あまやかな口触りの乳房をかじり取ると、赤い肉のついた肋骨が剥き出しになった。
藍は口中の脂肪の塊を噛み裂きながら、上半身を起こし、組み敷いている女を改めて見下ろした。
幽々子の喉と胸から溢れる血は、腰まで引き下ろされた彼女の和服と、その下の畳を赤く濡らしていた。
細い首や、浮き出た鎖骨、長い手足は、全体として幽々子のほっそりとした体つきを見る者に印象付ける。だがつくべきところには豊かに肉がついている。胸から腰の括れ、尻の膨らみへと至るラインは、なだらかで美しい瓢箪型を描いていた。
その目は開いているが、もはや藍を捉えてはいない。
その口は開いているが、もはや誰を呼ぶこともない。
意識は、西行寺幽々子という境界を越え、とうに拡散してしまっていた。白玉楼の庭や、冥界の扉や、現世との結界や、はては地獄から夢の中まで、いたるところに幽々子の破片が散らばっている。
思ったより血が出たな、と藍は思った。
亡霊だから、出てもほんの少しだけとばかり踏んでいた。
幽々子の体はいまだに断続的な痙攣を続けているが、喉を藍が右手で押さえつけているため、びくともしない。喉には五本の爪が深々と食い込んでいた。
次に、肋骨の隙間に牙を立て、そのまま噛み砕く。胸の奥は、雲のような灰色のかたまりが詰まっていた。
藍は幽々子の胸の奥に手を突っ込み、灰色のそれを掻きだした。触れるたびに藍の手から生気を奪われていくのがわかる。それでも意に介さずに、作業を続ける。幽々子の胸の中に灰色のかたまりがほとんどなくなった頃には、藍の左腕はミイラのように干からびていた。こうして体の中まで掻きだしてしまえば、さまよい出た彼女の魂が、この元の体に戻ってくることもない。
中身をすべて掻きだすと、今度は骨を取り除いていった。亡霊の骨は、人間や妖怪と違い、触れるとすぐに蒸発したり、透き通っていたり、奇妙な形をしていた。生き物の理で動く構造ではなかった。皮だけになった幽々子は、もはや原形を留めず、藍の両手に絹のように垂れかかっていた。顔や胸がどこなのか、よく見ればわかるが、雑巾のようにねじれ皺だらけになったそれら各部位に、もはや以前の美しさはない。藍は自分の道士服の前を開け、脱皮のようにひと息で脱ぎ去り、一糸まとわぬ姿になった。そして、肌に幽々子の皮をぴたりとくっつけた。まだ灰色の除去が完璧でなかったせいか、たちまち藍の皮膚が壊死していく。それでも、皮をねじ込む。突き刺すような冷たさと、頭がねじ曲がるような心地よさが藍を責め立てた。幽々子の皮膚は、こんな状態になっても尚、触れる者を魅了してやまなかった。藍は幽々子の皮を自分に当て、少し力を加えた。撫でたり、こすったりした。その度に目が眩む。冷たいのに、体は奥から火照ってくる。幽々子の皮膚は、藍への浸食を始めていた。
「お怨みしても構いません」
ずぶ、ずぶ、と生皮が藍の中に入り込んでくる。藍は、布団の上に艶っぽく散らばった幽々子の着物を手に取り、身にまとった。
「これも紫様のためなのです、幽々子様」
藍は自分に言い聞かせるように呟いた。それが本当のことなのか、彼女にはもうわからなかった。
***
藍は、静かな土地が好きだった。
昔、地平の果てまで広がる荒野に、ぽつんとひとりで横になっていたことがある。まわりに見えるのは、地面にへばりつくように生えた雑草や、たんぽぽのように強い花、そして大小の瓦礫だ。それらはかつて栄耀栄華を誇った何かの権力の象徴だった。あるいは、富を極めた者の驕れる住居だった。あるいは……藍は、それ以上思い出すことに意味を見いだせなかった。とにかく彼は、静かな土地が好きなのだ。
「藍様!」
だから白玉楼に吹く冥界の風は、彼女にとても心地よかった。
「ねえ、藍様」
縁側に座って枯山水の庭を眺めていた藍は、首をめぐらして、声のかかってきた方を見た。ノースリーブの赤シャツにスカート、白のブラウス姿の少女が、二本の尾を揺らし、軽やかな足取りで廊下をやってくる。緑色の帽子を乗せた頭の両端には獣の耳が生えていた。傍らには、幽魂がふよふよと浮かんでついてきていた。普通の幽魂よりも色が青っぽく、落ち着いている。文人の魂だな、と藍は当たりをつけた。
「どうした、橙。何かおもしろい話でも聞かせてもらったのか」
「はい」
橙と呼ばれた少女は、目を細め、嬉しそうに笑った。少し頬が赤らんでいる。
「とってもおもしろかったです。ケイコクケイセーの人間の話でした」
「ふふうん」
藍は橙の肩の辺りで浮いている幽魂を眺めた。幽魂は恐れ入ったように、少し後ろに下がる。
「人間はみんな、そのひとのことが好きになって、頭がおかしくなってしまって、しかも少しも後悔しないんだそうです。すごいですね」
「そうかもしれないね」
「妲己とか、玉藻前とか……」
「ふむふむ」
「尻尾が九つもあったそうですね。私は二本なのに」
橙は片足立ちになって上半身をひょいと傾け、藍の背中を見た。
「あのね、橙」
「藍様も九つですね」
「それはね、私ではないのだよ。私の仲間かもしれないけれど」
「なぁんだ、藍様の話じゃなかったんですか。残念」
「まったく、どういう話の吹き込まれ方をしたんだ」
藍に睨まれ、幽魂はすごすごと引き下がっていった。橙はにこにこと笑いながら、幽魂に手を振った。
「ありがとう、またお話聞かせてね」
やれやれと苦笑しつつ、藍はため息をついた。橙は普通の妖怪猫に比べると知的好奇心が高い。藍が式を打つまでは文字すら読めない化け猫だったが、教えていくと読み書きは見る見るうちに上達していった。
橙は幽魂が廊下の角を曲がり見えなくなると、その場を蹴り、勢いよく空中で回転しながら、枯山水の庭の真ん中に降り立った。
「藍様、遊ぼう! 紫様、まだ来ないし」
空はもう夕日に染まりつつあった。紫が幽々子の部屋を訪れて二時間ほど過ぎたが、まだ戻ってこない。ずいぶん長く話しこんでいるようだ。いや、ひょっとすると、眠っている幽々子の枕元で、紫がうつらうつらと舟を漕いでいるだけかもしれない。何しろかなり無理をして早起きしたのだから。
「そうだな。よし、かかってきなさい」
藍は立ち上がり、床を蹴った。橙もそれに応え、地面を蹴り、体を丸めて高速で回転する。藍もまた体を縦に回転させる。ふたつの高速で回る弾が空中で衝突した。弾となった両者は弾きあい、さらに上昇する。藍は塀の上、橙は白玉楼の屋根の上に着地するが、それも一瞬のこと、すぐさま身を宙に踊らせる。激しい勢いで接触するが、衝撃はほとんどない。お互いが台本通りに組み手をするだけだ。といっても、鍛えていない妖怪や人間がやれば、最初の回転衝突の時点で、体中の骨が折れ、曲がり、砕けるだろう。橙も式を打たれる前、何度も藍に襲いかかったが、その度に一撃で地面に伸びていた。
今は違う。作法通りに繰り出される藍の攻撃を、きっちりと受け流し、反撃を放つ。藍もそれに台本に従った返し技を仕掛ける。橙は綺麗に宙を舞い、地面に体がぶつかる直前、体をひねり、四つん這いになり、衝撃を完璧に緩和する。
これらはすべて打ち合わせ通りの、ルールに則った遊びだ。習熟しなければ怪我をする、というだけだ。藍にとっては、ちょうどよい気分転換になり、健康にもいい、なにより橙に教え、彼女が成長する姿を見るのが楽しかった。
「てええええぇぇやぁぁっ!」
もっとも、橙にとってはそれほど呑気な遊びとはいかない。気を抜けば怪我をすることは、実際に何度も経験して体に覚え込まされている。藍はルールは守るが、手心は加えない。遊びは遊びでも、集中力を切らしてはいけない、危険で刺激的なものだった。
橙は三回転目で踵を落とし、これを藍は上体を横にそらしてかわす。かわしざまに橙の脇腹を横から抉るように殴るが、橙は身をひねって衝撃を最小限にとどめ、そのまま空中で体を回し、蹴りつける。これを藍は平手で踵を受け、上方へ跳ねあげる。たまらず橙は逆回転し、着地、その瞬間を狙い、足首を藍の足払いが狙う。藍と橙の足が接触した瞬間、橙はその場で横回りに三百六十度回転、再度着地を狙う。ここへ背中を見せた藍の尻尾による攻撃があり、もう一度かわさなければならない。
「あ」
しかし、橙は一瞬間を置く。そこを逃さず、思い切り尻尾に足を払われた。
「ひええええええ」
五回転ほどして、地面にたたきつけられる寸前に、藍が手をつかんで支えてやる。
「ご、ごめんなさい」
「まったく、遊ぶ途中によそ見をするとは」
「だ、だって」
橙は藍越しに、縁側の方を見る。橙に言われるまでもなく、藍は気づいていた。背中を見せたまま声をかけるのは失礼に当たるので、きちんと振り向き、頭を下げて挨拶した。
「こんにちは、幽々子様」
「こんにちは、藍さん。元気があっていいわ。なんだか嘘みたいに飛び回っているもの」
「嘘じゃないよ、本当に飛び回っているの、幽々子様」
橙が横から口出しする。
「わかってるわよ、そのくらい。私そんなに惚けてないわ」
「でも幽々子様、いつもぼうっとしてらっしゃるから」
「こら、橙、失礼だぞ」
「本当、失礼ね。家主を立腹させるとはいい度胸だわ」
まったく立腹していなさそうな幽々子は、縁側に腰を降ろした。すぐに幽魂が盆に緑茶を載せてやってきた。
「ありがとう」
そう言って、幽魂を撫でてやる。幽魂は少し赤くなり、跳ねるように盆を持ち去っていった。
「最近あの子、お茶汲みが上手になったわ」
「そうですか。何やら先程は橙に昔の物語を聞かせていたようです」
「昔の物語? あの子はそんなこと知らないわ。歴史が駄目で、現代小説しか書かないの。ひと違いよ」
「はあ……表情が青白かったので同じ文人かと」
「いやねぇ、妖獣ったら、文人の幽霊が全部同じに見えるのかしら」
確かに藍には、さっき橙といた幽魂も、今お茶を持ってきた幽魂も、同じように見える。文人とそうでない幽魂の区別まではつけられるようになったが、お茶汲みと現代小説が得意で歴史の苦手な文人と、傾国傾城の女の物語を語って聞かせる文人の区別まではまだつけられなかった。
「はあ、申し訳ありません」
「まあ、仕方ないわね。私もはじめ、あなたと橙の区別がつかなかったし」
「さすがに嘘でしょうそれは」
「実は今でも時々自信がなくなるの」
「いやそれはあんまりです」
「そうかしら。やっぱり、誰しも自分のこととなると必死になるものね」
ため息をついて、茶を啜る。
「ああ、お茶が苦い。おいしい」
藍はさらに抗議しようとしたが、幽々子の満足げな顔を見ると、思わず別のことを口にしていた。
「私にも一杯頂けないでしょうか」
「いいわよ。白玉楼自慢のお茶なの。橙ちゃんは?」
「いえ、あいつは猫舌なので」
「そうなの」
幽々子は藍の肩越しに橙を見た。
「はい」
「勿体ないわね、せっかく熱さを感じられる舌を持っているのに」
「幽々子様に猫舌の気持ちなんてわかりませんよーだ」
橙は舌を出して、庭を飛び跳ねはじめた。
「あなただって、冷たい体のことなんてわからないでしょうに。あーあ、子猫に何を言っても無駄かしらねえ」
隣に腰を下ろした藍に、幽々子は話しかけた。藍は、早速お茶を持ってきてくれた幽魂に礼を言って、幽々子の方を向く。
「お加減、あまりよろしくないようですね」
そう言って茶を啜る。確かに、ほどよい苦味が旨い。
「そうねえ、というかこれが普通なのかしら。これが普通なら嫌ねえ。ずっとこのままかしら。それは嫌ねえ」
幽々子は、茶を飲んでは愚痴をこぼし、また飲んでは愚痴をこぼす。藍は、頭の中で返せる言葉を組み立てたが、あまりに種類が少なく、効果も薄そうで、どれも却下せざるをえなかった。
幽々子は藍を見ている。目をそらすのは失礼だと思い、藍もその視線を受け止めた。
顔は微笑んでいるのに、桃色の髪がかすかにかかった目は、虚ろだった。喉から鎖骨にかけて剥き出しになった肌は、儚く白い。藍よりもずっと細く、痩せている。だが、月に叢雲の柄を施した水色の着物からうかがえる、肩の線の柔らかさや腰回りの豊かさが、控え目にだがはっきりと、見る者に、幽々子の〈女〉を強く意識させた。
藍は体全身から、再び視線を幽々子の目に戻す。彼女の目は、何かを問いかけているようだ。常に、見る者を試すような、縋るような目をする。
藍は気がついた。もはや幽々子から目を離せなくなっていることに。その美しさに、目が、心が、呪縛されつつあることに。目をそらそうとするが、首が動かない。視線は、幽々子の目や、睫毛、唇、耳、髪の毛、そしてまた体全身へと泳いでいく。
床が疲れた音を立てて軋んだ。
「紫様ッ」
藍は弾かれたように立ち上がった。内心安堵する。主人に、呪縛された自分の姿を見られたくなかった。
廊下の先から、紺色のドレスの裾が翻る。それから、長い金髪の女が現れた。歩みはおとなしく、精気がなかった。
「藍、帰るわよ」
ほとんどひとりごとのような、小さな声量だった。藍は道士服の袖に手を入れ、拱手の礼を取る。
「あら、もういいの、紫」
幽々子はぽわんとした目を、今度は紫に向けた。
「ええ、おかげさまで、幽々子」
紫は仮面のように笑った。そうして、庭の上空まで飛ぶと、白玉楼と幽々子を一瞥し、スキマを開け、中に入った。
「橙、私たちも帰ろう。それでは、お邪魔いたしました、幽々子様」
橙は先にスキマの中に飛び込んだ。藍は幽々子に一礼して、スキマを見上げた。
「最近の紫、なまなましいわ」
「えっ」
藍は思わず振り向いた。幽々子の言葉の意味が、よくわからなかった。振り向いても、幽々子はにこにこと笑ってばかりだ。
「また、お茶を飲みにいらっしゃい、藍さん。紫はこのお茶のおいしさが理解できないみたいなの」
耳を当てていると、紫の鼓動が聞こえてくる。背中を、紫の指先が撫でているのがわかる。人差し指と中指をおもに、薬指は時々触れるか触れないかくらい、小指は浮かせたまま、藍の背中に触れている。
藍は顔をあげ、彼女の顔を見た。
「どうかしたの、藍」
「いえ、その、お加減がすぐれないように見受けられたので」
「あなたはなんでもよく見てるわねぇ、ほんと、いつでも心配してくれる忠実な式がひとりいると全然違うわねぇ、私は幸せ者だわぁ」
紫は藍の頭に両腕をまわした。
「……茶化さないでください、紫様」
「茶化してないわよ。あなたは絶対に裏切らないものね」
「それは式なので当然のことです。私が今申し上げているのは紫様の」
「お加減ならよくはないわ。近頃やたらと忙しいから。おちおち眠ってもいられない」
最近、結界のほつれがひどかった。一ヶ所を直しても、また別の箇所がほつれる。藍も、紫が式として打ち込めば、ある程度は紫の真似事のようにして結界の修復はできる。それでここ二週間ほど、ふたりともほとんど家の外に出ずっぱりだった。橙にもあまり構ってやれていない。今日の白玉楼訪問は、そんな多忙の中をやりくりして行なわれたものだった。
「まだ六十年ひと巡りする時期でもないというのに、なぜでしょうね」
「さあ、でも結界なんて、半年も無事であった試しがないわ。いつものことよ」
紫は藍を抱く腕に力を込めた。心地よい圧迫だった。それでも、一度膨らみだした不安は、収まることがなかった。紫は、明らかに消耗していた。ここ数年の間では類を見ないほどに。そして回復の兆しが見当たらない。昨日より今日が、今日より明日が、悪くなる。紫は、損なわれていく一方だった。
何が原因なのか、おそらく紫は知っている。知っていて尚、解決できないでいる。藍はそう考えた。心当たりはある。
「幽々子様ですか」
ぴくり、と藍を抱く腕が震える。
「幽々子のせいではないわ」
まるで判を押した返答、それがますます藍の確信を強めた。
「現世から冥界へ行くとき、必ず結界を開けています。それがたび重なったため、結界の不安定化につながったのではないでしょうか」
「だとしても、それはどうでもいいことよ。ほつれなんて、またすぐに直せる」
藍にとっては、それはどうでもいいことではなかった。
「それに、紫様は幽々子様にお呼ばれすると、朝でも昼でもお出かけになります」
「日の光は好きではないけれど、どうしても耐えられないというほどでもないわ」
「せめて冥界を訪れる回数を減らすことはできませんか」
「これ以上減らせというの」
「紫様ご自身のこともお考えになってください」
「何を勘違いしているの、藍。私は自分のことしか考えていないわ」
藍は言い募る言葉をなくし、唇は自然と閉じられた。体はこれほどぴたりと寄りそっているのに、言葉はあまりに遠かった。
夏が忘れ物をしたかのように、残暑の強い日だった。ようやく涼しくなり始めたと思っていたところへ、突然太陽が煌々と照りつけて来たのだ。藍は恨めしげに空を見上げた。傍らでは、遊びという名の鍛錬に疲れ果てた橙がすっかり伸びている。
「暑いです……藍様」
「そうだね、橙、私も暑いよ。水でもかけてあげようか」
橙は目を閉じて、勢いよく首を左右に振った。
「ふふ、まあ今日は遊びはこれくらいにしよう」
藍が人差し指を立てると、橙の体から薄い靄が出てきた。それはひとかたまりになって、藍の指先に収束した。
「さあ、式を解いたよ」
「はぁい」
橙はあくびをしながら、大きく伸びをした。見た目は変わっていないが、身にまとう雰囲気が丸くなっている。
「じゃあ、ちょっと休んできます」
橙はたちまち一匹の黒猫に変化し、軒先を走っていった。塀の向こうから野良猫たちの合唱が聞こえてくる。黒猫はひとっ飛びで塀を跳び越えた。
橙を見送った後も、藍は庭でぼんやりとしていた。今夜、紫が起きてきたとき、橙が帰ってきたときに作る料理のことを考えていた。
背後の障子が開いた。
「えっ」
藍は信じられない思いで声をあげ、振り向いた。紫が立っていた。背筋は曲がり、肌は荒れ、目には隈ができている。
「紫様、今、昼ですよ……」
「わかっているわ。幽々子が呼んでいるの」
「またですか。これから冥界にいかれるんですか」
「あの子が、寒いって言うから」
「紫様、鏡をごらんになってください。自分で思っていらっしゃるより、ずっとお疲れなんですよ」
「嫌なら、あなたは行かなくていいのよ」
おぼつかない手つきで、スキマを切り開く。藍は唇を噛んだ。自分に判断を投げられると、彼女は困惑するばかりだった。どうしていいかわからない。何かを判断するということは、何かを得る代わりに、何かを失う決意をするということだった。
幽々子は、赤々と輝く火箸を紫に差し出した。
「寒いわ、紫」
そう言いながら、桜柄をちりばめた水色の着物の袖をまくり、ほっそりとした腕を見せる。紫は、その肌理細かな肌に目が吸い寄せられるのを、止めることができなかった。目を閉じ、息を吐いて落ち着き、木の格子窓を見る。ちょうどひとの顔ほどの大きさの窓からは、楠が何本か見える。枯葉が目立つようになったが、まだまだ残暑は厳しい。現世に比べれば冥界はずっと涼しいが、それでも剪定や食事の準備、物の後片付けなどで動きまわれば、すぐに汗をかいてしまう。もっとも、幽々子はそういった雑用をまったくしないし、してもやはり彼女の体は冷たいままだろう。
「寒いの、とても」
ふたりは、土間の竈の前にいた。幽々子はしゃがみ、紫は立っている。幽々子は膝をつき、剥き出しになった腕と反対の左手で、紫のドレスの裾をひっぱった。
「膝が、汚れるわよ。幽々子」
窓の外から視線をそらさないまま、紫は言った。火箸を握った右腕は、力なく垂れている。幽々子はまた、裾をひっぱる。
「ねえ、お願い」
紫はもう一度、幽々子の右腕に視線を移す。するともう、自分でも驚くほどあっさりとためらいが吹き飛んだ。左手で幽々子の右手首をつかみ、腕を強くひっぱりあげる。膝立ちのまま、幽々子の体が上がる。袖がさらにめくれた。
火箸を押しつけた。じゅぅっ、という肉が焼ける音と、白い煙が上がった。紫は無表情だった。しかし、手のひらの内側はべっとりと湿っており、左手で握りしめた幽々子の右手首は、今にも汗ですべり落ちそうだった。幽々子の体は冷たいのに、汗は手のひらから、あとからあとから滲んでくる。幽々子は目を細めていた。自分自身の反応を冷静に観察するかのように、その目は内に向いていた。紫は、さらに火箸を強く押しつけた。新たな部位の肉が焼け、また煙がのぼる。
「んっ」
幽々子はほんの少し眉をひそめる。それを見るや、紫は火箸を手から離し、自分も膝をついて、幽々子の体を引き寄せた。
「あ……少し、痛かったかも」
「当たり前よ……当たり前でしょう……」
手首と肘の間、その肘寄りの部分が、細い楕円形に、赤く爛れていた。さらに中心は黒く炭化している。
「でも、熱かったような気もするわ。もう一回、して」
紫は無言で首を振った。
「ねえ」
幽々子の乞いに、もう一度首を振る。幽々子はため息をついた。
「わかった。紫には頼まない」
「こんなことをしても無駄なの、お願い、わかって、幽々子」
「じゃあ、どうすればいいの。どうすればこの寒さがなくなるの。布団に入っても、お茶を飲んでも、私の体はすぐに冷たくなる。走ったり、重いものを持とうとしたら、すぐに手足が折れてしまう。ねぇ、なんなのこの体、どうすればいいの」
「今は、我慢して……もう少しで、あなたは馴染むから」
「あなたはそればかり」
紫は何も言い返せず、うつむいた。
「紫」
幽々子は、紫の手を両手で包み込んだ。
「あなたは、そうして少しずつ私から感覚を奪っていくのね。今はもう、お腹が空いても辛いとは思わなくなったわ。それと同じように、体が冷たくても、辛いと思わないようにするのね」
正解だった。西行寺幽々子の言うことは正解だった。
亡霊となったばかりの頃、幽々子は自分の体に馴染めず、口にした食べ物をすべて吐き出していた。今はだいぶましになってきたが、それでも豆腐や白菜、茶や味噌汁など、簡単なものしか受けつけない。いつしか幽々子は、満腹でないということ自体に慣れていた。
「これはね、幽々子、とても時間がかかることな……」
「紫、あなたが温めてくれる?」
包まれた手が、ぴり、と震える。それは電撃のように、紫の全身を走り抜けた。ありとあらゆる想像が紫の脳裏に氾濫し、あまりの情報過多に、たちまち、黒く塗りつぶされたただのノイズになった。紫は目が眩み、息を呑んだ。
気づいたときには、幽々子は立ち上がり、調理場から出ようとしていた。紫は、しばらくの間、我を忘れていた。だから、幽々子がその言葉を口にしたとき、どんな表情をしていたのか、わからないままだった。
昼間の暑気が嘘のような夕方だった。昏々と眠る幽々子の枕元の右側に、紫は正座していた。幽々子の呼吸に合わせて、胸のあたりで、紺色地の御所車柄の布団が上下する。人間に比べると、ずっとゆっくりだ。わずかに開いた唇の隙間から白い歯が見えた。体は行儀よく天井を向いている。
ぐずる幽々子を、どうにか宥めて寝かしつけたのがついさっきだ。この様子だと、あと二日は起きない。それくらい深い眠りだ。経験からわかる。
「幽々子……」
紫は一度立ち上がり、襖を開けて隣の部屋を見渡し、誰もいないことを確認した。それから後ろ手に障子を閉め、音もなく畳の上を進み、幽々子の枕元に立った。寝乱れた髪が、枕の上に広がっていた。彼女の頭巾は少し離れたところに、水色の着物と一緒に畳まれている。布団から少し出ている肩は、白襦袢をまとっていた。屈んで手を伸ばせば、彼女の桜色の髪の毛に、指の隅々まで浸ることができる。
知らぬ間に、指が、宙を掻き毟るように蠢いていた。指は架空の幽々子像をなぞっていく。紫は自分の右手の動きから、明確にその行為を把握できた。手のひらを幽々子の顔にかぶせる。手のひらの窪みに、ちょうど幽々子の頬をおさめる。それから、親指を頬骨に、人指し指を眉間に、中指を鼻の頭に、薬指を上唇へ、小指を下唇へ置く。唇の柔らかさと冷たさが、ただでさえ敏感な指先をますます感じやすくする。幽々子の鼻息が、薬指をくすぐり、少し湿らせる。指の一本一本が顔の表面を愛撫する。薬指と小指に快感が集中しそうだが、そうではない。人差し指は眉間を往復しながら、閉じられた瞼を撫で、美しい睫毛の感触を指の腹で楽しんだ。中指は、鼻の頭から円を描くように、鼻全体の形を愛でていく。親指は頬を撫でながらも、時折耳たぶに射程を伸ばす。
そうして、手のすべてで幽々子の顔を楽しむ。そんな幻覚を、紫と右手は思い描いていた。ふと我に返った紫は、後ずさりした。これ以上幽々子に近づくのは危険だった。今の弱り切った幽々子に踏み込めば、心身ともに破壊しかねなかった。
行き場を失った右手は、その情念の捌け口を自らに向けた。
「藍」
襖越しに、呼びかける。
「そこで何をしているのかしら」
襖の向こうで、空気が張り詰めるのが、紫には手に取るようにわかった。紫は自嘲の笑みを浮かべた。今の藍へ向けた言葉は、そのまま自分自身へ返ってくる。幽々子に執着する自らの心を引き剥がすように、襖を勢いよく開け放った。
藍は跪き、拱手の礼を取っていた。うなじをさらし、紫に全的服従を誓っていた。その有様を見ると、紫の体の奥に、今までとはまた違った、熱く暗い情動が燃え上がった。
大風の夜だった。分厚い雲は、いくら流れても、決して月の光を地上へ届けようとはしなかった。
「よかったわ、ちょうど。お茶を沸かしすぎていたの。ここでお茶飲む幽霊って私ぐらいなのに、つい、ね。紫も飲みたがらないし」
そう言って、幽々子はなみなみとつがれた湯呑を手に取り、啜った。藍もそれに倣い、手許に置かれた湯呑を口元に運んだ。
「今日は、紫様に無断でお伺いしました」
まず、藍はそう切り出した。茶の湯気越しに、幽々子と視線が交わる。
「そんなこともできるのね、あなたは式だと聞いていたけど」
「式を打たれている場合がほとんどですから。稀に、外されることがあります」
「もっと稀には、自ら外すことも」
「そういうことです」
藍は面を伏せ、一礼する。頭のてっぺんに、幽々子の放つ鋭い視線を感じる。ちりちりと焼けつくようだった。普段ぼんやりと振る舞っているようでいて、本当に知りたいことを前にしたとき、この亡霊姫は恐ろしく鋭くなる。そのことを藍は身をもって実感した。
「それで、紫は今もまだ眠っているのね」
「ええ。最近は、特に深く、重い眠りに囚われていらっしゃいます。夜が更け始めてから明け方までは紫様のお時間であるにもかかわらず、こうして真夜中に至るまで眠りに落ちておられる。ご存知の通り、今はまだ秋も始まったばかり、冬眠には早すぎる時期ですね」
「原因は」
「よくご存知のはず」
藍は思い切って踏み込んだ。ここまで踏み込まねば、先はない。踏み込む覚悟がつかないのなら、はじめから計画など立てず、すべて忘れてしまうしかない。藍は踏み込むことを選んだ。
幽々子が息を呑むのが、藍にはありありとわかった。
「さあ、わからないわ」
「おかしいですね、よくよくご自分の胸に尋ねてみてください。答えはきっとそこにあるはずです」
「ずいぶん回りくどい言い方をするのね、妖獣はみんなそうなの」
「あいにくと私は狐の化生なので、他の妖獣のことはよくわかりません」
藍は身を乗り出し、畳に手をつき、前へといざリよった。心持ち、下から覗き込むような角度で幽々子を見る。
「私のことはどうでもいいのです、幽々子様。私は、紫様の最近のご不調のことを、申し上げているのです。あなたもそのお話がしたいのでしょう」
「灯りが足りないわね」
幽々子は和室を見渡した。幽々子の左右と背後にロウソクがあるきりだ。藍の方にはまったくないので、部屋半分が薄暗い。
「少し増やしましょうか」
藍は手のひらを上に向け、そこに青い火の玉を浮かべた。
「結構よ、ロウソクがあるから」
襖が開き、下人の幽魂六体、それぞれロウソクを運んできて、火をつけた。
「そうですか」
くしゃっ、と藍は手のひらの炎を握りつぶす。藍のまわりにロウソクが立てられた。屋根や柱がかすかに軋む。外ではかなり強い風が吹いているようだ。そのせいで室内の空気も乱れやすくなっているようで、特に藍のまわりのロウソクの炎は頻繁にゆらめき、そのたびに藍の影は、和室の壁にはりつき、奇怪な踊りを演じる。藍本人もまた、時折揺らめいているように、幽々子には見えた。
「まるであなたが影か炎みたいね」
「なんですって?」
「なんでもないわ。それで、私のどこがいけないの」
「やはりあなたが原因だとお認めになるのですね」
「そう言ったのはあなたでしょう」
「そうかもしれない、とは申し上げました」
「もう、狐芝居は面倒ね」
「しばらくの間、紫様に近づかないで頂きたい」
ひときわ大きく炎が揺れる。幽々子は、完全に笑みの消えた表情で、藍を見る。藍はうなじに冷たい汗が流れるのを感じた。幽々子の操る死の力はあまりに強大だ。いかに九尾の狐とはいえ、幽々子にこの距離で何か仕掛けてこられたら、ひとたまりもない。
「しばらくって、どのくらい」
穏やかな語り口だった。だが、もう微笑みはどこにもない。
「紫様のご不調が回復されるまでです」
「それって、私がいる限り駄目ってことよね」
「さあ、それはわかりません、なんらかの打開策が見つかればと思います。ですが少なくとも、紫様が幻想郷と冥界とをこのように頻繁に往復なさることが、結界にいい影響を与えないことだけは確かです」
「そう」
「紫様も、そのことはよくご存知でいらっしゃいます。ですが、幽々子様のことを慮り、言い出せずにいらっしゃいます」
「それは推測? 紫がそう言ったの?」
「紫様は決してそのようなことを私に仰ったりはしません」
「じゃああなたのでまかせということね」
「いいえ。まっとうに考えれば、自然とそういう結論になります。幽々子様も同じようにまっとうにお考えになれば、同じような結論に行き着くはずです」
「紫がきついのは、嫌だわ」
幽々子の表情が、不意に柔らかくなった。疲れたように目尻を下げ、わずかに笑みを浮かべた。
(なぜそこで笑える? なぜ紫様の名を舌に乗せるだけで笑えるのだ。自分が否定されているというのに)
藍は拳を握り締めるのを自制するのに、かなりの努力を要した。
「紫が望むのなら、今までみたいに何度もこっちに呼びつけるのはやめることにするわ」
藍は深くため息をついた。それは、あまりにもこれ見よがしなため息のつき方だった。幽々子は、この夜はじめて、苛立ちの表情を浮かべる。
「西行寺様、西行寺幽々子様、あなたは何もわかってはいらっしゃらないのですね。いいですか、紫様は決してそれを望みはしません。紫様は今、はっきり申し上げて、曇っていらっしゃるのです。曇らせたのはあなたです。なので、紫様はあなたに遠ざかって欲しいとは望みません。ただ、ご自身の体と心を損ない続けるだけです。それでもあなたを恨むことはないでしょう。いいですか、幽々子様、あなたが、望まなければならないのです。紫様を近づけないよう、望まなければならないのです」
「それが、紫の本当の望みならば」
「いいえ、もう一度言いますが、あなたの望みです」
「そう、私の望み」
「ええ、あなたの望み」
ふと、障子が開いた。そこから風が吹き込み、室内の九のロウソクを悉く吹き消した。月明かりは楼の庇に遮られ、縁側の廊下の三分の一ほどまでしか射し込まない。部屋に闇と沈黙が落ちた。
藍には、たった今幽々子がどんな顔をしているのか、見えない。
すぐに明かりが灯された。幽魂が茶菓子を盆に載せていた。彼が部屋に運び込もうと襖を開けたとき、ちょうど風が吹き込んできた、というわけだ。
「あなたの言いたいことは、よぉくわかったわ、狐さん」
再び灯された明りに暗闇が吹き払われると、幽々子は口元にわずかに微笑を浮かべていた。それ以前にどんな表情を浮かべていたのか、藍に知るすべはない。
「だから、さっさと帰って」
藍は、四角い箱の中にいた。箱といっても、その大きさは指輪や食器を入れるような大きさではない。牛車や屋敷を入れるような大きさでもない。都ひとつがそのまますっぽりと入ってしまうほどの大きさを持った箱だった。白茶けた荒野が延々と広がっており、遠方に同じ色の壁がある。天井も同じ色だ。
藍が自前で作り上げた空間だ。
名は、ユーニラタルコンタクト。
藍による一方的な干渉しかできない。この世界が、土から芽を出したり、風を吹かせたり、雨雲を呼んだりはしない。ただそこに存在して、藍の妖力の解放を受け止めるばかりだった。
藍の肌は、汗でぬめっていた。荒い息をはき、歯を食いしばって、印を結んでいた。食いしばった歯茎から血が流れ出て、藍の歯を赤く染めていた。
低い、獣そのもののうめき声をあげ、右手を突きだす。指先が空間に食い込んだ。さらに手の甲まで埋まる。理に反した現象に、空間が全力で反発した。手がズタズタに切り裂かれるのも構わず、藍をそのまま腕を振り払う。
そこには、スキマが開いていた。ほんのわずかなものだが、紛れもないスキマだった。
「ハァッ、ハァ……っく、はぁあっ、ハッ……」
息を落ち着かせるのもひと苦労だった。指も手首も雑巾のようにねじれてしまった右腕を、藍は他人のもののように眺めた。わずかに開いたスキマは、すぐにも閉じようとしていた。藍は意を決し、まなじりを上げ、左腕をその中に突っ込んだ。
「っっっがあああああぁぁああ!!」
腹から声をしぼりだし、スキマを掻きまわす。肩のところまで深々と左腕を埋めた。やがて、腕を引きずりだす。肉がえぐれ、ところどころ骨が見えていた。指先には、一枚の便箋が挟まれていた。藍の血まみれの手が触れても、まったく汚れていない。藍はそれを、白茶けた荒野の上に置いた。
それで三枚目だった。
「幽々子から返事が来ないの」
紫がいつも幽々子からの手紙を心待ちにしていることを、藍は知っていた。うっすらと紅を刷いたような白い便箋だ。それが、冥界から漂ってきた幽魂によってもたらされる。紫はいつも、その手紙の使者を見つけると、少女のように落ち着きがなくなる。便箋を受け取ると、すぐに部屋に引っ込む。
そこから先は、藍は何度か覗いたので、見たことがある。
便箋には香り花が挟み込まれているらしい。手紙を開くと、いつも紫は表情を蕩けさせた。それから、二、三枚、時によっては一枚の半分にも満たないような分量の手紙を、丁寧に読んでいく。すぐに返事を書くこともあれば、何度も読み返すこともあった。
短い読書の悦楽は、静かに始まり、静かに終わる。最後に、便箋にほんの少し、唇を触れさせることもある。
その手紙が、来ない。
幽々子のおおらかで気まぐれな性格も作用して、一ヶ月以上も返事を出さないことなどお互いよくあったし、翌日すぐに出す場合もある。紫はのんびりしていいときは、ちょうど死んだばかりの幽魂に預けたりもするし、さっさと届けたいときはスキマを使う。特に決まりごともなく、お互いの習慣にそって、気楽に文通を続けていた。
ただ、例外がある。
幽々子が、来てくれと手紙を書いたときと、紫が、行くと手紙を書いたときだ。
このときばかりは、受け取った側は即座に返事を書く。
来てくれと書かれれば行くと書くし、行くと書かれれば来てくれと書く。
そして紫は、行く、と書いたのだ。その前の手紙で、幽々子の不安が手に取るようにわかったから。
それなのに、返事が来ない。返事を待たずに行くことはできなかった。それは、幽々子に望まれることなく、冥界を訪れることを意味する。幽々子の望みを叶えるのでないならば、冥界訪問など、ただの結界破りの愚行でしかなかった。現在、冥界には何の異変も起こっていない。つまり、何か非常事態が幽々子の身に起こったわけではない。幽々子の望みに反して己の欲望のままに彼女に逢いにいくことは、紫の矜持が許さなかった。
だから、紫は動けない。
そして、手紙は来ない。
三日後、もう一度出した。
やはり、手紙は来ない。
さらに三日後、もう一度出した。
やはり、手紙は来ない。
紫は昼間も起きているようになった。当然、夜も起きていた。
「藍、あなた、私に何か隠していない」
「いいえ、私は何も隠していません」
長椅子に寝そべったまま、紫は澱んだ目で藍を睨んだ。
「なら、どうしていつまでも私の前をそうやってうろつくの」
「紫様がきちんとお休みにならないからです」
紫の髪や腕、足、ドレスの裾が、しどけなく長椅子から垂れている。裾がめくれ上がって、紫の豊かな太腿が露わになっていた。裾を直そうと藍が手を伸ばすが、紫は邪険にはねのけた。
「いつ寝ようと、私の勝手でしょう」
「はい」
「下がりなさい」
「はい」
藍は拱手して、部屋から去った。廊下を歩いている間、表情を変えなかった。自室に戻ると、そこには部屋の隅で丸くなって眠る藍がいた。薄物を一枚体に巻きつけているだけだ。部屋に入ってきたばかりの藍は、たちまちその場から消失した。道士服だけが畳の上に残った。
式輝「プリンセス天狐 -Illusion-」
藍の両腕は無残に破壊されていた。ある程度の傷なら即座に自己修復できるが、短い期間で三度も腕を酷使したため、回復が異常に遅れていた。痛みも激しい。藍は畳の上を半裸で這い、道士服を口に咥えた。それから、妖術と口で、苦労しながらも、手を使わずに服を着る。
藍は持ちうる限り最大の妖力を注ぎ込んでいた。とはいえ、こうも易々と紫を欺けるとは思ってもいなかった。
それほど、あの白玉楼の少女が紫を狂わせているということになる。藍の焦燥感は膨れ上がるばかりだ。そして、焦燥のもっと奥底に根を張った、誰もが持つ、強靭で原始的な感情もまた、強まるばかりだった。
「紫様に、冥界の風はふさわしくない」
白玉楼の空は、分厚い雲に覆われていた。それは、藍が近づけば近づくほど、重く垂れこめていくようだった。まるで楼主の気持ちを代弁するかのように。
風はほとんど吹かず、空気はぬるく、澱んでいた。死者が引きずってきた生の領域が、あちこちに泥濘を作っていた。藍は幽魂に案内され、すぐに最上階に案内された。枯山水の見渡せる縁側の和室で、幽々子は待っていた。幽々子は苦しそうに汗ばんでいた。
「紫は、何か言っていた?」
「いいえ、何も」
縋るような幽々子の問いに、藍は即答した。幽々子の表情が消え、唇を結ぶ。
「今は仕方ないのです、幽々子様。ですがこれで、紫様のご不調も回復されるでしょう。そうして紫様が万全になられて、あなたももっと余裕を持って物事に接することができるようになれば、おふたりがお逢いになる可能性は零ではありませんよ」
「逢いたい」
「ええ、でしょうね」
「逢いたい」
「ええ、わかっていますよ」
「逢いたい! 逢いたい逢いたい逢いたい!」
幽々子の叫びは、駄々をこねるような金切り声とはまったく違っていた。腹から、全身の力を使って、透き通るように美しい叫びを上げた。その声量は桁外れだった。幽々子の叫びは、部屋の柱を軋ませ、枯山水の岩をずらし、楼内の幽魂を失神させた。藍は、しばらく耳鳴りが収まらなかった。
「でも、あんなきつそうな紫、見たくないのよぉ……」
幽々子は突っ伏した。髪の毛が畳の上に垂れ、うなじが剥き出しになった。藍は唾を呑み込んだ。
「あなた、紫の式ならわかるでしょう。今、白玉楼と現世の結界はとても通りやすくなっているわ。私がゆるめたの。風が吹かなくて、空気がぬるいでしょう。私が止めたの。幽魂が少ないでしょう。私が食べて間引きしたの。私、汗をかいているでしょう。霊力を散らしたの。ここ、まるで現世みたいでしょう。私がそうしたの」
「紫様は」
藍はそこで一拍置き、舌で唇を湿らせる。
「手紙を返しましたか?」
張り詰めた弦の切れた音を、藍は聴いた気がした。幽々子の体が、くたりとくずおれた。
牙を剥く。うなだれた幽々子の剥き出しの部分に喰らいついた。
***
紫は、目覚めてからもなかなか意識が明瞭にならなかった。夢現の境界を明確にして目覚ましに使おうと思ったが、そんなことに能力を使うのはあまりに億劫に思って、やめた。ぼうっとした頭のまま、長椅子から置き上がり、戸を開き、廊下に出る。
急に体が冷え、身を竦めた。寝汗で濡れたうなじを風が撫でたのだ。紫は廊下の左右を見渡した。マヨヒガの廊下で、こんなに冷たい風は吹かない。
「え、嘘……」
紫はマヨヒガで眠ったはずだった。だが、廊下の踏み心地も、襖の装飾も、空気の冷たさも、あらゆる五感が紫に、ここが白玉楼であると告げていた。
「ゆ」
無意識のうちにスキマを使ったのかと、紫は自問した。だが、現世と冥界の結界を越えるのはそれなりに骨で、少なくとも今まで無意識でやれたことなどない。
「……ゆゆ」
そんなことはもはやどうでもよかった。はっきりしているのは、もう白玉楼に来てしまっているということだ。
「ゆ……」
紫は夢遊病者のようにおぼつかない足取りで廊下を歩いていく。
その部屋の前にたどりついた。
勝手に来てしまった。拒絶されていたにも関わらず。
障子を開いた。
幽々子は布団に入り、上体だけを起こしていた。
「よくもぬけぬけと。あなたのせいよ」
幽々子はそう言って、すぐに紫から目をそらした。紫は頭がぐちゃぐちゃになった。もう、自制の限界だった。
大股で布団に近づき、顔を背ける幽々子の顎を親指と人差し指で挟み、強引にこちらを向かせる。幽々子の目は熱っぽく潤んでいた。弱っているのは明らかだった。だが、それがなぜ自分のせいなのかが、わからない。
「どうして」
紫は左手で幽々子の頭を抱えた。指に、髪の毛が絡みつく。その髪の毛一本一本のすべすべとした感触に、紫は気が遠くなる。だが、腹の底には相変わらず疑惑が居座っていた。それが、彼女を現実に引き戻す。
「私は、いつもあなたのことを考えているのに。どうして」
他者に懇願する生物とは、他者に命を投げ出したに等しい。それは、この幻想郷という世界で生きていくことを選んだ紫の矜持に関わることだった。理性が、懸命に抑えつけようとする。そんな哀れっぽい、物乞いのような声をあげるな、と。
「ねえ、ねえ、幽々子」
それなのに、紫の声はますます潤んでいく。かすれていく。
幽々子の手が、紫の肩に触れた。それは押し返そうとするにはあまりに弱々しい触れ方だった。かえって、紫との接地面積を増やしただけだった。彼女をたぎらせただけだった。紫は幽々子の顎から指を離し、右手を背中にそえた。顔が近づく。幽々子の潤んだ目は、鏡のように紫の姿を映す。紫はそこに幽々子の真意を探ろうと、見つめ続ける。不意に、瞳の奥、湖の底で何か黒い影が揺らいだ。水底に住む生き物が、突然光を当てられ慌てて闇の奥へ引っ込むようにして、すぐに姿を消した。それは、幽々子にはないはずのものだった。そして彼女の頭と背中に触れていた紫の指が、異変を感じとる。今、触れているのは紛れもない幽々子の形だ。だが、あまりに揺らぎがなさすぎた。不変でありすぎた。
違和感が喉元までせり上がり、口にしようとしたとき、幽々子が顔を近づけた。唇が、あまりに近すぎた。
(こんなことしては、駄目なのに)
紫は紫自身に警鐘を鳴らす。
(私の欲望が、幽々子を損なってしまう)
幽々子の背中に添わせた右手に少しずつ力がこもる。
抱きしめたかった。
だが、これ以上体を触れ合わせると、どんな風に自分自身が振る舞うか、紫はわからなかった。
幽々子を枯れさせるかもしれない。抱きしめて、体を折ってしまうかもしれない。この髪や指や鼻や目や骨のひとつひとつを愛でようとして、分解してしまうかもしれない。
だが、そんなことを紫は望んではいないのだ。
幽々子は、ひとりの塊として、傍にいてほしいだけなのだ。
分解したり、愛でたりは、紫の勝手な思いつきに過ぎない。そうでなければならない。執着などする必要もない、してはならない。
「ああ、幽々子、幽々子」
何度目かの息継ぎで、紫は幽々子を見下ろした。幽々子の目はぼんやりと焦点が定まらず、顔は紅潮しきっていて、額は汗ばんでいた。紫はあまりに幽々子が愛おしく、涙を落した。一滴、二滴、火照った幽々子の頬と鼻の頭に落ちる。
「ありがとう……幽々子、綺麗でいてくれて、ありがとう」
右手の力を込める。
はっきりとした違和感がある。
その瞬間、紫は悲痛な声を上げた。
「どうしてッ」
肉質が変化した。
「どうしてなの」
三滴目の涙が幽々子の右目に落ちる。
白い煙が上がり、沸騰した幽々子の右目が周囲に飛び散った。紫の顔や服にもかかった。
畳が、見慣れた板の間に変わっていく。壁も天井も、マヨヒガへと戻っていく。
紫の目の前で布団に横たわる幽々子でない何者かは、体を痙攣させながら、口から血を溢れさせている。
「たばかったな」
澄み切った湖のような口調だった。紫は、両の人差し指を、自分の両目に突き入れた。そのままねじ込む。第二関節まで指を埋めたところで、一気に眼球ごと指を引き抜いた。
「いいや、たばかられた愚かな私の非」
眼球を床にたたきつける。続いて、耳を毟り取る。そして右手で鼻を、左手で唇を鷲づかみ、そのままはぎ取る。
今や幽々子でない何者かは、藍へと戻りつつあった。桃色の髪の毛は金の美しい光沢を帯び、髪の隙間から狐の耳が現れ、ほっそりとした体はひと回り丸みを帯びる。水色の和服は、まるで何十年も放っておいたかのような虫食いの跡に瞬時に覆い尽くされ、ぼろぼろの破片になった。
目と耳と鼻と口のない紫は、顔中から血を流しながら、藍を静かに見下ろしていた。
藍もまた、静かに見上げていた。
露見を恐れてはいなかった。
騙し通せるか、それとも暴かれるか、そもそもそこまで考えていなかった。
今はただ、目の前の罰を見上げるばかりだった。
大きな、とてつもなく巨大な罰にしなければならない。
簡単に終わらせてはいけない。自分の裏切りが、そんなちっぽけなものであってはならない。
全身全霊をかけて八雲藍は罰を受けたい。ならば、どうする。
全身全霊の八雲紫の罰を引き出さねばならない。ならば、どうする。
ならば、全身全霊で、八雲紫を殺す。
「おぎあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
髪が伸び、部屋をすべて埋め尽した。蜜のようになめらかな肌から、無数の金毛が獰猛に生え出す。たちまち全身を毛が覆い尽くす。骨格が変わっていく。鼻が突き出、口の端が裂ける。口から火炎を吐き出した。紫の顔を焼き、吹き飛ばし、全身を炭にした。前の右足を振り払う。炭は五つに裂けた。前の左足を振り払う。さらに細かい破片になった。
再度の咆哮、そして火炎を吐き、ばらばらの炭をさらに焼き尽くした。
粉塵が舞い上がる。それはつむじ風を起こしながら、やがて人型をとっていく。頭から順に八雲紫が再構成されていく。顔の部品の完全にそろった八雲紫が。
藍が三度目の火炎を吐くのと、屋根の崩落は同時だった。屋根の重みは両者にまったく影響を与えなかった。三度目の火炎は壁を貫き、マヨヒガの土に三度目の炎の跡を残した。
四足の獣となった藍は、目の前の、回る傘を見ていた。火炎の直撃を受けたにもかかわらず、まったく焦げていなかった。傘は回り続けながら、卍型の線を描く。卍が回りながら突っ込んでくる。火炎を吐くが、卍は止まらない。藍は大きく後ろに飛び、卍から距離を取った。
わずかな猶予を得る。それで十分だった。全身の毛が逆立つ。血が沸き立つ。
殺したくて壊したくて、破りたくて裂きたくて、啜りたくて舐めたくて、口から喉から腹の底から笑いが止まらない。歓喜が全身を貫く。
九尾が天を突くほど高々と伸びあがった。
一尾は巨大なカマキリになり、両の刃を卍にたたきつける。刃が砕け散った。
一尾は巨大な蛇になり、卍を飲み込んだ。蛇の腹が裂け、卍は藍へ向かってくる。
一尾は巨大な女になり、卍をその両手で握り潰そうとした。潰れたのは女の手だった。
一尾は霧になり、卍を包んだ。卍は止まり、傘は溶けた。
紫の服も溶けた。均整の取れた、それでいて匂い立つような危うさに満ちた裸体が露わになる。乳房が、わき腹が、太腿が、顔が、爛れていく。煙をあげ、沸騰し、溶けていく。皮膚がこそげ、頭骨が露わになり、その頭骨も溶けて煙になった。煙は霧を飲み込み、風となって進む。風の先に金髪が二、三本現れ、そこから紫の頭が、肩が、胸が現れ、最後には服も元通りになり、傘を回す。卍が藍へ向かってくる。
一尾は何百、何千という尾を持つ目玉になり、卍にまとわりつく。近づく目玉がすり潰されただけで、卍の進行速度は変わらない。
一尾は角を持つ鬼に似た者たちを何十と作りだす。彼らは卍に群がり、喰いとめる。一瞬止めるが、その次の瞬間には彼らがバラバラになった。
一尾は嵐となり、卍を宙へ吹きあげ、地面にたたきつけた。その間、雷を五発落とした。卍は回転しながらその場に少しの間留まっていた。その後、周囲にそれ以上の嵐を起こし、元の嵐も雷も吹き飛ばした。
一尾は槍の穂先が集まった巨大な一尾となった。地獄の針山がそのまま上空から降ってきたかのようだった。卍は、血を流しながら、ありったけの槍をたたき折り、その一尾そのものもたたき折った。
残り一尾となった四足の藍は、吼え猛り、卍に正面から立ち向かった。全力で疾駆する。
衝突の寸前、血まみれの紫の顔が一瞬見えた。
できそこないの仮面のように、表情が壊れた顔だった。
藍は思わず目をそむけた。左前足に卍が喰い込んだ。そのまま右後ろ足にかけて卍が突き抜けた。上半身と下半身を斜めに両断された藍は、疾駆の勢いのまま前方へ飛び、地面に顔面から突っ込んだ。
力に満ち満ちた金毛が萎れていく。骨格が元に戻っていく。左肩から下、右腰から下がない、女としての藍が地面に転がる。
「ぅ……あ……」
完膚なきまでにたたきのめされた。あとは、紫の罰を待つのみだった。
待ち望んだ足音が、傍でする。両断された切り口からは、血がとめどなく流れる。その血が少しでも紫に触れればいいのに、と思う。だが、藍の望みに反して、紫は藍の頭側に立っていた。
紫は相変わらず、壊れた仮面の顔だった。
「わかってください……あのままでは……あなたの身が危なかったのです。亡霊の死の力だけならまだ耐えられたかもしれません、ですが結界の揺らぎが同時に来ては、もう……紫様、どちらかを取るしかなかったのです」
藍は口を閉じた。話している途中で何か重いもので口を押しつぶされたりするものと覚悟していたのだが、紫は何もしてこなかった。顔を俯かせているだけで、藍を見ているのではないようだった。
「紫様……」
紫は顔を上げ、当たりを見まわした。元々広くはないマヨヒガの地は、今は焼け焦げた荒野と化していた。
「これ、誰が建て直すのかしら」
ぽつりと呟くと、スキマを開き、中に入った。あとには藍が残された。
「え……紫様。罰は……」
呆然と呟く。応える者はない。藍は長い時間をかけて、切断された下半身を呼び寄せ、接続した。よろよろと立ちあがり、かつて紫の部屋があったと思われる場所へ行く。匂いが覚えている。しかしそこは、完膚なきまでに破壊されていた。やったのは、紫と、自分だ。
「罰を、罰をお願いします……」
懇願するが、一面の荒れ野となったマヨヒガは、ただ沈黙を返すばかりだった。
「紫様、そんな、そんなぁぁぁあんまりだあああああ」
声が裏返る。無様な泣き声を喉から絞り出す。目から鼻から口から、垂れ流す。
「ひい、ひいいいいぁぁぁあああああぁあっぁぁうぅぐっ、うぐっ、ひぐぅっ、あぁぁああおおおおぉぅぐぅぅぅっっ」
藍は、静かな土地が好きだった。
昔、地平の果てまで広がる荒野に、ぽつんとひとりで横になっていたことがある。まわりに見えるのは、地面にへばりつくように生えた雑草や、たんぽぽのように強い花、そして大小の瓦礫だ。それらはかつて藍が滅ぼしたものどもだ。あるいは滅ぼさせた。藍は奸智に長け、強大な力を持っていた。そして、まわりが静かでなくなったとき、有無を言わせず静かにした。それを繰り返しただけだった。まわりが静かになると、藍は安心した。安心したが、その先に……藍は、その先を考えるのをやめた。怖かった。静謐の先に、いまだかつて、自分に満たされた時間があったかどうか、考えるのが怖かった。とにかく彼は、静かな土地が好きなのだ。
「藍様」
泣き疲れ、へたりこんでいた藍の尻尾を引っ張る者がいた。
「あ……」
藍は、弛緩しきった顔で振り向いた。橙が目を赤くし、唇を真一文字に結んで、藍の尻尾を握りしめていた。
「藍様、つらいの?」
「う……ちぇ……」
尻尾から温かさが伝わってくる。
「私がいるよ、だから」
藍はそろりと腕を伸ばし、橙を抱き寄せた。
「うぅ、うぐっ……グウウっ」
「泣かないで」
そう言って、藍の裸の肩に頭を預ける。
「ぐぅぅっ、ううっ、ぐぐ」
かつて、なかったものだった。
今は、こうして傍にいる。腕の中にいる。自分のことを心配してくれている。
藍は、ひきつった声を出すばかりで、何も言葉を発することができなかった。
そうして、陽が落ち、夜が来た。
荒れ果てたマヨヒガを、上弦の月が淡く照らしている。
「なくしてしまったよ」
道士服を再生させて身にまとった藍は、この日、橙の前で初めて口を利いた。橙は安心したようにため息をついた。
「よかった、藍様。やっとしゃべってくれた」
「そうか、よかったか」
「はい、もう口が利けなくなったのかと」
「口は効けるよ。でもね、橙」
「なくしてなんか、いませんよ」
思わず藍が口を閉じてしまうほど、橙の口調は強かった。そこには、確かな意志がこめられていた。
「藍様は、何もなくしてなんかいません。ただちょっと、今見つからないだけなんです」
橙の希望に満ちた目線が、藍には正視できなかった。
「今見つからなければ、それは永遠に見つからないものなんだ」
「探しましょうよ」
橙は藍の手を取った。藍は、このときほど、自分の式の手を大きいと思ったことはなかった。
「紫様も幽々子様も、探して見つけて、そして謝るんです」
白玉楼は死臭で満ちていた。生に傾いていた空気が、急傾斜で一気に死に傾いた。庭の草木や岩に霜が降るほどに、大気は冷え切った。楼内は、あちこちにスキマが口を開いていた。そこから、死の臭いが間断なく流れ込んでくる。
かつて楼主がいた部屋に、八雲紫はいた。畳は、巨大な花が咲いたように、赤く染まっていた。固まった血を指でひっかくと、渇いた音を立てた。
どうしてこうなったのか、紫には理解できなかった。
藍は幽々子の皮をかぶり、紫を迎えた。結果はわかっていたはずだ。どこかで彼女は明晰な計算能力を放り投げてしまった。
いや、放り投げてなどいない。紫にはそれもわかる。藍は、明晰な計算能力を維持したまま、式の精密さを有したまま、狂った。
それが、理解できない。
紫は藍に対して全幅の信頼を置いていた。その信頼は、自分の手足に対するものと少し似ていた。他者ではなく、道具としての信頼だ。式とは、道具、それでいい。
道具のように使い、愛で、褒め、頼り、時に誹り、そうやってともに過ごしてきた。
藍もまた、それで満たされてきたはずなのだ。使われ、愛でられ、褒められ、頼られ、時に誹られ、ともに過ごしてきた。
道具と主人、理想的な関係だった。
その道具が、紫の世界を壊した。道具にとって、その世界は憎しみの対象でしかなかったのだ。
「幽々子……」
ぼんやりと天井の梁を見上げる。何かしら幽々子の残骸があるかもしれないと、一縷の望みをかけて冥界にやってきたが、紫を迎えたのは、生の領域へ引き込まれ崩壊しつつある白玉楼と、血まみれの布団だけだった。
今、紫の手によって再び白玉楼は死の領域へ戻りつつある。今までよりももっと極端に。死者の幽魂すら近づけないほどの静謐な空間へ変わろうとしている。
昼間だというのに、楼とその周囲には凍てつく風が吹き荒れていた。立ち上がろうとするが、腰が重い。体に力が入らない。そして、凄く心地いい。紫は眠気に誘われた。
「紫、紫」
誰かが彼女を呼ぶ。うっすらと目を開ける。夏の終わりの、物悲しい風が吹き、木の葉を散らした。髪や頬に落ちかかる葉をつまみながら、紫は木の幹から体を起こした。
「やっぱり、昼間起きてるもんじゃないわね」
「何言ってるのよ、昼間は起きているものでしょう」
「人間はね。昼は眠る時」
「夢見る時?」
「そう」
「じゃあ、今あなたが見ているものは?」
「おそらく……華胥の夢でしょうね」
紫は認めた。目の前で話している少女は、昔の幽々子のようでいて、誰でもない。ただ、紫の夢がつくりだした、とある少女に過ぎない。顔もはっきりしないし、声もよく聞こえない。
幽々子ではない。
「でも、昼に起きているものじゃないってのは、醒めても同じことを言うかしらね、私」
「そうかもね」
紫は木を振り仰ぐ。それは、桜の木などではなく、銀杏の木だった。枝に茂る葉っぱのうち、いくつかは蝶だった。
「なんのつもりかしらね、この夢」
宙に浮いて、その蝶を見る。厳密にいえば蝶ではない。枝に蝶の羽がついているだけで、その本体はどこにもない。ただ、そこから飛び上がろうとじたばたしている。だが、大地にまで根を張ったこの大きな木が、数枚の蝶の羽風でどうなるものでもなかった。
ところが、木の根元に風が渦巻きだした。紫は地面に降りる。風でドレスが激しくめくりあがった。ひとまず手で抑え込むが、勢いは弱まる気配がない。
「この風……まさか蝶が」
木の根が、軋み始める。
「蝶の羽風」
誰でもない少女が呟く。
「生に暫く」
土がめくれた。太くたくましい根が剥き出しになり、木が浮かび上がった。風の渦はますます強くなっていく。木はどんどん昇っていった。たった数枚の蝶の羽によって、木は空を飛んでいた。紫はそれをぼんやりと眺めていた。やがて、昇り、視界から消えていく木から、一羽の蝶が降りてきた。紫が人差し指を差し出すと、そこに止まった。
その瞬間、紫は全身に鳥肌が立った。
「ああ……ああっ」
歓喜で指先まで震える。
それは、幽々子のかけらだった。振り向き、誰でもない少女を見る。
「こ、これっ……」
誰でもない少女は無言で微笑む。いつのまにか彼女は、鏡に映った紫そっくりの顔をしていた。紫は、指に止まった蝶をじっと見つめる。
「私を探して」
蝶は言った。
幽々子は諦めてはいなかったのだ。喰われたそのときに、自分を夢の中にまきちらして、完全な消滅を防いだ。
紫が探してくれることを信じて。
穏やかな睡魔が降りてきた。紫はそれに逆らわなかった。
どこまでも潜れば、やがて逢えると信じて。
気がつくと、川べりに横たわっていた。向こう岸は霧がかかっていて見えない。三途の河の光景に似ていた。紫は実際に何度か見ているので、細部が微妙に違うのがわかった。まわりの石がごつごつとしすぎているし、雑草が多すぎる。川から後ろを振り向くと、高い土手がそびえていた。まるで壁のようだ。手をついてよじ登っていく。だんだん山の岩壁になっていく。頂上に着くと、下界が見渡せた。一面に森が広がっている。そのはるか彼方に、高層ビルが剣山のように連なっていた。紫は目を細めた。足下に何かが当たる。固くて柔らかい感触だ。見下ろすと、右手が落ちていた。
紫はもう驚かなかった。手を胸に押し抱き、山のてっぺんから眼下の森の海へ飛び降りた。その途中で睡魔がやってきた。
夢の夢のそのまた夢へと、紫は身を沈めていく。
着地の衝撃は、思ったよりも乱暴だった。紫は地面にうつ伏せに倒れ伏していた。顔を上げ、頬についた砂を手で払う。
目の前に白玉楼が高々とそびえていた。現実のものと、細部に至るまで変わらない。この夢のどこかにある幽々子のかけらを探そうと、紫は白玉楼へと入っていった。
突き当りの丁字型廊下の先を、見慣れた影が横切った。
「藍」
思わず、紫は口にしていた。その影はびくりと肩を震わせ、立ち止った。明らかに緊張しているのがわかる。しかしそれは紫も同じだった。怒りと戸惑いが、不安と愛惜が、よじれ、ひとつに絡まり、紫を縛りつける。
「あ……」
藍はかすれた声を絞り出すばかりで、うまく話せないようだった。すぐに何かを廊下の先へ追いやり、紫の視界から逃がした。多分、橙だ。
「なぜ……紫様」
「なぜ、それは私の問いよ」
紫は胸のうちに秘めていた想いを、吐き出そうと決意した。現実に切り裂いた藍にはもう問うことのできない想いを。
「私はあなたに、満足していた」
紫は廊下を歩く。藍は下がろうとするが、すぐに壁に阻まれた。左右を見るが、意を決して紫と視線を合わせる。唇が震えていた。紫は藍の肩に両手を回し、引き寄せ、額を突き合わせた。震える藍の唇に、ふぅっと息を吹きかける。
「なぜ、あなたは私に満足しなかったの」
「私……は」
「あなた、私をどうしたかったの。幽々子になって、それからどうしたかったの。熱い視線を交わし合って、それから私をどうしたかったの」
「わ、わかりません……」
「だから私にも、わからないの」
「私は、紫様が日に日に消耗なさっていくのを、見るに見かねて……」
「だから、幽々子の皮を剥いだ?」
「……はい」
藍は紫から目を反らし、低くうめくように肯定した。動機と行動が結びついていないのは、藍とて百も承知だった。
「あなたはきっと」
「私はきっと」
「道具であることが嫌になったのね」
藍は口を閉じ、首を懸命に横に振った。
「違います、私は、紫様の式です。式であることは誇らしいし、毎日の生活を好ましく思っています。紫様に従い結界を張り、人間を浚い、戻し、空気の読めない妖怪を追い払い、朝食をつくり食器を洗い、掃除をして、建てつけの悪い戸を直して、書庫を整理して、夜食をつくり……私はこの日々に満足しています。でも、そういう私の些細な感傷はどうでもいいのです。好きだとか誇りに思っているとか、嫌だとか嫌じゃないとか、そういう話ではないのです。もっと端的に」
藍は、自分の言葉が冗長に過ぎるのを自覚していた。情報を対象に的確に伝達するという面からいえば、藍の言葉は劣化していくばかりだった。だが、藍は止められなかった。自分の言葉で相手に何かを伝えるということの快楽を、初めて知った。
「私は、紫様の、式です」
壁から背中を離し、藍は身を乗り出す。額をごりごりと押しつける。お互いの鼻が触れ合い、鼻の頭が曲がった。言葉を吐き出すと、息も吐き出す。鼻と口を通じて溢れる呼気は、お互いの唇をあたため、湿らせた。
「ただ、それだけです。それから外れることは、私には耐えられません」
これほど近づくと、相手の顔の全体がつかめない。白目や黒目、睫毛ばかりが大きく視界を塞ぐ。紫は顔を遠ざけ、ゆっくりと藍の肩から手を離した。
「あなたの言葉は矛盾しているわ。夢だとしても、ひどすぎる」
「紫様、私は……」
「でも、少しはわかった。ありがとう」
藍から離れ、紫は廊下を右に進んでいく。藍は紫の背後に呼びかけた。
「紫様、今、あなたは、白玉楼の最上階で眠られているのですよ」
紫は立ち止り、振り向いた。
「……なぜあなたがそれを。私の夢だから?」
「いえ、先程見たから間違いありません。確かに紫様は昏々と眠っておられました。あなたは今、夢を見ておられるのでしょう。ですが、ここは現実です。その言い方が、今のこの場所にどこまであてはまるかは、わかりませんが」
「夢と現の境界が入り混じっている……」
紫は理解した途端、顔が紅潮するのがわかった。藍と真正面から今のような会話をしたことがなかった。明かすべきでない部分を明かしてしまったような恥ずかしさがこみあげる。
戸惑いもある。やはり藍は殺さねばならないのだろうか。幽々子の弔い……だが幽々子はもう死んでいる、いやそうではなく消えてしまった幽々子……だが幽々子はまだ消えていない……そして式としての藍……
「紫様、今、どの辺りまで夢をご覧になっているのですか」
紫の思考の停滞を、藍の言葉が立ち切った。紫は、今、自分が最も望むことだけに気を向ける。
幽々子を救いだすことに。
「夢の夢の夢で、幽々子のかけらを探しているのよ。あなたが喰い散らかしたせいでね」
「……私も、探します」
「あなたはこのままの方がいいのではなくて」
「わかりません」
藍は言った。それが今の、正直な気持ちだった。
「わかりませんが、探します」
「それなら、あなたも眠りなさい。夢のあちこちに幽々子が落ちているわ」
「かしこまりました。橙、ここは危ない、お前は帰りなさい」
さっきからこわばった表情で立ちすくんでいた橙は、何か言い返そうとしたが、その言葉をぐっと飲み込んだ。ここで駄々をこねても仕方がないことを、橙はよくわかっていた。
「いい子だ。さあ、私の式として動けば、この白玉楼も突破できる。マヨヒガで私たちの帰りを待ちなさい」
「……はい。藍様、紫様、どうかご無事で」
藍は大きくうなずいた。紫様は、ちらと橙に視線をやると、顎を少し動かした。
式神「橙」
藍の妖術が発動し、橙は壁を突き破って一直線に外へ出ていった。そのまま、行きがけに藍が開けてきた結界を突破し、現世に戻らせる。
「それでは紫様、私も眠ります」
「ええ、夢で逢いましょう、藍」
幾度もの夢を重ねた。
雪のように降り積もり、厚みを増すほどに、時の流れは鈍くなった。
身を切るような冷たい風が吹く海岸の砂浜で、紫と藍は顔を合わせた。灰色の空は、まだら雲に覆われていた。太陽の光はどこにもなく、ただぼんやりと何ヶ所か明るい。
「今、何度目? 藍」
「さあ、夢の夢の夢の夢の夢の夢の夢の夢の……忘れました」
「嘘ね。あなたなら正確に覚えているでしょう」
「はい、嘘をつきました。申し訳ありません」
「また逢ったということは、私の階層に追いついたということかしら」
「さあ、どうでしょう。途中、何度か元に戻る夢も見ましたので。たまたま、こうしてお互いの夢が噛み合っただけかもしれませんね」
「首尾は」
「はい、ご覧になってください」
藍は大きな布袋を両腕で抱えていた。それを降ろすと、地面に膝をつき、中身を砂の上にひとつひとつ置いていく。
「薬指、頭巾、草履、耳、肝臓、犬歯……」
「ずいぶん集まったわね」
紫もまた、藍と同じくらいの布袋をスキマから取り出し、膝をつき、藍と同じように数え上げていった。
「唇、恥骨、大腿骨、足の皮、胃、眼球、腕の皮、頭髪……」
幽々子のかけらは、小山のようにうず高く積み上がった。
「これで、全部でしょうか」
ばらばらの部品を前にして、藍はこれからどうしていいか、戸惑いを隠せなかった。
「だいたい、そろったでしょうね」
「長い間、かかりましたね」
「すべては華胥の夢よ」
紫は小さく欠伸をした。
「だとしても、さすがにうんざりしてきました」
「六十年越せば、もうあまりそういうことも感じないはずだけれど」
「少なくともそのくらいは居る気がします」
「本当は計測しているんでしょう」
「ええ……と言いたいところですが、元々境界も乱れていますし、私と紫様、それに幽々子様自身の夢が入り乱れていることもあって、さすがに通常の方法では計測できません。新たな方程式を生みだす必要がありますね。三途の河の長さを計測できるような、そんな画期的な方程式を」
「画期的かしらねえ。せいぜい、天狗の新聞に載るくらいが関の山だと思うけど」
「せっかく私が意気込んでいるのに、やる気を削ぐようなことをおっしゃらないでください」
「それはまあ、わりかしどうでもいいのだけれど、気になることがあるわ」
「はあ、なんでしょう」
「血、布団についていたわね」
紫は部品の小山を見ながら、言った。
「夢の中でどれだけ探しても、血はなかった。現実ですでに全部流れるか藍に吸われるかして、夢に逃がすことができなかったのかしら」
「そうかも、しれません」
「このままだと何も起こらないかもしれないわ」
「そして私たちだけが覚めてしまう、と」
「私は覚めないけど」
「紫様」
「何も起こらなければ、の話よ」
紫は右手首を口につけ、少し齧ると、腕を差し出した。血が、部品の小山のてっぺんにあった眼球を濡らし、そのまま心臓と延髄と視神経を伝い、赤い流れを作っていく。
「あ……何を」
「血を全部流しつくしてしまって夢の中で調達できないなら、私たちで補充するしかないでしょう」
藍は、胸の中心を重いものでたたかれた心地がした。たち、と紫は言った。
「いいのですか……私の血を混ぜてしまっても」
「あの子、ああ見えて細かいこと気にしないから、きっと気にしないわ」
「『ああ見えて』……?」
「いいから、ほら、私だけに血を流させる気なの」
藍は手首を噛み同じく腕を差し出す。勢い余って半分ほど齧ってしまったため、紫よりも出る勢いが強い。
ふた筋の暗赤色の流れは、ひとつに混じり合い、骨を、臓器を、皮を、染め上げていく。
「私を、赦してくださるのですか」
赤い小山を見ながら、藍は尋ねた。紫は、ちらと藍に視線をやり、また小山に戻す。
「わからないわ。今はとにかく、幽々子のことが最優先だし」
「そうですね。裁きは、そのあとでも」
「私は裁かない。私は自分がいいようにするわ。罪と罰の天秤に興味はないしね」
「どうぞ、紫様の望むがままに」
「私の傍にいなさい」
藍は、弾かれたように再度紫を見た。紫もまた、一瞬だけ藍と目を合わせるが、すぐに小山にそらす。
「あなたが飽きたのなら、別だけど」
藍は大きく息をついた。出血で右腕からは力が抜け、重くなっていくばかりだが、体全身が嘘のように軽かった。
「ありがとう……ございます」
風は、潮の香りを運んでいた。冷えるのに、肌が粘つくような心地がする。赤い小山は、それ自体がぼんやりとした熱を持つようになっていった。それは焚火のように、ふたりの妖怪を温めた。一歩一歩、睡魔が近づいてくる。ふたりとも、それに逆らおうとはしなかった。
「おはよう」
呼んでいる声が聞こえる。右腕が重い。手首に手をやるが、傷はついていなかった。上半身を起こす。手をつくと、畳の感触だった。壁を、天井を見る。そして、開いた襖を見る。そこに立つ、桜色の髪の少女を。
「おはよう、よく眠れた?」
紫は肯定の返事をしようとして、喉が詰まった。そのまま、深く息をつく。体に澱のように溜まっていた不安が、安堵となって、体の外へ流れ出ていくのがわかる。それとともに、全身から力が抜けた。
「お疲れのようね。まだなんとか昼よ、夕方まではもう少し間があるから、二度寝しておく? 二度寝する華胥なんて、贅沢ね」
幽々子は部屋に入り、紫の傍らに正座した。
「あ……藍、は」
言った瞬間、紫は後悔した。あれほど焦がれていた少女が目の前にいるのに、別の名を口にしてしまった。しかし幽々子は、ごく普通に受け答えした。
「ああ、藍さんならさっきまでそこで丸くなって眠っていたけど、目を覚ましたらすぐに帰っていったわ。ほんと、ついさっき」
「そう……」
「私に、深々と頭を下げたわ。下げても、どうしようもないのにね」
「そう……ね」
「私ずっと、感じていたから。あなたたちが、私を集めて回るのを」
「あっ……」
「あなたたちの体のぬくみをずっと感じていた。だから、いいの。もう、謝らなくて」
紫は、そっと、うかがうように幽々子の手の甲に指先を触れさせた。幽々子は、その紫の手を両手で押し包んだ。
「だから今は、あなたも休んで」
幽々子の手は、ひどく冷たかった。いつものことだ。そして反対に、紫の体は熱くなる。これも、いつものことだ。紫はうなずいて、畳の上に横になった。
「ああ、まだ早いわよ。ちょっと待って、布団敷くから」
幽々子はそう言って、押入れを開け、布団を抱えようとした。紫は跳ね起きる。
「な、何をしてるの、折れる、折れるわよ、やめなさい、私がするわ、それか幽魂にさせなさいよ」
「いいの、紫はそのまま寝てなさい。たまには私がするわ……っとと」
少し危なげだったが、どうにか幽々子はひとりで布団を畳に降りし、広げた。
「さあ、どうぞ」
紫はなんとなくもじもじしながら、布団に横になった。その上から、幽々子が掛け布団をかけてやる。
「ありがとう」
「いいのよ、このくらい。いつも紫には世話になっているから」
「だいぶ、元気になった?」
「そうね。今はあまりお腹空いていないわ」
「どうして」
「さっき幽魂食べたから」
「そう」
紫はそう応え、そこで話の接ぎ穂を失った。いずれ、そういう事態が来ることは覚悟していた。幽々子が亡霊としての体に馴染む過程で、魂の味を知る日が来ることを。
「これがね、おいしいの。でもあまり食べ過ぎると、世話してくれるひとが誰もいなくなってしまうでしょう。だから、どうしようか困っているの。でも、やっぱりお腹空くのは、嫌だものね」
「そうね、お腹空くのは、誰だって嫌だわ」
「でしょう」
「幽々子、今度マヨヒガへ来たときは、刺身をご馳走するわ。魂みたいなナマモノが食べられるようになったんなら、刺身なんかいけるかもしれないわ」
「あら、楽しみね。それじゃあお腹を空かせて待っておくわ」
東の空が赤い。月は光を失い、白々としている。空全体はまだ薄暗いままだが、空気はもう朝のものだ。夜明けは近い。
「幽々子は?」
「縁側で刺身を食べています。ずいぶん気に入っていらっしゃるようですよ」
新しい畳の匂いもかぐわしい和室で、紫はしどけなく布団に寝そべっていた。目尻には涙がたまっている。朝ふかししているので、眠くてしかたない。
「醤油と合わせて食べるのが特にいいと、おっしゃっていました」
「そう、それは良かったわ」
「ですがこのままでは、白玉楼に幽々子様以外誰もいなくなるという事態になるかもしれませんね」
布団の横で正座している藍は、ドレスの裾がめくれ、半ばまで露わになった紫の太腿をちらちらと見ていた。
「白玉楼にやってくる文人の魂の数よりも、幽々子が幽魂を食べる数の方が多ければ、そうなるわね。そのうち、文人たちも楼に立ち寄らなくなるでしょうし」
「そうすると、是非曲直庁が何か言ってきませんか」
「言ってくるでしょうね」
紫は何でもないことのように言い放ち、枕元の皿に乗せた梨を、ひとかけらつまみ、半分齧った。
「藍、あなたも食べなさい」
「あ、はい、では頂きます」
「こっちを」
皿に手を伸ばした藍に向かって、紫は残り半かけらの梨を差し出した。藍は恐る恐る、紫の指に近づく。
「歯を立てないよう、先に唇で固定してからになさい」
「はい」
そうすると、必然的に、紫の親指、人差し指、中指を第一関節まで口に含むことになった。紫はゆっくりと指の力をゆるめ、藍の口の中に梨のかけらを解放した。濡れた三本の指先を、藍の両頬にこすりつけ、拭った。
「ご心配では、ありませんか」
「閻魔の顔色を伺っていたらきりがないわ。連中と来たらこちらに後ろ暗いことが何もなくとも、どうにかして罪状を作りだそうとするのだから。ましてや、私たちは後ろ暗いことだらけ」
「ご自分でおっしゃいますかそれ」
「もはや永遠に閻魔様を満足させることはできないし、するつもりもないわ。だからいいの、気にしなくて」
「白玉楼、誰も手入れをしないと、ぼろぼろになってしまいますよ。あんな立派な建物ですのに」
「そうね、掃除係くらいはいるわよね。あそこは庭も見応えあるし」
「それに、もし楼内の魂を喰い尽くしてしまったとき、幽々子様が外へ目をお向けにならないか心配です」
「向けるかもしれないわね」
「どうするのです、そのときは」
「幻想郷にだけは立ち入らせないようにするわ」
「……露骨ですねぇ」
「露骨よ」
紫は、正座した藍の膝に人差し指を立て、くるくると円の字を書いた。
「ねぇ、こんな風にゆったりとした気分話すのは久しぶりでしょう。それなのに、こういう話ばかりなの」
「私は当然の危機管理の話をしているだけです」
「事件はもう終わったから、いいじゃないの。幽々子はあなたを赦したわ」
指は、膝から腿の方へ這っていく。藍の呼吸が少しずつ乱れていくのが、紫には手に取るようにわかって、それが心地よい。
「ですが、依然としてまだ幽々子様は完全な適応を……」
「足を崩して、楽になさい」
藍は言われた通りにした。
「ほら、来つ寝……」
藍は、言われた通りにした。
幽々子は箸を皿の上に乗せ、手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「あれ、幽々子様もうお上がりにならないんですか」
大皿に山盛りになった刺身を見て、橙が残念そうな声を上げる。元々橙が川で取ってきた大魚を、藍が捌いたものだ。
「そうなの、私、少食だから。残りはあなたが食べるといいわ」
「え、いいんですか。やったぁ。でも藍様に怒られるかな、必要以上においしいものを食べちゃいけないって」
「あら、そんな間違ったことをあの狐さんは教えているの」
「間違ってはいないですよ」
橙は頬を膨らませた。
「自分の身の丈以上のおいしいものを、何もがんばらないで食べ続けたら、頭と体が馬鹿になってしまうんですよ」
「そう、狐さんが言っていたのね」
「そうです」
幽々子は楽しそうにくすくすと笑った。
「いいお師匠を持ったわね、橙ちゃんは」
「なんだか、幽々子様に言われると素直に受け止められないです」
「あら、小さいのにずいぶんひねくれているわね」
幽々子は、笑みを絶やさぬまま、立ち上がる。
「お帰りですか。藍様たちを呼んできますね」
「いいわ、また来るし、わざわざ呼びつけるのも悪いから」
「でもせっかくだから……」
「なまなましいわねぇ」
「え、なんですか?」
「いいえなんでも。ふたりには、ありがとう、と伝えておいて」
「はい、わかりました。それじゃあお元気で」
「ええ、またね」
幽々子はそう言って、縁側からふわりと空へ浮き上がった。上へ上へと、昇っていく。やがて幽々子の姿は雲に紛れて見えなくなった。
不思議なひとだ、と橙は思う。
今さっき、彼女が浮かべた表情が、いったい何を意味するのか、橙にはよくわからなかった。笑っているような、悲しそうな、幸せそうな、諦めていそうな、そんな、色々なものが混じった表情だった。
とにかく、また、と幽々子は言ったのだ。それだけで橙は安心できた。ふたりに幽々子の言葉を伝えるべく、よろこび勇んで駆け出していった。
びっくりしたわ
マジ好み。
戦闘描写がすさまじい
そしてそれに足る幽々子のなまめかしさ、うつくしさ、とうとさ。
そういったものが、あなたの作品からは全篇通じて伝わってきます。
たいへんおいしゅうございました。また読みたいです!
このゆゆさま魔性の女すぎる・・・
読んでいくうちに自分の心が、そして体さえもゴリゴリと削られていきそうな、凄絶な切れ味の作品でした。しかし、それほどの激しさを持っている作品なのに、最後は切なくなるほどの静謐さに満ちていて、これがまぁ、とんでもねぇ。
紫、幽々子、藍の心理描写も、九尾の狐という藍の設定を存分に生かした戦闘描写も逸品。さらに橙も可愛い。さすがです。
久々の野田節、堪能させていただきました。
あやふやな感じ
いいよねー
冒頭の藍様が幽々子様をむしゃむしゃしてるところなんて特にくるものがある
グロ好きじゃないのにこの胸の高鳴りはどういうことなの……
それと詳しくは書けないが某所の最後辺りの紫様の言い訳には呆れざるを得なかったw
紫様の中では幽々子様>>>幻想郷の筈なのにああなるんだよなあ……幽々子様は大切過ぎて逆に触れ難いものがあるのだろうか
艶かしくも、妖艶な話に飲み込まれてしまいました。ありがとうございました。
ええ、まぁ、あの藍はどう見ても白面のゲフンゲフン
九尾の狐と聞いてあの作品を無視することはほぼ不可能ですし
無視するとかえって不自然になってしまうから、
いっそ真正面から好き放題に書くことにしました。綺麗にいえばオマージュ。
紫と幽々子は、時期によって少しずつ関係性が変わってきそうです。
そのときまわりはどうだったか、まわりに誰がいたか、で。
それが本人たちに影響を及ぼす。これも書き続けていく楽しみのひとつですね。
幽々子も紫も藍も、三人とも怖いくらいに倒錯的なのに、なにやら雰囲気は美しい。
特に幽々子の魅力が半端無い。恐ろしく貪欲なのに儚げで色っぽい。
紫が曇らされるのも仕方ないね。「私は自分のことしか考えていないわ」こんな事言われたらどうしようもないw
そして藍。ゆかゆゆを引かせる狂いぶり!
とても面白く読めました。ありがとうございます。
(ところで、ラストの橙はゆからんのアレな場面を見てしまったのだろうか……)
>>幽々子は部屋に入り、幽々子の傍らに正座した。
以下感想
色々感じたことがありましたが、凄まじすぎて上手い言葉が出てきません。
冷たい空虚が故の、幽々子の哀しさ、儚さの描写に執念を感じました。
登場人物達の会話が自分と他者との食い違いやロジックの違いを殺すことなく成り立っていて、キャラクターの実在感を強く感じることができドキドキしました。
己をもっとも強く憎む者と己を最も深く愛する者両方の血で、幽々子の魂がわずかばかり熱を帯びることが出来たラストの展開も素晴らしい。
ますます、ゆかゆゆと八雲一家が好きになりました。
置き換えてみると、自分が管理できるような組織を作り上げる優秀な男に、怜悧で仕事面でも男としても尊敬している女性の部下、そして男に積み上げてきた物を捨てても良いとさえ思わせてしまうような、浮世離れした儚げで妖艶な女。
……そりゃあドロドロするよなあ。
三人の違いをこれだけ切れ味鋭く書いているのが本当に見事。堪能しました。
あと九尾と卍のバトルにウホッてなりました、かっけぇ
藍にとっては紫が、紫にとっては幽々子が、無いと本当に生きていけないレベルなんだなあとしみじみ思いました・・・・・・凄まじいまでの執着に見ているこっちがクラクラします
野田さんのゆかゆゆに藍が混じるとドロドロするというのは分かったけど、他の人ならどうなるだろうか?
今回は紫サイドの登場人物が増えたことこのようになったけれどもでになったけれども、例えば妖忌が幽々子サイドの人間が出てくると何が起こるんだろう?
普通ならこんなことは想像しないものだけど、あなたのゆかゆゆワールドならもっと堪能したいと強く思いました
それと上記とは全然関係ないけど、紫が幽々子(藍)に弱弱しく縋りついてから、自身が謀かられた事を戒め、そしてバトルまでの展開で思わずヒィっと声をあげてしまいましたwあの一連の流れは恐ろしいのに目が離せなかったです
満足させていただきました。
作者が下手なこといって皆さんの言葉を壊したくない、という。
こっちが意図していないところまで読み取ってくださる方もいらっしゃるようですし……
そういう嬉しい誤解は解かない方がいいw
俗に、作品は完成したら作者の手を離れてしまう、などと言いますが、一抹の真実を言ってますね。
妖々夢がらみの話は、あといくつか頭にありますので、少しずつ形にしていきます。
今のところ考えているのは、妖忌、妖夢と彼女たちの話。
もうひとつは、食の細い幽々子がいかにして大食漢になったか、つまり現設定に至るまでの話です。
さあはやく次を書くんだー!
ゆかれいむも絡んだら泣いて土下座して喜びます
綺麗でした。