(はじめに)
※このSSは、2009年の秋に一度完成させたものに、大幅な加筆修正を施したものです。時系列や作中の年号については、当時のままになっています。
※過去の人里を舞台にしたSSです。オリキャラ、オリ設定が大量に出てきます。ご注意願います。
※とてつもなく長いです。一章ごとに平均100kb以上あります。心の準備をお願いいたします。
幻想郷年史 第124季 神無月 第一週 地底 縦穴
地上の楽園が捨てた負を預かり、土の下で蠢き続ける世界、地底。
そこは、忌み嫌われた妖怪の巣窟であり、封じられた怨霊共が跋扈する迷宮であり、灼熱の地獄へと通じる、陰気な空間だった。
闇でも目立つ緑の双眸に、嫉妬の炎を燃やしながら、一匹の妖怪が飛んでいる。
白磁の肌を包む、菱形模様を編み込んだ唐茶と青のペルシャ風ドレス。黄金色のショートボブからはみ出した、尖った耳が特徴的だ。
水橋パルスィ。地上と地下を結ぶ縦穴に住み、旧都へと通じる橋を守護する、橋姫である。
地底でも名の知れた実力者のため、同じ妖怪からは一目置かれているが、極度に嫉妬深いために、恐れ嫌われてもいた。
……まぁ、少なくとも、本人はそう思っているのだが、
「あ、あんたも地上に行ってくるの? お土産よろしく~」
「行くわけないでしょ、妬ましいわね」
「こんにちはー。今地上から戻ってきたんですよ。これ食べます?」
「いるわけないでしょ、妬ましいわね」
「パルスィさん! こ……今度地上でデートしてくれませんか!?」
「するわけないでしょ、妬ましいわね」
「よう、パルスィ。地上に漫才でもしにいくのか。ほら、ネタ増しぃ、って」
「面白いわけないでしょ、妬ましいわね」
すれ違う妖怪の親しげだったり間伸びしてたりする声に、お決まりの捨て台詞を投げかけながら、彼女はうんざりした気分で飛び進んだ。
『地上』というフレーズを聞く度に、横に尖った耳がぴくぴくと震える。
実のところ、旧都に隠れ住み、鬼達が日光を嫌った時代は過去のこと。地底は今、空前の地上ブームなのである。
発端はこの間、地上で起きた異変とやらの解決のために、人間が二人、この世界へと原因を探りにやってきたことにあった。
結果、断絶していた交流が部分的に復活し、さすがに旧都まで来る妖怪は殆どいないものの、地上からの来訪者が増えることとなったのである。
そして、今はそれだけではなく、その逆の現象も起きているのだ。
下級妖怪だけでなく、鬼の四天王が酒の勢いを借りて地上に突撃していったり、さとり妖怪が何やらこそこそしつつ地上に向かったり、巨大な船が地上を目指して飛んでいったりと、毎日がそんな調子である。
地上も人間も好きではないパルスィにとっては、あまりありがたい風潮ではない。
そういう空気を一言で言い表すなら、そう、『妬ましい』である。
「……ったく。どいつもこいつも楽しそうにして」
ぶつぶつ言いながら、嫉妬妖怪は洞窟を川に沿って飛ぶ。
一杯飲んで気分を払いたいところだが、一人でやけ酒を飲むつもりはなかった。地上の光を好まないのは、パルスィの専売特許ではないのだから。
やがて、穴が大きく広がったところで、彼女は飛ぶスピードを緩めた。
ごつごつした高い天井の下、歪な形をした岩が点在している。一見鍾乳洞にも見えるが、形作っているのは石灰岩ではない。
地底にのみ存在する特殊な岩が、怨霊や妖気の働きで、長い年月をかけて移動してできた空間である。
今も浮遊する岩によって、天然の模様替えが行われているため、半年も経てば記憶は当てにならないという、不思議な空間だ。
ここは地底の上層に住む妖怪達の住処の一つであり、彼女の友人達が住んでいるのである。
パルスィの視線が、岩の一つに止まった。
「隠れてないで、出てきなさいよ。私だから」
ひょこん、と子供の顔が現れる。
正確には、大きな桶にすっぽりと入っている、緑色のおさげ髪を二つぶら下げた、少女の頭である。
その少女が、不安げだった顔を、ぱっと喜びに輝かせ、岩から飛び出しながら、
「パルスィちゃん!」
呼ばれた方は、がくっ、と姿勢を崩した。
「……ちゃん付けは、よしてほしいわ」
「わー、久しぶり。どうしたの? 橋の見張りはしないでいいの?」
「しない。今日はもうやめた。地上からわんさか妖怪が来るわ、地底からも大物が出て行くわで、私だけくたびれるのが妬ましくなったの」
「えっ……じゃあ、パルスィちゃんも地上に遊びに行くの?」
「行かないわよ。私は地上が嫌いな妖怪だからね」
「同じ同じ。私と同じ。地上って怖いもん……」
「私が嫌いなのは怖いからじゃなくて、妬ましいやつが多すぎるから」
手を上げて同意する釣瓶落としの妖怪、キスメの額に、パルスィはぺしっと掌を軽く当てた。
そして彼女は、普段他人には絶対見せようとしない、さっぱりした笑顔になって、
「というわけで今日は、地上かぶれの妖怪をあざ笑って肴にしながら、地上嫌いの三人で語り合わない?」
「え? 三人?」
「三人よ。あいつも地上嫌いだったじゃない」
辺りを見回すパルスィに、キスメはおでこを撫でて伝える。
「ヤマメちゃんならいないよ」
「あれ、どこ行った」
「たぶん、地上じゃないかな」
「へぇ、ちじょう……」
「うん、ちじょう」
「そうか、ちじょ……なにぃ!? 地上!?」
地上。会話の流れと発言者の性格からして、痴情なはずがない。
パルスィの瞳が緑に燃え、肩にかかる金髪が怒りで逆立ち、蛇のようにうねった。
「おのれ黒谷ヤマメっ! なんてやつ! 私との長きに渡る友情を裏切り、忌まわしき地上にうつつを抜かしただと!? いつか手を組み、愚かな人間共、明るい妖怪共に一泡吹かせてやるという、酒の席での誓いを忘れたのか! 所詮は土蜘蛛! 卑しき民! 信じるだけ無駄だったってことなのね! ああ最悪! 妬ましい! 妬ましいぃいいい!」
頭を抱え、ブロンドを振り乱すオーバーリアクションで、橋姫は騒ぎ喚く。
ガラスを引っ掻いたような甲高い声音が、広い石窟に響き渡った。
だが、対峙するキスメは桶の中に頭を隠しており、人間ならば神経を削られるようなその芸にも、全くの無反応であった。
しばらく嘆きのポーズのまま停止していたパルスィは、いつもの土蜘蛛のツッコミがないことに、なんとなくきまり悪さを覚えて、空咳をする。
「……えーと、地上の紅葉を見に出かけたとか?」
「うん、そうかもね。まだちょっと早いけど、妖怪の山とかはとっても綺麗らしいし」
「へぇ、なんか詳しいわね」
「この新聞に書いてあったから」
「新聞?」
どうやら、無視されていたわけではなく、彼女は桶から何かを取り出そうとしていたらしい。
出てきたのは、ものすごく分厚い本だった。
装飾は無骨で、束ねた用紙に黒いカバーを取り付けただけにも見え、表紙には達筆で何やら赤い文字が書かれている。
パルスィは、キスメから手渡されたその本について、片眉を上げて聞いた。
「何なのこれ」
「『文々。新聞 地底妖怪向け特集、豪華決定版』」
「地底妖怪向け……ああもしかして、地上の新聞なのこれ」
「そうそう。長い間交流が無かった地底の妖怪に、地上でどんなことが起こっていたのか、百年分の主要な事件がこれ一冊で分かる、お買い得本! なんだって」
「また妙なものに手を出したわね……」
「ふふ、ヤマメちゃんにもそう言われちゃった。興味津々で読んでたよ」
「へぇ……あいつが」
土蜘蛛も読んだと聞いて、パルスィもそれを、ちょっとめくって読んでみた。
中身はちゃんとした本というより、新聞の切抜きを集めたスクラップブックに近い。
内容も旧都で出回っているものと、形態が少し違うだけで、妖怪向けのお気楽な、要するに普通の新聞だった。
言うまでもなく、記事の内容は全て地上絡みである。住み処を土の下に移して長い者達にとって、これは確かに、興味を誘う読み物に思えた。
と、パルスィは頭に浮かんだ不吉な予想に、キスメをじろりと睨む。
「あのさぁキスメ……聞きたくないんだけど、あんたがこれを読ませたせいで、あいつも地上かぶれになって遊びに行きたくなった、ということはない?」
「えっ……うわわ……そうかもしれない。ごめんね? パルスィちゃん」
「あんたに謝られる筋合いは無いわ。腹が立つのはあいつの方よ。全く……」
「ごめんね、パルスィちゃん、ごめんね、パルスィちゃん……」
「……一声誘ってくれても……」
「ごめんねパル……え? 今何て?」
「なんでもないわ。あの薄情者~」
パルスィは渋い顔のまま、若干の好奇心を満たすために、しばらく新聞を流し読みしていた。
すると、
「ん? やまめ?」
その名を見つけて、めくる手が止まる。
日付は第六十四季の新聞である。山女印のサイダーという、妖怪の間で流行している飲み物の取材だった。
「あ、パルスィちゃんもそれ気づいた? 不思議だよね。ヤマメちゃんの名前が載ってるんだもん」
「そうね。こっちはヤマメじゃなくて山女だけど」
「きっとヤマメちゃん、さっき貸してあげたときに、それを読んで、サイダーっていうのを飲みたくなったんじゃないかな。でも今は……えーと百二十四季だから、もう六十年前の話なのに」
「六十年前……」
パルスィは呟いて、目を細め、わずかに顔を上に向けた。
「キスメ。確か……あいつが二ヶ月ほど、地底から姿を消していたことが無かった?」
「そうなの? 私、知らないよ」
「いや、最近じゃなくて、ちょうど六十年前よ」
「まだ私は生まれていなかったから……え、え、じゃあその山女って、ヤマメちゃんのことなの?」
「いやぁ……そこまでは」
パルスィは記事をよく読んでみた。
それは妖怪向けの新聞にしては珍しく、人間に関係するものだった。
これを書いた天狗――射命丸文となっている――が、妖怪の領域に現れた子供に対して取材したものらしい。
河童の間でも流行っているだとか、変わった人間だとか。これだけ読んでもよくわからない。
「パルスィちゃん、気になるね! ヤマメちゃん、なんで地上に行ったのかな!?」
「さてね。帰ってきたら、あいつから話を聞いてみましょ」
そう答えて、パルスィは別の記事をめくった。
「地上か……。今はどうなってるのかしらね」
~サイダー色した夏の雲~
第一章
幻想郷年史 第122季 長月 第二週 地上 人間の里
文机の前に、白髪の老人が正座している。
厳しくはないが、深く考えこんでいる表情で、何やら紙に筆を走らせ、手を止めては虚空に目をやり、また筆を動かす。
窓から入る光は、すだれによって遮られており、周囲にうずたかく積み重なった書物のために、室内は薄暗い。
雑多なものに囲まれた、埃の臭いが漂う八畳間には、風化していく絵にも似た、緩やかな時が流れている。
足音が近づいてきて、老人の手が止まった。
襖がそろそろと開くのにあわせて、そちらを向く。
「……ん、どうした大樹」
レンズ越しの強い視線の先に、廊下に座り込んだ男の子がいた。
小さな手がおずおずと、持ってきたお盆を見せる。
上には小振りの饅頭が四つと、湯飲みが一つ乗っていた。
「お八つか。ありがとう、そこに……」
「おじいちゃん、お話してくれない?」
「んー? お話?」
「うん、お話」
「ははぁ……」
老人は筆を置き、白い髭の生えた顎を撫でながら、頬の皺を深めた。
「お母さんに何か頼まれたか」
「…………」
「内緒で様子を見て来いと言われたんだろう」
「おじいちゃん、お母さんを怒る?」
「なに? ははは、怒りゃせん。おいで大樹。……ああ、お茶は危ないから、そこに置いてくれんか」
眼鏡を取って、正座から胡坐に変わり、老人は孫を招く。
緊張の解けた男の子は、机の横にお盆を置き、祖父に歩み寄って、その膝に甘えるように手を乗せた。
「おじいちゃん、もう悲しくないの?」
「んー? それも聞いて来いと言われたんか」
男の子は違う、と首を振る。子供にしては気遣わしげな、聡い相貌だった。
その小さな頭を、老人はよしよしと撫でて、
「先日の通夜は、付き合わせて悪かったな。遊びたい盛りの子供には、退屈だったろうに」
「ううん。そんなことないよ。おじいちゃんのお友達だったんでしょ?」
「ああ。じいちゃんが、大樹くらいの頃からの友達だ。大人になっても、ずうっと仲が良かった」
「三吉おじさんよりも?」
「いやぁ、比べられんなぁ。仲良くなったのは、あいつの方が先だったがな。それより大樹、よく三吉おじさんのことを覚えてくれてたな」
「だって、すごく面白いおじさんだったもん。お医者さんに行った時、いっぱいお菓子くれたし」
「うんうん。それと、お前が生まれる前の話だが、鉄おじさんというのがいてな。ほら、そこの大きな家の」
「あ、それもお母さんから聞いたことあるよ」
「そうか。他にも、お美世や、弥彦、それにカカシ……みんな、今の大樹のお友達のように、仲良かった。たまに喧嘩もしたがな。いいやつばかりだった……」
老人の声には、懐かしさと、一抹の寂しさが含まれていた。
そんな祖父の悲しい姿が嫌だったらしく、大樹は机を見ながら、話を変えるように言う。
「……これ、お手紙でしょ。僕もこの間、寺子屋で書いたよ」
老人も、そこに乗っていた、書きかけの紙に目をやり、うむ、とうなずいて、
「そうか。大樹のお友達に書いたのか?」
「うん。慧音先生が、誰でもいいから書いてみなさい、って」
「じいちゃんが子供の頃も、やっぱり慧音先生に書かされたよ。実はここに、その時の手紙が残っている」
「え、見せて見せて!」
「いやぁ、それは勘弁してくれ。何しろこの手紙は、まだ宛先に届いていないんだ」
恥ずかしそうに笑う祖父に、大樹はきょとんとした。
子供の頃に書いたものなのだから、それはとっくに渡していてもおかしくないはずである。
「誰なの? その人はお友達?」
「ああ。古い古ーい、友達だ」
「僕の知ってる人かな」
「ふふふ、大樹どころか、お前のお母さんも会ったことはないぞ」
「それじゃあ、僕にだって当てられっこないね」
「実は、じいちゃんも子供の頃の夏に会っただけで、それからずっと会ってないんだ。だからこの手紙をいまだに渡せずにいる」
「一度しか会ったことないのに、友達……」
「いや、その夏を一緒に過ごしたということさ。たった一度の夏、けれども、じいちゃんにとっては、他の長いお友達と同じくらい大切で、特別な友達だったんだよ」
語っている間に、老人の視線が徐々に遠くを向き、細くなる。
「その後、いろんな夏を経験したが、あの夏は一番楽しく、一番恐ろしく……」
「もしかして、怖い話……?」
大樹が驚いて、祖父の顔を見上げた。
寝る前に話してくれる妖怪話は、彼のお気に入りだったが、たまに怖くて眠れなくなることがあるのだ。
「ああ。そして、一番哀しい夏だった。そいつと出会い、そいつと遊び、そいつと別れた夏。今でも忘れん。だからこそ、こうして手紙を書いている」
聞いている内に、少年の中で、むくむくと好奇心が湧いてきた。
それまで頭を撫でてくれていた祖父も、急にうなり声を発しだす。
「うーん……やはり、大樹に話しておかんとなぁ……しかし……」
「話して話して! 僕、聞きたい!」
「しかし、お前は午後からお友達と遊ぶんじゃないか?」
「ううん」
「本当か? こんな年寄りに気を使わんでいい。約束を破ってはいかんぞ」
「今日は約束してないよ。あとで、遊びに来るかもしれないけど、今はおじいちゃんの話が聞きたい!」
「はは、そうか。では話そう」
老人は湯気の立つお茶をすすって、ふぅむ、と息をついた。
塵に覆われた記憶を、そっと拭いていくように、ぽつぽつと語り始める。
「あれは、今の大樹と同じくらい、いや、一つか二つ、年上だったかな。その頃の幻想郷は、今の幻想郷とはかなり異なっていた。大樹は寺子屋で習ったか?」
「……あんまり、覚えてない」
「ふふ。そのころ、里中を揺るがす大事件が頻繁に起きてな。地震を除けば、いずれも妖怪がらみだった。いや、あの地震もひょっとすると……」
「地震って?」
「地面が……ぐらぐらぐらっ! と揺れて、大変なことになることだ。じいちゃんも、体験したのは、その年が初めてだった」
「ふーん」
「何しろあの年は、初めてが多かった。地震もそうだし、木登りもそうだし、北里の少年達との喧嘩騒ぎ。そして……」
そして、六十年近く隠していた秘密を、彼はついに孫に伝えた。
「妖怪と友達になったのも、その年が初めてだった」
幻想郷年史 第63季 水無月 第四週 地上 人間の里
「くも」
唐突な一語に、並んで歩いていた少年二人が、晴れた空に顔を向ける。
しかし、声を出した三人目は、地面を指さしていた。
夏の強い日差しの下、真っ黒な大きい蜘蛛が砂利道を横切り、茂みへと逃げ去っていく。
少年は、少し草に手をかけたが、もうその行方はわからなくなっていた。
ちょん、と背中をつつかれる。
「空の雲かと思ったぞ草太」
「蜘蛛なんて珍しくないぜ。俺ん家の庭に、でかい巣を張ってるのがいるから、今度見せてやろうか」
「違わい」
からかう二人に、草太は言い返した。
草太だって蜘蛛は見慣れている。ただ日の照った道に、しかも自分の通る位置にでかいのがいたから、つい声に出したのだ。
だけど、二人が咄嗟に、遠くの入道雲に目を向けたのがおかしくて、自分でも思わず笑ってしまった。
三人はまた歩き出す。
「でも、すごく大きいやつだったよ。あれが三吉の家にいたら驚くだろうな」
「へぇ、じゃあ悪戯に使えたかな」
坊主頭の三吉は、こちらの顔をのぞき込み、目を輝かせた。
「慧音先生の机に、こっそり置いておくとかさ。どうだ鉄?」
「俺はやだな。今日も一発喰らったし」
一回り体の大きい鉄平がぼやきながら、赤い癖毛に手をやる。
「駄菓子を交換してただけで、こぶ一つなんて割にあわねぇよ。先生、頭突きがやりたいだけじゃねぇのか」
「そんなに好きなら……ほれ。あそこの地蔵様とやればいい」
「慧音先生なら割れるんじゃないかな」
「そしたら俺達みんな地獄に落ちるな」
最後の一言に、再び笑い声が湧いた。
暑い夏がやってきた。
里の南端にある休耕田は、すっかり緑が生い茂り、雀や鴉が飛び交う下で、バッタやキリギリスが生き生きと跳ねている。
午後の授業を終えた草太は、友人達と里の東側にある寺子屋を出て、わざわざ南から遠回りして遊びながら、自宅へと帰る途中だった。
ここは景色が良いのだ。視界を遮る建物が少ないために、そびえ立つ妖怪の山が空にくっきりと映え、ちょうど大きく育った入道雲と相撲を取っているように見える。田んぼと逆の左手には、遠くに魔法の森の端が小さく見えており、そこまでススキの平原が続くために、こちらも青空と雲がよく見えた。
顔をそちらに向けて歩いていると、一番手前に、茂みに隠れるように六つ並んだ、お地蔵様が姿を現す。
草太はそこで立ち止まった。
「この前の地震でも、お地蔵さん倒れなかったんだね」
一番端のお地蔵様を眺めながら言うと、鉄平もうん、とうなずく。
「先生が六十年に一度あるか無いかの大地震って言ってたな。うちの蔵も、一つ崩れて大変だったし」
「鉄平の家の蔵が崩れるのに、このお地蔵様は大丈夫だったんだ。なんだっけ……御利益があるのかな」
「ごりやくか! お地蔵様! ごりやくで早く夏休みにしてください! あと、ごりやくで慧音先生の宿題もやってください!」
「ばーか」
急に枝を持ち出して拝む三吉を、鉄平が軽く小突く。
けど、気持ちは草太も、そしてここにいない寺子屋のみんなも同じはずだった。
休みの日が増えれば、諸手をあげて感謝するし、宿題が増えれば、一致団結して涙を流すだろう。
あいにく、それを決める慧音先生は、たとえ閻魔様に言われたとしても、予定を変えるとは思えなかった。なにせ頭と同じくらい、その性格も頑固だから。
三吉が拝むのをやめて、持っていた枝をぽーんと遠くに投げた。
「でも楽しみだよな。あと一週間で夏休みだぜ。何せ、朝から遊べるもんな。虫取りに釣りに泳ぎに…………あ、俺なんか目標立てようかな」
「目標? 三吉が? 宿題もやらないのに」
草太が驚いて聞くと、友人は鼻の穴を膨らませて語る。
「あれは先生が決めるやつ。俺のは自分で決める目標だ。この夏を今までにないほどすげーものにしようってことよ。カブトを十匹とか、そんなんじゃないぜ。どうせなら、オオクワとあわせて、三十匹は欲しいな」
「それじゃあ、いつもやろうとしてることと変わんねーじゃん」
「いやいや、もっと凄いのにする。えーと、虫じゃなくて、魚じゃなくて……そうだ! 今年の夏は、妖精を捕まえよう!」
「は?」
「妖精を捕まえて、皆に自慢するんだ。どうよこれ」
得意げに語られた二人は、互いに顔を見合わせた。
「どう考えても……」
「無理だよな」
「なんでだよ。妖精なら俺、結構見たことあるもん」
「そりゃあ、昔は里にも妖精がたくさん出たらしいけどさ。最近はただでさえ少ないのに、自警団の大人達が、追い出すのに力を入れてるって話じゃねぇか。なぁ草太」
「あ、うん。父ちゃんがそう言ってた。それに一匹見つけたところで、すばしっこくて捕まえられないよ。あれ、ツバメよりも速いから」
「じゃあこの地蔵様をちょっと越えてさ。妖精の溜まり場を見つけて」
「馬鹿、罰が当たるぞ」
「それはさすがにヤバい」
「大丈夫だって。……お地蔵様! どうかここを通らせてください! だめならごりやくで妖精を捕まえてきてください! えっ? 入っていいって? それでは失礼しま……」
「こらぁ! そこで何しとる!」
いきなり、怒鳴り声が背中に浴びせかけられた。
草太と鉄平は首をすくめ、お地蔵様の向こう側に足を踏み出そうとしていた三吉も、慌てて戻る。
振り向いて見ると、禿げ頭から湯気を出している鼻が異様に長い老人と、同じ柄のあい染めはっぴを着た男の人達が数名立っていた。
里の子供なら誰もが叱られたことのある、頑固で偏屈な里長と、さっき噂をしていた自警団の大人達である。
父の姿は無いが、中の一人は草太も知っている人物だったので、上目遣いでお辞儀する。
「全く、悪戯坊主どもめ、食われても知らんぞ」
「……すいませ~ん」
「大体、なぜこの道を通る。そこから先を数間進めば、妖怪どもの領域だぞ。知らんわけはあるまい」
「はい、ごめんなさい」
子供達は揃って、バッタのようにぺこぺこと頭を下げた。
実は三人とも、怒った里長よりも、苦笑いしている自警団の人達よりも、その後ろで黙っている人物に恐縮していたのである。
『彼女』は、足音も無く集団の前へと進み、お地蔵様の前で一礼してから、その側を通り過ぎた。
里の人間は、そのことについて一言も文句をつけず、畏敬の念をこめて見守っている。
こちらを振り返ると、白と赤の巫女服が風に揺れた。
「それでは、ここまでで結構です。お見送り、ご苦労様でした」
当代の博麗の巫女は、小さいが、はっきりと通る涼やかな声で告げた。
里長はうやうやしく禿げ頭を下げ、
「左様でございますか。それではまた、次の辻切りの日まで」
「はい」
「その間、何事もなければ夏祭りの件もお願いいたします」
「はい、そのときはよろしくお願いします」
黙って聞いていた草太は、夏祭りの話が出て、小躍りしたくなった。
去年はできなかった祭りが、今年はできるということに違いない。博麗の巫女様がついてくれるなら、きっと安心だ。
しかし、夏祭りと里長が言った瞬間、鉄平が怖い顔をして巫女様を睨んだのに気がつき、草太は三吉と素早く目配せするだけで、何も言わなかった。
「ごきげんよう、みなさん」
「待ってください巫女様」
博麗の巫女が、はじめて気がついたかのように、鉄平を見る。
「今度の祭りでは、きっと、里のみんなを守ってくれますか? 一人も死なせたりしませんか?」
「……それは私の実力と、相手になる妖怪の強さ次第です」
「そんな答えじゃ納得できません。約束してください」
「鉄平、不敬じゃぞ!」
里長が、真剣に怖い顔で睨んでいる。
けど、鉄平は怯まず、巫女様を見つめていた。
にわかに張りつめだした空気に、草太と三吉は何も言えず、事の成り行きを、黙って眺める。
「……わかりました。約束しましょう」
博麗の巫女は無表情のまま、場の緊張を解くように、静かに言った。
「……では」
丁寧な一礼の後、地面をとん、と軽く蹴る音がした。
あっ、と子供達が叫ぶと、もうその身体は、宙を高く飛んでいる。
紅白の姿は風に乗って、見る見るうちに、東にある山のほうへと小さくなっていってしまった。
「……やっぱり、すげぇなあ」
「うん」
どこか羨望の響きがある鉄平の呟きに、草太も同じ気持ちでうなずいた。
空を飛べる人間がいる、というのは頭では分かっていても、見る度に驚く。
小さな子供だけじゃなく、大人達もその姿に気がつけば、仕事の手を休めて、等しく天を仰ぐ。
博麗の巫女、彼女は慧音先生と同じく、里にとって特別な存在だった。
普段はここから遠く離れた神社に住んでいるが、必要な時に人を脅かす妖怪を退治して、守ってくれる、人間にとっての希望なのだ。
だけど、ここで普通に暮らしている限り、里の者達は、実際に話しかけたりする機会はほとんどない。草太も近くで見たのは、過去に一度だけである。
そういった意味で彼女は、慧音先生とは違い、どこが現実味のない、触れると罰が当たりそうな、生き神様のような存在だった。
自警団の大人の声が、遠くを見つめる自分達を呼び覚ます。
「お前達も早く帰ったほうがいいぞ。そろそろ雨になるから」
「雨ぇ? 今晴れてるぜ、おじさん」
「龍神様の目の色が変わっていたからな。それに、わしの勘でも、こういう空は、まず間違いなく降る」
「へー」
「寄り道せずに帰るんじゃぞ。じゃあな」
里長は長い鼻を鳴らして、曲がった腰のまま、自警団を引き連れて去っていった。
子供達はそれを見送りながら、相談を交わした。
「……当たるかな」
「今日はハズレだ。というか、ハズレてほしい。鉄は遊べるんだろ?」
「大丈夫だ。龍神様が間違ってたら、草太の家まで行こう。林で遊ぼうぜ」
「決まりだ!」
三人は互いの手を打ち合わせて、いつものように、田んぼのあぜ道を走り出した。
○○○
人間の里は、南北を分ける中央街道と、東西を分ける龍神大路によって、四つの区画ができている。
南里には田畑や寺子屋、寄り合い所などの重要な場所が多く、北里には商家や住居が多い。
草太の家は南里の西側にあり、雑木林の近くに連なった民家の一つであった。
友人二人と別れた草太は、真っ直ぐ家に帰らず、その雑木林に向かっていた。
南里の少年達にとって、そこは、木登りや虫取りをするのに手頃な、人気の遊び場だった。
夏休みの間は毎日のように早朝に集まって、樹液を吸いにやってくる甲虫を竹籠に入れて集め、昼間に相撲を取らせて遊んだりするのが恒例の遊びである。 もちろん、他にも目的は色々あるし、子供だけじゃなく、大人達が茸を取りに入ることだって珍しくないのだが、草太自身にも、個人的にここに入る秘かな目的があった。
誰も見ていないことを確認して、イラクサで作られた天然の門から、草太は雑木林に入った。
高い木、枯れた木、曲がった木。様々な木が距離を保って生えており、田んぼ近くや東の原生林より、幾分ひっそりした空間を作っている。
聞こえてくるのは、主に野鳥の鳴き声。子供の話し声はないし、姿も見あたらないので、ちょうど今は林を独り占めできる時間のようだ。
草太は奥へと進んでから、近くの手頃な木に近寄った。
幹を触って、見上げる。
――これじゃ、だめだな。
枝が少なく、木肌もすべすべしている。初心者では手に負えない類の木だった。
顔に寄ってくる蚊を追い払いながら、草太はもう少し奥まで行ってみた。
次に目が止まったのは、枝が多くて高さも手頃な木だった。
しかし、皮がささくれ立っていて、軍手をしていなければ、掌が傷だらけになりそうだ。
――これもだめ。
草太はさらに奥に進むことにした。
あっちこっち探し回って、ようやく気に入った木が見つかる。
手を伸ばせば届くほどの低いところで、幹が二つに分かれており、そこから先は斜めに伸びているので、垂直の木よりも登りやすそうだ。
草太は膝をかがめて、えいっ、とそれに飛びついた。
いつものように、地面から足が離れた途端、急に自分の体の重みというのを実感する。
両足で幹を挟もうとしたが、支えきれず、ずるずると滑り落ちた。
「あ、そうか。靴を脱ぐんだっけ」
草太は縁に穴の開いた靴を脱ぎ、靴下もそこに入れて、冷たい地面に素足を乗せた。
両手をできるだけ伸ばし、大地から跳んで、木にしがみつく。
ぐっ、と四肢に力が入るが、滑りにくい裸足で踏ん張る。そのまま、上を目指そうとするものの、その姿勢を維持するだけで必死だった。
やがて耐えきれずに、足が滑り始め、幹の肌でこすられて熱い痛みが走り、ついに地面に尻餅をついてしまった。
「いってー……やっぱり駄目か」
思わず口にしてしまってから、その弱音を打ち消すために、ぶんぶんと首を振る。
大柄な鉄平だって木登りは上手いし、草太よりも非力な友人も木に登れる者は多い。
つまり、木登りは才能ではなく、身体で覚える技術なのだ。……とまあ、そう信じてやるしかない。
それに、靴で登ろうとしたときよりも、木と一緒になった時間は長かった。後は工夫次第でもっと高く、ついには枝まで手が届くはずだ。
草太はこれに絞るか、もっと登りやすそうな木が別にないか探した。
すると、
「あれ?」
林の最奥にある、池に目が止まった。蓮によく似た葉がいくつか浮いている、小さな池である。
その池は南里の子供に、毒池だとか、ばっちぃ池だとか、色んな不名誉な名前がつけられていた。
魚もいないし、水もよもぎ色に濁っているので、近寄っただけで何か病気にかかりそうで不気味なのが理由である。
だが、生き物の棲んでいないはずの、その池の表面に、かすかな波紋ができていた。
草太は近づいてみて、驚いた。
虫がおぼれている。真っ黒で黄色い斑点のついた親指ほどの胴体、それはさっき道端で見かけた、あの蜘蛛とそっくりだった。
でも、そんなはずがない。だってあそことここじゃ、だいぶ離れている。
それでも、その虫はやはり、見れば見るほど、色も大きさもあの蜘蛛と瓜二つだった。
――同じ種類のやつかなぁ。
草太はしゃがんで、虫が溺れる様を観察した。
先ほど話題にはしたものの、そんなに蜘蛛が好きじゃないし、詳しくもない。
ましてや、こんな大きなものは、ちょっと見かけるだけというならともかく、近づいてまじまじと見つめて気持ちのいいものではなかった。
だが、先日寺子屋で、一寸の虫にも五分の魂といって、小さい虫だろうと侮らず、生き物を大切に扱うことを学んだばかりである。それに、水上でもがき苦しんでいるその姿は、なんだか哀れで可哀想だった。
可哀想という感情が芽生えると、もう助けてやろうという気になり、草太は枯れ草を手にしていた。
池の端に近づき、できるだけ腕を伸ばす。
細長い枯れ草の端を、水につけて濡らさないように、慎重に水面に近づけた。
もがいていた蜘蛛は、すんなりとそれにしがみついてくれる。
そこで草太の手に向かって上ってきたりしたら、きっと驚いて枯れ草ごと放り出してしまっただろうが、幸いそいつは、遠慮がちに葉の端から動かなかった。
なかなか、できた蜘蛛である。草太は枯れ草を手にぶらさげて、安全な土の上に置いた。
「じゃあな。もう溺れたりするんじゃないぞ」
草太が話しかけると、蜘蛛は世話になったというように、素早く地面を走り去って行き、朽ちた倒木の横を過ぎて、茂みへと消えていった。
「………………?」
草太は、その茂みに、視線が吸い寄せられるのを感じた。
そこに、膝の高さほどのトンネルがあったのだ。
正確には、丈の低い植物が重なり合って、茂みの中に丸い空洞を作り上げているのである。
薄暗いうえに、木が裂けた根元の裏になっているため、遠くから見れば何かの影としか思えない。蜘蛛の姿を追わなければ、見つけられなかっただろう。
いつ出来たのかはわからないが、裂け折れる前の木によって、しっかり隠れていたとすれば、これまで知られていなかった説明がつく。
木が折れた原因にも心当たりがあった。地震だ。
四日前の地震は本当に大きかった。幸い、死人は出なかったものの、多くの人が怪我をしたうえに、鉄平の家の蔵や、寺子屋の近くにある大きな納屋だとか、それ以上に家の多くが倒壊してしまったのだ。
その時に、この古い木も腐った部分から折れてしまったとすれば、説明がつく。
さらにここは、雑木林の中でも奥地で、汚い池の向こう側にあるので、普段から遊んでいる南里の子供もあまり来ることがない。
色んな条件が重なって、今日まで隠れ続けていた秘密の穴ということなのかもしれなかった。
草太は池の脇を通って、そっと近づいてみる。
興味深い代物ではあるが、このトンネルに入るのは危険だった。
茂みの奥の森は、山の麓につながっており、子供は勿論、大人でも滅多なことがなければ入らない。
そこは妖怪の領域であり、襲われて命を落とす可能性は、里で過ごす時の比ではなかったからだ。
けれども……
――これは、たぶん僕以外はまだ見つけてないよな。
トンネルの向こうに何があるか、草太はすごく気になった。
奥にぼんやりと差している光は、不思議な雰囲気がたっぷりあるし、見たところ、子供の背なら、楽にくぐり抜けられそうである。
――ちょっと行って戻ってくるだけなら。そして、後で三吉達に明かせば。
結局、好奇心を抑えきれず、草太は少し屈んで、その穴に入っていった。
○○○
低い姿勢のまま、枝の張ったトンネルを進んでいると、急に全く知らない場所へと抜け出した。
狭かった空間から、天井がずっと高くなり、左右に森が広がる。息を呑み込んだ草太は、思わず咽せてから、鼻をこすった。
まさにそこは、妖怪の住みそうな森だった
植物の濃い臭いと湿った土の匂いが混ざった、嗅いだことのない強い空気が漂っている。
木々の数も雑木林とは比べものにならない、葉という葉が迫ってくるような密度だ。
地面は苔やシダで覆われていて、ぽつぽつと花が見え、その周囲を蛾が音もなく飛んでいた。
到底人の踏み入る余地がないように思えたが、よく見ると、坂の下でちょろちょろと流れる小川に、倒木で橋がかけられていたり、その奥もどうぞ歩いてくださいという具合に、細い小道ができている。
草太は迷った。
枝葉で小さく切り取られた空を見ると、里長の勘は正しかったらしく、だいぶ天気が悪くなっている。
今日の所は諦めて、戻った方がいい気がする。
と思ったら、
「あ」
道の先に、先ほどの蜘蛛がいた。
そしてやはり、幻のように、すぐに消えていなくなる。
なんだか奥へと誘われている気がして、草太は結局進むことにした。
ただし、何かと遭遇すれば、いつでも逃げ出す心構えをしておきながら。
蝉の合唱がやかましい。歩けば歩くほど、首や腕にまとわりつく湿気の凄さが気になった。
足元の植物も雑木林よりずっと多いため、なかなか進むのに苦労する。
今のところ、虫や鳥以外の生き物には出会わないが、木の陰からいきなり熊が顔を出してもおかしくない獣道だった。
もちろん草太は、熊や猪が出るまで待つつもりはなかったし、来た道を何度も振り向き、足の方向も常に真っ直ぐにはならないのだが。
ところが何故か、帰ろうと思う度に、あの蜘蛛がちょうどよく姿を現すのである。
木の陰にちらり、茂みの側にちらり、地面をさささっと横切ったかと思うと、根の影に生えた青いキノコの上にちょこんと休んでいる。
なんだか虫の隠れん坊に付き合っている気分で、草太は訝しく思いつつも、歩き続けた。
十分ほど歩いて、森の出口が見えた。
長く続いていた木の天井が終わり、灰色の曇り空へと変わる。
森を出た先は、丈の低い草の生えた、広い野原だった。
にわかに、草太の全身に痺れが走った。
「……わぁ」
そこに、凄く――もの凄く大きな樹が、一本たっていた。
いつも見ている里の木が、九つぐらい束ねられて作られたような太い幹だ。
視線を上げると、八方に伸びた枝。それぞれ横方向に歪な形に曲がっており、怪物の手のようである。
その上は、どっさりと葉が生い茂っていて、小さな森を一つ背負っているようにも見えた。
これだけ大きく育つのに、百年か、千年か。その立派な姿に、草太はしばらく圧倒されていた。
――あっ、ひょっとして。
あることに気がつく。
実はこの樹は、里からいつも見ている、妖怪の山の麓にある小山の正体なのではないか。見れば見るほど、その推測に、確信が強まってきた。
それは自分にとって、いや、仲間達にとっても、大発見だった。
これまで、小山だと思っていたのが、実は丘に生えた巨大な樹の上部だったと知ったら、誰もが驚くはずだ。
草太はもっと近くで、その木を見てやろうと思った。
が、その足が止まった。
樹の上に誰かいる。
一番高いところにある冠から突き出た枝に、一人で腰掛けている。
頭には薄黄色の髪の毛を生やしていて、木肌の色にまぎれて見えにくいが、体は茶色である。
鳥にしてはやけに大きい。人間がここにいるのは不自然だ。すると、あれは
――妖怪?
草太はさっと、身を隠した。
じっと動かず、息を殺して、その姿を瞳に映し続ける。
毛に見えたのは髪の毛で、茶色の体は服であることがわかった。
――間違いない。妖怪だ。すげぇ。
草太の心臓が高鳴る。
妖怪を見たのは、はじめてではないけど、実際は、寺子屋の先生だったり、夕日を横切る鴉のような黒い点でしかなかった。
里の外で、それも一人で見る機会など、これまで一度もなかったのだ。
はじめて外で見た妖怪は、金髪の子供のようだった。
空を見上げて、体をわずかに揺らしながら、何かを歌っている。
いつの間にか止んでいた蝉の声と違って、濁りのない少女のような声色だった。
草太は森と草原の境界で、石のように黙したまま、その歌を聴き続けていた。
だが突然。
視界が一瞬、白く染まった。
稲光だ。目がくらんで瞬きすると、頭上で雷鳴が轟いた。
反射的に、耳をふさいでしゃがみこむ。それから、言いつけ通り、片手をお臍に移動した。
草太は目を開けたが、木の上の姿は、動く様子が無い。
また稲光。
今度は音がすぐに来ない。
だが草太はもう、雷など気にしていられなくなった。
視界にある光景が、一部変わっていた。
さっきは別の方向を向いていた顔が、歌を止め、今はこちらを見ていたのだ。
目が合った。妖怪が、自分を見つめている。
そう思った瞬間、雷がかなり近くに落ち、突風が巻き起こった。
「わぁあああああ!!」
草太は背を向けて、大急ぎで逃げ出した。
途中で何度も振り返り、その度に足がもつれた。
枝がちくちく体に刺さるのも気にしてられず、トンネルをくぐり終えると、雑木林を走りぬけ、里へと疾走した。
途中、ぽつりと首筋に何かが当たって、必死でそこをぬぐう。それが雨粒だと分かった時には、すでに夕立になっていた。
○○○
途中で大雨に降られた草太は、家に帰り着く頃には、びしょぬれになっていた。
母ちゃんには「道草くってるからでしょ!」と怒られ、妹のお鶴には「お兄ちゃんぬれねずみー」とからかわれる。
頭にきたので軽く蹴ってやったら、泣かれて、また母ちゃんが飛んできた。
結局、頭にたんこぶを作った状態で、草太は夕飯を食う羽目になった。
「ははは、草太。災難だったな」
「……まぁね」
からかい口調のじいちゃんに、草太は短く返事した。
食卓にはすでに、仕事から帰ってきた父ちゃんもついている。母ちゃんはおひつの側に座っていた。
草太はじいちゃんと、さっき泣かしたばかりの妹の間に座った。
卓に茶碗とお皿が人数分、隙間なく置かれている。今晩のおかずは魚である。
「お母さん、骨とってー」
「はいはい、ちょっと待ってね」
そう言って飯をよそう母ちゃんから、草太は茶碗を受け取った。
しかし胸中では、まださっき見た妖怪の心配をしていたため、どうも胃が動かない。
まさかとは思うが、雨風が戸を叩く度に、あの森からこの家まで追って来たのではないかと、びくりとする。
家族はそんな草太の様子に気がつかず、いつものように食事をしていた。
と、それまで黙って酒を飲んでいた父ちゃんが、おもむろに口を開き、
「弥太郎のところは、だいぶ片づいたみたいだ。明日には田んぼに戻れるだろう」
「まぁ、良かったですね。雨の前に終わって」
「うん。それよりも、風邪の方が心配だ」
「風邪?」
魚の身をほぐす手を止め、草太は父ちゃんに聞いた。
「弥彦のおじちゃん、風邪なの?」
「いんや違う。風邪なのは、あいつのお袋の方だ。それだけじゃなく、能勢の所の息子に桁平の親父、他にも何人か。北里で夏風邪か何かが流行りだしたんじゃないかって、慧音様の所に報告しに行ったそうだ」
「嫌ですねぇ。地震騒ぎだけでもうたくさんなのに」
漬け物を皿に取りながら、母ちゃんは眉をひそめている。
草太の右隣に座っていたじいちゃんが、出し抜けに笑いだした。
「わしゃあ、まだ若ぇ頃に、ちょろちょろ揺れるのは知っとったがな。生きてるうちに、こんなでけぇのに遭うとは思わんかった。さすがに肝のすわった年寄りどもから若いもんまで、みなぶったまげてたな。死ぬ前に婆さんにいい土産話ができた」
「良かったね、じいちゃん」
「これ! 何てこと言うの、あんたは!」
「痛て!?」
当のじいちゃんが喜んでいるのに、何で叩かれるんだろう、と草太は思った。
それからしばらく、話題は里の大人達の仕事の進み具合についてになる。
話が途切れた所を見計らって、草太は隣に話しかけた。
「ねぇ、じいちゃん。じいちゃんは近くで妖怪を見たことある? 慧音先生じゃなくて」
「おおあるとも! なんだ草太、今日何か見たのか」
「見てない見てない! ただ、友達と話してただけだよ」
横目で父の様子に気を配りながら、草太は慌てて首を振る。
「妖怪の話ならとっておきのやつが一つあるぞ。おい、おめぇにも昔、話してやったろ」
「ああ」
と、返事する父ちゃんは、そんなに嬉しそうではない。
じいちゃんは草太の方に向きなおって、箸で拍子を取りながらしゃべりだした。
「草太は、今度で十一になるのか。あれはわしが十三の時だ。オヤジと喧嘩して、夜中に家を飛び出したんだが、その頃、里の西側には、家も少なくてな。月も半分雲に隠れていたし、どうも心細くてしょうがねぇ。それでも家には帰れなかったもんだから、ぶらぶらしてたんだけどよ。いよいよ闇が深くなってきた、と思ったら、周囲が完全に真っ暗になっちまって…………」
「……それで?」
草太が続きを促すと、じいちゃんは両手の指を動かし、低くうなって言った。
「……耳元で声が聞こえてきたんだよ。『食べてもいいの?』ってな」
「きゃー!」
お鶴が悲鳴をあげて耳をふさぎ、母ちゃんに飛びつく。
「おっほほ。怖いかお鶴。まぁおなごだから仕方がねぇや。おい、草太ならどうするよ」
「えっと……とにかく騒いで、逃げてると思う」
草太は自信のない答えを選んだ。
いつもなら強がるところだが、状況は異なれど、先ほどあの妖怪を見たときには、本当に夢中で逃げてしまったので。
だが、じいちゃんはそれを聞いて目を細め、子供に戻ったように嬉しそうに語る。
「ところがわしは違ったんだな。肝がすわってたってことよ。逆に聞き返してやったんだ。『そんなら姿を見せて、先に俺にも腕一つ食わせてみろや。それなら俺も腕一つ差し出してやらぁ。ただし骨ばっかり太くて美味くねぇぞ』」
「じいちゃん、本当にそんなこと言ったの?」
「おう、妖怪を食っちゃいけねぇと教わってはいなかったからな」
ご飯をかっ込みながら、じいちゃんは平然と返してきた。
肝がすわっているということは分からないが、とても草太には真似できそうにない受け答えである。
「するとだな。まさかと思ったが出たんだよ、紛れもなく妖怪だった。一見、金色の髪にリボンをした小さなおなごなんだが、口の裂けてて牙を生やしたやつでな。『僧なのか?』と聞きやがる。そしたらわしは『まさに俺は僧なのだ。俺が真言を唱えりゃあ、お前を退治することなどわけはないぜ』とハッタリをかましたのさ。するとまた、『僧なのか』と言うので、わしは試しにでたらめなお経を、大声で唱えてみてよ。それを妖怪が面白そうに聞いてる間に、自警団の大人共が来て助かったんだ」
草太はご飯を食べるのも忘れて、その武勇伝に聞き入っていた。
じいちゃんの体験は、自分が体験したのよりもずっと恐ろしい話の上に、度胸があるというか無茶な対応で切り抜けているのが凄い。
それに、自分が見た妖怪も、確かに金色の髪の毛だった気がする。
「それが妖怪との初めての出会いさ。いやぁ、あれはぶったまげたな」
「ねぇ、その後妖怪に追われなかった? 見たら死んじゃうとかないの?」
「シャシャシャ! それならおめぇも生まれてねぇぞ草太!」
頭を乱暴に撫でられながら、それもその通りだ、と思って、草太は少し安心した。
「それだけじゃねぇ。最近では、山の近くまで仕事に行ったときに、妖怪の歌を聞いた。姿は見なかったけどな。一緒にいた、若い連中も聞いていた。それに、かなり前に雪女も見たし、里の東の湿地で、金の尻尾をいくつも背負ったえらい美形の妖怪が、何か測量じみたことをしていたのも見たなぁ。里で生きているだけでも、機会はたんとあるんだ。あとはまぁ……」
「……………………」
「……そんなところだ」
最後、じいちゃんは少し言葉を濁して、曖昧にしてしまった。草太は聞かなくても、何を言いかけたのか分かった。
気を取り直したように、じいちゃんは咳をし、話を続ける。
「まぁ、妖怪っていうのはおっかねぇが、それでも人間は奴らから色んなことを学んできた。里にある龍神像だって、あれは元々河童の産物らしいしな。ワシのじいさんの口癖だったがな。妖怪を『畏れて見る』のと『恐れて見ない』のじゃあ、大違いだ。人間を食う悪ぃのもいりゃあ、助けてくれるいい妖怪もいる。俺達とおんなじだ。だから、付き合いを絶やすなってな」
「……そいつは、昔の話だよ、親父」
黙って聞いていた父ちゃんが、お猪口を置きながら、そう言った。
嫌な予感がしたので、草太は急いで茶碗の飯を空にし、少しちゃぶ台からずり下がった。
「なんで話さねぇんだよ。一昨年の夏祭りをよ。親父もあの場にいたんだろ」
「……………………」
「人が里で大人しく縮こまって、滅多にないハレの日を祝ってる所に……舐めやがって、妖怪どもが」
「そりゃおめぇ……この幻想郷は妖怪の天下だ。しょうがねぇってこともあるべ」
「しょうがなくねぇよ!!」
父ちゃんが拳でちゃぶ台を叩いた。
草太もお鶴も母ちゃんも、茶碗と皿を持ち上げていた。
じいちゃんはこぼれた味噌汁に目を向けず、父ちゃんの怒りを正面から受け止めている。
「三度だぞ! 今年じゃねぇ! 今年の夏に入ってだ! そのうちの一人は、片腕を無くした! 里にいながら襲われたのもいたんだ!」
「わかってる。だけどもよ………」
「妖怪は里に必要ねぇ! 次はこっちから攻め立てて、目に物見せてやる! これは自警団の総意だ! もう親父の時代じゃねぇ! 口は出さんでくれ!」
「…………ちっ」
じいちゃんは舌を鳴らしてから、議論しようとせずに、またご飯を食べ始めた。
食卓に、嫌な空気が立ち込める。妖怪の話になると、たまにこういうやり取りがおきるのだ。
話題に出してしまった当の草太は、申し訳ない気持ちになった。
しばらく、何もない場所を睨んでいた父ちゃんが、ふと目を覚ましたように、こちらを見て、
「おう、どうした草。食え」
と、魚をあごで指した。
いらないといえば、また不機嫌になることが分かっていたので、草太は仕方なく、味のしないその魚を頬張った。
○○○
その夜はなかなか寝付けなかった。
初めて、はっきりと妖怪を見た衝撃が、まだ心に強く残っていた。
薄い布団をかぶって目を閉じると、あの時の光景が思い浮かぶ。
天をつくほどの高い木の上で、雨の中歌っていた、あの妖怪の姿を。
寝返りをうちながら、あれこれと想像をめぐらせる。
あいつは人間を食うのか、それとも人間に親切なのか。
里の子供にとって、妖怪は魅力的な怪物である反面、もっとも恐ろしく、忌まわしい存在だった。
妖怪の真似をして脅かす遊びはいっぱいあるし、喧嘩の際に相手をけなす言葉としてもよく使われている。
実際に、里の人間が妖怪に襲われることも、珍しくなく、時には自警団の努力も実らず、子供ですら殺されることもあった。そう言う時は、自然と皆、妖怪の話はしなくなったし、特に一昨年の夏祭りに起きた『あの事件』以来、妖怪を恐れる子供が増えた。
父ちゃんは、自分の子供が妖怪に興味を持ったりなんてしたら、きっと許さないだろう。
大事なお友達が殺されてから、父ちゃんは自警団の仕事を、今まで以上に引き受けるようになった。
里を守ってくれる父ちゃんはかっこいいと思うし、好きだ。でも、妖怪のことを話すときや、自警団の仕事に行く時の父ちゃんは、少し怖かった。
壁を鳴らす雨音が強い。
この雨だと、木登りの練習は当分できない。晴れて木の幹が乾かないと、手を滑らせて落ちる子が出るから。
こんな天気の夜でも、あの妖怪はまだ、あの木の上にいるんだろうか。
じいちゃんは笑っていたけど、本当は今もこの家を探しているのではないか。
草太はじっと、大木の上に座る、その姿に目をこらしていた。
木の上の存在も、ずっとこちらを見ていた。
雷が鳴って、草太は駆けだした。だが、その瞬間、肩を思いっきり掴まれ、無理矢理振り向かされる。
「見ぃたなぁ~」
目の前に金髪の、口が大きく裂けて、牙を伸ばした妖怪『僧なのか』がいた。
「うわぁ!」
草太は薄布団を跳ね上げて、飛び起きた。
間一髪、誇りは守られた――つまり、寝間着は濡れていなかった。
ただの夢だったのだ。隣で寝ている家族達も無事だ。離れた場所からは、じいちゃんのいびきも聞こえてくる。
けど、外の雨を聞いていると、またあの悪夢を見そうな気がして、その晩草太は布団をかぶったまま、朝方近くまでうつうつとする羽目に陥った。
しかし、そんな恐怖も、一夜明けてしまえば薄れてしまい、草太は三日で怖さを忘れてしまった。
夏休みも近づいていたために、そちらの楽しみが勝ってしまったのだ。
そして、里の子供達にとって、もっとも待ち遠しい日がやってきた。
一学期寺子屋、最後の登校日である。
幻想郷年史 第63季 文月 第一週 地上 人間の里 寺子屋
その日の午前唯一の授業は、畳部屋ではなく、床部屋で行われることになった。
整頓された机に空席は無く、椅子に座る子供達は、全員黒板の方を向いている。
日差しとともに増す熱気は、夏に授業が無い理由がよくわかる程度の暑さを、大部屋の中に作り出していた。
窓に張られたガラスを、蝉達の命がけの合唱が叩いており、多少の私語やぼやきは聞こえそうにない。
けれども、教室にいる生徒は皆、彼女の地獄耳と、頭突きの怖さを知っている。
「小花美枝」
「はい」と返事をした女子が教壇へと向かい、頭に四角い帽子を乗せた青銀の髪の女性、上白沢慧音先生から、二言三言の奨励を受けて、戻ってくる。
暑さに加え、休み前の期待と、これまでの成績を返されるという緊張で、教室の空気は煮詰まっていた。
「次、神田草太」
「はい」
草太は返事をして、皆の視線を背中に浴びながら、教壇まで歩き、慧音先生から成績表を受け取った。
「なかなか頑張ったな。特に音楽は優れていた。夏休みの間も、苦手な歴史をしっかり勉強し、怠けないようにしなさい」
「はい先生」
そう返事したものの、すでに草太の頭の中は、遊びの計画でいっぱいだった。
慧音先生には悪いが、南里組の生徒、とくに男子達に、夏休みまで真面目に勉強しようと考えているものなど、一人もいないと思う。
「次、霧雨鉄平」
「うぃーっす」
鉄平が軽いノリで返事をし、草太の次に教壇へと向かう。
すれ違うとき、軽く肘うちを交わしてから、草太は席に戻った。
「返事はきちんと。いい成績だ。相変わらず、みんなからも慕われているようだな。だが、あまり北里の者と喧嘩して、先生を困らせんでくれ」
「先生、弱い者いじめしてんのはあいつら。俺はそれを許せないだけ」
「お前の気持ちはわかる。だが、あまり傷を作ると、親御さんが心配するぞ」
「親は親、俺は俺です」
「鉄平。その親が産み育ててくれなければ、お前は学ぶことも遊ぶこともできなかった」
「わかってます。ちょっと言ってみただけです。すみません」
鉄平は素直に謝り、むっつりとした顔で成績表を受け取って、席へと戻った。
草太にとって、珍しい光景ではない。鉄平は親の話になると不機嫌になる。
悪戯や野良遊びに積極的なのも、ひょっとしたら実家に対する反抗なのではないか、と思うのだが、草太はそれをわざわざ喋ったりはしなかった。
今日の放課後も、きっと鉄平を中心に、皆で遊ぶことになる。まずはどんな遊びにしようか、と考えてるうちに、ついに期待のトリがやってきた。
「最後。山川三吉……三吉? 呼ばれたら返事をしろ」
「あ、はいはい先生。ただいま」
おちゃらけた返事をして、三吉は素早く教壇に向かう。
静かだった大部屋に、くすくすと笑い声が漏れた。
慧音先生は成績表を眺め、切れ長の眉をひそめる。そして、手で顔を押さえて、沈痛な面持ちになった。
「三吉……お前は……もう何を言っても聞かないのはわかっているが、少しは真面目に努力してみてくれんか」
「え? 何のことですか先生」
「この成績のことだ! いくらなんでもあんまりだ! どうして歴史の試験の回答用紙が、お前の場合、四コマ漫画に変わるのだ! 教えてくれ!」
「あ! あれ、なかなか上手かったでしょう先生。家のみんなも褒めてくれましたよ。いいオチが思いつかなくても、先生が最後の場面で頭突きしてくれれば、笑いが取れるんです」
「馬鹿者!」
教室中が爆笑する中、早速三吉は、頭突きを食らった。
慧音先生は一度、半眼で教室を見渡して、生徒達の笑いの渦をおさめる。
そしてまた、せつない表情でため息をつき、
「全く……上の二人は里でもかなりの秀才だったが、お前はどうしてそうなんだろうか。あるいは、私の教育が間違っていたのだろうか」
「いてて……あ、先生。それひどいっす。少年の繊細なハートが傷つきますよ」
「う……すまなかった。確かに、お前にはお前の良さがある。私だってそれは知っているさ。絵はなかなか上手に描けていたしな」
「でしょう!? 大体、兄貴達の少年時代は、どっちも勉強ばっかりで、どうしようもなかったんですよ。俺は医者にはなりません。紙芝居屋とか漫画売りとかになります。兄貴二人は秀才ですけど、俺は天才芸術家なんです! 褒めてください!」
「阿呆! 何が天才芸術家だ! 傷つくハートか、お前が!」
また三吉が頭突きを受けて、教室の笑いは最高潮に達した。
草太もお腹を抱えて笑っていたが、教壇前で凹んでいる少年を馬鹿にするどころか、賞賛する気持ちがあった。
三吉の兄さん達は両方ともお医者さんになり、南里の診療所で働いている凄い人達だけど、真面目で堅物の慧音先生をひょうきんな存在に変えてしまう三男坊も、凄い逸材なような気がする。
成績表を全て返し終えてから、慧音先生は咳払いをした。
「さて、いよいよ明日から夏休みだ。勉学に励み、親の仕事を手伝い、適度に遊んでくれ。それ……」
「わー!!」
「静かに! まだ話は終わってないぞ! それと最近、北里の方で夏風邪のようなものが流行っている。ひょっとすると、南里の方まで流行するかもしれない。外で遊んだ後は、うがい手洗いを、きちんとするように」
「はーい!!」
「それでは、これで一学期の授業を終了する。また二学期に会おう」
「先生、さよーならー!!」
「さようなら。気をつけて帰るんだぞ」
「わー!!」
すぐに男子が我先にと争って、教室の後ろの扉から飛び出していく。もちろん先頭は三吉だった。
草太も慌てて風呂敷に習字道具を包んで、それに続こうとするものの、その前に、ぬっと箒が突き出される。
「神田君! さぼりはだめよ」
「……うげ。もしかして、最後の日も掃除があんの?」
「当然よ。さぼったら、先生が宿題を増やすだって。よかったね」
班長である三つ編みの少女は、にこりともせず言って去り、他に帰ろうとした同班の男子にも注意をしていた。
草太は箒を手に、夏休み最後の日を金曜日にした慧音先生を恨めしく見た。
その先生は、鉄平と話している。
「……先生。お美世はどうしてますか?」
「ああ。近頃は……」
草太は箒で床を掃き続けながらも、耳だけはそちらに向けていた。
なんとなく、聞いてはいけないような気がするものの、出てきた名前が名前だったので。
「草太! 鉄! 遅いぞ!」
その声は、窓の外から首を入れていた三吉のものだった。
「なんだ草太、今日当番か!? そんなのサボって行こうぜ! ……ぎゃ!」
勇ましい女班長が、坊主頭を箒で撃退する。
その光景に目を奪われている間に、鉄平達の話は終わってしまったようだった。
「じゃあな草太。先行ってるぜ」
「うん」
赤毛の少年が颯爽と教室を出て行ってから、草太は教壇で道具をまとめる先生に話しかける。
「ねぇ先生」
「ん?」
「今、お美世の話をしてたんでしょ?」
「ああそうだ。そう言えば、お前とも仲がよかったな」
「今どうしてるんですか?」
「それは鉄平に聞くか、後で私の所に聞きに来なさい。今は掃除の手を休めるな」
ぱこん、と平らな日誌を草太の頭に乗せながら言って、慧音先生は教室の扉に向かう途中、今度は女子の集団と話しはじめた。
草太は下唇を突き出し、お城に行けない三女になった気分で、箒を動かした。
ようやく掃除が終わって、寺子屋を出ると、すかさず草で作った手裏剣が飛んでくる。
その程度の歓迎は予想していたので、草太は慌てず避けた。
「おお! すげぇな草太。お前は忍者か何かか」
「今頃知ったのか? この程度の手裏剣、かわすなんて楽勝だよ」
「へー、木に登れなくても、忍者になれるんだな」
「うるせぇぞ三吉!」
笑って逃げ出す鉄平と三吉に、草太は手裏剣を投げ返した。
だけど、顔はどうしても笑ってしまう。
いよいよ夏休みが、始まったのだ。
○○○
夏休み。それは子供達にとって、口にするだけで気持ちが弾み、初日ともなれば有頂天となる期間である。
田畑を手伝うこともある草太といえど、例外ではない。
単に寺子屋の授業が無いというだけでなく、夏休みの期間には楽しい行事もある。
特に最後の行事の夏祭り。これが今年開催できるという知らせは、子供達の間に、一気に広まっていた。
もちろん、そういった催し物だけではない。夏は子供達に、遊びの道具を、多く提供してくれる。
朝一番の甲虫取り、暑さしのぎの川泳ぎ、鬼ごっこや隠れん坊だって悪くない。何より、遊び疲れた後に飲むサイダー。
三吉と鉄平と共に、下校途中どれから始めようか相談する間も、草太は足が地面についている時間がもったいないくらい、わくわくしていた。
そんな今年の夏休み、草太が一番始めにやったことと言えば、
「何で今日が三日市なんだよ~……」
空っぽの買い物籠を手に、草太は人で一杯の道の真ん中で嘆いた。
遊ぶ約束をして、意気揚々と家に帰ってきた草太の前に現れたのは、お使いを頼む家事の魔王(母ちゃんとも言う)であった。
断ればもちろん、今夜のご飯のおかずが無くなる。不覚にも、今日が三日市の日だということを忘れていたのである。
午前の掃除当番といい、今年の夏休みは、あまり調子のよい滑り出しとはいえないようだった。
草太が今いるのは、中央街道、通称では中通りという。
里を北と南に分ける路で、里でもっとも賑わう通りであり、店も多い。
特に、三日に一度開かれる市では、食べ物や服や道具等、様々なものの売り場で賑わうので、さらに騒がしくなる。
買い物に来た大人で混雑する道を、草太はメモを片手に歩いていた。
「今日は鮎かぁ。大根は重いから、後にするとして……」
草太が中通りで手に入れるのは、北里で獲れた魚や産みたて卵、里の南側の森や妖怪の山の麓の森で手に入るキノコ類、塩やごま、味噌、醤油といった生活に必須の調味料等である。
それだけじゃなく、ここでは外界から入ってきた、珍しい物がいろいろと売られているので、寺子屋から帰る際に寄り道して、歩いて眺めるだけでも楽しい。
お使いに来ても、品さえ揃えば文句は言われず、お駄賃ももらえるのだが、今日の草太は寺子屋の時から、ずっと運が無いのが心配だった。
そして案の定、魚屋さんに着いても、具合がよくなかったわけで、
「鮎、無いんですか?」
「ごめんねぇ、草ちゃん。まだ鮎は入ってないのよ」
母の幼なじみである魚屋のおばちゃんは、困った笑みを浮かべて言った。
「北川が大雨と地震で荒れていてねぇ。今年はヤマメの数も少ないし。鰻も丑の日までに間に合わないとねぇ。南川の方で探しているようだから、今日はこっちの干物で我慢してくれないかしら。そのかわり、おまけはつけておくから」
「あ、でも……」
「わかってる。この紙にきちんと書いてあげるからね」
おばちゃんは、すらすらと買い物用紙の裏に走り書きして、
「はい。お母ちゃんとお鶴ちゃんによろしくね」
「うん、ありがとうございました!」
草太は手に入れた魚を籠に入れ、礼を言って、また別の店に向かう。
今度は干し椎茸に、お醤油。こちらは問題なく買うことができた。
中通りをあらかた回って、残りが大根と茄子、キュウリだけになってから、草太の行き先は南里に移る。
だが、その前に、里の中心部にある、龍神像広場に寄ることにした。
里の大通りが二つ交錯したこの場所は、当然行き交う人々が大勢いて、その内の殆どは、広場に鎮座した立派な龍の頭像に目をやってから歩き去る。
龍神の石像は、目の色によってその日の天気が分かるのだ。白ければ晴れ、青ければ雨、灰色なら曇り、といった具合である。
もっとも、外れることもしばしばあるので、子供がお菓子等を賭ける対象として、よく遊びに利用されているのだが。
草太は近寄って覗いてみた。龍神様の眼は、綺麗な乳白色だった。
――よし。今日はたぶん晴れる。
遊べることを確認した草太は、元気よく走り出した。
次は南里。
父ちゃんは、南里の五番畑と、六番田を受け持っている。それらを同じ組合の人と共同で手入れし、一日おきに自警団の仕事をしていた。
これから行く家は、同じ畑の持ち主であり、草太は自分の家から眼をつぶっても案内できる。
寺子屋に近いこの区画は木の塀でできた、迷路のような道が多いため、鬼ごっこにもよく使われているので尚更だ。
固い土の通りにできた水たまりを避けながら、塀の向こうに見える柿の木を目指してまっすぐ進み、突き当たりを右に行って、次の曲がり角を左に……
「……あれ?」
草太は気になる後ろ姿を見つけた。
大人と手をつないで歩いていた、着物の少女。
向こうの曲がり角に消えようとしている寸前、その横顔が見えた。
「お美世?」
呼んだのか、口に出してみたのか、声は中途半端になって出てきた。
だが、遠くの少女は足を止め、確かにこちらを向いた。そして、草太を見て……
「おい、そこのお前」
急に、どん、と腰を蹴飛ばされる感触があった。
草太は地面に転がりながら、反射的に買い物籠を後ろに大きく振った。
だが、手応えはない。空振った向こうで、「おおっ」とにやけ笑いを浮かべた少年が、身を引っ込めている。
「なんだよ。ちょっと挨拶しただけじゃねーか」
「南里のやつは、ひょろいんじゃねーの?」
草太より体の大きな、少年達が立っていた。
数は五人。薄汚れた服に破れた草鞋、数人は短い竹の棒を武器のように携えている。ここらで見かけない顔だ。
――北里の……!
草太は怒るよりも、驚愕した。
ここは、中央街道よりもかなり南の区画なのに、なぜ彼らがここにいるのだろう。
草太を蹴飛ばしたらしき少年が、薄笑いを浮かべながら、
「あのさ、俺たち、南で遊べる川を探してんの。魚も獲れるところだ。お前、場所知ってるだろ。教えろや」
「……誰がぁ」
草太は立ち上がって、言い返した。
南里の子供とは明らかに違う雰囲気に、呑まれないようにしつつ、
「教えるもんか。北里には川がいっぱいあるじゃないか。魚ならそこで獲ればいい」
「耳の穴詰まってんのか? お前は南里の川を教えればいいんだよ。他は何も聞いちゃいねぇ」
中央にいた、目の細くひょろりとした少年が、そう言って見下ろしてくる。
「俺たちは北里の百鬼団。そして俺は副首領のカカシだ。知ってるか?」
知るもんか、と言い張りたいところだが、北里の百鬼団と聞いて、草太はわずかにひるんだ。
里が四つに分かれているといっても、寺子屋には里の各地から子供が集まるため、草太もあちこちに友人がいる。
ただし、北里の百鬼団と、南里の天狗組だけは別で、二つはまさに犬猿の仲、などと言えばどちらも俺達が犬だと譲らず、竜虎に例えれば竜の名を奪い合うという、まさに憎み合いの関係だった。
だが、百鬼団の悪行は許せるものではない。喧嘩をふっかけてくる程度ならともかく、南里の子供がいじめられたり、恐喝されたりすることは許せない。
それだけではなく、牛泥棒やらボヤ騒ぎ等、あるいは妖怪と密かに通じているとか、退治しただとか、悪い噂だけなら事欠かなかった。
そんな悪名高い百鬼団の中で、このカカシという少年は、南里でも有名であった。
虎の威をかる狐、という諺があるが、彼はまさにその狐だという。実際、糸のように細い目も尖った顎も鋭い耳も、狐を思わせる外見である。
そして彼らの首領は『虎』ということだ。草太も『虎』の方はよく知っていたが、『狐』と会話するのは初めてだった。
「何じろじろ見てんだ。さっさと川まで連れて行け。……いや待て。その籠の中、見せてみろや」
百鬼団の少年達は、いつの間にか草太を取り囲んでいた。
左右は塀。道に人の姿は無い。恐喝の際に使う彼らの手口は巧妙で、一人で歩いている所を尾行し、大人の見ていない所で囲むと聞く。
まさに、今の草太の状況である。
「なんだこれ、お使いか? ひでぇ魚」
籠を覗かれた草太は、かっとなって、そいつに飛びかかった。
だが、あっさり足を引っかけられて転ばされる。
再び嘲笑が頭上から降ってきた。
「また勝手に転びやがった。ミミズみてぇだ」
「お、結構持ってんじゃん。もらっとこうぜ」
地面に落ちた籠の中に、少年の一人が手を入れようとする。
途端、地面に火花が走った。
同時に少年の体が、いきなり吹き飛ばされたかのように、塀に叩きつけられる。
うっ、と唸った別の少年が、また逆の方向に弾かれて、呆然としてた一人の少年にぶつかり、もんどり打って倒れた。
カカシと残った一人は、後ずさりする。
「……南里で勝手な真似されちゃぁ困るな」
草太は自分を救出したその姿を、地面から見上げた。
「鉄平!」
「草太、怪我してねぇか?」
手を貸してくれるその赤毛の少年は、まさしく草太の友人である、天狗組の大将、霧雨鉄平だった。
だが、今朝に見た服と違って、金ボタンのついた黒いチョッキ、上等なズボンのそれは、よそ行きの格好というか、いいとこのお坊ちゃんという感じである。
現れた草太の助っ人を見て、カカシが唾を道に吐く。
「……けっ。霧雨野郎の子分だったのか」
「おっと、誤解すんなよ。俺がこいつの子分なんだ。ま、ミチ婆のアイスの棒が、当たりかどうかで変わるけどな。なぁ草太」
鉄平のでたらめな理屈に、草太は怒るのも忘れて、にやりとしてしまう。
反対に、百鬼団の少年達の顔からは余裕が無くなっており、目はすでに鉄平にしか向いていない。
「鉄平。この前はよくも……文太がてめぇに必ず借りを返すぞ」
「へぇ? どの借りだったか忘れたけど、死ぬまで貸しといてやるよ」
「何強がってんだ! あのとき文太に相撲で吹っ飛ばされたんだよてめぇは!」
「ああ、あれはあいつがあまりにも臭かったんで、ひっくり返ったんだ。その後きっちり顎に食らわせてやったけどな。気ぃ失ったあいつは重かったろう、お前ら。帰りは大変だったようだし」
不敵で豪胆な返答が、なんとも頼もしい。
少年達が怒り狂い、鉄平に向かって来る。
彼は慌てず、腰から短い杖を取り出して強く振ると、ぱん、とまた地面で火花が散った。
「……普段なら使う気はないけど、南里で悪さするんなら話は別だ。食らうと火傷するぜ」
北里の少年達は、明らかに動転し始めた。
彼らを脅かしている正体は、鉄平の『魔法』である。
マッチを使わずに火をつけ、ランプを用いずに明かりを作り、弓矢を使わずに妖怪を撃ち落とす、神秘の力。
人間の里では希少な能力であり、鍛え上げれば妖怪を退治することだってわけはない。
霧雨鉄平の凄いところは、喧嘩が強いだけではなく、まだ十かそこらの子供なのに魔法が使えるところなのであった。
南里の少年の代表は、短い木の棒をサーベルのようにして、これ見よがしにゆらゆらと動かし、
「どうしたカカシ。来ねぇのか。それとも自慢の雑魚共を連れて、北里に帰るか?」
「……おい、鉄平」
カカシが一転、ずる賢そうな笑みを浮かべた。
「お美世が今どうしてるか知ってるか?」
その名が出た途端、鉄平の顔から、表情が消えた。
「今ごろ文太と仲良く、北里の川で遊んでると思うぜ。お前のことなんて、とっくに忘れちまったとよ。ざまぁねぇな」
友人の怒気が膨らむのを、隣に立つ草太は感じた。
そこで、先ほど見た光景を思い出し、カカシに言ってやる。
「やいカカシ! さっき久しぶりに、南里でお美世の姿を見たけどな。お前の言うとおり、文太と仲良く手ぇ繋いで歩いていたよ」
「なっ! おい、本当か!? 草太!」
「嘘じゃないよ鉄平。でも、あの文太はお化粧してるおばさんにしか見えなかったんだけど、ひょっとして、文太はお美世と遊びたくて、オカマになっちゃったのかな? 変な奴だよね」
「ぶっ」
今度は鉄平が、草太の台詞に吹き出す。
北里の少年達の、間抜け面といったらなかった。
「そりゃあ、いいこと聞いた。いくら俺でも、オカマの文太と殴り合う気はないぜ。いいお嫁さんになるといいな、ってよろしくいっといてくれ」
「……………………」
「それと、南里で今度その顔見かけたら容赦しない。ましてや、俺の仲間に手をだしたら、百倍返しだ。覚えとけよ」
「てめぇこそ覚えてろや鉄平。北里の百鬼団を舐めたらどんなことになるか、思い知らせてやるからな……行くぞ」
少年達は、泥のついた頬をぬぐったり、恨めしい目つきで鉄平を見てから去っていく。
帰り際、最後尾の狐目の少年は、草太の方を向き、
「お前の顔も覚えたからな。覚悟しとけよ」
捨て台詞だと分かっていたが、ぞっとしない口調だった。
まぁ北里の縄張りに一人で入り込むほど、草太は愚かではない。
やがて彼らはいなくなり、道には二人だけが残る。
草太は急いで、落ちた籠の中身を確認したが、買ったものはどれも無事だった。
嫌な目にはあったが、この後怒られずには済んだらしい。
「行こうぜ、草太」
鉄平が草太の肩を軽く叩いて言った。
○○○
一悶着を終えた二人は、互いの家に向かって、並んで歩いていた。
鉄平も南里に住むため、途中まで道が同じなのである。
「ありがとな。草太」
「え、何が?」
礼を言うのはこっちのはずだったので、草太は驚いた。
鉄平は歩きながら杖を回し、肩をすくめて、
「挑発だとわかってたのに、つい頭に血が上っちまった。焦ると魔法って使えないんだ。あのままだと、失敗していたかもしれない」
「そっか。前に教えてくれたね」
「魔法を使うんなら、いつだって、ふてぶてしくなきゃいけないってこと。それより……本当に、お美世を見たのか?」
「うん、あれは間違いないよ。僕の顔を見て、一瞬驚いていたし」
「そっか。元気そうだったか?」
「……わかんないや」
「……だよな」
そこで鉄平は明るく笑った。
「いや、でも助かったぜ。この服、喧嘩で汚してたら、いよいよ親父に袋叩きにあうところだったからな」
真っ黒な上着をつまんで、友人は言う。
片方の手には、霧雨の紋入りの箱があった。
「今日、手伝いだったんだ」
「ああ。急にお使い頼まれた。ま、でもお前も同じだったわけだし、おあいこか。龍神様は見てきたか? 午後は晴れらしいぜ」
「僕も見てきた。鉄平も中通りにいたの?」
「いた。稗田さんていう大きなお屋敷の所に、この箱の中身を届けに行ってきたんだよ。お袋は、俺の顔を覚えてもらえ、だって。俺は覚えてなんてないっつーの」
笑い飛ばすその様は、去年の夏に西瓜泥棒を働いた友人と変わらない。どんな服を着ても、やっぱり鉄平は鉄平だった。
南里の悪戯仲間であるし、大人に対しひねくれた態度をとることが多いが、仲間に対しては素直で熱く、曲がっていない。
木登りも泳ぎもうまいし、腕っ節は強い。それでいて小さい子供にも優しいので、南里の少年の間でも、すでに英雄的な存在となっている。
この天狗組の大将が、里でも老舗の大道具店の、大事な跡取り息子なんだから、人は見かけによらないものである。
「鉄平は凄いよなー」
草太はいつものように、そう言った。
「喧嘩は強いし、魔法だってちょっと使えるし、格好いいしさ。それで家は大きいんだから」
三吉や南里の男子、あるいは女子が決まって言う台詞に、乗っかっている自分がいる。だけどそれは、草太の本心全てじゃなかった。
もちろん、鉄平を尊敬しているのは本当だけれど、その凄さに多少嫉妬しているのも同じだった。
ただ憎む気持ちまでは生まれない。先ほどだけじゃなく、鉄平に助けられたのは、一度や二度じゃないのだから。
それだけに、次に鉄平が言った台詞には、意表をつかれた。
「……ここだけの話、俺はお前や三吉が羨ましいよ」
「え?」
鉄平の声には、ほんの少し、弱音が混じっていた。
「だって、親は姉貴じゃなく、俺に店を任せようとしてるし、それだと自警団には、なれないからな」
「やっぱり鉄平は、自警団に入りたいんだ」
「うん」
彼は前を見たまま、うなずく。
自警団は、男の子が憧れる職業の一つである。もっともそれは、四方を妖怪の領域に囲まれる、この人間の里に限られる話らしいのだが。
「どうせ魔法を扱うなら、商売に使うんじゃなくて、妖怪退治に使いたい。そういうのに憧れてるんだ。里を脅かす奴らを、片っ端からたたきのめす、すげぇ奴になりたい。人間を殺す妖怪は許せねぇ。そう思うだろ?」
鉄平の口調は熱い。だが草太も、友人の気持ちがよくわかった。
信じられないことだが、この幻想郷の外の世界では、人間と妖怪が出会うことなど、滅多にないらしい。
だから、人間が食われて死ぬなんてこともない。そのかわり、人間同士が殺し合う、もっと辛い世界もあるんだ、と慧音先生は授業で言っていた。
でも、現実に妖怪に殺されて、親を失う子供がいたり、子供を失う親がいることを考えると、妖怪なんていなくなってしまえばいい、草太はそう思ってしまう。
外の子供達は、どんなことを考えて生きているのだろう。もし博麗の巫女様みたいに、空が飛べるなら、別の国に行って聞いてみたかった。
鉄平の話はまだ続く。
「でも、霧雨家の長男は俺だからな。姉貴が男ならなぁ」
「そ、そうだね」
「俺の子供とか孫とかも、こんなことで悩んだりしなきゃいけないのかなぁ。ちょっと可哀想だと思うんだけど……変なガキかね、俺って」
「いや、そんなことないよ」
草太は何とかうなずいた。
友達がまた階段を上ろうとしている。新たな場所へと進もうとしている。その予兆に気がつき、妙に胸が騒ぐ。
「草太、この後遊べるんだろ?」
「あ……」
「そうか。今日は手伝いの日か。じゃあまた今度だな」
「……うん」
「あばよ」
十字路で軽く別れを告げて、鉄平はその向こうにある、二階建ての大きな木造家屋に走って行く。
威勢のよいその後ろ姿を見ながら、草太はしばらく立っていた。
やがて、家に帰った草太は、買い物籠を母に渡し、急いでお昼を済ませ、お鶴の遊びの催促を適当にあしらって、近くの雑木林へと走った。
なんだか無性に木に登りたくなったのだ。
○○○
挟んでいた足が滑り、伸ばした右手が空を切る。
どしん、と草太は、今日六度目の尻餅をついていた。
「いってー!」
太ももをさすって、恨めしく天を見る。雑木林に立つ木が、昨日と同じく、こちらを見下ろしている。
再び、草太はその大木に挑みかかっていった。本日十度目の挑戦だ。
三吉は妖精を捕まえることを、この夏の目標にしていたが、草太の目標は、一昨年から変わっていない。
すなわち、自力で木に登る、ということであった。
里の子供は男の強さを、四つの項目で競い合う。
かけっこ、相撲、水泳、木登り。
草太はかけっこは普通で、相撲は真ん中より下程度、泳ぎは割と得意であるが、木登りは成功したことすらなかった。
「くっそー、やっぱだめか……」
再び土のついた手をこすり合わせ、草太は根っこに腰を下ろした。
こうして秘密の特訓をしているのには、理由がある。今年の夏に木登りを覚えなければ、間に合わないのだ。
もうすぐ寺子屋を卒業する年が近づいている。そうしたら大人の手伝いで、鉄平達と遊ぶ時間も減ることになる。
それまでに、自力で木に登って、スモモや桑の実を、自分の手でもいで食べてみたい。
何より、鉄平や三吉と同じ場所にたどり着き、みんなと過ごせる残り少ないこの夏を、特別な季節にしたい。
それが草太の願いであり、この夏の目標なのだった。
休憩を終えて、草太はもう一度、木に挑戦しようとすると、
「あれ」
別の木に張り付いている、一匹の虫に気がついた。
よく見るまでもなく、蜘蛛である。それも大きくて、真っ黒で、黄色い斑点のついた奴だ。
例の『飲んだら死ぬぞ池』で、溺れていた種類に間違いなかった。ここら辺にいっぱい棲んでいるのかもしれない。
その瞬間まで忘れていたのに、あの時木の上で見た妖怪を思い出し、草太は嫌な気持ちになった。
「何見てんだよ。あっち行けよ」
文句を言っても、虫に話が通じるわけはない。
追い払おうとしていると、林の別の側から、話し声が近づいてきた。
草太は咄嗟に、木の陰に身を隠す。手伝いだといって別れてしまった、鉄平かその仲間達かと思ったのだ。
が、草を踏み分けて進んでいたのは、予想外の人間達だった。
「いい林だな。ここもいただいちまおうか」
なんと、狐目の少年カカシ他四人。さっき険悪な雰囲気で別れたばかりの、北里の百鬼団だった。
「馬鹿。狙いはあくまで川なんだ。とりあえず探すぞ」
「……けど、また自警団の奴らに言われたら、どうするカカシ」
草太は十メートルほど離れた木の陰から、聞き耳を立てる。
どうやら彼らは、まだ南里で川を探していたらしい。
一人が不安げに言った内容で、草太は容易に彼らの行動を推測できた。
きっとあの後、川の周辺をうろついているところを自警団に見つかり、怒られたのだろう。
南里の草太達とて、見逃してもらえはしない。南の川は、入る場所がきちんと定められているのだ。
カカシが、ふんと鼻を鳴らして、
「遊ぶ場所が無いわけはないんだ。探せば見つかる。だけど、問題は鉄平だ。あの馬鹿力がうろついている限り、南里のシマは奪えねぇ」
「じゃあどうすんだよ」
「まあ聞け。あいつの弱点はわかってんだ。それを上手く利用すれば、必ず俺たちが勝てる。あいつの泣き顔を拝めるぜ」
とんでもない相談をしている。南里を奪う、と聞いて、草太は義憤に身を震わせた。
とはいっても、草太一人では到底敵いそうにないし、見つかっても先ほどのことがある。言ってすんなりと帰ってくれるはずはないし、帰してくれる気もしない。
すぐにでも鉄平に知らせにいきたいが、ここは無謀な挑戦をせず、様子を探ることにした。
だがそこで、近づいていたあの蜘蛛が目に入り、うっ、と喉が震えて、
「おい。今何か声がしなかったか?」
少年の一人が、きょろきょろと見回して言った。
「誰か近くにいるんじゃねぇか。聞かれるとまずいぜ」
「気にしねぇよ。見つかっても、鉄平じゃなければ大丈夫だ。後は、南里の大人じゃなきゃあ……」
「……妖怪じゃねぇか?」
カカシを含む、五人が沈黙した。
「ここってさ、里の境目が近いだろ。もしかして、妖怪が出るんじゃ」
「……馬鹿。そこまで近くねぇ」
「でもこの前に、里で襲われた大人がいたっていうじゃねぇか。確か、夜雀に」
「なんだその『よすずめ』って」
「おっかねぇ妖怪だよ。思わず近づきたくなるような綺麗な歌を歌って、それで人をおびき寄せて食い殺す……」
そこで一人が、遮るように言った。
「待てよ。本当に、声だったのか?」
「いや、鳥かもしれねぇけど……」
「そう言えば俺、さっきそっち側で、何か見た気がした」
全員が、林の奥の方を見る。
折れて倒れた木の他に、汚い色をした池がある。
生き物の姿は無いが、何となく怪しい雰囲気が漂っていた。
「おい、誰か隠れてんのか!」
「……………………」
「いるなら出てこい! 南里の野郎か!?」
「……………………」
「それとも、妖怪か……?」
怯えた声音で問いただすと、
「……ら~ら~ら~♪」
細い歌声が聞こえてきて、五人は震え上がった。
「ほ、ほら! 聞こえるぞ! やっぱり夜雀だよ!」
「耳を塞げ! 殺される!」
怯える仲間を、カカシは叱咤した。
「う、歌が聞こえてきただけで、妖怪と決まったわけじゃねぇ! 女が歌ってるだけかもしれねぇだろ!」
「でも何か、不気味な音色だぜ」
「お、俺、ちょっと確かめてくる」
一人がそう言って進むのを、他の一人が止めた。
「馬鹿! 食い殺されるぞ!」
「でも気になるじゃねぇか! ただの人間かもしれねぇし!」
「それが妖怪の誘いなんだ! 歌に誘われて、のこのこ近づいた奴を食うんだ!」
歌声はまだ続いている。
それほど綺麗な声とは思えなかったが、確かに何がそこにいるのか気になって仕方がなかった。
これが誘いだとしたら、子供の好奇心を利用した凶悪な妖怪である。
「……覗くなら全員だ。五人で見て、何かあれば一斉に逃げるぞ」
結局そういうことになった。
そろりそろりと、おっかなびっくり五人は近づいていって、
覗こうとするその瞬間、歌声が止んだ。
「ぎゃああああああああああああ!」
断末魔を思わせる、尋常じゃない叫びに、
「ぎゃああああああああああああ!!!!!」
五人は一斉に似た叫びを放ちつつ、雑木林から逃げ出した。
○○○
草太は枝葉でできたトンネルを、無我夢中で走っていた。
理由は、妖怪の真似をしていたのがばれそうになったからではない。
正解はさっきの蜘蛛、そして『マムシ』が原因である。
歌っている最中、なぜか木の幹を登ったり降りたりして注意を促す蜘蛛に、下を見てみると、いつの間にか、足下に毒蛇が一匹いたのに気がつき、ため込んでいた緊張が一気に噴出して、絶叫しながら走ることになったのである。
先週通り抜けたトンネルを、恐怖で麻痺した頭を抱えて、草太はでたらめに走っていた。
やがて出口が見え、この前とまた違う、知らない場所に飛び出した。
そこに地面はなかった。
飛び出した勢いのまま、体が宙に投げ出される。
「うわああああ!」
空中を泳ぐように、草太は手足をばたつかせた。
落下の感触が襲ってきて、下に地面が見え、本能的に目を閉じて、身を丸めた。
しかし、予想していた衝撃は、固い地面や石が体を打つ痛みは、ついにこなかった。
そうではなく、何か柔らかい網のようなものにぶつかり、体が逆に浮き上がって、またそこに乗った感触がした。
恐る恐る目を開けてみると、視界が地面に落ちる前で停止している。自分が今空中にいて、網に受け止められたということがわかった。
それは子供達が林で遊ぶときに使うハンモックかと思ったが、太い茶色の綱とは異なっていた。
細い銀の糸を束ねて作られており、一見珍しい毛糸のようだが、指に触れると硬く、それでいて適度な弾力がある。
やがて草太は、自分を受け止めたのが、水平に張られた巨大な蜘蛛の巣であるということに気がついた。
「わわわっ」
起き上がろうとしたがうまくいかない。
とにかくうつ伏せの状態から戻って……靴が見えた。
「……え?」
その巣にいたのは、自分だけではなかった。
全く予想していなかった先客が、存在していることに気がついた。
もしそこで待っていたのが、大きな牙を持った八つ目の巨大蜘蛛だったなら、草太はまた悲鳴をあげるか、心臓を止めていただろう。
だが、違った。それは、巣の上、太い糸の一本に、ちょこんと両足を乗せ、微動だにせずに、こちらを見下ろしている……。
「……あ……」
少女だった。
十歳の自分より、二歳か三歳上くらいの外見であり、すすき色の髪をこげ茶のリボンで、ぼんぼりの形にまとめている。
村娘のような髪型だが、服装は変わっていた。
すらりとした手足と、だぶだぶのエプロンのような茶色いスカートがアンバランスで、黄色いベルト状の紐をいくつも巻きつけているのも、奇抜なデザインだ。
さらに、その肌が不自然なまでに白いことに、草太は驚いた。すでに夏の盛りが近づいているというのに、日焼けの跡すらなく、蝋燭のような白さだ。
口元にはあるか無しかの微笑み。時々、瞬きする以外は、彫刻のように、動く気配がない。
両の瞳も、感情を表現しない、小鳥のような目だった。
全身像を眺めるうちに、草太は思い出した。
あの時、大きな樹の上で見た存在、妖怪だ。
そう気がついて、鳥肌が立った。北里の少年達に見つかることや、マムシに襲われることとは比べものにもならないほど、今の自分は危険な状態にある。
「あ……う……」
寺子屋では慧音先生から、自警団の人たちや父ちゃんからも、実際に妖怪に遭遇したとき、どう対処するかについて厳しく教えられている。
六つの妹だって知っている。
一、落ち着いて後ずさりしろ。
二、襲ってくるなら、ジグザグに逃げろ
三、大人の助けを呼べ。
しかし、いざ実際に目の前に立つと、怖くて逃げ出すこともできない。
助けを呼ぼうにも、ここは里から離れており、人が近くにいるとも思えない。後ずさりしようにも、ここは巣の上だ。
ただ、今のところ妖怪は、こちらを見つめたまま、何も言わず、襲ってくる気配もなかった。
草太は隙を見て、全力で逃げるタイミングを窺う。そろそろと指を動かし、立ち上がろうと別の糸に触れると、
――あ、あれ?
動かない。
見ると、巣の糸が手にべっとりとくっついていた。引き離そうともがくと、今度は逆の手についた。
やはり離れない。さっきはそんな鳥もちのような手応えはなかったのに。
草太は焦りつつ、なおももがく。巣がゆらゆらと大きく揺れた。
「……横糸じゃなくて、縦糸を掴むんよ」
場違いなほど落ち着いた口調に、草太はきょとんとした。
そこで、今しゃべったのが、目の前の妖怪だということに気がついた。
「横糸じゃなくて縦糸。あ、縦と横がわからない?」
彼女はそういって、小さな人差し指を、十字に交錯させる。
草太は言われたとおり、縦に編まれている糸に触れてみた。確かに、粘つく感触はしない。
何とかバランスをとりつつ、えっちらおっちら立ち上がると、その妖怪と目が合う。
その大きな目と対照的な、小さな口が動いた。
「……人間かぁ。久しぶりに見たけど、変わんないもんねぇ」
「へ?」
「ずいぶん騒がしかったけど、妖怪にでも襲われていたの?」
「いえ……その……走ってただけです」
「あ、そう。それで上から落ちてきたの。でも、ここらは変な地形が多いから危ないよ。私が受け止めてあげなかったら、足を折っていたかもしれない」
草太は網の細かい隙間から、改めて下を見てみた。
茂みの中に、尖った岩肌がいくつか見えている。
今度は見上げてみると、落ちてきた崖も、草太の背丈四つ分の高さはあった。
もし、この巣に引っかかっていなければ、確かにひどい怪我を負っていただろう。
つまり、自分はこの妖怪に助けられたということだった。
「あ……ありがとうございました」
一応、感謝の言葉を述べる。
それが意外だったらしく、妖怪は、お、と瞬きして、微笑しなおした。
「ちゃんとお礼が言えるのね。感心、感心」
そう言って、彼女はくるんと背を向ける。
そのまま、ふらつく様子も見せずに、縦糸の上をすたすたと歩き、ぽーんと一間は飛んで、木の枝に乗り移った。
あまりに自然で、なおかつ不自然な動きに、草太はあんぐりと口を開けた。
里の子供に木登りの名人は多いが、あんな軽業見たことがない。
動物なら話は分かるが、猫だって栗鼠だって四足だ。二つ足で、枝の上をふらつかずにスタスタ歩く彼女は、間違いなく妖怪のようである。
しかし、妖怪なら何で、自分を食べずに、助けてくれたのか。
彼女はしゃがんで、木の枝に結ばれていたくも糸を、ちょいと撫でた。
すると、巣全体がたるんでしおれ、草太は地面まで、安全に降りることができた。
同じく木から飛び降りて、音も無く着地した妖怪は、
「じゃあ、気をつけてお帰り」
軽く別れを告げて、森の奥へと歩き出す気配を見せる。
草太はその背に、思わず聞いていた。
「あ、あんた妖怪じゃないの?」
「妖怪さ。ただし、地底から来たんよ」
「地底……」
「……あ」
そこで妖怪は立ち止まり、後ろ髪を揺らして振り向いた。
早足で戻ってきて、草太の鼻先に指を突きつけ、
「あのさ、私とここで会ったこと誰にも、言わないでほしいんだけど」
「はっ?」
「あー……そうか。むしろここで命を取ってあげた方が、後々面倒じゃないかもね」
「いいっ!?」
「でも、食べもしない人間を殺すのは、ちょっとなぁ……」
「だ、誰にも言いません! 絶対絶対言いません! だから殺さないで! 食べないで!」
遭遇してからしばらく経っていたが、ようやく草太は土下座して、その妖怪に命乞いをしていた。
彼女は腕を組んで首をひねりながら、うーん、と悩んでいる。
やっぱり食べよういただきます、なんて言われたらたまらない。
じいちゃんはこの前の話で、どうやって対処してたっけ。えーと、えーと。
「う……腕を食わせろー」
「はい?」
「あ、違った。僧だ。僕は僧なんだぞー!」
「僧……お坊さんってこと?」
「僧なのだー!」
「ってことは、食べると御利益があったりするのかね」
「嘘です! 御利益なんてないです! 食べないで! 堪忍してください!」
また土下座する。やはり、祖父のようにはいかない。
ちらりと見上げると、妖怪は、妹が嫌いなにんじんを残せずにいる時のような、口を軽くへの字にした難しげな表情をしていた。
だがほどなくして、「仕方ない、運が悪かったね」と呟き、こちらに手を向けてくる。
泡を食った草太は、必死で話題をそらすことにした。
「あ、あの樹のところに住んでるんですか!? ほら、すっごくでっかくて、一本だけ立っている――!」
喉に伸びてきた妖怪の手が、途中で止まった。
「おや、何で知ってるの?」
「な、七日前の大雨が降った日に、見たんです」
「七日前……」
「はい。雷がピカッと光って、その時ちょっと目が合って」
「……ああ!」
彼女は、ぽん、と手を鳴らし、弾んだ声で言った。
「そうか! あの時の!」
「覚えてましたか!?」
「うんうん! 思い出した! あはは人間だったんだ! 山犬か猪かと思った! あははは! 可笑しいね!」
「はははは! 可笑しいです!」
「でもそれにしては間抜けで鈍くさい逃げ足だったね、確かに! あははははは!」
「はははは……」
「あははははは!」
「………………」
「あははははは!」
何がそんなにおかしいのか、妖怪は体を折り曲げ、腹を抱えて爆笑している。
こちらを思いっきり馬鹿にした、そうでなければワライタケでも食べたような、見事な笑いっぷりだった。
付き合うように愛想笑いを浮かべていた草太は、だんだん癪に障ってくる。
やがて起きあがった妖怪は、まだくっくっと肩を震わせながら、
「じゃあ、あの樹を探して、ここまでやってきたのかい?」
「う、うん。そう、なのかな」
「なるほどなるほど。ということはひょっとして、あの日、私の使い魔を助けてくれたのも、お前さん?」
「え?」
「ほら、そいつよ」
彼女は木の根元を指差した。そこに、さっき見たあの大きな黒蜘蛛が、じっと動かずにいた。
「あ……そうです。あの時、池で溺れていたから、可哀想だと思って」
「やっぱり。謎が解けてすっきりした。助けてくれてありがとう」
「い、いえ。こちらこそ」
妖怪にお礼を言われて、草太は頭をかいた。
自分の未来に望みが出てきたのを察知し、聞いてみる。
「じゃ、じゃあ。見逃してもらえますか?」
「だめ」
笑顔での即答だった。
「ええっ、だめなの!?」
「割に合ってないもん」
「そんなぁ!」
「私はあんたが怪我しそうなのを助けただけだけど、そいつは命を救ってもらった。だから、まだちょっと借りがある」
「え。あ、そういうこと。よかった……」
「さぁ、何がお望みかな? できることなら叶えてあげよう」
妖怪は踊るような仕草で回り、奇術師のように両腕を広げて言った。
草太は面食らっていたが、とにかく状況を理解する。
「つまり……あの蜘蛛を助けたお礼として、僕の望みを叶えてくれるっていうことだよね」
「私にできることならね。ただし、一つだけでご勘弁。石炭を金貨に変える能力がほしいとか、生首だけで生きられる体が欲しいとか、無茶な願いは却下」
「……全然意味がわからないけど……ええと……じゃあ」
「お? ちょっとお待ち」
草太が思いついたことを言う前に、彼女は蜘蛛の所まで行き、それを手に乗せて独り言を始めた。
「なになに……? ほうほう……。なぁるほど……。あれま……」
「……うへぇ」
なんてこった。草太にはさっぱり聞こえないが、蜘蛛と会話しているらしい。
外見は普通の人間なので、その光景は傍目には、悪趣味な絵物語のようだった。
やがて彼女は納得したようにうなずき、こちらを向く。
「……よし。事情は分かった。ついてきなよ」
「え?」
「あの樹のところに案内してあげるから」
彼女はそう言って、再び森の奥へ歩き出した。
草太は後に続くか迷う。
とりあえず、すぐに殺されるということは無くなったらしいし、なにやらお礼をしてくれるらしいが……。
浦島太郎というお話がある。助けた亀の誘いにのって、竜宮城に行って帰ってくると、おじいさんになってしまうお話である。
幻想郷には海がないので、この場合森ということになるが、向こうに待っている境遇が、乙姫様による歓迎とは限らない。
なにしろ、今草太がいるこの森は、人間が立ち入ることを許されていない危険領域なのである。
「そこで一人でいると、他の妖怪に食われちまうよー」
呼ばれると同時に、頭上でカラスが不気味な声で鳴いた。
結局草太は、その場所から逃げるようにして、慌てて彼女を追った。
○○○
鬱蒼とした森の中を、妖怪は迷い無く、どんどん進んでいく。
草太は不安な気持ちになって、何度も聞いた。
「ねぇ、お礼って何?」
「いいから、いいから」
「どうして僕を連れて行くの?」
「いいから、いいから」
さっきから、それしか言ってくれない。
周囲の風景に見覚えがあることから、この前に見た、あの大きな樹の元へ向かっているのは確からしい。
ただ、そこで何が待ち受けているのだろうか。
まさか、妖怪がたくさんいて、『お昼ご飯を連れてきたよー』とかは……。
そんなぞっとしない結末を考えている内に、蜘蛛の案内で一人迷いながら進んだ時よりもかなり早く、草太はあの野原に来ていた。
五日ぶりに、樹に再会する。
やっぱり、対峙するとうなじの毛が逆立つほど、大きな樹だ。
でも、雷の下で見た時と違い、日の光を浴びる大木は、雄大で優しい雰囲気があった。
微風が起こす葉っぱのざわめきに混じって、鳥の歌が流れている様子は、これが楽園の守り神であると言われても信じたくなってくるほどのものだ。
しかし、幹の部分は楽園どころか、まさに怪獣だった。でたらめに太いだけでなく、緑色の苔がびっしり生えていて、要するにすごい迫力だった。枝の凄さも相変わらずだ。木の葉っぱも小山の様。そして、この前じっくり見る暇の無かった根にいたっては、一つ一つが人間の胴ほどもあり、伸び放題に伸びて、まるでお化けのようである。
「ほら、こっちにおいでよー。えーと……」
その幹の前で小さく手招きしていた妖怪は、あれ、と首をかしげて、
「……そういえば、名前を聞いてなかったね」
「あ、僕は草太」
返事しつつ、木の根につまずきそうになりながら、草太は彼女の元まで行く。
陽の光に不足しない野原と違って、樹木の下はほの暗かった。
「太い草って書いて、草太」
「太い草? それなら、太草(ふとくさ)さんじゃないの?」
「違う! 草太(そうた)! 神田草太!」
「そう。私はヤマメだよ」
「……ヤマメ?」
その名前に、草太も首をかしげた。
「ヤマメって……魚のことだよね」
「おいおい人間君、私が魚に見えますかい」
「魚というか、むしろ人間に見えるんだけど」
「ふぅん。子供は正直だね。何の妖怪か当ててごらんよ」
「えーと、ひょっとして、蜘蛛……」
「ご名答! 私は地底からきた土蜘蛛、黒谷ヤマメでござい。以後お見知りおきを」
草太は、やっぱり、と納得した。
あの巣で受け止められてから、なんとなくそんな気はしていた。
でもその姿は、いつも見かける蜘蛛とはだいぶ違うというか、むしろ外見はやっぱり人間に近い。
考えてみれば、慧音先生も怪物のような姿はしていないので、妖怪とはこういうものなんだろうか。
現実の蜘蛛も、こんな女の子の姿だったら、嫌われたりしないだろうに。
いや……それが家の中を這い回っていたり、軒下に巣を張っていたりしたら、やっぱり不気味だ。
草太は変な想像を頭の中から消して、とりあえず、土蜘蛛の妖怪ヤマメ、とだけ覚えた。
彼女はぽんぽん、と樹に触れている。
間近で見ると、幹の太さはますます凄く感じられる。ぐるぐる回って追いかけっこしても面白そうである。
そういえば、里に昔、大きなクスノキがあったと、大人が話していたけど、この樹もクスノキなのかもしれない。
ひだの多い木肌は、ぷぅんと鼻につき、家の箪笥と同じ臭いがした。
「あの、ヤマメさん」
「ヤマメでいいよ」
「……さっきから聞いてるけど、ヤマメは何でここまで僕を連れてきたの?」
「そりゃあ、この樹があるからよ」
ヤマメはそう言って、横に一歩移動し、「どうぞ」と手を傾けた。
「登りゃんせ」
「え」
と言ったきり、草太は絶句した。
妖怪ヤマメは、当然のように告げる。
「登りな、っていってんのよ。樹があったら、普通は木登りじゃない」
「…………」
「ほら、遠慮しないで」
草太は重い首を動かして、見上げた。
頭上はいくつもの梢が重なり合って、緑の天井ができている。
樹の表面には、いくつか洞や瘤が見えるものの、一番低い枝でも、草太の身長の倍以上の高さがある。
普通の木にすら登るのに苦労している子供にとって、これは途方も無い難題に思えた。
「登らないの?」
「……登るよ」
草太はぞんざいな口調で言って、苔のついていない部分、幹の木肌に手をかけた。
思ったより、ひんやりした手触りだ。
上の方に瘤ができているのを見つけ、ジャンプして、それに手をかけてみる。
右腕が急激に引っ張られ、すぐに離してしまい、指先がじわじわと痺れた。
後ろにいるはずの妖怪は、何も言わない。
草太は振り向かずに、もう一度、今度は別の、もう少し高いところにある瘤に手をかけた。左手は先ほどの瘤に。
伸びた両腕を曲げようとするが、上手くいかない。両足が宙を泳ぐ。
「靴、脱いだ方がいいんじゃない?」
ヤマメにそういわれて、草太は思いだし、また手を離した。
きまり悪さを覚えながら、靴を脱ぎ、靴下も脱いでそこにいれる。
そしてもう一度、挑戦した。
上下の瘤に手をかけてから、片足を低い出っ張りにかける。
ひとまず、落下は免れている状態であり、腕にかかる負担も減っていた。
だがここからどう動けばいいか分からなかった。
諦めて降りたくなったが、さすがに、三度もみっともない姿を見せるのには、ためらいがある。
どうしよう、どうしよう、とヤモリのように樹にへばりついたまま、頭の中が真っ白になり……結局また、降りるはめになった。
「……………………」
「……あのさ、ヤマメ」
「どうやら本当に、木登りが苦手らしい」
「な、なんで知ってるんだよ」
「見ればわかる。それに、さっきあいつから聞いたよ。だから私が、教えてあげようっていうんじゃないか」
あいつ、というのが、先ほどの蜘蛛のことだと分かった。
そういえばあの蜘蛛には、雑木林で木登りを練習していた姿を見られている。
ようやく草太は、ヤマメの言うお礼というのが何なのかを知った。
「じゃあ……もしかして……! ヤマメが木登りを教えてくれるの!?」
「そう。私黒谷ヤマメが、手取り足取り優しく教えてあげましょう」
「わ、ありがとう!」
草太にとって、これは願ってもない条件だった。
ここで練習するなら、南里にせよ北里にせよ邪魔は入らないし、気づかれずに練習して、見返すことだってできる。
草太は大きく頭を下げた。
「お願いします」
「うん。じゃあまずは、今みたいにその瘤に手をかけて、足をそこに引っ掛けてごらん」
「はい!」
草太は元気に返事し、言われたとおり、木にへばりついて、先ほどと同じ体勢になった。
「次に、息を大きく吸い込んで」
「…………?」
不思議に思いながらも、草太は息を吸った。
と、お尻に手が当てられる感触があった。
瞬間。
「じゃーんぷ」
間抜けな掛け声がして、動きようがなかった体から、重みが消えた。
むしろ重力が逆転していた。
下からすごい力で、一気に押し上げられたと気づいたときには、
草太の体は三メートルほど浮き上がっていた。
「……どわぁああああああ!?」
咄嗟に右手を、目の前の幹にあった洞に突っ込む。
体が落ちていく前に、左手も突っ込む。
柔らかい木屑の感触、と思った後には、ぐわんと全体重が両腕にかかった。
「お、落ちるー!」
「右下、右下ー。そこに瘤があるよ」
草太は宙ぶらりんになったまま、下から聞こえてくる指示に従い、右足で何とかそれを探り当てて、親指からそこにかける。
腕を軋ませていた重みが、今度はふくらはぎに移った。
首を動かして、下を見る。眩暈がしそうになった。
高い。
一気に、さっき自分が落ちそうになった、崖ほどの高さに達していた。
落ちれば間違いなく骨折、打ち所が悪ければ死ぬかもしれない。
「頑張れ頑張れ。ここまでもう少しだよ」
いつの間にか、右上の太い木の枝から、ヤマメがしゃがんでこちらを見下ろしていた。
にこにこしたあどけない表情だったが、草太にはそれが笑う鬼に見えた。
たまらず、非難する。
「嘘つきー! どこが優しく教えてくれるんだよー!」
「何言ってんの。火事場の馬鹿力、って知らない? 追い詰められたら、できないこともできるようになるもんよ」
「ぐぐぎぎ」
「落ち着いて探ってごらんよ。近くにちゃんと足場があるでしょ」
言われて、草太は首をひねって、幹を探った。
枝と自分の間には、瘤が二つと洞が一つ。
ここで不安定な体勢で落ちるよりも、その枝まで登る方が、近いし安全なような気がする……ぎりぎりな心境の中、そこまで頭が回った。
「うょっ……とっ」
体を斜めにずらし、左手と右足で支える準備を作って、木の洞から右手を取り出す。
首を伸ばして、手を振ると、瘤に指が当たり、それを握りこむ。
次は慎重に、右足から左足へと下の支えを移動しなければならない。
股の間を隙間なくぴったりつけ、両手で補助しつつ、右足を左足で踏むように、位置を入れ替えた。
「うぐ……」
次はさらに上にある洞に右手を伸ばす必要がある。
跳んで失敗してはかなわないので、右足でちょいちょいと足場を探る。
上の妖怪はしゃがんで、蟻の巣を観察する子供のような顔で、こちらの様子を何も言わずに見つめていた。
草太は頭上への意識を振り払い、神経を足に集中させる。
ようやく、少し低いところに、手頃な洞を探り当てた。
そこに足を差し入れ、体をまた移動させて、枝に一歩分近づいた。
同じ作業をもう一度繰り返すと、ついに太枝に右手が届く位置まで来た。
「おお、もう少し。後は気合いだ、根性だ」
「…………」
妖怪の生ぬるい声援に、筋肉が弛緩しかけたが、両手両足全てが支えにあったので、体が揺れるだけにとどまった。
そのまま、呼吸五つ分休憩した後、草太は最後の行程に取りかかった。
右手を瘤から離し、太枝の表面に触れる。指をぴったりとくっつけ、掌がつくまで体を伸ばす。
右足の洞に、左足も差し込んだ。右手が全部と左手が少し枝を捕まえて、餌に手を伸ばす猫のように体が伸び、やがて斜線状態となった。
その時である。
支えていたはずの両足が、洞から滑った。
「だぁ!?」
体が一気に移動し、両手が太枝に絡まった状態で、草太はぶら下がっていた。
今度こそ、足に支えはない。がくん、と両腕が伸び、顔が苦痛にゆがんだ。
「た、助けて! ヤマメ!」
「そこまで行ったんだから、後は自力で登れるって」
「ぬなーっ!?」
「大丈夫、大丈夫。片足を上げて引っかければいい。歯を食いしばって、両腕を曲げるんだ」
「その前に落ちるってばー!」
「落ちない! 命がけで登ってこい!」
「ううううう!!」
「登れ! おっかさんを悲しませるな! 怪物が口を広げているぞ! あ、下に針の山が!?」
「く……ぎいいいいい!」
無茶苦茶な応援に、草太は体の奥底から、無理やり力をひねり出した。
喉が出したことのないような声を絞る。
鰹節に歯形をつける勢いで、歯を食いしばって腕を曲げ、懸垂の要領で体を持ち上げる。
普段使ってない腰の筋肉まで総動員し、草太はようやく、片足を枝に引っかけた。
次に逆の足。そのままゆっくり回転し、慎重に体を乗せていく。
最後になって、全身を枝にゆだねることのできる段階に達した。
その時、ついに草太は、自力で死の淵から生還し、木登りを達成していた。
○○○
太枝に達したのは、ほんの序の口だった。
さらなるスパルタにより、登りの三倍時間をかけて、草太は自力で樹から下りるはめになった。
木登りは登るよりも、無事に下りる方が難しいのだという。
草太はその意味を痛感したが、今度は何とか、手伝い無しでやり遂げることができた。
「ふへー……」
地面に降り、目を閉じて、太い幹に体を預けたまま、呼吸を整える。
ほんの短い距離なのに、全速力で走ったかのように、心臓の音が鼓膜まで届いていた。
手の皮が剥けて血が出てることに、いまさらながら気づく。それほどがむしゃらだった。
「お疲れ様」
「……………………」
「木登りを覚えた感想は?」
「……死ぬかと思った」
多少の恨みもこめて、草太は呟いた。
「もっと上まで登ってみればよかったのに。見晴らしがよくて最高だよ?」
「人間は高いところから落ちたら死ぬんだよ」
「あらら、それはお気の毒に」
顔を横に向けると、木にもたれかかっていたヤマメが、両眉を持ち上げて、さほど残念そうでもない笑みで見下ろしていた。
けど草太はもう、十分な達成感に包まれていた。体に残る疲労も、心地よい。
ついに木登りができたのだ。最初だけ手伝ってもらったけど、最後は自分の力で生還した。
次はきっと、もっと上手くやれる。やった。ついにみんなと同じ場所に来たのだ。
妖怪が、夕焼けに変わっていた西の空を見ながら言った。
「そろそろ帰った方がいいね。この辺も夜になると、色んなやつがうろつくから」
「色んなやつって……妖怪のことだよね」
「狼も熊も出るよ。ま、ちゃんとさっきの出口まで送ってあげるから、心配しなさんな」
「よかった。ありがとう」
草太は礼を言って立ち上がる。
木登りの最中は無茶苦茶だと思ったけど、意外にいい奴じゃないか、と思った。
だが、ヤマメの話は、まだ続いていた。
「……一つ約束がある。私のことは、絶対に誰にも言わないこと。聞かれても誤魔化し通すこと」
「う、うん」
「もし誰かにしゃべったりしたら……」
「しゃべったりしたら?」
「どこまでも追いかけて……」
「お、追いかけて?」
「ふむ……それよりいいこと思いついた。ちょっと手をお貸し」
「え? わ」
承諾する前に、草太は左手を引っ張られた。
彼女はその周囲で、両手の指を高速で動かし始めた。
「何してるの?」
「いいからいいから」
ヤマメは、謎めいた笑みを浮かべて、あっちこっちに指を動かしている。
目を凝らしてみると、時折夕日を浴びて、その空間が光った。
最後に彼女が、きゅっ、と宙をつまんでを引っ張る仕草をすると、手首が締め付けられる感触がした。
「ほい、できた」
そこに、紋様が描かれた、細い銀の腕飾りが完成していた。
「わぁ……すごい」
草太は手を上に伸ばして、夕日にそれを当ててみた。
半透明であまり目立たない腕飾りが光を浴びて、宝石の粒が編みこまれているような輝きを放つ。
「綺麗だ……これ、僕にくれるの?」
「もちろん」
「やった! ありがとう! みんなに見せてやろうっと」
「そうしたら、あんたは死ぬことになる」
「は?」
聞こえた不吉な二文字に、草太は耳を疑った。
「死ぬ?」
「そう。私のこと誰かにしゃべったりしたら、その糸がきつーくきつーく締まって……」
「し、締まって?」
「締まって締まって……手首からポトリと」
「ぎゃあああああ!!」
草太は悲鳴を上げて、すぐにその輪を指で引き剥がそうとした。
が、ヤマメに止められる。
「あ、無理に取ろうとしても同じことよ」
「なっ、なっ、なっ、何すんだよ! いらないよこんなの!」
「こうしておかなきゃ、子供はすぐにべらべら喋るだろうからね。それはちょっと私に都合が悪い。我慢しなさい」
「ひでぇ……この妖怪!」
「妖怪だもん」
「……うっう」
草太は泣きたくなった。やっぱり浦島太郎だ。玉手箱だ。
木登りを覚える代わりに、こんなものを身に着けさせられることになるとは。あまりにも代償が酷かった。
しゃがみこむ草太の肩に、ヤマメが手を置く。
「何も一生そのままってわけじゃないよ。そのうち外れるから」
「ぐすっ……そのうち……っていつ?」
「私が地底に帰るくらいだとして……二ヶ月かな」
「ってことは、夏休みいっぱい!?」
拷問に近い。
それまで一言でも口に出してしまえば、手首が締まって死んでしまうのか。
両親や友人に聞かれても、追求されても、秘密を守り通さなくてはならないのである。
そんな緊迫した夏は嫌だ。
「その代わり、ここにはいつでも来てもいいよ。林の入り口まで、迎えに行ってあげるから」
「……いらないやい……うぅ……」
「ふーん、でも妖怪と遊べる機会なんて、なかなかないよ、人間君?」
「……あ、そうか!」
確かに凄い。
今も普通に会話してるけど、この相手は間違いなく妖怪なのだ。
見た、見ないで自慢している奴らよりも、妖精を捕まえようと意気込んでいる三吉よりも、草太はよっぽど進んでいるのである。
これは木登りができるようになった以上の収穫である。誰かに自慢しなくては気がすまない。
……けど、
「話したら死んじゃうんだ! あー! なんてこったー!」
「いいよー。でも話しちゃっても、外しちゃっても、命の保障はできないけどね。にひひ」
「最悪だ! この人でなし! 鬼!」
「鬼じゃなくて土蜘蛛。まぁ一つよろしくってことで」
「くぅ……」
草太はがっくりとうなだれ、地面に膝をついた。
やっぱり、妖怪になんてついて行くんじゃなかった。
後悔先に立たず、十歳にしてその意味を、草太は痛感した。
幻想郷年史 第63季 文月 第二週 地上 人間の里
「まぁ、よくあることだ。俺も去年の春に、腕折ってから、気をつけるようにしてんだけど」
田んぼの横を行く道中、さっきから三吉は指を立てながら、説教じみた口調でしゃべっている。
「木登りは、覚えたはじめが一番危ないんだ。俺がちゃんと見ていない時にやるから、そういうことになる。反省しろよ草太」
「……うん」
「でも、その怪我が治ったら、もう木登りで遊べるってことだよな。鉄平にも知らせてやんねぇと」
相づちをうつ唯一の聞き手は、草太である。その左手首には、包帯が巻かれていた。
妖怪と会った秘密を隠すために、草太は手首をくじいたことにして、包帯で透明な腕飾りを隠すことにしたのだった。
三日前のあの日、実際に腕はくじかなかったものの、満身創痍というには大げさだが、草太は生まれて初めての苦痛を味わった。
まずは筋肉痛。腕から足、腰の中まで、鉛が蠢くような痛みが襲うのだ。あの状態なら、自慢にならないが、妹と相撲をとっても負ける自信があった。
そうしたら、じいちゃんが、筋肉痛は風呂で揉みほぐして治すんだ、と薪で風呂を沸かしてくれたが、今度は熱い湯が血豆と擦り傷にしみた。
浴槽の中で涙をこらえながら、木登りはしばらくごめんだと思ったが、それ以上に妖怪とはもう関わり合いになりたくなかった。
しかし、たとえ顔を合わせなくても、この夏はこの腕飾りがある限り、命を脅かされているという現実を意識せずにはいられないのだ。
土蜘蛛の黒谷ヤマメとかいう、あの性悪妖怪のせいで。
「……あー! 思い出しても腹が立つー!」
「どうしたよ、なんか機嫌が悪いな」
「そうだ三吉! お前の兄さん達、妖怪に詳しいよね」
「いやいや草太、もう俺だってそれなりに詳しいぜ。まあ、まだ間近で見たこと無いけどな」
「土蜘蛛って妖怪聞いてない?」
「土蜘蛛?」
と、意外そうに聞き返してから、三吉は腕を組んだ。
「ある……確か物凄くヤバい妖怪だったような」
「ええ? そんなにヤバいの?」
「鬼と天狗、そして土蜘蛛はあまりに強力な種族だったんで、そのうち二つは地底に追い払われて……あれ? 違ったかな。結界がどうのこうので、自分達から潜ったんだっけ。えーと…………わかんね。忘れちった。兄貴達に後で聞いてみようかな」
「いや、いいよ。ありがとう」
礼を言う草太は、内心で暗澹たる気持ちになった。
鬼や天狗のような大妖怪は、草太だって知ってる。何しろ少年団の名前につけられているくらいだから。
が、まさかあの土蜘蛛とやらが、それと肩を並べる種族だとは思いもしない。
とんでもない奴と約束してしまった。
「とにかく、ミチ婆んとこに行こうぜ。遊べるうちに遊ばないと、夏休みは損だろ」
「うん! そうだそうだ、その通りだ! 行くぞ三吉!」
「お、元気になったな」
やけくそではあったが、実際三吉の言ってることは間違ってはいなかった。
大人の手伝いをするようになれば、夏休みだって遊んでいられないし、過去にうじゃうじゃと繁茂する雑草を刈るために、寺子屋を休まされて田んぼへ送り出されたことは、一度や二度ではない。
そうして稼いだお駄賃は、いつも今から向かう駄菓子屋で消えていた。
サイダー、ラムネ、水あめ、さとうきび。奮発して、アイスクリームや糖蜜をかけたカキ氷。一日一つ選んでも、終わらないのが夏休み。
駄菓子屋は、里の子供達にとって、そんな心躍る時間と甘味の欲求を同時に満たす、憩いの場であった。
田んぼの中にぽつんと一軒立つのは、南里の子供達なら知らぬ者はない、ミチ婆の駄菓子屋である。
草太と三吉がつくと、すでに南里の遊び仲間が三人たむろしていた。
「よー、お前らー。妖精見なかったか?」
「見ねー。まだ諦めてねぇのか、三吉」
ラムネを飲んでいた忠士が返事する。
長い虫取り網を担いでいた弥彦が、草太の腕を見て、
「あれ、草太。怪我したの?」
「うん、ちょっと」
草太が説明する前に、三吉が鼻をこすって、自慢げに言った。
「聞いて驚け。草太は木登りができるようになったんだぜ」
三人は怪訝な顔をして、互いを見てから、
「……あーそうか。まだできなかったんだ。よかったな」
「うん」
「この前、うちの弟もできるようになったよ」
「そ、そう」
「あ、俺の従妹も」
「…………」
多少の期待とは違い、皆の反応はいまいちであった。
考えてみれば、草太の木登りに関する苦労を知っているのは、三吉と鉄平だけである。
「それよりも凄いんだぜ! 忠士が妖怪を見たんだよ!」
人一倍元気な栗雄の台詞に、草太は飛び上がりそうになり、思わず左手を押さえた。
三吉が、「ええ! 本当かよ!」興奮気味に問う。
忠士はまんざらでもない顔つきで、
「それだけじゃねーよ。まあ聞け。この前の夕方、里の外れを歩いていたら……」
「そ、それ、西の雑木林?」
「違う、寺子屋の近くだ。兄貴と一緒に、親戚の家に泊まりに行った帰りだよ」
となると、あの土蜘蛛のことではないらしい。
「寺子屋の近くに、おんぼろ屋敷があるだろ。あそこの屋根の上に、でっかい蝙蝠みたいなのがいてさ」
「蝙蝠だったんじゃねーのか?」
「傘だったんだよ! 化け傘だ! うらめしや~って近づいてきたけど、兄貴が石を投げたら逃げてった。無茶苦茶怖い妖怪だったけど、退治してやったってことだよ」
「からかさに会ったのか! 畜生羨ましいなぁ。なぁ、草太」
「まぁ……そうだね」
草太はあいまいにうなずいた。
正直なところ、石を投げただけで逃げたというなら、ずいぶんスケールの小さい妖怪な気がする。
じいちゃんの怪談にあった「僧なのか」とか、自分の会った土蜘蛛とかの話を知っているだけに、余計にそう思った。
だがその反応が、栗雄達には気に入らなかったらしい。
「なんだよ反応が悪いな」
「わかった。お前、木登りができるようになったことが、あんまし話題にならなくて、悔しいんだろ」
「そんなことないよ。うん、凄い。よかったな忠士」
「……わざとらしいな。登れるようになったって言ったって、たいした木じゃないだろ。試しにあそこに立ってるのに登ってみ」
「あー、お前ら、だめ。草太は手を怪我してんだから」
「なーんだ。つまんねーの」
「あはは、ごめん」
草太は作り笑いの裏で、地団駄を踏んで悔しがった。
本当は、今すぐこの包帯を引き剥がして、「妖怪を見ただけじゃなく、会って話したんだぜ! これ妖怪からもらったんだぜ! 今この瞬間も脅されてるんだぜ! びびるほどすげぇだろ!」と自慢してやりたいが、その瞬間手首から先が吹っ飛んでいくかもしれないことを考えると、歯を食いしばってこらえるしかなかった。
それによく考えてみると、三吉やこいつらにはともかく、鉄平とかに知られれば、羨ましい反応があるとは思えない。
里の子供は、妖怪を見たがるものよりも、恐れて話をするのも嫌う者の方が多い。
たとえば今も虫取り網を持った弥彦が、青い顔をして聞いていたり……、
「お、おいみんな、落ち着いて聞けよ」
弥彦は妖怪の話題が終わっても、青い顔のままだった。
「なんだよ、変な顔して」
「そ、そこの水桶なんだけど」
それは、サイダーなどの飲み物を冷やしておくための、桶だった。
だが、それを見た子供達は、一様に息を呑んだ。
そこから、赤ん坊のような小さな足が、一本、水面から突き出ていた。
サイダーやラムネの瓶の口が出ているのに混じって、にょっきりと足が出ているのである。
あまりに異様な光景に、皆はしばらく沈黙していた。
「な、なんだろこれ」
「わかんねぇ。溺れてんのかな」
「……し、死んでんじゃねぇの。さっきはこんなの無かったのに」
「いや、あれ」
よく見ると、端から竹の筒が出ていた。
それを通して、水桶の中の存在は、呼吸しているようである。
三吉が、勇気を振り絞ったらしく、その桶に近づいて、そうっとその足の裏を、くすぐった。
途端、ざぶん、と水が跳ねた。
「ぷはぁ!! 誰よ! あたいの足をくすぐる奴は!」
キンキン頭に響く甲高い声音だった。
小さな子供のような外見、ただし、髪は水色で、氷のような六つの羽を背負っている。
全身を水で濡らして、こちらを睨んで見上げているそれは、
「あれ? あんた達、あたいと隠れん坊してたっけ」
「……よ」
「よ?」
「妖精だぁあああああああ!!」
三吉が絶叫して、虫取り網を弥彦から引ったくり、その妖精の頭にかぶせようとした。
だが、一瞬早く妖精は、それをかわし、慌てて逃げ出した。
「なにすんのよー!」
「待てぇええええ!!」
猛スピードで逃げる妖精を追っかけて、三吉は虫取り網を振り回しながら去っていく。
残りの面子は、しばし唖然としていたが、やがて我に返り、
「お、俺の虫取り網!」
「見たか!? あれ妖精だぞ! あんなでかいの、里にも出るのか!? 初めて見た!」
「三吉に渡すか! 草太も来いよ!」
子供達が三人、負けじと駆け出していく。
「あ、みんな待てよ!」
「だぁれぇ?」
草太が走り出す寸前、駄菓子屋の奥から、おばあさんが顔を出した。
「あ……ミチ婆! 妖精! 妖精がその桶に入ってたんだよ!」
「あぁ~、またかい」
「また? ……前にもいたの!?」
「あぁ~」
駄菓子屋の女主人、ミチ婆はしわだらけの顔を、ほころばせた。
「この前も、そこで隠れん坊しとったからねぇ。里の若い衆が捕まえようとして、顔中霜焼けになって帰ってきたよ。嫌なことしなければ、隠れるだけで悪さはせんし、その桶の水も冷やしてくれるし、慧音様に知らせんでもええと思ってねぇ」
「はぁ……」
お年寄り特有のゆっくりした会話に、草太の興奮はどんどんしぼんでいく。
「昔は、ああいう風に、仕事を手伝ってくれる妖怪もいたんだけどねぇ~」
「ミチ婆も妖怪を知ってるの?」
「知っとるよぉ。私も、あんたぐらい小さい頃に、そこの竹林で迷って、案内してくれた兎がいてねぇ。今はどうしてるかねぇ」
ミチ婆は手をこすりあわせて、空を拝みながら、
「私が今幸せなのも、その妖怪のおかげなんよぉ。妖怪に感謝ぁ、感謝ぁ」
「……………………」
どうも里の大人とミチ婆の感覚は、異なっているようだった。
そういえば、じいちゃんも言っていた。昔は、妖怪から教わることも、いっぱいあったって。
……待てよ。
と、草太は、手首に巻かれた包帯に目を落とした。
この腕飾りのせいで閉塞感に満ちていた夏を、有意義に過ごす方法を、今考えついたのだ。
現在の草太は、妖怪に無理矢理関係を結ばされている。だがそれを、逆に利用してやるというのはどうだろう。
例えば……さっき仲間に馬鹿にされた時は、かなり悔しかった。
登ったのはどうせ大した木じゃない、か。なら里の誰も登ったことのないような、大した木に登ってやろうじゃないか。
心当たりはちゃんとあるのだ。
「……ミチ婆、サイダーちょうだい」
「はいよ。よく冷えてるよ。一本三十円~」
「ううん。二本ちょうだい」
草太は稼いだお小遣いから、六十円を出した。
○○○
サイダーを二つ手に入れた草太は、それを振らないようにゆっくり走り、雑木林から例の秘密の入り口を通って、妖怪の森へと出た。
相変わらず湿度は高いし、この前よりも暑いので、人間にとって快適な場所とは言えない。
しかし、もう一度あの妖怪に会って交渉するためには、まずここに来なくてはならないのである。
サイダー瓶で頬を冷やし、草太は森に入らず、辺りを見回した。
入り口で迎えに来てあげる、とか言ってたような気もするが、今のところ彼女の姿はない。
「……うーん、やっぱり、妖怪なんて信用しちゃいけないってことかな」
口にした直後、上からにゅーっと何かが降ってきた。
「ばぁ」
「うわぁ!!」
いきなり上下逆さまになった少女が現れて、草太は腰を抜かした。
木の枝から太い糸に吊られて、左右に揺れているのは、先日会った妖怪、黒谷ヤマメだった。
「あれ、それ何? お酒? その若さでやるねぇ」
ヤマメは逆さまになったまま、尻餅をついた草太の腰のものに注目している。
心拍数の上がった胸を押さえ、草太は呼吸を整えてから、
「こ、これはサイダー。お酒じゃないけど、飲み物」
「わかった、私へのお土産だね。なかなか気が利いてるじゃない」
くるんと反転して、ヤマメは地面に下りてきた。
「こんにちは。しばらく反応が無かったから、もう来ないのかと思ったよ。それじゃあ人間一名様ご案内……」
「待った! その前に、言いたいことがある!」
草太は頭に描いていた計画を進めることにした。
立ち上がって、腕を組み、できるだけ厳しい顔をする。
ヤマメは首をかしげた。機嫌の悪くなった飼い猫を見るような目で、
「何? その腕輪を外してほしい、っていうのは駄目よ」
「そのことだよ! これじゃいくらなんでも不公平だ! ヤマメはあの木でのんびりしてればいいかもしれないけど、こっちはこの腕のやつのせいで毎日心配しなきゃいけないんだぞ!」
「不公平じゃないよ。こっちだって、あんたに居場所をばらしているっていうのは、ものすごく危険な橋を渡ってるってことなんだもの」
「どこが危険な橋なんだよ」
「だって、あんたがドジ踏んで人間にバレたら面倒だし、ぎゃーぎゃー騒いで地上の妖怪に見つかっても危ないし、せっかくの地上旅行が台無しになっちゃうのさ」
「地上旅行……」
言われて草太は思い出した。
「そっか。ヤマメって地底から来てたって言ってたね。でもそれが、なんで危ないの?」
「……はぁ」
ヤマメが失望したかのように、大きくため息をついた。
さらに、草太の方を、馬鹿にした目で見ながら、
「あんた……草太だっけ。ひょっとして、妖怪がみんな仲良しこよしだと思ってたりしない?」
「みんなそう思ってるけど……ってことは違うんだ」
「当たり前じゃないの。本来妖怪は、縄張りをきちんと分け合って個々に暮らすものなんだ。集団で生活して社会を営むのは、河童とか天狗とか鬼とか、そういった同一の種族だけなの」
「へー」
新しい知識である。
なにしろ、妖怪が悪い、妖怪は恐ろしい、妖怪は危険だ、とだけ大人たちから習っているので、妖怪同士の関係など気にしたことがなかった。
「じゃあ、ヤマメって他の妖怪と、仲が悪いってこと?」
「悪いどころじゃない。地底には友達がいるけど、地上の妖怪は別。あいつらは例外なく地底の妖怪を忌み嫌っている」
「ふーん」
「そして今私は地上に来ている。それも無許可でね」
「えっ。っていうことは……」
「試しにあんたの一番嫌いな奴を思い浮かべてごらん」
言われて草太は、すぐにこの前に会った北里の連中、カカシ達の顔が思い浮かんだ。
「そいつが内緒で、あんたの家の屋根裏に入り込んで暮しているとしたらどうする?」
「うわっ、気持ち悪ぃ!」
「そう思うってことは、地上の妖怪の気持ちが分かったようね」
「ヤマメそんなことしてたの!? それは怒られるのは当然だよ!」
「いいんよ。私だってあいつらが嫌いだし。出し抜いていると思うと、胸がスカッとするもの。ふふーん」
ヤマメは水浴びでもするかのような爽やかな顔で、さも気持ちよさそうに言った。
「それに、なんだかあいつら、最近様子がおかしくて、いつまで経っても私の気配に気づかない。私の隠行が凄いのか、あいつらが間抜けなのか。ま、おかげで有意義な毎日だけどね」
「ふーん……あれ?」
草太はそこで、あることに気がついた。
「ヤマメ……それってもしかして、僕に全然関係ない話じゃないの?」
「あ、バレた」
「バレたじゃないよ! いつの間にか僕は、ヤマメの共犯者ってことじゃないか! しかも地上の妖怪相手の!」
「そうさ相棒! こうなった以上、私達は一蓮托生、運命共同体だ。互いを裏切ることなく、悪の道を突き進み、明日をかっ飛ばそうぜベイビー!」
「やっぱり不公平だー!!」
草太は頭を抱えて叫んだ。
空を指差しながらこちらの肩を組んでいた妖怪は、首を振って、
「まぁ確かに、人間の子供にはちょっと酷な人生かもしれないね」
「そうだよ!」
「でもそれが人生さね」
「なんだそりゃ!? 納得できるか!」
「じゃあ草太はどうしたいのよ。さっきの口ぶりだと、腕飾りを外してくれっていうより、別のことを頼もうとしていたみたいだけど」
ぐっ、と言葉に詰まって、草太は希望を伝えることにした。
「……木登り」
「お?」
「あの樹のてっぺんまで登りたいから、手伝って」
「なんだ、そんなことでいいの。お安い御用よ」
「ただし! この前みたいな無茶な特訓じゃなくて! 今度は全面的に協力してくれることを要求する!」
「全面的に協力?」
「樹から落ちそうになったら、すぐに助けてくれること。途中で緊急事態にあったら、手を貸してくれること。というか、その糸で常に引っ張って、命綱にしてくれること! この三つを守れ!」
「うわ面倒! なにそれ!? 私ゃあんた専用の助っ人か、正義のヒーロー!?」
「そうだ! それが契約だ! じゃないと、ここで叫んで妖怪を呼ぶぞ! ここに地底の妖怪がいまーす、悪い土蜘蛛の妖怪でーすって!」
「ほほう……」
ヤマメが怖い顔になった。童女の見た目に似合わぬ迫力で、草太を睨みつけてくる。
「いい度胸してるじゃない。私を脅そうって言うのかい? あんただって呼んだそいつに食われちゃうんだよ」
「ところがどっこい。たぶん地上の妖怪さんは、里でよく見る人間よりも、大っ嫌いな上に地上まで乗り込んできた地底妖怪を倒すことを優先すると思うな」
「なっ!?」
「それに、そいつが勝ったら、この腕飾りの呪いも解けるだろ。これって、一石二鳥、っていうんだっけ」
「なんていう悪知恵! これだから子供ってやつは侮れないんだ! おのれ!」
「へへん、どうだまいったか!」
「さすがは私が悪の道に誘っただけある! それでこそ我が相棒にふさわしい! よくできました!」
「なんでだ!?」
また肩を組んで空を指差す土蜘蛛を、草太は引き剥がした。
彼女は、あはははは、と朗らかに笑って、
「ま、冗談はさておき、それくらいなら協力してあげてもいいよ」
「当たり前だよ。そうじゃなきゃ、こんな夏休みひどすぎる。絶対やだ」
「実はね、一人であの木の上で過ごしてばかりじゃ退屈でね。ちょうど話し相手が欲しかったんだ。あんたが来てくれたら、こっちとしてもありがたいってわけ」
「う、やっぱり不公平な気がしてきた」
「気のせい気のせい、ほらさっさと行こう」
ヤマメは鼻歌交じりに歩き出した。
あまり納得がいかなかったが、結局頼みを引き受けてくれるようなので、草太もおとなしくついて行くことにする。
ただ、相変わらず、彼女の見た目も仕草も、普通の人間と変わらないので、調子が狂いっぱなしだったが。
――こんなこと、他のみんなに話したって信じないよね。
草太は仲間の顔を思い浮かべつつ、また妖怪に案内されて、あの樹の元へ向かった。
○○○
空を飛ぶのは人間には難しい。ただし、魔法の心得がある者なら、特製の箒などの補助道具を使って、実践することも可能である。
そんなわけで、飛行魔法というか非行魔法を使い、半ば脱走するような形で『霧雨店』を飛び出した鉄平は、おなじみの駄菓子屋に来ていた。
南里の仲間が三人、いや四人たむろしている。いつものように片手を上げ、一声かける。
「遅れて参上ー、元気してたかー」
「あ、鉄平! 三吉、鉄平が来たぞ!」
栗雄がしゃがんでいた三吉らしき姿の肩を叩いている。
他の二人も、その姿を取り囲んでいた。
やがて、「ぐ~」と坊主頭が上がり、鉄平はぎょっとした。
「三吉。どうしたんだその顔」
「……ひでぇ目にあった」
真っ赤になった顔をしわくちゃにして、顎から水を垂らしていた三吉は、呻き声を発した。
彼の足元には洗面器、しかも湯気が立っている。この暑い夏にお湯で顔を洗っていたらしい。
弥彦がこの妙な状況の説明をした。
「三吉が駄菓子屋に来ていた妖精を捕まえようとしたんだ。そうしたら失敗してこうなった」
「妖精? 本当に妖精だったのか?」
「当たり前だろ! じゃなきゃ、俺がこんな顔になるか! ……自分じゃ見えないけど」
霜焼けになっていた顔を、三吉はぶるぶる震わせる。
「うう、あれは兄貴が言ってた、氷精ってやつに違いない。上手く捕まえれば、かき氷食い放題だったのに……今度は絶対に捕まえてやる」
「ばーか。氷漬けになっても、助けてやんねぇぞ。ミチ婆、サイダー一つ」
「はいよぉ」
返事を確認して、小銭を受け皿に置いた鉄平は、氷のたくさん浮いた水桶から、瓶を一つ取り出した。
いつもより冷えている。むしろ冷えすぎていた気がしたが、構わず蓋をひねる。
一口飲むと、頭痛が走るほどの刺激があった。
「あいたたたた、冷たすぎるぜ、これ!」
「その桶に妖精が入ってたんだよ」
「これなら確かに、かき氷も食い放題だな。今度魔法で捕まえてみるかな……なんて冗談だよ。あれ、草太はいねぇの?」
「ん、そう言えば、さっきまでいたんだけど……帰ったのかな」
今気付いたかのように、弥彦がその姿を探す。
三吉がラムネを一つ買いながら言った。
「そうだ鉄。あいつ、木登りができるようになったんだぜ」
「木登り!? 草太が!? へー! ついにできるようになったのか!」
「んなに、大事件か? 忠士が妖怪見た方が大事件だろ」
「え? 忠士、妖怪を見たのか」
「ああ、見たぜ。この前の夕方、里の外れで……」
「そうか。食われなくてよかったな」
手柄を披露する前にぴしゃりと言われて、忠士は口を開けたまま止まった。
「その後、ちゃんと自警団の人達に知らせたのか?」
「いや……まだ……」
「じゃあその妖怪はまだ里にいて、人を襲おうと隠れてるかもしれないんだな?」
「いや、今思うとそんな危ないやつじゃなかったようなー、わ、わかった。ちゃんと知らせておく」
しどろもどろの説明に、鉄平はまだ納得していない。
妖怪を里で見かけるということが、どれほど危険なことなのか知っているのだ。
三吉が空気を変えるように言った。
「もう俺は妖精を捕まえるのはやめた! 目標はイワナを釣る! 北里の連中のところに、明け方こっそり忍び込んで」
「あ、それ面白い。俺も混ぜろや」
「鉄はどうだ? いや、言わなくてもわかる。ついに北里のやつらと決着をつけるんだな! さすが鉄!」
「勝手に決めんなよ。あいつらと殴りあうよりも、お前らと遊ぶ夏休みにしてぇよ。でもまぁ……」
鉄平が日焼けした顔を、ニヤリとゆがめ、腰にはめていた杖を回して見せた。
「北里の連中が、こっちの縄張りに入ってくんなら、容赦しないけどな」
「さっすがぁ」
全員が感心し、南里の大将をはやし立てた。
「じゃあ今から、天狗組の縄張りを、みんなで見回りしようぜ。南川とか、雑木林とか」
「草太ももしかしたら雑木林で、また木登りしてるのかもな」
「じゃあ、日が暮れる前に、様子を見に行ってやるか。高いやつに登って降りてこられなくて、困ってるかもしれねぇから」
南里の少年達は、そんな想像に大笑いした。
その頃、かの少年が、まさにそんな状況に陥っているとは知らずに。
○○○
「ひゃあ!?」
手足を滑らせた少年は、悲鳴を漏らし、幹からずり落ちた。
地上からは約十メートル。獲物を見つけた重力は、支えを無くした子供の体を、あっという間に大地へと引き寄せようとする。
「わぁあああああ!!」
今度こそ、本物の悲鳴を上げた胴体が、がくん、と宙で止まった。
体に複雑に結ばれた銀の糸が、ぴん、と直線となって空に伸びている。
その先から声が降ってきた。
「一回死んだねー」
「……………」
草太は宙づりになったまま、激しい動悸に少なくなった酸素を求めて、しばらく何も言えずに口を動かした。
体勢を戻し、再び幹に張り付いて、ようやく喋る元気が戻る。
「ほ、本当に死んだかと思った」
「何言ってんのよ。あんたは死んだんだ。今私が持ち上げてるのは、きっと幽霊だね。あー軽い」
「怖いこと言うなよ!」
草太は上に向かって怒鳴った。
そこでは土蜘蛛のヤマメが、枝に腰掛けて、くつろいでいる。
右手には、太いクモ糸がしっかり握られており、その先はこちらの胴体に、命綱として結ばれていた。
草太は両手を瘤に手をかけた状態で、木登りを再開せずに、停止する。
ここまで順調だったはずなのだが、今足を踏み外してから、急に体が動かなくなってしまった。
綱が無ければ、間違いなく死んでいる高さだったため、これまでに無い恐怖を覚えたのだ。
子供の自分が死ぬ、そんな夢みたいな話が、いきなり現実のすぐ側まで近づいた瞬間だった。
登るまでは、命綱まで要求したのは情けなかったかと思ったが、途中まで登って下を見てから、すでにそんな考えは吹っ飛んでいる。
そして今、死ぬ寸前の経験をしたことで、ますますその選択が正しかったと思った。
一方、ヤマメは全く気にしていないようである。
「さっさと上がってこないと、またお日様が沈んじゃうよ」
「そんなこと言ったって……」
「だらしないねぇ。それでも股の間に、ふぐりが付いてんの?」
「ふっ……!?」
とんでもない台詞を口にする妖怪に、草太の頬が熱くなった。
「何赤くなってんのよ。女の子じゃあるまいし」
「ば、馬鹿にしてらぁ! ヤマメの方こそついてねーじゃねぇか!」
「おや、確かめてみるかい、坊や?」
「…………いや、いいです」
草太はその挑発に、一転青い顔で断った。
そこに『ある』にしろ、『ない』にしろ、妖怪の、ましてや蜘蛛のなんて、考えただけで身の毛がよだつ。
流し目を送っていたヤマメは、また愉快そうに笑い声をあげて、枝の間を渡り始めた。
糸にぶら下がって勢いよく移動したり、ひょい、ひょい、と命綱無しで跳んでみたり、側転してみたり、枝を逆上がりで回ってみたり。
怖がるどころか楽しんでいる。それこそ忍者みたいな動きだ。天地も高さも関係なし。実は彼女こそ、体重が無いんじゃないかと考えてしまう。
「ヤマメー。ちゃんと命綱持ってる?」
「持ってる持ってる」
「……ってこら! 指でつまむな!」
「そんなおっかない顔してないで、樹の声を聞いてごらんよ」
「樹の声……」
「そう、樹の声さ」
「……………………」
「聞こえた?」
「聞こえるわけないだろ! 適当なこと言うな! 樹が喋るか!」
「あーらら、まだガキンチョなんだねぇ、草太は」
ヤマメはそう言って、わざとらしく木肌に耳を当てて目を閉じ、
「ほうほう。草太君は子供ですなぁ、と同意しているよ」
「…………くっそー!」
怒りで恐怖心が消え去り、草太はやけっぱちで、また力を入れて登り始めた。
ヤマメはまた、別の木の枝に腰掛け、足を揺らしながら、
「そうだ。大枝一つに登るたびに副賞として、面白い話をしてあげよう。質問でも構わないよん」
「……うぃしょ。畜生……そんなんじゃ……くっ……やる気にならないよ」
「あらら。じゃあやっぱり見てみたい?」
「うわわ、落ちる! 登ってる間は喋るな、気が散るから! 妖怪ってみんなそんなにふざけてんのか!?」
「それは妖怪それぞれ」
馬鹿馬鹿しい会話をする内に、ようやく二つめの太枝に手がかかった。
とりあえず、それにまたがって、草太は一休みする。
ヤマメの待つ場所まで、大枝は二つあった。
これまで制覇したのも二つ。あと半分と少し。何とか行けるかもしれない。
「あらおめでとう。それじゃあ、何を話してほしいかしら」
「なんで……地底の妖怪と地上の妖怪の仲が悪いの?」
「それが質問? 人間のくせにおかしなことを聞くねぇ」
言いながら、ヤマメは上の大枝から飛び降りた。
ぎくりとする行動だが、その足からはちゃんと、糸が伸びている。
枝にまたがる草太の前で、彼女は左右に揺れながら、
「まぁ仲が悪いっていうかーーー、この地上の幻想郷が住みづらくなってねーーー、数十年前にーー、博麗大結界っていうのができてからーー、いろいろと規則ができたしー、妖怪は増えたしー。それまでの生き方を選びたい妖怪が、鬼も含めて、みんな地下に潜っちゃったんだよ」
「数十年前……」
「そうよ。私はその前からずっと、地底に住んでた変わり者だけどね。あの時は色々と大変だったねぇ」
「……ええっ!? じゃあ、ヤマメって何歳なの!?」
「いけないねぇ僕。レディに歳を聞いちゃあ」
「で、でも、その時子供だったとしても、少なくとも数十歳……」
「若く見られると評判です」
そうだ。
妖怪は歳をとったりしないと、聞いたことがある。
いや、本当の姿を隠している、だっけ。慧音先生の授業で習ったはずだが、忘れてしまった。
今日のために、もっとちゃんと学んでおけばよかった。
「じゃあ、ヤマメはいつ地上にやってきたの?」
「それが知りたければ、どうぞ、次の枝へ」
ヤマメは再び、糸に沿って上昇していく。
草太も木登りを再開するために、枝にまたがった状態で幹まで下がり、
「……しまった。逆向きで進むんだった」
鉄平達が昔話していた、木登りのルールを忘れていた。
結局、地上十五メートルの高さから、体の向きを変えるという危険を冒して、また幹にしがみつく。
上で命綱がしっかり確保されていることを視認し、草太はまた登り始めた。
(基本は三つで体を支えるんだ)
昨年の夏の、鉄平の言葉を思い出す。
(両手、両足のうち、三つ。出っ張りがあるなら、腹や尻を乗せて補助にしてもいい。慣れれば二つでも支えられるけど、危いから、早く三つ目を探せ。支えが一つになったら、落ちることも考えなきゃだめだぜ)
今になって、その助言が役に立っていた。もっとも、ここからまともに落ちることがあれば、二度とこの世で木登りはできないだろう。
三つ目の太枝に到着した時は、すでに半時は経っているように思えた。
極力、下を見ないようにしながら、一息つく。
「ぷはぁ……」
「はーい。それじゃあ、次の質問は何かなー?」
「ヤマメはいつここに来たの?」
「二週間前」
「なんで?」
「それは、次の枝までお預け」
「え!? ちょっとケチくさくないか!?」
「そう思うんなら、次の質問もちゃんと考えておく事ね」
くそ、と草太は毒づいて、枝から体を持ち上げ、今度はちゃんと前向きに幹へと移動する。
が、
「あ、動かない方がいいよ。背中に虻が止まってるから。刺されると痛いよ」
「虻!?」
草太は動きを止めて、うっかり下を見てしまった。
そして、叫んだ。
「ひぃいいいい!!」
夢中で登っていて気づいていなかったが、すでに尋常じゃない高さに達していた。
これは里の物見櫓ほどの高さがあるのではないか。つまり約二十五メートル。
黒い運動靴はもう、木の根の隙間に、豆粒ほどにしか見えない。
「あ、ごめん。よく見ると、虻じゃなかった」
「おいこら!」
「スズメバチでした」
「ぎゃー!?」
「そう言えば、この裏に巣があったね。忘れてた」
ぶーん、という羽音が耳の側を通り過ぎ、草太は泣き叫びたくなった。
「下ろせー! こんなとこ登ってたら、絶対に死ぬー!」
「あら、降参するの?」
「……誰がするか! ちくしょー!」
草太は命をかけて意地を張り、また樹に挑戦した。
葉の茂った大枝は、魔王が腕を広げて、さぁ、かかってこい、と構えているように見える。
その周囲で、小動物のような敏捷さで跳び回っている使い魔に、草太は闘志を燃やしながら挑み進む。
次の大枝についたときには、へとへとになっていた。だが、怒りは消えていない。
「質問だ! どうやったら妖怪を退治できるんだ!」
「あはは、それそれ。分かりやすい質問ね。私を退治するつもり?」
「できるならね!」
「まぁ、大抵の傷はすぐに治っちゃうし、首を落とされて封じでもされない限り、肉体の傷はそれほど辛くないよ」
「じゃあ、どうやって?」
「それはもちろん、精神攻撃」
「……ブス! デブ!」
「そんな子供の悪口程度じゃだめさね。言霊を使うなら、もっと魂のこもった一撃じゃないと」
「そんなのわかんないよ!」
「私だって知らない。教えるつもりもないし~」
「この妖怪野郎!」
「妖怪娘でーす」
にこやかに手を振る妖怪は、この世でもっとも恨めしい存在に思えた。
あれを退治してぎゃふんと言わせることができるなら、夏休みいっぱい手伝いで潰すどころか、妹と収穫祭でダンスをしてやってもいい。
この命綱を思いっきり引っ張ったら、地面に真っ逆さまに落ちていくのではないかと考えたが、そこは何とか踏みとどまった。
「……ヤマメの鬼ババァ。ヤマメのあほんだら」
結局、頭の中で唱え続けている悪態の山は、同じ場所にたどり着くまで我慢しなくてはいけないということになる。
すでに、想像の中では、妖怪の一匹や二匹、呪い殺せるまでに増えているような気がしていたが。
ただ、上に進むにつれて、木登りのコツもだんだんわかってきた。
木登りは頭じゃなくて、背骨で考えるんだ、と誰かが言っていたのを思い出した。たぶんこれは、三吉の兄さんだ。
理解できた。四肢に常に気を配りながら、どうやって体を持ち上げていくかを、落ちかねない恐怖心と戦いながら考えるのは難しい。
コツは体でつかむということなのだろう。
次の枝まで、背丈三つほど。
一手一手、一歩一歩に長い時間をかける。体の張りは限界に来ていたが、ゴールはもうすぐだ。
そしてついに、最後の枝に手をかけ、体を引っ張り上げる。
「登った……ぞ……!?」
その瞬間、草太の目に、思いがけない光景が飛び込んできた。
「あれは……」
気を取られていると、大風が吹いてバランスを崩し、本当に落ちそうになった。
悲鳴をあげる寸前、振り回した手が、がしっと強い力で握られ、引っ張られる。
ヤマメの手だった。
「お疲れ様。でも詰めが甘いね」
「……………………」
「そんなにびっくりした?」
「……うん」
草太はうなずいた。クスノキのてっぺんから見る光景に心を奪われた状態で。
森が眼下に沈んでいた。鬱蒼と生えていた木々は、足の下で緑の樹海に変わり、時折吹く風に波を作っている。
その向こうに、霧がかった湖や、向日葵の群生地など、噂でしか聞いたことがない場所も、はっきりと見えた。
けど、一番驚いた場所は他でもない。
「里が……見える」
「何言ってんのよ、あの里に住んでるんでしょうが?」
「うん……だけど」
今草太が見ているのは、ほとんどの人間が知らない、里の一面に違いない。
なぜなら、それは上から……『空から』見た姿だから。
印象と違うために、最初、全く別の集落なのかと思ったが、よく見ると、あの物見櫓も、田んぼの並びも、知っている形だった。
それは、地面にいる限り決して目にすることのない、それこそ、空を飛ぶことを許された博麗の巫女様くらいしか知らない、人間じゃなく妖怪の知る風景だった。
東の山々まで続く幻想郷の広さを、何かに遮られることなく、この樹の上から一望できる。誰にも邪魔されない、開けた世界と、草太は向き合っていた。
それでも、鳶はもっと上を飛んでいる。吸い込まれるような夏の空に浮かんだ、大きな横雲の横で。
「なんか……雲の色まで違う気がする」
「本当に毎日違う空だし、見ていて飽きないんだよねー。こればっかりは、地底じゃ楽しめない。……ほら、立ってないでお座り。喉が渇いたでしょ?」
ヤマメは枝と枝の境目に足を置いた。
いつの間にか、編み目の細かい巣が、そこに張られている。
乗ってみると、意外にしっかりした足場になっており、座ってみても、ふかふかした手触りで、荒縄のハンモックよりも快適だった。
「これ、あの時受け止めてくれたやつだね。今一瞬で張ったの?」
「一瞬じゃ、ここまで編めない。ほら。これくらいの玉にして、携帯しているのさ。後は私の妖力に反応して、一気に広がるようになってる、通称『キャプチャーウェブ』」
「へー……あ、サイダーは」
「そうそう。これ、どうやって飲むのか教えてよ」
ヤマメが薄緑色の瓶を二つ取り出した。
草太はそれを一つ受け取り、勝利の笑みを浮かべる。
ついに念願の、樹の上でサイダーを飲むという目標が果たせるのだ。それもこんな高い樹の上で。
里の仲間は誰も味わうことのできない、自分だけの特権である。
もう一人、側にいた妖怪に、草太はサイダーの開け方を説明し始めた。
「簡単だよ。この口が蓋になってるから、ここを手で絞って……」
と、草太がパキリと実演してみると、
「わっ、わっ、わっ?」
白い泡がシュワーとあふれ出す。
慌てて草太は口をつけ、泡を飲み干してから、文句を言った。
「ヤマメ! これ振っただろ!? サイダーは振っちゃだめなの!」
「あれ、そういう飲み物なんじゃないの?」
「炭酸が無くなっちゃうだろ!」
「どれどれ」
ヤマメもサイダーの蓋をひねった。
シューッ、と漏れた泡を、おっとっと、と吸い込む。
そして、瓶を傾けて、喉を動かし、
「ん……」
「あれ……美味しくなかった?」
「いや、でも、これは……美味いね」
「振ってなければ、もっと刺激があって美味しいんだけど」
「いいじゃん。あの雲を飲んでるみたいで、気持ちよかったよ」
手についた白い泡を舐めて、あっけらかんという妖怪に、毒気が抜かれてしまう。
草太はもう一度、気の抜けたサイダーを飲んでみた。
やっぱり、いつも飲んでるのよりも、刺激が物足りない気がする。でも、こんな美味いサイダーは、これまで飲んだことがない気もした。
高さに慣れてくると、クスノキのてっぺんは、ヤマメの言ったとおり、想像以上に快適だった。
強い日差しは木の葉で防がれ、風は適度に冷えていて涼しく、眺めは最高ときている。
里から幾筋か、白い煙が上がっているのを見ると、何か食べるものも持ってくればよかった、と思った。
「鳴かず飛ばずの時鳥~♪ すすきの流れに枯れ果てぬ~♪」
ヤマメも高所に吹く涼風に、上機嫌で歌っている。
最初に見かけた、あの曇りの日に聞いたメロディーだ。
「……なかずとばずのほととぎす~♪」
「お、上手い上手い」
「そう?」
「あんたの木登りよりはね」
「うるせいやい」
草太は言い返したが、顔では笑ってしまった。
もう一つ、樹の上で楽しむことができるのは、ヤマメに対して心の底で抱き続けていた警戒心が、ほんの少し薄れていたからかもしれない。
昔、一度行った鉄平の家で、犬のシロを撫でさせてもらったときを思い出す。白いからシロなのだが、実際は泥遊びで時々黒くなって、見分けまでつかなくなる大きくて愉快な犬だ。それまで犬に吼えられてばかりで怖かったのだが、初めて触れた白は柔らかくて温かかった。それから、犬は怖いものではなくなった。
でも、犬と一緒にしたらヤマメは怒るだろう、きっと。
なので、言った。
「ヤマメって、犬のシロに似てる」
「……犬~?」
期待通りというべきか、ヤマメは歌うのを止めて、野良犬が唸るような声を出した。
「失礼だね。取り消しなよ。私ゃ犬が嫌いなんだ」
「え? そうなの?」
「嫌いも嫌い。何でか知らないけど、大嫌い。それなのに犬呼ばわりするとは……」
「ご、ごめんなさい。見た目が似てるんじゃなくて、思ったよりも怖くないってことだけど」
「ああ、そういう意味。草太は妖怪と会ったことはなかったんだね」
「会ったことあるよ。慧音先生っていうんだけど……」
「誰?」
「寺子屋の先生。見た目は人間なんだけど、頭の固さが妖怪並で……」
そう言って、宿題を忘れた時の罰について、教えてあげると、ヤマメはケラケラと笑った。
「頭突きかぁ。それはおっかないわねぇ。とても里には入れないや」
「うん、怒ると本当におっかないんだ。ヤマメは……あんまりおっかなくないけど」
「ほほう……ほうれ、ほうれ」
「ゆ、揺らすなよ! 切れたら落っこちるだろ!」
枝と網にしがみつきながら、草太はおっかない思いをした。
糸を手で揺すっていたヤマメは、くすくすと笑いながら、
「大丈夫さ。蜘蛛の糸はそう簡単に切れない。この太さなら人間のナイフだって通らないし、大岩だって受け止められるんよ」
「本当?」
「今度鉈でも持ってきたら、試させてあげる。まぁ、弱点が無いわけじゃないけど」
「へー。どれどれ……本当だ。びくともしないや」
「枝が折れるかもしれないけどね」
「わわ、そういうことは先に言ってよ」
遠慮無く糸の上で跳ねていた草太は、慌てて幹に近い巣の端っこに避難した。
「あれ、ヤマメ。今度って言わなかった?」
「言ったよ」
「また来ていいの?」
「もちろん。それが約束だったじゃない」
「じゃ、じゃあまた明日……いや、明後日来るよ!」
草太の口調は、自分が思った以上に活気づいていた。
ヤマメが脇から、二本指を出して見せてくる。
「二つ条件がある。前と同じ約束。私のことは絶対、誰にも言わないこと。まぁこれは分かってるよね」
「う、うん」
「それと……」
彼女は瓶をつまんで持ち上げて軽く振る。
「このサイダーっていうの。美味しかったから、また持ってきて。忘れたら登らせてあげないよ」
「わかった。忘れずに、ちゃんと持ってくるから」
草太は大きくうなずいた。
木登りだけじゃ終わらない。きっと、この夏休みは、自分の人生を変えるような、特別なものになるに違いない。
そんな確信を胸に抱いて。
「で、ヤマメ……この腕輪は外してくれないの?」
「だめ。我慢しなさい」
命を妖怪に握られているという現実は、変わらなかったが。
(続く)
※このSSは、2009年の秋に一度完成させたものに、大幅な加筆修正を施したものです。時系列や作中の年号については、当時のままになっています。
※過去の人里を舞台にしたSSです。オリキャラ、オリ設定が大量に出てきます。ご注意願います。
※とてつもなく長いです。一章ごとに平均100kb以上あります。心の準備をお願いいたします。
幻想郷年史 第124季 神無月 第一週 地底 縦穴
地上の楽園が捨てた負を預かり、土の下で蠢き続ける世界、地底。
そこは、忌み嫌われた妖怪の巣窟であり、封じられた怨霊共が跋扈する迷宮であり、灼熱の地獄へと通じる、陰気な空間だった。
闇でも目立つ緑の双眸に、嫉妬の炎を燃やしながら、一匹の妖怪が飛んでいる。
白磁の肌を包む、菱形模様を編み込んだ唐茶と青のペルシャ風ドレス。黄金色のショートボブからはみ出した、尖った耳が特徴的だ。
水橋パルスィ。地上と地下を結ぶ縦穴に住み、旧都へと通じる橋を守護する、橋姫である。
地底でも名の知れた実力者のため、同じ妖怪からは一目置かれているが、極度に嫉妬深いために、恐れ嫌われてもいた。
……まぁ、少なくとも、本人はそう思っているのだが、
「あ、あんたも地上に行ってくるの? お土産よろしく~」
「行くわけないでしょ、妬ましいわね」
「こんにちはー。今地上から戻ってきたんですよ。これ食べます?」
「いるわけないでしょ、妬ましいわね」
「パルスィさん! こ……今度地上でデートしてくれませんか!?」
「するわけないでしょ、妬ましいわね」
「よう、パルスィ。地上に漫才でもしにいくのか。ほら、ネタ増しぃ、って」
「面白いわけないでしょ、妬ましいわね」
すれ違う妖怪の親しげだったり間伸びしてたりする声に、お決まりの捨て台詞を投げかけながら、彼女はうんざりした気分で飛び進んだ。
『地上』というフレーズを聞く度に、横に尖った耳がぴくぴくと震える。
実のところ、旧都に隠れ住み、鬼達が日光を嫌った時代は過去のこと。地底は今、空前の地上ブームなのである。
発端はこの間、地上で起きた異変とやらの解決のために、人間が二人、この世界へと原因を探りにやってきたことにあった。
結果、断絶していた交流が部分的に復活し、さすがに旧都まで来る妖怪は殆どいないものの、地上からの来訪者が増えることとなったのである。
そして、今はそれだけではなく、その逆の現象も起きているのだ。
下級妖怪だけでなく、鬼の四天王が酒の勢いを借りて地上に突撃していったり、さとり妖怪が何やらこそこそしつつ地上に向かったり、巨大な船が地上を目指して飛んでいったりと、毎日がそんな調子である。
地上も人間も好きではないパルスィにとっては、あまりありがたい風潮ではない。
そういう空気を一言で言い表すなら、そう、『妬ましい』である。
「……ったく。どいつもこいつも楽しそうにして」
ぶつぶつ言いながら、嫉妬妖怪は洞窟を川に沿って飛ぶ。
一杯飲んで気分を払いたいところだが、一人でやけ酒を飲むつもりはなかった。地上の光を好まないのは、パルスィの専売特許ではないのだから。
やがて、穴が大きく広がったところで、彼女は飛ぶスピードを緩めた。
ごつごつした高い天井の下、歪な形をした岩が点在している。一見鍾乳洞にも見えるが、形作っているのは石灰岩ではない。
地底にのみ存在する特殊な岩が、怨霊や妖気の働きで、長い年月をかけて移動してできた空間である。
今も浮遊する岩によって、天然の模様替えが行われているため、半年も経てば記憶は当てにならないという、不思議な空間だ。
ここは地底の上層に住む妖怪達の住処の一つであり、彼女の友人達が住んでいるのである。
パルスィの視線が、岩の一つに止まった。
「隠れてないで、出てきなさいよ。私だから」
ひょこん、と子供の顔が現れる。
正確には、大きな桶にすっぽりと入っている、緑色のおさげ髪を二つぶら下げた、少女の頭である。
その少女が、不安げだった顔を、ぱっと喜びに輝かせ、岩から飛び出しながら、
「パルスィちゃん!」
呼ばれた方は、がくっ、と姿勢を崩した。
「……ちゃん付けは、よしてほしいわ」
「わー、久しぶり。どうしたの? 橋の見張りはしないでいいの?」
「しない。今日はもうやめた。地上からわんさか妖怪が来るわ、地底からも大物が出て行くわで、私だけくたびれるのが妬ましくなったの」
「えっ……じゃあ、パルスィちゃんも地上に遊びに行くの?」
「行かないわよ。私は地上が嫌いな妖怪だからね」
「同じ同じ。私と同じ。地上って怖いもん……」
「私が嫌いなのは怖いからじゃなくて、妬ましいやつが多すぎるから」
手を上げて同意する釣瓶落としの妖怪、キスメの額に、パルスィはぺしっと掌を軽く当てた。
そして彼女は、普段他人には絶対見せようとしない、さっぱりした笑顔になって、
「というわけで今日は、地上かぶれの妖怪をあざ笑って肴にしながら、地上嫌いの三人で語り合わない?」
「え? 三人?」
「三人よ。あいつも地上嫌いだったじゃない」
辺りを見回すパルスィに、キスメはおでこを撫でて伝える。
「ヤマメちゃんならいないよ」
「あれ、どこ行った」
「たぶん、地上じゃないかな」
「へぇ、ちじょう……」
「うん、ちじょう」
「そうか、ちじょ……なにぃ!? 地上!?」
地上。会話の流れと発言者の性格からして、痴情なはずがない。
パルスィの瞳が緑に燃え、肩にかかる金髪が怒りで逆立ち、蛇のようにうねった。
「おのれ黒谷ヤマメっ! なんてやつ! 私との長きに渡る友情を裏切り、忌まわしき地上にうつつを抜かしただと!? いつか手を組み、愚かな人間共、明るい妖怪共に一泡吹かせてやるという、酒の席での誓いを忘れたのか! 所詮は土蜘蛛! 卑しき民! 信じるだけ無駄だったってことなのね! ああ最悪! 妬ましい! 妬ましいぃいいい!」
頭を抱え、ブロンドを振り乱すオーバーリアクションで、橋姫は騒ぎ喚く。
ガラスを引っ掻いたような甲高い声音が、広い石窟に響き渡った。
だが、対峙するキスメは桶の中に頭を隠しており、人間ならば神経を削られるようなその芸にも、全くの無反応であった。
しばらく嘆きのポーズのまま停止していたパルスィは、いつもの土蜘蛛のツッコミがないことに、なんとなくきまり悪さを覚えて、空咳をする。
「……えーと、地上の紅葉を見に出かけたとか?」
「うん、そうかもね。まだちょっと早いけど、妖怪の山とかはとっても綺麗らしいし」
「へぇ、なんか詳しいわね」
「この新聞に書いてあったから」
「新聞?」
どうやら、無視されていたわけではなく、彼女は桶から何かを取り出そうとしていたらしい。
出てきたのは、ものすごく分厚い本だった。
装飾は無骨で、束ねた用紙に黒いカバーを取り付けただけにも見え、表紙には達筆で何やら赤い文字が書かれている。
パルスィは、キスメから手渡されたその本について、片眉を上げて聞いた。
「何なのこれ」
「『文々。新聞 地底妖怪向け特集、豪華決定版』」
「地底妖怪向け……ああもしかして、地上の新聞なのこれ」
「そうそう。長い間交流が無かった地底の妖怪に、地上でどんなことが起こっていたのか、百年分の主要な事件がこれ一冊で分かる、お買い得本! なんだって」
「また妙なものに手を出したわね……」
「ふふ、ヤマメちゃんにもそう言われちゃった。興味津々で読んでたよ」
「へぇ……あいつが」
土蜘蛛も読んだと聞いて、パルスィもそれを、ちょっとめくって読んでみた。
中身はちゃんとした本というより、新聞の切抜きを集めたスクラップブックに近い。
内容も旧都で出回っているものと、形態が少し違うだけで、妖怪向けのお気楽な、要するに普通の新聞だった。
言うまでもなく、記事の内容は全て地上絡みである。住み処を土の下に移して長い者達にとって、これは確かに、興味を誘う読み物に思えた。
と、パルスィは頭に浮かんだ不吉な予想に、キスメをじろりと睨む。
「あのさぁキスメ……聞きたくないんだけど、あんたがこれを読ませたせいで、あいつも地上かぶれになって遊びに行きたくなった、ということはない?」
「えっ……うわわ……そうかもしれない。ごめんね? パルスィちゃん」
「あんたに謝られる筋合いは無いわ。腹が立つのはあいつの方よ。全く……」
「ごめんね、パルスィちゃん、ごめんね、パルスィちゃん……」
「……一声誘ってくれても……」
「ごめんねパル……え? 今何て?」
「なんでもないわ。あの薄情者~」
パルスィは渋い顔のまま、若干の好奇心を満たすために、しばらく新聞を流し読みしていた。
すると、
「ん? やまめ?」
その名を見つけて、めくる手が止まる。
日付は第六十四季の新聞である。山女印のサイダーという、妖怪の間で流行している飲み物の取材だった。
「あ、パルスィちゃんもそれ気づいた? 不思議だよね。ヤマメちゃんの名前が載ってるんだもん」
「そうね。こっちはヤマメじゃなくて山女だけど」
「きっとヤマメちゃん、さっき貸してあげたときに、それを読んで、サイダーっていうのを飲みたくなったんじゃないかな。でも今は……えーと百二十四季だから、もう六十年前の話なのに」
「六十年前……」
パルスィは呟いて、目を細め、わずかに顔を上に向けた。
「キスメ。確か……あいつが二ヶ月ほど、地底から姿を消していたことが無かった?」
「そうなの? 私、知らないよ」
「いや、最近じゃなくて、ちょうど六十年前よ」
「まだ私は生まれていなかったから……え、え、じゃあその山女って、ヤマメちゃんのことなの?」
「いやぁ……そこまでは」
パルスィは記事をよく読んでみた。
それは妖怪向けの新聞にしては珍しく、人間に関係するものだった。
これを書いた天狗――射命丸文となっている――が、妖怪の領域に現れた子供に対して取材したものらしい。
河童の間でも流行っているだとか、変わった人間だとか。これだけ読んでもよくわからない。
「パルスィちゃん、気になるね! ヤマメちゃん、なんで地上に行ったのかな!?」
「さてね。帰ってきたら、あいつから話を聞いてみましょ」
そう答えて、パルスィは別の記事をめくった。
「地上か……。今はどうなってるのかしらね」
~サイダー色した夏の雲~
第一章
幻想郷年史 第122季 長月 第二週 地上 人間の里
文机の前に、白髪の老人が正座している。
厳しくはないが、深く考えこんでいる表情で、何やら紙に筆を走らせ、手を止めては虚空に目をやり、また筆を動かす。
窓から入る光は、すだれによって遮られており、周囲にうずたかく積み重なった書物のために、室内は薄暗い。
雑多なものに囲まれた、埃の臭いが漂う八畳間には、風化していく絵にも似た、緩やかな時が流れている。
足音が近づいてきて、老人の手が止まった。
襖がそろそろと開くのにあわせて、そちらを向く。
「……ん、どうした大樹」
レンズ越しの強い視線の先に、廊下に座り込んだ男の子がいた。
小さな手がおずおずと、持ってきたお盆を見せる。
上には小振りの饅頭が四つと、湯飲みが一つ乗っていた。
「お八つか。ありがとう、そこに……」
「おじいちゃん、お話してくれない?」
「んー? お話?」
「うん、お話」
「ははぁ……」
老人は筆を置き、白い髭の生えた顎を撫でながら、頬の皺を深めた。
「お母さんに何か頼まれたか」
「…………」
「内緒で様子を見て来いと言われたんだろう」
「おじいちゃん、お母さんを怒る?」
「なに? ははは、怒りゃせん。おいで大樹。……ああ、お茶は危ないから、そこに置いてくれんか」
眼鏡を取って、正座から胡坐に変わり、老人は孫を招く。
緊張の解けた男の子は、机の横にお盆を置き、祖父に歩み寄って、その膝に甘えるように手を乗せた。
「おじいちゃん、もう悲しくないの?」
「んー? それも聞いて来いと言われたんか」
男の子は違う、と首を振る。子供にしては気遣わしげな、聡い相貌だった。
その小さな頭を、老人はよしよしと撫でて、
「先日の通夜は、付き合わせて悪かったな。遊びたい盛りの子供には、退屈だったろうに」
「ううん。そんなことないよ。おじいちゃんのお友達だったんでしょ?」
「ああ。じいちゃんが、大樹くらいの頃からの友達だ。大人になっても、ずうっと仲が良かった」
「三吉おじさんよりも?」
「いやぁ、比べられんなぁ。仲良くなったのは、あいつの方が先だったがな。それより大樹、よく三吉おじさんのことを覚えてくれてたな」
「だって、すごく面白いおじさんだったもん。お医者さんに行った時、いっぱいお菓子くれたし」
「うんうん。それと、お前が生まれる前の話だが、鉄おじさんというのがいてな。ほら、そこの大きな家の」
「あ、それもお母さんから聞いたことあるよ」
「そうか。他にも、お美世や、弥彦、それにカカシ……みんな、今の大樹のお友達のように、仲良かった。たまに喧嘩もしたがな。いいやつばかりだった……」
老人の声には、懐かしさと、一抹の寂しさが含まれていた。
そんな祖父の悲しい姿が嫌だったらしく、大樹は机を見ながら、話を変えるように言う。
「……これ、お手紙でしょ。僕もこの間、寺子屋で書いたよ」
老人も、そこに乗っていた、書きかけの紙に目をやり、うむ、とうなずいて、
「そうか。大樹のお友達に書いたのか?」
「うん。慧音先生が、誰でもいいから書いてみなさい、って」
「じいちゃんが子供の頃も、やっぱり慧音先生に書かされたよ。実はここに、その時の手紙が残っている」
「え、見せて見せて!」
「いやぁ、それは勘弁してくれ。何しろこの手紙は、まだ宛先に届いていないんだ」
恥ずかしそうに笑う祖父に、大樹はきょとんとした。
子供の頃に書いたものなのだから、それはとっくに渡していてもおかしくないはずである。
「誰なの? その人はお友達?」
「ああ。古い古ーい、友達だ」
「僕の知ってる人かな」
「ふふふ、大樹どころか、お前のお母さんも会ったことはないぞ」
「それじゃあ、僕にだって当てられっこないね」
「実は、じいちゃんも子供の頃の夏に会っただけで、それからずっと会ってないんだ。だからこの手紙をいまだに渡せずにいる」
「一度しか会ったことないのに、友達……」
「いや、その夏を一緒に過ごしたということさ。たった一度の夏、けれども、じいちゃんにとっては、他の長いお友達と同じくらい大切で、特別な友達だったんだよ」
語っている間に、老人の視線が徐々に遠くを向き、細くなる。
「その後、いろんな夏を経験したが、あの夏は一番楽しく、一番恐ろしく……」
「もしかして、怖い話……?」
大樹が驚いて、祖父の顔を見上げた。
寝る前に話してくれる妖怪話は、彼のお気に入りだったが、たまに怖くて眠れなくなることがあるのだ。
「ああ。そして、一番哀しい夏だった。そいつと出会い、そいつと遊び、そいつと別れた夏。今でも忘れん。だからこそ、こうして手紙を書いている」
聞いている内に、少年の中で、むくむくと好奇心が湧いてきた。
それまで頭を撫でてくれていた祖父も、急にうなり声を発しだす。
「うーん……やはり、大樹に話しておかんとなぁ……しかし……」
「話して話して! 僕、聞きたい!」
「しかし、お前は午後からお友達と遊ぶんじゃないか?」
「ううん」
「本当か? こんな年寄りに気を使わんでいい。約束を破ってはいかんぞ」
「今日は約束してないよ。あとで、遊びに来るかもしれないけど、今はおじいちゃんの話が聞きたい!」
「はは、そうか。では話そう」
老人は湯気の立つお茶をすすって、ふぅむ、と息をついた。
塵に覆われた記憶を、そっと拭いていくように、ぽつぽつと語り始める。
「あれは、今の大樹と同じくらい、いや、一つか二つ、年上だったかな。その頃の幻想郷は、今の幻想郷とはかなり異なっていた。大樹は寺子屋で習ったか?」
「……あんまり、覚えてない」
「ふふ。そのころ、里中を揺るがす大事件が頻繁に起きてな。地震を除けば、いずれも妖怪がらみだった。いや、あの地震もひょっとすると……」
「地震って?」
「地面が……ぐらぐらぐらっ! と揺れて、大変なことになることだ。じいちゃんも、体験したのは、その年が初めてだった」
「ふーん」
「何しろあの年は、初めてが多かった。地震もそうだし、木登りもそうだし、北里の少年達との喧嘩騒ぎ。そして……」
そして、六十年近く隠していた秘密を、彼はついに孫に伝えた。
「妖怪と友達になったのも、その年が初めてだった」
幻想郷年史 第63季 水無月 第四週 地上 人間の里
「くも」
唐突な一語に、並んで歩いていた少年二人が、晴れた空に顔を向ける。
しかし、声を出した三人目は、地面を指さしていた。
夏の強い日差しの下、真っ黒な大きい蜘蛛が砂利道を横切り、茂みへと逃げ去っていく。
少年は、少し草に手をかけたが、もうその行方はわからなくなっていた。
ちょん、と背中をつつかれる。
「空の雲かと思ったぞ草太」
「蜘蛛なんて珍しくないぜ。俺ん家の庭に、でかい巣を張ってるのがいるから、今度見せてやろうか」
「違わい」
からかう二人に、草太は言い返した。
草太だって蜘蛛は見慣れている。ただ日の照った道に、しかも自分の通る位置にでかいのがいたから、つい声に出したのだ。
だけど、二人が咄嗟に、遠くの入道雲に目を向けたのがおかしくて、自分でも思わず笑ってしまった。
三人はまた歩き出す。
「でも、すごく大きいやつだったよ。あれが三吉の家にいたら驚くだろうな」
「へぇ、じゃあ悪戯に使えたかな」
坊主頭の三吉は、こちらの顔をのぞき込み、目を輝かせた。
「慧音先生の机に、こっそり置いておくとかさ。どうだ鉄?」
「俺はやだな。今日も一発喰らったし」
一回り体の大きい鉄平がぼやきながら、赤い癖毛に手をやる。
「駄菓子を交換してただけで、こぶ一つなんて割にあわねぇよ。先生、頭突きがやりたいだけじゃねぇのか」
「そんなに好きなら……ほれ。あそこの地蔵様とやればいい」
「慧音先生なら割れるんじゃないかな」
「そしたら俺達みんな地獄に落ちるな」
最後の一言に、再び笑い声が湧いた。
暑い夏がやってきた。
里の南端にある休耕田は、すっかり緑が生い茂り、雀や鴉が飛び交う下で、バッタやキリギリスが生き生きと跳ねている。
午後の授業を終えた草太は、友人達と里の東側にある寺子屋を出て、わざわざ南から遠回りして遊びながら、自宅へと帰る途中だった。
ここは景色が良いのだ。視界を遮る建物が少ないために、そびえ立つ妖怪の山が空にくっきりと映え、ちょうど大きく育った入道雲と相撲を取っているように見える。田んぼと逆の左手には、遠くに魔法の森の端が小さく見えており、そこまでススキの平原が続くために、こちらも青空と雲がよく見えた。
顔をそちらに向けて歩いていると、一番手前に、茂みに隠れるように六つ並んだ、お地蔵様が姿を現す。
草太はそこで立ち止まった。
「この前の地震でも、お地蔵さん倒れなかったんだね」
一番端のお地蔵様を眺めながら言うと、鉄平もうん、とうなずく。
「先生が六十年に一度あるか無いかの大地震って言ってたな。うちの蔵も、一つ崩れて大変だったし」
「鉄平の家の蔵が崩れるのに、このお地蔵様は大丈夫だったんだ。なんだっけ……御利益があるのかな」
「ごりやくか! お地蔵様! ごりやくで早く夏休みにしてください! あと、ごりやくで慧音先生の宿題もやってください!」
「ばーか」
急に枝を持ち出して拝む三吉を、鉄平が軽く小突く。
けど、気持ちは草太も、そしてここにいない寺子屋のみんなも同じはずだった。
休みの日が増えれば、諸手をあげて感謝するし、宿題が増えれば、一致団結して涙を流すだろう。
あいにく、それを決める慧音先生は、たとえ閻魔様に言われたとしても、予定を変えるとは思えなかった。なにせ頭と同じくらい、その性格も頑固だから。
三吉が拝むのをやめて、持っていた枝をぽーんと遠くに投げた。
「でも楽しみだよな。あと一週間で夏休みだぜ。何せ、朝から遊べるもんな。虫取りに釣りに泳ぎに…………あ、俺なんか目標立てようかな」
「目標? 三吉が? 宿題もやらないのに」
草太が驚いて聞くと、友人は鼻の穴を膨らませて語る。
「あれは先生が決めるやつ。俺のは自分で決める目標だ。この夏を今までにないほどすげーものにしようってことよ。カブトを十匹とか、そんなんじゃないぜ。どうせなら、オオクワとあわせて、三十匹は欲しいな」
「それじゃあ、いつもやろうとしてることと変わんねーじゃん」
「いやいや、もっと凄いのにする。えーと、虫じゃなくて、魚じゃなくて……そうだ! 今年の夏は、妖精を捕まえよう!」
「は?」
「妖精を捕まえて、皆に自慢するんだ。どうよこれ」
得意げに語られた二人は、互いに顔を見合わせた。
「どう考えても……」
「無理だよな」
「なんでだよ。妖精なら俺、結構見たことあるもん」
「そりゃあ、昔は里にも妖精がたくさん出たらしいけどさ。最近はただでさえ少ないのに、自警団の大人達が、追い出すのに力を入れてるって話じゃねぇか。なぁ草太」
「あ、うん。父ちゃんがそう言ってた。それに一匹見つけたところで、すばしっこくて捕まえられないよ。あれ、ツバメよりも速いから」
「じゃあこの地蔵様をちょっと越えてさ。妖精の溜まり場を見つけて」
「馬鹿、罰が当たるぞ」
「それはさすがにヤバい」
「大丈夫だって。……お地蔵様! どうかここを通らせてください! だめならごりやくで妖精を捕まえてきてください! えっ? 入っていいって? それでは失礼しま……」
「こらぁ! そこで何しとる!」
いきなり、怒鳴り声が背中に浴びせかけられた。
草太と鉄平は首をすくめ、お地蔵様の向こう側に足を踏み出そうとしていた三吉も、慌てて戻る。
振り向いて見ると、禿げ頭から湯気を出している鼻が異様に長い老人と、同じ柄のあい染めはっぴを着た男の人達が数名立っていた。
里の子供なら誰もが叱られたことのある、頑固で偏屈な里長と、さっき噂をしていた自警団の大人達である。
父の姿は無いが、中の一人は草太も知っている人物だったので、上目遣いでお辞儀する。
「全く、悪戯坊主どもめ、食われても知らんぞ」
「……すいませ~ん」
「大体、なぜこの道を通る。そこから先を数間進めば、妖怪どもの領域だぞ。知らんわけはあるまい」
「はい、ごめんなさい」
子供達は揃って、バッタのようにぺこぺこと頭を下げた。
実は三人とも、怒った里長よりも、苦笑いしている自警団の人達よりも、その後ろで黙っている人物に恐縮していたのである。
『彼女』は、足音も無く集団の前へと進み、お地蔵様の前で一礼してから、その側を通り過ぎた。
里の人間は、そのことについて一言も文句をつけず、畏敬の念をこめて見守っている。
こちらを振り返ると、白と赤の巫女服が風に揺れた。
「それでは、ここまでで結構です。お見送り、ご苦労様でした」
当代の博麗の巫女は、小さいが、はっきりと通る涼やかな声で告げた。
里長はうやうやしく禿げ頭を下げ、
「左様でございますか。それではまた、次の辻切りの日まで」
「はい」
「その間、何事もなければ夏祭りの件もお願いいたします」
「はい、そのときはよろしくお願いします」
黙って聞いていた草太は、夏祭りの話が出て、小躍りしたくなった。
去年はできなかった祭りが、今年はできるということに違いない。博麗の巫女様がついてくれるなら、きっと安心だ。
しかし、夏祭りと里長が言った瞬間、鉄平が怖い顔をして巫女様を睨んだのに気がつき、草太は三吉と素早く目配せするだけで、何も言わなかった。
「ごきげんよう、みなさん」
「待ってください巫女様」
博麗の巫女が、はじめて気がついたかのように、鉄平を見る。
「今度の祭りでは、きっと、里のみんなを守ってくれますか? 一人も死なせたりしませんか?」
「……それは私の実力と、相手になる妖怪の強さ次第です」
「そんな答えじゃ納得できません。約束してください」
「鉄平、不敬じゃぞ!」
里長が、真剣に怖い顔で睨んでいる。
けど、鉄平は怯まず、巫女様を見つめていた。
にわかに張りつめだした空気に、草太と三吉は何も言えず、事の成り行きを、黙って眺める。
「……わかりました。約束しましょう」
博麗の巫女は無表情のまま、場の緊張を解くように、静かに言った。
「……では」
丁寧な一礼の後、地面をとん、と軽く蹴る音がした。
あっ、と子供達が叫ぶと、もうその身体は、宙を高く飛んでいる。
紅白の姿は風に乗って、見る見るうちに、東にある山のほうへと小さくなっていってしまった。
「……やっぱり、すげぇなあ」
「うん」
どこか羨望の響きがある鉄平の呟きに、草太も同じ気持ちでうなずいた。
空を飛べる人間がいる、というのは頭では分かっていても、見る度に驚く。
小さな子供だけじゃなく、大人達もその姿に気がつけば、仕事の手を休めて、等しく天を仰ぐ。
博麗の巫女、彼女は慧音先生と同じく、里にとって特別な存在だった。
普段はここから遠く離れた神社に住んでいるが、必要な時に人を脅かす妖怪を退治して、守ってくれる、人間にとっての希望なのだ。
だけど、ここで普通に暮らしている限り、里の者達は、実際に話しかけたりする機会はほとんどない。草太も近くで見たのは、過去に一度だけである。
そういった意味で彼女は、慧音先生とは違い、どこが現実味のない、触れると罰が当たりそうな、生き神様のような存在だった。
自警団の大人の声が、遠くを見つめる自分達を呼び覚ます。
「お前達も早く帰ったほうがいいぞ。そろそろ雨になるから」
「雨ぇ? 今晴れてるぜ、おじさん」
「龍神様の目の色が変わっていたからな。それに、わしの勘でも、こういう空は、まず間違いなく降る」
「へー」
「寄り道せずに帰るんじゃぞ。じゃあな」
里長は長い鼻を鳴らして、曲がった腰のまま、自警団を引き連れて去っていった。
子供達はそれを見送りながら、相談を交わした。
「……当たるかな」
「今日はハズレだ。というか、ハズレてほしい。鉄は遊べるんだろ?」
「大丈夫だ。龍神様が間違ってたら、草太の家まで行こう。林で遊ぼうぜ」
「決まりだ!」
三人は互いの手を打ち合わせて、いつものように、田んぼのあぜ道を走り出した。
○○○
人間の里は、南北を分ける中央街道と、東西を分ける龍神大路によって、四つの区画ができている。
南里には田畑や寺子屋、寄り合い所などの重要な場所が多く、北里には商家や住居が多い。
草太の家は南里の西側にあり、雑木林の近くに連なった民家の一つであった。
友人二人と別れた草太は、真っ直ぐ家に帰らず、その雑木林に向かっていた。
南里の少年達にとって、そこは、木登りや虫取りをするのに手頃な、人気の遊び場だった。
夏休みの間は毎日のように早朝に集まって、樹液を吸いにやってくる甲虫を竹籠に入れて集め、昼間に相撲を取らせて遊んだりするのが恒例の遊びである。 もちろん、他にも目的は色々あるし、子供だけじゃなく、大人達が茸を取りに入ることだって珍しくないのだが、草太自身にも、個人的にここに入る秘かな目的があった。
誰も見ていないことを確認して、イラクサで作られた天然の門から、草太は雑木林に入った。
高い木、枯れた木、曲がった木。様々な木が距離を保って生えており、田んぼ近くや東の原生林より、幾分ひっそりした空間を作っている。
聞こえてくるのは、主に野鳥の鳴き声。子供の話し声はないし、姿も見あたらないので、ちょうど今は林を独り占めできる時間のようだ。
草太は奥へと進んでから、近くの手頃な木に近寄った。
幹を触って、見上げる。
――これじゃ、だめだな。
枝が少なく、木肌もすべすべしている。初心者では手に負えない類の木だった。
顔に寄ってくる蚊を追い払いながら、草太はもう少し奥まで行ってみた。
次に目が止まったのは、枝が多くて高さも手頃な木だった。
しかし、皮がささくれ立っていて、軍手をしていなければ、掌が傷だらけになりそうだ。
――これもだめ。
草太はさらに奥に進むことにした。
あっちこっち探し回って、ようやく気に入った木が見つかる。
手を伸ばせば届くほどの低いところで、幹が二つに分かれており、そこから先は斜めに伸びているので、垂直の木よりも登りやすそうだ。
草太は膝をかがめて、えいっ、とそれに飛びついた。
いつものように、地面から足が離れた途端、急に自分の体の重みというのを実感する。
両足で幹を挟もうとしたが、支えきれず、ずるずると滑り落ちた。
「あ、そうか。靴を脱ぐんだっけ」
草太は縁に穴の開いた靴を脱ぎ、靴下もそこに入れて、冷たい地面に素足を乗せた。
両手をできるだけ伸ばし、大地から跳んで、木にしがみつく。
ぐっ、と四肢に力が入るが、滑りにくい裸足で踏ん張る。そのまま、上を目指そうとするものの、その姿勢を維持するだけで必死だった。
やがて耐えきれずに、足が滑り始め、幹の肌でこすられて熱い痛みが走り、ついに地面に尻餅をついてしまった。
「いってー……やっぱり駄目か」
思わず口にしてしまってから、その弱音を打ち消すために、ぶんぶんと首を振る。
大柄な鉄平だって木登りは上手いし、草太よりも非力な友人も木に登れる者は多い。
つまり、木登りは才能ではなく、身体で覚える技術なのだ。……とまあ、そう信じてやるしかない。
それに、靴で登ろうとしたときよりも、木と一緒になった時間は長かった。後は工夫次第でもっと高く、ついには枝まで手が届くはずだ。
草太はこれに絞るか、もっと登りやすそうな木が別にないか探した。
すると、
「あれ?」
林の最奥にある、池に目が止まった。蓮によく似た葉がいくつか浮いている、小さな池である。
その池は南里の子供に、毒池だとか、ばっちぃ池だとか、色んな不名誉な名前がつけられていた。
魚もいないし、水もよもぎ色に濁っているので、近寄っただけで何か病気にかかりそうで不気味なのが理由である。
だが、生き物の棲んでいないはずの、その池の表面に、かすかな波紋ができていた。
草太は近づいてみて、驚いた。
虫がおぼれている。真っ黒で黄色い斑点のついた親指ほどの胴体、それはさっき道端で見かけた、あの蜘蛛とそっくりだった。
でも、そんなはずがない。だってあそことここじゃ、だいぶ離れている。
それでも、その虫はやはり、見れば見るほど、色も大きさもあの蜘蛛と瓜二つだった。
――同じ種類のやつかなぁ。
草太はしゃがんで、虫が溺れる様を観察した。
先ほど話題にはしたものの、そんなに蜘蛛が好きじゃないし、詳しくもない。
ましてや、こんな大きなものは、ちょっと見かけるだけというならともかく、近づいてまじまじと見つめて気持ちのいいものではなかった。
だが、先日寺子屋で、一寸の虫にも五分の魂といって、小さい虫だろうと侮らず、生き物を大切に扱うことを学んだばかりである。それに、水上でもがき苦しんでいるその姿は、なんだか哀れで可哀想だった。
可哀想という感情が芽生えると、もう助けてやろうという気になり、草太は枯れ草を手にしていた。
池の端に近づき、できるだけ腕を伸ばす。
細長い枯れ草の端を、水につけて濡らさないように、慎重に水面に近づけた。
もがいていた蜘蛛は、すんなりとそれにしがみついてくれる。
そこで草太の手に向かって上ってきたりしたら、きっと驚いて枯れ草ごと放り出してしまっただろうが、幸いそいつは、遠慮がちに葉の端から動かなかった。
なかなか、できた蜘蛛である。草太は枯れ草を手にぶらさげて、安全な土の上に置いた。
「じゃあな。もう溺れたりするんじゃないぞ」
草太が話しかけると、蜘蛛は世話になったというように、素早く地面を走り去って行き、朽ちた倒木の横を過ぎて、茂みへと消えていった。
「………………?」
草太は、その茂みに、視線が吸い寄せられるのを感じた。
そこに、膝の高さほどのトンネルがあったのだ。
正確には、丈の低い植物が重なり合って、茂みの中に丸い空洞を作り上げているのである。
薄暗いうえに、木が裂けた根元の裏になっているため、遠くから見れば何かの影としか思えない。蜘蛛の姿を追わなければ、見つけられなかっただろう。
いつ出来たのかはわからないが、裂け折れる前の木によって、しっかり隠れていたとすれば、これまで知られていなかった説明がつく。
木が折れた原因にも心当たりがあった。地震だ。
四日前の地震は本当に大きかった。幸い、死人は出なかったものの、多くの人が怪我をしたうえに、鉄平の家の蔵や、寺子屋の近くにある大きな納屋だとか、それ以上に家の多くが倒壊してしまったのだ。
その時に、この古い木も腐った部分から折れてしまったとすれば、説明がつく。
さらにここは、雑木林の中でも奥地で、汚い池の向こう側にあるので、普段から遊んでいる南里の子供もあまり来ることがない。
色んな条件が重なって、今日まで隠れ続けていた秘密の穴ということなのかもしれなかった。
草太は池の脇を通って、そっと近づいてみる。
興味深い代物ではあるが、このトンネルに入るのは危険だった。
茂みの奥の森は、山の麓につながっており、子供は勿論、大人でも滅多なことがなければ入らない。
そこは妖怪の領域であり、襲われて命を落とす可能性は、里で過ごす時の比ではなかったからだ。
けれども……
――これは、たぶん僕以外はまだ見つけてないよな。
トンネルの向こうに何があるか、草太はすごく気になった。
奥にぼんやりと差している光は、不思議な雰囲気がたっぷりあるし、見たところ、子供の背なら、楽にくぐり抜けられそうである。
――ちょっと行って戻ってくるだけなら。そして、後で三吉達に明かせば。
結局、好奇心を抑えきれず、草太は少し屈んで、その穴に入っていった。
○○○
低い姿勢のまま、枝の張ったトンネルを進んでいると、急に全く知らない場所へと抜け出した。
狭かった空間から、天井がずっと高くなり、左右に森が広がる。息を呑み込んだ草太は、思わず咽せてから、鼻をこすった。
まさにそこは、妖怪の住みそうな森だった
植物の濃い臭いと湿った土の匂いが混ざった、嗅いだことのない強い空気が漂っている。
木々の数も雑木林とは比べものにならない、葉という葉が迫ってくるような密度だ。
地面は苔やシダで覆われていて、ぽつぽつと花が見え、その周囲を蛾が音もなく飛んでいた。
到底人の踏み入る余地がないように思えたが、よく見ると、坂の下でちょろちょろと流れる小川に、倒木で橋がかけられていたり、その奥もどうぞ歩いてくださいという具合に、細い小道ができている。
草太は迷った。
枝葉で小さく切り取られた空を見ると、里長の勘は正しかったらしく、だいぶ天気が悪くなっている。
今日の所は諦めて、戻った方がいい気がする。
と思ったら、
「あ」
道の先に、先ほどの蜘蛛がいた。
そしてやはり、幻のように、すぐに消えていなくなる。
なんだか奥へと誘われている気がして、草太は結局進むことにした。
ただし、何かと遭遇すれば、いつでも逃げ出す心構えをしておきながら。
蝉の合唱がやかましい。歩けば歩くほど、首や腕にまとわりつく湿気の凄さが気になった。
足元の植物も雑木林よりずっと多いため、なかなか進むのに苦労する。
今のところ、虫や鳥以外の生き物には出会わないが、木の陰からいきなり熊が顔を出してもおかしくない獣道だった。
もちろん草太は、熊や猪が出るまで待つつもりはなかったし、来た道を何度も振り向き、足の方向も常に真っ直ぐにはならないのだが。
ところが何故か、帰ろうと思う度に、あの蜘蛛がちょうどよく姿を現すのである。
木の陰にちらり、茂みの側にちらり、地面をさささっと横切ったかと思うと、根の影に生えた青いキノコの上にちょこんと休んでいる。
なんだか虫の隠れん坊に付き合っている気分で、草太は訝しく思いつつも、歩き続けた。
十分ほど歩いて、森の出口が見えた。
長く続いていた木の天井が終わり、灰色の曇り空へと変わる。
森を出た先は、丈の低い草の生えた、広い野原だった。
にわかに、草太の全身に痺れが走った。
「……わぁ」
そこに、凄く――もの凄く大きな樹が、一本たっていた。
いつも見ている里の木が、九つぐらい束ねられて作られたような太い幹だ。
視線を上げると、八方に伸びた枝。それぞれ横方向に歪な形に曲がっており、怪物の手のようである。
その上は、どっさりと葉が生い茂っていて、小さな森を一つ背負っているようにも見えた。
これだけ大きく育つのに、百年か、千年か。その立派な姿に、草太はしばらく圧倒されていた。
――あっ、ひょっとして。
あることに気がつく。
実はこの樹は、里からいつも見ている、妖怪の山の麓にある小山の正体なのではないか。見れば見るほど、その推測に、確信が強まってきた。
それは自分にとって、いや、仲間達にとっても、大発見だった。
これまで、小山だと思っていたのが、実は丘に生えた巨大な樹の上部だったと知ったら、誰もが驚くはずだ。
草太はもっと近くで、その木を見てやろうと思った。
が、その足が止まった。
樹の上に誰かいる。
一番高いところにある冠から突き出た枝に、一人で腰掛けている。
頭には薄黄色の髪の毛を生やしていて、木肌の色にまぎれて見えにくいが、体は茶色である。
鳥にしてはやけに大きい。人間がここにいるのは不自然だ。すると、あれは
――妖怪?
草太はさっと、身を隠した。
じっと動かず、息を殺して、その姿を瞳に映し続ける。
毛に見えたのは髪の毛で、茶色の体は服であることがわかった。
――間違いない。妖怪だ。すげぇ。
草太の心臓が高鳴る。
妖怪を見たのは、はじめてではないけど、実際は、寺子屋の先生だったり、夕日を横切る鴉のような黒い点でしかなかった。
里の外で、それも一人で見る機会など、これまで一度もなかったのだ。
はじめて外で見た妖怪は、金髪の子供のようだった。
空を見上げて、体をわずかに揺らしながら、何かを歌っている。
いつの間にか止んでいた蝉の声と違って、濁りのない少女のような声色だった。
草太は森と草原の境界で、石のように黙したまま、その歌を聴き続けていた。
だが突然。
視界が一瞬、白く染まった。
稲光だ。目がくらんで瞬きすると、頭上で雷鳴が轟いた。
反射的に、耳をふさいでしゃがみこむ。それから、言いつけ通り、片手をお臍に移動した。
草太は目を開けたが、木の上の姿は、動く様子が無い。
また稲光。
今度は音がすぐに来ない。
だが草太はもう、雷など気にしていられなくなった。
視界にある光景が、一部変わっていた。
さっきは別の方向を向いていた顔が、歌を止め、今はこちらを見ていたのだ。
目が合った。妖怪が、自分を見つめている。
そう思った瞬間、雷がかなり近くに落ち、突風が巻き起こった。
「わぁあああああ!!」
草太は背を向けて、大急ぎで逃げ出した。
途中で何度も振り返り、その度に足がもつれた。
枝がちくちく体に刺さるのも気にしてられず、トンネルをくぐり終えると、雑木林を走りぬけ、里へと疾走した。
途中、ぽつりと首筋に何かが当たって、必死でそこをぬぐう。それが雨粒だと分かった時には、すでに夕立になっていた。
○○○
途中で大雨に降られた草太は、家に帰り着く頃には、びしょぬれになっていた。
母ちゃんには「道草くってるからでしょ!」と怒られ、妹のお鶴には「お兄ちゃんぬれねずみー」とからかわれる。
頭にきたので軽く蹴ってやったら、泣かれて、また母ちゃんが飛んできた。
結局、頭にたんこぶを作った状態で、草太は夕飯を食う羽目になった。
「ははは、草太。災難だったな」
「……まぁね」
からかい口調のじいちゃんに、草太は短く返事した。
食卓にはすでに、仕事から帰ってきた父ちゃんもついている。母ちゃんはおひつの側に座っていた。
草太はじいちゃんと、さっき泣かしたばかりの妹の間に座った。
卓に茶碗とお皿が人数分、隙間なく置かれている。今晩のおかずは魚である。
「お母さん、骨とってー」
「はいはい、ちょっと待ってね」
そう言って飯をよそう母ちゃんから、草太は茶碗を受け取った。
しかし胸中では、まださっき見た妖怪の心配をしていたため、どうも胃が動かない。
まさかとは思うが、雨風が戸を叩く度に、あの森からこの家まで追って来たのではないかと、びくりとする。
家族はそんな草太の様子に気がつかず、いつものように食事をしていた。
と、それまで黙って酒を飲んでいた父ちゃんが、おもむろに口を開き、
「弥太郎のところは、だいぶ片づいたみたいだ。明日には田んぼに戻れるだろう」
「まぁ、良かったですね。雨の前に終わって」
「うん。それよりも、風邪の方が心配だ」
「風邪?」
魚の身をほぐす手を止め、草太は父ちゃんに聞いた。
「弥彦のおじちゃん、風邪なの?」
「いんや違う。風邪なのは、あいつのお袋の方だ。それだけじゃなく、能勢の所の息子に桁平の親父、他にも何人か。北里で夏風邪か何かが流行りだしたんじゃないかって、慧音様の所に報告しに行ったそうだ」
「嫌ですねぇ。地震騒ぎだけでもうたくさんなのに」
漬け物を皿に取りながら、母ちゃんは眉をひそめている。
草太の右隣に座っていたじいちゃんが、出し抜けに笑いだした。
「わしゃあ、まだ若ぇ頃に、ちょろちょろ揺れるのは知っとったがな。生きてるうちに、こんなでけぇのに遭うとは思わんかった。さすがに肝のすわった年寄りどもから若いもんまで、みなぶったまげてたな。死ぬ前に婆さんにいい土産話ができた」
「良かったね、じいちゃん」
「これ! 何てこと言うの、あんたは!」
「痛て!?」
当のじいちゃんが喜んでいるのに、何で叩かれるんだろう、と草太は思った。
それからしばらく、話題は里の大人達の仕事の進み具合についてになる。
話が途切れた所を見計らって、草太は隣に話しかけた。
「ねぇ、じいちゃん。じいちゃんは近くで妖怪を見たことある? 慧音先生じゃなくて」
「おおあるとも! なんだ草太、今日何か見たのか」
「見てない見てない! ただ、友達と話してただけだよ」
横目で父の様子に気を配りながら、草太は慌てて首を振る。
「妖怪の話ならとっておきのやつが一つあるぞ。おい、おめぇにも昔、話してやったろ」
「ああ」
と、返事する父ちゃんは、そんなに嬉しそうではない。
じいちゃんは草太の方に向きなおって、箸で拍子を取りながらしゃべりだした。
「草太は、今度で十一になるのか。あれはわしが十三の時だ。オヤジと喧嘩して、夜中に家を飛び出したんだが、その頃、里の西側には、家も少なくてな。月も半分雲に隠れていたし、どうも心細くてしょうがねぇ。それでも家には帰れなかったもんだから、ぶらぶらしてたんだけどよ。いよいよ闇が深くなってきた、と思ったら、周囲が完全に真っ暗になっちまって…………」
「……それで?」
草太が続きを促すと、じいちゃんは両手の指を動かし、低くうなって言った。
「……耳元で声が聞こえてきたんだよ。『食べてもいいの?』ってな」
「きゃー!」
お鶴が悲鳴をあげて耳をふさぎ、母ちゃんに飛びつく。
「おっほほ。怖いかお鶴。まぁおなごだから仕方がねぇや。おい、草太ならどうするよ」
「えっと……とにかく騒いで、逃げてると思う」
草太は自信のない答えを選んだ。
いつもなら強がるところだが、状況は異なれど、先ほどあの妖怪を見たときには、本当に夢中で逃げてしまったので。
だが、じいちゃんはそれを聞いて目を細め、子供に戻ったように嬉しそうに語る。
「ところがわしは違ったんだな。肝がすわってたってことよ。逆に聞き返してやったんだ。『そんなら姿を見せて、先に俺にも腕一つ食わせてみろや。それなら俺も腕一つ差し出してやらぁ。ただし骨ばっかり太くて美味くねぇぞ』」
「じいちゃん、本当にそんなこと言ったの?」
「おう、妖怪を食っちゃいけねぇと教わってはいなかったからな」
ご飯をかっ込みながら、じいちゃんは平然と返してきた。
肝がすわっているということは分からないが、とても草太には真似できそうにない受け答えである。
「するとだな。まさかと思ったが出たんだよ、紛れもなく妖怪だった。一見、金色の髪にリボンをした小さなおなごなんだが、口の裂けてて牙を生やしたやつでな。『僧なのか?』と聞きやがる。そしたらわしは『まさに俺は僧なのだ。俺が真言を唱えりゃあ、お前を退治することなどわけはないぜ』とハッタリをかましたのさ。するとまた、『僧なのか』と言うので、わしは試しにでたらめなお経を、大声で唱えてみてよ。それを妖怪が面白そうに聞いてる間に、自警団の大人共が来て助かったんだ」
草太はご飯を食べるのも忘れて、その武勇伝に聞き入っていた。
じいちゃんの体験は、自分が体験したのよりもずっと恐ろしい話の上に、度胸があるというか無茶な対応で切り抜けているのが凄い。
それに、自分が見た妖怪も、確かに金色の髪の毛だった気がする。
「それが妖怪との初めての出会いさ。いやぁ、あれはぶったまげたな」
「ねぇ、その後妖怪に追われなかった? 見たら死んじゃうとかないの?」
「シャシャシャ! それならおめぇも生まれてねぇぞ草太!」
頭を乱暴に撫でられながら、それもその通りだ、と思って、草太は少し安心した。
「それだけじゃねぇ。最近では、山の近くまで仕事に行ったときに、妖怪の歌を聞いた。姿は見なかったけどな。一緒にいた、若い連中も聞いていた。それに、かなり前に雪女も見たし、里の東の湿地で、金の尻尾をいくつも背負ったえらい美形の妖怪が、何か測量じみたことをしていたのも見たなぁ。里で生きているだけでも、機会はたんとあるんだ。あとはまぁ……」
「……………………」
「……そんなところだ」
最後、じいちゃんは少し言葉を濁して、曖昧にしてしまった。草太は聞かなくても、何を言いかけたのか分かった。
気を取り直したように、じいちゃんは咳をし、話を続ける。
「まぁ、妖怪っていうのはおっかねぇが、それでも人間は奴らから色んなことを学んできた。里にある龍神像だって、あれは元々河童の産物らしいしな。ワシのじいさんの口癖だったがな。妖怪を『畏れて見る』のと『恐れて見ない』のじゃあ、大違いだ。人間を食う悪ぃのもいりゃあ、助けてくれるいい妖怪もいる。俺達とおんなじだ。だから、付き合いを絶やすなってな」
「……そいつは、昔の話だよ、親父」
黙って聞いていた父ちゃんが、お猪口を置きながら、そう言った。
嫌な予感がしたので、草太は急いで茶碗の飯を空にし、少しちゃぶ台からずり下がった。
「なんで話さねぇんだよ。一昨年の夏祭りをよ。親父もあの場にいたんだろ」
「……………………」
「人が里で大人しく縮こまって、滅多にないハレの日を祝ってる所に……舐めやがって、妖怪どもが」
「そりゃおめぇ……この幻想郷は妖怪の天下だ。しょうがねぇってこともあるべ」
「しょうがなくねぇよ!!」
父ちゃんが拳でちゃぶ台を叩いた。
草太もお鶴も母ちゃんも、茶碗と皿を持ち上げていた。
じいちゃんはこぼれた味噌汁に目を向けず、父ちゃんの怒りを正面から受け止めている。
「三度だぞ! 今年じゃねぇ! 今年の夏に入ってだ! そのうちの一人は、片腕を無くした! 里にいながら襲われたのもいたんだ!」
「わかってる。だけどもよ………」
「妖怪は里に必要ねぇ! 次はこっちから攻め立てて、目に物見せてやる! これは自警団の総意だ! もう親父の時代じゃねぇ! 口は出さんでくれ!」
「…………ちっ」
じいちゃんは舌を鳴らしてから、議論しようとせずに、またご飯を食べ始めた。
食卓に、嫌な空気が立ち込める。妖怪の話になると、たまにこういうやり取りがおきるのだ。
話題に出してしまった当の草太は、申し訳ない気持ちになった。
しばらく、何もない場所を睨んでいた父ちゃんが、ふと目を覚ましたように、こちらを見て、
「おう、どうした草。食え」
と、魚をあごで指した。
いらないといえば、また不機嫌になることが分かっていたので、草太は仕方なく、味のしないその魚を頬張った。
○○○
その夜はなかなか寝付けなかった。
初めて、はっきりと妖怪を見た衝撃が、まだ心に強く残っていた。
薄い布団をかぶって目を閉じると、あの時の光景が思い浮かぶ。
天をつくほどの高い木の上で、雨の中歌っていた、あの妖怪の姿を。
寝返りをうちながら、あれこれと想像をめぐらせる。
あいつは人間を食うのか、それとも人間に親切なのか。
里の子供にとって、妖怪は魅力的な怪物である反面、もっとも恐ろしく、忌まわしい存在だった。
妖怪の真似をして脅かす遊びはいっぱいあるし、喧嘩の際に相手をけなす言葉としてもよく使われている。
実際に、里の人間が妖怪に襲われることも、珍しくなく、時には自警団の努力も実らず、子供ですら殺されることもあった。そう言う時は、自然と皆、妖怪の話はしなくなったし、特に一昨年の夏祭りに起きた『あの事件』以来、妖怪を恐れる子供が増えた。
父ちゃんは、自分の子供が妖怪に興味を持ったりなんてしたら、きっと許さないだろう。
大事なお友達が殺されてから、父ちゃんは自警団の仕事を、今まで以上に引き受けるようになった。
里を守ってくれる父ちゃんはかっこいいと思うし、好きだ。でも、妖怪のことを話すときや、自警団の仕事に行く時の父ちゃんは、少し怖かった。
壁を鳴らす雨音が強い。
この雨だと、木登りの練習は当分できない。晴れて木の幹が乾かないと、手を滑らせて落ちる子が出るから。
こんな天気の夜でも、あの妖怪はまだ、あの木の上にいるんだろうか。
じいちゃんは笑っていたけど、本当は今もこの家を探しているのではないか。
草太はじっと、大木の上に座る、その姿に目をこらしていた。
木の上の存在も、ずっとこちらを見ていた。
雷が鳴って、草太は駆けだした。だが、その瞬間、肩を思いっきり掴まれ、無理矢理振り向かされる。
「見ぃたなぁ~」
目の前に金髪の、口が大きく裂けて、牙を伸ばした妖怪『僧なのか』がいた。
「うわぁ!」
草太は薄布団を跳ね上げて、飛び起きた。
間一髪、誇りは守られた――つまり、寝間着は濡れていなかった。
ただの夢だったのだ。隣で寝ている家族達も無事だ。離れた場所からは、じいちゃんのいびきも聞こえてくる。
けど、外の雨を聞いていると、またあの悪夢を見そうな気がして、その晩草太は布団をかぶったまま、朝方近くまでうつうつとする羽目に陥った。
しかし、そんな恐怖も、一夜明けてしまえば薄れてしまい、草太は三日で怖さを忘れてしまった。
夏休みも近づいていたために、そちらの楽しみが勝ってしまったのだ。
そして、里の子供達にとって、もっとも待ち遠しい日がやってきた。
一学期寺子屋、最後の登校日である。
幻想郷年史 第63季 文月 第一週 地上 人間の里 寺子屋
その日の午前唯一の授業は、畳部屋ではなく、床部屋で行われることになった。
整頓された机に空席は無く、椅子に座る子供達は、全員黒板の方を向いている。
日差しとともに増す熱気は、夏に授業が無い理由がよくわかる程度の暑さを、大部屋の中に作り出していた。
窓に張られたガラスを、蝉達の命がけの合唱が叩いており、多少の私語やぼやきは聞こえそうにない。
けれども、教室にいる生徒は皆、彼女の地獄耳と、頭突きの怖さを知っている。
「小花美枝」
「はい」と返事をした女子が教壇へと向かい、頭に四角い帽子を乗せた青銀の髪の女性、上白沢慧音先生から、二言三言の奨励を受けて、戻ってくる。
暑さに加え、休み前の期待と、これまでの成績を返されるという緊張で、教室の空気は煮詰まっていた。
「次、神田草太」
「はい」
草太は返事をして、皆の視線を背中に浴びながら、教壇まで歩き、慧音先生から成績表を受け取った。
「なかなか頑張ったな。特に音楽は優れていた。夏休みの間も、苦手な歴史をしっかり勉強し、怠けないようにしなさい」
「はい先生」
そう返事したものの、すでに草太の頭の中は、遊びの計画でいっぱいだった。
慧音先生には悪いが、南里組の生徒、とくに男子達に、夏休みまで真面目に勉強しようと考えているものなど、一人もいないと思う。
「次、霧雨鉄平」
「うぃーっす」
鉄平が軽いノリで返事をし、草太の次に教壇へと向かう。
すれ違うとき、軽く肘うちを交わしてから、草太は席に戻った。
「返事はきちんと。いい成績だ。相変わらず、みんなからも慕われているようだな。だが、あまり北里の者と喧嘩して、先生を困らせんでくれ」
「先生、弱い者いじめしてんのはあいつら。俺はそれを許せないだけ」
「お前の気持ちはわかる。だが、あまり傷を作ると、親御さんが心配するぞ」
「親は親、俺は俺です」
「鉄平。その親が産み育ててくれなければ、お前は学ぶことも遊ぶこともできなかった」
「わかってます。ちょっと言ってみただけです。すみません」
鉄平は素直に謝り、むっつりとした顔で成績表を受け取って、席へと戻った。
草太にとって、珍しい光景ではない。鉄平は親の話になると不機嫌になる。
悪戯や野良遊びに積極的なのも、ひょっとしたら実家に対する反抗なのではないか、と思うのだが、草太はそれをわざわざ喋ったりはしなかった。
今日の放課後も、きっと鉄平を中心に、皆で遊ぶことになる。まずはどんな遊びにしようか、と考えてるうちに、ついに期待のトリがやってきた。
「最後。山川三吉……三吉? 呼ばれたら返事をしろ」
「あ、はいはい先生。ただいま」
おちゃらけた返事をして、三吉は素早く教壇に向かう。
静かだった大部屋に、くすくすと笑い声が漏れた。
慧音先生は成績表を眺め、切れ長の眉をひそめる。そして、手で顔を押さえて、沈痛な面持ちになった。
「三吉……お前は……もう何を言っても聞かないのはわかっているが、少しは真面目に努力してみてくれんか」
「え? 何のことですか先生」
「この成績のことだ! いくらなんでもあんまりだ! どうして歴史の試験の回答用紙が、お前の場合、四コマ漫画に変わるのだ! 教えてくれ!」
「あ! あれ、なかなか上手かったでしょう先生。家のみんなも褒めてくれましたよ。いいオチが思いつかなくても、先生が最後の場面で頭突きしてくれれば、笑いが取れるんです」
「馬鹿者!」
教室中が爆笑する中、早速三吉は、頭突きを食らった。
慧音先生は一度、半眼で教室を見渡して、生徒達の笑いの渦をおさめる。
そしてまた、せつない表情でため息をつき、
「全く……上の二人は里でもかなりの秀才だったが、お前はどうしてそうなんだろうか。あるいは、私の教育が間違っていたのだろうか」
「いてて……あ、先生。それひどいっす。少年の繊細なハートが傷つきますよ」
「う……すまなかった。確かに、お前にはお前の良さがある。私だってそれは知っているさ。絵はなかなか上手に描けていたしな」
「でしょう!? 大体、兄貴達の少年時代は、どっちも勉強ばっかりで、どうしようもなかったんですよ。俺は医者にはなりません。紙芝居屋とか漫画売りとかになります。兄貴二人は秀才ですけど、俺は天才芸術家なんです! 褒めてください!」
「阿呆! 何が天才芸術家だ! 傷つくハートか、お前が!」
また三吉が頭突きを受けて、教室の笑いは最高潮に達した。
草太もお腹を抱えて笑っていたが、教壇前で凹んでいる少年を馬鹿にするどころか、賞賛する気持ちがあった。
三吉の兄さん達は両方ともお医者さんになり、南里の診療所で働いている凄い人達だけど、真面目で堅物の慧音先生をひょうきんな存在に変えてしまう三男坊も、凄い逸材なような気がする。
成績表を全て返し終えてから、慧音先生は咳払いをした。
「さて、いよいよ明日から夏休みだ。勉学に励み、親の仕事を手伝い、適度に遊んでくれ。それ……」
「わー!!」
「静かに! まだ話は終わってないぞ! それと最近、北里の方で夏風邪のようなものが流行っている。ひょっとすると、南里の方まで流行するかもしれない。外で遊んだ後は、うがい手洗いを、きちんとするように」
「はーい!!」
「それでは、これで一学期の授業を終了する。また二学期に会おう」
「先生、さよーならー!!」
「さようなら。気をつけて帰るんだぞ」
「わー!!」
すぐに男子が我先にと争って、教室の後ろの扉から飛び出していく。もちろん先頭は三吉だった。
草太も慌てて風呂敷に習字道具を包んで、それに続こうとするものの、その前に、ぬっと箒が突き出される。
「神田君! さぼりはだめよ」
「……うげ。もしかして、最後の日も掃除があんの?」
「当然よ。さぼったら、先生が宿題を増やすだって。よかったね」
班長である三つ編みの少女は、にこりともせず言って去り、他に帰ろうとした同班の男子にも注意をしていた。
草太は箒を手に、夏休み最後の日を金曜日にした慧音先生を恨めしく見た。
その先生は、鉄平と話している。
「……先生。お美世はどうしてますか?」
「ああ。近頃は……」
草太は箒で床を掃き続けながらも、耳だけはそちらに向けていた。
なんとなく、聞いてはいけないような気がするものの、出てきた名前が名前だったので。
「草太! 鉄! 遅いぞ!」
その声は、窓の外から首を入れていた三吉のものだった。
「なんだ草太、今日当番か!? そんなのサボって行こうぜ! ……ぎゃ!」
勇ましい女班長が、坊主頭を箒で撃退する。
その光景に目を奪われている間に、鉄平達の話は終わってしまったようだった。
「じゃあな草太。先行ってるぜ」
「うん」
赤毛の少年が颯爽と教室を出て行ってから、草太は教壇で道具をまとめる先生に話しかける。
「ねぇ先生」
「ん?」
「今、お美世の話をしてたんでしょ?」
「ああそうだ。そう言えば、お前とも仲がよかったな」
「今どうしてるんですか?」
「それは鉄平に聞くか、後で私の所に聞きに来なさい。今は掃除の手を休めるな」
ぱこん、と平らな日誌を草太の頭に乗せながら言って、慧音先生は教室の扉に向かう途中、今度は女子の集団と話しはじめた。
草太は下唇を突き出し、お城に行けない三女になった気分で、箒を動かした。
ようやく掃除が終わって、寺子屋を出ると、すかさず草で作った手裏剣が飛んでくる。
その程度の歓迎は予想していたので、草太は慌てず避けた。
「おお! すげぇな草太。お前は忍者か何かか」
「今頃知ったのか? この程度の手裏剣、かわすなんて楽勝だよ」
「へー、木に登れなくても、忍者になれるんだな」
「うるせぇぞ三吉!」
笑って逃げ出す鉄平と三吉に、草太は手裏剣を投げ返した。
だけど、顔はどうしても笑ってしまう。
いよいよ夏休みが、始まったのだ。
○○○
夏休み。それは子供達にとって、口にするだけで気持ちが弾み、初日ともなれば有頂天となる期間である。
田畑を手伝うこともある草太といえど、例外ではない。
単に寺子屋の授業が無いというだけでなく、夏休みの期間には楽しい行事もある。
特に最後の行事の夏祭り。これが今年開催できるという知らせは、子供達の間に、一気に広まっていた。
もちろん、そういった催し物だけではない。夏は子供達に、遊びの道具を、多く提供してくれる。
朝一番の甲虫取り、暑さしのぎの川泳ぎ、鬼ごっこや隠れん坊だって悪くない。何より、遊び疲れた後に飲むサイダー。
三吉と鉄平と共に、下校途中どれから始めようか相談する間も、草太は足が地面についている時間がもったいないくらい、わくわくしていた。
そんな今年の夏休み、草太が一番始めにやったことと言えば、
「何で今日が三日市なんだよ~……」
空っぽの買い物籠を手に、草太は人で一杯の道の真ん中で嘆いた。
遊ぶ約束をして、意気揚々と家に帰ってきた草太の前に現れたのは、お使いを頼む家事の魔王(母ちゃんとも言う)であった。
断ればもちろん、今夜のご飯のおかずが無くなる。不覚にも、今日が三日市の日だということを忘れていたのである。
午前の掃除当番といい、今年の夏休みは、あまり調子のよい滑り出しとはいえないようだった。
草太が今いるのは、中央街道、通称では中通りという。
里を北と南に分ける路で、里でもっとも賑わう通りであり、店も多い。
特に、三日に一度開かれる市では、食べ物や服や道具等、様々なものの売り場で賑わうので、さらに騒がしくなる。
買い物に来た大人で混雑する道を、草太はメモを片手に歩いていた。
「今日は鮎かぁ。大根は重いから、後にするとして……」
草太が中通りで手に入れるのは、北里で獲れた魚や産みたて卵、里の南側の森や妖怪の山の麓の森で手に入るキノコ類、塩やごま、味噌、醤油といった生活に必須の調味料等である。
それだけじゃなく、ここでは外界から入ってきた、珍しい物がいろいろと売られているので、寺子屋から帰る際に寄り道して、歩いて眺めるだけでも楽しい。
お使いに来ても、品さえ揃えば文句は言われず、お駄賃ももらえるのだが、今日の草太は寺子屋の時から、ずっと運が無いのが心配だった。
そして案の定、魚屋さんに着いても、具合がよくなかったわけで、
「鮎、無いんですか?」
「ごめんねぇ、草ちゃん。まだ鮎は入ってないのよ」
母の幼なじみである魚屋のおばちゃんは、困った笑みを浮かべて言った。
「北川が大雨と地震で荒れていてねぇ。今年はヤマメの数も少ないし。鰻も丑の日までに間に合わないとねぇ。南川の方で探しているようだから、今日はこっちの干物で我慢してくれないかしら。そのかわり、おまけはつけておくから」
「あ、でも……」
「わかってる。この紙にきちんと書いてあげるからね」
おばちゃんは、すらすらと買い物用紙の裏に走り書きして、
「はい。お母ちゃんとお鶴ちゃんによろしくね」
「うん、ありがとうございました!」
草太は手に入れた魚を籠に入れ、礼を言って、また別の店に向かう。
今度は干し椎茸に、お醤油。こちらは問題なく買うことができた。
中通りをあらかた回って、残りが大根と茄子、キュウリだけになってから、草太の行き先は南里に移る。
だが、その前に、里の中心部にある、龍神像広場に寄ることにした。
里の大通りが二つ交錯したこの場所は、当然行き交う人々が大勢いて、その内の殆どは、広場に鎮座した立派な龍の頭像に目をやってから歩き去る。
龍神の石像は、目の色によってその日の天気が分かるのだ。白ければ晴れ、青ければ雨、灰色なら曇り、といった具合である。
もっとも、外れることもしばしばあるので、子供がお菓子等を賭ける対象として、よく遊びに利用されているのだが。
草太は近寄って覗いてみた。龍神様の眼は、綺麗な乳白色だった。
――よし。今日はたぶん晴れる。
遊べることを確認した草太は、元気よく走り出した。
次は南里。
父ちゃんは、南里の五番畑と、六番田を受け持っている。それらを同じ組合の人と共同で手入れし、一日おきに自警団の仕事をしていた。
これから行く家は、同じ畑の持ち主であり、草太は自分の家から眼をつぶっても案内できる。
寺子屋に近いこの区画は木の塀でできた、迷路のような道が多いため、鬼ごっこにもよく使われているので尚更だ。
固い土の通りにできた水たまりを避けながら、塀の向こうに見える柿の木を目指してまっすぐ進み、突き当たりを右に行って、次の曲がり角を左に……
「……あれ?」
草太は気になる後ろ姿を見つけた。
大人と手をつないで歩いていた、着物の少女。
向こうの曲がり角に消えようとしている寸前、その横顔が見えた。
「お美世?」
呼んだのか、口に出してみたのか、声は中途半端になって出てきた。
だが、遠くの少女は足を止め、確かにこちらを向いた。そして、草太を見て……
「おい、そこのお前」
急に、どん、と腰を蹴飛ばされる感触があった。
草太は地面に転がりながら、反射的に買い物籠を後ろに大きく振った。
だが、手応えはない。空振った向こうで、「おおっ」とにやけ笑いを浮かべた少年が、身を引っ込めている。
「なんだよ。ちょっと挨拶しただけじゃねーか」
「南里のやつは、ひょろいんじゃねーの?」
草太より体の大きな、少年達が立っていた。
数は五人。薄汚れた服に破れた草鞋、数人は短い竹の棒を武器のように携えている。ここらで見かけない顔だ。
――北里の……!
草太は怒るよりも、驚愕した。
ここは、中央街道よりもかなり南の区画なのに、なぜ彼らがここにいるのだろう。
草太を蹴飛ばしたらしき少年が、薄笑いを浮かべながら、
「あのさ、俺たち、南で遊べる川を探してんの。魚も獲れるところだ。お前、場所知ってるだろ。教えろや」
「……誰がぁ」
草太は立ち上がって、言い返した。
南里の子供とは明らかに違う雰囲気に、呑まれないようにしつつ、
「教えるもんか。北里には川がいっぱいあるじゃないか。魚ならそこで獲ればいい」
「耳の穴詰まってんのか? お前は南里の川を教えればいいんだよ。他は何も聞いちゃいねぇ」
中央にいた、目の細くひょろりとした少年が、そう言って見下ろしてくる。
「俺たちは北里の百鬼団。そして俺は副首領のカカシだ。知ってるか?」
知るもんか、と言い張りたいところだが、北里の百鬼団と聞いて、草太はわずかにひるんだ。
里が四つに分かれているといっても、寺子屋には里の各地から子供が集まるため、草太もあちこちに友人がいる。
ただし、北里の百鬼団と、南里の天狗組だけは別で、二つはまさに犬猿の仲、などと言えばどちらも俺達が犬だと譲らず、竜虎に例えれば竜の名を奪い合うという、まさに憎み合いの関係だった。
だが、百鬼団の悪行は許せるものではない。喧嘩をふっかけてくる程度ならともかく、南里の子供がいじめられたり、恐喝されたりすることは許せない。
それだけではなく、牛泥棒やらボヤ騒ぎ等、あるいは妖怪と密かに通じているとか、退治しただとか、悪い噂だけなら事欠かなかった。
そんな悪名高い百鬼団の中で、このカカシという少年は、南里でも有名であった。
虎の威をかる狐、という諺があるが、彼はまさにその狐だという。実際、糸のように細い目も尖った顎も鋭い耳も、狐を思わせる外見である。
そして彼らの首領は『虎』ということだ。草太も『虎』の方はよく知っていたが、『狐』と会話するのは初めてだった。
「何じろじろ見てんだ。さっさと川まで連れて行け。……いや待て。その籠の中、見せてみろや」
百鬼団の少年達は、いつの間にか草太を取り囲んでいた。
左右は塀。道に人の姿は無い。恐喝の際に使う彼らの手口は巧妙で、一人で歩いている所を尾行し、大人の見ていない所で囲むと聞く。
まさに、今の草太の状況である。
「なんだこれ、お使いか? ひでぇ魚」
籠を覗かれた草太は、かっとなって、そいつに飛びかかった。
だが、あっさり足を引っかけられて転ばされる。
再び嘲笑が頭上から降ってきた。
「また勝手に転びやがった。ミミズみてぇだ」
「お、結構持ってんじゃん。もらっとこうぜ」
地面に落ちた籠の中に、少年の一人が手を入れようとする。
途端、地面に火花が走った。
同時に少年の体が、いきなり吹き飛ばされたかのように、塀に叩きつけられる。
うっ、と唸った別の少年が、また逆の方向に弾かれて、呆然としてた一人の少年にぶつかり、もんどり打って倒れた。
カカシと残った一人は、後ずさりする。
「……南里で勝手な真似されちゃぁ困るな」
草太は自分を救出したその姿を、地面から見上げた。
「鉄平!」
「草太、怪我してねぇか?」
手を貸してくれるその赤毛の少年は、まさしく草太の友人である、天狗組の大将、霧雨鉄平だった。
だが、今朝に見た服と違って、金ボタンのついた黒いチョッキ、上等なズボンのそれは、よそ行きの格好というか、いいとこのお坊ちゃんという感じである。
現れた草太の助っ人を見て、カカシが唾を道に吐く。
「……けっ。霧雨野郎の子分だったのか」
「おっと、誤解すんなよ。俺がこいつの子分なんだ。ま、ミチ婆のアイスの棒が、当たりかどうかで変わるけどな。なぁ草太」
鉄平のでたらめな理屈に、草太は怒るのも忘れて、にやりとしてしまう。
反対に、百鬼団の少年達の顔からは余裕が無くなっており、目はすでに鉄平にしか向いていない。
「鉄平。この前はよくも……文太がてめぇに必ず借りを返すぞ」
「へぇ? どの借りだったか忘れたけど、死ぬまで貸しといてやるよ」
「何強がってんだ! あのとき文太に相撲で吹っ飛ばされたんだよてめぇは!」
「ああ、あれはあいつがあまりにも臭かったんで、ひっくり返ったんだ。その後きっちり顎に食らわせてやったけどな。気ぃ失ったあいつは重かったろう、お前ら。帰りは大変だったようだし」
不敵で豪胆な返答が、なんとも頼もしい。
少年達が怒り狂い、鉄平に向かって来る。
彼は慌てず、腰から短い杖を取り出して強く振ると、ぱん、とまた地面で火花が散った。
「……普段なら使う気はないけど、南里で悪さするんなら話は別だ。食らうと火傷するぜ」
北里の少年達は、明らかに動転し始めた。
彼らを脅かしている正体は、鉄平の『魔法』である。
マッチを使わずに火をつけ、ランプを用いずに明かりを作り、弓矢を使わずに妖怪を撃ち落とす、神秘の力。
人間の里では希少な能力であり、鍛え上げれば妖怪を退治することだってわけはない。
霧雨鉄平の凄いところは、喧嘩が強いだけではなく、まだ十かそこらの子供なのに魔法が使えるところなのであった。
南里の少年の代表は、短い木の棒をサーベルのようにして、これ見よがしにゆらゆらと動かし、
「どうしたカカシ。来ねぇのか。それとも自慢の雑魚共を連れて、北里に帰るか?」
「……おい、鉄平」
カカシが一転、ずる賢そうな笑みを浮かべた。
「お美世が今どうしてるか知ってるか?」
その名が出た途端、鉄平の顔から、表情が消えた。
「今ごろ文太と仲良く、北里の川で遊んでると思うぜ。お前のことなんて、とっくに忘れちまったとよ。ざまぁねぇな」
友人の怒気が膨らむのを、隣に立つ草太は感じた。
そこで、先ほど見た光景を思い出し、カカシに言ってやる。
「やいカカシ! さっき久しぶりに、南里でお美世の姿を見たけどな。お前の言うとおり、文太と仲良く手ぇ繋いで歩いていたよ」
「なっ! おい、本当か!? 草太!」
「嘘じゃないよ鉄平。でも、あの文太はお化粧してるおばさんにしか見えなかったんだけど、ひょっとして、文太はお美世と遊びたくて、オカマになっちゃったのかな? 変な奴だよね」
「ぶっ」
今度は鉄平が、草太の台詞に吹き出す。
北里の少年達の、間抜け面といったらなかった。
「そりゃあ、いいこと聞いた。いくら俺でも、オカマの文太と殴り合う気はないぜ。いいお嫁さんになるといいな、ってよろしくいっといてくれ」
「……………………」
「それと、南里で今度その顔見かけたら容赦しない。ましてや、俺の仲間に手をだしたら、百倍返しだ。覚えとけよ」
「てめぇこそ覚えてろや鉄平。北里の百鬼団を舐めたらどんなことになるか、思い知らせてやるからな……行くぞ」
少年達は、泥のついた頬をぬぐったり、恨めしい目つきで鉄平を見てから去っていく。
帰り際、最後尾の狐目の少年は、草太の方を向き、
「お前の顔も覚えたからな。覚悟しとけよ」
捨て台詞だと分かっていたが、ぞっとしない口調だった。
まぁ北里の縄張りに一人で入り込むほど、草太は愚かではない。
やがて彼らはいなくなり、道には二人だけが残る。
草太は急いで、落ちた籠の中身を確認したが、買ったものはどれも無事だった。
嫌な目にはあったが、この後怒られずには済んだらしい。
「行こうぜ、草太」
鉄平が草太の肩を軽く叩いて言った。
○○○
一悶着を終えた二人は、互いの家に向かって、並んで歩いていた。
鉄平も南里に住むため、途中まで道が同じなのである。
「ありがとな。草太」
「え、何が?」
礼を言うのはこっちのはずだったので、草太は驚いた。
鉄平は歩きながら杖を回し、肩をすくめて、
「挑発だとわかってたのに、つい頭に血が上っちまった。焦ると魔法って使えないんだ。あのままだと、失敗していたかもしれない」
「そっか。前に教えてくれたね」
「魔法を使うんなら、いつだって、ふてぶてしくなきゃいけないってこと。それより……本当に、お美世を見たのか?」
「うん、あれは間違いないよ。僕の顔を見て、一瞬驚いていたし」
「そっか。元気そうだったか?」
「……わかんないや」
「……だよな」
そこで鉄平は明るく笑った。
「いや、でも助かったぜ。この服、喧嘩で汚してたら、いよいよ親父に袋叩きにあうところだったからな」
真っ黒な上着をつまんで、友人は言う。
片方の手には、霧雨の紋入りの箱があった。
「今日、手伝いだったんだ」
「ああ。急にお使い頼まれた。ま、でもお前も同じだったわけだし、おあいこか。龍神様は見てきたか? 午後は晴れらしいぜ」
「僕も見てきた。鉄平も中通りにいたの?」
「いた。稗田さんていう大きなお屋敷の所に、この箱の中身を届けに行ってきたんだよ。お袋は、俺の顔を覚えてもらえ、だって。俺は覚えてなんてないっつーの」
笑い飛ばすその様は、去年の夏に西瓜泥棒を働いた友人と変わらない。どんな服を着ても、やっぱり鉄平は鉄平だった。
南里の悪戯仲間であるし、大人に対しひねくれた態度をとることが多いが、仲間に対しては素直で熱く、曲がっていない。
木登りも泳ぎもうまいし、腕っ節は強い。それでいて小さい子供にも優しいので、南里の少年の間でも、すでに英雄的な存在となっている。
この天狗組の大将が、里でも老舗の大道具店の、大事な跡取り息子なんだから、人は見かけによらないものである。
「鉄平は凄いよなー」
草太はいつものように、そう言った。
「喧嘩は強いし、魔法だってちょっと使えるし、格好いいしさ。それで家は大きいんだから」
三吉や南里の男子、あるいは女子が決まって言う台詞に、乗っかっている自分がいる。だけどそれは、草太の本心全てじゃなかった。
もちろん、鉄平を尊敬しているのは本当だけれど、その凄さに多少嫉妬しているのも同じだった。
ただ憎む気持ちまでは生まれない。先ほどだけじゃなく、鉄平に助けられたのは、一度や二度じゃないのだから。
それだけに、次に鉄平が言った台詞には、意表をつかれた。
「……ここだけの話、俺はお前や三吉が羨ましいよ」
「え?」
鉄平の声には、ほんの少し、弱音が混じっていた。
「だって、親は姉貴じゃなく、俺に店を任せようとしてるし、それだと自警団には、なれないからな」
「やっぱり鉄平は、自警団に入りたいんだ」
「うん」
彼は前を見たまま、うなずく。
自警団は、男の子が憧れる職業の一つである。もっともそれは、四方を妖怪の領域に囲まれる、この人間の里に限られる話らしいのだが。
「どうせ魔法を扱うなら、商売に使うんじゃなくて、妖怪退治に使いたい。そういうのに憧れてるんだ。里を脅かす奴らを、片っ端からたたきのめす、すげぇ奴になりたい。人間を殺す妖怪は許せねぇ。そう思うだろ?」
鉄平の口調は熱い。だが草太も、友人の気持ちがよくわかった。
信じられないことだが、この幻想郷の外の世界では、人間と妖怪が出会うことなど、滅多にないらしい。
だから、人間が食われて死ぬなんてこともない。そのかわり、人間同士が殺し合う、もっと辛い世界もあるんだ、と慧音先生は授業で言っていた。
でも、現実に妖怪に殺されて、親を失う子供がいたり、子供を失う親がいることを考えると、妖怪なんていなくなってしまえばいい、草太はそう思ってしまう。
外の子供達は、どんなことを考えて生きているのだろう。もし博麗の巫女様みたいに、空が飛べるなら、別の国に行って聞いてみたかった。
鉄平の話はまだ続く。
「でも、霧雨家の長男は俺だからな。姉貴が男ならなぁ」
「そ、そうだね」
「俺の子供とか孫とかも、こんなことで悩んだりしなきゃいけないのかなぁ。ちょっと可哀想だと思うんだけど……変なガキかね、俺って」
「いや、そんなことないよ」
草太は何とかうなずいた。
友達がまた階段を上ろうとしている。新たな場所へと進もうとしている。その予兆に気がつき、妙に胸が騒ぐ。
「草太、この後遊べるんだろ?」
「あ……」
「そうか。今日は手伝いの日か。じゃあまた今度だな」
「……うん」
「あばよ」
十字路で軽く別れを告げて、鉄平はその向こうにある、二階建ての大きな木造家屋に走って行く。
威勢のよいその後ろ姿を見ながら、草太はしばらく立っていた。
やがて、家に帰った草太は、買い物籠を母に渡し、急いでお昼を済ませ、お鶴の遊びの催促を適当にあしらって、近くの雑木林へと走った。
なんだか無性に木に登りたくなったのだ。
○○○
挟んでいた足が滑り、伸ばした右手が空を切る。
どしん、と草太は、今日六度目の尻餅をついていた。
「いってー!」
太ももをさすって、恨めしく天を見る。雑木林に立つ木が、昨日と同じく、こちらを見下ろしている。
再び、草太はその大木に挑みかかっていった。本日十度目の挑戦だ。
三吉は妖精を捕まえることを、この夏の目標にしていたが、草太の目標は、一昨年から変わっていない。
すなわち、自力で木に登る、ということであった。
里の子供は男の強さを、四つの項目で競い合う。
かけっこ、相撲、水泳、木登り。
草太はかけっこは普通で、相撲は真ん中より下程度、泳ぎは割と得意であるが、木登りは成功したことすらなかった。
「くっそー、やっぱだめか……」
再び土のついた手をこすり合わせ、草太は根っこに腰を下ろした。
こうして秘密の特訓をしているのには、理由がある。今年の夏に木登りを覚えなければ、間に合わないのだ。
もうすぐ寺子屋を卒業する年が近づいている。そうしたら大人の手伝いで、鉄平達と遊ぶ時間も減ることになる。
それまでに、自力で木に登って、スモモや桑の実を、自分の手でもいで食べてみたい。
何より、鉄平や三吉と同じ場所にたどり着き、みんなと過ごせる残り少ないこの夏を、特別な季節にしたい。
それが草太の願いであり、この夏の目標なのだった。
休憩を終えて、草太はもう一度、木に挑戦しようとすると、
「あれ」
別の木に張り付いている、一匹の虫に気がついた。
よく見るまでもなく、蜘蛛である。それも大きくて、真っ黒で、黄色い斑点のついた奴だ。
例の『飲んだら死ぬぞ池』で、溺れていた種類に間違いなかった。ここら辺にいっぱい棲んでいるのかもしれない。
その瞬間まで忘れていたのに、あの時木の上で見た妖怪を思い出し、草太は嫌な気持ちになった。
「何見てんだよ。あっち行けよ」
文句を言っても、虫に話が通じるわけはない。
追い払おうとしていると、林の別の側から、話し声が近づいてきた。
草太は咄嗟に、木の陰に身を隠す。手伝いだといって別れてしまった、鉄平かその仲間達かと思ったのだ。
が、草を踏み分けて進んでいたのは、予想外の人間達だった。
「いい林だな。ここもいただいちまおうか」
なんと、狐目の少年カカシ他四人。さっき険悪な雰囲気で別れたばかりの、北里の百鬼団だった。
「馬鹿。狙いはあくまで川なんだ。とりあえず探すぞ」
「……けど、また自警団の奴らに言われたら、どうするカカシ」
草太は十メートルほど離れた木の陰から、聞き耳を立てる。
どうやら彼らは、まだ南里で川を探していたらしい。
一人が不安げに言った内容で、草太は容易に彼らの行動を推測できた。
きっとあの後、川の周辺をうろついているところを自警団に見つかり、怒られたのだろう。
南里の草太達とて、見逃してもらえはしない。南の川は、入る場所がきちんと定められているのだ。
カカシが、ふんと鼻を鳴らして、
「遊ぶ場所が無いわけはないんだ。探せば見つかる。だけど、問題は鉄平だ。あの馬鹿力がうろついている限り、南里のシマは奪えねぇ」
「じゃあどうすんだよ」
「まあ聞け。あいつの弱点はわかってんだ。それを上手く利用すれば、必ず俺たちが勝てる。あいつの泣き顔を拝めるぜ」
とんでもない相談をしている。南里を奪う、と聞いて、草太は義憤に身を震わせた。
とはいっても、草太一人では到底敵いそうにないし、見つかっても先ほどのことがある。言ってすんなりと帰ってくれるはずはないし、帰してくれる気もしない。
すぐにでも鉄平に知らせにいきたいが、ここは無謀な挑戦をせず、様子を探ることにした。
だがそこで、近づいていたあの蜘蛛が目に入り、うっ、と喉が震えて、
「おい。今何か声がしなかったか?」
少年の一人が、きょろきょろと見回して言った。
「誰か近くにいるんじゃねぇか。聞かれるとまずいぜ」
「気にしねぇよ。見つかっても、鉄平じゃなければ大丈夫だ。後は、南里の大人じゃなきゃあ……」
「……妖怪じゃねぇか?」
カカシを含む、五人が沈黙した。
「ここってさ、里の境目が近いだろ。もしかして、妖怪が出るんじゃ」
「……馬鹿。そこまで近くねぇ」
「でもこの前に、里で襲われた大人がいたっていうじゃねぇか。確か、夜雀に」
「なんだその『よすずめ』って」
「おっかねぇ妖怪だよ。思わず近づきたくなるような綺麗な歌を歌って、それで人をおびき寄せて食い殺す……」
そこで一人が、遮るように言った。
「待てよ。本当に、声だったのか?」
「いや、鳥かもしれねぇけど……」
「そう言えば俺、さっきそっち側で、何か見た気がした」
全員が、林の奥の方を見る。
折れて倒れた木の他に、汚い色をした池がある。
生き物の姿は無いが、何となく怪しい雰囲気が漂っていた。
「おい、誰か隠れてんのか!」
「……………………」
「いるなら出てこい! 南里の野郎か!?」
「……………………」
「それとも、妖怪か……?」
怯えた声音で問いただすと、
「……ら~ら~ら~♪」
細い歌声が聞こえてきて、五人は震え上がった。
「ほ、ほら! 聞こえるぞ! やっぱり夜雀だよ!」
「耳を塞げ! 殺される!」
怯える仲間を、カカシは叱咤した。
「う、歌が聞こえてきただけで、妖怪と決まったわけじゃねぇ! 女が歌ってるだけかもしれねぇだろ!」
「でも何か、不気味な音色だぜ」
「お、俺、ちょっと確かめてくる」
一人がそう言って進むのを、他の一人が止めた。
「馬鹿! 食い殺されるぞ!」
「でも気になるじゃねぇか! ただの人間かもしれねぇし!」
「それが妖怪の誘いなんだ! 歌に誘われて、のこのこ近づいた奴を食うんだ!」
歌声はまだ続いている。
それほど綺麗な声とは思えなかったが、確かに何がそこにいるのか気になって仕方がなかった。
これが誘いだとしたら、子供の好奇心を利用した凶悪な妖怪である。
「……覗くなら全員だ。五人で見て、何かあれば一斉に逃げるぞ」
結局そういうことになった。
そろりそろりと、おっかなびっくり五人は近づいていって、
覗こうとするその瞬間、歌声が止んだ。
「ぎゃああああああああああああ!」
断末魔を思わせる、尋常じゃない叫びに、
「ぎゃああああああああああああ!!!!!」
五人は一斉に似た叫びを放ちつつ、雑木林から逃げ出した。
○○○
草太は枝葉でできたトンネルを、無我夢中で走っていた。
理由は、妖怪の真似をしていたのがばれそうになったからではない。
正解はさっきの蜘蛛、そして『マムシ』が原因である。
歌っている最中、なぜか木の幹を登ったり降りたりして注意を促す蜘蛛に、下を見てみると、いつの間にか、足下に毒蛇が一匹いたのに気がつき、ため込んでいた緊張が一気に噴出して、絶叫しながら走ることになったのである。
先週通り抜けたトンネルを、恐怖で麻痺した頭を抱えて、草太はでたらめに走っていた。
やがて出口が見え、この前とまた違う、知らない場所に飛び出した。
そこに地面はなかった。
飛び出した勢いのまま、体が宙に投げ出される。
「うわああああ!」
空中を泳ぐように、草太は手足をばたつかせた。
落下の感触が襲ってきて、下に地面が見え、本能的に目を閉じて、身を丸めた。
しかし、予想していた衝撃は、固い地面や石が体を打つ痛みは、ついにこなかった。
そうではなく、何か柔らかい網のようなものにぶつかり、体が逆に浮き上がって、またそこに乗った感触がした。
恐る恐る目を開けてみると、視界が地面に落ちる前で停止している。自分が今空中にいて、網に受け止められたということがわかった。
それは子供達が林で遊ぶときに使うハンモックかと思ったが、太い茶色の綱とは異なっていた。
細い銀の糸を束ねて作られており、一見珍しい毛糸のようだが、指に触れると硬く、それでいて適度な弾力がある。
やがて草太は、自分を受け止めたのが、水平に張られた巨大な蜘蛛の巣であるということに気がついた。
「わわわっ」
起き上がろうとしたがうまくいかない。
とにかくうつ伏せの状態から戻って……靴が見えた。
「……え?」
その巣にいたのは、自分だけではなかった。
全く予想していなかった先客が、存在していることに気がついた。
もしそこで待っていたのが、大きな牙を持った八つ目の巨大蜘蛛だったなら、草太はまた悲鳴をあげるか、心臓を止めていただろう。
だが、違った。それは、巣の上、太い糸の一本に、ちょこんと両足を乗せ、微動だにせずに、こちらを見下ろしている……。
「……あ……」
少女だった。
十歳の自分より、二歳か三歳上くらいの外見であり、すすき色の髪をこげ茶のリボンで、ぼんぼりの形にまとめている。
村娘のような髪型だが、服装は変わっていた。
すらりとした手足と、だぶだぶのエプロンのような茶色いスカートがアンバランスで、黄色いベルト状の紐をいくつも巻きつけているのも、奇抜なデザインだ。
さらに、その肌が不自然なまでに白いことに、草太は驚いた。すでに夏の盛りが近づいているというのに、日焼けの跡すらなく、蝋燭のような白さだ。
口元にはあるか無しかの微笑み。時々、瞬きする以外は、彫刻のように、動く気配がない。
両の瞳も、感情を表現しない、小鳥のような目だった。
全身像を眺めるうちに、草太は思い出した。
あの時、大きな樹の上で見た存在、妖怪だ。
そう気がついて、鳥肌が立った。北里の少年達に見つかることや、マムシに襲われることとは比べものにもならないほど、今の自分は危険な状態にある。
「あ……う……」
寺子屋では慧音先生から、自警団の人たちや父ちゃんからも、実際に妖怪に遭遇したとき、どう対処するかについて厳しく教えられている。
六つの妹だって知っている。
一、落ち着いて後ずさりしろ。
二、襲ってくるなら、ジグザグに逃げろ
三、大人の助けを呼べ。
しかし、いざ実際に目の前に立つと、怖くて逃げ出すこともできない。
助けを呼ぼうにも、ここは里から離れており、人が近くにいるとも思えない。後ずさりしようにも、ここは巣の上だ。
ただ、今のところ妖怪は、こちらを見つめたまま、何も言わず、襲ってくる気配もなかった。
草太は隙を見て、全力で逃げるタイミングを窺う。そろそろと指を動かし、立ち上がろうと別の糸に触れると、
――あ、あれ?
動かない。
見ると、巣の糸が手にべっとりとくっついていた。引き離そうともがくと、今度は逆の手についた。
やはり離れない。さっきはそんな鳥もちのような手応えはなかったのに。
草太は焦りつつ、なおももがく。巣がゆらゆらと大きく揺れた。
「……横糸じゃなくて、縦糸を掴むんよ」
場違いなほど落ち着いた口調に、草太はきょとんとした。
そこで、今しゃべったのが、目の前の妖怪だということに気がついた。
「横糸じゃなくて縦糸。あ、縦と横がわからない?」
彼女はそういって、小さな人差し指を、十字に交錯させる。
草太は言われたとおり、縦に編まれている糸に触れてみた。確かに、粘つく感触はしない。
何とかバランスをとりつつ、えっちらおっちら立ち上がると、その妖怪と目が合う。
その大きな目と対照的な、小さな口が動いた。
「……人間かぁ。久しぶりに見たけど、変わんないもんねぇ」
「へ?」
「ずいぶん騒がしかったけど、妖怪にでも襲われていたの?」
「いえ……その……走ってただけです」
「あ、そう。それで上から落ちてきたの。でも、ここらは変な地形が多いから危ないよ。私が受け止めてあげなかったら、足を折っていたかもしれない」
草太は網の細かい隙間から、改めて下を見てみた。
茂みの中に、尖った岩肌がいくつか見えている。
今度は見上げてみると、落ちてきた崖も、草太の背丈四つ分の高さはあった。
もし、この巣に引っかかっていなければ、確かにひどい怪我を負っていただろう。
つまり、自分はこの妖怪に助けられたということだった。
「あ……ありがとうございました」
一応、感謝の言葉を述べる。
それが意外だったらしく、妖怪は、お、と瞬きして、微笑しなおした。
「ちゃんとお礼が言えるのね。感心、感心」
そう言って、彼女はくるんと背を向ける。
そのまま、ふらつく様子も見せずに、縦糸の上をすたすたと歩き、ぽーんと一間は飛んで、木の枝に乗り移った。
あまりに自然で、なおかつ不自然な動きに、草太はあんぐりと口を開けた。
里の子供に木登りの名人は多いが、あんな軽業見たことがない。
動物なら話は分かるが、猫だって栗鼠だって四足だ。二つ足で、枝の上をふらつかずにスタスタ歩く彼女は、間違いなく妖怪のようである。
しかし、妖怪なら何で、自分を食べずに、助けてくれたのか。
彼女はしゃがんで、木の枝に結ばれていたくも糸を、ちょいと撫でた。
すると、巣全体がたるんでしおれ、草太は地面まで、安全に降りることができた。
同じく木から飛び降りて、音も無く着地した妖怪は、
「じゃあ、気をつけてお帰り」
軽く別れを告げて、森の奥へと歩き出す気配を見せる。
草太はその背に、思わず聞いていた。
「あ、あんた妖怪じゃないの?」
「妖怪さ。ただし、地底から来たんよ」
「地底……」
「……あ」
そこで妖怪は立ち止まり、後ろ髪を揺らして振り向いた。
早足で戻ってきて、草太の鼻先に指を突きつけ、
「あのさ、私とここで会ったこと誰にも、言わないでほしいんだけど」
「はっ?」
「あー……そうか。むしろここで命を取ってあげた方が、後々面倒じゃないかもね」
「いいっ!?」
「でも、食べもしない人間を殺すのは、ちょっとなぁ……」
「だ、誰にも言いません! 絶対絶対言いません! だから殺さないで! 食べないで!」
遭遇してからしばらく経っていたが、ようやく草太は土下座して、その妖怪に命乞いをしていた。
彼女は腕を組んで首をひねりながら、うーん、と悩んでいる。
やっぱり食べよういただきます、なんて言われたらたまらない。
じいちゃんはこの前の話で、どうやって対処してたっけ。えーと、えーと。
「う……腕を食わせろー」
「はい?」
「あ、違った。僧だ。僕は僧なんだぞー!」
「僧……お坊さんってこと?」
「僧なのだー!」
「ってことは、食べると御利益があったりするのかね」
「嘘です! 御利益なんてないです! 食べないで! 堪忍してください!」
また土下座する。やはり、祖父のようにはいかない。
ちらりと見上げると、妖怪は、妹が嫌いなにんじんを残せずにいる時のような、口を軽くへの字にした難しげな表情をしていた。
だがほどなくして、「仕方ない、運が悪かったね」と呟き、こちらに手を向けてくる。
泡を食った草太は、必死で話題をそらすことにした。
「あ、あの樹のところに住んでるんですか!? ほら、すっごくでっかくて、一本だけ立っている――!」
喉に伸びてきた妖怪の手が、途中で止まった。
「おや、何で知ってるの?」
「な、七日前の大雨が降った日に、見たんです」
「七日前……」
「はい。雷がピカッと光って、その時ちょっと目が合って」
「……ああ!」
彼女は、ぽん、と手を鳴らし、弾んだ声で言った。
「そうか! あの時の!」
「覚えてましたか!?」
「うんうん! 思い出した! あはは人間だったんだ! 山犬か猪かと思った! あははは! 可笑しいね!」
「はははは! 可笑しいです!」
「でもそれにしては間抜けで鈍くさい逃げ足だったね、確かに! あははははは!」
「はははは……」
「あははははは!」
「………………」
「あははははは!」
何がそんなにおかしいのか、妖怪は体を折り曲げ、腹を抱えて爆笑している。
こちらを思いっきり馬鹿にした、そうでなければワライタケでも食べたような、見事な笑いっぷりだった。
付き合うように愛想笑いを浮かべていた草太は、だんだん癪に障ってくる。
やがて起きあがった妖怪は、まだくっくっと肩を震わせながら、
「じゃあ、あの樹を探して、ここまでやってきたのかい?」
「う、うん。そう、なのかな」
「なるほどなるほど。ということはひょっとして、あの日、私の使い魔を助けてくれたのも、お前さん?」
「え?」
「ほら、そいつよ」
彼女は木の根元を指差した。そこに、さっき見たあの大きな黒蜘蛛が、じっと動かずにいた。
「あ……そうです。あの時、池で溺れていたから、可哀想だと思って」
「やっぱり。謎が解けてすっきりした。助けてくれてありがとう」
「い、いえ。こちらこそ」
妖怪にお礼を言われて、草太は頭をかいた。
自分の未来に望みが出てきたのを察知し、聞いてみる。
「じゃ、じゃあ。見逃してもらえますか?」
「だめ」
笑顔での即答だった。
「ええっ、だめなの!?」
「割に合ってないもん」
「そんなぁ!」
「私はあんたが怪我しそうなのを助けただけだけど、そいつは命を救ってもらった。だから、まだちょっと借りがある」
「え。あ、そういうこと。よかった……」
「さぁ、何がお望みかな? できることなら叶えてあげよう」
妖怪は踊るような仕草で回り、奇術師のように両腕を広げて言った。
草太は面食らっていたが、とにかく状況を理解する。
「つまり……あの蜘蛛を助けたお礼として、僕の望みを叶えてくれるっていうことだよね」
「私にできることならね。ただし、一つだけでご勘弁。石炭を金貨に変える能力がほしいとか、生首だけで生きられる体が欲しいとか、無茶な願いは却下」
「……全然意味がわからないけど……ええと……じゃあ」
「お? ちょっとお待ち」
草太が思いついたことを言う前に、彼女は蜘蛛の所まで行き、それを手に乗せて独り言を始めた。
「なになに……? ほうほう……。なぁるほど……。あれま……」
「……うへぇ」
なんてこった。草太にはさっぱり聞こえないが、蜘蛛と会話しているらしい。
外見は普通の人間なので、その光景は傍目には、悪趣味な絵物語のようだった。
やがて彼女は納得したようにうなずき、こちらを向く。
「……よし。事情は分かった。ついてきなよ」
「え?」
「あの樹のところに案内してあげるから」
彼女はそう言って、再び森の奥へ歩き出した。
草太は後に続くか迷う。
とりあえず、すぐに殺されるということは無くなったらしいし、なにやらお礼をしてくれるらしいが……。
浦島太郎というお話がある。助けた亀の誘いにのって、竜宮城に行って帰ってくると、おじいさんになってしまうお話である。
幻想郷には海がないので、この場合森ということになるが、向こうに待っている境遇が、乙姫様による歓迎とは限らない。
なにしろ、今草太がいるこの森は、人間が立ち入ることを許されていない危険領域なのである。
「そこで一人でいると、他の妖怪に食われちまうよー」
呼ばれると同時に、頭上でカラスが不気味な声で鳴いた。
結局草太は、その場所から逃げるようにして、慌てて彼女を追った。
○○○
鬱蒼とした森の中を、妖怪は迷い無く、どんどん進んでいく。
草太は不安な気持ちになって、何度も聞いた。
「ねぇ、お礼って何?」
「いいから、いいから」
「どうして僕を連れて行くの?」
「いいから、いいから」
さっきから、それしか言ってくれない。
周囲の風景に見覚えがあることから、この前に見た、あの大きな樹の元へ向かっているのは確からしい。
ただ、そこで何が待ち受けているのだろうか。
まさか、妖怪がたくさんいて、『お昼ご飯を連れてきたよー』とかは……。
そんなぞっとしない結末を考えている内に、蜘蛛の案内で一人迷いながら進んだ時よりもかなり早く、草太はあの野原に来ていた。
五日ぶりに、樹に再会する。
やっぱり、対峙するとうなじの毛が逆立つほど、大きな樹だ。
でも、雷の下で見た時と違い、日の光を浴びる大木は、雄大で優しい雰囲気があった。
微風が起こす葉っぱのざわめきに混じって、鳥の歌が流れている様子は、これが楽園の守り神であると言われても信じたくなってくるほどのものだ。
しかし、幹の部分は楽園どころか、まさに怪獣だった。でたらめに太いだけでなく、緑色の苔がびっしり生えていて、要するにすごい迫力だった。枝の凄さも相変わらずだ。木の葉っぱも小山の様。そして、この前じっくり見る暇の無かった根にいたっては、一つ一つが人間の胴ほどもあり、伸び放題に伸びて、まるでお化けのようである。
「ほら、こっちにおいでよー。えーと……」
その幹の前で小さく手招きしていた妖怪は、あれ、と首をかしげて、
「……そういえば、名前を聞いてなかったね」
「あ、僕は草太」
返事しつつ、木の根につまずきそうになりながら、草太は彼女の元まで行く。
陽の光に不足しない野原と違って、樹木の下はほの暗かった。
「太い草って書いて、草太」
「太い草? それなら、太草(ふとくさ)さんじゃないの?」
「違う! 草太(そうた)! 神田草太!」
「そう。私はヤマメだよ」
「……ヤマメ?」
その名前に、草太も首をかしげた。
「ヤマメって……魚のことだよね」
「おいおい人間君、私が魚に見えますかい」
「魚というか、むしろ人間に見えるんだけど」
「ふぅん。子供は正直だね。何の妖怪か当ててごらんよ」
「えーと、ひょっとして、蜘蛛……」
「ご名答! 私は地底からきた土蜘蛛、黒谷ヤマメでござい。以後お見知りおきを」
草太は、やっぱり、と納得した。
あの巣で受け止められてから、なんとなくそんな気はしていた。
でもその姿は、いつも見かける蜘蛛とはだいぶ違うというか、むしろ外見はやっぱり人間に近い。
考えてみれば、慧音先生も怪物のような姿はしていないので、妖怪とはこういうものなんだろうか。
現実の蜘蛛も、こんな女の子の姿だったら、嫌われたりしないだろうに。
いや……それが家の中を這い回っていたり、軒下に巣を張っていたりしたら、やっぱり不気味だ。
草太は変な想像を頭の中から消して、とりあえず、土蜘蛛の妖怪ヤマメ、とだけ覚えた。
彼女はぽんぽん、と樹に触れている。
間近で見ると、幹の太さはますます凄く感じられる。ぐるぐる回って追いかけっこしても面白そうである。
そういえば、里に昔、大きなクスノキがあったと、大人が話していたけど、この樹もクスノキなのかもしれない。
ひだの多い木肌は、ぷぅんと鼻につき、家の箪笥と同じ臭いがした。
「あの、ヤマメさん」
「ヤマメでいいよ」
「……さっきから聞いてるけど、ヤマメは何でここまで僕を連れてきたの?」
「そりゃあ、この樹があるからよ」
ヤマメはそう言って、横に一歩移動し、「どうぞ」と手を傾けた。
「登りゃんせ」
「え」
と言ったきり、草太は絶句した。
妖怪ヤマメは、当然のように告げる。
「登りな、っていってんのよ。樹があったら、普通は木登りじゃない」
「…………」
「ほら、遠慮しないで」
草太は重い首を動かして、見上げた。
頭上はいくつもの梢が重なり合って、緑の天井ができている。
樹の表面には、いくつか洞や瘤が見えるものの、一番低い枝でも、草太の身長の倍以上の高さがある。
普通の木にすら登るのに苦労している子供にとって、これは途方も無い難題に思えた。
「登らないの?」
「……登るよ」
草太はぞんざいな口調で言って、苔のついていない部分、幹の木肌に手をかけた。
思ったより、ひんやりした手触りだ。
上の方に瘤ができているのを見つけ、ジャンプして、それに手をかけてみる。
右腕が急激に引っ張られ、すぐに離してしまい、指先がじわじわと痺れた。
後ろにいるはずの妖怪は、何も言わない。
草太は振り向かずに、もう一度、今度は別の、もう少し高いところにある瘤に手をかけた。左手は先ほどの瘤に。
伸びた両腕を曲げようとするが、上手くいかない。両足が宙を泳ぐ。
「靴、脱いだ方がいいんじゃない?」
ヤマメにそういわれて、草太は思いだし、また手を離した。
きまり悪さを覚えながら、靴を脱ぎ、靴下も脱いでそこにいれる。
そしてもう一度、挑戦した。
上下の瘤に手をかけてから、片足を低い出っ張りにかける。
ひとまず、落下は免れている状態であり、腕にかかる負担も減っていた。
だがここからどう動けばいいか分からなかった。
諦めて降りたくなったが、さすがに、三度もみっともない姿を見せるのには、ためらいがある。
どうしよう、どうしよう、とヤモリのように樹にへばりついたまま、頭の中が真っ白になり……結局また、降りるはめになった。
「……………………」
「……あのさ、ヤマメ」
「どうやら本当に、木登りが苦手らしい」
「な、なんで知ってるんだよ」
「見ればわかる。それに、さっきあいつから聞いたよ。だから私が、教えてあげようっていうんじゃないか」
あいつ、というのが、先ほどの蜘蛛のことだと分かった。
そういえばあの蜘蛛には、雑木林で木登りを練習していた姿を見られている。
ようやく草太は、ヤマメの言うお礼というのが何なのかを知った。
「じゃあ……もしかして……! ヤマメが木登りを教えてくれるの!?」
「そう。私黒谷ヤマメが、手取り足取り優しく教えてあげましょう」
「わ、ありがとう!」
草太にとって、これは願ってもない条件だった。
ここで練習するなら、南里にせよ北里にせよ邪魔は入らないし、気づかれずに練習して、見返すことだってできる。
草太は大きく頭を下げた。
「お願いします」
「うん。じゃあまずは、今みたいにその瘤に手をかけて、足をそこに引っ掛けてごらん」
「はい!」
草太は元気に返事し、言われたとおり、木にへばりついて、先ほどと同じ体勢になった。
「次に、息を大きく吸い込んで」
「…………?」
不思議に思いながらも、草太は息を吸った。
と、お尻に手が当てられる感触があった。
瞬間。
「じゃーんぷ」
間抜けな掛け声がして、動きようがなかった体から、重みが消えた。
むしろ重力が逆転していた。
下からすごい力で、一気に押し上げられたと気づいたときには、
草太の体は三メートルほど浮き上がっていた。
「……どわぁああああああ!?」
咄嗟に右手を、目の前の幹にあった洞に突っ込む。
体が落ちていく前に、左手も突っ込む。
柔らかい木屑の感触、と思った後には、ぐわんと全体重が両腕にかかった。
「お、落ちるー!」
「右下、右下ー。そこに瘤があるよ」
草太は宙ぶらりんになったまま、下から聞こえてくる指示に従い、右足で何とかそれを探り当てて、親指からそこにかける。
腕を軋ませていた重みが、今度はふくらはぎに移った。
首を動かして、下を見る。眩暈がしそうになった。
高い。
一気に、さっき自分が落ちそうになった、崖ほどの高さに達していた。
落ちれば間違いなく骨折、打ち所が悪ければ死ぬかもしれない。
「頑張れ頑張れ。ここまでもう少しだよ」
いつの間にか、右上の太い木の枝から、ヤマメがしゃがんでこちらを見下ろしていた。
にこにこしたあどけない表情だったが、草太にはそれが笑う鬼に見えた。
たまらず、非難する。
「嘘つきー! どこが優しく教えてくれるんだよー!」
「何言ってんの。火事場の馬鹿力、って知らない? 追い詰められたら、できないこともできるようになるもんよ」
「ぐぐぎぎ」
「落ち着いて探ってごらんよ。近くにちゃんと足場があるでしょ」
言われて、草太は首をひねって、幹を探った。
枝と自分の間には、瘤が二つと洞が一つ。
ここで不安定な体勢で落ちるよりも、その枝まで登る方が、近いし安全なような気がする……ぎりぎりな心境の中、そこまで頭が回った。
「うょっ……とっ」
体を斜めにずらし、左手と右足で支える準備を作って、木の洞から右手を取り出す。
首を伸ばして、手を振ると、瘤に指が当たり、それを握りこむ。
次は慎重に、右足から左足へと下の支えを移動しなければならない。
股の間を隙間なくぴったりつけ、両手で補助しつつ、右足を左足で踏むように、位置を入れ替えた。
「うぐ……」
次はさらに上にある洞に右手を伸ばす必要がある。
跳んで失敗してはかなわないので、右足でちょいちょいと足場を探る。
上の妖怪はしゃがんで、蟻の巣を観察する子供のような顔で、こちらの様子を何も言わずに見つめていた。
草太は頭上への意識を振り払い、神経を足に集中させる。
ようやく、少し低いところに、手頃な洞を探り当てた。
そこに足を差し入れ、体をまた移動させて、枝に一歩分近づいた。
同じ作業をもう一度繰り返すと、ついに太枝に右手が届く位置まで来た。
「おお、もう少し。後は気合いだ、根性だ」
「…………」
妖怪の生ぬるい声援に、筋肉が弛緩しかけたが、両手両足全てが支えにあったので、体が揺れるだけにとどまった。
そのまま、呼吸五つ分休憩した後、草太は最後の行程に取りかかった。
右手を瘤から離し、太枝の表面に触れる。指をぴったりとくっつけ、掌がつくまで体を伸ばす。
右足の洞に、左足も差し込んだ。右手が全部と左手が少し枝を捕まえて、餌に手を伸ばす猫のように体が伸び、やがて斜線状態となった。
その時である。
支えていたはずの両足が、洞から滑った。
「だぁ!?」
体が一気に移動し、両手が太枝に絡まった状態で、草太はぶら下がっていた。
今度こそ、足に支えはない。がくん、と両腕が伸び、顔が苦痛にゆがんだ。
「た、助けて! ヤマメ!」
「そこまで行ったんだから、後は自力で登れるって」
「ぬなーっ!?」
「大丈夫、大丈夫。片足を上げて引っかければいい。歯を食いしばって、両腕を曲げるんだ」
「その前に落ちるってばー!」
「落ちない! 命がけで登ってこい!」
「ううううう!!」
「登れ! おっかさんを悲しませるな! 怪物が口を広げているぞ! あ、下に針の山が!?」
「く……ぎいいいいい!」
無茶苦茶な応援に、草太は体の奥底から、無理やり力をひねり出した。
喉が出したことのないような声を絞る。
鰹節に歯形をつける勢いで、歯を食いしばって腕を曲げ、懸垂の要領で体を持ち上げる。
普段使ってない腰の筋肉まで総動員し、草太はようやく、片足を枝に引っかけた。
次に逆の足。そのままゆっくり回転し、慎重に体を乗せていく。
最後になって、全身を枝にゆだねることのできる段階に達した。
その時、ついに草太は、自力で死の淵から生還し、木登りを達成していた。
○○○
太枝に達したのは、ほんの序の口だった。
さらなるスパルタにより、登りの三倍時間をかけて、草太は自力で樹から下りるはめになった。
木登りは登るよりも、無事に下りる方が難しいのだという。
草太はその意味を痛感したが、今度は何とか、手伝い無しでやり遂げることができた。
「ふへー……」
地面に降り、目を閉じて、太い幹に体を預けたまま、呼吸を整える。
ほんの短い距離なのに、全速力で走ったかのように、心臓の音が鼓膜まで届いていた。
手の皮が剥けて血が出てることに、いまさらながら気づく。それほどがむしゃらだった。
「お疲れ様」
「……………………」
「木登りを覚えた感想は?」
「……死ぬかと思った」
多少の恨みもこめて、草太は呟いた。
「もっと上まで登ってみればよかったのに。見晴らしがよくて最高だよ?」
「人間は高いところから落ちたら死ぬんだよ」
「あらら、それはお気の毒に」
顔を横に向けると、木にもたれかかっていたヤマメが、両眉を持ち上げて、さほど残念そうでもない笑みで見下ろしていた。
けど草太はもう、十分な達成感に包まれていた。体に残る疲労も、心地よい。
ついに木登りができたのだ。最初だけ手伝ってもらったけど、最後は自分の力で生還した。
次はきっと、もっと上手くやれる。やった。ついにみんなと同じ場所に来たのだ。
妖怪が、夕焼けに変わっていた西の空を見ながら言った。
「そろそろ帰った方がいいね。この辺も夜になると、色んなやつがうろつくから」
「色んなやつって……妖怪のことだよね」
「狼も熊も出るよ。ま、ちゃんとさっきの出口まで送ってあげるから、心配しなさんな」
「よかった。ありがとう」
草太は礼を言って立ち上がる。
木登りの最中は無茶苦茶だと思ったけど、意外にいい奴じゃないか、と思った。
だが、ヤマメの話は、まだ続いていた。
「……一つ約束がある。私のことは、絶対に誰にも言わないこと。聞かれても誤魔化し通すこと」
「う、うん」
「もし誰かにしゃべったりしたら……」
「しゃべったりしたら?」
「どこまでも追いかけて……」
「お、追いかけて?」
「ふむ……それよりいいこと思いついた。ちょっと手をお貸し」
「え? わ」
承諾する前に、草太は左手を引っ張られた。
彼女はその周囲で、両手の指を高速で動かし始めた。
「何してるの?」
「いいからいいから」
ヤマメは、謎めいた笑みを浮かべて、あっちこっちに指を動かしている。
目を凝らしてみると、時折夕日を浴びて、その空間が光った。
最後に彼女が、きゅっ、と宙をつまんでを引っ張る仕草をすると、手首が締め付けられる感触がした。
「ほい、できた」
そこに、紋様が描かれた、細い銀の腕飾りが完成していた。
「わぁ……すごい」
草太は手を上に伸ばして、夕日にそれを当ててみた。
半透明であまり目立たない腕飾りが光を浴びて、宝石の粒が編みこまれているような輝きを放つ。
「綺麗だ……これ、僕にくれるの?」
「もちろん」
「やった! ありがとう! みんなに見せてやろうっと」
「そうしたら、あんたは死ぬことになる」
「は?」
聞こえた不吉な二文字に、草太は耳を疑った。
「死ぬ?」
「そう。私のこと誰かにしゃべったりしたら、その糸がきつーくきつーく締まって……」
「し、締まって?」
「締まって締まって……手首からポトリと」
「ぎゃあああああ!!」
草太は悲鳴を上げて、すぐにその輪を指で引き剥がそうとした。
が、ヤマメに止められる。
「あ、無理に取ろうとしても同じことよ」
「なっ、なっ、なっ、何すんだよ! いらないよこんなの!」
「こうしておかなきゃ、子供はすぐにべらべら喋るだろうからね。それはちょっと私に都合が悪い。我慢しなさい」
「ひでぇ……この妖怪!」
「妖怪だもん」
「……うっう」
草太は泣きたくなった。やっぱり浦島太郎だ。玉手箱だ。
木登りを覚える代わりに、こんなものを身に着けさせられることになるとは。あまりにも代償が酷かった。
しゃがみこむ草太の肩に、ヤマメが手を置く。
「何も一生そのままってわけじゃないよ。そのうち外れるから」
「ぐすっ……そのうち……っていつ?」
「私が地底に帰るくらいだとして……二ヶ月かな」
「ってことは、夏休みいっぱい!?」
拷問に近い。
それまで一言でも口に出してしまえば、手首が締まって死んでしまうのか。
両親や友人に聞かれても、追求されても、秘密を守り通さなくてはならないのである。
そんな緊迫した夏は嫌だ。
「その代わり、ここにはいつでも来てもいいよ。林の入り口まで、迎えに行ってあげるから」
「……いらないやい……うぅ……」
「ふーん、でも妖怪と遊べる機会なんて、なかなかないよ、人間君?」
「……あ、そうか!」
確かに凄い。
今も普通に会話してるけど、この相手は間違いなく妖怪なのだ。
見た、見ないで自慢している奴らよりも、妖精を捕まえようと意気込んでいる三吉よりも、草太はよっぽど進んでいるのである。
これは木登りができるようになった以上の収穫である。誰かに自慢しなくては気がすまない。
……けど、
「話したら死んじゃうんだ! あー! なんてこったー!」
「いいよー。でも話しちゃっても、外しちゃっても、命の保障はできないけどね。にひひ」
「最悪だ! この人でなし! 鬼!」
「鬼じゃなくて土蜘蛛。まぁ一つよろしくってことで」
「くぅ……」
草太はがっくりとうなだれ、地面に膝をついた。
やっぱり、妖怪になんてついて行くんじゃなかった。
後悔先に立たず、十歳にしてその意味を、草太は痛感した。
幻想郷年史 第63季 文月 第二週 地上 人間の里
「まぁ、よくあることだ。俺も去年の春に、腕折ってから、気をつけるようにしてんだけど」
田んぼの横を行く道中、さっきから三吉は指を立てながら、説教じみた口調でしゃべっている。
「木登りは、覚えたはじめが一番危ないんだ。俺がちゃんと見ていない時にやるから、そういうことになる。反省しろよ草太」
「……うん」
「でも、その怪我が治ったら、もう木登りで遊べるってことだよな。鉄平にも知らせてやんねぇと」
相づちをうつ唯一の聞き手は、草太である。その左手首には、包帯が巻かれていた。
妖怪と会った秘密を隠すために、草太は手首をくじいたことにして、包帯で透明な腕飾りを隠すことにしたのだった。
三日前のあの日、実際に腕はくじかなかったものの、満身創痍というには大げさだが、草太は生まれて初めての苦痛を味わった。
まずは筋肉痛。腕から足、腰の中まで、鉛が蠢くような痛みが襲うのだ。あの状態なら、自慢にならないが、妹と相撲をとっても負ける自信があった。
そうしたら、じいちゃんが、筋肉痛は風呂で揉みほぐして治すんだ、と薪で風呂を沸かしてくれたが、今度は熱い湯が血豆と擦り傷にしみた。
浴槽の中で涙をこらえながら、木登りはしばらくごめんだと思ったが、それ以上に妖怪とはもう関わり合いになりたくなかった。
しかし、たとえ顔を合わせなくても、この夏はこの腕飾りがある限り、命を脅かされているという現実を意識せずにはいられないのだ。
土蜘蛛の黒谷ヤマメとかいう、あの性悪妖怪のせいで。
「……あー! 思い出しても腹が立つー!」
「どうしたよ、なんか機嫌が悪いな」
「そうだ三吉! お前の兄さん達、妖怪に詳しいよね」
「いやいや草太、もう俺だってそれなりに詳しいぜ。まあ、まだ間近で見たこと無いけどな」
「土蜘蛛って妖怪聞いてない?」
「土蜘蛛?」
と、意外そうに聞き返してから、三吉は腕を組んだ。
「ある……確か物凄くヤバい妖怪だったような」
「ええ? そんなにヤバいの?」
「鬼と天狗、そして土蜘蛛はあまりに強力な種族だったんで、そのうち二つは地底に追い払われて……あれ? 違ったかな。結界がどうのこうので、自分達から潜ったんだっけ。えーと…………わかんね。忘れちった。兄貴達に後で聞いてみようかな」
「いや、いいよ。ありがとう」
礼を言う草太は、内心で暗澹たる気持ちになった。
鬼や天狗のような大妖怪は、草太だって知ってる。何しろ少年団の名前につけられているくらいだから。
が、まさかあの土蜘蛛とやらが、それと肩を並べる種族だとは思いもしない。
とんでもない奴と約束してしまった。
「とにかく、ミチ婆んとこに行こうぜ。遊べるうちに遊ばないと、夏休みは損だろ」
「うん! そうだそうだ、その通りだ! 行くぞ三吉!」
「お、元気になったな」
やけくそではあったが、実際三吉の言ってることは間違ってはいなかった。
大人の手伝いをするようになれば、夏休みだって遊んでいられないし、過去にうじゃうじゃと繁茂する雑草を刈るために、寺子屋を休まされて田んぼへ送り出されたことは、一度や二度ではない。
そうして稼いだお駄賃は、いつも今から向かう駄菓子屋で消えていた。
サイダー、ラムネ、水あめ、さとうきび。奮発して、アイスクリームや糖蜜をかけたカキ氷。一日一つ選んでも、終わらないのが夏休み。
駄菓子屋は、里の子供達にとって、そんな心躍る時間と甘味の欲求を同時に満たす、憩いの場であった。
田んぼの中にぽつんと一軒立つのは、南里の子供達なら知らぬ者はない、ミチ婆の駄菓子屋である。
草太と三吉がつくと、すでに南里の遊び仲間が三人たむろしていた。
「よー、お前らー。妖精見なかったか?」
「見ねー。まだ諦めてねぇのか、三吉」
ラムネを飲んでいた忠士が返事する。
長い虫取り網を担いでいた弥彦が、草太の腕を見て、
「あれ、草太。怪我したの?」
「うん、ちょっと」
草太が説明する前に、三吉が鼻をこすって、自慢げに言った。
「聞いて驚け。草太は木登りができるようになったんだぜ」
三人は怪訝な顔をして、互いを見てから、
「……あーそうか。まだできなかったんだ。よかったな」
「うん」
「この前、うちの弟もできるようになったよ」
「そ、そう」
「あ、俺の従妹も」
「…………」
多少の期待とは違い、皆の反応はいまいちであった。
考えてみれば、草太の木登りに関する苦労を知っているのは、三吉と鉄平だけである。
「それよりも凄いんだぜ! 忠士が妖怪を見たんだよ!」
人一倍元気な栗雄の台詞に、草太は飛び上がりそうになり、思わず左手を押さえた。
三吉が、「ええ! 本当かよ!」興奮気味に問う。
忠士はまんざらでもない顔つきで、
「それだけじゃねーよ。まあ聞け。この前の夕方、里の外れを歩いていたら……」
「そ、それ、西の雑木林?」
「違う、寺子屋の近くだ。兄貴と一緒に、親戚の家に泊まりに行った帰りだよ」
となると、あの土蜘蛛のことではないらしい。
「寺子屋の近くに、おんぼろ屋敷があるだろ。あそこの屋根の上に、でっかい蝙蝠みたいなのがいてさ」
「蝙蝠だったんじゃねーのか?」
「傘だったんだよ! 化け傘だ! うらめしや~って近づいてきたけど、兄貴が石を投げたら逃げてった。無茶苦茶怖い妖怪だったけど、退治してやったってことだよ」
「からかさに会ったのか! 畜生羨ましいなぁ。なぁ、草太」
「まぁ……そうだね」
草太はあいまいにうなずいた。
正直なところ、石を投げただけで逃げたというなら、ずいぶんスケールの小さい妖怪な気がする。
じいちゃんの怪談にあった「僧なのか」とか、自分の会った土蜘蛛とかの話を知っているだけに、余計にそう思った。
だがその反応が、栗雄達には気に入らなかったらしい。
「なんだよ反応が悪いな」
「わかった。お前、木登りができるようになったことが、あんまし話題にならなくて、悔しいんだろ」
「そんなことないよ。うん、凄い。よかったな忠士」
「……わざとらしいな。登れるようになったって言ったって、たいした木じゃないだろ。試しにあそこに立ってるのに登ってみ」
「あー、お前ら、だめ。草太は手を怪我してんだから」
「なーんだ。つまんねーの」
「あはは、ごめん」
草太は作り笑いの裏で、地団駄を踏んで悔しがった。
本当は、今すぐこの包帯を引き剥がして、「妖怪を見ただけじゃなく、会って話したんだぜ! これ妖怪からもらったんだぜ! 今この瞬間も脅されてるんだぜ! びびるほどすげぇだろ!」と自慢してやりたいが、その瞬間手首から先が吹っ飛んでいくかもしれないことを考えると、歯を食いしばってこらえるしかなかった。
それによく考えてみると、三吉やこいつらにはともかく、鉄平とかに知られれば、羨ましい反応があるとは思えない。
里の子供は、妖怪を見たがるものよりも、恐れて話をするのも嫌う者の方が多い。
たとえば今も虫取り網を持った弥彦が、青い顔をして聞いていたり……、
「お、おいみんな、落ち着いて聞けよ」
弥彦は妖怪の話題が終わっても、青い顔のままだった。
「なんだよ、変な顔して」
「そ、そこの水桶なんだけど」
それは、サイダーなどの飲み物を冷やしておくための、桶だった。
だが、それを見た子供達は、一様に息を呑んだ。
そこから、赤ん坊のような小さな足が、一本、水面から突き出ていた。
サイダーやラムネの瓶の口が出ているのに混じって、にょっきりと足が出ているのである。
あまりに異様な光景に、皆はしばらく沈黙していた。
「な、なんだろこれ」
「わかんねぇ。溺れてんのかな」
「……し、死んでんじゃねぇの。さっきはこんなの無かったのに」
「いや、あれ」
よく見ると、端から竹の筒が出ていた。
それを通して、水桶の中の存在は、呼吸しているようである。
三吉が、勇気を振り絞ったらしく、その桶に近づいて、そうっとその足の裏を、くすぐった。
途端、ざぶん、と水が跳ねた。
「ぷはぁ!! 誰よ! あたいの足をくすぐる奴は!」
キンキン頭に響く甲高い声音だった。
小さな子供のような外見、ただし、髪は水色で、氷のような六つの羽を背負っている。
全身を水で濡らして、こちらを睨んで見上げているそれは、
「あれ? あんた達、あたいと隠れん坊してたっけ」
「……よ」
「よ?」
「妖精だぁあああああああ!!」
三吉が絶叫して、虫取り網を弥彦から引ったくり、その妖精の頭にかぶせようとした。
だが、一瞬早く妖精は、それをかわし、慌てて逃げ出した。
「なにすんのよー!」
「待てぇええええ!!」
猛スピードで逃げる妖精を追っかけて、三吉は虫取り網を振り回しながら去っていく。
残りの面子は、しばし唖然としていたが、やがて我に返り、
「お、俺の虫取り網!」
「見たか!? あれ妖精だぞ! あんなでかいの、里にも出るのか!? 初めて見た!」
「三吉に渡すか! 草太も来いよ!」
子供達が三人、負けじと駆け出していく。
「あ、みんな待てよ!」
「だぁれぇ?」
草太が走り出す寸前、駄菓子屋の奥から、おばあさんが顔を出した。
「あ……ミチ婆! 妖精! 妖精がその桶に入ってたんだよ!」
「あぁ~、またかい」
「また? ……前にもいたの!?」
「あぁ~」
駄菓子屋の女主人、ミチ婆はしわだらけの顔を、ほころばせた。
「この前も、そこで隠れん坊しとったからねぇ。里の若い衆が捕まえようとして、顔中霜焼けになって帰ってきたよ。嫌なことしなければ、隠れるだけで悪さはせんし、その桶の水も冷やしてくれるし、慧音様に知らせんでもええと思ってねぇ」
「はぁ……」
お年寄り特有のゆっくりした会話に、草太の興奮はどんどんしぼんでいく。
「昔は、ああいう風に、仕事を手伝ってくれる妖怪もいたんだけどねぇ~」
「ミチ婆も妖怪を知ってるの?」
「知っとるよぉ。私も、あんたぐらい小さい頃に、そこの竹林で迷って、案内してくれた兎がいてねぇ。今はどうしてるかねぇ」
ミチ婆は手をこすりあわせて、空を拝みながら、
「私が今幸せなのも、その妖怪のおかげなんよぉ。妖怪に感謝ぁ、感謝ぁ」
「……………………」
どうも里の大人とミチ婆の感覚は、異なっているようだった。
そういえば、じいちゃんも言っていた。昔は、妖怪から教わることも、いっぱいあったって。
……待てよ。
と、草太は、手首に巻かれた包帯に目を落とした。
この腕飾りのせいで閉塞感に満ちていた夏を、有意義に過ごす方法を、今考えついたのだ。
現在の草太は、妖怪に無理矢理関係を結ばされている。だがそれを、逆に利用してやるというのはどうだろう。
例えば……さっき仲間に馬鹿にされた時は、かなり悔しかった。
登ったのはどうせ大した木じゃない、か。なら里の誰も登ったことのないような、大した木に登ってやろうじゃないか。
心当たりはちゃんとあるのだ。
「……ミチ婆、サイダーちょうだい」
「はいよ。よく冷えてるよ。一本三十円~」
「ううん。二本ちょうだい」
草太は稼いだお小遣いから、六十円を出した。
○○○
サイダーを二つ手に入れた草太は、それを振らないようにゆっくり走り、雑木林から例の秘密の入り口を通って、妖怪の森へと出た。
相変わらず湿度は高いし、この前よりも暑いので、人間にとって快適な場所とは言えない。
しかし、もう一度あの妖怪に会って交渉するためには、まずここに来なくてはならないのである。
サイダー瓶で頬を冷やし、草太は森に入らず、辺りを見回した。
入り口で迎えに来てあげる、とか言ってたような気もするが、今のところ彼女の姿はない。
「……うーん、やっぱり、妖怪なんて信用しちゃいけないってことかな」
口にした直後、上からにゅーっと何かが降ってきた。
「ばぁ」
「うわぁ!!」
いきなり上下逆さまになった少女が現れて、草太は腰を抜かした。
木の枝から太い糸に吊られて、左右に揺れているのは、先日会った妖怪、黒谷ヤマメだった。
「あれ、それ何? お酒? その若さでやるねぇ」
ヤマメは逆さまになったまま、尻餅をついた草太の腰のものに注目している。
心拍数の上がった胸を押さえ、草太は呼吸を整えてから、
「こ、これはサイダー。お酒じゃないけど、飲み物」
「わかった、私へのお土産だね。なかなか気が利いてるじゃない」
くるんと反転して、ヤマメは地面に下りてきた。
「こんにちは。しばらく反応が無かったから、もう来ないのかと思ったよ。それじゃあ人間一名様ご案内……」
「待った! その前に、言いたいことがある!」
草太は頭に描いていた計画を進めることにした。
立ち上がって、腕を組み、できるだけ厳しい顔をする。
ヤマメは首をかしげた。機嫌の悪くなった飼い猫を見るような目で、
「何? その腕輪を外してほしい、っていうのは駄目よ」
「そのことだよ! これじゃいくらなんでも不公平だ! ヤマメはあの木でのんびりしてればいいかもしれないけど、こっちはこの腕のやつのせいで毎日心配しなきゃいけないんだぞ!」
「不公平じゃないよ。こっちだって、あんたに居場所をばらしているっていうのは、ものすごく危険な橋を渡ってるってことなんだもの」
「どこが危険な橋なんだよ」
「だって、あんたがドジ踏んで人間にバレたら面倒だし、ぎゃーぎゃー騒いで地上の妖怪に見つかっても危ないし、せっかくの地上旅行が台無しになっちゃうのさ」
「地上旅行……」
言われて草太は思い出した。
「そっか。ヤマメって地底から来てたって言ってたね。でもそれが、なんで危ないの?」
「……はぁ」
ヤマメが失望したかのように、大きくため息をついた。
さらに、草太の方を、馬鹿にした目で見ながら、
「あんた……草太だっけ。ひょっとして、妖怪がみんな仲良しこよしだと思ってたりしない?」
「みんなそう思ってるけど……ってことは違うんだ」
「当たり前じゃないの。本来妖怪は、縄張りをきちんと分け合って個々に暮らすものなんだ。集団で生活して社会を営むのは、河童とか天狗とか鬼とか、そういった同一の種族だけなの」
「へー」
新しい知識である。
なにしろ、妖怪が悪い、妖怪は恐ろしい、妖怪は危険だ、とだけ大人たちから習っているので、妖怪同士の関係など気にしたことがなかった。
「じゃあ、ヤマメって他の妖怪と、仲が悪いってこと?」
「悪いどころじゃない。地底には友達がいるけど、地上の妖怪は別。あいつらは例外なく地底の妖怪を忌み嫌っている」
「ふーん」
「そして今私は地上に来ている。それも無許可でね」
「えっ。っていうことは……」
「試しにあんたの一番嫌いな奴を思い浮かべてごらん」
言われて草太は、すぐにこの前に会った北里の連中、カカシ達の顔が思い浮かんだ。
「そいつが内緒で、あんたの家の屋根裏に入り込んで暮しているとしたらどうする?」
「うわっ、気持ち悪ぃ!」
「そう思うってことは、地上の妖怪の気持ちが分かったようね」
「ヤマメそんなことしてたの!? それは怒られるのは当然だよ!」
「いいんよ。私だってあいつらが嫌いだし。出し抜いていると思うと、胸がスカッとするもの。ふふーん」
ヤマメは水浴びでもするかのような爽やかな顔で、さも気持ちよさそうに言った。
「それに、なんだかあいつら、最近様子がおかしくて、いつまで経っても私の気配に気づかない。私の隠行が凄いのか、あいつらが間抜けなのか。ま、おかげで有意義な毎日だけどね」
「ふーん……あれ?」
草太はそこで、あることに気がついた。
「ヤマメ……それってもしかして、僕に全然関係ない話じゃないの?」
「あ、バレた」
「バレたじゃないよ! いつの間にか僕は、ヤマメの共犯者ってことじゃないか! しかも地上の妖怪相手の!」
「そうさ相棒! こうなった以上、私達は一蓮托生、運命共同体だ。互いを裏切ることなく、悪の道を突き進み、明日をかっ飛ばそうぜベイビー!」
「やっぱり不公平だー!!」
草太は頭を抱えて叫んだ。
空を指差しながらこちらの肩を組んでいた妖怪は、首を振って、
「まぁ確かに、人間の子供にはちょっと酷な人生かもしれないね」
「そうだよ!」
「でもそれが人生さね」
「なんだそりゃ!? 納得できるか!」
「じゃあ草太はどうしたいのよ。さっきの口ぶりだと、腕飾りを外してくれっていうより、別のことを頼もうとしていたみたいだけど」
ぐっ、と言葉に詰まって、草太は希望を伝えることにした。
「……木登り」
「お?」
「あの樹のてっぺんまで登りたいから、手伝って」
「なんだ、そんなことでいいの。お安い御用よ」
「ただし! この前みたいな無茶な特訓じゃなくて! 今度は全面的に協力してくれることを要求する!」
「全面的に協力?」
「樹から落ちそうになったら、すぐに助けてくれること。途中で緊急事態にあったら、手を貸してくれること。というか、その糸で常に引っ張って、命綱にしてくれること! この三つを守れ!」
「うわ面倒! なにそれ!? 私ゃあんた専用の助っ人か、正義のヒーロー!?」
「そうだ! それが契約だ! じゃないと、ここで叫んで妖怪を呼ぶぞ! ここに地底の妖怪がいまーす、悪い土蜘蛛の妖怪でーすって!」
「ほほう……」
ヤマメが怖い顔になった。童女の見た目に似合わぬ迫力で、草太を睨みつけてくる。
「いい度胸してるじゃない。私を脅そうって言うのかい? あんただって呼んだそいつに食われちゃうんだよ」
「ところがどっこい。たぶん地上の妖怪さんは、里でよく見る人間よりも、大っ嫌いな上に地上まで乗り込んできた地底妖怪を倒すことを優先すると思うな」
「なっ!?」
「それに、そいつが勝ったら、この腕飾りの呪いも解けるだろ。これって、一石二鳥、っていうんだっけ」
「なんていう悪知恵! これだから子供ってやつは侮れないんだ! おのれ!」
「へへん、どうだまいったか!」
「さすがは私が悪の道に誘っただけある! それでこそ我が相棒にふさわしい! よくできました!」
「なんでだ!?」
また肩を組んで空を指差す土蜘蛛を、草太は引き剥がした。
彼女は、あはははは、と朗らかに笑って、
「ま、冗談はさておき、それくらいなら協力してあげてもいいよ」
「当たり前だよ。そうじゃなきゃ、こんな夏休みひどすぎる。絶対やだ」
「実はね、一人であの木の上で過ごしてばかりじゃ退屈でね。ちょうど話し相手が欲しかったんだ。あんたが来てくれたら、こっちとしてもありがたいってわけ」
「う、やっぱり不公平な気がしてきた」
「気のせい気のせい、ほらさっさと行こう」
ヤマメは鼻歌交じりに歩き出した。
あまり納得がいかなかったが、結局頼みを引き受けてくれるようなので、草太もおとなしくついて行くことにする。
ただ、相変わらず、彼女の見た目も仕草も、普通の人間と変わらないので、調子が狂いっぱなしだったが。
――こんなこと、他のみんなに話したって信じないよね。
草太は仲間の顔を思い浮かべつつ、また妖怪に案内されて、あの樹の元へ向かった。
○○○
空を飛ぶのは人間には難しい。ただし、魔法の心得がある者なら、特製の箒などの補助道具を使って、実践することも可能である。
そんなわけで、飛行魔法というか非行魔法を使い、半ば脱走するような形で『霧雨店』を飛び出した鉄平は、おなじみの駄菓子屋に来ていた。
南里の仲間が三人、いや四人たむろしている。いつものように片手を上げ、一声かける。
「遅れて参上ー、元気してたかー」
「あ、鉄平! 三吉、鉄平が来たぞ!」
栗雄がしゃがんでいた三吉らしき姿の肩を叩いている。
他の二人も、その姿を取り囲んでいた。
やがて、「ぐ~」と坊主頭が上がり、鉄平はぎょっとした。
「三吉。どうしたんだその顔」
「……ひでぇ目にあった」
真っ赤になった顔をしわくちゃにして、顎から水を垂らしていた三吉は、呻き声を発した。
彼の足元には洗面器、しかも湯気が立っている。この暑い夏にお湯で顔を洗っていたらしい。
弥彦がこの妙な状況の説明をした。
「三吉が駄菓子屋に来ていた妖精を捕まえようとしたんだ。そうしたら失敗してこうなった」
「妖精? 本当に妖精だったのか?」
「当たり前だろ! じゃなきゃ、俺がこんな顔になるか! ……自分じゃ見えないけど」
霜焼けになっていた顔を、三吉はぶるぶる震わせる。
「うう、あれは兄貴が言ってた、氷精ってやつに違いない。上手く捕まえれば、かき氷食い放題だったのに……今度は絶対に捕まえてやる」
「ばーか。氷漬けになっても、助けてやんねぇぞ。ミチ婆、サイダー一つ」
「はいよぉ」
返事を確認して、小銭を受け皿に置いた鉄平は、氷のたくさん浮いた水桶から、瓶を一つ取り出した。
いつもより冷えている。むしろ冷えすぎていた気がしたが、構わず蓋をひねる。
一口飲むと、頭痛が走るほどの刺激があった。
「あいたたたた、冷たすぎるぜ、これ!」
「その桶に妖精が入ってたんだよ」
「これなら確かに、かき氷も食い放題だな。今度魔法で捕まえてみるかな……なんて冗談だよ。あれ、草太はいねぇの?」
「ん、そう言えば、さっきまでいたんだけど……帰ったのかな」
今気付いたかのように、弥彦がその姿を探す。
三吉がラムネを一つ買いながら言った。
「そうだ鉄。あいつ、木登りができるようになったんだぜ」
「木登り!? 草太が!? へー! ついにできるようになったのか!」
「んなに、大事件か? 忠士が妖怪見た方が大事件だろ」
「え? 忠士、妖怪を見たのか」
「ああ、見たぜ。この前の夕方、里の外れで……」
「そうか。食われなくてよかったな」
手柄を披露する前にぴしゃりと言われて、忠士は口を開けたまま止まった。
「その後、ちゃんと自警団の人達に知らせたのか?」
「いや……まだ……」
「じゃあその妖怪はまだ里にいて、人を襲おうと隠れてるかもしれないんだな?」
「いや、今思うとそんな危ないやつじゃなかったようなー、わ、わかった。ちゃんと知らせておく」
しどろもどろの説明に、鉄平はまだ納得していない。
妖怪を里で見かけるということが、どれほど危険なことなのか知っているのだ。
三吉が空気を変えるように言った。
「もう俺は妖精を捕まえるのはやめた! 目標はイワナを釣る! 北里の連中のところに、明け方こっそり忍び込んで」
「あ、それ面白い。俺も混ぜろや」
「鉄はどうだ? いや、言わなくてもわかる。ついに北里のやつらと決着をつけるんだな! さすが鉄!」
「勝手に決めんなよ。あいつらと殴りあうよりも、お前らと遊ぶ夏休みにしてぇよ。でもまぁ……」
鉄平が日焼けした顔を、ニヤリとゆがめ、腰にはめていた杖を回して見せた。
「北里の連中が、こっちの縄張りに入ってくんなら、容赦しないけどな」
「さっすがぁ」
全員が感心し、南里の大将をはやし立てた。
「じゃあ今から、天狗組の縄張りを、みんなで見回りしようぜ。南川とか、雑木林とか」
「草太ももしかしたら雑木林で、また木登りしてるのかもな」
「じゃあ、日が暮れる前に、様子を見に行ってやるか。高いやつに登って降りてこられなくて、困ってるかもしれねぇから」
南里の少年達は、そんな想像に大笑いした。
その頃、かの少年が、まさにそんな状況に陥っているとは知らずに。
○○○
「ひゃあ!?」
手足を滑らせた少年は、悲鳴を漏らし、幹からずり落ちた。
地上からは約十メートル。獲物を見つけた重力は、支えを無くした子供の体を、あっという間に大地へと引き寄せようとする。
「わぁあああああ!!」
今度こそ、本物の悲鳴を上げた胴体が、がくん、と宙で止まった。
体に複雑に結ばれた銀の糸が、ぴん、と直線となって空に伸びている。
その先から声が降ってきた。
「一回死んだねー」
「……………」
草太は宙づりになったまま、激しい動悸に少なくなった酸素を求めて、しばらく何も言えずに口を動かした。
体勢を戻し、再び幹に張り付いて、ようやく喋る元気が戻る。
「ほ、本当に死んだかと思った」
「何言ってんのよ。あんたは死んだんだ。今私が持ち上げてるのは、きっと幽霊だね。あー軽い」
「怖いこと言うなよ!」
草太は上に向かって怒鳴った。
そこでは土蜘蛛のヤマメが、枝に腰掛けて、くつろいでいる。
右手には、太いクモ糸がしっかり握られており、その先はこちらの胴体に、命綱として結ばれていた。
草太は両手を瘤に手をかけた状態で、木登りを再開せずに、停止する。
ここまで順調だったはずなのだが、今足を踏み外してから、急に体が動かなくなってしまった。
綱が無ければ、間違いなく死んでいる高さだったため、これまでに無い恐怖を覚えたのだ。
子供の自分が死ぬ、そんな夢みたいな話が、いきなり現実のすぐ側まで近づいた瞬間だった。
登るまでは、命綱まで要求したのは情けなかったかと思ったが、途中まで登って下を見てから、すでにそんな考えは吹っ飛んでいる。
そして今、死ぬ寸前の経験をしたことで、ますますその選択が正しかったと思った。
一方、ヤマメは全く気にしていないようである。
「さっさと上がってこないと、またお日様が沈んじゃうよ」
「そんなこと言ったって……」
「だらしないねぇ。それでも股の間に、ふぐりが付いてんの?」
「ふっ……!?」
とんでもない台詞を口にする妖怪に、草太の頬が熱くなった。
「何赤くなってんのよ。女の子じゃあるまいし」
「ば、馬鹿にしてらぁ! ヤマメの方こそついてねーじゃねぇか!」
「おや、確かめてみるかい、坊や?」
「…………いや、いいです」
草太はその挑発に、一転青い顔で断った。
そこに『ある』にしろ、『ない』にしろ、妖怪の、ましてや蜘蛛のなんて、考えただけで身の毛がよだつ。
流し目を送っていたヤマメは、また愉快そうに笑い声をあげて、枝の間を渡り始めた。
糸にぶら下がって勢いよく移動したり、ひょい、ひょい、と命綱無しで跳んでみたり、側転してみたり、枝を逆上がりで回ってみたり。
怖がるどころか楽しんでいる。それこそ忍者みたいな動きだ。天地も高さも関係なし。実は彼女こそ、体重が無いんじゃないかと考えてしまう。
「ヤマメー。ちゃんと命綱持ってる?」
「持ってる持ってる」
「……ってこら! 指でつまむな!」
「そんなおっかない顔してないで、樹の声を聞いてごらんよ」
「樹の声……」
「そう、樹の声さ」
「……………………」
「聞こえた?」
「聞こえるわけないだろ! 適当なこと言うな! 樹が喋るか!」
「あーらら、まだガキンチョなんだねぇ、草太は」
ヤマメはそう言って、わざとらしく木肌に耳を当てて目を閉じ、
「ほうほう。草太君は子供ですなぁ、と同意しているよ」
「…………くっそー!」
怒りで恐怖心が消え去り、草太はやけっぱちで、また力を入れて登り始めた。
ヤマメはまた、別の木の枝に腰掛け、足を揺らしながら、
「そうだ。大枝一つに登るたびに副賞として、面白い話をしてあげよう。質問でも構わないよん」
「……うぃしょ。畜生……そんなんじゃ……くっ……やる気にならないよ」
「あらら。じゃあやっぱり見てみたい?」
「うわわ、落ちる! 登ってる間は喋るな、気が散るから! 妖怪ってみんなそんなにふざけてんのか!?」
「それは妖怪それぞれ」
馬鹿馬鹿しい会話をする内に、ようやく二つめの太枝に手がかかった。
とりあえず、それにまたがって、草太は一休みする。
ヤマメの待つ場所まで、大枝は二つあった。
これまで制覇したのも二つ。あと半分と少し。何とか行けるかもしれない。
「あらおめでとう。それじゃあ、何を話してほしいかしら」
「なんで……地底の妖怪と地上の妖怪の仲が悪いの?」
「それが質問? 人間のくせにおかしなことを聞くねぇ」
言いながら、ヤマメは上の大枝から飛び降りた。
ぎくりとする行動だが、その足からはちゃんと、糸が伸びている。
枝にまたがる草太の前で、彼女は左右に揺れながら、
「まぁ仲が悪いっていうかーーー、この地上の幻想郷が住みづらくなってねーーー、数十年前にーー、博麗大結界っていうのができてからーー、いろいろと規則ができたしー、妖怪は増えたしー。それまでの生き方を選びたい妖怪が、鬼も含めて、みんな地下に潜っちゃったんだよ」
「数十年前……」
「そうよ。私はその前からずっと、地底に住んでた変わり者だけどね。あの時は色々と大変だったねぇ」
「……ええっ!? じゃあ、ヤマメって何歳なの!?」
「いけないねぇ僕。レディに歳を聞いちゃあ」
「で、でも、その時子供だったとしても、少なくとも数十歳……」
「若く見られると評判です」
そうだ。
妖怪は歳をとったりしないと、聞いたことがある。
いや、本当の姿を隠している、だっけ。慧音先生の授業で習ったはずだが、忘れてしまった。
今日のために、もっとちゃんと学んでおけばよかった。
「じゃあ、ヤマメはいつ地上にやってきたの?」
「それが知りたければ、どうぞ、次の枝へ」
ヤマメは再び、糸に沿って上昇していく。
草太も木登りを再開するために、枝にまたがった状態で幹まで下がり、
「……しまった。逆向きで進むんだった」
鉄平達が昔話していた、木登りのルールを忘れていた。
結局、地上十五メートルの高さから、体の向きを変えるという危険を冒して、また幹にしがみつく。
上で命綱がしっかり確保されていることを視認し、草太はまた登り始めた。
(基本は三つで体を支えるんだ)
昨年の夏の、鉄平の言葉を思い出す。
(両手、両足のうち、三つ。出っ張りがあるなら、腹や尻を乗せて補助にしてもいい。慣れれば二つでも支えられるけど、危いから、早く三つ目を探せ。支えが一つになったら、落ちることも考えなきゃだめだぜ)
今になって、その助言が役に立っていた。もっとも、ここからまともに落ちることがあれば、二度とこの世で木登りはできないだろう。
三つ目の太枝に到着した時は、すでに半時は経っているように思えた。
極力、下を見ないようにしながら、一息つく。
「ぷはぁ……」
「はーい。それじゃあ、次の質問は何かなー?」
「ヤマメはいつここに来たの?」
「二週間前」
「なんで?」
「それは、次の枝までお預け」
「え!? ちょっとケチくさくないか!?」
「そう思うんなら、次の質問もちゃんと考えておく事ね」
くそ、と草太は毒づいて、枝から体を持ち上げ、今度はちゃんと前向きに幹へと移動する。
が、
「あ、動かない方がいいよ。背中に虻が止まってるから。刺されると痛いよ」
「虻!?」
草太は動きを止めて、うっかり下を見てしまった。
そして、叫んだ。
「ひぃいいいい!!」
夢中で登っていて気づいていなかったが、すでに尋常じゃない高さに達していた。
これは里の物見櫓ほどの高さがあるのではないか。つまり約二十五メートル。
黒い運動靴はもう、木の根の隙間に、豆粒ほどにしか見えない。
「あ、ごめん。よく見ると、虻じゃなかった」
「おいこら!」
「スズメバチでした」
「ぎゃー!?」
「そう言えば、この裏に巣があったね。忘れてた」
ぶーん、という羽音が耳の側を通り過ぎ、草太は泣き叫びたくなった。
「下ろせー! こんなとこ登ってたら、絶対に死ぬー!」
「あら、降参するの?」
「……誰がするか! ちくしょー!」
草太は命をかけて意地を張り、また樹に挑戦した。
葉の茂った大枝は、魔王が腕を広げて、さぁ、かかってこい、と構えているように見える。
その周囲で、小動物のような敏捷さで跳び回っている使い魔に、草太は闘志を燃やしながら挑み進む。
次の大枝についたときには、へとへとになっていた。だが、怒りは消えていない。
「質問だ! どうやったら妖怪を退治できるんだ!」
「あはは、それそれ。分かりやすい質問ね。私を退治するつもり?」
「できるならね!」
「まぁ、大抵の傷はすぐに治っちゃうし、首を落とされて封じでもされない限り、肉体の傷はそれほど辛くないよ」
「じゃあ、どうやって?」
「それはもちろん、精神攻撃」
「……ブス! デブ!」
「そんな子供の悪口程度じゃだめさね。言霊を使うなら、もっと魂のこもった一撃じゃないと」
「そんなのわかんないよ!」
「私だって知らない。教えるつもりもないし~」
「この妖怪野郎!」
「妖怪娘でーす」
にこやかに手を振る妖怪は、この世でもっとも恨めしい存在に思えた。
あれを退治してぎゃふんと言わせることができるなら、夏休みいっぱい手伝いで潰すどころか、妹と収穫祭でダンスをしてやってもいい。
この命綱を思いっきり引っ張ったら、地面に真っ逆さまに落ちていくのではないかと考えたが、そこは何とか踏みとどまった。
「……ヤマメの鬼ババァ。ヤマメのあほんだら」
結局、頭の中で唱え続けている悪態の山は、同じ場所にたどり着くまで我慢しなくてはいけないということになる。
すでに、想像の中では、妖怪の一匹や二匹、呪い殺せるまでに増えているような気がしていたが。
ただ、上に進むにつれて、木登りのコツもだんだんわかってきた。
木登りは頭じゃなくて、背骨で考えるんだ、と誰かが言っていたのを思い出した。たぶんこれは、三吉の兄さんだ。
理解できた。四肢に常に気を配りながら、どうやって体を持ち上げていくかを、落ちかねない恐怖心と戦いながら考えるのは難しい。
コツは体でつかむということなのだろう。
次の枝まで、背丈三つほど。
一手一手、一歩一歩に長い時間をかける。体の張りは限界に来ていたが、ゴールはもうすぐだ。
そしてついに、最後の枝に手をかけ、体を引っ張り上げる。
「登った……ぞ……!?」
その瞬間、草太の目に、思いがけない光景が飛び込んできた。
「あれは……」
気を取られていると、大風が吹いてバランスを崩し、本当に落ちそうになった。
悲鳴をあげる寸前、振り回した手が、がしっと強い力で握られ、引っ張られる。
ヤマメの手だった。
「お疲れ様。でも詰めが甘いね」
「……………………」
「そんなにびっくりした?」
「……うん」
草太はうなずいた。クスノキのてっぺんから見る光景に心を奪われた状態で。
森が眼下に沈んでいた。鬱蒼と生えていた木々は、足の下で緑の樹海に変わり、時折吹く風に波を作っている。
その向こうに、霧がかった湖や、向日葵の群生地など、噂でしか聞いたことがない場所も、はっきりと見えた。
けど、一番驚いた場所は他でもない。
「里が……見える」
「何言ってんのよ、あの里に住んでるんでしょうが?」
「うん……だけど」
今草太が見ているのは、ほとんどの人間が知らない、里の一面に違いない。
なぜなら、それは上から……『空から』見た姿だから。
印象と違うために、最初、全く別の集落なのかと思ったが、よく見ると、あの物見櫓も、田んぼの並びも、知っている形だった。
それは、地面にいる限り決して目にすることのない、それこそ、空を飛ぶことを許された博麗の巫女様くらいしか知らない、人間じゃなく妖怪の知る風景だった。
東の山々まで続く幻想郷の広さを、何かに遮られることなく、この樹の上から一望できる。誰にも邪魔されない、開けた世界と、草太は向き合っていた。
それでも、鳶はもっと上を飛んでいる。吸い込まれるような夏の空に浮かんだ、大きな横雲の横で。
「なんか……雲の色まで違う気がする」
「本当に毎日違う空だし、見ていて飽きないんだよねー。こればっかりは、地底じゃ楽しめない。……ほら、立ってないでお座り。喉が渇いたでしょ?」
ヤマメは枝と枝の境目に足を置いた。
いつの間にか、編み目の細かい巣が、そこに張られている。
乗ってみると、意外にしっかりした足場になっており、座ってみても、ふかふかした手触りで、荒縄のハンモックよりも快適だった。
「これ、あの時受け止めてくれたやつだね。今一瞬で張ったの?」
「一瞬じゃ、ここまで編めない。ほら。これくらいの玉にして、携帯しているのさ。後は私の妖力に反応して、一気に広がるようになってる、通称『キャプチャーウェブ』」
「へー……あ、サイダーは」
「そうそう。これ、どうやって飲むのか教えてよ」
ヤマメが薄緑色の瓶を二つ取り出した。
草太はそれを一つ受け取り、勝利の笑みを浮かべる。
ついに念願の、樹の上でサイダーを飲むという目標が果たせるのだ。それもこんな高い樹の上で。
里の仲間は誰も味わうことのできない、自分だけの特権である。
もう一人、側にいた妖怪に、草太はサイダーの開け方を説明し始めた。
「簡単だよ。この口が蓋になってるから、ここを手で絞って……」
と、草太がパキリと実演してみると、
「わっ、わっ、わっ?」
白い泡がシュワーとあふれ出す。
慌てて草太は口をつけ、泡を飲み干してから、文句を言った。
「ヤマメ! これ振っただろ!? サイダーは振っちゃだめなの!」
「あれ、そういう飲み物なんじゃないの?」
「炭酸が無くなっちゃうだろ!」
「どれどれ」
ヤマメもサイダーの蓋をひねった。
シューッ、と漏れた泡を、おっとっと、と吸い込む。
そして、瓶を傾けて、喉を動かし、
「ん……」
「あれ……美味しくなかった?」
「いや、でも、これは……美味いね」
「振ってなければ、もっと刺激があって美味しいんだけど」
「いいじゃん。あの雲を飲んでるみたいで、気持ちよかったよ」
手についた白い泡を舐めて、あっけらかんという妖怪に、毒気が抜かれてしまう。
草太はもう一度、気の抜けたサイダーを飲んでみた。
やっぱり、いつも飲んでるのよりも、刺激が物足りない気がする。でも、こんな美味いサイダーは、これまで飲んだことがない気もした。
高さに慣れてくると、クスノキのてっぺんは、ヤマメの言ったとおり、想像以上に快適だった。
強い日差しは木の葉で防がれ、風は適度に冷えていて涼しく、眺めは最高ときている。
里から幾筋か、白い煙が上がっているのを見ると、何か食べるものも持ってくればよかった、と思った。
「鳴かず飛ばずの時鳥~♪ すすきの流れに枯れ果てぬ~♪」
ヤマメも高所に吹く涼風に、上機嫌で歌っている。
最初に見かけた、あの曇りの日に聞いたメロディーだ。
「……なかずとばずのほととぎす~♪」
「お、上手い上手い」
「そう?」
「あんたの木登りよりはね」
「うるせいやい」
草太は言い返したが、顔では笑ってしまった。
もう一つ、樹の上で楽しむことができるのは、ヤマメに対して心の底で抱き続けていた警戒心が、ほんの少し薄れていたからかもしれない。
昔、一度行った鉄平の家で、犬のシロを撫でさせてもらったときを思い出す。白いからシロなのだが、実際は泥遊びで時々黒くなって、見分けまでつかなくなる大きくて愉快な犬だ。それまで犬に吼えられてばかりで怖かったのだが、初めて触れた白は柔らかくて温かかった。それから、犬は怖いものではなくなった。
でも、犬と一緒にしたらヤマメは怒るだろう、きっと。
なので、言った。
「ヤマメって、犬のシロに似てる」
「……犬~?」
期待通りというべきか、ヤマメは歌うのを止めて、野良犬が唸るような声を出した。
「失礼だね。取り消しなよ。私ゃ犬が嫌いなんだ」
「え? そうなの?」
「嫌いも嫌い。何でか知らないけど、大嫌い。それなのに犬呼ばわりするとは……」
「ご、ごめんなさい。見た目が似てるんじゃなくて、思ったよりも怖くないってことだけど」
「ああ、そういう意味。草太は妖怪と会ったことはなかったんだね」
「会ったことあるよ。慧音先生っていうんだけど……」
「誰?」
「寺子屋の先生。見た目は人間なんだけど、頭の固さが妖怪並で……」
そう言って、宿題を忘れた時の罰について、教えてあげると、ヤマメはケラケラと笑った。
「頭突きかぁ。それはおっかないわねぇ。とても里には入れないや」
「うん、怒ると本当におっかないんだ。ヤマメは……あんまりおっかなくないけど」
「ほほう……ほうれ、ほうれ」
「ゆ、揺らすなよ! 切れたら落っこちるだろ!」
枝と網にしがみつきながら、草太はおっかない思いをした。
糸を手で揺すっていたヤマメは、くすくすと笑いながら、
「大丈夫さ。蜘蛛の糸はそう簡単に切れない。この太さなら人間のナイフだって通らないし、大岩だって受け止められるんよ」
「本当?」
「今度鉈でも持ってきたら、試させてあげる。まぁ、弱点が無いわけじゃないけど」
「へー。どれどれ……本当だ。びくともしないや」
「枝が折れるかもしれないけどね」
「わわ、そういうことは先に言ってよ」
遠慮無く糸の上で跳ねていた草太は、慌てて幹に近い巣の端っこに避難した。
「あれ、ヤマメ。今度って言わなかった?」
「言ったよ」
「また来ていいの?」
「もちろん。それが約束だったじゃない」
「じゃ、じゃあまた明日……いや、明後日来るよ!」
草太の口調は、自分が思った以上に活気づいていた。
ヤマメが脇から、二本指を出して見せてくる。
「二つ条件がある。前と同じ約束。私のことは絶対、誰にも言わないこと。まぁこれは分かってるよね」
「う、うん」
「それと……」
彼女は瓶をつまんで持ち上げて軽く振る。
「このサイダーっていうの。美味しかったから、また持ってきて。忘れたら登らせてあげないよ」
「わかった。忘れずに、ちゃんと持ってくるから」
草太は大きくうなずいた。
木登りだけじゃ終わらない。きっと、この夏休みは、自分の人生を変えるような、特別なものになるに違いない。
そんな確信を胸に抱いて。
「で、ヤマメ……この腕輪は外してくれないの?」
「だめ。我慢しなさい」
命を妖怪に握られているという現実は、変わらなかったが。
(続く)
当方に全編読破の用意あり。
ってヤマメが言ってた
そしてこのssは危険ですね、時間が奪われる的な意味で、第一章読み切って続きが気になるから読んでいたらいつの間にか半日以上たっていたとか成りかねません。
なぜか「僧なのかー」のくだりでいつも笑ってしまった。
続き物なので点数は最後に・・・
いい感じですね。
これで後3、400kbもあるとかwktkが止まらないんですが
今創想話に来て以来一番わくわくしている
そしてまだまだ物語は続くんだという期待感でいっぱい。
序盤のパルスィ、キスメのやり取り
そして昔のヤマメの飄々とした性格が好きです。
とりあえず、点数だけ入れて次行ってきます
これからどうなるか楽しみ。
うまい描写っすねー。
妖怪「僧なのか」も可愛い
チルノや小傘っぽい妖怪の存在もまた良し
が出てくる度に腹筋がつらい
木登りも登頂後の描写も良い。
ヤマメちゃん可愛いなぁ
ヤマメもかわいいし、何よりこれが第一話とは実にベネ。
次いきます!
人里の風景描写や、人間達の暮らしの描写が
もう神がかっていますね。
続きを読んできます。
長さが全く苦にならない素晴らしい文章だ。
続きも楽しみ。
あとちっとだけ気になったところが
>ヤマメが木の根元を指差した。そこに、さっき見たあの大きな黒蜘蛛が、じっと動かずにいた。
この時点ではまだ草太に名前を言っていないので、ナレーションで言ってしまうのは不自然かな、と。
あ、チルノだ!その妖精チルノっていうんだぜ!みたいな、
過去にタイムスリップしたような感覚がすごく楽しい。ヤマメも楽しい。
とても読みやすいし長さなんて全く感じませんでした。
チルノや小傘ちゃん(たぶん)がちょっと出てきて嬉しかったです。
それにしても鉄平君の存在感が相当なもの、この子の血筋からヤツが生まれるのかと思うとニヤニヤが止まりません。
堂々としたところもヤツの祖先だなと思わせてくれます。
ほかの人も書いていますが、草太の回想が彼自身しか登場しないスケールの小さいものではなく、端々に幻想郷の景色がもりこんであるのがGOOD。霧雨鉄平だとか博麗の巫女だとか、相変わらず慧音先生だとかそういう人物が出てくると、歴史を紐解いていった時と同じ醍醐味がでてきます。今幻想郷がああなってるのは、この60年前にこんなやつがいたからで、それもそれ以前にはそんなことやそんな人がいたからで、その間にはこんなことがあったからで、、、、とジグソーパズルをぴったりはめられたときのおもしろさがでてきて、長い話だけどあっという間に読み進んでしまいました。
ヤマメの性格が理想通りで感激。
人物や風景の描写も素晴らしいですね。
大好きな黒谷ヤマメが、もっと好きになっていく予感がします。
時代は読んだ感じ霊夢より2世代前の時代って感じました。
あとヤマメの株が俺の中で急上昇しました。
すごいものを見つけてしまった
これがあと3つもあるかと思うと興奮がおさまりきらんです
やっぱりいいですね~
そして何よりも、入道雲、サイダー、親友にも話さない秘密(というか話せない笑)のようなキーワードから、子供にとって何よりも楽しみにしている夏休みの雰囲気が文字越しに薫ってくるようで、それがとても印象的なお話でした…自分の小さい頃を思わず想起するような爽やかでいてどこか切なくなる甘酸っぱい空気に胸が一杯になりました…