第三夜
こんな本を読んだ。
とっくに日の落ちた森だった。いずれ草叢に覆われてしまいそうな心許ない道の上を歩き続けている。足元がふらつくのは夜闇と、背に負った吸血鬼のせいだった。私から見えはしないが、とにかく吸血鬼だということは分かる。だが随分と軽い。
歩を進めるたび、視界の端にちらちらと色が射した。皮膜のない骨のような羽に宝石が吊られて、夜にない光を反射している。そんな微細な色彩が光源となるはずもなく、森は愈々昏くなる。
「そんなもので飛べるの? あなたたち本来の蝙蝠羽は何処へやったの?」
「蝙蝠? あたしは昔っからこうだよ」
酷い羽をしているにしては無邪気な声だった。今にも笑い出しそうだ。どうせ飛べはしない。それでも吸血鬼には変わりない。
俄かに水が匂った。つま先に柔らかな、腐ったような土を感じ、私は足を止めた。目を凝らすとすぐ先の地面が微かながら揺れているようだった。湖だった。
辺りを見回しても、森の木一本見えてこない。空を見上げると、細い月がたった今、消えた。それだけで天地の方角を失って酔いそうになる。その中で吸血鬼の宝石ばかりがぼんやりと滲んでいるも、簡単に視界からいなくなる。私には背中が見えない。
「湖は越えられないよ。迂回していけば館があるでしょう?」
悪戯のような声だった。流れる水を越えられないのは吸血鬼の宿命だ。魔法でも使ってひとりで渡ることにした。この子は捨てていけばいい。
「うふふ」
「何がおかしいの?」
「だって、あなた、本をどこへやってしまったの?」
拍子、私の懐から重いものが落ちた。液体を打ち据えたときの音があった。泥が服を揺らすのが分かった。
慌てて地面を眇めるけど何も見えない。吸血鬼は背中で声も立てずに笑っている。足で周りを浚っても何もなかった。これでは湖を渡れない。捨てていくわけにもいかなくなった。
がさがさと何かが鳴った。きっと森の方で蝙蝠が飛んだのだ。
「だから言ったでしょう?」そうしてまた吸血鬼は「うふふ」と笑う。仕方なく、足元の泥濘を頼りに湖を周ることにした。
「体が弱いんでしょ? こんな吸血鬼一匹おぶってよく平気ね」
「あなた、軽いじゃない」
「それで、どこへ行くの?」
私は黙って歩き続けた。何処へ行けばいいのか、私にも解らなかったからだ。そもそも何故こんな場所にいるのか。ただ此処に留まるわけにはいかないという思いばかりが強い。灯りもなければ空もないような場所だ、誰が潜んでいるか知れたものじゃない。自然と足が速まっている。呼吸が荒くなり、体温が上がる。背中が次第に重たくなってくる。水と土の混ざった地面の柔らかさが恐ろしくなる。それでも闇は変わらずに、一切の形を持たずに私を包んでいる。
ついに私は足を止め、地面に腰を、文字通り沈めた。水を吸っている土が服を濡らし、私自身の皮膚を濡らした。すっかり身体が萎え、自然と首が落ちた。
「もう目の前だっていうのに悠長だよね、あなた。余裕の表れ? それとも怖気づいた?」
そうやってまた、「うふふ」と笑った。
何が目の前なものか。どうして私を挑発している?「すぐそこだよ。あなたを煽って何になるの?」ひとりでは空も飛べないくせに。
突如として沸いた怒気に顔を上げると、果たして紅い館が知らない間に森の中に現れていた。明度の全くない、ただ紅いとだけ分かる、そういう色をしていた。
「あなたにも館が見えたね。それでどうするの? 行くの? 行ってどうするの? あなたは魔女なんでしょ? 魔法も使えない。それじゃあ吸血鬼を殺せない」
よろけながら立ちあがった。今では背中の吸血鬼が重い。それでも歩を進めた。泥を払う気もなかった。早くあの館に行かなければ。
さっきから私は一言も喋っていない。なのに吸血鬼は返事をする、対話してくる。私の視界はもう館の壁しか見えていない。それでも「そこ、左はちゃんと道になってるよ」などと言い、従えば事実、泥濘が消えた。「ほら」
胸の動悸が激しくなる。額が汗で濡れている。本を落としたことを思い出す。私には見えない空間も、時間も、こいつには見えている。
全て見透かされる前に殺さなければならない。けれど魔法も使えない私に吸血鬼は殺せない。早くあの館に行かなければならない。
「そうそう。館へ行ってどうするの?」
どうする? それだけで私は気付いた。どうしてこんなところで吸血鬼を負ぶって紅い館に向かっているのか、その理由が急に明瞭となった。けれど口に出してはならない。考えてはならない。背中からきっと紅い眼で私を覗いている。私の考えている、気付いている以上を知られているに違いない。
ただ足を速めた。館の扉を開き、無人の廊下を進んだ。湿った靴がぺたぺたと絨毯を濡らすが、ちっとも音が響かない。ここなら誰もいないと安心して私は迷いなく進み続けた。
右へ折れ左へ折れ、階段を下り、図書館の扉を無視し、更に地下へ。
「もうすぐよ。もうすぐよ」吸血鬼が囁き、私たちはその牢の前に辿り着いた。錠はある。壁に鍵がかけられている。尤もそんなものは何の役にも立ちはしない。封印が必要だ。
血の気の引くのがはっきりと分かった。首の周りが急に寒くなった。
「あの本さえ落とさなければあたしを閉じ込められたのに、残念ね。昔は上手くできたのにね。あれは五〇〇年ほど前だったかしら?」
「495年前よ」
牢の中には骨と皮だけになった吸血鬼の遺骸がある。羽には輝きのない宝石が吊るされて、そのまま朽ちて砕けそうに罅割れていた。
首に痛みと熱が走った。牙を突き立てられたらしい。
失くしてしまった本は二度と見つからないだろう。
こんな本を読んだ。
とっくに日の落ちた森だった。いずれ草叢に覆われてしまいそうな心許ない道の上を歩き続けている。足元がふらつくのは夜闇と、背に負った吸血鬼のせいだった。私から見えはしないが、とにかく吸血鬼だということは分かる。だが随分と軽い。
歩を進めるたび、視界の端にちらちらと色が射した。皮膜のない骨のような羽に宝石が吊られて、夜にない光を反射している。そんな微細な色彩が光源となるはずもなく、森は愈々昏くなる。
「そんなもので飛べるの? あなたたち本来の蝙蝠羽は何処へやったの?」
「蝙蝠? あたしは昔っからこうだよ」
酷い羽をしているにしては無邪気な声だった。今にも笑い出しそうだ。どうせ飛べはしない。それでも吸血鬼には変わりない。
俄かに水が匂った。つま先に柔らかな、腐ったような土を感じ、私は足を止めた。目を凝らすとすぐ先の地面が微かながら揺れているようだった。湖だった。
辺りを見回しても、森の木一本見えてこない。空を見上げると、細い月がたった今、消えた。それだけで天地の方角を失って酔いそうになる。その中で吸血鬼の宝石ばかりがぼんやりと滲んでいるも、簡単に視界からいなくなる。私には背中が見えない。
「湖は越えられないよ。迂回していけば館があるでしょう?」
悪戯のような声だった。流れる水を越えられないのは吸血鬼の宿命だ。魔法でも使ってひとりで渡ることにした。この子は捨てていけばいい。
「うふふ」
「何がおかしいの?」
「だって、あなた、本をどこへやってしまったの?」
拍子、私の懐から重いものが落ちた。液体を打ち据えたときの音があった。泥が服を揺らすのが分かった。
慌てて地面を眇めるけど何も見えない。吸血鬼は背中で声も立てずに笑っている。足で周りを浚っても何もなかった。これでは湖を渡れない。捨てていくわけにもいかなくなった。
がさがさと何かが鳴った。きっと森の方で蝙蝠が飛んだのだ。
「だから言ったでしょう?」そうしてまた吸血鬼は「うふふ」と笑う。仕方なく、足元の泥濘を頼りに湖を周ることにした。
「体が弱いんでしょ? こんな吸血鬼一匹おぶってよく平気ね」
「あなた、軽いじゃない」
「それで、どこへ行くの?」
私は黙って歩き続けた。何処へ行けばいいのか、私にも解らなかったからだ。そもそも何故こんな場所にいるのか。ただ此処に留まるわけにはいかないという思いばかりが強い。灯りもなければ空もないような場所だ、誰が潜んでいるか知れたものじゃない。自然と足が速まっている。呼吸が荒くなり、体温が上がる。背中が次第に重たくなってくる。水と土の混ざった地面の柔らかさが恐ろしくなる。それでも闇は変わらずに、一切の形を持たずに私を包んでいる。
ついに私は足を止め、地面に腰を、文字通り沈めた。水を吸っている土が服を濡らし、私自身の皮膚を濡らした。すっかり身体が萎え、自然と首が落ちた。
「もう目の前だっていうのに悠長だよね、あなた。余裕の表れ? それとも怖気づいた?」
そうやってまた、「うふふ」と笑った。
何が目の前なものか。どうして私を挑発している?「すぐそこだよ。あなたを煽って何になるの?」ひとりでは空も飛べないくせに。
突如として沸いた怒気に顔を上げると、果たして紅い館が知らない間に森の中に現れていた。明度の全くない、ただ紅いとだけ分かる、そういう色をしていた。
「あなたにも館が見えたね。それでどうするの? 行くの? 行ってどうするの? あなたは魔女なんでしょ? 魔法も使えない。それじゃあ吸血鬼を殺せない」
よろけながら立ちあがった。今では背中の吸血鬼が重い。それでも歩を進めた。泥を払う気もなかった。早くあの館に行かなければ。
さっきから私は一言も喋っていない。なのに吸血鬼は返事をする、対話してくる。私の視界はもう館の壁しか見えていない。それでも「そこ、左はちゃんと道になってるよ」などと言い、従えば事実、泥濘が消えた。「ほら」
胸の動悸が激しくなる。額が汗で濡れている。本を落としたことを思い出す。私には見えない空間も、時間も、こいつには見えている。
全て見透かされる前に殺さなければならない。けれど魔法も使えない私に吸血鬼は殺せない。早くあの館に行かなければならない。
「そうそう。館へ行ってどうするの?」
どうする? それだけで私は気付いた。どうしてこんなところで吸血鬼を負ぶって紅い館に向かっているのか、その理由が急に明瞭となった。けれど口に出してはならない。考えてはならない。背中からきっと紅い眼で私を覗いている。私の考えている、気付いている以上を知られているに違いない。
ただ足を速めた。館の扉を開き、無人の廊下を進んだ。湿った靴がぺたぺたと絨毯を濡らすが、ちっとも音が響かない。ここなら誰もいないと安心して私は迷いなく進み続けた。
右へ折れ左へ折れ、階段を下り、図書館の扉を無視し、更に地下へ。
「もうすぐよ。もうすぐよ」吸血鬼が囁き、私たちはその牢の前に辿り着いた。錠はある。壁に鍵がかけられている。尤もそんなものは何の役にも立ちはしない。封印が必要だ。
血の気の引くのがはっきりと分かった。首の周りが急に寒くなった。
「あの本さえ落とさなければあたしを閉じ込められたのに、残念ね。昔は上手くできたのにね。あれは五〇〇年ほど前だったかしら?」
「495年前よ」
牢の中には骨と皮だけになった吸血鬼の遺骸がある。羽には輝きのない宝石が吊るされて、そのまま朽ちて砕けそうに罅割れていた。
首に痛みと熱が走った。牙を突き立てられたらしい。
失くしてしまった本は二度と見つからないだろう。
友人とかに誤解されたらどうしよう
ただ、あくまでシチュエーション、雰囲気を感じることぐらいしかできず、他のことはうまく読み取ることができませんでした。
それでも、なんだか下手なホラーよりいいホラーだなとは思えました。
ただ、夢十夜を使うのは少し難しかったかも知れません。もともとが不思議な雰囲気の作品ですし。
今後も巨匠の作風を取り入れた力作を投稿してくれることを願っております。