駄目だ、駄目だった。
奴は私の死角から、静かに、音を立てずに忍び寄って。
私を、逃すものかと言わんばかりに締め上げてくる。
やめろ、やめてくれ。
さながら、縁日で捕らえられた金魚の様に。
私は水面へ水面へと逃れようとするのに。
奴は、私を決して離さない。
離さないのだ。
だから、私が奴に溺れさせられるのも仕方が無い事なんだよ。
そう、これは奴に目を付けられた時から決定していた必然。
あの日から世界は、私の溺死に向かって動き始めていたんだ。
カチリ、カチリと、無機質な音を響かせながらね。
仕方の無い、仕方の無い事だったの。
私の力では、奴の手から逃げ切るなど到底無理だったに違いない。
幸い私はまだ完全に溺れてはいない。
だけど、だけれども。
敵の力は途方も無くて。
私はいつの日か完全に、奴の水底へと引きずり込まれてしまうと思う。
もしかしたら、もう体の半分くらいは奴の手中なのかもしれない。
歯車は、今日も残酷に音を刻んでゆく。
私の絶対的な溺死へと向かって、カチリ、カチリと音を奏でる。
無慈悲なその音が、私の頭に反響して、それで……。
穏やかな幻想郷の午後。
時間で言えば、どうだろう、里の人々達が休憩を切り上げて各々の生活に戻る、そんな頃合い。
まぁ、そんな区切り、人によっては非常に曖昧で。
のんびりを信条としている者は、空から降り注ぐぬくぬくとした日差しにまだ身を任せている事だろう。
それも人の勝手。
他人に迷惑を掛けさえしなければ、のほほんと暮らしていける。
そんなこの幻想郷のどこからか、騒がしくも楽しげな声が聞こえる。
音源は恥ずかしながら私達。
まぁ大目に見ておくれ。
「やったっ、勝った、勝ったよ。又私の勝ちだ」
「あらら、負けちゃったわ。ぬえちゃんは強いのねぇ」
寺の中にはきゃいのきゃいのと嬌声を上げる寺の面々がいた。
何やら盛り上がっている様子、ちらりと目をやればそこには、年頃、といってもまぁ、問題はないだろう、年頃の娘達がやるには似つかわしく無い物があった。
「へーっ、ぬえ、君ってばそんな意外な特技があったんだね」
「以外ってなんなの、ムラサ。私は勝負事には強い方なんだからね」
「姐さんを負かすとは、恐ろしい子っ」
「もうちょっとで、勝てそうだったのですけれども」
勝ち誇るぬえの隣では一輪と聖が敗者の反省会を開いている。
私も連勝で頬が上気しているぬえを、私なりに褒めて見る。
そこ、微妙にずれているとかは言わない様に。
何とも微笑ましい光景であった。
あったのだ。多分今から過去形になる。
「それにしても、よくもまぁ紙相撲なんかで盛り上がれるね君たちは」
「何だネズミ。自分の主人が私に下ったからって負け惜しみ?」
「な、なんだとぅ」
そう、先程から何をしていたかといえば、子供の時に誰しもが一度はやったであろう紙相撲であった。
どこぞやの誰かが、具体的に言うなら星が、皆でやってみませんか?などと言って始まったこの紙相撲大会。
最初は皆一様に乗り気では無かったのだが、これが案外やってみると白熱するのである。
ついさっきまでは、とんとんとんとこと指の音が、実に騒がしかった。
ちなみに言い出しっぺの星はというと、一回戦目でぬえに負かされている。
世の中なんてそんなものだ。
だから星が涙目で三角座りなのも、そんなものなのだ、多分。
ついでに言っておくと、私もぬえに負けた。
いや、不正は無かった。
別にぬえの喜ぶ顔が見たかったとかでは無いのだよ?
不正などと呼ばせるものか。
「どうしたのネズミ。図星だったようだけど」
「そんな訳あるか。ご主人が可哀想だなんてこれっぽっちも思って無いね。だけれども、なんだか無性に君を負かしたくなってきた。勿論構わないね?」
「面白いね、掛かってきなよ。このぬえ様が軽く捻ってやるよっ」
そんな私の回想を吹き飛ばすかのようにぬえとナズーリンから熱気が漂ってくる。
二人の視線を物理化できるのなら、部屋の中が火花で燃え盛っている事だろう。
「あぁ、もうやめなよぬえ。君ったらなんでそんなに熱くなるんだい?いつもはもっと淡々としているだろうに」
「う、うるさいムラサ。わ、私の勝手じゃないか」
顔を逸らすぬえ。
頬が赤いのは熱戦を繰り広げていた紙相撲の影響か。
「それにナズーリンもそこまで躍起にならなくてもいいじゃないか」
「いや、ご主人の敵討ちは、遣いの私が果たすべきなんだ。船長は黙っていておくれ」
「そうなのっ。ムラサはそこで見ててっ」
「うっ……」
女同士の喧嘩って凄く怖い。
こ、これは迂闊に手を出すとこちらに飛び火しそうだ。
それにしても、なんでぬえとナズーリンは事あるごとにこんなにも衝突するのか。
ナズーリンは冷静でおとなしいし、ぬえもそこまで活発でも無いのに。
というかぬえは極度の人見知りで、初めは寺の皆にすら怯えていたというのに。
でもそう考えると、ぬえ、君はとても成長したんだね。
でも、若干大らかに成長し過ぎたんじゃないかなー。
もうちょっと大人しい感じの方が船長さんは好みだよ、うん。
「君とは一度決着を付けねばと思っていたのだよ」
「それはこっちの台詞っ。ちびっこネズミのくせにぃ」
「わ、私が気にしている事をっ。この、この万年引き籠りの人見知り妖怪っ」
「べっ別に、引き籠ってないもんっ!」
争いは激しさを増すばかり。
同族嫌悪とか犬猿の仲とか、この二人にはぴったりだと思うよ私は。
「ふんっ、ご主人を涙目にしていいのは私だけなんだからな。覚悟するんだねっ」
「そ、そっちこそ星と揃って泣かせてやるんだからなっ」
鼻息荒くいがみ合う少女二人。
もはや闘争心で行動しているといっても過言ではないかも。
視線をぶつけながら向かい合わせで陣取るぬえとナズーリン。
互いに握りしめていた、紙で折られたヒトガタを土俵へと上がらせる。
「はあ、仕方無いなぁ君達は。じゃ、私の声からだよ」
「さぁ引導を渡してやろう、ぬえ」
「生意気な事を言うじゃないの」
胃がきりきりと痛む。
あ、星もそんな顔をして見守っている。
「ふぅ……初めっ」
開始を告げた瞬間に、両陣営とも物凄い勢いで指を台紙に叩きつけ始めた。
ヒトガタが真中で組み合うように触れ合って、もつれ込む。
「ていっていっていっ!」
ぬえ、君ったら少し落ち着きなよ。
眉根がとっても吊り上がっているじゃないか。
髪も乱れて来ている。
あぁ、女の子は身嗜みが大事だとあれほど言い聞かせているのに。
後で手櫛で梳いてあげないと。
「ぬぅ……」
「やった、あと少しだっ」
そんな声に目を戻せば、ぬえのヒトガタがナズーリンのを枠から押しだすか、という所であった。
ぬえのヒトガタは前進あるのみ、といった感じでずんどこずんどこ突き進んでいる。
対してそれを瀬戸際の所で上手く耐えているナズーリンのヒトガタ。
傍から見ればぬえの優勢で間違いないだろう
この状況、ナズーリンはどう考えているかと思えば、何と口元をにや付かせているではないか。
「えいっ、えいっ」
「……っ」
「いけっそこだっ、ていっ」
「今だっ」
その言葉を合図にしたかのように、ナズーリンは土台を叩く手を片方だけ止める。
すると驚く事に、ナズーリンのヒトガタが片足を下げるかの如く体勢をずらす。
ぬえ側のヒトガタは、その急な転換について行くことが出来ず、勢い余って場外へと突っ込んでゆく。
土俵に立つのは一体のヒトガタのみ。
結果から言えば、ナズーリンの勝利であった。
流石は賢将、侮りがたし。
「ふふん、どうやら私の勝ちみたいだが?」
「うっ」
「中々どうして、口ほどにも無いじゃないか、君は」
「ま、まだ負けて無いもん」
「うん?」
「こ、今度は相撲は相撲でも、腕相撲で勝負よっ」
またぬえが何か言いだし初めた。
君ってば本当に負けず嫌いなんだから。
その性格、昔っから変わっていないんだね。
まぁ、そんな所が子供っぽくて可愛いのだけれど。
しかし、それにしたって、だよ。
「ぬえ、君ねぇ、勝負はもう着いただろう?ナズーリンの勝ちで君の負け。それでいいじゃないか。それにぬえ、君は華奢なのだから腕相撲だなんて……」
「ムラサは口出ししないで!これはあれ、あれなの。二回戦、二回戦なのっ」
「そんな、君、二回戦って無茶苦茶な。そんな事ナズーリンも了承しないに決まっているだろう?」
「いや、いいだろう。腕相撲、やろうじゃないか」
あぁ、こっちにも負けず嫌いがいたか。
まったくもっていじっぱりなんだからさ。
どちらがかって?そりゃどっちもに決まっているじゃない。
ナズーリンったら、星の事となるとぬえに劣らず子供になる。
それが悪いとは言わないけれど、もう少し年相応の振る舞いを云々。
「もう、これが最後だよ君。ナズーリンも。それでいいね?」
確認を取ろうと二人の方を振り向く。
そこには既にがっちりと腕を組み合わせるぬえとナズーリン。
そのまま握手で終わってくれたなら、どれだけいいだろうか。
だが偉大な先人たちはある言葉を私にくれる
現実はそこまで甘くは無い、と。
「ムラサ、はやく言って」
「そうだよ船長。開始を告げておくれ」
「どこまで血気盛んなんだい君たちは。その情熱をどこか健全な方に使ってくれないかなぁ」
返答は、二人の殺気で。
怖い、凄く怖い。
「じゃ、じゃぁ……初めっ」
「てぇぇぇいっ」
「くっ……」
開始早々力が均衡した。
ぬえの顔が真っ赤になり始める。
腕はぷるぷると震え、ぬえが腕に全身全霊を掛けている事が伺い知れた。
一方のナズーリンも、顔を赤くしている、かと思えばどこか、拍子抜けた表情をしていた。
あれは、こう、「え、もしかしてそれで全力なのかい?いや、まさかね」みたいな事を考えている顔だろう。
あぁ、だから言ったのに。
ぬえ、君ってば長生きしている癖に腕力は皆無に等しいんだってば。
椅子を一人持ちあげるので精一杯なのに。
いつも私に助けを求めていた事を忘れちゃったのかい。
ぬえ、君は案外おっちょこちょいなんだね。
などと思いつつ。
二人のおかしな均衡はまだ続いている。
「うぅぅぅんっ」
「え……えっと……」
これでもか、と顔を真っ赤にさせているが、ナズーリンの腕は山の様に動かない。
ぬえが、うんうん唸るがそれだけで、山はびくともしないでいる。
「ぬぅう、うぅぅ」
「ていっ……」
ばたん。
いや、ぺたんの方が音的には近いかな。
とにかく、試合終了の合図が鳴った。
ぬえはなんだか、今にも泣き出しそうな顔をして。
ナズーリンもナズーリンで、困惑しているみたいで、しばらくどちらも喋らない。
「そ、その、なんだ。私が悪かったよ、ぬえ。大人気無かった……」
「……ひっく」
ほら、君、今にも泣き出しそうじゃないか。
だから腕相撲は止した方がいいと忠告したのに。
本当、君は、意地っ張りの業突張りで負けず嫌いで、変にプライドだけ高いんだから。
「ちょっと熱くなり過ぎたよ、すまなかったね……」
申し訳なさそうにぬえに話しかけるナズーリン。
しかし、その言葉がぬえの涙腺を崩壊させた。
「うぅっ、うぅぅぅぅっ、ふぇぇぇぇぇんっ!」
とたとたとたとたたったったった
涙を零しながらその場を駆けだすぬえ。
って、追いかけないとっ。
とたとたと命蓮寺の廊下を走るぬえと、慌ててそれを追いかける私。
しばらく走った後、疲れて遅くなったぬえの肩を捕まえる。
「待ってよ、ぬえっ」
「ぬえ、待って。泣かないでよ、ねぇ。君が泣いたら私も悲しいじゃないか」
「うっうぅぅ」
涙で湿った目尻を指でそっと拭ってあげた。
それから、ぬえのしなやかな体を抱きとめて安心させる。
人見知りのくせに負けん気が強い、困った君。
そんな君がこうされると安心するのを私は知っているんだ。
舐めないで貰いたい。だって私は船長なんだよ?
君は、忘れているかも知れないけれど。
船長さんは、大切な友達の事で知らない事なんて何もないのさ。
「あのっ、あのねムラサ、私、私ね、凄く嫌な奴だよね……」
「えっ?急にどうしたんだい君」
ぬえがぐずりながらぽつぽつと話始める。
「だって、だって、ナズーリンや星にたくさん意地悪言っちゃった……嫌われちゃう……」
「大丈夫だよ、彼女達は君の事を良く理解しているんだから。嫌われるなんて事は絶対に無いよ」
「それにっ、それに、ムラサの前で負けちゃった……。それが、なんだか情けなくって……」
うん?
という事はぬえ、君が、君があんなにも、むきになっていたのって。
「……つまり、私に見せようとしていくれたのかい?君の、君の勝つ所を」
「だってムラサ、私が勝ったら……私の事、笑って褒めてくれる。だから……勝ちたくって、それで」
顔を赤らめながら、私の胸の中で恥ずかしそうに喋るぬえ。
そんなぬえを見ていると、なんだか私の胸の鼓動がどくんどくんと速くなってゆく。
この気持ち、なんなんだろう。
解らない、解らないけれど、何故だか心地が良いのだ。
「もう、ばかだね君ってば」
「ばっ、ばかってなんだよ、ばかって」
「私はね、君の、ぬえの良い所なら全部知っているんだ。だから褒めてほしいのなら、いつでも私に言ってくれて良いんだよ」
そうさ、私にかかればぬえを褒め殺す事なんて簡単なのだ。
だって君ってば、私の目から見れば良い所しかないのだよ?
「そんなっ、出来ないよ、そんな事出来ない」
「どうして?」
「はっ恥ずかしいからに決まってるでしょ、このにぶちんムラサっ」
あれ、なんでか怒られてしまった。
しがみ付きながら、背中をぽこぽこ叩かれる。
器用な事をするね、君は。
「あ、そうそうぬえ」
「はぁはあ……何」
叩く事に力をやっていたぬえが、息を切らせながら私の方を向く。
「腕相撲、惜しかったね」
「急にどうしたの、ムラサ。そんな事、思ってもいないくせに」
「いやいや、私的には名勝負だったよ、あれ」
「……どういう事?」
いつの間にか泣きやんでいたぬえが、怪訝な表情を浮かべる。
「だって、私に褒めて貰いたい一心で、必死に顔を真っ赤にするぬえが見られたんだからねっ」
「ち、違っ、あれはっ」
「大丈夫、分かっているよ。今度からは毎日頭を撫でてあげるからね」
「っーーー!」
そうさ、そういう事なんだろう、ぬえ?
昔の、空気の読めなかった船長はもういないのさ。
今の私はさながら航海術をマスターした完璧なる船長。そう、そんな存在なんだ。
だからぬえ、君の気持ちは私にはお見通しだよ。
明日からは毎日なでなでをして上げよう。
「毎日で足りないなら朝昼晩、とかでも私は構わないよ?何せ大切な友達の頼みなんだ、断る理由が無いよ」
ほらね、ぬえも余りの嬉しさに体を震わせて喜んでいる。
それにどこからか取りだした椅子を両手で力一杯に抱え上げて……え?
「くっ、うぅぅーっ」
顔が今までで一番真っ赤になっている。
これが火事場の馬鹿力って奴なのかな、どうなんだろう。
それにしても、それにしてもまたこの展開か。
あぁ、どこで選択肢を誤ったんだろうか。
こんな時の為に、そろそろ人生にもセーブ機能を導入するべきだと思うよ閻魔様。
「はぁっはぁっ」
「一応、言っておくね君。私が悪かっ」
「忘れろっっーーーー!!」
叫びながら鈍器と化した椅子を振り下ろすぬえ。
あぁ、そんなだから、私は君が、大切なのかもしれゴフッ!
駄目だ、駄目だった。
ムラサは私の死角から、静かに、音を立てずに忍び寄って。
私を、逃すものかと言わんばかりに締め上げてくる。
やめろ、やめてくれ。
さながら、縁日で捕らえられた金魚の様に。
私は水面へ水面へと逃れようとするのに。
ムラサは、私を決して離さない。
離さないのだ。
だから、私がムラサに溺れさせられるのも仕方が無い事なんだよ。
そう、これはムラサに目を付けられた時から決定していた必然。
あの日から世界は、私の恋に向かって動き始めていたんだ。
カチリ、カチリと、無機質な音を響かせながらね。
仕方の無い、仕方の無い事だったの。
私の力では、ムラサの手から逃げ切るなど到底無理だったに違いない。
幸い私はまだ完全に溺れてはいない。
だけど、だけれども。
敵の力は途方も無くて。
私はいつの日か完全に、ムラサと水底へと引きずり込まれてしまうと思う。
もしかしたら、もう体の半分くらいはムラサの手中なのかもしれない。心は、完全に掌握された。
歯車は、今日も残酷に音を刻んでゆく。
私の絶対的な恋路へと向かって、カチリ、カチリと音を奏でる。
無慈悲なその音が、私の頭に反響して、それで……。
あぁ、ムラサ、大好きっ……!
奴は私の死角から、静かに、音を立てずに忍び寄って。
私を、逃すものかと言わんばかりに締め上げてくる。
やめろ、やめてくれ。
さながら、縁日で捕らえられた金魚の様に。
私は水面へ水面へと逃れようとするのに。
奴は、私を決して離さない。
離さないのだ。
だから、私が奴に溺れさせられるのも仕方が無い事なんだよ。
そう、これは奴に目を付けられた時から決定していた必然。
あの日から世界は、私の溺死に向かって動き始めていたんだ。
カチリ、カチリと、無機質な音を響かせながらね。
仕方の無い、仕方の無い事だったの。
私の力では、奴の手から逃げ切るなど到底無理だったに違いない。
幸い私はまだ完全に溺れてはいない。
だけど、だけれども。
敵の力は途方も無くて。
私はいつの日か完全に、奴の水底へと引きずり込まれてしまうと思う。
もしかしたら、もう体の半分くらいは奴の手中なのかもしれない。
歯車は、今日も残酷に音を刻んでゆく。
私の絶対的な溺死へと向かって、カチリ、カチリと音を奏でる。
無慈悲なその音が、私の頭に反響して、それで……。
穏やかな幻想郷の午後。
時間で言えば、どうだろう、里の人々達が休憩を切り上げて各々の生活に戻る、そんな頃合い。
まぁ、そんな区切り、人によっては非常に曖昧で。
のんびりを信条としている者は、空から降り注ぐぬくぬくとした日差しにまだ身を任せている事だろう。
それも人の勝手。
他人に迷惑を掛けさえしなければ、のほほんと暮らしていける。
そんなこの幻想郷のどこからか、騒がしくも楽しげな声が聞こえる。
音源は恥ずかしながら私達。
まぁ大目に見ておくれ。
「やったっ、勝った、勝ったよ。又私の勝ちだ」
「あらら、負けちゃったわ。ぬえちゃんは強いのねぇ」
寺の中にはきゃいのきゃいのと嬌声を上げる寺の面々がいた。
何やら盛り上がっている様子、ちらりと目をやればそこには、年頃、といってもまぁ、問題はないだろう、年頃の娘達がやるには似つかわしく無い物があった。
「へーっ、ぬえ、君ってばそんな意外な特技があったんだね」
「以外ってなんなの、ムラサ。私は勝負事には強い方なんだからね」
「姐さんを負かすとは、恐ろしい子っ」
「もうちょっとで、勝てそうだったのですけれども」
勝ち誇るぬえの隣では一輪と聖が敗者の反省会を開いている。
私も連勝で頬が上気しているぬえを、私なりに褒めて見る。
そこ、微妙にずれているとかは言わない様に。
何とも微笑ましい光景であった。
あったのだ。多分今から過去形になる。
「それにしても、よくもまぁ紙相撲なんかで盛り上がれるね君たちは」
「何だネズミ。自分の主人が私に下ったからって負け惜しみ?」
「な、なんだとぅ」
そう、先程から何をしていたかといえば、子供の時に誰しもが一度はやったであろう紙相撲であった。
どこぞやの誰かが、具体的に言うなら星が、皆でやってみませんか?などと言って始まったこの紙相撲大会。
最初は皆一様に乗り気では無かったのだが、これが案外やってみると白熱するのである。
ついさっきまでは、とんとんとんとこと指の音が、実に騒がしかった。
ちなみに言い出しっぺの星はというと、一回戦目でぬえに負かされている。
世の中なんてそんなものだ。
だから星が涙目で三角座りなのも、そんなものなのだ、多分。
ついでに言っておくと、私もぬえに負けた。
いや、不正は無かった。
別にぬえの喜ぶ顔が見たかったとかでは無いのだよ?
不正などと呼ばせるものか。
「どうしたのネズミ。図星だったようだけど」
「そんな訳あるか。ご主人が可哀想だなんてこれっぽっちも思って無いね。だけれども、なんだか無性に君を負かしたくなってきた。勿論構わないね?」
「面白いね、掛かってきなよ。このぬえ様が軽く捻ってやるよっ」
そんな私の回想を吹き飛ばすかのようにぬえとナズーリンから熱気が漂ってくる。
二人の視線を物理化できるのなら、部屋の中が火花で燃え盛っている事だろう。
「あぁ、もうやめなよぬえ。君ったらなんでそんなに熱くなるんだい?いつもはもっと淡々としているだろうに」
「う、うるさいムラサ。わ、私の勝手じゃないか」
顔を逸らすぬえ。
頬が赤いのは熱戦を繰り広げていた紙相撲の影響か。
「それにナズーリンもそこまで躍起にならなくてもいいじゃないか」
「いや、ご主人の敵討ちは、遣いの私が果たすべきなんだ。船長は黙っていておくれ」
「そうなのっ。ムラサはそこで見ててっ」
「うっ……」
女同士の喧嘩って凄く怖い。
こ、これは迂闊に手を出すとこちらに飛び火しそうだ。
それにしても、なんでぬえとナズーリンは事あるごとにこんなにも衝突するのか。
ナズーリンは冷静でおとなしいし、ぬえもそこまで活発でも無いのに。
というかぬえは極度の人見知りで、初めは寺の皆にすら怯えていたというのに。
でもそう考えると、ぬえ、君はとても成長したんだね。
でも、若干大らかに成長し過ぎたんじゃないかなー。
もうちょっと大人しい感じの方が船長さんは好みだよ、うん。
「君とは一度決着を付けねばと思っていたのだよ」
「それはこっちの台詞っ。ちびっこネズミのくせにぃ」
「わ、私が気にしている事をっ。この、この万年引き籠りの人見知り妖怪っ」
「べっ別に、引き籠ってないもんっ!」
争いは激しさを増すばかり。
同族嫌悪とか犬猿の仲とか、この二人にはぴったりだと思うよ私は。
「ふんっ、ご主人を涙目にしていいのは私だけなんだからな。覚悟するんだねっ」
「そ、そっちこそ星と揃って泣かせてやるんだからなっ」
鼻息荒くいがみ合う少女二人。
もはや闘争心で行動しているといっても過言ではないかも。
視線をぶつけながら向かい合わせで陣取るぬえとナズーリン。
互いに握りしめていた、紙で折られたヒトガタを土俵へと上がらせる。
「はあ、仕方無いなぁ君達は。じゃ、私の声からだよ」
「さぁ引導を渡してやろう、ぬえ」
「生意気な事を言うじゃないの」
胃がきりきりと痛む。
あ、星もそんな顔をして見守っている。
「ふぅ……初めっ」
開始を告げた瞬間に、両陣営とも物凄い勢いで指を台紙に叩きつけ始めた。
ヒトガタが真中で組み合うように触れ合って、もつれ込む。
「ていっていっていっ!」
ぬえ、君ったら少し落ち着きなよ。
眉根がとっても吊り上がっているじゃないか。
髪も乱れて来ている。
あぁ、女の子は身嗜みが大事だとあれほど言い聞かせているのに。
後で手櫛で梳いてあげないと。
「ぬぅ……」
「やった、あと少しだっ」
そんな声に目を戻せば、ぬえのヒトガタがナズーリンのを枠から押しだすか、という所であった。
ぬえのヒトガタは前進あるのみ、といった感じでずんどこずんどこ突き進んでいる。
対してそれを瀬戸際の所で上手く耐えているナズーリンのヒトガタ。
傍から見ればぬえの優勢で間違いないだろう
この状況、ナズーリンはどう考えているかと思えば、何と口元をにや付かせているではないか。
「えいっ、えいっ」
「……っ」
「いけっそこだっ、ていっ」
「今だっ」
その言葉を合図にしたかのように、ナズーリンは土台を叩く手を片方だけ止める。
すると驚く事に、ナズーリンのヒトガタが片足を下げるかの如く体勢をずらす。
ぬえ側のヒトガタは、その急な転換について行くことが出来ず、勢い余って場外へと突っ込んでゆく。
土俵に立つのは一体のヒトガタのみ。
結果から言えば、ナズーリンの勝利であった。
流石は賢将、侮りがたし。
「ふふん、どうやら私の勝ちみたいだが?」
「うっ」
「中々どうして、口ほどにも無いじゃないか、君は」
「ま、まだ負けて無いもん」
「うん?」
「こ、今度は相撲は相撲でも、腕相撲で勝負よっ」
またぬえが何か言いだし初めた。
君ってば本当に負けず嫌いなんだから。
その性格、昔っから変わっていないんだね。
まぁ、そんな所が子供っぽくて可愛いのだけれど。
しかし、それにしたって、だよ。
「ぬえ、君ねぇ、勝負はもう着いただろう?ナズーリンの勝ちで君の負け。それでいいじゃないか。それにぬえ、君は華奢なのだから腕相撲だなんて……」
「ムラサは口出ししないで!これはあれ、あれなの。二回戦、二回戦なのっ」
「そんな、君、二回戦って無茶苦茶な。そんな事ナズーリンも了承しないに決まっているだろう?」
「いや、いいだろう。腕相撲、やろうじゃないか」
あぁ、こっちにも負けず嫌いがいたか。
まったくもっていじっぱりなんだからさ。
どちらがかって?そりゃどっちもに決まっているじゃない。
ナズーリンったら、星の事となるとぬえに劣らず子供になる。
それが悪いとは言わないけれど、もう少し年相応の振る舞いを云々。
「もう、これが最後だよ君。ナズーリンも。それでいいね?」
確認を取ろうと二人の方を振り向く。
そこには既にがっちりと腕を組み合わせるぬえとナズーリン。
そのまま握手で終わってくれたなら、どれだけいいだろうか。
だが偉大な先人たちはある言葉を私にくれる
現実はそこまで甘くは無い、と。
「ムラサ、はやく言って」
「そうだよ船長。開始を告げておくれ」
「どこまで血気盛んなんだい君たちは。その情熱をどこか健全な方に使ってくれないかなぁ」
返答は、二人の殺気で。
怖い、凄く怖い。
「じゃ、じゃぁ……初めっ」
「てぇぇぇいっ」
「くっ……」
開始早々力が均衡した。
ぬえの顔が真っ赤になり始める。
腕はぷるぷると震え、ぬえが腕に全身全霊を掛けている事が伺い知れた。
一方のナズーリンも、顔を赤くしている、かと思えばどこか、拍子抜けた表情をしていた。
あれは、こう、「え、もしかしてそれで全力なのかい?いや、まさかね」みたいな事を考えている顔だろう。
あぁ、だから言ったのに。
ぬえ、君ってば長生きしている癖に腕力は皆無に等しいんだってば。
椅子を一人持ちあげるので精一杯なのに。
いつも私に助けを求めていた事を忘れちゃったのかい。
ぬえ、君は案外おっちょこちょいなんだね。
などと思いつつ。
二人のおかしな均衡はまだ続いている。
「うぅぅぅんっ」
「え……えっと……」
これでもか、と顔を真っ赤にさせているが、ナズーリンの腕は山の様に動かない。
ぬえが、うんうん唸るがそれだけで、山はびくともしないでいる。
「ぬぅう、うぅぅ」
「ていっ……」
ばたん。
いや、ぺたんの方が音的には近いかな。
とにかく、試合終了の合図が鳴った。
ぬえはなんだか、今にも泣き出しそうな顔をして。
ナズーリンもナズーリンで、困惑しているみたいで、しばらくどちらも喋らない。
「そ、その、なんだ。私が悪かったよ、ぬえ。大人気無かった……」
「……ひっく」
ほら、君、今にも泣き出しそうじゃないか。
だから腕相撲は止した方がいいと忠告したのに。
本当、君は、意地っ張りの業突張りで負けず嫌いで、変にプライドだけ高いんだから。
「ちょっと熱くなり過ぎたよ、すまなかったね……」
申し訳なさそうにぬえに話しかけるナズーリン。
しかし、その言葉がぬえの涙腺を崩壊させた。
「うぅっ、うぅぅぅぅっ、ふぇぇぇぇぇんっ!」
とたとたとたとたたったったった
涙を零しながらその場を駆けだすぬえ。
って、追いかけないとっ。
とたとたと命蓮寺の廊下を走るぬえと、慌ててそれを追いかける私。
しばらく走った後、疲れて遅くなったぬえの肩を捕まえる。
「待ってよ、ぬえっ」
「ぬえ、待って。泣かないでよ、ねぇ。君が泣いたら私も悲しいじゃないか」
「うっうぅぅ」
涙で湿った目尻を指でそっと拭ってあげた。
それから、ぬえのしなやかな体を抱きとめて安心させる。
人見知りのくせに負けん気が強い、困った君。
そんな君がこうされると安心するのを私は知っているんだ。
舐めないで貰いたい。だって私は船長なんだよ?
君は、忘れているかも知れないけれど。
船長さんは、大切な友達の事で知らない事なんて何もないのさ。
「あのっ、あのねムラサ、私、私ね、凄く嫌な奴だよね……」
「えっ?急にどうしたんだい君」
ぬえがぐずりながらぽつぽつと話始める。
「だって、だって、ナズーリンや星にたくさん意地悪言っちゃった……嫌われちゃう……」
「大丈夫だよ、彼女達は君の事を良く理解しているんだから。嫌われるなんて事は絶対に無いよ」
「それにっ、それに、ムラサの前で負けちゃった……。それが、なんだか情けなくって……」
うん?
という事はぬえ、君が、君があんなにも、むきになっていたのって。
「……つまり、私に見せようとしていくれたのかい?君の、君の勝つ所を」
「だってムラサ、私が勝ったら……私の事、笑って褒めてくれる。だから……勝ちたくって、それで」
顔を赤らめながら、私の胸の中で恥ずかしそうに喋るぬえ。
そんなぬえを見ていると、なんだか私の胸の鼓動がどくんどくんと速くなってゆく。
この気持ち、なんなんだろう。
解らない、解らないけれど、何故だか心地が良いのだ。
「もう、ばかだね君ってば」
「ばっ、ばかってなんだよ、ばかって」
「私はね、君の、ぬえの良い所なら全部知っているんだ。だから褒めてほしいのなら、いつでも私に言ってくれて良いんだよ」
そうさ、私にかかればぬえを褒め殺す事なんて簡単なのだ。
だって君ってば、私の目から見れば良い所しかないのだよ?
「そんなっ、出来ないよ、そんな事出来ない」
「どうして?」
「はっ恥ずかしいからに決まってるでしょ、このにぶちんムラサっ」
あれ、なんでか怒られてしまった。
しがみ付きながら、背中をぽこぽこ叩かれる。
器用な事をするね、君は。
「あ、そうそうぬえ」
「はぁはあ……何」
叩く事に力をやっていたぬえが、息を切らせながら私の方を向く。
「腕相撲、惜しかったね」
「急にどうしたの、ムラサ。そんな事、思ってもいないくせに」
「いやいや、私的には名勝負だったよ、あれ」
「……どういう事?」
いつの間にか泣きやんでいたぬえが、怪訝な表情を浮かべる。
「だって、私に褒めて貰いたい一心で、必死に顔を真っ赤にするぬえが見られたんだからねっ」
「ち、違っ、あれはっ」
「大丈夫、分かっているよ。今度からは毎日頭を撫でてあげるからね」
「っーーー!」
そうさ、そういう事なんだろう、ぬえ?
昔の、空気の読めなかった船長はもういないのさ。
今の私はさながら航海術をマスターした完璧なる船長。そう、そんな存在なんだ。
だからぬえ、君の気持ちは私にはお見通しだよ。
明日からは毎日なでなでをして上げよう。
「毎日で足りないなら朝昼晩、とかでも私は構わないよ?何せ大切な友達の頼みなんだ、断る理由が無いよ」
ほらね、ぬえも余りの嬉しさに体を震わせて喜んでいる。
それにどこからか取りだした椅子を両手で力一杯に抱え上げて……え?
「くっ、うぅぅーっ」
顔が今までで一番真っ赤になっている。
これが火事場の馬鹿力って奴なのかな、どうなんだろう。
それにしても、それにしてもまたこの展開か。
あぁ、どこで選択肢を誤ったんだろうか。
こんな時の為に、そろそろ人生にもセーブ機能を導入するべきだと思うよ閻魔様。
「はぁっはぁっ」
「一応、言っておくね君。私が悪かっ」
「忘れろっっーーーー!!」
叫びながら鈍器と化した椅子を振り下ろすぬえ。
あぁ、そんなだから、私は君が、大切なのかもしれゴフッ!
駄目だ、駄目だった。
ムラサは私の死角から、静かに、音を立てずに忍び寄って。
私を、逃すものかと言わんばかりに締め上げてくる。
やめろ、やめてくれ。
さながら、縁日で捕らえられた金魚の様に。
私は水面へ水面へと逃れようとするのに。
ムラサは、私を決して離さない。
離さないのだ。
だから、私がムラサに溺れさせられるのも仕方が無い事なんだよ。
そう、これはムラサに目を付けられた時から決定していた必然。
あの日から世界は、私の恋に向かって動き始めていたんだ。
カチリ、カチリと、無機質な音を響かせながらね。
仕方の無い、仕方の無い事だったの。
私の力では、ムラサの手から逃げ切るなど到底無理だったに違いない。
幸い私はまだ完全に溺れてはいない。
だけど、だけれども。
敵の力は途方も無くて。
私はいつの日か完全に、ムラサと水底へと引きずり込まれてしまうと思う。
もしかしたら、もう体の半分くらいはムラサの手中なのかもしれない。心は、完全に掌握された。
歯車は、今日も残酷に音を刻んでゆく。
私の絶対的な恋路へと向かって、カチリ、カチリと音を奏でる。
無慈悲なその音が、私の頭に反響して、それで……。
あぁ、ムラサ、大好きっ……!
ムラぬえ万歳!!
目が幸せになっちまったです。
村紗とナズの口調が同じすぎて見分けがつかなかったかなあ
こちらに投稿するかジェネに投稿するかはもちろん自由なんですが
個人的に思ったのはジェネの方とボリュームが同じくらいなので、
こちらで書くならもうちょっと膨らみのある話が見たかったというのが正直な感想です
しかもこのムラサってば、全て承知で、ぬえを弄ぶのを楽しんでいらっしゃる。 ああっ、もどかしいったらないっ!
何れにせよそそわ学園生徒を萌え殺そうとした罰として停学一週間。
ついでに水蜜とぬえは没収します。
でも早く結婚するべき
個人的に、紙相撲で白熱する聖輦船面子がなんとも可愛かったです。
ただ、先にも挙がっているように、誰が話していて、誰の視点なのかというのがわかりにくいところもありました。