全天に広がった夕焼けも今やなりをひそめ、空はだんだんと暗くなってくる。
けれども、紅魔館のバルコニーから見る西の果ての空はまだほんのりと明るかった。
千切れ飛ぶ雲は紫に、合間の空は血を薄く滲ませたみたいな赤色に染まって美しく。
その空を映してその上波に金色さえ纏ってきらきら輝くのは手前の紅魔湖だ。
自然のきらめきは心を満たし、すべてこの世に有るものを慈しむような気持ちにさせる。
その向こうでまるで炭火のように山々が赤い光を放っては、膝を抱えて並ぶのが見えた。
つい先ほどに沈んだ日が未だに未練がましく、またしつこくもう少しの間だけ、空を明るく保っておこうとしているのがわかる。
野鳥がその空を背景に遠く山の方へと飛んでいくのは夕刻巣に帰ろうと急ぎはやる姿であったかもしれないし、また、あんまりの空の美しさに我慢がならず自らも火に身を焼こうと果敢に飛び込んでいく悲劇の姿であったのかもしれなかった……。
やがてその暖かな火も、柔らかな光もすっかり様子を失ってしまって、ついには黒く冷たい闇のガラスが広く天空に展開されて、その広大なる中に見るものが何も認められなかった時に。
紅魔館の主レミリア・スカーレットは不意に自分の身体を包みこんでいく、自分の身体を取り巻いていく、この漠然とした、しかしとてつもなく深い色の、不安の暗幕に気づいたのであった。
夜の帳にひとり取り残されて、しんから思うは心寂しさ。
今日は館の中に偶然友が誰も居ない日だ。
魔女や妹は先程連れ立ち人里の宴会に出かけていった。明日の朝まで帰るまい。全く活動的な事で参る。
門番は朝の勤務に疲れて、今や泥のように眠っている。
妖精メイドたちにさえ休暇を出してある。どうせ一人なれば大勢の給仕は要らぬ……などと判断を下したいつかの自分を今から呪いたくなってくる。
吸血鬼なればかつて闇は友であったはず。けれども実際ひとりきりで月のまだ出ない闇夜を迎えたならば、寂しさ心細さ心の弱さがどこか深い所からじんと湧き出るようにつのってくるのもまた事実である。
心の現象には一度はっきり正体を知れば消えてなくなる種類の不安と、また激しく、荒々しく盛んに掻き立てられる燃え上がる種類の不安とが別々に有るものだが、今彼女が味わっているのは後者だった。
星影もないこの闇に、ひとりで居るのは耐えられないと、想いは強くなって留まる所を知らない。
誰に強がる必要も無い今その気持ちはどんどんと高まっていくばかりで。
闇の中で、ついに心寒さに耐え切れず、従者の名前を呼んでみた。
「……さくやぁ」
買い物だか、食材の調達だかに、出ていた事は知っていた。
知っていても呼ばずに居られなかったのだ。
館が静かであった分だけ、吸血鬼のぴいと鳴くような、まるで絞り出すようなその声はひどくうつろに響いた。
そうやって孤独を象徴しているような残響余韻が返って来るのがなお一層彼女のただでさえ小さく縮んだ心を不安にさせた。
びくりと小さく跳ねるように震えた肩を、少女は思わず両手で抱いた。
また小さな翼に当たって吹いて行くまったく僅かな隙間風を、胸の中を直接ひゅうっと通って行っているとではないかと彼女が錯覚した事には、その絶大なる心細さがまた反映されていた。
「さくや」
……今度は響かないように気を付けてぽつりと言ってみた。まるで意味が無い。これでは誰にも、自分にしか、聞こえやしない。
それに短い言葉がさあっと闇に溶けていく様子もまた、少女には心底恐ろしいものに感じられた。
自分の大切な人たちも闇に食らわれ還らなくなってしまうのではないかと、心の中に想起さえして。
また応える声がどこにも無いという事実自体が、人の孤独をつめたくかなしく、磨いたふうに際立たせる。
それがナイフとなって身を刺すように、まるで胸の真ん中に、鋭く激しく、突き立てられ、あるいは貫き突き通るように。
「さくや、さくやぁ……うぅ……」
それでも、それでも名を呼ばない訳にはいかない。
もし名を呼ばなければ、名を呼ばなければそこに君臨するのは無韻の沈黙。
空間に自分の心音だけが大きく大きく、またばくばくと広がって、自分がいま一人で生きている事を、また生きていかざるを得ない事実を、最も残酷なやり方で、示される、今の心ではそれに耐えられるべくもない事は、ずうっと前から、はっきりとわかっていた事であったから。
だから今もただただ唱えていた。時に魔術の、呪文のようにひたすたに、また詰まり詰まりしてきれぎれに、きっと最も頼れると、心の底から信頼できると、彼女が強く思っているあのひとの名前を。
今喉の奥をただ激しい力でえぐられるような感覚が有ったかと思うと、それはものを勢いよく飲み込んだ時のように胸から腹の底へと降りて行ってはまわりにいがいが、ぐりぐりと強く絞りとるような凄まじい苦しみを与えては消え去らない。
同時に目の下や眉間の所にまであの熱い、熱いあの焼けるように熱い火のような涙がつんと上がってくるのをくっきり感じた。
それから火だけが、その涙の中で火だけがまるで概念のように実体を抜け出て、額全体に引き裂くような苦しみを伴って広がってからゆっくりと、またじんわりと、頭の中身全部を何かとんでもなく辛い古代、拷問の刑を受けた時のように貫いて、とろけさせていきながら後頭部髪の毛の先までを器に酒がそそがれるように満たしていくのだ。
更には少し下がってきて、頸椎の奥に潜って留まろうと、全て情動のままに他の全てを押しのけて膨大しようとしてくる。それは背中の中心に、首から切れ目を入れて全ての神経ごとぎりりと縦に割っていくかのような、死にさえ通じる苦しみだ。
また、それら強い苦しみ痛みたちがお互いに、お互いを加算乗算しあい、高めあいながら熱を貯め込んで、心の奥底まで沁みてゆくさままでもを少女は確かに、しかし静かにずっと感じていた。
それでも彼女に出来るのは、ただ虚空に名を呼び続ける事だけ……。
「お呼びに、なりましたか、お嬢様」
闇の中、出し抜けに館主の目の前に現れたメイドは、はあはあと肩で息をして、がに股で目は見開かれ、また服装もどこか乱れていてとても不格好だった。
ヘッドドレスが少しだけ傾いて皺を寄せて、またずり落ちそうになっている様子などとても瀟洒とは言い難かった。
「ただいま戻りました……」
いっぱいに、詰まった赤や緑の中型リュックやボストンバッグを五つ六つは肩にかけ、手にはまだ断面から血潮滴る老いた人の生首を、髪を掴んで下げていた。
硬直したその首の表情は、きつく目を閉じて難しい顔。まるで自分がまだ生きていて、この後放蕩息子に何を話して説教するかを、じいっと考えているような顔つきであった。
……あるいは心中激しく燃え立つ怒りを、懸命に、懸命に堪えているようにも見えた。
「今晩はすき焼きですよ」
と、化粧も何も無い顔で外聞も無く、口をぱかりと大きく開き、血色を失って灰色のその生首を掲げてはなんとも嬉しそうに言うのである。
言われた少女の方は一度思わず目をぎゅうっと力を込めて瞑って、いやいやそれは勿体ない、今目を開けて世界を見ずにいつ見る事があろうかとばかりに、限りない解放の喜びを持って己の従者の顔を見た。
ぼうっと、じわりと滲む世界、世界。溢れる涙、邪魔。今だけはどうかこの子の姿をようく見せておくれよ。銀髪についた返り血の固まったひとつぶまで。
これから何万年生きていくにしても、これほど見たい人の顔なんて、きっともう、そう多くは無いだろうから。
十六夜の月は今や深い藍色の壁のごときあの夜に囲まれて、嘘みたいに煌々と明るく、大きく、東の空低くにその姿を現していた。
月の瞳は自分が空にかかるまでのあの僅かな闇の時間に溢れた大きな孤独の悲しみもなんにも知らずに、今、きっとただ幸せなだけで他に言葉も無い二人の姿を静かに、そっと、優しく見下ろしていた。
この完璧さを損なうような気がして少しコメントをためらいました。
おかえりなさい。ありがとう。
咲夜の登場が完全とは言えないが良い、そこに23点。オマケで+7の30点。
透き通るほどに純粋に歪んだ愛情を映す紅魔の湖は、
今夜如何様な月を彼女達に見せてくれるのでしょうか。
咲夜さんの登場の仕方が変なはずなのに格好良く思える
素敵な文章でした
レミリアの瞳に映る景色はかの従者に相応しき色に染まっているのですね
情景から想いが伝わる流麗な肌触りがとても素敵でした
心に生じたこの重みのある感情の詳細を説明こそできませんが、しかしそれはきっと貴重なものでありましょう。
その想いを発生さしめたこの作品に、感謝をしたいと思います。
素敵な作品を読ませて頂き、ありがとうございました。