「神奈子様と諏訪子様って、大昔にこの諏訪をめぐって戦ったんですよね?」
早苗は、神奈子の仮設拝殿――諏訪大社春宮拝殿の補修工事にあたり道鏡と神棚を一時的に納めているテント――をほうきがけしながら、背中ごしに神奈子に問いかけた。
「なんだい急に」
「お二人は敵同士だったって事じゃないですか。でも、今のお二人を見てると、全然そんな風に見えなくて」
神奈子は、早苗がほうきを左右に振る度にその尻が袴越しに小さくフリフリと揺れるのを、神棚にあぐらをかいてのんびりと眺めていた。
「神奈子様が諏訪子様に勝って、諏訪を治めたとか」
「まぁ……そういう事になってるね」
「え? 本当は違うのですか?」
神奈子を振り返った早苗は、自分の尻を注視する神奈子の視線に気づいた。
「……あの、どこ見てるんですか。お尻をジロジロみないでください。いやらしい」
だが神奈子は悪びれもせず、視線を逸らす事さえしない。
「いやいや。私は目の前になんか小さなゴミみたいなのが漂ってるからそれを追いかけてるだけだよ」
「嘘ばっかり」
「……ごほん。で、なんだっけ。私と諏訪子の昔話か?」
「あ。誤魔化そうとしてるでしょう」
「……ちっ、うるっさいねぇ。早苗の尻を撫でたいと思っているのを、眺めるだけで我慢してやってるんだから。それくらいいだろう」
「なっ」
顔を強張らせながら、早苗は僅かにうちまたになってほうきの柄をギュッと握った。近寄ったら叩くぞ変態、と言わんばかりである。
神奈子はやれやれとあぐらに頬杖をついた。
「早苗はうぶだなぁ。一晩抱き合って眠った仲ではないか」(*作品集128『現代巫女のレズビアンナイト』)
「うっ」
早苗はまた呻いて、今度は頬がシュゥゥと蒸気を噴いて赤くなる。
そうしてあうあうと口を開け閉めした後、
「そ、掃除が終わったので、私は戻ります!」
そう言い捨てて、テントから駆け出していってしまった。
「また明日もよろしく」
神奈子はへらへらと笑いながら、社務所に駆け込んでいく早苗の後姿を見送った。
ザザァ……
境内の木々の葉が風に揺れた。
ざわめきがおさまると、後はオォォ……という大気のうねる音だけが、かすかに空から流れてくる。
「早苗がいってしまうと、とたんに静かになる」
お供えの酒を飲みながら、神奈子は寂しさついでに独り事を呟く。
「昔話か。まぁ。色々あったね」
諏訪湖の方向に目をやる。
まだこの大社もなかった頃、この辺りから諏訪湖を直接眺める事ができた。今は鳥居の向こうに民家の屋根が小さく見えるだけだ。
「それにつけても人間の想像力の豊かさよ。私のためにしてくれた事だからありがたいのだが。しかし私に旦那がいるって話はまったくお笑いだ。諏訪子に中途半端なフリかたされたせいで、こちとら今だに独身だというのに。ま、その分巫女や神官どもをたっぷりと可愛がってやったけれど……」
酒を片手に神奈子はカカカと笑った。
一気に飲み干して、コトリと音を立てて杯を置く。
「静かになったな」
神奈子の二つの眼が今、時を越え遠い眺望に向けられる――
諏訪の秋は、出雲の冬だ。誰もかれもが、痛いほど冷たい早朝の風に凍えていた。
山間を流れる川――後に天竜川と呼ばれる川の北側に、神奈子の軍勢がよろよろ陣を展開した。皆、疲弊して、すでに戦える状態ではなかった。兵の数は数百にまで減った。数百と言うのも女子供老人に石や木の棒を持たせてやっと数百である。まともな男子は百にとどくかとどかぬか。無傷な者となるともはや皆無であった。そもそも、皆専業の兵ではなく移民なのだ。
川の対岸では敵が統制の取れた機敏な動きで陣を展開する。数は五百ほどであろうか。みな屈強そうな男子で、あきらかに戦士だった。
「皆。ここを越えれば湖。耐えてくれ……!」
絶望をかみ締めながら神奈子は陣の先頭で敵とにらみ合った。川をあと半刻も上れば、湖である。しかし……。
(……勝てはせん)
戦えば、死ぬ。神奈子は確信していた。だがその絶望を民に見せるわけにはいかなかった。皆、神奈子を慕うその気持ちだけでともに出雲を出奔した民なのだ。どのような事になろうと、この者達の先頭にたち希望を与える義務が神奈子にはある。この地を奪えなければ、もう死ぬしかない。この先山々を越える体力はもう残っていない。だからこそ神奈子は未来を示しつづけなければならなかった。
もはや、討ち死に覚悟である。
しばらくして、川南の軍の先陣に、二つの目玉がついた奇妙な帽子を被った少女が立った。幼いその容姿に不釣合いなほど堂々としたいずまいだった。
「そちらの御大将は誰か。我が名は洩矢諏訪子!」
その少女が自分と同じ神であると、神奈子には一目で分かった。
神奈子も陣の前に出で、川を挟み少女と対峙した。
「我は八坂神奈子である! 出雲より参った」
「出雲とはあの出雲か。 そのような遠方から、わざわざこの地に何用か」
「用、か。我らはこの地を貰いにきた!!!」
神奈子が猛ると同時に、背後の民もまた決死の慟哭を上げた。
山間部に雄たけびがこだまする。
その闘気に呼応して川南の軍勢も武器を構え、諏訪子が目を細めた。
「侵略か」
「そうとっていただいて結構」
「しかし、汝らはすでに死に体ではないか。傷ついた老若男女にまで武器を持たせているのか」
敵対しているにも関わらず、諏訪子は憐れみの目を神奈子の民に向けた。
「気遣いは無用。みな行くぞ!!」
神奈子の怒号により、両軍の手にいよいよ力が篭る。
が、それを抑えたのが諏訪子である。
「待てッッ!!」
川の上10メートルほどに滞空し、両群に睨みをきかせる。放たれる凄まじい威圧感に人間達は両軍皆三歩引き下がった。
「死にいそぐな愚か者!! 神奈子とやら。お前達は尋常な集団ではない。素性を話してみろ」
「……話してなんとする。我らは何としてもかの地をいただく」
「真に敵かどうかは私が見定める。だが話す気がないというのならば、よい。その時は戦おう」
「……」
神奈子と諏訪子はしばし睨みあった。
両軍の民は、一方は不安そうにお互いの目を見合わせながら、一方は整然と命令に備え、成り行きを伺う。
神奈子は諏訪子の真意を測りかねた。策略かとも思った。
だが神奈子とて結果の見えた戦いに人間達を追いやりたくはなかった。万一生き残れる可能性があるというなら……。
「……。我らは――」
八坂神奈子が出雲を排斥されたのはこれより半年ほど前の事。
その理由は考えるほどに馬鹿馬鹿しく「八坂神奈子は力の強い神ではあるが、女の観念をそなえている」ただそれだけだった。要するに妬みである。だが近代以前の人間達の男尊女卑観はそれほど絶対的で、神の意識にまで影響を及ぼしたのだ。またその俗念はすさまじく、後年編纂された古事記においては、神奈子は居もしない男神の妻に貶められた。その男神こそが勝負事に負けて出雲を追われた神で、神奈子はそれに付き従った妻神にすぎぬ、とされた。おおかた、女神をたいした理由もなく追い払ったという事では体裁が悪いという事だろう。後年、神奈子はそれを知って怒り狂い、諏訪は三日三晩続く嵐に襲われた。
いわれの無い出奔を余儀なくされたが、やはり神奈子の神力は強大であった。神奈子を信仰し、ともに出雲を離れた人間は三千にも上った。
だが不幸にも神奈子のその求心力の強さゆえに、新天地を求める旅は非常に困難な道のりとなってしまう。
三千もの人間が定住するためには相応の広さと豊かさの土地が必要である。この国はもともと平地の少ない地形であるため、それだけの人数が定住できる地は容易には見つからなかった。行く先々のまた先住の民達からは突然現れた流浪の大集団として、迫害された。
旅の終わりはその影さえ見えず、行程は長大なものになった。
出雲を出た一行はまず、えんえんと日本海側を踏破した。現在の地名で言うと、松江、鳥取、豊岡、丹後、舞鶴、小浜、そして敦賀にいたる。便宜上以後の記述もすべて現代の地名で行うが、その後内陸に希望を求め、琵琶湖の湖東を長浜、米原と抜けた。さらに東の岐阜、名古屋に迫った時、神奈子は決断を迫られた。食料がつきたのだ。定住する土地がなければ神奈子の農耕の神としての力も発現できない。ここにいたり神奈子は、国取りの戦を決意した。
決戦を前にし、神奈子は子を身ごもった女達を西へ引き返させ、その内の何名かは生き永らえ、伊賀のあたりに落ち延びたと言う。
神奈子は奇襲を図るつもりであった。名古屋の平野部へ進出し、一帯を支配する豪族や神に即攻を仕掛ける算段であった。敵方を討ち取る事が目的ではなく、自分達の定住を認めさせることができればそれでよかった。だが神奈子達が米原あたりを越える頃にはその大移民団の存在は近傍各地に伝わっていたのだ。そんな異国の大集団を警戒せぬわけはなく、あちらこちらの豪族はすでに戦の用意すら整えていた。結果、突出し奇襲を仕掛けるつもりが逆に速攻の反撃を受け、兵は浮き足立った。また敵の巧みな用兵によって平野部深くに追いやられてゆき、とうとう四方を敵に囲まれる状態に陥ってしまったのだ。神奈子の神力がいかに強大とはいえ、敵方には各地の神が複数おり、民の数の上でも圧倒的な差があった。
味方は次々と倒れてゆく。神奈子は大敗を喫し、はや全滅を間近にしたところで、決死の突撃を行い包囲網の一角を突破、瑞浪市方面へと敗走した。この戦いで多くの者が死に、また捕えられ、その数は二千に上った。後世、この時に捕らえれた多くの者達の子孫を慰み、岐阜の地に南宮大社が立てられた。例大祭の折に行われる蛇山神事など、現在でも僅かにその名残を残している。
敵方の追っては容赦なく、神奈子は現在の中津川市にいたってもまだ敵の猛追を受けていた。神奈子は木曽川に沿って北への後退を続けていたが、このままでは逃げ切れぬと覚悟し、一か八かの賭けで東へ転進、山脈を越え現在の伊那郡へ抜ける事にした。道無き道を登坂する必死の逃避行である。思惑通り、敵はようやく追撃の手を引いた。だが山を抜けるにあたり神奈子達も無事ではすまなかった。多くの者が脱落し、また野生動物にも襲われ幾人もが山中に消えた。
ようやく下伊那の盆地にぬけた頃、出奔当初三千幾程のいた民はすでに三百にまで数を落としていた。もはや戦う気力も戦力も無かった神奈子らは盆地を貫く天竜川に沿ってとぼとぼと北上した。その一行はまるで死者の群れのようだったと言う。天竜川の源には土地の豊かな美しい湖がある。川べりの民からそう聞かされた神奈子らはその湖を最後の希望とし、傷の無い箇所など一片も無いぼろぼろの体を、消えかけた命でずるずると引きずっていった。
神奈子が話し終える頃になると、民は皆すすり泣いていた。自らを襲った苛酷な旅の苦しさと、同士を多く失った悲しみに苛まれているのだろう。諏訪子勢さえもがその表情にいくらか同情の色をたたえていた。一戦を交えた後ではそうもいかなかったであろうが。
そんな中にあって、諏訪子は瞳に怒りの火をたたえ、うつむく神奈子を睨みつけていた。
「八坂。ぬし、なぜ戦った」
「……なに?」
「くだんの地(名古屋)でなぜ戦った。なぜそなたの首を差し出して隷属を願いでなかった」
ざわ……と神奈子勢がどよめきを上げた。
神奈子は眉を吊り上げ、諏訪子をキッと見上げた。
「いかに流浪の身とは言え、我が民に奴隷になれと言うか!」
「民ではない。奴隷になるのはぬしだ」
「何だと!?」
「ぬし達は他からやってきた侵略者。土地をもとめれば戦いになって必然。なぜそれを避けようとしなかった。ぬしは力の強い神だろう。そのぬしが隷属して豊国に神力を尽くすと誓えば三千もの民とてあるいは受けいれられたやもしれぬ! 」
「ふざけるな! 我は軍神だ。民のために戦い国を立てることこそ我が天命」
「馬鹿者がッ!!」
諏訪子の裂ぱくの怒声が谷間に轟いた。轟音に慌てふためいた鳥達が、谷を囲む山からいっせいに飛び立った。
「民の命を守らずして何が神か! お前は助けられたかもしれん者を死なせたのだ! 貴様のおごりがお前を慕った二千幾余の命を奪ったのだ!! お前に神を名乗る資格などないッ!!!」
諏訪子の憤怒と共に、振り下ろされた手から三本の鉄輪が放たれた。
「ッ!」
神奈子は即座に足元の土から鞭のようにしなる蔦をはやし、そして鉄輪を捕らえる。諏訪子の打ち出した鉄輪は高速で回転しており、人間などが触れれば即座に肉が削れるだろう。だが神奈子の蔦はそれをやすやすとからめとった。そして回転を殺し、瞬く間に鉄輪は錆びて崩れ去った。疲弊しているとは言え、神奈子の力は強い。
だが諏訪子はいささかも動じる事なく、相変わらず冷たい視線を神奈子に向けていた。
「お前にあるのは戦う力ばかりだ。民を生かす力は無いのか」
「貴様」
神奈子は諏訪子を睨む。爪が手の平に食い込むほどに拳を強く握り締めていた。そうさせるのは自戒の念である。数多の人間達を救ってやれなかったのは、紛れも無い事実なのだ。
その時、神奈子の陣にいた男の一人が叫んだ。
「八坂様を愚弄するな! 古来より我が一族を守護してくださる我らの神じゃ! 八坂様と共に戦って死ぬは本望ぞ!」
何人もの声がそれに追従した。
「お前達……」
振り返った神奈子に、子供老人達すらが勇ましい瞳を投げかけた。
だが諏訪子はそれをも冷ややかに眺めている。
「かようにぬしを慕う者達を、お前はまた死なせようとしているのだな」
「黙れ。この者達は私と共に死ぬと言うてくれた。私はその願いを全力で叶えよう」
「愚かな」
「……!!」
神奈子は地を蹴って諏訪子に飛び掛り、がっしりと四つでを組んだ。
「我が民の覚悟を愚弄するか」
「お前が馬鹿じゃ、と言うておるのだ。この者達が感情的になって死にはやるのはいたしかたなきこと。人はかような生き物じゃ。だがそれを諌めるこそ我らの役目であろうが! ぬしまで直情に走っていかがする!!」
「ならどうせよと言う! 命のつきかけたこの者達にどのような道を示せと言うか!」
諏訪子は神奈子の鼻先にまで顔を近づけ、言った。
「そうか。もはや道を示せぬというなら、もうよい。この者達の神をやめよ」
諏訪子のその声にはその場にある何もかもを凍てつかせる冷たさがあり、誰もが息を飲んだ。神奈子さえもが気おされかけた。
「な、なにを言う!」
「そうしてどこへでも消えるがいい。お前のような者がどうなろうと知った事ではない。だが私は人間達がむざむざ死にいく事には耐えられん。幸い湖南はゆえあって未開の土地じゃ。人間達はそこに留まり住居を構えるがよかろう。私がかの者達の新たな神となる」
神奈子は驚いて思わず諏訪子から飛びのいた。それは神奈子に従う者達も同じ思いであった。
「……!? ……!? お前……正気か!?」
「民を皆殺しにしようとしているお前よりは、はるかに正気だ」
同じ弧状列島に住む人間ではあっても、短期的文化の伝播距離が短い当時にあっては、他の集落の者と言えばまったく異国の者である。現代の感覚で例えるならば突然他のアジアの国の民が大挙して日本にやってきたようなものだ。
諏訪子はそれを受け入れるとあっさり言ってのけたのだ。
「人であればそのような判断は易くない。だが私は神だ。すべての動植物は神の前で同じ。人の考に落ちたお前には理解できんかもしれんがな」
「……」
神奈子は呆然とした面持ちで岸に立ち、諏訪子を見上げていた。それから後ろを振り返り、傷だらけの民の姿を見る。皆、不安げな視線を神奈子に向けていた。
改めて、諏訪子に対峙する。
「……まことにぬしは、この者達を受け入れてくれると言うのか」
「命ある者はすべて神の子。何の問題があろう」
「……」
神奈子は何も語らずじっと顔を伏した。諏訪子もまたそれ以上は何も言わず川面に滞空し、神奈子をじっと見下ろしていた。人間達は固唾を飲んで神の言を待つ。
神も人も、誰も何も語らず、山間部には諏訪に流れ込む風の唸りだけが漂った。
時折鳥の鳴き声が風に流れ、それが十三度を数えた。
そうして、ようやく神奈子は動いた。幽鬼のように力の無い顔でゆらりと体ごと民を振り返った。
民は皆一様に押し黙り、神奈子の言葉を待っていた。
神奈子にはもう、期待に答えてやるすべがなかった。無力感にさいなまれ、表情は苦痛に満ちた。そんな顔を民に見せる事は本来すべきことではないのだが……。今、それよりなお酷い事を神奈子はしようとしている。
神奈子は一人一人の顔をゆっくりと悲しい眼で見つめていった。
「みな、申し訳ない。もう私にはお前達を守ってやる事ができぬ」
民は驚愕し、息を飲む声は悲鳴に近かった。
「お前達はこの地に留まるのだ。そして生きてくれ」
皆が言葉を失った。
神に見捨てられたのだ。
だが神奈子にとっても、自ら信仰を捨てる事はいわば自殺である。
しんと空気が静まり返ったそんな時。一人の老婆が、一歩だけよろりと神奈子に寄った。老婆は山中で獣に襲われ右目を失い、また左手の自由を失っていた。肌に流れた血は水で溶いたが、まとったボロ布には血の跡がなおのこっている。
「八坂様はいかがなされますか」
「『とか』よ。案ずるな。主らは、主らの生きる事のみを考えよ」
『とか』は老婆の名である。
「はぁ。とは言われましても……。この婆は子供の頃より八坂様の育てた土地の米を食べ、八坂様の舞いを拝見する事を何より楽しみにしてまいりました。子、孫ともに八坂様に名前を授かりますれば、はや老い先短い身ですし、今さら八坂様のおらぬところで暮らすというのも。どうにも考えにくいもので」
老いがそうさせるのか、このような状況にあっても老婆はおっとりとした声で、たんたんと思いを語った。だがそれが今はかえって神奈子の心を揺さぶった。
「『とか』の息子と孫、『かずち』と『びき』を、私は先の戦でうしなった。私はそなたの孫にそなたを託されておる。『とか』には安らかに逝ってもらわねば困る。そのためじゃ」
息子と孫の事を口にする時のみ、婆の顔に深い悲しみの皺が現れる。
「……夫も……息子も……孫も……先祖から住んだ家も……もうありませぬ。婆の人生を思い出させてくれるのは今となっては八坂様だけですじゃ。八坂様の御もとにおらねば婆はさびしゅうて安らかでいられませぬものでして……」
「『とか』。その気持ちは本当に愛しいが……」
一人の男が、また立ち上がった。かの者は右腕の肘から先を戦で失っている。切断部に巻きつけたボロ布はどす黒い血で固まっている。
「我が家は先々代、言われ無き詮議を受け死罪に処されたところを、八坂様に救われてございます。ゆえに当家は末代まで八坂様に付き従う事を家訓としておりますれば、何とぞご一緒させていただきたく……」
神奈子の顔が苦痛に歪んだ。民の向ける思いは誠の信仰心である。神である神奈子にとってそれを退ける事はすなわち彼らを裏切る事であり、また自らの体を切り裂くのと同じでもある。しかし今はそうせねばならない。
「『えみら』よ。我はそなたらに生きて欲しいからこそ、この地に留まれと命じるのだ。ぬしに死なれては、我がかつてぬしの祖父を助けた意味がなくなるであろう。分かってくれ」
「お言葉ですが八坂様ッ」
『えみら』は血ヘド交じりの唾を飛ばしながら、跪き、手もとの砂利ごと拳を握り締め、残る命の渾身を込めて懇願する。
「我らが! 八坂様とともに出雲を出でたるは、生きたいがためにはございませぬ! 八坂様のお側にいたいと願えばこそ、先祖代々の土地を捨て流浪に身をやつしたのです! その我らを捨て置くなどと、どうか、どうかおっしゃいますな!!」
また違う男が、跪いて地に額をこすりつけた。
「我らみな同じ思い! 最後までご一緒したく……!!」
「『おおのどひこ』……」
言葉を失う神奈子の前で、皆が次々と地に頭を下げてゆく。
彼らの強い信仰心は1本の鋭い矢となって神奈子の心をうち抜いた。その痛みが、神の頬に一筋の涙を流させる。
「やめよ……やめぬか……我はそなたらに生きよと命じているのだ……」
彼らの信仰に答えてやれぬ己の情けなさが、かつてないほどの無力感を神奈子に与えた。どうかこの者達を救う力を与えてくれと、何者かに祈りたかった。だが、神奈子は神なのだ。祈る相手はいどこにもいない。
その神奈子の足元に、2、3歳ほどの童女がてこてこと歩み寄ってきた。
神奈子は己の気持ちを押し殺し、身を屈めて其の幼い顔に笑いかけた。童女は涙を流しながら微笑む神奈子の顔を不思議そうに眺めている。
「『ちき』よ。どうした。母のもとにおれ」
だが、幼子があどけない口調で返した言葉が、神奈子の笑顔を凍てつかせた。
「おっかあ。冷やっこくなった」
頭を下げていた民達もまた、驚いて顔を上げた。皆が慌ててあたりを見回していると、集団の右端で、誰かの悲しいうめき声があがった。
「『ぬい』が……死んどる」
皆、嘆きながらそちらに目を向け、そして一様に悲嘆の色を顔に浮かべた。女――『ぬい』――が子を抱きいだくように腕を上げたまま、地に膝を突いていた。上体は奇妙に前傾しており生気が感じられなかった。すでにこときれている。最後の瞬間まで腕に抱いた己の子を見つめていたであろうその瞳は、今はうつろに開かれ、もう何処も見ていなかった。
『ぬい』の側にいる女が、亡骸を抱き寄せてさめざめと泣いた。
「『ちき』を腕に抱きながら険しい山を越えたのじゃ……ここまでよう頑張ったのう『ぬい』……よう頑張った……!」
『ぬい』は生来、息の通る道に病を抱えていた。神奈子もそれを知っており、『ぬい』が『ちき』を出産する折は、万一を心配しその側について励ましてやったものだ。出雲を離れるにあたって、体に負担がかかるからと言って神奈子は『ぬい』に留まるよう勧めたのだ。だが『ぬい』はついてきた。そして戦の敗走をはじめた頃から、『ぬい』の病弱な体は悲鳴を上げ始めていたのだ。
「……『ぬい』……」
神奈子は『ちき』を抱き上げ、ぎゅっと抱きしめた。そして声を殺してしんしんと泣いた。
神奈子は己の力の無さを呪った。己を信じて従ってくれる者達にいっさいの明日を示してやれず。また、次々と消えていく命を救ってやる事もできず。神奈子は転げまわって泣きじゃくりたいのを必死に堪えていた。
「すまぬ……すまぬ……」
『ちき』は神奈子に抱かれて何も分かっていない無垢な笑い声を上げている。今の神奈子には、その声がどんな刀傷よりも痛かった。
「聞くがぬしら」
そんな神奈子達に向かって諏訪子が、場違いなほど平静な言葉を中空からふいに投げてよこした。
「我はこの地にぬしらの土地を用意してやろうと言っているのだぞ。それでもその八坂の神と共に死での旅に赴くのか」
諏訪子に返事をする者は誰も居なかった。
諏訪子はそれを是と受け取ったようだ。
「困ったの。ならば私にはどうする事もできん。しかしまぁ情けじゃ。この諏訪に手を出さぬと誓うなら、湖西の道をあけてやる。そこを通って南に抜けるがいい。だが、八坂の神があくまで戦うというなら……。まったく、子は親を選べぬというのに。かような神を持って憐れな民よ」
河原の泥に膝をつき女々しく涙を流している神奈子達を、諏訪子は中空から見下ろしている。勝者と敗者は、すでに明らかであった。
「ま、待ってくれ!」
神奈子が必死の形相で諏訪子に叫ぶ。もはや些細な侮辱など神奈子の耳には聞こえなかった。
民を向いて、懇願する。
「私の願いだ! どうかこの地に残れ……!」
だが首を縦に振るものはおらず、皆、死の覚悟を得た揺るぎの無い重い瞳で神奈子を捕らえる。
神奈子は無理やりに怒気をまとってみせた。
「以下は神言である!」
さすがに民達の目が揺らいだ。神言とは何人も逆らう事のできない神の命令である。長い歴史の中でそれに逆らったものはいない。
「我を捨てよ! かの者を新たな神と崇め、汝らがこの地で生くことを我は求む!」
皆お互いに困惑し目を見合わせた。
そんな中一人の男が叫んだ。
「お断り申す!」
皆、神奈子までもがぎょっとして、其の男を凝視した。
地面に両手両膝をついた男は、全身が震え、顔からは冷や汗が滴りおち、目は今にも飛び出さんばかりに見開かれている。先祖代々が皆従ってきた神言に、今たった一人で異を唱えているのだ。その重みが、この者を襲っている。
「御身を捨てよと申されるのであれば、もう八坂様は我らの神ではありませぬ! ならば、その神言には従うよしはございませぬ!!!」
神奈子の顔に本物の怒気が宿った。
「『おと』戯言を申すな! 今はまだ我は汝らの神だ!」
「違い申す!」
「何だと!?」
「八坂様は今を生く我らだけの神にあらず! 子々孫々まで我らの神! なれば、将来生まれてくる子らが断ると申しているのです! 今八坂様が我らをお捨てになるなら、いつか生まれる我らの子らにとっては八坂様はすでに神ではありませぬ! なれば八坂様の命には従えぬと、その者達が我が心に叫んでおるのです!!」
「ふ……ふざけるなぁッ!!!」
神奈子の憤怒の鉄拳が大地を打ち、一帯を地震が襲った。
「くっくっく」
そのやり取りを傍観していた諏訪子が、また場違いに楽しげな笑い声を上げた。
「何がおかしいか守矢!!」
「いや失礼。其の者はよう回る口じゃなぁと感心してもうてな。くっくっく……」
神奈子はかまっておれぬと捨て置き、諏訪子に背を向けた。
眼前では民達が一様に手をついている。だが今や其の瞳には、神奈子の神言には一切従わぬという反心の炎が灯っていた。
神奈子は怒りの形相でそれを睨み返し――そしてまた一筋、頬を涙が伝った。激怒によるものか、悔し涙によるものか、無念によるものか、それは分からなかった。
だが其の涙の一筋は、神奈子のまとった怒りに裂け目を作り、それはあれよあれよと言う間に広がっていった。そうして、怒りの下に隠されていた神奈子の弱った心がまた陽のもとにさらされた。
「なぜ……なぜ分かってくれぬ……」
神奈子は地に膝を落とし、頭をたれた。その頬にあとからあとから涙が溢れた。
「我はそなたらを救いたいのだ。なぜそれを分かってくれぬ。どうすれば、我はどうすればよい」
「……馬鹿者が」
いつの間にか神奈子の隣に下りてきていた諏訪子が、ぽかんっ、と神奈子の後頭部を殴った。
けれど神奈子はそれに噛みつく気概を、流れる涙と共に失ってしまっていた。
「八坂よ。お前はまだそんな事を言っておるのか。主には何も見えておらぬのだな。もはやお前がこの者達を救おうとしているのではなかろう」
諏訪子は、ばっと手を振り、神奈子の民達を指した。
「この者達がそなたを救おうとしているのだ。それがわからんのか!」
神奈子は呆然と、自分を見つめる人間達の顔を見渡した。その瞳に灯ったのは、死ぬ覚悟ではなかった。死しても神を救おうとする、その覚悟だったのだ。
神奈子の内にもはや言葉にできない感情の渦がわき上がってきて、その場に崩れ落ちた。
「おぉぉ……おおおぉぉぉぉおおぉお」
その口から地の底よりわきあがるようなうめき声が湧きでた。
「『おふわ』『よき』『みずし』『ととり』『くき』……」
神奈子は吠きながら、その場にいる数百名の名前を、漏らすことなく間違う事なく一人一人呼んだ。長い祝詞のように続くその震える声は半刻近く途切れる事が無かった。
ようやく全員の名前を呼び終わった後、神奈子は天を仰ぎ、雷のような怒声で叫んだ。
「すまぬ!!」
山が揺れ、再び響いた轟声に鳥達が迷惑そうに鳴きながらまた飛び立った。神奈子の喉は自らの声によって裂け、血反吐を吐いた。
それから民が、皆諏訪子に向かって頭を下げた。
「どうか! 賢明な東方の神よどうか! 我らが神をお救いくだされ!」
神奈子はその言葉に驚いて顔を上げ、諏訪子は相変わらず平静な顔でたたずんでいる。
「ふむ」
と、諏訪子は一つだけ頷いた。
「八坂の神自身が願いでねば、それはすまいと思うていたが……信心深いそなた達に頼まれては、断りきれんのう」
諏訪子は神奈子を見下し、告げた。
「この者達に免じて一つ手を差し伸べてやろう……。八坂神奈子よ。我が元にくだれ。我が属神となるならば、この者達と一緒にそちを助けてやらんこともない」
神奈子は言葉を失って、諏訪子の顔を呆然と見上げた。
「のう八坂。子は親を選べぬというが、それが不幸かどうかは親しだいであろ? どうか、これ以上この者達を道連れにしてやるな」
神奈子は土に頭をこすりつけ、そして何度も何度も地に拳を打ちつけた。湧き上がる無念からそうするのだ。他の神に下る無念さからではなく、もっと早くにそうしていれば、という今更ながらの無念であった。
神奈子は額を地に付けたまま、両の手をつき、血にかすれた声で諏訪子に哀願した。
「守矢諏訪子。そなたに願いもうしあげる。この八坂神奈子の身と引き換えに、我が後ろにいる者達をお助けくださいますよう、なにとぞ」
「ふん。……親が子に救われたな」
諏訪子は一つ大きく息を吐き、再び川面に飛び立った。そして川南で事態を静観していた者達に、威厳ある声で宣言した。
「聞いた通りじゃ。この外来者達に我が湖南の土地を授ける」
兵達は動じることなくその言葉を拝聴していた。
「皆いくらかは思うところもあろう。だがけして悪いようにはせぬ。我を信じて、ここは武器を納めてくれ」
神奈子は諏訪子の言葉を地にひれ伏したまま聞いていた。
その神奈子の周りを、民が心配そうな顔をして取り巻いていた。神奈子は気配でそれを分かっていたから、なおさら顔を上げられなかった。どのような顔を向ければいいのか、まったく分からなかったのだ。そうしてずっと、涙の海に溺れていた。
「――な子様っ。神奈子様?」
「……む?」
何者かの声が、神奈子を夢想の世界から引きずり出した。
霞む頭を振り、あたりを見回すと、そこはいつもの仮設テントの中で。目の前には、不安そうな顔をした早苗が神奈子の顔を覗き込んでいた。
「お、おお。どうした早苗」
神奈子が声を返すと、早苗はほっとしたように、胸を押さえてた。
「その、慌てて出て行ってしまった物で、忘れ物を。そしたら……神奈子様が泣いていらしたから……」
「泣いて……?」
頬に指をあてると、確かに一条、涙の線があった。
「……そうか。泣いていたか」
「あの、ど、どうされたのですか」
心配する早苗に、神奈子はカラカラと笑ってみせた。
「なに、尻を触らせてくれる相手もいなくなったんだなあと思うと、ふと悲しくなってね」
早苗は少しきょとんとした後、ジト目になった。
「神奈子様。からかってます?」
「はっはっは。まぁ、ちょいとね」
「もうっ」
早苗は口を尖らせながら、神棚の上に置きっぱなしになっていたハタキを取り上げた。
「じゃあ失礼しますっ」
そう言い捨てて、さっさと戻って行こうとしたのだが……。
早苗はテントから出るか出ないかのところで、神奈子に背を向けたまま、ぴたりと足を止めた。
「……早苗?」
神奈子が首を傾げる。
早苗が、ためらう様な、小さな声で言った。
「少し……だけならいいです」
「何?」
「神奈子様がお寂しいのは、私、知ってます。だから……な、泣くほどどうしてもと言うのなら、少しだけなら」
「……早苗のお尻を触っても?」
早苗は何も言わず、ほんの少しだけ頭を揺らした。頷いたのだろう。
「お前は本当にかわいいなぁ早苗」
神奈子は笑い声を上げて、後ろから早苗に抱きついた。
「ひゃっ」
そうして耳元で、今度は艶かしい声色で囁いた。
「入り口で突っ立っていたら、人が見たら妙に思う。神棚を向いて立つがよい」
「……は、はい」
神奈子は今、声に人の思考をとかす力をのせて話している。早くも早苗の声が溶けはじめていた。
早苗は神棚を向いて棒立ちになった。神奈子は膝をついて、早苗の臀部を眼前に捕らえた。袴のおくにある早苗の尻を思い浮かべながら、神奈子はふと、唐突な懐かしさを心に感じていた。
初めて諏訪子の尻を触ったのは、いつの事だったか――
その日の午前の内、神奈子の一行は諏訪の湖北に入った。その地の村に一時留まり長旅で傷ついた体を癒すためである。諏訪子がしかと受け入れるよう民に告げたおかげで、数百人の来訪にさいしても特に混乱は無かった。
神奈子と諏訪子は諏訪湖からその様子を眺めていた。
先ほどまで泣きはらしていた神奈子は今だ、どこかほうけた顔をしている。
その神奈子を諏訪子が小突いた。
「こら。しゃんとせんか馬鹿者」
「む……」
頷いてはみたものの神奈子の顔は晴れなかった。後悔、無念、そして感謝、おおよそ神らしくない情動が神奈子の中とめどなくに渦巻いていた。
「かような思いをしたのは初めてだ」
「今までよほど単純に生きてきたのだろう」
諏訪子は神奈子の物思いに一々水を差してくるのだ。
神奈子は唇を尖らせた。
「……守矢。心より感謝してはいるが、そなたは可愛げがないな」
「くだらん事を。あのな八坂。お前がどう凹もうが何を悔やもうが私の知った事ではないがな。かの者達にとってはお前が唯一の神なのだからな。しっかりせい」
神奈子は罰の悪い顔で、わずかに目を伏せた。
「わかっておる。……が、民に助けられるとはな。失望されたかのう……」
その頭を諏訪子がまたぽかんと叩いた。
「お前はっ。我の頭をぽかぽかとっ」
「ぬしが自分の事しか考えておらんからだ。お前のようなへタレでもかの者達にとっては命をとしても救いたいと思う神なのだ! それをなんじゃグチグチと。そんなくだらん事に時間を使う暇があるなら、顔を見せにでもいってやれ。あの者達に少しでも恩返しせい」
「わ、わかっている。しかし……どのような顔で……」
神奈子が渋い顔をしたとたん、また諏訪子の鉄拳が脳天に突き刺さった。
神奈子は涙と青筋を顔に浮かべて諏訪子を睨んだ。だが諏訪子は一切動じず、それどころか溜め息を吐いている。
「お前はでかい図体をしているのに本当に情け無いやつだ。お前はあの者達を元気づけなければならんのだろう。どんな顔をするかなどおのずと決まってこよう。今みたいなへたれた顔などもってのほかだ」
「くっ……た、民の前ではこんな顔はしない」
「なら、ぶちぶち言ってないでさっさと行け」
「イマイマしいやつ」
諏訪子にせかされる形でようやく神奈子は民の前に降り立った。諏訪衆に一同の案内を託して以来、まだ一度も人間達に顔を見せていなかったのだ。とたんに神奈子の周りに皆が群がる。神奈子はそれを嬉しく思いながらも、いくばくかの後ろめたさを感じてもいた。人間達の今は、すべてそれを導いた神奈子に責任があるのである。
そんな風に考えていると、また諏訪子に睨まれているような気がして、神奈子は湖を仰いだ。睨んではいないようだが、諏訪子はじっと神奈子達を見下ろしていた。
「童女のごときなりのくせに、おっかない奴じゃ」
そうやって憎まれ口は叩くが、諏訪子が救いの主である事は忘れてはいない。
「せいぜい気張って仕えるとしよう」
神奈子達に与えられた湖南の地は暮らしやすい土地とは言えなかった。湖の岸から数百メートルほどには緑の原が広がるが、それより南は、こげ茶色の大地が延延と続く、心持が悪くなるような眺めであった。
「ちょっと前に九頭山(現八ヶ岳)が山一つ吹き飛ぶ程のかなり大きな噴火をしてな。その時にそうとう森が飲み込まれた」
ちなみに諏訪子の言う少し前とは千年万年の尺度である。
現在の小淵沢の辺りまでは火成岩に覆われた不毛の土地となっていた。
「ふむ。我が神力でこの地に緑を蘇らせて見せよう」
国を得た神奈子は農耕神としての力を大いに発揮し、数百世代を経た現代では一帯は緑に覆われた豊かな土地となっている。
「だが問題は土の質だけではない。ここよりかなりの南方に、欲深い連中がおってな。時折、わざわざ荒地を踏破して、この地に攻めてくる。北の盆地にも、またこの湖を狙う輩がおる。主らがやってきた方の西の民は比較的おとなしいが、東にはまた山を越えた地に豪族がいて……」
「この地も平穏無事とはいかんのだな」
「なんだ。軍神が戦いに怖気づいたか」
「……そうではない。だが以前ほどは心が躍らぬ。しかし、やっとめぐり会えた新しい土地だ。必ず守ってみせよう」
「せいぜい民に尽くすがいい。それが我が属神としての、お前の役目だ」
「承知した」
ここに、神奈子の新たなる統治が始まった。
初めのうち、突然入植してきた移民たちに対して湖北の土着民達にはいくらかの悪感情があった。だが神奈子や其の民の尽力によって、じょじょに湖南の地に緑がよみがえり農作物も豊富に取れるようになるにつれ、湖北もその恩恵を受けるようになり、世代を経るうち自然と同族意識が芽生えていった。北方や南方、東方の敵に対して、共に戦う事もまた諏訪衆の意識を一つにまとめた。
諏訪子は賢明なその統治で内政に勤め、神奈子は軍神の才を生かし外の圧力からよく諏訪を守った。諏訪は一つところを二神が治めるという当時にしては稀有な土地となり、多方からその豊かな水源を狙われながらも、ちゃくちゃくと発展してゆくのであった。
「なぁ諏訪子。今夜はいい月だ。酒でも飲まないか」
「そうだな。……しかし、いつのまにかお前、私の事を呼び捨てするようになったなぁ」
「いいじゃないか。ともにこの地を守る私と諏訪子の仲だろう」
「お前が私に泣いて庇護を頼んだのはいつの事だったかね。お前は我が属神では無かったか」
とは言うものの諏訪子は上下関係を強制してくることは全くなかった。時折、皮肉の折に口に漏らすだけであった。
神奈子が不思議に思うほど諏訪子にはいわゆる『欲』というものが無かった。奢ることもなく、欲することもなく。おかしな言い方ではあるが、神らしくないとさえ思った。
だがその謎はわりとあっさりと解決した。
「そうか。諏訪子は龍神だったのか」
龍神――その土地のあらゆる生命、また大地の持つエネルギーから自然発生した神をそう呼ぶ。山や海や、湖にはおおむねそのような神がいるものである。土着の神とも言う。
それに対して神奈子のような神を人神と呼ぶ。人の思念から生み出された神である。
意識が人間に近いか遠いか、そこに大きな差がある。人神は人間に依った存在であるし、思考も近い。だが龍神はもっと広い世界に依る存在であるから、人間的な欲には囚われないのだ。そのため、しばしば神奈子は諏訪子に驚かされる事があった。
ある日、里からそう遠くない山中で、神奈子と諏訪子が熊に襲われる母子に遭遇した時の事である。熊は体長が2メートルほどもあり、またあきらかに捕食を目的として母子に近づいていた。母は震える子を抱きながら、しかし恐怖に足腰が立たぬのか、必死に地面をはいずりながら、熊から逃げようとしていた。
「神……様……助け……て……」
その顔からは血の気が引き、歯はガチガチと痙攣しもはや言葉をまともに話せないほどだった。
「どれ。助けてやろう」
と、神奈子がその場に入ろうとしたところを、諏訪子が止めた。
「待て神奈子」
「何だ」
「何をするつもりだ」
「あの母子を助けるに決まってるだろ」
「なぜだ。何ぞ特別な理由でもあるのか」
「神に助けをこうていたじゃないか!」
「そりゃ生き死にの淵だ、何にでもすがる。いや私が言いたいのは、自然の成り行きなのだから私らが関わる事じゃないと」
「いやしかし」
「神奈子は人神なのだから人によるのはわかる。だがあの熊だって、そうとうに腹を減らしておる。久々にありつけた食事なのだろう。それを奪ってやるなよ。人間の母子にはかわいそうだが」
「む……う……」
そうこうしている間に、熊の一撃で母は絶命。おって子も殺された。熊は母子の亡骸をずるずると引きずり、茂みへ消えていった。この時期ならば、あるいはねぐらに小熊が待っているのかもしれない。久方ぶりの食事を親子で祝うのだろうか……。
諏訪子は用があると言って、すぐにその場を離れ人里に向かった。
神奈子はその後ろについて飛びながら、いまだに納得できずにいた。
「諏訪子よ。お前は人間達を束ねておるし、人間達同士の戦いにも関わるではないか。それは自然の成り行きに介入している事になるだろう?」
「なんだ。まだこだわっているのか。人間達に関わるのは、彼らがあまりに数を増したからだ。周りの動植物や土地への影響が強すぎる。統制がなければこのあたりの緑など数百年と持たず消えるだろう。かといって彼らに繁殖を止めよなどとは言えない。しかたなくこの身を使い、自然との調和を保たせているのだ」
「ほう。龍神様は人間に迷惑しておられるのか?」
「まさか。そのような感情はない。必要だからそうしているまで。皆大切な我が子よ」
「その子らを先ほど見捨てただろう」
「あの熊とて可愛い我が子よ」
「ううむ。……してこれからどこへ行く?」
「先ほど殺された母子の夫の所じゃ。悲しむであろうが、伝えねば」
「何っ。顔見知りの者だったのか?」
「うむ。我が神官の者の家族であった」
「そ、それを助けなかったのか!?」
「身近な者だけ特別扱いしろと言うのか?」
「いや……ううむ!!」
「唸ってばかりだねぇ」
住居にいた神官は初めのうち、諏訪子の訪問をうけて上機嫌にしていた。神奈子がその様を見て随分と心痛い思いをしていると、諏訪子が神官の手を握り、ゆっくりと、神妙な声の調子で伝えた。
「お前に、悲しい知らせを告げなければいけない」
「え……」
と、神官は息を飲み、戸惑いつつも諏訪子の言葉を待った。
「お前の妻子の事だ。先ほど亡くなられた」
神官は言葉を失い、目を見開いた。視線がゆれた後、しだいに唇が震え始める。その唇が僅かに開いて、喘ぎながら、弱弱しく空気を求めた。
「どういう……事です。妻と子は山へいったはず……」
「山中で熊に襲われたのだ。残念だ」
神官はギュッと目を瞑った。額に皺をよせ、唇をかみ締める。妻子が体験したであろう恐怖を追体験しているかのようだ。
「なんて事……」
よろよろと、手近にあった木椅子に腰を落とす。
うつむいて、顔を手で覆った。
「諏訪子様……遺体は」
「山に還ったよ」
「そう、ですか……」
神奈子は後で知ったが、『山に還る』とは獣に食われるという事である。つまり、弔う遺体は残らない。
神官はずっとうつむいたまま何も語らなかったが、しばらくして、とうとう耐えられなくなったのか静かに嗚咽を漏らし始めた。
「諏訪子様……諏訪子様はその時……お側におられたのですか?」
「……。うむ。お前には、本当に申し訳ない」
「……一人にさせてください」
その声色は悲しみの一色に染まっていて、他にどのような感情が込められているのか、それは分からなかった。
神奈子と諏訪子は言葉少なげに湖のほとりを歩いていた。
「神奈子よ」
「なんだ」
「もしあの者が、私の元を離れ、お前の神官になりたいと望んだら、受け入れてやってくれ。あれは良い神官だ」
「……そうなるか?」
「そうなっても、無理からぬよ」
諏訪子はどことなく寂しそうな顔で、諏訪湖を眺めながらそう呟いた。神奈子が初めて目にする諏訪子の弱弱しい姿であった。
「お前は……不思議なやつじゃ」
「龍神であるというだけだよ。けれど……少々人に依りすぎたかもしれぬ」
「うむ?」
だが、諏訪子は何も答えなかった。
神官はそれ以後も生涯を諏訪子の元で過ごした。信仰心もそれ以前と比べて陰るような事はなかった。人生の黄昏を迎えるその時にあっても、諏訪子への忠誠は変わらなかった。
「諏訪子様……」
「どうした」
今わの際、諏訪子は最後までその枕元で手を握っていた。神官は再婚する事もなく、数人の仲間に看取られて最後の時を迎えていた。
諏訪子がその手を握る。
「妻子が、愛しい妻と子が、そこにおりまする」
男の目はとうに光を失い、空ろに虚空を眺めていた。だが、その顔は幸せそうに笑っている。
諏訪子もまた微笑んで、男の皺枯れた頬をなでた。
「ふふ。そうであろう? もうすぐお前が逝くからと、迎えにくるよう命じておいたのだ」
「おお……それはそれは……諏訪子様……最後の最後まで……ありがとうございます」
「私こそ。お前のような者が側にいてくれた事を嬉しくおもうぞ」
男の瞳から、一筋涙が零れた。そして、笑ったまま、息絶えた。
男の瞼を閉じさせながら、諏訪子が一言呟いた。
「すまなかった……」
神奈子は部屋の隅に腰かけ、ずっとその様子を伺っていた。
それからまたしばらく時がすぎ、湖南の地にだんだんと緑が息吹始めた頃。
神奈子はある決心を胸に抱いていた。
「諏訪子よ。この戦いが終わったら、お前に話があるのだ」
「なんじゃ。今言えばよかろ」
この頃、北方(松本・安曇野)の民に強い者が立ち、たびたび諏訪の北の峠を越える素振りを見せていた。そして今また神奈子は民を率いてしばし北の守りに出る事になったのだ。
「いや。無事に帰ってきたら話す」
「さようか。まぁ、せいぜい気をつけよ」
「うむ」
現代では死亡旗などと呼ばれるこれらのやり取りも、かつては無事生きて帰るために行う日常的な願掛けだったのだ。
そしてその効果は凄まじく神奈子は三日という短い期間の間に快勝をもぎ取り、あっという間に諏訪子の元へ戻ってきたのだった。
湖北の宮で二人は祝勝の酒を酌み交わした。
「実はな。私も神奈子に話がある」
いつに無く恥ずかしげな顔で諏訪子が言った。
それを見て神奈子は、可愛いな、などと考えてしまって、
「なんじゃ可愛い顔をして」
とそのまま口にだした。
諏訪子は気持ち悪そうにして笑った。
「妙な事を言うな。まぁ、神奈子から話をするがよい」
「む、そうか」
神奈子は手にもっていた杯を置き、どんと手を付いて胡坐を前のめりにした。対面で同じように胡坐をかいている諏訪子に顔を近づけ、やんちゃな笑みを浮かべながらそして言った。
「なぁ諏訪子よ。私と夫婦神になってはくれないか」
諏訪子は――目を丸くして、固まった。口が一文字に結ばれているにも関わらず、顔全体としてはぽかぁんとしている感があった。
夫婦神とはつまり、ツガイの神である。神にとって性別など便宜上のものなので、女女であろうが男男であろうが夫婦神と呼ぶ。
「いやな。どうせ我らは手をたずさえて諏訪を治めゆくのだ。民にとっても、我らの仲が磐石であるほうが、安心であろう? そうは思わぬか」
「む……むぅ……」
神奈子は間に耐え切れず、照れ隠しにまくしたてた。
諏訪子は戸惑いながら、しかしけして印象の悪くない困惑の笑みを浮かべている。
「神奈子は、私の事を好いてはおらぬと思っていたが」
「随分昔、出会った頃はたしかにいけ好かぬと思っていた。救ってもらってなんだがな。がはは。だが今はそんな事はないぞ。諏訪子は本当に立派な神だ。尊敬しておる。お前がいなければ今の私もない。戦いを終えた後、諏訪に戻って主が出迎えてくれるたび、いやこう言うのは恥ずかしいが、愛しく思う」
「う、ううむ……」
諏訪子は腕を組んで、何事か考え込んでしまった。
さすがに神奈子も少し不安になる。
「なんじゃ……だ、駄目か?」
「うーん」
諏訪子はしばし神奈子をほったらかしにして唸った後、顔を上げて、頭をかいてあらぬ方向を見やりながら、突然言った。
「実は……子ができてな」
「ん? 誰にだ」
「いや、私にだ。この腹の中におる」
諏訪子は恥ずかしそうに、まだいっさい兆候の見えない平な腹を、ぽんぽんと叩いた。
神奈子は――仰天して飛び上がった。足腰に力が入らずそのまま後ろにひっくり返った。それからなんとか上体を起こして諏訪子を凝視した。
「な、な、な、な、ななななななななっ」
口の回らぬ神奈子を、諏訪子が恥ずかしそうに睨んだ。
「なんだ」
「そっ、そっ、そりゃこっちの言葉じゃ! なんじゃとーーーーーー!? い、いつの間に……」
「この三日の間よ」
神奈子は床に大の字になって倒れこんだ。そして天井を呆然と見上げながら、ぱくぱくと喘いだ。自分が今どういう感情を抱いているのか、それすらわからなかった。ただただ頭が混乱している。
「だ、誰じゃ、あいては誰じゃ。いったいどういう事じゃ。そんな相手がおるとは聞いた事がないぞ。わけがわからん。わけがわからん……」
「まぁ聞け。順を追って話そう」
諏訪子がぽつぽつと話した内容を、神奈子は混乱した頭でぼちぼちと書き留めていった。まとめると、以下のような話であった。
自分の代わりとなって、神奈子と共に人間達をまとめてくれる者を育て、自分は人から距離をおいて諏訪の龍神に戻りたい。子を宿すために適当な神官に便宜を図ってもらい種を貰った。色恋の感情の結果ではない。
「私はちと長く人の神でいすぎた。思い方も随分人に近づいてしもうた気がする。そこでじゃ。今は神奈子もこの諏訪にいてくれるし、私はまた純粋な龍神に戻りたいんだよ」
諏訪子が話す間に神奈子はある程度は冷静さを取り戻していた。
「諏訪子は……人の神でいるのがいやなのか?」
「そうではない。ただ偏りすぎたとは思うておる。本来私は、人だけの神ではないからな」
「むうう。諏訪子は我らの前から姿をけしてしまうのか……?」
「いいや。ただ今ほどは里に姿を現さなくなるかもしれない。けれどこの諏訪の山のどこかに必ずおるよ」
「ううううううむうぅぅうう。しかし!言ってくれれば私が諏訪子に種をあげたのに! そこいらの者から貰うなどと……!」
神奈子が泣き出しそうな顔でそう言うと、諏訪子は笑った。
「私は神奈子の気持ちを知らなかったんだから、考えもしなかった。そもそも相手は人でなければならぬ。人の入れ物だけをいただき、その心にはすべて我が分身を宿す。現人神となるのじゃ。神である神奈子が相手では、入れ物だけをいただくというわけにはいかず純粋な分身とはなるまいよ」
「うう……」
どうやら自分の願いは叶いそうにないという落胆が、神奈子の心に落ちた。
「私はずっとずっと諏訪子と一緒にこの地を治めていくものと思うておったが……」
「いやいやその通りだよ。これから先もずっと私はお前とともにこの諏訪にいる。ただ少しだけ立つ場所が変わるだけだよ。それに神奈子の気持ちは嬉しいぞ。それにまぁ、今までだってすでに我らは夫婦神のようなものだったじゃないか。これからも何も変わる事はない」
神奈子は上手く言いくるめられているという思いが強かった。神奈子の望む二人の姿は、一つの宮に二人ならんで里を眺むるような、そんな光景なのだ。
神奈子がうつむいて渋い顔をしていると、その神奈子の手を諏訪子がとった。そして神やすりをした。
「のう神奈子。これを先ほどのお前への返事としてしまっては失礼だが……私もお前の事は良く思っているよ。民は皆お前を慕っておる。それがお前を何より証明している。お前と、私の子が里にいてくれるなら私は安心してこの諏訪全体を見ておれる。いつか私がお前を助けた事への恩返しとして、それを許してはくれんか」
「む、う……」
そのように言われては、神奈子には反対などできるはずもないのだ。神奈子はその後さんざん呻き続け、また床を転がり、諏訪子に神やすりを何度もされた後、ようやく頷いたのであった。
「これからも私と一緒にいてくれるという言葉に嘘は無いな?」
「うん」
諏訪子は満足げに顔をほころばせて、また神奈子と酒を酌み交わしたのである。
神奈子は焼け酒をあおるようになり、だんだんとその目が据わっていった。
「諏訪子。一つだけ私の願いを聞いてくれ」
「なんじゃ」
神奈子はずいずいと諏訪子に近づいて、言った。
「尻をさわらせてくれ」
「はぁ?」
なんだこの酔っ払い、という軽蔑の目を諏訪子はした。
だが、神奈子は冗談で言ったのではなかったのだ。
「酔っ払ってはいるが、これはシラフで言うのだぞ。私はこの戦いの間、ずっと諏訪子の尻の事を考えていた! 諏訪にもどったら、お前と夫婦になって、お前の尻を撫でる! そればかり考えておった! だから……どうか尻だけはさわらせてくれ!」
「……呆れたぞ。お前は私の尻にさわりたいが為に私と夫婦になろうとしたのか。戦で討ち取られてしまえばよかったのだ」
「いやいや! 勘違いするな。夫婦になりたいと思うような相手であればこそ、尻もさわりたいと思うもの。誰かれ構わずというわけではないぞっ」
瞼は据わり、顔は赤くほてってはいれども、神奈子はいたって真剣に、諏訪子にそう熱弁した。その瞳の力は諏訪子にも伝わったようだ。伝わったところで、よけい呆れさせる結果になってしまったようだが。
「やはり神奈子には諏訪を任せるのは間違いであろか……」
「侮辱するなよ。諏訪を思う気持ちも、お前の尻を思う気持ちも、どちらも誠じゃ!」
諏訪子はまだジト目で神奈子を睨んでいたが――
「はぁ」
と酒瓶を一杯かっくらって、それからすっくと立ち上がった。
「ほれ。さっさと触れ」
そういって諏訪子はくるっと神奈子に背を向けた。尻を突き出すような下品な事はしなかったが、直立にたった其の姿勢でも、諏訪子の臀部の小さなふくらみが、神奈子にはよくわかった。
「お前に諏訪の民を任せると決めたのだ。尻の一つや二つ、ついでにくれてやる」
「お、おお……」
神奈子は膝立ちになってで諏訪子に近づいた。
眼前に、諏訪子の尻がある。
「これじゃ。これを求めていた……」
神奈子は躊躇せず諏訪子の太ももを抱いて、尻の間に顔を埋めた。
「ひぇ」
「うん……柔らかいぞ。私のでかい尻と違って、小ぶりで可愛いのう。諏訪子の匂いがするぞ」
「み、妙な事を言うなっ……。まだか。満足したら早う離せ」
「なぁ……できれば召物を脱いで欲しいんだが」
「調子に乗るな! 終いじゃ終い!」
諏訪子はぽかんと神奈子の頭を叩いて、強引にふりほどいて前を向いてしまった。
「あ、ああぁ……」
と神奈子は残念そうな声を上げた。
だが、神奈子は目の前に諏訪子の下腹部がちょうどあるのに気づいて、そのままじっと、そこを見つめた。そしてぽつりと呟いた。
「ここに、お前の子がおるのじゃな」
「……そうだな。まだ、人の形にさえなっておらんだろうが」
諏訪子も神奈子の声の調子が変わった事に気づいたようだった。
神奈子は膝をついたまま、再び諏訪子を抱いた。そして、その下腹部に頬をあてた。諏訪子も何も言わずにそれを受け入れた。
そしてまるで、夫が妻の胎内にいる我が子に呼びかけるように。
「元気な子に生まれてくるのだぞ」
「くれぐれも、神奈子のようになるでないぞ」
頬に伝わる諏訪子の暖かさの奥に、神奈子は新たな命の胎動を感じた。
「……さわさわ」
「阿呆っ」
こっそり諏訪子の尻に回した手は、猛烈な力でつねられてしまった。
「――気持ちがいいなぁ」
早苗の尻に頬擦りをしながらそういった。頬擦りまでは、かつて諏訪子はさせてくれなかった。
「そ、そうですか……よく……わかりません」
「早苗も私の尻にしてみるか」
「い、いいです」
「したくなったら、いつでも言いな」
「はぁ」
神奈子は満足して、立ち上がった。
立ち上がって、また早苗を後ろから抱いた。諏訪子の子孫は、元気に立派にそだっていた。それを腕のなかに感じて、神奈子は幸せに思った。
「早苗。諏訪子の所に行こう」
三人で一緒にいたい。急にそんな気分になったのだ。
「え? 今からですか?」
「まだ仕事があるか?」
「あ、いえ大丈夫です。では袴を着替えてきますね」
早苗がセーラー服姿で戻ってくるのを待って、神奈子は早苗を抱いて飛び立った。神奈子は早苗が空と飛ぶのを見られないように、神力で隠す。クローキングシールドみたいなもので、神隠しである。
春宮を飛び立った二人はちょうど中央本線の線路に沿うように街の空を飛び、洩矢神社へ向かう。
「綺麗……」
早苗が諏訪の夕焼けに目を向けて言った。
諏訪湖は夕焼けの空を反射して、オレンジに輝いていた。反射した夕日が一本の光の柱となっている。天鏡湖と化した諏訪湖の周りでは街が、赤を強くした光に鮮やかに照らされる。その光は、神奈子達をも暖かく照らしている。山々はまさに地平の果てまで、赤が混ざって異様になった緑を、世界の果てまで連ならせている。涼しい風にのって、そのうねりの声が、上空には満ちている。地平には、日本を支える富士の影が、この山奥からでも眺められた。天には藍と橙の境界が生まれ、また立体的な影を持つようになった雲の白が鮮やかな色彩を加えていた。
「美しい空だ」
「はい。諏訪も空も本当に……」
早苗はうっとりとした顔に成っている。いつだったか早苗は、神奈子に抱かれながら眺める諏訪の眺めが大好きだと、可愛い事を言っていた。
「……神奈子様っ、あの苦しいです」
「む。ごめん」
知らず知らず、神奈子は空を眺めながら、早苗を抱く腕にギュッと力を込めてしまっていた。神奈子は腕の力を緩める。だが、神奈子の顔にはまだいくらか緊張が残っていた。
空を彩る藍と橙の美しい境界が、あの日を思い出させるから。
諏訪子が、諏訪の龍神である事を放棄して、本当の意味で神奈子に諏訪を譲ったあの日――
諏訪子の腹の子は順調に育ち、何の問題も無いまま、すんなりと生まれた。やや子であった。諏訪衆にも諏訪子の意図はすでに告げられていた為、子の誕生はたいそうに祝われた。諏訪子がいなくなる事についての不安の声もあったが、御子と神奈子が残るのであれば、と大げさな問題にはならなかった。
「神奈子。この子の苗字、考えてくれたろうな」
腹が膨れはじめた頃、諏訪子は神奈子に苗字の銘銘を頼んでいた。当時の日本にはまだ苗字という概念は無かったが、現人神という特別な存在になるべく、親にならって二つの名を得る事となった。
「うむ。ふさわしい名前を考えた」
「ほう」
神奈子はもったいぶってから、紙に書いてみせた。
「『東風谷』か」
「この諏訪をあらわす『東』と、我を表す『風神』、お前の一字『矢』の音。我らが初めて出会ったあの山間をも指している。すべてを練りこんだ良い名前じゃろう」
「うん。良いな。まぁ神奈子が悩んで考えてくれた苗字であれば、何でもよい」
「名はどうする」
「女の子だからな。『やや』でよい」
「ちと適当すぎんか」
「この子は神の腹から直接生まれた子。まだ人の色が薄い。名前などあってないようなものだ。この子がいつか人間の男子と結ばれて子を授かったら、その時こそ人らしい名前を授けてやればよい」
「しかし……となると『こちややや』か。ううむ。韻を失敗したかのう」
「はは。いいさいいさ。愛嬌だ」
生まれた直後に一つだけ小さな騒動があった。
ややの養育は人間の乳母に任せる予定であったが、突然諏訪子がそれに反対したのだ。
「私の娘だ。私が育てる」
そう断言して、諏訪の政のほとんどを神奈子と神官に任せ、ややにつきっきりになってしまった。
神奈子はいつになく強引だった諏訪子の姿勢と、子にかかりきりの態度にふと不安を感じたが、子を産んだのだからそういうものかもしれない、とそれほど気にはしていなかった。
だが、人間の母親にとってはごく当たり前のその感情も、龍神である諏訪子にとっては違った。一つの命に固執するその姿勢は正常とは言えない状態だったのだ。これまで諏訪子は賢明で、その判断は九分九厘正しかった。だが最後に、自分の、子に対する思いの強さだけは見誤った。
――そして、ややが生まれた年の夏。夕焼けが美しいある日の事である。
それは、耳にした者の鳥肌が立つような、胸が張り裂けそうになる嘆きの絶叫だった。
「神奈子ぉっ!! この子を助けてくれぇ!!」
湖のほとりでうたた寝をしていた神奈子は全身が総毛立つのを感じながら跳ね起きた。総毛立つのは諏訪子の絶叫によるものだけではなかった。つい先程まで穏やかだった諏訪の空は一変していた。身の気がよだつほどの禍々しい妖気が流れだしていたのである。
「なんだ!?」
諏訪子の悲鳴の元をたどって神奈子は諏訪湖の上空を見上げた。
美しい夕焼けの空である。
だが神奈子には空など見えていない。そのかわりにはっきりと見えるのは、この諏訪を覆いつくそうとしている、黒くにごった妖気の濁流の噴出口。
そして――
「諏訪子!!」
その中心には、生まれたばかりの我が子を抱いた諏訪子がいた。先ほどまで、空に浮かんでともに諏訪の夕日を眺めていた母娘が。
神奈子は地を蹴って空に飛び上がった。
「今行くぞ諏訪子!!」
黒い炎に炙られる二人に突進しながら、神奈子は諏訪子の抱いている子から妖気が噴出しているのかと、一瞬思った。
だが違った。
二人の側にまで来た神奈子は目の前の光景を見て、本当に髪が総毛だった。
「な、なんだこれは」
諏訪子の側の虚空が不気味に裂けていた。妖気はそこから漏れてきていた。神奈子の身の丈ほどもあるその裂け目は不気味な色をしており、そしてそこから――四本の白い腕が伸びて、諏訪子の子を掴んでいた。
「ややが! ややが連れて行かれる!!」
我が子の名を呼ぶ諏訪子の顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。そしてまた悲しみに顔を皺だらけにされてしまっている。諏訪子は子を抱きしめ、渾身の神力を持ってしてこの腕の力と拮抗しているらしかった。また同時に、ややが隙間から噴出する妖気に焼き殺されぬよう、また白い腕に軟い肢体を引きちぎられぬよう、子の体を神力で守っていた。もはや一欠けらの余力もないようだ。
「ややを離せ!」
神奈子がややを掴む腕を手刀で切り落とそうとした時である、新たな白い腕が隙間より伸びてきて神奈子の手を掴んだ。
「くっ……なんという力だ!」
気を抜けば肩口から腕をもぎ取られそうなほどの妖力があった。やや子はその腕に四本も体を掴まれているのだ。諏訪子は必死でやや子を守っていた。
「あらあら。もう少しでこの子を引きずり込めたところでしたのに。邪魔がはいってしまいましたわ」
隙間の奥から女の声がした。耳の奥に粘りつくような、嫌らしい声だった。
「なんだ貴様は!」
「名乗るほどの者ではありませんわ。昼と夜の隙間妖怪、とでも言っておきましょうか。うふ」
場違いに呑気な口調が癇に障る。だが神奈子はそれどころではなく、息を飲んだ。
「貴様……夜明けと夕暮れの大妖か」
それは、この世の成り立ちと共に生まれたとされる、当時最も恐れられていた妖怪の一人である。この世とあの世の狭間に住み着き、朝昼と夜が移り変わるその瞬間にだけ現世に現れる神出鬼没の化け物。その一時は、神よりも強大な力を持つといわれていた。
「私の事はおかまいなく。今大事なのは、この幼子ですわよねぇ? この地の龍神様は常になく子煩悩だとお聞きしまして、ちょっかいをかけにきましたの。ふふふ」
「離せ!! 離してくれえ!!」
「あらあら。諏訪の神様は冷静沈着で賢明であらせられると聞き及んでいましたけれど、見る影もありませんわねぇ。うふふ。神様のくせに随分と我が子をひいきなされている様子。もしこの地と我が子とを天秤にかけたなら……神様はどちらを選ぶのでしょうねぇ?」
神奈子の背をゾクリとさせる冷たい響きが其の声に篭った。
と同時に、もう一本隙間から腕が、こんどは色白な不気味な腕ではなく、白い手袋をした腕が伸びた。そうして、その手が諏訪湖を指差す。
「というわけで♪ この一帯の地脈を破壊させていただきますわ。そうすればここいらの土地は死に絶える。普通は神様であろうとそんな事はできないのですが、私には境界を操る器用な能力がございまして……うふふ。さてもさても、地脈を守れるのはその地の龍神様だけ。あらあら? けれど今龍神様は何やら手一杯のご様子ですわねぇ」
「ひっ……や、やめてぇ!!」
諏訪子の顔が絶望に引きつった。妖怪がねちっこく話す言葉が、諏訪子を暗闇の奥底へ追い込んでゆく。
「我が子を見捨てて土地を守るか、土地を見捨てて我が子を守るか……うふふふふふふ結果が楽しみ」
隙間から突き出た腕に恐るべき異質な妖力が収束され始めていた。
「ど、どうしたら……どうしたら……」
「諏訪子! ややをこっちに渡せ! 私が守る!」
「だめぇ! 動けない!! 少しでも力を抜いたらややがもぎ取られる!!」
「ええい!!」
手袋をした腕に掴みかかろうとした神奈子の残る腕を、また別の色白い腕が境界から伸びてきて掴んだ。
「くそ!!」
「はぁ……龍神様と神様を同時にお相手するのは、さすがにしんどいですわねぇ。さっさと終わらせちゃいましょ♪」
妖気と共に隙間から洩れる楽しげな声と共に、白い手袋の手が、何かを掴んだ素振りを見せた。
「見ーつけた♪ さぁ龍神様? 阻止するなら今しかございませんわよ?」
「あ……あぁ……あ……」
諏訪子はぶるぶると震えながら、眼下に広がる諏訪の地と、己が抱いているややの間で視線をさ迷わせた。
「諏訪子っ……」
神奈子は諏訪子にどうしろと言う事もできなかった。子を捨てろとも、諏訪を捨てろとも、言えなかった。
そして諏訪子は……いつまでたっても、ややを離す素振りは見せなかった。
「……あらあら、意外ですこと。龍神様なら子を捨ててでも土地を守ると思いましたのに。残念。神の子を捕まえる好機でしたのに。まぁいいですわ。それっ。壊れておしまいなさいっ」
手袋をした手が、何かを握りつぶすように、力を込めて握られた。
諏訪子は――現実から目をそらすように、ぎゅっと目を瞑った。
「やめろォ!!」
叫んだのは神奈子だった。外来の者とは言え、神奈子も長年をかけてこの土地を豊かにし、そしてこの土地を故郷と思い愛してきた。それを踏みにじられて平気でいられるわけはなかった。
「おのれぇぇぇっ!!」
猛った瞬間である、神奈子の脳裏に、ぴぃんと一本の光の筋が走った。それは見る見る間に太くなって、光点の集合により形成された巨大な光の流れとなった。初めて感じるものではあったが、それが何かは神奈子にははっきりとわかった。
今、其の光の河に、四方八方の周囲から黒い力の渦が襲いかかろうとしていた。それは禍々しい渦で、神奈子は反射的にそれから河を守った。どうやったのかは自分でも分からなかったが、感覚的にその光の河に自分の力を送り込んで、一時的に河流を強靭にした。黒い渦は河に喰らいつき……そして霧散した。
「え!?」
隙間の奥から、驚く女の声がした。
「……予想外だわっ。外様の神様でも龍神になれるの!?」
初めて女の声から余裕が消えた。そして隙間から溢れてくる妖気の勢いは急速に収まっていった。隙間自体も閉じていく。
「ああもう無駄骨! 疲れただけじゃない!」
女は忌々しそうに叫び、そしてその声は途絶えた。やや子や神奈子を掴んでいた白い手も、しゅるしゅると骨や関節を感じさせない動きで、隙間に戻っていった。すべて収まった後、開いていた隙間はどんどん閉じていき、最後には一筋の線になり、そしてぷっつりと中空に消えた。
「去った……のか? ……諏訪子! やや! 大丈夫か!」
諏訪子は身を縮めてややをギュッと抱いていた。その体はガタガタと震えている。かすれた声で、諏訪子が呻いた。
「わ、私は……私は……」
「諏訪子……。さぁ、私の宮に行こう。今日からしばらく、二人ともずっと私の側にいるんだ。いつまたあれがくるか分からん」
神奈子は震える諏訪子の肩を抱いて、宮へ飛んだ。
脳裏には、太く輝く光の本流がいまだはっきりと見えていた。これが地脈である事は間違いないだろう。
神奈子は何十世代にもわたり土地に神力を送り、緑をよみがえらせてきた。その緑は人間達だけでなく多くの生き物に恩恵を与えた。土地に力を与え、多くの生命を息づかせた。知らず知らずのうちに、神奈子は後天的に、その土地の主たる龍神の力を備えていたのだ。
諏訪子が救わなかった土地を、神奈子が救ったのである。
夕刻の異変に気づいていたのは一部の力の強い神官達だけで、大多数の諏訪衆にとっては、いつもの綺麗な夕暮れだった。
諏訪子はずっと自分の行動を悔いていた。我が子可愛さに諏訪の地を見捨てたのだ。神奈子がいなければここは死地と化していたのは間違いない。龍神として許される事ではなかった。
神奈子は震える諏訪子の肩を抱き、ずっと慰め続けた。諏訪子のそんな気弱な姿は初めてで、神奈子もいくらか混乱した。
夜半すぎ、ふと目を覚ました神奈子は、隣に寝ていたはずの諏訪子とややの姿が消えているのに気づいて慌てふためいた。けれど二人の居場所はすぐに分かった。地脈と繋がれるようになってから、この一帯に存在する生命をすべて感知できるようになったのだ。慣れない感覚ではあったが、神である諏訪子は一際目立っていてすぐにそれとわかった。
だがいやな胸騒ぎがした。神奈子は急ぎ夜空に飛び出した。
諏訪子はややを抱いて湖の上空にいた。数時間前にあんな事があったのだから、それ自体正気の沙汰ではないが、神奈子は諏訪子の姿を目視し……そしてその神奈子の顔から、本当に血の気が引いた。
諏訪子はややを抱いている腕を体の前に伸ばし……まるで、これからややを湖に投げ落とそうとしているようだ。いや。そのとおりなのだろう。
「諏訪子!!!」
神奈子は一気に速度を上げ、ほとんど激突するような勢いで諏訪子に掴みかかった。
「諏訪子! お前一体何をしようとした! 何をしようとしていた!!」
神奈子は諏訪子の胸倉に掴みかかり、本物の怒りを宿した瞳で食って掛かった。
目の前の諏訪子は――また、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
だがそんな事で神奈子の憤怒は収まらない。
「泣いていてはわからん! 答えろォッ!」
「うぅ。ううっ。神奈子ぉっ……」
「お前、ややをっ……ややを湖にっ!」
「どうしようもない……どうしようもないんだよォ」
「何がだ! 何がどうしようもない!」
「この子がおったら、私は神でいられん。私は……この子を産んじゃならんかった」
「お前そんな事を言うな! 自分の子の前で絶対にそんな事を言うてはならん!! 許さんぞ!!」
「私はこの子が可愛いてならん。他の何よりややを大切に思ってしまう。ややを盾にされたら私はもう何もできなくなる。龍神に弱点などあっていいはずがない。こうするしかない……こうせねばならんのだ……うわあああああああああああ。神奈子助けてくれええええええええええ」
諏訪子は神奈子の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。あらゆる悲しみと苦痛と後悔がその泣き声を呪っていた。ややもまた諏訪子の悲しみを感じて癇癪を起こしていた。母と娘二つの悲鳴が神奈子を襲った。
「諏訪子っ……馬鹿が……馬鹿が……!」
神奈子は諏訪子とややをぎゅうと抱いた。そうしてやるしかなかった。
「我が子を殺したお前が、この先神でいられるわけないだろ! お前はきっと自分を恨んで鬼になる。諏訪子のそんな姿見とうない! 諏訪子は精一杯ややを育てねばいかんのだ!」
「けれど私は、それではこの諏訪を……」
二人は黙りこみ、ややの泣き声だけが風に乗った。
どうすればよいのか、そう考えていた神奈子は、突然、あの日の事を思い出した。
「――思い出すなぁ」
神奈子の言葉は唐突だった。突然、まったく脈絡のない言葉を吐いた。諏訪子は涙で顔をぬらしながらも、きょとんとしていた。
「……え?」
「あの川のほとりで初めて会った時、諏訪子は私に何と言った」
「あの……時……」
二人は、諏訪の夜風の中で見詰め合った。瞳と瞳の間で、流れる大気の音と共に、膨大な時を遡った。
諏訪子の目が、驚きに見開かれた。神奈子はそれに気づいて、ゆっくりと頷いた。そして、諏訪子の心の中でこだましているであろうその言葉を、神奈子は静かに告げた。
「神をやめよ」
諏訪子は――何も言えず、ただただ息を飲んで、俯いていた。
「長い時のおかげで、私も龍神になれた。諏訪は私に任せろ。諏訪子はややの母になるんだ」
「そんな……勝手に神をやめるなど」
「……そうだな全くやめてもらうわけにはいかない。私は諏訪子程の治神ではないから、諏訪子には私を支えてもらわねばならん。お前と、その子孫達にはいつまでも私の側にいてもらわねば困る」
「でも……でも……」
「諏訪子。ようやくお前に本当の恩返しをできる時がきたのだ。その好機を私から奪わないでくれ。それと、この子を産んだ事を後悔するなんて、二度とするな。お前はこの子のただ一人の母親なのだ」
「……やや……」
諏訪子は、腕に抱いた赤子に頬擦りをした。諏訪子の頬からたれる涙がややの頬に移る。
「ごめんよ……愚かな母を許しておくれ……」
「私がこの諏訪に来なければ、結局お前が母になる事もなかったろう。きっと……なるべくしてこうなったのさ」
神奈子はその諏訪子とややを抱いた。
今ほど光のない暗い諏訪の夜空で、月明かりだけが三人を照らしていた。
それ以後に何の葛藤も無かったわけではないが、結局、洩矢の一族は諏訪神八坂神奈子に仕える第一神官となった。時代が遷り変わるにつれその正確な由来はだんだんとおぼろげになり、現在では、第一神官の祖先がかつては諏訪の神であったらしい、という曖昧な情報のみがなんとか残っている。
また神奈子の事に関しても、時が経ち神力が失われていく中で、神の口からかたられる史実よりも、人間達が生み出した物語りが幅をきかせるようになっていった。
龍神から人神に降りて、諏訪子は少し丸くなった。代わりに神奈子は少しだけ猛々しくなった。肩にかかる責任の重さが、そうさせるのだろう。
そしてまたある日。神奈子が諏訪子に言った。
「諏訪子。今一度言うぞ。私の嫁になってくれ」
諏訪子はそれを一笑に付した。
「ふん。神奈子はやっぱりまだまだだねぇ。わかっちゃいない」
「何がだ」
「私が嫁になったら、私はお前の弱点になるだろう。龍神様にそれは許されないよ」
「今だってもう夫婦のようなものだろう」
「そう言えるだけというのと、実際にそうなのとでは、心への影響力が違うよ。かつて子を持った時にそれを実感した」
「……むぅ」
神奈子が唸る。
諏訪子はわざとからかうように、神奈子の肩に己の身を寄せてきた。
「あーあ。私は神奈子の嫁になってやってもいいのに、神奈子がそれを許してくれないんだよ。残念だなぁ」
「むぅぅぅぅぅぅ」
唸り続ける神奈子の隣で、諏訪子がけたけたと笑っていた。
「まぁ。いつかよほど平和な時代がきたら、そういう事もできるかもしれないけれど」
そして再び現代――
「平和……か」
「え?」
腕の中にいる早苗が、神奈子の独り言に首をかしげた。
夕焼け空を飛びながら、随分とまた夢想の世界に浸ってしまったらしい。
「いや……なんでもない」
岡谷駅を越えて洩矢神社のすぐ近くまできている。
……神が忘れらていくこの時代は、言い方をかえれば平和なのだろうか。と、神奈子は複雑な思いでそう考えた。
洩矢神社の林の天蓋をつきぬけ直接社の側に降り立った二人を、諏訪子の呑気な笑顔が出迎えた。
「おー。神奈子に早苗。どしたの二人そろって」
「こんにちわ諏訪子様。……こんばんわかな?」
「理由がいるかい。会いたくなったから会いにきたまでさ」
それから三人は日が暮れるまで、他愛もないお喋りに花を咲かせた。神奈子に遠い昔の諏訪を思い出させる情景が、そこにあった。
暗くなって早苗は家に帰り、小さな電灯に照らされた人気の無い社の側には神奈子と諏訪子だけが残った。
「なぁ諏訪子」
「うん?」
「まだ嫁にはきてくれんか」
「へ……」
諏訪子はちょっとドキっとした顔をした後、くっくっくと笑った。
「あー。駄目駄目。今はまずい」
「何がだ」
「今あんたの嫁になったら早苗とケンカになりそうだし。というか! 神奈子は早苗の気持ちに答えてやったんだろ(*作品集128『現代巫女のレズビアンナイト』)。さして日もたたないうちに私に言い寄ってくるなんて! 神奈子はあいかわらず手が早いな。やっぱ神奈子なんぞに早苗は――」
「……むぅ」
遥かな昔から続く諏訪子の小言は今だ絶える事なく。
神奈子はまた、呻いた。
龍神を継承するところとかマジ濡れる
もっと評価されるべき
神奈子さまが節操ないのは神さまだから…でいいのか(^^;
諏訪子さまも幻想郷では素直になっちゃえばいいのに
まともなのにすれば二倍くらい点が入る気がする
歴史のひとこまにお邪魔して、色々と覗かせていただいた気分です。
やっぱり、諏訪子が変わっていくのが楽しかったなあ……。
なのですが、序盤に教科書的な部分もあって、ちょっと抵抗があるのが玉に瑕かもしれません。
ある意味では、歴史に引きずり込まれる部分ではありますが。
それでも、マイナスな部分より圧倒的にプラスの部分が多く、楽しめたので、100点で。
超良い
すごく不思議な感覚です。それにしても諏訪子様はよくもこう怒らずにいられるなあ……。
(´ー`).oO(その体勢からなら色んなスメルが嗅げるのに……。例えばひ――)
100点では足りませんね。
この名前ほど東方っぽさとオリジナリティとインパクトのバランスが取れてる名前はそうそう無い
お話自体も面白かった
ふつうに百合とか関係ない部分で楽しめました
最後まで中だるみなく読ませる展開、文章力は見事としか言いようがない
時代とともに言葉遣いや立ち位置が原作の二人に近づいて行く過程が素晴らしいですね
ゆかりん凄かったんやなぁ…
ただ,タイトルでかなり損をされているなぁと思いました。
神としての諏訪子と神奈子の在り方の違いの掘り下げがすごかった。
諏訪大戦の解釈も描写もとてもすごかったです。これが正史でいいよ。
三人が幻想郷に移り住んだ後の話も書かれる予定があるのでしたら期待しています!
もうっちょっとこう・・・ね?
中身は、ばっちぐうっ!!!!
ただゆかりんの真意は!?
伏線なんでしょうか!?
とりあえず、眼福感謝!!!
尻フェチな神様ってステキ!
いや、素晴らしい…
神奈子様諏訪子様の魅力が120%引き出されてますね~!
2人ともカッコカワイイです!
タイトルでの食わず嫌いはもったいない!と思わせる良作でした。
神というものを考えさせられますね。
神事に疎くなった現代の日本人全てに読ませてあげたい作品です。
きゅ~、っと切なさで締めつけられて、だけどハッピーエンドで。
ほんともう、KASAさん大好きです。
全体から作者氏の熱というか、気迫というか、鬼気迫るなにかを感じる…
書きたいことは山ほどあるのに、文字にするのが難しい…!
何故加点上限が100なんだ!
この物体Xを氏に直にぶつけられればいいのにっ
あと黄昏飛行のシーンでの"藍と橙の境界"って表現、もしかして直後のスキマさん登場と絡めて意図的に使いました?
後はタイトルさえどうにかなれば万点超えも…いや、これでこそ貴方ですよね
加奈子様の尻に対する執着なんかもとても良い具合でした。