*入郷以前の物語です。公式設定とは異なり早苗はすでに諏訪子の素性を知っています。
――早苗は大きくなったら神奈子様のお嫁さんになるのー
――おお! そうかそうか。早苗が私のお嫁さんになってくれるのか。それは何より楽しみだねぇ! なら、早苗にはご飯をたくさん食べて早う大きくなってもらわんとなぁ。
――駄目! そんなの駄目だよ早苗!
――おい諏訪子なんだ駄目とは。失礼な。
――よくお聞き早苗。こんな落ち目の神様に嫁いでも幸せにはなれないの! 早苗は人間の旦那さんのお嫁さんになるんだよ。素敵な人を見つけて、元気な子をこさえて、この諏訪の地に末永くえにしを繋ぐの。いいね? 早苗は人間のお友達をたくさんつくって、人間の皆と仲良くしていかなきゃいけないよ。
――えー。早苗、神奈子様がいいー
早苗は気恥ずかしさに顔を歪め、喉を掻きむしりたくなった。まだ自分が小さかった頃の、幼い求婚の記憶。
「たはは……恥ずかしいなぁ」
どれだけ顔をしかめたところで、恥ずかしい記憶は消えてはくれない。いや、本当のところは忘れたくないのかもしれない。自分の気持ちをためらいなく他人に伝えてしまえる幼い純真。それを幼さの罪だと思う一方で、それを失わずにいられたなら、と悔やんでしまう気持ちもたしかにある。
素直には言えなくなってしまった気持ちを、早苗はこっそりと呟いた。
「東風谷早苗は高校生になりました。私は今でも神奈子様の事がほんとうに大好きです」
心と、それと顔とが、ほんのり暖かくなった。
しかし、そうやってふんわりした気持ちでいる時でさえ、頭の片隅にはいつも消えない不安がある。つまり――。
「はぁ。女の人が好きだなんて、私、レズなのかなぁ。それに諏訪子様が聞いたらなんて言うかなぁ。また怒られるのかなぁ」
早苗の不安が、風を呼んだ。9月の終わりの朝、日本アルプスを越えた涼しい大気が早苗の長い髪をなびかせ、独り言を流していく。気持ちの良い諏訪の風に癒されながら、早苗は心の中のモヤをなんとか忘れようとした。
風を追って視線を右に向けると、そこには青緑色の諏訪湖が陽の光を反射して、視界一杯に輝いていた。さらに、諏訪湖を囲む緑の鮮やかな信濃の山々と、空の透き通った青もまた早苗を包み込む。さえぎるもののない、広い広い自然の眺め。深呼吸をすると、澄んだ風が早苗の体に流れ込んで、少しだけ胸のモヤを追い出してくれる。早苗は諏訪湖西岸の湖岸道を学校へ向けてペダルをこぐ。耳元では、風がゴゥゴゥと渦を巻いている。けれど目の前にたゆたう諏訪の世界は、どこまでも静かに、どっしりと横たわり大地を成している。
日本列島の中央で、天の恵みを大地に蓄える諏訪湖。その湖を囲み、寄り添う人間達の街。その両方を抱きかかえながら、空へ昇る緑の山々。そして天を染める果てのない青――この生まれ故郷の景色に癒され、早苗は一時だけ悩みを忘れることができた。
「早苗は彼氏にするならどんなタイプがいい?」
クラスメートにそう聞かれてまず頭に浮かぶのが、決まって神奈子の顔だった。もちろん、『神奈子様みたいなタイプ』と答える事はできない。
「神奈子様って誰? え、ていうか女?」
「諏訪大社の神様だよ。私には神様が見えるの」
なんて答えたが最後、変人確定だ。
だから早苗は取り繕うようにして適当な男性アイドルやら俳優やら名前をあげるのだ。
「へー! そうなんだー」
誰の名前を挙げても、たいていそんな返事が返ってくる。その意味はおおむね二通りで、
『へー! 結構普通』
『へー! やっぱり変わってるね』
「巫女さんって、そんな趣味なんだね」
早苗は変わり者だと思われていた。けれどあくまで、周りにそう思わせる要因は早苗自身の言動によるものではなく、代々続く巫女の家系の娘で、しかも地元では有名な諏訪大社の関係者、というステータスがそうさせるのだ。……と自分では思っているのだが、どうもやはり、普段の言動の中にも回りをオヤ?といぶかしませるものが時折あるらしかった。早苗にとってそれは煩わしい。普通に生活をしているつもりなのに、なんとなく一挙一動を回りがうかがってくる。けして悪い意味の注目ではないのだが早苗にとって居心地はよくない。注目されたがりの性格に生まれていればよかったのだが、実際はそれとは正反対の性格に育ってしまった。
「そんな。巫女だって別に普通だよ」
巫女であることには誇りを持っている。けれど心にはどうしても、特別視される事への抵抗がある。普通でいたいし、普通だと思われたかった。
そんな早苗なのだから、女性に思慕の念を抱いている事がなおさら不安だった。同性愛が悪いと断ずる気はないけれど、自分が世間の多数派から外れてしまう事が怖かった。
なのに、神奈子の事を考えると、早苗はどうしてもやっぱり胸が熱くなってしまう。
夕刻。早苗は学校が終わると春宮か秋宮へ出仕する。バイトがてらに神事の勉強をさせてもらうのだ。
それに、社にいけば神奈子に会える。神奈子といると、諏訪の景色を眺めている時のように、早苗の悩みは消えてしまう。
ところでその神奈子は、8月に諏訪大社・春宮の改修工事が始まって以来、目に見えて機嫌を悪くしていた。
拝殿の工事の間、収められていた道鏡は神棚ごと場所を移される事になったのだが、その移した先がいけなかった。
神奈子の依り代である道鏡が納められた神棚は、今、拝殿前に立てられた仮設テントの中にある。古くからこの地を治めてきた神は、地域運動会の自治会本部よりも小さなそのテントの中におわした。
「やれやれ。この私もとうとうテント暮らしか。落ちぶれたもんだ」
「神奈子様。もっとお行儀良くしてください」
「へーい。へい」
ものぐさに早苗へ返事をする神奈子は、神棚を尻に敷いて胡坐をかいて、あまつさえ鼻をほじっている。もちろん人間にその姿は見えない。けれど早苗にはしっかりと見えるのだ。
「やめてくださいっ。はしたない! 工事中でも参拝の方はいらっしゃるのですから」
きゃんきゃん声を張り上げながら、早苗は袴の袖を振り回した。出仕中は、セーラー服から紅白の巫女服に着替えている。
「あーあ。一昔前なら、道鏡の移動っちゃあ、そりゃあもう大行事だったもんだよ。大名行列をつくって他の社まで運んでくれたんだけどなあ。移動の前にもまずは朝から晩までお伺いの詞を歌うのさ。それがどうだ。今となってはちょいとテントを立ててそこに移してはい終了。悲しいねぇ」
早苗が清掃担当である仮設拝殿をせっせと掃除をしている間、神奈子はその側でブチブチと文句を垂れ流し続けるのだ。幻滅とまではいかずとも、少なからず呆れた。思春期の乙女としては、己の思慕の対象にそのような有様でいてほしくはない。
「神奈子様。改修工事にはものすごいお金がかかるのですよ。たくさんの信者の方々がその寄付をしてくださったのです。ありがたい事じゃないですか! 拝殿も綺麗になるのですから、少しの間は我慢してください」
「資本主義に毒されてるねぇ早苗。お金や綺麗な住まいなんて無くても、皆が日々の暮らしの中で私の事を考えてくれれば、私はそれで良いのさ」
「私達にとってはお金は大事なものなのです。それを無償で分けてくださるのですから、その気持ちだって十分ありがたいじゃないですか」
「そうかい。ならいっそ、お金を神社に祭ればいいでしょうに」
「神奈子様!」
神奈子のあまりの言い草に早苗は唾を飛ばす。神奈子は何食わぬ顔で耳をほじっていた。早苗の小言がやかましい、と言わんばかりである。
「まったくもう」
早苗が神奈子に背を向けて、正面の仮設賽銭箱の中身を改めようとした時である。
「良い事を思いついた」
神奈子がそう言いながら、突然早苗を後ろから抱き寄せた。
「きゃっ!?」
神の体に実体は無い。けれど早苗には、背中に押し当てられた神奈子の豊満なその胸と、己の腰に回され力強く引き寄せる神奈子の両手をはっきりと感じられる。
神奈子が早苗の耳元で囁いた。
「早苗。私を諏訪からつれだしておくれよ。二人でどこか、別の地で新たな信仰を求めようではないか。この地は諏訪子にまかせてさ」
あまりに声が近くて、早苗は耳たぶをしゃぶられているような錯覚を覚え、背筋が震えた。そしてその声は先ほどまでの気の抜けた声とはまったく違っていて、早苗の脳髄に重く響く。甘い言葉が早苗の全身の血管を駆け巡って、急激に心臓の鼓動を跳ね上がらせる。また、抱き寄せられているために、神奈子の香りが早苗の鼻腔を侵した。早苗は、体の外側にも内側にも神奈子を感じた。まるで熱い風となった神奈子に全身を包まれているようだった。頭がぼーっとしてくる。
「またそんな冗談を……。諏訪子様が聞いたら、お怒りになりますよ」
「ふふ。高天原まで尻を蹴飛ばされるであろうな。だがそれは早とちりだぞ。私は諏訪を捨てるわけではない。私は諏訪大明神のまま、他の地で信仰を求めるのだ。信仰は諏訪へ伝わるのだよ。ならばよかろう?」
「そ、そういう問題では」
「かつて出雲を落ち延びた時はそれでも多くの人間達が私を求めてくれていた。だが今では私を見つめてくれるのはお前だけだ。なぁ早苗。お前が側にいてくれるならば私はどこへだって――」
「いいかげんにしてください!」
早苗は全身の力を振り絞って、神奈子の胸から逃げ出した。
そうでもしないと、このままではじきに足腰がとろけて、その場にへたりこんでしまいそうだったのだ。
「そ、そんなにここが不満なら、工事が終わるまでずっと秋宮にいればいいじゃないですか!」
早苗は声を荒らげた。熱くなってしまった己の体が恥ずかしくて、自分自身の気をそらしたかった。
神奈子はそんな早苗をおもしろがっているのか、ニヤニヤと笑みを浮かべている。
「それはできん。早苗は10月頃までは春宮で奉公をするのだろう。平日の夕方は春宮におらんと、早苗に会えんじゃないか」
「っ!!」
顔から火がでて、喉が燃えた。そのせいで上手く言葉が出ない。そんな様子を神奈子に見られたくはなかったから、早苗は神奈子に背を向けた。目の前には春宮の境内が広がっていて、ぽつぽつと参拝者の姿もある。向かって左手の社務所も、鳥居の右手にある夫婦木もいつもと同じくそこにたたずむ。そんな日常のかたすみで、自分だけが神様に弄ばれている。奇妙な非現実感だった。
「私の愚痴を聞いてくれるのは早苗だけだからなぁ。現代の神は孤独だよ」
「……そ、そういう意味でしたか」
「ん? どういう意味だと思ったの?」
いやらしい声で神奈子が言った。早苗の考えを何もかもわかって、それでなお聞いているのだ。神奈子はいつもそうやって早苗をからかう。
「い、いえ……。あのっ。もう掃除は終わりましたから失礼します!」
実際はまだ神棚の上のほこりをはらっていなかったけれど、早苗は嘘をついてその場から離れた。これ以上神奈子の側にいると、自分がどんな痴態をさらけ出してしまうか分からなかった。
「ご苦労さん。また明日も頼むぞ」
羞恥に駆け出す早苗の背中に、いたって冷静な神奈子の声が別れをつげた。
早苗にはその神奈子の冷静さがとっても妬ましくて、しかし同時に頼もしくもあり、どうしようもなく胸がときめいた。
早苗は、神奈子に弄ばれていることが、悔しくもあり悦ばしくもある。
春宮をでた頃にはもうあたりは暗くなっていた。茅野にある早苗の家までは自転車で1時間弱。
「まっすぐ帰れば8時からのドラマが見れるなぁ」
けれど神奈子にからかわれたせいでどうにも心が落着かなかった。やっぱり好きだけど、不安。こんな時、早苗は諏訪子に会いたい。諏訪子は早苗の心を優しく撫でてくれる。
迷いもあった。早苗が普通の女の子になりたいとことさら意識するのは、諏訪子の影響が強い。諏訪子は常日頃早苗に、自分に備わった特異な力の事は忘れて人間達と一緒に生きてくれ、と遺言のように説くのだ。早苗が抱えている思いはそれに反するものだ。だから、諏訪子に会うのが少し後ろめたい。
早苗は無言のまま、何人かの通行人を自転車で追い抜いた。それからぽそりと呟いた。
「いっそ、諏訪子様に打ち明けてみようかな」
諏訪子なら受け止めてくれるかもしれない。早苗はそう信じている。
自分の遠い祖先にあたる、諏訪の土着の小さな神様。早苗の幼い頃から諏訪子はずっと側にいてくれて、誰よりも優しく、寛容で。諏訪子みたいになりたいとさえ、早苗は思っている。
早苗は思い切って、洩矢神社に寄り道をする事にした。
春宮から西に進み、岡谷駅を越えて川岸東の細い道に入っていく。洩矢神社の入り口は狭い二車線道の道路沿いにあって、さして立派なわけでもないから、夜になるとうっかり通り過ぎてしまいそうだった。
早苗は鳥居の手前にある手水場で手と口を清めてから、細く暗い境内に入った。人が二人ならんで歩ける程度の石畳が入り口から社にのびている。両脇は暗い林に囲まれている。小さな裸電灯が石畳にそってつるされているがそれではとても明かりがたりなかった。足元さえ良くは見えない。まともな感覚ではとても女子一人が夜に来るところではない。けれど早苗はかけらも怖いとは感じていない。洩矢神社は、この諏訪の中で早苗がどこよりも安心していられる場所なのだ。
「こんばんわ。早苗」
社は早苗の胸ほどの高さの石垣の上に建てられており、参道の途中にはそれを登る数段の石階段がある。
そこに諏訪子が腰かけ、早苗に手を振っていた。
「そっか。早苗には衆道の気があったか」
早苗が聞きなれない言葉を諏訪子が口にした。
「しゅう、どう?」
「ああごめん。古い言い方でね。今風に言うと同性愛。正確には男同士の間柄を言うんだけど」
「はぁ……」
早苗は諏訪子と並んで階段に腰を下ろしていた。暗い林の底。木の幹が、電球のオレンジがかった光に僅かに照らされ、暗闇にボゥと浮かび上がって二人を囲む。林の向こうに見える民家の光が、奇妙に遠く感じられた。時折、闇の天蓋から風にゆれる木々の葉の音が降りてきて、それもまた街中とは違う雰囲気を生む。夜に諏訪子とこうしていると、まるで二人だけの世界にいるようだった。
早苗は意を決して、女性に恋を抱いてしまっている事を諏訪子に告白した。だがその相手が神奈子だとは、まだ言っていない。
諏訪子の反応は、
「なぁに、気にする事はないんだよ」
やはり寛容で、とても優しかった。
常日頃抱えていた悩みを優しくうけとめてもらえた事で、早苗はふいに目頭が熱くなった。
「諏訪子様。ごめんなさい。私」
「何を謝るの。私は早苗が恋をしてくれている事がとっても嬉しいよ」
諏訪子は本当に嬉しそうに笑った。
「相手が男だろうが女だろうが、大事なのは誰かを好きになるその心だ。うん。めでたいめでたい。そうやって人と人は繋がっていくんだ。あぁ、本当にめでたい事だよ」
諏訪子は笑いながら、早苗の背中に手を置いた。セーラー服ごしでも、その手の暖かさが分かった。
だが、『人と人』という諏訪子の言葉が、早苗の気持ちを少しだけ陰鬱にした。
「で、相手は誰なんだい? クラスメート?」
「それはその……ちょっと、言うのは恥ずかしいです」
「あはは! そうかそうか! まぁ今度神社につれてきなよ!」
上機嫌な諏訪子に気が引けて、思慕の相手が神奈子である事は言い出せなかった。神奈子が好きだと伝える事は諏訪子への裏切りである、という強迫観念があった。。
その後、少しだけ違う話題のお喋りをしてから早苗は神社をあとにした。
帰り道、早苗が諏訪湖の空を見上げると、夜空に月と神奈子が輝いていた。神奈子は空中で胡坐をかいて、諏訪を見下ろしている。その姿は何よりも神々しかった。
そんな素敵な神様達と、自分は触れ合う事ができる。こんな嬉しいことがこの世にあるだろうか。
ただ一つ気がかりなのは、やはり、自分の恋の相手が神奈子であると知った時に諏訪子がどんな顔をするか、という事だった。
日付が変わり、暗くて時計も見えない真夜中。自宅で眠りについていた早苗は部屋の中に誰かの気配を感じたような気がした。それで目が覚めたのだろう。
布団に横たわったまま、開ききらない瞼で辺りをうかがう。
すると布団のすぐ側に、黒い人影があった。
「ひっ」
小さな悲鳴を上げながら飛び起きる。体が緊張し、脈が跳ね上がる。
「起こしたか。ごめん」
暗闇の中に響いたのは神奈子の声だった。
ただ、その声はいつになく力が無い。
「神奈子様。こんな夜中にどうしたんですか。びっくりしましたよ」
胸を押さえながら、早苗は息をついた。
枕もとに神奈子が腰を下ろしている。神奈子の影が回りより少し濃い闇になっていた。
「すまん。ところで」
と、神奈子は気落ちした感じの声で続けた。
「さっき諏訪子から聞いたんだが。早苗。惚れた相手がいるそうだな」
「えっ」
唐突だった。
早苗の心臓がまた違う緊張で跳ね上がった。何せ目の前にいる神奈子がその惚れた相手なのだから。またそれに、もし諏訪子みたいに祝福でもされようものなら、とても複雑な気分になってしまう。
「はぁぁぁ」
神奈子の長い長い溜め息が、暗闇にただよった。
どうも、祝福してくれる感じではないらしい。
「諏訪子はえらい喜びようだったよ。はは」
神奈子自身にはそんな雰囲気は微塵も感じられない。笑い声はかすれていて、ロウソクの炎さえ揺らせなさそうだ。
そんな落ち込んだ声を聞かされると、もしやという期待感が、早苗の心に湧いた。
「祝ってやれと諏訪子には言われたが。はぁぁぁ……。ちと日頃に不真面目すぎたのか。巫女一人の心さえ留めておけんとは。それとも私の力がそこまで衰えたのか。はぁぁぁ……」
女々しい声で神奈子はブツブツとなげき続ける。
もはやそこにどんな気持ちがこめられているのかは明らかだと、早苗には思えた。思いたかった。
「あの、違うんです。あの、私」
体の芯から湧き上がるときめきの衝動がその喉元まで言葉を押し上げた時である。
「こら神奈子! やっぱりここにいたか!」
「っ!?」
突然、諏訪子の怒声が暗闇の中にはじけた。
早苗の体が反射的にすくむ。
カチカチッ
っと、プラスチック音がして、部屋の蛍光灯に明かりが灯った。
「す、諏訪子」
布団に体を起こしている早苗と、その側で胡坐をかいている神奈子。そしてその二人が見上げる視線の先には、諏訪子が蛍光灯の紐を掴んで仁王立ちしていた。
腰に手をあてて神奈子を睨みつけている。
「ったくバ神奈子! いきなりすっとんでいきおって、早苗に何するつもりよ!」
「な、何をするつもりもあるものか! ……ただ。いてもたってもいられなくなってだな」
神奈子は罰が悪そうにして、顔をうつむかせた。
諏訪子は情けなさそうに短く溜め息をはいてから、早苗の方を向いた。
何が何なのか早苗にはさっぱり分からなかった。
「大丈夫早苗? 変なことされてない?」
「え? は、はい。何も……」
「まったく。神奈子ったら呆れるよ。早苗に好きな人ができたと教えてやったら、アホみたいに大口を開けて。それでいきなり飛んでいっちゃうんだもの。何考えてるの」
「やかましい。大事な巫女をうばわれて悔しくないわけがあるか」
「何が『うばう』か! 素直に祝ってやりなさいよ!」
「めでたい事なんて何もない!」
「ああもう、こいつは……」
諏訪子は神奈子の襟首の後ろをむんずと掴み、そして軽々と片手で持ち上げた。二人は身長差がかなりあるのため、諏訪子が腕をめい一杯かかげてやっと、神奈子の足がちょいと床から浮いている程度。子猫が母猫をくわえ上げているとでも言おうか、なんとも妙な光景だった。
「こら離せ! 離さんか諏訪子!」
「うるさい帰るよ! 邪魔したね早苗」
「え。あ。はい」
諏訪子は笑顔で早苗に手を振った後、神奈子をつかまえたまま二人一緒に壁をすり抜けどこかへ飛んでいってしまった。
あれよあれよというまに一人とり残された早苗は、呆然とした表情で二人の消えた壁を見つめるしかなかった。
「何だったんだろう……」
今の出来事を振り返り、布団の側にいた神奈子の姿を思い浮かべる。暗闇の中で聞いた、神奈子の悔しさに満ちた声が忘れられない。
初めから最後まであっという間のできごとで何がなんやらだったけれど、改めて考えてみると――
「……もう一歩だった気がする」
そうだ。あそこで諏訪子が現れなければ――
「神奈子様。私をとられてくやしいっておっしゃってたし……!」
その言葉が示す神奈子の内心は、まぁおそらく、間違いようがないだろう。
恋の衝動がメラメラと燃え上がってきて、頭がカァっと熱くなってくる。
「神奈子様は私の気持ちを受け止めてくれる……!」
もし諏訪子が現れていなかったら、おそらく今ごろ自分は神奈子に思いを打ち明けていたのではないだろうか。ほんとうに、諏訪子がくるのがもう少し遅れていたら、どうなっていたのだろうか。
「……。諏訪子様……」
諏訪子の事を考えると、浮き足立った早苗の気持ちが少し萎む。早苗が神奈子に思いを告げた時、諏訪子がどんな顔をするのか、考えると怖かった。
「……でもやっぱり私。神奈子様と」
我侭な気持ちが急に強くなって、諏訪子を思う気持ちとぶつかりあっている。
卑怯だと自分でも思う。神奈子の気持ちを少しだけ知ったとたんに、急に勇気が湧いてきた。神奈子が自分の思いを受け入れてくれるかもしれないとわかったとたんに、諏訪子の願いをむげにしようとしている。
どうするべきなのか。どうしたいのか。まだ最終的な決断はできていない。それでもこのままじっとしている事は今の早苗には到底できなかった。
「神奈子様。諏訪子様」
早苗は着の身着のままパジャマのまま、窓を開け諏訪の夜空へ飛びだした。
人目につかない程度の高度をとって、早苗は月夜を飛ぶ。
二人はおそらく諏訪湖の方にいったのだろうとあたりをつけて、茅野市街を北上した。眼下を茅野の街明かりが流れていく。その先に、諏訪湖のつくる闇があった。街明かりの中に、ぽっかりあいた光の無い黒い巨大な穴がある。
「あそこだ。お二人で一緒にいる」
諏訪湖スタジアムの上空に到達した頃、早苗は諏訪湖の上空に神奈子と諏訪子の姿を発見していた。まだ結構な距離がある。普通はこれだけの距離でしかも闇夜に人間大の物体を視認できるはずが無い。けれど、早苗の目には二柱の姿がはっきりと捉えられるのだ。そもそも五感を超えたところで繋がっているのだろう。それは常日頃からの現象である。
神奈子は胡坐をかいて背中をしょげさせていた。その隣で諏訪子も同じく胡坐をかいて、神奈子の肩に手をおいている。どうやら神奈子を慰めているようだ。
「…………」
なんとなく、本当になんとなく、それがほんの少し腹がたった。イラつく理由が分からずに、早苗はそんな自分に戸惑った。
早苗がもう少し利己的だったなら、自分の心を理解できただろう。――早苗は諏訪子のせいで神奈子に思いを打ち明けられずにいるのだ。諏訪子が余計な考えを早苗に植えつけていなければ、今頃早苗は素直に神奈子に思いを告げている。神奈子があんな風に誤解して落ち込む事もなかったろう。なのに、その神奈子の隣に諏訪子がいて、あんな風に慰めてあげているなんて、納得がいかない。まるで諏訪子は早苗から神奈子を横取りしているみたいじゃないか。――けれどそんな風に考えるようには早苗は育っていない。ただ心の奥底には我侭な乙女の思考回路がたしかにあって、それが密かに反応したのだ。
そしてそれはガン細胞のようにとどまる事なく増殖し、知らず知らず早苗の思考を蝕んでいる。
早苗は二人の背後から静かに近づいていった。
小さく、二人の会話が風にのって届いてくる。
「早苗の幸せが私達の幸せ。そうでしょ神奈子」
「そうでもある。でも私の幸せは完全には一致してない」
「どちらを優先すべきかは、決まっているでしょ? わかってるくせに。ねぇ神奈子。一緒に喜んでよ。片方が笑って、片方が泣いているなんて、私達らしくないよ」
諏訪子がその小さな肩で、神奈子の大きな肩に寄り添った。
二人はいつも皮肉を言い合って、些細な事で痴話げんかをするのに、深い部分では手をたずさえあっている。早苗はそれを知っているし、嬉しく思う。けれど今はそれが恨めしい。
少し夜風がふいた後、神奈子が小さく笑った。
「私を泣かせるのは、いつも諏訪子でしょ」
諏訪子もまた、けろけろと笑った。
「諏訪を譲ってあげたんだから。そのくらいの意地悪させてよ」
早苗は、寄り添う二人の間を数千年の長い歴史が繋いでいるのを、垣間見た。そのつながりはとても密接で強固で、どこにも入る隙間なんて無さそうだった。
えたいのしれない焦燥感が早苗を追い立てた。
「神奈子様。諏訪子様」
二人は少し驚いた顔をして、早苗の方を振り向いた。
「早苗。何しにきたの。そんなパジャマ姿で」
「諏訪子様。私」
何をしにきたのか、何をすべきなのか。それは明白だと早苗は思った。そのために自分は二人の後を追いかけたのだ。他に何をすることがあろう。
早苗は、強張って睨みつるようになっている目で、諏訪子の顔をじっと見つめて、そして言った。
「私。神奈子様が好きです」
神奈子ではなく諏訪子に告げた。なぜか、そうしてしまったのだ。
言ってしまわないと負けてしまう。
誰に? 何に?
漠然とした焦りが早苗の心を絡めとっていた。
緊張した面持ちで、その手はパジャマの袖口をぎゅっと握っていた。心臓がバクバク言っている。
神奈子はきょとんとしている。
諏訪子は――ぎょっとした顔をしていた。
「早苗……」
神奈子が間抜けな声でつぶやいたその直後――。
「駄目ッ!!」
雷鳴が諏訪にとどろいた。衝撃となった空気が早苗の肌に叩きつけられる。一瞬、夜空にまぶしい閃光が走ったようにさえ感じられた。
諏訪湖の湖面には波紋が広がり、その数秒後、湖岸で眠っていたカモ達が一斉に飛び立った。
「す、諏訪子?」
神奈子は驚きながら雷鳴の中心を凝視している。
早苗は体が固まって声を出せなかった。諏訪子にそんな怒声を浴びせられたのは初めての事だった。
諏訪子は首をぶんぶんと左右にふった。
「駄目! 駄目駄目! 絶対駄目ー! そんなの許さない! お前なんぞに早苗はやらん!」
「おい。私は何も言ってない」
神奈子が目を細めて諏訪子に口を尖らせた。だが諏訪子はそんな事眼中にないようだし、早苗もまたほとんど神奈子には意識が向いていない。本心から諏訪子に反抗するという生まれて初めての経験でそれどころではなかった。
「そ、そんなの諏訪子様が決める事じゃありません」
「それはそうだよ。でも早苗、私を信じてちょうだい。お前はこちらにきてはいけない。早苗は人間だ。人間と恋をして、人間と一緒に生きるのが一番幸せなんだよ」
早苗はかなりためらってから、諏訪子に言い返した。
「私の幸せを諏訪子様が勝手に決めないでください!」
一瞬、諏訪子は裏切られたような顔をした。その顔が、早苗の目に焼きついた。
「早苗の気持ちは良くわかるよ。でも神奈子みたいな甲斐性なしに惚れてもいい事は無い」
「諏訪子。お前さっきから失礼だぞ……」
早苗は、どうしても自分の気持ちを認めてくれない諏訪子に腹を立てた。悔しくて、憎らしくて、悲しかった。
「神奈子様は甲斐性無しではありません! 立派な神様です!」
「いーや。こいつはへたれだ。早苗は神奈子のカッコいい外面しか知らないんだよ」
「そりゃあ、神奈子様と諏訪子様がご一緒にすごしてきた時間に比べたら、私が神奈子様のお側にいた時間は微々たるものですよ! 諏訪子様ほどは神奈子様を知らないかもしれません。でも私だって、この諏訪や信仰のことで苦心している神奈子様を知ってるんです! 私はそんな神奈子様のことだって、お慕いしています!」
こみあげる苛立ちを一気に言い放って、早苗は肩で息をした。
頭がなんだか熱くて、じんじんと脈打っているようだった。
神奈子が感極まったような声で、呟いた。
「早苗……!」
それをかき消すように諏訪子は懇願する。
「なぁ早苗。お願いだから――」
「諏訪子様はっ」
と、早苗が諏訪子の言葉を遮って、叫んだ。
「諏訪子様は私に神奈子様をとられるのが嫌なんじゃないですか!?」
「はぁ!?」
「神奈子様が私を大事に思ってくださるのを悔しく思って、それで諏訪子様は――」
肩を寄せ合う二人の事が早苗は羨ましかった。そんな諏訪子が妬ましくて、気持ちを認めてくれない諏訪子が憎らしくて、そんな妄想にとらわれてしまった。
早苗は鋭い瞳で諏訪子を睨みつけて、諏訪子はあっけにとられた顔で早苗をみつめて――。
「あっはっはっはっは!」
――突然、神奈子が腹を抱えて笑い出した。
場違いなその笑い声に、興奮していた早苗までもが一瞬きょとんとさせられてしまう。
その隣では諏訪子が、何にたいしてか渋い顔で溜め息をはいていた。
「ひっひっひ! ああおかしい! 何を言いだすのよ早苗ったら」
「な、何がおかしいんですかっ」
「何がもくそも、言っている事がめちゃくちゃじゃないか。あっはっは!」
「わ、わ、笑わないでください! 私は真剣に……!」
早苗がどれだけ睨みつけても、神奈子は笑うのを止めなかった。
「なぁ諏訪子。早苗は今頭に血が昇っているんだよ。この話はまた今度にしようよ」
瞳に浮かんだ涙をぬぐいながら、神奈子が諏訪子に言った。
諏訪子は憮然とした顔で、
「そうね」
と答えた。
「早苗」
神奈子が早苗を見つめる。その顔はとても優しい微笑みをたたえていた。いつもはちょっと粗野な瞳が、今はとても柔らかくなって、早苗の瞳を覗き込んだ。抗う事ができず、みとれさせられてしまう。
「いいだろう?」
「は……はい」
喉の奥に唾を詰まらせながら、早苗はなんとか返事をした。
神奈子は満足気に頷いて、それから提案した。
「じゃあ。早苗は家に帰りなさい。私が送っていこう」
「えっ」
神奈子と二人きりになるという事か、と早苗はドキリとした。興奮して熱くなった頭にいきなり冷水をかけられたようだった。
諏訪子がそれに異をとなえる。
「いや。それなら私が――」
だが、諏訪子は言いかけて、口をつぐんだ。
神奈子を半分睨みながら、しばらく黙り込んで、
「変な事するんじゃないよ」
と釘をさした。
それからぎこちない無表情で早苗の方を向いて、
「じゃあね」
と、さよならを告げた。
早苗は何を言うべきか分からず、ただ、小さく、
「はい」
とだけ答えた。
諏訪子はあっさりと二人に背を向け、洩矢神社の方角に去っていった。
早苗と神奈子は何もしゃべらずに、小さくなっていく諏訪子の背中を並んでただ見つめていた。
というより早苗は何を話していいか皆目検討がつかなかったのだ。
(ど、ど、どうしよう)
ついさっき好きだと告白した相手がすぐ隣にいる。返事はまだ聞いていない。
早苗はドギマギしながら横目でチラチラと神奈子の様子を伺った。
神奈子は平静な顔をして、諏訪子が去っていった方向を眺めている。何を思っているのか、その顔からは分からなかった。
「よし。行ったな」
神奈子は前を見つめたまま、ふいにそう言った。
「え?」
早苗が神奈子の視線を追うと、丁度諏訪子が山陰に入って見えなくなる所だった。
そして、その次の瞬間である。
「早苗! 私はうれしいぞ!」
神奈子は歓喜の雄たけびをあげ、早苗を羽交い絞めするような強い力で抱きすくめた。
「んむぅっ!?」
神奈子の豊満な胸のその谷間に顔をうずもれさせながら、早苗は仰天した。
早苗が目を白黒させている間も神奈子は激烈なスキンシップを続けている。
「あぁ早苗! 私の可愛い早苗! 愛しい我が巫女! ほかの奴になど絶対やるものか!」
神奈子は猫なで声を上げながら、早苗の頭を撫で、頬擦りをし、抱きしめる腕にぎゅうぎゅうと力を入れた。早苗が呼吸をしようとするたびに神奈子の胸が鼻の穴に吸い付いてくるし、身動きしようにもすごい力で抱きしめられて、まったく体が動かない。
「神奈子様苦しいっ……」
「おおっ。すまんすまん」
早苗が悲鳴を上げてようやく神奈子は腕の力を緩めた。それでも決して早苗を離す事はしない。
「神奈子様……」
「ん?」
早苗は頬を赤らめながらほうけた表情で、神奈子の顔を見上げる。
恋とは穏やかなものなのだろうと思っていた。けれど神奈子はあらあらしい力でそんな早苗の幻想を打ち砕き、そして、想像していたよりもはるかに強いドキドキを早苗に与えてくれた。
微笑みの中に浮かぶ神奈子の深い瞳が早苗をじっと見下ろしていた。
早苗はその瞳に意識を吸い込まれていくような気がして、体中から力が抜けて、もはや何の言葉も浮かんでこなかった。ただ、心の中にある素直な感情だけが、ぽつりと口に残った。
「好き……です……」
唇にも舌にも力が入らなくてちゃんと伝えられたのか分からない。
けれど神奈子は、ニコっと顔をくしゃくしゃにして笑い、また早苗が苦しくなるぐらいに強く抱きしめてくれた。
早苗は何も考えられなくなって神奈子のなすがままにされた。
諏訪子の事さえ、今は忘れていた。
「さて。明日も学校なのだから、もう寝ないとな」
気がつけば早苗は神奈子に布団へ寝かしつけられていた。ほんとうに意識が飛んでいたわけではないが、それくらいずっと頭がポーっとしていたのだ。
湖上で長々と抱擁された後も、家に帰る間ずっと神奈子に抱きしめられていた。家に返ってようやく解放されると、早苗は腰が砕けてしまって布団の上に崩れ落ちた。
神奈子は、おやおや、と笑いながら掛け布団を捲り早苗を横たわらせた。
時計はすでに午前3時をすぎていた。
「さぁ電気を消すよ」
「あ……神奈子様は、帰ってしまうのですか?」
神奈子がいなくなってしまうと思うと、早苗はむしょうに寂しくなった。
しかし神奈子は早苗を見下ろしながら、当然のように答えた。
「早苗が眠るまで、側にいるよ」
その言葉が、また早苗の乙女心をきゅんとさせた。
「ありがとうございます」
カチカチッ
音がなって、電気が消えた。
部屋は真っ暗になり、暗闇になれていない目では何も見えない。
「よいてこしょ」
諏訪弁の掛け声と共に神奈子は、布団の隣に寝転がったようだった。
ちょっと手を伸ばせばすぐに届く距離である。
(……眠れないかも)
ようやく思いを告げられた相手がすぐ側にいるのだ。暗闇の部屋で二人というのもまた、非日常的で奇妙な雰囲気にさせられる。
早苗は頭のほてりがまったく下がらなかった。かといって、神奈子に帰ってほしいとはこれっぽっちも思わなかった。
「早苗。眠れない?」
神奈子の声が顔のすぐ側に聞こえる。思ったよりも近かった。
「は、はい。ちょっと……ドキドキして……」
「だろうな。ふふ」
ますますドキリとするような色っぽい声で神奈子が笑う。
それから神奈子がかけ布団に手を潜り込ませて早苗の腕をさすり始めた。早苗は神奈子にふれられて余計に体が熱くなった。
だがそれは初めのうちだけで、すぐに、早苗の体から緊張と力が抜けて、穏やかでとても心地よい気分に変わっていく。神奈子のこする手がそうさせるのだ。相手のあらゆる感情の乱れを削り取る、神やすりである。
興奮していた気持ちが落着いてきて、だんたんと静かな眠気がとって変わる。そうやってうとうとし始めたところに――ふと、諏訪子の顔が頭に浮かんだ。
「神奈子様……」
「どうした?」
「私……諏訪子様に酷い事を……」
冷静になった早苗の心には、後悔ばかりが、あとからあとからわいてきた。なぜあんな態度を取ったのか、今になると自分でも愚かしかった。諏訪子が一瞬みせたあの裏切られた表情が忘れられない。神やすりが癒してくれなければ、早苗は泣いていたかもしれなかった。
神奈子が優しく声をかけた。
「気にする事はない。人間の乙女はそんなもんだ。諏訪子もそれくらいわかってる」
「私……情け無いです……」
「あいつの言い方だって悪かったさ」
「でも……」
どうやっても沈んでいく早苗の気持ちを照らそうとするように、神奈子は明るい声で話す。
「まぁそれにね。早苗が私に惚れるのは無理からぬ事なんだよ」
「……それってちょっと神奈子様の自惚れすぎです」
「ばか。現に私に惚れている奴が何を言う」
神奈子はさすっていた手を早苗の腕から離して、額をツンとつついた。
神奈子の神やすりが止まって、早苗は「あ……」と切なげに呟いた。すると神奈子は、くすくす、と笑って、また布団に手を入れた。
早苗はだんだんと闇に目が慣れきて、神奈子の優しい笑みがぼんやりとすぐ隣に浮かんでいた。
「でもね。本当に自惚れなどではないんだよ」
神奈子に奢った様子は無く、ごくあたり前の事実を述べているだけに感じられる。
「『坊主と巫女は純潔』ことに昔はそういうイメージが世間はあった。今でもなんとなく、そういう偏見はあるだろう?」
「はぁ。まぁ」
今の状況とどう関係のある話なのだろう、と早苗は首を捻りながら答える。
「たしかにかつては、仏道や神道に入ったものは男女の色を絶つ事が多かった。なぜだかわかるかい?」
「それはやっぱり、神様に仕えさせていただく身ですから、俗世の欲を絶たなければならないという事なのでは」
「うん。それも間違いじゃあない。そういう面はたしかにある。けど多くは、もっと俗っぽい理由さ」
「俗っぽい?」
「簡単な事だよ。皆、神様に惚れてしまって、人間にはなびかなくなるのさ」
「へ……?」
「誰だって、比較してより魅力的な男や女に惚れるだろう? 自分でいうのもなんだが、こちとら神様だからね。神と比較されて勝てる人間なんてそうそういない。神職にある者はいつも神を近くにおいているのだから尚更その傾向が強い。信心深い者ほど、そうやって俗世から切り離されてしまうのさ。そういう意味では早苗、お前はごく普通に恋をしているんだよ」
神奈子の言い回しを早苗はすぐには飲み込めずにいた。普通になりたいとはいつも思っていたけど、今の自分が普通だとは、自分でも思っていなかったのだ。
「そう言えば、早苗は衆道を悩んでもいるそうだが、それだって、私は神なんだから。私は女でも男でもないぞ。人間達が依り易いように男女の概念を備えてはいるが、本来意味はない」
「は、はぁ」
「早苗、お前には私が見えるし話をする事もできる。それほど神に近づいた人間はこの国の歴史でも稀な存在だ。けれどだからこそ、早苗が私に惚れるのは普通の事なんだよ」
「う、うーん……」
やはり、きつねにつままれているような感覚。結局は普通の人間ではないという結論になるような……。
「諏訪子だって。分かってる」
「え?」
さっきまで淡々としていた神奈子の声が、今は少しだけ暗闇にまぎれた。
「そういう人間の性を理解していて、早苗にはそうなって欲しくなかったんだよ」
せっかく引き上げた早苗の心をまた湖に投げ捨てるような、神奈子の話だった。
「早苗が生まれた時、私達を感じる特別な力があるとすぐに分かった。諏訪子は夜な夜な早苗の両親が寝ている間に、赤ちゃんベットから早苗をだきあげて、寂しそうに笑って言ったよ。『不憫な娘だ』、とな」
「えっ……」
そんな事を、早苗は今まで聞いた事が無かった。
「私は単純に喜んでいたんだけどな」
神奈子は笑ってくれたが、早苗の心は沈んだままだった。神奈子もすぐに、空笑いは止めた。
「まぁ……諏訪子は治神だからな。軍神の私と違って物事をやたら複雑にとらえよる。諏訪子は乳飲み子の早苗をあやすたび、ほとんど子守唄代わりにこう言ってたよ。『なぜ今ごろなって、こんなに力の強い娘が生まれたんだろうねぇ。せめてあと数百年早く生まれていればまだ私達にも力があった。けれど私達はもうこの娘に何にもしてやれない。可哀相になぁ。今の時代じゃ奇異な力などあっても生きにくいだけだろうに。洩矢の血が、私の血がこの娘の体には流れている。ごめんなぁ早苗。なんとか、普通の人間らしく生かしてやれたらなぁ』ってね。まぁ私は悲観的すぎると思うがね」
「諏訪子……様……」
早苗はもう、いても立ってもいられなくなった。
諏訪子がそれほどまでに自分を思ってくれている事が何より嬉しく、またそんな風に考えている事が何より悲しかった。
そして、先ほど自分が諏訪子に投げつけた言葉を、すべて殺してしまいたかった。
「私、諏訪子様の所へ行ってきます!」
立ち上がろうとした早苗の腕を、だが、神奈子が掴んだ。
「待て」
「神奈子様……?」
暗闇の中に神奈子の目が光ってみえた。少し恐ろしいくらいの真剣な目で、早苗を射抜く。
明らかな威圧感を感じて、早苗は唾を飲んだ。
「早苗はどうしたい?」
「どう、とは」
うろたえる早苗の瞳を貫きながら、神奈子が断言した。
「私は早苗を手放す気は一切無い」
「え……」
それからの神奈子の声は、重く、深く、強く、早苗の脳髄に響いた。油断すると気絶してしまいそうなほどの重圧感があった。目の前にいる相手がただの女性ではなく神なのだと、早苗は改めて理解させられる。
「誰がどう願ったところで、結局お前は普通の人間とは違う。早苗は特別な人間だよ。そして私にとって早苗は希望だ。やせ枯れていくだけの我が信仰の野に、ひさかたぶりに咲いた一輪の花だ。かつてこの世界中に満ちていた信仰の力は今はどこかへきえてしまった。けれど早苗はそれを還してくれた。早苗が生まれた日は、この数百年間で何より嬉しかった。私は早苗に普通に生きてほしいとは思わない。諏訪子が何と言おうと、私の側にずっといてくれ」
視界が遠くなるような、奇妙な感覚に早苗は襲われた。そうやって離れた場所にあるテレビを通して世界を見ているような気がするのに、けれど、神奈子だけはたしかに目の前にいて、何よりも大きくはっきりとしている
神奈子は起き上がり、胡坐をかいた。そして腕を引き、無理やりに早苗を抱きすくめた。
早苗は抵抗できなかった。
「もし早苗が普通に生きたいと望むならそれは仕方が無い。私は受け入れよう。だが私は、自分からお前を離す事は絶対にしない」
「神奈子、様」
「早苗が私の側にいてくれるなら、あらゆる寵愛を早苗にささげよう。心も、身体も、人間達にはとうてい真似できない悦びを早苗にあたえてやる。いつか早苗が子を欲しくなったら、それだって私が授けよう」
体がくっついてしまうのではと思うほどの力で、神奈子は早苗の体を締め付ける。
「我が信仰が果てる時は、早苗。私を一人で死なせないでほしい」
早苗は、抱きすくめられながら、その首筋に埋められた神奈子の唇を感じながら、懇願を聞いた。
ここが現実ではないような、世界が遠くにある感覚。それでも間違いなく、暗闇の中で神に抱かれているこの今が、早苗の現実なのだ。
「今すぐ全てを決めろとは言わないよ。けれど今、諏訪子の願いと、私自身の願い、その両方を平等に早苗に聞かせた。……まぁ多少の偏りはあったかもしれんが……。いつか、早苗の答えを聞かせておくれ」
いつの間にか、神奈子の声はいつもの調子に戻っていた。
強く抱いていた手をほどき、少しからだを離して、にっこりと笑った。
早苗は、ぽーっとほうけた顔でいた。どうも今日は、ちょくちょくそんな顔をしている気がする。一日中感情があちらこちらに揺さぶられて、もう、精神が限界だった。
「……なんだか私。夢の中にいるようです」
「はっはっは」
と、神奈子がおかしそうに笑った。
「夢でいいさ。下天はすべて夢のごとし、ってな」
神奈子が、早苗の頭をなでた。
「さぁさぁもう寝な。今日は色々な事があった。ゆっくりと休んで、明日の朝に、諏訪子に会ってやりな」
「……はい。私、諏訪子様に伝えなきゃいけない事があります」
どれだけ頭がほうけても、それだけは忘れられなかった。
神奈子は、そうかそうか、と微笑みながら頷いて、それが何かは聞かなかった。
「もう朝までいくらも時間が無い。今日は私が抱いて癒してやろう」
そう言って神奈子は早苗を布団に寝かしつけ、そして自分もまた布団にもぐった。
掛け布団をしっかりと被り、そしてその中で神奈子は早苗の体を抱き寄せた。
早苗の頭のしたには神奈子の腕をしかれ、そして豊満な神おっぱいに顔を吸い込まれた。背中を神やすりでこすられ、顔は柔らかい神おっぱいに埋められ、それは生まれて初めてと言っていいぐらいの気持ち良さだった。
そうして急激に早苗の意識が溶けていく。早苗の首筋に神奈子が戯れて、ちゅっちゅっ、と何度かキスをした。
よどんだ意識のなかで、早苗は囁いた。
「神奈子様……変な事しないって……諏訪子様に約束したじゃないですか……」
呼吸をするたびに、神奈子の胸の谷間の香りが早苗の体内を席捲していく。
「そうだったな。じゃあこれは秘密だぞ」
神奈子は悪びれもせずまた、ちゅっちゅっ、と早苗の首筋に唇をあてた。
「気持ちいいです……」
首筋から暖かい波が全身に広がって、この上なく心地よい。早苗はあれよあれよという間に、眠りに落ちた。
翌朝まもなく目覚めると、すでに神奈子の姿は無かった――なんて事は無く、早苗は神奈子のおっぱいの中で目を覚ました。三時間にもみたない短い眠りだったはずなのに、疲労感は微塵も残っていなかった。神奈子のおかげなのだろう。
「早苗の可愛い寝顔を眺めていたら朝になっちゃった。ああ眠たい。社で寝るよ」
神奈子はそう言い残して、拍子抜けするほどあっさりと帰っていった。
あまりに神奈子の様子が普通で、数時間前の告白はやはり自分の夢だったのかと、そんな風にさえ思った。できれば甘い朝のひと時を……などと妄想するのだが、あまり神奈子らしくはないし、それに今はそんな場合ではなかった。
早苗はこれから、洩矢神社へ行かなければならない。
早苗はセーラー服に着替えて、いつもより随分早い出発を両親に驚かれながら、
家を出た。
諏訪はまだ朝ぼらけの中にあるが、薄い水色の空には少しだけ雲が流れて、晴れである。
洩矢神社の鳥居をくぐって境内の奥に諏訪子の姿を認めた時から、早苗はもう、どうしようもなく涙がでそうだった。
「おはよう。早苗」
諏訪子は洩矢神社の社の軒先に座り、足をぶらつかせていた。
諏訪子もまた、昨日の出来事なんてなかったかのように、いつも通りに微笑んで、早苗に手を振っていた。
「諏訪子様……」
諏訪子の前に立って、早苗は下唇が震える。
そんな早苗の様子を見ただけで、諏訪子はもう何もかも分かってしまったようだった。
諏訪子は早苗に歩み寄って、その手をとった。そして早苗の手の甲を自分の手のひらでゆっくりとさすった。
「諏訪子、様」
早苗の声がかすれる。
「んん? なぁに早苗」
子守歌でも歌うかのようふんわりと諏訪子は問う。
諏訪子の神やすりにも関わらず、ぽろりと一筋、目から涙がこぼれた。
「私、幸せです。諏訪子様の子孫としてこの諏訪に生まれてこれた事が……何よりも嬉しいです」
諏訪子は小さくうなずいた。それから目を伏せて、微笑みながら、だけどどこか少し切なそうに、呟いた。
「ありがとう。早苗が幸せなら、それが何よりにきまってる。そう……それが一番だよ……」
「諏訪子様……」
二人は肩を並べて軒先に腰を下ろした。
諏訪子は早苗の手をとり、ずっと優しくさすっていた。
早苗は諏訪子の肩に顔をよせて、ずっと目をつむっていた。
それから数十分の間、二人はそのまま何も言葉を交わさなかった。木の葉のざわめき声と、鳥や虫達の控えめな鳴き声だけが、洩矢神社の音だった。
「いってらっしゃい。早苗」
「いってきます。諏訪子様」
笑顔でそう言って、二人は別れた。
「ねぇねぇ早苗は今好きな人とかいないの?」
諏訪も少子化の波におそわれ、学校も休み時間の乱雑な音が少しだけ静かになった。
それでも少女達の姦しさは変わらず、東風谷早苗も今はその中にいる。
「うん。いるよ」
早苗の返事に少女達は色めきたった。
「本当に!?」
「え、うちのクラスの男子?」
「まさか抜け駆けして彼氏つくってないでしょうね!」
友人の関心を一心に受けながら、早苗はきっぱりと答えた。
「私の好きな人はねぇ……神様!」
「は?」
少女達は一瞬ぽかぁんとした顔をして……また雪崩を打って騒ぎはじめた。
「ッざっけんなよてめぇー! 期待させないでよ!」
「あぁでもそれ、いいかわし方だよ。うちらには真似できないけど」
「けど早苗はマジで言ってそうだよね」
「うん。私、本気だよ!」
「うわ」
「あいたー! やっぱ巫女すげぇ! 頭おかしいよ!」
「でもさぁ……じゃあ巫女になったら彼氏いなくても言い訳になるのよね……なんか、あたしも巫女になろうかな」
「いやどんだけ不純な動機なのよ」
「ううん、動機は何でもいいよ。手を合わせてくれたなら神様はそれで嬉しいの」
「へぇ。やっぱ変わった友達持ってるとおもしろいなー」
「えー。私別に普通だよ」
「いや絶対おかしいし! ぜったい年に何回か断食してるわー」
早苗は笑った。今までは素直に笑えなかったような事にも、気にせず笑った。
普通でいたいだとかそういう事はもうあまり気にならなかった。
神奈子と諏訪子と一緒にいる。それが、何より大切な事だった。
悩みはなく。憂いもなく。何かを忘れるために諏訪を眺めるのではなく。心を空っぽにして、ただ湖のほとりに立つ。
果ての無い風のうねりが、ひんやりと体を包み込む。風に揺らされ湖がちゃぷちゃぷと音をたてている。陽はまぶしく、世界は白い。湖は空を反射して、空の一部になった。山と大地は、相変わらずそこにある。
――神奈子様と、諏訪子様と、この諏訪と。私はずっと一緒に生きていこう。
決断や宣言ではなく。ただ自然と、そう思った。
――あ。じゃあ就職する時も諏訪で仕事を探さないとなぁ。諏訪大社で働けないかなぁ。
場違いな事を考えてしまって、早苗はくすくすと笑った。
早苗さんの神に恋する乙女っぷりも良かったー
神様が神様らしく、人間が人間らしく、少女が少女らしく描かれていたのが、面白い
しかし、百合自体に興味が薄い自分なんかは、もうちょいなんか起こってほしいという期待をしてしまいながら、読んでしまったのだった
でも諏訪子様の気持ちもわかる……
ふくざつ!
そして健気な諏訪子かわいいよ諏訪子
いやこれだけではセクロス以外に見所がなかったみたいじゃないか
とにかく早苗さんの乙女っぷりに萌えまくりました
本当にありがとうございました
このまま、かなさなでもかなすわでもすわさなでも、おそらく作者さんの伝えたい方向から外れているであろう
昼ドラ展開さえアリだと想像できてしまうのは、全員女の子だからかも知れないなあと、ふと思いました。
諏訪子様も優しい
二柱が魅力的でとても良かった
自信を持って神様が好きだと言える早苗さんは本当にいい子
あと神おっぱいとか神やすりってw
目に見えるような現代の諏訪の情景も相まって、物語を読む楽しさを満喫させて頂きました。
ありがとうございました。
‥‥で、神おっぱいとか神やすりってどんなものなのでしょうか? その辺を更に詳しく!
内容はいいものでした!
何となく「うしおととら」を思い出してしまいましたもので。
面白う御座いました。
神奈子の苛立ち、諏訪子の想い、早苗の迷い。どれもこれもがリアルに描写されていて、感情移入してしまいます。
素晴らしかったです。
面白かったです。
別にそういった描写がメインでないにも関わらず、です。
それは思い悩む早苗の心情と、その時々に現れる情景の描写が見事にシンクロしていたからではないかと思います。
広大な湖面、それこそ諏訪湖でしょうか。そこにゆっくりと、しかし目に見えて一つの波紋が広がっていくような、存在感のある物語でした。
あと神おっぱい。