作品集:97「全て許される日 その一」
作品集:98「全て許される日 その二」
作品集:99「全て許される日 その三」
作品集:108「全て許される日 その四」
作品集:120「全て許される日 その五」
作品集:121「全て許される日 その六」の続きです。
14.地獄篇
天を地に、風は星に、光を夢に。
その三つの言葉が、この一月ずっと頭を巡っている。死と破滅、絶望と屈辱がひっきり無しに襲いかかってきているというのに、その三つの言葉ばかりが私の思考を埋めているのである。おかしな話だ。全く全く悲しい話だ。だがこの混乱は正当である、そして何より私の正気を証明してくれているという点で歓迎すべきことだ。カオスはまだ我が魂にあり、それはすなはち幻に生きている証明であるのだから。
「紫様!」
藍の声に何度救われているか、数えるには時間を要す。飛来した無限の――正しく無限の――卒塔婆をすんでのところで狭間に避けた。全ての力を開放した私の式は、背中に乗せた私を下ろすと、半分に裂かれた私の太ももを舐めた。その美しい毛並みの九つの尾のうち、三つは半分に裂かれている。目に鮮やかな赤い色が、美しい金色を上塗りしていた。
「ありがとう藍。ふふふ、懐かしいわね。貴女のせなはやっぱり暖かいわ」
「お戯れは後ほど」
「ええ、そうね」
なんぴとたりとも立ち入ることの許さぬ狭間の世界に、侵入はいとも容易く行われた。大根に大鉈を振り下ろすようなぞんざいさで、世界は断ち割られては現実に引き戻されていく。
私は藍を引きつれ再び舞台へと舞い戻った。広大な地平は更地に成り果て、草花はなく、木石さえなく、天と地は別れ、風はいつまでも低きに留まり、夢は暗黒のままどろどろとセピアと化していく。
普く空間を覆いつくす、それこそ真の弾幕は、私と藍の周囲を一緒くた滅びにて塗りつぶした。現在が過去との地続きであるのなら、今ここで未来は絶たれよというばかりの奔流であった。だがそのレトリックが真であるなら、私のこの狂ったプライオリティでさえも真と呼ぶべきである。
降り注ぐ私へのネガティブは、一つの声とともにその激流をとめた。
「貴方の善行は何処にあるか」
甲高くひ弱な、そして絶対の意志を持つ者からしか聞けない、怜悧の響きであった。私は孕んだ未来を両手で抱えながら、目には見えぬ天空を仰ぎ見ては答えた。
「これこそ私の積める唯一の善行ですわ」
ひと時の沈黙の後、無限の弾幕は再び私へ殺到を始めた。反撃を繰り返しながら、しかし時間制限のないこの永遠の猛攻を受け続けてどれほどの時が経ったのか最早判然とはしない。だが先に述べた真実が――私を穢れなき狂信の徒へと導き、そして飽くなき未来へと、正しきカオスへの道を歩めとの聖訓――ある限り、ザナドゥは守られる。許しを与えるのは私である。だが赦しは最期でよいのである。末路は路傍の石でよい。井戸から水があふれるのならば、それが我が箱庭を満たすのであれば。
軋みを上げる空間に、私は光と闇の網目を拓き、この生と死の狭間で――善と悪の狭間で――世界をあるべき運命へと駆り立てる産声を待ち続けよう。
15.白夜異変
年の明けより二月余りが経ち、春の訪れを待つばかりの日々、郷は白夜と相成った。村の長が私を訪ねてやってきたのは、夜が失われて三日の後であった。長は私の案内も待たずに、戸を開けるや否やまくしたてた。
「こんなこたぁ、とんとありませなんだ。わしゃ村のもんに何と説明してよいか皆目見当がつかんのです」
「いやよく二日も我慢したね。私はそちらに感心する」
長は私の冗談にも言葉を返さず、兎にも角にも怒り心頭であることを隠そうともせず、蓑を脱ぎ捨てながらぶるぶると頭を振ってはかきむしった。
「茶化さんでくだせえ。また神さんか妖怪のお遊びかと思っておったが、何日も何日もやりすぎじゃ。村のもんは夜が朝になるだの、昼が夜になるだのを一等怖がります。お空の仕組みをかえっちまうなんてそりゃ何よりおっかないことです。先生、全体どうすりゃいいってんでしょう」
「落ち着きなさい」
私は長を伴って表へ出た。戌の刻で常なら言うまでもなく真っ暗がりだが、空にはこの世のものとは思えない異様な光る帯が幾筋も走っており、それがまるで月をも隠さんばかりに照っている。その輝きは月を束ねて引き伸ばしたようなくらいに明るいものだから、昼とはいわぬが、日暮れてすぐの薄明かりのようが朝まで続くのである。筋は山より高いが雲より低いであろう、私はその真相を半ば承知してはいたが、長にそのまま伝えるのは憚られた。
「博麗神社に伺いを立ててこよう」
「そうしてくださると、わしゃ助かります。ほんに、ほんにありがとうございます」
博麗神社は元より結果の最果て、獣道であり九十九折であり、妖怪も化物も気兼ねせずに顔を出す。村の者にとっては足掻くにも勇めぬ遙かな聖地だ。当代の巫女が特に面倒見のめの字もない者だから日頃接することもないが、異変を諫め、平穏を取り戻してきた歴々の実績は知らせずとも広まっている。超然としたその在り方こそが、霊験あらたかな拠り所として崇められている所以でもあるだろう。事実、長は私に博麗神社へのつてを頼ってきたのである、胸をなでおろしては安堵に何度も何度も息を吐いている。
長はまたしつこく念を押しては薄明かりの真夜中をひっ転ばんばかりの勢いで駆けていった。子供のころから何も変わらぬ慌てぶりに、自分の教えが足りなかったのかと少しあきれつつ私も溜息を吐いた。しかし私も、いずれは巫女が解決をするであろうと思って放っておいたこの白夜だが、どうにも催促にいかねばならないであろうと思っていた矢先であった。異変解決の巫女も年をとって腰が重たくなったか、いやはや、在りし日はすぐさま飛んでいったあのお転婆が、今ではすっかり重石のように落ち着き払ってしまっている。それも、先の年の暮れの間際より一層甚だしくなった、何せ新年の挨拶に応えることもなく、来客を追い返すことも増えたというのだからよっぽどである。友の帰還と死が堪えたのだろうか、と私は身支度を整えながらぼんやりと思った。
明るい夜を渡りながら、もしかすると博麗の巫女は友の喪に服しているのだろうか、と考えたが証はなく詮無い。上空に顕現した夜を惑わす光の帯は、揺れ、たゆたい、月を取り巻いてはかすかに足掻くように身悶えしている。それは未練である。
神社には何事もなく辿り着いた。おとないを居留守で拒まれると面倒で、書付も用意したのだが、巫女は縁側で茶を飲んでいた。
「これは寺子屋の先生。宵闇の散歩たぁおつな趣味をお持ちで」
「霊夢。夜分に失礼する」
「飲むかね」
「いや結構」
私は隣に腰を下ろすと、霊夢の姿をまじまじと見た。痩せた。いや老いが色濃く現れているのか。私には判然としなかったが、暗い目の光が異様であった。しかし口調は穏やかなのである。
私は単刀直入に切り出した。
「霊夢。この白夜はいったいどういうことなのだ?」
「寝付きが悪くていかんよ」
「これは異変だぞ? 見当はついているのか?」
「霊だろう」
ふん、と鼻で笑いながら老婆は空を見上げた。帯はまた形を変えて、次は月を取り囲んでは回転するようにうねっている。それは死である。または生の残滓である。
「無数の霊があの世から舞い戻ってきたってわけさね。あんたももうとっくに承知だったのだろう、先生」
人は死ねば、身体と霊魂が遊離し、体は地に還り、魂は冥界にて審判を受ける。いや、人に限ることはなく、遍く命の末路は黄泉路への船着場へ至ると決まっているのだ。魂は夢と現、彼岸と此岸を唯一渡れる命の形。だがその旅路は本来は一方通行のはずで、折り返しの利く都合の良いものなどではない。時折、あんまりに未練がましい魂などは、この世にしがみついては迷惑の種となったりもするが、それも数十年に一度や二度で釣りがくる。まさか宵闇をかき消すほどの群となって舞い戻ってくるなど、狂っているとしか思えない。
「冥界から魂が戻ってきたというのか? そんなことは考えられないぞ。一つ二つなら私だって見たことがある。だが、あの数は尋常ではない。単純に舞い戻ってきたという数ではない」
夜をかき消さんばかりの白い、霊の帯。世界への名残りはこんなにも鮮やかに輝くのかと思うと私はそれが何より美しく薄ら寒い。
「だったら冥界のぼんくらが仕事をしていないのだろう」
霊夢はその枯れた白樺の枝先のような指で、天空の魂の帯を指差しながらクルクルとまわした。遠く山の端に冥界に至る、大きな桜の植わった屋敷がある。今回の異変の犯人を、この世とあの世の境目をつかさどる白玉楼だと博麗の巫女は見ているのだろうか。
「動機は? 何十年も前のように、桜を咲かそうとしていると?」
「桜は関係なさそうだがねぇ。あの死に損ないどもの仕業かどうかもわかったもんじゃあないが、火元は近かろうて。ああ、しかしあれから一周したのか。六十年か。早いもんだねぇ。そう、光陰矢のごとしんまんて言葉じゃあ、物足りないくらい」
心ここにあらず、と言った体で霊夢は茶を啜る。しかし私は思い出話に付き合う気はなく、この異変の解決こそが望みだ。冥界への扉を管理する白玉楼の務めがおろそかであったから、こんなにも霊があふれたというのだろうか? 本来三途の川に渡されるはずの魂が門前払いをされ、人の世に舞い戻ってきたという話もなくはないだろうが、説明には足らぬ気がするし、何よりうつつに飛び火する前に断罪が起きて然るべきであろう。
「それとも、閻魔の尻が燃えているのかね」
巫女の慧眼は曇ってはいなかった。が、私には新たな疑問が浮かんだ。
「そこまで理解していて、なぜ動かない?」
「応、こりゃ剣呑だのう」
「博麗の巫女の務めではないのか?」
「そうなのかい?」
鸚鵡返しに、私は言葉を詰まらせた。巫女は薄ら笑いを浮かべながらまくし立てた。
「異変解決は巫女の務めだなんて、一体全体どこの神様がお決めになられたのやらね、私ゃついぞ耳にしたことがないよ。ええ? 先生よ、あんたのお得意の歴史にゃなんて書いてあるんだえ」
最後の異変がいつだったか、だがそのときは目の前の巫女はすぐに立ち、原因を退けた。それは十年も二十年も前ではない。一体、目の前の巫女に何の心境の変化があって、このような斜に構えた言葉を発するのか私には見当がつかなかった。
「ふん。だがまぁ、明るい夜も飽いた。星の光が恋しいな」
そういうと、巫女は浮いた。私は何も聞かずに追った。その背中には、気が向いた、以上の意志を見出すことはできなかった。彼女の姿は白い夜に溶け、目を凝らさねばすぐ見失うだろうと思えた。白装束が色を誤魔化すだけとは思えなかった。老いは死を呼ぶ。しかし道すがら、妖精や妖怪の茶々をあくび交じりにあしらうさまは老いてなお矍鑠たるものを感じさせたが、白く霞むその背中は一向にそのままであった。
急ぐでもなくどこかで捕まるでもなく、冥界の入り口に立ったのは出立から一刻ほどしてからであった。しかし地獄へ至る長い石段を前にして、巫女はやおら歩みを止めてしまった。
「どうした」
「先客」
言うが早いか、私たちを待ち受けるように二つの人影に気がついた。
「そういうわけよ」
「貴女は、十六夜咲夜」
「に、紅美鈴です」
「よい夜ね、と言いたいところだけれど。これじゃあ格好がつかないわね。人里も大変なのかしらね、先生」
宵闇を写したようなドレスを身にまとって、吸血鬼のメイドは端正に笑った。対照的に、隣に立つ紅魔館の門番は、あっけらかんに笑っている。
「夜が明るいと、なるほど、吸血鬼の具合も悪かろうというものか」
「お察しの通り」
「さて、それじゃあどうする? あれはあんたらに任せていいのか?」
はっとして私は顔を上げた。巫女が顎で指し示した先、石段の上で人影がゆらりと姿を現した。冥界の庭師、魂魄妖夢。白い髪が薄暗がりの中でさらさらと揺れている。手に握られた大刀が、無言で私たちへの敵意を示していた。
「ま、ここは私じゃないっすかね」
中華服の裾を翻し、悪魔の館の門番は一つ二つと石段を上がった。誰も異論を唱えるものはいなかった。霊夢は誰でもよいと手を振っており、十六夜咲夜は微動だにしない。庭師は私たちを見下ろしながら、心底疎ましいと目を細めた。
「ぞろぞろと、忙しいのに不逞の輩どもめ……」
白玉楼の庭師、魂魄妖夢は腰まで伸びた髪を風になびかせながら、決然と宣言した。
「紅魔館の門番よ、ここは一歩も通さない。斬り捨てられたくなければ退け」
「と、いうわけにもいきませんので。我が館の主は静かな夜を御所望なものですから。そちらこそいい加減安眠妨害やめていただけませんかね」
「なに、慣れれば昼にだって眠れるものさ。それこそそちらのお嬢さんの日々の生活習慣を見習えばよいだろう」
「それはごもっとも……」
納得してどうする、とその場の全員が内心突っ込んだろうが、直属の上司の呆れたような、あからさまな溜息はひときわであった。しまった、と門番は頭をかくももう手遅れだ、メイド長への挽回は鉄拳によって道を切り開く他ない。
「どいてもらいますよ」
「来るなら覚悟を。私に斬れないものは、もはやない」
「そうですか。だったら私も、殴られて腫れない顔はない、ですよ」
そう言うのが早いか、巨大な爆発が巻き起こり、埃を含んだ風がもうもうと吹き降ろしてきた。それを二つの人影が突き破り、上空へ舞い上がると、色とりどりの弾丸を放ちあった。直撃はなく、人影は弧を描きながら螺旋状にもつれ合いつつ、交錯し、そしてまた空を華美に染める。
白夜に交差する弾幕は、常より美しくあるか、否か。私は立ち尽くしただ見上げるのみであった。
16.庭師と門番
私ばかりでなく、彼女も射撃は控えているのがよくわかった。結局のところ接近戦で片をつけよう、というところでは意見の一致を見ているのである。弾幕を張っているのは様子見と、隙を探している程度の意味でしかない。
私は二列、三列と単調な弾を撒いてはぐるりと旋回した。魂魄妖夢は自分に向かってくる数発を切って落としてお返しのように弾を放ってきた。それを拳で弾き飛ばしながら、再び隙だらけの弾幕を張る。彩られた雨は庭師を捉えるにはどうにも不足で、掴みかかる隙を作るため以上の意味はない。
春は近い。湿気が増えてきたからか、冬にはありえないはずの雲を引いた。速度を上げ続ける。弾幕を撒きながら、数度交錯したが、隙は見当たらない。私は腹をくくった。六度目の交差の時、私は避けず、唸りを上げる刃の閃きに肘と膝を挟み込むように打ち込んだ。
「頑丈な……刀だな!」
「なんて無茶な受け方を!」
縺れ合いながら林に突っ込み、木々を薙ぎ倒しながら再び上昇した。天の川のお化けのような空の輝きが私たちを白く照らす。向かい合う庭師は息も上げていない。
私が笑うと、妖夢は不愉快そうに顔をしかめたが、空から降りて地に足をつけたのは同時であった。私たちのような不器用な使い走りは、なに、走り回ってぶつかるほうが性に合うというものだ。
咲夜さんが私の背後で、無言で立っていた。勝負に口を挟むことはしない人だ。だからなおのこと、私は敗れることを肯んじることができない。その沈黙は信頼の証なのである。それに応えることこそ誇りだろう。
「折れちゃえばよかったのに」
「無茶苦茶な……一歩間違えば真っ二つですよ」
「やさしいですね」
「いやだって、そんなアクロバティックな自殺されても困るっていうか」
「他殺しようとしているくせに」
「じゃあ事故死で。豆腐の角とか」
「食べ物では遊ばない。それがポリシー」
庭師は納刀すると、ふらりと一歩を進めてきた。静かな歩みだが殺気は段違いである。捉えどころのない流水の奥義、というところか。以前に手合わせた頃は闇雲に刀を振るうだけであったあの少女は、既に必殺の域を手中に収めている。それもまた、私と同じく主への誇りからなる鍛錬の賜物だろう。正に、後生畏るべし、焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや、と格言にある通りだ。
私も構えを解き、歩み寄った。水には柳と相場が決まっていて、私も気配を絶っては距離を縮める。一歩ごとに妖夢の気配が薄まっていった。全く見事なものだと舌を巻いた。一体どこから刀が飛び出てくるのか、予測することはもう不可能だろう。距離は十二歩。妖夢は容易く詰める、二百由旬を一足飛びにかかってこられるよりも、なお恐ろしい静かな足取りで。
妖夢が先に刀を抜くだろう、なにせ私が拳を突き出すよりも抜刀を伴う分手間が多いからだ――と読んだが、水は柳の先読みを覆して、そのまま歩みを止めずに交錯した。背中合わせではなるほど、刀の有利だ。直情径行はどうにも私の専売特許になってしまったらしい。
彼女の居合抜きに私の跟歩が優ったのは、賽の目が丁か半かの違いに過ぎないだろう。長刀は私の背中の髪をまとめて切り落とすに留まった。返す刀の間合いに合わせて、私は体を独楽のように回転させて足を払った。右拳に気を集め、あとはそのまま突き出すまで体は自動に動く。真っ白な弾丸が目の前に迫らなければ、決着はついていたというのに。私の拳は空を切り、庭師は体勢を立て直そうとたたらを踏んだ。
間合いを取られて不利なのは私だ。追いすがったが、妖夢の弾丸は私の前進を巧妙に食い止めた。拳で弾き飛ばしながらでは満足に気を練ることができない。四列目を突破したときには、すでに妖夢は十分な体勢で刀を正眼に構えていた。ならばと私も腰を落とした。形意拳。
「危なかったけど、惜しい惜しい」
「惜しかったが、危ない危ない」
立ち居地を入れ替えての二度目の対峙は、水も柳も打ち捨てて、互いに気力をありったけ高めてのものだった。妖夢の長刀は白く鈍い輝きを放ち始めた。私の地から吸い上げた気力は、胆にてとぐろを巻き、熱く滾っている。
鈍い光は煌きを強め、私の正中線を襲った。歩を下げ身をずらす。二度三度と刃が返されるたびに、剣圧で凝固した風の筋が私を押す。一撃ごとに白刃は鋭さを加速させる――が、私の纏絲も充実を増す。
八度目の切り返しに合わせて足元の石畳を踏みぬいた。地面が半球に抉れると同時に、砂埃が猛然と舞い上がり私たちを包み込んだ。にも関わらず剣閃はすかさず軌道を修正し、私の首筋に迫る。見事、と内心つぶやいた。だがその一拍は私にとって全く十分であることは敵も承知であろう。懐に滑り込み、短打を重ねた。背は伸びても依然華奢な庭師の体は、それで容易く浮き上がった。端脚を全力で叩き込むには十分な隙間であった。地の龍、天の龍を従えた私の右足は、庭師の胸先を捉え、その胸骨を粉々に砕き、貫通、無尽の霧にまでかき消した。
その呆気無い勝利に、私は慄然としたが、すぐに気づき、笑いを上げてしまった。
「これが噂の天龍脚ですか。なるほど、直撃はしたくないものだ」
「ちぇっ、ずるいや……いつの間に入れ替わったんです?」
「秘密」
半身半霊の剣士という前提を、すっかり忘れてしまった私の落ち度はいかんともしがたい。蹴り抜いた先の魂魄妖夢の体は、雲散霧消し、元の霊体へと戻った。その上空、真に肉体を持った方の魂魄妖夢は、光り輝く鋒を私に向けて振り下ろした。
「花剪斬」
練り上げた全ての勁を両腕に集中させた。摩擦で朱色に発光した刃は私の気の守りをいとも容易く切り裂いた。腕先から血しぶきが舞う。身をずらし、死の間から転がり出ることができたのは、舞い上がった埃に狙いがずれたからか。体勢が十分であれば腕は吹き飛んでいたであろう。私も相手も、同時に顔をしかめた。相手は必殺の間合いを逃したゆえに、私は己の慢心を呪って。
滅茶苦茶に荒れた地面を嫌って私は飛んだ。庭師も平行に飛んだ。明るい夜は月の明かりも不確かで、やはり真っ暗闇が良いのだけれど、それを取り戻すためには如何せん目前の敵を討ち果たさなければならない。
一幕は私の敗北であった。小競り合いは終わりである。宣言を行うのは私の務めであろう。
「告げる。紅魔館の紅美鈴のスペルカード、大鵬拳を受けられよ」
「来られよ。我が冥想斬が受けて立つ」
「二枚目は必要ない、かな」
「同じく」
吐納法を一から練った。胆に余っている勁も全て吐き出す。ダラダラと腕から血が流れるままだが、問題はそれほどなく、気力を練り上げるに支障はない。
弾幕を張る必要はもはやないだろう。
私はカードを示し、練り上げた気の全てを拳の先から放った。光の渦は微細に色を変質させながら、奔流となって薄明かりの月下を突き破った。私からは妖夢が見えない。が、その切っ先が何よりも鋭く私の喉元を狙っていることはわかった。私の砲が切り裂かれているのがわかる。中央から真っ二つに切り裂かれ、枝分かれした二つの渦が、二つの山の斜面を焦がした。これほどわかりやすい我慢比べはあるだろうか。私の砲が押し切るか、剣士の必殺剣が私のスペルカードを打ち破るか。
体内の熱が全て枯れ果てる。庭師の剣戟の鋭さは私の力量を上回るのだろうか。大鵬がお頭から尾羽まで捌かれるならば、ひとえに私の力量が足りないに他ならない。私は体内の気の渇きに恐れを抱いた。これは恥だ。敗北ではない、信頼に応えられないことこそが何よりの――私が何か、とても大事なものを手放しかけたそのとき、メイド長が私の隣に並んでいることを知った。気配などなかったから、時を止めてやってきたのだろうが、まさか助力をする気かと早合点しかけた。
「勝ちなさいよ」
彼女はただ一言ささやきを残しにきただけであった。また時を止めたのだろう、気配の残滓を微塵も残すことなく傍から離れた。ああしかし、これは反則である。一対一が原則の決闘において、これほど決定的な手助けがほかにあるだろうか。
――これでかっこうつけなきゃあ、うそだった。
枯れたと思った気は、どこから来るのか、成せば成る、胆の底から間欠泉のように沸きあがって激した。
光が溢れた。それは私でさえも見紛うほどであった。拳の先から大鵬は翼を生やし、嘴を大きく広げると、庭師の全てを包み込んで飛翔した。羽ばたきは空を夕暮れにまで戻した。ああ何とか格好はつけられたろう、と私は内心胸を撫で下ろした。もはや飛び続ける気力もなく、ただ落ちるがままに地面に落ちたが、だが重畳、重畳なのだ。私はちゃんと、応えることができたのだから。
つづく。
大人妖夢かっこよすぎる…