秋である。
咲夜の部屋
そこには灯りがなかった、そのため窓から射し込んだ青白い月の光が淡い色を広げていた。
だが月に黒い雲がかかると、窓にはのっぺりとした深い闇が張り付き、不吉な風が窓をカタカタと鳴らし始めた。
部屋を見渡す、暖房器具は見当たらず必要最低限の家具以外ない、それも置いてある家具全てが質素なものであり、部屋には人の心を敏感にする秋の夜が占めていたため大変寒々しかった。
その寂しい部屋を眺めているとベッドに黒い塊があるのが分かる、それが咲夜だ。
咲夜は秋の夜にしては頼りない薄い布団一枚を被り横になっていた。
冷たい空気から逃げるように体を折ると薄い布団に詰まった暖かさに少しでも触れよとしていた。
それでも足先にある冷たさは取れず、自身の両足を絡めてお互いの体温で暖めてやると、じんわりした暖かさが現れた。
その暖かさは咲夜の心の緊張を解き、そこから睡魔を呼んだ。
彼女は湿った息を軽く吐き、それから眠りに就いた。
咲夜は夢を見た。
夢の世界で彼女は気温を感じとることは出来ないが視界は鮮明に色濃く広がっていた。
ふわりと飛びあがり部屋の高い位置にある紅魔館の数少ない窓から外をうかがう限りでは夏であった。
美鈴の育てている夏野菜のどれもが大きな実を付けており、特にトマトの大きな赤い果実が目に留まる。
だが奇妙なことにまめに世話をする美鈴にしては珍しく、いや咲夜が記憶する限りではその様な事は一度も無かったのだが雑草が遠くからでも確認できる程に伸びており、何より目を惹くのは熟れすぎて割れてしまった実が幾つもぶら下がっていたことであった。
咲夜が館内に視線を館内に移すとパチュリーと美鈴の二人がいた。
二人のいる位置は丁度、咲夜が外を眺めていた窓から射し込んだ光のもとに立っており、光によって晒されたホコリの中、美鈴は浮かない表情をパチュリーは無表情であった。
咲夜はそこでやっと自分が主の部屋にいることに気付く、と同時にパチュリーに対してホコリの舞っていない部屋に移動なさった方がいいですよと思った。
「気にすることないわよ」
「えぇ……でも」と言って美鈴は部屋の隅を見る。
そこには咲夜の主が大切にしていた家具が“ありとあらゆるものを破壊する程度の能力”によって破壊されたと分かるほどに粉々であった。
一体何があったのであろうか、もちろん咲夜には分からなかった。
光のもとに立つ二人は暫く見つめ合いそれからゆっくり動きだした、
パチュリーは手元の矢印や数式が書かれた紙を見ながら指示を出し、美鈴は指示に従って家具を移動させていた。
作業は単調であり、会話の無い重苦しい雰囲気に包まれながらもテキパキと進められたがその様子は明らかに奇妙であった。
雰囲気ではなく作業の内容が。
咲夜がその明らかに奇妙な部分について考えていると鼻先に冷たいのが当たった。
それはあまりにリアルな生の感覚で伝わり、何だろうかと思い鼻をこすると何の変哲もない滴であった。
また冷たいものが当たった。
今度は頬に。
見上げるとそこには見慣れた天井が、彼女の部屋の天井が目に入った。
天井には雨漏りによる黒いシミがはっており、部屋には雨音と雨の匂いが染み渡っていた。
彼女は目を覚ましたのだ。
咲夜に雨漏りは直せなかった。
雨漏りには何が必要で何をすればよいのか彼女は知らなかったのだ。
時刻は太陽が顔を出し始めた頃であった。
部屋には雨の日特有の色彩の乏しい灰色の世界が広がっており、意識が鮮明になるにつれ雨の匂いだけでなく雨に濡れた布の匂い、布を強く噛んだときに感じられるあの匂いが鼻腔を突いた。
何も出来ない咲夜は雨が滴る場所をそのままに、―彼女の部屋には本当に無駄なものが無いのだ― 部屋のドアをそっと閉めると美鈴の部屋に向かった、
適任の者は美鈴しかこの紅魔館にはいなかったのだ。
「そういうことでしたか」
「朝からごめんなさいね」
美鈴の部屋は咲夜ほどではないが質素であった、
だがどの家具も木目の美しさと柔らかさが際立つデザインがなされ特に椅子の持つ曲線のしなやかさには目を見張るものであった。
またベッドの横の壁には多くのお守りが掛けられており、それは美鈴らしかった。
二人はその椅子に座りテーブル越しに会話をしている。
「謝ることないですよ雨漏りなんですから、それにしても吸血鬼の館で雨漏りというのはなんですかね……」
「そうなのよ、このことはお嬢様に報告しないでおきたいの、だから出来る限り静かに直してくれると助かるわ」
「それは別に構いませんが直すとなると代わりに門番を務めてくれる方を探さないといけませんね」
「それは大丈夫よ、私がやるから」
美鈴はその言葉を聞いて驚いた顔を隠すことなく浮かべると焦った口調で答えた。
「そんな咲夜さんに私の仕事をやらせるなんて出来ませんよ、それに忙しい身じゃないですか」
「大丈夫よ、今日は雨だからそんなにすることがないのよ、それに私用であなたに働いてもらうのに誰かに任せるなんて私が落ち着かないわ」
「いや、それでも」
「いいのよ、これがいいのよ」
「そうですか、そうおっしゃるのでしたら分かりました、なるべく早く終わらせるので頑張ってくだ……と言うのはおかしいですかね立場的に」と言って美鈴は苦笑した。
「そんなことないわよ」咲夜は椅子から立ち上がり「そう、お互いに頑張りましょう」と言った。
咲夜はレインコートを着て一人、門に立っていた。
外は咲夜の部屋と同様に灰色の世界が広がっていた。
切れ目のない厚い灰色の雨雲が世界に灰色を落とし、しとしと降る雨が彼女を包んでいた。
雨音は静かに彼女の心に染み込んでいき彼女の心を徐々に冷やしていく。
じりっじりっと流れる灰色の雨雲はその彼女の心を地面に引きずりまわした、砂の苦さが伝わる様にじりっじりっと。
それは今までに感じたことの無い、ドロドロのコンクリートに埋められた様な、徐々にほどけなくなる時の流れであった。
そうした時の流れの中、灰色の世界で彼女は赤い花を見つけた。
灰色にポツリと浮かぶその花は降り続ける雨にめげることなく灰色の空に向かって咲き誇っていた。
彼女は自分でもどれくらい見ていたか分からないくらいの時間その花を見続け、スッと目を閉じた。
彼女が作り出した暗闇の中、赤い花は咲いていた。
だがすぐに暗闇が赤い花をむしばみ始めた、美しい均衡に歪な筋が走り、終いには跡形もなく飲み込んだ。
目を閉じている間、レインコートのフードに溜まった雨が大きな滴となっていた。
咲夜が寒さで身を震わせると滴はフードを離れ彼女の鼻先に当たり弾けた。
鼻先で冷たいものが弾けると沈んでいた咲夜の意識が再び浮かび上がってきた。
本来であればこのとき、咲夜は門番の務めに対して実直な姿勢を取り戻さなければならないのだがそうはいかなかった。
弾けた滴は彼女に今朝の夢を思い出させた。
そして驚くほど完璧に思いだすことができた。
裂けた実から覗く黄色い種、ホコリのうねり、家具の欠片のザラついた表面の質感、そんな細部すら鮮明に映る程に。
そうして夢について思い出していると夢があまりに自分に対して現実的な圧力をかけていることに気付いた。
それは何故だろうか?考える、やはりあの奇妙な作業であろう。
何故奇妙に思えるのだろうか?それはあの二人、美鈴とパチュリーが家具を動かしていたことだ。
どういう風に?家具は部屋の中央に長方形の形に沿う様に並べられており、“一つの小さな部屋”がある様であった。
その光景は酷く彼女の心を掴んだ。
「終わりましたよ?」
美鈴の声が聞こえた。
二人は調理場の白い流し台に腰かけており、手にはティーカップがあった。
美鈴が雨漏りの修理が終わったと報告をすると咲夜はそのお礼にと美鈴をお茶に誘ったのだ。
調理場には秋の雨で冷やされた空気が漂い、咲夜の淹れたシナモンティーが白い湯気をゆらりと少しばかり長く伸ばし、甘い香りが冷たい空気に紛れていた。
美鈴がお茶を口に含むと咲夜は感想を聞いた、どう?
おいしいですよ。
そう。
答えをぼんやり受け取り、咲夜もお茶を口に含んだ、甘味と辛味が静かに通り過ぎる。
温まりますね。
そうね。
それから二人は黙って飲み続けた。
冷え切っていた足先や指先は正常な感覚を取り戻し、胸のあたりは熱が帯び始めていた。
だが美鈴の目には咲夜の姿は外で門に立っていたときと大して変わらずに映ったのだ。
雨脚はさらに強まった。
外は相変わらずの灰色の世界であったが咲夜は外出しないわけにはいかなかった、バターを切らしてしまったのだ。
空のバターのカップを眺めていると一瞬、マーガリンか何かで代用してもよいかなという考えがよぎった。
だが彼女の性格がそれを許さなかった、と同時に自分の失態に対して苛立ちを募らせていた。
空のカップをゴミ箱に捨てると、人間一人が使うにしては大きすぎる様に感じられる黒い傘を咲夜は掴み、玄関を出てすぐに広げた。
傘がボンとハッキリしない音をたてると、彼女は宙に舞い、門を大きく飛び越えて人里に向かったのだ。
雨のせいだろう、
人里の大通りでの人通りはまばらで、誰もが押し黙り、身を落ち着けられる場所へ早く着こうと足をせかせかと運んでいた。
そんな人々の中には、先に進むことばかり考えていたがために水溜まりに足を突っ込み、自分の不注意に顔をしかめると、次には不服そうな顔を浮かべ、また先を急ぎ始めた人がちらほら見受けられた。
咲夜はそんな人々の歩調とは反対にゆっくりと目立つ大きな黒い傘を差しながら通りを歩いていた。
黒い傘は大通りをゆっくり進んで行き、風で折れた思われる松の木がある脇道に差しかかると進行方向を直角に曲げてそこへ入った。
数分その通りを真っすぐに進んでいくと右に曲がり、また数分進むと今度は左に曲がった。
そして角から数えて三番目の建物で立ち止り、何故か看板を見てから入った。
建物の中はちょっとした暗闇でトタンの屋根を叩く雨音がよく響いている。
その暗闇から腰の曲がった愛想のない老婆の店主がのっそりと出てきた、
店主の曲がった腰には汚い、シミの上にさらにシミを重ねたポーチが巻かれている。
咲夜が指を二本立てると店主はそれを確認して、また暗闇に引き返した。
待っている間に咲夜は財布の中身を調べた、小銭がほとんどなく、幻想郷で一番大きい額の紙幣しか収まっていなかった。
店主が戻ってくる、手には二つの茶色の紙の包みがあり、それを咲夜に渡す。
咲夜が紙幣を一枚渡す、その紙幣を店主は汚いポーチに突っ込み、突っ込んだ手で中をガサガサと探り紙幣を何枚か出して咲夜に渡した。
それからまたポーチを探り小銭を適当に右手に乗せ、左手で正確に数えてから数枚をポーチに戻し、残った小銭を渡した。
お釣りを貰った直後、咲夜は店を出ようとしてすぐに背を向けた。
ありがとうございました。
抑揚のない声が咲夜の背中を突いた。
振り返るが老婆は先程いた場所にはもういない、すでに暗闇に紛れ込んでおり、愛想のない顔だけが印象深く、暗闇に浮かびあがっていた。
紅魔館に戻ると咲夜はメイドとして雨の日にすべきことを黙々とこなした。
その間、雨音は彼女がどこにいてもずっと響いていた。
幻想郷は夜を迎えた。
雨は一切止むことなく降り続き、弱まる気配を見せぬまま地上を冷やし続け、風は日が沈んだ頃に強さを増し、悲鳴にも似た風の鳴りは聞いた者に外の荒れた様を想像させた。
咲夜の部屋
昨晩と同様に灯りのない暗いその部屋、そこには雨の匂いが漂いマットレスが外され黒いボトムが晒されているベッドがある。
冷やされた空気は鋭さを増し、より心を敏感にするようになっていた。
十六夜咲夜はどこにいるのか?
ベッドにいないのを確認してから見渡せば部屋の隅に膨らみのある黄色い布があるのが分かる。
時折それは、もぞもぞと動き出す。
そうしているのが咲夜であった。
彼女にはベッドの代わりとなる寝具は一切なかった。
もちろんそのことを彼女は知っていたし、対処することだって可能であったが何かしようとは思わなかった。
修理の完了の報告を終えたとき、美鈴が代わりの寝具があるのかと咲夜に尋ねたのだが彼女は大丈夫だと答えた、何の考えも準備も無く。
夜が深まってやっと咲夜はどうしようか、という考えに至った。
そして窓に取り付けられた黄色いカーテンを見ると、おもむろに手を伸ばし、正確に一つずつフックを外した。
カーテンは外してみると思ったほど大きくは無かった。
だが彼女はそれに対して何の不満も浮かべることなく、それを被り、部屋の隅で体を丸めて横になった。
床は冷たく、カーテンの折れている部分から冷たい空気が侵入して彼女の体に触れた。
彼女の呼吸と体はその寒さで小刻みに震え、震えている間は寒さ以外のことは考えることが出来なかったが、数分し、温もりが広がると身体の震えは続いていたが呼吸の方は落ち着いた。
呼吸の落ち着きが彼女に考える余裕を与えると今朝の夢について考えた、いや想像した。
彼女はすでに夢の現実味がどういうものか気付いていた、だからその続きを想像することにした。
美鈴とパチュリー、二人が沈黙に包まれながら家具を動かしている。
作業は淡々と進み、家具は部屋の中央に長方形に並べられ、小さな部屋の形をなしつつある。
そして最後の家具を美鈴が丁寧に下ろすとコトンという軽い音が鳴り、より深い沈黙が生まれた、二人は自分達が作り出した小さな部屋にたたずんでいた。
その沈黙を破ったのは咲夜の主がドアを開けた音であった。
彼女の主は乱れない足取りで二人に近づいて労いの言葉をかけた、美鈴は何とも言えない気まずい笑顔を浮かべ、パチュリーは「まぁね」と答えた。
それから部屋の中央の中央に立つと考え込む様なポーズをとった、左手が右ひじに触れ、右手が顎を押し上げている、その体勢で彼女の主はぐるりと優雅に見回した。
家具、美鈴の顔、家具、パチュリーの顔、家具、粉々の家具、家具、一周、そして天井を仰いだ。
「どうなのかしらね」とパチュリーが咲夜の主に尋ねた。
「どうって」言葉は淀みなく切れて、息が詰まる様な間が生まれた。
「咲夜がいなかった頃に戻るだけさ、そうそれだけさ」
十六夜咲夜は自らの夢をそのように結んだ。
それだけである。
なんだか不思議な感じのする話ですね。
この話の感じにカッチリした文章がよく合ってたと思います。
自分に対して ぞんざいな感じで咲夜さんらしいなぁ、と。
静かで寂しげな雰囲気が素敵でした。