お酒おいしい!
いや、ね? 分かってるの。私は聖。聖白蓮。八苦を滅した僧侶。不飲酒戒に背くなんて許されざること。この行いは明らかに罪、ゆえに罰が下ったって文句は言えないわ。不届き者ね、私ったら。本当に。
けど、それを踏まえた上でも、お酒おいしい!
例えば今私が飲んでいるこの梅酒は、里の農家の方の手作りのものなのだけれど、豊かな梅香と強めの酒気が折り重なってとても素敵な風味を醸し出しているわ。少し酸味が強過ぎると言えるかもしれないけれど、ならばそこに冷えた井戸水で作った氷を少し落とせば良いだけのこと。さすればフルーティーで喉越しも素敵な一杯の完成よ。あぁもう堪らない。よし、飲み切っちゃおっと。
「……この一杯の為に苦行しているのですねぇ」
なんてセリフも思わず出ちゃったり。
もちろん、少し前まではこんなじゃなかった。
魔界での千年の禁欲生活を、私は清廉な心のままに全うした。
まぁ、時々魔界の神と縄跳びしたりにらめっこしたりで遊んだりもしたけれど。
でも、ほとんどの時間を瞑想へと費やしていたのは本当のことよ。
食べることも眠ることもせずただただ己が心を研磨し力を蓄える。
そんな時間を少しずつ、少しずつ、俯くことなく重ねていって、
そしてついに私の封印は親しき仲間達の手によって解除された!
そして降り立った地、幻想郷にて、私を待ち受けていたものは、
連日連夜の大宴会だった。
……最初は、それはもう驚いたものよ。
だって、強大な妖怪も可愛らしい妖精も荘厳な神様も普通の人間も、
皆が一様に惚けた顔で酒宴を楽しんでいたんだもの。
それが、なんだかものすごく嬉しくてね。
気が付いた時には私も彼らの輪の中に入っていて、そして盃を交わしていたわ。
人々から排斥された歴史を持つ鬼が作ったとびっきりに強いお酒。
けど、それは私の目にはとても美味しそうなものに映って、思わず一気に飲み干してしまって、そしてそれは思った通りにとても美味しくて。
なんだかちょっぴり、泣きそうになっちゃったりして。
そこからのことはあまり覚えていない。
吸血鬼のお嬢さんが口当たりの良いフルーツワインを飲ませてくれたり冥界の管理者の方が澄みきった冷酒を持って来てくれたり河童の子が麦酒なる珍妙な飲み物を用意してくれたり陽気な夜雀さんが人間達に人気だという焼酎を注いでくれたり、しまいには八雲がスキマから「出羽桜」なる物凄く美味しい大吟醸を取り出してきたり!
そんなこんなで、いつの間にか私はお酒無しでは生きられない身体になってしまいましたとさ☆
「はぁ」
溜め息を一つ。
分かっている。こんなことはいけないことだって、分かっているの。
けれど、皆さんから頂いたお酒を無下にするわけにはいかないし、宴会で場を白けさせたくないって気持ちも本当だから。
だから、私は、お酒を断つことなんか叶わなくて。
「これじゃあ、皆に嫌われちゃうわねぇ」
星、一輪、雲山。仏門に相応しく、真面目な者達だ。指導者たる私が呑んべぇだという事実を知ったら彼女達はどう思うだろうか。
……軽蔑するに、決まっているか。
ちなみに、ナズーリン、水蜜、ぬえにはこうして私がお酒を隠れ飲んでいることはとうにバレている。というか彼女達も実はお酒好きで、曰く「酒呑み同士は引かれ合う」のだとか。飲酒を始めてまだ日の浅い私には良く分からない感覚だ。けどまぁ、そんなこともあって、彼女達とは今では良い飲み友達である。一輪のパトロールを掻い潜って酒宴を開くのはなかなか楽しい。
けれど彼女達は私と違って飲酒をしてることが周囲にバレてて、時たま一輪に怒られることがあっても「まったく、程々にしなさいよ」なんて言葉で釈放されたりする立ち位置にいて、なんというか、やはり私とは立場が違うんだよなぁ、なんて思えてきてしまうことが結構あって、それで私は
――あぁ、やめやめ。
こんな陰鬱な気持ちで飲むなんて、このお酒を作ってくれた農家の方に失礼だ。
気持ちを切り替えないと。
私はグラスを勢いよく傾けて残っていた梅酒を一気に
「聖、入りますよーって酒臭ッ!」
「ブフッ!」
噴いた。
「ちょ、大丈夫ですか聖!」
「ケッホケッホ! だ、大丈夫よ水蜜。入ってきたのが星だったらたぶん卒倒していたでしょうけれど。ケホッ」
「なら良いですけど……。ところでこの部屋、お酒の匂いが凄いことになってますよ」
あぁ、せっかくの梅酒が畳に吸い込まれていく。なんということ。
しかしこれはひとえに私の失態だ。入室するまで水蜜の気配に気付けなかったとは。今日は少し、お酒の回りが早いのだろうか。
「聖、どれくらい飲んだんですか?」
「そんなには飲んでいませんよ。3リットル程でしょうか」
「飲み過ぎですよ」
え。そうかしら。
「それと、どうして外套一丁しか身に着けていないんですか。痴女じゃないですかそれじゃ」
「なんだか身体が熱くて。少し、酔ってしまったのかしら」
「酔い過ぎですよ」
あ、あら。そうかしら。
水蜜は今シラフのようだし、これは、思考がズレているのは私の方、ということなのかしら?
――ふむ。
他者に指摘される程の異常を自覚できていないというのは流石に危ない。
どうやら私は、自分で思っていた以上にアルコールを摂り過ぎていたようだ。
考えを改めなければいけない、か。
グラスを机に置き、目を瞑る。
淡い光。
初歩の魔法の発動。
畳に零れた梅酒は音も無く中空へと吸い上げられ、入口に佇んでいる水蜜の横を駆け抜けて行き、そして庭先に生えている松の根元にパチャリと落ちた。
いくらなんでもこの程度のことをノーモーションで行えない程錆びてはいない。
しかし油断は禁物である。
今後は意識して飲酒を自重するようにした方が良いだろう。
瞼を開けて視線を水蜜の顔へ向けると、そこには安心の気持ちが含まれた明るい笑顔があった。私の改心が伝わったのだろうか。思わず私もクスリと笑う。川底から陽の下に浮上したような、そんな温かさが胸中に生じた。“聖”を掲げる以上、このような心境の方が居心地がいいな、と思う。私は責任ある立場にいるのだ。ゆえにこの身は努めて清くあらねばならない。自戒をせねば。酒に溺れるなど言語道断なのである。
ふぅ、と軽く息を吐き、私は意気を入れ替えた。
「そういえば水蜜。あなたは私に何か用があったのではないのですか?」
「あぁそうでした。魔理沙が、今晩博麗神社で宴会をやるからお前たちも来い、と私達を誘いに来たのですが、どうしますか?」
lll
お酒美味しい!
「へえ、良い飲みっぷりだねぇ、住職さん」
「レミリアさんの用意して下さったワインがあまりに美味しくて、つい。ごめんなさい」
「いやいや、謝ることはないけどね。咲夜ー、フルボディをもう一本持って来てー」
やっぱり宴会って良いものよね!
いや、ね? 分かってるの。私は聖。聖白蓮。八苦を滅した僧侶。不飲酒戒に背くなんて許されざること。ええ、ですから、その、……はい、ごめんなさい。自覚してます。白蓮はダメな女です。ごめんなさい。ごめんなさい。
「うぅ」
「うん? どうした住職さん。もう酔ってしまったのかしら?」
「あ、いえ、決してそういうわけでは」
「夜はまだこれからだよ。さぁ、もっと飲もうじゃないの」
「ありがとうございます」
あぁ、赤ワインが美味しい。泣けてくるぐらい美味しい。フルーティーでありながらトロリと舌に残る独特なまろやかさのなんと神秘的なことか。これはもう芸術と言って良いかもしれない。葡萄の果汁に浸し尽くしたルビーはきっとこんな味がするのだろう、なんて思える程に高貴な味わいをしているのだから。酒菜として置かれた肉厚なローストマッシュルームも濃厚なドミグラスソースがたっぷりとかかっていて非常に美味である。素晴らしい酒宴だ。最高の夜だ。これじゃあどこをどう探したって赤ワインの減らない理由なんて見つけられないだろう。
「聖。少し飲み過ぎでは?」
あ、あら。星。
「郷の皆さんと交流できるこの場で酒を飲むな、とは言いません。しかし、冷静な思考を失う程の勢いで飲むのは止しておいた方がよろしいかと」
あう。
「それに、正しき道を説く僧が酒を好んでいるなどと周囲に思われるのも問題です。イメージの低下はそのまま我が寺の衰退に繋がってしまうのですよ」
あうう。
た、確かにその通りなんだけれど、なにも今言わなくたっていいじゃない。この手に持ったワイングラスを私はどこに持っていけばいいのよ、もう。
「はは、高名な僧侶様も、どうやらペットのしつけは苦手と見えるわね」
「む。レミリアさん、私は聖のペットなどではないのですが」
「そうかい? 場の空気を読まずに吠えかかってくるなんて、まさに出来の悪いペットの行動そのものだと思ったのだけれど」
……まったく。酒の席ではこういうことが起こりやすいと、星も分かっているだろうに。
彼女はどうにも頭が固過ぎる。まぁ、その実直さが何よりの魅力でもあるのだが。しかし、だからといってその言葉全てに頷く訳にはいかない。
「レミリアさんは一度我が法の光に当てられた方が宜しいのでは?」
「当てられてどうにかなるもんでもないけれどね、どうしてもというなら、戯れてみようかしら?」
「双方、収めて下さい」
間に入る。
「レミリアさん、どうもすみませんでした。ほら星も、謝りなさい」
「聖、私は何か間違ったことを言ってしまったのですか?」
こちらを見る寅の目は不安の色を揺らめかせながらも真剣そのもの。自身の発言に確固たる正義を持っているがゆえの瞳だろう。
本当に真っ直ぐな子だ。
「そうですね。間違っているとは思いません。正論ですよ、あなたの言葉は」
「では!」
「しかし、世には正論よりも優先すべきことなど山のようにあるのです。この酒宴も、その一つ」
これは言い訳などではない。
れっきとした私の信条であり本心だ。
「確かに僧たる私が過ぎた飲酒をすることは良くないことでしょう。不道徳でありますし、不利益でもあるでしょう。しかし、それを踏まえた上でも、勢い良くお酒を仰ぐことは大切です。なぜなら今此処は酒宴。誰もがお酒を飲み心を露わにし本音を語る場。最良は皆さんとの繋がりを尊重する為にためらわず盃を交わすことにあるのです。自己開示の返報性、と言ってもいいかもしれませんね。存分にお酒を楽しんでいる者の前に戒律を理由としてお酒を渋る者がいては興も乗らないものでしょう? そういうことですよ。聖も魔も、人も妖も、大も小も、その全てに門を開くのが我ら命蓮寺の在り方。この宴会に参加されている方の全てが我等の友なのです。空気を悪くして良いことなどありません。ゆえに、私達も、存分にお酒を飲むべきなのです」
「聖、そこまでお考えに! 分かりました。私から異論はありません」
よしっ。
なんだか思った以上に上手くキマッた。
ほら、星がほっぺを朱に染めてる。これはメッセージがしっかりと心に打ちこまれた良い証拠でしょう。
自身の信条をしっかりと説きつつ星のお酒に対する固い考えを融解させる。酔いで頭が柔軟になったからか、我ながら随分と良い仕事をしたものだ。自分で自分を褒めてあげたい気分。だから、赤ワインをグイッとね。
「なるほど! 賑やかな酒宴に参加するのであればそのように大きな動作で酒を飲むのも立派な行為として褒められるものなのですね聖!」
そうよ星その通りよ広い範囲で物事を考えれるようになってくれて私は嬉しいわあぁ良い仕事をした後のお酒が美味しい。
「レミリアさん。先程は、失礼な物言いをしてしまって申し訳ありませんでした」
「ん、あぁ、いいよ。私の言いたい事は全て住職さんが言ってくれたからね。つまりは、そう、白タイツの転校生なのよ」
「……自己開示の返報性?」
「そうとも言うわね」
星とレミリアさんもちゃんと仲直りをしてくれたようだ。これにて一件落着。
良かった良かった。
「しかし、住職さん。貴方はどうやら本当にイケる口のようだねぇ。初めて会った時はどんな堅物なのかと少し面倒に思ったものだけれど、なかなかどうして、本当におもしろいじゃないか」
「いえいえそんなことは。ささ、もう一杯」
「あら、ありがと」
レミリアさんの空いたグラスに私はワインをトクトクと。
刹那、注がれた酒精は一気に小さな口へと飲み込まれていって、グラスに残る赤は僅かな滴のみとなった。
やけに急いで飲まれたものだ。
「素晴らしい飲みっぷりですこと」
「この程度は晩飯前さ。さて、ところで住職さん、――いや」
静かに笑い、
「白蓮」
レミリアさんは空になったグラスを後方に放り投げた。
背後に控えていたメイドさんが少しも驚くことなくそれを手のひらに収める。
そして、深紅の眼光が私を射抜いた。
「そろそろ隠すのはやめておきなさい」
それは夜を凝縮したような声。
しかし、決して底冷えのする響きというわけではなく、
むしろ、月下にて燃え上がる今のこの酒宴に近しい熱を有していて、
戦慄に似た感情を抱きながらも、私が不意に浮かべてしまったのは、ゆっくりとした
笑顔だった。
それを見て、レミリアさんは存分に牙を出した。
「宴会の空気を読んで酒を飲む。ははっ、素晴らしい心掛けよね。しかし、どうにも私には鼻に付く」
いつの間にかその手に持っていたのは大きなジョッキ。
「お前が求めているものはなんだ? 宴でうまく立ち回ることにより得られる名声? それとも争いの無い平和な夜? 違うでしょう」
内にあるのは麦酒。
それを一気に喉へと注ぎ、
そして空となったジョッキを床に叩き置いて、
「酒だ」
堂々と言い放った。
「酒は良い。くだらない思考を吹き飛ばす程に美味い。心を満たし震わし、そして露わとしてくれる。本当の自分とご対面、というやつかしら」
先程まで飲んでいた赤のボトルを手に持ち、私へと軽く投げる。
受け取ったそれにはまだ半分以上のワインが残っているが、
「お前は、そのことを、心から知っているだろう?」
私は、その全てを一気に飲み込んだ。
「流石」
パチパチと拍手が送られた。
しかしその目は、笑っているのかいないのか、よく分からない。
ただ一つ分かることは、彼女は私を――
「おっと、勘違いしないで頂戴。私は別にお前を試そうとしているとか、そういうことを考えているわけじゃないよ」
――っと、あら?
この熱を含んだ覇気はてっきりそういうことなのだと思ったのだけれど。
では、いったい彼女は何を狙ってこのようなことを言い出しているのか。
「そう難しい顔をしなさんな。私はお前が不自由に見えたから少し教えてやろうと思っただけさ。大事なことをね。どうせ知らないんだろう? お前は」
きっと今の私の目には疑惑の色が分かりやすく浮かんでいることだろう。
そんな私にズイと差し出されたのは、彼女が手に持っているのと同じ、麦酒の入った巨大なジョッキ。
「幻想郷ではね」
それを受け取ると、
「酒に強い者が偉いんだよ」
ガツンと、レミリアさんは自身が持っていたジョッキをぶつけてきた。
あまりにも荒々しい乾杯、そしてその勢いを加速させて一気に麦酒を飲み干す姿は、得も言われぬ程に勇猛であった。
追うようにして私も仰ぐ。
瞬間、強い風が吹き、雲は流れ、月が一層強く輝いた。
「さぁ、さぁ、さぁ、呑みましょう聖白蓮。こんなに月も綺麗だからね。なに、そう硬い表情をするな。先程も言った通り私はお前を試そうとしているわけじゃないのだから。あぁそういえば“悪魔は人を訪ねるのに忙しい時はその代理として酒をよこす”などという格言もどこかの国にはあったかしら。それゆえの警戒かい? 私の鼻が利くのはそういった事柄とも関連付いているのかもね。お前の心は酒を望んでいる。ふむ、なるほど、確かにその事実を直感せしめた我がセンシビリティーは凡百には働かないものだろう。だがしかし、勘弁してほしいとも思うねぇ。私にはそのような悪趣味は無いよ。見ろ、私は今こうして正々堂々とお前の前に立っているでしょう。そうしてお前に言葉を投げかけているでしょう。共に飲もうと、共に騒ごうと、共に夜を駆けようと、そう言っているんだよ。なぁ、白蓮」
思わず笑ってしまった。
あぁ、なるほど。
なんだ。そういうことか。
ようやく分かった。
水蜜達が言っていた「酒呑み同士は引かれ合う」という言葉は、つまりこういうことなのだ。
放つ言葉は尊大にして迸る覇気は強大ながらも、しかしレミリアさんの望んでいることはつまり“遠慮することなくお酒を酌み交わしたい”ということ。
それが私の直感が得た答えである。
きっと間違ってはいないだろう。
私達は互いに組織のトップたる立場だ。ゆえに好き放題にお酒に溺れることなど普段からはもちろんできない。
だからこそ、思いっきり盃を交わすことのできる今のこの場は大切で、
そして、私達の心に炎が灯ることは至極当然なのだ。
「その笑顔は了承と受け取るぞ」
悪魔が笑って私のジョッキに麦酒を注ぐ。
そして自身のジョッキにもトポトポと。
心地の良い音が鳴り終わり、空になったビール瓶を横にポイと投げると、
「――やぁチビッ子と新参者。目立たない所で、なんともおもしろそうなことを始めようとしているじゃないか」
それはパシリと音を立てて八坂様の右手に掴まれた。
「“酒に強い者が偉い”。なかなか良い言葉だね。おかげで少し、私も熱くなってきたよ」
そして左手に持ったジョッキを一気に傾ける。
時間にしておよそ三秒。それだけの内にジョッキは空となった。
なんという早業。疾風迅雷とはまさにこのことか。
その時、そちらを見てニヤリと笑ったレミリアさんの
「偉いといったらさとり様が一番なんだけれどここには来てないから私ががんばる!」
前に乗り出してきたのは太陽の力を持った地獄鴉さん。
頬を紅潮させて元気に笑う彼女の姿はこの酒宴の体現と言って良いと思える。
そして、
「あれ? でもここ、お酒が無いよ?」
「あらごめんなさい。こちらにあった麦酒があまりに美味しそうだったので、先程全て頂いてしまいましたわ」
麦酒樽の隣に座り、静かにジョッキを置いたのは冥界の管理者さんであった。
――って、ちょっと待って。今この方はなんと言った?
全て頂いた、と聞こえたのだけれど、まさかそんなことは。いくらなんでも信じられない。あの樽には少なく見積もっても全容量の七割以上の麦酒が残っていた筈だ。それを全部? 冗談でしょう?
けれど、彼女の微笑みから感じられるプレッシャーは私の疑心を吹き飛ばす程に幽雅で。
「まぁ安心なさいな。酒樽の二十や三十、須臾の間もあれば用意できるんだから」
振り向けばそこには数十の樽を背後に、ジョッキをクルクルと手で弄びながら立つ永遠亭のお姫様がいた。
これだけのお酒をいったいいつの間に用意したのか。まったく知覚できなかった。
ザワリと肌が粟立つ。
それは、ジョッキを持って集まったこの者達の実力を直感したため。
そして、
「へぇ、図らずも各勢力の代表者が集まった感じだねぇ」
「いいんじゃないかい? ここらで一つ実力をハッキリさせるのもまた一興さね」
「こういう催しは萃香が好みそうなものだけれど、彼女はいったいどうしたのかしらぁ?」
「伊吹さんならさっき星熊さんと殴り合っていたよ! ふたりとも今は神社の中で寝てる筈!」
「ならしょうがないわね。まぁ私達だけでも十分に楽しめるでしょう。はいはい、各自ジョッキ持ってちゃっちゃとお酒を注ぎなさい」
これから始まる酒宴の盛況を予感したため!
「呆けてる場合じゃないよ、白蓮、さぁ酒を構えなさい! 乗り遅れるようなら容赦無く置いて行くぞ!」
この昂る心を放置できる筈がない!
誰が乗り遅れるものか!
「良い目だ! 待つ必要など無かったか! ならば、いこうか!!」
そして皆がとびっきりの力と気合を身体に込めて、
「乾杯!!!」
「「「「「乾杯!!!」」」」」
盛大にジョッキをぶつけ合った。
それはまるで星と星との衝突音。
そして、嵐が生まれた。
喉が鳴るのは数度にして麦酒が消えるのは一瞬の出来事。そして刹那の内におかわり。二杯目。しかしそれもまたすぐに飲み込まれていく。私を含めた六名が六名共まごうこと無き全開の勢い。ゴクゴクゴクリと麦酒は消えゆき気付けば既に三杯目。おかわり。そして満ちていく四杯目。躊躇無く一気に飲んで。次は五杯目。もちろんまだまだ余裕で。六杯目。むしろ加速していって。七杯目。トップスピードを目指して。八杯目。調子を上げていって。九杯目。笑顔が一層輝いて。十杯目。もう飲んだ杯の数を数えるのもめんどくさくて。
「美味い!」
「美味しいわねぇ」
「美味しいわ!」
「美味いねぇ」
「美味しい!」
皆が吠えるのは全て同内容。というか言わなくたって周知であろう内容。けれどそれを放出したくなるのも仕方がない程のエネルギーがドンドンと溜め込まれていくのであるから咆哮するのもしょうがないわよね。なんて思ってジョッキをグイッと一気飲み。その時唐突に歓声が聞こえた。見渡せばそこには大量の観戦者達。皆一様に酒を片手にこちらを見て喚いたり笑ったり叫んだり。良い空気だ。素敵な熱気だ。宴とは素晴らしい。気分が高揚し身体が発熱するのを感じた。ゆえにゴクリと追加の麦酒。けれどそれは熱を鎮めるどころかより一層のエネルギーを注入するばかりで、私は殊更にスピードをあげて杯を仰ぐしかなくて、そうして求めるのは当然おかわりで。
あぁ、でも、
――足りない。
正直、これくらいじゃあ全然足りない。
この燃え上がった舞台にてなお飢え続ける我が魂を満たすにはまだまだ酒が足りなさすぎる。
これだけの実力者が思う限りに宴と踊ろうとしている時にこんなチマチマとした調子で飲み進めていくようでは不完全燃焼に陥る可能性とてあり得るだろう。
冗談ではない。
一期一会の貴重な炎をこんな消極的な形で消してなるものか。
酒に強い者が偉い。その言葉をきっかけとして始まったこの嵐。
私には地位や名声などに固執する気は毛頭無い。
だがしかし彼女達は、この楽園にて誇りを掲げ続ける彼女達はきっと、こんな遅々とした小競り合いで満たされる筈などない筈だ。
まさかとは思うが、
私に配慮しての有様、
なのだろうか?
私は魔法使いだ。しかし、元は人間であるし自分が今でもその側に意識を傾けがちであることも理解している。
それを見抜かれているのか?
人間を交えての宴ということで配慮されているのか?
私は手加減をされているのか?
そんなこと――
「こちらから願い下げです!」
気付けば私は叫んでいた。
そして、
酒樽を両手で抱き上げ、
「これが! 私! なのですよ!」
満杯の麦酒を一気に口に流し込む。
木々の揺れる音が周囲から聞こえた。でもそんなことは今はどうだっていい。大切なのは、この宴の炎を猛らせ続けること。ただそれだけなのだ。
飲みきる。
樽を置き、軽く口元を拭い、振り返ると、
そこには幾つもの鋭利な笑顔が並んでいた。
「ふうん、新参者自ら口火を切るとわね」
はたしてその言葉は誰が発したものであっただろうか。
もしかしたら全員が言ったものなのかもしれない。
なぜなら、彼女達の誰もが不遜に笑い、ためらうことなくジョッキを放り投げ、樽を掴んで、その口に大量の麦酒を流し込み始めたのだから!
そして瞬く間に空となっていく酒樽の数々を見て、
「ふっ」
誰かが笑った。
「ふふっ、ふふふふっ」
それが私の笑い声だと気付くのに三秒の時間を要した。
熱が伝導するかのように、皆も笑い声を上げていく。
酒樽を前にして揺れる炎は六つ。
それを見る周囲の目は怯えているような色を浮かべている。今時の言葉を使えば“引いている”という状況だろう。
知ったことか。
今大切なのは対外イメージなどではない。
お酒を力一杯飲むこと。
ただそれだけなのだ。
「さぁ、ここからが本番ですよ!」
叫び、酒樽と共に天へと飛翔する。
もちろん対戦相手たる彼女達はそんな私に引くことなどなく、いやむしろ私の速力を凌駕する勢いで以って夜空へと駆け昇り、そして当たり前のように酒樽を口元へと運んだ。
そう、我等の酒宴とはこのようなものであるべきなのだ。
派手に、激しく、はばかることなくただただ全力でお酒を飲む。
それこそが究極なのである。
月の下にて空となった酒樽が踊り落ちてゆく。
誰もが本気で麦酒を飲み干していっているのだ。
……やはり、速い。酒飲みとして彼女達は真に強者だ。
全てをさらけ出さなければ私などでは到底勝つことなどできないだろう。
ゆえに私は衣服を脱ぎ捨てた。
今の私の格好は裸身に漆黒の外套が一枚だけ。
もっとも身軽で、もっとも放熱しやすく、そしてもっとも感覚を研ぎ澄ますことのできる、私の本気の姿である。
覇気を光に変換して一気に放つ。
これで、私が遅れをとることはない!
勢い良く傍にあった酒樽をむんずと掴み一気に仰ぐ。
迸る麦酒の味は格別であった。
「お酒美味しい!」
そして、私の咆哮は全天に響き渡った。
lll
「で? 昨晩の行いについて、なにか言っておくことはありますか。聖?」
いや、ね? 分かってるの。私は聖。聖白蓮。八苦を滅した僧侶。不飲酒戒に背くなんて許されざることですからそのはいごめんなさいごめんなさいごめんなさい調子に乗り過ぎましたごめんなさい。ゆえに現在私は命蓮寺の板敷きの上で土下座中です。ごめんなさい。
あぁ私を見下す皆の視線が痛い。
心臓が滅茶苦茶に破れてしまいそうだ。
しかし、それも因果応報のことであろう。
昨日の私は明らかにぶっ飛び過ぎていた。寺の住職としてはもう究極的なまでにダメな有様であった。今朝の文々。新聞の一面には「光る酔っ払い!」の見出しで酒樽を仰ぎながら色々とさらけ出している私の写真が大きく掲載されていたりするのである。泣きたい。アブナイ箇所が椛マークで以って隠されていたことが唯一の慰めか。けれど出来ることなら昨晩にタイムスリップして自分の頭を砕いてあげたいと心から思う。時空跳躍魔法、頑張って取得してみようかなぁ。レミリアさんのお家の大図書館に行けば良い資料が見つかりそうだし、実現性は存外高いように思えるんだけれど。
なんて、
そんな逃避の思考をして良い状況でないことは明らかで。
今の私にできることは、
「……ごめんなさい」
誠心誠意謝罪をすることだけなのである。
私の飲酒癖を隠してくれていた水蜜、ナズーリン、ぬえには申し訳が立たないし、星、一輪、雲山にはそれこそ裏切りに近いことをしてしまったのだ。
言い訳などできる筈がない。
ただ謝るだけ。
もちろん許されないであろうことは分かっている。
おそらく真面目な彼女達は私の下から去って行ってしまうだろうことも、分かっている。
けれど、それでも、私は頭を下げることをやめない。
千年もの間こんな私を慕ってくれた彼女達だ。
頭を下げても下げても、下げ足りないなんてことはない筈なのだから。
「あなた達がここを出ていくと言うのなら止めることはしません。私が出ていくべきだと思っているのでしたら、私はすぐにでも荷物を纏めましょう」
「聖」
「しかし一つだけ言わせてください。私は皆を失望させてしまいましたが、皆を想う気持ちに嘘はありませんでした。それだけは、信じて頂ければ嬉しいです」
「聖ッ」
少しの怒気を含んだ星の声が堂内に響いた。
反射的に身を固くする。
と、その時、
私の肩に手が軽く置かれた。
「……どうか顔を上げてください、聖」
そして降ってきたのは、先程とは異なる、鋭さなど欠片も存在しない丁寧な言葉だった。
「私達があなたを追い出す? そんなことは絶対に起こり得ません。あなたは私達みんなの光なのですから、そもそも離れられるはずがないのです。ですから、どうかそんなにかしこまらないでください」
声に導かれて顔を上げると、そこにあったのは柔らかな笑顔。
その柔和な表情に少しだけ困った心地を混ぜて、そして星は言葉を続ける。
「あなたは聖人であるが、しかし完璧超人などではない。そんな当たり前のことを私達は失念していたのです。ゆえに、昨晩の出来事には驚きもしましたが、……同時に、そのことを思い出す良い機会ともなりました。本当のあなたを知ることのできたあの酒宴は大切なものであったと、私は心から思っているのですよ」
まぁ流石に服を脱ぐのは勘弁ですけどね、と言って星は頬を染めながら笑いかける。
その後ろで、水蜜も一輪も雲山もナズーリンも、そしてぬえも、皆が皆、朗らかに笑っていた。
トクンと心臓が音を立てて鳴った。
コホンと星が咳をして言う。
「聖。あなたは間違いを犯してしまうこともあるでしょう。そしてあなた一人ではその間違いを正せないことだってあるでしょう。ならば、それを正せるように支えてあげるのが私達の成すべきことなのです。あなたを見捨てるなんて、絶対に、絶対にしませんよ」
私を見つめる皆の後ろから陽が差し込んだ。
堂内に明るい光が満ちる。
「……ありがとう。皆、本当にありがとう」
礼を言うことしかできない。
この想いを形にするのなら「ありがとう」という言葉以外はあり得ない、となんの誇張も無く本心から思えた。
感謝を。
心よりの感謝を。
「あなたは私達の光なのです。さぁ、そんな顔をせずにどうか、笑ってください」
気付けば私の回りに皆が集まっていた。
その誰もが私を受け入れてくれようとしている。
「……本音を言うと、昨夜のはっちゃけたあなたの姿を見れて、私はちょっと嬉しかったりしたんですよ。あなたはどこか、常に完璧であろうと思い続けるが余り自らを固く縛り過ぎているきらいがありましたから」
あぁ、私は幸せ者だ。
こんな情けない体たらくなのに、こんなにも想いを傾けてくれる者達がいるだなんて。
「あなたが間違いを犯そうとするのであれば私達が全力でそれを直します。だから、あなたはもっと、思うがままに生きて良いのですよ。聖。どんなことがあろうと、私達があなたの下から離れることなどないのです」
私は少し、つまらない考えに囚われ過ぎていたのかもしれない。
矮小な自身の外観を良く見せることに心を砕き、自らを慕ってくれていた仲間達に対して警戒に近しい感情を持っていた。
なんと恥ずかしいことだろう。
そんな小細工をろうして、そうして行きついた場所がここなのだ。
私は自滅し、
その上で、皆が私に手を差し伸べてくれる、
この状況が答えなのだ。
私はもっと自らの弱い心をさらけ出し、仲間達を信じるべきだったのだ。
もっと、素直になるべきだったのだ。
おそらくレミリアさんが私に伝えたかったことは、このようなことなのだろう。
彼女は一勢力の主でありながら常日頃から不遜で我が儘な行動ばかりをとっている。
それは子供っぽく考えの無い行動などではなく、
虚構を纏うことの虚しさを知り、そして仲間達との絆を信じているからであろう。
そのようにして上に立つことの大切さを悟っているからこそ、彼女は酒宴を用いて私の本当の姿を引き出したのであろう。
彼女にも、心からの感謝をしたい。
あの自分本位とも言っていいだろう素直さこそが、きっとなにより私を良き方向へと導いてくれるのだから。
これからはもっと、心を偽らず正直に生きていこう。
そう、心に強く、私は誓った。
「ねぇ、星」
「なんですか、聖?」
「なんだか凄く喉が乾いちゃったわ。ちょっと麦酒を飲んでも良いかしら」
「ダメですよ」
あ、あら?
―終―
お酒の美味しさが伝わってきて私も飲みたくなりました。
>「光る酔っ払い!」
笑いました。
な、何だってー!!
やっぱり幻想郷ってすげえなぁwwww
とても面白かったです!
こういう熱い雰囲気の宴会って、なんかいいよな・・・
だけど白蓮さん、酒に飲まれ杉
色々とさらけ出しているとか椛マークって何だよw
聖人君子なイメージのある聖を壊すというほどではないにせよ、一般的なイメージとかかけ離れたキャラクター設定で、見事に一つの物語を完結させていて、非常に読み応えのある作品でした。
「光る酔っ払い!」には思わずふいてしまいました。
お二人の次回作にも期待しております。
構想は良い意味であまり見ない内容でしたし、文章も説得力があり、しつこくなくてスラスラ読めてしまう
本当に楽しませていただきました、今後の活動にも是非期待しています ひじりんペロペロ
ま、こうあっても良いんじゃないかと思いました。
綺麗に纏まっていたしオチが可愛かったです。
しかし何故に縄跳びやにらめっこwww
タイトルのセンスの無さで減点
面白かったよ
微笑ましい作品でした。
聖がどうしても星にしか見えなかったのが残念
面白かったです
「可愛いなあ」とか「面白いなあ」より先に「羨ましいなあ」と感じる自分にちょっとビックリ。
>時々魔界の神と縄跳びしたりにらめっこしたりで遊んだりもしたけれど。
このへんちょっと詳しく
楽しい作品をありがとうございます。自分も酒呑みなので聖の気持ちはよくわかります。でもはっちゃけ過ぎだろww
ビールを初めて美味いと感じた時のことを思い出した
でも短くまとまってる
とても楽しませてもらいました
この聖はちょっとダメでかわいい聖ですね!
やだ白蓮さんかわいいw
すげー楽しそうな宴会、そしてはしゃぎすぎひじりんが可愛すぎる
各陣営トップは皆酒豪なんだなw
やっぱこの時期飲んだら脱いでナンボですよね。わかります。すごく。
てか樽に口付けて飲めるものなのかとか、飲んだ質量は何処にとか色々突っ込み所があってですね。
。。。何かもう色々と敗けました!お酒おいしい!
この作品自体が幻想教のある種のカオス性を集約しているような気がします。
いい幻想郷だなあ。
本当に、美味しそうにお酒を飲む聖がとても楽しそうでなによりです。でもほどほどにね…
なんかもう素敵な世界としか言えないですね
ツボッたwwこれほど聖らしくないセリフは今まで聞いたことがないです
これはダメすぎる白蓮w
しかし、一気に最後まで読ませる筆主様の力量はお美事。
持ってけ100点!
公式で宴会三昧の幻想郷、毎回こんな莫迦騒ぎかと思うと微笑ましくもあります。
みんなと一緒にお酒が飲みたくなる素敵なSSでした。