『本日の診察は終了しました』
そう大書された札を門に掛けると、私は深く溜息をついた。
分厚い小説の最後の一ページを何も感得することなしに閉じてしまったかのような、僅かな達成感とそれを圧倒する疲労感があった。
松果体のあたりが、重りでもぶらさげられたかのように重い。
私はそれを振り払うように、激しく首を振った。
迷いの竹林は日の暮れるのが早い。
斜陽に照らされた竹が、まるで焼けた鉄のように赤く染まって群立している。
それは咎人を苛む杭のようにも、罪人を閉じ込める柵のようにも見えた。
「今日は、もう誰も来ないよね……」
私は竹林の奥に向かって、そんな問いを投げかけてみた。
声は不規則に並ぶ竹に跳ね返って、不愉快な残響を残すだけだった。
師匠の、八意永琳の診療所がこの時間に門を閉めるのは周知のことだ。門を閉じてより後は、例外なく診察を受けることは許されない。
永遠亭は部外者の宿泊も原則禁じているのだから、不運にして不用意な患者は薄気味悪い竹林の外で震えて一晩過ごす羽目になるだろう。
急患でもあれば別かもしれない。が、そもそも妖怪ですら避けて通るこの迷いの竹林を、夜中に突っ切って来た急患など今までいた例は無い。
でも、仮に。
今ここに、そうした患者が訪れたとしても。
私は告げるだけだろう。
この看板と同じように、無表情で告げるだろう。
この看板と同じように、無価値なことを告げるだろう。
――本日の診察は終了しました、と。
私の口元は自然と自嘲する方向に曲がった。
かつて私には、無為で無力であることが善人の条件であると信じていた時期があった。
月人は地上の穢れた民と異なり生まれながらの罪というものはない。生きることそのものが罪ということもない。
無為であれば、他人に害をなすこともない。
無力であれば、他人から何かを求められることもない。
もし死後に裁きを受けることがあれば、私は堂々とその場でこう主張するつもりだった。
「私は地獄に落ちるような悪いことは何一つしていません」
それが私の処世術であり、極楽へと続く唯一の道だった。
あらゆることから逃げ回り、あらゆることに関わらない。
そうすれば私は……私だけは、罪や死といった穢いものから逃げ切れると信じた。
だがそんな幼稚な信仰は、当然のことながら早々に破綻した。
私は何もしなかったということ、それ自体を大きな罪として背負うことになったのだ。
それが地獄に落ちるほどの自重を持っていることは、すでに閻魔や死神の保証つきである。
私はその負債をなんとしてでも今生のうちに返さなければならない。
ああ、だから――。
だから、私は先刻、師匠にあんなことを言ってしまったのだろう。
「――私達がもう少し頑張れば、もっと多くの人たちを救えるのではないでしょうか?」
私は羞恥に赤く染まる頬をそのままに、もう一度その言葉を呟いてみた。
その言葉を夕日に焼こう。闇に隠そう。虫の声で奏でよう。
美しいものに紛れてしまえば、罪深い私の口から放たれた言葉も、聖人のそれのように輝いて見えるかもしれない。
「ウドンゲ。貴方は私を立派な医者だとでも思っているでしょう」
柔らかな口調だった。
たとえ芯が氷の刃で出来ていたとしても、幾重にも真綿で包めば痛さも冷たさも相手に伝わらない。
理知と理性で完璧に梱包されたそれは、包みを開いて中を見るそのときまで、突きつけられたものが何であったか相手に悟せることはないであろう。
「……いえ、あの、薬師だということは分かっていますが――」
ともあれ私はこの場に望む前にかき集めておいた、なけなしの勇気を振り絞って返答をした。
「ですが、師匠は薬を売るだけでなくこうして診察までしていらっしゃいます。それに師匠の技術と知識は、幻想郷はおろか月の世界でも並ぶ者がないと聞いています。本職の医者と同等どころかそれ以上の存在といえるのではないでしょうか」
私の言葉に、師匠は薄く微笑んだ。
まるで私の返答など見透かしていたような――いや、その先の先、行き着く先まですでに見えてしまっているような笑み。
将棋の名人を相手に勇んで平手の勝負を挑んでしまったかのような羞恥が私を襲った。
「そうよ、ウドンゲ。自分でちゃんと分かってるじゃない」
「え?」
「進んだ技術と知識ゆえに、私は医者と呼べるものではいられなくなった。そういうことよ」
「それは師匠が医者とはもはや次元の違う存在になったとか……?」
「違うわ。むしろ逆。私は医者である資格をすでに失っている、という意味よ」
何が言いたいのかわからず、私は首を傾げる。
察しの悪い弟子に呆れたのか、師匠はふっと力を抜くように嘆息した。
「ウドンゲ、貴女は不思議に思ったことはないのかしら。飲んだものを永遠に生老病死から解放する蓬莱の薬。そんな薬を造る技術を持ちながら何故、患者を診察し、それに合わせて薬を作るなどという手間を行っているのか」
「えっと……、あの……、それはですね……」
それは確かに以前から疑問だったことだ。
そしてそれに対する一つの答えも私の頭には浮かんでいた。
しかし言ってしまってもいいものかどうか。もしかしたら逆鱗に触れることになるかも知れないと思いつつも、私はこれを好機とみなす誘惑に抗えなかった。
「蓬莱の薬が原因で起こった昔の……その……不幸な出来事を、師匠が後悔して薬を封印しているのではないかと……」
言い終わってから、私はおそるおそる視線を上げ、師匠の顔色を伺った。
無表情だ。黙って私を見据えていた。
閻魔の裁きを待つ間でもこんなに高まるまいと思う心臓を押さえながら、私は拷問のようなこの無言の間が終わるのを待った。
ややあって、くすくすと笑う声が聴こえてきた。
それが何を意味しているものかわからず、私はより一層身を縮ませた。
「実にウドンゲらしい回答ね」
「は、はぁ……」
馬鹿にされたなどとは微塵も思わず、私はただその場の空気が弛緩したことに安堵した。
「残念ながらそんな感傷的な理由ではないわ。もっと利己的なものよ。たとえば私が無分別に蓬莱の薬を使おうとしたとしましょう。幻想郷の全ての生き物を不老不死にして、それこそ伝説にある蓬莱国のようにしてしまう。そうすると、何が起こるかしら?」
「えっと……。あっ、みんなが健康になると、医者や薬師が必要なくなるから、師匠が廃業になって困るんですね?」
「今度はてゐみたいなことを言うのね。でも違うわよ。……まぁ、そうなると、いえ、そうなる前に、いえいえ、そんな兆候が微かでも見えたら、幻想郷がそうなることを望まない全ての存在が私達を排除しにくるでしょうね」
まるで明日の天気でも予報するような調子で、師匠はさらりと言った。
私は、自分でもきっと間抜け面をしているに違いないと思えるほど、口をぽかんと開けた。
「貴女もよく知る結界の巫女や境界の妖怪、幻想郷を守護する神様達。そして私達もまだ知らない、強大な力を持った存在。それら全てが一斉に私達を攻撃してくるわ。いくら月人が地上の民より数段力が勝っているとはいえ、圧倒的多数と地の利を前にしては、きっとひとたまりもないでしょう」
「な、なんでですか?」
永夜の事件のときの光景が脳裏に閃き、私は思わず身震いする。
あのとき、地上の下賎な人間と妖怪など物の数ではありません、と勇んで迎え撃った私は、物の数も分からなくなるほどずたぼろにされたのだ。
「それが私達、蓬莱の人間が幻想郷に受け入れられるための暗黙の了解だからよ。不老不死などいう人間は『存在する』というその一事だけで世界を歪ませ壊していく。そんな私達がここに受け入れられる唯一にして絶対の戒め。それが、普通の人間であるかのように演じきるということ。だから私達は蓬莱人ではない別の幻想を被ってここにいるの。輝夜はちょっと世間知らずのお姫様、あの妹紅とかいう人間はたしか健康マニアの焼き鳥屋だ、なんて自称してたかしら。そして私は――」
師匠はすうっと両腕を左右に広げる。
天上を模した独特の衣装が、薬草の優しい香と一緒にふわりと棚引く。
「ちょっと腕がいいだけの普通の薬師。それ以上でもそれ以下でもあってはならない。それが私が決めた、私が幻想郷の住人であるための境界よ」
「境界……」
それは……正に刻限を過ぎればこの診療所の門がぴたりと閉じるようなものだろうか。
本来それらに境界は無い。
刻限までに来た患者と刻限を僅かに過ぎて来た患者と、命を隔てるほどの差がどこにあるというのか。
いやそもそも時刻という考えそのものが、人が人の都合で勝手に定めた境界だ。
命にも時間にも空間にも、本来境界などというものは存在しない。
全ては私達が共有する、一種の幻想に過ぎない。
でもその幻想が無ければ、人は深く白い霧の中で、両手を前に差し出したまま、何かにぶつかるまで永久にさ迷い歩く羽目になるだろう。
だから人は線を引く。不自由で己を縛り、己を模っていく。
無数の人間を無限に救う力を持った師匠は尚の事、そうした境界が無ければ何処にも立ち行けないのだ。
情に絆されて、自分で自分の定めた境界を一度破ってしまえば、もう後は何処までも何処へでも流されていくだけの存在になってしまう。
――ちくりと小さな針が、無邪気に師匠の力に憧れていた私の胸を刺した。
「『医は仁術なり』の言葉じゃないけど、患者のために全身全霊を尽くしてこその医者でしょう。でも私は自分の保身と利益とために、少々増長してよいのなら永遠亭のために、医術を悪用している。その気になれば助けられる患者を、私は数え切れないくらい見殺しにしてきた。私にとっては『医は算術なり』なのよ。私は医者の振りをしているだけであって、その本質はもはや医者ではない」
「で、でも師匠――」
「だから、ウドンゲ」
私の胡乱な言葉には耳も貸さず、師匠はただまっすぐに、私を見つめる。
思えば最初に気づくべきであったのだ。
師匠は何も自己弁護のためにこんな話を私にしているわけではない。
私相手に愚痴をこぼすなど、師匠にとっては人形相手に憤懣をぶつけることと変わりの無い、虚しい愚行であろう。
最初から師匠が見据えていたのは、ただ一つ――、
「罪を償うために私の弟子になりたいというのなら止めておきなさい」
見え透いていた、私の浅薄な心だったのだ。
「あ……」
かくん、と膝が落ちかかった。
真綿の中にあった刃物は、この上なく鋭く、そして優しく。
私が必死に隠してきたそれをあっさりと抉り曝け出した。
「一つの命を救えば、一つの命を見捨てた罪が消えるというわけではないのよ」
「ち、違います……。私は、そんなことを考えては……」
口から勝手に弁解の言葉が飛び出す。
私の顔は熟れすぎた林檎のように赤くなっていただろうか。
いや、きっと熟していない林檎のように青ざめていた。
そんな私に対して、師匠の声はあくまでも平静だった。
「決して、私の真似をしようなどと思ってはいけない。私は善行や贖罪などというものから、最も遠く隔たった存在よ」
私は何も言葉を返せなかった。
そう言った師匠の目は、あまりに遠くを見ていて、その前では私など芥子粒より小さな存在に見えているに違いなかった。
「ウドンゲ、もう時間だわ。門に行って看板を下ろしてきなさい」
そうして、最後に師匠は、私がこの部屋を逃げ出す口実をくれた。
でも私はそのときそんな師匠の優しさに気づく余裕も無く、ただ駆け出したいのを必死で我慢して、黙ってその部屋を出て行った。
診療所を閉め終えて所在の無くなった私は、波に打ち上げられた水母のような体で縁側に腰掛けた。
夜空を見上げると、そこにちょうど半分になった月が見える。兎の影なんてどこにも無い。ただ痘痕のような黒い染みがあるだけだ。
虫の声に耳を傾けながら月を眺めているうちに、私はふと思い出したことがあって、自室に戻った。
――目当てのものはほどなく見つかった。
私に今できる善行は、丸い物を集めてそれをお供えすることだと、そう閻魔様に言われたことがある。
その時からしばらくの間、私はただ地獄に落ちたくないという恐怖から、毎日それを実行していたのだが、今では時折気休め程度にやるだけになってしまっていた。
何故ならこの行為は、善行と呼ぶにはあまりに迂遠なものに思えたからだ。
私は自分が犯した罪の大きさくらいはなんとなく――海が広いものだという程度には――漠然と理解している。
私の罪は、こんな痛みも労苦も伴わない行為で償えるものとはとても思えない。だからこそ、私は特別な行為を求めたのだ。
人を救う。妖怪も救う。病人を救う。貧者も救う。善人を救う。悪人も救う。
ありとあらゆる命を無差別に救う。かつて見捨てた仲間達の命の、その何倍も何十倍もの命を救う。
やがて救った数多の命が、風塵が降り積もるように、私の罪を覆い隠すだろう。
――それではいけないのだろうか。
丸いお供え物といえばお団子だが、そんなものを急に拵えられるはずもなかったので、今回は玩具箱の底に眠っていたカラフルな紙風船を用意した。
薬売りといえばこういう紙風船がつき物らしい。てゐの言うことなので甚だ怪しいものだが。
今夜は満月でもないのだし、これで勘弁してもらうことにした。
我ながらいい加減なものだと呆れながら、風船の口から、ぷうっと息を吹き込む。
がざり、と羽虫が蠢くような音をたてて、紙風船がその容貌を本来のものへと整えていく。
赤、青、緑、黄。
月明かりの下、原色の縞模様が白地のキャンパスに広がる。
それは花が開くようでも、花火があがるようでもない。
無骨で、不細工で、安っぽく。年月で薄汚れて、塵世にまみれて。
まさに穢れの塊のように見えた。
私はその機能を確かめるように、ぽんと一度手のひらで弾いて中空に打ちあげた。
ぼふりと間の抜けた音を立てて月に発射されたそれは、程なく勢いを失って静止したかと思うと、またふわふわと私の膝元に漂い落ちてきた。
闇夜のなかでは赤青白の派手な模様も映えず、それはただ巨大な魚の目玉のように虚ろで不気味だった。
こんなものを供えられては月に居る仲間達もさぞや迷惑なことだろう。
私は苦笑しながら、ぽん、ぽん、ぽんとテンポをつけて紙風船を宙に向かって突く。
要領が分かってくるとこんな手慰みでも、少し愉しくなってくる。
私はちょうど月と視界が重なるようにして、紙風船を高く高く突き上げてみた。
ぽん、と音がして、月に紙風船が重なる。一瞬だけ、紙風船が天蓋まで上がり、金色の光に照らされて、本物の満月のように見えもした。
――ああ、これはこれで風情があるかもしれない。
打ち上げるたびに異なる形と色を見せてくれる安物の月が、私を安らかに黙考へといざなってくれる。
……師匠の言わんとしていることが分からないわけではないのだ。
ただ自分が救われたいために、だた自分が赦されたいために行う打算的なものなど、きっと善行とは呼べない。
でも救われた相手にとっては、救った者が善人だろうと悪人だろうと、それこそ意味が無いことではないか。
救うものと救われるものがあれば、そこに善が存在するのではないだろうか。
私の内心など、それこそどうでもいいことじゃないのか。
たとえ……、そうたとえ……。
――逃げ出したあの日の私と今の私が、何一つ変わっていないとしても。
ぞくりと、背が震えた。
まるで誰かが背後から私に忍び寄ってきて、心臓を冷たい両手で包んだように。
そうだ、私は何も変わっていない。
私は逃げる。またあんな局面に遭遇したらきっとまた逃げる。ウサギは弱気で臆病な生き物だ。それは芯から変わらない。
だって、いくら閻魔に説教をされようと、地上で綿月様達に再会しようと、私の中では罪の意識などというものは最後まで浮かばなかったのだ。
私は見捨てた仲間達が恨んでいるだろう、などと考えていない。
自分の行為を思い返して、罪の意識に心が苛まれるというようなこともない。
私はすっかり自分の罪を忘れて、日々を楽天的に、迷うこともなく生きていた。
今こうして悩んでいるのは、自分の罪をまるで業病かなにかのように捉えて、ただひたすら自分の身を案じているに過ぎない。
明日には塞ぎの虫などすっかり退散して、そのうちになんとかなるなどと考えながら、姫の我侭を聞いたり、師匠に怒られたり、てゐに騙されたりする日々を送るだろう。
だって、それが私なのだ。
他にどうしようがあるというのだ。
後悔しろというならどれだけでもして見せよう。反省しろというならいくらでも示そう。
だが私の性向だけは変えられない。変えたくても変えられない。
どんなに後悔を装っても、反省した振りをしても、そこに正真正銘のそれが宿ることは無いのだ。
その業で地獄に落ちるというのなら、私が救われる術など最初から無かったということに――
――ぎろりと月が私に目を剥いた。
いや、月ではない。紙風船の口に貼られた銀紙が、目玉のようにぎらりと光って私に向いただけだ。
それなのに、私は火に焼かれたような勢いで紙風船から手を引いた。
紙風船はそのまま、熟れすぎた柿のように地面に落ちて潰れた。
夢から醒めた思いで、私はそれを見つめた。
歪んで土に塗れた安物の紙風船。
私はひどく悲しくなって、目の前の何かに謝罪するかのようにうな垂れた。
何をやっているのだろう、私は。こんなことを思い悩んでどうしようというのか。
今日はたまたま師匠に怒られて気持ちが落ち込んでいただけなのだ。
もう布団をかぶって、何もかも忘れて寝てしまおう。そうすれば朝にはきっと気分も落ち着いて、楽になれる。
そう考えて腰を浮かしかけた、そのときだった。
「あーあー、もう何をやっているのよ、へたくそねえ」
その声に私はびくりと竦みあがる。
一番見られたくないところを、一番見られたくない人物に見られていたのかもしれない。
私は覚悟の定まらぬまま、恐る恐る振り返る。
そこにははたして、いつもの人を小ばかにしたような笑みを浮かべた、てゐが立っていた。
――いつからそこにいたの?
そう問いかける間すら与えず、てゐは素足のまま庭に降り立ち、私が落とした紙風船を拾い上げる。
そして軽く土を払うと、ためらわず口をつけて、また元の通り真ん円の形に戻してみせた。
「いい? これはこうやって遊ぶのよ」
てゐはそう言って私の返事も聞かずに隣に腰掛けると、紙風船を打ち上げ始めた。
ぽん、ぽん、ぽん、と。
小気味良く、おちゃらけながら、でもどこか典雅に。
それは月にも、目玉にも見えない。
使い古した、安物の紙風船。
間抜けな音と懐かしい色で楽しませてくれる、純粋な玩具だ。
「――ふるさとは、遠きにありて、思ふもの」
不意にてゐが何かの詩を口ずさんだ。
聴いた覚えのない文句だったので、私は思わず首をかしげる。
「てゐ、その詩……」
「ああ、鈴仙が月見て故郷のこと、懐かしく思ってるのかと思って、なんとなく。嫌だった?」
「いえ、そんなことないわ。……続けて」
「お望みとあらば」
てゐはそう言って、詩をもう一度最初から、紙風船を叩く音で節をつけるようにして歌いだす。
一語一語が、まるで染み入るように私の心の中に入り込んでくる。
ふるさとは 遠きにありて 思ふもの
そして 悲しく うたふもの
よしや
うらぶれて 異土の乞食と なるとても
帰るところに あるまじや
ひとり 都の ゆふぐれに
ふるさと おもひ 涙ぐむ
そのこころもて
遠き みやこに かへらばや
遠き みやこに かへらばや
「遠きにありて……思うもの……」
「あー、でもこの詩、鈴仙の場合とはちょっと違うわね。鈴仙にとっては都もふるさともあっちなんだから」
遠く……。
遠く置いてきた家族や友、そしてかつての主人達の顔を思い浮かべる。
木からもぎ取ったばかりの桃の実を、服にこすりつけたときに僅かに香る、あの匂いを思い返す。
茹だるような暑さの中、どこからか聴こえてきた風鈴の音を。
地上のものとは違う、どこまでも澄明で、透き通っていた空と海を。
そしてそこを渡る風を。
荒寥とした月の大地を。
荒々しき太陽の光を。
その全てを、私は捨ててきた。
永遠に、戻らない。
どんなに願っても、もう戻らない。
なのに――。
――涙一つ、私の目に浮かぶことは無かった。
どうして泣けないのだろう。どうして心から悲しめないのだろう。
私の心を支配するのは、いつも理屈や見栄や打算ばかりだ。
いっそここで、恥も外聞もなく泣き出せていたら、どれだけ私の心は安らいだか知れない。
「そうね……」
「鈴仙?」
すっくと立ち上がった私を仰ぎ見て、てゐは怪訝な顔をする。
紙風船は音もたてず、ふわりとその両手に包まれた。
――遠い。
私にとってあまりにも遠いのは、その詩人の心であった。
「今更月を見て、懐かしがっていても仕方ないよね。ありがとう、てゐ。少し元気が出たわ」
私はそう言って、吹っ切れたような笑みを、無理矢理形作った。
子ウサギすら騙せそうに無い私の笑顔を見て、それでもてゐは「それは良かった」と笑顔で返してくれた。
少し早いけれども就寝の挨拶をしようと、私は姫様の部屋の襖の前に座った。
もはやただ眠りだけが、私をこの地獄にも似た苛めから救い出してくれる、か細い蜘蛛の糸のように思えた。
今日一日、積りに積もった憂鬱の気を、なるべく声には出さないように務める。
「姫様、鈴仙です。今日はもう休ませていただこうと思いますが――」
「駄目」
即座に、にべもない拒絶の言葉が返ってきて私はぎょっとする。
今のはなんだろう。私に向けられた言葉だったのだろうか。
続く言葉を待ってみるが、なんの声もしないので私は恐る恐る、先の言葉を繰り返す。
「あの……申し訳ありませんが本日は体調がすぐれないのです。何か御用であれば明日の朝にでも――」
「だから駄目だってば」
間違いなく、私に答えていた。
しかし寝ては駄目とはどういう仰せか。
襖越しでは埒が明かないとみて、私は「失礼します」と断って室内に入る。
そこには不機嫌そうな顔をした姫様と、そこから紙燭を挟むようにして澄ました顔をした師匠とが座っていた。
姫様は入ってきた私など見向きもしなかったが、師匠はちらりと私を見て、困ったことになったと言わんばかりに溜息をついた。
どういう状況なのか、皆目つかめず私がおろおろしていると、姫様はふんと鼻息を勇ましく鳴らして、師匠に食って掛かった。
「だから言っているでしょう。今日は庚申の日なのよ。寝ている間に三尸がこっそり天に昇っても知らないわよ」
「姫様の三尸の虫など、居たとしても蓬莱の薬ですでに死んでいます。何の心配もありませんから、どうぞお休みになって下さい」
「ふふん、私は大丈夫でもウサギたちはどうかしらね。ただでさえ短い寿命が哀れなことになっても知らないわよ」
「あの姫様がウサギの余命など心配なさるとは、随分と下々の者に慈悲深くおなりになりましたね。私は教育係として感に堪えません」
などと師匠はまるで無表情、無感動に言ってのける。
交わしている会話の内容はまるで分からないが、どうやらあまり宜しくない現場に踏み込んでしまったらしい。
私はなんとか退場の隙が見つかるまで、置物か何かのように身じろぎせず黙って座っていることにした。
「ですがご安心ください。天帝が兎などにいちいち三尸を潜ませるなどという暇なことをするはずはありませんから」
「わ、わからないじゃない。そんなの」
「さらに医療に携わるものとしての意見を言わせてもらえば、夜更かしをして体に良いことなど一つもありません。兎の健康をそんなに案じるならば、むしろ規則正しい就寝と起床を勧めてください」
「で、でもね……」
「まさかご自分が夜通し遊びたいだけでそんなことを言い出した――」
そう言葉を切っておいて、師匠は薄く眼を細める。
私などあの目つきで睨まれるだけで呼吸するのも困難になるほど身がすくむ。
「訳ではないと思いますので、お分かりいただけますね?」
「あ、あう……」
旗色が悪くなったと見えて、姫様は助けを求めるように周囲を見渡した。
この場には私しか居ないため、必定、私は目を合わせないわけにはいかない。
パッチリと目が合うと、姫様は今初めて私の存在に気づいたかのように、慌てて手招きした。
「こりゃ、そこのイナバ。ちょっとこっちに来なさい」
「は、はあ……」
姫様の命令とあらば、断るという選択肢など私に与えられていない。
私はおずおずと姫様の前に歩み寄る。姫様はそんな私の手をがっちりと掴むと、思いっきり膝元に引き寄せた。
「うわっ!」
予想外な行動に、私は抵抗する間もなく、姫様の膝に挟まるように座り込んでしまった。
私はあまりの恐れ多さに、慌てて立ち上がろうとするが、その前に姫様が肩を押さえるように抱きかかえた。
柔らかな体温と共に、伽羅の甘い香りが漂ってきて、私は溶かされたような心地になる。
「ねー、鈴仙も今日は寝ないで過ごしたいよね。そうでしょう?」
……どうやら理屈では師匠に勝てないと見て、数の暴力で押すことにしたらしい。
優しい口調とは裏腹に、私を抱く両腕に徐々に力が篭ってきた。すでに拘束といっても差し支えない。
しかし困ったことになった。私はそもそも早く就寝するためにここに来たのだ。かと言って姫様の意向に逆らうなど、後でどんな報いが来るかわかったものではない。
私の迷いを知ってか知らずか、姫様はそっと私の耳元に口を寄せて囁く。
「なにせ、今日は庚申の日。寝てしまうとその隙にお前の体に潜んでいた三尸の虫が、天帝に今まで犯した罪を残らず告げてしまうのよ。天帝はその報告を受けて、罪に応じてお前の寿命を減らしてしまうの。怖いでしょう」
「え……?」
それはいまどき子供すら騙せそうに無い、古臭い伝承だった。
三尸の虫。もしも本当に、そんなものが自分の体内に居るのだとしたら、きっとそいつらは私の体内で怒り狂っているだろう。
こんな悪事を働きながら、のうのうと地上で幸福そうに暮らしている自分を、そのもっとも近い場所から見つめ続けていて。
天帝に直訴する機会があったなら、まず開口一番、「こんな奴は早めに死んだほうがいい」とでも言うに違いない。
もちろんそんな虫が本当に居るはずが無い。――だが、万が一本当に居たらば。
そんな考えが、馬鹿馬鹿しいと堅陣を張る私の理性の隙間から、こっそり忍び込んでくる。私はそれに抵抗しようと、なんとかその庚申の日とやらに難癖をつけようとする。
「なんだかそれって、ずるくないでしょうか?」
「あら、ずるいかしら?」
「だって……、そんなごまかしをするくらいなら、最初から報告されるような悪事をしなければいいじゃないですか。悪事を働いておいて償いもせず、密告を恐れて見張っているなんて、なんの解決にもなっていません」
「ふむ……。そうね。確かに穢れを知らない月人ならそういう考え方をするでしょうね」
姫様はぽん、ぽんと二度、私の頭を優しく叩いた後、すくっと立ち上がった。
支えを失った私は、先ほどまで姫様が座っていた座布団に、とすんと尻餅をつく。
そんな私を尻目に、姫様はゆっくりと襖を開き、私が先ほどまで眺めていた月と同じ月を見上げた。
長い黒髪が、夜風に吹かれて僅かにそよぐ。それがまるで月の光に梳られたように美しい。
「でも私達はもう地上の民。地上にあるものは、どんなに綺麗で、どんなに無垢であってもいずれは穢れて、朽ちていくわ。地上に生きるものは何の罪を犯さずに生きていくことなど出来はしない」
「だったら開き直ったほうがいい、ということでしょうか?」
「違うわ。この世に罪の無いものなど存在しないけど、自分には何の罪も無い、と思っているものはいるでしょうね。それは罪を罪と思うことをそもそも知らなかったり、あるいは犯した罪をいつの間にか心の中で正当化してしまったり、すでに償ったつもりでいたり、色々な形があるのだけれど」
「それは……」
私は開きかけた口を慌てて閉じる。
たしかに月人であった私にとって、それは受け入れがたい考えだ。
罪や穢れといったものから縁遠い月人に「お前だって今まで生きてきて何一つ悪いことをしてないなどとは言えないだろ」などと言っても、不思議な顔をして「なんでそう思うんだい?」と聞き返されるだけだろう。
私はそんな月人に戻りたかった。罪なんてものは知らない、無垢な自分に戻りたかったのだ。
死ぬまでに罪悪感に苦しみ、永遠に人から詰られるなど、私にとっては拷問に等しい。
だから私は必死にそれを消そうとした。罪が消えないなどいうことがあるはずがないと。贖罪することで、自分で自分を責め続けることで、いつかプラスマイナスゼロの自分に戻れると信じた。
なのに同じ月人で、それも私など及びもつかないほど高貴な方であった姫様がそのような考えを否定するのを、私は信じられない想いで見つめていた。
「罪は消えることがないわ。だから私達は罪を報告する者を、常に畏み恐れなければならないの。罪が在りながら、罪の在ることを恐れないものは哀れよ」
「姫様……」
「三尸の虫は罪を罪として見定めるもう一人の自分。庚申の日は夜を徹することで日常から外れ、自らの罪を心に留めるための特別な時間。そうして罪を自分の心に映し出さなければならない。その鏡が決して曇らないように。決して罪の姿を忘れないように」
姫様はじっと月を見上げている。
先ほどの私のように。
いや、違う。
姫様は、私が月を見上げる前から、ずっとずっと前、千年以上も前からこうして月を眺めてきたのだ。
おそらく私よりも大きな罪を背負って。私より遥かに長く。どこまでも深刻に。
千年の中で、姫様もまた、私のように罪を恐れ、なんとかそれから逃れようとしたことがあったのだろうか。
あるいは、姫様御自身が言う様に、罪を忘れて生きていた頃があったのかもしれない。
そうした疑問が、一つの問いとなって、私の口から吐いて出た。
「つらくないのですか? それで」
「つらいでしょうね。でもそれは罪在るものが、幸せに生きていけないということでは決してないわ」
そう言うと、姫様はゆっくりと振り返った。
そこには先ほど表れていた、深刻な影は欠片も無い。
いつもの姫様と変わらない、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「だから今日は思いっきり呑んで歌って騒ぎましょう。どうせやるなら明るく楽しくね。そのほうが幻想郷らしいでしょう」
「はは……。まったく、姫様は結局それが言いたかったんですね」
私は思わず笑ってしまう。
先ほどまでの話が、ただ騒ぎたいだけの方便だったとしても、それはそれで姫様らしい。
この人には本当に敵わない、と改めてそう思う。
「そうですね。私も――」
言いかけて、私はちらりと師匠の顔を見る。
師匠は全く仕方ないわね、と目顔で言って、気のせいでなければほんの少し、そこに笑みが浮かんでいたように思う。
私は僅かに頷き、姫様の方を向き直して答えた。
「私も今日は寝ないで騒ぎたい気分でした」
私の言葉に、姫様は本当に嬉しそうに破顔した。
「ほら、これで二対一。決まりよ、永琳」
「ええ。どうやら今晩は私の負けのようです。――まあ、たまには良いでしょう」
「そうと決まれば、早速。てゐ、準備はどう?」
姫様がそう言ってぽんと手を打つと、いつから潜んでいたのか、即座にてゐが襖を開け放って隣から出てきた。
「勿論、すでに万端です! お酒もお菓子もたっぷり用意してあります。兎たちも元々夜行性だけあって、まだまだ遊ぶ気満々ですよー」
「それは何よりね。そうそう、この前道具屋から、外の世界にある変わった双六を仕入れたのよ。あれで遊びましょう。なんでもこれで人の一生を体験できるんですって。楽しみだわ」
「あはは、今晩はいつもより盛り上がりそうですね。さあさ鈴仙、ぼおっとしている暇なんてないよ。準備を手伝って」
返答を待たずに、てゐが私の腕を掴んで引っ張った。
私は半ばてゐにひきづられながら走る。走りながら、その足下をウサギ達が駆けていくのを必死で避けていく。まるでどたばたと不器用なステップを踏んでいるかのようだ。
そんな私を見てか、永遠亭のみんなの笑い声が方々から一斉にあがった。私もそれに包まれるようにして、いつの間にか笑えていた。
不意に、廊下を駆ける私の視界の端に、月が映った。
その月の光が、膨れた私の心を針のように突き刺す。
私があの月を見て罪を思い返すように、私が見捨てた仲間達も青い地上を見て私への恨みを思い返しているかもしれない。
罪は消えない。私が地上でどんな善行を積もうと、それがかつての仲間達に届くことは無い。
許されたいと思う。無かったことにしたいと思う。
だから私は必死に自分の心を掻い出した。罪を取り出して、必死に磨けばそれはまた綺麗な心に戻るだろうと思っていた。
だが、罪の実体は私の中には無い。罪は遠くにあり、心はそれを映し出しているのに過ぎないのだ。
目を背ければ罪は見えなくなる。心を曇らせれば罪は映らなくなる。それで私は清らかな人間ですと、そう思うことも出来る。
だが、それは違うと否定する声がある。それは確かに、この幸福の中から湧き上がってくる。
信頼できる人たちがいるから、逆にそれを裏切ることがどれほど罪深いかが分かる。
失いたくない人たちがいるから、それを見捨てることがどれほど許されないことか分かる。
罪から遠く離れた幸せの中にあって、私は初めて自らの罪を直視できたように感じた。
――ふるさとは 遠きにありて 思ふもの
不意にさきほどてゐが口ずさんでいた詩が思い出された。
私はそれを聞いたとき、この詩人は故郷を懐かしく思うあまりに涙ぐんでいるのだと解釈した。
だから私はこの詩に共感を覚えることが出来なかった。
でも、今は違う。
私はこの詩人がどのような意味を籠めてこの詩を残したのか知らない。
だが私の胸に想起されたこの詩は確かに。
遠く離れることでしか故郷を想うことの出来ない、不器用な人の心をうたったように聞えた。
― 終 ―
個人的には幸せになって欲しいけど、罪を持ち、善行や贖罪では消せない。
罪を意識しつつ後悔してもいけないし忘れてもいけない。
閻魔様も罪は裁かれるしかないって言ってたし、難しい。
なんか色々と考えさせられる良いお話でした。
罪を償うことはできなくても、罪を見つめながら生きることはできる。
そのスタートラインに立つのがどれほど難しいことか。
「普通はね、自分の嫌なとこズルいとこには目を逸らして
生きる人がほとんどだと思うから」
(「薔薇の無い花屋」より、白戸美桜)
そこに少しでも希望の光が見えたのなら尚素晴らしい。
こちらこそお礼を言わせていただきます。
それは、必死で良いことをしてその気になって罪を忘れて行くよりも
ずっとずっと辛いことだけど、こんなに良い師や仲間に囲まれた彼女なら
面白おかしく、楽しくやっていけると信じられる結びでした。
鈴仙の考え方が(良くも悪くも、いや良い意味で)とても青臭く人間くさく、
月人であるはずの彼女に共感させられます。
鈴仙を一見突き放すようにして教え諭す永琳、寺山修司の詩をうたって鈴仙を励ますてゐ、
輝夜らしい無縫さで、罪と向き合うことを楽しい夜ふかしに変えてしまう輝夜。
鈴仙はこれからも罪の意識に悩まされるのでしょうが、彼女の周囲にこんな人たちがいて、
これからもかかわっていけるのなら、きっと大丈夫だろうと思わせるラストでした。
懐かしいなw
少なくとも彼女の居場所は、今ここにある
それが彼女にとっての救い、でしょうか。
今更書いても仕方ないと思いますが
×:だた自分が赦されたいために ○:ただ自分が赦されたいために