地底にはよく雨が降る。
理屈はよく分からない。地面の下なんだからそんな雨なんか降ってくるのかって思うけれど、事実降っているのだから仕方ない。
現に今もほら、窓から外を見ればざんざん降りじゃあないか。
地底にはよく雨が降る。ざんざん降りの雨が降る。
そんな外の光景を見ていると、なんだか吸い込まれてしまいそうで――
「こいし」
名前を呼ばれてはっと我に返る。振り向くとエプロンをつけてこっちの方を向いているお姉ちゃん。
なんだか怒ったような顔をしていた。
「……また外を見ているの? だめよ今日は。今は雨が降っているんですからね」
「何がだめなの?」
「とぼけない。どうせまた遊びに出掛けようとでもしていたんでしょう」
「……あれ。お姉ちゃん、私の心は読めないんじゃなかったっけ」
「あなたの心なんて読まずとも、何をしようとしているかくらいは分かるわ」
「へー。すっごい」
心の内で、ちっと舌打ちをする。
やはり行動を先読みされるというのはなんだかむず痒い感じがするのだ。
それに、今は私はお姉ちゃんの心が読めないのだから、尚更。
「今、クッキーを焼いているところですから。できたら一緒に食べましょう。もう少しだからちょっとだけ待っててね」
そう言われて初めて幽かに香ばしい匂いがすることに気付いた。
なるほど、エプロンを着けていたのもそれが理由か。納得した。
「だから、外には出ないこと。あなたはただでさえ体が弱いんだから。こんな雨に打たれたら風邪を引いてしまうでしょ」
「……はは。お姉ちゃんの方が病気がちな癖に」
「その病気がちな姉に心配を掛けさせないでちょうだい。分かった?」
「はーい」
私の返事にようやく満足したようで、お姉ちゃんはそのまままた厨房の方へと戻っていった。
人の心配をするくらいなら、まず自分の方を心配しろと思うのだけれど。ああいうタイプは苦手だ。自分のことを顧みない。その癖他人には自分をもっと大事にしろと言う。
それこそ、お前が言うな、だ。
私はまた窓から外を見る。大粒の雨が地面を打ち、屋根にぶつかり弾けて消える。伴う大きな音に規則性などなく、誰も聴いたことのない不可思議な旋律を奏でている。
……そういえば昔、そんな話を読んだっけ。「雨が降ったらぽんぽろろん。雨が降ったらぴっちゃんちゃん」だったか。口ずさみやすいそのリズムを気に入って、私は雨の日には必ず歌うように同じフレーズを口にしていた気がする。
それをやめたのは、いったいいつの話だったか。
考えるのをやめて、もう一度外の風景に集中する。
そこでは未だに雨がやまない。どころか、さっきより勢いが強くなっているようにすら思える。
その景色はまるで一枚の絵のようで、なんだかとても羨ましくて、自分もその中に飛び込んでみたくて――
気付いた時には傘を片手に、窓を開けてそこから飛び出していた。
◆
肌に痛いくらいに吹き付けてくる雨粒。
目も開けていられないほどにそれは強烈で、一度口を開けばすぐに喉の渇きも癒せるような。
いつも以上に薄暗く、音なんかさっぱり聞こえないそこは、予想以上に楽しく思えた。
「……雨が、降ったら、ぽんぽろろん」
ふと頭に浮かんだフレーズ。
「雨が、降ったら、ぴっちゃんちゃん……♪」
久し振りに、本当に久し振りに口ずさんだその歌は、気持ちを少しばかり高揚させ。
ステップを踏むかのように私は歩き出した。
地霊殿の周囲に人はいない。
それは勿論お姉ちゃん、ひいては覚の能力のせいだ。忌み嫌われた地底の妖怪、その中でも殊更に嫌われているのが覚なのだ。いじめられっ子が場合によってはいじめっ子になるように、地底の妖怪にすら避けられているのが私たちだった。
だから人っ子一人いないのも別段おかしいわけではない。ただいつもは人の代わりに動物たちがいるのに、その子たちすらも姿を見せないことは少し不思議に思ったが。
「……あぁ、そっか」
けれどすぐに思い至る。動物たちは雨が嫌いなのだ。きっと各々の住処に戻っているか、お姉ちゃんに保護されて地霊殿でぬくぬくと過ごしているのだろう。野良動物を見つけたらすぐに拾ってくるのがあの人なのだから。
……ちぇ。アテが外れたな。
少し遊んでやろうとも思ったのだけれど。雨が降っている時にしかできない遊びだってある。それなのに誰もいないだなんて、せっかくの楽しい気分に水を差されてしまった。
けれどそんなことでいちいち立ち止まってはいられない。よく考えなくても、私は家を抜け出してきたのだから。いつ気付かれるのかは分からないけれど、こんな近くでうろうろしていたらすぐに捕まってしまうだろう。それは嫌だ。
私は雨の降る外の世界を知らない。いつもお姉ちゃんの言い付けを守って、例え外にいた時でも天気が崩れればすぐに帰って来ていたから。なのに、初めてお姉ちゃんの言い付けを聞かなかったのに、こんなところで家に戻されるのは絶対にごめんだ。
そっと、手を前に突き出す。
空から降ってくる雨の冷たさ。
湿った独特の土の臭い。
濡れて肌にまとわり付く服の重さ。
全部が全部、初めてだ。
それをこんなところで――こんなに早く、手放したくはない。
靴に張り付いた泥の感触。一瞬だけ地面に足がくっ付いてしまったかのように、ワンテンポ遅れて足が上がる。
顔を上げて少し先を見る。あそこにある大きな水溜まりの中心に飛んでみたら、いったいどうなるのだろうか。
雨の世界。それは私にとって、とても新鮮な刺激に満ちた未知の世界。
だから、
思いっきり助走をつけて、
幅跳びをするようにジャンプした。
結果、目論見通り私は水溜まりのど真ん中に着水し。
跳ねた泥水で服をぐしゃぐしゃにしながら、お腹の底から大笑いした。
◆
旧都。
旧地獄街道の通る、鬼たちが統べる地底の都。
多くの妖怪が集い、呑み、騒ぎ、年がら年中活気に溢れた耳の痛くなる場所。
……の、はずだったんだけれど。
「珍しいなぁ……今日は、いつもよりもずっと人が少ない」
歩けど歩けど影すら見えず。ひそひそ声すら聞こえない。静まり返った大通りに、水の音だけが響くのみ。
なんて言うと、大げさだけれど。でもたまに通り掛かるくらいで、比べるまでもないほどにはやっぱり人がいなかった。
お店も普通に残っていて、店員さんだってそこにいるのに。ほとんどがガラガラな光景は異常と言うより不思議で、まるで異世界に迷い込んでしまったかのように感じてしまった。
「……あぁ、そうか」
でも、すぐに合点がいく。これも同じだ。今日の大雨のせいで、みんな家にこもってしまっているのだ。
みんなすることは同じなのか、と少しだけ残念に思う。雨の日の外の世界は、いったいどんな風なのだろうと楽しみにしていたのだけれど。こんなんじゃあ、わざわざびしょ濡れになってまでここまで来た意味がない。
なんだか寂しい気持ちを抱きながら、とぼとぼ街道を一人歩く。
「アテが、外れたなぁ」
ぴちゃん、ぴちゃんと雨の音に混じった水の跳ねる音。私のぼやきはかき消されるようにすぐに聞こえなくなった。
全く、今日はアテが外れてばっかりだ。本当ならもっと楽しいお散歩になるはずだったのに。こんなんじゃ、ちっとも楽しくなんてない。
でも、そんな風にしかめっ面をしていても楽しくならないことは分かっている。仕方がないから物は試しとばかりに、すぐ近くにあるお店を少しだけ覗いてみた。
そこには駄菓子屋さんで、客は見た感じ誰もいない。店番をしている人も暇なのか、うつらうつらと舟をこいでいた。
私は黙って店の中に、抜き足差し足忍び足で入り込む。
勿論、お金は持ってきていないから何も買うことなんてできない。だから見るだけ。
整然と並べられた棚の上に、雑然と置かれたお菓子の箱。
順々に見て行くと時々チョコの箱にグミなんかが入ってたりして、なんだかよく分からない状態になっている。
そんな様子から、ここがいつもは子供たちで賑わっているのだろうなぁということを感じさせた。
どれも小さな、言葉通りの「駄菓子」にしか見えないものばっかり、だったんだけれど。
私自身が毎日口にしているそれとは、比べ物にならないくらいチープなものばっかりだったんだけれど。
それでもどうしてか、私も口にしてみたいと思ってしまった。
あるいは、他の子供たちと一緒に、こういうところでどうでもいいことを喋りながらお菓子を買うか。
「……ま、そんなことはどうせ無理なんだろうけど」
嫌われ者の哲学。最初からあり得ないと分かっていることは望まない。
消極的かもしれないけれど、それはそれでお互い幸福だと思うから。
……少しは楽しかったのに、どうでもいい想像のせいで興が削がれてしまった。
「仕方ないなぁ。……外出て気分変えましょ」
そう呟いて、店を出る。
もう一度だけ振り返って、それでもお店の人はまだこっくりこっくりとしていて。
そんなのんびりとした光景に、よく分からない懐かしさを感じつつ一歩踏み出すと、少しだけ雨足は弱くなっていた。
例え雨足が弱くなろうと、人が増える気配はない。しとしとと降り続けて止みそうにない天気に、むしろ少なくなっているような気さえした。
実際、すれ違っている人数はさっきより少ない。みんなお店に入ってしまったか、それか家に帰ったか。歩く限りは殺風景なままだから、やっぱり気分も落ち込んでしまう。
「……つまんない」
ふと、頭の中に浮かんだ言葉。
やっぱり活気がある方が楽しい。全然知らない人たちでも、誰かたくさんの人がいるだけでとても楽しい。逆に今みたいに誰もいないと、一人で部屋にいる時は平気なのに、何故かここではとっても寂しい。
雨の日は、きっとこんな風に誰も外に出ないのだろう。晴れの日にはない、水の音や、静けさや、土の臭いがたくさんたくさんあるけれど、代わりにみんないなくなってしまうのだ。
それはとても寂しくて、とてもつまらないことなのだと思う。
でも、と思い返す。
あの本に載っていた――黒いコートのおじさんは、雨の日にとても楽しそうだった。
そう、「雨が降ったらぽんぽろろん。雨が降ったらぴっちゃんちゃん」なんて、とても陽気そうに口ずさんで。
何がそんなに楽しいのやら、と言いたくなるくらいに楽しそうだった黒い傘のおじさんは、いったい何が楽しくて笑っていたのだろうか。
なんだっけ、なんだっけと思考のロープを手繰り寄せる。
もう随分と昔に読んだ本だ。その台詞ばかりが頭に残っていて、肝心の内容が思い出せない。
せめて、タイトルだけでも思い出せれば――そんな風に頑張って頭を捻っていると、突然ぽんと視界が開けた。
「……そうだ。傘だ」
そう、おじさんは傘を持っていた。だからこそ、「ぽんぽろろん」なんて音が聞けた。「ぴっちゃんちゃん」なんて音が聞けた。
頭の上で楽しげに跳ねる雨粒に、おじさんは一緒になって跳ねていたのだ。
だから、きっとこの傘があれば。私のこの小さな冒険も、もっと楽しいものになるはず。
そう思って目をつむり、そっと耳を傾ける。
頭上で跳ねる雨の音。ぱらぱら、ぼつぼつ、たんたんと、心の休まる優しい音。
あぁなるほど、これは確かに楽しいや。
水溜まりの上でくるくると回りながら、傘を両手に踊るように進む。
「あっはは! こりゃいいや、退屈な雨の日にはちょうどいい!」
雨が降ったら、ぽんぽろろん。
雨が降ったら、ぴっちゃんちゃん。
雨の日には雨の日なりの楽しみがあるのだと、そう教えてくれる楽しい歌。
それを口ずさみながら、私は空を見上げていた。
◆
旧地獄街道を抜けて橋を渡り、縦に続く長い洞穴を飛んで、今私は地上にいた。
既に雨は降っていない。頭上はすっかり晴れており、夕焼け空がそこにでっかく広がっていた。
落ちかけた夕日が世界を橙色に綺麗に染め上げ、幻想的な風景を映し出している。目に焼き付くくらいに鮮やかな色彩は、息を呑んで言葉も出ない程だった。
「……いいなぁ。すっごく綺麗」
雨上がりの空は、本当に綺麗なものだとどこかで聞いたけれど。ここまで惚れ惚れとするものだとは、まさか、思ってもみなかった。
きっと今日家を飛び出した理由は、この光景を目にするためだと。そうでなくともそう思いたいくらいに、それは圧巻の一言に尽きた。
爽やかな風が髪を揺らす。その心地良さに私は目を細めて、そっと柔らかく微笑んだ。
そんな、ことを、していて。
ふと気付いた。
今、私の周りには、誰一人としていないことを。
本当に、ふっと。美しいという言葉が野暮ったく思えるくらい綺麗な光景を目の前にして、どうしてか私は、不意に孤独感に胸をきゅうっと鷲掴みにされたのだ。
こんなに透明な空を目の前にして――いや、目の前にしたからこそ。余計に自分がここに独りでいるということが、浮き彫りになってしまっているのかもしれない。
今ここにいる私はとても充実した気持ちを抱いていて、けれど独りということに変わりはなく。そこに誰かがいればよかったのに、誰ひとりとして傍にいない。
さっきとは違う意味で、息が止まってしまいそうだった。
ただそこにいるだけで呼吸困難で、頭がふらふらして何も考えられなくなる。
降って湧いたような突然の虚無感に、けれどそれは厳然たる事実で、ただそれだけで胸が押し潰されてしまいそうで。
きゅう、っと、
「――こいし」
「っ!?」
突然、名前を呼ばれて――私は首だけをそっちに向ける。
そこにはやはりと言うべきか、予想外と言うべきか――お姉ちゃんが、立っていた。
私のことを名前で呼ぶのはお姉ちゃんだけだから、当然と言えば当然なのだけれど。
でも、そこにいるなんて全然思わなかった。思うはずがない。いるはずがないのだし、それに、どうしてか服がびしょびしょなんだもの。
「お、お姉ちゃん……どうして」
「どうして? どうしても何もないでしょう。部屋に行ったらあなたがいなくなっていた。理由はそれだけで充分よ」
「…………ごめんなさい」
どうしようもない。色々な感情が混ぜこぜになって、自分の中で爆発しそうになって。それを必死に押さえつけて、ただ、謝罪の言葉だけを一つぽつりと口にする。
だけどお姉ちゃんはゆっくり首を横に振る。よく意味が分からなくて目をまん丸くしていると、続けて静かに口を開いた。
「謝るくらいなら飛び出さないで。黙って家を出てったのは、きっとあなたなりに何か思うところがあったんでしょう?」
「で、でも、そのせいでお姉ちゃんはそんなにびしょびしょに……」
「そんなの気にする必要ないじゃない。私が勝手に追い掛けてきただけなんだから。違う?」
「そうだけど……でも!」
「でも、とかそういうのはいらないの」
一呼吸置いて、
「もう我慢しなくていいのよ。あなた、泣きそうな顔してるじゃない」
そう言って、にっこりと笑った。
まるで心の中を見透かされているようで。
実際、何もかもがぐつぐつと沸騰していて、何も考えられなくなっていて。
でも、私が求めていた何かは、確かにそこにあったのだと、それだけは分かった。
私は駆ける。精一杯両手を広げて、何も考えずにただ駆け寄っていく。
思いっきり抱きついて、力の限り抱きついて、溢れ出る涙も漏れる嗚咽もそのままに腕の中へと飛び込んだ。
雨に濡れた服がひんやりと冷たくて、けれど私の体を抱きとめてくれた腕は、体は、ほんのりと温かみを感じさせて。
じわりとにじむ温かさの中で、私はただ泣き続けていた。
こういう雰囲気良いなぁ…
良い雰囲気の話でした。
こいしの無邪気な様を見てると子供時代を思い出します。
こいさと、良かったです。
ふと急に落ち着かなくなって
懐かしい誰かに会いたくなったりする
そんな風に自分のことを大切に思ってくれてる人がそばにいて、こいしちゃんも幸せ者ですね。
「嫌われ者」の姉妹に精一杯の幸あらんことを