1
楽しい夢を見た。
唯一残念なのはその夢が現実では無かったことだ。それでも万が一という事が有るので、私は起き上がるとまず首を巡らせ辺りを見回した。あれはやはり夢だった。
睡眠時間は飽和状態に有るので頭がハッキリするのは滅法早い。まず光が、次に感覚が戻ってきた。戻ってきたのを実感できるのはその二つだけだった。私の部屋には音も匂いもない、味覚に至っては暫く何も口にしていなかった。
視界の中には白く褪せた朝の景色があるだけだ。朝の光がカーテンに濾し取られて白い背中を見せている。大好きな赤色で統一された私の部屋に朝らしい感動は何も無かった。赤い絨毯、赤いカーテン、その他諸々・・・どれ一つ私に好ましい顔を向ける者は無かった。その事に肩を落とそうにも肩は下がりきってこれ以上落とすのは無理そうだった。
花瓶の花は萎れて俯いている。今や私の部屋に出入りする者はいなかった。私がそれを禁じたからだ。薔薇の花の艶姿、時間が一息に押し流していくそれを押しとどめる気力は、今の私の体のどこを探してもありはしなかった。
薔薇の花は褪せた花弁を足下に脱ぎちらかして、今はひたすら頭を垂れていた。この部屋に花気は絶えて久しい。
花の祈り、私は自分の怠惰が作り出した光景にそんな名前を付けた。馬鹿馬鹿しい事をしたものだ。
白いレエスのテーブルクロスの上で朽ちた花びらが小さな影を作っている。色彩に見放された花びらは自分の影にさえ脅かされ、呑み込まれかけていた。
それにしても、ひどく荒涼とした気持ちだった。何故ってそれは楽しい夢を見てたから。現実が気に食わないのだ。
咲夜に起こしてもらった。そんな夢だった。そして夢の中で私は久しく口に出していなかった「おはよう」という言葉を口に出したんだ。
ああ、期待しちゃったじゃないか。楽しみにしてたんだぞお前に「おはようございます」っていって笑いかけてもらえるのを。
ところが、起き上がってみれば誰もいなかった。時間が恨めしかった。時間さえなければ永遠に眠っていられるのに、全部忘れていられるのに。
咲夜が死んでどのくらいたっただろう?十年から先は数えるのをやめた。
咲夜が死んで私は眠った。悲しみは睡眠の中でぐずぐずに形を失い、怠惰に姿を変えた。今の私の中には怠惰と、悲しみの澱だけが熱っぽい泥濘になって堆積している。 寝て、覚めて。また眠る。しばらく「おはよう」という言葉を口にしてない。
それにしても何もやる気が起きないんだ。
もう一眠りしよう、次はきっと「おはようございます、お嬢さま」そう言って貰えるから。
私は目を閉じた、悲しいほど冴えた意識を無理矢理に押し潰してゆく。
私は何時間だって眠れるよ。
咲夜が死んだ十一月七日の夜はまだ、終わっていない。今はもう夏なのに。
待ってるんだよ、お前が「おはよう」を言いにきてくれるのを。
そんな事を考えながら私は壁を向いてまた目をつむった。
「おはようございます」
不意に後ろから声がかかった。なんだか豪奢な重みの有る声だ。
これは咲夜の声じゃない。アイツの声は軽くてどこか脆い感じのする声なんだ、忘れるもんか。
現実逃避してる場合じゃない。私は館の人間を部屋に入れぬよう厳命してる。従って私の後ろにいる奴はカウンセリングにきた奴、さもなくば敵だ。私にとってはどちらでも似たようなものだ。
ゆっくりと振り向くとそこにいたのは八雲紫だった。たくさんの襞のついた菫色のドレスを着て、手には白い手袋を填めたその姿は紫のダリアを連想させた。
目元を覆う長い睫の隙間からアメジスト色の瞳が悲しげにこちらを見つめていた。あと香水の匂いがする。香水の不思議な香気は八雲紫の体を不思議なヴェールで覆って、瞳の中に顔をのぞかせる悲しみの原因を隠し、封じ込めているようだった。
こいつは何をしにきたのだろう?私は疑問に思った。
思惑を探して瞳を見つめても扇のような睫と古くなった悲しみの色に阻まれてそれはかなわなかった。
「ああ、あんたか」
「おはよう」は言わなかった。こいつには言いたくなかった。その言葉はもっと大事に取っておきたかった。
「ええ、残念でした。 私はどこへいっても嫌われ者ですのね」
「ああ、残念だよ、本当に」
そう言って、私は頭の後ろで手を組み、仰向けに寝っ転がった。私は日がなこうして眠っていたのに、久しぶりにこの部屋の天井を見た気がした。
「でも、今日は歓迎していただきたいものですね」
私はその言葉に引っかかる物を感じて八雲紫の方へ目を向けた。
「?」
八雲紫は懐から扇を取り出すと音立ててそれを開いた。
「良いお薬を差し上げようと思いまして」
「お薬?」
「夢を見るお薬ですよ」
八雲紫は懐から紫紗に包まれた小瓶を取り出した。紗を取り払うとガラスの小瓶には夢色の丸薬が無数に詰まっていた。瓶の中の丸薬からは大量生産品の臭いが全くしなかった。丸薬の一つ一つに表情があった。しかも笑いの一つをとっても喜び、侮蔑、また若干の動揺を内包しているものさえ有った。泣き顔にしても同じ事だ。ガラスの瓶と蓋だけが無表情に光っている。
「この薬で眠った者の魂は一つの夢の中に送られます、そこで皆、各々愛しい人に再会したり、他人になったり、現実ではとてもできぬ事をするのです」
「良く解らんな」
「要はちょっとした仮面舞踏会です、なかなか楽しい物ですよ。まあ、主に昔を懐かしむ人々で賑わってますが」
「へえ」
私は瓶をつまみ上げ、日の光に透かしてみた。瓶の中で丸薬が一斉に笑った気がした。
「どうぞ、一瓶差し上げます。気に入ったら言ってください、もっと差し上げますから」
八雲紫が私に背を向けてスキマを呼び出した。菫色の背が闇の中に去ってゆく前に私は一度呼び止めた。
「なあ」
八雲紫はこちらを振り返った。
「どうして私にこれを?」
「パーティーは賑やかな方が楽しいでしょう?」
私がさらに質問を被せようとすると、八雲紫の手袋を填めた指が制するように一本だけ、私の唇にそっと触れた。
差し出された腕の根本でスキマが揺らめく様は黒い炎が燃えるようだった。
「余計な事はお聞きにならぬ事です、貴女はとても無粋な事をなさったのですよ」
八雲紫の瞳を微かな怒りが横切った。だが一瞬その姿を現した激情は秘密主義の無数の腕に捕らえられ、あっと言う間に香気のヴェールの奥底に押し込まれ、消え去った。
そうして感情の痕跡を綺麗に隠滅すると、八雲紫は何事もなかったように軽く弾みを付けてスキマを飛び越えた。
「夢の中ならお気に入りの従者にもきっと会えますよ」
仕返しのつもりかそんな言葉を残して八雲紫は無間の闇に消えた。
スキマが閉じて、そこには小瓶だけが残っていた。
無数の丸薬が笑い、泣き、怒り、悲しみながら私を誘っている。
私は瓶の蓋を開け、なるたけ明るく、屈託の無い表情をした安全そうな奴を選んで、一粒だけ取り出した。
それを口に放り込んでから私はそれを飲み下すための水が無いことに気づき狼狽した。 しかし、丸薬は甘く、口の中に爽やかな後味を残し消え去った。
丸薬が口中から消えると私は咲夜の事を思い出した。いつか薬を嫌がってアイツを困らせたな。その度にアイツは口を尖らせて「良薬は口に苦し、ですよ」なんて言ってたっけ。
そんな事を考えているうちに肉を溶ろかした眠気が骨の随の随にまで沁み入ってきた。眠気をたっぷりと吸収した脳味噌は次第に重さを増していった。その重みを支える枕の柔らかさ、それの何と快い事!羽毛の海に沈むような心地の中、私は眠りに落ちた。
2
膨大な水が揺れ動き、巌に挑んで砕ける轟々たる響きを海風が運んできた。夜の海は暗く、白波さえもが闇に沈む。海水の動きを伝えるのは波の音だけだった。海猫のうら寂しい声が甲高く響いている。
私は海の見えるテラスに立って、白い大理石の欄干に身を預け、ぼんやりと海を見つめていた。頬の上を潮風が渡ってゆくのが心地よい。私は欄干の上にクレマチスの鉢を見つけるとその青い花を指の中で弄び、戯れに手折ったりしていた。
「ようこそいらっしゃいました」
肩越しに八雲紫の声を聞いて私は振り向いた。
「ああ、もうここは夢の中なのか」
「幻想郷に海はありませんから」
私はその言葉を聞いてハッとした。なぜそんな当然の事を忘れてボンヤリと海を見つめていたのだろう。
扇を使っていた八雲紫は私の驚愕を読みとったのか扇ぐ手を止め、薄く微笑み言った。
「得てして夢とはそういう物ですから」
私は八雲紫の背中に広がる光景に愕然とした。
八雲紫は白亜の宮殿を背に立っていた。大理石造りの宮殿は外観こそギリシャ風だがテラスに続く部屋は日本風だった。他の部屋がどんな内装になっているのかは想像もつかなかった。
「中に入られてはどうですか?お目当ての人物に会えるかも知れませんよ?」
「放っておいてくれ」
「御意のままに」
八雲紫はおどけて言うとスカートの両端を軽くつまみ上げ、恭しくお辞儀して去っていった。
「ああ、そうだ、そこの花はあまりいじめないでくださいよ」
そう言われて私は花をいじるのをやめ、また夜の海を見つめだした。
正直に言えば恐ろしかった。理由を聞かれても困る。だって怖いだろう?死んだはずの人間が自分の前に現れるんだから。例えそれが自分の大切な人だとしても、やっぱりこれは恐ろしい不条理だよ。
それにだ、私は咲夜に胸を張れるような生活を送っていなかった。きっとアイツは私を責めるだろう。アイツは堕落した生活が大嫌いだったから。今考えてみれば妙な話だ。悪魔の従者が健全に生きてどうする。
私はもう自分が夢の中に入ることなど完全に忘れていた。今さっき色々言って勿体つけたけどなんだかんだ言って咲夜に会える事で舞い上がってたんだ。
「お久しぶりです、お嬢様」
私は振り返らなかった。振り返ったら不意に全てが消えていつもどおりの空虚な朝に引き戻されそうな気がしたから。
「お久しぶりです」
咲夜は欄干に手を掛け、テラスの端の端に足を乗せていた。要は咲夜の顔が目の目の前に、そして間近にあった。
「ウワッ! 咲夜、や、やっぱりお前なのか」
驚いて尻餅をつきかけた私を抱き止めると咲夜は優しく言った。
「ええ、私ですよ」
目を見張る私を見て咲夜はこう諭した。
「シャンとなすってください、どこで誰が見ているか解りませんから」
「あ、ああ」
「私が居なくなってからら酷くだらしのない生活を送ってるそうじゃないですか」
「なぜ、それを」
私は首筋を冷たい汗が伝うのを感じた。
「それはまだお答えできません、ともかくそれでは一族の当主としての面目が云々・・・」
こりゃ、不味い事になったな、きっと長引くぞ。私はそう思いながら夜の海に目を向けた。星が明るく瞬き始め海と空の境がハッキリし始めていた。
でもね、そうやって無関心を装ったけど、実は咲夜の話聞いてたよ。けれど咲夜はそれに気づかず口を動かすのを止めため息をついてこんな事を言った。
「でも私が死んであんなに落ち込まれるとは思いませんでした。お嬢様、中々可愛いところありますね」
これが一番効いた。私は顔が赤くなるのお感じて再び夜の海に目を注いだ。咲夜は時間を止めて私が向きを帰る度に回り込んできた。
「バカ言え、そんなんじゃ無い」
私がそう言っても咲夜はニコニコと笑っていた。
「私はどちらでも結構ですよ、さあ、海辺は冷えますから中に入りましょう」
そう言って咲夜は私の背中を軽く押して中に入るよう促した。
明かりの中に入ると暖かな空気が頬をなでた。それで私はこれまで自分が冷たい空気の中に佇んでいたことに気が付いた。
「いや、もう少しここにいる」
私が言うと、咲夜はどこからか灰色のダッフルコートを取り出して、何も言わずにそれを私の肩に掛けた。真綿の重みがズシリと答えた。それは愛情の重みだった。咲夜が死んだ日、私はその重りを失って塵芥のように虚空を漂い始めた。確かに私の体はいつもあの寝室にあった。あの狭い寝室。かつて広かった寝室に。それでも私の心はどこともつかぬ所に迷い込んでいた。
私の生活は寝て、覚めて、考える。この三つの堂々巡りになった。そして、それに疲れていた時、ちょっとした幸運に恵まれてここにたどり着いたんだ。ここでまた出会えたからにはお前は私をつなぎ止めてくれるんだよな?
時に潮騒の音が遠く響いた。先ほどのクレマチスは今、紅い薔薇の花に姿を変えている。鉢を引き寄せる。間近に見る花弁はふっくらと匂いを蓄え、夜露に濡れている。朝に私の心を寂しくさせた薔薇とは似ても似付かないみずみずしさがあった。滑らかな手触りのする花びらに鼻を寄せると思った通り甘い香りがした。
「さあ、中に入りましょう」
「なあ、咲夜」
「なんでしょう?」
「お前、幸せだったか?」
「さあ、解りません。 ただ、不幸ではありませんでしたよ」
「そうか、それが解れば十分だ」
私はそう言って咲夜の頭をポンポンと撫でてやろうとしたが、そのために背伸びをしたのではうまくないので肩を叩いて中に入っていった。
先ほど東洋風だった内装はすっかりと私の慣れ親しんだ欧米流に改められていた。夢ってやつは滅茶苦茶だ。
壁には燃え盛る暖炉がはめ込まれ、シャンデリアでまばゆく照らされた部屋の真ん中にテーブルと黒い革張りのソファーが置かれている。
「お嬢様はそこにお掛けください。 私は紅茶を用意いたしますので」
「ああ」
私は言われるままにソファーに腰を下ろした。咲夜がテラスの入り口を閉じたのだろう。肩越しに扉の閉まる音がした。それが済むと、咲夜は壁際の食器棚から幾つか茶器を見繕うとそれを持って廊下へと駆けていった。私はその背中に言いようのない不安を覚え呼び止めた。咲夜は立ち止まりこちらを振り向くとウィンクして去っていった。
「帰ってきますよ、絶対に」
熾きの爆ぜる音をしばらくぶりに聞いた。それで私は自分がどれだけ「生活」という物からいかに遊離して生きていたのかを思い知った。
熾きの音に足音が混じった。それはドアの外から近づいて来ていたから私はてっきり咲夜だと勘違いして安心した。
戸を開けて入ってきたのは私の希望的観測に反した人物だった。それは私の大々大親友パチュリー・ノーレッジだった。
「ああ、レミィ、本物なの? 本物だとしてもまあ驚かないけど」
「どうして偽物な訳があるんだ?」
「ここは夢の中よ、ちょっとした玄人なら人になりすますのは簡単だし、自分を含む誰かの投影だっていう可能性もあるわ」
「投影?」
「そう、自分の主観的なイメージによって作り出された影、決して本人ではない」
「そういうお前は本物か?」
「ええ、まあ私がなに言ったところで証明にはならないけどね。 ところで魔理沙見なかった?」
「いいや、お前も寂しくなってマリサに会いに来たわけか」
「まさか、私は魔女だよ、知識を引き出しにきたのさ」
「どうやって?」
「アイツ蔵書を暗号化してたの、おかげで解読できないのよ」
「へえ、それがどう関係あるんだ?」
「私が魔理沙の中に見落としてる物があるとしたら暗号の鍵は投影したマリサの中からでも十分引き出せるわ」
「へえ」
「じゃあ行くわね」
そう行ってパチュリー・ノーレッジは去っていった。
次に聞こえた足音はひどく騒がしかった。そのお陰で入ってくるのは咲夜では無いことが解っていたから私は冷静に待つことが出来た。
次に現れたのはマリサだった。魔理沙はドアを開けるなりきょろきょろとあたりを警戒していた。どうやら誰かから逃げているらしい。
「パチュリーを見なかったか」
「今出ていったよ」
「ヒエー、危なかった」
「なんで逃げてるんだ?」
「当たり前だろう、アイツは俺の秘密をねらってやがるんだ、冗談じゃない」
私は少し意外に思った。普段はあけすけな魔理沙が魔法の事になるとこんなに必死に秘密を隠したがるだなんて。全く私の与かり知らぬ領域だった。
さっきのパチェの話から推測するにこれはパチェの影だろう。その事に思い当たった瞬間に全てに気づいてしまった。
さっきの咲夜はあくまで「私にとっての咲夜」であってそれは本当の咲夜では無いのだ。
「おい」
その声で私はハッと我に帰った。
「もう私は行くぞ、いつまでもここに居る訳には行かないし」
「ああ、そう言えば」
「そう言えば?」
「なんでパチェが秘密をねらってるって解るんだ?」
私がそれを聞くと魔理沙は得意げに胸を張りフフンと笑った。
「何を隠そう、私はパチュリーの一部なんだよ」
「どう言うこと?」
「簡単なことだ、私はパチュリーの影だろう? それもあいつの記憶を構成する上で欠かせない「魔理沙」の部分の影なんだ。 私があいつの一部でなくてなんなんだ?」
「じゃあお前はあいつなのか?」
「ああ、もっともあいつは私じゃ無いがな」
そう言って魔理沙は自嘲的に笑った。
私はしばらく呆然としていたが魔理沙が「それじゃあな」といって去っていったから「ありがとう、勉強になった」と送り出した。
送り出した筈の魔理沙が一度だけ振り返り言った。
「神社で宴会やるからな、来いよ」
私は軽く片手を掲げてその言葉に応えた。
つまりはあの咲夜も私の一部なのだ。あの咲夜は今の心の動きもなにもかも知っているのだ。だとしたらあいつはどんな顔をして帰ってくるのだろう?
視界の端の暖炉の中で、赤く燃えていた炭がボソボソと崩れ落ちた。雪のように白い灰が微かな音を立て、降り積もってゆく。
灰の積もる音に紛れてしまうくらいの小さな音を立ててドアが軋んだ。
十六夜咲夜がそこに立っていた。茶道具をいっぱいに載せた盆を手に彼女は立っていた。
「お茶が、入りましたよ」
そう言って咲夜は私の前のテーブルに湯気立ち上るポットを置いた。その一瞬の間、どうかき集めても私たちの世界には白い磁器の立てる硬質な音以外に音は無かった。コトリ、コトリ、という音をいつ果てるともない思索の中でボンヤリと聞いていた。
暖炉を埋めた灰の堆積はいつしか紅い炎に上書きされて消えていた。
滑らかな湯気に織り込まれた茶の香気に私は懐かしさを感じずにはいられなかった。確かに、咲夜の煎れた紅茶だ。
一口啜ると、忘れて久しかった花気が肺に満ちるかのようだった。
「ところで、ひどくめかし込んできたじゃないか」
紅茶の波を見つめていた私は目を上げると言った。
私の目に映る咲夜は若き日の姿そのままだった。憂いを含んだ眼差しに血潮の色をそのままに映した唇、陶器のような冷たさを感じさせる白い肌。私の知っている咲夜だった。
ここに帰ってくるまでの咲夜は私の知らない咲夜だった。どんな顔をしていたのかと聞かれても思い出せない。咲夜って事は間違いないんだけど、その顔を思いだそうとするとどうしても無理なんだ。夢でそういう経験が皆さんあると思う。
私は晩年の咲夜をよく思い出せない。あいつは老いたことをひどく気にして私の前に姿を現さなくなったからだ。おかげで死に目にもあえなかった。私はそんな事気にしてないのに。
「女ですもの」
いくらかして咲夜が答えた。
「私が死んだ日の事、恨んでますか?」
「ああ」
「怒ってますか?」
「ああ」
「でも、謝りませんよ。 だってその位、貴女の事好きなんですから」
私は大きく息を吐いた。
「業の深い事だな、人間は」
「ええ、嫌になるくらい」
そう言って咲夜は笑った。
まったく、何がおかしいのだろう?
「ところで、パーティーが行われてるのを御存知ですか?」
「いや、知らないな」
「神社でマリサが宴会を開いている筈です。 顔を出してみませんか?」
言われて私は魔理沙が去り際に残した言葉を思い出した。「神社で宴会するから来いよ」
あいつ、どこでも宴会するんだなあ。なんて思いながら私は苦笑した。
「いいね、行こうよ」
「それでは御案内します」
そう言って咲夜は歩きだした。そこから先、どこをどう歩いたかはよく覚えてない。やっぱりそこが夢の話なんだ。変に細かい所をはっきり覚えてるのにこういう大雑把な部分がまるごと抜けたりするんだから不思議だ。
神社はすでに人いきれと酒精の匂いに飲み込まれていた。
黒々として然るべきの宵闇は篝火の明かりをたっぷりと吸って菫色になっている。
私は酔っぱらい達の中に懐かしい顔を発見し感動を禁じ得なかった。
博麗霊夢、私の永遠のライバル。とうとう私に吸血を許さなかった唯二人の人間の内の一人(ちなみにもう一人は咲夜だ)。
「霊夢! 貴女なのね!」
「そうだけど」
私が抱きつくと霊夢は露骨に嫌そうな顔をした。
そうだ、やっぱりお前そういう奴だよ。
私はなんだか嬉しくてしばらくそうしていた。
「ねえ、あんたまだシラフでしょ」
「そんなの関係ないわ、暫くこうしていさせて?」
「ああ・・・うっとおしい」
私は霊夢から体を話すと彼女の顔を穴の空くほど見つめた。もう血を吸おうとは思わなかった。
完璧に霊夢だ。そう考えた途端に私は背筋を冷たいものが走るのを感じた。
霊夢はこの世にいない。つまり私の目の前に居るのは誰かの思い出なのだ。
私は恐ろしくなって宴席を振り返った。
誰が思い出で誰が本人で誰が他人になりすましているのか。それは夢の中では全く解らない。私の目の前には不気味でいじらしい狂騒が横たわっていた。
「咲夜、帰ろう」
私は振り返ると言った。
「ええ」
帰り道はあるシーンだけが記憶に残っている。それは小高い丘を越えて行くときの事だった。
「なあ」
私は咲夜の背中に語りかけた。
「お前もやっぱり、私の一部なんだよな?」
咲夜の背中は一拍置いて答えた。沈黙の尾が一瞬閃いた。
「ええ」
それから私たちは黙りこくって歩いた。
帰ってきて私はソファーに身を沈め言った。
「なにか飲み物をくれないか。 向こうじゃ一滴も飲めなかったから」
咲夜はニコリと笑うとワインの瓶をとりだした。
「こういう事もあるかと思いまして」
「瀟洒だな、お前は」
私たちは顔を見合わせて笑った。
咲夜が私のグラスにワインを注ぐ。グラスが一つしかないのに気づいて私は咲夜に一緒に飲むように命令した。
程なくして二つのグラスに酒は満たされた。
「乾杯」
その一声とともに薄いガラスの膜が甲高く震えた。
一口飲んで急造のヴィンテージ品、こんないかにも矛盾した言葉を思い出した。こんな真似が出来るのは後にも先にもコイツ位だろう。
「なあ、お前はいつまでここに居るんだ?」
「貴女が居て欲しいと思ってるうちはちゃんと居ます。 つまりは夜明けまでですね」
「どうして夜明け迄なんだ?」
「貴女がそう望んでいるからです」
「嫌、私はそんな事望んでなんかいない」
「でも貴女は知ってしまったんです。 どこにも私が居ないことを」
私はその言葉を聞いてガックリとうなだれてしまった。そうだ、夜が明けて夢から覚めれば私は咲夜の居ない世界を生きていくしかないのだ。
「ねえ、お嬢様」
「なんだ?」
「貴女はきっとお別れを言いに来てくださったんですよね」
私は体のどこかがチリチリと焼けるのを感じて叫んだ。
「だって、お前は私にお別れを言わせてくれなかったじゃないか! あんまりじゃないか!」
咲夜の頬を一滴の涙が伝った。私はそれを見て我に返った。
「勿論、お前の気持ちが分からない訳じゃあない。 でも寂しかったんだよ、私は」
私は冷たくなったお前に接吻してやる事も、その開いた瞳をやさしく閉じてやることもさせて貰えなかったのだ。これくらい怒ったっていいだろう。
咲夜は涙を拭った。
「私、性悪女と言われても仕方ありませんわ。私、嬉しいんです。貴女がそう言ってくれるのが」
窓の外では夜が白んできた。
「でも、もう、お別れの時間ですね」
「ああ、今度こそお別れを言わなきゃね」
そこまで言って私は慌てた。この場にふさわしい別れの言葉が全く思いつかない。
そう考えているうちにも朝陽がせり上がってくる。私は何を思ったか久しく口に出していない朝の挨拶をしてしまった。
「それじゃあ、おはよう」
まあ、広い世の中。ましてやここは幻想郷。こんな風変わりなお別れだってあるでしょう。そんな考えをそのまま顔に表しながら咲夜も言った。
「おはようございます」
その言葉と共に、私の長い長い一日が音立てて終わった。
3
私は頬に柔らかな感触を感じた。
あいつ、キスして行きやがったな。私はそう確信して苦笑いした。
苦笑いと言えばもう一つ、それじゃあ、おはよう。だなんて妙なことを言ってしまったが今となってはどうでもいい。
そうだ、起きろ!
私は布団を跳ね上げガバと起きあがった。
すべき事が山ほどある。まずは部屋をかたずけねばならない。それから・・・
とにかく長い長い昨日は終わったのだ。
明日は何をして過ごそうか。私は早くもそんな事を考えてみた。
楽しい夢を見た。
唯一残念なのはその夢が現実では無かったことだ。それでも万が一という事が有るので、私は起き上がるとまず首を巡らせ辺りを見回した。あれはやはり夢だった。
睡眠時間は飽和状態に有るので頭がハッキリするのは滅法早い。まず光が、次に感覚が戻ってきた。戻ってきたのを実感できるのはその二つだけだった。私の部屋には音も匂いもない、味覚に至っては暫く何も口にしていなかった。
視界の中には白く褪せた朝の景色があるだけだ。朝の光がカーテンに濾し取られて白い背中を見せている。大好きな赤色で統一された私の部屋に朝らしい感動は何も無かった。赤い絨毯、赤いカーテン、その他諸々・・・どれ一つ私に好ましい顔を向ける者は無かった。その事に肩を落とそうにも肩は下がりきってこれ以上落とすのは無理そうだった。
花瓶の花は萎れて俯いている。今や私の部屋に出入りする者はいなかった。私がそれを禁じたからだ。薔薇の花の艶姿、時間が一息に押し流していくそれを押しとどめる気力は、今の私の体のどこを探してもありはしなかった。
薔薇の花は褪せた花弁を足下に脱ぎちらかして、今はひたすら頭を垂れていた。この部屋に花気は絶えて久しい。
花の祈り、私は自分の怠惰が作り出した光景にそんな名前を付けた。馬鹿馬鹿しい事をしたものだ。
白いレエスのテーブルクロスの上で朽ちた花びらが小さな影を作っている。色彩に見放された花びらは自分の影にさえ脅かされ、呑み込まれかけていた。
それにしても、ひどく荒涼とした気持ちだった。何故ってそれは楽しい夢を見てたから。現実が気に食わないのだ。
咲夜に起こしてもらった。そんな夢だった。そして夢の中で私は久しく口に出していなかった「おはよう」という言葉を口に出したんだ。
ああ、期待しちゃったじゃないか。楽しみにしてたんだぞお前に「おはようございます」っていって笑いかけてもらえるのを。
ところが、起き上がってみれば誰もいなかった。時間が恨めしかった。時間さえなければ永遠に眠っていられるのに、全部忘れていられるのに。
咲夜が死んでどのくらいたっただろう?十年から先は数えるのをやめた。
咲夜が死んで私は眠った。悲しみは睡眠の中でぐずぐずに形を失い、怠惰に姿を変えた。今の私の中には怠惰と、悲しみの澱だけが熱っぽい泥濘になって堆積している。 寝て、覚めて。また眠る。しばらく「おはよう」という言葉を口にしてない。
それにしても何もやる気が起きないんだ。
もう一眠りしよう、次はきっと「おはようございます、お嬢さま」そう言って貰えるから。
私は目を閉じた、悲しいほど冴えた意識を無理矢理に押し潰してゆく。
私は何時間だって眠れるよ。
咲夜が死んだ十一月七日の夜はまだ、終わっていない。今はもう夏なのに。
待ってるんだよ、お前が「おはよう」を言いにきてくれるのを。
そんな事を考えながら私は壁を向いてまた目をつむった。
「おはようございます」
不意に後ろから声がかかった。なんだか豪奢な重みの有る声だ。
これは咲夜の声じゃない。アイツの声は軽くてどこか脆い感じのする声なんだ、忘れるもんか。
現実逃避してる場合じゃない。私は館の人間を部屋に入れぬよう厳命してる。従って私の後ろにいる奴はカウンセリングにきた奴、さもなくば敵だ。私にとってはどちらでも似たようなものだ。
ゆっくりと振り向くとそこにいたのは八雲紫だった。たくさんの襞のついた菫色のドレスを着て、手には白い手袋を填めたその姿は紫のダリアを連想させた。
目元を覆う長い睫の隙間からアメジスト色の瞳が悲しげにこちらを見つめていた。あと香水の匂いがする。香水の不思議な香気は八雲紫の体を不思議なヴェールで覆って、瞳の中に顔をのぞかせる悲しみの原因を隠し、封じ込めているようだった。
こいつは何をしにきたのだろう?私は疑問に思った。
思惑を探して瞳を見つめても扇のような睫と古くなった悲しみの色に阻まれてそれはかなわなかった。
「ああ、あんたか」
「おはよう」は言わなかった。こいつには言いたくなかった。その言葉はもっと大事に取っておきたかった。
「ええ、残念でした。 私はどこへいっても嫌われ者ですのね」
「ああ、残念だよ、本当に」
そう言って、私は頭の後ろで手を組み、仰向けに寝っ転がった。私は日がなこうして眠っていたのに、久しぶりにこの部屋の天井を見た気がした。
「でも、今日は歓迎していただきたいものですね」
私はその言葉に引っかかる物を感じて八雲紫の方へ目を向けた。
「?」
八雲紫は懐から扇を取り出すと音立ててそれを開いた。
「良いお薬を差し上げようと思いまして」
「お薬?」
「夢を見るお薬ですよ」
八雲紫は懐から紫紗に包まれた小瓶を取り出した。紗を取り払うとガラスの小瓶には夢色の丸薬が無数に詰まっていた。瓶の中の丸薬からは大量生産品の臭いが全くしなかった。丸薬の一つ一つに表情があった。しかも笑いの一つをとっても喜び、侮蔑、また若干の動揺を内包しているものさえ有った。泣き顔にしても同じ事だ。ガラスの瓶と蓋だけが無表情に光っている。
「この薬で眠った者の魂は一つの夢の中に送られます、そこで皆、各々愛しい人に再会したり、他人になったり、現実ではとてもできぬ事をするのです」
「良く解らんな」
「要はちょっとした仮面舞踏会です、なかなか楽しい物ですよ。まあ、主に昔を懐かしむ人々で賑わってますが」
「へえ」
私は瓶をつまみ上げ、日の光に透かしてみた。瓶の中で丸薬が一斉に笑った気がした。
「どうぞ、一瓶差し上げます。気に入ったら言ってください、もっと差し上げますから」
八雲紫が私に背を向けてスキマを呼び出した。菫色の背が闇の中に去ってゆく前に私は一度呼び止めた。
「なあ」
八雲紫はこちらを振り返った。
「どうして私にこれを?」
「パーティーは賑やかな方が楽しいでしょう?」
私がさらに質問を被せようとすると、八雲紫の手袋を填めた指が制するように一本だけ、私の唇にそっと触れた。
差し出された腕の根本でスキマが揺らめく様は黒い炎が燃えるようだった。
「余計な事はお聞きにならぬ事です、貴女はとても無粋な事をなさったのですよ」
八雲紫の瞳を微かな怒りが横切った。だが一瞬その姿を現した激情は秘密主義の無数の腕に捕らえられ、あっと言う間に香気のヴェールの奥底に押し込まれ、消え去った。
そうして感情の痕跡を綺麗に隠滅すると、八雲紫は何事もなかったように軽く弾みを付けてスキマを飛び越えた。
「夢の中ならお気に入りの従者にもきっと会えますよ」
仕返しのつもりかそんな言葉を残して八雲紫は無間の闇に消えた。
スキマが閉じて、そこには小瓶だけが残っていた。
無数の丸薬が笑い、泣き、怒り、悲しみながら私を誘っている。
私は瓶の蓋を開け、なるたけ明るく、屈託の無い表情をした安全そうな奴を選んで、一粒だけ取り出した。
それを口に放り込んでから私はそれを飲み下すための水が無いことに気づき狼狽した。 しかし、丸薬は甘く、口の中に爽やかな後味を残し消え去った。
丸薬が口中から消えると私は咲夜の事を思い出した。いつか薬を嫌がってアイツを困らせたな。その度にアイツは口を尖らせて「良薬は口に苦し、ですよ」なんて言ってたっけ。
そんな事を考えているうちに肉を溶ろかした眠気が骨の随の随にまで沁み入ってきた。眠気をたっぷりと吸収した脳味噌は次第に重さを増していった。その重みを支える枕の柔らかさ、それの何と快い事!羽毛の海に沈むような心地の中、私は眠りに落ちた。
2
膨大な水が揺れ動き、巌に挑んで砕ける轟々たる響きを海風が運んできた。夜の海は暗く、白波さえもが闇に沈む。海水の動きを伝えるのは波の音だけだった。海猫のうら寂しい声が甲高く響いている。
私は海の見えるテラスに立って、白い大理石の欄干に身を預け、ぼんやりと海を見つめていた。頬の上を潮風が渡ってゆくのが心地よい。私は欄干の上にクレマチスの鉢を見つけるとその青い花を指の中で弄び、戯れに手折ったりしていた。
「ようこそいらっしゃいました」
肩越しに八雲紫の声を聞いて私は振り向いた。
「ああ、もうここは夢の中なのか」
「幻想郷に海はありませんから」
私はその言葉を聞いてハッとした。なぜそんな当然の事を忘れてボンヤリと海を見つめていたのだろう。
扇を使っていた八雲紫は私の驚愕を読みとったのか扇ぐ手を止め、薄く微笑み言った。
「得てして夢とはそういう物ですから」
私は八雲紫の背中に広がる光景に愕然とした。
八雲紫は白亜の宮殿を背に立っていた。大理石造りの宮殿は外観こそギリシャ風だがテラスに続く部屋は日本風だった。他の部屋がどんな内装になっているのかは想像もつかなかった。
「中に入られてはどうですか?お目当ての人物に会えるかも知れませんよ?」
「放っておいてくれ」
「御意のままに」
八雲紫はおどけて言うとスカートの両端を軽くつまみ上げ、恭しくお辞儀して去っていった。
「ああ、そうだ、そこの花はあまりいじめないでくださいよ」
そう言われて私は花をいじるのをやめ、また夜の海を見つめだした。
正直に言えば恐ろしかった。理由を聞かれても困る。だって怖いだろう?死んだはずの人間が自分の前に現れるんだから。例えそれが自分の大切な人だとしても、やっぱりこれは恐ろしい不条理だよ。
それにだ、私は咲夜に胸を張れるような生活を送っていなかった。きっとアイツは私を責めるだろう。アイツは堕落した生活が大嫌いだったから。今考えてみれば妙な話だ。悪魔の従者が健全に生きてどうする。
私はもう自分が夢の中に入ることなど完全に忘れていた。今さっき色々言って勿体つけたけどなんだかんだ言って咲夜に会える事で舞い上がってたんだ。
「お久しぶりです、お嬢様」
私は振り返らなかった。振り返ったら不意に全てが消えていつもどおりの空虚な朝に引き戻されそうな気がしたから。
「お久しぶりです」
咲夜は欄干に手を掛け、テラスの端の端に足を乗せていた。要は咲夜の顔が目の目の前に、そして間近にあった。
「ウワッ! 咲夜、や、やっぱりお前なのか」
驚いて尻餅をつきかけた私を抱き止めると咲夜は優しく言った。
「ええ、私ですよ」
目を見張る私を見て咲夜はこう諭した。
「シャンとなすってください、どこで誰が見ているか解りませんから」
「あ、ああ」
「私が居なくなってからら酷くだらしのない生活を送ってるそうじゃないですか」
「なぜ、それを」
私は首筋を冷たい汗が伝うのを感じた。
「それはまだお答えできません、ともかくそれでは一族の当主としての面目が云々・・・」
こりゃ、不味い事になったな、きっと長引くぞ。私はそう思いながら夜の海に目を向けた。星が明るく瞬き始め海と空の境がハッキリし始めていた。
でもね、そうやって無関心を装ったけど、実は咲夜の話聞いてたよ。けれど咲夜はそれに気づかず口を動かすのを止めため息をついてこんな事を言った。
「でも私が死んであんなに落ち込まれるとは思いませんでした。お嬢様、中々可愛いところありますね」
これが一番効いた。私は顔が赤くなるのお感じて再び夜の海に目を注いだ。咲夜は時間を止めて私が向きを帰る度に回り込んできた。
「バカ言え、そんなんじゃ無い」
私がそう言っても咲夜はニコニコと笑っていた。
「私はどちらでも結構ですよ、さあ、海辺は冷えますから中に入りましょう」
そう言って咲夜は私の背中を軽く押して中に入るよう促した。
明かりの中に入ると暖かな空気が頬をなでた。それで私はこれまで自分が冷たい空気の中に佇んでいたことに気が付いた。
「いや、もう少しここにいる」
私が言うと、咲夜はどこからか灰色のダッフルコートを取り出して、何も言わずにそれを私の肩に掛けた。真綿の重みがズシリと答えた。それは愛情の重みだった。咲夜が死んだ日、私はその重りを失って塵芥のように虚空を漂い始めた。確かに私の体はいつもあの寝室にあった。あの狭い寝室。かつて広かった寝室に。それでも私の心はどこともつかぬ所に迷い込んでいた。
私の生活は寝て、覚めて、考える。この三つの堂々巡りになった。そして、それに疲れていた時、ちょっとした幸運に恵まれてここにたどり着いたんだ。ここでまた出会えたからにはお前は私をつなぎ止めてくれるんだよな?
時に潮騒の音が遠く響いた。先ほどのクレマチスは今、紅い薔薇の花に姿を変えている。鉢を引き寄せる。間近に見る花弁はふっくらと匂いを蓄え、夜露に濡れている。朝に私の心を寂しくさせた薔薇とは似ても似付かないみずみずしさがあった。滑らかな手触りのする花びらに鼻を寄せると思った通り甘い香りがした。
「さあ、中に入りましょう」
「なあ、咲夜」
「なんでしょう?」
「お前、幸せだったか?」
「さあ、解りません。 ただ、不幸ではありませんでしたよ」
「そうか、それが解れば十分だ」
私はそう言って咲夜の頭をポンポンと撫でてやろうとしたが、そのために背伸びをしたのではうまくないので肩を叩いて中に入っていった。
先ほど東洋風だった内装はすっかりと私の慣れ親しんだ欧米流に改められていた。夢ってやつは滅茶苦茶だ。
壁には燃え盛る暖炉がはめ込まれ、シャンデリアでまばゆく照らされた部屋の真ん中にテーブルと黒い革張りのソファーが置かれている。
「お嬢様はそこにお掛けください。 私は紅茶を用意いたしますので」
「ああ」
私は言われるままにソファーに腰を下ろした。咲夜がテラスの入り口を閉じたのだろう。肩越しに扉の閉まる音がした。それが済むと、咲夜は壁際の食器棚から幾つか茶器を見繕うとそれを持って廊下へと駆けていった。私はその背中に言いようのない不安を覚え呼び止めた。咲夜は立ち止まりこちらを振り向くとウィンクして去っていった。
「帰ってきますよ、絶対に」
熾きの爆ぜる音をしばらくぶりに聞いた。それで私は自分がどれだけ「生活」という物からいかに遊離して生きていたのかを思い知った。
熾きの音に足音が混じった。それはドアの外から近づいて来ていたから私はてっきり咲夜だと勘違いして安心した。
戸を開けて入ってきたのは私の希望的観測に反した人物だった。それは私の大々大親友パチュリー・ノーレッジだった。
「ああ、レミィ、本物なの? 本物だとしてもまあ驚かないけど」
「どうして偽物な訳があるんだ?」
「ここは夢の中よ、ちょっとした玄人なら人になりすますのは簡単だし、自分を含む誰かの投影だっていう可能性もあるわ」
「投影?」
「そう、自分の主観的なイメージによって作り出された影、決して本人ではない」
「そういうお前は本物か?」
「ええ、まあ私がなに言ったところで証明にはならないけどね。 ところで魔理沙見なかった?」
「いいや、お前も寂しくなってマリサに会いに来たわけか」
「まさか、私は魔女だよ、知識を引き出しにきたのさ」
「どうやって?」
「アイツ蔵書を暗号化してたの、おかげで解読できないのよ」
「へえ、それがどう関係あるんだ?」
「私が魔理沙の中に見落としてる物があるとしたら暗号の鍵は投影したマリサの中からでも十分引き出せるわ」
「へえ」
「じゃあ行くわね」
そう行ってパチュリー・ノーレッジは去っていった。
次に聞こえた足音はひどく騒がしかった。そのお陰で入ってくるのは咲夜では無いことが解っていたから私は冷静に待つことが出来た。
次に現れたのはマリサだった。魔理沙はドアを開けるなりきょろきょろとあたりを警戒していた。どうやら誰かから逃げているらしい。
「パチュリーを見なかったか」
「今出ていったよ」
「ヒエー、危なかった」
「なんで逃げてるんだ?」
「当たり前だろう、アイツは俺の秘密をねらってやがるんだ、冗談じゃない」
私は少し意外に思った。普段はあけすけな魔理沙が魔法の事になるとこんなに必死に秘密を隠したがるだなんて。全く私の与かり知らぬ領域だった。
さっきのパチェの話から推測するにこれはパチェの影だろう。その事に思い当たった瞬間に全てに気づいてしまった。
さっきの咲夜はあくまで「私にとっての咲夜」であってそれは本当の咲夜では無いのだ。
「おい」
その声で私はハッと我に帰った。
「もう私は行くぞ、いつまでもここに居る訳には行かないし」
「ああ、そう言えば」
「そう言えば?」
「なんでパチェが秘密をねらってるって解るんだ?」
私がそれを聞くと魔理沙は得意げに胸を張りフフンと笑った。
「何を隠そう、私はパチュリーの一部なんだよ」
「どう言うこと?」
「簡単なことだ、私はパチュリーの影だろう? それもあいつの記憶を構成する上で欠かせない「魔理沙」の部分の影なんだ。 私があいつの一部でなくてなんなんだ?」
「じゃあお前はあいつなのか?」
「ああ、もっともあいつは私じゃ無いがな」
そう言って魔理沙は自嘲的に笑った。
私はしばらく呆然としていたが魔理沙が「それじゃあな」といって去っていったから「ありがとう、勉強になった」と送り出した。
送り出した筈の魔理沙が一度だけ振り返り言った。
「神社で宴会やるからな、来いよ」
私は軽く片手を掲げてその言葉に応えた。
つまりはあの咲夜も私の一部なのだ。あの咲夜は今の心の動きもなにもかも知っているのだ。だとしたらあいつはどんな顔をして帰ってくるのだろう?
視界の端の暖炉の中で、赤く燃えていた炭がボソボソと崩れ落ちた。雪のように白い灰が微かな音を立て、降り積もってゆく。
灰の積もる音に紛れてしまうくらいの小さな音を立ててドアが軋んだ。
十六夜咲夜がそこに立っていた。茶道具をいっぱいに載せた盆を手に彼女は立っていた。
「お茶が、入りましたよ」
そう言って咲夜は私の前のテーブルに湯気立ち上るポットを置いた。その一瞬の間、どうかき集めても私たちの世界には白い磁器の立てる硬質な音以外に音は無かった。コトリ、コトリ、という音をいつ果てるともない思索の中でボンヤリと聞いていた。
暖炉を埋めた灰の堆積はいつしか紅い炎に上書きされて消えていた。
滑らかな湯気に織り込まれた茶の香気に私は懐かしさを感じずにはいられなかった。確かに、咲夜の煎れた紅茶だ。
一口啜ると、忘れて久しかった花気が肺に満ちるかのようだった。
「ところで、ひどくめかし込んできたじゃないか」
紅茶の波を見つめていた私は目を上げると言った。
私の目に映る咲夜は若き日の姿そのままだった。憂いを含んだ眼差しに血潮の色をそのままに映した唇、陶器のような冷たさを感じさせる白い肌。私の知っている咲夜だった。
ここに帰ってくるまでの咲夜は私の知らない咲夜だった。どんな顔をしていたのかと聞かれても思い出せない。咲夜って事は間違いないんだけど、その顔を思いだそうとするとどうしても無理なんだ。夢でそういう経験が皆さんあると思う。
私は晩年の咲夜をよく思い出せない。あいつは老いたことをひどく気にして私の前に姿を現さなくなったからだ。おかげで死に目にもあえなかった。私はそんな事気にしてないのに。
「女ですもの」
いくらかして咲夜が答えた。
「私が死んだ日の事、恨んでますか?」
「ああ」
「怒ってますか?」
「ああ」
「でも、謝りませんよ。 だってその位、貴女の事好きなんですから」
私は大きく息を吐いた。
「業の深い事だな、人間は」
「ええ、嫌になるくらい」
そう言って咲夜は笑った。
まったく、何がおかしいのだろう?
「ところで、パーティーが行われてるのを御存知ですか?」
「いや、知らないな」
「神社でマリサが宴会を開いている筈です。 顔を出してみませんか?」
言われて私は魔理沙が去り際に残した言葉を思い出した。「神社で宴会するから来いよ」
あいつ、どこでも宴会するんだなあ。なんて思いながら私は苦笑した。
「いいね、行こうよ」
「それでは御案内します」
そう言って咲夜は歩きだした。そこから先、どこをどう歩いたかはよく覚えてない。やっぱりそこが夢の話なんだ。変に細かい所をはっきり覚えてるのにこういう大雑把な部分がまるごと抜けたりするんだから不思議だ。
神社はすでに人いきれと酒精の匂いに飲み込まれていた。
黒々として然るべきの宵闇は篝火の明かりをたっぷりと吸って菫色になっている。
私は酔っぱらい達の中に懐かしい顔を発見し感動を禁じ得なかった。
博麗霊夢、私の永遠のライバル。とうとう私に吸血を許さなかった唯二人の人間の内の一人(ちなみにもう一人は咲夜だ)。
「霊夢! 貴女なのね!」
「そうだけど」
私が抱きつくと霊夢は露骨に嫌そうな顔をした。
そうだ、やっぱりお前そういう奴だよ。
私はなんだか嬉しくてしばらくそうしていた。
「ねえ、あんたまだシラフでしょ」
「そんなの関係ないわ、暫くこうしていさせて?」
「ああ・・・うっとおしい」
私は霊夢から体を話すと彼女の顔を穴の空くほど見つめた。もう血を吸おうとは思わなかった。
完璧に霊夢だ。そう考えた途端に私は背筋を冷たいものが走るのを感じた。
霊夢はこの世にいない。つまり私の目の前に居るのは誰かの思い出なのだ。
私は恐ろしくなって宴席を振り返った。
誰が思い出で誰が本人で誰が他人になりすましているのか。それは夢の中では全く解らない。私の目の前には不気味でいじらしい狂騒が横たわっていた。
「咲夜、帰ろう」
私は振り返ると言った。
「ええ」
帰り道はあるシーンだけが記憶に残っている。それは小高い丘を越えて行くときの事だった。
「なあ」
私は咲夜の背中に語りかけた。
「お前もやっぱり、私の一部なんだよな?」
咲夜の背中は一拍置いて答えた。沈黙の尾が一瞬閃いた。
「ええ」
それから私たちは黙りこくって歩いた。
帰ってきて私はソファーに身を沈め言った。
「なにか飲み物をくれないか。 向こうじゃ一滴も飲めなかったから」
咲夜はニコリと笑うとワインの瓶をとりだした。
「こういう事もあるかと思いまして」
「瀟洒だな、お前は」
私たちは顔を見合わせて笑った。
咲夜が私のグラスにワインを注ぐ。グラスが一つしかないのに気づいて私は咲夜に一緒に飲むように命令した。
程なくして二つのグラスに酒は満たされた。
「乾杯」
その一声とともに薄いガラスの膜が甲高く震えた。
一口飲んで急造のヴィンテージ品、こんないかにも矛盾した言葉を思い出した。こんな真似が出来るのは後にも先にもコイツ位だろう。
「なあ、お前はいつまでここに居るんだ?」
「貴女が居て欲しいと思ってるうちはちゃんと居ます。 つまりは夜明けまでですね」
「どうして夜明け迄なんだ?」
「貴女がそう望んでいるからです」
「嫌、私はそんな事望んでなんかいない」
「でも貴女は知ってしまったんです。 どこにも私が居ないことを」
私はその言葉を聞いてガックリとうなだれてしまった。そうだ、夜が明けて夢から覚めれば私は咲夜の居ない世界を生きていくしかないのだ。
「ねえ、お嬢様」
「なんだ?」
「貴女はきっとお別れを言いに来てくださったんですよね」
私は体のどこかがチリチリと焼けるのを感じて叫んだ。
「だって、お前は私にお別れを言わせてくれなかったじゃないか! あんまりじゃないか!」
咲夜の頬を一滴の涙が伝った。私はそれを見て我に返った。
「勿論、お前の気持ちが分からない訳じゃあない。 でも寂しかったんだよ、私は」
私は冷たくなったお前に接吻してやる事も、その開いた瞳をやさしく閉じてやることもさせて貰えなかったのだ。これくらい怒ったっていいだろう。
咲夜は涙を拭った。
「私、性悪女と言われても仕方ありませんわ。私、嬉しいんです。貴女がそう言ってくれるのが」
窓の外では夜が白んできた。
「でも、もう、お別れの時間ですね」
「ああ、今度こそお別れを言わなきゃね」
そこまで言って私は慌てた。この場にふさわしい別れの言葉が全く思いつかない。
そう考えているうちにも朝陽がせり上がってくる。私は何を思ったか久しく口に出していない朝の挨拶をしてしまった。
「それじゃあ、おはよう」
まあ、広い世の中。ましてやここは幻想郷。こんな風変わりなお別れだってあるでしょう。そんな考えをそのまま顔に表しながら咲夜も言った。
「おはようございます」
その言葉と共に、私の長い長い一日が音立てて終わった。
3
私は頬に柔らかな感触を感じた。
あいつ、キスして行きやがったな。私はそう確信して苦笑いした。
苦笑いと言えばもう一つ、それじゃあ、おはよう。だなんて妙なことを言ってしまったが今となってはどうでもいい。
そうだ、起きろ!
私は布団を跳ね上げガバと起きあがった。
すべき事が山ほどある。まずは部屋をかたずけねばならない。それから・・・
とにかく長い長い昨日は終わったのだ。
明日は何をして過ごそうか。私は早くもそんな事を考えてみた。
また、夢の部分の淡白さが、まさにそれの虚構そのものと言うべき性質を表していたかのようで、その雰囲気に引き込まれました。
もう少し長かったら尚良かったのではないかという事で。
ただそれに伴って、話の外部──無粋ではありますが、たとえば、「八雲紫はどうしてこんな宴を企画したのか」とか、そのあたりほとんど目が向けられることなく終わってしまっていたりもして、そういうのが気になるひとは気になるかもしれません。良くも悪くもレミリアの中だけで完結している。個人的には良と思うというか、あんまり気にならなかったりしますが。(どちらかというとそのへんはそれぞれが勝手に想像して楽しむものかなあとも思わなくもないかも)
どちらかというと、魔理沙の一人称が「俺」になっているところがあったり、魔理沙の書き分けが「魔理沙」だったり「マリサ」だったりしてるところの方が気になったかもでした。何かの意味があるのかなーとも思って考えたのですけど、ちょっと私には見出せませんでした。
……といったくらいで、ひとまず失礼します。最後になりましたが、創想話デビューおめです。前回コンペの作品に引き続き、楽しませていただきました。
まーた背景のない百合かよ10点入れよと思って読んだら、なんだかレミリアが人間組に抱いたものが伝わって、面白いとは言わないけど良い作品だなと思った。
表現の仕方がどれもこれも好みでとても面白かったです。素敵なお話をありがとうございました。
ありきたりなネタか?と思いつつ気づいたら最後まで。素敵
レミリアの鬱屈とした感情や、咲夜との交差する想いにもっと浸っていたかったです