#1
「Do you believe in telephone box?」
「Wha...?」
メリーが目に戸惑いの色を見せた。蓮子はメリーの目を見ずにずっとパソコンのモニターを見ている。机で頬杖を突きながら。メリーは少しの間何も言わなかったが、やがて蓮子に肩を寄せて息声で話しかける。
「That sounds strange」
蓮子は少し冷たさを感じさせる横目でメリーを見る。メリーは小さく息を吐いて目をつむり、口元を少し上げて続ける。
「私も一応英語圏出身なんだから、それなりに英語の使い方はわかっているわ。英語が得意なあなたが間違えるのは珍しいわね、蓮子」
「間違ってない」
蓮子は頬杖と横目のまま、小さな声で言う。
「教科書通りの例文で言えば、"believe in" は"存在を信じる"といった意味がある、ということぐらい私だってわかってる」
メリーは蓮子にさらに顔を寄せる。眉を少し潜めて。
「でもお化けの話をしているわけではないのよ。その熟語を使うタイミングではないわ」
蓮子は頬杖をやめてメリーに顔を向けた。隣の席同士の二人が見つめ合うような体勢になる。
「いいえ、お化けの話をしているつもりなのよ、私は」
蓮子はそう言って少し息を吸い込んだ。彼女の帽子がそれにあわせてわずかに揺れる。それから蓮子はもう一度、メリーをじっと見据えた。メリーが笑みを消して少し困ったような表情を作る。
「なあに、あなたは今から私に内臓も凍るような怪談でもするつもりなのかしら?」
蓮子の顔にあやしい微笑が浮かんだ。
「それよりもなおタチの悪い話かもしれないわね」
メリーも蓮子もしばらく黙ってそのままにしていたが、やがてメリーはふっとそれまでの表情を軽く消した。それから涼しい表情を作り上げて、蓮子から目を離す。
「その話をするには、どうやら運も悪いようね」
メリーの視線の先にはワイシャツを着た中年の男が立っていて、二人を睨んでいた。
「その話はまた後でね」
メリーはそう言うとさっと蓮子から顔を離して机の先に体を向ける。蓮子は少しあっけにとられていたが、やがてゆっくりと体をスクリーンの方に向けた。
スクリーンの前に立つ学生が困ったような顔をして、目を教師と蓮子の間でうろうろさせていた。教師はもう一度蓮子を睨みつけてから、学生に続けるように目で合図した。学生は戸惑いを残しながら、半分近く終わったプレゼンを再開させた。教師は自分の席にどっかりと腰を下ろした。
蓮子は心の中で小さく舌打ちをする。まわりの学生は蓮子に視線こそ向けなかったが、その背中から明らかに蓮子を責めるような気配が漂っていた。春と夏を半分ずつ吸い込んだ太陽の光が窓からぼんやりと教室を照らす。窓際の蓮子はそれを右半身に受けて、モニターと睨み合いをする。前には小さな声で単調に英語のプレゼンを続ける学生と、椅子に座ってプレゼンを面白くなさそうに聞いている教授がいる。
学生のプレゼンは無線に関する話だった。無線の歴史についてひととおり語り、有線との差、有線と比べて何が良いかを話し、それからこれからの無線の可能性について述べる、ありきたりなものだった。固定電話は携帯電話にとって替わられたこと、そんなことを話されても何も目新しくはない。
内容も深くなかったし、プレゼンをしている男子学生も面白くなかった。そもそもこの英語の授業そのものが蓮子にとってはまったく心踊らせるものではなかった。授業が始まってから一ヵ月半、何も面白そうなことは起こらない。
退屈なプレゼンに蓮子は小さなあくびを漏らした。わざわざこんなプレゼンをするのは、評価を下げないためなのだろうか、と小さく心の中で疑う。確かに無難で特に文句をつけるところもない。それで(先生と)あなたはプレゼンを乗り切れたと満足することでしょうね――心の中で蓮子は皮肉の言葉を生み出す。
でもね、聞いているこちら側は退屈でしょうがないの。知っていることを語ってもらっても何も面白くないの。ニュースキャスターよりも感情の乏しい声で話されてもわくわくしないの。そうやって日々を生きることが私にとって許しがたいことなの。
けれどそういうことを蓮子はモニターに書きつけることができない。だから蓮子は感想欄のところに細く、綺麗な文字でこう記す。「まわりのことを考えて発表をおこなってほしい」
#2
「それ」を見たのは前日の夜だった。雲に隠れて月も星も見えない、真っ暗な空が夜にぽっかりと浮かんでいた、そんな日にひとりでいた夜だった。家のインスタントコーヒーがちょうど切れてしまったので、夜中にそれを買いにいく途中だった。
家から店までの間にはマンションが立ち並ぶ区画がある。そこにちょっとした空間がひらけていて、何もない場所があった。ときどき子どもがそこでボールを蹴って遊んでいるくらいの小さなスペース、ベンチも木も立っていないような場所。街灯もそこから遠く離れて、普段はうすぼんやりとした空間。
店に行こうとその空間に入った蓮子は何かがいつもと違うことに気がついた。広場の隅に小さな白い明かりが見えていたからだった。そしてその白い光を覆う何かがうっすらと見えていた。広場の真ん中くらいまで歩いて「それ」が何なのかが判別できた。
「それ」は電話ボックスだった。そこにひとりで佇む無機質な電話ボックスだった。天井に取りつけられた白い蛍光灯に照らされておぼろに光る電話ボックス。薄汚れているガラスから中が見えて、そこには古びた緑色の機械が置いてあった。緑色なのに、そこには色彩がないように蓮子には思えた。電話ボックスだけが何もない空間に佇む風景、白い蛍光灯に冷たく照らされたその機械の存在。
いつの間に立ち止まっていた蓮子の肌にうっすらと冷たいものがのぼった。小さく身震いして蓮子は自分の体を抱きすくめる。ちょうど冷たい風が蓮子の帽子を揺らしたように。
薄気味悪い――蓮子はそう思う。ぬくもりのない白さが無機質な緑を照らしている、その色彩。そこに人の気配すら感じさせない生の薄さ。まるでこの世のものではないようだった。どこか真っ暗な闇の中から白い腕が一本だけ現れているような、そんなものを見ているような気がした。黒い靴を動かして蓮子はそこから離れ、お店に向かった。
けれど、帰りでもそれはただそこに存在しつづけた。何の意思も理由もないように見えた。再び通りかかった蓮子はそれを再び見て、逃げるように家に帰った。玄関のドアを閉めても、自分の小さな胸がとくとくと刻むように鼓動を打っていたのがわかった。頬に冷たい汗が伝っていた。
蓮子は靴を脱いで自分の家にあがり、ダイニングテーブルに買ってきたばかりのインスタントコーヒーの袋を投げ出した。部屋の中は少し寒くてしんとしていた。ダイニング以外に部屋の明かりはついていない。ぼんやりとした明るさが蓮子ひとりの家を包みこむ。蓮子は帽子を手に取り、それをゆっくりとダイニングのテーブルに置いた。それから静かな唸りを立てる冷蔵庫に近寄りって静かに扉を開ける。発泡酒の缶がひとつ、それから翌日の食材がいくつか、ミネラルウォーターが入っていた。
蓮子は発泡酒の缶を取り出して扉を閉めた。それからインスタントコーヒーの置かれたダイニングテーブルについてゆっくりと息を吐く。それから一気に酒の缶を開けてそれを喉に押し込んだ。冷たい酒が喉からまだ鼓動を打つ胸を通り抜け、胃に落ちていくのがわかる。そしてすぐに、ダイニングとキッチンの風景がゆっくりと回りだす感覚に陥る。何度飲んでも蓮子は酒に慣れなかった。けれど、その日はそういう感覚が必要だった。
私は何を見てしまったのだろう――ぼんやりと蓮子は思う。この世のものではない何かを見てしまった気がする。たとえばそれは怨霊とか未確認飛行物体とか、そういう類のものではなくて、亡霊――そう、意思もなくそこに留まる亡霊。私が見てしまったのはそういうものだ。そしてそういうものはきっと見てしまってはいけないものだったのだろう。
そこまで考えて蓮子の意識が途切れはじめた。あっという間に酒が蓮子の体を眠りへと誘いはじめた。ふらふらと蓮子は立ち上がり、ダイニングから離れてベッドに倒れ込んだ。世界が回りつづける中で蓮子はそのままベッドで意識を失って、眠りに落ちていった。酒を飲んだのはあの日以来だ――と意識を失う直前に蓮子は思った。夢なんて忘れてしまった、あの日。
酔いのまわる眠りの中で、何か夢を見た。けれど蓮子はそれを自ら忘れてしまった。
翌日目が覚めたとき、もう「それ」の姿は蓮子の中でおぼろになっていた。寒気を引き起こす妙な感覚も、亡霊のような意思の欠乏も、実感としてはなくなっていた。
#3
黄色い太陽が緑の葉を照らして、カフェは心地よい黄緑色で満たされていた。テラスのテーブルでメリーは足を組んでココアフラッペをスプーンですくう。それを待ち望んでいた口の中に運んで静かに目を閉じた。
「冷たい――」
まぶたを開けてメリーはにっこりと笑う。蓮子はメリーのフラッペのグラスを見つめたままメリーに問いかける。
「私の話を聞いていたの?」
メリーは蓮子の前に置いてあるコーヒーのマグカップをスプーンで指しながら答える。
「もちろん、聞いていたわ。今ではもうどこにもあるはずのない、亡霊のような電話ボックスの話。別に忘れてもよかったのでしょうけれど、どうしても気になって私に話したというわけね」
蓮子は指されたマグカップに視線を移す。マグカップには口をつけたようなあとがない。なんとなくコーヒーを頼んだが、蓮子はそれを飲むような気にはなれなかった。視線を固定したまま蓮子はまたメリーに尋ねた。
「どうすればいいのかしら?」
「あなたが発泡酒を飲んで寝たというのなら――」
そう言ってメリーはいたずらっぽく目を細める。
「今度はワインを飲んで寝るのがよさそうね。べろんべろんに酔っ払って記憶も吹っ飛んでしまいそう」
蓮子は黙ってマグカップを見つめつづける。蓮子にはメリーの提案も、ひとつ悪くはないように思えた。かちゃり、という音がした。蓮子が目を上げるとフラッペのグラスにスプーンが入っていて、メリーが冷たさの滲む目で蓮子を見ていた。
「本当に忘れてしまいたいの?」
「……できれば、そうしたいのかも」
蓮子はそう答えてマグカップに手をつけ、コーヒーを一口、ごくりと音を鳴らして飲んだ。ブラックの苦味が蓮子の口の中に広がって、蓮子は少し顔をしかめた。メリーは小さくため息をついて、グラスの中のスプーンを指でいじりはじめた。ちゃり、ちゃり、と涼しい音が蓮子の耳に響く。
「……いいのよ、お代わりを食べても」
蓮子は苦笑いをして言った。メリーは蓮子の顔を見て、またにっこりと笑う。
「ありがとう」
そう言ってメリーは優雅に立ち上がった。風に髪がふわりと揺れて、甘い香りが蓮子の鼻先に届けられる。こつこつと軽快な音を立ててメリーはカフェの屋内のカウンターへ向かっていった。
メリーの後ろ姿を見ながら蓮子は頬杖をついた。
忘れてしまいたいと言われればそうなのかもしれない、と蓮子は思う。昨日は無意識にでもお酒を飲んで眠りに入ったということは、やっぱり自分の中ではそういう気持ちがあったのだろう。少し寒い夜に見た、ぼんやりと白い不気味な亡霊のことを、覚えていたくなかった、たぶんそれも本当のこと。それなのにメリーにこうやって亡霊のことを話して、また思い出しているのも本当のこと。
矛盾が自分の中に潜む。それは私が今まで生きてきて何度もあったことだけれど、片方に理由のない行動が伴っているのは初めてかしら。どうして私は昨日の話をメリーに話しているんだろう。一方では忘れてしまいたいと思っているのに。
あるいは私の意識に現れない明確な理由が、あの亡霊を私の中で生かそうとしているのかしら。
そこまで考えたところで、メリーがストロベリーフラッペを持って蓮子のいるテーブルに戻ってきた。蓮子は頭の思考を掻き消した。
「おかえり」
「ただいま、蓮子さん」
メリーはにっこりと笑って椅子につき、唐突に蓮子に切り出した。
「賭けたのでしょう?」
そう言ってメリーはフラッペを口に入れた。唐突な問いに蓮子は思わず聞き返す。
「どういうこと?」
メリーが答えようとして口を開きかけ、それから急に目をつむって顔をしかめた。
「冷たっ」
両手で頭を抑えながらメリーはもう一度言った。
「すごく冷たいわ」
「あのねえ」
蓮子は頬杖をついたまま、思わず苦笑いする。
「まだ夏にもなっていないこの季節にフラッペをそんなに食べたら、頭も痛くなるわよ」
メリーが冷たさに悶えている間、蓮子はまわりを見渡す。二人のそばを別の学生が笑いながら過ぎていった。向こうでベンチに座っておしゃべりをしている人もいる。木陰で一人パソコンを開いている人もいる。五月半ばの暖かい光に包まれたキャンパスはどことなく気が抜けたような光景。その日常の風景の中に自分もいるということを、蓮子はぼんやりと感じた。
やがてメリーはふうと息をついて、口を開いた。
「冷たくてもね、おいしいものは食べたいのよ。ほら、蓮子も一口食べる?」
メリーは蓮子の目の前にフラッペの乗ったスプーンを差し出した。蓮子は微笑するメリーの顔に向けてため息をついた。
「いいわよ、私は食べなくても」
「ほら、そんなこと言わずに」
メリーは強引に蓮子にスプーンを押し付けようとした。蓮子は怪訝な顔をしつつ、口を開いてスプーンを入れた。次の瞬間、口から鋭い冷たさが喉を通り、そのまま脳を刺すように走り抜けた。
「冷たい!」
蓮子は思わず小さく叫び、こめかみを押さえて小さく悶絶した。メリーはふふっ、と笑ってスプーンをグラスに戻し、蓮子が冷たさと戦うさまを眺めていた。そしておかしそうな表情のまま言った。
「今のあなたもそう、そのフラッペのように冷たいの」
蓮子はうっすらと目を開く。視界の先には微笑を口に浮かべたメリーがいる。けれど蓮子にはわかる。その微笑の先には寂しいものがあること。
「私に対して冷たいのよ、あなたは。もしかしたらそのフラッペよりも、もっとね。ううん、蓮子、怒っているわけじゃないの。ただ、私のことをもう少し信じてくれてもいいと、私は思っているのよ」
冷え切った口、痛む頭の中、メリーの言うことを蓮子なりに秩序づけていく。メリーの言葉の裏に隠された言葉の意味を知ろうとする。
「私の話を信じているの?」
蓮子は寂しそうに笑うメリーに問いかける。メリーは少しだけ首を傾けた。メリーの耳にかかる金色の髪がさらりと流れる。
「あなたの話も信じているわ」
メリーはふんわりとした声で言う。
「正確には、あなたを」
そしてメリーはスプーンを手に取り、またフラッペを口の中に運んでいった。またその冷たさに顔をしかめる。蓮子は小さく息をついてメリーを眺める。冷たさはもう蓮子の体から引いていた。その代わりに不思議な感覚が体を満たす。
やがてメリーは半分ほどフラッペを食べてしまった。すごいスピードね、と蓮子は心の中でつぶやいた。メリーはスプーンを手に持ったまま、蓮子を見つめた。ブルーの瞳が蓮子の目を見据えている。そしてメリーはゆっくりと口を開いた。
「私はあなたを信じている。そうやって私たちのサークルはできたのよ」
「秘封倶楽部……」
蓮子の口からサークルの名前がこぼれた。
「私もあなたも言葉はひとつも口にしなかったけれど、でもあの涙の中でそれを強く感じたはずなの。だから私はこうして今、あなたの目の前であなたの不思議な話を聞いている」
「でも、それとこれは……」
「“秘封倶楽部”という名前をつけたのは」
メリーは少しだけ身を乗り出した。
「あなたね、蓮子。サークル長も、あなた」
蓮子は開きかけた口を音もなく閉じた。胸の中にはそのときの光景がくっきりした映像となって蘇っている。そのとき確かに強く抱いた思いを忘れかけていたのかもしれない。蓮子が亡霊の話をしたのも、心のどこかにサークルの存在がまだ残っていたからかもしれない――。
蓮子はマグカップを手に取り、それから冷めかけていたコーヒーをぐっと一気に飲み干した。ぬるい感覚が喉から胃へと落ちていった。それから蓮子は大きく息をついて、にっと口元に笑いを浮かべて言った。
「行きましょう」
そして蓮子はカフェの椅子を引いて、マグカップを手に持ったまま立ち上がる。
「電話ボックスの不思議を探しに。私たちは秘封倶楽部……不思議を探すサークル、そうよね?」
立ち上がった蓮子の表情に、メリーもにっこりと笑った。
「楽しいことになりそうね」
メリーも残りのフラッペを一気に口に入れ、それからまた大きく悶えた。蓮子は思わず笑ってそれを眺める。やがてメリーの格闘も終わりを迎え、二人は容器をカウンターのそばに置いてカフェを離れた。
のんびりとした空気がキャンパスに流れている。ケヤキが暖かい太陽の光を吸い込んで、柔らかい緑を吐き出していた。キャンパスの中で急いで道を行く人はいない。誰もが軽い足どりで歩いていた。そしてその中を蓮子とメリーも歩いてゆく。
「ねえ」
蓮子は前を向いたまま、後ろを歩くメリーに話しかけた。
「なあに?」
「今回の調査が終わったら、私の家でご飯を食べない? 食材が少し余っているの」
少し驚いたような、そんな空気がメリーから流れてきた。けれど蓮子にはすぐにメリーが素敵に笑うのが、見なくてもわかった。それは肯定のサインだった。蓮子は帽子をもう一度かぶり直した。
これが最初の秘封倶楽部の活動。最初の不思議探し。そこで私たちは何を見るんだろう。私たちはどうなるんだろう。蓮子はすうと息を吸い込んで肺を空気で満たした。胸がどきどきと鳴るのを強く感じた。
#4
けれど、電話ボックスは無かった。昨日あったはずの場所は何も抱えていなかった。工事で取り除かれたような跡もなかった。何も無いところにはやはり最初から何も無いように振る舞っていた。ただの空間になっていた。
ただ、電話ボックスのあった場所には唐紅の花びらが一枚だけ落ちていた。
「そんな」
ふらり、と視界が揺れたような気がした。頭が回転を止めてしまったようだった。蓮子の足から、腕から、そして胸の奥から体中の力が抜かれてしまう感覚に陥った。太陽の光に照らされた空間には確かに何も存在していなかった。何かがぽっかりと大きく抜けてしまったはずなのに、その穴はどこにも見えない。
「どうして」
蓮子は体を屈めて電話ボックスがあった場所を探した。存在した証を求めて、空間の中をさまよった。けれどどこを探しても無かった。そればかりか昨日存在していた位置も、蓮子の記憶の中から消しゴムで消したように薄れていた。
「おかしいわ……昨日までは確かにこのあたりにあったのよ」
蓮子は何度も何度も同じ場所をめぐった。けれどいくら探しても無かった。それで終わりだった。むしろ探せば探すほど、見つけようとしたものが遠ざかっていく。胸の内の穴が大きくなっていく。それが心臓にまで届いてしまう気がする。
胸に空いた穴で呼吸がうまくできないまま、蓮子は屈めていた体を起こした。空間の縁にメリーが立っていた。何も言葉を口にしなかった。蓮子の方も見ていなかった。ただ青い目でどこか遠くを見ていた。傾きかけた太陽の下で彼女の金色の髪が煌めいた。
蓮子は大きく息を吸って、それから少し吐き出した。
「メリーには――」
佇むメリーを見る蓮子から余裕が消えていた。
「メリーには見えるの? 私には見えない電話ボックスが」
メリーはしばらく遠くを見ていたが、やがて首を小さく、ゆっくり横に振った。
「いいえ」
「そんな」
蓮子の口調が少し強くなった。
「見えないの?」
メリーの視線が遠くから蓮子のように向けられた。そのとき、メリーの目がすっと冷たくなったように、蓮子には感じられた。
「いいえ、電話ボックスは見えない」
蓮子はもう一度言葉を投げようとしたとき、五月中旬の風が大きく二人を吹き上げた。蓮子の帽子が飛ばされそうになり、蓮子はあわててそれを抑えつけた。その風の勢いで遠くにある木々がさざめく音が響く。
そのうちに風が吹きやんだ。蓮子は寂しく笑った。
「ごめんなさい。少し動揺してた」
そう言って蓮子は自分の帽子を外し、力のない目で左手に持った帽子を見つめた。黒い髪がそよ風に流れる。メリーはその蓮子の姿をじっと見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがてメリーは蓮子のそばに寄って、言った。
「私に謝らなくてもいいの」
蓮子は顔を上げてメリーの顔を見る。少しだけ背の高いメリーの顔に笑みは浮かんでいなかった。ただ真摯で冷たいその瞳の光が蓮子の目を射抜く。ぽっかり空いた蓮子の胸の内側がうずいた。
「あなたは、どう思うの?」
蓮子はびくり、と小さく体を震わせた。両腕で腕組みをする。余裕の態度を作るはずだったのに、その腕には信じられないほどの力がこめられていた。蓮子はメリーから目をそらし、何も残っていない地面を見つめる。
胸の内で、からからと紙くずのような思考が渦巻いていた。蓮子はメリーの問いに答えられない。今の心で答えてしまったら――と蓮子は思う。虚無に満たされた心で答えてしまったら、私は間違いなくメリーを責める。口を開いてしまえば、抑えられない冷たい言葉の奔流がメリーを押し倒そうとする。メリーがそれを聞いてどう思うだろう。責めた私をもっと冷たい目で睨みつけて、そのまま背を向けてしまう。それで終わってしまう……何もかもが、きっとそこで。
だから蓮子は何も答えられない。何も口にできない。
何もない空間の石畳を太陽の光が照らす。流れる風の音がかすかに聞こえて、だからこそその空間を静けさで満たす。ふと遠くで犬の遠吠えが響いた。蓮子の耳の中でその遠吠えと風の音が混じり、ふと蓮子は胸の中にある景色を思い出した。すぐにそれを打ち消そうと思うのだけれど、それは胸の奥に染み付いたまま残りつづけた。
#5
電話ボックスがいつ撤去されたのかは定かではない。そもそもいつ公衆電話のサービスをなくなってしまったのかもよくわからない。蓮子たちが生まれるだいぶ前に、電話会社がサービスを止めると言ったきり、実際に物理的撤去が行われたことについてはどこにも正確な資料がない。
電話ボックスの実物を蓮子が見たことは一度もない。見たのはかなり古いドラマや映画の中だけだった。鉄道とは違い、電話ボックスマニアなんてものもいないから、いくら調べても現存するものがあるかどうかはわからない。
電話会社がサービスをやめてしまった理由は、やはり無線の発達だった。無線の電波伝導率の向上で今では通信速度が有線のものより早くなり、物理的な経由地がかなり少なくなったからだ。
それに携帯電話の普及率が99.9%を超えた今では、もう電話ボックスがインフラとしての意味をなさなくなってしまった。ただ維持費が無駄にかかるばかりで、撤去する理由としては十分すぎた。誰もあることを望まないのだし、もう存在すら忘れはじめているものだから。
蓮子は自分の携帯電話をパソコンのモニターの前で見つめた。どうして自分が携帯電話を選んだかはよく覚えていない。気づいた頃には最初の携帯電話が自分の手元にあって、電話ボックスなんて人生で一度も使ったことがない。でも、携帯電話と電話ボックスを選ぶとしたら、間違いなく自分は携帯電話を選ぶだろう、と蓮子は思った。
「電話ボックス」という言葉を検索にかけても、出てくる結果は五千件程度しかなかった。そのどれもが十年以上前に作られたようなサイトの情報だった。最近のものを探しても、一件も検索にかからない。今となっては電話ボックスがあるはずがない――。
「あるはずがないのよ」
パソコンの画面から目を離し、蓮子は椅子の背もたれに寄りかかった。作業用の椅子がぎしっ、と不気味な音を立てて軋んだ。蓮子は目を天井に向けて大きなため息を吐いた。
「やっぱり私の勘違い。インターネットにまったく情報がないんだから、世界中のどこを探しても、電話ボックスがあるはずがないの」
そのまま蓮子は天井を見つめた。しばらくの間沈黙が続いた。それからダイニングテーブルでメリーがコーヒーを啜る音が、夕日の射しこむ部屋に響いた。メリーがごくり、と喉を鳴らしてから小さくつぶやいた。
「苦いわ」
そしてまた長い沈黙が部屋を満たした。
遠くで夕日が街の建物の縁にかかり、少しずつその姿を隠しはじめる。蓮子の部屋がぼんやりと藍色の闇に包まれていく。そして最後には太陽が建物の影に飲み込まれて、部屋はどっぷりと闇になった。パソコンのモニターが部屋の中をぼんやりと照らした。その闇が沈黙と溶け合って、たえきれないほどの重さを蓮子の心に感じさせた。
「夕食にしましょうか」
その重さをふりきるかのように、蓮子が立ち上がって沈黙を無理やり引き裂いた。蓮子が座っていた椅子がゆらりと揺れた。それから蓮子はダイニングに向かい、明かりの四角いスイッチを押した。
「和食だけどね」
部屋に明かりがついて、ダイニングが光で満たされた。
ダイニングテーブルに蓮子が作った夕食が並べられた。あさりの味噌汁と白米と刺身だった。蓮子はダイニングの椅子に腰掛けて言った。
「さあ、食べましょう」
「美味しそうね」
メリーは笑ってそう言った。蓮子は両手を合わせ、メリーもそれにならって手を合わせた。
「いただきます」
それから二人は箸に手をつけ、静かに食事を始めた。メリーは味噌汁を一口啜った。
「あら、本当に美味しい」
そう言ってメリーはにっこりと笑う。メリーは本当に素敵に笑えるのね、と蓮子は思った。その笑顔につられて蓮子も薄く笑った。
「ありがとう。喜んでもらえて嬉しい」
メリーは箸を進め、ときどき緑茶を啜り、器用に食べる。「こんなに料理が上手なら、すぐにお嫁に行けるわね」とメリーが言う。
「どうかしら」
蓮子は冷静に返した。
「いくら料理が上手でも、可愛さのかけらもない部屋に住んでいる人を嫁にもらおうと思う人がいるのかしら」
メリーはそう言われて、蓮子の部屋をあちこち見回した。蓮子の家には女の子の可愛さがかけらもなかった。生活感もあまり感じられなかった。生きるのに必要なもの以外、ほとんど蓮子の家にはものがなかった。パソコンと料理器具しかないようなものだった。殺風景な自分の家を眺めながら蓮子は言う。
「掃除が苦手だからね。ものをあまり多く置きたくないの」
「ふうん」
メリーは箸を口にあてて、小さく言った。それから白米を口に入れてそれをよく噛み、飲み込んでから子どもっぽく笑った。
「じゃあ、私が蓮子のお嫁さんになる」
その言葉に蓮子は飲みかけていた緑茶を噴き出しそうになった。あわててそれを抑え、少しむせながら蓮子は聞き返した。
「なんですって?」
「だから、私が蓮子のお嫁さんになるの。私は料理が苦手だけど、掃除は得意よ。蓮子と相性がよさそうじゃない?」
そう言ってメリーは無邪気に笑った。蓮子の胸にわずかな疑念が渦巻く。
「どうかしら……役割分担だけじゃ、夫婦というものはうまくいかないものよ」
メリーは蓮子をじっと見つめて、それから目を細めて首を小さく傾けた。薄い唇の色が部屋の明かりで淡く光った。青い瞳が透き通るように蓮子の目を見つめる。
「いいの。私、蓮子のことが好きですもの」
その声が部屋に甘く響き渡った。蓮子の口がぽかん、と小さく開いた。そのまま焦点の合わない目で蓮子はメリーを見つめた。メリーが何を言っているのか、少しの間整理ができなかった。けれどメリーの言葉を消化して、蓮子は苦笑いした。
「もう、冗談やめてよね」
そのまま蓮子は無理やりふふふ、と息を漏らした。そして自分の味噌汁を一気に飲み干した。お椀の向こうでメリーが少し寂しそうな表情を浮かべたような気もしたが、蓮子はそれを錯覚だと思い込んだ。
食後にもう一度蓮子は緑茶を淹れた。熱いお茶をすすりながら、メリーは湯呑みの中で蓮子に尋ねた。
「今何時?」
蓮子は自然の動きで自分の後ろにかかっている壁時計を見て答えた。
「6時59分ね」
メリーは湯呑みを静かにテーブルに置いた。それから目を細めて蓮子に言う。「クォーツ式」
「あなたの家の時計、クォーツ式でしょう?」
「え、ええ……」
突然の言葉に蓮子は少し戸惑う。かちり、と壁時計の針が秒を刻んだ。メリーは静かに自分の左腕をテーブルの上に差し出した。蓮子がその腕を見ると、メリーの白く細い手首には赤い時計が巻かれていた。
「私のは原子式電波時計」
蓮子は顔を上げてメリーを見る。メリーの瞳には何とも言えない光がたたえられていた。それからメリーは小さく笑った。
「さっきは19時01分02秒だったの」
蓮子の目がわずかに見開かれた。秒まで正確に言われて、自分の目のことを思い出した。星を見るだけで正確な時刻がわかる能力。蓮子はメリーから目をそらし、自分の湯呑みに沈んでいる渋い緑を見つめた。自分の顔がぼんやりとそこに反映されている。
メリーの言いたいことが何となく蓮子にはわかる。でもそれをそのまま受け取ることができないような気もした。これからメリーが話そうとしていることも、やはりそのまま自分として聞いていいのかも、よくわからなかった。
メリーはテーブルに肘をついて、自分の体の前で両手の指を絡めた。いつの間にかメリーの顔からは笑みが消えていた。ただひたすらにまっすぐ蓮子を見つめていた。
「あなたがそこで見たものは私には見えなかった……それは事実よ。でもね、何も見えなかったわけじゃないの。ただ電話ボックスが見えなかっただけなの」
静かな部屋にメリーの声が反響した。その響きがなんとなくゆがんでいるように蓮子には感じられた。音の波が複雑に絡んでいるような感覚だった。
「あそこには境界があった。それが私の目で見えたことなの。境界の向こうに何があるのかはわからなかったけれど……でもその存在は確かだったわ」
メリーはすっと目を細めた。
「夢なのかもしれない……あなたの言うとおり、錯覚だったのかもしれない。でもね、夢は見るものなの」
そう言ってメリーはうつむいた。蓮子からメリーの表情が見えなくなった。その青い瞳も薄い唇も。声の響きだけがメリーの言葉の重みを知る手がかりだった。
「夢は見る人がいるから、夢になる。見る人がいなければ、それはもう夢ではなくて……もう、最初から何も無かったことになってしまうの。夢を見た人が夢を否定してしまうというのは、そういうことなの」
メリーはそう言って息を小さく吸い込む。少しだけ吸音が震えているように蓮子には聞こえた。
「ねえ、蓮子、自分が見たものを信じてちょうだい……そうでなければ……寂しいじゃない……」
それきりメリーはうつむいたまま動かなくなってしまう。彼女の少しだけ荒い呼吸音が部屋の中で反響する。蓮子はメリーを見つめたまま、黙ってそれを聞いている。どんな言葉も、今の蓮子が言うには力が無いように思えた。ただメリーの言葉を、奥歯でゆっくりと噛み締めていくしかなかった。そこから溢れ出る苦い味が蓮子の胸を侵食していった。
#6
メリーは自宅に帰った。長い沈黙のあと、メリーは無理矢理に作った笑いを浮かべて、「もう帰らなきゃ」と言ったから。
玄関先でメリーは蓮子に体を向けて「また明日ね」と笑った。それからまた真摯な表情になり、蓮子をじっと見つめた。蓮子はその視線を真正面から受けとめた。メリーの蒼く澄んだ瞳が蓮子の胸の奥を突き刺した。
メリーは体の前で両手を組んでいたが、それを一度解いた。それから行き場をなくしたように両手が空をさまよったが、またメリーはそれを組み直した。そしてメリーはもう一度薄く微笑んだ。
「ご飯、ごちそうさま」
そう言ってメリーは蓮子の家の扉から出ていってしまった。蓮子は何も言葉を投げかけれられなかった。
玄関で蓮子一人だけが佇んでいた。メリーがその土間にいた気配をもう一度探そうとするのだけれど、そこにメリーがいたという証拠はどこにもなかった。
蓮子はメリーの立っていた玄関のドアを、鍵も閉めずにじっと見つめていた。メリーが一度解いた両手が本当は何を欲しがっていたのか、それをぼんやりと考えながら。
メリーのほっそりとした白い手は、できることなら私の手を握ろうとしていたのかもしれない。少し冷たそうな手はきっと私の手よりはあたたかいに違いない。蓮子は自分の手が異様に冷たくなっているのを体の芯で感じていた。まるで自分の手が熱を欲しがっているかのように。
ふう、と蓮子は大きく息をついて玄関の鍵を閉め、ダイニングへと向かい、食事の片付けを始めた。自分の足音と皿が触れる音だけが部屋に響いた。メリーがいなくなってしまったダイニングは思いのほか色彩を失っていた。
皿洗いが終わり、蓮子はインスタントコーヒーを淹れて、ダイニングの椅子に腰掛ける。ポケットから携帯電話を出して、それをダイニングテーブルに投げるようにして置いた。
コーヒーを一口飲んで、それから左手で蓮子は自分の携帯電話を手に取る。無意識のうちにそれを操作して「メリー」という人物の連絡先を開く。メリーの笑顔と電話番号がそこに大きく表示された。
ふと、メリーに電話をかけようと蓮子は思った。けれど、すぐにその思いを打ち消し、蓮子は携帯電話から手を離した。さっきまで一緒に食事をしていたばかりの人と、何を話せばいいのかわからなかった。だから通話ボタンを押すことが蓮子にはできなかった。
窓の外では暗闇が世界を覆い、人々は皆家にいて食事をしていたり自分の時間を過ごしたりしている。それなのに、蓮子はひとり静かな家の中でコーヒーを啜っている。本当に彼女が生きている以外、何の音もしなかった。メリーが自分の目の前にいないことが、強烈な喪失感を伴って蓮子に感じられた。そこにいるべき人がいない寂しさ――蓮子は手を伸ばして空を掴んでいた。それから小さくため息をついて手を下ろす。
どうして電話ボックスが――たとえメリーのいう「夢」だったとしても――蓮子はどこを見るでもなく思った。どうして電話ボックスが自分の前に現れたのか。その意味を簡単に知ることはできない。それは蓮子もよくわかっている。でも、きっとそれは自分が今、携帯電話に手を伸ばして「通話」ボタンを押せなかったこととつながっている、と蓮子は思う。
携帯電話など存在しなかった昔の人はどんな思いを電話ボックスに託していたのだろう? どんなことを伝えたくて電話ボックスに入っていたのだろう。あるいは電話ボックスを発明した人は、いったいどんな思いでそれを創り上げたのだろう?
ある映画の中で電話ボックスが使われたことがあった。それはとても身近、けれど壮大な人間模様を描き出す恋愛のドラマだった。日本のものではなかったと思う。もう遠く昔の映画だった。
その電話ボックスの中に入るのは女性だった。夜の闇の中に白くはっきりと浮かび上がる電話ボックスのガラス戸を開け、その女性が入っていく。少しの興奮と走ってきたせいで息があがっている。女性はそこでひとつ大きく息をついてテレフォンカードを取り出し、緑色の電話ボックスの中に入れた。それから彼女は自分の恋人の電話番号をゆっくりと押していくのだ。
冬の冷たい空気の中で女性は男性としばらく話をする。そのまま映画のカメラは電話ボックスから晴れた星空を映しはじめる。二人が何をしゃべったのかわからぬままに。
きっとしゃべった内容などどうでもよかったのだろう、と蓮子は推測する。話している内容なんてきっと彼女と彼の間で覚えているわけがない。そうではなくてあの夜空の下、彼女が電話ボックスに入って、恋人と電話をする――それだけがあのシーンのいちばん大切なところだったはずだ。
でも、どうしてそれは恋人自身ではなかったのか、どうしてわざわざ電話ボックスで会話をしなければならなかったのか。その必然を、その意図を蓮子は見いだせない。
リビングのカーテンのすき間から星と月がちらりと見えた。蓮子は自分の目で時間を刻む。20時17分08秒――蓮子の腕時計とは二分ほどの誤差があった。
蓮子はふっと息を吐いてダイニングのテーブルから立ち上がった。もう一杯新しいインスタントコーヒーを飲むために。
#7
蓮子は夢を見る。
「蓮子」は自分がメリーだということを知っていた。そして自分がメリーになっていることに何の疑念も抱かなかった。夢の中で「蓮子」は自分が蓮子だと一度も自覚しなかった。自分はメリーでしかないと思っていた。
そしてメリーになっている「蓮子」が立っているのは、あの電話ボックスがあった場所だったが、やはりそこに電話ボックスはなかった。ふと空を見上げると、満天の星と月が落ちてきているように感じられた。激しい光を投げかけながら、メリーである「蓮子」を照らす。
時刻はわからなかった。「蓮子」はメリーで蓮子ではない。かわりに彼女には境界が見える能力が備わっている。「蓮子」は空から視線を落として、電話ボックスのあった場所をじっと見つめた。ふとした予感が胸をよぎり、「蓮子」は自分の目で境界を見つけ出そうとした。
そして境界は見えた。電話ボックスのあった場所に、確かにこの「蓮子」がいる空間と向こう側の空間を隔てる、ひとつの薄い境界が。ガラスとも違う、透明な膜とも違う、細い線とも違う――ただの境界。境界の向こうには白い光がぼんやりと満ち溢れていた。
そして境界を見ようとしなければ見えなかったものが、境界の向こう側に見えた。「蓮子」はそれを見て小さく息を呑んだ。そこにあったのは電話ボックスだった。蓮子が見たと言っていた、あの古い電話ボックス。けれど「蓮子」は懐かしさも感動も覚えない。ただその不思議な光景に目を奪われているだけで。
電話ボックスの中には誰かがいた。けれどその人の姿は霞がかっていて、はっきりとした輪郭も表情も見えなかった。白い光のなかでぼんやりとした黒い影が揺れている。わかることはその影が帽子をかぶっていることと、たった今この瞬間、電話で誰かと話していることだった。その話し声も境界の向こう側で遮断されているらしく、「蓮子」の耳元まで音の波が伝わってこない。
「蓮子」はその影をじっと見つめていた。小さく鼓動する胸を抱えたまま、背筋を伸ばして立っている。自分が何を考えているか「蓮子」にはもうよくわかっていない。ただ目の前にある光景が今のすべて。
どれほど時間がたったのかはわからない。それほど長い時間ではなかったように「蓮子」には感じられた。影が電話を終えて受話器を置く動作が見えた。「蓮子」の胸が少し高鳴りはじめる。それはこれから出てくる影への不安ではなく、期待。
「蓮子」は自分の胸に両手をあてた。少し大きな膨らみが手の中でせわしなく上下する。不思議な感覚だった。それはまるで自分ではない誰かがそうしているように。あるいは自分の知らない自分がそうしているように。
影が電話ボックスのガラス戸の取っ手に手をかける。その手の輪郭や色が「蓮子」にはっきりと見えた。小さめでほっそりとした指を持っている。それはどこかで見たような手だった。「蓮子」はその手に触れたいと衝動的に思った。
ゆっくりと影はドアを開き、そして足が電話ボックスを覆っていた境界を踏み越えた。「蓮子」に見えたのはその足を覆う黒いローファー、そこから視線を上げて細い上半身を包む白いシャツ、胸元で結ばれた赤いネクタイ、そして最後に頭の上に載せられた黒い帽子。
「宇佐見さん」
遠くから聞こえた太い声で蓮子の意識が一気に身体へと引き寄せられた。蓮子は重いまぶたをゆっくりと引き上げた。その視線の遠く先にはメリーがいて、そのもう少し奥には中年の男が立っていた。二人がいるということはわかったが、どうしても焦点が合わなかった。視界がぼやけていて、頭が痛んだ。蓮子はその世界を少し気味悪く思った。
「今日は言わせてもらいます。あなたのその態度はないでしょう。ハーンさんが発表しているのに、うたた寝をするというのは失礼にあたるというものです。ハーンさんも困っているでしょう」
自分が今意識を手放して夢の中をさまよっていたということに蓮子はようやく気づいた。少しずつ目の焦点が合うようになってきた。頬杖をついていた左頬が痛んだ。重い右腕を上げ、蓮子は帽子を少しずらす。まわりからくすくすと低い笑い声が漏れてきた。何が面白いのかしら、と蓮子は回らない頭で思った。
男はやがて蓮子から目を離し、またメリーの後ろの席にどっかりと腰を下ろした。メリーは一度教師を見て、それから蓮子を見た。まわりの人がモニターに目を下ろしたのを見はからって、メリーは蓮子に軽くウィンクした。
「いいのよ」
メリーが声を出さずに唇を動かしたのが蓮子には見えた。
ああ、と蓮子は思った。そういえば今日はメリーのプレゼンの日だった。本当は聞いていたいけれど、でも今日は限界みたい。蓮子のまぶたがまたゆっくりと下がっていく。
授業後に出す要約はあとにしよう。きっとメリーがどう書けばいいのか、そのときにこっそりと教えてくれるから。だから今はうたた寝に戻ってしまおう。
今度は右手で頬杖を付き、蓮子は音もなく目を閉じた。メリーが意識の向こう側で何かを話しつづけている。蓮子が意識のかけらで聞き取った言葉は「Story of Dream」という英語だった。
「どうしてそんなにおねむだったの?」
メリーはおかしそうに笑いながら蓮子に尋ねた。「すごく気持ちよさそうに舟を漕いでいたわ。見ている私が羨ましくなるくらい、素晴らしいうたた寝だった」
「寝不足よ」
枯れ気味の声で蓮子は答えた。そして月見うどんを一気に啜り上げた。「コーヒーの飲み過ぎでね。おかげで声もこんな感じになってしまったわけ」
きつねうどんをすすっていたメリーの目が少しだけ開かれる。青い瞳がひとつの光を持つ。
「そんなにコーヒーを飲んでまで、起きていたいことがあったの?」
半分まぶたを閉じたまま、蓮子は低い声で言った。
「忘れたくなかった」
そして蓮子は麺をすべて呑み込み、器に残った汁を見つめた。
「起きて考えていたかったの。あの電話ボックスの意味を」
汁に自分の顔がぼんやりと反射されて映っている。とても眠そうにしている自分の顔。それがまるで自分のものではないような感覚がした。蓮子の答えにメリーは黙っていた。黙ってきつねうどんを食べつづけた。
二人が黙っていても今度は沈黙に包まれることはなかった。昼休みの学生食堂に人が絶えることはない。ひたすらにおしゃべりをする人がいて、食事をする人がいて、真剣に議論する人がいて――五月半ばのキャンパスにはのんびりした空気と同時に、生き生きとした活発さも溢れている。ただ、その光景の中でも蓮子とメリーは少しそこと違う場所にいるようだった。微妙な異質さがその二人を包んでいた。
「ねえ」
しばらく黙っていたメリーが口を開いた。もうきつねうどんは食べ終わって緑茶を片手に持っていた。
「“hold a line”という英熟語を知ってる?」
蓮子は手を組んだまま重い目を上げた。メリーがその青い視線を蓮子に向けている。
「知ってるわ。電話を切らないで、という意味よね?」
メリーはゆっくりとうなずいて手を組んだ。そして自分の顎を組んだ手の指の上にのせて、また尋ねた。
「その熟語の由来をあなたは知っているかしら?」
「由来」
少しの間蓮子は考えを巡らせたが、重すぎる頭で思いつくものは何もなかった。
「わからない。考えたこともない」
「それはね、今と違って『電話線』というものがあった時代の名残なの」
「電話線……」
頭の片隅に「無線」という言葉が浮かんだ。重い頭の中でそれは遥か遠くに位置していたが、それでも記憶の海の中で一度煌めいた気がした。蓮子は少しだけまぶたを上げる。
「電話に線があった時代なんて、どれほど昔の話なのかしら」
「さて、どれほど昔の話なのかしら」
メリーはそう言って少しだけ笑みを浮かべた。
「でもね、どんなに便利な無線でも、電話線に勝てなかったものがひとつだけあるわ」
「……なに」
「電話の先に相手がいるっていう、その気持ち」
蓮子はメリーの言葉をすとん、と胸で受けとめることができた。
「つながっていたいという気持ちが昔の電話ボックスにはあったのよ。それは今の人が忘れてしまった気持ちなのかもしれないわ」
そこまで言ってメリーはふふ、と笑う。蓮子にはメリーの言葉が理解できた。そして彼女の言葉の奥にある言葉も理解することができた。ちょうど見えない電話線を伝うようにメリーの心の声を聞くことができた。
蓮子は組んでいた指をほどき、身を少しだけ乗り出してメリーに尋ねた。
「ねえ、メリー。昔の人は、電話ボックスを使って何を話していたのかしら?」
「愛よ」
メリーは蓮子の問いにさらりと即答した。
「電話ボックスを隔ててね、二人は愛を囁き合っていたの」
「電話線が赤い糸?」
蓮子は少し愉快になって笑った。
「それってすごく甘い話ね。チョコレートフラッペよりも、ずっと」
「そうね、甘いの」
メリーは蓮子ににっこりと微笑みかけた。それは蓮子が今まで見たメリーの表情の中でいちばん素敵なものだった。
「愛は甘いの」
その日は秘封倶楽部の活動はしないことにした。何も活動しない日があってもいい、と蓮子は思った。今までも大した活動はしていなかったけれど、昨日はちゃんと活動した。今日はオフでもいいだろう、と。
キャンパスでメリーと別れ、蓮子は一人で家に帰った。それから次の授業で提出するレポートを仕上げ、夕飯を作ってそれを食べた。それからしばらくはソファーで哲学書を読んだ。それは蓮子のいつもの生活で、秘封倶楽部がないときの日常だった。
ゆっくりと陽が落ちていき、蓮子の家がまた夕闇に染まっていった。蓮子は一度だけ立ち上がって部屋のライトをつけ、また読書に戻った。そして明かりに照らされた蓮子の部屋の外は、完全に夜の闇に浸かっていった。
#8
ふと家の明かりの中で蓮子は目覚めた。ソファーの上にはカバーが少しずれた本が転がっていた。一度大きく伸びをして、ぼんやりした頭で蓮子はソファーにきちんと腰掛けた。昨日の睡眠不足のせいで、蓮子はソファーの上で読書をしたまま眠りこけていたのだ。
時刻は真夜中近くになっていた。蓮子は頭をかいてから立ち上がり、眠気覚ましにコーヒーでも飲もうと思った。ふらつく足でキッチンに行き、オーブンの上を見た。インスタントコーヒーの袋はあったが、もう中身がなくなっていた。
買いにいかなくちゃ、とまだ光が戻りきっていない頭で蓮子は思った。ポケットに財布を入れ、まだ微妙にふらつく足で玄関に行き、スニーカーをつっかけた。そしてゆっくりとドアを開いて、アパートの廊下に出て、それから家の鍵を閉めた。
自分を照らす光がやけに眩しいと思って、蓮子は顔を上げた。視線の先にはアパートの廊下の天井があって、そこに蛍光灯が何本も並んでいた。そして目に突き刺さる蛍光灯の光が、蓮子にあの電話ボックスの存在をフラッシュバックさせた。
はっと蓮子は息を呑んだ。いつもインスタントコーヒーを買う店に行くということは、あの電話ボックスのあった小さな広場を通るということだった。そして昨日見たとき電話ボックスはなくなっていて、自分は激しく動揺したのだ。その記憶が蓮子の目の前に蘇った。
階段に向きかけていた蓮子の足が止まる。蓮子は天井から床に目を落とし、スニーカーに包まれた自分のつま先を見つめる。行くべきかどうか、蓮子には決断ができなかった。あるいは行くにしても、電話ボックスがあったところを通るかどうか。
たぶん今日も電話ボックスはないだろう、蓮子はそう思っていたし、そう考えるのが自然だった。メリーと見に行ってどちらもその存在を確認できなかった。普通に考えればあるはずがない、誰が認めることもできないままの電話ボックスが。
期待を胸に電話ボックスがあった場所を通り、電話ボックスがなかったとき、再び激しく自分は傷ついてしまう、蓮子はそれが怖い。
蓮子は踵を返して家の鍵を開け、ドアを開いて玄関の中に入った。自分の右手を見ると靴箱の上に自分がいつもかぶっている黒い帽子があった。ふとそこで、授業中にうたた寝をして見た夢のことを思い出した。そして最後に電話ボックスから出てきた影について考えた。
「愛は甘いの」
メリーはそう言った。その言葉に真意なんてない、と蓮子は思う。けれどメリーの笑みと言葉を蓮子は頭から消し去ることができなかった。
メリーは――と蓮子は考える。境界を見て何を思ったのだろう? 私には見えないものが確かにメリーには見えていた。私が何も見えなかったと言って否定することは、もしかしたらメリーをも否定する言葉になっていたのかもしれない。彼女が境界を見ていたことを、何も知らない私が否定していることになったのかもしれない。
それでメリーは、どうしてメリーはすぐに私に境界があることを言わなかったのだろう? 私の言葉でメリーがどれほど傷ついたのか、メリーがどれほどの痛みを負っていたのか。それなのに、どうして彼女はその痛みを抱えたままだったのだろう?
馬鹿みたいだ、と蓮子は強く思った。私だけが勝手に傷ついて、苦しんでいると思っていた。違う、本当に傷ついているのは、私に傷つけられているメリー。
私が見た夢は、そう、もしかしたら、そういうことなのかもしれない――。
行こう、と蓮子は思った。
自分が裏切られることは、蓮子にとって確かに怖い。けれどその一方で、心のどこかでは期待もしていた。白くおぼろに照らされた電話ボックスと会えることを、そして夢が夢でなかったと明かされることを。
蓮子は靴箱の上にあった自分の黒い帽子を頭にのせた。そしてスニーカーを脱ぎ、黒いローファーに履き替えた。
買い物でこんな服装をするものか、と蓮子は自分に言い聞かせる。私は秘封倶楽部のサークル長として行く。不思議を探しに、そして絆を探しに。
蓮子は再び扉を開けて外に出た。蛍光灯に照らされたアパートの廊下はそれまでと少し色合いが変わっていた。蓮子は軽い靴音を立ててアパートの螺旋階段を降りていった。自分の胸がとくとくと高鳴っているのを感じた。階段を一歩ずつ降りるごとに、その音が大きくなっていくように思えた。
階段を降りきってそれからは明かりの少ない夜の道を歩いていった。ときどき通る街灯の白光が地面をアスファルト色に照らした。五月の夜は春の夜よりも少し寒々しく感じられた。冷たい風が蓮子の背中側から吹いて、髪と帽子を揺らした。蓮子は自分の体を抱いて少し震えた。
かつかつ、と自分の靴の音がやけに大きく聞こえる。地面に足をつけるたび、その振動が体全体に伝わってきている。そうやって確かに歩いている感触はあるのに、胸だけはどこか別の場所にあるかのようだった。それは遠い子どもの頃に、何かを心待ちにしていたときに味わっていたものだった。そしてそれは何かを賭けている場合にしか味わえないものだった。
蓮子は賭けている。自分の見たものを、自分で信じられるかを。
#9
電話ボックスはあった。二日前に見たときとまったく同じ姿で。あの広場の闇の中で静かに佇んでいた。白い蛍光灯の光がガラスの中からぼんやりと染み出ていた。緑色の機械がガラスの中に存在していた。
蓮子の胸にぽっかりと穴が開いた。あっけなく見つかってしまった。穴が開いた場所には何も入らなかった。風がすうと胸を通り抜けていく気がした。蓮子はふらふらと電話ボックスに近寄り、しばらく黙ってそれを見つめていた。あまり多くのことを考えられなかった。
それからしばらくして、小さな竜巻が胸の内で渦巻いた。電話ボックスのガラスに薄く映った自分の姿が見えるようになった。蓮子はガラスに写った自分の顔を見た。口を小さく開けていて、あっけにとられている表情をしていた。メリーに出会う前の自分だった。
「ハスコ……」
どこからか小さくその声が聞こえた。
「嘘つき」
蓮子は自分の顔に向かってつぶやいた。ガラス戸が小さく震えた。
「どうしてそんなに簡単に出てくるの。わざわざ偽りの姿を見せて、最初から無かったかのように嘘をついて……」
自分の声がだんだん荒れていくのを蓮子は感じた。それは遠く昔の自分の声だった。それでも言葉がどんどん自分の口から飛び出してきた。
「ずるい、どうしてメリーと来たときには出てこないの。なんで私だけのときには出てくるの……」
ガラス戸に左手をあてる。ひやりとした感触が手のひらから伝わってきた。
「どうしてこうもあっけなく存在するの……私がどれだけ傷ついたか、知らないくせに……どれだけ私が大きなものを賭けていたか、知らないくせに……」
蓮子の目がうっすらと揺らいだ。涙がにじみ出ていた。
「ずるい……卑怯……臆病者……」
蓮子はガラス戸に映った自分に偽りの言葉を投げつづけた。とても冷たい顔をしている自分に。どれほど無駄なことだとわかっていてもそうせずにはいられなかった。電話ボックスが存在したことの衝撃が大きすぎて、自分が見たことの衝撃が大きすぎて。
蓮子は思う。どれほど自分が変わったのだろう。自分の姿をガラス戸で見て、大きく変わっていることを期待してしまう。けれどその期待は裏切られて、やっぱり自分が甘いということを思い知らされてしまう、そういう自分が情けなかった。だから蓮子は責める言葉を吐きつづける。それは電話ボックス相手ではなくて、自分に向けた言葉なのだから。
やがて言葉は尽きて蓮子は小さくうつむく。枯れ気味の声でどれほどの言葉を吐き出したのか、よくわからない。ただ喉が少し痛くなって、乱れた息を整えるのもつらかった。しばらく蓮子はローファーの先を見つめたまま黙っていた。
そして一度帽子をかぶりなおして顔を上げた。自分の左側に映った自分の姿を見て言った。
「素直じゃないのね、私」
ガラスの中の自分が照れくさそうに笑った。頬に一筋の涙の跡があった。蓮子はその姿を少しだけみっともないと思ったが、同時に綺麗だとも思う。
「本当は嬉しかった。こうして私の目の前にもう一度現れてくれたことに、感謝してもいるわ」
左手でもう一度ガラス戸に触れる。ひんやりとした感触が今度は心地よかった。
「私は夢を見ている。それを自分で信じることができた……私を信じることができた……それで今は十分」
電話ボックスの明かりが一度だけ消えて、また白い光を点けた。
薄汚れたガラスは厚く冷たかった。中の蛍光灯の光が冷たく暖かかった。蓮子は取っ手を握り、ぐっとガラス戸を引いた。不思議な音を出してガラス戸が開いて、電話ボックスへの入り口を見せた。
蓮子は一歩を踏み出して電話ボックスの中に入った。自分の知らない、けれどどこか懐かしいコンクリートの匂いがした。かすれた茶色のスポンジで巻かれたバーが端にある。緑色の機械の下の棚に、ページの角が丸まってしまった電話帳が置いてある。そして上を見ると蛍光灯があって、その両端が黒くくすんでいた。
どんな歴史をたどってきたのだろう、と蓮子は思った。こんなに古びた電話ボックスは映画の中にも出てこなかった。それでも落書きなどがないのを見ると、大切に扱われていたのだろうという気持ちになる。
蓮子はぎこちない動きで電話機の受話器をとった。がちゃりと重い受話器が緑色の機械から取り外される。くるくると螺旋状に巻かれたコードが電話機とつながっている。その線を蓮子は見た。とてもあたたかい何かが胸に満ちてきた。
受話器を耳に当てると「つー」という少しかすれた音が耳に入ってきた。つながっている、と蓮子は思った。その奇跡に蓮子は突き動かされた。
ポケットの中の財布を取り出した。そして財布の口を開けて、中の十円玉か百円玉を探す。十円玉が三枚あった。少し錆びかけて鈍く光る十円玉。それは蓮子の知らない硬貨だった。いつの間にこんなものが入っていたのだろう、と蓮子は一瞬不思議に思うのだけれど、それを使うことにした。
少し震える手で十円玉を細い投入口に入れた。かちゃん、と綺麗な音が響いて十円玉が電話機の中に落ちた。蓮子は財布を電話機の前に置いて、左ポケットから携帯電話を取り出す。そしてメリーの携帯電話の番号を調べ、11桁の番号を発見する。一度も意識したことのない数字の羅列だった。
まだ震えつづける右指で蓮子はボタンを押していった。ボタンの表面は硬かったが、押した感触が妙に柔らかかった。11個目の数字を押し終わって蓮子はしっかりと左手の受話器を握り、左耳に押し当てる。少しの沈黙のあと何かが繋がる音がして、やがて蓮子が聞きなれた呼び出し音が鳴った。
呼び出し音が鳴っているわずかな時間、蓮子はいろいろなことを思った。どうしてこの電話機が今も使えるのか、どうして自分の財布の中に昔の十円玉が入っていたのか……いろいろなことを思った。
けれどそういう疑問は蓮子の頭をすぐに通り過ぎていった。今こうして電話ボックスの中にいて電話をかけていること。それは夢の海に漂っているようにふわふわして不思議なことだった。自分の体はちゃんとここにあるのに、意識はどこか別の場所から蓮子を見つめているようだった。
自分が今この電話ボックスの中にいることが夢ではなく、現実だということを誰が保証できるだろう。もしかしたらまた私は夢を見ているのかもしれない。本当はまだソファーで眠りこけているのかもしれない。今、ここで、この現象の真実を知る人は誰もいない。
けれど蓮子には確信があった。胸の空洞はもう埋まっていた。そこにはしっかりとしたものがつまっていた。
呼び出し音が鳴ったのは少しの間だった。ぶつっという音がして、それから遠くから平板な声が伝わってきた。
「はぁい……」
のんびりとして間延びした声だった。ただノイズが少しかかって声に奥行きがなかった。それでもその声がメリーのものだと蓮子にははっきりとわかった。蓮子の心臓が一度飛び跳ねるようにして鼓動した。小さな奇跡に蓮子は少しの間呆然とした。電話機のボタンを見つめたまま、何も言えなかった。
「どなた?」
やがて機械音のようなメリーの声がして、蓮子は我に返った。
「私よ、宇佐見蓮子よ」
蓮子はあわてて返事をした。自分の声が電話ボックスの中でくっきりと反響した。
「れんこ?」
メリーの声から少しだけ眠気が抜けたが、まだぼんやりとした響きだった。
「ふしぎなひびき……でも、れんこなのね」
蓮子は電話機の前で小さくうなずいて言った。
「私ね」
そう言いながら、蓮子は自分が小さく微笑んだことに気づいた。
「私、あの電話ボックスの中にいるの」
ふっと受話器から息を呑む声が聞こえた。そして何も聞こえなかったけれど、受話器の向こうでメリーが素敵に笑うのが、蓮子にははっきりと感じられた。そのぬくもりが受話器を通して伝わってきた。メリーがぽわんとした声で言った。
「だとしたら、それは素敵な夢を見ているのね。あなただけでなく、私も」
「うん」
蓮子はもう一度力強くうなずいた。
「そう、これは不思議な電話ボックス……私たちをつなぐ絆なの」
「ええ、とてもいい響きね」
メリーがふふっ、と小さく笑った。
「ね、蓮子。電話ボックスを使って話すことってなんだったかしら?」
「愛、よね?」
「そうね。だとしたら、あなたが今、こうして私と話しているということは、私と愛を語り合っているということ」
メリーが目をつむって素敵に詩う姿が蓮子の目に入ってきた。
「そうね、私はあなたの恋人なのかもしれないわ」
「メリー」
蓮子の胸がきゅっと締めつけられた。
「メリー、わたし……私――」
突然、そこでビープ音が鳴った。もうすぐ通話が終了してしまうという合図だろう、と蓮子は思った。けれど、もうそれ以上十円玉を入れる気はなかった。あとひとつだけ、蓮子には伝えることがあった。
蓮子は小さく息をついて口を開く。
「ねえ、メリー?」
蓮子は電話ボックスの中から夜空を見上げた。
「今ね、ここから空が見えるわ。とても綺麗な星空」
しばしの間があった。それからメリーがひとつ尋ねてきた。
「今の時刻は?」
蓮子は空を見上げたまま答えた。
「23時52分38秒」
ぶつっ、という大きな音が受話器の中で響いて、通話が切れた。それ以上メリーの声も、ビープ音も、何も聞こえなくなった。電話ボックスの中で蛍光灯に照らされた蓮子が残った。
蓮子は受話器をそっと電話機に戻した。がちゃりと重い音がして受話器はあるべき場所に戻った。もう一度電話をかけることができるのか、もうそれはわからなかった。蓮子は財布をポケットの中にしまい、電話機に背中を向けてガラス戸を押し開けた。
外に出て蓮子は電話ボックスの扉を静かに閉めた。それから自分の周りを見渡した。やはり外には蓮子以外の誰もいなかった。虫のような生物すらいる気配がなかった。ただ外は夜の黒い闇に包まれていて、沈黙の帳の中にあった。そこにふさわしくないものは蓮子自身と白く光る電話ボックスだけだった。
夜中にふと夢から覚めたような気分ね、と蓮子は思った。自分が誰だか一瞬わからない、ここがどこだかもわからない、全身の神経が自分から遠くはなれているような、そういう感覚。それはとても寂しくて哀しいものだけど、でも今はそういう気分が悪くない。
蓮子はガラスを通さずに空を見上げた。小さく光る星がちらちらと見えた。月が天にぽっかりと浮かんでいて、いつか落ちてきてしまいそうな雰囲気を漂わせていた。その光景はさっき電話ボックスから見ていたものとまったく同じものだった。
23時53分53秒。蓮子は口に出さずに時刻を唱える。
明日、学校でメリーに聞けばわかること。私が電話の中で言った時刻が現実の時刻と合っていたか。それが一致していれば、この電話ボックスでの会話は夢ではなかったことになる。私は現実の中で不思議を発見したことになる。
でも――と蓮子は小さく息をついて思う。メリーに聞く必要もない。今、私は電話ボックスの中から見た空と同じ空を見ている。それで十分だった。私は間違いなく不思議に出会ったのだ。それで今は十分。
蓮子は振り返って電話ボックスを見つめた。
この電話ボックスのおかげで、私は不思議に巡り合うことができた。その小さな奇跡と不思議を忘れることはないと思う。秘封倶楽部というものを始めて、私が初めて出会った不思議なのだから。そしてそれは私を信じて、メリーを信じることになったのだから。
白く光る電話ボックスは何も言わない。明日、もう一度ひとりで見に来てもそこにあるとはかぎらない。明滅するその存在。夢のような、現実のような存在。幻想と現実の狭間を行き来する存在。メリーが見たのはそういう境界だったのだろう。
蓮子はひとり考える。私とメリーはこれからも不思議に出会っていくだろう。それは私とメリーの常識を超えるようなものばかりに違いない。
そういう不思議と夢があるかぎり――蓮子は決心する――私は続けていこうと思う。私とメリーのためだけの、秘封倶楽部を。
電話ボックスのガラス戸に映る蓮子は笑っていた。その素敵な笑い方はメリーの笑みとどこか似ていて、蓮子はそれがメリーのおかげなのかもしれないわ、と思った。
蓮子はガラス戸の向こうにいる自分にうなずいた。そして電話ボックスに背を向け、自分の家に向かって歩き出した。
帰ったらホットミルクを飲もう、と蓮子は思った。コーヒーでもなくお酒でもない、こういう日はホットミルクがよく似合う。
素敵な秘封でした。
まだぎこちない感じがする二人の関係性がなんだか新鮮でした。
シリーズ物ということですので、次回も楽しみに待ってます。
ただ「ハスコ」がまさかの誤字なのかと気もそぞろになってしまい、
せっかくの内容が頭に入って来なくなってしまったのが残念。
俺が悪いんだけど。
結成当初の秘封倶楽部という設定が上手く文章に表わされてると思いました
ふとした会話にお互いのぎこちなさや踏み込めない様子が感じられて読んでて面白かったです
連作なら途中で評価するのは失礼かもしれないけど、本当に楽しみなので点数を入れておきます
二人のコミュニケーションを、電話機の移り変わりに絡めていくところも上手いと思いました。
一部状況が掴めない場面もありましたが、続きで明らかになるのでしょうね。
電話ボックスを通して物語のテーマと二人の親友同士として深まっていく様子の描写も、読んでいて心地良かったです。
シリーズということで、続きを心待ちにしてます。
侘しい雰囲気が感じられました。