「……空。すっかり高くなっちゃったなぁ」
仰向けのまま流れる雲を見た。夏のそれより随分高い。真っ青なカンバスの上に、まだらに浮かぶ白い雲。私は、ここから見える空が好きだった。
河川敷の広場では、明日の準備が着々と進められていた。明日、寺子屋の子供たちの体育会があるのだ。慧音率いる教師陣は、時間に追わながら走り回り、その横を沢山の子供たちが駆けていた。
……子供たちの笑い声が聞こえる。
広場には沢山の子供たちが居た。人間の子。妖精の子。それから妖怪の子。何を隔てられることもなく、皆一様に、明日の体育会に心を弾ませている。私はその光景を、土手の木陰から眺めていた。
「霊夢ーっ! テント建てるから手を貸してくれー!」
慧音の声がした。昨晩、電話で助っ人の依頼をしてきた慧音が、今度はテントの設営に大声を出している。私は、温くなった水筒に一度口を付けると、いそいそと慧音の元に走って行った。
午後からは、偶然近くを通っただけの早苗も、手伝いに借り出された。私と共に、明日の入場門に置く看板を制作する事になったのだ。形振り構わず頼む慧音も慧音だが、引き受ける早苗も早苗だ。絵には心得があると張り切っていた早苗だったが、今は足りなくなったペンキの買い出しに行っている。私は一人、教室の中で頬杖ついて、早苗の帰りを待っていた。
薄暗い教室の窓から、一際明るい陽光が差し込む。外では行進の練習をしているらしい。私はそれを、何とも無しに眺めていた。
……早苗は、たっぷり二時間かけて戻ってきた。
「遅いってーの。終わんないじゃん、これ」
「すみません。途中で知り合いのお婆ちゃんに出会いまして……」
「まあ、そんな事だろうとは思ってたけどね。とにかく始めよう。日が暮れる前に帰りたい」
「同感です」
そして、私と早苗は、狭い教室の中で、再び作業に取りかかる。結局それが完成したのは、完全に日が暮れてからだった。
「はぅ〜。結構時間かかりましたね。くたくたです」
「でも間に合って良かったよ。これで『出来ませんでした』なんて言ったら、慧音に頭突きされる」
「慧音先生、気合い入ってましたもんね」
「いつもそうなんだよ」
私は、すっかり暗くなった窓の外を見てみた。暗闇の中で、慧音がごそごそと何かをやっている。多分、小石を拾っているのだと思う。昼間に一度拾ったのに、慧音は心配性なのだ。
「ふふふ。そうみたいですねぇ」
「興奮しすぎて角出さなきゃいいけど」
「明日が節分ならそれも良いんですけどね。……ああ、そういえば。私、実は他にもいろいろ買ってきてるんです。どうですか、帰る前に少し休憩しませんか?」
早苗はそう言うと、部屋の隅に置いてあった紙袋を開きにかかった。袋からは、ピーナッツやらお菓子の数々が取り出される。中には缶ビールもあった。丁度いい。お腹が空いていた所だった。
「やるじゃん、早苗」
「私の二時間も、ただ無駄な訳じゃ無かったんですよ」
「私のは無駄だったけどね」
「……返す言葉もございません」
そうして私たちは、ささやかな前日祭を開く事にした。疲れた体に、ほんのりとアルコールが染み渡っていく。それなりに飲むと、私は気が緩んでいた。
「……何かさ、妙な気分だよね。よく見慣れた教室なのにさ。全然知らない所みたい」
ほろよい気分の頭は、何とも無しに口を開いた。早苗はちびちびとビールを飲み続けている。
「私は、本当に知らない場所なんですけどね。でもその気持ちは分かりますよ。よく知っている場所でも、その時と状況が違うとまるで別物に見える。多分、景色ってそんな物なんでしょう」
そうして私も一口。飲む為でなく、忘れる為でなく、会話の為のお酒は、私を安らかなな気持にしてくれる。
――ふと、昔の記憶を思い出した。
「そういえば、昔は悪い事もしたなぁ。慧音のお弁当箱から、エビフライだけこっそり戴いた事があってね。エビフライがどうっていうよりは、度胸試しみたいなもので。でも、提案した子も含めて誰も名乗り出ないから、じゃあ私がやるって言ってさ」
慧音は怖かった。だからこそ、その慧音から一本取ればヒーローになれた。お昼休み、慧音が少し目を離した隙に、私はこっそりエビフライに手を掛けた。それは成功して、私は天下を取った気でいた。
「結局すぐにバレて、ものすっごい怒られた。皆はそれを見て笑ってんの。あれは恥ずかしかったなぁ」
「へぇ。霊夢さんはその頃からお転婆だったんですねぇ……」
「失礼な。私は今も昔も『瀟洒』なつもりよ」
「『勝者』ではなく?」
「もうっ」
あの時慧音は、目を真っ赤にして怒っていた。今度はもっと上手く……なんて思ってたら頭突きもされた。私は慧音の頭突きがどうしても苦手で、思えば、私が勝てなかったのは慧音だけだった気がする。結局、私の天下は、三日どころか五分も持たなかった。
エビフライ事件をきっかけに、私は、あの頃の事を思い出していた。楽しい思い出が蘇る。みんながいて。私がいて。それは普通の事だと思っていた。
「あの頃は楽しかったな。何でもかんでも新鮮で。毎日が冒険で。あの頃の私は、そんな日が、これからもずーっと続くものだと思ってた」
何の根拠も無く、何の確証も無く。私が大人になるなんて、信じられなかった。
「でも、そうじゃないんだよね。時間はずっと流れ続けていて。楽しい事ほど長く続かなくて。いつの間にか、また“つまんない日常”に満足している。別に、だから何って感じだけどさ。でも、“あの頃”に戻りたいって思う事が、無い訳じゃないんだよ」
今日、あの木陰で見たものは。教室の窓から見たものは。かつては私が居た場所、いつか見た景色だった。
ただ、立ち位置だけが変わっていた。圧倒的に違っていた。どんなに手を伸ばそうとも、届くことは無い。それが、少しだけ寂しかった。
「……霊夢さん。過ぎ去った過去は戻ってきません。どんなに羨ましく見えたって、もう終わったことです」
「……」
「だから、今を大事にするしかないんですよ。今は“今”しかないんですから」
「……わかってる。わかってるよ、早苗」
自嘲っぽく笑って、また一口お酒を含んだ。途端に、“今”に戻ってしまった気がした。
「それじゃあ、霊夢さん。子供の頃には出来なかった、今ならではの思い出を作りましょうかっ」
すると早苗は、どこからか引っ張ってきたのか、また別の紙袋を探り始めた。両手を使ってそれを取り出す。じゃーんと、早苗が嬉しそうに取り出したもの。それはまたお酒だった。今度は大瓶だ。いったい幾つ買ってきたのだろう。
「へっへっへ。子供にはもったいない大人の味ですからねぇ」
「どうしたの、それ。すごく高そうだけど」
「それはですねぇ……」
ニタリと笑いながら、早苗は隣の部屋に視線をやった。瞬間、慧音の大声が聞こえた。
「んがーーーっ!! 無い、無いぞ! 私のとっておきが無い! おお、誰か。ここに置いてあった吟醸を知らないか?!」
聞こえてきたのは、怒りとも、嘆きともとれる、慧音の絶叫だった。叫びは隣室の窓ガラスをも震わせる。
……早苗の顔を見た。別段、悪気も無さそう。口笛吹く真似なんかしていた。
「早苗……」
「しーっ、本日の労働に対する報酬ってやつですよ。隠れて飲むお酒は格別なんですよ?」
「蜜の味、ってね」
私は早苗からのグラスを受け取った。これで私もヒーローと共犯だ。とくとくとお酒が注がれていく。ほんのりと甘い香りがした。
――カツン。
「それでは、明日晴れることを祈って」
「じゃあ、これはお供え代わりってことね」
……そうして私たちは、これから始まる今を、新たな思い出(メモリーズ)として刻んでいくのだった。
母校を見ると、妙なノスタルジックになりますよね。
特に、このSSのような運動会の時期。スローガンが校舎にかけられているのを見ると、いいな、と。
とても良かったです。
大人になっても、新しい思い出を築いていくことは可能なんですね。
今となると、家の5軒隣に母校の小学校がありますから、運動会の練習の音なんて煩わしく感じるだけになってしまいました。
もっと老けたら、そういう光景も微笑ましくなるんでしょうかね・・・
誤字報告?
>>昔は悪い事もしなぁ
もしかしたら「したなぁ」の「た」が抜けてませんか?
けどなんか場所とか缶ビールが現代みたいなのが気がかりだったり、斬新だったり。
>爆撃様。ワタシも石、拾ってました。
>7様。コメントのお陰ですね(笑)
>とらねこ様。僅かでも読んで頂けるだけで満足です。
>愚迂多良童子様。誤字修正しました。ご指摘有り難うございます。
>19様。早苗って下戸だったんですか。……知らなかったです。
>幻想様。作者の幻想郷は現代をベースにしています。