寅丸星。財宝が集まる程度の能力。
宝塔。寅丸の持つ毘沙門天の力を宿す秘宝である。
その日、寅丸は三十回も宝塔を紛失した。
一日に数回は紛失するのが常ではあったが、これは新記録だ。
起床時に目覚まし時計と間違え投げ飛ばし、朝食時には調味料類と一緒に棚にしまった。洗濯をすれば着物と宝塔を川に流し、寺子屋に招かれて説法をすれば間違えて教師の帽子を持ち帰る始末である。
宝塔を失くした事に気付くたびに、こっそりとナズーリンに探して貰う事二十九回。始めは呆れつつも笑いながらダウジングロッドを振り回していたナズーリンだが、回数が十を越え、二十を越える内に鋼鉄の無表情を浮かべるようになった。仮面の下は爆裂寸前の感情で渦巻き、冷ややかな鉄面皮は氷の妖精すら凍りつかせるだろう。
その後も寅丸は順調に宝塔を失くし続け、その度にナズーリンは走り回った。
消灯間際、クタクタに疲れたナズーリンが溶けるように布団に沈み込んでいると、部屋の戸を叩く音がする。当然、相手は寅丸であり、困った困ったなどと眉を八の字にしてこうのたまった。
「宝塔を良く見たら醤油差しだったんだ、また失くしてしまったようだ」
ナズーリンは爆発した。
言葉にならない絶叫を上げ、ダウジングロッドを膝でへし折った。地団太を踏み、ゴロゴロと転げまわり、チューチュー鳴いたりもしてみた。両目から止め処無く涙が溢れる。こめかみの血管が浮かび上がり激しく脈打つのがわかった。しばらく感情の赴くままに弾幕を撒き散らし、床板から壁から天井にいたるまで万遍なく風穴が開いた。呆然と立ちすくむ寅丸はカスリ点を大量に手に入れた。
唾液を飲み下し、張り付いた喉からようやく言葉を搾り出す。
「……醤油差しと宝塔は、間違えませんっ……!」
紙やすりをかけたような喉から出る魂の叫び。
それに寅丸は「当たり前です」などと答えたので、ナズーリンはまたしばらく暴れた。
この一件は翌日の命蓮寺で会議の議題の一つになり、結果、月間目標が「寅丸星の強化」に決定した。
こうして寅丸星は『ナズーリンに頼りきりにならない自立した妖怪』を目指すことになった。
人間の里の外れにそれはあった。
一目みた様子では瓦礫の山のように見え、目を凝らして見ると倒壊寸前の集合住宅であることがわかる。二階建て六室の、いわゆるアパートメントのようだった。
どうにも陰気な建物である。ささくれた木塀のいたる所に顔のような染みが浮かんでいて、それがぐるりと敷地を囲っている。庭には背の高い枝垂れ柳が上から覗き混むようにアパートの回りに生えていた。おかげで、もうすぐ正午だというのに日が差さず、地面はぬかるみ泥沼のようだった。時折、吐息のような生温かい風が首筋を撫で、ざわめく枝垂れ柳はさめざめと泣く女の声を彷彿とした。肝心の建物自体も全体的に傾いでいて、常に不気味な軋みを上げている。赤錆びた外階段は所々抜け、風化寸前の手すりは触れるだけで脆くも崩れ去った。二階廊下は一歩ごとに床板全体が大きくしなり、その度に子供の悲鳴のような家鳴りが響く。
これが寅丸星の新居だった。
数日前の命蓮寺での喧々囂々の議論の結果、聖は次のように結論づけた。
「寅丸とナズーリンはお互いの距離をとるべきであり、先の宝塔紛失の喧嘩は寅丸の過失が大きい。よって、寅丸星は命蓮寺に一ヶ月の間は出入り禁止とする」
つまり、一時的に命蓮寺を出て一人で生活することになったのである。
想像以上に重い処分にナズーリンは戸惑い、そこまでしなくてもと減刑を訴えたが、当の寅丸は聖の決めた処分を望んだ。
寅丸は反省していたし、処分を受ける事が自身の戒めになると思ったのである。
聖が封印されている間、一人で生きてきたのだ、と寅丸は命蓮寺の皆には笑った。何も難しい事ではない、心を閉ざして耐えるだけだ。
何も問題などない、寅丸は少しだけ自分に言い聞かせた。
こうして、寅丸の処分が決まった。一月単位の契約が出来る賃貸住宅物件(妖怪も可)はないかと知り合いの巫女に相談した所、ある物件を紹介された。
みゆき荘。
漢字では幸荘と記すらしい。表札には長い年月風雨に晒されたためか文字が掠れて『幸』の一字から一本横線が消えていた。
「な、中々どうして趣のある建物ですね」
冗談めかして寅丸は言ったが声が上擦っていた。
「ええ、そうね」と同意した聖は目が泳いでいた。
僧侶でも嘘をつくことぐらいある。
とにかく、寅丸は博麗霊夢に紹介されたアパート、みゆき荘に引っ越すことになったのだ。
引越しの当日、ナズーリンは手伝いに来なかった。
「喧嘩で追い出したみたいになってばつが悪いのよ」
大した事無いわと、雲居一輪は言う。雲山もモクモクと曇ったりした。
引越し作業は困難を極めた。
村紗水蜜が新たに聖に建造してもらった小型聖輦船に寅丸の私物を乗せて運んでくるまでは良かった。
よりにもよって寅丸の部屋は二階の一番奥の部屋だった。最初は地に足をつけて物を運んでいたが、寅丸が庭で転んで泥だらけになったり、聖が床板を踏み抜いたり(重量過多ではないと本人は言う)、雲山がモクモクしすぎて小火と勘違いされて消防団が来たりしたので、以降は浮遊して作業をした。砂の城を扱うように繊細に作業せねばならず、にも関わらず畳が腐っていたりとアパート自身には繊細さや羞恥心といったものは無い様子であった。
途中、冷やかしに封獣ぬえと多々良小傘がやってきた。
ぬえは不用意に二階の手すりに背中を預け、当然の如く崩壊した手すりと共に墜落した。その様子に小傘は目玉が飛び出るほど驚き、インスピレーションを得たと喜び帰って行った。落下したぬえを聖が介抱したが、手を振り払い半べそをかいて帰って行った。
日の暮れる頃になってようやく引越しは終わった。
全員で一室に入るとアパートが倒壊するだろうと誰もが予測し、打ち上げは村紗の小型聖輦船内で行うことにした。
小型聖輦船は半日アパートの傍に置いていただけなのに、船底はカビにまみれ室内は野菜が腐ったような臭いが染み付いていた。村紗は少し落ち込んだ。
乾杯の音頭は寅丸がとった。今日一日の引越し作業を労い、命蓮寺の皆に感謝をした。酒屋に運び込ませて置いた麦焼酎を一人一人の杯に注いでいく。
「聖、ありがとうございます。一ヶ月の間ここで強い自分を取り戻したいと思います」
「一輪、そして雲山。手伝ってくれて感謝します、ありがとう。雲山モクモク」
「村紗、良い船ですね。やはり貴女には船が似合います、キャプテン村紗」
ぐい呑みが二つ突き出される。
いつの間にか、ぬえと小傘の二人も来ていた。
「ぬえ、怪我は大丈夫ですか? 泣いて帰ったようですが」
「小傘、今、驚かしたら酒を注ぎませんよ」
寅丸自身を含む全員の杯に酒を注ぎ、もう一つ、杯を探した。
無い。
乾杯を促され、寅丸は笑顔をつくる。嘘をつくのは得意だ。
「乾杯!」
寅丸が叫び、杯を上げる。
旅先というのは羽目を外しやすく、酒というのはそれを手伝うものである。
命蓮寺から大した距離を離れた場所ではないが、他所で呑む酒は趣きの違うものだ。誰もが羽目を外し、大いにはしゃいだ。
一輪が雲山を一升瓶に押し込む一発芸を見せ、聖が髪の毛でプリンの物真似をした。呑み過ぎたぬえが「どこに言っても誰? って言われる、能力的に」と、うじうじと泣きだし、村紗も新しい船がカビたことをシクシク泣いていた。小傘が皆を驚かすと、点数をつけられ十点満点中三点を越えることはなかった。
宴会は大いに盛り上がり、誰もが泣いたり笑ったりしていた。
寅丸は待っていた。
余興に合わせて笑い、小話で笑わせ、宴会に溶け込みつつも一人待っていた。
ナズーリンは来ない。
染みだらけの壁に紙が画鋲で留められていた。
その紙にはこう書いてある。
「いつも心に宝塔を。」
一週間が経った。寅丸はアパートの共同洗い場で米を研いでいた。ふと見上げると覆いかぶさるような枝垂れ柳、今日の天気もわからなかった。
ため息をつきそうになり、飲み込んだ。
誤魔化すように力を込めて米を研ぐ。
この一週間、一人で生きることを思い出していた。
何百年も前の話だが、聖白蓮が人間の敵として封じられた時に寅丸は何もできなかった。
聖が封印され時、己は妖怪であることを隠し毘沙門天の使徒として人間の信仰に答えた。
ただひたすら自分の役割を演じた。恐かった。もしも自分が妖怪であると知られたら、聖のように封じられるか、それとも退治されるか。
妖怪は人間を襲わねば妖怪ではいられない。
その時の寅丸は、妖怪とはいえなかった。ただ独りの無力な僧侶であった。
この世の理不尽に咽び泣き慈悲と救いを求める一人の信徒。
彼女は生きることを切望した。ただ幸せになりたかった。
迷い揺れる寅丸に信仰を集める術などなかった、いつしか命蓮寺は荒れ果て、誰もが寅丸星を忘れた。
声にならない、誰か、誰かと寅丸は心の内に叫ぶ。
心を絞るようだった。聖白蓮にもう一度会いたかった。そしてもう間違えたくはなかった。
世界は寅丸星どころか聖白蓮すら忘れた。信仰があった故に信仰が彼女達を殺したのだ。
数百年、永遠とも思える後悔の年月だった。
ある時、幻想郷に間欠泉が吹き出した。地の底に閉じ込められていた様々なものが一緒に出てきたという。
心がざわめいた。もしや、という気持ちを持つことは危険だった。期待すればするほど、砕かれた時の傷は深いのだ。
それでも祈らずにはいられなかった。
そして、あくる日にナズーリンが来たのだ。
「村紗の船も帰ってきました。もしも、あなたが聖白蓮の味方であるのなら同士たちにお力を貸してください、どうか」
救いの言葉だった。
もう後悔はしたくない、浅ましくとも己のために救うのだ、聖白蓮を。
聖の救出は様々な要因が関わり、聖が誰のおかげで助かったかというのは明確にはできない。
しかし、寅丸星を救ったのはナズーリンだった。
「あなたの力を貸してください」
その一言が全てだった。
不意に、米を研いでいたことを思い出した。
釜の中の米はすっかり角が取れ、丸くなっていた。
寅丸は笑った。
アパートの一室は四畳一間に押入れが一つ。
玄関横に申し訳程度の洗面台があり、顔を洗うとヒビの入った鏡が歪んだ顔を映してくれる。便所は共同で、泥にぬかるむ庭の隅にポツネンとある。風呂はなく、人間の里の銭湯まで行かねばならなかった。台所は裏庭に炊事小屋があり煮炊きはそこでしか出来ない。
寅丸がこのアパートに住み始めた当初は自分ひとりだけが暮らしているものと思っていたが、時折なにものかの気配を感じることがあった。しかし、どういうわけか顔を合わせたことはない。
引越しの挨拶に蕎麦を持っていくと、やはり留守なので袋に入れて玄関戸に吊るして置く。すると数時間後にはなくなっているのだ。音も気配もなく不思議な事である。
『正体不明』の何者かが住んでいる。
『正体不明』とは、この場合は逆にわかりやすい正体でもあった。
なんにしろ、寅丸に直接関わってこないことは都合がよかった。みゆき荘には謹慎のために来たのであり、修行の場であるとも言える。
「自分を見つめなおし、強くなるのだ」
などと当初は考えていて、朝から経文を唱えたり、身体を鍛錬したりしていたのだが、十日も過ぎると何となく気が乗らず、布団の上でだらけることが多くなった。
いつの間にか自炊もあまりしないようになり、外食や出来合いの弁当で済ますようになっていた。
米だけは命蓮寺から持ってきていたので、気まぐれに炊いて塩を振って食ったりした。血圧に悪そうな食事である。
いつしか、布団の上に転がって饅頭など食いつつ、里で買ったマンガ本を眺めてクスクス笑ったりするのが日常風景になってしまった。
堕落している。
寅丸自身もわかっていた。しかし、物事を真剣に構えようとすると、言いようのない不安に襲われるのだ。そんな時は命蓮寺の仲間のことを考え、少しだけ泣いた。
ようするに寅丸はホームシックだった。
ほんの半月ばかり一人でいただけで耐えられないのだ。何百年もの間、一人で生きていたはずなのに、半月の孤独が耐えられなかった。
命蓮寺に帰りたい。仲間に会いたかった。
もう一度ナズーリンに謝ろう、そう思った。
玄関戸を叩く音がした。ここに来て始めての来客。寅丸は涙を袖で拭い、鏡で顔を確認してから戸を開いた。
誰もいない。
外側のドアノブに小さな風呂敷包みが吊るしてあった。
解いて見ると手紙と折り箱である。二つ折りにしただけの簡素な手紙には、「お菓子を作ったので食べてください。」の短い内容と聖の署名が書いてあった。
折り箱を開くと、ボタモチがみっしりと入っていた。
何故かボタモチは少しだけしょっぱい味がした気がした。
今、寅丸は敷きっぱなしの布団を前に腕を組んでいた。
実はこの布団、越して来てから一度も上げていない。ただでさえ換気が悪く湿気の多いこのアパートではカビが生えてしまう。しかし布団を干しても日は当たらず、湿った洗濯物の臭いを放つだけなのである。
ならばせめて、昼間は押入れに収納するなりしようとも思うのだが、なんという事か押入れが使えない。
これは初日に気付いたことなのだが、押入れを開くとそこには全長五十センチはある日本人形が立っているのだ。人形がなんだと思うのだが、この人形、髪の毛が伸びるらしく押入れの底一杯に髪が広がっている。人形は椿油に滑る髪の海の中で寅丸を無表情に見上げるのだ。どこか懐かしい雰囲気を持つ、古びた日本人形である。
何か幽霊か妖怪かの仕業か、幻想郷には珍しいことではない。
初日、寅丸はコレを発見し、法句を唱え鎮魂を祈り、床についた。
その晩に夢枕に何者かが立っていた。
「……ただいま」
それは、やはり例の人形で、寅丸に囁くのだ。
数日の間、お互いの主張を夢枕で話し合った。
その結果、押入れは先住の日本人形のもので、それ以外は寅丸の領地ということで落ち着いた。
人形の問題は片付いた。しかし、布団はどこにしまうべきか。
三つ折りにして端に寄せれば良いと思い、試してみると、どうにもうまくいかない。崩れてしまうのだ。敷布団は問題ないのだが、聖が奮発して用意してくれた羽根布団が雲山の如くフワフワで厚みがあり、畳んでも畳んでも開いてしまう。
どうしたものかと考えあぐね、天井の顔のような染みの数を数えていて、閃いた。
吊るせば良いのだ。
天井には太い梁が通っている。そこから輪っかを作った縄を二本垂らし、簀巻きの如く丸めてまとめた布団をハンモックのように吊るして収納するのだ。
梁を見てみるとこのアパートのものとは思えないほどしっかりしていて、十分重さに耐えられそうである。さらに以前の住人もこの案を採用していたのだろうか、梁には縄の擦れた跡があった。
寅丸はさっそく人間の里で縄を調達してきた。
ささくれ立った荒縄だが頼もしい丈夫さを感じる。布団の重さぐらい軽く引き受けてくれるだろう。
みゆき荘に越して以来久しぶりに楽しい気分だった。浮かれてスキップなぞしたものだから、階段を一段踏み抜いた。おまけに戸に鍵を掛けるのも忘れた。
二本の縄の先にそれぞれ輪をつくる。行儀が悪いが卓袱台に茶箱を乗せて踏み台にした。縄を梁に二本吊るした所ではたと気付いた。
梁から垂れる輪のついた縄。
……これは――
――次の瞬間、無遠慮に玄関戸が開け放たれた。
「こんにちはー、遊びに来たよー……って、うわあああっ!!」
多々良小傘だった。
小傘が見たものは、梁から吊るした『首吊り縄』を手に呆然と立ちすくむ寅丸の姿だった。
事実は違うのだが、その姿に小傘は顎を床に落とすほど驚き、首を括るのを阻止すべく寅丸に跳びついた。小傘の良心から起こした行動だったが、不安定な足場にいた寅丸はバランスを崩した。
寅丸も動揺していた。
小傘が突然来たことにも驚いていたし、自分がどういう誤解を受けているのかも理解していたので弁明をしようとしていた。その最中に布団が敷きっぱなしで恥かしいなどと余計な事を考えたりしたせいで、反応が遅れた。
小傘が寅丸の腰に抱きつくように組み付き、踏み台にしていた卓袱台は大きく揺れて茶箱はどこかに滑っていく。足元がなくなり思わず縄を持つ両手を引いたものだから、悪い冗談のように首に縄が掛かった。
寅丸も小傘もお互いに混乱していて浮遊することも忘れていた。
寅丸は両手で首に掛かった縄を掴んで身体を引き上げようとするのだが、小傘が腰にぶら下がっていて上手くいかない。そして、その小傘は何やら叫んでいた。
「――生きている間は死んではいけないわっ! ダメよ、生きるのよっ!!」
寅丸は今にも死にそうだった。
真っ赤な顔がどす黒く変色していき、涙が溢れ鼻水が出た。小傘が騒ぐたびに縄は大きく揺れ、深く首に食い込んでいった。
ああ、三途の川が見える……。
赤い髪をした死神が小船の上で気だるげに座っているのがぼんやりと見えた。
こんな所で、こんな間抜けな最後を遂げるのが運命だと言うのか?
これは、かつて聖を見捨てた罰だろうか?
馬鹿な! 私はまだ何も償っていない。
死んでたまるかという気力を爆発させる。もはや知性など感じさせぬ、ともかく我武者羅に身体をくねらせ、腕に力を込め、何とか脱出を試みる。
無情にも縄はさらに締まり、寅丸の脳内酸素は尽きかけ、小傘は無駄に元気だった。
しかし、最後まで諦めない。本能が叫ぶ、死にたくないと。原始の感情だった。何百年間の後悔とその時の生への渇望など生ぬるいものだった。今、死のうという瞬間には、懺悔も何もない。死にたくないという生命の絶叫だけだった。
まさしく渾身の力で、弾幕を繰り出す。
光符「正義の威光」。みゆき荘に力ある光が降り注ぐ。屋根に次々と大穴が開き、床も壁も光に触れるもの全てが爆散し光に還元していく。小傘が絶叫した。寅丸も叫んだが、喉がしまり声にもならない。それでも、声にならなくとも寅丸は繰り返し叫んだ。
当たれっ!
降り注ぐ光の一つが寅丸の部屋の梁に直撃した。爆散した梁は煌く木片を撒き散らし、そして光へ変わっていく。その衝撃で寅丸は大きく振られ、ようやく縄から首が抜けた。
みゆき荘は崩壊を始めていた。
元より倒壊寸前の建物である。梁やら柱やらが砕かれ、地の底に轟く断末魔の悲鳴を上げながら崩れ落ちていく。
寅丸はつぶれ掛けた喉をさすりながら苦しげに何度も咳をし、身体が満足に動かなかった。小傘は展開についていけずに未だ呆然と寅丸にしがみついていた。
押入れが開いた。
この騒ぎが嘘のように静かに人形が鎮座していた。押入れの底を満たしていた人形の髪が片側に寄せられている。つまり、ここに来いと。
寅丸は最後の力を振り絞り、小傘を押入れに放り込み、自分も身体を捻じ込んだ。
轟音。押入れはまるで荒波に浮かぶ一つの樽のようで、上下左右もなく激しく揺られた。小傘が叫びだしたので、舌を噛まないように寅丸の腕を噛ませるように袖を口に押し込んだ。小傘は驚きに目を白黒させ、感情の限界を超えたのか酸欠なのか、白目を剥いて気絶した。
みゆき荘は大きく震え、そして完全に倒壊した。
久しぶりに青い空を見た。
最近は室内にいることが多かったし、外に出ても自分のつま先を睨むように歩いていた。寅丸が見上げた空はどこまでも遠く青かった。
今や、みゆき荘は完全に瓦礫の山となった。
全てが終わり、音が死んだ静寂の中、寅丸が押入れを開くと、青い空が見えた。眩しさに目を細め、周囲を見渡すと押入れは崩壊したアパートの瓦礫の頂上にあった。毘沙門天の加護か呪いの人形の怨念か、アパートの崩壊の中で人形の押入れが無事だった。
痛む喉を撫で、掠れた声で寅丸は笑った。
喉はつぶれかけ、顔面は痣だらけ、全身は擦り傷だらけだ。たんこぶでボコボコの頭は髪の毛が埃やら泥やらでバリバリに固まり、衣服もあちこちが破れ綻び、指の爪は何枚か剥がれている。
しかし、それでも生きている。
ただ笑うしかなかった。
ようやく目を覚ました小傘はのっそり起き上がり、掠れた声で笑う寅丸をぼんやりと眺め。とりあえず寅丸の横っ面を張り倒し、縋り付いて泣いた。
「そういえば、小傘。貴方はなんの用で来たのですか?」
泣きじゃくる小傘の頭を撫でつつ、寅丸は訊いた。
小傘は寅丸の服で涙を拭い、鼻をかみ、真っ赤な目で見上げてくる。
「た、頼まれて、様子を見に……」
謹慎中の寅丸は命蓮寺の連中とは会えない。誰かが、命蓮寺とは関係のない小傘に頼んだのだろう。
「誰に頼まれたのです?」
「……えーと、その、まあ誰だっていいじゃない」
寅丸の視線を避けるように目が泳ぎ、タラリと鼻水を垂らした。
どうやら口止めされているらしい。
「聖に頼まれたのですね?」
水を向けてやる。
「――そう! そうそう、聖白蓮に頼まれたのよ」
聖白蓮ではないようだ。
誰の仕業だろうか。雲井一輪は気まぐれを起こしても雲山が嗜めるだろう。村紗水蜜は聖の言う事を破らない。封獣ぬえは『正体不明』である。残りは――
何となく見当のついた寅丸はそれ以上の追及をやめた。いつまでも瓦礫な山の上で話しているのは間抜けだし、危険だ。
とりあえずハンカチを取り出し、小傘の鼻をぬぐった。
「小傘、手を貸してくれませんか? 巻き込まれた者がいないかどうか確認したいのです」
恐らく、巻き込まれた者はいない。
みゆき荘で感じていた正体不明の住人は、そのうち帰って来るだろう。この騒ぎで出てこないということは、またどこかで人の邪魔でもしているに違いない。
小傘は「面倒だ」などと文句を垂れたが、倒壊の原因の一つは誰であるかクドクドと説明すると、それを遮って作業を始めた。
押入れの日本人形を引き上げようとしたが、長い髪があちこちに引っかかってしまう。寅丸は人形に了解を取り、適当な長さに髪を切り揃えてやった。着物の埃を払い、緩んだ帯を締めなおし、髪を梳くと、陰気な雰囲気はなくなり表情も心なしか穏やかになったように見えた。
小傘がどこからか一斗缶を拾ってきた。これで焚き火をするのだと言う。
燃え種はいくらでもある。それこそ山のようにだ。木片を適当に突っ込み点火すると、一斗缶の中に炎が赤々と踊った。
瓦礫の中から椅子になりそうな箱や材木を引っ張り出し、小傘と人形を座らせる。小傘は崩壊の際に押入れに入れてもらった事を憶えていたのだろう、人形に礼を言った。
寅丸は梁の一部と思われる材木に腰掛け、再び青い空を見上げた。
当たり前のことだが屋根がない。
問題は、後十日はここで暮らさねばならない事だった。
正体不明の住人が帰ってきた。
有り体に言えば、封獣ぬえである。
ぬえは一升瓶を入れた紙袋を抱え、鼻歌交じりに敷地内に入り、完全に崩壊したみゆき荘に気付き、ショックを受けて引っくり返って気絶した。幸か不幸か泥沼のような地面のおかげで一升瓶は割れなかった。
寅丸が博麗霊夢の紹介でみゆき荘に引っ越してきた時に、ぬえもこのアパートに棲みついていた。
最初は、修行をするという寅丸の邪魔をしてやろうと潜んでいたのだが、思いのほか居心地が良く、自身の能力で『正体不明の住人』としてアパート生活を謳歌していた。
買ってきた麦焼酎の湯割りでも呑みながら、寅丸の部屋から拝借したマンガ本でも読もうと考えていたら、何ということか住処は崩壊していた。さらには瓦礫の山の前には顔を真っ黒くし、全身の至る所から血を流した女が二人おり、祭壇のような台の上には日本人形が鎮座していた。三人は炎を囲みながらブツブツと呟き、ぬえに気付いた女の一人が低くざらつく声でぬえの名を呼ぶのだ。
封獣ぬえに気絶以外の選択肢はなかった。
寅丸は気絶したぬえを回収し、小傘が瓦礫の中から筵を見つけてきたので、そこに寝かせた。
「これからどうするのよ? 命蓮寺に帰るの?」
傘にこびり付いた土をこそぎ落としながら小傘が言った。
「どうもこうもありませんね。後十日、期日まではここで暮らしますよ」
どの道、ここで帰ってしまったらアパートを破壊した咎で追われる身になってしまうかもしれない。待っていればアパートの所有者か誰かが来るだろう。
あるいはこの騒ぎを聞きつけた巫女が寅丸を退治に来る。
こんな状態では命蓮寺には帰れない。
「小傘、貴方がどこに住んでいるか知りませんが、さあ、帰りなさい」
巫女と事を構えるとなると、小傘を巻き込むのは不本意だ。通りすがりの妖怪に命蓮寺が迷惑をかけるわけにはいかない。
寅丸の話を聞いているのかいないのか、小傘は泥のついた前髪を弄っている。
「きっとさ、巫女が、ああ魔法使いの方かもしれないけれど、あいつらが来るよね?」
首を少し傾げ、上目遣いに寅丸を眺めながら続けた。
「あの瓦礫みたら驚くでしょうね。私、人が驚いているのを見ると楽しいのよね」
ベロリと舌を出して笑った。
「争い事になったら手伝ってくれると言うのですか?」
「そういう事を尋ねるのは無粋だと思うわ」
寅丸も笑った。
これから面倒事があるというのに、悪くない気分だった。
「だが、まずは――」
今夜の寝床を作ろう。材木はいくらでもあるのだ、掘っ立て小屋で構わない。
それが終わったら風呂に入ろう、寅丸はそう思った。
不幸中の幸い、裏庭の炊事小屋はまるきり無事だった。
炊事小屋の柱を利用して拡張するように小屋を建てることにした。
作業の前に、人形がまた汚れたらかわいそうなので、とりあえず炊事場にあった茶箱の一つに入れ油紙で包んで棚にしまった。
小屋を建てるといっても、簡素なものである。炊事小屋の屋根を延ばし床板を張り、壁の代わりに筵をかけただけの貧相極まりない代物が出来上がった。
河童の大工でもいればもう少しマシな小屋が作れたろうが、致し方ない。
建築作業は思いのほか時間がかかったようで、日はとっぷりと暮れてしまった。その間もぬえは目を覚ます事なく暢気に眠り続け、怒った小傘が時々傘で突付いたりした。
寅丸と小傘は泥と埃にまみれて真っ黒だった。さすがに銭湯は入店させてもらえないだろう。仕方がないので、炊事小屋にあるドラム缶を一つ使って、ドラム缶風呂を作った。そのまま入ると湯船が汚れて使えなくなってしまうので、敷地内の井戸の傍でタライに水を張って体と頭を洗った。
衣装箱は破壊されずに残っていたので、換えの服はあった。二人は湯浴み着を着て、ドラム缶風呂を沸かす作業についた。
いつまでも寝ているなとぬえを起こすと、寝ぼけて愚図っている。どうにも面倒なので、寅丸は勝手にぬえを引ん剥きタワシと石鹸でゴシゴシ洗った。信じられない事にぬえはその状態でも寝ていた。
ようやくドラム缶風呂の出番だが、一人ずつしか入れないので、まずは小傘が入った。
しかし、ドラム缶の底にスノコを引いていなかったので足の裏が焼けて、小傘は飛び上がって驚いていた。綺麗に洗った板を踏むようにして沈めて、ようやく安全な風呂になった。
小傘が鼻歌を歌って、酒が呑みたくなるねえ、などと寛ぎだしたので、引っ張り出し、今度はぬえを押し込む。未だ眠っており、なんだか寅丸は心配になってきたが、小傘が「煮込みぬえ」等と言って笑いだしたので、どうでもよくなった。
適当な頃合を見てぬえを引き出し、服を着せるのは小傘に任せた。
そうして、やっと寅丸が風呂に入ることになった。
ああ、なんということだ!
極楽はこの世にこそあった!
疲れ切った身体に暖かい湯が染み入る。文字通り傷だらけの身体に染みたが、この心地よさは何にも勝った。小傘が酒を呑みたくなると言うのも納得で、湯船に盆を浮かべて一杯などと妄想した。
寅丸が何だか楽しくなり思わず歌など歌いだす。意味もなく「やーっ!」などと叫んで右腕を突き上げた。
丁度その時に、博麗霊夢がやってきたのだった。
「随分と、楽しそうね?」
状況は最悪だった。
博麗霊夢と諍いを起こすかも知れないことは予想していたが、まさか入浴中に来るとは間の悪い。
もちろん油断していた寅丸が悪いのであって、霊夢は何も悪くない。
当たり前の話だが寅丸星にも一人前の羞恥心がある。このまま霊夢と弾幕ごっこに発展したら自分は全裸で戦うことになるだろう。寅丸も霊夢も実力はかなりの物である。一度のスペルカードの応酬で決着がつくかはわからない。
何にしろ決着が尽くまでは寅丸は全裸でいることになるのだ。そこに騒ぎを聞きつけた天狗の新聞記者など来ようものなら……
――妖怪の山と全面戦争になるやも知れぬ!
寅丸の思考は暴走し、顔色は赤くなったり青くなったりと目まぐるしく変わった。
はっ、と気付く。小傘がいるではないか。
彼女が霊夢と戦っている間に服を着れば良いのだ。
しかし、小傘が見当たらない。首を巡らして探して見ると、作ったばかりの小屋で小傘とぬえは肩を寄せ合うようにして寝ていた。実に微笑ましい光景ではあったが、寅丸は絶望に眩暈がした。
とっくに覚悟は決まっていたはずだったが、勝っても負けても全裸で暴れまわる妖怪として世間に認知されるのは嫌だった。純粋に恥かしかった。
何が何でも弾幕戦にだけはしたくない、話し合いによる決着こそが望ましかった。
「財宝さん、じゃなくて、財宝が集まる能力の……寅丸星、だったかしら? 」
のんびりとした口調で霊夢は言う。その下にどんな感情があるのかはわからなかった。
「――は、話せばわかるっ!」
寅丸は叫んだ。
この台詞は相手の「問答無用!」に続くのが定石である。寅丸は一手目にして詰んだ。
しかし、人の話を聞かないのが博麗霊夢であり、幻想郷の住人の基本的な特徴である。
霊夢は寅丸を無視して、暢気に眠るぬえと小傘の二人に近付いていった。
「妖怪ってのも眠っていると人間とかわらないわね」
もしや二人に仇なすか、と寅丸は立ち上がったが、霊夢は小傘の頬を軽く引っ張ったりするだけだった。夜風に吹き曝され、プルリと震えて再び肩まで湯に浸かりなおした。
「博麗霊夢! 貴方が何の事情で来たのかは察しがつきます。この倒壊した建物について聞きたいのでしょう?」
静かだが、しかし凛とした声音で寅丸は言った。頭に手ぬぐいを乗せ、湯船に浸かりながらであったが。
「そうねぇ、魔理沙の家でもこんな散らかっていないわ」
寅丸の当てが外れたのか、霊夢はあまり興味はない様子だった。
どういうわけか瓦礫を退かしたり、崩したりしている。
霊夢の興味は寅丸になく、瓦礫に――瓦礫に埋まった何かにあるようだった。明らかに霊夢は何かを探していた。
霊夢が寅丸に背中を向けている今こそ好機かもしれない。風呂から飛び出し素早く衣服を身に着ければ最悪の展開は回避できる。
寅丸は素早く立ち上がり、風呂の淵に足をかけ――
「そういえば、寅丸――」
――博麗霊夢が振り返った。
お互い数秒の沈黙の後、寅丸は湯船に戻った。
ここまできたら別に気にしないでも良いではないかとも思う。銭湯なんて皆、素っ裸だ。見られたからなんだと言うのだ。自尊心がわずかに減り、心が少し削れ、枕に顔を埋めて足をバタつかせる過去が一つ増えるだけではないか。
そうだ、服を着るから後ろを向いていてくれと頼めば良いんだ。
冴えた考えだ。提案しようと霊夢の方を見ると、胡乱な目付きで睨んでいた。
「寅丸星、今、背後から襲おうとしたわね?」
完全な誤解である。
しかし、寅丸が否定の言葉を口にするより先に霊夢は続けた。
「そういえば地底で今の貴方に似た妖怪を見たわ。つるべ落としだったかしら」
つるべ落とし。狭いところが大好きでいつも桶に入っている内気な妖怪である。
不意打ちを得意とする妖怪でもある。
確かに、ドラム缶風呂に肩まで浸かり首だけ覗かせる今の寅丸は、地底に住んでいるつるべ落としに似ていなくもない。
霊夢は寅丸に対して半身に構え、右手に持つ大幣を突きつける。
「毘沙門天の弟子などと偽り、正体はつるべ落としだったのね!」
霊夢は断言した。寅丸はドラム缶風呂に入ったがために、つるべ落としにされてしまった。ドラム缶のつるべ落としなど可愛げがない、夜道で頭に落っこちてきたら致命傷ではないか。
いや、問題はそこではない。
寅丸にとって一番の問題は、何の説明をする間もなく霊夢が臨戦態勢に入ってしまったことだ。
博麗霊夢は普段は暢気で危機感のない巫女だが、妖怪退治においては容赦も手加減もない。
「霊夢、襲おうとなどしてはいません。誤解です、落ち着いてください」
寅丸は必死に弁明した。その様子を眺める霊夢の目は驚くほど感情がなく、狩人の眼だった。霊夢の左手に手品のように札が現れ、扇に開いていく。
「わ、わかりました。弾幕ごっこですね、やりましょう。でも、その前に服を着たいので後ろを向いてください」
そう言ってから寅丸は気付いた。我ながら間抜けな台詞じゃないか。
これから戦う相手に頼まれて背中を見せる馬鹿などいない。まして、妖怪を退治することが快感だと豪語する巫女(別の巫女? だったかも知れない)が、妖怪の言う事を聞くわけがない。
「――いや、違うんですよ! 背中を見せた瞬間に攻撃しようなどと思っていません!」
寅丸は混乱していた。と言うよりも長湯にのぼせていた。
ドラム缶風呂の火は未だ微かに燻り、お湯の温度は下がらない。中々風呂から出ることも出来ず、おまけに緊迫したこの状況。長風呂で頭に血が上り意識は朦朧とし、思考は千路に乱れた。
「御託はもういいわ。やはり、妖怪は退治してから話をすべきね」
霊夢の周囲に陰陽球が浮遊しだし、ゆっくりと前方に四つ集まる。一点集中攻撃力重視型だ。黒白の魔法使いにも負けない火力重視の構え。
もう駄目だ。霊夢は今にもスペルカードを宣言し弾幕戦が始まるだろう。
寅丸は避けきれない。ドラム缶ごと浮遊しようにもなみなみとした湯が重過ぎる。
やはりドラム缶を飛び出して戦うしかないのか?
それも朦朧とした意識の中で、しかも全裸でどこまでやれる?
一度敗れた事のある寅丸星があの博麗霊夢相手にどこまで戦えるというのだ。
しかし、もう選択の余地などない。座して――いや、風呂に入ったまま負けを選ぶか、自尊心を捨てて飛び出して戦うかだ。
砕けろ自尊心。
寅丸はドラム缶から飛び出した。
妖怪はかよわい存在だと、誰かが言った。
何百年も前の話だ。聖白蓮が封印される前、寅丸にある話をした。
「寅丸、あなたは勘違いをしている妖怪はかよわい存在なのですよ」
寅丸はそれを笑った。
妖怪には力がある。人間を襲い、食らい、戯れに裂いてみたりする。百人の人間が立ち塞がろうとも撫で斬りにする自信が寅丸にはあった。
「全ての人間が死に絶えた時。妖怪もまた消滅するのです」
妖怪は人間を襲わなくては妖怪ではいられない。
人の肉を裂いて食らって恐れられ、謎掛けを問うて心を挫かせる。肉か心か、何にしろ、妖怪は人を襲うことで始めて成り立つ弱い概念なのだ。
恐れ――畏れは信仰と同じものだ。
人が妖怪を畏れなくなれば、また、妖怪は消滅する。
人に忘れられるだけで成り立たない寂しがりやの概念。
人間には英雄という人のための希望がいつの世にも現われるが、妖怪には英雄などいない。
ならば、誰かが妖怪のために生きても良いじゃないか。
聖白蓮は人の英雄であったが、その影で妖怪の守護者だった。妖怪が人間なしに存在できないように、聖白蓮の肉体を維持する妖術とは妖怪の存在なしにはできない技であった。
最初は、己の保身のために聖は妖怪を守った。
しかし、いつしか妖怪のかよわさに気付いたのだ。
聖白蓮は妖怪のために人を救い、妖怪のために生きた。
「貴方たちの流す血は、私の流す血なのよ」
吐き出すように聖は囁いた。
寅丸は納得がいかなかった。人がいなければ妖怪は成り立たず、妖怪がいなければ聖白蓮はなりたたないと、聖は言う。
それならば聖白蓮を誰が救ってくれるというのか?
答えはとっくに出ている。
命蓮寺は聖のために生きている。そう、まるで家族のように。
「家族の誰かが流す血は、私の流す血だ」
突然、目の前が真っ暗になった。
いや、無数の泡が寅丸の目の前を横切った。
寅丸は湯の中に押し込まれていた。霊夢との弾幕戦を決心しドラム缶から飛び出したはずだった。しかし、現実は湯船の中でもがいていた。
頭の上に誰かが立っている。
上から降ってきた何者かに踏まれ、寅丸は再び湯の中へ押し潰されたのだった。
「博麗霊夢、君の相手は私だ。ご主人様の危機を救わない部下がどこにいる?」
小さな賢将。ナズーリンが寅丸の頭上に立っていた。
ナズーリンがドラム缶の前に降り立ち、寅丸はようやく湯船から顔をだした。振り返ることもなくナズーリンは言う。
「あいかわらずの馬鹿ですね、ご主人様。死ぬのが恐くて聖を見捨てた臆病者が、自分を捨てる勇気を持つなんて、とんだ間抜けだ」
ダウジングロッドを掲げる。ナズーリンは宣言した。
守符「ペンデュラムガード」。ナズーリンと寅丸を中心に放射状に弾幕が形成されていく。同時に霊夢は距離をとり、回避に専念した。一点集中型の霊夢のショットは射角を得られない。
弾幕は周囲の瓦礫や木塀をなぎ払い、炊事小屋と隣接する掘っ立て小屋を吹き飛ばした。巻き込まれた小傘は悲鳴を上げて吹っ飛んで行き、同じように吹っ飛ぶぬえは有り得ないことだが鼻ちょうちんを膨らまして寝ていた。
「ナズーリン! わ、私は貴方に、もう一度、謝ろうと、謝ろうと思って――」
弾幕竜巻の中心の中で寅丸はナズーリンの背中に叫んだ。
ダウジングの振り子――ペンデュラムを振り回し、弾幕を形成しながら、一瞬だけナズーリンは振り返り、笑った。
「とっくに気にしていませんよ!」
霊夢は放射状の弾幕を縫って飛び、射角を得てショットを放とうとしたが、その度に自分を狙って飛来する大弾がそれを邪魔した。
霊夢に避けて終わらそうという気はない。
霊夢はチャンスを待っていた。夢符「退魔符乱舞」、切り札はこちらにある。
「ナズーリン、それでも私は君に謝りたいんだ!」
「それが自己満足だとしても?」
意地悪くナズーリンは言う。
「ああ! ごめんなさいナズーリン、私の過ちのために貴方に苦労をかけてしまった。私は三十回も宝塔を失くした夜に、貴方を労わなくてならなかったっ!」
嵐のような弾幕の轟音の中で、ナズーリンの背中に寅丸は叫ぶ。
「ありがとうナズーリン。貴方がいてくれて凄く嬉しいよ」
宝塔を三十回も失くしたあの夜に言いそびれた言葉を、繰り返し寅丸は叫んだ。
ありがとう、と。
ナズーリンは頭に来た。こんな状況で、くだらない喧嘩の謝罪など卑怯だと思った。
間抜けな上司の尻拭いなど、何も思っていない。三十回だろうが百回だろうが何度だって探し物などする。
命蓮寺を取り戻したのだ。
私達はあの頃に帰ってきた。ナズーリンは怒った。寅丸は大げさすぎる、家族なんだ、ささやかでつまらない喧嘩だってする事はある。
顔が熱かった。頬を伝う何かが涙などと認めたくはなかった。喉が振るえ、鼻を啜った。
寅丸は卑怯だ。
視界が歪む。涙が顎を伝い、雫となって地面に落ちていく。
ナズーリンは背中全体を口にして叫んだ。
「家族の流す血が、私の流す血であるように、貴方の苦しみは私の苦しみだ! 貴方の恥は私の恥、貴方に恥などかかせるものかっ!」
次の瞬間、ナズーリンを完全に捉えた霊夢はスペルカードを宣言した。
夢符「退魔符乱舞」。粒弾も大弾も、全ての弾幕を飲み込みながら大量の札が一直線にナズーリンへと飛翔した。
後にキャプテンムラサは語る。
「あの時は世界を縮めたわ。きっと光よりも速かった」
霊夢の放った弾幕は一直線にナズーリンへ向かい、そして届かなかった。
霊夢とナズーリンの間に巨大な壁が突如出現した。
眩い光を放つ壁の正体は村沙の小型聖輦船だった。夢符「退魔符乱舞」を船の横腹で受け、破片を撒き散らしながらも力を受け流すように船首を徐々に霊夢へと向けていく。
霊夢が弾幕も打ち尽くすと、あたりは耳の痛くなるような静寂で満ちた。
「現在この空域は封鎖している! 双方停戦せよ! 繰り返す、停戦せよ!」
静寂を破ったのは村沙水蜜だった。小型聖輦船から機械越しのくぐもった大音声が響く。
村沙が拡声器を片手に叫んでいた。
既に交戦状態である霊夢は妖怪の話など聞く耳を持たない。小型聖輦船を迂回し、再びナズーリンを捉える射線へ移動する。
しかし、霊夢の周囲に巨大な錨が打ち込まれ、回避に上昇した所を雲山の巨大な腕に霊夢は捕らえられた。
「これはルール違反じゃないかしら?」
雲山に捕まれたまま霊夢は口をとがらせた。
甲板から聖白蓮が降り、霊夢の前へと浮遊する。
「ごめんなさい、博麗霊夢。でも、人の話を聞かずに強引に進めるのが最近の幻想郷の流儀だと聞いていたので」
聖が一輪に目配せをすると、雲山はゆっくりと掌を開いた。
霊夢は逃げもせず、その場に浮遊していた。
「ピンチのたびに助けが現われるって、寅丸星は一体誰のヒロインなのかしら?」
皮肉には皮肉で返す。弾幕戦は会話で遊ぶのも流儀である。
聖はゆっくりと霊夢に近付く。霊夢の両頬にそって掌を添え、真っ直ぐに目を合わせて言う。
「博麗霊夢。寅丸星は拙僧共の大切な家族でございます」
聖は薄い笑みを浮かべていた。
霊夢は顔に添えられた手を振り払い、聖から距離をとる。
「命蓮寺の全員を相手にするのは面倒だわ。用件を言ってちょうだい」
スペルカードルールでは対戦相手を殺してはいけない。
無闇に妖怪が人間に手を出せない幻想郷において、合法的に妖怪が人間を襲う為の救済措置でもあるルールだ。まして霊夢は、博麗神社の巫女である。博麗神社の意味のわかる者なら霊夢を殺そうなどと、そもそも思いつきもしない。
しかし、勝負である以上、勝ち負けはある。
月に攻め入った時の事を、霊夢は思い出した。
完全な敗北だった。月の連中は弾幕戦において一枚も二枚も上手で、メイドも泥棒も吸血鬼も、博麗霊夢も皆負けた。
非は霊夢たちにあり、敗北は仕方のないことだと認めた。
しかし、負けて悔しくないわけがなかった。
「さあ! 用件を話す気がないのなら、全員退治してあげるわ!」
霊夢は再び大幣と符を構える。
コインなどなくとも何度だってコンテニューをしてやるつもりだった。
「いいえ、霊夢。私達、命蓮寺は降参します」
霊夢の気合とは裏腹に聖は降参を宣言した。緊張感漂う中、のほほんとした口調である。
「なんだか捻じくれた状況ですが、私は話し合いに来ました」
相変わらずの薄ら笑みで聖は続けた。
「お茶でも呑みながらお話しましょう。お菓子も持って来ましたよ」
「……お茶よりも、お酒の方がいいわね」
臨戦態勢の構えは解かずに霊夢は答えた。
「もちろん、ご用意させていただきますわ」
いつから持っていたのか、麦焼酎の高級フラスコボトルを両手で掲げ、やはり聖は笑った。
霊夢は符をしまい地上に降り立ち、小型聖輦船は開けた場所に着陸した。
寅丸はようやく誤解から始まった戦闘が落ち着いたことに安堵した。
同時に、この場にいる全員に言うべき一言を言った。
「あの、服を着るので向こうを向いていてください……」
先の戦闘での小型聖輦船の損傷が思いのほか激しく、話し合いは表ですることになった。
アパートが崩壊して風通しが良くなったせいか、中庭は陰気な雰囲気が払拭されていた。若干まだ緩い地面に瓦礫から拾ってきた板を張り、その上に茣蓙を敷いた。適当な瓦礫を組み立てて台を作ったり、石で組んだ簡易竈や七輪で酒の肴を用意したりしていると、小傘がぬえを背負って帰ってきた。
小傘はいつの間にか集まっていた命蓮寺の面子に驚き、ぬえは酒の気配を察知して目を覚ました。
事前に注文していたのだろうか、夜雀の八目鰻の串揚げの出前が届いた。次いで氷の妖精が「あたいを呼んだのはだあれ?」等とノコノコやってきたのでいくらかの氷を貰い、お礼にポケットを飴玉で一杯にしてやった。
小型聖輦船に積んでおいた麦焼酎を何ケースか運びだし、ようやく準備は整った。
会談というよりも宴会の準備のようであったが、誰も何も言わなかった。
寅丸は崩れた炊事場から人形の入った茶箱を引っ張りだし、自分の席の傍らに置いた。命の恩人(恩人形)でもあるので、頃合を見て宴会に参加させようと思ったのだ。
音頭はナズーリンが執った。
「それでは皆さん。話し合いをする前に、まずは口を湿らせ心を素直にしようじゃありませんか!」
酒を呑む口実を見つけた事に乾杯などと冗談を交えつつ、ナズーリンは杯を掲げた。
「乾杯」
一息に呑み、杯を空ける。
板張りに茣蓙を引いただけの場に上座も下座もないものだが、席次の一番には霊夢が座り、隣には聖が座っていた。騒ぎの発端である寅丸は自ら末席を選んだ。
腹を割って話すに腹が出てねば話にならんと、食って呑んでの、やはり宴会が始まった。
一輪が雲山を一升瓶に押し込む一発芸を見せ、聖が髪の毛でプリンの物真似をした。呑み過ぎたぬえが「どこに言っても誰? って言われる、能力的に」と、うじうじと泣きだし、村紗も新しい船が破損したことをシクシク泣いていた。小傘が皆を驚かすと、点数をつけられ十点満点中ニ点を越えることはなかった。
ナズーリンが頻繁に霊夢の酌をし、紅白巫女は紅一色になるまで呑み続け、どこに入るのか酒の肴を次から次に食っている。酔うほどに調子を増す巫女に、ナズーリンの作戦は失敗した。
宴会は大いに盛り上がり、誰もが泣いたり笑ったりしていた。
最初に話を切り出したのは寅丸だった。
「博麗霊夢。先ほどは失礼を致しました。あなたと争うつもりはなかったのです」
霊夢は笑い杯を呷ると、空いた杯を寅丸に差し出す。
「いいえ、寅丸。私も悪かったわ。話をまるで聞いていなかったのだもの」
寅丸が霊夢の杯に酒を注ぎ、今度は霊夢が寅丸の杯に酒を注ぐ。二人は杯を呷り、互いの謝罪を認め許した。
「話を聞かない事情があったのでしょう?」
「もちろん。でも、あまり良い理由じゃないけどね」
そう言うと霊夢は語りだした。
「呪いの人形を探しているのよ」
数ヶ月前の話だ。
里の傍に見知らぬ建物があることに誰かが気付いた。
一体いつからそこにあったのか、この謎の建造物こそ、件のみゆき荘である。
ちょうど、その頃は宝船が出ただのなんだのと空の話題ばかりで地上の事に注目する者もあまりおらず、いつの間にかそのアパートは存在していた。
里の老人に尋ねてみても、みゆき荘がいつから在ったのか曖昧で、ある者は突如出現したと言い、またある者は若い頃住んでいた等と言う。得体の知れぬ建物で登記をたどって持ち主を調べて見ると、みゆき荘の地番の記録だけ登記簿から破られ紛失していた。
不気味である。
妖怪のイタズラかも知れぬと里の者は近付くことを恐れた。
しかし、里に近いにも関わらず人気のない建物である、ある種の連中には都合の良い場所である。かくして、みゆき荘は素行の悪い若者共の溜まり場になっていた。
この不良たちは人の目の届かないのをいい事に、酒を呑み、博打を打ち、煙管を吹かし、あまつ阿片の類に手を出したりと、自堕落かつ享楽的な連中であった。里の中でも、物を盗む、ごろ巻いて人を殴るなど絵に描いたようなチンピラだった。
ところがこの連中、みゆき荘を溜まり場にしてから一人また一人と謎の病に倒れだした。残った三人の若者は少ない脳を掻き集め、まさに無い知恵を絞って考え、結論を出した。
「やはり、このみゆき荘は呪いの館である。我らの仲間に呪いをかけた報いを晴らそう」
三人揃っても文殊の知恵には程遠かった。
月の無い夜に若者たちは手に手に松明を握り、みゆき荘に火をかけようとした――
――その時、若者の松明を握る腕がへし折れた。
若者の腕には滑る黒髪が絡みつき、彼の関節をいくつか増やしていた。若者は痩せ犬の遠吠えのような悲鳴を上げ、激痛に転げまわった。
長い黒髪を辿ると日本人形が泥濘化した地面に横倒しに埋もれており、ガラス球の片目が若者を静かに見つめていた。
直後にアパートの屋根から木材や瓦が若者の周囲に降り注ぎ、残り二人の若者は恐怖の悲鳴をようやくあげた。放り出された松明は泥中にゆっくりと埋まり、鈍い断末魔をあげながら火は消えた。
無事な二人は腕のへし折れた若者を引きずって去っていった。
数日後、里から霊夢へ妖怪討伐の依頼が来た。
曰く、人に仇なす呪い人形を退治すべし、と。
「なんだか馬鹿みたいな話じゃないの。最初はそんな事情を知らなかったんだけれど、病気になったり怪我したりした連中の評判の悪い事ったらないわ」
随分と妖怪にとって不愉快な話である。
ナズーリンは露骨に眉を顰め、寅丸はどこか気まずく目を逸らし、聖は笑みを絶やさなかった。ぬえと小傘は話も聞かずに呑んだり食ったり転がったりしていた。
一輪は人差し指の先で金属の輪――法輪を回しながら独り言のように呟く。
「思うに、そのチンピラさん達の病とは不摂生の生活ためね。埃っぽい部屋で胃腸や肺に悪い生活を続けていれば、体調を崩すことでしょう。腕を砕いた人形だって、瓦礫の落下を警告したのではないかしら? 瓦が頭に直撃したら、死ぬわ」
そうかも知れないと、霊夢は頷く。
「ただ、私は人に危害を与えた妖怪を放置するわけにはいかないのよ」
霊夢はみゆき荘に出向き、例の呪い人形を探したが見つからなかったという。仕方なしにそこいら中に符を張り巡らせたが、翌日には剥がされて一束に纏めて置いてあった。
霊夢がいくら探しても影すら掴めず、人形は会ってくれなかった。しかし攻撃してくる様子も何もなかった。
こちらから手を出さない限り、敵対する意志はないようだった。
これを退治するのか?
気に食わない話だった。自分の相手は『倒して然るべき相手』であるべきだと思った。
「ようするに、私はやる気がなくなったのよ。私は便利屋でも殺し屋でもないわ」
この依頼をどうするべきか考えあぐねていると、命蓮寺が尋ねて来たのだ。
「……それで私達を利用したのか?」
ナズーリンが低く囁く。殺し切れていない感情が見え隠れしていた。
「言い方は悪いけど、そうね。私はあんた達を利用しようと思ったのよ。私の前に姿を現さなくっても、妖怪同士なら出てくるかも知れないしね」
半眼になって霊夢。ナズーリンをちらとも見ずに答えた。
立ち上がるナズーリンを、聖が手で制する。
「私たちにその人形を救出させようと思ったのですね?」
自嘲的に霊夢は笑う。
「私は妖怪退治の専門家。どうして妖怪の味方をするのよ?」
命蓮寺は妖怪の為の寺だが、人間も受け入れる。妖怪にとって命蓮寺は味方であり、人間にとっても敵にならない。角を立てずに解決するには都合が良かった。
「霊夢、貴方が事情を話さなかったのはその建前もあるのでしょう。けれど本当は『命蓮寺は何も知らない』で通したかったのでしょう」
元々、この事件の非は件の若者共にある。連中のした事は放火の未遂であり、厳しく処断されるべき犯罪である。連中も大騒ぎにして己の悪事を広めたくはない。
しかし、命蓮寺が事情を知り大々的に動くとなると、これはまずい。
事件は一から十まで日の目にあたり、悪事は明らかにされる。
若者達は放火をしようとしたのであり、人形の妖怪はそれを防いだのだ。断罪すべきは放火魔であるべきだ。命蓮寺はかの妖怪を預かる、と。
若者達は人の手によって裁かれるだろう。件の若者達は里の鼻つまみ者だ、多くの者は命蓮寺を支持するだろう。
だが人間の間に小さなしこりが残る。
訪れる妖怪を受け入れるのが本来の命蓮寺である。能動的に妖怪を集める姿を人が見たならば不信感を抱くだろう。
まして命蓮寺は幻想郷では新興の勢力だ。未だ信用の地固めが出来ていない。
そして落ちた信用を取り戻す事は容易ではなく、噂はいつだって真実に勝つのだ。
いつしか人はこう囁く。
「命蓮寺は人に仇なす妖怪を仲間に集めている。聖白蓮は人間の面をした悪魔である」
数百年前に起きた、聖白蓮封印の顛末の再来になるだろう。
命蓮寺は人間と妖怪の境界上の存在で、酷くバランスが悪い。この天秤は分銅を置き違えると、次の瞬間には崩壊するのだ。
さらには、霊夢自ら真実を告発するわけにはいかなかった。人を断罪するのは巫女の役割ではないし、妖怪の味方をする巫女を真実として確立することだけはできなかった。
例え霊夢が普段から妖怪と酒を呑んだり、飯を食ったりしていても、侵してはならない領分があるのだ。博麗の巫女は、人間側の人間でなければならかった。
妖怪側の人間はあの泥棒一人で十分である。
黒白の泥棒には依託できない。彼女に里の人間の問題に関わらせるのは酷だ。
ならば依頼を放棄してしまうか。それは人形の妖怪が本当に人に仇なす者だった場合、まずい事になる。
とにかく、事を収めるには命蓮寺の力が必須だが、命蓮寺が事情に通じていると都合が悪い。若者共の起こした発端は伏せつつ、人形を回収したい。ただ、心情から人形に憑く妖怪を、霊夢は退治したくなかった。
こうして霊夢はみゆき荘の妖怪は命蓮寺に任せ、自らは「寅丸星がみゆき荘にいるのは彼女の修行のためである」と先に真実を噂として流した。そして、真実以外の噂の火消しに務めた。
悪事を働いた若者共の始末は里の権力者である稗田の家に密告しておく。稗田家はみゆき荘から人形の妖怪がいなくなることを条件に、若者共については内々に処分する事を約束した。
後は何も知らない寅丸が人形を回収するか何かするだろう。命蓮寺が妖怪を救う、その事について霊夢は一片の疑いもなかった。
「私はそんな格好の良いキャラじゃないわよ」
照れ隠しのつもりか霊夢はガブガブと酒を呑み、ニヤリと笑った一輪がその頬を突っついた。
「――ところが、誤算があった」
聖の話は続く。
「寅丸は例の人形を懐柔できなかったのですね。寅丸は人形と弾幕戦になり、みゆき荘は崩壊した」
人形との弾幕戦?
寅丸の顔にじっとりと冷や汗が浮かぶ。
「命蓮寺が人形と敵対した以上、速やかに霊夢が人形を退治した体裁をとらねばなりません。でないと、命蓮寺が妖怪を討伐した形になり、命蓮寺は妖怪からの信用も失うからです」
寅丸は傍らに置いた茶箱を無意識に手を置いていた。
「慣れない事はするものじゃないわね。悪巧みが上手い妖怪と知り合いなせいか、回りくどい事を思いついてしまったのよ」
霊夢は寅丸に頭を下げる。
「もう一度、謝るわ。ごめんなさい寅丸。あの時は天狗の新聞屋や、おしゃべりな泥棒が来るよりも先に例の人形を確認しておきたかったのよ。焦ってしまって」
でも、と霊夢。
「寅丸が人形を懲らしめて、どこかに行ってしまったみたい。瓦礫の下にあるかもとか考えたけれど、何か陰気な気配が周囲から消えているわ」
それはアパートが倒壊し風通しが良くなっただけではなかろうか。
今、寅丸の傍らにある油紙に包まれた茶箱の中には、件の人形があった。
聖と霊夢の話は穴がある。
例え、命蓮寺が何も知らずに人形の妖怪を連れて帰ったとしても、人々は少なからず疑惑の目で命蓮寺を見るだろう。一番の解決方法はやはり霊夢が人形の妖怪を滅ぼす事なのだ。
霊夢には人間社会があり、命蓮寺には妖怪との付き合いがある。一時の感情で切るわけにはいかないしがらみだ。
このまま誰にも黙って人形を命蓮寺に連れて帰ることはできる。だが、それは命蓮寺にとって大きなリスクだし、人形自身もこの先の自由はない。
ここで全てを打ち明け、霊夢に人形を渡せば事態は解決するだろう。
しかし、渡しはしない。
アパート倒壊の時、寅丸と小傘を助けたのはこの人形だった。恩がある。
もし、人形の存在がバレたとしても、恩人は守らねばならない――今度は。
一つ手はある。寅丸が破門され、人形の妖怪と共に命蓮寺を去れば良いのだ。
「霊夢、この一件は貴方が解決したという形で終わりましょう。人形は退治され、みゆき荘は倒壊し、祓われた。寅丸はこの件に無関係であると」
寅丸の考えをよそに聖は締めに入る。
「ええ、それでいいわ。この件に巻き込んだのは私の落ち度、借りを作ってしまったわ」
霊夢は大きく頷く。聖は命蓮寺連中にこの件の口外を禁ずることを厳命した。ぬえは「どうしようかなー」などと言ったが聖に無言で数十秒見つめられ、目を逸らして小声で了解をした。小傘はそもそも一連の話を聞いていなかった。
「最後に、一つ良いかしら?」
霊夢は考え込むように人差し指をこめかみに当て、その指先をゆっくりと寅丸の傍らに置かれた茶箱に向けた。
寅丸が口を開くよりも先に聖が答える。
「寅丸の私物ですわ。さすがに、この瓦礫の山で後十日過ごすわけにはいかないので、先に纏めさせました」
聖は相変わらずの薄い笑みを浮かべており、常に表情が変わらない点では仮面のようだった。
「寅丸と共に命蓮寺に帰る、大切な寅丸の『私物』でございます」
仮面の微笑みの下で、聖の目は笑っていなかった。
霊夢は茶箱に突きつけた人差し指を寅丸にずらして言う。
「ああっと、別に何でも良いんだけどさ。私の知り合いに人形の服とか作るのが得意な奴がいるのよ。人形ってのも服を変えるだけで印象が変わるものよね。まあ、別に関係のない話だけどね」
初めて聖が声を上げて笑った。霊夢もニヤリと笑って片目を瞬く。
「博麗霊夢、貸し借りは清算されましたね」
「利息が付く前に返す方が良いものね」
聖と霊夢は夜空を見上げてカラカラ笑い、事情の良くわからぬ一輪とナズーリンはきょとんとしていた。ぬえと小傘は話も聞かずに呑んだり、食ったり、転がったりした。
寅丸は、いつの間にか堅く拳を握っていた。確かめるように、ゆっくりと拳を開く。掌に汗が滲んでいる。傍らの茶箱をそっと撫でる。
助かった。
恩人を売らずにすんだ――今度は。
「寅丸、安心してください。あなたが心配する事は何も無い。ほら、泣くんじゃありませんよ」
聖に言われて初めて寅丸は自分が涙を流していることに気付いた。
慌てて袖で顔を拭う。
「や、これは涎ですよ。出す所を間違えてしまって。さあ、呑んで食べましょう!」
わけのわからない言い訳を大声でのたまい、寅丸は勢い込んで酒を呑んで、むせた。
それを見た小傘が事情もわからず笑い出し、つられるように誰もが笑った。
寅丸の謹慎期間は後十日。
結局、寅丸星は博麗神社で預かることになった。
誰もが泥酔した先の宴会の後、霊夢は新たな仮住まいとして博麗神社に来るように勧めた。寅丸は瓦礫の山と化したみゆき荘の片付けがあると一度は断ったが、聖に強く言われ渋々従った。
瓦礫の片付けの当てはあると霊夢は邪悪な笑みを浮かべた。
寅丸の『私物』の茶箱は聖が命蓮寺へと持ち帰った。一輪は二日酔いで頭巾より青い顔をして雲山と共にゆらゆらと聖についていった。村沙は二日酔いが抜けたら帰ると言い、甲板上にヤモリのようにへたばった。ぬえと小傘は介抱な必要なほど酷い二日酔いだったため、霊夢と寅丸で背負って神社につれていった。
ナズーリンは既にこの事件の情報操作のために奔走していた。
寅丸の博麗神社での滞在はどういうわけか忙しいものだった。
やたらと参拝客が来るのだ。皆、手に手に酒やら食物を持って神社に参拝し納めていく。賽銭を奮発する者も多く、霊夢の笑いは止まらなかった。
参拝客が年に数人しか来ないという神社とは思えず、寅丸には疑問だった。
「まあ、誰かさんの能力のおかげかもね」
賽銭箱の中の金と葉っぱを選り分けながら、堪え切れない満面の笑みでもって霊夢は答えた。
小傘は張り切って参拝客を驚かせたが、皆生温かい目で眺めており、小傘はへこんだ。
ぬえは無遠慮に神社にあるものを片っ端から食べたり呑んだりして寛ぎ、霊夢に制裁されて泣いて帰った。
数日経った頃に、天狗の新聞記者が新聞を持ってきた。
見出しは『博麗の巫女、人里で大暴れ!?』だった。
「先日に人里の外れで起きたアパートの崩壊は読者の皆様にも記憶に新しいと思う。
筆者の独自の取材によって、その真相が明らかになった。
事件の当日、里の外で通りすがりの妖怪と弾幕ごっこをしていた博麗霊夢は勢い余って、里の外れにあるアパート、みゆき荘を妖怪ごと吹き飛ばしてしまった。霊夢と弾幕ごっこをしていた妖怪はどこぞに逃げ帰ったという。
みゆき荘には修行中の寅丸星(命蓮寺の僧侶)が住んでおり、建物の倒壊に巻き込まれ重症を負った。現在、悪事の発覚を恐れたのか霊夢は治療を理由に寅丸を神社に軟禁している。
寅丸の部下だというN氏はかくのごとく語る。『命蓮寺は今回の事件について博麗神社に責任を追及しようと思いません。我々は寅丸星様が一刻も早く命蓮寺に帰って来ることを願っております』
涙ながらに寅丸の帰還を訴えるN氏の姿に筆者も胸を打たれた。
昨今の博麗霊夢の傍若無人ぶりは目に余るものがあり、彼女の妖怪への虐待行為はもはや妖怪の社会問題である。
妖怪も人間も共に博麗霊夢問題について今一度考えてみる時がきているのかもしれない。
なお、倒壊した建物の残骸は、里の若者達がボランティアで片付け始め、近日中には終了する見通しである。」
霊夢は激怒した。
その場で新聞を破り捨て、枯葉に混ぜて芋を焼いた。焼いた芋を肴に酒を呑んでくだを巻き、寅丸はそれに付き合った。
とにもかくにも、博麗神社は平和だった。
寅丸は命蓮寺に思いを馳せる。
後、数日で帰れるのだ。
聖白蓮は人形を前に囁く。
「おかえりなさい」
寅丸がみゆき荘で出会った人形は、とある人形遣いの手によって新たな装いである。ヘッドドレスに純白のエプロン、艶消しの黒いメイドドレス。髪の伸びる日本人形には見えない。
聖は人形を持ち上げ、軽く振ると、カラカラと乾いた音が響いた。
中には小さな木仏が一つ入っている。
聖が封印された時、命蓮寺に安置されていた木仏のほとんどは人間に燃やされた。焼かれる事を逃れた数少ない仏像の一つが、この人形だった。
木仏は人形に偽装され、次々と人手を渡った。偽装仏像として信仰の慰めにされていたが、持ち主が代わるにつれ、いつしか本来の姿は忘れさられた。
人形は旅をした。人の手を経て次々と世界を巡り、かつての安住の地、命蓮寺を探した。
何百年間の旅を続け、そして帰ってきたのだ。
「ただいま」
寅丸は命蓮寺の門前に並ぶ仲間達に言った。
一ヶ月の謹慎期間が終わり、寅丸は命蓮寺に帰ってきた。
「おかえりなさい、寅丸。命蓮寺の外での修行はどうでしたか?」
聖が尋ねる。
「ドタバタと色々ありましたが、帰るべき場所を思い出しました」
寅丸は笑う。
ナズーリンが寅丸の私物を背負った。部屋に運ぶと言う。寅丸は礼を言い、命蓮寺の門をくぐった。今夜は寅丸の帰還の宴会があると、一輪と村沙は寅丸の肩を叩く。
本堂に向かい読経をし、帰ってきたのだと改めて思った。
部屋に戻ると、ナズーリンがいた。
「ただいま、ナズーリン。新聞を読みましたよ。涙ながらに私の帰還を望むなんて書かれていて照れましたよ」
ナズーリンは何も言わず、その場で膝を折り、頭を床にこすり付けるように下げた。
「一ヶ月の間のお勤め、お疲れ様です。おかえりなさいませ、ご主人様」
寅丸も膝をつき、ナズーリンの肩を掴んで頭を上げさせる。
「頭を上げてください。ほら、涙を拭いて」
顔を上げたナズーリンは顔中の穴と言う穴から液体を滴らせ、耳と鼻の頭を真っ赤にしながらしゃくりを上げていた。
「や、こ、これは、涙じゃなくって。よ、涎ですよ。出す所を、ま、間違えたんですよぅ」
どこかで聞いたことのある言い訳を言った。
「ナズーリン、あなたには今まで苦労をかけましたね。でも、これからもきっと苦労をかけてしまうと思います」
寅丸はハンカチを取り出しナズーリンの顔を拭ってやる。
「どうか、これからも私の支えになって頂けませんか?」
ナズーリンは拭ったそばから鼻水を垂らし、大きく何度も頷く。
寅丸星。財宝が集まる程度の能力。
財とは何か、宝とは何かと寅丸は考える。何百年の懺悔の後に手に入れたこれは何であるか。
家族の誰かが流す血が、己の流す血であるように、家族の誰かの喜びは――
「さあ、ナズーリン。今夜は宴会ですよ。仕度を手伝いに行きましょう」
ちり紙でナズーリンの鼻をかみ、軽く頭を撫でてやる。
ナズーリンはやはり大きく頷き、立ち上がった。
今宵もまた潰れるまで呑むだろう。
呑んで笑い、呑んで泣き、泥になるまで飲み下す。二日酔いさえなければ酒は極楽への扉だ。
しかし、今度ばかりは二日酔いも悪くない。
仲間で呑む酒だ。二日酔いもまた酒の味である。
そういえば、とナズーリンは振り返る。
「そういえばご主人様。宝塔が見当たらないのですが、ちゃんとお持ちで?」
寅丸はもちろんと、懐に手を入れ取り出したるは――
――醤油差しだった。
完
みんないいキャラしてるなあ。
うん。がんばれ寅丸。
良作でした。
・・・やっぱうっかり星ちゃんは可愛いな
それはともかく面白かったです。
霊夢と聖がやたら鋭いですね。
何はともあれ、いい笑えるシリアスでした。
面白いものがぎゅっと詰まった作品でした。
麦焼酎はもちろんあれですよね!い(ry
素晴らしいお話でした。
一箇所だけ雲井一輪との表記が。
重箱の隅をつつくようですが、ニ点ではなく二点です。
ところどころに散りばめられたユーモラスな描写のおかげで、飽きがこなく、楽しく読めました。
冒頭の紛失騒ぎの有り得なさに笑い、
怪アパートの出現にはこれはただの57kbではないぞ、と期待させられ、
自堕落な生活を送ってしまう寅丸の姿に、いつぞやの自身を重ねてしまい、
ついに読む手が引けなくなります。
小傘とぬえの子供らしさ愛らしさには、おもわず心がなごみ、(ぬえの扱いがひどいw)。
ドラム缶に入ったまま巫女と対峙するという変な展開には、この手があったか、と
唸りながらもニヤつくという謎の表情を浮かべてしまいました。
聖と霊夢の交渉はともかくとして、霊夢の弁解には少しだけ退屈を感じましたが……。
そして読後、もしやと思い、読み返したら、「ただいま」の言葉の真の意味がわかる。
寅丸星の能力を考えれば、偶然にもならない。鮮やかです。感じ入ってしまいました。
とにかく言いたいことは、すごく面白かった! 大満足です!
濃密な57kbをありがとうございました。ということです。
上手くまとまってて面白い
どうせなら絵付きでみたかった
次も期待
良い話でした。まさか人形に因縁があるとは
焼酎にも合います。
・・・あの辛い石像もまさか同種のモノですかねwww
話の攻勢の巧みさもですが、細かいところが作り込まれていて素晴らしい。
とても楽しませていただきました。
しかし、辛いに関係ある像は皆いい味出してるなあ。
あまり本などを読まない私でもすらすら楽しく読めるユーモアとシリアスの融合が心地よかったです。
……よかったな
心が潤いました
文才もあるなんてうらやましい!
導入ネタ転調まとめ他が全て調和して一つの物語を作っている
そもそも毘沙門天代理がアパート暮らしと言うぶっ飛んだネタを正面から書いている時点で只者では無いと思ったが、こいつは凄い
ギャグかと思われた人形を上手く料理して白蓮に繋げたのも見事
あと鵺と小傘不憫w
楽しく読ませていただきました
イイハナシダッタノニナー
動画ではなく文章になっても揺らがない構成力。楽しませて頂きました。
動画から飛んできましたが、飲んでいるせいもあり、吹き出し、笑い、泣かせて頂きました。
クーリエも動画も、続きを楽しみにさせていただいております。
動画も面白いのですが、こういう小説も書ける能力に
少しパルッとしながら読んでいましたw
シリアスとユーモアが入り混じっているおかげで
とてもすらすら読めました。
とても面白い良作です。
あと、安定の麦焼酎に笑いました。
楽しく心が動かされるのは心地良いですね。
「家族の誰かが流す血は、私の流す血だ」
・・・何かいろいろな事を考えさせられた話でした。