何かが湖に落ちた音がして、私は目を開いた。
門前から見えるあたりで水柱が立ち、それから二、三度水面を叩く音がして、静かになった。
魚にしては跳ね方が大きい。後を濁すように続く忙しない水音も、およそ魚の立てる音じゃない。誰かが飛び込んだのだろう。
暑いから水浴びしているのだろうか……こんな夜中に。
奇特な奴も居るものだ。
朔日(ついたち)の丑三つ刻。人ばかりか草木も眠ると言われる刻限、いくら暑さ厳しい葉月末の夜といえ、水泳をするには暗くて大変だろうと思う。
当然月は見えないから、月明かりは頼れない。といっても月は、出ている事には出ている。朔日は「月立ち」の意であり、月が隠れてから顔を出し始める日なのだ。
月の満ち欠けに生活のリヅムを刻む私達妖怪にとっては、実に喜ばしい日でもある。だから浮かれた妖怪が湖で水泳に興じる事も、まあ無いとは言えない。かく言う私だって、こんな蒸し暑い夜中にぼんやり門番するのは少しつまらない。たまには泳ぎたいなあと思う。
そんな風に愚痴っても仕方無い。私は門を守るためここに居るのだから、気分を入れ替えて仕事をするだけだ。
両腕を伸ばし、少し体を後ろに逸らせて大きく伸びをする。ついでに大欠伸。
一、二、三。
うん、まあそんな感じだろう。
ぐうと握った手を広げ、両頬を軽く叩いて気合を入れる。
……や、別に眠くなんて無い。欠伸というのは体内に多く酸素を取り入れようとするための、無意識的な深呼吸なのだし。
私は気を使う程度の能力持ちだから、こうして気分を入れ替えることで心機一転、門番の務めに集中できるのだ。……本当よ。
ちらと、館の方を向いてみる。
──紅魔館。今私の立つ真後ろ、象でも余裕で通れそうな幅の鉄柵門から中を見れば、とってもとっても綺麗な色とりどりの花壇がある。私が世話をしている。うん、ちょっと自慢してみた。何なら一度見においで。
そのまた向こうにあるのが紅魔館だ。大きな時計台は館の酉(とり)に位置して、象徴となっている。連結する館も広く、欧州の修道院のような作り、と言えばしっくりくる。かつては本当にそうだったのかも知れない。
けれど館には、採光用の窓は少ない。窓があった箇所のほとんどは赤土で潰されている。代わりに三階にはバルコニイが設えてあり、昏い雰囲気の館にあってそこだけは開放的だ。下方に色とりどりの花壇を臨む、憩いの場となっている。妖精メイド達の普段お気に入りの場所で、よくお嬢様もお八つに使っていらっしゃる。
全体的に落ち着いた雰囲気で、細部にこだわりを感じる作り。ロマネスクあたりの建築様式なのかと思ったけれど、どうも幾つかの建物を綯い交ぜにした、お嬢様オリジナルらしい。だからあんな彩色になってしまったのかと、そこだけは残念に思う。
さておき。
紅魔館は四方を厚手の赤煉瓦で囲われているから、艮(うしとら)に設けられた通用門(名ばかりで誰も使わない)以外ではここが一番よく見える。逆に言えば、館側からもこの門で起きている事は筒抜けなわけで。
居た。咲夜さん。
二階右手の窓から、こちらを横目で覗いてる。多分部屋の掃除をしているんだ。
手を振って、笑顔で挨拶してみた。無視された。残念。
まあ挨拶は明日にもできるさ。そう気を取り直し、私はまた門外へと向き直る。
今宵は朔の日。闇夜に乗じて、どんな輩が悪さをしに来るか解らない。この紅魔館の門前で不埒な行ないをする奴は、例え強敵でも倒してみせる。それが私の務めなのだ。
気を張り、鋭敏となった五感で周囲の気配を探る。私の能力は伊達じゃない。極限まで研ぎ澄まされた感覚は、身体を離れ、周囲の全てを包み込むように状況を把握できるのだ。今の私は蟻の子一匹だって逃がしはしない。
──そこッ
「藪っ蚊が多いなあ」
左腕に食い付いた藪っ蚊を退治。
……まあ蟻の子一匹逃さないったって、役に立つのそんなもんだよね。それにしても痒い。
もう二、三度そこいらをばちんばちん叩いて、ようやく落ち着いた。いくら霧の湖が冷え込む場所だからって、夏場はいけない。水際で孑孑(ぼうふら)が湧く。湧くのは仕方無いとして、人妖構わず食い付く。妖怪の血も美味しいのかしらん。疑問だ。
落ち着いたところで再び精神集中。私がここに居るのは門番だからであり、それ以上でも以下でもない。ここでの私は、門を守る者なのだ。再び全身に気を満たし、周囲の自然と一体化するように己を広げ、辺りの状況を把握する。
もう先程のような水音もしない。静かである。
静か過ぎる。
……。
…………ぐぅ。
「こんばんは。こんな所で何してるの」
はっとして目が覚──もとい、かっと開眼する。何者かの気配を、私の研ぎ澄まされた五感が捉えたのだ。敵襲に相対すべく、とっさに身構え──
目と鼻の先に赤いリボンを着けた子の顔があったから、及び腰になり諸手を上げて吃驚した。
四。
また藪っ蚊が一匹食い付いてきた。
◇◇◇◇◇◇
その少女はルーミアと言った。妖怪らしい。今し方近辺で食事を終えたところ、この館を見つけて気になったので来たという。
「じゃあ別に迷子とかじゃないのね」
「妖怪は何処にでも在るものよ。誰かが妖怪を感得したら、そこが私達の居場所なの」
「そうなの。私も一応妖怪なんですけどね。紅美鈴って言うの」
「そーなのかー。じゃお近付きのしるしに、食べ物取っておけば良かったかなあ」
余程のご馳走にありつけたのだろうか、ルーミアは実に幸せそな顔をして笑う。上唇をぺろりと舐める仕草など、見ているだけで彼女の美味しそうに食事する風景がありありと浮かんでくる。
そういえば夜勤てお腹減るのよね。少し羨ましい……いやいや。門番たるもの、それくらい耐えられないでどうする。いついかなる時でも後れを取る事なく敵襲を退けるため、私はここに居るんだ。働かざる者食うべからず。……ちょっと違うかな。
ルーミアが私の口元をじっと見つめる。はっとして、口元を右手で拭う。
いやね、これは違うのよ。使命感に燃える私の、心の汗よ。
「べ、別にそんなお気遣いは要らないです。お仕事中なんだから。……そういえば何食べてきたの」
「人間」
悦びに満ちた眼差しで頬をつり上げ、口を獰猛に裂いて一言、そう答えた。
朔の日になると、幻想郷には度々「食べても良い人類」というのが現れるらしい。私は、気付いた頃には紅魔館の正門で門番をしていたから、そんな事があるなんて知らなかった。
そうした人間は見れば解るという。およそ幻想郷では見かけない身形をして、ふらふらと安定しない歩き方をする。
今宵の獲物は、左手首に無数の切り傷を負った少女だそうだ。
幻想郷では当たり前じみた事を語りながら、しきりに世の中が厭だと言うから、心も枯れて旨くないかと思ったら、意外と取り乱すので美味だったという。ルーミアは闇を操り、闇に対する人間の恐怖心を食うらしい。
「美鈴お腹減ってるなら、取っておいてあげれば良かったなあ。けれど御免ねえ、あんまり美味しかったから食べ過ぎちゃって。そいつ錯乱して湖に落っこちちゃった」
成程、先刻の水音はそれか。なら恐らく、今頃は湖の藻にからめ捕られて、ふやけ始める頃だろう。しばらくすれば魚の餌になってしまう、か。
少し困ったように、右手で頭の後ろをぽりぽり掻いて考える。
五、六。
──うん、いけないなあ。
「良くないわ。何だってそんな事するの。貴方もっと他者の事を考えて行動しないと駄目よ」
「……どういう意味かしらん。欲張り過ぎって事かな。やっぱりお裾分けした方が良いのかな」
そうじゃあない。もっと根本的な部分で、ルーミアは抜けている。
見た目は子供だけれど、妖怪というのは見た目で判断できるものじゃない。
誰かが感得したら、そこに妖怪は在る──それは場所だけではなく、いつどんな時代にも妖怪は在るという事だ。ゆえに妖怪は年齢という概念が無い。だからルーミアがどの程度古参なのか、見た目では判断できないのだ。
けれど基本がなっていない妖怪は、子供と同じだ。私がここで叱ってやらなければ、いずれ彼女は同じ誤ちを繰り返すだろう。
「貴方、そのまま獲物を湖に落っことしたんでしょ。服をはぎ取らずに。そんな事したら消化できない釦なんかを魚が食べちゃうし、打ち上げられた衣服に鳥が足を引っ掛けて怪我をしちゃう。昨今の湖じゃうち捨てられた釣り糸や釣り針も環境問題になっているんだから、自然に分解されない物は無闇に捨てちゃ駄目」
「そっか。果物だって余分な皮をむいて中を食べるもんね」
「ちょっと違うけど、まあそうね。はぎ取った服やなんかも分別して、後始末にも気を遣う事」
今度から気を付けるねー、と明るい笑顔で元気良くルーミアは答えた。
聞き分けの良い子だ。思わず私も後ろ手のまま彼女の目線まで腰を曲げ、にっこりと笑いかけた。
七、八。
そうそう、忘れていたけれど、もう一つ大きな問題がある。それが私としては一番いけないと思う事だ。
それは道徳上の問題、人間に対する考え方の事だ。
妖怪相手となると、これがなかなか受け入れられない。妖怪は刹那的で、基本的に人間は食うものとしか認識しない。それを理解したうえで、あえてルーミアのために教えてやらなければならない。
……理解してくれると良いのだけれど。
「それともう一つ。貴方は人間を食べたのよね」
「うん。それが何」
先刻と同じ、悦びに満ちた眼差しで答える──けれど目は、笑っていない。先程の明るい笑顔とは対照的だ。やはりルーミアもまた妖怪なのだ、と感じる。人間の笑顔のような可愛げなんてありはしない。
けれど、だからこそ。こういう事はきちんと諭してやらないといけないのだ。
「食べる前には頂きます、食べた後にはご馳走様を言わなきゃ駄目。不意に落っことしちゃったなら、まだご馳走様言ってないんじゃないかしら」
「あ。忘れてた。ご馳走様でした」
湖の方に手を合わせて、これまた明るい笑顔で元気良く挨拶した。
昨今、食に対する敬意を忘れがちな者が多い。嘆かわしい事だと思う。人間が天然自然の恵みを敬い、食物を大切に育て上げてくれたお百姓さんに謝するごとく、妖怪も餌になってくれた人間を敬い、人間を美味くなるまで育ててくれた世の中に謝するべきなのだ。
彼女がとても聞き分けの良い子で、私は嬉しい。良くできました、と頭をぽんぽん撫でてあげた。
うん、他に叱る事は特に無い。
◇◇◇◇◇◇
という所でそろそろ帰ってくれないかなあと思うのだけれど、ルーミアはなかなか帰ろうとしない。
「美鈴はこんな所に立っていて、食事しないの」
こんな事を聞いてくる。
さすがの私だって、人の姿を取っている以上は食事をしなきゃ体が保たない。他者の感得する私の姿が人間と大差無いという事は、その物理的存在自体は、人間とほとんど変わらない事に等しい。だから食事をしなきゃ倒れる。
けれど考えてみれば、私は私の意思で人間を食う事はない。たまに咲夜さんが作ってくれるお菓子には人間が入っているらしい。でも、美味いとも不味いとも……お菓子はとても美味しいけれど、お菓子にしか思えない。
それ以外では、咲夜さんと同じように、日に二度ずつ食事を摂る。それも別に人間を食うわけじゃない。咲夜さんが作ってくれる料理を、館の皆で一緒に頂くのだ。それもやはり、料理として美味しい。
「んん、お食事はしますけど。貴方みたく人間を食べる事はほとんど無いわね」
「えー、妖怪なのに。変なの。じゃ全く人間食べないの」
確かに私は妖怪なのだから、人間を食うのだ。その理から外れては、妖怪としての存在意義が無くなってしまう。
「そういう訳じゃないけれど。私は私の理に則って人間を食べるわけで、何て言うのかな。流儀が違うんですよね」
「ふうん。こんな所に立っているだけで、人間が食べられるような流儀なの」
「いや、ううん。……そういう事になるのかなあ」
「えーそんなの狡いー」
そんな事言われても困る。苦笑して頬を掻き、ルーミアを見る。彼女は何か考え事を始めていた。時折ちらちらと私の顔を見る。
……長くなりそうだな、と思った。さすがに咲夜さんあたりが怒鳴りに来るのではないかと心配になる。
「……紅衛兵かな。人間の食べ方は、同志を募って文化大革「それ以上いけない」
取り敢えず危険な香りのする話になりそうだったので、ルーミアの口を押さえた。
「別に私は紅五類でもないし破四旧に興味はありません」
「んむう。でもプロレタリアの資格は十分あると思うなあ」
「割と本気で悲しくなるから止して」
お嬢様はそんな方じゃないもん。そりゃ私よかブルジヨワだし、片や私は労働者、年中無休でお給金は現物支給……ってそうじゃない。
危ない危ない。これはきっとルーミアの能力だ。まさかこの私が紅魔館の闇に魅入られそうになるとは。闇を操る能力は伊達じゃない。
「大体紅衛兵って人間じゃないの。私は歴とした妖怪です。そもそも私が門番してるのは別に雇われ仕事じゃないんだから」
「だよねえ。じゃ僵尸(きょうし)かな。魄だけ黄泉返って人間を驚かせてお腹いっぱい」
「失礼ねッ、私まだ肌ぴちぴちだもんッ。いつも太極拳で健康に気を遣ってるしさ、こうして一、二、三、四、五、六、七、八……」
九。
ルーミアも呆れ顔で私を見る。ちょっと調子に乗り過ぎたかなと思う。
苦笑混じりに彼女へ向き直り、頭を掻いて言い訳をする。
「……あー、まあその。そもそも僵尸は動く屍体の怪異なんですから、しょっちゅう動いてちゃ怖がって貰えないじゃない」
「それもそうだよねえ。美鈴見てても別に何とも思わないもん」
少し複雑な気分だ。まあ門番しているからって誰彼構わず威嚇するわけじゃないけれど。門番としては、近辺をうろつくような不審者に威圧感を与えられれば良いのだ。
けれどどうも……性格なのかしらん。侵入する意思が無ければ、こうして立ち話などもしてしまう。
侵入する意思が、無ければ。
「とにかく、見た目で物を語るのは良くないわ。妖怪はモノじゃないんですから、見た感じを語っても仕方無いでしょう」
「……あはは。そうだよねえ──」
薄らと笑いを浮かべ、ルーミアは私との距離を取った。両腕を広げ、くるり、くるりと回りながら。実に、愉快そうに。
ねぐらへ帰る……訳ではないようだ。
何だか厭な予感がする。
「──そろそろ、お喋りはおしまい。私ね、最初に言った通りこの館が気になって来たの」
小さな胸をぴんと張り、滑らかな声でそう語る。見た目は幼い、華奢な子供だ。けれど──
朔の闇夜の、全てがルーミアという妖怪であるかのように感じられる。
「……何が目的なんですか。紅魔館では、許可の無い方の訪問はいつでもお断りしています」
「んー、目的は何でも良いし、許可なんかどうでも良いよ。妖怪に意味なんて無いの。私は私の好きなように、ここに来たんだから。ねえ美鈴」
構えを取っておいて良かった。地を掴むように踏み込んだ左足から、言い様の無い震動を感じる。
飄々と語るルーミアが向ける、私への視線。
全く、獲物を狩る寸前の獣のような目をしている。
やはり見た目で物を語るのは良くない。どんなに素直な良い子でも、どんなに幼く華奢に見えても──所詮は、妖怪だ。
「美鈴を敗かせば館に入れるんだよね。今日はお腹いっぱいだし、とっても気分が良いから──本気で、行くよ」
「食後の運動、って訳かしら。私はそんなに甘くないわよ。──紅魔館には、一歩たりと入れさせないッ」
ぐっと拳を深く握り込み、宵闇の妖怪を見据える。
弾幕勝負の開始だ。
◇◇◇◇◇◇
「あははははは。どうしたのさー。かかって来ないと敗けちゃうよー」
勝手な事を言っている。まあ当然と言えば当然で、私はずっと門前から離れず、ルーミアから放たれる弾幕をグレイズし続けている。
と言っても、ただのグレイズじゃない。全身に気を満たし、両手足で気を練り上げ、流水のごとき足さばきで狙い弾を避け──手刀、足刀で流れ弾を裂く。
気を込めた打撃が弾を相殺できる事は、最近になって知った。この技術をもっと高めれば、いずれ飛翔やダッシュ、ハイジャンプなんかでもグレイズしつつ弾を相殺する弾幕アクションが可能になるかも知れない。さておき。
恐らくルーミアには見えていないだろう。自慢じゃないけれど、私の本気の打ち込みを目で追える者には、未だかつて出会った例が無い。
それに彼女が見えているかどうかなど、少し挑発すればすぐに判る事だ。
「こんなの準備運動のうちにも入りませんねえ。貴方の弾幕、素直で単純だもの。真正面からの狙い打ちばかりじゃ、弾幕を打ち込む貴方が先にばてるのは目に見えているわ」
「む。そんな事無いもん。私だって曲撃ちくらいできるもんっ」
ぷうと頬を膨らませ、ルーミアは大きく塀の側に回り込んだ。真横から私を狙おうという算段だ。
けれど私がそちらを向けば、真向かいに相対しているのと変わらない。だから素直で単純だって言ったんだけどな。
しかもそれ別に曲撃ちって言わないと思う。
それはともかく。ルーミアは容易く私の挑発に引っかかり、全く狙い通りに動いてくれた。やはり私の拳打蹴脚と、その本意が見えていないのだ。
ぐっと腰を落とし──ひと息に、駆ける。
「わわわっ」
吃驚したルーミアは、遮二無二弾幕を張ろうとする。けれど彼女の弾は、いずれも私に狙いを付けた弾幕だ。少しだけ横に逸れれば、まるで当たらない。
「ふふん。当たらないですよー」
ぎゅっと目をつむって一生懸命に弾幕を展開するルーミア。ひょいひょいと、右に左に体を流して、私はどんどん彼女に近付く。それでも彼女は必死な顔で、癇癪を起こした子供のように、腕をふりふり弾を出す。健気だ。
「ううーっ。や、闇符・ディマーケ「遅いですッ」
更に一歩、前へ。ぱあん、と軽い音を立て、私の拳打がルーミアのスペルカアドを弾く。
素材の悪いカアドだったから、一撃で容易く四散してしまう。彼女は吃驚して、ひゃあああと叫んだなり、ころころと地面を二回程転げて止まった。
「スペルカアド破れたり、って所ですね。さあ今度は私の番ですよ」
「あわわわわわ」
腰を抜かして尻餅を突いたルーミアを前に、これ見よがしに指を鳴らせて見下ろしてみる。
彼女はもう涙目の怯え顔で、ぷるぷる震えてばかりいる。ちょっと鼻も出ている。……何という、良い顔をする子だろう。満点。
私は目を細めて上を向き、再び両手を拳に握って腰へ落とす。
これから散る、一人の妖怪少女に向けて、哀悼の意を捧げるために。
「恐るべき強敵であった……けれど惜しいかな、若かった。情けをかけ、見逃してあげるのも人の……じゃない、妖怪の道。もし貴方が精進し修行を積んだとしたら、私なぞ勝てる道理も無いだろう」
「み、見逃してくれて良いよ」
「駄ー目。ここからが良い所なのよ」
ふるふる喉をふるわせて、わななく声で答えるルーミア。やだ何この可愛い小動物……いやいや。
どんな相手だろうと、許可無く紅魔館への侵入を企てた者は敵なのだ。己の敗けを認めさせ、もう二度とそんな気も起きなくなるよう、きっちり決着させなければいけない。
だからこれは別に趣味とかじゃないのよ。仕方無く、本当に仕方無く苛め……不埒な悪党を裁く行為なんだから。
「だがしかしッ。ここ紅魔館の門を侵す不埒な悪党は、この私が許して置かないッ──例え未来ある若人……若妖怪なれど、修羅の道を歩む者には修羅の道で答えるのが道理というもの」
「わ、私、そんな乱暴な事しようとして、入りたいんじゃないもん」
俯きがちで頬を膨らませて不平を述べるルーミア。涙を浮かべた上目遣いの視線は、反則だと思う。
ルーミアを左手で制し、目頭を押さえつつ向こうを向いて、自分の頬を二、三回強く叩く。
うん、まだ平常心。まだ彼女との勝負は続いているのだ。思いっ切り抱き締めて頬擦りをするには、まだ早い。
再び両手を拳に握り、腰へ落として向き直る。何かもう面倒臭くなったから前口上良いや。
「ともかくそんな感じで、いざ、私の必殺の一撃を受けて見よッ」
「うわあーんっ」
頭を抱えて縮こまるルーミアに向かい、ばっと両手を高く掲げ、右膝を大きく構えて──
十、十一。
「──鶴の舞ッ。えいっ」
「あうあっ」
右足の爪先で、こちんと額を突く。自然、平衡を失ったルーミアは仰向けに倒れ込み。
「勝利ッ」
「……ええーっ」
一つ、不平をこぼした。
◇◇◇◇◇◇
余程加減したから痛くもない筈だけれど、私の靴は結構硬いので、一応額に膏薬を貼ってあげた。ルーミアは手持ち無沙汰なのか、何となしに膏薬をさすっている。
「酷いや、弾幕勝負だってのに美鈴ぜんぜん弾幕張らないんだもん」
「アハハ御免御免。でもまだまだ修行が足りないわね。私と弾幕勝負をしたいなら、せめて咲夜さんくらいになってくれないと」
「咲夜って誰」
「紅魔館のメイド長よ。人間だけれど凄いの。時間を操ったりナイフ投げたり」
改めて言葉にしてみて、咲夜さんは本当に人間かなあと思う。
私と対等に渡り合えるのもさる事ながら、投げナイフの精度など本当に神技と言って良い。時間を操る程度の能力というのも、およそ人間らしからぬ特異な能力だ。メイド長としてもあんまり関係無い能力だ。
そうルーミアに紹介してみたけれど、彼女は興味を持たないようだった。ふうん、と一言ぎり答えて私の顔を見るばかりだ。
「まあ、そんなの別にどうでも良いんだけどさ。美鈴」
「ん、何でしょう」
「お腹、いっぱいになったかな」
──驚いた。確かにあれだけ動いたというのに、お腹はもう空いていない。
満腹とまではいかないにせよ、確かに今私は満たされた心地なのだ。
「いっぱい、じゃあ、ないですけど……な、何で解ったの」
「んー。簡単な事だと思うよ」
とん、とんと数歩下がり、ルーミアは自説を述べた。
「美鈴の本質は門を守る事なんでしょ。さっきの弾幕勝負だって、最初は門内に見えるお庭を守っていたんだよね」
「え。知っていたの」
「さすがに勝負中は気付かなかったよ。でもほら、改めて見れば弾は塀にしか当たっていないし」
ぱっと腕を広げて、ルーミアは門前を見渡す。そう、私は弾幕をグレイズして相殺することで、鉄柵門の隙間から弾幕が入り込まないよう守っていたのだ。
私は、気付いた頃には紅魔館の正門で門番をしていた。そして今も、恐らくはこれからも、紅魔館の正門で門番をするのに違い無い。
私は、ここから離れた事が無い。と同時に、離れる事ができない。私は紅魔館の門を守る妖怪なのだ。
「妖怪は妖怪の理に則って、人間を食べるの。そうして妖怪は人間の心に巣喰い、巷間に『在る』と囁かれるようになる……普通はね」
例えばルーミアの場合。人間が闇を恐れ、それは妖怪「ルーミア」の所為なのだ、と意識すれば、彼女は人間の心に存在し、巷説として他者の心にも印象付けられる。その印象は、強ければ強い程良い。妖怪が人間を食う行為とは、そうした存在意義の強調に他ならない。
ならばこの私、紅魔館の門を守る妖怪の場合。その理に則って人を食うのだとすれば、門を守る事、それこそが同等の行為になる。私は門を守る事で、妖怪としての存在意義を強調しているのだ。
「私も妖怪だけどね、人間と同じ姿をしてるでしょ。それってつまり人間とほとんど変わらないって思われているのと同じなんだよ。だから私でも美鈴に妖怪を感得すれば、美鈴をお腹いっぱいにできるんじゃないかな、って」
「ん……成程。それで少しだけ、お腹が膨れた感じになったわけですね」
ぽん、ぽんと自分のお腹を撫でてみる。といって、別に本当にお腹が膨れたってわけじゃない。
妖怪にとって大切なのは、存在感だ。もしかしたら、いや本当に、その妖怪は在るのではないか──そういう巷間での存在感が、私達妖怪にとっての糧なのだ。
「でも何か、妖怪が妖怪を驚かせてお腹を満たすなんて、蛸が自分の足を食べるみたいで変な感じ」
「うん。自給自足できるかなー、って思ったんだけれど。駄目だね、やっぱり人間を食べなきゃ」
「いや、でも少しはお腹が膨れましたよ。上手くいったって事でしょう」
「そうなんだけど。私のお腹が減っちゃった」
ルーミアは、人間が闇を恐れる事、自分を恐れる事で存在意義を強調する。だから人間には、大いに恐れ怯えて貰わなければいけない。
けれど今回、私は彼女に打ち勝ってしまった。それはつまり、闇を、彼女を恐れなかった結果だ。それは妖怪という点において、私の中で彼女という「妖怪の存在意義」が薄れてしまった事になる。
あちらを立てればこちらが立たず。……成程、うまくいかないものだ。
それにしても、この子は。
「じゃ、これあげましょう」
私は、ポッケットから取り出したものをルーミアの口に放り込んだ。
「んん。んふ。ほれ、おいひい」
「でしょ。咲夜さんから貰った飴なのよ。咲夜さん特製のとっておきなんだから、味わって食べなきゃ駄目よ」
そう言って、私はちょいと帽子を被り直した。
十二。……うわあ。
「ん、ろうひたの」
「いやあ何でもないです。飴じゃお腹は満たされないかも知れませんけれど、まあ許してね」
「んーんー。れも、ろうひてあめくれるの」
「どうしてって。それは私が聞きたい所なんだけどね」
ルーミアが、どんな理由で私のお腹を満たそうとしてくれたのか。
それに対する答えは実に素直で、実に単純で。
「んー、らって。おなかすくのは、だれらって、いやらもんね」
本当に良い子だな、と思って。
また私は、彼女の頭をぽんぽんと撫でてあげた。
◇◇◇◇◇◇
それは正確には、妖怪ではないかも知れない。竜の子であるとされるが、しかし竜にはなれなかったという。
「升庵外集(しょうあんがいしゅう)」なる古い書物に、それは紹介されている。
「椒図(しょうず)」
椒図は閉じるのを好み、そのため門の鋪(ほ)に立っている。
鋪とは、門環の事だ。ノッカアと呼べば想像が付くかも知れない。
竜生九子という諺にもなっている。彼はその、第九子だ。彼には好むところがある。鋪に立つことからも伺えるだろう。
彼は、門を守るものだ。瑞祥であり、邪を退けて安全を保つものだ。
それが彼の、唯一明らかにされている、役割なのだ。
◇◇◇◇◇◇
(ううん……。咲夜さんに何て言おうかしらん)
満足そうに飴を頬張り、ルーミアは何処かへふわふわと飛んで行った。
紅魔館に被害は無い。塀のあちこちに被弾の名残はあるけれど、物理的な弾ではないから破損も無い。もっとも、中世頃の欧州の治安に耐えてきただろう塀だ。生半可な事で壊れはしない。
そんな事よりも困ったのは──総計十二本の、私に放たれたナイフ。
咲夜さんからのメッセジだ。
(怒っているかなあ。いやあ、怒っているよなあ)
咲夜さんは忙しい人だ。今この時間は、多分お嬢様のお世話をしているだろう。先刻まで館のお掃除をしていただろうに、大変な事だ。
彼女は紅魔館でメイド長の役に居る。お嬢様付きのメイドとして、館を支える大黒柱みたいな人だ。
基本遊んでばかりいる役立たずの妖精メイドを管理し統率して、メイドっぽく見せかけているのも彼女の手腕だ。私もたまに館の見回りに妖精メイドを借りるけれど、私の目の届く範囲では、忠犬のように仕事をしてくれる。それも恐らくは彼女の躾の賜物だろう。
そういう事を考えると、本当に咲夜さんは人間なのか怪しく思える。けれど──
やはり、彼女は人間なのだ。人間らしい茶目っ気と、感情がある。
十二本のナイフに込められたメッセジは、多くが「仕事しなさい」なのだけれど。
例えばこの、五本目と六本目。スキナア・ナイフというやつだ。獲物の解体時、皮をはぐのに使うものらしい。
七本目と八本目には、食事用のナイフとフォオクが飛んで来た。何処まで心得てこんなものを投げたのだろう。
まあ、その辺は茶目っ気があって可愛いから構わない。問題はこの、十二本目。
鉈だ。相当使い込まれている。
あのタイミングで投げられたのだから、これで周辺の木の枝打ちしておきなさいとか、そういう生易しい理由でないのは明白だ。となると、この鉈の意味するところは、狩猟などで獲物を解体するための用途だろう。柄に血の固まりがこびり付いているし。
つまり言葉に直すと、こうなのだと思う。
お前何私が折角作ってあげた飴を余所者にあげちゃってるの切り潰して魚の餌にするわよまじで。
背筋が凍り付く。さすが人外ばかりの魔境に唯一の人間なだけあって、表現は人外を凌ぐ程恐ろしい。
これらのナイフは、ルーミアに気付かれないよう、私が後ろ手で回収した。門番が守るのは、何も外敵からの脅威ばかりではない。門という境界を守るのだ。だから当然、内部からの脅威も防いでこそ門番たり得る。
……だからまあ、つまり。こういう事があると、大概私は板挟みの貧乏くじを引く事になる、わけで……
(ああああああーっ。やっぱ咲夜さんに悪い事したよなあ。お嬢様も絶賛の自家製飴を、わざわざ私にくれたんだもん。何て謝ろうかしらん。でも目の前でルーミアに食べさせてあげちゃったしなあ。言い逃れできないよなあ)
頭を押さえ、うずくまってしまう。門に背中を預け、少し涙目でうんうんと困り果てている所へ。
ぽすり、と帽子に何かが優しく着地した。
十三本目のナイフ。柄には蝙蝠と、満月の彫刻。鍔(つば)みたく広げられた蝙蝠の翼に、手紙が結ばれている。
木製のペーパーナイフだ。
結び目を摘まんで引き、さらりと広げる。香り紙のほのかな香りは、咲夜さんの香水と同じものだ。
手紙には短く、こう記されていた。
──侵入者を追い払ったみたいだから、飴はまた作ってあげる。これからもしっかりお仕事なさい。
ふ、と。私は自分のお腹が満たされるのを感じた。
そこに書かれているのは、褒美と労いの言葉だ。私は門を守り、それをちゃんと咲夜さんが見ていてくれた。紅美鈴という妖怪の、存在意義が人間に認められたという事だ。
立ち上がり、館の方を向く。
バルコニイでは、ぼんやりとした燭台の灯に照らされて二つの影が映る。一つは、ほの紅いドレスに身を包み、紅茶を口にして御満悦のお嬢様。もう一つは、お嬢様の傍らに佇み、影のように付き従う紅魔館のメイド長──咲夜さん。
手を振って、笑顔で挨拶してみた。無視された。残念。
けれど、咲夜さんは。その口元を少しだけほころばせて、私の方を向いてくれた。
妖怪は人を食う。私は、咲夜さんがここに居てくれるから、門を守っていられるのだ。
そう、思った。
門前から見えるあたりで水柱が立ち、それから二、三度水面を叩く音がして、静かになった。
魚にしては跳ね方が大きい。後を濁すように続く忙しない水音も、およそ魚の立てる音じゃない。誰かが飛び込んだのだろう。
暑いから水浴びしているのだろうか……こんな夜中に。
奇特な奴も居るものだ。
朔日(ついたち)の丑三つ刻。人ばかりか草木も眠ると言われる刻限、いくら暑さ厳しい葉月末の夜といえ、水泳をするには暗くて大変だろうと思う。
当然月は見えないから、月明かりは頼れない。といっても月は、出ている事には出ている。朔日は「月立ち」の意であり、月が隠れてから顔を出し始める日なのだ。
月の満ち欠けに生活のリヅムを刻む私達妖怪にとっては、実に喜ばしい日でもある。だから浮かれた妖怪が湖で水泳に興じる事も、まあ無いとは言えない。かく言う私だって、こんな蒸し暑い夜中にぼんやり門番するのは少しつまらない。たまには泳ぎたいなあと思う。
そんな風に愚痴っても仕方無い。私は門を守るためここに居るのだから、気分を入れ替えて仕事をするだけだ。
両腕を伸ばし、少し体を後ろに逸らせて大きく伸びをする。ついでに大欠伸。
一、二、三。
うん、まあそんな感じだろう。
ぐうと握った手を広げ、両頬を軽く叩いて気合を入れる。
……や、別に眠くなんて無い。欠伸というのは体内に多く酸素を取り入れようとするための、無意識的な深呼吸なのだし。
私は気を使う程度の能力持ちだから、こうして気分を入れ替えることで心機一転、門番の務めに集中できるのだ。……本当よ。
ちらと、館の方を向いてみる。
──紅魔館。今私の立つ真後ろ、象でも余裕で通れそうな幅の鉄柵門から中を見れば、とってもとっても綺麗な色とりどりの花壇がある。私が世話をしている。うん、ちょっと自慢してみた。何なら一度見においで。
そのまた向こうにあるのが紅魔館だ。大きな時計台は館の酉(とり)に位置して、象徴となっている。連結する館も広く、欧州の修道院のような作り、と言えばしっくりくる。かつては本当にそうだったのかも知れない。
けれど館には、採光用の窓は少ない。窓があった箇所のほとんどは赤土で潰されている。代わりに三階にはバルコニイが設えてあり、昏い雰囲気の館にあってそこだけは開放的だ。下方に色とりどりの花壇を臨む、憩いの場となっている。妖精メイド達の普段お気に入りの場所で、よくお嬢様もお八つに使っていらっしゃる。
全体的に落ち着いた雰囲気で、細部にこだわりを感じる作り。ロマネスクあたりの建築様式なのかと思ったけれど、どうも幾つかの建物を綯い交ぜにした、お嬢様オリジナルらしい。だからあんな彩色になってしまったのかと、そこだけは残念に思う。
さておき。
紅魔館は四方を厚手の赤煉瓦で囲われているから、艮(うしとら)に設けられた通用門(名ばかりで誰も使わない)以外ではここが一番よく見える。逆に言えば、館側からもこの門で起きている事は筒抜けなわけで。
居た。咲夜さん。
二階右手の窓から、こちらを横目で覗いてる。多分部屋の掃除をしているんだ。
手を振って、笑顔で挨拶してみた。無視された。残念。
まあ挨拶は明日にもできるさ。そう気を取り直し、私はまた門外へと向き直る。
今宵は朔の日。闇夜に乗じて、どんな輩が悪さをしに来るか解らない。この紅魔館の門前で不埒な行ないをする奴は、例え強敵でも倒してみせる。それが私の務めなのだ。
気を張り、鋭敏となった五感で周囲の気配を探る。私の能力は伊達じゃない。極限まで研ぎ澄まされた感覚は、身体を離れ、周囲の全てを包み込むように状況を把握できるのだ。今の私は蟻の子一匹だって逃がしはしない。
──そこッ
「藪っ蚊が多いなあ」
左腕に食い付いた藪っ蚊を退治。
……まあ蟻の子一匹逃さないったって、役に立つのそんなもんだよね。それにしても痒い。
もう二、三度そこいらをばちんばちん叩いて、ようやく落ち着いた。いくら霧の湖が冷え込む場所だからって、夏場はいけない。水際で孑孑(ぼうふら)が湧く。湧くのは仕方無いとして、人妖構わず食い付く。妖怪の血も美味しいのかしらん。疑問だ。
落ち着いたところで再び精神集中。私がここに居るのは門番だからであり、それ以上でも以下でもない。ここでの私は、門を守る者なのだ。再び全身に気を満たし、周囲の自然と一体化するように己を広げ、辺りの状況を把握する。
もう先程のような水音もしない。静かである。
静か過ぎる。
……。
…………ぐぅ。
「こんばんは。こんな所で何してるの」
はっとして目が覚──もとい、かっと開眼する。何者かの気配を、私の研ぎ澄まされた五感が捉えたのだ。敵襲に相対すべく、とっさに身構え──
目と鼻の先に赤いリボンを着けた子の顔があったから、及び腰になり諸手を上げて吃驚した。
四。
また藪っ蚊が一匹食い付いてきた。
◇◇◇◇◇◇
その少女はルーミアと言った。妖怪らしい。今し方近辺で食事を終えたところ、この館を見つけて気になったので来たという。
「じゃあ別に迷子とかじゃないのね」
「妖怪は何処にでも在るものよ。誰かが妖怪を感得したら、そこが私達の居場所なの」
「そうなの。私も一応妖怪なんですけどね。紅美鈴って言うの」
「そーなのかー。じゃお近付きのしるしに、食べ物取っておけば良かったかなあ」
余程のご馳走にありつけたのだろうか、ルーミアは実に幸せそな顔をして笑う。上唇をぺろりと舐める仕草など、見ているだけで彼女の美味しそうに食事する風景がありありと浮かんでくる。
そういえば夜勤てお腹減るのよね。少し羨ましい……いやいや。門番たるもの、それくらい耐えられないでどうする。いついかなる時でも後れを取る事なく敵襲を退けるため、私はここに居るんだ。働かざる者食うべからず。……ちょっと違うかな。
ルーミアが私の口元をじっと見つめる。はっとして、口元を右手で拭う。
いやね、これは違うのよ。使命感に燃える私の、心の汗よ。
「べ、別にそんなお気遣いは要らないです。お仕事中なんだから。……そういえば何食べてきたの」
「人間」
悦びに満ちた眼差しで頬をつり上げ、口を獰猛に裂いて一言、そう答えた。
朔の日になると、幻想郷には度々「食べても良い人類」というのが現れるらしい。私は、気付いた頃には紅魔館の正門で門番をしていたから、そんな事があるなんて知らなかった。
そうした人間は見れば解るという。およそ幻想郷では見かけない身形をして、ふらふらと安定しない歩き方をする。
今宵の獲物は、左手首に無数の切り傷を負った少女だそうだ。
幻想郷では当たり前じみた事を語りながら、しきりに世の中が厭だと言うから、心も枯れて旨くないかと思ったら、意外と取り乱すので美味だったという。ルーミアは闇を操り、闇に対する人間の恐怖心を食うらしい。
「美鈴お腹減ってるなら、取っておいてあげれば良かったなあ。けれど御免ねえ、あんまり美味しかったから食べ過ぎちゃって。そいつ錯乱して湖に落っこちちゃった」
成程、先刻の水音はそれか。なら恐らく、今頃は湖の藻にからめ捕られて、ふやけ始める頃だろう。しばらくすれば魚の餌になってしまう、か。
少し困ったように、右手で頭の後ろをぽりぽり掻いて考える。
五、六。
──うん、いけないなあ。
「良くないわ。何だってそんな事するの。貴方もっと他者の事を考えて行動しないと駄目よ」
「……どういう意味かしらん。欲張り過ぎって事かな。やっぱりお裾分けした方が良いのかな」
そうじゃあない。もっと根本的な部分で、ルーミアは抜けている。
見た目は子供だけれど、妖怪というのは見た目で判断できるものじゃない。
誰かが感得したら、そこに妖怪は在る──それは場所だけではなく、いつどんな時代にも妖怪は在るという事だ。ゆえに妖怪は年齢という概念が無い。だからルーミアがどの程度古参なのか、見た目では判断できないのだ。
けれど基本がなっていない妖怪は、子供と同じだ。私がここで叱ってやらなければ、いずれ彼女は同じ誤ちを繰り返すだろう。
「貴方、そのまま獲物を湖に落っことしたんでしょ。服をはぎ取らずに。そんな事したら消化できない釦なんかを魚が食べちゃうし、打ち上げられた衣服に鳥が足を引っ掛けて怪我をしちゃう。昨今の湖じゃうち捨てられた釣り糸や釣り針も環境問題になっているんだから、自然に分解されない物は無闇に捨てちゃ駄目」
「そっか。果物だって余分な皮をむいて中を食べるもんね」
「ちょっと違うけど、まあそうね。はぎ取った服やなんかも分別して、後始末にも気を遣う事」
今度から気を付けるねー、と明るい笑顔で元気良くルーミアは答えた。
聞き分けの良い子だ。思わず私も後ろ手のまま彼女の目線まで腰を曲げ、にっこりと笑いかけた。
七、八。
そうそう、忘れていたけれど、もう一つ大きな問題がある。それが私としては一番いけないと思う事だ。
それは道徳上の問題、人間に対する考え方の事だ。
妖怪相手となると、これがなかなか受け入れられない。妖怪は刹那的で、基本的に人間は食うものとしか認識しない。それを理解したうえで、あえてルーミアのために教えてやらなければならない。
……理解してくれると良いのだけれど。
「それともう一つ。貴方は人間を食べたのよね」
「うん。それが何」
先刻と同じ、悦びに満ちた眼差しで答える──けれど目は、笑っていない。先程の明るい笑顔とは対照的だ。やはりルーミアもまた妖怪なのだ、と感じる。人間の笑顔のような可愛げなんてありはしない。
けれど、だからこそ。こういう事はきちんと諭してやらないといけないのだ。
「食べる前には頂きます、食べた後にはご馳走様を言わなきゃ駄目。不意に落っことしちゃったなら、まだご馳走様言ってないんじゃないかしら」
「あ。忘れてた。ご馳走様でした」
湖の方に手を合わせて、これまた明るい笑顔で元気良く挨拶した。
昨今、食に対する敬意を忘れがちな者が多い。嘆かわしい事だと思う。人間が天然自然の恵みを敬い、食物を大切に育て上げてくれたお百姓さんに謝するごとく、妖怪も餌になってくれた人間を敬い、人間を美味くなるまで育ててくれた世の中に謝するべきなのだ。
彼女がとても聞き分けの良い子で、私は嬉しい。良くできました、と頭をぽんぽん撫でてあげた。
うん、他に叱る事は特に無い。
◇◇◇◇◇◇
という所でそろそろ帰ってくれないかなあと思うのだけれど、ルーミアはなかなか帰ろうとしない。
「美鈴はこんな所に立っていて、食事しないの」
こんな事を聞いてくる。
さすがの私だって、人の姿を取っている以上は食事をしなきゃ体が保たない。他者の感得する私の姿が人間と大差無いという事は、その物理的存在自体は、人間とほとんど変わらない事に等しい。だから食事をしなきゃ倒れる。
けれど考えてみれば、私は私の意思で人間を食う事はない。たまに咲夜さんが作ってくれるお菓子には人間が入っているらしい。でも、美味いとも不味いとも……お菓子はとても美味しいけれど、お菓子にしか思えない。
それ以外では、咲夜さんと同じように、日に二度ずつ食事を摂る。それも別に人間を食うわけじゃない。咲夜さんが作ってくれる料理を、館の皆で一緒に頂くのだ。それもやはり、料理として美味しい。
「んん、お食事はしますけど。貴方みたく人間を食べる事はほとんど無いわね」
「えー、妖怪なのに。変なの。じゃ全く人間食べないの」
確かに私は妖怪なのだから、人間を食うのだ。その理から外れては、妖怪としての存在意義が無くなってしまう。
「そういう訳じゃないけれど。私は私の理に則って人間を食べるわけで、何て言うのかな。流儀が違うんですよね」
「ふうん。こんな所に立っているだけで、人間が食べられるような流儀なの」
「いや、ううん。……そういう事になるのかなあ」
「えーそんなの狡いー」
そんな事言われても困る。苦笑して頬を掻き、ルーミアを見る。彼女は何か考え事を始めていた。時折ちらちらと私の顔を見る。
……長くなりそうだな、と思った。さすがに咲夜さんあたりが怒鳴りに来るのではないかと心配になる。
「……紅衛兵かな。人間の食べ方は、同志を募って文化大革「それ以上いけない」
取り敢えず危険な香りのする話になりそうだったので、ルーミアの口を押さえた。
「別に私は紅五類でもないし破四旧に興味はありません」
「んむう。でもプロレタリアの資格は十分あると思うなあ」
「割と本気で悲しくなるから止して」
お嬢様はそんな方じゃないもん。そりゃ私よかブルジヨワだし、片や私は労働者、年中無休でお給金は現物支給……ってそうじゃない。
危ない危ない。これはきっとルーミアの能力だ。まさかこの私が紅魔館の闇に魅入られそうになるとは。闇を操る能力は伊達じゃない。
「大体紅衛兵って人間じゃないの。私は歴とした妖怪です。そもそも私が門番してるのは別に雇われ仕事じゃないんだから」
「だよねえ。じゃ僵尸(きょうし)かな。魄だけ黄泉返って人間を驚かせてお腹いっぱい」
「失礼ねッ、私まだ肌ぴちぴちだもんッ。いつも太極拳で健康に気を遣ってるしさ、こうして一、二、三、四、五、六、七、八……」
九。
ルーミアも呆れ顔で私を見る。ちょっと調子に乗り過ぎたかなと思う。
苦笑混じりに彼女へ向き直り、頭を掻いて言い訳をする。
「……あー、まあその。そもそも僵尸は動く屍体の怪異なんですから、しょっちゅう動いてちゃ怖がって貰えないじゃない」
「それもそうだよねえ。美鈴見てても別に何とも思わないもん」
少し複雑な気分だ。まあ門番しているからって誰彼構わず威嚇するわけじゃないけれど。門番としては、近辺をうろつくような不審者に威圧感を与えられれば良いのだ。
けれどどうも……性格なのかしらん。侵入する意思が無ければ、こうして立ち話などもしてしまう。
侵入する意思が、無ければ。
「とにかく、見た目で物を語るのは良くないわ。妖怪はモノじゃないんですから、見た感じを語っても仕方無いでしょう」
「……あはは。そうだよねえ──」
薄らと笑いを浮かべ、ルーミアは私との距離を取った。両腕を広げ、くるり、くるりと回りながら。実に、愉快そうに。
ねぐらへ帰る……訳ではないようだ。
何だか厭な予感がする。
「──そろそろ、お喋りはおしまい。私ね、最初に言った通りこの館が気になって来たの」
小さな胸をぴんと張り、滑らかな声でそう語る。見た目は幼い、華奢な子供だ。けれど──
朔の闇夜の、全てがルーミアという妖怪であるかのように感じられる。
「……何が目的なんですか。紅魔館では、許可の無い方の訪問はいつでもお断りしています」
「んー、目的は何でも良いし、許可なんかどうでも良いよ。妖怪に意味なんて無いの。私は私の好きなように、ここに来たんだから。ねえ美鈴」
構えを取っておいて良かった。地を掴むように踏み込んだ左足から、言い様の無い震動を感じる。
飄々と語るルーミアが向ける、私への視線。
全く、獲物を狩る寸前の獣のような目をしている。
やはり見た目で物を語るのは良くない。どんなに素直な良い子でも、どんなに幼く華奢に見えても──所詮は、妖怪だ。
「美鈴を敗かせば館に入れるんだよね。今日はお腹いっぱいだし、とっても気分が良いから──本気で、行くよ」
「食後の運動、って訳かしら。私はそんなに甘くないわよ。──紅魔館には、一歩たりと入れさせないッ」
ぐっと拳を深く握り込み、宵闇の妖怪を見据える。
弾幕勝負の開始だ。
◇◇◇◇◇◇
「あははははは。どうしたのさー。かかって来ないと敗けちゃうよー」
勝手な事を言っている。まあ当然と言えば当然で、私はずっと門前から離れず、ルーミアから放たれる弾幕をグレイズし続けている。
と言っても、ただのグレイズじゃない。全身に気を満たし、両手足で気を練り上げ、流水のごとき足さばきで狙い弾を避け──手刀、足刀で流れ弾を裂く。
気を込めた打撃が弾を相殺できる事は、最近になって知った。この技術をもっと高めれば、いずれ飛翔やダッシュ、ハイジャンプなんかでもグレイズしつつ弾を相殺する弾幕アクションが可能になるかも知れない。さておき。
恐らくルーミアには見えていないだろう。自慢じゃないけれど、私の本気の打ち込みを目で追える者には、未だかつて出会った例が無い。
それに彼女が見えているかどうかなど、少し挑発すればすぐに判る事だ。
「こんなの準備運動のうちにも入りませんねえ。貴方の弾幕、素直で単純だもの。真正面からの狙い打ちばかりじゃ、弾幕を打ち込む貴方が先にばてるのは目に見えているわ」
「む。そんな事無いもん。私だって曲撃ちくらいできるもんっ」
ぷうと頬を膨らませ、ルーミアは大きく塀の側に回り込んだ。真横から私を狙おうという算段だ。
けれど私がそちらを向けば、真向かいに相対しているのと変わらない。だから素直で単純だって言ったんだけどな。
しかもそれ別に曲撃ちって言わないと思う。
それはともかく。ルーミアは容易く私の挑発に引っかかり、全く狙い通りに動いてくれた。やはり私の拳打蹴脚と、その本意が見えていないのだ。
ぐっと腰を落とし──ひと息に、駆ける。
「わわわっ」
吃驚したルーミアは、遮二無二弾幕を張ろうとする。けれど彼女の弾は、いずれも私に狙いを付けた弾幕だ。少しだけ横に逸れれば、まるで当たらない。
「ふふん。当たらないですよー」
ぎゅっと目をつむって一生懸命に弾幕を展開するルーミア。ひょいひょいと、右に左に体を流して、私はどんどん彼女に近付く。それでも彼女は必死な顔で、癇癪を起こした子供のように、腕をふりふり弾を出す。健気だ。
「ううーっ。や、闇符・ディマーケ「遅いですッ」
更に一歩、前へ。ぱあん、と軽い音を立て、私の拳打がルーミアのスペルカアドを弾く。
素材の悪いカアドだったから、一撃で容易く四散してしまう。彼女は吃驚して、ひゃあああと叫んだなり、ころころと地面を二回程転げて止まった。
「スペルカアド破れたり、って所ですね。さあ今度は私の番ですよ」
「あわわわわわ」
腰を抜かして尻餅を突いたルーミアを前に、これ見よがしに指を鳴らせて見下ろしてみる。
彼女はもう涙目の怯え顔で、ぷるぷる震えてばかりいる。ちょっと鼻も出ている。……何という、良い顔をする子だろう。満点。
私は目を細めて上を向き、再び両手を拳に握って腰へ落とす。
これから散る、一人の妖怪少女に向けて、哀悼の意を捧げるために。
「恐るべき強敵であった……けれど惜しいかな、若かった。情けをかけ、見逃してあげるのも人の……じゃない、妖怪の道。もし貴方が精進し修行を積んだとしたら、私なぞ勝てる道理も無いだろう」
「み、見逃してくれて良いよ」
「駄ー目。ここからが良い所なのよ」
ふるふる喉をふるわせて、わななく声で答えるルーミア。やだ何この可愛い小動物……いやいや。
どんな相手だろうと、許可無く紅魔館への侵入を企てた者は敵なのだ。己の敗けを認めさせ、もう二度とそんな気も起きなくなるよう、きっちり決着させなければいけない。
だからこれは別に趣味とかじゃないのよ。仕方無く、本当に仕方無く苛め……不埒な悪党を裁く行為なんだから。
「だがしかしッ。ここ紅魔館の門を侵す不埒な悪党は、この私が許して置かないッ──例え未来ある若人……若妖怪なれど、修羅の道を歩む者には修羅の道で答えるのが道理というもの」
「わ、私、そんな乱暴な事しようとして、入りたいんじゃないもん」
俯きがちで頬を膨らませて不平を述べるルーミア。涙を浮かべた上目遣いの視線は、反則だと思う。
ルーミアを左手で制し、目頭を押さえつつ向こうを向いて、自分の頬を二、三回強く叩く。
うん、まだ平常心。まだ彼女との勝負は続いているのだ。思いっ切り抱き締めて頬擦りをするには、まだ早い。
再び両手を拳に握り、腰へ落として向き直る。何かもう面倒臭くなったから前口上良いや。
「ともかくそんな感じで、いざ、私の必殺の一撃を受けて見よッ」
「うわあーんっ」
頭を抱えて縮こまるルーミアに向かい、ばっと両手を高く掲げ、右膝を大きく構えて──
十、十一。
「──鶴の舞ッ。えいっ」
「あうあっ」
右足の爪先で、こちんと額を突く。自然、平衡を失ったルーミアは仰向けに倒れ込み。
「勝利ッ」
「……ええーっ」
一つ、不平をこぼした。
◇◇◇◇◇◇
余程加減したから痛くもない筈だけれど、私の靴は結構硬いので、一応額に膏薬を貼ってあげた。ルーミアは手持ち無沙汰なのか、何となしに膏薬をさすっている。
「酷いや、弾幕勝負だってのに美鈴ぜんぜん弾幕張らないんだもん」
「アハハ御免御免。でもまだまだ修行が足りないわね。私と弾幕勝負をしたいなら、せめて咲夜さんくらいになってくれないと」
「咲夜って誰」
「紅魔館のメイド長よ。人間だけれど凄いの。時間を操ったりナイフ投げたり」
改めて言葉にしてみて、咲夜さんは本当に人間かなあと思う。
私と対等に渡り合えるのもさる事ながら、投げナイフの精度など本当に神技と言って良い。時間を操る程度の能力というのも、およそ人間らしからぬ特異な能力だ。メイド長としてもあんまり関係無い能力だ。
そうルーミアに紹介してみたけれど、彼女は興味を持たないようだった。ふうん、と一言ぎり答えて私の顔を見るばかりだ。
「まあ、そんなの別にどうでも良いんだけどさ。美鈴」
「ん、何でしょう」
「お腹、いっぱいになったかな」
──驚いた。確かにあれだけ動いたというのに、お腹はもう空いていない。
満腹とまではいかないにせよ、確かに今私は満たされた心地なのだ。
「いっぱい、じゃあ、ないですけど……な、何で解ったの」
「んー。簡単な事だと思うよ」
とん、とんと数歩下がり、ルーミアは自説を述べた。
「美鈴の本質は門を守る事なんでしょ。さっきの弾幕勝負だって、最初は門内に見えるお庭を守っていたんだよね」
「え。知っていたの」
「さすがに勝負中は気付かなかったよ。でもほら、改めて見れば弾は塀にしか当たっていないし」
ぱっと腕を広げて、ルーミアは門前を見渡す。そう、私は弾幕をグレイズして相殺することで、鉄柵門の隙間から弾幕が入り込まないよう守っていたのだ。
私は、気付いた頃には紅魔館の正門で門番をしていた。そして今も、恐らくはこれからも、紅魔館の正門で門番をするのに違い無い。
私は、ここから離れた事が無い。と同時に、離れる事ができない。私は紅魔館の門を守る妖怪なのだ。
「妖怪は妖怪の理に則って、人間を食べるの。そうして妖怪は人間の心に巣喰い、巷間に『在る』と囁かれるようになる……普通はね」
例えばルーミアの場合。人間が闇を恐れ、それは妖怪「ルーミア」の所為なのだ、と意識すれば、彼女は人間の心に存在し、巷説として他者の心にも印象付けられる。その印象は、強ければ強い程良い。妖怪が人間を食う行為とは、そうした存在意義の強調に他ならない。
ならばこの私、紅魔館の門を守る妖怪の場合。その理に則って人を食うのだとすれば、門を守る事、それこそが同等の行為になる。私は門を守る事で、妖怪としての存在意義を強調しているのだ。
「私も妖怪だけどね、人間と同じ姿をしてるでしょ。それってつまり人間とほとんど変わらないって思われているのと同じなんだよ。だから私でも美鈴に妖怪を感得すれば、美鈴をお腹いっぱいにできるんじゃないかな、って」
「ん……成程。それで少しだけ、お腹が膨れた感じになったわけですね」
ぽん、ぽんと自分のお腹を撫でてみる。といって、別に本当にお腹が膨れたってわけじゃない。
妖怪にとって大切なのは、存在感だ。もしかしたら、いや本当に、その妖怪は在るのではないか──そういう巷間での存在感が、私達妖怪にとっての糧なのだ。
「でも何か、妖怪が妖怪を驚かせてお腹を満たすなんて、蛸が自分の足を食べるみたいで変な感じ」
「うん。自給自足できるかなー、って思ったんだけれど。駄目だね、やっぱり人間を食べなきゃ」
「いや、でも少しはお腹が膨れましたよ。上手くいったって事でしょう」
「そうなんだけど。私のお腹が減っちゃった」
ルーミアは、人間が闇を恐れる事、自分を恐れる事で存在意義を強調する。だから人間には、大いに恐れ怯えて貰わなければいけない。
けれど今回、私は彼女に打ち勝ってしまった。それはつまり、闇を、彼女を恐れなかった結果だ。それは妖怪という点において、私の中で彼女という「妖怪の存在意義」が薄れてしまった事になる。
あちらを立てればこちらが立たず。……成程、うまくいかないものだ。
それにしても、この子は。
「じゃ、これあげましょう」
私は、ポッケットから取り出したものをルーミアの口に放り込んだ。
「んん。んふ。ほれ、おいひい」
「でしょ。咲夜さんから貰った飴なのよ。咲夜さん特製のとっておきなんだから、味わって食べなきゃ駄目よ」
そう言って、私はちょいと帽子を被り直した。
十二。……うわあ。
「ん、ろうひたの」
「いやあ何でもないです。飴じゃお腹は満たされないかも知れませんけれど、まあ許してね」
「んーんー。れも、ろうひてあめくれるの」
「どうしてって。それは私が聞きたい所なんだけどね」
ルーミアが、どんな理由で私のお腹を満たそうとしてくれたのか。
それに対する答えは実に素直で、実に単純で。
「んー、らって。おなかすくのは、だれらって、いやらもんね」
本当に良い子だな、と思って。
また私は、彼女の頭をぽんぽんと撫でてあげた。
◇◇◇◇◇◇
それは正確には、妖怪ではないかも知れない。竜の子であるとされるが、しかし竜にはなれなかったという。
「升庵外集(しょうあんがいしゅう)」なる古い書物に、それは紹介されている。
「椒図(しょうず)」
椒図は閉じるのを好み、そのため門の鋪(ほ)に立っている。
鋪とは、門環の事だ。ノッカアと呼べば想像が付くかも知れない。
竜生九子という諺にもなっている。彼はその、第九子だ。彼には好むところがある。鋪に立つことからも伺えるだろう。
彼は、門を守るものだ。瑞祥であり、邪を退けて安全を保つものだ。
それが彼の、唯一明らかにされている、役割なのだ。
◇◇◇◇◇◇
(ううん……。咲夜さんに何て言おうかしらん)
満足そうに飴を頬張り、ルーミアは何処かへふわふわと飛んで行った。
紅魔館に被害は無い。塀のあちこちに被弾の名残はあるけれど、物理的な弾ではないから破損も無い。もっとも、中世頃の欧州の治安に耐えてきただろう塀だ。生半可な事で壊れはしない。
そんな事よりも困ったのは──総計十二本の、私に放たれたナイフ。
咲夜さんからのメッセジだ。
(怒っているかなあ。いやあ、怒っているよなあ)
咲夜さんは忙しい人だ。今この時間は、多分お嬢様のお世話をしているだろう。先刻まで館のお掃除をしていただろうに、大変な事だ。
彼女は紅魔館でメイド長の役に居る。お嬢様付きのメイドとして、館を支える大黒柱みたいな人だ。
基本遊んでばかりいる役立たずの妖精メイドを管理し統率して、メイドっぽく見せかけているのも彼女の手腕だ。私もたまに館の見回りに妖精メイドを借りるけれど、私の目の届く範囲では、忠犬のように仕事をしてくれる。それも恐らくは彼女の躾の賜物だろう。
そういう事を考えると、本当に咲夜さんは人間なのか怪しく思える。けれど──
やはり、彼女は人間なのだ。人間らしい茶目っ気と、感情がある。
十二本のナイフに込められたメッセジは、多くが「仕事しなさい」なのだけれど。
例えばこの、五本目と六本目。スキナア・ナイフというやつだ。獲物の解体時、皮をはぐのに使うものらしい。
七本目と八本目には、食事用のナイフとフォオクが飛んで来た。何処まで心得てこんなものを投げたのだろう。
まあ、その辺は茶目っ気があって可愛いから構わない。問題はこの、十二本目。
鉈だ。相当使い込まれている。
あのタイミングで投げられたのだから、これで周辺の木の枝打ちしておきなさいとか、そういう生易しい理由でないのは明白だ。となると、この鉈の意味するところは、狩猟などで獲物を解体するための用途だろう。柄に血の固まりがこびり付いているし。
つまり言葉に直すと、こうなのだと思う。
お前何私が折角作ってあげた飴を余所者にあげちゃってるの切り潰して魚の餌にするわよまじで。
背筋が凍り付く。さすが人外ばかりの魔境に唯一の人間なだけあって、表現は人外を凌ぐ程恐ろしい。
これらのナイフは、ルーミアに気付かれないよう、私が後ろ手で回収した。門番が守るのは、何も外敵からの脅威ばかりではない。門という境界を守るのだ。だから当然、内部からの脅威も防いでこそ門番たり得る。
……だからまあ、つまり。こういう事があると、大概私は板挟みの貧乏くじを引く事になる、わけで……
(ああああああーっ。やっぱ咲夜さんに悪い事したよなあ。お嬢様も絶賛の自家製飴を、わざわざ私にくれたんだもん。何て謝ろうかしらん。でも目の前でルーミアに食べさせてあげちゃったしなあ。言い逃れできないよなあ)
頭を押さえ、うずくまってしまう。門に背中を預け、少し涙目でうんうんと困り果てている所へ。
ぽすり、と帽子に何かが優しく着地した。
十三本目のナイフ。柄には蝙蝠と、満月の彫刻。鍔(つば)みたく広げられた蝙蝠の翼に、手紙が結ばれている。
木製のペーパーナイフだ。
結び目を摘まんで引き、さらりと広げる。香り紙のほのかな香りは、咲夜さんの香水と同じものだ。
手紙には短く、こう記されていた。
──侵入者を追い払ったみたいだから、飴はまた作ってあげる。これからもしっかりお仕事なさい。
ふ、と。私は自分のお腹が満たされるのを感じた。
そこに書かれているのは、褒美と労いの言葉だ。私は門を守り、それをちゃんと咲夜さんが見ていてくれた。紅美鈴という妖怪の、存在意義が人間に認められたという事だ。
立ち上がり、館の方を向く。
バルコニイでは、ぼんやりとした燭台の灯に照らされて二つの影が映る。一つは、ほの紅いドレスに身を包み、紅茶を口にして御満悦のお嬢様。もう一つは、お嬢様の傍らに佇み、影のように付き従う紅魔館のメイド長──咲夜さん。
手を振って、笑顔で挨拶してみた。無視された。残念。
けれど、咲夜さんは。その口元を少しだけほころばせて、私の方を向いてくれた。
妖怪は人を食う。私は、咲夜さんがここに居てくれるから、門を守っていられるのだ。
そう、思った。
……脱力した所で物語の感想をば。
ルーミア。可愛いなぁ、作者様のルーミアはとにかく可愛い。
美鈴。ちょっと抜けてる優しいお姉さん、でも締める所はきっちり締めるぜ。
咲夜さん。ある意味主役、個人的にはツッコミ担当。九番目は特にナイスだ。
物語は王道ですね。そこに作者様の味がしっかり付いていて程好い加減だと思います。
お忙しい事とは思いますが、次回作も楽しみに待っています。
それはともかくルーミアかわいい。
終盤に向かって段々盛り上がっていくのが読んでて楽しかったです
> コチドリ様
ニヤニヤ
筆者なりに捻ってみたつもりなのですけれど、物語を作るのって難しいですね。もっと本を読んで勉強したいです。あと筆者は霊夢が好みなのに、書いているうちにルーミアが好みになってきまして。食されたい。
> 9様
幻想郷を感じて頂けて嬉しいです。幻想郷に行きたい。
> 19様
筆者はもう年なので(ぉ
これからもゆるゆると書かせて頂けたらなあと思います。楽しんで頂けたようで、良かったです。若さが欲しい。
自分の中の“美鈴像”にしっくりと嵌りました。
今更ですが、大変面白かったです。
ご感想ありがとうございます。
美鈴は、何でしょうね。元気で強くて、陽気で裏表無くて。けれど妖怪なんだな、何て。
楽しんで頂けたようで嬉しいです。
それを意識して読み直すとまた楽しめました。