左斜め前を見てはいけない。
霊夢は自分に強く言い聞かせた。自分はこの可愛い生き物を見にきたのだと。
にぃにぃ、にぅにぅ、と。
足元から聞こえてくる心を擽る甘い声に、吸い寄せられただけなのだと。
『名前はアイちゃんです、可愛がってあげて下さい』
人里にお守りとお札を納品に来たその帰り道。昼食を取り、ふと立ち寄った裏通りの一画で事件は起きた。家と家との間にある空き地でそんな張り紙を見付けたのがことの始まり。捨て猫に似つかわしくない立派な木製の看板だと思いながら、ふと、視線を広い空間へと向けたのが間違いだった。
「ちょ、ちょっとだけ、遊んでやるだけなんだから」
小さな木箱の中、身を乗り出して鳴き声を上げる産まれて間もない子猫たち。愛らしい、クリクリとした瞳と、短い前足を動かして誘う仕草。そんなものを見せつけられて逆らうができようか。
いや、できまい。
密に誘われるの蝶ように、霊夢はふらふらと二匹の子猫に近付いていき、はっと気が付いたときには指を猫じゃらし代わりにしているところだった。『飼わないけど、少しくらいなら』と、誘惑を間接的に肯定し、自分の指に翻弄される可愛らしい姿を見下ろす。もちろん頬は緩み切って、今にも白と三毛の子猫たちを抱き上げてしまいそう。
「あれ? でもアイちゃんってどっちかしらね?」
今にもとろけそうな思考の中、霊無はさきほどの看板の内容を思い出した。確か捨てられた動物の名前は一つしかなかったはずだ。毛色から名前を付けられたわけでもなさそうなので、どちらのことかと悩んでいると。
くぅーん、くぅーん。
左斜め前の方から、子犬が甘える鳴き声が聞こえてきた。子猫たちと同様に捨てられたものがまだいるというのか。
「まったく、管理もできないようなヤツがペットなんて飼うんじゃないわよ、ねぇ?」
猫たちに問いかけると同時に、そんな自分の子供っぽさに照れ笑いを浮かべてそちらの方を振り向き。
「…………」
躊躇なく、猫たちに視線を戻す。
穏やかな秋の日差しの中に存在してはいけないほど、濃ゆい物体があった気がした。例を上げるなら、肉汁溢れる豚肉の上に、油を加えて冷やしたものを無理矢理固めて、ゼリーだと開き直って告げられたような感覚。
いきなりソレを見せつけられたら、誰もが目を背けるに違いない。
理解はできたが、理性が認識するのを拒否し、即座に癒しを求めた結果だ。
く、くぅ~ん、くぅ~ん。
とにかく、左斜め前は見てはいけない。
むしろ、関係者面をしてはいけない。
アレを捨て犬と呼んだら、全ての犬科の生命体を侮辱しかねない。
おぞましいその姿を一言で表現するなら、――『毛』。
子猫の箱とは比較にならない、大人が抱えられないほど巨大な箱。
その中でカメのように体を丸めているのだろう、唯一認識できる頭からの出た耳の他に見えるモノと言えば、太い毛の塊だけ。
それが9本、うねうねと動きながら巨大な箱から伸びている光景を想像して貰いたい。
子供が号泣すること間違いなし
何だろう、この卑猥な触手生命体。
「れ、れいむぅ~、れいむぅ~」
「呼ぶな、甘えるな、息するな」
しきりにその毛の触手を伸ばし、構ってくれと訴えてくるが。外見からして明らかに補食行為にしか見えない。可愛らしい猫がいるのに人っ子一人いないのはこいつが原因だろう。そろそろ慧音あたりが退治に動くかも知れない。
むしろそうして欲しい、と。霊夢は心からそう願った。
「私、アイちゃん、良い子だよ?」
「裏声も出すなっ! 気色悪い!」
名乗らせるまでもない。
幻想郷でこんなもふもふを持つ人物など、八雲の式、藍しかいない。その漢字を読み替えれば確かに『アイ』と読めるのだが、看板でこの罠に気付というのは無理な話である。
「あのね、とりあえずその奇妙な行動はなんなのよ。いろいろ突っ込みたいけど、あんた拾って貰う気ないでしょ?」
「何を言うんだい。私の尻尾はチャームポイント、つまり尻尾を前面に押し出すことで子猫よりも愛らしい姿になるという完璧な計算が理解できないのか?」
「嫌がらせにしか見えない。かなり引いた。鳥肌立った」
「……人間にはこのセンスが理解できないか、悲しいことだな」
「人里で人間に理解されないことって、致命的よね?」
むぅ、と唸り声を上げ、毛の塊はやっとその姿を変えて美しい九尾へと変貌する。さきほどのショッキングな映像と比較対象してしまうせいだろうか。いつもより綺麗に見えるのが女性として何か悔しいと、正直に思う霊夢だった。
「しかし、この姿で可愛がって欲しいって看板を立てると、夜の意味で捉えられる恐れがだね」
「その桃色思考をどうにかしなさいよ。家事できますとか、手先が器用とかそういうの書けばいいじゃない」
「その条件なら霊夢は拾うと?」
「まあね、神社の掃除とか人手が増えればやる気も起きるし、良いと思っ」
はっ、と気づいたときにはもう遅かった。
にやりと口元を歪めた藍が、箱から飛び上がり霊夢を後ろからぎゅっと抱きしめる。
「よし、決まりだ。さあ、なんでも言ってれていいんだよ、ご主人様」
「……えっと、詐欺?」
「いやいや、正確に式と主の契約は成されたじゃないか。拾うかと問い掛けて、霊夢が拾うと宣言しただろう?」
こうして霊夢は、仕事でやってきた人里で多少の賃金と巨大な狐を得たのだった。
<びっくり箱の作り方>
ステップ1
まず大人の腰の高さくらいある大きな箱を準備します。
ステップ2
箱ができたら中を洗いましょう。漬物に使った物に入れようとしたら中身が暴れるので注意です。
ステップ3
箱の中に油揚げと橙の写真を入れます。
いろんな意味のおかずです。
ステップ4
メインとなる藍を入れます。少し睨まれるかもしれませんが気にせず入れましょう。
ステップ5
ここまで来たらあと一歩です。
藍に箱の中で丸くなってもらい、尻尾を上に。その状態で蓋を閉めましょう。軽い方が好まれます。
ステップ6
さあ、これで最後!
玄関前に設置された奇妙な箱が気になったのでしょう。出てきた寺子屋の先生が不用意に箱に近づいところで。
パンッと。
「っ! な、なんですか霊夢。朝から挨拶もなしに……」
寺子屋の玄関前、箱の横に立っていた霊夢が手を叩く。
その直後、ドンっと蓋がはじけ飛んだ。
中からはうねうねと動く金色の毛の塊が盛大に飛び出し、慧音へとその切っ先を向ける。
この物質が何か知っている霊夢はともかく、太く長い、毛虫の集まりのようなものがいきなり鎌首を向けてきたのだ。慧音は霊夢に抗議した体勢でそれを凝視していたが、再びうねうねと緩やかに動き始めたところで。
「◇#%&$☆っ!」
理解不能な叫び声を残し、おもいっきり身を引き。
「あ、後ろ危ないわよ?」
霊夢が注意するより早く、ガツンと後頭部を玄関の壁に強打してしまう。狭い軒先で派手な動きをするとどうなるか見当が付きそうなものだが、どうやらそれすらも頭の中から消えてしまうほど精神的なショックを受けたらしい。
「ほら、妖怪を比較的見慣れた慧音でもこれなんだから。顔見知りじゃなかったら即退治されてもおかしくはないわね」
「ふむ……」
子供が見たら一生モノのトラウマになること間違いなし。寺子屋室内に置こうものなら悲鳴が飛び交う地獄絵図になることだろう。
「尾を持つ者であれば分かり合えると思ったのだが」
触手生命体状態を解除し立ち上がると、油揚げを咥えたまま器用に話す。そんな見覚えのある飄々とした妖獣の姿を見て、やっと理解したのか。頭を抑えて蹲っていた慧音が物凄い剣幕で二人に詰め寄ってくる。
「お、おぉ~まぁ~えぇ~たぁ~ちぃ~! 寺子屋を何だと思っている! 子供たちが学ぶ神聖な場所でそのようなふざけた真似をするなどとは!」
「おはよう、早朝からそんな大声出したら近所迷惑でしょうし。謝るからここは落ち着いて、私たちは仕事を探しに来ただけだから」
「その朝の大事な時間に妙な悪戯をされた身としては、正直頷きたいと思いませんね!」
至極当然の意見であった。まだ朝食を終えて間もない時間帯に無理やり押しかけ、いきなり不審な行動を取る二人組みを学び舎にいれる教師がいるわけがない。しかし霊夢は
「でも歴史だけじゃなくて、それ以外の科目を任せられる先生が欲しいって言ってたじゃない、ね、騙されたと思って」
「すでに一回騙されました。それに、霊夢でも教えられるような内容なら私でも可能です、現に簡単な計算は教えていますので」
「あ、いや、私じゃなくて……こっち」
「こっち、とは、まさか」
霊夢が左手で額を押さえ、もう片方の腕で真横を呼び指す。もちろん、そこには慧音よりも少し背の高い藍しかいない。いつもの胸の前で手を組む姿勢ながら、どことなく自身ありげに見えるのはなぜか。
「先ほどは失礼したね、霊夢がどうしても他の人の反応を見て、私に学習させたいというんだよ。私はただ単純に職が欲しかったものでね、許しが得られれば数学について学ばせたいと思っているよ」
「なるほど、確かに式であるあなたが数について学ばせるのは実に素晴らしい事だとは思いますが、何故急に?」
「働かざるもの食うべからず、というからね」
「……? 生活費に困窮しているようには思えませんが?」
「普段一人暮らしだったようだから、二人分の食費となるとやはり別口な収入が必要でね」
何のことを言っているのかもわからず、話が見えない。会話が進むにつれてどんどん難しい顔になっていく慧音に対して、霊夢はまったく助け舟を出そうとしない。先ほどと同じく頭を抑えたままため息を漏らすだけ。
「霊夢は、いや、新しいご主人様は一人暮らしだからね」
あっさりと言ってのけた。慧音はその一言でやっと今までのやり取りを理解し、表情を明るくする。
「ああ、なるほどそういうことでしたか。霊夢のところでお世話になっていると。それで生活費や食費の助けをしたいということですね」
「それに、ご主人様には私の万能さを理解して欲しいからね。お望みとあれば朝から深夜、いや、次の朝まで奉仕する所存だ」
「なるほど、労働意欲も十分。それでは、主人である霊夢と交渉したいのですが、よろしいでしょうか?」
「ああ、できるだけ手短に決めてもらえると助かる。もし駄目なら他をあたる必要があるからね。あまり長引くようなら夜の仕事を選択しないといけないかもしれない」
「ええ、わかりました。霊夢、ちょっとこっちへ」
手招きし、寺子屋の中へ誘う。その柔和な微笑みに誘われ、霊夢は玄関で靴を脱ぎ畳の部屋へと。そこでいきなり、がしっと正面から肩を掴まれた。
「どうすればいいんですか、この状況!」
まったくその通りである。
もし違う人里の誰かが同じ状況に追い込まれればそう叫ぶに違いない。
「寄寓ね、私もその言葉で胸が一杯だわ。どちらかと言うとあなたに全力でご主人様権をぶん投げたいくらいに」
「いりませんよ! そんなの! と、とにかく、事情は聞きませんけど、雇っても大丈夫なんですかあの人! 何か会話の節々に教育上よくなさそうな感があるんですけど!」
「九尾だからね」
「全国の九尾の人を敵に回してもしりませんよ」
しかし叫んでいても始まらない。とりあえず二択のうちから一つを選ばなければいけないのだから。藍を信じて雇うか、胸の奥の嫌な予感を信じて避けるべきか。
「あの、もうしわけないですが、霊――」
「あ、そうそう、確か慧音先生は、パチュリーのところから借りたい歴史書とかありましたよね?」
言葉を切り、いきなり敬語で話し始めた霊夢に対し警戒心を最大にして向き合う。肩を掴んでいた手も引き戻そうと、霊夢の体から離した瞬間。その両手首ががっしりと掴まれてしまう。
そうやって掴んだ霊夢の顔は、純粋な子供の笑顔に満ちていた。
表面だけ、ではあるが。
「く、きょ、教師である私にそのような商談を持ちかけるなど……」
「何を言っているんですか、先生。私は図書館に保管されている本の話をしているだけじゃないですか。外の世界の歴史、その写本ではなく原本すら読まれずに保管されているって聞いたことがあります。先生は、その本たちが可愛そうだと思いませんか? せっかく生まれたのに有効活用されることなく埋もれていく、書物の――いえ、歴史の悲鳴が聞こえませんか?」
相手の欲求を直感的に悟り、そこをくすぐるまさに悪魔の甘言と微笑みである。巫女として正しい能力の使い方かどうかは置いておくとして、ピンポイントで誘惑してくるのだから脅威である。
「でも、そういう本を私が貰ってもきっと読まないでしょうから。他に誰か読む人がいればいいんですけどね。例えば……」
「わかった、雇う、雇うからもう離してくれ……」
「住み込みで?」
「う、ぐっ!」
「もちろん、住み込みですよね? 授業の内容も相談しないといけませんから♪」
その、笑顔のプレッシャーに、慧音は何も考えられなくなり。
気づけばこくりと、涙ながらに頷いていた。
一度決まってしまえば後は手早いもので、順調に慧音と藍で受け持つ授業が決められていく。
「それでは、歴史と、国語は私が」
もちろん、各々の長所を生かした授業であり。
「それでは、私は数学と保健体育――」
「させるか!」
「却下です!」
「なん……だと……、お前達! 生き物にとって大切な行為は早いうちに、むぐーっ!」
ただ、一部の長所を生かした授業だけは全力で取り下げられたという。
◇ ◇ ◇
いつもと同じ縁側。
いつもと同じ、昼下がり。
そして、いつもと少し違う、封を切ったばかりのお茶の香り。
「ああ、贅沢ってこういうことよねぇ」
まったく若さを感じさせないまったり感を溢れさせ、霊夢はお茶を啜る。廊下から見える中庭の風景にも段々と黄色や赤が混ざり始め、日差しも丁度良い暖かさ。春眠暁を覚えずと言うが、秋眠も引けを取らない。
ついつい頭が垂れてしまい、慌てて起こす。すると、目の前を赤とんぼが通り過ぎ、季節の移り変わりを知らせてくれる。
ああ、なんと風流か。
「霊夢! 霊夢~~~~!」
本殿の方から聞こえてくる、必死な声さえなければだが。
藍を引き離してまだ7日も経過していないのに、一体何の騒動だろう。どうせまた妖怪退治だろうと、気だるい返事を返す。慌てず急がず、身なりを整えてから低空飛行でそちらへと向かえば。
「……何の冗談?」
賽銭箱の前、慧音を先頭にした30人余りの人影が順に小銭を放り投げていた。言わずと知れた、賽銭である。しかし博麗神社と言えば、道中が危険で人間にはとても厳しい環境にある。なのに今日は、一気に訪問客が30人。
「ありがとう! 素敵な賽銭箱にこんなに入れてくれるなんて感動だわ」
ただしご利益は聞いてはいけない。
霊夢もはっきりと言えないのだから。
「ああ、霊夢さんが、霊夢さんがきたぞ!」
誰かの声に反応し、その場にいるほぼ全員が膝を尽き頭を下げる。その神を称えるような土下座に霊夢は多少たじろぎながらも、信仰の素晴らしさを内心で噛み締め。
そしてその人波の中で土下座をしていない、例外二人。
藍と、慧音の姿を見つけた。速度を上げて二人の側へと飛び、参拝客を護衛してくれた礼を告げようとする霊夢であったが。
それより早く慧音が涙ながらに訴えてきた。
「お願いだから、私の居場所を奪わないでください……」
「え?」
「私には、私には寺子屋しかないのに、うわぁぁぁ……」
「え、いや、あの、慧音? け、けいね、先生。泣かないで、ね?」
青空の下で子供のように泣き喚き、座り込んでしまう。
霊夢は何がなんだかわからず、彼女の背中をさすりながら慰めようとした。けれど、理由がわからないので言葉の掛けようもなく、ただ手を動かすだけ。
「ふふ、私が優秀すぎた結果だよ。ご主人様」
そんな中、何故か藍だけがふふんっと鼻を鳴らしていた。
その異様な光景から30分後。
落ち着きを取り戻した慧音から話を聞けば、こうだ。最初の2日は分担どおり授業を行い、評判も上々。ふさふさの尻尾という子供が喜びそうな外見のせいで、すぐに打ち解けることもできたという。
しかし、それからが問題で。
『ためしに、私にも国語と歴史の授業をさせてくれないか』
と、藍が言ってきたのである。素人にはできないと、断っても要求してくるので試しにやらせてみたところ。
『……慧音先生よりわかりやすい授業をする先生がいらっしゃったそうよ』
なんて、井戸端会議の奥様方に噂される始末。
このままでは、寺子屋でがんばってきた自分の存在意義が危うくなると危惧した彼女は、藍に懇願して寺子屋を辞めて貰い。料理が得意だから居酒屋や飯屋を勧めたそうだ。
そこからが、更なる悲劇の幕開けとなるのを知らずに……
「で、あんたが勤め始めた料理屋の評判がいきなり上がって、ほかの店に客が入らなくなったと?」
「ああ、困った」
「その顔は全然困ってないわね、反省しなさいよ」
そして、その後。独り占めすると暴動になると察知した店主が朝昼晩のローテーションで各店に藍を貸し出すという異例の事態に。そしてたった三日間でその制度が崩壊し、元の慧音へと戻ってきたのだという。
飯も美味い、授業も上手い。そんな噂が広がった藍の人気に太刀打ちなどできるはずもなく、とうとう霊夢へと返却要求をしにきたわけだ。人里の料理屋の人たちを連れて。
そんなこんなで、全部片付いたのは夕食の時間を軽く過ぎた頃だった。
「報奨金という名目でずいぶんたくさんの給与をいただいた。しばらくは裕福な食事ができるぞ、ご主人様」
「ああもぅ、これじゃ人里へ出した意味ないじゃないの」
「全力を尽くした結果がこれだ、仕方ないだろう」
彼女からしてみれば、自分の優秀さが認められて心躍る気分なのだろう。しかし、被害が甚大なのはいかがなものか。ただ、『もう少し子供に合わせた授業を考えてみる』『あの味を超えてみせる』といった、慧音や他の人間たちへの火付け役になったことだけは認めてもいいかもしれない。
「人間とあんたじゃ経験値が二桁くらい違うんだから、同じ土俵で本気出さないでよ」
「ご主人様がそう言うのなら、次からは考慮しよう。ところで、少々聞きたいのだが」
「何?」
そんな自身満々の藍が纏う空気が、ほんの少し変化した気がした。それは気のせいと流せるものだったかもしれないが。
「私が不在のとき、何か変わったことはなかったかな?」
何かを期待するような、願うような。か弱い少女に見えてしまう。全然そんな外見ではないのに、霊夢の直感が何かを告げていた。
「……そうね、泥棒と鬼と、それから吸血鬼がやってきた。それ以外はいつもどおり修行かしらね」
「そうか、変わりなければいいんだ。私がいないうちに大事があっては困るからね」
「ふーん、そゆことね」
「どうかしたかな?」
「別に何も、あ、そうだ。藍ちょっと耳かして」
帽子越しに大きな耳を指で軽く摘み、引き寄せる。
ぴくりっと全身を震わせる藍を気にせずに、霊夢は暖かい息をそっと吹き入れた。
◇ ◇ ◇
実に、博麗神社であった。
『あの女狐が霊夢の側にいるのは危険ね。運命でわかるわ』
と、小さな吸血鬼がひがむ程度の変化しかなく、それ以外は実に平凡そのもの。家事のほとんどを藍がこなしているだけで、霊夢は無遠慮な来客たちの相手をしたり、気が向いたら神様を下ろす修行をしたり、と。なんら変わらない日常を過ごしていた。
それが3日ほど続いた頃。
藍が買出しに行くと昼過ぎに神社を出たときだった。社務所の廊下で日向ぼっこしている少女の側、すぐ隣の何もない空間に一筋の線が走ったかと思うと。日傘を持った知り合いが、挨拶もせずに横に腰掛ける。
「私の式は優秀でしょう?」
「今は私の式だと言っているけどね、本人は」
「あら、そうなの? 私が打ち込んだ式の解除をしていないようだから、まだ私の藍かと思っていたわ」
そう言って、何故か二つ準備してあった湯飲みの一つを手にとり、落ち着いた様子で口へ運ぶ。余裕のある、静かな態度で。けれど、その仕草は何故か少女に違和感を与えた。
傘を、取らないのである。
少女が視線でそれを指摘すると珍しく目を丸くし、照れ笑いを浮かべつつ境界へと仕舞い込む。
「そろそろ来ると思ってたけど、こうもぴったりだと気持ちが悪いわね」
「あなたの能力ですもの、仕方ないわ。ある意味運命や奇跡よりも性質が悪い。あなたの直感は一体どこまで見えているのかしら」
「そんなもの、直感を使うまでもないじゃない」
はぁ、っと。お茶から口を離して、面倒臭そうに目を細める。何も起こらなければ何もしないのが少女の基本行動なのだから。
「単なるケンカでしょ、それで大人げないほうが家出した」
「……ん~」
「大方そんなもんじゃないの?」
「おまけで正解」
「つまりは大当たりってことね」
唇に指を当て、困ったように笑う。紫がこんな顔をするのは珍しかった。それくらい二人の間に何かあったのかもしれない。
「もうすぐ、冬眠をしなければいけないのはわかるでしょう?」
「ぐーたら妖怪だから」
「もう、たまには真面目に聞いてくださいな。だから藍にまたよろしくお願いと言うつもりだったのよ。でもね、ちょうどそのとき、あの子が珍しく私の茶碗を割ってしまってね。それでちょっとだけ、強く言い過ぎたかもしれませんわ。あなたに任せるのは不安、という意味でね」
「藍があれだけムキになって人里で働いた原因がそこにあるってことか」
「まあ、ね。売り言葉に買い言葉で、『あなたくらいの妖獣ならどこにだっている』なんて言ってしまいましたもの」
「傍迷惑な……」
その結果が今の状況なのだろう。
たぶん、拾う誰かは本当に誰でも良くて、それが偶然霊夢だっただけ。そしてその誰かの命令をすべて望み以上の成果で返すことで、紫の言葉を否定したかったのだ。
『自分はこれだけ役に立つ』
拾った誰かではなく。
本当の主人に対して証明したかったのだろう。
「この時期はあの子も心が揺れ動きがちになる、それを失念したかしら。ふふ、年を取るといけないわね、大事なことが頭から抜け落ちてしまいますわ」
「あら、自分から年寄り発言するなんて、永遠の少女を捨てたのかしら?」
「今日だけは大人びた女性という設定でいきましょう」
「今日だけ、ね」
「ええ、年月を共に重ねた者が拗ねているんですもの、仕方ありませんわ」
少女は思う。
「紫は平気だったのかしら? 藍がいなくて」
紫がここまで遅く動いたのは、やはり彼女も拗ねていたから。
いや、強がっていたからではないかと。藍に長い間家事を任せていても、一人でやっていける。迎えになんていってやらない、と。そんな意思表示なのではないかと。
「最初の一週間はなんとも思いませんでしたわ。多少静かになった程度かしら。自分で料理するのも新鮮だったし、考える楽しみもあった。けれど、食材を刻む前だったかしら、どこにも見当たらないのよね」
何が。とは聞かなかった。
ただ湯飲みで口を塞ぐことで、言葉を止めた事を伝える。
「お鍋よ、1人用の小さなお鍋。昔の記憶を辿って置いてある場所を探すのだけれど、どこにもない。見つけられたのは偶然と言ってもいいかもしれないわね、ふと見上げた戸棚の奥にあったわ。私じゃ、つま先を立てても届かない場所に」
「藍が動かしたってこと?」
「ええ、もちろん。だってそれは1人用の小さなお鍋だもの。きっとあの子、いらないと思ったんでしょうね」
「まだ使えるのに、なんで?」
問い掛ける少女に、紫は少しだけ遠い目をして空の向こうを見上げる。
「だって2人になったんですもの。あの子と私は家族になった。それでもう、私に台所を使わせる気などなかったんでしょうね。道具が少しだけあの子好みの配置になってて、ちょっと笑えたわ」
肩を竦めて自嘲気味に微笑む姿は、いつもの彼女とは思えないくらい弱々しく。何かの支えがなければすぐ倒れてしまいそうな、危うさすら感じさせる。彼女自身の内なる感情を自覚してしまったから。
「そう思ってからかしら、一週間を過ぎたころから急に家の中が広く感じてね。その後はもう、体が動いていましたの」
「藍がいない、隙を狙って?」
「ええ、顔を合わせたらまたいい合いをしてしまいそうでね。あなたに私たちの掛け橋をお願いできないかしら?」
「……いい大人、なんだから」
「いい大人だからこそ、永い時を過ごしたからこそ、きっかけが必要なの。お互い素直になれないのよ。だからお願いよ、霊夢。私はもうあの子を無闇に傷付けたくないのよ」
「そん、な……身勝手な……使い捨てできる式としか……見ていない癖に……」
少女が小さくつぶやいた。
なぜ声を抑えたのか、それは紫にもわからないが。彼女の言葉には否定しなければいけないことがあった。
だから紫は、素直に言う。
「あの子を、私以上に好きな妖怪なんてこの世にはいない」
「…………」
「私が初めて、心から八雲の姓を与えても良いと思った子ですもの」
「…………」
何の曇りもない顔で宣言した。
その感情を、一番簡単な言葉で示すのであれば。たった一つ。
「藍を、愛していますもの」
「っ!」
躊躇いも、迷いもない。まっすぐな言葉。
素直になれない妖怪の、本当の言葉。
でも、恥ずかしいから……
霊夢の前だからこそ言える言葉。
「紫っ!」
その家族愛に感動したのか、少女が横から抱きついてくる。
それを紫は優しく受け止め、頭を撫でてやる。今は亡き彼女の家族を思い出させてしまったか、と。罪悪感を胸に秘めて。
しかし、神様はそんな一時すら許してくれなかった。
「紫様……、いえ、『紫』何をしているのです? 私のご主人様から離れてください」
冷ややかな声が、廊下の先から聞こえてきた。
感情を押し殺した、抑揚のない声。
それを聞いた瞬間、紫から優しい笑みがすっと消え、焦燥だけが全身を覆い尽くす。
「待ちなさい! 藍! これは誤解よ! あなたが想像しているようなことは何も!」
「ほぅ、そうでしたか、ふふ、あははっ……」
けれど、藍は笑う。
紫の真剣な声を聞いても、笑みを作るだけ。いつもは笑みを見せて相手を困惑させるのが紫の常套手段のはずなのに、今はその『笑み』を恐れた。
「ははは、あはははははははっ」
壊れた人形のように、笑みだけを続ける。
本当に、どこか。
彼女の本質が変わったかのように、高く、高く。
「あはははは、もうだめっ! 耐えらんないっ! 紫、あんたもそんな顔するのねっ! ふふ、あははっ!」
体を丸め、どんどんっと廊下を叩き、馬鹿笑いを繰り返し――
そこでやっと紫は違和感に気付く。
抱きついてきた『少女』を見つめて、再び驚愕を顔面に貼り付け。笑いつづけている藍へと視線を移した。
「……あなた、名前は?」
「たぶん、八雲 藍ね」
ならば、こう問い掛けてはどうか。
「じゃあ、内側は?」
常識では、考えられない質問だ。
肉体と精神で名前が異なるのは、二重人格でなければありえないのだが。
「博麗 霊夢♪」
「えっと、冗談よね?」
「藍に精神だけを少しだけ交換する術式ないかって聞いたら、あるって言うからね。三日前から準備しておいたのよ。あなたが迎えに来るかもしれないって、なんとなくわかる日になったら即発動できるようにね」
その藍の姿をした何かは、本来の藍が見せるとは思えない無邪気な笑顔で起き上がり、目に溜めた涙を拭く。
「でも、便利ねこの体。妖力に溢れてるから、空間に穴簡単に開けられる。人里までの買い物もすぐだったわよ」
「え、じゃあ、ちょっと待って! わ、私はいままで……」
湯気が出そうなほど一気に顔を赤くし、わなわなと震える手を少女の背中からどかす。しかしそれを止めるなと言うように、少女が力強く抱きしめてきて。
「紫様ぁ……お慕いして……お慕いしております……」
そんなことをつぶやくものだから。
とうとう紫の思考回路は崩壊する。
「ちょっと、今のナシ! わかってるでしょうね霊夢! 私に、私にこんな真似をして! あ、こら、藍! 離れなさい! いつまでそうしているつもりよ!」
抱きつかれながら、仰向けになり。廊下を這うように逃げる。
けれど藍はそれに覆い被さるように飛び掛って、
『お慕いしている』
『愛している』
の二つの単語を繰り返した。
内容を知っているものなら微笑ましい家族愛で済むのだが。
けれど、その状況は……
「あの、藍、そうべったりくっつくのわかるけど……私の体だからね、それ。そろそろ引き離すよ?」
明らかに、霊夢が紫を押し倒している状況でしかなく。
慌てて背中を引っ張り引き離そうとした。
一人は、『馬鹿、この馬鹿!』と、照れ隠しの言葉しか言えず。
一人は、愛を告げることしかできず。
一人は、『私の体!』と叫び、引き離そうとする。
と、そこで。
「藍しゃま~、今日は紫様のところにもどるんで――」
『あっ!』
藍がここに来てから度々遊びにくるようになった橙の幼い目がその光景を見つけ。
ぴしっと岩のように固まり……
「わ、わた、わたしなにもみてませんからぁぁぁぁぁ~~~~~~っ!」
三人が引き止めるより早く、橙はその場から姿を消したのだった。
その後日。
「ねえ、霊夢? また少し体を入れ替えてみな――」
「いや! 絶対いや!」
紫に甘える味を覚えた藍が、密かに霊夢と交渉を続けていたのは言うまでもない。
そうだよなあ、長く一緒にいれば喧嘩する事だってあるよなあ。
でも、結果的には二人とも更に絆が深まったようで何よりでした。
しかしゆかりんは人間不信に陥りそうだww
紫に思いっきり甘える藍が可愛かったです。
藍様のツンデレっぷりは紫様直々ですな
さすが親子!