1 三月十三日(金)、岡崎夢美の茶会
「ドルキンの大混乱」を覚えているだろうか。
「ドルキン」とは、通称「密林」と呼ばれる大手通信販売業者が開発した、文字の大きさは調節可能、ページ送り等の操作はタッチパネル、重さはハードカバー一冊より軽く、特殊な処理を施された液晶は見ていて疲れないという夢の電子書籍であった。
その生産コストの高さからからあまり生産されることがなかったのだが、技術が進歩し単価が安くなると、爆発的に普及した。
雑誌はほぼ全て電子に移行し、発売日になれば自動的に送られてくる。記事に載っている画像をタッチすれば映像が流れ出し、紹介されている品物は全てその場で注文可能、絵本は親の代わりにドルキンが音読し、3Dメガネを掛ければ立体映像が子供を虜にする。
小説や漫画ではそのページに応じた音楽が流れ、学習参考書では空欄に直接入力でき、漢字やスペルを間違えたら確実に判定する。
ドルキンによって、新たな時代が拓かれた。
と、思われた。
最大の弱点は「電子」書籍であることだった。
本来プロテクトはものすごーく強固に作られていたのだが、「目の前にプロテクトがあったら解くしかないよねえ」と主張する連中が、コピーに関するプロテクトを解いてしまったのである。
コピーが可能になったところで、電子書籍業界は無法地帯になった。
違法な配布があちこちで行われるようになったのだ。
作家は印税が激減して悶絶し、漫画家は低迷する販売部数を嘆き、いくつもの雑誌が廃刊になった。
あげくの果てには、ばらまかれたウイルスによってミステリー小説の犯人の名前だけ赤文字になったり、攻略本の文字が書き換えられて、多くの人が出てくるはずのないアイテムを探し回ることになったりした。
この「ドルキンの大混乱」を経て、出版社は全ての電子書籍へのデータ提供を停止し、「やっぱり本は紙でないと駄目だ!」と謳い文句をかかげて国民をだまくらかし、ちゃっかり過去最高の収益を上げたりした。
まあ、かく言う私も、そんなことがあったら紙製の本を買いたくもなる。
さて、重要なのはこの後である。
電子書籍が登場する前からも、学校はレポートや論文の提出は全てデータ上で行っていた。
しかし、この騒動で一部の過激な保護者達が「時代は紙なんですワ!」と各地で暴動を起こし、時代背景上立場がそんなに偉くなかった学校側はまんまとその要求を飲み込んでしまい、生徒が提出するありとあらゆるものを紙で取り扱うようにしてしまった。
私達の大学もその余波を引きずっている。
そう、生徒がレポートの提出を紙で行わなければならないのだ。
私達が煩わされている問題はそこである。
「全く、いちごタルトひとホールで大学の教授を釣ろうだなんて、最近の学生の知恵は随分と浅はかね」
「ちゃっかり釣られてるじゃねーか」
私、岡崎夢美と北白河ちゆりはケーキ店<アリス>で春季限定いちごタルトをご馳走になっていた。
色々と事情があって宇佐見蓮子のおごりである。ちなみに宇佐見はここにはいない。
引換券らしきものだけいただいた。
「いいのよ、行くのはちゆりだけなんだから」
「はあ!? そりゃないぜ!」
「言ってなかったっけ? 教授や研究者同士の権力誇示パーティーに誘われたの。それが日曜日なのよ」
「……そうだったか。それなら仕方ない」
おお、折れてくれた。流石ちゆり、話が分かる。
して、宇佐見蓮子がなぜ私達にいちごタルトをおごる羽目になったのか。
宇佐見蓮子は大のミステリー好きである。ミステリーといっても推理小説の方のミステリーではなく(まあ好きかもしれないが)、UFOワームとか心霊写真とか邪馬台国はどこにあるのかとかそういうオカルト的なミステリーである。
そして、勘をたよりに色々なところに調査に行くらしい。
多分諏訪湖消失事件の跡地とか、そういうところに行っているだろう。
とにかく、京都を拠点にありとあらゆる場所へ足を運ぶ。一週間に一度くらいの頻度で。
また、宇佐見は計画的に物事を進める性格だった。
相棒のマエリベリー・ハーンさん(宇佐見はメリーと呼んでいて、ちゆりもそれにつられてメリーさんと呼んでいる)の話によるとかなり時間にルーズであるらしいが、それでもおおまかな日程は決めている。
前々から「この日、ここで何か起こりそうだ」というところをメモしておいて、実際に行ってみる。運がよければ何かが起こる、というわけだ。
ある日、宇佐見にレポートの提出が課せられた。「この一年間で培った知識を総動員してやれ」、そのレポートに宇佐見は全力で取り組んだ。
頭には自信がある。方針も決まった。あとは書くだけだった。宇佐見は書いて書いて書きまくった。レポートの提出枚数には制限を設けていない。結構な量になりそうだが、このままいけば期日には間に合うだろう。
ところが、そうは問屋が卸さなかった。
勘が冴えてしまったのである。
月曜の丑三つ時に岐阜の山奥に行けば、何かが起こる! そんな予感がしてしまったのだ。ちなみに月曜の丑三つ時(火曜の午前二時と言ったほうがいいか)はレポートの提出期限を二時間ほど過ぎている。
そこで、宇佐見は私達を買収しようとしたわけだ。
出発ぎりぎりまでレポートをやるんで取りに来てください、代わりに<アリス>の春季限定いちごタルトをおごりますんで、と。
そして、私達は――正確には私は――まんまと買収されたというわけである。
「にしても美味いな、このいちごタルト」
「全部合成だからいつでも作ることができるんだけど、どうしてもコストがかかっちゃうし、需要もあるから一定期間限定なのよね」
「まあしゃーないな」
「しゃーないわね」
ちなみにこれ一ホール(タルトはこの数え方でいいんだろうか)で六八〇〇円である。
学生にとっては修羅のごとき値段だが、私は教授だ。修羅など知るか。
今日は全体の四分の一を食べて、残りの四分の三を二人で割るから全体の八分の三をお互い持ち帰る。 ……なんだか小学校の文章問題のようだ。
「明後日は何時ごろ行くの? 宇佐見さんは十時には出るって言ってたけど」
「なんだ、そんな時間なら大学に寄っていけばいいのに」
「大学とは逆方向だから、時間がもったいないそうよ」
「やれやれだぜ。私だって劇を見に行くから遅くなるのにな」
「あら、またどこかのサークルの公演?」
「ま、そんなもんだ」
ちゆりはよく劇を見に行く。何故か一人で。
理由は聞いたことはないが、まあ何かあるんだろう。
「だから、宇佐見の家に行くのは十一時ごろになるな。明日鍵をもらっておくか」
「その必要はないみたいよ。鍵かけてないみたいだし」
「え」
「空揚げにかけるレモン汁ほどの預金を盗んでどうしようってのよ」
「それもそうか」
話すこともなくなり、タルトを切り崩す。別に宇佐見の提案を断ってやってもよかったのだが、なにしろこのタルトはお一人様一ホール限定なので、一人で二回来て二ホール買うというのは忍びない(というか常連だから顔を覚えられているし)。正攻法で買える数が増えるというなら、そういう方法を使用しない手なかったとさ。めでたしめでたし。
ああ、そういえば。
「朝倉理香子から手紙が来たのよ」
ちゆりはその名前を聞いて、目を丸くした。
流石に、口に含んでいたアールグレイで盛大にむせたりする事はなかった。
ごくりと飲み込んで言う。
「朝倉理香子! 懐かしい名前だな! 今更手紙をよこすってことは、小学校の理科が終わったのかな」
朝倉理香子とは、私達が幻想郷に行ったときに出会った、幻想郷では珍しい「科学者」である。一応。
本人はものすごく強大な魔力を有している。素敵。
でも科学を崇拝しているため、めったに魔法を使わない。残念。
私達が起こした「異変」では利害が一致していたため共に行動していた。
ご褒美に「小学五年生の理科」を渡した時のはしゃぎようは記憶に新しい。幻想郷には理科の教材がないんだろうか。
「そのようね」
言って、封筒をテーブルの中央に置いた。白くて四角いシンプルな封筒である。
ちゆりが、封を破られた封筒から中身を取り出すと、中身もまた白くて四角いシンプルな便箋だった。
2 朝倉理香子からの手紙
春霞が立ち、日照時間が長くなって参りました。春分の日がもうすぐですね。幻想郷ではリリーホワイトさんという春を告げる精霊があちこちに顔を出し、八雲藍さんという式神が博麗大結界のメンテナンスのためにあちこちに跳躍し、地底から巨大な船が出航し、博麗の巫女が魔界に飛び回って僧侶の封印を解き、最終的には宴会になったりしていました。春を告げる精霊というのはそれだけで季節感がありますし、幻想郷を維持する八雲の式神さんには頭が下がりますし、空で進路を取る船というのは、可能性空間移動船とはまた違った趣がありました。巫女はいつも飛び回った後に宴会を開いています。
先日、技術者である河城にとりさんという河童とお友達になりました。光学迷彩というものを着せてもらうとあら不思議、景色と一体化することができます。本人いわく「水の中での屈折率の変化にどう対処するのかという事と、高速で動いている時にどう映像を高速で処理するか、という事が今後の課題」との事でした。透明人間になれるというだけでもすごいことなのに、動いてもそのアドバンテージを損ねないように改良していくという、その心意気に感服しました。
そういえば、お二方は霊夢さん以外の方達にはあまりお会いしていませんでしたね。最新の「幻想郷縁起」を同封しておきますので、どんな妖怪であるのか、どうぞご確認なさってください。
さて、先日の異変でいただいた「小学五年生の理科」、楽しく拝見させていただきました。特にレモンに電極をつなぐと豆電球が光るというのは信用することができず、人里の果実屋さんでレモンを購入し、家に持ち帰ってまじまじと観察しました。鼻に引き寄せて匂いを嗅いだりもしました。包丁で真っ二つに切ってその酸味を確認し、えいやっと電極を挿入すると本当にフィラメントが発光を始めました。しばしの間、うっとりとその光を見つめていました。一体どういう原理なのでしょう? わたし、気になります。
にとりさんにそのことをお話すると、イオンがなんたらとか言われました。言っていることがよくわからないと正直に申し上げると、にとりさんが自分で教えるより教科書をよく読んだ方がいいと言うのです。
そこで、ものは相談と思い立ち、この手紙を投函した次第です。先に進むためにも、どうか教科書を送ってもらえませんか?
お返事、お待ちしております。かしこ
朝倉理香子
三月十日 岡崎夢美様、北白河ちゆり様
3 再び、岡崎夢美の茶会
「要するに、幻想郷縁起とやらをやるから教科書よこせってことか」
ちゆりは丁寧に手紙を畳んで、慇懃に封筒にしまった。
「そういうこと。で、これがその幻想郷縁起とやら」
鞄の中のケースファイルから紐綴じの本を取り出す。紐綴じというのは話には聞いたことはあるが、実物を見るのはこれが初めてだった。
ちゆりは幻想郷縁起をはっしと受け取ると、一秒に二ページほどの速さで頁をめくり始めた。ちなみに速読術を持っているわけではないので、恐らく挿絵を見ているのだろう。目の色から楽しそうな気色がうかがえる。
さて、私もいちごタルトを腹に収めるか。
咀嚼中。
ごちそうさま。
実は、合成いちごにも色々種類があるのだけれど、これはなかなか原価がお財布に優しくないもので作られているようだ。相応の価値はあった。
具体的に何が違ってどう値段に作用するのかというと、一九八〇年代のいちご二大勢力「東の女峰、西のとよなか」が台頭するところから話を進めていかなければならないので割愛する。
私が紅茶を啜って食後の余韻に浸っている間にも、ちゆりは熱心にページを眺めていた。
早く飲まないと紅茶が冷めるわよ、という注意は、紅茶と一緒に飲み込んだ。
なんとなくちゆりを眺めていると、ちゆりはなぜかカチューシャさんに視線を送り始めた。
カチューシャさんとは、今私達がいるケーキ店<アリス>の店員さんのうち、いつもカチューシャを着けている方の仮名である。
個人情報の面から名札をつけることができないため、外見からニックネームをつけるというのは仕方ない事だ。
ともかく、ちゆりはそのカチューシャさんを眺めている。顔に何かついているんだろうか。
私も真似をしてカチューシャさんに熱心な視線を送ってみたら、カチューシャさんが怪訝な顔をして視線を送り返してきた。
こんにちは。岡崎夢美です。今後ともよろしく。
あ、今度は営業スマイルされた。
カチューシャさんがぷいと仕事に戻ってしまったので私もちゆりの方に視線を移すと、ちゆりが何か聞きたそうな顔をしてこっちを向いていた。何だろう。
「なあ」
「何かしら」
「あの人いっつもカチューシャしてるよなあ」
「ええ」
「この店、人形が沢山飛んでるよなあ」
「ええ」
<アリス>の屋内の空中には人形が浮遊している。
正確には空を飛んでいるようなポーズをしてピアノ線か何かで吊るされている。
人形は一つ一つが国を表しているらしく、あの人形は中国っぽいなとか、ロシアにああいった服装のものがあったなあとか、観察していて飽きない。
あと、少し違うが加納朋子の「コッペリア」という本を思い出した。あれは喫茶店のショウケースの中に陶器人形が入っていたんだったか。
「それがどうしたの?」
「いや……」
ちゆりは幻想郷縁起をじいっと見て、カチューシャさんを凝視し、店内の人形をまじまじと見つめ、カチューシャさんを観察し、「考えすぎか」と言って幻想郷縁起を閉じた。なんなのだ。
ふと掛け時計に注意を向けると、そろそろ八時になろうかというところだった。閉店時間間際である。
「ちゆり、そろそろ行きましょ」
「ん」
ちゆりは一口百円強くらいするだろうと思われるケーキ片を口に放り込み、紅茶を流し込んだ。
いささかもったいない食べ方ではあるが、急かした私が悪い。
残りのタルトを半分に切り分けてもらい、私達は京都の街へ出た。
4 宇佐見蓮子のPC内にて
メリーについて気になることが二つある。
一つ。夢の中の世界の品物を持ち帰ってくる。クッキー、天然の筍、紙片など。
いや、相対性精神学が絡んできている現在となっては「絶対にない」とは言い切れないのだろう。しかし、私は他の事例を聞いたことがない。色々な研究施設を当たり、ネットで情報を集め、片端から専門書を読んだりもしてみたが、このような症例は存在しなかった。
メリーは私に「朝起きたら手にしていた」と言っていた。夢遊病の線も考えた。メリーが夜寝ている間にどこかから手に入れてきた可能性もある。でもメリーの家に泊まったときにはそんな素振りはなかったし、決定的な出来事があってその線は抹消された。
以前持ち帰ってきた紙の成分の分析してもらうと、「すでに絶滅した植物で出来ている」と返信が来たのだ。
おかしい。ありえない。メリーはどうやってそんな紙を手に入れた?
もしかして、メリーが言っていた「夢の中から持ち帰ってきた」というのは本当なのか?
最近になって、土産物が増えてきた。ほぼ毎日といっていい。
二つ。メリーの眼だ。
気持ち悪い話だけれど、メリーは「結界の境目が見える目」を持っている。その境目が何なのか、結界の向こうには何があるのか、そもそもなぜその境目が結界のものと分かるのか、それは彼女の感覚だろうから、本当のことは分からない。
そしてメリーは近頃、「結界が蠢いている」と言うのだ。
「以前はあまりこんなことはなかった」とも言っていた。
もしかしたら、あまり考えたくはないのだが、メリーは進化しているんじゃないだろうか。
この二つの症状は、その前兆なんじゃないだろうか。
メリーに一体何が起こっているのだろう?
もし進化しているのだとしたら、どこに行き着くのだろう?
結界の向こう側に、自由に行き来できるんだろうか?
それとも――
5 マエリベリー・ハーンの日記
3/14(土)
夢の中でまた紅白の巫女っぽい人と話をしていた。何を話していたかまでは思い出せない。
割と真剣な話をしていた気がする。
手にしていた緑茶を飲み干したとたんに目が覚めた。今日のお土産はその湯飲み。
微妙に底が湿っていたのが生々しかった。
最近記憶力が落ちている気がする。
コーヒー豆が袋ごとなくなっているのに気付かなかったし、蓮子が「今週末の博麗神社の結界を見に行く予定だけど」と切り出してきた時に、え? と聞き返してしまった。
電子手帳を開いたらちゃんと記してあった。完全に頭の中から抜けていたので蓮子に思い切り笑われた。そろそろ脳トレを始めるべきかもしれない。
3/15(日)
またあの世界の夢を見た。最近あの世界の夢が多い。
今日は尻尾がたくさん生えた金髪の女性と話をしたのだけど、質問に答えられないでいると、納得したような表情をされてどこかに行ってしまった。
なぜ納得したのだろう。
とりあえず居間のようなところに戻ってせんべいを食べていたら目が覚めた。
今日のお土産はせんべいだったが、大学に行っている間にずいぶんしけってしまった。でも朝のうちに食べる気も起きなかったし、まあいいか。
パソコンの電源をつけた後にマウスがないことに気付いた。
これはおかしい。また彼女が来たのかもしれない。
6 三月十六日(月)、岡崎夢美の研究室
皆さんは採点地獄というものを味わったことがあるだろうか。
小学校の算数のような全てが正誤問題の採点ではなく、中学や高校の、途中までは分かっていたんだけれど、実際に採点してみると計算ミスがあって悶絶した数学の証明問題の採点を想像してもらいたい。
それが一人につき五、六個あって、四百人分くらいあると、採点地獄というものの恐怖がよく分かると思う。
この時期の教授、助教授、講師、院生は、皆部屋に篭ってプリントの束とにらめっこし、間違いがあっても相手を笑うことなく(というか精神的に笑っている暇がない)、一人一人に点数をつけていく。
常軌を逸しているとしか言いようが無い。
通信添削の先生はこういうことを毎日やっているのかと思うと頭が上がらない。
ちなみに、人手が腐るほどある教授は採点のほとんど院生にやらせたりするそうなのだが、流石に私は全てちゆりに任せるようなことはしない。私三ちゆり七くらいで分ける。
誤解しないで欲しいのだが、これはかつて私が学会にいた頃、学会を追放された私の精神状態を鑑みて、ちゆりが私の元からさりげなくプリントの束を持っていったという、優しさの名残である。
そういうところが、素敵。
さてその素敵な金髪ツインテール娘は、時々私の研究室にストロベリーティーをたかりにくる。
教授室と助教授室がそんなに離れていないので、お湯を沸かすよりこっちに来たほうが早いというわけだ。
というかそれって、私がいつもお湯を沸かしておかないと駄目って事じゃないか? まあポットだからいいけど……って助教授室にポットを置けばいいじゃないか。
私の勘だと、そろそろ来る。ああほら、廊下で足音が。
そしていつもの台詞を吐くのだ。コンコンと扉を叩き、ドアが開いて、
「ういーす」
と。ここまでパターンにはまると、ちょっと面白い。
で、次は「ストロベリーティーいただくぜー」だ。
「ご主人様ー、A word game played by saying a word that starts with the last syllable of the word given by the previous playerやろうぜ!」
違った。A word game played by saying a word that starts with the last syllable of the word given by the previous playerか。仕方ない。やってやろうじゃないか。
ちなみにA word game played by saying a word that starts with the last syllable of the word given by the previous playerとは、かつて二人の神々が知恵比べをしようということになり、人間に審判を頼んで辞書式に頭に入っている単語を次々と列挙していき、どちらが先に言葉が尽きるかを競う遊びであったが、あまりにも単語の数が多すぎて戦いが数週間に上ってしまい、審判をしていた人間が数えるのに飽きてどこかへ行ってしまった。
困った神々は考え、「そうだ! 単語の最後の音で次の単語を決め、最後に『ん』がついた単語を言った方を負けにすればいいのではないか。『ん』で始まる単語は非常に少ないから、あってもなくても一緒だろう」と結論を下した。
これなら二人でもできるということで早速始めると、通りがかかった人々がその様子を見て、「これは分かりやすい知恵比べだ!」と感嘆し、全国に広がっていったという。
もちろんここまでの話は全部嘘で、要するにただのしりとりである。
「じゃあ私からいくぜー」
どんとこい。
「ハム」
おっ、堅実に来た。
「麦笛」
「英語」
「碁石」
「週末」
「通気構」
「ウーロン茶」
「茶会」
「一人称」
「ウグイス」
「水泳」
「芋」
「耄碌(もうろく)」
「くるみ」
「明年」
「はい、私の勝ち」
「負けちゃったぜ。ストロベリーティーいただくぜー」
「どうぞ」
結局いつも通りだった。私も一杯いただくとしよう。
7 マエリベリー・ハーンの日記
3/16(月)
間違いない。彼女が来たのだ。
三ヶ月ぶりくらいか。今度こそコンタクトを取らないといけない。
とりあえず全ての部屋に画用紙で「あなたは何を考えているの?」と張っておいたが、効果はあるだろうか。
今回もないかもしれない。
今日はダンシングフラワーがなくなった。サングラスだけ残されても困る。
3/17(火)
家に小包が届いた。通販で何かを頼んだ覚えはない。恐る恐る開けてみると、クロロホルムというものが入っていた。なぜこんなものが?
気味が悪い。いつでも警察に突き出せるように取っておく事にする。
紙という紙をチェックしてみたが、何も書かれていない。
目覚まし時計がなくなった。ますます困る。
3/18(水)
蓮子の家に泊めてもらう事にした。「どんな奴が相手でも、私がとっちめてやるわよ!」と豪語していた。
流石私の相棒だ。頼りになる。明日から日記は電子手帳に記す。
希望的観測だが、週末の逢魔が時に彼女もいなくなっているだろう。
最近お土産もほぼ毎日持ち帰れるから、話題と考察には事欠かない。
蓮子にとっても私にとっても良い選択だ。
8 三月二○日(金)、仁木探偵事務所からのメール
マエリベリー・ハーンの日記を、ハッキングにより回収いたしました。メールに添付しておきましたので、ご確認ください。簡易履歴書も同封しておきました。交友関係に特に目立った点はありませんでした。
そちらのPCにはスパイウェアは確認されませんでした。ご安心下さい。
また、岡崎夢美様と北白川ちゆり様の携帯電話から発信機、盗聴器、メールの内容を盗むウイルス、マエリベリー・ハーン様と宇佐見蓮子様の住居から盗聴器、宇佐見蓮子の携帯電話から発信機、盗聴器、メールの内容を盗むウイルスを確認しています。どちらも指示通り手をつけておりません。
盗聴器を除去する際は、またご連絡ください。ただちに職員が駆けつけ、除去いたします。そのような指示がある場合、音を確認されることなく除去いたします。
それでは、またのご利用をお待ちしております。
9 朝倉理香子への手紙
朝倉さんへ
お手紙ありがとう。「どうしてレモンに電極を刺して電気が発生するのか」というのは中々素朴な質問だけど、にとりさんが言っていたように化学?と?の教科書が必要なのよね。化学?と?の教科書、それから参考書も同封しておいたから、丸がついているところを見てもらえると、レモン電池の原理が分かってもらえると思うわ。ちなみに、レモンよりこんにゃくに刺した方が電圧が高いそうよ。
こっちでもすっかり春になって、あちこちで桜が開花し始めているわ。京都ではまだまだ咲いてはいないけど、九州や沖縄あたりだとすっかり満開になっているみたい。どのあたりの気候が幻想郷に反映されるのかしらね? 気になるわ。
幻想郷縁起、楽しく読ませてもらったわ。流石幻想郷、曲者揃いね。誰か一人でもこっちに来たら、あらゆる研究機関からひっぱりだこになるんじゃないかしら? 個人的には霊烏路空さんに来てもらってどこかに恒星でも作ってもらいたいわね。そうしたら好きなように星座を作れるし。はくちょう座X-1に代わる星を作ってもらえるし。なんにせよ、素敵な能力だわ。
私達がそちらに赴くことはもうないと思うけれど、あなたの科学者としての姿勢、応援しているわ。
それじゃ。
岡崎夢美
10 三月二一日(日)午後七時 宇佐見蓮子宅
電動ミルの電源を入れると、コーヒー豆が挽かれていった。
今日から明日未明にかけて、秘封倶楽部の活動が始まる。今のうちにカフェインを摂取しておいた方がいいだろう。
二つの路線を乗り換え、博麗神社に向かう。
お金がかからない、とは言えないが、私たちとしてはましな類だ。
ついこの間行ったスキーは……活動に入れないでおこう。
モーター音が止み、挽かれた豆が下のドリッパーに落とされる。そこに熱湯が、パイプを通ってゆっくりと、円を描きながら注がれていく。プロの注ぎ方が研究されているらしい。フィルターを通してコーヒーが完全に抽出されるまで、あと一分ほど待たなければいけない。
彼女は、来るのだろうか。
それとも、もう大丈夫だろうか。
せめて、活動中に出てこなければいいのだけれど……。
赤いランプが消え、緑のランプになった。抽出までの一連の流れが終わったらしい。
この、一時的にコーヒーを入れておく、球体に似た入れ物(三角錐のものもある)をコーヒーサーバーと言うらしい。では、機械の方はなんと言うのだろう。
サーバーを手に取り、二つのマグカップに注ぐ。蓮子の分と、私の分だ。
彼女の分、ではない。
重油のような黒い液体から、ゆらゆらと水分が蒸発していく。
まるで最近の境界のようだ。蠢いている。
気味が悪い。
蓮子は猫舌気味だから、少し冷ましてやらないといけない。
しかし、ここで氷を入れてしまうと、一気に酸化して酸っぱくなってしまう。
そうなると、とてもじゃないが飲めるものではない。
かといって私がやる義理もないし(こうして蓮子の代わりにコーヒーを作った訳だし)、冷ますのは蓮子自身にやってもらうとしよう。
カタカタ、とキーボードを叩く音がする。六畳一間の蓮子のアパートでは、どこにいても生活音が聞こえる。
それにしても、今の蓮子は無防備だ。肩を叩いただけで飛び上がるかもしれない。
お盆にマグカップを乗せ、珠のれんをくぐる。じゃらじゃらという音が蓮子にも聞こえたらしく、こちらに振り返った。
「ありがと、メリー」
「どういたしまして、蓮子」
蓮子の六畳一間は雑然としている。本棚は本で一杯なので、そこかしこに漫画やら新書やら文庫やらハードカバーやら資格試験の参考書やらの塔が出来ている。貧乏学生なので、もちろん全て古本屋から仕入れたものだ。中には付箋が沢山貼られているものもあり、値札は剥がされている。
蓮子は、部屋の角に置かれたベッドの横の、木製の作業用机の上でノートパソコンを開いていた。今年のレポート関連の提出は終わったから、日記でも書いているんだろうか。パソコンの周りには、プリントや筆記用具が散乱していた。
蓮子のドライアイ気味の瞳と目が合う。
「はい、どうぞ」
「どーもー」
マグカップを渡す。蓮子は受け取るとふうふう息を吹きかけ、少しずつ冷ましていたが、やがて面倒になってきたようでプリントの上にマグカップを放置した。再びキーボードを叩く音が聞こえてきた。
私も、ちゃぶ台の前に腰を下ろした。座布団の感覚には未だに慣れない。
コーヒーからは、ゆらゆら、ゆらゆらと湯気が立っている。
その陽炎の中に結界の隙間が見えるのは、果たして気のせいだろうか?
「んあー! 今日はこんなところでいいでしょ! 晩御飯にしましょ、晩御飯!」
蓮子が妥協した。なるほど、今はそんな時間か。
予定通り、ハーンの意識を乗っ取るのに成功したというわけだ。
蓮子はノートパソコンの傍らにあるマグカップを手に取り、二、三回ごくりと喉を鳴らした。
部屋を見渡すと、なにやらぎっしりと書き込まれた壁掛けカレンダーや、ハーンとのツーショットの写真が所狭しと貼られたコルクボードが目に入った。
どうやらここは蓮子の部屋らしい。
「あー、メリーごめん、買出し行かないと食料がないわ」
台所から蓮子の声がした。
夕食はまだだったのか。さっき食べた記憶があるから精神的空腹感はないのだが、体は空腹を訴えている。こういう感覚はそれほど好きではない。
「ね、一緒に行こ」
蓮子は玄関脇のハンガーから帽子を取って被り、私の目の前にどっかりと座った。
くりくりした瞳がこちらを覗き込み、屈託ない微笑が私を射抜く。
まあ、蓮子と一緒に食事をするというのも、悪い事ではない。
もちろん、と答えて、私はコーヒーを飲み込んだ。
11 三月二一日(日)午後七時五五分 岡崎夢美の茶会
ちゆりには無理だろうなあ、と思っていたら意外と大丈夫だった。
何がって、もちろんいちごタルトをお腹に入れていく事が。
何しろ私とちゆりと、食べることのない宇佐見で三ホール分もある。
我ながら狂気の沙汰だと思う。
が、悲しいかな私にとっては朝飯前だ。ちゆりにとっては午後一時くらいか。
まあ、実際に朝ご飯の前に食べたりはしないけれど。
流石にちゆりは先日の二分の一ホール分で少し飽きたらしく、今日と明日にそれぞれ八分の一ホールずつ食べて終わりにするそうだ。
さて、私とちゆりはそれぞれ全体(三ホール)の何パーセントを食べるでしょう?
面倒なので答え合わせはしない。なにしろ今回の一ホールは採点地獄の中夜祭のためのもので、残りの一ホールは後夜祭のためにわざわざ用意してあるのだ。
こんなところでモチベーションを下げるようなことはしたくない。
ちなみに答えは私が七五パーセントでちゆりが二五パーセントである。
「おーい、ラストオーダーだ。コーヒー二杯頼むぜー」
「ありがとうございまーす」
このお店の店長だと思われる、サイドテールの店員さん(私たちはサイドさんと呼んでいる)が、奥へと入っていった。そういえばここのコーヒーはまだ飲んだ事がなかった、気がする。どんな味なんだろう。期待しておこう。
「にしてもこれ、職務質問されたら危ないんじゃないか?」
「大丈夫よ、多分」
「ま、大丈夫だろうな、多分」
ちゆりの言葉は文面上はかなり危なっかしく聴こえるが、ちゆりの口から出ると、ものすごく余裕そうに聴こえる。
言いたい事は分からないでもない。私が一つ、ちゆりが一つボストンバッグを隣の席にどっかりと置いている。私がカッターシャツとカーディガン、そしてどこの高校性でも穿いていそうなスカート、という格好でなかったら、かなり不審だったろう。ボストンバッグの銘柄が一緒なのが少々気になるが、流行っているらしいブランドのものだから言い逃れはできるはずだ。
時計の針が七時五六分と何秒かを指したところで、サイドさんがコーヒーを運んできた。コースターごと二つのカップが置かれると、伝票にコーヒーを書き加え、恭しく頭を下げて帰っていった。
「あーあ、このクソ忙しい時期に、生徒ってもんはどれだけ睡眠時間を減らせば気が済むのやら」
「ごめんなさいね、気が済むのは、どちらかというと私なのよ」
「別にいいけどさ」
ちゆりはコーヒーに何も入れずに、一気飲みした。
よくそんなに一瞬で飲めるものだ、と思っていたら、変な事を言い出した。
「甘い」
「……何が?」
「コーヒーが」
何を言っているのだ、この金髪ツインテール娘は。
「何言ってるの、コーヒーが甘いわけないでしょう。砂糖を入れてる訳じゃないんだから」
「分かってないな、ご主人様は」
何を?
「コーヒーを沢山飲んでるとな、次第に『甘み』ってものを感じるようになるんだぜ」
「……へぇー」
そんな事言われても。私はコーヒー通じゃないから、コーヒーは紅茶よりカフェインが少ないけど、なぜかコーヒーの方が眠気を覚ます効果があるという事くらいしか分からない。
視線をコーヒーに移すと、湯気が立っていた。当たり前か。
陽炎のごとくゆれるそれの根本にある黒い液体は「早く飲めよ、煎れ立てが上手いんだ」と声高に主張している、気がする。気がするだけでもちろんそんな事は主張してこないし、ましてや声が聞こえるなんて事ももちろんない。
コーヒーに甘みがあるかないかで葛藤していても仕方がない。閉店時間も近い事だし、タルトを食べて、コーヒーを飲んで、とっとと行こう。カップを持ち上げ、口元に近付ける。匂いが濃くなった。飲む。
うん、美味しいんだろうけど、苦い。
「私には、コーヒーの甘みは分からないわね」
私もちゆりの真似をして、一気に飲み干す。苦い。
「じゃ、そろそろ行きましょうか」
言って、いちごタルトの最後の一切れを口に放り込んだ。
やっぱり私には、こっちの甘酸っぱさの方が向いている。
12 午後一一時一〇分 京都府北部
静かだ。
閑散としている、と言った方が正しいか。
この駅周辺は、首都京都と比べるといささかどころではなく人が少ない。
電車が遠ざかっていくと、音という音がほとんどなくなった。
聴こえるのは私と蓮子との会話と足音くらいだ。
これほど人気がなければ、容易に予定通りに事を運ぶ事ができるだろう。
ただ、油断はできない。相手は蓮子だ。
改札をくぐり、携帯で地図を開く。目的地までの道のり、そして現在地もしっかりと載っている。
全く、大した技術だ。
「あんまりそういう地図に頼ってると、電池が切れたときに泣きを見るわよ」
そう言って蓮子は、ご自慢の分厚い手帳から、折りたたまれた地図を取り出した。
「充電器を持ち歩いてるから、一回なら切れても平気よ」
「二回切れたら?」
やれやれ、どこまでも蓮子だ。考え方が前時代的というか、逆行しているというか。
とにかく、こんな事もあろうかと、日本の新聞を読んでいて良かったと痛感する。
「今の日本じゃありえないわ。そこかしこに充電できる施設があるでしょう? 有償にしろ、無償にしろ」
「発電所がストップしたら?」
「それはもっとありえない、わね。今時、原子力発電所で事故なんて起こりっこないし、太陽光発電がそこかしこで行われてるもの」
「夢がないわねえ」
夢がうんぬんという話ではないと思う。
それにしても、益体のない会話だ。
ハーンの体に乗り移る度にこういう下らない会話をしている気がする。
彼女と蓮子が毎日こういう会話をしているのかと思うと、ちょっと嫉妬しないでもない。
ま、霊夢がいるからいいけど。
「仕方ないわねえ……今回は蓮子さんの懸念を懸念して、久々にアナログに戻る事にしますわ」
「ご協力感謝いたします」
どうせ目的地までの道のりは覚えている。
携帯を畳み、鞄のポケットにしまう。充電器と触れ合う、かちゃりという音がした。
「じゃ、行きましょうか」
「ええ」
腕時計に目をやると、一一時一五分だった。タイムリミットまであと二時間四五分ほど余裕がある。
蓮子と並んで、県道を闊歩していく。私たち以外の人間らしき姿はない。
だが、遠くに民家が見える。数秒間とはいえ隙ができる事を考えると、まだ実行に移すのは早いだろう。歩行中に止まるのも、リスクが大きすぎる。
隙ができるのは五秒間。五秒の間に私とハーンの境界を極限まで薄くし、蓮子を気絶させなければならない。
果たして、蓮子がそんな隙を見せてくれるのだろうか?
……いや、やるしかないのだ。いざとなったら、スキマを見せても構わない。
先に進ませは、しないが。
「ねえ、メリー」
「何? 蓮子」
蓮子が少し前に進み、こちらを向きながら歩き始めた。その歩き方は危ない。
「エニグマって知ってる?」
「知ってるわ。ドイツで開発された暗号生成機でしょう。意味は『絶対に解けない』、だったかしら」
「なら話は早いわね。もう少し詳しく説明すると、エニグマは現在のような電子乱数発生器が生み出されていない時代に作られた物理的な乱数発生器で、解読するには一京通りの方法を試さなきゃいけなかったらしいわ。でもね……」
一度言葉を切り、大きく瞬きした。
「解読されちゃったのよ、エニグマでさえも」
「……嘘でしょう?」
ちなみにこの話は知っているし、私なら一京通りほどの計算は三秒でできる。
「暗号の意味での『鍵』ではなく、暗号を解読する意味での『鍵』は、エニグマが盗まれた事と、エニグマの乱数がリセットされる周期にあったらしいわ。詳しい事は……自分で調べてね。とにかく、『エニグマ』という機械は、それ自体が表す意味と、実際に起こった事が矛盾するようになっちゃったわけ。これが何を意味するかというと」
「というと?」
「『絶対に解けないものなど存在しない』という事になる、そうは思わない?」
なるほど。
でもそれは違う。万物においてそれが成り立つ、というわけではない。
暗号つながりで、コナン・ドイル『踊る人形』の『人間の考え出したものは、人間が見破る事ができる』という台詞を例に挙げてみれば分かる。
それはつまり、『人間が考え出したものでなければ、人間は見破る事はできない』と言えるのではないか。
もちろん、こんな言葉を蓮子に投げかけるつもりはない。今の私はあくまでマエリベリー・ハーンであり、蓮子の相棒なのだ。
夢を原動力に動いている蓮子と私が、夢を壊すような事を言うはずがない。
……夢を原動力、か。蓮子から夢を取ったら、どうなる?
「そうね。気の長い作業になりそうだけど」
「シャンポリオンの生涯くらいの時間があれば大丈夫よ」
「心臓発作になるのは嫌ねえ」
「なあに、天性の才能と、類稀なる運と、群を抜いた向上心があれば何でもできるわ」
「それ、三分の二が自分ではどうしようもないものじゃない」
「私はその三分の二を持っているから大丈夫よ」
「残りの三分の一は?」
「それも持ってる」
「全部持ってるのね」
「蓮子さんですもの」
そのような事態を想像、いや創造したくない。するわけにはいかない。
蓮子一人がこの世界から消えようと、幻想郷に影響はない。むしろ生きていた方が影響があるだろう。
幻想郷という存在が公になる可能性すらある。
だが、それが、蓮子から夢を取る理由にはならない気がするのだ。
「歴史を変えるのは『多くの一般市民』と『何人かの天才』ですものね。私はあなたを後者だと考えてるし、さっきの三つの要素を全部持ってると思うわ」
いや、言い換えよう。私は蓮子が好きなのだ。
だから、蓮子から夢を奪うような事はしない。はい、解決。
さりげなく蓮子を持ち上げたせいか、蓮子はぽかんと目を点にして、ムーンウォークを止めた。
「……どうしたのメリー? そんなに素直に私を褒めるなんて」
「たまにはそういう気分になるのよ、私の相棒さん」
こちらが微笑むと、いや、まあ、ありがと、と頭を掻いて、蓮子はくるりと前に向き直った。
ふふふ。
それからしばらく歩く。話題には事欠かなかった。
時節春風が吹き、田舎の道に笑い声が響く。時々人とすれ違い、自転車のライトが通過する。暗い夜道を照らすのは、老朽化した幾つか電灯。明かりと明かりの間隔はかなり空いているが、狭い小道を認識するには充分だ。
三十分ほど歩いたところで、そろそろ目的地が見えてくる。ガタガタの石の階段の先にあるものは、これまたボロボロの色あせた鳥居だ。
そう。何を隠そう、ここは博麗神社である。
「……こんなに自然のなすがままにされている建物ははじめて見たわ」
「そうね……」
……しかし、しばらく見ない間に、なんとまあ随分と寂れたものだ。
鳥居の角はぽっきりと折れているし、障子という障子は半分以上吹き飛んでいるし、屋根(神社の屋根の事をなんと言ったっけか)はあちこちが剥けているし、社務所らしきものは植物に覆われて、扉が開きそうも無い。
ここまでしても潰されないのは、ある種の結界を張っているからなんだけどね。
「さー、早速探索しましょ」
「何もないと思うけど」
「こういう場合、何かを見つけることに意味が有るんじゃなくて、何かを探す事に意味があるのよ」
そういうものなのか。
何はともあれ、今が絶好の機会だ。
「その前にさ、蓮子」
「ん? 何?」
「ええっとね」
もじもじする演技をする。
疑われる要素があってはならない。
「どうしたのよ、メリー」
「あの、その」
「もう、焦らさないでよ」
「……トイレ行きたい」
あ、ちょっと苦い顔された。
「んもー、仕方ないわねぇ」
「ごめん、コーヒーの利尿効果が今更来たみたい……」
「じゃあ私はまず社務所の中から漁ってみるから、終わったら声掛けてよ」
「うん……」
蓮子は、社務所のツタがこびりついた引き戸をガタガタと揺らした後に強引にこじ開け、中に入っていった。
今だ。今の蓮子は、無防備だ。
マエリベリー・ハーンと八雲紫の精神的境界をゼロに近づける。
活動可能まで、
残り五秒。
空気が渦を巻き、木の枝がざわざわと揺れ始める。
髪の毛が浮き、うねり始める。
残り四秒。
砂利が振動音と木のざわめきが耳障りだ。
髪の毛のうねりを制御できない。放置する。
残り三秒。
ガスマスクをつけた二人組が、社務所の奥から姿を現した。
一人はハンカチを手に持っていて、もう一人は銃のような何かを手にしている。
駄目だ。動けない。
残り二秒。
銃のような何かを持ったセーラー服でツインテールの髪をした女が、こちらに向けて構える。
ハンカチを持ったワイシャツにカーディガン、ミニスカートの女が、蓮子がいる方に向かっていく。
残り一秒。
蓮子が、むっ、と声を上げたのを、かろうじて聞き取る事ができた。
ぱきり、ぱきりと、私の周囲にスキマが現れ始める。
残り零秒。
同期完了。行動可能。
「あなたたち……」
何故だ。どうしてここにいる。
「おーっと動かないで貰おうか! こいつは小さくても必殺の武器だぜ! ちゃんと説明もするから安心しな!」
先ほど確認した時には、この二人はまだ京都の中心にいたはずだ。
それに、説明とはどういう事だ。
「宇佐見さんはOKよ、完全に眠ってるわ」
奥からショートカットの女が姿を現した。
ハンカチを袋の中にしまい、封をしている。
「あいよー、もうこれ外していいんだな? 暑苦しいぜ」
「ええ、大丈夫よ」
そう言って、二人がガスマスクを外した。
その顔は、岡崎夢美と北白河ちゆりだった。
油断していたかもしれない。
「こんばんは、マエリベリーさん。いいや、八雲紫さん」
「こんばんは、岡崎夢美さん、北白河ちゆりさん。ところで一体これはどういうことかしら。ものすごく意味が分からないのだけれど」
どうやらこちらの素性までばれているらしい。
この程度の事で動揺するわけではないが、いささか気味が悪い。
「その前に八雲さん、クロロホルムでは人を眠らせる事はできないわ。エチルエーテルを使わないと」
「ハーンは文系で地学を選択したから、その辺には詳しくないと推測したわ。『人を眠らせる薬をハーンが持っている』という事を認識させるには、クロロホルムを買った方が良かったのよ」
「ああ、そこまで考えてたのね。流石は幻想郷が誇る賢者」
「で、あなたたちはどうしてここにいて、なぜ蓮子を眠らせたのかしら」
「じゃあ順を追って説明するぜ」
そう言うと、北白河ちゆりは一度奥に引っ込み、紐綴じの本を持って来た。
あれは、幻想郷縁起か? 確か朝倉理香子が岡崎夢美に送った形跡がある。
「まず、私達は朝倉理香子からこいつを貰った。楽しく読ませてもらったぜ。色々と面白い連中がいるんだなあ、幻想郷って。ここに書かれてる奴らはまだ会った事がない奴らばっかりだったから、また幻想郷に突撃して観光したくなったぜ。で、特に会いたかったのが、こいつだ。」
付箋が貼られているページを開き、こちらに見せる。
アリス・マーガトロイドのページだ。
「この魔法使いさんは、どうやら定期的に人形劇を開いているらしいな。それで、どうやらいつもカチューシャをしているらしい。このページを見たときに、ちょっと頭にひっかかったんだ。
この絵に書かれている魔法使いと、そっくりな人がいなかったか? それも人形に関係していたような。それでよくよく思い返してみると、行きつけのケーキ店の内装に人形がふんだんに使われていて、しかもカチューシャをつけた店員がいるじゃないか!」
……なるほど、そんなところで接点があったか。油断していた。
「いやあびっくりしたぜ。幻想郷の中と外なのに、こんなに共通点が多い人物が二人もいるとはな。でも流石にその時は偶然だと思ったわけだ。世の中には自分とのそっくりさんが三人はいるって言うしな。 ん? 自分を含めて三人だったか? まあいいや、とにかく詮索しようと思うことはなかった。
で、ある日宇佐見の家を訪れる事になったんだ。そこらへんの紆余曲折はまあ省略するとして、とにかく宇佐見のパソコンを立ち上げて、レポートを印刷しなきゃならなかった。その時にデスクトップを見てみると、色々なテキストが書きかけで残ってた。結構面白いのが沢山あったな。『ポケモンクリーチャーにおける、各地を移動する伝説のポケクリが出現する擬似乱数周期』とかが特に。
おっと、話を戻そうか。そのデスクトップの書きかけのテキスト中に、こんなのがあったんだ。ほれ」
プリントを一枚渡される。タイトルは、『メリーについて気になること』
ざっと目を通すと、どうやら蓮子は、ハーンが結界の歪みに気付き始めた事を、ハーンと私との境界がなくなる、という事に勘違いしていたらしい。
「このテキストを見た時に、幻想郷とこっちの世界にいる人間に、なんらかの接点があるんじゃないか、と思ったんだ。メリーさんの異変と、カチューシャさんと幻想郷縁起の全てに目を通して疑わない方がおかしい。とにかく色々考えてみる価値はありそうだった。
そこで、ご主人様にも知らせる事にした。頭の数は多い方がいいからな」
「そこから先は私が話すわ」
「おう、頼んだぜ」
北白河ちゆりは、銃のようなものをホルスターにしまい、再び奥に戻った。しばらくして、二つのボストンバッグを抱えて戻ってくる。
「まず、ちゆりから『マエリベリー・ハーンが危険』というメッセージを受け取った私は、とりあえずマエリベリーさんの素性と状況を調べる事にしたわ」
「ちょっと待って」
「何でしょう?」
「そのメッセージはどうやって受け取ったの? そういう痕跡はなかったはずだけど」
「ああ、それね」
岡崎夢美は、にやりと笑った。北白河ちゆりも同様ににやにや笑っている。
「私達が考え出した暗号でやりとりしたのよ。比較的短時間でできる割にはあまり暗号だと疑われないし、作るのも用意だからね」
「……暗号?」
「そ。暗号。これを暗号と疑うのはいつも暗号で頭が一杯の人くらいよ。ところで、A word game played by saying a word that starts with the last syllable of the word given by the previous playerって知ってる?」
随分と流暢で長い英語を言われた。
「要するにしりとりでしょう? わざわざ英語で言う理由が分からないけれど」
「そう。そこなのよ。わざわざ英語で言う意味が分からない。そこで疑うか、それとも『なんとなく英語で言ったんだろう』で済ませるか。私達にとってはそれが『鍵』なのよ。『英語』で言い、『最後の音を取る』という事がね。
この『A word game played by saying a word that starts with the last syllable of the word given by the previous player』というのは、『しりとり』を和英辞典で訳したものなの。
この暗号は、発信者の発した単語を英訳して、その最後のアルファベットを取っていくことで、発信者が伝えたい文章、すなわち平文になるわ。
あなたも私達の研究室に盗聴器を置いていたから聴いていたと思うけど、ちゆりが発した単語は、
ハム
英語
週末
ウーロン茶
一人称
水泳
耄碌(もうろく)
明年
の七つ。これを和英辞典で約すと、
hum
English
weekend
oolong tea
the first person
swimming
dotage
next year
になるわ。で、これの最後のアルファベットを取っていくと、『M.H.Danger』マエリベリー・ハーンが危険って事になるわけ」
人間にしては、記憶力がいい。
「ちなみにどうしたらこんな暗号が作れるのかっていうと、
『あ』で始まって、英訳するとaからzで終わる二六種類の単語、
『い』で始まって、英訳するとaからzで終わる二六種類の単語、というように、
(『ん』以外の四五音+濁音半濁音二十五音)×アルファベット二十六種類の一八二〇種類の単語を暗記すれば容易に作成が可能ね」
「……なるほど、随分と暗号を作る前の段階で時間がかかりそうな暗号だけれど、もう少し注意を徹底させるべきだったわね」
「あら、盗聴は誰かにやらせてたの?」
「うちの式神にね。録音したデータを早回しして、速聴させてたんだけど、気付けなかったみたい。後でおしおきしておくわ」
「それは酷じゃないかしら。最近結界の修復であちこちに飛び回ってるんでしょう?」
「そのことも知ってるのね。じゃあやめましょう。これから手紙の内容にも目を通すべきかしら」
「添付する荷物にも目を通しておいた方がいいわよ。朝倉さんに送った化学の教科書の丸をたどっていくと、『さんがつにじゅういちにち ごご じゅういちじごじゅうきゅうふん やくもゆかり おこせ』になってるから」
「え」
時計に目を移す。あと七分しかない。
「ちょっと急いで説明しましょうか。とにかくマエリベリーさんの素性と状況を確認しようと思った私は、とりあえず探偵事務所に色々調べてもらう事にしたわ。履歴書、交友関係、あとは、あれば日記ね。この段階で分かったのは、
マエリベリーさんが多重人格障害のようなものを抱えているという事、
夢で幻想郷を覗いているという事、
幻想郷の夢を見たら夢の中から何かを持ち帰ってくるという事、
記憶がなくなっている場合、何か物も一緒になくなるという事。
『多重人格障害のようなものを抱えているの』というのが分かったのは、『彼女が来る』とか、『全ての部屋に画用紙で「あなたは何を考えているの?」と張っておいた』とか、記憶がないという点から分かるわね。
まあ、簡易履歴書に書かれてるんだけどね。
『夢で幻想郷を覗いている』っていうのは、『紅白の巫女』と『尻尾がたくさん生えた金髪の女性』という記述から分かるわね。これは幻想郷縁起にそれらしき人物と式神がいたわ。
『夢の中から何かを持ち帰ってくる』というのは、まあ日記を見れば明らかね。
で、『記憶がなくなっている場合、何か物も一緒になくなる』というのはかなり曖昧で、仮定にすぎないんだけど、これから説明する可能性を考えると、仮定しておくには充分だと思うわ。
さて、この四つから何が得られるのか。
この四つ目と、それ以外の三つも全て解決する状況とは一体どういう状態か。
一つ、多重人格障害に見える。
二つ、夢で幻想郷を確認できる。
三つ、夢の中から物を持ち帰る事ができる。
四つ、時々身の回りのものが無くなる。
これからマエリベリーさんが幻想郷の夢を見ているように、幻想郷にも現実世界の夢を見ることができる存在がいるんじゃないか、と思って幻想郷縁起を見たらあら不思議、いるじゃない、それっぽい妖怪が。
そう、結論を言うと、マエリベリー・ハーンが眠っている場合、マエリベリー・ハーンは八雲紫の体を操る事ができ、八雲紫が眠っている場合、マエリベリー・ハーンの体を操る事ができる。その過程で、眠っている間の世界の物を持ち帰る事ができるのよ。これなら矛盾しないわね。
さて、次はどうやって私達がここに辿り着いたのかを説明するわね。まず、クロロホルムの存在。これは相当危険だわ。まあ、ハンカチに染み込ませてそれを吸わせたくらいじゃ何にも効果がないんだけど、何か良からぬ事が起こる事は充分考えられる。ちゆりが危険信号を送ってきた理由がよく分かったわ。まあちゆりと私とじゃ着眼点が全然違うんだけれどね」
「まあな」
「次に、マエリベリーさんの日記から『毎日のように物がなくなっている』事、そして『三月二一日に二人で博麗神社に行く』事、朝倉さんからの手紙から『八雲藍さんが博麗大結界の修復に追われている』事が分かるわ。
この三つから、大胆に『博麗大結界が一時的にバランスを崩していて、それがマエリベリーさんによって確認された。同時に宇佐見蓮子の「三月二一日夜、博麗神社で何かが起こる」という勘と、博麗大結界がバランスを崩して「三月二十一日夜、こちらの世界の博麗神社に結界の境目が現れてしまう」という事実が重なってしまい、「八雲紫が眠っている間にマエリベリー・ハーンを操れる」という事を利用して、宇佐見蓮子をここから移動させようとしている』と仮定してここに来てみたんだけれど、どうやら大正解だったみたいね」
長い科白を終えて、岡崎夢美はボストンバッグから水筒を取り出した。蓋が開けられると、湯気が立ち、紅茶の香りがする。喉が乾いたのだろう。
腕時計に目をやると、もう残り時間は二分だ。
「驚きました。まさかあれほど数少ない手がかりからここまで辿り着く事ができるとは、思いもしませんでしたわ。そういう人物は、物語の中だけだと思っていたのだけれど、まさか実在するとは」
「ただ思考回路がおかしいだけだぜ」
とたん、岡崎夢美が笑顔のまま北白河ちゆりに裏拳をお見舞いした。
のたうちまわる様子は、まるでヘッドバンキングしているようだった。
もちろんこの漫才のような流れは無視して(無視しろという無言の圧力が岡崎夢美から伝わってくる)
、言葉を続ける。
「ただ一点、気になる事が」
「はい」
「何故、わざわざここまで来て、更に宇佐見さんを気絶させたのでしょう。私一人でも、問題は解決できたはず」
「ああ、それは一対一で、なおかつ確実に聞いておきたい事が。この機会を逃すといつになるか分からないので、宇佐見さんには席を外してもらおうと」
それだけのために、ここまでするのか?
「何でしょう」
「『幻想郷の住民と、非常に似ている人物がこちらの世界に存在する理由』を。今から説明する時間はなさそうなので、手紙をよこして下さい」
……まあ、この二人になら、言っても問題はないだろう。
「分かりました。本来漏らす事のない話なのですが、面白い体験をさせてもらったので、出血大サービスという事で」
「恩に着ます」
「そろそろ時間ね。機会があれば、またどこかでお会いしましょう」
「おう、またな!」
北白河ちゆりが屈託の無い笑顔で送ってくれる。
岡崎夢美も満面の笑みだ。
「朝倉さんによろしくお願いします」
「そちらも、蓮子とハーンをよろし」
そこまで言って、意識が覚醒した。
13 八雲紫からの手紙
こんにちは。春も盛りになってきました。京都では、そろそろ桜が咲き始める頃合でしょうか。幻想郷にはソメイヨシノが存在しないので、時節そちらに出向いて、友人達と一緒に花見をしたくなります。
さて、早速ですが、本題である「なぜ幻想郷の住民と似通った人物がそちらの世界に存在するのか」という疑問に答えさせていただきます。
ご存知の通り、幻想郷の住民は、妖怪、神、閻魔、亡霊、吸血鬼など、人間から見ると異常な能力を持った者達が数多く存在しています。中には時間を停止させる、運命を操作する、生命に死を与える、心を読む、核融合を操るといった、危険な力を所有する者もいます。
そのような者達が、もし何かの手違いで博麗大結界を通過し、現実世界に出現してしまったら、どうなると思いますか?
ある者は抵抗し、何人も人間を殺してしまうかもしれません。
ある者は捕らえられ、兵器として生涯を過ごす事になってしまうかもしれません。
ある者は身を隠し、孤独な生涯を送ってしまうかもしれません。
私は、彼女達にそんな思いをして欲しくないのです。
そのような事態を防ぐために、非常に特徴が似ている人物が存在しています。
類似した特長を持った彼女達は、いわばセーフティネットなのです。
仮に、ある妖怪が幻想郷から出てしまったとしましょう。彼女はどうやって幻想郷に帰ればいいのか、今いる世界で一体どうすればいいのか、右も左も分からない状態です。もし仮に人間と接点を持ってしまったら、何かよからぬ事が起きるかもしれない。事態は一刻を争います。
そこで、私の『境界を操る程度の能力』を使って、その妖怪と、そちらの世界の非常に似ている人物との精神の境界を限りなくゼロに近づけ、指示を出します。『お前の片割れが行方不明になった。お前と片割れはほぼ同じ力を所有している。よって、居場所はすぐに分かるはずだ。直ちに探し出して、幻想郷に送り返せ』と。能力は精神に宿るものなので、体は人間のままでも充分任務を遂行する事ができるのです。
幻想郷を抜け出した者がそちらの世界を侵略しようとしている時、最悪の場合、人間に気付かれないように殺害する指示を出す事もあります。もちろん、前例はありませんが。
私は幻想郷の住民が増える度に、そちらの世界の人物を一人指定し、住人一人につき人物一人を割り当てます。その結果、少しだけ境界がゆらぎ、どうしても趣味、能力、外見といったものが酷似してしまうのです。
蓮子とハーンは、その典型です。蓮子は霊夢並の類稀なる勘を有し、ハーンは容姿と能力が私と似通っています。あなたがたが見たカチューシャ姿の店員さんも、アリス・マーガトロイドの片割れでしょう。
これで、彼女達に関する説明は終わりです。
質問に対する明確な答えになっていれば幸いです。
時節柄、体調が崩れやすいかと思われます。一層のご自愛、お祈り申します。かしこ
三月二二日 八雲紫
岡崎夢美さま、北白河ちゆりさま
14 三月二三日 岡崎夢美の茶会
徹夜で採点地獄を終わらせた春休み前日。私達は最後のいちごタルトを口にしていた。これでしばらく春季限定いちごタルトと会えないかと思うと、切ない。さようなら、春季限定いちごタルト。
ちゆりは八雲さんからの手紙を読み終えたようだった。ふーん、とつぶやいてから手紙を封筒にしまい、紅茶を啜る。私も紅茶に口をつけた。ああ、おいしい。
「セーフティネットねえ。私らの場合はどうなるんだ? 住民として認識されていないって事か?」
「でしょうね。私達に対する認識は、旅行者や旅人みたいなものだったんじゃないかしら」
「良かったのやら悪かったのやら」
「良かったと思いましょう。後悔は心に悪いわ」
「そうだなー」
ちゆりのいちごタルトが、フォークによってざっくりと分断される。
あーあ、そんなに大きく切らなくても。
もう少し細かく分けた方が長い時間味わえるというのに。
結局あの後、マエリベリーさんの意識もこちらに戻ってきたので、その場で気絶させた。
秘封倶楽部の二人には、「ちゆりが宇佐見さんの家に行った時、カレンダーから博麗神社に行くことが分かった。近くで熊の出現報告があったため、車で急いで向かい、できるだけ物音を立てたくなかったから気絶させた」と説明したが、宇佐見は「そうですか」と意外に興味なさげだった。マエリベリーさんはやや訝しげな顔をしていたけど、多少疑われるのは仕方ない。宇佐見が動きさえしなければ。
「わぁーほひゅひんははー」
「何?」
いちごタルトが飲み込まれる音がした。
「結局のところ、宇佐見を気絶させた理由って、『八雲さんと一対一で話したいから』じゃないだろ」
……あらら。バレてる。
正確に言うとあの場面では私とちゆりと八雲さんで二対一なのだが、流石にそこを突っ込まれる事はなかったか。
「どうしてそう思うの?」
「女の勘」
「でた、女の勘。何の根拠の無い非論理的な理由ね」
「さりげなく映画版『容疑者Xの献身』の台詞をパクるな。根拠はないが、推測できる理由ならあるぜ」
今度は突っ込まれたか。
じゃあその推測できる理由とやらを聞かせてもらおうじゃないか。
「へえ? 一体どんな?」
「ちょっと待ってろ、整理する」
ちゆりは腕を組んで、少しうつむいた。考えている間に、紅茶のおかわりを頼んだ。空だったカップに紅茶が注がれる。それからさらに数十秒すると、ちゆりはよし、と言って顔を上げた。
「まず第一に、昨日はまだ採点期間中だった。
大学にいる連中はみんな採点地獄を味わっていて、私らもその中に含まれている。
結果、私らは二人とも徹夜する事になった。下手すれば採点が間に合わなかったかもしれない。
そんな中、貴重な時間を割いて、しかも宇佐見を気絶させてまで、八雲さんと話そうとするか普通? 私なら別の機会を狙うぜ」
ちゆりの話が終わるまで、紅茶のカップを弄ぶ事にした。水面がゆらゆらと揺れる。揺れがおさまると、私の顔が映った。少し口角が上がっている。
「二番目。なぜわざわざ探偵を雇った?
明細を見たことが無いから分からんが、探偵に仕事を依頼したからには相応の金が動いたはずだ。
この事から、この時点でかなり強力な理由があったらしいと分かる。
でも、この段階ではメリーさんイコール八雲さんの等式が成り立っていない。
つまり、『八雲さんと話したかった』というのは決定的な動機にはなりえない。探偵を雇った段階で、何か別の理由があったはずだ。
そうなんだろ?」
ちゆりの話が終わると同時に、紅茶を半分ほど飲む。久々に砂糖でも入れたほうが良かったかもしれない。
ふぅ、と溜息を吐いた。
私は今、すごく安心している。
やはり、私の相棒はちゆりだ。
この先何があろうと、私にふさわしい人間はちゆり以外に存在しえないのだ。
「見事ね、ちゆり。あなたとコンビを組める事を誇りに思うわ」
「照れるぜ。で、なんでこんな事したんだ?」
「その前にまず、これを食べちゃいましょう」
いちごタルトに乗っている一つのいちごに、フォークを指す。そのまま下まで貫通させ、タルトの部分もえぐる。口に入れると、やわらかい砂糖の甘み、ふわっとした生地の食感、そして甘酸っぱいいちごの果汁が口腔に広がる。
もう、最高。このタルトを口に入れただけで表情が弛緩してしまう。まさに至福のひとときだ。
今後の人生の生き甲斐をこれにしてしまってもいいかもしれない。
「宇佐見さんを八雲さんと会わせてしまうと、宇佐見さんが追い求めていた幻想郷が、『宇佐見さんでは絶対に届かない範囲に有る』という事になるかもしれない。
そういう危険性は排除しておこうかと思ったのよ。
夢を挫かれる事ほど辛い事はないわ。
だから、二人を会わせるくらいだったら宇佐見さんを気絶させてしまえばいいと思ったわけ」
「なるほど、気絶させた理由は分かった」
「それで、なんで最初から探偵を雇うほど力を注ごうと思ったのかというとね。
宇佐見さんの分のいちごタルトは、彼女にとってはささいなものだったかもしれない。
けど、私にとって、ここの春季限定いちごタルトは、全身全霊をかけて秘封倶楽部の二人を守るに値するほど美味しかったのよ」
ちゆりは。一瞬だけぽかんとしたが、すぐに目を細めた。
「それならしゃーないなー」
「しゃーないわね」
このタルトを胃に収めたら、残りのタルトは四分の三。
その四分の三も食べ終えてしまえば、再び会えるのは来年だ。
さあ、しっかり味わっておこう。
残りのタルトを二分する。勢い余って、フォークと皿がかちりと音を上げた。
ふむ。紫とメリーの関連性について、触れられてるのも私好みでした。
この二人は考えるだけで面白いですからね。
この作品を書いて頂き、ありがとうございました。
自分の中では傑作に値する作品でした
これからもがんばってください
教授イチゴ大好きだなぁ・・・
夢見さん、教授って肩書きがあるだけあって推理してる姿がものすごく似合ってますね。
流石のクオリティでした。ごちそうさま
よくできてました
文章も、登場するキャラもとても好みでした。
秘封側と教授側とで緩急の差があるのも面白く、絞めもすっきりしていて後腐れを感じさせなかったのもよかったです。
話の流れが素晴らしくて、最高でした
タイトルで釣られましたが予想以上に楽しめました
なんというガチミステリ
それとは別物?
メモだったら、持ってきたのではなく、メリーが置いてきてしまった物なはずで
これはすごい。
そこら辺のミステリよりも楽しめましたし、すとんと落ちるオチがスッキリしてよかったです。 200点ぐらいあげたいw