに向けて、残り二つは遠くを見たままぼんやりと答えるさとり。こいしは三つめの目を見て、それから丘の下に広がる幻想郷の景色を見る。
淡い緑で満ちている森、ときどき聞こえてくる鳥の歌、丘できらめく花。春の美しさがそこには広がっている。けれど夢を見る前と見たあとでは何かが違っている。とても大切な何かが。
こいしは山を覆う空を見る。そこには灰色を混ぜた白い大きな雲が広がっている。もう少しすれば雲はこいしの上に来て、太陽を呑みこむだろう。こいしの髪を揺らす風も少し重く、強くなっている。
欠けていた歯車がはまった。風景は絵ではなくなってしまった。
「コトダマだったんだよ」
こいしはぽつりと言う。さとりはこいしの言葉に顔を向けて尋ねる。「何が?」。できるだけ穏やかな響きになるように変えた口ぶり。さとりの二つの目がこいしを上から下までゆっくりと見回す。こいしも髪を揺らしながらさとりに振り向いて答える。
「私は夢の中でコトダマに会ったよ。とても強い力を持つ妖怪、コトダマ」
こいしを見るさとりの瞳が少しのあいだ、行き場をなくして泳ぐ。口を一度軽く開いてそれから閉じる。手を自分の胸にあてて軽くさする。それからさとりはためらいがちに口を開いて言葉を返す。
「嘘だったのよ」
こいしはさとりから視線をそらさない。さとりに選ばれた言葉が口の中から転がり出る。
「エイプリル・フールだって、そう言ったの。コトダマなんてどこにもいないのよ、本当は」
こいしは首を振ってさとりに応える。
「嘘だって言うお姉ちゃんの言葉が嘘かもしれないよ。嘘を嘘だって言ったら、もうどっちが本当かわからなくなっちゃう」
そうだ、とこいしは自分でも胸の中でうなずく。コトダマが夢の中に出てきたのは、お姉ちゃんが私にそういう話をしたからなんだ。さとりはしばらく言葉を紡ぎ出さなかった。さとりの三つの瞳がこいしの心を吸い出そうとする。やがて、さとりは小さくこいしに問いかける。
「私の嘘を信じてしまったの?」
こいしは頭を振る。
「ううん。そういうのじゃないの。コトダマはいるんだよ。だって私の夢の中ではいたもの」
そう言ってこいしはもう一度丘の上から幻想郷を眺める。少し強くなった風がこいしのスカートを揺らして、白く細い脚がそこからのぞく。袖で半分隠れたこいしの左手がスカートをやさしくおさえる。こいしの膨らみかかった胸が軽く上下する。こいしは右手を持ち上げて目の前においた。白い指には多くの赤い血が染み込んでいる。
その手の向こうに広がるのは美しい世界。その美しさを言葉だけでは表せないとこいしは思う。そして美しい景色を描けるのは私だけじゃない、とも思う。
私は無力じゃない。けれど万能でもない。コトダマのおかげで私はひとつの歯車を取り戻すことができた。私の中でその歯車はきちんと噛み合い、新しい道筋を導き出した。こいしは思う。
けれどこいしはまだその歯車の名前を知らない――いや、そうではないかもしれない。その名前は、胸の目を閉じてしまったあのとき、記憶の底に沈殿してしまったのだろう。けれどもいつか、その名前は明るい光の下に浮かびあがるに違いない。
こいしは右手を下ろして、目を横に滑らせる。視界の隅にさとりが映る。さとりはもうこいしを見ていない。あきらめにも似たような顔で雲のかかった空を眺めている。
お姉ちゃんはコトダマを信じてないのかな、とこいしは気になった。でも少し考えればその答えはすぐに明らかになる。そうか、少しは信じているからコトダマの嘘をついたんだ、と。
コトダマはいる。コトダマが歯車を回すから世界も回る。
その力は恐ろしく強い。無意識を操るこいしさえも壁に押さえつけられるほどに。けれどその力をいくらか借りれば、あるいは新しい殺し方ができるかもしれない。そしてそのときに流れる血は、きっと今まで見たことがない新しい絵を地面に描き出してくれる。こいしはなんとなくそんなことを感じる。それはきっと今まで見た絵の中の、何よりも美しい花を描いているのだろう。
ふと、こいしの胸の目が一度だけ震えて、そして――
……すう。
――そして今もどこかで歯車を回しつづける、意識のかけら、コトダマ。
夢の中で唐突に、歯車世界に囲まれるなんて。ありそうじゃないっすか。
すっごくマニアックそうな男が、やっぱりマニアックに歯車調べて、うまくいってイヒヒイヒヒいってハンドル回すばっかりなんですよ。(不真面目印象論)
好きになるしかないじゃないっすか。
作者さんの概念観を作品に投影できるって素晴らしい。
――嘘です。
私はただ、彼に憧れただけのようです。