(1)
たおやかな風が髪を揺らす。
優しい日差しが身体を包み込む。
比那名居天子は、待っていた。
桃の樹に寄りかかり、わざとふて腐れた態度をとるのだ。いつも遊びに来るあの娘の困った顔を見るのは楽しい。
どうすれば自分が喜んでくれるか考えている顔を見るのがたまらなく気持ちがいい。
『天子ちゃん』
なによ、遅いじゃない。そんなようなことを言って天子は不満を表した。
でも許してあげる。
困った顔を見るのは楽しいけれど、彼女の笑顔の方が好きだから。
今日は何をして遊ぼうか。
しかし、少女から返答は無い。
どうしたの。
『あのね……あのね、天子ちゃん』
どうしたの。
少女は、俯いたまま、低い声音で呟くように言う。
『天子ちゃんは、あの……〈 〉って、お母さまがおっしゃってたから』
絶句。
その言葉は、幼い天子の胸を抉り、感情をかき回すには十分すぎた。
怒り、憎しみが混ざった不快感が天子の腹中で蠢きまわる。
『その、天人としての格が無いから、天子ちゃんとはもう遊んじゃいけないって……』
頭の中が痺れて、思考が停止した。
感情の制御が効かなくなるまでは、一瞬だった。
弾ける。
言葉より先に、天子の細い腕がしなり、相手を傷つけていた。
『やぁ!? 痛っ……天子ちゃん? 天子ちゃんやめっ……痛!』
お前もか。
目を見開いて、天子は仲の良かった天人の少女に平手を打ち続ける。
お前もか……!
天子の耳に、少女の悲鳴は届かず、ただ頭蓋の中と両手に痺れにも似た鈍い痛みが積もっていった。
ぼやける。
仲の良かった少女の顔も、声も、周囲の景色も。
まるで絵の具で描かれた絵が、水をぶちまけられ滲んでいくように……
それは、そう――
「ん……」
――いつかの夢だった。
桃の樹にもたれるようにして寝ていたのだ。
「……なにやってんのよ」
天子のお腹の上には、伊吹萃香の頭があった。
「ん? いや~いい枕だねぇこれ。もう少し上はごつごつしてて適さないけど、お腹の上は気持ち……痛ぁっ!」
天子は問答無用で萃香の耳をはたいた。
「こま、鼓膜破れる」
「鬼ってなんでこんなに頑丈なのかしらね」
「天人に言われたくないね」
「ふん」
大仰に呆れてみせながら、萃香の頭をごろんとお腹の上からどかし、『のび』をしながら立ち上がる。
ん~~! ぱっ!
「あぁ気持ちいい」
天子は木漏れ日を呼吸するように、身体の中の空気を入れ替える。
天界はどこまでも清浄だ。
地上に比べれば退屈だが、暮らしやすさでは天界には敵わない。
「天界はのんびりしてていいやねぇ」
萃香は、目を線状に細めた。
「あんたはいつもそうやってのんびりしてるでしょ」
「ん~そうだっけ~?」
のんびり答えて、酒を煽る萃香。
「ダメだ。この酒飲み鬼に付き合ってると、こっちまで堕落しそうだわ」
「まさに堕天子だ」
「うまいこと言ったと思ってるかもしれないけど全然面白くないからね」
萃香は肩をすくめてみせるだけだった。
「にしてもー、あんたとこうやって飲んだり話したりするのは楽しいけど、さすがに少し飽きてきたわね」と天子。
「随分な物言いだね」
「事実だもん」
こんなときは、地上の様子でも見るに限る。
地上は面白い。
天界では絶対にありえない、刺激的なことが起こるから。
どれどれ、と天子は地上を見下ろす。
天子の期待に反して、地上は特に異変の気配も無く、平和そのものだった。
まぁ、異変ばっかりでもきっと困るのだろうけど。
天子は、不満そうに鼻を鳴らして幻想郷を見渡す。
――と、視界の端に異形の何かを捕らえた。
「ん?」
それは、黒く、大きく。
「んん!?」
ただ、立っていた。
あれは何だ。立っている、ということは生き物か。しかしあんな巨大な生き物、天子はいまだかつて見たことがなかった。
「ねぇ、萃香……」
「あん?」
天子は勢いよく萃香に振り返った。
「留守番しといて」
「はぁ?」
「ちょっと地上、行ってくるから!」
「えー? ちょと天子?」
言うが早いか、天子は帽子を被りなおし、天界から飛び立った。
萃香が何かを叫んでいるようだったが、それよりも地上の影の方が大事なのだ。
(2)
土と、草木の匂いが天子の鼻腔をくすぐる。天界には無い、ナマの香り。生き物の生と死の匂いだ。
巨大な影を追って妖怪の山に降り立った天子だったが、あれからみるみる内に小さくなり、消えてしまっていた。
天子は先ほどまで巨大な影があったと思われる場所まで降りてきたのだった。
天界からここまではわずかな時間だ。ただ飛んでくればいいだけなので、なんの苦労もいらない。
鳥の鳴き声や、木々のざわめき、そこから漏れる陽の光。自分の周りにある大きな樹たちが無くとも、文字通り雲の上の存在である天界は遠すぎて見えない。
じっとりと湿度をはらんだ黒い土の感触が、もうずっと昔に天界へ憧れを抱いていた自分を思い出させた。
――名前をまだ地子と呼ばれていた時。空をずっと見上げていた。その記憶。
天子は蘇った記憶に顔をしかめながら、森の中を歩く。
深い緑の道を少し歩いたところで、開けた場所に出た。木々が避けたかのような場所。
泉。
ちょうど真上からの陽を反射し、控えめに波立つ水面を煌かせている。
「――ありゃ、あんたもサボりかい?」
唐突に声がかけられた。
泉の脇にある、巨大な岩の上に寝ていたのだろう。
上半身を起こして、あくびをしながら彼女――小野塚小町――は天子を見ていた。
「天人様たちはお行儀よくお勉強のお時間だよ?」
冗談めかしてにこりと笑う。
「はっ、そういうのはもう飽き飽き。ところでここら辺でおっきい影を見なかった?」
「影……?」
「そう。少し前までおっきい何かがここら辺にいなかったかって聞いてるの」
高圧的に言い放つ。
「あぁ……」
小町は特に気分を害した風も無く、にやりと微笑んだ。
「教えてやるから寿命を渡してもらおうか」
「はぁ!? できるわけないじゃない。バカなの?」
「はっは。じゃあ教えてあげらんないねぇ」
小町は起き上がり、右腕を大きく一回転させた。
「じゃ、寝起きの運動少しやるかい? あたいに勝てたら教えてやらんこともないよ?」
小町の手には巨大な死神の鎌。天子に向かって突き出すように構えた。
「別に教えてほしいなんて言わないわ。『答えたくなる』ようにするだけだから?」
「ってことは、勝つ気満々ってわけね」
その言葉を切るより早く、小町は足元の岩を蹴り、天子に突進していた。
天子はそれを緋想の剣で迎撃しようとして――
「あ……」
今日は急いで来たので、緋想の剣は天界に置いてあることに気づいた。出がけに萃香が騒いでいたのはこのことだったのかもしれない。しかし今となってはもう手遅れだ。
思考が天子の行動を一瞬遅らせた。小町の鎌が地面すれすれから掬い上げるように風を切る。
――斬られるっ!
天子は後ろに倒れこむように身を反らせながら、背面に一回転。鎌の風圧で胸のリボンが大きく揺れた。避けきれず刈り取られた、絹糸のような髪を数条撒き散らしながら天子は反転する。
霊力を地面に打ち込み、足を蹴り上げる。
小町は鎌を振ったまま天子の足を避けるが、一瞬遅れて地面から先の尖った一抱えもある石が回転しながら飛び出した。
「うわ」
慌てて鎌の柄を動かす。ガリガリと柄と石が削れあう音を出しながら、なんとか軌道を逸らす。
天子は小町から距離を取りながら、霊力で作った石を連続で投擲する。
「ふん、手数はこっちの方が上さな」
小町は手に霊力を握り込み、振った。無数の銭型弾幕が発射される。
石を弾き飛ばしながら、乱射される弾幕を天子は空中に逃れてかわした。背後で小町の銭が泉に着弾し、小規模な水柱をいくつも上げた。その音を聞きながら、急降下。
小町が再び銭を投げる。天子は気質を纏めた赤い光線でそれらを撃ち落とす。
天子はひらりと空中で回転しながら地面に着地するが、間髪入れず小町の鎌が振り下ろされる。
「くっ」
天子は咄嗟に出した石を小町の鎌にぶつけてそれをやり過ごす。がら空きになった小町の懐に石を放った。
直撃。――したかに見えた。
ぐぅ、と空間が歪む。
「え……?」
しかし、今まで目の前にいたはずの小町は数間離れた先に立っていた。遅れて届いた石を難なく両断する。
「ふぅ危ない危ない」
小町は汗を拭う仕草をしてみせる。
「まぁ、距離を操るっていうのはこういう使い方もあってねぇ」
小町は鎌の届かない遥か遠方から、振りかぶる。
何の意味もない行動にも思えるそれだったが、天子は咄嗟に地に伏せた。
重く空気を切り裂く音が鼓膜を震わせた。
天子のすぐ後ろにあった樹の幹が抉り取られていた。
「……反則じゃないの?」
「ま、卑怯卑劣は敗者の言い訳ってことで」
「まだ負けてないって」
天子は小町に向かって跳ぶ。
小町からの斬撃を空中で軌道変更しつつ回避。肉薄し、蹴りを放つ。
小町は天子の蹴りを鎌でうまくいなして見せた。
「わったっ……!?」
空中で体勢を崩しつつ小町から離れる天子だったが――小町が何かを引き寄せる動作をすると、二人の距離は半歩ほどになった。
今度は天子の目の前に小町の足刀が迫っていた。
「っ!」
咄嗟に固めた防御の腕ごとしたたかに蹴り飛ばされ、近くの樹の幹に背中をぶつける。
「いたた……やっぱ緋想の剣がないとやりづらいなぁ」
「降参かい?」
「まだまだ!」
天子は掌を小町に向け、意識を集中させる。小型の石が出現し、回転しながら細い光線を数条吐き出しながら回転する。
「きゃん!?」
咄嗟のことに小町も対応できず、束となった光線の直撃を受け吹き飛ばされる。
「ぐ……ぐ……やってくれるじゃないかぁ……」
小町は鎌を杖代わりにして立ち上がりながら、天子を睨みつけた。
「この、不良天人」
……小町の軽口に、一瞬天子の表情が固まった。が、気を取り直して口を開く。
「あら、まだ倒れないの?」
正直天子もこれで小町が倒せると思ってはいない。
これは布石だ。距離を操る小町とまともに戦っても時間と労力を消費するだけで、正直面倒くさい。だから、必殺の一撃で倒す。
天子は霊力を全身に巡らせ、その瞬間に備える。
「ん? なんか企んでるのかい?」
「べつにぃ?」
小町は、急に止まった天子の行動を訝しんで、鎌をくるりと回した。
「でも……止まってちゃ、その寿命刈ってくれって言ってるようなもんだよ!」
「誰が止まってるって?」
天子は再び掌から出現させた石を小町に向け、光線の束を発射する。
「距離をおけばこれしかないって? はっ! はっきり言って読んでたさ!」
小町が大きく跳躍する。光線の束を飛び越し、天子の真上から鎌を振りかぶる。
「飛び道具なら、こんなのも食らってみな!」
空中で回転する勢いで振りかぶる。
鎌の先から空気を切り裂き、霊力の斬撃が天子へ目掛けて飛んだ。
「その言葉、そっくりそのまま返すわよ!」
天子は右腕を天へと向ける。
石が4つ、地面から勢いよく飛び出し、小町の斬撃をかき消した。
「盾か!?」
小町が驚愕の声を上げる。
「んーん。弾よ!」
小町を指差す。
天子の周囲に滞空していた石たちが螺旋を描いて小町に突進する。
「やば……」
小町は必死に体勢を整え、間一髪迫り来る石たちを鎌で一閃する。
しかし鎌で両断できなかった石が衝撃で砕ける。それが小町の視界を一瞬遮った。
「く……」
だが一瞬だ。小町は天子の位置を確認した。しかし天子にそれで十分だった。
――『要石』――
「……!?」
全身に赤い霊力を纏い、突っ込む。
天子の眼前でスペルカードが赤い霊力となって消えた。
「が……っ」
衝撃。胸に天子の頭が突き刺さった。
それでも天子の勢いは止まらず、空へと飛び上がっていく。
小町は天子に弾き飛ばされ、空中を舞った。
視界には太陽を中心に抱えた蒼天。――と、石。
「石、ていうか岩……!?」
岩だった。
「天地開闢プレェェェェェェェェス!」
例えるならば、家だ。目視で家ほどある巨大な岩が天から降ってくる。
「――――――――――――――――――――――――っ!!」
声にならない悲鳴を上げる。
が、それも瞬き数回の間。
空に投げ出されたままの小町は重力と運命に逆らうことなど到底できず――
轟音。
濛々と砂埃が舞う。
「よっと」
天子は今しがた落下させた巨大要石から飛び降りる。その下敷きになっている小町を確認した。
「きゅー」
目を回していた。
「よし、これでしばらくは起きないな」
と確認したところで、はたと気づく。
小町にあの巨大な影の居場所を聞くんだった。
うっかり倒してしまったがどうしよう。小町が起きるのを待ってもいいが、時間がかかるかもしれない。そう考えるならば、別の場所で情報収集するのが得策だ。
そこまで考えて、天子は地を蹴り、空へと身を投げ出した。
『不良天人』。
小町の口から出た、久方ぶりに聞く言葉が、天子の胸に僅かな棘となって刺さっていた。
天界で言われ続けていた言葉だ。その単語を頭の中に入れるだけで気分が落ちる。天子は頭を振ってマイナスに傾きかけていた気分の天秤を戻した。
何気なく、周りを見やる。
と。
「え……」
思わず声が出てしまっていた。
眼下に広がる妖怪の山。その遥か先の裾野で、あの巨大な影が立ち上がっていたのだ。
なんの気配も無かった。あんな巨大なものが立ち上がれば、木々は倒れ、鳥は舞うくらいのことが起きるはずなのに。
天子はますます興味を引かれ、山の裾野へと全速力で飛ぼうと――
「あら。今日は珍しい方にお会いしたわ」
聞き覚えのある声が、天子の背中に投げかけられた。
天子は自分よりさらに上へ視線を移す。
「こんにちは」
八雲紫だった。
(3)
嫌な奴に会ってしまった。
スキマに腰掛け、こちらを見下ろす紫を見て天子は歯噛みする。
「なんの用?」
天子はなるべく無愛想に言葉を投げた。
「あら、それはこちらの台詞よ」
紫は意外そうな表情を浮かべると、黒と金で装飾された扇子を開き口元を隠す。
「貴方、博麗神社をあんなにしておいてよくもまた地上に来れたわね」
口元は見えない。しかし紫の双眸が天子を射抜くように光を放つ。
やはりその話題を出すか。天子は眉間に皺を寄せながら、先日自分が起こしたささやかな異変の顛末が思い出される。
倒壊した博麗神社を建て直した際に天子がこっそり仕込んだ要石を紫に看破されたのだ。
その時に博麗神社は再び破壊され、紫に挑んだ天子は敗北している。
「あんたには関係ないでしょ!」
天子は紫に背を向け、離れることにする。これ以上、スキマ妖怪の姿を見ていたくなかった。
「じゃあね!」
「困るわね。私は貴方に用があるわ」
紫の声が天子に振りかけられる。
「不良天人さん」
反射的に紫を振り返るのと、視界に紫の放った弾が自分の胸にめり込み炸裂するのは ほぼ同時だった。
「ふぐっ」
弾けた霊力が天子の意識を寸断し、きりもみしながら堕ちていく。
「問答無用よ」
さらに紫から放たれる高速の弾幕。
なんとか意識を取り戻した天子は、腕を交差し来るべき衝撃に備えることしかできなかった。
「~~~~~~~~~~~~~~~!!」
空気を震わす音が無数に響き、天子は悲鳴を上げながら森の中に墜落した。
盛大な砂埃を上げながら、地面に長い帯状の後をつけて、ようやく止まる。
「痛ったたた……なんなのよぅ……」
全身をしたたかに打ち据えてしまった。天子は勢いよく起き上がると、紫を睨みつけた。
「いきなり何すんのよ!」
「てっきりこの前のアレで懲りたと思ったのに。天人は天人らしく天にいなさい。それとも、まだお仕置きが足りなかったかしら?」
紫は天子の頭より高い位置まで降りてくると、扇子を天子に向ける。
「あんた何様のつもりよ。この比那名居天子にお仕置き?」
天子は赤い霊力を纏った掌を紫に向ける。
「まったく天に唾吐く傲慢ね」
天子の前に石が出現し、光線を無数に発しながら回転する。
しかし紫は防御用結界を張り、光線を難なく弾く。
「あくまで地上に固執するか天人」
紫は腰掛けているスキマを消し、地上に降り立つ。
「固執するわけじゃないわ。あたしはあたしのしたいことをするだけよ」
「まったく高慢ね。貴方は天人の自覚がまったく無いわ」
紫は扇子を出現させたスキマに送り、代わりに純白の日傘を取り出した。すぅと傘の先端で空間に切れ目を入れる。
「仕方ないから教えてあげるわ。再びの敗北という言葉をもって」
傘の切っ先を天子に向けて跳ね上げる。空間が避け、そこから弾幕が光の尾を伸ばしつつ飛び出した。
「この前の敗北は偶然が良い方向に重なっただけだってことを思い知るがいいわ!」
天子はそれら弾幕をかするようにかわしながら、紫に肉薄する。
呼気を吐く。
加速と全体重を乗せた両手で思い切り紫を突き飛ばす。
「……甘いわね」
が、それは紫が展開した防御結界を強く叩くだけに終わった。
すかさず防御結界の内側から天子に向けて傘が突き出される。
「うわっ!?」
正確に眉間を狙った突きを後ろに飛んでギリギリ避ける。
「このぉ!」
手を地面に着き、足に霊力を込めながら蹴り上げる。
地面から先端が尖った石が回転しながら紫めがけて飛ぶ。しかし紫は顔色一つ変えず傘を石の回転に合わせ、何事も無かったかのように地面に落とす。
天子は驚愕しながら紫との距離を取ろうと上空に飛ぶが、紫の弾幕による追撃にさらされる。
「逃がさないわ」
紫も地面を蹴って天子に追いすがる。
天子は嵐のように降り注ぐ紫の弾幕を避け、かすりながら反撃を試みるが、弾幕の量に押され始める。
「これくらいじゃ……負けないから!」
天子は声を張り上げた。紫に負けたくない。それよりも、あの巨大な影の正体を突き止めるまでは倒されるわけにはいかないのだ。
緋想の剣さえあれば、という思いが身を焦がす。
そんな天子を見ながら紫は不満そうに目を細めた。
「貴方は……」
いきなり紫の弾幕が止む。
「ん……?」
天子は構えを解いて、しかし警戒は解かずに紫を見た。
「どうしたの? 心変わり?」
「いいえ。ちょっと聞いてみたくて」
「何を」
「貴方は、本当に天人なの?」
紫の疑問符が、天子の心を抉り込んだ。
「な、何をいきなり。どこからどう見ても天人よ」
天子は動揺する心を出さないように勤めて答える。
「いいえ。格がないわ」
断言する紫。
「格、って」
「肩書きがつくにはそれ相応の理由と格がある。でもね、貴方は天人という肩書きには相応しくはないわ」
相応しくない。
同じ言葉をどれだけ投げつけられてきたことか。
曰く、天人として相応しくない。
曰く、天人としての格が無い。
嫌な記憶が蘇る。
天子は胸の内側をこねくり回されるような不快感を顔には出さないようにして、無理やり頬を吊り上げた。
「そんなもの、いらないわ」
いびつな笑顔のまま、紫に鋭い視線を送る。
「必要、ないから」
――望んでも、手に入らなかったから。
片足で大地を軽く蹴ると、石が4つ地面から出現し、天子を守るように周囲を回転し始める。
天子は石たちを纏わり付かせたまま、地を這うように低く飛び、紫へ猛然と突進する。
「……そう」
一瞬だけ、紫の唇が忌々しげに震えた。だがそれがどうしたというのだ。
「……!」
天子は低く唸るように呼気を吐き出しながら、紫の懐へ潜り込む。
紫は傘で地面をなぞる動きをする。
「くっ!?」
突然、天子の足元から紫の弾幕が襲いくる。が、天子は回転しつつ紫の脇に回りこみ側面に蹴りを叩き込む。
紫は防御結界を張り、天子の足刀を弾く。しかしそれでは終わらない。
天子は纏っている石を全て紫の防御結界に打ち込んだ。螺旋を描く軌道で石たちは紫の防御結界を削る。霊力同士がぶつかり、空気が弾ける音が何度も鼓膜を揺らす。
「まだ!」
さらに紫に向けて赤い霊力の光線を射つ。
紫の表情に焦りが見えた。けれども防御結界は破れない。
――ならば。
天子はスペルカードを切る。
緋想の剣が無い今でも使えるものはある。
――『天気』――
「緋想天促!」
周囲の気質が凝縮され、紫に向けて膨大な量の赤い玉状弾幕が浴びせかけられる。
「いけぇぇぇぇ!」
怒涛の如く。紫の防御結界が澄んだ音を立てて破壊され、赤い濁流に飲まれて見えなくなる。
勝った。
スペルカードの効果が切れる。
赤い弾幕にさらされた場所には果たして紫の姿が、
「いない……?」
そこには弾幕に削られた地面があるだけで――否、中に黒い空間を孕んだスキマがゆらりと掻き消えた。
「橙。来なさい」
『はい紫様!』
紫の声が背後から聞こえた。直後、スキマから何かが飛来する。
「なんっ……」
なんで、と言いながらスペルカードを切ろうとするが、霊力を纏い回転する大きな何かにスペルカードを破壊された。
それは勢いを衰えさせず天子に向かって突撃してくる。
目の前に防御用の石を出現させ、それの軌道をずらし直撃は避けるが、紫が放ったクナイ型の弾幕が既に目の前に展開されていた。
天子は必死になってそれらを避ける。
無数のクナイが天子の頬とスカートに傷を残す。
弾幕を抜けた。その先に、紫が待ち構えるかのように立っていた。
「貴方は天人としての自覚が足りないわ。それをもう一度良く考えなさい」
それは責めるような、けれど懐かしさも感じる静かな口調だった。
紫の両手が桃色の燐光を帯びた。
紫のスペルカードが切られ、紫と天子の間に霊力が圧縮された。
見上げるほどの巨大な四つ重に折り重なった結界が現れ、高速で回転しながら周囲のものを吸い込みだした。
それは咄嗟に空中に逃れようとした天子も例外ではなく。
「私だって……頑張ったんだ……」
天人として精一杯振舞おうとしたあの頃の気持ちが、一瞬だけ頭の中をよぎった。
抗えない。眼前に迫る結界。
――そこで、天子の意識は途絶えた。
(4)
地子という名前を捨てたのは、身も心も天人になるためだった。
天人は優しく、強く、誰からも愛される徳と格を持った人たちだ。早くそうなりたくて、名前を変えた。
本来ならば、厳しい修行の結果到達することのできる天人に、何の努力も無しになってしまったことへの負い目はあったから。
だから必死に学問を勉強したし、自分の力と存在を誇示するようにした。
だから天子にとって、天人になったばかりの頃は勝負の日々だった。
ここにいる、と。比那名居天子はここにいる、と。一人天界で叫び続けるように、誰にも負けないように。
けれど、そうやって天子が一生懸命努力すればするほど、天子の周りから人は離れていったのだった。
ある少女の言葉が蘇る。
『天子ちゃんは、あの……不良天人って、お母さまがおっしゃってたから』
誰も、頑張った天子を認めてはくれなかった。
「どうして……あたしは天人になりたかっただけなのに……みんなに好かれたかっただけなのに……」
天人の格無く天人と為った比那名居天子は結局、誰からも天人と認められていなかったのだ。
だから、自分の居場所を地上に求めたのかもしれない。
結局。地子から天子にはなれなかったのか。
でも、それでも……
――目が覚めた。
「起きたかしら?」
紫の声音が耳元で聞こえた。
「ひっ!?」
天子はエビのように勢いよく跳ね上がり、紫から距離を取った。じゃ、と砂利が音を立てる。
河原だった。
ここはきっと、まだ妖怪の山の中だろう。目の間には優しげな音を奏でる沢が流れている。先ほどまで紫と戦っていた場所から移動してきたらしい。
「やっぱり天人なだけあって頑丈なのね」
紫が意地悪く笑う。
天子の額に張り付いていた濡れた布が地面に落ちた。
「……介抱して恩でも着せたつもり?」
「あら、心外だわ」
紫は空中に出現させたスキマに腰掛けると、中から白磁の茶器を取り出した。どういう理屈か、既に中からは湯気が出ている。
「貴方もどうぞ」
「うわ?」
目の前にスキマが現れ、そこからにゅぅと白磁器を持った紫の手が出てきた。
反射的に受け取ってしまう。
「あ、おいしい」
ふわりと花の香りが広がる茶だった。落ち着いてしまいかけたところで、天子ははっと我に返る。
「介抱して、お茶まで出して、あたしを懐柔したつもり?」
「あらあら、心外だわ」
紫は天子から視線を逸らし、中空の一点を見つめた。
「何見てんのよ」
「あれを見せて貴方に恩を着せたかったの」
紫の言葉に、天子は疑問符を浮かばせたが、それはすぐに解消された。
「あ……」
山間から何かが現れる。というか、大きな何かが膨れ上がってきた。
「まさか」
「そう。貴方が天界を飛び出してきてまで探してきたものよ」
それはむくむくと大きくなり、全貌が明らかになった。が、天子にはそれをなんと表現していいか分からなかった。
「……なんだあれ……」
「あれは非想天則」
「非想天則?」
非想天則と呼ばれたものと紫を交互に見る。だが名前など、どうでも良かった。
「なにあれ。ふふ」
思わず吹き出してしまう。あれはまるで――
「風船ね」「風船だわ」
「製作者は河童。今度やる催し物の客寄せのようね」
紫はさらに詳しい非想天則の説明をしたが、天子の耳にはあまり入らなかった。
「なんだ……なぁんだ……」
正体を知ってみればたいしたことではなかったのだ。
自分は風船を見るために必死になって、戦って負けて、笑っている。
「は、はは……」
全身の力と、緊張が解けて消えそうだ。
非想天則はゆらゆらと揺れているだけ。ただそこに在るだけだ。何も考えず、何の意味も無い。けれど、こうやって見る者には何かを感じさせる。
こうやって過ごせたら、楽なのだろうか。
「そうすればいいんじゃないかしら?」
天子は紫を見た。まるで天子の心を読んだかのような台詞だった。
「心を硬く小さく閉ざせば、誰にも見向きされなくなる。けれど大きく広く持てば誰かが見てくれるでしょう」
「……そうかもね」
非想天則を見て思う。ただ大きくそこに在るだけで、存在を知ってもらえる。それだけのことに自分は気づいていたのだろうか。
天子が悩んでいたことは簡単なことだったのかもしれない。
「笑ってるのね」
紫に指摘され、反射的に頬を押さえた。
「…………」
「投我以桃、報之以李。あなたのその心を李としましょう」
紫は非想天則を見たまま、歌うように言葉を紡ぐ。
そのあまりにも唐突で、しかもそれこそまるで天人かのような言葉。
一瞬紫に反抗の意識が芽生えるが、非想天則を見ているとそれもなんだか間抜けな気がして、天子は今度こそしっかりと口の端を上げた。
「笑って許してあげる」
と、いつものように不適に笑うのだった。
精一杯の虚勢を込めて、薄い胸を張り、かつて地子が憧れた天子らしく。
(終)
(余談)
「貴方を見かけたとき、また地上に災害でも起こすのかとおもったけれど」
「そんなことしないわよ」
「……でも分かったわ。天子は頑張りすぎていたのね」
「え」
いつの間にか、紫がしっかりと自分を見ていた。
「今、名前……」
「誰にも認められなくて、それでも認められたくて、頑張ってきたんでしょう」
胸の中心を突かれた思いだった。しかし、
「何であんたがそこまで知ってんのよ」
「さっき天子が寝てる間に夢と現の境界をいじってチラっと見たから」
可愛いところもあったのね、と微笑む。
「なぁ……っ!?」
じゃあアレか。過去の悩みとか諸々を覗かれたのか。
「え、ちょ、なんで……え、え!?」
混乱しながらも、怒りが湧いて、あっという間に沸騰した。
「ななななんてことしてくれんのよー!」
「『あたしは天人になりたかっただけなのに……みんなに好かれたかっただけなのに……』」
天子の声色まで真似しだした。なんて妖怪だ。殺そう。
「きー!」
全身に霊力を纏わせ、紫に飛びかかる。
その光景をしっかりと文に撮影され、後日わざわざ『文々。新聞』を天界までバラ撒かれた挙句、衣玖に呆れられることになるとはこの時は思いもしなかったのだった。
(おわり)
たおやかな風が髪を揺らす。
優しい日差しが身体を包み込む。
比那名居天子は、待っていた。
桃の樹に寄りかかり、わざとふて腐れた態度をとるのだ。いつも遊びに来るあの娘の困った顔を見るのは楽しい。
どうすれば自分が喜んでくれるか考えている顔を見るのがたまらなく気持ちがいい。
『天子ちゃん』
なによ、遅いじゃない。そんなようなことを言って天子は不満を表した。
でも許してあげる。
困った顔を見るのは楽しいけれど、彼女の笑顔の方が好きだから。
今日は何をして遊ぼうか。
しかし、少女から返答は無い。
どうしたの。
『あのね……あのね、天子ちゃん』
どうしたの。
少女は、俯いたまま、低い声音で呟くように言う。
『天子ちゃんは、あの……〈 〉って、お母さまがおっしゃってたから』
絶句。
その言葉は、幼い天子の胸を抉り、感情をかき回すには十分すぎた。
怒り、憎しみが混ざった不快感が天子の腹中で蠢きまわる。
『その、天人としての格が無いから、天子ちゃんとはもう遊んじゃいけないって……』
頭の中が痺れて、思考が停止した。
感情の制御が効かなくなるまでは、一瞬だった。
弾ける。
言葉より先に、天子の細い腕がしなり、相手を傷つけていた。
『やぁ!? 痛っ……天子ちゃん? 天子ちゃんやめっ……痛!』
お前もか。
目を見開いて、天子は仲の良かった天人の少女に平手を打ち続ける。
お前もか……!
天子の耳に、少女の悲鳴は届かず、ただ頭蓋の中と両手に痺れにも似た鈍い痛みが積もっていった。
ぼやける。
仲の良かった少女の顔も、声も、周囲の景色も。
まるで絵の具で描かれた絵が、水をぶちまけられ滲んでいくように……
それは、そう――
「ん……」
――いつかの夢だった。
桃の樹にもたれるようにして寝ていたのだ。
「……なにやってんのよ」
天子のお腹の上には、伊吹萃香の頭があった。
「ん? いや~いい枕だねぇこれ。もう少し上はごつごつしてて適さないけど、お腹の上は気持ち……痛ぁっ!」
天子は問答無用で萃香の耳をはたいた。
「こま、鼓膜破れる」
「鬼ってなんでこんなに頑丈なのかしらね」
「天人に言われたくないね」
「ふん」
大仰に呆れてみせながら、萃香の頭をごろんとお腹の上からどかし、『のび』をしながら立ち上がる。
ん~~! ぱっ!
「あぁ気持ちいい」
天子は木漏れ日を呼吸するように、身体の中の空気を入れ替える。
天界はどこまでも清浄だ。
地上に比べれば退屈だが、暮らしやすさでは天界には敵わない。
「天界はのんびりしてていいやねぇ」
萃香は、目を線状に細めた。
「あんたはいつもそうやってのんびりしてるでしょ」
「ん~そうだっけ~?」
のんびり答えて、酒を煽る萃香。
「ダメだ。この酒飲み鬼に付き合ってると、こっちまで堕落しそうだわ」
「まさに堕天子だ」
「うまいこと言ったと思ってるかもしれないけど全然面白くないからね」
萃香は肩をすくめてみせるだけだった。
「にしてもー、あんたとこうやって飲んだり話したりするのは楽しいけど、さすがに少し飽きてきたわね」と天子。
「随分な物言いだね」
「事実だもん」
こんなときは、地上の様子でも見るに限る。
地上は面白い。
天界では絶対にありえない、刺激的なことが起こるから。
どれどれ、と天子は地上を見下ろす。
天子の期待に反して、地上は特に異変の気配も無く、平和そのものだった。
まぁ、異変ばっかりでもきっと困るのだろうけど。
天子は、不満そうに鼻を鳴らして幻想郷を見渡す。
――と、視界の端に異形の何かを捕らえた。
「ん?」
それは、黒く、大きく。
「んん!?」
ただ、立っていた。
あれは何だ。立っている、ということは生き物か。しかしあんな巨大な生き物、天子はいまだかつて見たことがなかった。
「ねぇ、萃香……」
「あん?」
天子は勢いよく萃香に振り返った。
「留守番しといて」
「はぁ?」
「ちょっと地上、行ってくるから!」
「えー? ちょと天子?」
言うが早いか、天子は帽子を被りなおし、天界から飛び立った。
萃香が何かを叫んでいるようだったが、それよりも地上の影の方が大事なのだ。
(2)
土と、草木の匂いが天子の鼻腔をくすぐる。天界には無い、ナマの香り。生き物の生と死の匂いだ。
巨大な影を追って妖怪の山に降り立った天子だったが、あれからみるみる内に小さくなり、消えてしまっていた。
天子は先ほどまで巨大な影があったと思われる場所まで降りてきたのだった。
天界からここまではわずかな時間だ。ただ飛んでくればいいだけなので、なんの苦労もいらない。
鳥の鳴き声や、木々のざわめき、そこから漏れる陽の光。自分の周りにある大きな樹たちが無くとも、文字通り雲の上の存在である天界は遠すぎて見えない。
じっとりと湿度をはらんだ黒い土の感触が、もうずっと昔に天界へ憧れを抱いていた自分を思い出させた。
――名前をまだ地子と呼ばれていた時。空をずっと見上げていた。その記憶。
天子は蘇った記憶に顔をしかめながら、森の中を歩く。
深い緑の道を少し歩いたところで、開けた場所に出た。木々が避けたかのような場所。
泉。
ちょうど真上からの陽を反射し、控えめに波立つ水面を煌かせている。
「――ありゃ、あんたもサボりかい?」
唐突に声がかけられた。
泉の脇にある、巨大な岩の上に寝ていたのだろう。
上半身を起こして、あくびをしながら彼女――小野塚小町――は天子を見ていた。
「天人様たちはお行儀よくお勉強のお時間だよ?」
冗談めかしてにこりと笑う。
「はっ、そういうのはもう飽き飽き。ところでここら辺でおっきい影を見なかった?」
「影……?」
「そう。少し前までおっきい何かがここら辺にいなかったかって聞いてるの」
高圧的に言い放つ。
「あぁ……」
小町は特に気分を害した風も無く、にやりと微笑んだ。
「教えてやるから寿命を渡してもらおうか」
「はぁ!? できるわけないじゃない。バカなの?」
「はっは。じゃあ教えてあげらんないねぇ」
小町は起き上がり、右腕を大きく一回転させた。
「じゃ、寝起きの運動少しやるかい? あたいに勝てたら教えてやらんこともないよ?」
小町の手には巨大な死神の鎌。天子に向かって突き出すように構えた。
「別に教えてほしいなんて言わないわ。『答えたくなる』ようにするだけだから?」
「ってことは、勝つ気満々ってわけね」
その言葉を切るより早く、小町は足元の岩を蹴り、天子に突進していた。
天子はそれを緋想の剣で迎撃しようとして――
「あ……」
今日は急いで来たので、緋想の剣は天界に置いてあることに気づいた。出がけに萃香が騒いでいたのはこのことだったのかもしれない。しかし今となってはもう手遅れだ。
思考が天子の行動を一瞬遅らせた。小町の鎌が地面すれすれから掬い上げるように風を切る。
――斬られるっ!
天子は後ろに倒れこむように身を反らせながら、背面に一回転。鎌の風圧で胸のリボンが大きく揺れた。避けきれず刈り取られた、絹糸のような髪を数条撒き散らしながら天子は反転する。
霊力を地面に打ち込み、足を蹴り上げる。
小町は鎌を振ったまま天子の足を避けるが、一瞬遅れて地面から先の尖った一抱えもある石が回転しながら飛び出した。
「うわ」
慌てて鎌の柄を動かす。ガリガリと柄と石が削れあう音を出しながら、なんとか軌道を逸らす。
天子は小町から距離を取りながら、霊力で作った石を連続で投擲する。
「ふん、手数はこっちの方が上さな」
小町は手に霊力を握り込み、振った。無数の銭型弾幕が発射される。
石を弾き飛ばしながら、乱射される弾幕を天子は空中に逃れてかわした。背後で小町の銭が泉に着弾し、小規模な水柱をいくつも上げた。その音を聞きながら、急降下。
小町が再び銭を投げる。天子は気質を纏めた赤い光線でそれらを撃ち落とす。
天子はひらりと空中で回転しながら地面に着地するが、間髪入れず小町の鎌が振り下ろされる。
「くっ」
天子は咄嗟に出した石を小町の鎌にぶつけてそれをやり過ごす。がら空きになった小町の懐に石を放った。
直撃。――したかに見えた。
ぐぅ、と空間が歪む。
「え……?」
しかし、今まで目の前にいたはずの小町は数間離れた先に立っていた。遅れて届いた石を難なく両断する。
「ふぅ危ない危ない」
小町は汗を拭う仕草をしてみせる。
「まぁ、距離を操るっていうのはこういう使い方もあってねぇ」
小町は鎌の届かない遥か遠方から、振りかぶる。
何の意味もない行動にも思えるそれだったが、天子は咄嗟に地に伏せた。
重く空気を切り裂く音が鼓膜を震わせた。
天子のすぐ後ろにあった樹の幹が抉り取られていた。
「……反則じゃないの?」
「ま、卑怯卑劣は敗者の言い訳ってことで」
「まだ負けてないって」
天子は小町に向かって跳ぶ。
小町からの斬撃を空中で軌道変更しつつ回避。肉薄し、蹴りを放つ。
小町は天子の蹴りを鎌でうまくいなして見せた。
「わったっ……!?」
空中で体勢を崩しつつ小町から離れる天子だったが――小町が何かを引き寄せる動作をすると、二人の距離は半歩ほどになった。
今度は天子の目の前に小町の足刀が迫っていた。
「っ!」
咄嗟に固めた防御の腕ごとしたたかに蹴り飛ばされ、近くの樹の幹に背中をぶつける。
「いたた……やっぱ緋想の剣がないとやりづらいなぁ」
「降参かい?」
「まだまだ!」
天子は掌を小町に向け、意識を集中させる。小型の石が出現し、回転しながら細い光線を数条吐き出しながら回転する。
「きゃん!?」
咄嗟のことに小町も対応できず、束となった光線の直撃を受け吹き飛ばされる。
「ぐ……ぐ……やってくれるじゃないかぁ……」
小町は鎌を杖代わりにして立ち上がりながら、天子を睨みつけた。
「この、不良天人」
……小町の軽口に、一瞬天子の表情が固まった。が、気を取り直して口を開く。
「あら、まだ倒れないの?」
正直天子もこれで小町が倒せると思ってはいない。
これは布石だ。距離を操る小町とまともに戦っても時間と労力を消費するだけで、正直面倒くさい。だから、必殺の一撃で倒す。
天子は霊力を全身に巡らせ、その瞬間に備える。
「ん? なんか企んでるのかい?」
「べつにぃ?」
小町は、急に止まった天子の行動を訝しんで、鎌をくるりと回した。
「でも……止まってちゃ、その寿命刈ってくれって言ってるようなもんだよ!」
「誰が止まってるって?」
天子は再び掌から出現させた石を小町に向け、光線の束を発射する。
「距離をおけばこれしかないって? はっ! はっきり言って読んでたさ!」
小町が大きく跳躍する。光線の束を飛び越し、天子の真上から鎌を振りかぶる。
「飛び道具なら、こんなのも食らってみな!」
空中で回転する勢いで振りかぶる。
鎌の先から空気を切り裂き、霊力の斬撃が天子へ目掛けて飛んだ。
「その言葉、そっくりそのまま返すわよ!」
天子は右腕を天へと向ける。
石が4つ、地面から勢いよく飛び出し、小町の斬撃をかき消した。
「盾か!?」
小町が驚愕の声を上げる。
「んーん。弾よ!」
小町を指差す。
天子の周囲に滞空していた石たちが螺旋を描いて小町に突進する。
「やば……」
小町は必死に体勢を整え、間一髪迫り来る石たちを鎌で一閃する。
しかし鎌で両断できなかった石が衝撃で砕ける。それが小町の視界を一瞬遮った。
「く……」
だが一瞬だ。小町は天子の位置を確認した。しかし天子にそれで十分だった。
――『要石』――
「……!?」
全身に赤い霊力を纏い、突っ込む。
天子の眼前でスペルカードが赤い霊力となって消えた。
「が……っ」
衝撃。胸に天子の頭が突き刺さった。
それでも天子の勢いは止まらず、空へと飛び上がっていく。
小町は天子に弾き飛ばされ、空中を舞った。
視界には太陽を中心に抱えた蒼天。――と、石。
「石、ていうか岩……!?」
岩だった。
「天地開闢プレェェェェェェェェス!」
例えるならば、家だ。目視で家ほどある巨大な岩が天から降ってくる。
「――――――――――――――――――――――――っ!!」
声にならない悲鳴を上げる。
が、それも瞬き数回の間。
空に投げ出されたままの小町は重力と運命に逆らうことなど到底できず――
轟音。
濛々と砂埃が舞う。
「よっと」
天子は今しがた落下させた巨大要石から飛び降りる。その下敷きになっている小町を確認した。
「きゅー」
目を回していた。
「よし、これでしばらくは起きないな」
と確認したところで、はたと気づく。
小町にあの巨大な影の居場所を聞くんだった。
うっかり倒してしまったがどうしよう。小町が起きるのを待ってもいいが、時間がかかるかもしれない。そう考えるならば、別の場所で情報収集するのが得策だ。
そこまで考えて、天子は地を蹴り、空へと身を投げ出した。
『不良天人』。
小町の口から出た、久方ぶりに聞く言葉が、天子の胸に僅かな棘となって刺さっていた。
天界で言われ続けていた言葉だ。その単語を頭の中に入れるだけで気分が落ちる。天子は頭を振ってマイナスに傾きかけていた気分の天秤を戻した。
何気なく、周りを見やる。
と。
「え……」
思わず声が出てしまっていた。
眼下に広がる妖怪の山。その遥か先の裾野で、あの巨大な影が立ち上がっていたのだ。
なんの気配も無かった。あんな巨大なものが立ち上がれば、木々は倒れ、鳥は舞うくらいのことが起きるはずなのに。
天子はますます興味を引かれ、山の裾野へと全速力で飛ぼうと――
「あら。今日は珍しい方にお会いしたわ」
聞き覚えのある声が、天子の背中に投げかけられた。
天子は自分よりさらに上へ視線を移す。
「こんにちは」
八雲紫だった。
(3)
嫌な奴に会ってしまった。
スキマに腰掛け、こちらを見下ろす紫を見て天子は歯噛みする。
「なんの用?」
天子はなるべく無愛想に言葉を投げた。
「あら、それはこちらの台詞よ」
紫は意外そうな表情を浮かべると、黒と金で装飾された扇子を開き口元を隠す。
「貴方、博麗神社をあんなにしておいてよくもまた地上に来れたわね」
口元は見えない。しかし紫の双眸が天子を射抜くように光を放つ。
やはりその話題を出すか。天子は眉間に皺を寄せながら、先日自分が起こしたささやかな異変の顛末が思い出される。
倒壊した博麗神社を建て直した際に天子がこっそり仕込んだ要石を紫に看破されたのだ。
その時に博麗神社は再び破壊され、紫に挑んだ天子は敗北している。
「あんたには関係ないでしょ!」
天子は紫に背を向け、離れることにする。これ以上、スキマ妖怪の姿を見ていたくなかった。
「じゃあね!」
「困るわね。私は貴方に用があるわ」
紫の声が天子に振りかけられる。
「不良天人さん」
反射的に紫を振り返るのと、視界に紫の放った弾が自分の胸にめり込み炸裂するのは ほぼ同時だった。
「ふぐっ」
弾けた霊力が天子の意識を寸断し、きりもみしながら堕ちていく。
「問答無用よ」
さらに紫から放たれる高速の弾幕。
なんとか意識を取り戻した天子は、腕を交差し来るべき衝撃に備えることしかできなかった。
「~~~~~~~~~~~~~~~!!」
空気を震わす音が無数に響き、天子は悲鳴を上げながら森の中に墜落した。
盛大な砂埃を上げながら、地面に長い帯状の後をつけて、ようやく止まる。
「痛ったたた……なんなのよぅ……」
全身をしたたかに打ち据えてしまった。天子は勢いよく起き上がると、紫を睨みつけた。
「いきなり何すんのよ!」
「てっきりこの前のアレで懲りたと思ったのに。天人は天人らしく天にいなさい。それとも、まだお仕置きが足りなかったかしら?」
紫は天子の頭より高い位置まで降りてくると、扇子を天子に向ける。
「あんた何様のつもりよ。この比那名居天子にお仕置き?」
天子は赤い霊力を纏った掌を紫に向ける。
「まったく天に唾吐く傲慢ね」
天子の前に石が出現し、光線を無数に発しながら回転する。
しかし紫は防御用結界を張り、光線を難なく弾く。
「あくまで地上に固執するか天人」
紫は腰掛けているスキマを消し、地上に降り立つ。
「固執するわけじゃないわ。あたしはあたしのしたいことをするだけよ」
「まったく高慢ね。貴方は天人の自覚がまったく無いわ」
紫は扇子を出現させたスキマに送り、代わりに純白の日傘を取り出した。すぅと傘の先端で空間に切れ目を入れる。
「仕方ないから教えてあげるわ。再びの敗北という言葉をもって」
傘の切っ先を天子に向けて跳ね上げる。空間が避け、そこから弾幕が光の尾を伸ばしつつ飛び出した。
「この前の敗北は偶然が良い方向に重なっただけだってことを思い知るがいいわ!」
天子はそれら弾幕をかするようにかわしながら、紫に肉薄する。
呼気を吐く。
加速と全体重を乗せた両手で思い切り紫を突き飛ばす。
「……甘いわね」
が、それは紫が展開した防御結界を強く叩くだけに終わった。
すかさず防御結界の内側から天子に向けて傘が突き出される。
「うわっ!?」
正確に眉間を狙った突きを後ろに飛んでギリギリ避ける。
「このぉ!」
手を地面に着き、足に霊力を込めながら蹴り上げる。
地面から先端が尖った石が回転しながら紫めがけて飛ぶ。しかし紫は顔色一つ変えず傘を石の回転に合わせ、何事も無かったかのように地面に落とす。
天子は驚愕しながら紫との距離を取ろうと上空に飛ぶが、紫の弾幕による追撃にさらされる。
「逃がさないわ」
紫も地面を蹴って天子に追いすがる。
天子は嵐のように降り注ぐ紫の弾幕を避け、かすりながら反撃を試みるが、弾幕の量に押され始める。
「これくらいじゃ……負けないから!」
天子は声を張り上げた。紫に負けたくない。それよりも、あの巨大な影の正体を突き止めるまでは倒されるわけにはいかないのだ。
緋想の剣さえあれば、という思いが身を焦がす。
そんな天子を見ながら紫は不満そうに目を細めた。
「貴方は……」
いきなり紫の弾幕が止む。
「ん……?」
天子は構えを解いて、しかし警戒は解かずに紫を見た。
「どうしたの? 心変わり?」
「いいえ。ちょっと聞いてみたくて」
「何を」
「貴方は、本当に天人なの?」
紫の疑問符が、天子の心を抉り込んだ。
「な、何をいきなり。どこからどう見ても天人よ」
天子は動揺する心を出さないように勤めて答える。
「いいえ。格がないわ」
断言する紫。
「格、って」
「肩書きがつくにはそれ相応の理由と格がある。でもね、貴方は天人という肩書きには相応しくはないわ」
相応しくない。
同じ言葉をどれだけ投げつけられてきたことか。
曰く、天人として相応しくない。
曰く、天人としての格が無い。
嫌な記憶が蘇る。
天子は胸の内側をこねくり回されるような不快感を顔には出さないようにして、無理やり頬を吊り上げた。
「そんなもの、いらないわ」
いびつな笑顔のまま、紫に鋭い視線を送る。
「必要、ないから」
――望んでも、手に入らなかったから。
片足で大地を軽く蹴ると、石が4つ地面から出現し、天子を守るように周囲を回転し始める。
天子は石たちを纏わり付かせたまま、地を這うように低く飛び、紫へ猛然と突進する。
「……そう」
一瞬だけ、紫の唇が忌々しげに震えた。だがそれがどうしたというのだ。
「……!」
天子は低く唸るように呼気を吐き出しながら、紫の懐へ潜り込む。
紫は傘で地面をなぞる動きをする。
「くっ!?」
突然、天子の足元から紫の弾幕が襲いくる。が、天子は回転しつつ紫の脇に回りこみ側面に蹴りを叩き込む。
紫は防御結界を張り、天子の足刀を弾く。しかしそれでは終わらない。
天子は纏っている石を全て紫の防御結界に打ち込んだ。螺旋を描く軌道で石たちは紫の防御結界を削る。霊力同士がぶつかり、空気が弾ける音が何度も鼓膜を揺らす。
「まだ!」
さらに紫に向けて赤い霊力の光線を射つ。
紫の表情に焦りが見えた。けれども防御結界は破れない。
――ならば。
天子はスペルカードを切る。
緋想の剣が無い今でも使えるものはある。
――『天気』――
「緋想天促!」
周囲の気質が凝縮され、紫に向けて膨大な量の赤い玉状弾幕が浴びせかけられる。
「いけぇぇぇぇ!」
怒涛の如く。紫の防御結界が澄んだ音を立てて破壊され、赤い濁流に飲まれて見えなくなる。
勝った。
スペルカードの効果が切れる。
赤い弾幕にさらされた場所には果たして紫の姿が、
「いない……?」
そこには弾幕に削られた地面があるだけで――否、中に黒い空間を孕んだスキマがゆらりと掻き消えた。
「橙。来なさい」
『はい紫様!』
紫の声が背後から聞こえた。直後、スキマから何かが飛来する。
「なんっ……」
なんで、と言いながらスペルカードを切ろうとするが、霊力を纏い回転する大きな何かにスペルカードを破壊された。
それは勢いを衰えさせず天子に向かって突撃してくる。
目の前に防御用の石を出現させ、それの軌道をずらし直撃は避けるが、紫が放ったクナイ型の弾幕が既に目の前に展開されていた。
天子は必死になってそれらを避ける。
無数のクナイが天子の頬とスカートに傷を残す。
弾幕を抜けた。その先に、紫が待ち構えるかのように立っていた。
「貴方は天人としての自覚が足りないわ。それをもう一度良く考えなさい」
それは責めるような、けれど懐かしさも感じる静かな口調だった。
紫の両手が桃色の燐光を帯びた。
紫のスペルカードが切られ、紫と天子の間に霊力が圧縮された。
見上げるほどの巨大な四つ重に折り重なった結界が現れ、高速で回転しながら周囲のものを吸い込みだした。
それは咄嗟に空中に逃れようとした天子も例外ではなく。
「私だって……頑張ったんだ……」
天人として精一杯振舞おうとしたあの頃の気持ちが、一瞬だけ頭の中をよぎった。
抗えない。眼前に迫る結界。
――そこで、天子の意識は途絶えた。
(4)
地子という名前を捨てたのは、身も心も天人になるためだった。
天人は優しく、強く、誰からも愛される徳と格を持った人たちだ。早くそうなりたくて、名前を変えた。
本来ならば、厳しい修行の結果到達することのできる天人に、何の努力も無しになってしまったことへの負い目はあったから。
だから必死に学問を勉強したし、自分の力と存在を誇示するようにした。
だから天子にとって、天人になったばかりの頃は勝負の日々だった。
ここにいる、と。比那名居天子はここにいる、と。一人天界で叫び続けるように、誰にも負けないように。
けれど、そうやって天子が一生懸命努力すればするほど、天子の周りから人は離れていったのだった。
ある少女の言葉が蘇る。
『天子ちゃんは、あの……不良天人って、お母さまがおっしゃってたから』
誰も、頑張った天子を認めてはくれなかった。
「どうして……あたしは天人になりたかっただけなのに……みんなに好かれたかっただけなのに……」
天人の格無く天人と為った比那名居天子は結局、誰からも天人と認められていなかったのだ。
だから、自分の居場所を地上に求めたのかもしれない。
結局。地子から天子にはなれなかったのか。
でも、それでも……
――目が覚めた。
「起きたかしら?」
紫の声音が耳元で聞こえた。
「ひっ!?」
天子はエビのように勢いよく跳ね上がり、紫から距離を取った。じゃ、と砂利が音を立てる。
河原だった。
ここはきっと、まだ妖怪の山の中だろう。目の間には優しげな音を奏でる沢が流れている。先ほどまで紫と戦っていた場所から移動してきたらしい。
「やっぱり天人なだけあって頑丈なのね」
紫が意地悪く笑う。
天子の額に張り付いていた濡れた布が地面に落ちた。
「……介抱して恩でも着せたつもり?」
「あら、心外だわ」
紫は空中に出現させたスキマに腰掛けると、中から白磁の茶器を取り出した。どういう理屈か、既に中からは湯気が出ている。
「貴方もどうぞ」
「うわ?」
目の前にスキマが現れ、そこからにゅぅと白磁器を持った紫の手が出てきた。
反射的に受け取ってしまう。
「あ、おいしい」
ふわりと花の香りが広がる茶だった。落ち着いてしまいかけたところで、天子ははっと我に返る。
「介抱して、お茶まで出して、あたしを懐柔したつもり?」
「あらあら、心外だわ」
紫は天子から視線を逸らし、中空の一点を見つめた。
「何見てんのよ」
「あれを見せて貴方に恩を着せたかったの」
紫の言葉に、天子は疑問符を浮かばせたが、それはすぐに解消された。
「あ……」
山間から何かが現れる。というか、大きな何かが膨れ上がってきた。
「まさか」
「そう。貴方が天界を飛び出してきてまで探してきたものよ」
それはむくむくと大きくなり、全貌が明らかになった。が、天子にはそれをなんと表現していいか分からなかった。
「……なんだあれ……」
「あれは非想天則」
「非想天則?」
非想天則と呼ばれたものと紫を交互に見る。だが名前など、どうでも良かった。
「なにあれ。ふふ」
思わず吹き出してしまう。あれはまるで――
「風船ね」「風船だわ」
「製作者は河童。今度やる催し物の客寄せのようね」
紫はさらに詳しい非想天則の説明をしたが、天子の耳にはあまり入らなかった。
「なんだ……なぁんだ……」
正体を知ってみればたいしたことではなかったのだ。
自分は風船を見るために必死になって、戦って負けて、笑っている。
「は、はは……」
全身の力と、緊張が解けて消えそうだ。
非想天則はゆらゆらと揺れているだけ。ただそこに在るだけだ。何も考えず、何の意味も無い。けれど、こうやって見る者には何かを感じさせる。
こうやって過ごせたら、楽なのだろうか。
「そうすればいいんじゃないかしら?」
天子は紫を見た。まるで天子の心を読んだかのような台詞だった。
「心を硬く小さく閉ざせば、誰にも見向きされなくなる。けれど大きく広く持てば誰かが見てくれるでしょう」
「……そうかもね」
非想天則を見て思う。ただ大きくそこに在るだけで、存在を知ってもらえる。それだけのことに自分は気づいていたのだろうか。
天子が悩んでいたことは簡単なことだったのかもしれない。
「笑ってるのね」
紫に指摘され、反射的に頬を押さえた。
「…………」
「投我以桃、報之以李。あなたのその心を李としましょう」
紫は非想天則を見たまま、歌うように言葉を紡ぐ。
そのあまりにも唐突で、しかもそれこそまるで天人かのような言葉。
一瞬紫に反抗の意識が芽生えるが、非想天則を見ているとそれもなんだか間抜けな気がして、天子は今度こそしっかりと口の端を上げた。
「笑って許してあげる」
と、いつものように不適に笑うのだった。
精一杯の虚勢を込めて、薄い胸を張り、かつて地子が憧れた天子らしく。
(終)
(余談)
「貴方を見かけたとき、また地上に災害でも起こすのかとおもったけれど」
「そんなことしないわよ」
「……でも分かったわ。天子は頑張りすぎていたのね」
「え」
いつの間にか、紫がしっかりと自分を見ていた。
「今、名前……」
「誰にも認められなくて、それでも認められたくて、頑張ってきたんでしょう」
胸の中心を突かれた思いだった。しかし、
「何であんたがそこまで知ってんのよ」
「さっき天子が寝てる間に夢と現の境界をいじってチラっと見たから」
可愛いところもあったのね、と微笑む。
「なぁ……っ!?」
じゃあアレか。過去の悩みとか諸々を覗かれたのか。
「え、ちょ、なんで……え、え!?」
混乱しながらも、怒りが湧いて、あっという間に沸騰した。
「ななななんてことしてくれんのよー!」
「『あたしは天人になりたかっただけなのに……みんなに好かれたかっただけなのに……』」
天子の声色まで真似しだした。なんて妖怪だ。殺そう。
「きー!」
全身に霊力を纏わせ、紫に飛びかかる。
その光景をしっかりと文に撮影され、後日わざわざ『文々。新聞』を天界までバラ撒かれた挙句、衣玖に呆れられることになるとはこの時は思いもしなかったのだった。
(おわり)