夕刻。慧音が村の大通りを歩いていると、道の向こうからルーミアが歩いてくるではないか。二人はちょうど互いに道の反対側にいて、今まさにすれ違おうとしていた。
「なぜルーミアが人里にいる」
驚いた慧音は見事な二度見をした。あまりの勢いに頭の飾りが吹き飛びそうになった。
ルーミアは外見だけ判断すれば可愛らしい西洋童女だが、れっきとした人を喰らう妖怪だ。それほど凶暴ではないが、里にいてよい存在ではない。道にはぽつぽつと人通りがあるが、誰もルーミアの事は気にしていない。
慧音はルーミアの後をつける事にした。できれば騒ぎはおこしたくない。距離を保って、静かにその動向をうかがった。
ルーミアは両手を広げながら楽しげなスキップでかけていく。今のところ悪意は見えないが、ルーミアは無邪気なままに人を喰らう妖怪である。
万一、通りの人間に襲いかかった時は……。慧音の隠された角が、僅かに疼いた。
「飯炊きの匂いにひかれたなどとは言うまいな」
あたりの民家からは夕食の支度の煙が昇っている。ルーミアはどこかポケポケっとした感があって、あながちそれも無くは無いとも思えた。
それから数分もせぬうちである。
「むっ!」
ルーミアは一件の民家の戸を開け、中に入っていった。
たしかこの家の者は、数年前に病で夫をなくした母子家庭だったはず。
「しかし……なんだか慣れた様子だったな……」
家に入るときのルーミアの様子は、忍びこむだとかそういうのではなく、顔見知りの家を訪ねてきたという風だった。何度か戸を叩いて、それから勝ってに戸を開け、ひょいと中に入っていった。
慧音は家の軒先にまできて耳を澄ました。
とりあえず、家の中から悲鳴が聞こえてくるような事は無い。
どうしたものかと思案し、慧音は、この家の者の歴史を読むことにした。
納得いく理由があるのならば、わざわざでしゃばる事もないのだ。人と妖が仲良くしているのなら、それはそれで、半人半妖である慧音にとって喜ばしい事なのだから――
暗い森の中を、一人の女が、草枝を掻き分けながら走る。死に物狂いで何かを追いかけているようでもあり、必死に逃げているようでもある。一歩走る事に鋭い葉が着物や肌に傷を作る。心臓は今にも破裂しそうだった。そうさせるのは、疲労と、不安と、そして恐怖である。夜の森。そこは人間の世界ではなく妖怪達の世界だ。こうしている次の瞬間にも、側の茂みから恐ろしい怪物が飛びかかってくるかもしれない。いやすでに、後ろから追いかけてきているかもしれないし、前方で待ち構えているのかもしれない。想像するだけで、顔が強張り、冷や汗が噴出し、足がすくむ。『死』。その恐怖が圧倒的な現実感をともなって、そこかしこの闇に潜んでいた。
だがそれでも女は走る事をやめなかった。あまつさえ、大声を上げるという自殺行為までする。
「ヨキ!! どこにいるの!! お母さんだよ!! 返事をしてェ!!」
妖怪に気づかれる事もいとわず、母は渾身の力を込めて絶叫した。
死別した夫が残してくれた忘れ形見の息子。それが、遊びに行ったまま夜になっても家に帰ってこなかった時、母は一人、村中を探し回った。「森の中へ入るのを見た」そう聞いた時、その顔は真っ青になり、膝が震えだした。だがすぐさま、村を飛び出した。女手一つで育ててきた、唯一の宝である。
「どこ! どこなのォ!」
獣に喰われる息子。妖怪に喰われる息子。おぞましい予感が次々に心に湧いて、その顔が絶望の涙に濡れた。
その時である。
ふいに、何もかもが真っ暗になった。
「え!?」
月明かりで僅かに見えていたはずのあたりの草木がまったく一切見えなくなった。自分の手のさえが、見えない。
もしかして自分は死んだのだろうか……。脈絡もなくそう考えた矢先。
「あなたは食べてもいい人類?」
すぐ目の前の闇から女の声がした。ほんとうに、鼻の先程の距離からである。
「ひぃ!!」
女は驚いて腰を抜かした。
「今日は良く人間に会うなぁ」
よくよく聞くと、それは女というより童女の声であった。
「だ、誰!?」
「ルーミア」
「るーみあ……」
聞きなれない名前であった。妖怪かもしれない、と全身に鳥肌が立つ。そしてすぐに思い出す。「食べてもいい」そんな恐ろしげな事を言っていたではないか。間違いない。とうとう妖怪につかまってしまったのだ!
「ひぃぃぃぃ!!」
女はとっさに胸のうちから護符を取り出して身を屈めた。博麗神社に初詣をしたさいに貰った退魔の札である。
「むっ」
と、それまで場違いに呑気だった童女の声がたじろいだ。
「なんか、霊夢っぽい気配……。霊夢の御札を持ってるの?」
女は札を顔の前に掲げたまま、ガタガタと震えた。
「うーん。それ持ってる人間を食べると、霊夢に怒られるよねー……。しかたない。さっきの人間で我慢しよー」
女はすぐそばにあった気配がスゥッと離れていくのを感じた。そうして顔を上げると、いつの間にかあたりの暗闇が再び見えるようになっていた。
前方に、不気味な黒い球体が浮いている。今まで自分はあの中にいたんだろうと、おぼろげに理解できた。
自分は助かったのだろうか、とほうけている女の頭に、突如、童女の声が反芻した。
『さっきの人間で我慢しよー』
その意味に思いあたったとき、女の全身から冷や汗が噴出した。
「ま、待ってぇ!!」
黒球に向かって、女が悲鳴を上げた。
「何なのかー?」
黒球の中から、返事。
「男の子でしたか。今言ったさっきの人間って、男の子でしたか」
「んー? 人間の男の子女の子って、見分けがつかないからなぁ」
「ええと……緑の着物を着ていませんでしたか。髪は短くて、ほっぺたに傷がありませんでしたか!」
女の息子『ヨキ』は先日木登りから落ちたおり、頬に大きな擦り傷をつけていた。
「あー……そういえばそんな感じの人間だった気がするなぁ」
女は心臓を鷲づかみにされたように感じた。
「あぁ、なんて事……」
目の前の妖怪が食べようとしている人間こそおそらく、必死に探している大切な息子なのだ。
女は頭を下げたて草土に額をこすりつけた。
「どうか、どうか息子を返してください」
だが返ってきたのは明らかに不機嫌そうな声だった。
「えー。お腹すいてるのに嫌だよー」
「わ、私を! 代わりに私を食べてください! どうか息子だけは」
「だって霊夢の御札もってるじゃん。それ持ってる人間を食べると怒られるんだもん」
女は迷うことなく札を投げ捨てた。
「捨てました! 捨てましたから!」
「駄目なんだよー。どうやってるのか分からないけど、それでも持ち主が死ぬと霊夢にわかっちゃうんだもん。食べたら怒られたし」
「ああ……ああ……どうしたら……」
女が困りはてていると、黒い球体はふよふよと離れていく。
「んー、もういいかな? じゃあねバイバイ」
「ま、待って!!」
女は駄目もとで叫んだ。
「お腹がすいているのなら、ご飯を用意しますから! 家に食べに来てくださればいくらでもご馳走しますから!」
人食い妖怪が人間の食事など食べるのだろうか、そう思いつつも叫ぶしかなかったのだ。きっと無駄だろうと、そう悲嘆にくれた。
だが、黒い球体は中空でピタリと止まった。
「本当?」
「えっ」
そして闇が突然霧散した。
闇があったところに、今は、少女がいた。
月明かりに金髪を輝かせ、愛らしい瞳を笑みで輝かせている。黒いワンピースを着た、女の息子と同じような年頃の童女だった。
その童女が、女にズィズィと近寄ってきて、顔を寄せた。
「人間のご飯はおいしい! 本当につくってくれるの?」
「え、ええ」
女はこくこくと頷いた。たしかに少女は可愛い顔をしてはいるが、いつその顔が八つに裂けて化け物の醜い顔が現れるのかと、ひやひやしていた。
「よーし! じゃあ人間は返すのだ!」
「ほんとうですか!」
「ご飯を奢ってくれるのならいいよ」
「ええ! もちろん! ええ!」
「あ……」
「え?」
突然、ルーミアが、もじもじとし始めた。顔の前で指をごにょごにょさせながら、ぼそぼそと言う。
「何回でもご飯を作ってくれるんじゃないと、返してあげないぞー……なんちゃって……」
そんなことを言いながら、恥ずかしそうに女の顔をチラチラと伺う。女はきょとんとした後、やはりまた必死に頷いた。息子を取り戻せるかどうかの瀬戸際なのだ。
「ええ! もちろん! 何度でも!」
「本当なのかー!!」
その時のルーミアの顔は満月よりも明るく輝いていた。
「それでその、息子はどこに!」
「えーと。洞穴の中に置いてあるよ」
「ちゃ、ちゃんと生きていますか」
「大丈夫だと思うよ。森の中で気を失ってたんだー。獣に食べられそうになってたんだよ」
「なんてこと……ありがとうございます。助けてくださったんですね……」
「あははー。生きてる人間のほうがおいしいからね!」
女は絶句した。
「……あの……本当にいくらでも食事は作りますから……息子だけは」
「約束だからねー?」
強張った顔で、女は何度も何度もカクカクと頷いた――
「うーむ。これは……」
慧音は腕を組んで唸った。
母子が迷惑しているのであれば助けたいが、ルーミアがきちんと約束を守っているのならば、手をだすのは躊躇われた。ルーミアだって、餌を譲ってくれたのだから。一方的に人間に肩入れするのは慧音の筋が通らなかった。
「しかし、せめて私に一言あれば。何か助けにはなったろうに。このような事になっているとは露ほども知らなんだ」
そうやって眉に皺をつくっていたところ、家の中から、子供の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。おそらく、家の息子だろう。
「……さしあたっては問題ないようだが……」
慧音はふぅむと息をついて、軒先を離れた。
「母殿にもっと状況の聞き取りを行わねばな。その息子の事も時折様子を伺っておかねば……。ルーミアにもちと話を聞いてみようか。そうだ、今度野菜でも持ってきてやるか。ルーミアが大飯ぐらいだとは聞いていないが、時折とはいえ一人分の食い扶持が増えるのでは、それなりに辛かろう」
ぶつぶつとあれこれ呟いた後、慧音はとんとんと肩を叩いた。
「やれやれ。また心配事がふえた」
そうは言うが、少しだけ、その口元が笑っていた。
こうやって人と妖の縁が生まれるのは、慧音には微笑ましく思える。関わりあい方は、まぁ、色々だ。
先々この縁はどうなっていくのだろうか。
果ての無い幻想境の夕焼け空を眺めながら、未来の歴史を食べる事ができればな、と慧音は夢想した。
一年後――
「ルーミア姉ちゃーん。ヨキだよー」
森の中に一人の童子がいる。正午を回ったところだが、木に覆われた森は薄暗い。
そして今、その背後から鋭い牙をもった妖怪が童子に忍び寄っていた。
「がぶっ!!」
「いてぇ!!」
ヨキは何者かに肩を噛まれ、驚いて振り返った。そこにルーミアがいた。楽しそうに笑っている。
「あははーヨキだー」
「姉ちゃん痛いよ! うわぁ、歯型が残ってる……」
「ヨキ。森の中に入ってきたら危ないよー」
「昼間だから大丈夫でしょ? 妖怪が凶暴になるのは夜だって」
ルーミアは両手を挙げて手のひらをびらびらさせながら、大口を開けて牙を見せた。
「私は人食い妖怪だぞー。べろべろー」
ヨキはそんなルーミアを、きょとんとした顔で見ていた。ヨキが何も言わないので、ルーミアは滑稽なだけだった。
「お母さんが、久しぶりにご飯を食べにこないかって」
ヨキは何事もなかったかのように、言った。ルーミアもつまらなくなったのか、何事も無かったかのようにヨキの言葉に顔をほころばせた。
「おおそうなのかー! ヨキのお母さんは優しいなぁ!」
「姉ちゃんは一応俺の命の恩人だからねー」
「食べようとしてたんだけどねー」
「あははー」
ヨキは屈託無く笑った。子供の無邪気さゆえなのかもしれないが、それもまた人と妖をよく結んだ。
十年後――
「ルーミア姉ちゃん」
森の中に一人の青年がいた。まだ二十歳には届かぬが、幼さをすてた大人びた顔付きをしていた。
目の前には小さな河原があって、その岸ではルーミアが昼寝をしていた。
「おおヨキ。ふぁぁ。またご飯をご馳走してくれるのかー?」
「ああ。それに今日はお祝いなんだ。ちょっと豪勢だよ」
「へぇ。そうなのかー」
「うん。俺の嫁さんが子供を生んだんだ。娘だよ」
ルーミアの顔がパァッと輝いた。
「子供かぁー! おいしそうだー!」
ヨキは大口を開けて笑った。
「はっはっは! 姉ちゃん。ご馳走は俺の娘じゃあないからね。食べちゃだめだよ」
「あはは。わかってるよー。ヨキの家は上手い飯を食わせてくれるから好きだ。でも人間は皆同じ顔をしてるからなぁ。間違って食べちゃうかもなぁ。そうだー。赤ちゃんの名前を教えてよ」
「名前か。ハヤってんだ。婆ちゃんの名前をもらったんだよ」
「そーなのかー。じゃあ、ハヤっていう人間は食べないようにするよー」
「さぁ。家にきておくれよ。そうだ。ハヤが大きくなったら、時々一緒に遊んでやってくれな」
「いいよー。私の友達にも紹介してあげるのだー」
「おお。そりゃあ良い。娘にはいろんな世間をみせてやらにゃあなぁ」
百年後――
里の茶屋。机に向い合った二人の男達が、たわいも無い世間話をしていた。
「おう茂吉。知ってるか」
「あん? 何をだ平蔵」
「小さな女の子の姿をした人食い妖怪がいてな」
「おお知ってるぜ平蔵よ。金髪の女の子だろ。可愛いとおもって油断して近づくと、ぱっくり喰われちまうってんだろ」
「そうだ。んでそいつと出くわしたらな」
「ははぁ知ってるぜ。お菓子をあげれば見逃してくれるんだろう」
茂吉が得意げに言う。
平蔵が顔をしかめて、文句を言った。
「茂吉おめぇはよぉ!人の話をさきさき勝手に進めるんじゃねぇよ!」
「わぁったわぁった。悪かったよ。それでなんだって?」
「ったく……。でな。お菓子がなかったら、さぁ、どうする?」
「うむ? そいつはわからねぇなぁ」
茂吉が首を傾げるのを見て、今度は平蔵がしてやったりと得意げに唾を飛ばした。
「こいつは俺の婆さんが昔、人から聞いたそうなんだが」
「ほぅ」
「『ハヤだ! ハヤだ! ハヤだ!』と叫ぶと助かるんだと」
「ハヤ? なんだそりゃ」
「さぁ。それは知らねぇ。そういや他にもいくつか言葉があるそうなんだが」
「とにかく、そう叫ぶと逃げていくのか?」
「いんや。連れ去られる」
したり顔で言った平蔵を、茂吉が馬鹿にした顔で見かえした。
「はぁん? じゃあ助かってねえじゃねえか」
「いやいや、喰われはしないんだよ。ただ、一日中遊んで連れまわされるんだと。妖精やら他の妖怪のところやらにも連れて行かれて、そりゃあおっかない思いをさせられるそうだ」
「ほおん……まぁ、妖怪ってやつはよくわかんねぇな」
「そうだなぁ」
たまたまこの時、男達の後ろの席で、慧音が茶を飲んでいた。慧音は百年前と変わらない容姿をしている。
慧音は二人の会話を聞いて、人知れずくすくすと嬉しそうに笑っていた。
噂になるのっていいなあ。根も葉もないのが出てくるんだろうなあ。
そんな作品でした。
時間の経過が不思議と悲しく感じないのが面白いですね
和みます
こんな作者さんの作品を見逃してたなんて
なんだか不思議な気持ちだ
いかにも妖怪と人間って感じで良かったです。
百年後のシーンを見て涙してしまった。
助かった人間の中から、またルーミアと親しくなれる人間が出てくると良いなあ。
俺の考えていたルーミアのあり方がここにっ!!!
同じ様な設定を考えていたんですけど、KASAさんのは完成度が高すぎてやばい。(そもそも投稿したことないんですが・・)
初めて考えたネタがかぶるってなんなんだろう・・・
これはもう「君にssをかく力なんてないんだよ、ジョニー」ということに違いないww
っと、ともかく僕にとってどつぼなルーミアでした!
眼福感謝!
幻想郷らしいお話だと思いました。
百年経っても約束を守るルーミアに、色々考えさせられますね。
欲を言えばもっとこの設定でお話が読みたいです…^^
ルーミア興味なかったんですが、ちょっと好きになったかも。