1 むかしばなし
むかしむかしのお話。
まだ幻想郷が閉じていなくて、日々御伽話が生まれていた頃のこと。
遠い地方に出かけていた、スキマの大妖怪八雲紫は、世界の裏側にひっそりと存在する、我が家に帰ってきました。
彼女は自らの能力を使い、今日の妖怪の未来を見定めるために、世界中を旅して回っています。
けれども、決して、長く家を空けることはありません。
なぜなら実家には、自分の帰りを今か今かと待ち続ける、最愛の式がいるからなのです。
さて、いつものように、紫が家に帰り着き、玄関の戸を開けると、廊下の奥からとてとてと、小さな足音が近づいてきました。
「ゆかりさま~!」
金の髪の毛に獣の耳が二つ。そして、くりくりしたおめめ。
小さな体に見合わぬ、大きな金色の尻尾を九つも背負った、幼い狐の妖獣です。
「おかえりなさい、ゆかりさま!」
「ただいま、藍」
紫は自らの式を迎え入れるため、そっと手を広げて待ちました。
しかし、いつもなら胸に飛び込んでくるはずの妖獣、九尾の狐の式である藍は、靴置き場の手前で停止し、何やら興奮した様子で知らせてきます。
「ゆかりさま! 今日のらんは、すごいことがあるんです!」
「へぇ、凄いこと?」
「そうです! なんと、らんは術をおぼえました!」
えっへん、とおチビさんは得意げに胸を張り、尻尾を揺らします。
彼女の主人であり、親がわりでもある紫は、不思議に思って聞きました。
「術? 誰かに教わったの?」
「いいえ、らんが自分で考えました。このまえに、ゆかりさまの術を見ていて、らんにもできるとおもったんです!」
「私の術ねぇ……」
紫はざっと記憶を遡ってみます。
しかし、まだまだ式どころか、並の妖怪としてすら実力的に物足りない藍が覚えられそうな術は、一つとして見当がつきません。
とはいえ、このおチビさんも九尾の狐という、妖怪の中でも強力な血の持ち主。もしかしたら、主である自分が知らぬ間に成長しているのかもしれません。
紫は期待半分、興味半分で、藍に続きを促しました。
「それじゃあ、今ここでやってごらんなさい」
「えっ、ここでですか?」
「どうせ、私に見せたくて待ちきれなかったんでしょう。いいからやってごらんなさい、藍」
「わ、わかりました。いきますよ~」
と、藍は張り切って、主に術を披露する準備を始めました。
~やくもりや~
「ん~…………あら?」
布団の中で、八雲紫は目を覚ました。
二十畳ある、家具の少ない、がらんとした和室。八雲一家の屋敷、その寝室の中央である。
障子を薄く染める光は、暁のものではなく、これから沈もうとしている陽の光だった。スキマ妖怪は昼ではなく、幻想郷の夜に活動するものなのだ。
紫は布団から起きあがって、頭のナイトキャップを取り、ふわぁ、と欠伸をする口を隠した。
「懐かしい夢だこと……」
手の内で漏れた独り言には、半分嬉しく、半分口惜しい響きがあった。
幻想郷を管理する大妖怪の八雲紫は、彼女の実力を補佐するのにふさわしい、最高の式神を一体所持している。
しかしその式は、初めから実力があって、機転が利いて、仕事を任せられる存在だったわけではない。
主である紫が親代わりとなって、一から育て、保護し、鍛えた成果であった。
その九尾の式が、一番始めに覚えた術のことを、紫はいまだに忘れていない。何度思い出しても、顔がほころんでしまう記憶である。
「藍もあの頃は初々しかったわねぇ。今じゃ使える術の方が多くなっちゃって」
式の成長が嬉しくないわけではないが、しかしそのために失ったものも少なくない。
雑事を引き受けてくれる大天使よりも、玄関で迎えてくれる小天使がいいといったら、今の本人は気を悪くするだろうか。
しかしそれは冗談としても、たまに昔の夢を見ると、ちょっぴり切なくなるのも本当なのであった。
紫は目の端をこすりつつ、せっかくの機会だし、もう一度幼い頃の式に会ってこようと、布団に潜り込んだ。
すると、
――! ――!
隣室の声が、耳に届いた。
幼い子供が早口で喋っているような、甲高い声である。屋敷の中でこの声の持ち主といえば、一人しか該当しない。
自らの式の式、まだ妖怪としても式神としても、成長途中にある化け猫の妖怪である。
けれどもその声色は、いつもの明るく朗らかな様子とは少々違い、何だか切羽詰まって喚いているようであった。
気配は彼女だけでなく、もう一人。時折穏やかになだめるような声も混じる。こちらの声は、すでに数百年聞き慣れたものである。
「なにかしら。橙が悪戯をして叱られてるわけでも無さそうね」
心当たりもなく、考えて解き明かすのも面倒だったので、紫は素直に起きて様子を見に行くことにした。
「お願いします! 藍様! 私頑張りますから、教えてください!」
平静さを失って頼み込んでいるのは、赤いスカートの洋服を着た、化け猫姿の式である。。
二又に分かれた黒い尻尾を円上に振り、黒の両耳をぴくぴく動かし、畳についた両手の爪は、今にもそこを引っ掻き回したそうにうずうずしている。
「…………う~ん」
興奮状態にある彼女と対峙しているのは、九つの大きな金色の尾を持つ、狐の妖獣姿の式であった。
家事の途中だったのか、割烹着を身にまとっており、腕を組んで眉根を寄せ、式の懇願に対して、思い悩んでいる様子である。
二人がいるのは、八雲の屋敷の中央にある居間。
ちゃぶ台を用意して食事を取ることもあれば、家族で談笑することもある、つまり一番住人に使われている一室である。
しかし、今のように、八雲の式の式である橙が、その主である八雲藍に、このように必死でせがむ構図は、あまりない場面だった。
「実力が無いのが理由なら、できるようになるまで鍛えてください! 諦めません!」
「…………う~ん」
「お願いします! あんまり時間がないんです! 特訓してください!」
「…………う~ん。……ん?」
廊下に現れた人影に気付き、二人は同時にそちらを向いた。
「お早うございます紫様」
「お早うございます紫様!」
太陽が昇るどころか沈む時間帯ではあるが、式達の挨拶も、それを受ける主の態度も、日常のものであった。
瞼をとろんとさせ、ゆめうつつの状態で、欠伸混じりに紫は答える。
「お早う二人とも。で、一体何の騒ぎ?」
「それが……橙が奇妙なことを」
と、式である藍が説明しかけたところで、その式である橙が紫の方に歩み寄り、膝をついた。
「紫様! 私、どうしても、泳げるようになりたいんです!」
紫の目がぱちりと覚めた。
「泳げるように、なりたい?」
「はい!」
そう言って真っ直ぐに見つめてくる橙の発言に、紫は首をかしげる。
というのも、橙は藍の式である。式とは式神。使役主が編んだ膨大な計算式により、命令を受け、手足となって働く存在である。
命令に従いさえすれば、主と同等の力を用いて行動することができるので、主が強力であればあるほど、式は得難い分身となって行動してくれるのである。
だがしかし、式はその便利な半面、水に弱いという性質も持っている。
雨に打たれるのもまずいし川に足を浸けても危ないし、ひどい時には、転んで水たまりに落ちて剥がれる可能性まである、扱いにくい術なのである。
特に、元の体が化け猫である橙の場合は、二重に水が弱点となっており、本人も大の水嫌い、というより『水恐怖症』に近かった。
お風呂のかけ湯ですら毎度のごとく涙目になるくらいなので、泳ぐだなんて以ての外である。
それが今になって、泳げるようになりいなりたいと大騒ぎしているのだから、主の八雲藍にとっても、そのまた主である八雲紫にとっても、寝耳に水の事態であった。
橙は紫から藍の方に戻って、
「藍様! 藍様は私と違って、水に濡れても平気だし、泳ぐことができますよね! そういう水避けの術みたいなのがあって、藍様は使えるってことですよね!」
「うん、まぁ、そうだけど」
「じゃあ、その術を私に教えてください! 死ぬ気でやります! 絶対に途中で諦めたりしません!」
「……う~ん」
式の懇願にも、主は難しい顔をしたままであった。
藍とて、橙のこうした向上心は本来好ましく思いたいはずなのである。
あれほど嫌っていた水に対して、自ら克服しようという立派な志。
それでも素直に首を縦に振れないのは、一つだけ、引っかかっていることがあるからだった。
「橙。私だってできることなら、橙にその術について教えてあげたいし、もう橙もそれだけの実力になってるんじゃないかとも思う」
「だったら!」
「けど、術を身につけたがる理由はどうして? 本当は、単に泳げるようになりたいからじゃないんでしょう?」
「…………っ!」
橙はそれまでの意気をくじかれたように、身を引いて縮こまり、俯いてしまった。
見物していたスキマ妖怪は、「あら」と両眉を少し持ち上げて、
「橙は藍に理由を明かさずに、水避けの術を教わろうとしていたの?」
「ええ、そうなんです。本当の訳を話すのを嫌がっているようでして」
「なるほどね……」
藍が認めずにいる理由を悟った紫は、橙の元に歩み寄り、彼女が怯えてしまわぬよう、少しずつ語った。
「橙。貴方は、泳げるようになりたいと言うけれど、式が水を克服するということが、どういう意味なのか分かっているかしら」
「…………いいえ」
「式は本質的に水に弱い。それは弱点ではなく、式を式たらしめる世の理。それに逆らうということは、ある種の矛盾を抱え込むことに繋がる。便利どころか、とても危険な話でもあるわけ」
「………………」
「それでもあえて身につけたいというなら、きちんとした理由を述べないわけにはいかない。虫が良すぎるだけじゃなく、貴方の安全についても関わってくることだからね」
「……はい……でも……」
橙は口ごもり、返答から逃れるように視線をそらす。
その反応を見て、紫は得心した。
「わかったわ。橙は、私も藍も、その理由に反対するものだと決めこんでいるのね」
「そ、そんな……」
「嘘は無用。ただ貴方が話さぬ限り、私も藍も永遠に許可することはできない。それだけは間違いないわ。……私からは以上よ」
紫は体を起こして、自らの式に続きを委ねた。
藍はくどくどと説くことなく、ただ一言、「橙……」と静かに促しただけであった。
式の式はまだぐずついていたが、ついに観念したのか、恐る恐るといった感じで、話し始めた。
「実は……」
○○○
それは昼間のことだった。
橙は妖怪の山にある、河童の住み処に来ていた。
山では妖怪の縄張りがきちんと分けられているので、同じ山の猫の里に住む化け猫であっても、ここは厳密には足を踏み入れることが許されない領域とされていた。
しかし、とある事件がきっかけで、橙は特別に自由に歩き回ることを許可されており、中でもここに住む河童の一人は、定期的に橙を呼んでくれる仲良しなのである。
散らかった研究室は、昼間だというのに窓のブラインドが落ちており、机に備え付けられた白色灯だけが、光源になっていた。
「というわけで、これが新発明の妖怪ビデオカメラ」
そんな中で、椅子に座る河童の河城にとりは、短い望遠鏡に四角い箱をつけたような道具を、自信たっぷりに橙に紹介してくる。
「天狗が扱うカメラよりも、もっと優れてるんだよ。何とこれはね。世界を『絵』で切り取るんじゃなく、『動き』で記録するんだ。外界から入ってきた品に似たようなものがあったんだけど、それは妖怪の妖力とか幽霊が映っちゃって、画像がどうしてもボケちゃうんだよね。これはそういうのを全部カットして、ちゃんと映せるようになってるんだ」
「わー、面白そう!」
「ふふ、実は今、橙を撮ってるんだよ。なんかポーズしてみたら?」
「えっ、こ、こうかな」
「別に止まらなくてもいいんだって。これは動きを写すんだからね」
こちらに向けられているビデオに、橙は手を振って笑ってみたり、わざと「にゃー」と威嚇してみたりした。
にとりはそんな彼女を撮影した後、ビデオを持つ手を顔から下ろし、
「録画時間は三十分。でも本番までには、もっと容量の大きいのを作るつもりよ」
「すごい発明だと思います! じゃあ、今撮ったの見せて見せて!」
「あ、そりゃダメだ。撮ったのを見る機械は現在開発中。早くても来年までかかるね」
橙の動きが、ぴたりと停止した。
はしゃいで差し出していた両手を、やんわりと引っ込めながら、
「それじゃあ、たぶん、審査員の人もがっかりすると思うんですけど」
「…………だよね」
にとりはがっくりとうなだれて、自らの敗北を認めた。
「橙に突っ込まれる前から、薄々気付いてはいたんだ……本当はそっちも作るつもりだったんだよ。でもさー、ちゃんと設計期間を計算してみたら意外と難題だったんだよね。……仕方ない。これは来年に回すか。じゃあこっちはどうかな」
と、彼女は横に置かれた箱から、別の道具を取り出した。
実は橙が今日、この河城にとりに呼ばれた理由は、新発明の感想を聞かせてほしいということだったのである。
というのも、近々妖怪の山で毎年行われている、『新発明コンテスト』なるものが開催されるらしく、それに優勝すれば、技術者として大変な名声を得ることができるのだという。
にとりは河童の中では、すでにある程度名の知れたエンジニアらしいのだが、実はこうした大会で優勝したことは無く、それどころかとんでもない発明のせいで利用者に大迷惑をかけてしまった過去もあったので、悪評も少なからずあるそうな。
そこで、今度のコンテストで優勝して、今度こそ河童の河城にとりの名を、幻想郷中に知らしめようと張り切っているらしかった。
だが、発明品を同僚の河童に見せれば、盗作の危険性があるので、口の固い河童以外の知り合いが試験役として最適である。
というわけで、橙が選ばれたらしいのだが……。
「ビデオカメラに時間を使っちゃったから、あとは簡単な物か旧作しか残ってないんだよね。これどう? のびーるまごの手。最大三メートルまで自動で伸びます」
「そんなに背中の大きい人いるかな」
「じゃあこれ。美味しい匂いの出る目覚まし時計。なんと、朝寝坊した時、おかずを作る時間がなくても、美味しい匂いを出してご飯が進みます」
「きっと後でお腹が空くと思う……」
「爆発掃除機! 部屋の埃や塵を全て爆風で吹き飛ばす! 吸い込むタイプの掃除機に対する革命を……!」
「きっと、ここで使わない方がいいです。危ないです」
ストレートかつ遠慮のない批評が続く。
最後には、にとりも完全に凹みかけ、物がさびしくなった箱の中に手を入れて、
「……後はこのキュウリを冷やして守るキューカンバープロテクターくらいしか無いんだよね……。相性はキュータ君。でもちょっと自信が無いなぁ。審査員は河童だけじゃないし」
曲がった緑色の細長い筒を、橙は受け取った。
試しに開いてみると、冷気がしゅわ~と漏れてくる。
橙はキュウリがそんなに好きではない。けど、アイスや果物を遊びに行った先で冷やして食べられるなら、それは大歓迎であった。
「あ、にとりさん! このキュウリガード!」
「キュウリガードじゃなくてキューカンバープロテクター……あれ、キュウリガードの方がいいかな」
「この道具、キュウリだけじゃなくて、色んなものを冷やすようにできないかな。それならみんなが喜ぶよ」
「そうか! 容量に関係なく、形に合わせて伸び縮みする素材にすれば、様々な物に使えるように……後は逆に温める機能とか、色んなオプションをくっつけて……うん、いけそうな気がしてきた」
にとりはすぐに机に向かい、設計図に物凄い勢いで書き込みを始めた。
ツインテールにした水色の髪を空いた手でかきむしり、呪文のような独り言を呟き、時に激しく唸りながら、時に軽やかに歌いながら。
彼女がこの状態になると長い上に、いくら声をかけても上の空だということを経験から知っている橙は、椅子からお尻を持ち上げた。
「じゃあにとりさん、私もう帰るから、また今度ね?」
「ん。……あ、待った待った。忘れるとこだった」
にとりは作業を中断して、机の引き出しを開け、がさごそとまさぐってから、一枚の券を取り出した。
水色がかった薄い紙で、表面についた白い粒が、電灯の光に輝いている。
「はい、これ。あげる」
「なんですか?」
「『カッパピアーウー』の無料チケットさ。しかも先行公開入場可能のプラチナチケット」
にとりはニッと笑って、自慢げに説明を始めた。
大型屋内外プール施設『カッパピアーウー』。
流れるプールや波のプール。ウォータースライダーにジャグジープール。その他遊び心満載のプールに加えて、温泉やサウナ、休憩所やレストランも完備。
山に住む神様、洩矢諏訪子が秘密裏に企画し、工事を進めていたそんな一大アミューズメントパークが、三日後に、この近くで開かれるというのである。
大人から子供まで、妖怪から神様まで、誰もが満足できるレジャースポットだとか。
「実はここだけの話、ほとんどのプールは、私のアイディアが使われているんだよ。昔から水をどう操るかっていう研究はしていたから、それが役に立ったわけ。で、その報酬の一環として、無料チケットを何枚かもらってね」
「………………」
「私はフリーパス持ちだし、一人でチケット何枚も持っていてもしょうがないし、橙にあげようと思って。いつも実験に付き合ってもらってる御礼だよ。取っといて」
橙はしばらくチケットの表を見つめていたが、やがてそれをにとりに返そうとした。
「にとりさん、私これいりません」
「ん? 何で?」
「私、泳げないんです。『式』が剥がれちゃうし、水が弱点だから……』
その答えに、にとりは大きく目を見開いて、口をぱくぱくと動かした。
ついで「あちゃあ」と頭を両手で抱えこむ。
「……そうだった。すっかり忘れてた。あんたそう言えば、水がダメだったんだね」
「はい。でも気にしないで。だって、泳げないのは昔からだから」
橙は苦笑いして、チケットを持つ手を伸ばしたが、頭を抱えたままの河童は、それを受け取ろうとしなかった。
「まずった……ああどうしよう……だからあの子ら……」と、呻いている。
「にとりさん、どうかしたの?」
「……ごめん橙。謝らないといけない。実はその券は、もうあんたのお友達に渡しちゃってるの。ほら、妖精のチルノとか、蟲っ子のリグルとかの四人に」
橙の心臓が、わずかに跳ねた。
「今思い出すと、あの子達にそれ渡した時も、なんていうか微妙な顔してたんだよね……あれはきっと、あんたが水が苦手だってこと知ってて、後ろめたかったんだ。ああ、やっちゃった……」
「にとりさん、それいつのこと? 金曜日よりも前ですか?」
「えーと、そうだね。四日前かな」
「やっぱり……」
橙は二日前の出来事を思い出した。
実はその日は、リグルと人間の里巡りをしていたのだが、それまで楽しく過ごしていたのに、帰り際の彼女の挨拶が、なんだかぎこちなかったのだ。
何か言いかけて、やっぱり諦めてしまった、そんなそぶりだった。
その時は、橙も彼女が何か隠しているとは思っていなかったし、気のせいだと考えていたけど、何だか変な感じは残っていたのである。
あのリグルの後ろめたそうな表情は、にとりがその前に橙の友人達に配ったという、プールのチケットが理由だったのだ。
きっと、あの後もチルノ達と相談したのだろう。橙にプールのことについて話すか、内緒で行くか、諦めるかどうかについて。
果たしてみんなは、どれを選んだのだろうか。それとも今も悩んでいるのか。
椅子から立ち上がっていたにとりは、壁の方に固まった様々なアイテムを漁りながら、
「この潜水服はちょっとゴツすぎるよね。そもそも入場させてくれないだろうし……」
「にとりさん……」
「開園まで後四日、プラチナチケットが使えるのはあと三日か。コンテストは諦めて、もっと軽いの作ってあげてもいいけど、間に合うかなぁ……ん? 何か言った? 橙」
「やっぱり、このチケットください」
橙は口を真一文字に引き結び、『カッパピアーウー』のチケットをスカートのポケットにしまい込んだ。
「私、決めました。藍様に頼んで、特訓します。泳げるようになってみせます! みんなを悩ませたくないから。だから、にとりさんも気にしないで、コンテストにキュータ君を出してください!」
「キュータ君じゃなくて、キュウリガードのウリードさん……あれ、どっちだっけ」
「どっちでもいいから、このチケットちょうだい! それと、チルノ達に会っても、このことは内緒にしてね」
きちんと念を押しておく。
にとりはそのこころを読んだようで、愉快そうに口の端を曲げた。
「なるほど。秘密の特訓で、あっと驚かせようってわけね。いいね、そういうの好きよ私」
「えへへ」
「それに橙が水が大丈夫になったら、その時はお楽しみに。河童のにとり様が、いつでも水泳を教えてあげるさ」
「はい、その時はよろしくお願いします!」
橙はがしっと、にとりと腕を組み合わせて、元気に約束した。
○○○
「……でも、後から考えたら藍様と紫様に訳を話すのが怖くなっちゃったんです」
事情を語り終えた式の式は、両肩をしょんぼりと落としていた。
「友達と遊びたいから、水が大丈夫な術を覚えたいなんて、そんな理由じゃ許してくれないと思ったから……だから話辛かったんです」
橙はほんの一瞬だけ、ちらりと藍の方を上目遣いで見て、すぐに慌てて首を振って、また目を伏せた。
藍はじっと、うなだれる橙の頭の辺りに視線を置いていた。
呼吸三つほどの後、廊下に立つ主の方を向く。
紫は式の視線を受けて、鷹揚に頷いた。それを確認し、藍の頬に微笑が浮かぶ。
「橙、顔を上げなさい。お前の理由はよく分かった」
「………………」
「今日はもう暗い。明日の明るい時間から、早速特訓を始めよう」
「…………え?」
と言った口のままで、式は止まる。
「あと三日で水を克服できるかは、橙次第だ。楽な道じゃないわよ。いいね」
「藍様!」
橙は喜び溢れる顔で、主と主の主を交互に何度も見る。
あさっての方角を向く紫は、「サイズの合う水着を探してこなきゃねぇ」などと、とぼけた口調で独り言をこぼしていた。
「藍様、紫様! 本当にありがとうございます!」
飛びついてくる式の頭を、藍はよしよしと撫でてやった。
こうして、八雲家における橙の水泳の特訓が、始まることになったのである。
2 いざ特訓の場へ
山間の林に囲まれるようにして、その湖は存在した。
雲の切れ目から注がれる朝の日光を、青い湖面が受け止め、虫の音の混じる微風の下で、時々魚が音を立てて跳ねる。
暦は長月に入ろうとしているのに、幻想郷から残暑が引く様子はまるで無かったが、ここは高地にあるせいか、比較的涼しかった。
そのうえ、海に面していないこの地方では、川や湖といった水場は、避暑の際は種族を問わず重宝されるのだが、ここは存外空いていて、泳ぐ人影も見当たらない。
「うーん、絶好の水場ね」
と、岸に立って額に手をかざすのは、境界を操る大妖怪、八雲紫である。
ただし今日の彼女は普段着にしているイブニングドレスでも、フリルのついた道服姿でもなかった。
紫の布地に黒のレースとリボン。派手で色気があり、なおかつ可愛さも交えた、大胆なラインのビキニである。
豊満な乳も腰のくびれも、抜群のプロショーン。腰まで波打つ金髪を手にしたパラソルで影にして、湖を眺める彼女は、絶景とマイナスイオンにご満悦な様であった。
しかし機嫌が良いのは、そんなスキマ妖怪だけなようで。
「……というか、何でここを選んだんですか」
と、聞くのは、彼女の後ろに控えて立っている、九尾の式の八雲藍である。
彼女もいつもの道服ではなく、水色の地に白のラインが入った、スポーツタイプのモノキニに着替えていた。
露出度は低めでデザインもシンプルではあるが、後ろが尻尾を邪魔しないフォルムとなっているので都合がよい。
紫は湖面からその式の方に横顔を向け、
「誰も見ていない場所で練習したい、って橙が言うんだから、ここが一番だと思ったのよ」
「一番ですか」
「ええ。眺め良好。水は透徹。日差しも強くなく、広さも申し分なし。まさに絶好の避暑地じゃない」
「しかしここは守矢神社の裏の湖で、妖怪の山の中腹なんですよ」
藍は四方を見渡しながら、穏やかならぬ口調で述べた。
そう。彼女達が今いるのは、幻想郷は妖怪の山に構える、守矢神社の巨大な裏池。かの神様達が外の世界から持ってきた諏訪湖の一部なのである。
山の大部分は天狗の縄張りであり、彼らの侵入者に対する警戒心ときたら、まさに営巣期の親ガラスのごとし。
そして唯一居住を許されている守矢一家は、二柱の神様が住まう幻想郷有数の派閥であり、神社周辺はこの湖も含めて、神聖にして侵すべかざる場所なのである。要するに、のんびりと水に戯れるには、ちょっとおっかないスポットなのだ。
しかし紫の方は、全く恐れた様子をみせず、
「お友達に見られてはいけない。となると、霧の湖も川もだめ。かといって、外の世界というのもそこまで手軽に利用していいものではない。というわけで残るはここ。ここなら神徳で守られているから、誰にも邪魔されることはないでしょうし」
「確かに条件としては最適かもしれませんが……」
「何か不満でも?」
「私が知りたいのは、その神徳の持ち主達にどう了解を取るつもりなのか、ということです」
「それは今から行く交渉次第。さ、橙も来なさい」
「はい、紫様」
と返事をした最後の一人は、式の式の橙である。
薄くフリルのついたワンピース姿。オレンジの地に水玉模様をつけた可愛らしいデザインの水着は、紫が用意したものであった。
藍達の他に知り合いがいないとはいえ、大きな湖という強烈な水場を前に緊張しているらしく、さっきから主の藍の手を握ったまま離そうとしない。
「大丈夫よ橙。貴方のその可愛い姿を見たら、あの神様達だって許してくれるはずよ」
きょろきょろと落ち着かない彼女の頭を、紫は撫でつつ言った。
主の言葉に、藍は訝しく思って聞く。
「紫様。まさか正装じゃなくて、水着で頼みに行くのは、それが理由ですか」
「ふふ、藍ももっと色っぽい水着にすればよかったのに。少々味気ないわよそのモノキニ」
「私は年甲斐もなく派手で少女趣味な水着を着てはしゃいだりするような趣向は持ち合わせてません、という発言を引き出してお仕置きを企む誘導尋問ですね」
「……………………」
「その手は食いません。よくお似合いです紫様」
「そこまでのたまったら、もう言ったも、同・然・よ」
「いだだだだ!」
生意気な獣耳を横に引っ張りながら、紫は開いたスキマへと入り、橙も慌ててそれに続いた。
○○○
世の理に介入し、空間を自在に渡ることのできる能力、スキマ。
一寸だろうと千里だろうと、スキマ妖怪である八雲紫は、等価にすることが可能なのである。
そんなわけで、主に連れられてやってきた場所、出口のスキマに浮かび上がる光景に、藍は意外に思った。
てっきり守矢神社の前かと予想していたのだが、実際は同じ湖の岸辺だったのだ。
しかもさらに藍を驚かせたのは、
――向こうも水着?
その場にいた三者もこちらと同じく、いずれも水泳に臨む格好だったのである。
まず目立つのは、一番背の高い女性。赤紅の上下の水着を、主に匹敵する体型で着こなしている。
伸びた青紫の髪を後ろで縛っているため、前と印象が異なっているが、間違いなく守矢神社の神様、八坂神奈子であった。
対照的に低い背格好で目玉のついた大きな帽子をかぶっているのが、同じく神様の洩矢諏訪子。
彼女はなんと紺のスクール水着である。3-2東風谷と書かれているのは、外の世界から持ち込んだものだろうか。
別々の意味で迫力のある二人、その後ろにいる緑色の髪を持つ人間が、守矢神社の風祝、東風谷早苗だった。
彼女も、いつもの足まで隠れた巫女服ではなく、青でふちを染めた白のビキニ姿である。
どうやら今から三人で泳ごうとしていたらしき守矢家に、八雲家の代表は図々しい態度で挨拶した。
「こんにちは、本日はお日柄もよく」
「いらっしゃい。こんな格好で失礼……といってもお互い様か」
苦笑して挨拶を返してきたのは神奈子だった。
オンバシラもしめ縄も背負っていないが、フランクな態度と格好とは裏腹に、十分すぎるほどの威圧感を漂わせている。
いきなり現れた侵入者に、諏訪子も含めた二柱の方は驚いた様子もない。もしこれが逆の立場、例えば藍が八雲の屋敷で、一家行水しているところに、彼女達がいきなり現れた場合、同じく冷静でいられるかどうか怪しかった。
ただ一人、正直に驚いていた守矢の巫女が、
「貴方は確か……八雲紫さん?」
「ええ。この前の宴会以来かしら、東風谷早苗さん。うちの式達を紹介するわ」
主が言い終わるのに合わせて、藍は水着姿で丁寧に挨拶した。
「八雲藍です。以後お見知りおきを」
続いて、藍が促すまでもなく、橙がいつもより幾分抑えた声で、
「はじめまして、藍様の式の橙です」
と、挨拶する。
二人の態度にかしこまったのか、それとも橙の姿に警戒心が緩んだのか、向こうの巫女の方も頭を下げて挨拶を返してくれた。
「東風谷早苗です。守矢神社の風祝をしています」
「スキマ妖怪に、九尾の狐……そっちの小さい子も、前にここに来たことがあったね」
「実は今日この橙に、泳ぎを教えるつもりですの」
「へぇ……奇遇ね。うちの早苗もこれから泳ぐ練習をするのよ」
「それはそれは奇遇なことですわ」
「ふぅん」
八坂神の目付きが、蛇のように探る目となり、口元に浮かべた笑みが妖しく深くなった。
その側にいる洩矢神は、藍に対して何やら意味ありげな視線を投げかけている。
橙を見る早苗については、単に興味津々なだけで、警戒しているようには見えなかったが。
「察する限り、あんた達がここに現れたのは、この湖を泳ぎの練習に使わせてくれってことかしら」
「そういうことですわ。よければ、向こう岸の一角を貸していただけません?」
「気のせいか、何か企んでいるようにも見えるし、何も考えていないようにも見える」
――同意。
八坂神の的確な指摘に、藍は大きくうなずきたくなった。
何か考えているようで、何も考えていなくて、やっぱり何か考えているというのがこの主である。
友好的な口調も、パラソルを手にした水着姿も、相手次第では喧嘩を売っていると受け取られてもおかしくはないが、それにしては間抜けな構図である。
単に泳ぎに来ただけかもしれないし、それを狙いにした何かのダミーの可能性だって捨てきれない。
主の考えは読めなかったが、せっかくの家族団欒の機会なのだし、できれば平穏無事に過ぎてほしいと切に願う藍であった。
さて、紫の芝居じみた笑顔を、神奈子も不敵な笑みで見据えていたが、しばらくして横の洩矢神に視線を投げかける。
彼女は小さく肩をすくめて、
「別に追い返す理由もないわね。我が心は諏訪湖よりもずーっと広い」
寛大な一言に、緊張していた空気が和らいだ。
紫は日傘をくるりと回して、三者に背を向ける。
「ご協力感謝いたします。それではお邪魔にならぬよう、この場は失礼しますわ。後ほど少しばかりのお礼を差し上げることも考えています」
「期待してるよ。それじゃ、何かあったらまた声でもかけとくれ」
神奈子の言葉を受けて、八雲の三人は再びスキマへと戻った。
スキマ空間の中で、藍は前を行く紫に話しかけた。
「こころよく貸してくださってよかったですね。正直、何か一悶着起こったりしないかと、冷や冷やしましたよ」
「その時はその時。向こうも私達と同じ状況だったみたいだし、ラッキーね」
「ラッキーというよりも、紫様は守矢の人達の事情を、あらかじめ知っていたようにも見えたんですが……」
「さぁ、何のことかしら」
とぼけた返答をする主に、藍はなんとなく嫌な予感がおさまらない。
「また変なこと企んでるんじゃないでしょうね」
「たまにはこの三人で一泳ぎしたいだけ。だから昼間のこの時間に付き合ってあげてるのよ。それでも不満なのかしら?」
そう言われると、黙って引き下がるしかないのが、藍の弱いところである。
いつもそうやって納得した次の間には、酷い目に遭っているので、油断だけはしたくなかったが。
と、くいくい、と手を引かれる感触に、藍は式の方を見た。
「どうしたの橙」
「さっきの早苗っていう人、あの人も泳げないんですか?」
「そうかもしれないね。泳ぐのが苦手なのは橙だけじゃないし、ひょっとしたら私達以外にも他の水場で、練習している者達もいるかもしれない。あの『カッパピアーウー』とやらは楽しそうだったからね」
「そうなんだ……」
橙は泳げないのが自分一人じゃないということを知って、少し安心したようである。
今は主達に進言した時と同じく、特訓に臨むやる気が、表情に出ていた。
藍はふふふ、と微笑して、
「橙とあの風祝、どっちが早く泳げるようになるかな」
「負けません! 私、頑張りますよ藍様!」
「よしよし」
和やかに会話する二人の式に対し、前を行く紫は胡散臭い笑みで、ぽつりと呟いた。
「果たして、すんなりいくかしらねぇ」
3 八雲一家の水泳特訓
初めの岸に戻ってきて、入念な準備体操を行った後、早速八雲一家による、橙のための水泳の授業が始まった。
まずは、術に関するレクチャーである。
「橙、知っての通り、私達式は水が弱点だ。水をかぶれば『式』が剥がれ、単なる妖怪へと戻ってしまう。雨に川、そしてこの湖もそう。この世が水で溢れていることを考えれば、その性質は不便な弱点としかいえない。けれどもそれは自然の理であり、憎むのではなく、敬わなくてはならない弱点であることを忘れてはいけない」
講師を務める藍は、湖を背にして立ち、至極真面目に話を聞く橙に、丹念に説明する。
「とはいえ……不便なものは不便だ。だからその理を誤魔化すための術が無いわけではない。現に私は遙か以前、主である紫様より、その術を伝授されている。今の橙であっても、決して使えぬ難易度ではない」
ちなみに、その主である紫は、今回も式のやることに任せるようにしたらしく……すでに自由気ままに湖を泳いで、というより水面をラッコのように仰向けに漂っていた。
いまいち光景的に締まらないが、藍は気にしないことにする。
橙は『式』が水で剥がれないようにする術が、自分でも使えるレベルのものであると知って、俄然やる気が湧いてきたようだった。
しかし、続く説明が、そんな式の笑顔を吹き飛ばすことになる。
「ただし、この術を使うにあたっては、大事な条件がある。それは、『水を恐れてはいけない』ということだ」
「えっ!?」
橙は絶句して、水着から出た尻尾の先の毛を、ざわ、と跳ねさせた。
「この術は式神の設計図の役割を果たす『式』を一時的に書き換えて騙す術と、水が妖猫である橙の肉体を必要以上毒さぬように防御する術を組み合わせてできている。どちらもかかる術者が、一定の集中力を保っていなければならない。恐怖の限界に達したり、錯乱状態に陥ったりして、嘘をついていることが『式』にバレてしまえば、術の効果はたちまち消えてしまうことになる」
「………………」
「恐いか? 無理もない。式としてだけではなく、妖猫としても水を苦手とするお前の恐怖は並大抵のものではないだろう。しかし、その恐怖を克服しなくては、術の会得は不可能」
藍は一枚の札を取り出した。それに小さく何かを唱え、橙の耳にはまった丸飾りにしっかりと結びつける。
すぐに効果が現れ、式の体を一瞬色の付いた暖気の幕のようなものが包み、透明になった。
彼女は驚いて、自分の両手を広げて見つめている。術が発動しているのを体感したらしい。
「維持は自然にできてるね。よろしい。では早速、本番へと向かおう」
藍は湖へと体を向け、すたすたと側まで歩き、無造作に足を踏み出した。
「あ」
橙の口から、声が漏れた。
わかっていても、式である藍があっさりと水に浸かっていく光景は、インパクトがあったようである。
大きな九つの尻尾が水に浸かり、腰ぐらいの深さまで来て、藍は岸を向き、両腕を少し広げた。
「さぁ、橙。少しずつでいいから、ここまで来てごらん」
「は、はい」
橙はぐっと口元に力をこめて、一歩、一歩と湖に歩み寄った。
風が起こすさざ波が、土と砂に混ざり合う境界まで来て、彼女の足はぴたっと止まり、動かなくなる。
握っていた拳を、さらに強く固め、何か水中の敵と対峙するように、湖を睨んで震えていた。
藍は催促したりせずに、黙って待ってあげた。
昔お風呂の時間に逃げだした時は、無理矢理首根っこを掴んで湯船まで持っていったことがあったが、今日は彼女の自立心に期待するのが正道。
それに、真新しい水着に着替えて、水を前にして逡巡している式の姿は、主としては何ともいえない愛くるしさを醸し出していた。
――外界のビデオカメラ、持ってくればよかったなぁ……紫様に頼んで今出してもらおうかな。
と、心中でにやける藍の視界に、その紫の姿が入ってきた。
彼女は抜き足差し足で、橙の背後へと移動し、人差し指を一つ立てて、背中の上からつつー……っと。
「うにゃにゃにゃにゃにゃにゃー!?」
突然の刺激にパニックになった橙は、両腕をぐるぐると回してバランスを保とうとしたが、耐えきれず湖に片足をつけてしまい、「きゃー」とまた悲鳴を上げて、四つ足で二十メートル程向こうまで跳んで逃げてしまった。
「ゆ、ゆ、紫様! いきなり脅かさないでください! 全然気づけないからびっくりしました!」
「あら失礼。ついからかってみたくなる背中だったから」
向こうから抗議してくる式の式に対し、紫は悪びれた様子もなく、指で宙に字を書く仕草をした。
その彼女の背後、つまり湖から、薄暗~い声がかけられる。
「……紫様~」
「あら、どうしたの藍。そんな渋柿みたいな顔をして」
「私に任せると仰っていたじゃないですか。どうして茶々を入れるんです」
藍は腰まで水に浸かった状態で、ジト目の視線を紫に注ぐ。さっきまでの明るい表情とは、えらい差である。
対する紫の方は、妙にすがすがしい口調で、
「つい衝動的に悪戯してみたくなるってことあるでしょう」
「……………………」
「それに橙が緊張しているみたいだったから、横からほぐしてあげたのよ。勘弁してちょうだいな」
「…………仕方がありませんね。でも次やったら承知しませんよ」
「あら、『せっかく水で待つ自分に向けての橙の貴重な一歩だったのに、台無しにしやがってこのスキマは』とでも言うんじゃないかと思ったわ」
「わかってるんなら自重してください!!」
藍がたまらず怒鳴ると、紫は「ごめんあそばせ~」と間延びした腹の立つ声で、水泳に戻っていった。
それを確認し終えてから、向こうへと退避した橙に、藍は元の笑顔を作って、
「さぁ橙。戻っておいで。一度足が水に入っても、大丈夫だったろう。その調子だよ」
「わ、わかりました」
橙は駆け足で、湖まで戻ってきた。
本当は術の効果が切れてもおかしくないくらいの騒ぎっぷりだったのだが、すぐに水から足を引き抜いたことで助かったらしい。
藍はあえてそのことを告げずに、もう一度式の勇気に期待する。
「心の準備はできたかな。一歩ずつ、慌てずにね」
「はい。い、行きます藍様」
岸に立った橙は、片足をそろそろとあげて、ぐっと息を止め、ゆっくり湖へと踏み出した。
ちゃぷん、と湖面に波紋をつくり、脚が沈んでいく。橙は逃げなかった。顔から緊張は取れていなかったが、『式』も剥がれていない。
成功である。
「よくできました。じゃあ次は反対の足だ」
「はいっ!」
橙は大きく返事をして、もう片方の足を重々しく持ち上げ、徐々に湖へと差し入れていく。
緩慢な動作ではあったが、結果見事、両膝の下まで、橙は水に浸かることに成功していた。
「藍様、私できました!」
「いい調子ね。でもまだまだよ。そこから少しずつでいいから、進んできなさい」
「はい……」
橙は湖の中をすり足で、約十歩離れる藍の位置へと前進を始めた。
地上での素早さからは想像し難い、数センチメートル刻みの移動だったが、徐々に深くなっていく湖に対して、ペースを一定に保ったままだ。
順調な道程と式の頑張りに、藍はほくそ笑んでいたが……。
途中で、橙の足が、また止まってしまった。
「どうしたの?」
「あ、あの……藍様ぁ」
橙は困ったように、首を後ろに向けたり下に向けたりして、手をすり合わせ、もじもじし始めた。
藍は不思議に思い、少し立ち位置をずらしてみる。
するとすぐに、橙が何に困っているのかが分かった。
今、橙の立っている場所は、ちょうど彼女のオレンジの水着の裾が、水に浸り始めるくらいの深さである。
つまりそれ以上進むと、彼女の大事な急所である尻尾を、二つとも水に入れなければならないのだ。
しかしその動きを観察する藍は、吹き出しそうになるのを、腹に力を溜めてこらえなくてはならなかった。
橙の黒い尻尾達は、真っ直ぐに立ったり、仲良くたなびいたり、くにゃりと曲がってハート型を作ったり、くるくる絡まってツイストドーナツになったり。
硬直する本体とは違って、実に活発な仕草をして、彼女の内面を表現していた。
――ああ、やっぱりビデオカメラ用意するんだった。今から主に頼んでも遅くはないわよね。
と、頬を緩ませて悩む藍の視界に、また余計なものが映った。
うろたえる橙の背後の水面に波紋ができ、そこから、ぬっ、とリボンのついた水泳キャップをかぶった金髪妖怪の顔が浮上したのだ。
彼女は水中から水のしたたる手を出して、指をわきわきと動かし、くねくね曲がる尻尾の一つを、しっかり掴んで、
「にゃぎゃー!!!」
橙の体が水中から垂直に跳び立ち、再び安全な岸に向かって猛ダッシュ。さらに遠くまで後退してしまった。
尻尾についた水滴を慌ただしく拭きつつ、悲鳴混じりの声で抗議する。
「紫様! 紫様でしょ今の! 悪戯しないでください!」
「あら違うわ。私は泳いでいただけだもの。きっと可愛い妖精さんの仕業よ」
「……ゆ~か~り~さ~ま~」
水面からニコニコとした顔を見せていた紫に、どんよりした声がかけられる。
「あら藍、どうしたのかしら。そんな腐ったゴーヤみたいな顔をして」
「してません。それより、さっき言ったこともう忘れたんですか。次に邪魔したら承知しない、と」
「覚えてるわよ。でも正式に条約を結んだ覚えは無いもの」
「どんな条約ですか。八雲の式達不可侵条約とかがお望みですか」
「冗談よ。だからそんな殺気のこもった視線は止めてちょうだい。お肌が荒れちゃうわ」
むしろ荒れまくってしまえ。と、藍は心中で呪ったが、なんとか声には出さず、身を焦がす苛立ちに耐えきることに成功した。
主の体を離れた位置まで、無表情で泳ぎ運ぶ。
「あら、ご主人様をまるで邪魔物みたいに」
「本当に邪魔なんです。約束してください。もう今日は一切橙に手を出さないと」
「はいはい。わかったわ」
紫の返事を聞き届けた藍は、元の位置まで戻った。
再度気を取り直して、練習スタートである。
「さぁ橙。もう一踏ん張りだ。尻尾が水についても、ケガしたりはしないよ。ほら、私の尻尾だって大丈夫」
藍は体を横にして、水の中で咲くように広がる、金色の尻尾を橙に見せた。
その時、水面から白い手が伸びて、九つのうちの一つに触れようとする。が、ぴしゃりときつく叩かれて、不満そうに水中に戻っていった。
「橙ー。おいでー。水の中は涼しくて気持ちいいわよー」
藍はこめかみを引きつらせながらも、鉄の笑顔を作って、式を優しく呼んだ。
橙は返事をして、また岸まで戻ってくる。
水中にゆっくり進み入り、尻尾に水がつく深さまで来て、やはり躊躇していたが、程なく片方ずつそろそろと浸し、ついには水位が腰の位置間で届くところまで到達した。
「ら、藍様~。恐くないけど、恐くなっちゃいそうです」
「大丈夫大丈夫。さぁ、あとほんの二歩だ」
「で、でもそこまで行ったら、顔に水がついちゃいます!」
藍のいる場所は、その胸の位置まで水位がきている。
橙にとっては、鼻に水がつくかどうかというところである。
「もし、もし足が上手くつかなくて、溺れちゃったら……!」
「橙。私がここにいるということを信じなさい。私が橙を溺れさすと思う?」
「いえ……でも……」
「大丈夫。今の橙ならきっとできる。あとほんの少しで、今日の目標の一つに達成できるよ。さぁ、力を抜いて、勇気を出して……」
藍の自信に感化され、橙の弱気がおさまった。
再び、息を凝らして、少しずつ足をずらし、腕を開いて待つ主に向かって、踏み出す。
しかしその時!!
横から飛んできた細い水流が、橙の横っ面に命中した!!
「きゃー!!」
「何奴!?」
藍は血相を変えて、水が飛んできた方向を睨む。
そこには、頭に水中ゴーグルをつけて、ウォーターガンを構えるスキマ妖怪の姿が……。
「何しとんじゃこらぁ!」
犬歯をむき出しにして怒鳴り、藍はザバザバと紫に詰め寄った。
水鉄砲でなおもこちらをぴゅんぴゅん威嚇してくるスキマ妖怪から、乱暴にそれを奪い取り、
「邪魔しないって約束した直後に、何子供じみた悪戯してんですかあんたは!!」
「あら、私は『手を出さない』って約束しただけよ。『ウォーターガンで橙を撃たない』って約束した覚えはないわ」
「いつの時代の言い訳ですか! というかどっから持ってきたんですかこれ!」
「まだまだいっぱいあるわよ~」
紫はスキマから次々と、水用のレジャー用品やら玩具やらを取り出していく。
ビーチボールに浮き輪、サーフボードにシャチの乗り物。
藍はそれらを残らず振り払って、
「いい加減にしてください! また橙が逃げちゃったらどうするんですか! 邪魔するだけだったら、帰って寝ててください!」
「まぁ、人がせっかくこの時間に起きて湖に連れてきてあげたのに。そういう意地悪なこと言う子には、ビデオカメラも出してあげな~い」
「なっ……!?」
一瞬怯んだ式に、紫はさらに追い討ちをかけるように続ける。
「ふふふ、出してほしいのかしら? 『ごめんなさいゆかりん様。貴方は常に正しくて美しくて服の趣味が良い十七歳です』って言うなら、考えてあげてもよくってよ」
ニタニタと笑うスキマ妖怪に、藍の堪忍袋の緒がぷっつんする。
世にも恥ずかしい台詞を口にするかわりに、手刀を大上段に構えて、
「アポー!!」
「うぺぃ!?」
式に渾身のババチョップを喰らい、紫は肉体的にも精神的にも深い衝撃を受け、なすすべもなく昏倒した。
首尾良く主を仕留めた藍は、ざぶざぶと水面をかき分けて戻り、
「橙。特訓を続けよう」
「はい……」
汗を一筋流しつつ返事する橙の視界の端では、頭にたんこぶを作って土左衛門よろしく漂う、主の主の姿があった。
○○○
湖に来てから一時間ほど経って、空から雲が次第に晴れていき、気温も高まってきた。
湖面の色もより鮮やかになり、岸辺には水鳥たちが集まってきていて、時々小さな水の妖精の姿もちらほら見える。
そんなのどかな光景の中、水着姿の妖狐と化け猫は、ビーチボールを使って遊んでいた。
「それー!」
「よっ、と」
「あ、あ、わっと!」
「お、よく返した。これはどうかな?」
飛んできた一抱えほどもあるカラフルな玉を、藍は軽く打つ。
風で不規則に揺れるそれを、橙は打ち返すために、二の腕まで浸かる湖の中を歩いて移動していた。
「藍様ー」
「なーに?」
「紫様も混ぜてあげませんか?」
藍はその言葉を聞いて、笑顔で橙にビーチボールを打って返す。
ただし無言。柔らかい玉に、何か容赦のないプレッシャーが込められているのを感じ取り、橙は怖くてそれ異常追求できなかった。
ちなみに二人がいる場所は、紫が浮いている位置とは大分離れてしまっている。
彼女はまだ、うつ伏せで湖に浮かんだままだ。
あれじゃあ息だってできないと思うのだけど、橙はやはり、そのことについて藍に質問できなかった。
「藍様、水の中ってすごく動きにくいです」
「そう?」
「だって、足が邪魔されるから走りにくいし、体が水についてると飛ぶのも上手くいかないし、水は重たいし……」
「慣れればそのうち、大丈夫になるよ」
藍はそう言って、ビーチボールを打つ。といっても、ただ単に式と戯れているわけではない。
この遊びには、橙を水に慣れさせるため、そして水の中での動き方を体得させる狙いがあるのだ。
見込み通り、最初は表情が強ばっていた橙も、自然な笑顔が浮かぶようになってきていた。
次の藍の目標は、口に出さずとも顔を水につけることを明らかに嫌がっている橙を、どうにかして慣れさせる、ということである。
今後の予定を組み立てつつ、勢いよく返ってきたボールを、藍は風を読みながら打ち返した。
「あっ!」
藍の計算通り、ボールの方向がわずかにそれる。
橙は行く先を追って、反射的に、ざばん、と水から跳んだ。
しかしその一帯は、背の高くない彼女の足がつかない深さである。
ボールを受け止めてから、橙はそれに気がつき、顔を青ざめさせた。
「ら、藍様! 助けて! 足がつかない!」
「落ち着いて橙! 足を動かし続ければ、溺れずに浮けるよ!」
「えっ!?」
橙は水中にある自分の足を見た。
「あ、そうか! こうやって一生懸命、足を動かせば沈まないんですね!」
「そうそう」
素直に橙は喜んでいる。地上を毎日のように駆けることで鍛えられた足ならば、水の中の彼女の軽い体を浮かせることは難しくはなかった。
しかし立ち泳ぎができた程度では、泳ぎを体得し、水を克服できたとは言い難い。
今の橙にはそれくらいが間に合っているのかもしれないが、例の大型プール相手に通用するだろうか。
「あれ、藍様。なんだか湖が変です」
「おや?」
藍は思考を中断する。
確かに式の言うとおり、湖の様子がおかしかった。風が強くなったわけでもないのに、さざ波が高くなってきているのだ。
しかも水を伝わるこの神々しい波動は、対岸からやってきているようである。
――向こうの神様達が、何かしているんだろうか。
藍は目を凝らして、数百メートル先の岸を見つめた。
顔から血の気が引いた。
「……橙! 急いでこっちに来なさい!」
「えっ!?」
「早く!!」
藍が鋭い声で怒鳴り、橙は慌てて水の中を何とか漕いでやってきた。
その背後から、湖の水が巨大な波となって襲いかかってきた。岸に近づくに連れて大きくなる巨浪に、振り向いて気付いた橙は、大きな悲鳴を上げる。
「藍様ー!!」
「くっ……!」
藍は御札を取り出して、素早く呪文を唱え、術を発動させた。
「幻神『飯綱権現降臨』!!」
飛びついてくる橙を抱きとめると同時に、藍の法力による結界が発動する。
その上から、叩きつけられる大瀑布が、複雑な指向のエネルギーを浴びせかけてきた。
続く引き波の破壊力にも、藍の結界は耐え抜き、水が再び唸りながら、湖へと帰っていくまで持ちこたえる。
轟音が引いていき、一難が去って、藍は抱えていた存在に聞いた。
「怪我は無い? 橙」
「び、びっくりしました……」
ひっつく橙の体は、小刻みに震えている。
彼女の耳から取れかかっていた御札に、藍は妖力を継ぎ足してやった。
今のはただの波ではない。こちらに迫ってくる前に、一瞬地面を通じて感じたあの衝撃は、
「津波か……。まさかこんな所で味わう羽目になるとは」
「藍様……」
水に慣れない橙にとって、今のは相当ショックな体験だったらしく、まだ怯えて藍の体を離れようとしない。
いくらここが借り物とはいえ、せっかく順調に進んでいた水泳の特訓に対し、酷い横やりだと、藍は憤った。
「橙、岸に上がって休んでいなさい。私はちょっと、向こうの人達と、話をしてくる」
そう言い残して、湖から上がって藍は飛んでいく。
橙は水に浸かったまま、遠ざかる主の姿を寂しく見送った。
「……あ、そうだ紫様!」
橙は湖の中を、つま先立ちの、けんけん飛びで移動して、主の主を探し始めた。
今の大波に巻き込まれて、大変なことになってるかもしれないと思って。
すぐに紫の姿は見つかった。さっきまでいた場所とはまるで違う地点に、彼女の体は移動していた。
相変わらず、水着のラインが通った白い背中を見せて湖面に突っ伏したまま、ぴくりとも動かない。
まさか死んじゃうようなことは無いと思うけど、しかし息も出来そうにないこの状態は、見ている方が心配になる。
橙は水に濡れた紫の背中を揺さぶった。
「紫様、紫様。大丈夫ですか?」
「あら、平気よ。くすぐったいわ橙」
という声が、橙の『斜め後ろ』から聞こえてきた。
…………。
「…………はいっ!?」
慌てて振り返ると、何とそこには。
「ゆ、ゆ、紫様ーー!?」
先程の大波以上の衝撃、魂が口からぶっ飛びそうになるほど、橙は驚いた。
何と、八雲紫の『顔』だけが、スキマにすっぽり嵌るように空中に浮かんでいたのだ。
これは恐ろしい。
「どどどどどどういうことですか!?」
「これぞスキマ泳法よ。息継ぎのために顔を上げなくても済むというわけ」
橙は慌てて、もう一度紫の本体の方を確かめる。
湖に水死体のごとく浮かんでいた体は、顔までしっかりと水に浸かっていた。
しかし彼女は、顔の前でスキマを展開させることによって、いつまでも呼吸せずにその体勢を維持することが可能なのであった。
「お化粧も剥がれないし、のんびりと水に浸っていられるし、一石三鳥の泳法よ。ただ、ずっとこれだと背中だけ焼けちゃうから、次は仰向けにならなきゃね」
「………………」
「あら橙。どうかしたのかしら?」
「いえ、なんでもないです……今の波、凄く怖かったですね」
「そうねぇ。せっかく良い気持ちで眠っていたのに、起こされちゃった」
その程度で片付けてしまう辺り、やはり紫様は凄い妖怪だ、と橙は色々な意味で感心する他なかった。
「あの……私、紫様に聞きたいことがあるんですけど……」
「何でも聞いてちょうだいな。橙なら遠慮はいらないわよ」
「その……そのままだと話しにくいです……ちゃんと話したいです」
凄いとは思うけど、いくら優しい主の主であっても、空中に浮く顔に話しかけるのは、気が引けるというか恐かった。
浮遊する紫フェイスはニッコリ笑って、スキマを閉じる。と同時に、スキマ泳法中の本体が体を起こした。
「ああ、気持ちよかった。それで橙、どうしたのかしら?」
「顔に水がつかない術って、ありませんか?」
藍に内緒で用意していた質問を、橙はぶつけてみた。
紫はきょとんとしてから、ふふっ、と笑みを漏らす。
「へぇ。自分の弱点に気付いていたのね」
「はい……」
「でもスキマを覚えるには、橙にはちょっと早すぎるわね。他にも術が無い訳じゃないけど……それよりは橙が顔を水に自力でつけられるようになった方が、遙かに効率がいいわよ」
これは決して嘘ではない。
今こうして水に浸かっている時点で、橙はある程度妖力を使い続けると同時に、無意識に制御しなくてはならない状態におかれているのだ。
それが原因で飛行すらも上手くできないくらいなのに、これ以上術を重ねることになれば、いくらなんでも本人の負担が大きすぎる。
藍も当然、そのことを分かっているので、一番橙に無理の無いやり方を選んでいるのである。
という説明を、紫がしてあげると、橙はむしろ、別のことが気になったようである。
「あの、藍様が泳げるようになった時は、どんな感じだったんですか。紫様が、今日の藍様と私みたいに、教えてあげたんですか?」
「ええそうよ。でも私より、藍の方が教え方が上手いかもしれないけど」
「藍様も水が恐かったりしたんでしょうか」
「そうねぇ。でもあの子は割とすぐ泳げるようになったわね。そんなに教えることは無かった気がするわ」
「やっぱりそうなんだ……」
しゅんとなる式の式に、紫は続ける。
「がっかりしなくても、橙と藍の長所がそれぞれ異なっているのは自然な話。現にあの頃の藍より、今の橙の方がずっと足が速いわ」
「ほ、本当ですか?」
「ええ。あの子はちょっと鈍くさいところがあったし甘えんぼだったの。でもそれが可愛くて可愛くて……ああ、なんであんな風に育ったのかしら」
慨嘆する彼女は、「実力があるのはいいけど、小言は多いし、真面目一辺倒だし、冗談が通じないし」と、本人のいない所で文句を垂れ始めた。
こうした紫の藍に関する愚痴を、橙はたまに聞くことがあるが、きっと主の藍はそのまた主の紫に褒められたくて、真面目で立派な式になったんだと思っていた。それが逆効果になっているとしたら、なんだか二人とも可哀想な気がしたが、少なくとも藍は橙の成長を喜んでくれるし、いつも誇らしげに褒めてくれる。
だから、
「私は……早く泳げるようになって、藍様に褒められたいし、リグル達にも報告したいです」
「そう。私は面白いから、二人の姿を遠くから眺めさせていただきますわ」
「もー、紫様も一緒に泳ぎましょうよー。ビーチボールも楽しかったですよ。ひょっとして、動くのが嫌なんですか?」
「あら、藍が戻ってきたわね」
紫は話から逃げるように、絶妙なタイミングでそう言った。
橙も振り向けば、主の藍が岸を歩いてくるのが目に入る。守矢一家と話し終わって、帰ってきたのだろう。
「藍様~おかえりなさい」
陸に上がった橙は、藍の元へと急いで走り寄った。
「今紫様と、顔に水をつけられる術がないか、って話していたんです」
「……そう」
「でも、そんな便利な術は難しいから止めなさい、って言われました。だから、またお願いします藍様。やっぱり水はちょっと怖いですけど」
橙はえへへ、と笑う。
藍の優しい言葉と、励ましを期待して。
ところが、
「橙。お前の根性は、その程度だったの?」
あまりにも冷え冷えした声に、式の笑顔は凍り付いた。
一瞬、何が起こったのかすら分からなかった。
だがそれで終わりではなく、さらに厳しく、苛烈な叱咤を、藍は浴びせてくる。
「屋敷での誓いを忘れたのか。死ぬ気でやるというのは嘘だったのか。顔に水をつけるかどうかで怖がる程度で、泳ぎを覚えようなど言語道断! 片腹痛し!」
「…………!」
「そんな甘えたことを言っていたら、百年経っても泳げるようにはならん! 覚えておきなさい!」
まるでさっきまでとは別人のような主の剣幕に、橙は悲しむ隙すら無いほどの、大きなショックを受けていた。
さすがにこれに驚いたのは、式だけではなかったようで。
「ちょっと藍。一体どうしたの急に」
と、紫が物珍しそうに、岸に上がってくる。
藍は主の方をちらりと見て、怒気のこもった低い声で述べた。
「どうしたもこうしたもありません。橙に泳ぎの厳しさを自覚させるため、正論を告げているだけです」
「それにしても、言い方がいつもの貴方らしくないじゃない」
「そんなことはありません。私はいつもこうです。橙には一刻も早く、泳ぎを覚えてもらわなくてはなりません」
その発言に、紫は何か不審なものを感じ取った。
「向こうで何があったの?」
ぎりっ、と食いしばった歯の鳴る音がした。
藍は険しい表情のまま、遠くを睨みつけながら、吐き捨てるように答える。
「売られた喧嘩は買わなくてはなりません。ましてやそれが、八雲の誇りに関わることとなれば」
○○○
話は五分と少々遡る。
橙との水泳の練習中に大波が襲ってきたことについて、一言物申すため、藍は守矢一家の練習場へと向かっていた。
咄嗟に気付いたから助かったものの、少しでも遅れていれば、水に慣れない橙に何かあったことは疑いない。
怯えていた式の様子を思い出すだけで、藍の腹の底でふつふつと何かが沸きたってきて、文句を言わずにはいられない状態になっていた。
岸に着くと、早速奇妙な光景に突き当たる。
守矢神社の巫女、正確には風祝である東風谷早苗が、洩矢諏訪子に馬乗りになり、ビート板の形をした木の板で叩きながら、喚き立てていたのだ。
「二度とやらないでください!」とか「殺す気ですか!? あんな波起こして!」と、涙混じりに怒っており、下敷きになった神様の方は苦しそうに呻いていた。
そんな二人を呆れた目で見ていたもう一人の神様に、藍は声をかけた。
「お取り込み中のところを失礼」
八坂神奈子が「おや」とこちらを向く。
「先程、津波がこちらまで押し寄せてきたので、少々気になりまして」
実際は、少々どころか、かなりの驚きだったのだが。
努めて、冷静な語調を心がけるものの、どうしても憤懣の一滴を仕込みたくなってくる。
「危うくうちの式が怪我をするところでした。そうする必要が無いのであれば、今後は控えていただきたい」
「すまなかった。ちょっとうちのもんが悪ふざけしてね」
「ちょい待ち、神奈子」
と横から口を挟んできたのは、風祝を押しのけてこちらにやってきた、洩矢諏訪子だった。
先程のやり取りを見た感じ、彼女があの津波を起こした犯人らしい。
諏訪子は体についた土を払いながら、何やらしかつめらしい面持ちで、
「狐さん。これは私の推測だけど、あんた達、私が妖怪の山に造ったプールで泳ぐために、練習しにきたんじゃないの?」
「左様ですが」
「だったら、あの程度の波、顔色一つ変えずに切り抜けることができなきゃダメだと思うな」
藍にとって、それは全く予想外の返答だった。
素直に謝った八坂神と違い、彼女は顎に皺をよせて、釈然としない三人に重々しく語り始める。
「『カッパピアーウー』はね。単なるプールじゃないの。波のプールは本物の波、流れるプールは本物の川をイメージして作られている。津波や鉄砲水、大渦巻だって発生するわ。ちょっと泳げるだけの妖怪なら、溺れたって不思議じゃない程度のアミューズメントなのよ」
「待ちな。それは流石に問題があるでしょうが」
と横からツッコミを入れたのは、目を剥く神奈子である。
藍も愕然として、同じ意見を主張したかったが、諏訪子は「大丈夫よ神奈子」と胸を張りつつ、
「そのために河童の監視員を増やしたんだから。でも顔を水につけたり、ビート板でバタ足できるくらいじゃ、安全に過ごせる遊び場じゃないのは事実。何から何まで制御された完全なアトラクションなんてぬるすぎるわ。この幻想郷に似合うのは、危険と表裏一体のスリル。弾幕ごっこと同じよ」
「………………」
言いたいことは藍にもわかった。
確かに、弾幕ごっこに慣れた妖怪を相手にしたアトラクションとなれば、少々の波や流れでは成り立たないことだろう。
ただ、続く彼女の台詞は、さすがに聞き逃せなかった。
「というわけで、もしそっちの猫ちゃんがあの波を自力で何とかできなかったのなら、諦めた方が無難かもね」
諦めた方が無難。
友達に仲間はずれされぬよう、健気に水を克服したいと頼んできた式に対して、なんたる言いぐさか。
事情を知らぬとはいえ、これには藍のはらわたが煮えくりかえる。そもそもあの危険な波をここで起こしたこととは話が全く別ではないか。
藍の視線は、諏訪子と神奈子の後ろで事態を見守っていた、巫女に移った。
「…………お言葉ですが、そちらの風祝殿も、あの津波に大層な慌てっぷりだったようですが」
「わ、私はそんな……!」
「目を腫らしていますし、頬に残っているのは涙の痕。加えてここに来た時の諏訪子様とのやり取り、さらには津波の際にそちらの岸から聞こえてきた悲鳴の声も一致します」
冷静に藍が指摘すると、早苗は頬を紅潮させて俯く。
その様子に、諏訪子のカエル帽の目玉が、ギロリ、と藍を睨みつけた。
「早苗があの波で大慌てしたことが、貴方に何か関係あるわけ?」
「いえ、別に。ただ……蛇の神に蛙の神。その二柱に仕える風祝がカナヅチとは、いささか滑稽だな、と思いまして」
わざとらしく挑発すると、広い心と聞いていた神は、あからさまに気配を変えた。
だが、神の怒りに触れようとも、藍は橙に関わることで、引く気にはならない。
「早苗の方は、今日まで泳ぐ機会が無かっただけよ。才能はあるもんね。今日の上達ぶりは、未来の金メダル候補を見るようだったもん。そっちの猫ちゃんは、顔を水につけるのだけでも、ギブアップするんじゃないかな」
両眉を上げて目を細めた薄笑い。陰険そのものといった作り顔に、また一つ、藍の怒りゲージのランプがついた。
頬が引きつるのをこらえながら、平坦な声音で言い返す。
「私の式はもう足のつかない所でも一人立ちできます」
「早苗だってできるわ」
「はったりですね。ビート板を持つ彼女が何よりの証拠」
「そっちこそ、猫ちゃんが顔を水につけられないのを否定しなかった」
「なんの。試していないだけですよ。顔を洗う程度の造作の無さです」
「あらあら、その顔を洗うだけで、日が暮れないことを祈るわ」
「なら私も、素潜りの達人と浮上の素人が同居した奇特な金メダリストが誕生しないことを祈りますよ」
すでに、二人の距離は半歩の近さとなっていた。
藍は背の低い神様の帽子を睨み下ろし、向こうはその帽子の下から、眼光をぶつけてくる。
立場上、手を出せぬもどかしさに、お互い壮絶な笑みを浮かべ、ついに口論へと発展する。
「早苗は特訓すれば、あっという間に泳げるようになるし、あんな波だって一人で何とかできるわ!」
「私の式だって、あっという間に泳げるようになるし、あれくらい一人で切り抜けることができます!」
「へー! 顔も水につけらんないのに!?」
「そっちも水に浮かないのにですか!?」
息がかかるほど顔を近づけ、額をぶつけて押し合いながら、互いの保護する存在を罵り合う。
神奈子は興ざめしたジト目で、早苗はおろおろと心配しながらその様子を眺めていたが、二人は藍の視界に入っても、意識には入らなかった。
しばらく、頭の押し相撲を続けてから、諏訪子はぐっ、と睨み上げ、
「なら、どっちが早く泳げるようになるか競争しようじゃない! うちの風祝の泳ぎっぷりを、そのほっそい目の裏に焼き付けてやるわ!」
「望むところです! そちらこそ、うちの式を甘くみたこと、後悔しますよ! 今夜はその帽子まで、悔し涙を流して眠れぬことでしょうね! では失礼!」
藍は踵を返し、わざと悠然とした姿勢を見せつけて、岸から歩き去った。
だが、九本の尻尾は感情を押し隠せず、金毛が残らず逆立っていた。
○○○
「そういった次第です。私個人のことなら、いくら言われても我慢します。ですが、我が式の決意を軽んじられ、さらに存在を見くびられて、黙っているわけにはいきません」
岩のような口調で語り終えた藍の瞳の奥で、抑えきれぬ感情が燃えていた。
湖に集まっていた鳥や妖精達も、九尾の狐の体表から溢れる妖気に、とっくのとうに逃げ出している。
「あの守矢一家共の目に物を見せてやり、洩矢様の口から、直接我が式に謝っていただきましょう。私の方から頭を下げるなど、絶対にごめんですからね」
藍の視線の炎は、再び式へと向けられる。
その先で、びくりと体を震わせる式に対し、厳しい声で、
「聞いたな橙。お前も私の式なら、将来八雲の名を受け継ぐというなら、こんな所で負けているわけにはいかない。私を失望させてくれるな。お前がすぐにでも泳ぎを覚えるため、主として心血を注ぐことを約束しよう。時間は残り少ない。すぐに始める」
「………………!」
「さぁ! 何をしている! 早く来るんだ橙!!」
ぺしん。
と、藍の後頭部に、軽い衝撃があった。
何事かと振り向いてみれば、主がいつもの日傘ではなく、ハリセンを携えて立っている。
「紫様、ふざけないでください」
「こら、おだまり」
ぺし、とまたハリセンが藍の額にヒットする。しかも『命令』つきで。
藍は式の効果に従い、半ば無理矢理に黙らされた。
「藍。貴方の今日の目的は何かしら。答えなさい」
「無論、橙に泳ぎを教えることです」
「あの状態で?」
紫は冷めた目をして、岸で孤立する式の式を、腕組みした指でさした。
その先で橙は、スパルタの藍の態度に怯えきっていた。
あれでは一歩も水辺に向かって、踏み出せそうにない。例え足をつけられたとしても、すぐに術は霧散する。
「目的が入れ替わっていることを自覚しなさい。貴方の怒る理由は橙のためじゃなくて、主としてのプライドのため。しかも八雲とはまるで関係のない湿気た誇り」
「………………」
「たかだか式を軽んじられたくらいで、ここの持ち主に喧嘩を売り、関係にヒビを入れて戻ってくる。貴方はいつからそんなに余裕の無い、安っぽい式になったの」
「………………」
「その程度の私的な理由で、道理を見失い、感情の制御ができなくなるんじゃあ、この先仕事を任せられるか心配だわ。失望したのは、貴方の主の私の方よ」
容赦の無い主の言葉に、藍の頭が冷めてきた。
確かに大人気なかったし、意地を張ってどうにかなる問題でもない。ましてや競争など、何の意味があるのか。
いつの間にか橙の気持ちをないがしろにして、肝要を見失ってしまっていたことに気がつく。
体に残っていた怒りが恥に代わり、持ち上がっていた尻尾が、力無く垂れ下がった。
「……申し訳ありませんでした。すぐに謝罪に戻ります」
俯き加減で去ろうとした式を、主は引き止め、ぴん、と額を指で軽くはじき、
「向こう様には私が謝ってくるから、貴方は橙の面倒を見てなさい」
紫はスキマを開き、二人の式を残して、その場から去っていった。
残った藍は、しばらく凪いだ湖を見ながら、茫然としていた。
ふーっ、と長い息を吐いて、自らの式の方に向き直り、
「ごめんね橙。ちょっと私はカッカしてたらしい。情けない話だけど……」
「藍様……」
二又の猫はまだ、頬を打たれたばかりのような、怯えた表情が消えてなかった。
こちらに近づこうとしない式に、藍は軽い自己嫌悪に陥りながら、
「橙は橙のペースで、泳ぎを覚えたらいい。それが一番だからね」
「嫌です! もっと厳しく教えてください!」
叫び放たれた言葉に、今度は藍の方が驚いた。
「私がいけないんです。私が甘えたこというから、藍様に恥ずかしい思いをさせちゃったんです……。もう怖がったりしないから、もっと厳しくお願いします!」
「橙……いいかい。私はもう怒っていないし、そもそも橙に怒ったこと自体が間違いだったんだ。私を立ててくれる気持ちは嬉しいけど、そんなに揺れた心では、また術が解けてしまうよ」
藍は式の元に歩み寄り、静かに主として諭す。
「それに私は、橙を恥ずかしく思ったことなんて一度も無い。本当だ。だから、気にしないで、一つずつ一緒に、クリアしていこう」
「でも……早くちゃんと泳げるようにならないと、みんなと遊べなくなっちゃいます……」
橙は目元を腕で拭って、涙声を漏らした。
あ、そうか、と藍は思った。
自分が本当に、全くもって肝心な事実を、見落としていたことに気がついた。
橙が泳ぎを覚える動機は、最初からお友達と遊ぶ機会を失いたくない、その一点に過ぎなかったのだ。
水泳とはそもそも全く関係が無くて、むしろ今でも水なんて好きじゃなくて、それ以上に仲間はずれになるのが怖かっただけなのだ。
それは確かに強力な動機に繋がるかもしれない。でも、それをバネにして特訓を進めて、一応泳げるようになったとしても、根本的に彼女に水を克服させることはできないのではないだろうか。
ふと、藍は主が岸に残していった、水鉄砲やサーフボード等の水泳用品、その中に混じる水中眼鏡に目が止まった。
「……。橙、これをかけてみなさい」
藍はそのうちの二つを手にとって、一つを自分の頭にはめ、橙にも手渡した。
渡された方はよく分かってないまま、ゴムひもを伸ばして、慣れない手つきでおでこにはめていく。
「藍様。これ何か、目のまわりが痛くて窮屈です……」
「そのまま、眼鏡だけを水の中につけてごらん。顔は水につけなくてもいいから」
藍は式を湖の中まで、ゆっくり手で引いてきた。
橙は不思議そうに、頭を下げて、透明なレンズを水面につける。
「……わぁ! お魚が泳いでる!」
「よく見えるでしょう」
「はい! 地面も凄く綺麗に見えます!」
橙は嬉しそうに歩きながら、湖底を観察し始めた。
さっきまで緊張しっぱなしだった二つの尾が、背中でのびのびと動いている。
しばらく、彼女の新たな発見による歓声を聞いていた藍は、自分も水中眼鏡をしっかり装着し、
「じゃあ橙。これから泳ぎの特訓に戻ろうか。今度は一つゲームをしよう」
「ゲームですか?」
「そう。これから、水に二人で潜って泳ぐ。その間、橙は私の尻尾に掴まっていなさい。ただし、私は自分から泳がない」
とんでもないことを言い出す主に、式はびっくりして、慌てふためいた。
「そ、それじゃあ二人とも溺れちゃいます!」
「聞きなさい。橙は私の尻尾を掴み、足を立ち泳ぎの時のように、一生懸命動かすんだ。自分の力で、泳いでいる気分でね。橙の足が動くのに合わせて、私も泳ぐ。息が続かなくなったら、尻尾を二回引っ張りなさい」
藍は背中を向けて、九本の尻尾を持ち上げて差し出した。
「橙が水を克服するだけじゃなく、水を好きになるため、泳ぐことの楽しさを見つけるためよ。それとも、私が信じられない?」
「いえ、橙は、藍様をずっと信じてます」
「よし」
その答えに満足してうなずき、藍は湖に向かって、体をわずかに倒した。
橙はその後ろにつき、水に濡れた黄色い尻尾の一つを、両手で握る。
白い先端が、くるりと手首に巻き付き、しっかりと結ばれた。
「じゃあ、準備はいい?」
「はい藍様」
橙の心臓が高鳴ってくる。
けれど、水に入る緊張感は、慣れ親しんだ主の尻尾を掴むことで、だいぶ薄らいでいた。
藍が水上に、滑らかに体を横たえる。式の手を蹴らぬよう、尻尾の一つをぴんと伸ばし、両足の間を広げる。
いよいよ、潜る時がきた。橙の顎が水につき、痺れるような緊張が背骨を走り抜ける。それを振り切るようにして、橙は両足を蹴って動かした。
二人は呼吸を合わせて、大きく息を吸った。
湖水の間を分け入るようにして、藍の体が音もなく沈む。橙は頬を膨らませて、尻尾の一房をしっかり握りしめた。
空気を足場にしていた音が、いくつか消えた。
流れる風のかわりに、くぐもった水の気配が耳に入ってきた。
前に広がる金の尾についた小さな気泡が、たくさん水面へと浮上していく。
それがおさまり、視界が藍の背中にピントが合い、さらに湖の中の光景が広がった。
顔を歪ませていた橙は、水中眼鏡越しに見た世界に、口から泡をいくつか吹いた。
いくつもの影があった。それが泳いでいる魚の姿だということに、橙は気付いた。
魚を横から見るのは――彼らと同じ世界に入って見るのは初めてだった。
細い線となって川を動く姿や、釣られてもがく姿や、お皿に乗った姿からは想像もできないほど格好良く、生き生きとした影だった。
今度は下を見てみた。尻尾の間から見える地面にも、色んな生き物がいた。緑の草がたくさん生えている中に、赤いザリガニの姿が見える。
水の中にも、地上とは見た目は違うけど、生きた大地がちゃんと広がっていることが、新たに実感できた。
移動する小魚の群れに、二人は進み向かっていた。飛んでる鳥の群れよりも素早く、身を翻してこちらから逃げようとする。
藍の体が斜めに動き、橙もそれに合わせて、体をくねらせてみた。まるで、魚になったみたいに。
魚影があちこちに、素早く散乱する。その間を抜けて、自分の体ほどもある大きな魚類が、横を通り抜けていき、橙は思わず口を開いた。
水の中は、空よりも詰まっていて、陸よりも静かだけど、どこか懐かしく、それでいて感じたことのない、新しい世界だった。
そして、自分が恐れていたのが不思議なくらい、綺麗な世界だった。
もっとその光景を見ていたくなったが、息が続かなくなり、橙は藍の尾を二回引いた。
すぐに主の体が上に向かい、水面に近づいたところで、腕で抱き上げられた。
「ぷはぁっ!!」
橙は水面から顔を出して、大きく息を吐いた。
ひやりとした空気が顔に当たる。最後に少し飲んでしまった水に、けほ、けほ、と咳こんだ。
「だ、大丈夫橙?」
心配する主の前で、橙は息を整え、そして――、
「藍様! あの魚見ました!?」
大きく弾んだ声で、藍に聞いた。
「すごく大きい魚がいました! それと、小さい魚の群れとか、ザリガニとかもいたし、草も生えてました!」
「ふふ、私もちゃんと見えたよ」
「藍様も紫様も、あんな光景を見ていたんですね! それに水の中ってなんだか……なんだか凄く優しいです!」
橙が伝えたい感動を、藍はしっかり汲み取った。
式が新たな好奇心に目覚めたこと、水の中の生き物に興味を抱き、さらに水の恐怖を克服したことは、泳ぐ楽しみを覚える第一歩としては十分である。
何より、今日この湖に来て初めて、普段の快活な笑顔を見ることができて、藍自信も肩の力が抜け、光が差した気分だった。
「いい経験をしたようね。さすが私の式だ。じゃあもう一回行ってみようか」
「お願いします! なんか、楽しくなってきました!」
「ほう。じゃあこの後は、いよいよ、一人での泳ぎに挑戦してみる?」
「はい! もう水に顔をつけても平気です!」
と橙は、藍との潜水が待ちきれないように、顔を半分水に沈ませて、黄色い尻尾を握った。
それからなんと、わずか五分。二度目の水中探検を終え、橙は偶然、自力での水泳に成功してしまったのである。
藍が空気を手に入れるために浮上した時、彼女は尻尾から手を滑らせてしまい、その時慌てずに、必死で手足を動かして泳いだのだ。
クロールでも平泳ぎでもない、犬かきならぬ猫かき泳法であったが、補助無しで泳げるようになったことに、藍は驚嘆した。
まさか半日も経たずにここまでできるようになるとは。自分の時と同じくらい、いやそれよりも早いのでは無いだろうか。
そこでちょうど守矢一家の元から、紫が帰ってきた。藍は普段よりも一段と高い声で、主に式の手柄を報告する。
「紫様! 聞いてください! 橙がついにやりました! 自力で泳げるようになったんですよ!」
「はい! もう水なんてへっちゃらです、紫様!」
「あら、それは好都合ね。一時間後に、守矢一家と水泳リレーで対決することになったから。準備に入るわよ」
「「……ええええええー!?」
あまりにも突拍子が無さすぎて、二人の式は万歳しながら吃驚した。
○○○
再び、時間を少し遡る。
藍と橙を残して、紫は向こう岸にいる守矢一家に、式の無礼な態度を謝りに来ていた。
青紫の髪を一房に縛った赤のビキニ姿の神様と、金髪の頭部を帽子で隠した、紺の水着姿の神様。
二つの背中が、湖のほとりにて、固まって話し込んでいるのが見つかる。
よほど激しい練習を行った後らしく、心配そうな二柱に囲まれて、横になって目を閉じている、白い水着の少女がいた。
取り込み中の雰囲気だが、さほど気になくていいと判断して素直に声をかけると、神奈子が億劫そうな顔つきながらも、代表してこちらに来てくれた。
「で、何の用かしら」
「先程、うちの式がそちらに失礼をしたようで、主が尻ぬぐい役として来ましたの」
「ああ、別にわざわざ謝るこっちゃないよ。なんならうちのカエルもそっちに向かわせようか」
「ええ無論」
紫は彼女の提案に、即答した。
神様が僅かにたじろぐ様を、可笑しく観察しながら。
件の頭に帽子を乗せたスクール水着の神様も、こちらにやってきて、遠慮無く声をかけてきた。
「そっちの猫ちゃんは、泳げるようになった?」
「ぼちぼちと言ったところですわね。そこでのびてるナメクジさんといい勝負かと」
「…………ナメクジ?」
「あら、マムシとガマの神様、とくれば、その間にいるのはナメクジでしょう? ずいぶん大きくて動かないナメクジですけど」
「……………………」
「泳ぎが苦手なのも無理はないですわね。いっそ海の水なら、溶けて無くなっちゃったかしら。それなら神様もとうに諦めがついたでしょうに」
紫は次々と、守矢の面々に向かって毒を吐く。
ガマの神様は唖然としている様子だったが、マムシの神様の方は違った。
紫の発言の裏にある感情の匂いに、好戦的な笑みを見せて、
「……どうやら、狐と猫を従える古狸さんは、ずいぶんとお怒りなようね」
「ええ。うちの式達を危険な目に遭わせて、腹の虫がおさまらないわ。加えて先程の式からの言伝は、こちらへの挑戦状と受け取った。やらぬ道理は無い」
険悪な調子で述べられた台詞は、式が聞いていれば盛大にツッコミを入れられるであろう内容であった。
しかし、ここに彼女はおらず、紫の目も全く笑っていない。
全身から溢れ出す不穏な妖気に、二柱の神も反応して、セーブしていた実力の一端を開いてくる。
ざわめく湖畔の空気の中で、紫はスキマに腰かけ、外見上はくつろいだ態度で言った。
「……ただ、こののどかな湖の側で弾幕ごっこというのも、風情も新味も感じられないわ」
「お望みなら場所を変えるかい?」
対峙して動かぬ神奈子が、そう勧めてくる。
紫は軽く顎を上げ、別の案を彼女に持ちかけた。
「どうせなら、水泳で勝負をつけるのはいかが?」
「水泳?」
「場所はもちろんこの湖。お互いの力量に合わせて、25m、100m、200mに分けたリレー対決。コースはそちらが決めて構いません。これならお互い無駄に傷つけ合わずにすみますし、暑苦しくもならないでしょうから」
守矢一家の二柱に対し、紫は簡潔にルールの説明をする。
説明を聞く神奈子が、「ふぅん……」と面白そうに、蛇の目を細めた。
周囲を威圧していた気配が、とぐろを巻くように落ち着き、隣の神をそれとなく抑えて、問いかけてくる。
「いい加減腹を割ろうじゃないか、八雲紫。あんたが今日ここに来た……うちの湖をわざわざ選んだ本当の目的はなんだい」
紫はほくそ笑む。
やはりというべきか、神奈子はこちらの『演技』を見破ってきた。
信仰に任せた力馬鹿だけが、神の器ではない。彼女の洞察力を評価し、紫も手持ちのカードの一つ、条件を切った。
「ではお言葉に甘えて、種を明かしましょう。守矢神社――正確にはその内の一柱がプロデュースした大型屋内外プール施設、『カッパピアーウー』のことです」
「ああ。確かに私は関わっちゃいないが、もしかしてそれがそっちの都合で危険だから、ここで潰しておこうって腹かい?」
「それはまた別な話。しかしあのテーマパークは、施設の収容能力と宣伝効果による推定動員数を計算した結果、秋が来るまでの短い残りの夏、相当な混雑が予想されますわ」
「………………」
「つまり、今夏にあのプールでのんびりと泳ぐことができるのは、関係者に対して配られるプラチナチケットを使った、先行公開日のみ。特に最高責任者と一部の技術職人には、優先的に五枚が配られたという情報を手に入れましたの」
話を聞いていた神奈子が、横目で隣の神の方を見る。
その神、『カッパピアーウー』の最高責任者の反応を、紫は正面から見定めつつ、宣言した。
「洩矢諏訪子。貴方は自分の分、そして自らの家族の分を除いて、後二枚チケットを所有しているはず。それを我々八雲に、譲っていただきたいのです」
これこそが、紫が臨む獲物であった。
もちろん可愛い式の式のためでもあるし、一家の集いを常日頃から喜ぶ式のためでもある。
加えて、長蛇の列や芋洗いのプールをすり抜けて、レジャーを楽しみたい自分のためでもあった。
その気になれば、紫は能力を使用して、強引にチケットを手に入れることができるのだが、しかしその場合相手になるのは、幻想郷における一大勢力、『妖怪の山』の者達である。下手にもめ事を起こして、この地の平安にヒビを入れる結果を生むのは、幻想郷を管理する八雲にとって、よろしくない展開だった。
だからむしろ今回のように、向こうから正式に譲ってくれるよう仕向けた方が、後のことを考えても好都合なのである。
諏訪子は紫の真の要求に対し、さして面白くなさそうに、
「ま、正確には私はフリーパス持ちだから、三枚余ってるんだけどね。けど私の心がいくら海より広いからって、いきなり人の庭に現れて図々しく泳がせてもらって、露骨な挑発してくるような奴に、大事なチケットを分けてあげるのは気が進まないなぁ」
「そのための勝負ですわ。それも不正の起こりにくい、穏便な種目」
そして守矢一家が、その水泳勝負に乗ってくるということに、紫は大きな自信を抱いていた。
理由の一つは、神々が総じて持つプライド。二つ目は、彼女達のスイマーとしての矜持。
最後のもう一つは……、
「そっちは何を賭けるんだい? 受けるかどうかはそれ次第だね」
「まずはこれ」
諏訪子の質問に対し、紫は待ってましたと、指を鳴らした。空間が小さく裂け、スキマが開く。
物騒なものでも出すのかと思ったのか、警戒した二柱に向けて、紫は取り出したプラスチックの袋を、軽く振って見せた。
その音に、一番最初に反応したのは、それまで向こうで倒れて寝ていたはずの、風祝の少女だった。
「まさか!」
と起きあがるなり、こちらに猛ダッシュしてきて、袋をまじまじと凝視する。
「や、やっぱり! ポテトチップス! しかもコンソメパンチ!!」
「なにぃー!?」
守矢一家に激震が走った。
○○○
「というわけで、外界の嗜好品をいくつかちらつかせたら、気持ち良く承諾してくれたわ」
元の対岸に戻ってきた紫は、水泳対決を行うことになった事情を、式に話し終えた。
「さっきの私よりも煽ってるじゃないですか……」
彼女から話を聞き終えた藍は、呆れて二の句がつげなかった。
せっかく関係を修復できたところなのに、まさか主に再び台無しにされるとは思わない。
しかも外界の物をエサに釣るとは、ほとんど反則技である。博麗大結界を預かる存在としては、かなり後ろめたい行為だ。
「賞品はあくまで、私たちが負ければ、の話よ。貴方だって、今回だけじゃなくて、向こうのプールでも橙と泳ぎたいでしょう」
「まぁそれはそうですけど、今回ばかりはやり方が強引だと思いますよ」
素直にお願いしたり、交換したりする手もあったはずなのに、わざわざ勝負形式を選んだのが、藍には不思議だった。
相変わらず行動もその原理も読めない主である。
スポーツで決着をつけるというのは、確かに爽やかで後腐れ無くてすっきりしているので、その点は妙案ではある気がするものの、
「そもそも勝つ自信はあるんですか」
「橙のレベルは今どれくらいかしら」
と、紫は湖の方に目を向ける。
その先では橙がばしゃばしゃと、一人で猫かきをして泳いでいた。
「見ての通りです。体の使い方は贔屓目を除いても上手いと思うし、体力もあるんですが、まだ本能的に恐いのが残ってるのか、一人で泳ぐと動きがどうしても固くなります。猫かきから本格的な泳ぎを覚えるのは、まだ先になるでしょう。後一時間じゃ難しいですね」
「あちらの風祝も似たようなレベルだけど」
「しかし向こうには常識外れのコーチが二柱……」
「そうね。というわけで、私達も本気でやる必要があるわね」
紫が水着に似つかわしくない、自前の扇を広げて、視線を細くした。
藍は黙って見守る。傍目にはわかりにくいが、今彼女の主は顔色一つ変えずに、人の脳を加速度的にパンクさせていく勢いで、膨大な計算式を解き始めたのである。
二秒も経たないうちに、答えが出たようで、
「藍。200メートルにはおそらく、平泳ぎマスターの洩矢神が出てくるわ。対決するのは、貴方」
「平泳ぎマスターですか……蛙の神様ですし、強敵ですね……ベストを尽くします」
「ベストを尽くすつもりなら、アレをやりなさい」
「アレ?」
何のことか分からず、藍は聞き返した。
紫は真剣な顔から、意味深なニタニタ笑みになり、
「思い出すわねぇ~。貴方が一番始めに身につけた術」
「…………………………えっ!?」
主の言っている内容に気づき、九尾の式は瞠目して、頬がさっと赤くなった。
「まさか……アレですか!?」
「そう。アレ。あの泳ぎ方が一番速いでしょ」
「いやですが、でもその、えーと何というか、アレはちょっと」
「恥ずかしいからやりたくない、というのは禁止よ。主として命令するわ。アレをやりなさい」
「ぐっ……わかりました」
藍は仕方なく、渋々条件を呑んだ。
ちなみに、アレがなんなのか知ってるのは、紫とその友人だけであり、藍本人としてはできることなら封印したい技なのであった。
けれど主は死ぬまで覚えているというし、その友人の方はすでに死んでいた。死んでいても、ご飯はもりもり食べるが。
「ということは、紫様の相手はあの八坂様」
「そうね。相手にとって不足は無いわ。久々に本気の泳ぎを見せる時が来たようね」
「勝てますかね」
「愚問よ。この幻想郷において、八雲に敗北の二文字は必要ない」
「了解しました」
藍は自らの使命を受諾した。
湖では、オレンジ色の水着が、白い水しぶきを作って移動していた。
主の期待に答えようと、一生懸命に泳いでいるのが、ここからでも分かる。
本当に、式の成長には驚くばかりだ。ついさっきまでは、水をあんなに怖がっていたというのに。
藍の表情が、ふっと和んだ。
「……これからも皆で、いい思い出を創りたいですね」
「あら、どうしたの急に」
「いえ、あの姿を見てると、そう思っただけです」
「そう……あいにく私は誰かさんのおかげで、既にいい思い出だらけですわ」
「私も誰か様のおかげで、同じくいい思い出がいっぱいですよ」
「別に貴方のことを言ったわけではないわよ」
「同じく、紫様のことを言ったわけではありませんが?」
「……嘘つき」
「……お互い様です」
式の式を見守る二人は、互いの尻をつねりながら、よく似た微笑を浮かべていた。
4 水泳対決 vs守矢一家
ついに、対決の時間が、あと五分に迫った。
八雲一家と守矢一家。幻想郷に幾多ある勢力の中でも、少数精鋭という言葉が最も似合うであろうこの一派。
片や妖怪の中でもトップクラスの実力を持つ大妖怪が二人、片や信仰に支えられた本物の神が二柱。
お互いの野望のため、弾幕ごっこならぬ水泳ごっこに舞台を変え、妖怪の山にある守矢神社裏の湖にて、火花を散らすこととなった。
種目は100m自由形、200m自由形、25m自由形、という変則フリーリレー。
湖の中にいくつも立てられた巨大な御柱が、競泳のコースを示していた。
第一スタート地点の岸にて、八雲紫はコースを指さし説明する。
「スタートはこの時限式クラッカーを使います。音が鳴ると同時に競技はスタート。第一泳者から第三泳者まで、それぞれタッチで交代し、ゴールを目指す。ここまではよろしくて?」
「ん」
「この岸から100mの直線コース、200mで湖の外周を回り、最後の25mで中央の小島を目指す。ゴール地点にあるスイッチに先にたどりつき、それぞれのチームの花火が先に上がった方を勝者とする。コース取りはそちらが決めた通り。念のための確認はお済み?」
「ああ。問題ないよ」
と答える八坂神奈子は、準備体操で入念に体をほぐしていた。
表情に浮ついたところは一切無く、冷静そのものといった顔つきで、コースに目を走らせている。
手首をコキコキと鳴らしつつ、彼女は口の端を不敵に曲げて、
「まさかスキマ妖怪と、泳ぎで競い合えるとは思わなかった。一介のスイマーとして、勝負を楽しみにしてるよ」
「こちらとしても光栄な話ですわ。正々堂々、よろしくお願いいたします」
並の存在であれば側にいるだけで押しつぶされそうになるプレッシャーを、紫はのらりくらりとした返答で受け流した。
視線は神奈子と同じく、対岸で待つ第二泳者達、その一人である藍に向けられている。
先刻紫は、水死体の如く湖に浮かんでいたようでいて、実は横の神奈子の泳ぎも諏訪子の泳ぎも、スキマを通じて確認していたのである。
両者は間違いなく強敵であり、多少の境界を操ったところで、差を埋められるレベルではない猛者であった。
にも関わらず、紫がこの勝負を持ちかけたのは、自らの泳法に対する自信、そして秘策にあった。
後は自慢の式と式の式が、最大限に力を発揮してさえくれれば、この対決は十中八九勝てる見込みである。
――しっかり泳ぎなさいね、藍。
遠くで準備をしているであろう式に、紫は心の内で呟いた。
○○○
紫達のいる第一スタート地点と、湖を挟んだ反対の岸付近。湖面に作られた即席の足場で待つのは、第二泳者の二人である。
「私の相手はあんたか。狐さん……いや八雲藍だったわよね」
「ええ。先程は失礼いたしました。洩矢諏訪子様がお相手とは、至極恐縮です」
今回相手となるスクール水着の神様に、藍はきまじめな返事をした。
彼女の実力を畏怖しているからであり、同時に勝負に臆することなく真剣に臨もうとしているからでもある。
諏訪子は自らの泳ぎに、絶対の自信を持っているらしく、隣でしゃがんで体を揺り動かしながら、余裕たっぷりにケロケロと笑って、
「私達にあんなご馳走見せちゃったのはまずかったわね。手強いのは私だけじゃないよ。神奈子はもちろん、早苗だってそう」
「承知していますよ。どうぞ、お手柔らかに」
藍は軽い威嚇に取り合わず、自らに与えられた使命に集中を始めた。
最も長い距離を泳ぐこの位置に、紫が自分を持ってきたのは、実力が認められ、頼りにされているからに他ならない。
式にとって主の期待は、何よりのエネルギーであり、決して裏切りたくはない信頼でもあった。それは、相手となるのが神であっても、揺らぐことはない。
一方で、藍は自分以外のメンバーの身を案じてもいた。
もちろん主の方も心配だが、一番心配なのは、役目を受け渡すことになる式の方である。
スタート地点に別れて移動する前に、いくつかアドバイスをしてあげたものの、余計な緊張が起こるようなことがあれば、最悪、術の効果が切れてしまいかねない。
しかし、いつまでも主を頼っていては、式としての成長が望めぬのも道理である。主である紫と同じく、藍も主として、式を信じる他はなかった。
――橙。どんな結果になっても責めはしない。だから、一生懸命、悔いの無いようにね。
藍は遠くの第三スタート地点に目をやりながら、胸の内で囁いた。
○○○
第三スタート地点。
それはゴール地点の小島から、きっちり25m離れた場所に造られた、足場だった。
四方を湖に囲まれるこの場所にて、両一家のアンカーは、実力的に最も劣る二人が請け負った。
その一人、八雲一家の代表である橙は、まさに藍が心配していた事態に陥っていた。
――ちゃんとやらなきゃ……ちゃんとやらなきゃ……。
しゃがみこんで片腕を抱き、瞬きせずに湖面を見つめ、尻尾を時折小さく震わせる。
今の橙は、主の期待に応えようとして、極度の緊張状態に陥っていた。
水をかいくぐる楽しさを知り、水と友達になれた実感は、確かに橙の心に残っている。
だが、たった一度の経験は、主の補助があったからであり、単独での泳法においては、未だ水心を理解するまでには至っていなかった。
特に、水から上がってしばらく経った今、側に主がいないこの状況の中で、プレッシャーは抑えようとしても、時間に追われるごとに膨らんでしまう
――大丈夫……藍様に教わったとおりにすれば……あの感覚があれば……
深呼吸して念じる橙に、声がかけられた。
「怖いですか?」
驚いて首を横に向けると、今回相手することになった、白い水着姿の人間が、こちらを見ていた。
東風谷早苗。守矢神社の代表、すなわち今の橙にとっての障害であり、敵である。
不安を押し隠して、怖くなんかないよ、と言い返す前に、
「実は私もちょっと緊張してるんです。今日泳げるようになったばっかりだから」
と早苗が照れたように苦笑した。
彼女がまるで自分を警戒していないことに気がつき、橙は少々拍子抜けする。
早苗は世間話のように続けてきた。
「橙ちゃんでしたよね。貴方のことを少し、神奈子様から聞きました。式神って水に弱いし、化け猫もそうなんですって? それなのに、泳げるようになるなんて凄いです」
「…………」
「なんか変なことになっちゃいましたけど、今日はお互い頑張りましょう。あ、そうだ。橙ちゃんも諏訪子様がお造りになったプールに、遊びに行くの?」
「……うん」
「じゃあ、向こうでも会えるかもしれませんね。その時は、一緒に遊んでくれますか」
勝負の前に溌剌とした笑顔を見せる早苗に、橙は思わず、こくりと頷いていた。
すると、なぜか早苗は素早く後ろを向いてしまったが、
――悪い人じゃ、ないのかな。
と、橙の中にあった対抗意識は、少々薄らいでいた。
その代わり、さっきまでぐらついていた感情は、不思議と落ち着いていた。
○○○
「14時29分ジャスト。時間ですわね」
そう告げると、相手になる神奈子は無言で、岸の上に引かれた白線の位置に移動した。
紫はそれを尻目に、鼻歌を歌いながら、設置型クラッカーを地面にセットする。
こんな道具まで用意しているのだから、最初から勝負する気は満々だったということに、果たして相手は気付いているだろうか。あるいはそれでも受けて立つという余裕があるのかもしれない。
その自信がひっくり返ったとき、どれほどの衝撃が待ち受けていることやら。
愉快な気持ちで、紫は立ち上がった。
「では、三十秒後にスタートの合図があります」
パラソルをスキマへとしまい、白線の位置に立つ。
横の神様の、深呼吸の音が聞こえてきた。
ホーーーホケキョ
クラッカーの合図とともに、紫は湖へと真っ直ぐ飛び込んだ。
すぐに、うつ伏せになり、スキマを八方に展開。『スキマ泳法』を開始した。
「なんで、クラッカーがうぐいすの声で鳴くのよ!!」と、後ろから罵声が聞こえてきたが、紫は抗議を受けるつもりは毛頭無い。
クラッカーの音については、半分賭けだったのだが、神様は都合良く引っかかってくれたらしい。
息継ぎ用のスキマの出口を、競泳者の頭上に展開する。
恐るべき勢いのクロールで泳ぐ、神奈子の背中が映った。
だが、磨き抜かれた彼女の動きからは、明らかに動揺している気配が伝わってきた。
無理もない。勝負の舞台は流れに乏しい湖のはずなのに、神奈子はまぎれもなく、『逆流』に飲まれながら泳いでいたのだから。
「ふふふ、これぞ八雲紫のスキマ泳法よ」
のんびりと上から眺めながら、紫は高笑いしていた。
○○○
一方、第二地点で待つ二人は、対照的なポーズを取っていた。
腕を組んで仁王立ちする神様と、頭を抱え込む九尾の式である。
「……すみませんね。あんな主で」
がっくりとうなだれる藍は、情けない思いで弁解した。
あの主のことだから、真っ向勝負を挑みはしないだろうとは考えていたのだが、まさかこんな恥ずかしい手段を用いるとは、理解に苦しむ。
隣でレースをじっと見つめていた諏訪子は、怒ったりせず、むしろ不審げに呟いた。
「……見たこともない泳ぎ方ね。どういう仕組みなのかしら」
「主の得意技であるスキマ泳法です」
藍は彼女に解説をしてあげた。
スキマ泳法とは、八雲紫だけに許された特殊な泳法である。
泳ぐ自分の周囲にスキマをいくつも配置して開閉し、都合の良い水流を自ら生み出すことによって、推進力を得るのだ。
本体はうつ伏せの状態で(もちろん仰向けでも構わないのだが)息継ぎをしつつ、足を細かく動かすだけでよいという、スキマを除けば超ローコストな泳法であった。さらに、この泳法の後ろで泳ぐ者は、相手に密着しない限りもろに逆流を受けることになり、強烈な負荷によって、周囲の水が敵と化したような錯覚を味わうことになる。
もちろんスタートで相手の前に出なければ、レースにおけるこの泳法の効果は半分。
だからこそ、クラッカーの布石だったのだ。うぐいすの声の合図に反応できなかった神奈子もまた、常識という枠に捕らえられてしまっていたのである。
――昔、散々鍛えられたことのある私なら、この引っかけにも気付くことができただろうが……。
と、藍は相手チームに同情しつつも、
「……しかし、これもまた勝負。私とてプラチナチケットを手に入れたい気持ちに、偽りはありません。我が主の策に乗り、勝たせていただきます。お許しを」
「いいわよ。気にしてないわそんなの」
予想に反して、諏訪子はあっけらかんとした口調で、藍の宣言をいなしてきた。
「むしろ感謝しなきゃいけない。だって、久々に神奈子の本気が見られるんだからね」
そういう神様の両目に浮かんでいるのは、虚勢の類ではなかった。
にじみ出る強烈なオーラに、九尾の式は気圧される。
「守矢の誇る泳法は、神の平泳ぎだけにあらず。しかと見よ。我が盟友八坂神奈子は、神のクロールを操る」
○○○
一方、現在進行形で泳ぎを競っている紫は。
「らくちんらくちん~♪」
と、スキマ泳法で順調な泳ぎを見せていた。
本人は単に流されているだけなのだが、体に余分な力みがあれば著しく減速するこの泳法は、例えスキマに似た能力を会得できたとしても、簡単に真似できるものではない。とはいえ、見た目が全くだらしがないので、自分の式には不評この上なかった。友人の亡霊には大ウケであったが。
第一コースは、全て計算通りの展開となり、順調に消化できている。あとは式にバトンを渡して、ゆるりと結果を待てばよい。
最小限の労力で、最大限の効果を。それがスキマ妖怪八雲紫のモットーなのであった。
湖の自然に癒されながら、コースの半分を過ぎた頃だった。
紫の耳に、妙な雑音が混ざり込んできた。
――あら、何の音かしら。
音は激しく、徐々に近づいてくる。よく聞いてみれば、それは大きすぎて逆に気付きにくいが、水を削るようにして泳ぐ音だった。
不思議に思った紫は、顔を包むスキマの先をもう一度上に開いて、レースの状況を空から見定めた。
神さびた古戦場
後ろに引き離されていたはずの神奈子が、猛スピードで差を詰めてきていた。
逆流をものともせず、泳ぎ迫ってくる肉体から、恐るべき怒りのオーラがにじみでている。
しかも、水から顔が全く上がらない。一切息継ぎをしようとせず、ひたすら掻き泳ぐ、同じうつ伏せのスキマ泳法とは対極の泳法。
その気迫は、最早真剣レースどころか、命がけのハンティングの域に達していた。
そして彼女が狙っているのは、前を泳ぐスキマ妖怪の本体であることに、間違いなかった。
「ひぃっ!?」
思わず紫は悲鳴を上げて、スキマ泳法のスピードを上げた。
全身は脱力させたまま、周囲のスキマが開閉するテンポを速める。レースに勝とうという心境から、とにかく逃げようという気持ちに変わっていた。
ともかく紫のスピードは上昇し、自らを守る妨害水流の強さも増していく。
だが、その後ろから、神奈子は追い迫ってくる。洗練されたクロールというよりも、馬力を生かした野性味溢れるクロールで。
神の気配が大きく膨れあがってきた。
逆流で最大限に妨害しているというのに、差をどんどん詰められている。
足にかかる水滴の量が増えたのを感じ、紫の恐怖は倍増した。
いつもの自分ならば、適当に境界を弄って有利な土俵に変えることができるのだが、同じ水泳という競技の型にはめられているため、実力がそのまま反映されてしまう。
ましてや相手が相手なので、心理的にも物理的にも圧力が尋常ではない。水の下で見えざる神の表情を想像してしまい、天然の肌が粟立った。
やがて、気配の塊が、まるで大蛇が獲物を絞め殺さんとするかのように、紫の体を包囲する。
横を見れば、あれだけあったはずの差が錯覚だったかのように、そこに八坂神奈子の姿があった。
いつの間にか並ばれている。一瞬だけ、彼女と目が合う。
殺気をまともに浴びて、紫は戦慄した。
まさに『リヴァイアサン』。
古の大ウミヘビの眼光を、競泳者は宿していたのだった。
神奈子の放つプレッシャーが爆発した。
紫の中で彼女のイメージは、すでに大怪獣となっており、鯨のような手が、クラーケンのような足が、クロールの形で突き進んでくる。
彼女の体が生み出す流れは、スキマ泳法のそれを遙かに凌ぎ、本人の殺気に沿って、真っ直ぐこちらに向かってきた。
「きゃああああ!!」
水圧に跳ね飛ばされ、紫は悲鳴を上げて、あっけなくコースアウトした。
○○○
順位が逆転し、守矢チームはさらにペースを上げる。
吹き飛ばされた紫は、差をみるみるうちに広げられてしまっていた。
200mの第二スタート地点、飛び込みの姿勢で待つ諏訪子は、手を後ろに伸ばして、
「神奈子、カモン!」
「任せた諏訪子!」
短く言葉を交換し、諏訪子の掌にタッチして、神奈子は自らの役目を終える。
体力を使い切った神の意志を受け継ぎ、守矢の誇る平泳ぎマスターは、すかさず水に飛び込んだ。
続いて、守矢チームに遅れること十秒弱、第一泳者のスキマ妖怪は、へろへろな状態で、式の元にたどりついた。
「紫様! 早く!」
「ら、藍。後は任せたわ。勝ってきなさい」
疲労困憊の様子で、宙をさまよった主の手と、藍はタッチした。
本当はここで小言を山ほど述べたいところだが、今は時間が切迫している。
先にスタートした諏訪子との差は、すでにかなりのもの。果たしてこのロスを埋めることができるか。
「……負けられない。橙との『カッパピアーウー』のためにも……」
主の命令を受け、式の効果が発動し、妖力のリミッターが解除される。
藍の全身から青白い妖気が発せられ、髪の毛が逆立ち、両の瞳も黄金色に輝く。
「私は絶対に勝つ! 待ってろ橙!」
修羅と化した八雲藍は、湖に弾丸のごとく飛び込んだ。
前を行く守矢チーム、その差は約30メートル。水泳においては絶望的な差。果たして逆転なるか。
「……私がいることも忘れないでほしいわ~」
一方で疲れ切ったスキマ妖怪は、藍の決意に自分の名前が入っていなかったことに、秘かに涙していた。
○○○
守矢の神といえば洩矢諏訪子、洩矢諏訪子といえば蛙、蛙といえば平泳ぎ。
というわけで守矢チーム第二泳者の泳ぎは、当然のごとく平泳ぎだった。
しかし、真剣勝負のレースで、さらに守矢一家の中でも一番乗り気なのが彼女だったのだが、いざ実際に始まってみれば、その泳ぎには激しさが全く感じられなかった。湖水が抵抗無く彼女を受け入れ、彼女も抵抗せずに湖水に誘われて動く。全身をのびのびと使って、最小限の音を奏でながら進む姿は、一見無理のない動きに見えて、圧倒的な速さを生んでいる。
そしてそれこそが、誰にも真似することの出来ない、諏訪子特有の泳法であった。
神奈子のクロールが最強の泳ぎならば、諏訪子の平泳ぎは最高の泳ぎ。水の心を知る自然神は、湖の存在全てを自然と味方に付けることができる。
だからこそ、水泳という競争の舞台であっても、見る者を魅了する、幻想的な光景を創り出すことができるのである。
だが、彼女を包み込む優しい水に、邪気が混じった。
それは背後から迫ってくる激流と、それ以上のプレッシャーだった。
――神奈子?
と諏訪子は振り向く。
しかし違った。
水をかき分けて追ってくる者は、諏訪子よりも遅れてスタートした第二泳者のものだった。
身にまとう妖力もスピードも、神のそれに全く引けを取らず、先の神奈子に勝るとも劣らぬレベルであった。
――逃しはせん!
神の平泳ぎに追いすがるのは、藍だった。
両腕両足を同時に動かす、バタフライ泳法。しかしその泳ぎは、通常のバタフライの常軌を逸していた。
水中で残像ができるほど両腕を高速で回し、水を力尽くで従える、なんとも乱暴な泳ぎ方だ。
だが、それだけではない。その程度の泳ぎで、諏訪子の平泳ぎに追いつけるはずがないのに。
――これが、私の本気の泳ぎだ!!
ついに絶望的な差は縮まり、並んだ諏訪子の驚いた顔が、藍の視界に入る。
彼女の視線は、九本の尻尾に注がれていた。
なんと、藍は尻尾をひとまとめにして、スクリュー状に動かすことによって、圧倒的な推進力を得ていたのである。
ジェットスクリューバタフライ。知り合いの亡霊嬢に『ロケット藍ちゃん泳法』と名付けられたこの泳ぎは、藍の妖力を限界近くまで要求する、非常にエネルギー効率の悪い泳ぎ方であり、普通に泳ぐ時にはまず使いはしない秘密の技だった。
だが、こういったスピード最優先の競技においては、このうえなく適した泳法なのだ。
しかしそれでも、相手は神であり、平泳ぎの権化ともいうべき存在である。
藍の泳ぎっぷりに動揺するどころか、愉悦の波動を体から放ち、さらに諏訪子の泳ぐスピードが増した。
――ついてこれるか!? 八雲藍!!
――無論!! 私は私の式のため、神を超える!!
――笑止!!
デッドヒートが始まる。
諏訪子の方が、頭一つ抜けだし、速度もほんのわずかに上回っている。だがしかし、第三泳者の実力が互いに未知数な以上、この差はあってないようなもの。
「早苗! 任せたわ!」
「橙! 後は任せた!」
二人がタッチを受け渡したのは、ほぼ同時であった。
○○○
「行ってきます藍様!」
八雲のアンカー、式の式の橙は、主とタッチを交わし、湖へと飛び込んだ。
25メートル。たったそれだけの距離がカナヅチ出身者にとって、泳げる者達との境界なのである。
空気よりも遙かに重く、体に絡みつく粘性の世界。抵抗は走るよりも飛ぶよりも、遙かに厳しい。じれったくなるほど足が言うことを聞かず、仲良くしてくれない。
しかし、もはや水に怯えていた橙は、過去のものとなっていた。
――負けない! 藍様達と一緒に、プールに遊びに行くために!
橙のモチベーションは、この勝負の賞品、プラチナチケットの話を聞いた時から、かつてない高ぶりを見せていた。
それぞれの活動時間が違う八雲一家は、紫が眠りにつく冬は勿論、橙が実家に帰った時の夕飯の時間くらいしか、団欒の機会は無かったのだ。
しかし、橙がこの機会に泳ぎを習得することができれば、この勝負に勝ってプラチナチケットを手に入れることができれば。
今日のように八雲一家の三人が一つの場所に揃って、楽しい時間を共有することができるのである。
それは、友人達と一緒に遊ぶのとはまた違う、特別な価値が、若い式の式にあった。
――もう少し! もう少し!
リードしているのは自分だ。守矢の第三泳者の気配は離れている。このままのペースで行けば、きっと勝つことができる。
でも、息が切れそうになる。使ったことのない筋肉の動きが、積み上がる疲労を訴えている。気を抜けば水の中に、心ごと引きずり込まれそうになる。
しかし橙は決して諦めない。重くなる体で懸命に漕ぎながら、プールで一緒に遊ぶことのできる存在を思い浮かべた。
リグル、ミスティア、チルノ、ルーミア、にとり。
主の藍、主の主の紫。
そして……
お互い泳ぎを覚えて、向こうで遊べるようになったらいいですね。
――…………?
橙の頭に、もう一人の存在が思い浮かんだ。
比べられるほどにない、ほんの一時の邂逅だった。
けれども、どうしても気になってしまい、誘惑に負けた橙は、
つい、振り向いてしまった。
見えたのは、彼女の両手だけだった。頭が水面から出てこないまま、両手だけが水面をもがいている。
第三泳者である東風谷早苗は、溺れている。
橙の体をゴールへと引き寄せる、無数の力があった。その中には、後は任せた、という、自分に何よりの力を与えてくれる、主の命令も残っていた。
しかし橙は何故か、それらを振り払って、コースを逆送していた。
早苗を、助けるために。
○○○
命令を聞かなかった式は、どうなるのか。
それは今までしたことのなかった、最も怖い質問だった。
ふざけて聞いたと判断されれば、怒鳴られてしまうかもしれない。
しかし橙は本気で、その質問を主に投げかけていた。
「藍様……あの……」
例え本気であっても、怖いものは怖い。
さらに言うなら、お洗濯を手伝っている時にする質問ではなかったかもしれない。
湿った服を握ったまま、橙は尻尾の先まで縮こまった。
主の藍は、そんな式の様子と質問に、呆気にとられていたが、やがて寝具用の布を両手でパンパンと伸ばして、横の物干しにかけながら聞き返してきた。
「何か不安なことがあるの?」
「はい、少し……。この前、紫様の修行を受けてから……」
恐る恐る、橙は心境を明かす。
立派な式になりたい。目の前の主のように、主人の命令をきちんと聞き、期待に応えられる凄い妖怪になりたい。
そんな目標を、今でもずっと、橙は持ち続けていた。
けれども、その命令が、友達の命と天秤にかけられてしまったら。ましてや一人ではなく、もっと多くの友達。
もっと酷い話なら、藍が藍自信の命を見捨てろという命令を自分に下したら。そんな言いつけに耐えられる自信が、橙には無かった。
藍は手際よく洗濯物を干し、空になった編み籠を横にどけて、もう一つの籠に手を入れた。
「橙。私はこれまで、紫様の命令通りに行動しなかったことがある。特に、大昔に一度、それで命を落としかけたことまであった」
「ら、藍様がですか?」
「あの時の紫様は、本当に怖かった。あんなに怒ったお姿は、見たことがなかった。今思い出しても怖くて、震えそうになるくらい。式は命令に忠実でなければ、式として存在できない。それは変えられない事実だ」
だから橙も、常に主の言うことを聞かなきゃだめだ。
そう藍の話は続くと思っていた。
が、
「けどね。私はその時のことを後悔してないんだ」
「え? 後悔してない?」
手品のような肩すかしを食って、橙は思わず聞き返した。
温かい春の日差しに向けて、主は洗濯物を広げ、
「無謀だったし、未熟だったし、主を心配させてしまった。傷ついたし、失ったものもあるし、命まで落としかけた。悪いことだらけに思えるけどけど、そのおかげで掛け替えのないものを手に入れた。得難い経験と、確かな成長と、疑う理由の無くなった、主の愛情……」
「………………」
「そしてその時の選択が無ければ、橙にも出会ってなかったかもしれない。もちろん、別の道を選んでいたら、もっといい結果になっていたかもしれないけど、それはいくら考えても仕方が無いことだ。……おや、今日はお出かけせずに、物干し台になるの?」
「あ、すみません」
橙は慌てて、持ったままだった自分の替えの洋服を、洗濯ばさみで止めていった。
隣に立つ藍は、世間話のように軽い声で続ける。
「だから、橙も自分の意志で選びなさい。主の命令を聞く道を選んでも、それに反する道を選んでもいい。後悔しないと思う道を歩みなさい。失敗したっていい。間違ったっていい。その積み重ねが成長に繋がるんだから」
「でも、もしそれで死んじゃったら……」
「死なせはしない。後ろには私がついている。紫様だっている。間違ったときは、全力で助けて、ちゃんと叱って、一緒に解決しようと努力してあげる。だから……よっと」
重ねた籠を小脇に抱えて、主は最後に、橙の大好きな笑顔をつけて、宝物のような言いつけをくれた。
「自信を持って素直に行動しなさい。それが、お前の主、八雲藍の命令だ」
○○○
「早苗さん! しっかり、しっかりして!」
動きの鈍くなった巫女の体を、拙い泳ぎで何とか支え、橙は必死に呼びかけた。
早苗はかすかに呻いただけで、目を開かなかった。
よくわからないけど、きっと凄く危険な状態だ。早く手当てしなければ、一大事になるかもしれない。
――大変。早く藍様達に。
いくらなんでも、この状態の彼女を放っておいて勝負を続けて勝ったって、あの神様達を悲しませて、橙達との仲が凄く悪くなるだけだと思った。
主はきっと許してくれるだろうし、主の主にも必死で頼んでみるつもりだ。何より、自分自身が彼女を捨てておけない。
橙はゴールか元の足場か、どちらか近い方を選んで、彼女の体を連れて行けないか計算した。
静かだった湖に、異変が起こっていたことに気付いたのは、その時だった。
○○○
水は素直である。見えざる人の心に対してすら、水は素直である。
コップに注いで、言葉をかければ、正の感情に秩序を取り戻し、負の感情に乱れ散らばる。
自然は時にさらに雄大に、水に怒りを託し、時に水を用いて、喜びを表す。
水とは表現の道具であり、途方もなく長い時を、神や妖怪や人間や動物達の、媒質として過ごしてきたのだ。
幻想郷の大妖怪が二体、信仰を取り戻した神が二柱。
互いに水泳に全力で臨み、力を吐きつくしていた。
その力には、いずれも共通の意志が込められていた。互いに定めた、ゴールへと向かう意志が。
だがそれは、類い希な神水を保有する諏訪湖に余すところ無く伝わり、誰もが予想していなかった、致命的な事態を引き起こしていた。
湖の四方の水面が、歪な形で隆起した。
水の群れは互いに終局へ向かおうと、同時に滑り動き始めた。
はじめに気付いたのは、息を切らしていた諏訪子だった。だが気付いたときには、波の狭間に阻まれ、手の届かぬ所まで流されて移動していた。
次に気付いたのは、紫だった。だが彼女は、スキマをすぐに展開できるほど、力が残っていなかった。
同時に気付いたのは、神奈子だった。だが彼女も結界に費やしていた力はすでに無く、波を即座に止める術を持っていなかった。
そして、最後に気付いた藍は、式が水で剥がれそうになるほど、一時的に憔悴し、荒波に翻弄されていた。
だが、彼女は見た。ゴール地点を囲むように動く波、その向こうで浮かんでいた、
「そんな……!」
式の式と風祝、第三泳者の二人の姿に。
○○○
悪い夢を見ているのではないかと、橙は思った。さっき見た大波を超える高さの水が、あらゆる方向から、自分たちへと襲いかかってきていた。
水に浸かっているために、飛ぶことができない。泳ぐだなんて無理に決まっている。
水中と空中、両方から伝わる、圧倒的な破壊のエネルギーの気配に、体の芯まで震え上がりそうになった。
咄嗟に、さっき同じ窮地にて助けてくれた、主の姿を探した。けれども、分厚い水の大群は、藍を見つけることを許してくれなかった。
スキマが開いて、紫が助けに来てくれると思ったが、そんな気配も無かった。
呆然と、四方に伸び上がる波を、見上げるしかなかった。
降りかかる水滴に、『恐怖』が、橙を襲った。
耳飾りに結ばれていた御札が、ぱちんと切れる音がした。
『式』が剥がれ落ち、体から力がごっそりと奪われ、意識が白くなった。
――あ……。
水が脚に、胴に、腕に、体に染みこんでいく。
自分を支えていた気持ちが、一匙の塩だったかのように、瞬く間に溶かされていく。
ついには、怖いという感情すら塗りつぶされ、全身が徐々に痺れて冷たくなり、顔まで水が覆っていく。
橙は、静かに、湖底へと飲み込まれていった。
だが、沈もうとしていた体は、誰かに抱きしめられた。
その温もりは、自分が助けたばかりの、人間のものだった。
いや、彼女は人を超えていた。
もっと、大きな存在だった。
「奇跡よ!」
巫女の叱声を受けた水群が、彼女を中心に、爆風を浴びたかのように退いた。
四方から見下ろし、倒れ込もうとしていた大波が、顎を殴り上げられたかのように起きあがった。
至近距離で受けた波動に、橙は半ば無理矢理覚醒させられた。
夢から叩き起こされた後のような、混濁した世界の中で、まだ波は自分たちを押しつぶそうと迫ってきている。
しかし、それらは道を阻まれていた。
神と妖怪、混合した破滅的なエネルギーを、人間の少女が、たった一人で受け止めている。
見つめる八雲の式の式は、その姿に嘆声を漏らした。
「凄い……!」
その言葉がさらに勢いをつけたかのように、早苗の放出する力が増大した。
全身から燐光を放ち、五芒星を空に描く。
暴れ狂っていた力が、なんと同士討ちを始めた。波は光に怯えたかのように、落ち着かなく揺れて崩れ出す。
水の上に立つ風祝は、湖で暴れていた妖力と神力を、互いにぶつけ合い、相殺してしまった。
波はやがて、静かに元いた場所で眠りにつき、異変は神業、いや奇跡としか言いようがない力で、解決された。
しがみついて事態を見守っていた橙に、早苗の声が降ってくる。
「橙ちゃん! 怪我は無かった!? 平気!?」
「早苗さん……」
橙はその腰を、さらに強く抱きしめ、見上げて言った。
「まるで神様みたい!」
それは、式の式にとって、最大級の賛辞だった。
……はずなのだが、しかし早苗は、その賞賛に驚いたりせずに、さもありなんとばかりに強気な笑みを見せる。
「あら、言ってませんでした? 私、これでも神様なんです」
驚いてその顔を見つめると、風祝の頭の上から、支えきれてなかった水の塊が、落っこちてきた。
橙は小さく息を呑み、彼女の体から飛び退る。
濡れた前髪をお化けのように垂らし、早苗は憮然とした顔で、
「……まぁまだ見習いなんで、こんなものですけどね」
「橙ーー!!」
主の叫び声に、橙は振り向いた。
藍はレース後の疲労から復調したらしく、水の上を急いで飛んでくる。残りの三人も、すぐ後に続いてやってきていた。
「橙! 大丈夫だった!?」
「はい藍様! 早苗さんが助けてくれました」
慣れ親しんだ温もりに、橙の体は元気を取り戻す。
式の体をしっかり抱きしめていた藍は、早苗の方に向き、真摯な口調で、
「東風谷早苗殿。貴方に感謝しなくては。我が式の命を救ってくれたのは、まぎれもなく貴方の力だ。主として深い借りができた」
「そ、そんな。深い借りだなんて」
「そうそう。先に助けられたのはこっちだもんね」
と言ったのは、水の上を歩いてくる、蛙の神様だった。
洩矢諏訪子は、主の懐に抱かれていた橙に近づき、感心した口調で、
「まさかレースを捨てて、溺れるうちの早苗を助けてくれるとは思わなかった。それも苦手な水の中を必死に泳いでさ。猫ちゃんの実力を本気で見くびっていたよ」
「猫ちゃんじゃなくて、橙です!」
「橙か……」
諏訪子は苦笑して、手をさしのべてきた。
「ありがとう。橙は泳ぐのが好き? それとも、やっぱり水が怖い?」
「いいえ! 泳ぐのは好きです! 今日ここで好きになりました!」
「そう。いい子ね。うちの神社で泳ぐのがますます嫌いになっちゃ、神様の立つ瀬が無いところだったわ」
式の式と神様、二つの小さな手が握手する。
その行為が、両一家の今の心境を、何よりも物語っていた。
スキマ妖怪ともう一柱の神様は、四者の和気藹々とした光景を離れた場所から眺めていた。
「守矢神社の秘蔵っ子。その才能をとくと拝見させていただきましたわ」
紫が独り言のように語りかける。
彼女は今、橙があの時取った行動と勇気に驚かされ、そしてそれ以上に、あれほどの力をたった一人の信仰で打ち破ってしまった、若き逸材に、強い興味も抱いていた。
しかし、保護者である神奈子は謙遜してくる。
「なんの。まだまだ修行不足よ。私はそちらの式二人にも驚かせてもらったね。水に弱いなんて嘘なんじゃない? それともあの子達が特別なのかい?」
「ええ、どちらも自慢の式ですもの」
紫は二人の家族には聞こえない程度の小ささで、嘘のない想いを、横の存在に伝えた。
そんな二人を置いて話していた四人の中、諏訪子が橙と早苗の両肩を、後ろから乗りかかるように抱き、
「よし! 二人共! だいぶ遅くなっちゃったけど、一端休憩してお昼ご飯にしよう! その後ここで、皆でまた泳ぐわよ!」
「えー、またですか諏訪子様?」
「当然よ! あんな大きな波を克服できたんだから、早苗も自信持ちなさい! 後はあの変な泳ぎを矯正すれば、特訓はおしまいにしてあげる!」
「へ、変な泳ぎって、失礼な! 私だって必死で泳いだんですよ!」
「橙だって、まだ泳ぎたいよね?」
「はい諏訪子様! もっと泳いでみたいです!」
「あ、橙ちゃんが泳ぐなら……私も……」
「こら早苗! 下心で泳ぐんじゃなくて、もっと素直に水泳というものを……!」
「まぁまぁ、そう熱くならずに」
巫女に説教を始める諏訪子を、藍が困った笑顔でなだめる。
橙はその様子を見て吹き出し、その笑いが早苗にもうつる。
荒れ狂っていた面影はすでに無く、妖怪の山にある湖は再び、平和な笑い声を取り戻していた。
5 エピローグ
すでに幻想郷の日は沈み、空には三日月が見えている。
八雲一家の居間。茶箪笥や柱時計などが整頓されたクラシックな和室には、香辛料の効いた温かい匂いが流れていた。
中央のちゃぶ台を拭いているのは、九尾の式、八雲藍である。当然水着はすでに洗濯に回しており、今の彼女はいつもの道服の上に割烹着。
卓を拭き終わった藍は、いそいそと廊下に消え、お皿をいくつか両手に運んできた。
そこでちょうど、主人が寝所から起きてきて、廊下で鉢合わせする。
「ふわぁ……お早う藍」
「お早うございます紫様。今できましたから」
「この香り、リクエストどおりね」
と、起き抜けの紫は、スパイスの香りに目を細めて言いながら、食卓についた。
今夜の八雲一家の夕食はカレーである。献立を希望したのは、紫だった。
幻想郷の賢者である彼女曰く、「プールの後はカレーでしょう?」。
果たしてどうだろう、むしろ海じゃないか、と藍は思ったが、特に反対する理由も無いので、帰ってすぐにご飯の支度をすることにしたのであった。
しかし、今回のカレーはただのカレーではない。
藍が運んできたお皿を見て、紫はそれに気付いたようで、
「あら、あのお野菜、早速使ったのね」
「はい、サラダも福神漬けもらっきょうもそうですよ」
と、色とりどりの料理が卓上に並ぶ。
実はこのカレーの具は、守矢神社からお裾分けでもらったものなのである。。
結局あの後、水泳対決の行方はうやむやになってしまったが、心が広いと評判の諏訪子が、こころよくプラチナチケットを譲ってくれたことで、こちらからも外界の品々を提供することにした……のだけどそれで終わらず、向こうは大変喜ぶ余り、野菜や漬け物までおまけにつけてくれたのである。
豊穣の神の御利益なのか、あの神社では野菜が美味しく育つらしく、山の妖怪達の間でも評判なそうな。
「というわけで、残暑を乗り切る夏野菜カレーにしてみました。紫様に夏バテされても困りますし、橙にも野菜を食べさせないといけませんしね」
「その橙はどうしたのかしら」
「早速、お友達のところに報告しに行ったようです」
「そう。よかったわね。じゃあ、帰ってくるまで、もう少し待ってあげましょうか」
「では、その間に一つ、私からお聞きしたいことがあります」
藍は居住まいを正して、卓の向こうの主と向きあった。
「紫様。今日の貴方のねらいは、一体何だったのですか?」
「何って、橙に泳ぎを教えてあげることじゃないの」
「ではなくて、わざわざ守矢神社の私有地に出向き、あまつさえ喧嘩をお売りになったことですよ」
「『カッパピアーウー』のプラチナチケット」
「それだけの理由で動くほど、私の主は腰が軽くありません」
「まぁ、太ってると言いたいわけ?」
「気にしているのでしたらご心配なく。カレーから悪い脂は抜いておきました……ってだからそうじゃなくてですね」
藍は嘆息して、あくまではぐらかそうとする主に、自らの考えを伝えた。
「私の推測では、新たなテーマパークを作るという此度の守矢神社の動きと狙いを、直接ご自身の目で確かめるため、と思ったんですが……」
「その答えは中吉かしら。今回の目的は、『布石』だったのよ」
ようやく、紫は真相を明かすことにしたらしい。続く話に、藍は黙って耳を傾けた。
「猫の首には鈴が必要。しかし相手に鈴をつけるには、こちらも首を差し出すのがマナー。すでに守矢神社の勢力は、幻想郷のバランスを保つために、無視できないレベルに達しているわ。その力は利用するには便利だし、相手にするには厄介」
「ははぁ……」
「だからこそ、将来のため、あの一家と何らかの関係を繋いでおくことにこしたことはない。そのきっかけも、上辺だけの交流ではなく、いっそ真っ向から勝負した方が深くなることが多い。これは異変解決の度に増える、博麗神社の妖怪も同じよね」
「なるほど。それで布石、ですか……」
策謀を張り巡らせる、主らしい答えだと藍は思ったが……少し残念な気もしていた。
喧嘩を仕掛けてしまったり、水泳で競ったりするうちに、不思議とあの愉快な一家に、偽りのない親しみを持っていた自分に気付いて。
式の考えを読んだように、紫はスプーンで、カレーに福神漬けを乗せて、
「でも、なんだか美味しそうでしょ。この布石」
「え?」
「そう思わないかしら、藍」
主のいたずらっぽい微笑が、返事を求めていた。
「……そう思います」
思わず藍も苦笑して、同意した。
やはり、この御方には敵わないなぁ、と思いながら。
「あら。うちの鈴が帰ってきたみたいよ」
「ですね」
紫が遠くを向き、藍もその気配を察知する。
やがて、気配は庭までやってきて降り立ち、慌ただしく廊下を駆ける音とともに近づいてきた。
「ただいま藍様! 紫様!」
「おかえり橙」
「今夜はカレーですね!?」
「ご名答。待っててあげるから、ちゃんと手を洗ってきなさい」
「はい!」
と洗面所に走りかけた橙は、きゅっ、と足を止め、反転して戻ってきて、
「その前に聞いてください藍様! リグル達に私が泳げるようになったこと話してきたんです! そうしたら!」
「みんな驚いたでしょうきっと」
「はい! あんなに驚いたみんなを見るのって、初めてかもしれません! すごく喜んでくれました! 明後日に泳ぎに行く約束もしましたよ!」
「よかった。頑張った甲斐があったね」
「藍様と紫様のおかげです! あと、守矢神社の神様達のみんなも!」
橙は今日一日で、すっかりあの一家が好きになってしまったらしかった。
そして向こうの一家にも、特にあの風祝の少女に大層気に入られてしまったようである。
それは紫にも自分にもない、彼女ならではの力だと思うと、藍は主として誇らしかった。
策謀など巡らせなくても、これからの幻想郷においては、どの家とも仲の良いお隣さんのままで、末永く続くんじゃないか、そんなことを思わせてしまう、橙の持つ力に。
「それで、藍様、お願いがあるんです。藍様のあの泳ぎ方を、みんなに見せてくれませんか?」
「え゛っ!?」
微笑ましく式の話を聞いていた藍が、突然首を絞められたような声を上げて動揺した。
「みんなに話したら、チルノもリグルもミスチーもルーミアも興味津々で……お願いします藍様!」
「う、うーん、橙。悪いけど、あれはちょっと……その~」
「あら、見せてあげなさいよ。藍が生まれて初めて覚えた術なんだから」
「ゆかっ!?」
り様、まで言えずに、藍は主の方を向く。
二人の会話に、橙の目が丸く大きくなり、好奇心に小鼻をふくらませて、
「そうなんですか藍様!?」
「違う違う。私が初めて覚えた術はそんなんじゃなくて……」
「そうそう。初めは違ったのよねー。久しぶりに見たくなったわ。藍、ここでやってみせてくれない?」
「い、嫌に決まってるでしょうが!」
「命令しちゃおうかしら~」
「絶対に止めてください!」
「みたいみたーい!」
「こらっ、橙! 止めなさい!」
はしゃいでせがんでくる橙と、ふざけてからかう紫に、藍は行儀をかえりみずに、部屋の中を逃げ回る。
こうして、八雲一家の夕食の時間は、今夜もドタバタと平和に過ぎていった。
(おしまい)
むかしむかしのお話。
まだ幻想郷が閉じていなくて、日々御伽話が生まれていた頃のこと。
遠い地方に出かけていた、スキマの大妖怪八雲紫は、世界の裏側にひっそりと存在する、我が家に帰ってきました。
彼女は自らの能力を使い、今日の妖怪の未来を見定めるために、世界中を旅して回っています。
けれども、決して、長く家を空けることはありません。
なぜなら実家には、自分の帰りを今か今かと待ち続ける、最愛の式がいるからなのです。
さて、いつものように、紫が家に帰り着き、玄関の戸を開けると、廊下の奥からとてとてと、小さな足音が近づいてきました。
「ゆかりさま~!」
金の髪の毛に獣の耳が二つ。そして、くりくりしたおめめ。
小さな体に見合わぬ、大きな金色の尻尾を九つも背負った、幼い狐の妖獣です。
「おかえりなさい、ゆかりさま!」
「ただいま、藍」
紫は自らの式を迎え入れるため、そっと手を広げて待ちました。
しかし、いつもなら胸に飛び込んでくるはずの妖獣、九尾の狐の式である藍は、靴置き場の手前で停止し、何やら興奮した様子で知らせてきます。
「ゆかりさま! 今日のらんは、すごいことがあるんです!」
「へぇ、凄いこと?」
「そうです! なんと、らんは術をおぼえました!」
えっへん、とおチビさんは得意げに胸を張り、尻尾を揺らします。
彼女の主人であり、親がわりでもある紫は、不思議に思って聞きました。
「術? 誰かに教わったの?」
「いいえ、らんが自分で考えました。このまえに、ゆかりさまの術を見ていて、らんにもできるとおもったんです!」
「私の術ねぇ……」
紫はざっと記憶を遡ってみます。
しかし、まだまだ式どころか、並の妖怪としてすら実力的に物足りない藍が覚えられそうな術は、一つとして見当がつきません。
とはいえ、このおチビさんも九尾の狐という、妖怪の中でも強力な血の持ち主。もしかしたら、主である自分が知らぬ間に成長しているのかもしれません。
紫は期待半分、興味半分で、藍に続きを促しました。
「それじゃあ、今ここでやってごらんなさい」
「えっ、ここでですか?」
「どうせ、私に見せたくて待ちきれなかったんでしょう。いいからやってごらんなさい、藍」
「わ、わかりました。いきますよ~」
と、藍は張り切って、主に術を披露する準備を始めました。
~やくもりや~
「ん~…………あら?」
布団の中で、八雲紫は目を覚ました。
二十畳ある、家具の少ない、がらんとした和室。八雲一家の屋敷、その寝室の中央である。
障子を薄く染める光は、暁のものではなく、これから沈もうとしている陽の光だった。スキマ妖怪は昼ではなく、幻想郷の夜に活動するものなのだ。
紫は布団から起きあがって、頭のナイトキャップを取り、ふわぁ、と欠伸をする口を隠した。
「懐かしい夢だこと……」
手の内で漏れた独り言には、半分嬉しく、半分口惜しい響きがあった。
幻想郷を管理する大妖怪の八雲紫は、彼女の実力を補佐するのにふさわしい、最高の式神を一体所持している。
しかしその式は、初めから実力があって、機転が利いて、仕事を任せられる存在だったわけではない。
主である紫が親代わりとなって、一から育て、保護し、鍛えた成果であった。
その九尾の式が、一番始めに覚えた術のことを、紫はいまだに忘れていない。何度思い出しても、顔がほころんでしまう記憶である。
「藍もあの頃は初々しかったわねぇ。今じゃ使える術の方が多くなっちゃって」
式の成長が嬉しくないわけではないが、しかしそのために失ったものも少なくない。
雑事を引き受けてくれる大天使よりも、玄関で迎えてくれる小天使がいいといったら、今の本人は気を悪くするだろうか。
しかしそれは冗談としても、たまに昔の夢を見ると、ちょっぴり切なくなるのも本当なのであった。
紫は目の端をこすりつつ、せっかくの機会だし、もう一度幼い頃の式に会ってこようと、布団に潜り込んだ。
すると、
――! ――!
隣室の声が、耳に届いた。
幼い子供が早口で喋っているような、甲高い声である。屋敷の中でこの声の持ち主といえば、一人しか該当しない。
自らの式の式、まだ妖怪としても式神としても、成長途中にある化け猫の妖怪である。
けれどもその声色は、いつもの明るく朗らかな様子とは少々違い、何だか切羽詰まって喚いているようであった。
気配は彼女だけでなく、もう一人。時折穏やかになだめるような声も混じる。こちらの声は、すでに数百年聞き慣れたものである。
「なにかしら。橙が悪戯をして叱られてるわけでも無さそうね」
心当たりもなく、考えて解き明かすのも面倒だったので、紫は素直に起きて様子を見に行くことにした。
「お願いします! 藍様! 私頑張りますから、教えてください!」
平静さを失って頼み込んでいるのは、赤いスカートの洋服を着た、化け猫姿の式である。。
二又に分かれた黒い尻尾を円上に振り、黒の両耳をぴくぴく動かし、畳についた両手の爪は、今にもそこを引っ掻き回したそうにうずうずしている。
「…………う~ん」
興奮状態にある彼女と対峙しているのは、九つの大きな金色の尾を持つ、狐の妖獣姿の式であった。
家事の途中だったのか、割烹着を身にまとっており、腕を組んで眉根を寄せ、式の懇願に対して、思い悩んでいる様子である。
二人がいるのは、八雲の屋敷の中央にある居間。
ちゃぶ台を用意して食事を取ることもあれば、家族で談笑することもある、つまり一番住人に使われている一室である。
しかし、今のように、八雲の式の式である橙が、その主である八雲藍に、このように必死でせがむ構図は、あまりない場面だった。
「実力が無いのが理由なら、できるようになるまで鍛えてください! 諦めません!」
「…………う~ん」
「お願いします! あんまり時間がないんです! 特訓してください!」
「…………う~ん。……ん?」
廊下に現れた人影に気付き、二人は同時にそちらを向いた。
「お早うございます紫様」
「お早うございます紫様!」
太陽が昇るどころか沈む時間帯ではあるが、式達の挨拶も、それを受ける主の態度も、日常のものであった。
瞼をとろんとさせ、ゆめうつつの状態で、欠伸混じりに紫は答える。
「お早う二人とも。で、一体何の騒ぎ?」
「それが……橙が奇妙なことを」
と、式である藍が説明しかけたところで、その式である橙が紫の方に歩み寄り、膝をついた。
「紫様! 私、どうしても、泳げるようになりたいんです!」
紫の目がぱちりと覚めた。
「泳げるように、なりたい?」
「はい!」
そう言って真っ直ぐに見つめてくる橙の発言に、紫は首をかしげる。
というのも、橙は藍の式である。式とは式神。使役主が編んだ膨大な計算式により、命令を受け、手足となって働く存在である。
命令に従いさえすれば、主と同等の力を用いて行動することができるので、主が強力であればあるほど、式は得難い分身となって行動してくれるのである。
だがしかし、式はその便利な半面、水に弱いという性質も持っている。
雨に打たれるのもまずいし川に足を浸けても危ないし、ひどい時には、転んで水たまりに落ちて剥がれる可能性まである、扱いにくい術なのである。
特に、元の体が化け猫である橙の場合は、二重に水が弱点となっており、本人も大の水嫌い、というより『水恐怖症』に近かった。
お風呂のかけ湯ですら毎度のごとく涙目になるくらいなので、泳ぐだなんて以ての外である。
それが今になって、泳げるようになりいなりたいと大騒ぎしているのだから、主の八雲藍にとっても、そのまた主である八雲紫にとっても、寝耳に水の事態であった。
橙は紫から藍の方に戻って、
「藍様! 藍様は私と違って、水に濡れても平気だし、泳ぐことができますよね! そういう水避けの術みたいなのがあって、藍様は使えるってことですよね!」
「うん、まぁ、そうだけど」
「じゃあ、その術を私に教えてください! 死ぬ気でやります! 絶対に途中で諦めたりしません!」
「……う~ん」
式の懇願にも、主は難しい顔をしたままであった。
藍とて、橙のこうした向上心は本来好ましく思いたいはずなのである。
あれほど嫌っていた水に対して、自ら克服しようという立派な志。
それでも素直に首を縦に振れないのは、一つだけ、引っかかっていることがあるからだった。
「橙。私だってできることなら、橙にその術について教えてあげたいし、もう橙もそれだけの実力になってるんじゃないかとも思う」
「だったら!」
「けど、術を身につけたがる理由はどうして? 本当は、単に泳げるようになりたいからじゃないんでしょう?」
「…………っ!」
橙はそれまでの意気をくじかれたように、身を引いて縮こまり、俯いてしまった。
見物していたスキマ妖怪は、「あら」と両眉を少し持ち上げて、
「橙は藍に理由を明かさずに、水避けの術を教わろうとしていたの?」
「ええ、そうなんです。本当の訳を話すのを嫌がっているようでして」
「なるほどね……」
藍が認めずにいる理由を悟った紫は、橙の元に歩み寄り、彼女が怯えてしまわぬよう、少しずつ語った。
「橙。貴方は、泳げるようになりたいと言うけれど、式が水を克服するということが、どういう意味なのか分かっているかしら」
「…………いいえ」
「式は本質的に水に弱い。それは弱点ではなく、式を式たらしめる世の理。それに逆らうということは、ある種の矛盾を抱え込むことに繋がる。便利どころか、とても危険な話でもあるわけ」
「………………」
「それでもあえて身につけたいというなら、きちんとした理由を述べないわけにはいかない。虫が良すぎるだけじゃなく、貴方の安全についても関わってくることだからね」
「……はい……でも……」
橙は口ごもり、返答から逃れるように視線をそらす。
その反応を見て、紫は得心した。
「わかったわ。橙は、私も藍も、その理由に反対するものだと決めこんでいるのね」
「そ、そんな……」
「嘘は無用。ただ貴方が話さぬ限り、私も藍も永遠に許可することはできない。それだけは間違いないわ。……私からは以上よ」
紫は体を起こして、自らの式に続きを委ねた。
藍はくどくどと説くことなく、ただ一言、「橙……」と静かに促しただけであった。
式の式はまだぐずついていたが、ついに観念したのか、恐る恐るといった感じで、話し始めた。
「実は……」
○○○
それは昼間のことだった。
橙は妖怪の山にある、河童の住み処に来ていた。
山では妖怪の縄張りがきちんと分けられているので、同じ山の猫の里に住む化け猫であっても、ここは厳密には足を踏み入れることが許されない領域とされていた。
しかし、とある事件がきっかけで、橙は特別に自由に歩き回ることを許可されており、中でもここに住む河童の一人は、定期的に橙を呼んでくれる仲良しなのである。
散らかった研究室は、昼間だというのに窓のブラインドが落ちており、机に備え付けられた白色灯だけが、光源になっていた。
「というわけで、これが新発明の妖怪ビデオカメラ」
そんな中で、椅子に座る河童の河城にとりは、短い望遠鏡に四角い箱をつけたような道具を、自信たっぷりに橙に紹介してくる。
「天狗が扱うカメラよりも、もっと優れてるんだよ。何とこれはね。世界を『絵』で切り取るんじゃなく、『動き』で記録するんだ。外界から入ってきた品に似たようなものがあったんだけど、それは妖怪の妖力とか幽霊が映っちゃって、画像がどうしてもボケちゃうんだよね。これはそういうのを全部カットして、ちゃんと映せるようになってるんだ」
「わー、面白そう!」
「ふふ、実は今、橙を撮ってるんだよ。なんかポーズしてみたら?」
「えっ、こ、こうかな」
「別に止まらなくてもいいんだって。これは動きを写すんだからね」
こちらに向けられているビデオに、橙は手を振って笑ってみたり、わざと「にゃー」と威嚇してみたりした。
にとりはそんな彼女を撮影した後、ビデオを持つ手を顔から下ろし、
「録画時間は三十分。でも本番までには、もっと容量の大きいのを作るつもりよ」
「すごい発明だと思います! じゃあ、今撮ったの見せて見せて!」
「あ、そりゃダメだ。撮ったのを見る機械は現在開発中。早くても来年までかかるね」
橙の動きが、ぴたりと停止した。
はしゃいで差し出していた両手を、やんわりと引っ込めながら、
「それじゃあ、たぶん、審査員の人もがっかりすると思うんですけど」
「…………だよね」
にとりはがっくりとうなだれて、自らの敗北を認めた。
「橙に突っ込まれる前から、薄々気付いてはいたんだ……本当はそっちも作るつもりだったんだよ。でもさー、ちゃんと設計期間を計算してみたら意外と難題だったんだよね。……仕方ない。これは来年に回すか。じゃあこっちはどうかな」
と、彼女は横に置かれた箱から、別の道具を取り出した。
実は橙が今日、この河城にとりに呼ばれた理由は、新発明の感想を聞かせてほしいということだったのである。
というのも、近々妖怪の山で毎年行われている、『新発明コンテスト』なるものが開催されるらしく、それに優勝すれば、技術者として大変な名声を得ることができるのだという。
にとりは河童の中では、すでにある程度名の知れたエンジニアらしいのだが、実はこうした大会で優勝したことは無く、それどころかとんでもない発明のせいで利用者に大迷惑をかけてしまった過去もあったので、悪評も少なからずあるそうな。
そこで、今度のコンテストで優勝して、今度こそ河童の河城にとりの名を、幻想郷中に知らしめようと張り切っているらしかった。
だが、発明品を同僚の河童に見せれば、盗作の危険性があるので、口の固い河童以外の知り合いが試験役として最適である。
というわけで、橙が選ばれたらしいのだが……。
「ビデオカメラに時間を使っちゃったから、あとは簡単な物か旧作しか残ってないんだよね。これどう? のびーるまごの手。最大三メートルまで自動で伸びます」
「そんなに背中の大きい人いるかな」
「じゃあこれ。美味しい匂いの出る目覚まし時計。なんと、朝寝坊した時、おかずを作る時間がなくても、美味しい匂いを出してご飯が進みます」
「きっと後でお腹が空くと思う……」
「爆発掃除機! 部屋の埃や塵を全て爆風で吹き飛ばす! 吸い込むタイプの掃除機に対する革命を……!」
「きっと、ここで使わない方がいいです。危ないです」
ストレートかつ遠慮のない批評が続く。
最後には、にとりも完全に凹みかけ、物がさびしくなった箱の中に手を入れて、
「……後はこのキュウリを冷やして守るキューカンバープロテクターくらいしか無いんだよね……。相性はキュータ君。でもちょっと自信が無いなぁ。審査員は河童だけじゃないし」
曲がった緑色の細長い筒を、橙は受け取った。
試しに開いてみると、冷気がしゅわ~と漏れてくる。
橙はキュウリがそんなに好きではない。けど、アイスや果物を遊びに行った先で冷やして食べられるなら、それは大歓迎であった。
「あ、にとりさん! このキュウリガード!」
「キュウリガードじゃなくてキューカンバープロテクター……あれ、キュウリガードの方がいいかな」
「この道具、キュウリだけじゃなくて、色んなものを冷やすようにできないかな。それならみんなが喜ぶよ」
「そうか! 容量に関係なく、形に合わせて伸び縮みする素材にすれば、様々な物に使えるように……後は逆に温める機能とか、色んなオプションをくっつけて……うん、いけそうな気がしてきた」
にとりはすぐに机に向かい、設計図に物凄い勢いで書き込みを始めた。
ツインテールにした水色の髪を空いた手でかきむしり、呪文のような独り言を呟き、時に激しく唸りながら、時に軽やかに歌いながら。
彼女がこの状態になると長い上に、いくら声をかけても上の空だということを経験から知っている橙は、椅子からお尻を持ち上げた。
「じゃあにとりさん、私もう帰るから、また今度ね?」
「ん。……あ、待った待った。忘れるとこだった」
にとりは作業を中断して、机の引き出しを開け、がさごそとまさぐってから、一枚の券を取り出した。
水色がかった薄い紙で、表面についた白い粒が、電灯の光に輝いている。
「はい、これ。あげる」
「なんですか?」
「『カッパピアーウー』の無料チケットさ。しかも先行公開入場可能のプラチナチケット」
にとりはニッと笑って、自慢げに説明を始めた。
大型屋内外プール施設『カッパピアーウー』。
流れるプールや波のプール。ウォータースライダーにジャグジープール。その他遊び心満載のプールに加えて、温泉やサウナ、休憩所やレストランも完備。
山に住む神様、洩矢諏訪子が秘密裏に企画し、工事を進めていたそんな一大アミューズメントパークが、三日後に、この近くで開かれるというのである。
大人から子供まで、妖怪から神様まで、誰もが満足できるレジャースポットだとか。
「実はここだけの話、ほとんどのプールは、私のアイディアが使われているんだよ。昔から水をどう操るかっていう研究はしていたから、それが役に立ったわけ。で、その報酬の一環として、無料チケットを何枚かもらってね」
「………………」
「私はフリーパス持ちだし、一人でチケット何枚も持っていてもしょうがないし、橙にあげようと思って。いつも実験に付き合ってもらってる御礼だよ。取っといて」
橙はしばらくチケットの表を見つめていたが、やがてそれをにとりに返そうとした。
「にとりさん、私これいりません」
「ん? 何で?」
「私、泳げないんです。『式』が剥がれちゃうし、水が弱点だから……』
その答えに、にとりは大きく目を見開いて、口をぱくぱくと動かした。
ついで「あちゃあ」と頭を両手で抱えこむ。
「……そうだった。すっかり忘れてた。あんたそう言えば、水がダメだったんだね」
「はい。でも気にしないで。だって、泳げないのは昔からだから」
橙は苦笑いして、チケットを持つ手を伸ばしたが、頭を抱えたままの河童は、それを受け取ろうとしなかった。
「まずった……ああどうしよう……だからあの子ら……」と、呻いている。
「にとりさん、どうかしたの?」
「……ごめん橙。謝らないといけない。実はその券は、もうあんたのお友達に渡しちゃってるの。ほら、妖精のチルノとか、蟲っ子のリグルとかの四人に」
橙の心臓が、わずかに跳ねた。
「今思い出すと、あの子達にそれ渡した時も、なんていうか微妙な顔してたんだよね……あれはきっと、あんたが水が苦手だってこと知ってて、後ろめたかったんだ。ああ、やっちゃった……」
「にとりさん、それいつのこと? 金曜日よりも前ですか?」
「えーと、そうだね。四日前かな」
「やっぱり……」
橙は二日前の出来事を思い出した。
実はその日は、リグルと人間の里巡りをしていたのだが、それまで楽しく過ごしていたのに、帰り際の彼女の挨拶が、なんだかぎこちなかったのだ。
何か言いかけて、やっぱり諦めてしまった、そんなそぶりだった。
その時は、橙も彼女が何か隠しているとは思っていなかったし、気のせいだと考えていたけど、何だか変な感じは残っていたのである。
あのリグルの後ろめたそうな表情は、にとりがその前に橙の友人達に配ったという、プールのチケットが理由だったのだ。
きっと、あの後もチルノ達と相談したのだろう。橙にプールのことについて話すか、内緒で行くか、諦めるかどうかについて。
果たしてみんなは、どれを選んだのだろうか。それとも今も悩んでいるのか。
椅子から立ち上がっていたにとりは、壁の方に固まった様々なアイテムを漁りながら、
「この潜水服はちょっとゴツすぎるよね。そもそも入場させてくれないだろうし……」
「にとりさん……」
「開園まで後四日、プラチナチケットが使えるのはあと三日か。コンテストは諦めて、もっと軽いの作ってあげてもいいけど、間に合うかなぁ……ん? 何か言った? 橙」
「やっぱり、このチケットください」
橙は口を真一文字に引き結び、『カッパピアーウー』のチケットをスカートのポケットにしまい込んだ。
「私、決めました。藍様に頼んで、特訓します。泳げるようになってみせます! みんなを悩ませたくないから。だから、にとりさんも気にしないで、コンテストにキュータ君を出してください!」
「キュータ君じゃなくて、キュウリガードのウリードさん……あれ、どっちだっけ」
「どっちでもいいから、このチケットちょうだい! それと、チルノ達に会っても、このことは内緒にしてね」
きちんと念を押しておく。
にとりはそのこころを読んだようで、愉快そうに口の端を曲げた。
「なるほど。秘密の特訓で、あっと驚かせようってわけね。いいね、そういうの好きよ私」
「えへへ」
「それに橙が水が大丈夫になったら、その時はお楽しみに。河童のにとり様が、いつでも水泳を教えてあげるさ」
「はい、その時はよろしくお願いします!」
橙はがしっと、にとりと腕を組み合わせて、元気に約束した。
○○○
「……でも、後から考えたら藍様と紫様に訳を話すのが怖くなっちゃったんです」
事情を語り終えた式の式は、両肩をしょんぼりと落としていた。
「友達と遊びたいから、水が大丈夫な術を覚えたいなんて、そんな理由じゃ許してくれないと思ったから……だから話辛かったんです」
橙はほんの一瞬だけ、ちらりと藍の方を上目遣いで見て、すぐに慌てて首を振って、また目を伏せた。
藍はじっと、うなだれる橙の頭の辺りに視線を置いていた。
呼吸三つほどの後、廊下に立つ主の方を向く。
紫は式の視線を受けて、鷹揚に頷いた。それを確認し、藍の頬に微笑が浮かぶ。
「橙、顔を上げなさい。お前の理由はよく分かった」
「………………」
「今日はもう暗い。明日の明るい時間から、早速特訓を始めよう」
「…………え?」
と言った口のままで、式は止まる。
「あと三日で水を克服できるかは、橙次第だ。楽な道じゃないわよ。いいね」
「藍様!」
橙は喜び溢れる顔で、主と主の主を交互に何度も見る。
あさっての方角を向く紫は、「サイズの合う水着を探してこなきゃねぇ」などと、とぼけた口調で独り言をこぼしていた。
「藍様、紫様! 本当にありがとうございます!」
飛びついてくる式の頭を、藍はよしよしと撫でてやった。
こうして、八雲家における橙の水泳の特訓が、始まることになったのである。
2 いざ特訓の場へ
山間の林に囲まれるようにして、その湖は存在した。
雲の切れ目から注がれる朝の日光を、青い湖面が受け止め、虫の音の混じる微風の下で、時々魚が音を立てて跳ねる。
暦は長月に入ろうとしているのに、幻想郷から残暑が引く様子はまるで無かったが、ここは高地にあるせいか、比較的涼しかった。
そのうえ、海に面していないこの地方では、川や湖といった水場は、避暑の際は種族を問わず重宝されるのだが、ここは存外空いていて、泳ぐ人影も見当たらない。
「うーん、絶好の水場ね」
と、岸に立って額に手をかざすのは、境界を操る大妖怪、八雲紫である。
ただし今日の彼女は普段着にしているイブニングドレスでも、フリルのついた道服姿でもなかった。
紫の布地に黒のレースとリボン。派手で色気があり、なおかつ可愛さも交えた、大胆なラインのビキニである。
豊満な乳も腰のくびれも、抜群のプロショーン。腰まで波打つ金髪を手にしたパラソルで影にして、湖を眺める彼女は、絶景とマイナスイオンにご満悦な様であった。
しかし機嫌が良いのは、そんなスキマ妖怪だけなようで。
「……というか、何でここを選んだんですか」
と、聞くのは、彼女の後ろに控えて立っている、九尾の式の八雲藍である。
彼女もいつもの道服ではなく、水色の地に白のラインが入った、スポーツタイプのモノキニに着替えていた。
露出度は低めでデザインもシンプルではあるが、後ろが尻尾を邪魔しないフォルムとなっているので都合がよい。
紫は湖面からその式の方に横顔を向け、
「誰も見ていない場所で練習したい、って橙が言うんだから、ここが一番だと思ったのよ」
「一番ですか」
「ええ。眺め良好。水は透徹。日差しも強くなく、広さも申し分なし。まさに絶好の避暑地じゃない」
「しかしここは守矢神社の裏の湖で、妖怪の山の中腹なんですよ」
藍は四方を見渡しながら、穏やかならぬ口調で述べた。
そう。彼女達が今いるのは、幻想郷は妖怪の山に構える、守矢神社の巨大な裏池。かの神様達が外の世界から持ってきた諏訪湖の一部なのである。
山の大部分は天狗の縄張りであり、彼らの侵入者に対する警戒心ときたら、まさに営巣期の親ガラスのごとし。
そして唯一居住を許されている守矢一家は、二柱の神様が住まう幻想郷有数の派閥であり、神社周辺はこの湖も含めて、神聖にして侵すべかざる場所なのである。要するに、のんびりと水に戯れるには、ちょっとおっかないスポットなのだ。
しかし紫の方は、全く恐れた様子をみせず、
「お友達に見られてはいけない。となると、霧の湖も川もだめ。かといって、外の世界というのもそこまで手軽に利用していいものではない。というわけで残るはここ。ここなら神徳で守られているから、誰にも邪魔されることはないでしょうし」
「確かに条件としては最適かもしれませんが……」
「何か不満でも?」
「私が知りたいのは、その神徳の持ち主達にどう了解を取るつもりなのか、ということです」
「それは今から行く交渉次第。さ、橙も来なさい」
「はい、紫様」
と返事をした最後の一人は、式の式の橙である。
薄くフリルのついたワンピース姿。オレンジの地に水玉模様をつけた可愛らしいデザインの水着は、紫が用意したものであった。
藍達の他に知り合いがいないとはいえ、大きな湖という強烈な水場を前に緊張しているらしく、さっきから主の藍の手を握ったまま離そうとしない。
「大丈夫よ橙。貴方のその可愛い姿を見たら、あの神様達だって許してくれるはずよ」
きょろきょろと落ち着かない彼女の頭を、紫は撫でつつ言った。
主の言葉に、藍は訝しく思って聞く。
「紫様。まさか正装じゃなくて、水着で頼みに行くのは、それが理由ですか」
「ふふ、藍ももっと色っぽい水着にすればよかったのに。少々味気ないわよそのモノキニ」
「私は年甲斐もなく派手で少女趣味な水着を着てはしゃいだりするような趣向は持ち合わせてません、という発言を引き出してお仕置きを企む誘導尋問ですね」
「……………………」
「その手は食いません。よくお似合いです紫様」
「そこまでのたまったら、もう言ったも、同・然・よ」
「いだだだだ!」
生意気な獣耳を横に引っ張りながら、紫は開いたスキマへと入り、橙も慌ててそれに続いた。
○○○
世の理に介入し、空間を自在に渡ることのできる能力、スキマ。
一寸だろうと千里だろうと、スキマ妖怪である八雲紫は、等価にすることが可能なのである。
そんなわけで、主に連れられてやってきた場所、出口のスキマに浮かび上がる光景に、藍は意外に思った。
てっきり守矢神社の前かと予想していたのだが、実際は同じ湖の岸辺だったのだ。
しかもさらに藍を驚かせたのは、
――向こうも水着?
その場にいた三者もこちらと同じく、いずれも水泳に臨む格好だったのである。
まず目立つのは、一番背の高い女性。赤紅の上下の水着を、主に匹敵する体型で着こなしている。
伸びた青紫の髪を後ろで縛っているため、前と印象が異なっているが、間違いなく守矢神社の神様、八坂神奈子であった。
対照的に低い背格好で目玉のついた大きな帽子をかぶっているのが、同じく神様の洩矢諏訪子。
彼女はなんと紺のスクール水着である。3-2東風谷と書かれているのは、外の世界から持ち込んだものだろうか。
別々の意味で迫力のある二人、その後ろにいる緑色の髪を持つ人間が、守矢神社の風祝、東風谷早苗だった。
彼女も、いつもの足まで隠れた巫女服ではなく、青でふちを染めた白のビキニ姿である。
どうやら今から三人で泳ごうとしていたらしき守矢家に、八雲家の代表は図々しい態度で挨拶した。
「こんにちは、本日はお日柄もよく」
「いらっしゃい。こんな格好で失礼……といってもお互い様か」
苦笑して挨拶を返してきたのは神奈子だった。
オンバシラもしめ縄も背負っていないが、フランクな態度と格好とは裏腹に、十分すぎるほどの威圧感を漂わせている。
いきなり現れた侵入者に、諏訪子も含めた二柱の方は驚いた様子もない。もしこれが逆の立場、例えば藍が八雲の屋敷で、一家行水しているところに、彼女達がいきなり現れた場合、同じく冷静でいられるかどうか怪しかった。
ただ一人、正直に驚いていた守矢の巫女が、
「貴方は確か……八雲紫さん?」
「ええ。この前の宴会以来かしら、東風谷早苗さん。うちの式達を紹介するわ」
主が言い終わるのに合わせて、藍は水着姿で丁寧に挨拶した。
「八雲藍です。以後お見知りおきを」
続いて、藍が促すまでもなく、橙がいつもより幾分抑えた声で、
「はじめまして、藍様の式の橙です」
と、挨拶する。
二人の態度にかしこまったのか、それとも橙の姿に警戒心が緩んだのか、向こうの巫女の方も頭を下げて挨拶を返してくれた。
「東風谷早苗です。守矢神社の風祝をしています」
「スキマ妖怪に、九尾の狐……そっちの小さい子も、前にここに来たことがあったね」
「実は今日この橙に、泳ぎを教えるつもりですの」
「へぇ……奇遇ね。うちの早苗もこれから泳ぐ練習をするのよ」
「それはそれは奇遇なことですわ」
「ふぅん」
八坂神の目付きが、蛇のように探る目となり、口元に浮かべた笑みが妖しく深くなった。
その側にいる洩矢神は、藍に対して何やら意味ありげな視線を投げかけている。
橙を見る早苗については、単に興味津々なだけで、警戒しているようには見えなかったが。
「察する限り、あんた達がここに現れたのは、この湖を泳ぎの練習に使わせてくれってことかしら」
「そういうことですわ。よければ、向こう岸の一角を貸していただけません?」
「気のせいか、何か企んでいるようにも見えるし、何も考えていないようにも見える」
――同意。
八坂神の的確な指摘に、藍は大きくうなずきたくなった。
何か考えているようで、何も考えていなくて、やっぱり何か考えているというのがこの主である。
友好的な口調も、パラソルを手にした水着姿も、相手次第では喧嘩を売っていると受け取られてもおかしくはないが、それにしては間抜けな構図である。
単に泳ぎに来ただけかもしれないし、それを狙いにした何かのダミーの可能性だって捨てきれない。
主の考えは読めなかったが、せっかくの家族団欒の機会なのだし、できれば平穏無事に過ぎてほしいと切に願う藍であった。
さて、紫の芝居じみた笑顔を、神奈子も不敵な笑みで見据えていたが、しばらくして横の洩矢神に視線を投げかける。
彼女は小さく肩をすくめて、
「別に追い返す理由もないわね。我が心は諏訪湖よりもずーっと広い」
寛大な一言に、緊張していた空気が和らいだ。
紫は日傘をくるりと回して、三者に背を向ける。
「ご協力感謝いたします。それではお邪魔にならぬよう、この場は失礼しますわ。後ほど少しばかりのお礼を差し上げることも考えています」
「期待してるよ。それじゃ、何かあったらまた声でもかけとくれ」
神奈子の言葉を受けて、八雲の三人は再びスキマへと戻った。
スキマ空間の中で、藍は前を行く紫に話しかけた。
「こころよく貸してくださってよかったですね。正直、何か一悶着起こったりしないかと、冷や冷やしましたよ」
「その時はその時。向こうも私達と同じ状況だったみたいだし、ラッキーね」
「ラッキーというよりも、紫様は守矢の人達の事情を、あらかじめ知っていたようにも見えたんですが……」
「さぁ、何のことかしら」
とぼけた返答をする主に、藍はなんとなく嫌な予感がおさまらない。
「また変なこと企んでるんじゃないでしょうね」
「たまにはこの三人で一泳ぎしたいだけ。だから昼間のこの時間に付き合ってあげてるのよ。それでも不満なのかしら?」
そう言われると、黙って引き下がるしかないのが、藍の弱いところである。
いつもそうやって納得した次の間には、酷い目に遭っているので、油断だけはしたくなかったが。
と、くいくい、と手を引かれる感触に、藍は式の方を見た。
「どうしたの橙」
「さっきの早苗っていう人、あの人も泳げないんですか?」
「そうかもしれないね。泳ぐのが苦手なのは橙だけじゃないし、ひょっとしたら私達以外にも他の水場で、練習している者達もいるかもしれない。あの『カッパピアーウー』とやらは楽しそうだったからね」
「そうなんだ……」
橙は泳げないのが自分一人じゃないということを知って、少し安心したようである。
今は主達に進言した時と同じく、特訓に臨むやる気が、表情に出ていた。
藍はふふふ、と微笑して、
「橙とあの風祝、どっちが早く泳げるようになるかな」
「負けません! 私、頑張りますよ藍様!」
「よしよし」
和やかに会話する二人の式に対し、前を行く紫は胡散臭い笑みで、ぽつりと呟いた。
「果たして、すんなりいくかしらねぇ」
3 八雲一家の水泳特訓
初めの岸に戻ってきて、入念な準備体操を行った後、早速八雲一家による、橙のための水泳の授業が始まった。
まずは、術に関するレクチャーである。
「橙、知っての通り、私達式は水が弱点だ。水をかぶれば『式』が剥がれ、単なる妖怪へと戻ってしまう。雨に川、そしてこの湖もそう。この世が水で溢れていることを考えれば、その性質は不便な弱点としかいえない。けれどもそれは自然の理であり、憎むのではなく、敬わなくてはならない弱点であることを忘れてはいけない」
講師を務める藍は、湖を背にして立ち、至極真面目に話を聞く橙に、丹念に説明する。
「とはいえ……不便なものは不便だ。だからその理を誤魔化すための術が無いわけではない。現に私は遙か以前、主である紫様より、その術を伝授されている。今の橙であっても、決して使えぬ難易度ではない」
ちなみに、その主である紫は、今回も式のやることに任せるようにしたらしく……すでに自由気ままに湖を泳いで、というより水面をラッコのように仰向けに漂っていた。
いまいち光景的に締まらないが、藍は気にしないことにする。
橙は『式』が水で剥がれないようにする術が、自分でも使えるレベルのものであると知って、俄然やる気が湧いてきたようだった。
しかし、続く説明が、そんな式の笑顔を吹き飛ばすことになる。
「ただし、この術を使うにあたっては、大事な条件がある。それは、『水を恐れてはいけない』ということだ」
「えっ!?」
橙は絶句して、水着から出た尻尾の先の毛を、ざわ、と跳ねさせた。
「この術は式神の設計図の役割を果たす『式』を一時的に書き換えて騙す術と、水が妖猫である橙の肉体を必要以上毒さぬように防御する術を組み合わせてできている。どちらもかかる術者が、一定の集中力を保っていなければならない。恐怖の限界に達したり、錯乱状態に陥ったりして、嘘をついていることが『式』にバレてしまえば、術の効果はたちまち消えてしまうことになる」
「………………」
「恐いか? 無理もない。式としてだけではなく、妖猫としても水を苦手とするお前の恐怖は並大抵のものではないだろう。しかし、その恐怖を克服しなくては、術の会得は不可能」
藍は一枚の札を取り出した。それに小さく何かを唱え、橙の耳にはまった丸飾りにしっかりと結びつける。
すぐに効果が現れ、式の体を一瞬色の付いた暖気の幕のようなものが包み、透明になった。
彼女は驚いて、自分の両手を広げて見つめている。術が発動しているのを体感したらしい。
「維持は自然にできてるね。よろしい。では早速、本番へと向かおう」
藍は湖へと体を向け、すたすたと側まで歩き、無造作に足を踏み出した。
「あ」
橙の口から、声が漏れた。
わかっていても、式である藍があっさりと水に浸かっていく光景は、インパクトがあったようである。
大きな九つの尻尾が水に浸かり、腰ぐらいの深さまで来て、藍は岸を向き、両腕を少し広げた。
「さぁ、橙。少しずつでいいから、ここまで来てごらん」
「は、はい」
橙はぐっと口元に力をこめて、一歩、一歩と湖に歩み寄った。
風が起こすさざ波が、土と砂に混ざり合う境界まで来て、彼女の足はぴたっと止まり、動かなくなる。
握っていた拳を、さらに強く固め、何か水中の敵と対峙するように、湖を睨んで震えていた。
藍は催促したりせずに、黙って待ってあげた。
昔お風呂の時間に逃げだした時は、無理矢理首根っこを掴んで湯船まで持っていったことがあったが、今日は彼女の自立心に期待するのが正道。
それに、真新しい水着に着替えて、水を前にして逡巡している式の姿は、主としては何ともいえない愛くるしさを醸し出していた。
――外界のビデオカメラ、持ってくればよかったなぁ……紫様に頼んで今出してもらおうかな。
と、心中でにやける藍の視界に、その紫の姿が入ってきた。
彼女は抜き足差し足で、橙の背後へと移動し、人差し指を一つ立てて、背中の上からつつー……っと。
「うにゃにゃにゃにゃにゃにゃー!?」
突然の刺激にパニックになった橙は、両腕をぐるぐると回してバランスを保とうとしたが、耐えきれず湖に片足をつけてしまい、「きゃー」とまた悲鳴を上げて、四つ足で二十メートル程向こうまで跳んで逃げてしまった。
「ゆ、ゆ、紫様! いきなり脅かさないでください! 全然気づけないからびっくりしました!」
「あら失礼。ついからかってみたくなる背中だったから」
向こうから抗議してくる式の式に対し、紫は悪びれた様子もなく、指で宙に字を書く仕草をした。
その彼女の背後、つまり湖から、薄暗~い声がかけられる。
「……紫様~」
「あら、どうしたの藍。そんな渋柿みたいな顔をして」
「私に任せると仰っていたじゃないですか。どうして茶々を入れるんです」
藍は腰まで水に浸かった状態で、ジト目の視線を紫に注ぐ。さっきまでの明るい表情とは、えらい差である。
対する紫の方は、妙にすがすがしい口調で、
「つい衝動的に悪戯してみたくなるってことあるでしょう」
「……………………」
「それに橙が緊張しているみたいだったから、横からほぐしてあげたのよ。勘弁してちょうだいな」
「…………仕方がありませんね。でも次やったら承知しませんよ」
「あら、『せっかく水で待つ自分に向けての橙の貴重な一歩だったのに、台無しにしやがってこのスキマは』とでも言うんじゃないかと思ったわ」
「わかってるんなら自重してください!!」
藍がたまらず怒鳴ると、紫は「ごめんあそばせ~」と間延びした腹の立つ声で、水泳に戻っていった。
それを確認し終えてから、向こうへと退避した橙に、藍は元の笑顔を作って、
「さぁ橙。戻っておいで。一度足が水に入っても、大丈夫だったろう。その調子だよ」
「わ、わかりました」
橙は駆け足で、湖まで戻ってきた。
本当は術の効果が切れてもおかしくないくらいの騒ぎっぷりだったのだが、すぐに水から足を引き抜いたことで助かったらしい。
藍はあえてそのことを告げずに、もう一度式の勇気に期待する。
「心の準備はできたかな。一歩ずつ、慌てずにね」
「はい。い、行きます藍様」
岸に立った橙は、片足をそろそろとあげて、ぐっと息を止め、ゆっくり湖へと踏み出した。
ちゃぷん、と湖面に波紋をつくり、脚が沈んでいく。橙は逃げなかった。顔から緊張は取れていなかったが、『式』も剥がれていない。
成功である。
「よくできました。じゃあ次は反対の足だ」
「はいっ!」
橙は大きく返事をして、もう片方の足を重々しく持ち上げ、徐々に湖へと差し入れていく。
緩慢な動作ではあったが、結果見事、両膝の下まで、橙は水に浸かることに成功していた。
「藍様、私できました!」
「いい調子ね。でもまだまだよ。そこから少しずつでいいから、進んできなさい」
「はい……」
橙は湖の中をすり足で、約十歩離れる藍の位置へと前進を始めた。
地上での素早さからは想像し難い、数センチメートル刻みの移動だったが、徐々に深くなっていく湖に対して、ペースを一定に保ったままだ。
順調な道程と式の頑張りに、藍はほくそ笑んでいたが……。
途中で、橙の足が、また止まってしまった。
「どうしたの?」
「あ、あの……藍様ぁ」
橙は困ったように、首を後ろに向けたり下に向けたりして、手をすり合わせ、もじもじし始めた。
藍は不思議に思い、少し立ち位置をずらしてみる。
するとすぐに、橙が何に困っているのかが分かった。
今、橙の立っている場所は、ちょうど彼女のオレンジの水着の裾が、水に浸り始めるくらいの深さである。
つまりそれ以上進むと、彼女の大事な急所である尻尾を、二つとも水に入れなければならないのだ。
しかしその動きを観察する藍は、吹き出しそうになるのを、腹に力を溜めてこらえなくてはならなかった。
橙の黒い尻尾達は、真っ直ぐに立ったり、仲良くたなびいたり、くにゃりと曲がってハート型を作ったり、くるくる絡まってツイストドーナツになったり。
硬直する本体とは違って、実に活発な仕草をして、彼女の内面を表現していた。
――ああ、やっぱりビデオカメラ用意するんだった。今から主に頼んでも遅くはないわよね。
と、頬を緩ませて悩む藍の視界に、また余計なものが映った。
うろたえる橙の背後の水面に波紋ができ、そこから、ぬっ、とリボンのついた水泳キャップをかぶった金髪妖怪の顔が浮上したのだ。
彼女は水中から水のしたたる手を出して、指をわきわきと動かし、くねくね曲がる尻尾の一つを、しっかり掴んで、
「にゃぎゃー!!!」
橙の体が水中から垂直に跳び立ち、再び安全な岸に向かって猛ダッシュ。さらに遠くまで後退してしまった。
尻尾についた水滴を慌ただしく拭きつつ、悲鳴混じりの声で抗議する。
「紫様! 紫様でしょ今の! 悪戯しないでください!」
「あら違うわ。私は泳いでいただけだもの。きっと可愛い妖精さんの仕業よ」
「……ゆ~か~り~さ~ま~」
水面からニコニコとした顔を見せていた紫に、どんよりした声がかけられる。
「あら藍、どうしたのかしら。そんな腐ったゴーヤみたいな顔をして」
「してません。それより、さっき言ったこともう忘れたんですか。次に邪魔したら承知しない、と」
「覚えてるわよ。でも正式に条約を結んだ覚えは無いもの」
「どんな条約ですか。八雲の式達不可侵条約とかがお望みですか」
「冗談よ。だからそんな殺気のこもった視線は止めてちょうだい。お肌が荒れちゃうわ」
むしろ荒れまくってしまえ。と、藍は心中で呪ったが、なんとか声には出さず、身を焦がす苛立ちに耐えきることに成功した。
主の体を離れた位置まで、無表情で泳ぎ運ぶ。
「あら、ご主人様をまるで邪魔物みたいに」
「本当に邪魔なんです。約束してください。もう今日は一切橙に手を出さないと」
「はいはい。わかったわ」
紫の返事を聞き届けた藍は、元の位置まで戻った。
再度気を取り直して、練習スタートである。
「さぁ橙。もう一踏ん張りだ。尻尾が水についても、ケガしたりはしないよ。ほら、私の尻尾だって大丈夫」
藍は体を横にして、水の中で咲くように広がる、金色の尻尾を橙に見せた。
その時、水面から白い手が伸びて、九つのうちの一つに触れようとする。が、ぴしゃりときつく叩かれて、不満そうに水中に戻っていった。
「橙ー。おいでー。水の中は涼しくて気持ちいいわよー」
藍はこめかみを引きつらせながらも、鉄の笑顔を作って、式を優しく呼んだ。
橙は返事をして、また岸まで戻ってくる。
水中にゆっくり進み入り、尻尾に水がつく深さまで来て、やはり躊躇していたが、程なく片方ずつそろそろと浸し、ついには水位が腰の位置間で届くところまで到達した。
「ら、藍様~。恐くないけど、恐くなっちゃいそうです」
「大丈夫大丈夫。さぁ、あとほんの二歩だ」
「で、でもそこまで行ったら、顔に水がついちゃいます!」
藍のいる場所は、その胸の位置まで水位がきている。
橙にとっては、鼻に水がつくかどうかというところである。
「もし、もし足が上手くつかなくて、溺れちゃったら……!」
「橙。私がここにいるということを信じなさい。私が橙を溺れさすと思う?」
「いえ……でも……」
「大丈夫。今の橙ならきっとできる。あとほんの少しで、今日の目標の一つに達成できるよ。さぁ、力を抜いて、勇気を出して……」
藍の自信に感化され、橙の弱気がおさまった。
再び、息を凝らして、少しずつ足をずらし、腕を開いて待つ主に向かって、踏み出す。
しかしその時!!
横から飛んできた細い水流が、橙の横っ面に命中した!!
「きゃー!!」
「何奴!?」
藍は血相を変えて、水が飛んできた方向を睨む。
そこには、頭に水中ゴーグルをつけて、ウォーターガンを構えるスキマ妖怪の姿が……。
「何しとんじゃこらぁ!」
犬歯をむき出しにして怒鳴り、藍はザバザバと紫に詰め寄った。
水鉄砲でなおもこちらをぴゅんぴゅん威嚇してくるスキマ妖怪から、乱暴にそれを奪い取り、
「邪魔しないって約束した直後に、何子供じみた悪戯してんですかあんたは!!」
「あら、私は『手を出さない』って約束しただけよ。『ウォーターガンで橙を撃たない』って約束した覚えはないわ」
「いつの時代の言い訳ですか! というかどっから持ってきたんですかこれ!」
「まだまだいっぱいあるわよ~」
紫はスキマから次々と、水用のレジャー用品やら玩具やらを取り出していく。
ビーチボールに浮き輪、サーフボードにシャチの乗り物。
藍はそれらを残らず振り払って、
「いい加減にしてください! また橙が逃げちゃったらどうするんですか! 邪魔するだけだったら、帰って寝ててください!」
「まぁ、人がせっかくこの時間に起きて湖に連れてきてあげたのに。そういう意地悪なこと言う子には、ビデオカメラも出してあげな~い」
「なっ……!?」
一瞬怯んだ式に、紫はさらに追い討ちをかけるように続ける。
「ふふふ、出してほしいのかしら? 『ごめんなさいゆかりん様。貴方は常に正しくて美しくて服の趣味が良い十七歳です』って言うなら、考えてあげてもよくってよ」
ニタニタと笑うスキマ妖怪に、藍の堪忍袋の緒がぷっつんする。
世にも恥ずかしい台詞を口にするかわりに、手刀を大上段に構えて、
「アポー!!」
「うぺぃ!?」
式に渾身のババチョップを喰らい、紫は肉体的にも精神的にも深い衝撃を受け、なすすべもなく昏倒した。
首尾良く主を仕留めた藍は、ざぶざぶと水面をかき分けて戻り、
「橙。特訓を続けよう」
「はい……」
汗を一筋流しつつ返事する橙の視界の端では、頭にたんこぶを作って土左衛門よろしく漂う、主の主の姿があった。
○○○
湖に来てから一時間ほど経って、空から雲が次第に晴れていき、気温も高まってきた。
湖面の色もより鮮やかになり、岸辺には水鳥たちが集まってきていて、時々小さな水の妖精の姿もちらほら見える。
そんなのどかな光景の中、水着姿の妖狐と化け猫は、ビーチボールを使って遊んでいた。
「それー!」
「よっ、と」
「あ、あ、わっと!」
「お、よく返した。これはどうかな?」
飛んできた一抱えほどもあるカラフルな玉を、藍は軽く打つ。
風で不規則に揺れるそれを、橙は打ち返すために、二の腕まで浸かる湖の中を歩いて移動していた。
「藍様ー」
「なーに?」
「紫様も混ぜてあげませんか?」
藍はその言葉を聞いて、笑顔で橙にビーチボールを打って返す。
ただし無言。柔らかい玉に、何か容赦のないプレッシャーが込められているのを感じ取り、橙は怖くてそれ異常追求できなかった。
ちなみに二人がいる場所は、紫が浮いている位置とは大分離れてしまっている。
彼女はまだ、うつ伏せで湖に浮かんだままだ。
あれじゃあ息だってできないと思うのだけど、橙はやはり、そのことについて藍に質問できなかった。
「藍様、水の中ってすごく動きにくいです」
「そう?」
「だって、足が邪魔されるから走りにくいし、体が水についてると飛ぶのも上手くいかないし、水は重たいし……」
「慣れればそのうち、大丈夫になるよ」
藍はそう言って、ビーチボールを打つ。といっても、ただ単に式と戯れているわけではない。
この遊びには、橙を水に慣れさせるため、そして水の中での動き方を体得させる狙いがあるのだ。
見込み通り、最初は表情が強ばっていた橙も、自然な笑顔が浮かぶようになってきていた。
次の藍の目標は、口に出さずとも顔を水につけることを明らかに嫌がっている橙を、どうにかして慣れさせる、ということである。
今後の予定を組み立てつつ、勢いよく返ってきたボールを、藍は風を読みながら打ち返した。
「あっ!」
藍の計算通り、ボールの方向がわずかにそれる。
橙は行く先を追って、反射的に、ざばん、と水から跳んだ。
しかしその一帯は、背の高くない彼女の足がつかない深さである。
ボールを受け止めてから、橙はそれに気がつき、顔を青ざめさせた。
「ら、藍様! 助けて! 足がつかない!」
「落ち着いて橙! 足を動かし続ければ、溺れずに浮けるよ!」
「えっ!?」
橙は水中にある自分の足を見た。
「あ、そうか! こうやって一生懸命、足を動かせば沈まないんですね!」
「そうそう」
素直に橙は喜んでいる。地上を毎日のように駆けることで鍛えられた足ならば、水の中の彼女の軽い体を浮かせることは難しくはなかった。
しかし立ち泳ぎができた程度では、泳ぎを体得し、水を克服できたとは言い難い。
今の橙にはそれくらいが間に合っているのかもしれないが、例の大型プール相手に通用するだろうか。
「あれ、藍様。なんだか湖が変です」
「おや?」
藍は思考を中断する。
確かに式の言うとおり、湖の様子がおかしかった。風が強くなったわけでもないのに、さざ波が高くなってきているのだ。
しかも水を伝わるこの神々しい波動は、対岸からやってきているようである。
――向こうの神様達が、何かしているんだろうか。
藍は目を凝らして、数百メートル先の岸を見つめた。
顔から血の気が引いた。
「……橙! 急いでこっちに来なさい!」
「えっ!?」
「早く!!」
藍が鋭い声で怒鳴り、橙は慌てて水の中を何とか漕いでやってきた。
その背後から、湖の水が巨大な波となって襲いかかってきた。岸に近づくに連れて大きくなる巨浪に、振り向いて気付いた橙は、大きな悲鳴を上げる。
「藍様ー!!」
「くっ……!」
藍は御札を取り出して、素早く呪文を唱え、術を発動させた。
「幻神『飯綱権現降臨』!!」
飛びついてくる橙を抱きとめると同時に、藍の法力による結界が発動する。
その上から、叩きつけられる大瀑布が、複雑な指向のエネルギーを浴びせかけてきた。
続く引き波の破壊力にも、藍の結界は耐え抜き、水が再び唸りながら、湖へと帰っていくまで持ちこたえる。
轟音が引いていき、一難が去って、藍は抱えていた存在に聞いた。
「怪我は無い? 橙」
「び、びっくりしました……」
ひっつく橙の体は、小刻みに震えている。
彼女の耳から取れかかっていた御札に、藍は妖力を継ぎ足してやった。
今のはただの波ではない。こちらに迫ってくる前に、一瞬地面を通じて感じたあの衝撃は、
「津波か……。まさかこんな所で味わう羽目になるとは」
「藍様……」
水に慣れない橙にとって、今のは相当ショックな体験だったらしく、まだ怯えて藍の体を離れようとしない。
いくらここが借り物とはいえ、せっかく順調に進んでいた水泳の特訓に対し、酷い横やりだと、藍は憤った。
「橙、岸に上がって休んでいなさい。私はちょっと、向こうの人達と、話をしてくる」
そう言い残して、湖から上がって藍は飛んでいく。
橙は水に浸かったまま、遠ざかる主の姿を寂しく見送った。
「……あ、そうだ紫様!」
橙は湖の中を、つま先立ちの、けんけん飛びで移動して、主の主を探し始めた。
今の大波に巻き込まれて、大変なことになってるかもしれないと思って。
すぐに紫の姿は見つかった。さっきまでいた場所とはまるで違う地点に、彼女の体は移動していた。
相変わらず、水着のラインが通った白い背中を見せて湖面に突っ伏したまま、ぴくりとも動かない。
まさか死んじゃうようなことは無いと思うけど、しかし息も出来そうにないこの状態は、見ている方が心配になる。
橙は水に濡れた紫の背中を揺さぶった。
「紫様、紫様。大丈夫ですか?」
「あら、平気よ。くすぐったいわ橙」
という声が、橙の『斜め後ろ』から聞こえてきた。
…………。
「…………はいっ!?」
慌てて振り返ると、何とそこには。
「ゆ、ゆ、紫様ーー!?」
先程の大波以上の衝撃、魂が口からぶっ飛びそうになるほど、橙は驚いた。
何と、八雲紫の『顔』だけが、スキマにすっぽり嵌るように空中に浮かんでいたのだ。
これは恐ろしい。
「どどどどどどういうことですか!?」
「これぞスキマ泳法よ。息継ぎのために顔を上げなくても済むというわけ」
橙は慌てて、もう一度紫の本体の方を確かめる。
湖に水死体のごとく浮かんでいた体は、顔までしっかりと水に浸かっていた。
しかし彼女は、顔の前でスキマを展開させることによって、いつまでも呼吸せずにその体勢を維持することが可能なのであった。
「お化粧も剥がれないし、のんびりと水に浸っていられるし、一石三鳥の泳法よ。ただ、ずっとこれだと背中だけ焼けちゃうから、次は仰向けにならなきゃね」
「………………」
「あら橙。どうかしたのかしら?」
「いえ、なんでもないです……今の波、凄く怖かったですね」
「そうねぇ。せっかく良い気持ちで眠っていたのに、起こされちゃった」
その程度で片付けてしまう辺り、やはり紫様は凄い妖怪だ、と橙は色々な意味で感心する他なかった。
「あの……私、紫様に聞きたいことがあるんですけど……」
「何でも聞いてちょうだいな。橙なら遠慮はいらないわよ」
「その……そのままだと話しにくいです……ちゃんと話したいです」
凄いとは思うけど、いくら優しい主の主であっても、空中に浮く顔に話しかけるのは、気が引けるというか恐かった。
浮遊する紫フェイスはニッコリ笑って、スキマを閉じる。と同時に、スキマ泳法中の本体が体を起こした。
「ああ、気持ちよかった。それで橙、どうしたのかしら?」
「顔に水がつかない術って、ありませんか?」
藍に内緒で用意していた質問を、橙はぶつけてみた。
紫はきょとんとしてから、ふふっ、と笑みを漏らす。
「へぇ。自分の弱点に気付いていたのね」
「はい……」
「でもスキマを覚えるには、橙にはちょっと早すぎるわね。他にも術が無い訳じゃないけど……それよりは橙が顔を水に自力でつけられるようになった方が、遙かに効率がいいわよ」
これは決して嘘ではない。
今こうして水に浸かっている時点で、橙はある程度妖力を使い続けると同時に、無意識に制御しなくてはならない状態におかれているのだ。
それが原因で飛行すらも上手くできないくらいなのに、これ以上術を重ねることになれば、いくらなんでも本人の負担が大きすぎる。
藍も当然、そのことを分かっているので、一番橙に無理の無いやり方を選んでいるのである。
という説明を、紫がしてあげると、橙はむしろ、別のことが気になったようである。
「あの、藍様が泳げるようになった時は、どんな感じだったんですか。紫様が、今日の藍様と私みたいに、教えてあげたんですか?」
「ええそうよ。でも私より、藍の方が教え方が上手いかもしれないけど」
「藍様も水が恐かったりしたんでしょうか」
「そうねぇ。でもあの子は割とすぐ泳げるようになったわね。そんなに教えることは無かった気がするわ」
「やっぱりそうなんだ……」
しゅんとなる式の式に、紫は続ける。
「がっかりしなくても、橙と藍の長所がそれぞれ異なっているのは自然な話。現にあの頃の藍より、今の橙の方がずっと足が速いわ」
「ほ、本当ですか?」
「ええ。あの子はちょっと鈍くさいところがあったし甘えんぼだったの。でもそれが可愛くて可愛くて……ああ、なんであんな風に育ったのかしら」
慨嘆する彼女は、「実力があるのはいいけど、小言は多いし、真面目一辺倒だし、冗談が通じないし」と、本人のいない所で文句を垂れ始めた。
こうした紫の藍に関する愚痴を、橙はたまに聞くことがあるが、きっと主の藍はそのまた主の紫に褒められたくて、真面目で立派な式になったんだと思っていた。それが逆効果になっているとしたら、なんだか二人とも可哀想な気がしたが、少なくとも藍は橙の成長を喜んでくれるし、いつも誇らしげに褒めてくれる。
だから、
「私は……早く泳げるようになって、藍様に褒められたいし、リグル達にも報告したいです」
「そう。私は面白いから、二人の姿を遠くから眺めさせていただきますわ」
「もー、紫様も一緒に泳ぎましょうよー。ビーチボールも楽しかったですよ。ひょっとして、動くのが嫌なんですか?」
「あら、藍が戻ってきたわね」
紫は話から逃げるように、絶妙なタイミングでそう言った。
橙も振り向けば、主の藍が岸を歩いてくるのが目に入る。守矢一家と話し終わって、帰ってきたのだろう。
「藍様~おかえりなさい」
陸に上がった橙は、藍の元へと急いで走り寄った。
「今紫様と、顔に水をつけられる術がないか、って話していたんです」
「……そう」
「でも、そんな便利な術は難しいから止めなさい、って言われました。だから、またお願いします藍様。やっぱり水はちょっと怖いですけど」
橙はえへへ、と笑う。
藍の優しい言葉と、励ましを期待して。
ところが、
「橙。お前の根性は、その程度だったの?」
あまりにも冷え冷えした声に、式の笑顔は凍り付いた。
一瞬、何が起こったのかすら分からなかった。
だがそれで終わりではなく、さらに厳しく、苛烈な叱咤を、藍は浴びせてくる。
「屋敷での誓いを忘れたのか。死ぬ気でやるというのは嘘だったのか。顔に水をつけるかどうかで怖がる程度で、泳ぎを覚えようなど言語道断! 片腹痛し!」
「…………!」
「そんな甘えたことを言っていたら、百年経っても泳げるようにはならん! 覚えておきなさい!」
まるでさっきまでとは別人のような主の剣幕に、橙は悲しむ隙すら無いほどの、大きなショックを受けていた。
さすがにこれに驚いたのは、式だけではなかったようで。
「ちょっと藍。一体どうしたの急に」
と、紫が物珍しそうに、岸に上がってくる。
藍は主の方をちらりと見て、怒気のこもった低い声で述べた。
「どうしたもこうしたもありません。橙に泳ぎの厳しさを自覚させるため、正論を告げているだけです」
「それにしても、言い方がいつもの貴方らしくないじゃない」
「そんなことはありません。私はいつもこうです。橙には一刻も早く、泳ぎを覚えてもらわなくてはなりません」
その発言に、紫は何か不審なものを感じ取った。
「向こうで何があったの?」
ぎりっ、と食いしばった歯の鳴る音がした。
藍は険しい表情のまま、遠くを睨みつけながら、吐き捨てるように答える。
「売られた喧嘩は買わなくてはなりません。ましてやそれが、八雲の誇りに関わることとなれば」
○○○
話は五分と少々遡る。
橙との水泳の練習中に大波が襲ってきたことについて、一言物申すため、藍は守矢一家の練習場へと向かっていた。
咄嗟に気付いたから助かったものの、少しでも遅れていれば、水に慣れない橙に何かあったことは疑いない。
怯えていた式の様子を思い出すだけで、藍の腹の底でふつふつと何かが沸きたってきて、文句を言わずにはいられない状態になっていた。
岸に着くと、早速奇妙な光景に突き当たる。
守矢神社の巫女、正確には風祝である東風谷早苗が、洩矢諏訪子に馬乗りになり、ビート板の形をした木の板で叩きながら、喚き立てていたのだ。
「二度とやらないでください!」とか「殺す気ですか!? あんな波起こして!」と、涙混じりに怒っており、下敷きになった神様の方は苦しそうに呻いていた。
そんな二人を呆れた目で見ていたもう一人の神様に、藍は声をかけた。
「お取り込み中のところを失礼」
八坂神奈子が「おや」とこちらを向く。
「先程、津波がこちらまで押し寄せてきたので、少々気になりまして」
実際は、少々どころか、かなりの驚きだったのだが。
努めて、冷静な語調を心がけるものの、どうしても憤懣の一滴を仕込みたくなってくる。
「危うくうちの式が怪我をするところでした。そうする必要が無いのであれば、今後は控えていただきたい」
「すまなかった。ちょっとうちのもんが悪ふざけしてね」
「ちょい待ち、神奈子」
と横から口を挟んできたのは、風祝を押しのけてこちらにやってきた、洩矢諏訪子だった。
先程のやり取りを見た感じ、彼女があの津波を起こした犯人らしい。
諏訪子は体についた土を払いながら、何やらしかつめらしい面持ちで、
「狐さん。これは私の推測だけど、あんた達、私が妖怪の山に造ったプールで泳ぐために、練習しにきたんじゃないの?」
「左様ですが」
「だったら、あの程度の波、顔色一つ変えずに切り抜けることができなきゃダメだと思うな」
藍にとって、それは全く予想外の返答だった。
素直に謝った八坂神と違い、彼女は顎に皺をよせて、釈然としない三人に重々しく語り始める。
「『カッパピアーウー』はね。単なるプールじゃないの。波のプールは本物の波、流れるプールは本物の川をイメージして作られている。津波や鉄砲水、大渦巻だって発生するわ。ちょっと泳げるだけの妖怪なら、溺れたって不思議じゃない程度のアミューズメントなのよ」
「待ちな。それは流石に問題があるでしょうが」
と横からツッコミを入れたのは、目を剥く神奈子である。
藍も愕然として、同じ意見を主張したかったが、諏訪子は「大丈夫よ神奈子」と胸を張りつつ、
「そのために河童の監視員を増やしたんだから。でも顔を水につけたり、ビート板でバタ足できるくらいじゃ、安全に過ごせる遊び場じゃないのは事実。何から何まで制御された完全なアトラクションなんてぬるすぎるわ。この幻想郷に似合うのは、危険と表裏一体のスリル。弾幕ごっこと同じよ」
「………………」
言いたいことは藍にもわかった。
確かに、弾幕ごっこに慣れた妖怪を相手にしたアトラクションとなれば、少々の波や流れでは成り立たないことだろう。
ただ、続く彼女の台詞は、さすがに聞き逃せなかった。
「というわけで、もしそっちの猫ちゃんがあの波を自力で何とかできなかったのなら、諦めた方が無難かもね」
諦めた方が無難。
友達に仲間はずれされぬよう、健気に水を克服したいと頼んできた式に対して、なんたる言いぐさか。
事情を知らぬとはいえ、これには藍のはらわたが煮えくりかえる。そもそもあの危険な波をここで起こしたこととは話が全く別ではないか。
藍の視線は、諏訪子と神奈子の後ろで事態を見守っていた、巫女に移った。
「…………お言葉ですが、そちらの風祝殿も、あの津波に大層な慌てっぷりだったようですが」
「わ、私はそんな……!」
「目を腫らしていますし、頬に残っているのは涙の痕。加えてここに来た時の諏訪子様とのやり取り、さらには津波の際にそちらの岸から聞こえてきた悲鳴の声も一致します」
冷静に藍が指摘すると、早苗は頬を紅潮させて俯く。
その様子に、諏訪子のカエル帽の目玉が、ギロリ、と藍を睨みつけた。
「早苗があの波で大慌てしたことが、貴方に何か関係あるわけ?」
「いえ、別に。ただ……蛇の神に蛙の神。その二柱に仕える風祝がカナヅチとは、いささか滑稽だな、と思いまして」
わざとらしく挑発すると、広い心と聞いていた神は、あからさまに気配を変えた。
だが、神の怒りに触れようとも、藍は橙に関わることで、引く気にはならない。
「早苗の方は、今日まで泳ぐ機会が無かっただけよ。才能はあるもんね。今日の上達ぶりは、未来の金メダル候補を見るようだったもん。そっちの猫ちゃんは、顔を水につけるのだけでも、ギブアップするんじゃないかな」
両眉を上げて目を細めた薄笑い。陰険そのものといった作り顔に、また一つ、藍の怒りゲージのランプがついた。
頬が引きつるのをこらえながら、平坦な声音で言い返す。
「私の式はもう足のつかない所でも一人立ちできます」
「早苗だってできるわ」
「はったりですね。ビート板を持つ彼女が何よりの証拠」
「そっちこそ、猫ちゃんが顔を水につけられないのを否定しなかった」
「なんの。試していないだけですよ。顔を洗う程度の造作の無さです」
「あらあら、その顔を洗うだけで、日が暮れないことを祈るわ」
「なら私も、素潜りの達人と浮上の素人が同居した奇特な金メダリストが誕生しないことを祈りますよ」
すでに、二人の距離は半歩の近さとなっていた。
藍は背の低い神様の帽子を睨み下ろし、向こうはその帽子の下から、眼光をぶつけてくる。
立場上、手を出せぬもどかしさに、お互い壮絶な笑みを浮かべ、ついに口論へと発展する。
「早苗は特訓すれば、あっという間に泳げるようになるし、あんな波だって一人で何とかできるわ!」
「私の式だって、あっという間に泳げるようになるし、あれくらい一人で切り抜けることができます!」
「へー! 顔も水につけらんないのに!?」
「そっちも水に浮かないのにですか!?」
息がかかるほど顔を近づけ、額をぶつけて押し合いながら、互いの保護する存在を罵り合う。
神奈子は興ざめしたジト目で、早苗はおろおろと心配しながらその様子を眺めていたが、二人は藍の視界に入っても、意識には入らなかった。
しばらく、頭の押し相撲を続けてから、諏訪子はぐっ、と睨み上げ、
「なら、どっちが早く泳げるようになるか競争しようじゃない! うちの風祝の泳ぎっぷりを、そのほっそい目の裏に焼き付けてやるわ!」
「望むところです! そちらこそ、うちの式を甘くみたこと、後悔しますよ! 今夜はその帽子まで、悔し涙を流して眠れぬことでしょうね! では失礼!」
藍は踵を返し、わざと悠然とした姿勢を見せつけて、岸から歩き去った。
だが、九本の尻尾は感情を押し隠せず、金毛が残らず逆立っていた。
○○○
「そういった次第です。私個人のことなら、いくら言われても我慢します。ですが、我が式の決意を軽んじられ、さらに存在を見くびられて、黙っているわけにはいきません」
岩のような口調で語り終えた藍の瞳の奥で、抑えきれぬ感情が燃えていた。
湖に集まっていた鳥や妖精達も、九尾の狐の体表から溢れる妖気に、とっくのとうに逃げ出している。
「あの守矢一家共の目に物を見せてやり、洩矢様の口から、直接我が式に謝っていただきましょう。私の方から頭を下げるなど、絶対にごめんですからね」
藍の視線の炎は、再び式へと向けられる。
その先で、びくりと体を震わせる式に対し、厳しい声で、
「聞いたな橙。お前も私の式なら、将来八雲の名を受け継ぐというなら、こんな所で負けているわけにはいかない。私を失望させてくれるな。お前がすぐにでも泳ぎを覚えるため、主として心血を注ぐことを約束しよう。時間は残り少ない。すぐに始める」
「………………!」
「さぁ! 何をしている! 早く来るんだ橙!!」
ぺしん。
と、藍の後頭部に、軽い衝撃があった。
何事かと振り向いてみれば、主がいつもの日傘ではなく、ハリセンを携えて立っている。
「紫様、ふざけないでください」
「こら、おだまり」
ぺし、とまたハリセンが藍の額にヒットする。しかも『命令』つきで。
藍は式の効果に従い、半ば無理矢理に黙らされた。
「藍。貴方の今日の目的は何かしら。答えなさい」
「無論、橙に泳ぎを教えることです」
「あの状態で?」
紫は冷めた目をして、岸で孤立する式の式を、腕組みした指でさした。
その先で橙は、スパルタの藍の態度に怯えきっていた。
あれでは一歩も水辺に向かって、踏み出せそうにない。例え足をつけられたとしても、すぐに術は霧散する。
「目的が入れ替わっていることを自覚しなさい。貴方の怒る理由は橙のためじゃなくて、主としてのプライドのため。しかも八雲とはまるで関係のない湿気た誇り」
「………………」
「たかだか式を軽んじられたくらいで、ここの持ち主に喧嘩を売り、関係にヒビを入れて戻ってくる。貴方はいつからそんなに余裕の無い、安っぽい式になったの」
「………………」
「その程度の私的な理由で、道理を見失い、感情の制御ができなくなるんじゃあ、この先仕事を任せられるか心配だわ。失望したのは、貴方の主の私の方よ」
容赦の無い主の言葉に、藍の頭が冷めてきた。
確かに大人気なかったし、意地を張ってどうにかなる問題でもない。ましてや競争など、何の意味があるのか。
いつの間にか橙の気持ちをないがしろにして、肝要を見失ってしまっていたことに気がつく。
体に残っていた怒りが恥に代わり、持ち上がっていた尻尾が、力無く垂れ下がった。
「……申し訳ありませんでした。すぐに謝罪に戻ります」
俯き加減で去ろうとした式を、主は引き止め、ぴん、と額を指で軽くはじき、
「向こう様には私が謝ってくるから、貴方は橙の面倒を見てなさい」
紫はスキマを開き、二人の式を残して、その場から去っていった。
残った藍は、しばらく凪いだ湖を見ながら、茫然としていた。
ふーっ、と長い息を吐いて、自らの式の方に向き直り、
「ごめんね橙。ちょっと私はカッカしてたらしい。情けない話だけど……」
「藍様……」
二又の猫はまだ、頬を打たれたばかりのような、怯えた表情が消えてなかった。
こちらに近づこうとしない式に、藍は軽い自己嫌悪に陥りながら、
「橙は橙のペースで、泳ぎを覚えたらいい。それが一番だからね」
「嫌です! もっと厳しく教えてください!」
叫び放たれた言葉に、今度は藍の方が驚いた。
「私がいけないんです。私が甘えたこというから、藍様に恥ずかしい思いをさせちゃったんです……。もう怖がったりしないから、もっと厳しくお願いします!」
「橙……いいかい。私はもう怒っていないし、そもそも橙に怒ったこと自体が間違いだったんだ。私を立ててくれる気持ちは嬉しいけど、そんなに揺れた心では、また術が解けてしまうよ」
藍は式の元に歩み寄り、静かに主として諭す。
「それに私は、橙を恥ずかしく思ったことなんて一度も無い。本当だ。だから、気にしないで、一つずつ一緒に、クリアしていこう」
「でも……早くちゃんと泳げるようにならないと、みんなと遊べなくなっちゃいます……」
橙は目元を腕で拭って、涙声を漏らした。
あ、そうか、と藍は思った。
自分が本当に、全くもって肝心な事実を、見落としていたことに気がついた。
橙が泳ぎを覚える動機は、最初からお友達と遊ぶ機会を失いたくない、その一点に過ぎなかったのだ。
水泳とはそもそも全く関係が無くて、むしろ今でも水なんて好きじゃなくて、それ以上に仲間はずれになるのが怖かっただけなのだ。
それは確かに強力な動機に繋がるかもしれない。でも、それをバネにして特訓を進めて、一応泳げるようになったとしても、根本的に彼女に水を克服させることはできないのではないだろうか。
ふと、藍は主が岸に残していった、水鉄砲やサーフボード等の水泳用品、その中に混じる水中眼鏡に目が止まった。
「……。橙、これをかけてみなさい」
藍はそのうちの二つを手にとって、一つを自分の頭にはめ、橙にも手渡した。
渡された方はよく分かってないまま、ゴムひもを伸ばして、慣れない手つきでおでこにはめていく。
「藍様。これ何か、目のまわりが痛くて窮屈です……」
「そのまま、眼鏡だけを水の中につけてごらん。顔は水につけなくてもいいから」
藍は式を湖の中まで、ゆっくり手で引いてきた。
橙は不思議そうに、頭を下げて、透明なレンズを水面につける。
「……わぁ! お魚が泳いでる!」
「よく見えるでしょう」
「はい! 地面も凄く綺麗に見えます!」
橙は嬉しそうに歩きながら、湖底を観察し始めた。
さっきまで緊張しっぱなしだった二つの尾が、背中でのびのびと動いている。
しばらく、彼女の新たな発見による歓声を聞いていた藍は、自分も水中眼鏡をしっかり装着し、
「じゃあ橙。これから泳ぎの特訓に戻ろうか。今度は一つゲームをしよう」
「ゲームですか?」
「そう。これから、水に二人で潜って泳ぐ。その間、橙は私の尻尾に掴まっていなさい。ただし、私は自分から泳がない」
とんでもないことを言い出す主に、式はびっくりして、慌てふためいた。
「そ、それじゃあ二人とも溺れちゃいます!」
「聞きなさい。橙は私の尻尾を掴み、足を立ち泳ぎの時のように、一生懸命動かすんだ。自分の力で、泳いでいる気分でね。橙の足が動くのに合わせて、私も泳ぐ。息が続かなくなったら、尻尾を二回引っ張りなさい」
藍は背中を向けて、九本の尻尾を持ち上げて差し出した。
「橙が水を克服するだけじゃなく、水を好きになるため、泳ぐことの楽しさを見つけるためよ。それとも、私が信じられない?」
「いえ、橙は、藍様をずっと信じてます」
「よし」
その答えに満足してうなずき、藍は湖に向かって、体をわずかに倒した。
橙はその後ろにつき、水に濡れた黄色い尻尾の一つを、両手で握る。
白い先端が、くるりと手首に巻き付き、しっかりと結ばれた。
「じゃあ、準備はいい?」
「はい藍様」
橙の心臓が高鳴ってくる。
けれど、水に入る緊張感は、慣れ親しんだ主の尻尾を掴むことで、だいぶ薄らいでいた。
藍が水上に、滑らかに体を横たえる。式の手を蹴らぬよう、尻尾の一つをぴんと伸ばし、両足の間を広げる。
いよいよ、潜る時がきた。橙の顎が水につき、痺れるような緊張が背骨を走り抜ける。それを振り切るようにして、橙は両足を蹴って動かした。
二人は呼吸を合わせて、大きく息を吸った。
湖水の間を分け入るようにして、藍の体が音もなく沈む。橙は頬を膨らませて、尻尾の一房をしっかり握りしめた。
空気を足場にしていた音が、いくつか消えた。
流れる風のかわりに、くぐもった水の気配が耳に入ってきた。
前に広がる金の尾についた小さな気泡が、たくさん水面へと浮上していく。
それがおさまり、視界が藍の背中にピントが合い、さらに湖の中の光景が広がった。
顔を歪ませていた橙は、水中眼鏡越しに見た世界に、口から泡をいくつか吹いた。
いくつもの影があった。それが泳いでいる魚の姿だということに、橙は気付いた。
魚を横から見るのは――彼らと同じ世界に入って見るのは初めてだった。
細い線となって川を動く姿や、釣られてもがく姿や、お皿に乗った姿からは想像もできないほど格好良く、生き生きとした影だった。
今度は下を見てみた。尻尾の間から見える地面にも、色んな生き物がいた。緑の草がたくさん生えている中に、赤いザリガニの姿が見える。
水の中にも、地上とは見た目は違うけど、生きた大地がちゃんと広がっていることが、新たに実感できた。
移動する小魚の群れに、二人は進み向かっていた。飛んでる鳥の群れよりも素早く、身を翻してこちらから逃げようとする。
藍の体が斜めに動き、橙もそれに合わせて、体をくねらせてみた。まるで、魚になったみたいに。
魚影があちこちに、素早く散乱する。その間を抜けて、自分の体ほどもある大きな魚類が、横を通り抜けていき、橙は思わず口を開いた。
水の中は、空よりも詰まっていて、陸よりも静かだけど、どこか懐かしく、それでいて感じたことのない、新しい世界だった。
そして、自分が恐れていたのが不思議なくらい、綺麗な世界だった。
もっとその光景を見ていたくなったが、息が続かなくなり、橙は藍の尾を二回引いた。
すぐに主の体が上に向かい、水面に近づいたところで、腕で抱き上げられた。
「ぷはぁっ!!」
橙は水面から顔を出して、大きく息を吐いた。
ひやりとした空気が顔に当たる。最後に少し飲んでしまった水に、けほ、けほ、と咳こんだ。
「だ、大丈夫橙?」
心配する主の前で、橙は息を整え、そして――、
「藍様! あの魚見ました!?」
大きく弾んだ声で、藍に聞いた。
「すごく大きい魚がいました! それと、小さい魚の群れとか、ザリガニとかもいたし、草も生えてました!」
「ふふ、私もちゃんと見えたよ」
「藍様も紫様も、あんな光景を見ていたんですね! それに水の中ってなんだか……なんだか凄く優しいです!」
橙が伝えたい感動を、藍はしっかり汲み取った。
式が新たな好奇心に目覚めたこと、水の中の生き物に興味を抱き、さらに水の恐怖を克服したことは、泳ぐ楽しみを覚える第一歩としては十分である。
何より、今日この湖に来て初めて、普段の快活な笑顔を見ることができて、藍自信も肩の力が抜け、光が差した気分だった。
「いい経験をしたようね。さすが私の式だ。じゃあもう一回行ってみようか」
「お願いします! なんか、楽しくなってきました!」
「ほう。じゃあこの後は、いよいよ、一人での泳ぎに挑戦してみる?」
「はい! もう水に顔をつけても平気です!」
と橙は、藍との潜水が待ちきれないように、顔を半分水に沈ませて、黄色い尻尾を握った。
それからなんと、わずか五分。二度目の水中探検を終え、橙は偶然、自力での水泳に成功してしまったのである。
藍が空気を手に入れるために浮上した時、彼女は尻尾から手を滑らせてしまい、その時慌てずに、必死で手足を動かして泳いだのだ。
クロールでも平泳ぎでもない、犬かきならぬ猫かき泳法であったが、補助無しで泳げるようになったことに、藍は驚嘆した。
まさか半日も経たずにここまでできるようになるとは。自分の時と同じくらい、いやそれよりも早いのでは無いだろうか。
そこでちょうど守矢一家の元から、紫が帰ってきた。藍は普段よりも一段と高い声で、主に式の手柄を報告する。
「紫様! 聞いてください! 橙がついにやりました! 自力で泳げるようになったんですよ!」
「はい! もう水なんてへっちゃらです、紫様!」
「あら、それは好都合ね。一時間後に、守矢一家と水泳リレーで対決することになったから。準備に入るわよ」
「「……ええええええー!?」
あまりにも突拍子が無さすぎて、二人の式は万歳しながら吃驚した。
○○○
再び、時間を少し遡る。
藍と橙を残して、紫は向こう岸にいる守矢一家に、式の無礼な態度を謝りに来ていた。
青紫の髪を一房に縛った赤のビキニ姿の神様と、金髪の頭部を帽子で隠した、紺の水着姿の神様。
二つの背中が、湖のほとりにて、固まって話し込んでいるのが見つかる。
よほど激しい練習を行った後らしく、心配そうな二柱に囲まれて、横になって目を閉じている、白い水着の少女がいた。
取り込み中の雰囲気だが、さほど気になくていいと判断して素直に声をかけると、神奈子が億劫そうな顔つきながらも、代表してこちらに来てくれた。
「で、何の用かしら」
「先程、うちの式がそちらに失礼をしたようで、主が尻ぬぐい役として来ましたの」
「ああ、別にわざわざ謝るこっちゃないよ。なんならうちのカエルもそっちに向かわせようか」
「ええ無論」
紫は彼女の提案に、即答した。
神様が僅かにたじろぐ様を、可笑しく観察しながら。
件の頭に帽子を乗せたスクール水着の神様も、こちらにやってきて、遠慮無く声をかけてきた。
「そっちの猫ちゃんは、泳げるようになった?」
「ぼちぼちと言ったところですわね。そこでのびてるナメクジさんといい勝負かと」
「…………ナメクジ?」
「あら、マムシとガマの神様、とくれば、その間にいるのはナメクジでしょう? ずいぶん大きくて動かないナメクジですけど」
「……………………」
「泳ぎが苦手なのも無理はないですわね。いっそ海の水なら、溶けて無くなっちゃったかしら。それなら神様もとうに諦めがついたでしょうに」
紫は次々と、守矢の面々に向かって毒を吐く。
ガマの神様は唖然としている様子だったが、マムシの神様の方は違った。
紫の発言の裏にある感情の匂いに、好戦的な笑みを見せて、
「……どうやら、狐と猫を従える古狸さんは、ずいぶんとお怒りなようね」
「ええ。うちの式達を危険な目に遭わせて、腹の虫がおさまらないわ。加えて先程の式からの言伝は、こちらへの挑戦状と受け取った。やらぬ道理は無い」
険悪な調子で述べられた台詞は、式が聞いていれば盛大にツッコミを入れられるであろう内容であった。
しかし、ここに彼女はおらず、紫の目も全く笑っていない。
全身から溢れ出す不穏な妖気に、二柱の神も反応して、セーブしていた実力の一端を開いてくる。
ざわめく湖畔の空気の中で、紫はスキマに腰かけ、外見上はくつろいだ態度で言った。
「……ただ、こののどかな湖の側で弾幕ごっこというのも、風情も新味も感じられないわ」
「お望みなら場所を変えるかい?」
対峙して動かぬ神奈子が、そう勧めてくる。
紫は軽く顎を上げ、別の案を彼女に持ちかけた。
「どうせなら、水泳で勝負をつけるのはいかが?」
「水泳?」
「場所はもちろんこの湖。お互いの力量に合わせて、25m、100m、200mに分けたリレー対決。コースはそちらが決めて構いません。これならお互い無駄に傷つけ合わずにすみますし、暑苦しくもならないでしょうから」
守矢一家の二柱に対し、紫は簡潔にルールの説明をする。
説明を聞く神奈子が、「ふぅん……」と面白そうに、蛇の目を細めた。
周囲を威圧していた気配が、とぐろを巻くように落ち着き、隣の神をそれとなく抑えて、問いかけてくる。
「いい加減腹を割ろうじゃないか、八雲紫。あんたが今日ここに来た……うちの湖をわざわざ選んだ本当の目的はなんだい」
紫はほくそ笑む。
やはりというべきか、神奈子はこちらの『演技』を見破ってきた。
信仰に任せた力馬鹿だけが、神の器ではない。彼女の洞察力を評価し、紫も手持ちのカードの一つ、条件を切った。
「ではお言葉に甘えて、種を明かしましょう。守矢神社――正確にはその内の一柱がプロデュースした大型屋内外プール施設、『カッパピアーウー』のことです」
「ああ。確かに私は関わっちゃいないが、もしかしてそれがそっちの都合で危険だから、ここで潰しておこうって腹かい?」
「それはまた別な話。しかしあのテーマパークは、施設の収容能力と宣伝効果による推定動員数を計算した結果、秋が来るまでの短い残りの夏、相当な混雑が予想されますわ」
「………………」
「つまり、今夏にあのプールでのんびりと泳ぐことができるのは、関係者に対して配られるプラチナチケットを使った、先行公開日のみ。特に最高責任者と一部の技術職人には、優先的に五枚が配られたという情報を手に入れましたの」
話を聞いていた神奈子が、横目で隣の神の方を見る。
その神、『カッパピアーウー』の最高責任者の反応を、紫は正面から見定めつつ、宣言した。
「洩矢諏訪子。貴方は自分の分、そして自らの家族の分を除いて、後二枚チケットを所有しているはず。それを我々八雲に、譲っていただきたいのです」
これこそが、紫が臨む獲物であった。
もちろん可愛い式の式のためでもあるし、一家の集いを常日頃から喜ぶ式のためでもある。
加えて、長蛇の列や芋洗いのプールをすり抜けて、レジャーを楽しみたい自分のためでもあった。
その気になれば、紫は能力を使用して、強引にチケットを手に入れることができるのだが、しかしその場合相手になるのは、幻想郷における一大勢力、『妖怪の山』の者達である。下手にもめ事を起こして、この地の平安にヒビを入れる結果を生むのは、幻想郷を管理する八雲にとって、よろしくない展開だった。
だからむしろ今回のように、向こうから正式に譲ってくれるよう仕向けた方が、後のことを考えても好都合なのである。
諏訪子は紫の真の要求に対し、さして面白くなさそうに、
「ま、正確には私はフリーパス持ちだから、三枚余ってるんだけどね。けど私の心がいくら海より広いからって、いきなり人の庭に現れて図々しく泳がせてもらって、露骨な挑発してくるような奴に、大事なチケットを分けてあげるのは気が進まないなぁ」
「そのための勝負ですわ。それも不正の起こりにくい、穏便な種目」
そして守矢一家が、その水泳勝負に乗ってくるということに、紫は大きな自信を抱いていた。
理由の一つは、神々が総じて持つプライド。二つ目は、彼女達のスイマーとしての矜持。
最後のもう一つは……、
「そっちは何を賭けるんだい? 受けるかどうかはそれ次第だね」
「まずはこれ」
諏訪子の質問に対し、紫は待ってましたと、指を鳴らした。空間が小さく裂け、スキマが開く。
物騒なものでも出すのかと思ったのか、警戒した二柱に向けて、紫は取り出したプラスチックの袋を、軽く振って見せた。
その音に、一番最初に反応したのは、それまで向こうで倒れて寝ていたはずの、風祝の少女だった。
「まさか!」
と起きあがるなり、こちらに猛ダッシュしてきて、袋をまじまじと凝視する。
「や、やっぱり! ポテトチップス! しかもコンソメパンチ!!」
「なにぃー!?」
守矢一家に激震が走った。
○○○
「というわけで、外界の嗜好品をいくつかちらつかせたら、気持ち良く承諾してくれたわ」
元の対岸に戻ってきた紫は、水泳対決を行うことになった事情を、式に話し終えた。
「さっきの私よりも煽ってるじゃないですか……」
彼女から話を聞き終えた藍は、呆れて二の句がつげなかった。
せっかく関係を修復できたところなのに、まさか主に再び台無しにされるとは思わない。
しかも外界の物をエサに釣るとは、ほとんど反則技である。博麗大結界を預かる存在としては、かなり後ろめたい行為だ。
「賞品はあくまで、私たちが負ければ、の話よ。貴方だって、今回だけじゃなくて、向こうのプールでも橙と泳ぎたいでしょう」
「まぁそれはそうですけど、今回ばかりはやり方が強引だと思いますよ」
素直にお願いしたり、交換したりする手もあったはずなのに、わざわざ勝負形式を選んだのが、藍には不思議だった。
相変わらず行動もその原理も読めない主である。
スポーツで決着をつけるというのは、確かに爽やかで後腐れ無くてすっきりしているので、その点は妙案ではある気がするものの、
「そもそも勝つ自信はあるんですか」
「橙のレベルは今どれくらいかしら」
と、紫は湖の方に目を向ける。
その先では橙がばしゃばしゃと、一人で猫かきをして泳いでいた。
「見ての通りです。体の使い方は贔屓目を除いても上手いと思うし、体力もあるんですが、まだ本能的に恐いのが残ってるのか、一人で泳ぐと動きがどうしても固くなります。猫かきから本格的な泳ぎを覚えるのは、まだ先になるでしょう。後一時間じゃ難しいですね」
「あちらの風祝も似たようなレベルだけど」
「しかし向こうには常識外れのコーチが二柱……」
「そうね。というわけで、私達も本気でやる必要があるわね」
紫が水着に似つかわしくない、自前の扇を広げて、視線を細くした。
藍は黙って見守る。傍目にはわかりにくいが、今彼女の主は顔色一つ変えずに、人の脳を加速度的にパンクさせていく勢いで、膨大な計算式を解き始めたのである。
二秒も経たないうちに、答えが出たようで、
「藍。200メートルにはおそらく、平泳ぎマスターの洩矢神が出てくるわ。対決するのは、貴方」
「平泳ぎマスターですか……蛙の神様ですし、強敵ですね……ベストを尽くします」
「ベストを尽くすつもりなら、アレをやりなさい」
「アレ?」
何のことか分からず、藍は聞き返した。
紫は真剣な顔から、意味深なニタニタ笑みになり、
「思い出すわねぇ~。貴方が一番始めに身につけた術」
「…………………………えっ!?」
主の言っている内容に気づき、九尾の式は瞠目して、頬がさっと赤くなった。
「まさか……アレですか!?」
「そう。アレ。あの泳ぎ方が一番速いでしょ」
「いやですが、でもその、えーと何というか、アレはちょっと」
「恥ずかしいからやりたくない、というのは禁止よ。主として命令するわ。アレをやりなさい」
「ぐっ……わかりました」
藍は仕方なく、渋々条件を呑んだ。
ちなみに、アレがなんなのか知ってるのは、紫とその友人だけであり、藍本人としてはできることなら封印したい技なのであった。
けれど主は死ぬまで覚えているというし、その友人の方はすでに死んでいた。死んでいても、ご飯はもりもり食べるが。
「ということは、紫様の相手はあの八坂様」
「そうね。相手にとって不足は無いわ。久々に本気の泳ぎを見せる時が来たようね」
「勝てますかね」
「愚問よ。この幻想郷において、八雲に敗北の二文字は必要ない」
「了解しました」
藍は自らの使命を受諾した。
湖では、オレンジ色の水着が、白い水しぶきを作って移動していた。
主の期待に答えようと、一生懸命に泳いでいるのが、ここからでも分かる。
本当に、式の成長には驚くばかりだ。ついさっきまでは、水をあんなに怖がっていたというのに。
藍の表情が、ふっと和んだ。
「……これからも皆で、いい思い出を創りたいですね」
「あら、どうしたの急に」
「いえ、あの姿を見てると、そう思っただけです」
「そう……あいにく私は誰かさんのおかげで、既にいい思い出だらけですわ」
「私も誰か様のおかげで、同じくいい思い出がいっぱいですよ」
「別に貴方のことを言ったわけではないわよ」
「同じく、紫様のことを言ったわけではありませんが?」
「……嘘つき」
「……お互い様です」
式の式を見守る二人は、互いの尻をつねりながら、よく似た微笑を浮かべていた。
4 水泳対決 vs守矢一家
ついに、対決の時間が、あと五分に迫った。
八雲一家と守矢一家。幻想郷に幾多ある勢力の中でも、少数精鋭という言葉が最も似合うであろうこの一派。
片や妖怪の中でもトップクラスの実力を持つ大妖怪が二人、片や信仰に支えられた本物の神が二柱。
お互いの野望のため、弾幕ごっこならぬ水泳ごっこに舞台を変え、妖怪の山にある守矢神社裏の湖にて、火花を散らすこととなった。
種目は100m自由形、200m自由形、25m自由形、という変則フリーリレー。
湖の中にいくつも立てられた巨大な御柱が、競泳のコースを示していた。
第一スタート地点の岸にて、八雲紫はコースを指さし説明する。
「スタートはこの時限式クラッカーを使います。音が鳴ると同時に競技はスタート。第一泳者から第三泳者まで、それぞれタッチで交代し、ゴールを目指す。ここまではよろしくて?」
「ん」
「この岸から100mの直線コース、200mで湖の外周を回り、最後の25mで中央の小島を目指す。ゴール地点にあるスイッチに先にたどりつき、それぞれのチームの花火が先に上がった方を勝者とする。コース取りはそちらが決めた通り。念のための確認はお済み?」
「ああ。問題ないよ」
と答える八坂神奈子は、準備体操で入念に体をほぐしていた。
表情に浮ついたところは一切無く、冷静そのものといった顔つきで、コースに目を走らせている。
手首をコキコキと鳴らしつつ、彼女は口の端を不敵に曲げて、
「まさかスキマ妖怪と、泳ぎで競い合えるとは思わなかった。一介のスイマーとして、勝負を楽しみにしてるよ」
「こちらとしても光栄な話ですわ。正々堂々、よろしくお願いいたします」
並の存在であれば側にいるだけで押しつぶされそうになるプレッシャーを、紫はのらりくらりとした返答で受け流した。
視線は神奈子と同じく、対岸で待つ第二泳者達、その一人である藍に向けられている。
先刻紫は、水死体の如く湖に浮かんでいたようでいて、実は横の神奈子の泳ぎも諏訪子の泳ぎも、スキマを通じて確認していたのである。
両者は間違いなく強敵であり、多少の境界を操ったところで、差を埋められるレベルではない猛者であった。
にも関わらず、紫がこの勝負を持ちかけたのは、自らの泳法に対する自信、そして秘策にあった。
後は自慢の式と式の式が、最大限に力を発揮してさえくれれば、この対決は十中八九勝てる見込みである。
――しっかり泳ぎなさいね、藍。
遠くで準備をしているであろう式に、紫は心の内で呟いた。
○○○
紫達のいる第一スタート地点と、湖を挟んだ反対の岸付近。湖面に作られた即席の足場で待つのは、第二泳者の二人である。
「私の相手はあんたか。狐さん……いや八雲藍だったわよね」
「ええ。先程は失礼いたしました。洩矢諏訪子様がお相手とは、至極恐縮です」
今回相手となるスクール水着の神様に、藍はきまじめな返事をした。
彼女の実力を畏怖しているからであり、同時に勝負に臆することなく真剣に臨もうとしているからでもある。
諏訪子は自らの泳ぎに、絶対の自信を持っているらしく、隣でしゃがんで体を揺り動かしながら、余裕たっぷりにケロケロと笑って、
「私達にあんなご馳走見せちゃったのはまずかったわね。手強いのは私だけじゃないよ。神奈子はもちろん、早苗だってそう」
「承知していますよ。どうぞ、お手柔らかに」
藍は軽い威嚇に取り合わず、自らに与えられた使命に集中を始めた。
最も長い距離を泳ぐこの位置に、紫が自分を持ってきたのは、実力が認められ、頼りにされているからに他ならない。
式にとって主の期待は、何よりのエネルギーであり、決して裏切りたくはない信頼でもあった。それは、相手となるのが神であっても、揺らぐことはない。
一方で、藍は自分以外のメンバーの身を案じてもいた。
もちろん主の方も心配だが、一番心配なのは、役目を受け渡すことになる式の方である。
スタート地点に別れて移動する前に、いくつかアドバイスをしてあげたものの、余計な緊張が起こるようなことがあれば、最悪、術の効果が切れてしまいかねない。
しかし、いつまでも主を頼っていては、式としての成長が望めぬのも道理である。主である紫と同じく、藍も主として、式を信じる他はなかった。
――橙。どんな結果になっても責めはしない。だから、一生懸命、悔いの無いようにね。
藍は遠くの第三スタート地点に目をやりながら、胸の内で囁いた。
○○○
第三スタート地点。
それはゴール地点の小島から、きっちり25m離れた場所に造られた、足場だった。
四方を湖に囲まれるこの場所にて、両一家のアンカーは、実力的に最も劣る二人が請け負った。
その一人、八雲一家の代表である橙は、まさに藍が心配していた事態に陥っていた。
――ちゃんとやらなきゃ……ちゃんとやらなきゃ……。
しゃがみこんで片腕を抱き、瞬きせずに湖面を見つめ、尻尾を時折小さく震わせる。
今の橙は、主の期待に応えようとして、極度の緊張状態に陥っていた。
水をかいくぐる楽しさを知り、水と友達になれた実感は、確かに橙の心に残っている。
だが、たった一度の経験は、主の補助があったからであり、単独での泳法においては、未だ水心を理解するまでには至っていなかった。
特に、水から上がってしばらく経った今、側に主がいないこの状況の中で、プレッシャーは抑えようとしても、時間に追われるごとに膨らんでしまう
――大丈夫……藍様に教わったとおりにすれば……あの感覚があれば……
深呼吸して念じる橙に、声がかけられた。
「怖いですか?」
驚いて首を横に向けると、今回相手することになった、白い水着姿の人間が、こちらを見ていた。
東風谷早苗。守矢神社の代表、すなわち今の橙にとっての障害であり、敵である。
不安を押し隠して、怖くなんかないよ、と言い返す前に、
「実は私もちょっと緊張してるんです。今日泳げるようになったばっかりだから」
と早苗が照れたように苦笑した。
彼女がまるで自分を警戒していないことに気がつき、橙は少々拍子抜けする。
早苗は世間話のように続けてきた。
「橙ちゃんでしたよね。貴方のことを少し、神奈子様から聞きました。式神って水に弱いし、化け猫もそうなんですって? それなのに、泳げるようになるなんて凄いです」
「…………」
「なんか変なことになっちゃいましたけど、今日はお互い頑張りましょう。あ、そうだ。橙ちゃんも諏訪子様がお造りになったプールに、遊びに行くの?」
「……うん」
「じゃあ、向こうでも会えるかもしれませんね。その時は、一緒に遊んでくれますか」
勝負の前に溌剌とした笑顔を見せる早苗に、橙は思わず、こくりと頷いていた。
すると、なぜか早苗は素早く後ろを向いてしまったが、
――悪い人じゃ、ないのかな。
と、橙の中にあった対抗意識は、少々薄らいでいた。
その代わり、さっきまでぐらついていた感情は、不思議と落ち着いていた。
○○○
「14時29分ジャスト。時間ですわね」
そう告げると、相手になる神奈子は無言で、岸の上に引かれた白線の位置に移動した。
紫はそれを尻目に、鼻歌を歌いながら、設置型クラッカーを地面にセットする。
こんな道具まで用意しているのだから、最初から勝負する気は満々だったということに、果たして相手は気付いているだろうか。あるいはそれでも受けて立つという余裕があるのかもしれない。
その自信がひっくり返ったとき、どれほどの衝撃が待ち受けていることやら。
愉快な気持ちで、紫は立ち上がった。
「では、三十秒後にスタートの合図があります」
パラソルをスキマへとしまい、白線の位置に立つ。
横の神様の、深呼吸の音が聞こえてきた。
ホーーーホケキョ
クラッカーの合図とともに、紫は湖へと真っ直ぐ飛び込んだ。
すぐに、うつ伏せになり、スキマを八方に展開。『スキマ泳法』を開始した。
「なんで、クラッカーがうぐいすの声で鳴くのよ!!」と、後ろから罵声が聞こえてきたが、紫は抗議を受けるつもりは毛頭無い。
クラッカーの音については、半分賭けだったのだが、神様は都合良く引っかかってくれたらしい。
息継ぎ用のスキマの出口を、競泳者の頭上に展開する。
恐るべき勢いのクロールで泳ぐ、神奈子の背中が映った。
だが、磨き抜かれた彼女の動きからは、明らかに動揺している気配が伝わってきた。
無理もない。勝負の舞台は流れに乏しい湖のはずなのに、神奈子はまぎれもなく、『逆流』に飲まれながら泳いでいたのだから。
「ふふふ、これぞ八雲紫のスキマ泳法よ」
のんびりと上から眺めながら、紫は高笑いしていた。
○○○
一方、第二地点で待つ二人は、対照的なポーズを取っていた。
腕を組んで仁王立ちする神様と、頭を抱え込む九尾の式である。
「……すみませんね。あんな主で」
がっくりとうなだれる藍は、情けない思いで弁解した。
あの主のことだから、真っ向勝負を挑みはしないだろうとは考えていたのだが、まさかこんな恥ずかしい手段を用いるとは、理解に苦しむ。
隣でレースをじっと見つめていた諏訪子は、怒ったりせず、むしろ不審げに呟いた。
「……見たこともない泳ぎ方ね。どういう仕組みなのかしら」
「主の得意技であるスキマ泳法です」
藍は彼女に解説をしてあげた。
スキマ泳法とは、八雲紫だけに許された特殊な泳法である。
泳ぐ自分の周囲にスキマをいくつも配置して開閉し、都合の良い水流を自ら生み出すことによって、推進力を得るのだ。
本体はうつ伏せの状態で(もちろん仰向けでも構わないのだが)息継ぎをしつつ、足を細かく動かすだけでよいという、スキマを除けば超ローコストな泳法であった。さらに、この泳法の後ろで泳ぐ者は、相手に密着しない限りもろに逆流を受けることになり、強烈な負荷によって、周囲の水が敵と化したような錯覚を味わうことになる。
もちろんスタートで相手の前に出なければ、レースにおけるこの泳法の効果は半分。
だからこそ、クラッカーの布石だったのだ。うぐいすの声の合図に反応できなかった神奈子もまた、常識という枠に捕らえられてしまっていたのである。
――昔、散々鍛えられたことのある私なら、この引っかけにも気付くことができただろうが……。
と、藍は相手チームに同情しつつも、
「……しかし、これもまた勝負。私とてプラチナチケットを手に入れたい気持ちに、偽りはありません。我が主の策に乗り、勝たせていただきます。お許しを」
「いいわよ。気にしてないわそんなの」
予想に反して、諏訪子はあっけらかんとした口調で、藍の宣言をいなしてきた。
「むしろ感謝しなきゃいけない。だって、久々に神奈子の本気が見られるんだからね」
そういう神様の両目に浮かんでいるのは、虚勢の類ではなかった。
にじみ出る強烈なオーラに、九尾の式は気圧される。
「守矢の誇る泳法は、神の平泳ぎだけにあらず。しかと見よ。我が盟友八坂神奈子は、神のクロールを操る」
○○○
一方、現在進行形で泳ぎを競っている紫は。
「らくちんらくちん~♪」
と、スキマ泳法で順調な泳ぎを見せていた。
本人は単に流されているだけなのだが、体に余分な力みがあれば著しく減速するこの泳法は、例えスキマに似た能力を会得できたとしても、簡単に真似できるものではない。とはいえ、見た目が全くだらしがないので、自分の式には不評この上なかった。友人の亡霊には大ウケであったが。
第一コースは、全て計算通りの展開となり、順調に消化できている。あとは式にバトンを渡して、ゆるりと結果を待てばよい。
最小限の労力で、最大限の効果を。それがスキマ妖怪八雲紫のモットーなのであった。
湖の自然に癒されながら、コースの半分を過ぎた頃だった。
紫の耳に、妙な雑音が混ざり込んできた。
――あら、何の音かしら。
音は激しく、徐々に近づいてくる。よく聞いてみれば、それは大きすぎて逆に気付きにくいが、水を削るようにして泳ぐ音だった。
不思議に思った紫は、顔を包むスキマの先をもう一度上に開いて、レースの状況を空から見定めた。
神さびた古戦場
後ろに引き離されていたはずの神奈子が、猛スピードで差を詰めてきていた。
逆流をものともせず、泳ぎ迫ってくる肉体から、恐るべき怒りのオーラがにじみでている。
しかも、水から顔が全く上がらない。一切息継ぎをしようとせず、ひたすら掻き泳ぐ、同じうつ伏せのスキマ泳法とは対極の泳法。
その気迫は、最早真剣レースどころか、命がけのハンティングの域に達していた。
そして彼女が狙っているのは、前を泳ぐスキマ妖怪の本体であることに、間違いなかった。
「ひぃっ!?」
思わず紫は悲鳴を上げて、スキマ泳法のスピードを上げた。
全身は脱力させたまま、周囲のスキマが開閉するテンポを速める。レースに勝とうという心境から、とにかく逃げようという気持ちに変わっていた。
ともかく紫のスピードは上昇し、自らを守る妨害水流の強さも増していく。
だが、その後ろから、神奈子は追い迫ってくる。洗練されたクロールというよりも、馬力を生かした野性味溢れるクロールで。
神の気配が大きく膨れあがってきた。
逆流で最大限に妨害しているというのに、差をどんどん詰められている。
足にかかる水滴の量が増えたのを感じ、紫の恐怖は倍増した。
いつもの自分ならば、適当に境界を弄って有利な土俵に変えることができるのだが、同じ水泳という競技の型にはめられているため、実力がそのまま反映されてしまう。
ましてや相手が相手なので、心理的にも物理的にも圧力が尋常ではない。水の下で見えざる神の表情を想像してしまい、天然の肌が粟立った。
やがて、気配の塊が、まるで大蛇が獲物を絞め殺さんとするかのように、紫の体を包囲する。
横を見れば、あれだけあったはずの差が錯覚だったかのように、そこに八坂神奈子の姿があった。
いつの間にか並ばれている。一瞬だけ、彼女と目が合う。
殺気をまともに浴びて、紫は戦慄した。
まさに『リヴァイアサン』。
古の大ウミヘビの眼光を、競泳者は宿していたのだった。
神奈子の放つプレッシャーが爆発した。
紫の中で彼女のイメージは、すでに大怪獣となっており、鯨のような手が、クラーケンのような足が、クロールの形で突き進んでくる。
彼女の体が生み出す流れは、スキマ泳法のそれを遙かに凌ぎ、本人の殺気に沿って、真っ直ぐこちらに向かってきた。
「きゃああああ!!」
水圧に跳ね飛ばされ、紫は悲鳴を上げて、あっけなくコースアウトした。
○○○
順位が逆転し、守矢チームはさらにペースを上げる。
吹き飛ばされた紫は、差をみるみるうちに広げられてしまっていた。
200mの第二スタート地点、飛び込みの姿勢で待つ諏訪子は、手を後ろに伸ばして、
「神奈子、カモン!」
「任せた諏訪子!」
短く言葉を交換し、諏訪子の掌にタッチして、神奈子は自らの役目を終える。
体力を使い切った神の意志を受け継ぎ、守矢の誇る平泳ぎマスターは、すかさず水に飛び込んだ。
続いて、守矢チームに遅れること十秒弱、第一泳者のスキマ妖怪は、へろへろな状態で、式の元にたどりついた。
「紫様! 早く!」
「ら、藍。後は任せたわ。勝ってきなさい」
疲労困憊の様子で、宙をさまよった主の手と、藍はタッチした。
本当はここで小言を山ほど述べたいところだが、今は時間が切迫している。
先にスタートした諏訪子との差は、すでにかなりのもの。果たしてこのロスを埋めることができるか。
「……負けられない。橙との『カッパピアーウー』のためにも……」
主の命令を受け、式の効果が発動し、妖力のリミッターが解除される。
藍の全身から青白い妖気が発せられ、髪の毛が逆立ち、両の瞳も黄金色に輝く。
「私は絶対に勝つ! 待ってろ橙!」
修羅と化した八雲藍は、湖に弾丸のごとく飛び込んだ。
前を行く守矢チーム、その差は約30メートル。水泳においては絶望的な差。果たして逆転なるか。
「……私がいることも忘れないでほしいわ~」
一方で疲れ切ったスキマ妖怪は、藍の決意に自分の名前が入っていなかったことに、秘かに涙していた。
○○○
守矢の神といえば洩矢諏訪子、洩矢諏訪子といえば蛙、蛙といえば平泳ぎ。
というわけで守矢チーム第二泳者の泳ぎは、当然のごとく平泳ぎだった。
しかし、真剣勝負のレースで、さらに守矢一家の中でも一番乗り気なのが彼女だったのだが、いざ実際に始まってみれば、その泳ぎには激しさが全く感じられなかった。湖水が抵抗無く彼女を受け入れ、彼女も抵抗せずに湖水に誘われて動く。全身をのびのびと使って、最小限の音を奏でながら進む姿は、一見無理のない動きに見えて、圧倒的な速さを生んでいる。
そしてそれこそが、誰にも真似することの出来ない、諏訪子特有の泳法であった。
神奈子のクロールが最強の泳ぎならば、諏訪子の平泳ぎは最高の泳ぎ。水の心を知る自然神は、湖の存在全てを自然と味方に付けることができる。
だからこそ、水泳という競争の舞台であっても、見る者を魅了する、幻想的な光景を創り出すことができるのである。
だが、彼女を包み込む優しい水に、邪気が混じった。
それは背後から迫ってくる激流と、それ以上のプレッシャーだった。
――神奈子?
と諏訪子は振り向く。
しかし違った。
水をかき分けて追ってくる者は、諏訪子よりも遅れてスタートした第二泳者のものだった。
身にまとう妖力もスピードも、神のそれに全く引けを取らず、先の神奈子に勝るとも劣らぬレベルであった。
――逃しはせん!
神の平泳ぎに追いすがるのは、藍だった。
両腕両足を同時に動かす、バタフライ泳法。しかしその泳ぎは、通常のバタフライの常軌を逸していた。
水中で残像ができるほど両腕を高速で回し、水を力尽くで従える、なんとも乱暴な泳ぎ方だ。
だが、それだけではない。その程度の泳ぎで、諏訪子の平泳ぎに追いつけるはずがないのに。
――これが、私の本気の泳ぎだ!!
ついに絶望的な差は縮まり、並んだ諏訪子の驚いた顔が、藍の視界に入る。
彼女の視線は、九本の尻尾に注がれていた。
なんと、藍は尻尾をひとまとめにして、スクリュー状に動かすことによって、圧倒的な推進力を得ていたのである。
ジェットスクリューバタフライ。知り合いの亡霊嬢に『ロケット藍ちゃん泳法』と名付けられたこの泳ぎは、藍の妖力を限界近くまで要求する、非常にエネルギー効率の悪い泳ぎ方であり、普通に泳ぐ時にはまず使いはしない秘密の技だった。
だが、こういったスピード最優先の競技においては、このうえなく適した泳法なのだ。
しかしそれでも、相手は神であり、平泳ぎの権化ともいうべき存在である。
藍の泳ぎっぷりに動揺するどころか、愉悦の波動を体から放ち、さらに諏訪子の泳ぐスピードが増した。
――ついてこれるか!? 八雲藍!!
――無論!! 私は私の式のため、神を超える!!
――笑止!!
デッドヒートが始まる。
諏訪子の方が、頭一つ抜けだし、速度もほんのわずかに上回っている。だがしかし、第三泳者の実力が互いに未知数な以上、この差はあってないようなもの。
「早苗! 任せたわ!」
「橙! 後は任せた!」
二人がタッチを受け渡したのは、ほぼ同時であった。
○○○
「行ってきます藍様!」
八雲のアンカー、式の式の橙は、主とタッチを交わし、湖へと飛び込んだ。
25メートル。たったそれだけの距離がカナヅチ出身者にとって、泳げる者達との境界なのである。
空気よりも遙かに重く、体に絡みつく粘性の世界。抵抗は走るよりも飛ぶよりも、遙かに厳しい。じれったくなるほど足が言うことを聞かず、仲良くしてくれない。
しかし、もはや水に怯えていた橙は、過去のものとなっていた。
――負けない! 藍様達と一緒に、プールに遊びに行くために!
橙のモチベーションは、この勝負の賞品、プラチナチケットの話を聞いた時から、かつてない高ぶりを見せていた。
それぞれの活動時間が違う八雲一家は、紫が眠りにつく冬は勿論、橙が実家に帰った時の夕飯の時間くらいしか、団欒の機会は無かったのだ。
しかし、橙がこの機会に泳ぎを習得することができれば、この勝負に勝ってプラチナチケットを手に入れることができれば。
今日のように八雲一家の三人が一つの場所に揃って、楽しい時間を共有することができるのである。
それは、友人達と一緒に遊ぶのとはまた違う、特別な価値が、若い式の式にあった。
――もう少し! もう少し!
リードしているのは自分だ。守矢の第三泳者の気配は離れている。このままのペースで行けば、きっと勝つことができる。
でも、息が切れそうになる。使ったことのない筋肉の動きが、積み上がる疲労を訴えている。気を抜けば水の中に、心ごと引きずり込まれそうになる。
しかし橙は決して諦めない。重くなる体で懸命に漕ぎながら、プールで一緒に遊ぶことのできる存在を思い浮かべた。
リグル、ミスティア、チルノ、ルーミア、にとり。
主の藍、主の主の紫。
そして……
お互い泳ぎを覚えて、向こうで遊べるようになったらいいですね。
――…………?
橙の頭に、もう一人の存在が思い浮かんだ。
比べられるほどにない、ほんの一時の邂逅だった。
けれども、どうしても気になってしまい、誘惑に負けた橙は、
つい、振り向いてしまった。
見えたのは、彼女の両手だけだった。頭が水面から出てこないまま、両手だけが水面をもがいている。
第三泳者である東風谷早苗は、溺れている。
橙の体をゴールへと引き寄せる、無数の力があった。その中には、後は任せた、という、自分に何よりの力を与えてくれる、主の命令も残っていた。
しかし橙は何故か、それらを振り払って、コースを逆送していた。
早苗を、助けるために。
○○○
命令を聞かなかった式は、どうなるのか。
それは今までしたことのなかった、最も怖い質問だった。
ふざけて聞いたと判断されれば、怒鳴られてしまうかもしれない。
しかし橙は本気で、その質問を主に投げかけていた。
「藍様……あの……」
例え本気であっても、怖いものは怖い。
さらに言うなら、お洗濯を手伝っている時にする質問ではなかったかもしれない。
湿った服を握ったまま、橙は尻尾の先まで縮こまった。
主の藍は、そんな式の様子と質問に、呆気にとられていたが、やがて寝具用の布を両手でパンパンと伸ばして、横の物干しにかけながら聞き返してきた。
「何か不安なことがあるの?」
「はい、少し……。この前、紫様の修行を受けてから……」
恐る恐る、橙は心境を明かす。
立派な式になりたい。目の前の主のように、主人の命令をきちんと聞き、期待に応えられる凄い妖怪になりたい。
そんな目標を、今でもずっと、橙は持ち続けていた。
けれども、その命令が、友達の命と天秤にかけられてしまったら。ましてや一人ではなく、もっと多くの友達。
もっと酷い話なら、藍が藍自信の命を見捨てろという命令を自分に下したら。そんな言いつけに耐えられる自信が、橙には無かった。
藍は手際よく洗濯物を干し、空になった編み籠を横にどけて、もう一つの籠に手を入れた。
「橙。私はこれまで、紫様の命令通りに行動しなかったことがある。特に、大昔に一度、それで命を落としかけたことまであった」
「ら、藍様がですか?」
「あの時の紫様は、本当に怖かった。あんなに怒ったお姿は、見たことがなかった。今思い出しても怖くて、震えそうになるくらい。式は命令に忠実でなければ、式として存在できない。それは変えられない事実だ」
だから橙も、常に主の言うことを聞かなきゃだめだ。
そう藍の話は続くと思っていた。
が、
「けどね。私はその時のことを後悔してないんだ」
「え? 後悔してない?」
手品のような肩すかしを食って、橙は思わず聞き返した。
温かい春の日差しに向けて、主は洗濯物を広げ、
「無謀だったし、未熟だったし、主を心配させてしまった。傷ついたし、失ったものもあるし、命まで落としかけた。悪いことだらけに思えるけどけど、そのおかげで掛け替えのないものを手に入れた。得難い経験と、確かな成長と、疑う理由の無くなった、主の愛情……」
「………………」
「そしてその時の選択が無ければ、橙にも出会ってなかったかもしれない。もちろん、別の道を選んでいたら、もっといい結果になっていたかもしれないけど、それはいくら考えても仕方が無いことだ。……おや、今日はお出かけせずに、物干し台になるの?」
「あ、すみません」
橙は慌てて、持ったままだった自分の替えの洋服を、洗濯ばさみで止めていった。
隣に立つ藍は、世間話のように軽い声で続ける。
「だから、橙も自分の意志で選びなさい。主の命令を聞く道を選んでも、それに反する道を選んでもいい。後悔しないと思う道を歩みなさい。失敗したっていい。間違ったっていい。その積み重ねが成長に繋がるんだから」
「でも、もしそれで死んじゃったら……」
「死なせはしない。後ろには私がついている。紫様だっている。間違ったときは、全力で助けて、ちゃんと叱って、一緒に解決しようと努力してあげる。だから……よっと」
重ねた籠を小脇に抱えて、主は最後に、橙の大好きな笑顔をつけて、宝物のような言いつけをくれた。
「自信を持って素直に行動しなさい。それが、お前の主、八雲藍の命令だ」
○○○
「早苗さん! しっかり、しっかりして!」
動きの鈍くなった巫女の体を、拙い泳ぎで何とか支え、橙は必死に呼びかけた。
早苗はかすかに呻いただけで、目を開かなかった。
よくわからないけど、きっと凄く危険な状態だ。早く手当てしなければ、一大事になるかもしれない。
――大変。早く藍様達に。
いくらなんでも、この状態の彼女を放っておいて勝負を続けて勝ったって、あの神様達を悲しませて、橙達との仲が凄く悪くなるだけだと思った。
主はきっと許してくれるだろうし、主の主にも必死で頼んでみるつもりだ。何より、自分自身が彼女を捨てておけない。
橙はゴールか元の足場か、どちらか近い方を選んで、彼女の体を連れて行けないか計算した。
静かだった湖に、異変が起こっていたことに気付いたのは、その時だった。
○○○
水は素直である。見えざる人の心に対してすら、水は素直である。
コップに注いで、言葉をかければ、正の感情に秩序を取り戻し、負の感情に乱れ散らばる。
自然は時にさらに雄大に、水に怒りを託し、時に水を用いて、喜びを表す。
水とは表現の道具であり、途方もなく長い時を、神や妖怪や人間や動物達の、媒質として過ごしてきたのだ。
幻想郷の大妖怪が二体、信仰を取り戻した神が二柱。
互いに水泳に全力で臨み、力を吐きつくしていた。
その力には、いずれも共通の意志が込められていた。互いに定めた、ゴールへと向かう意志が。
だがそれは、類い希な神水を保有する諏訪湖に余すところ無く伝わり、誰もが予想していなかった、致命的な事態を引き起こしていた。
湖の四方の水面が、歪な形で隆起した。
水の群れは互いに終局へ向かおうと、同時に滑り動き始めた。
はじめに気付いたのは、息を切らしていた諏訪子だった。だが気付いたときには、波の狭間に阻まれ、手の届かぬ所まで流されて移動していた。
次に気付いたのは、紫だった。だが彼女は、スキマをすぐに展開できるほど、力が残っていなかった。
同時に気付いたのは、神奈子だった。だが彼女も結界に費やしていた力はすでに無く、波を即座に止める術を持っていなかった。
そして、最後に気付いた藍は、式が水で剥がれそうになるほど、一時的に憔悴し、荒波に翻弄されていた。
だが、彼女は見た。ゴール地点を囲むように動く波、その向こうで浮かんでいた、
「そんな……!」
式の式と風祝、第三泳者の二人の姿に。
○○○
悪い夢を見ているのではないかと、橙は思った。さっき見た大波を超える高さの水が、あらゆる方向から、自分たちへと襲いかかってきていた。
水に浸かっているために、飛ぶことができない。泳ぐだなんて無理に決まっている。
水中と空中、両方から伝わる、圧倒的な破壊のエネルギーの気配に、体の芯まで震え上がりそうになった。
咄嗟に、さっき同じ窮地にて助けてくれた、主の姿を探した。けれども、分厚い水の大群は、藍を見つけることを許してくれなかった。
スキマが開いて、紫が助けに来てくれると思ったが、そんな気配も無かった。
呆然と、四方に伸び上がる波を、見上げるしかなかった。
降りかかる水滴に、『恐怖』が、橙を襲った。
耳飾りに結ばれていた御札が、ぱちんと切れる音がした。
『式』が剥がれ落ち、体から力がごっそりと奪われ、意識が白くなった。
――あ……。
水が脚に、胴に、腕に、体に染みこんでいく。
自分を支えていた気持ちが、一匙の塩だったかのように、瞬く間に溶かされていく。
ついには、怖いという感情すら塗りつぶされ、全身が徐々に痺れて冷たくなり、顔まで水が覆っていく。
橙は、静かに、湖底へと飲み込まれていった。
だが、沈もうとしていた体は、誰かに抱きしめられた。
その温もりは、自分が助けたばかりの、人間のものだった。
いや、彼女は人を超えていた。
もっと、大きな存在だった。
「奇跡よ!」
巫女の叱声を受けた水群が、彼女を中心に、爆風を浴びたかのように退いた。
四方から見下ろし、倒れ込もうとしていた大波が、顎を殴り上げられたかのように起きあがった。
至近距離で受けた波動に、橙は半ば無理矢理覚醒させられた。
夢から叩き起こされた後のような、混濁した世界の中で、まだ波は自分たちを押しつぶそうと迫ってきている。
しかし、それらは道を阻まれていた。
神と妖怪、混合した破滅的なエネルギーを、人間の少女が、たった一人で受け止めている。
見つめる八雲の式の式は、その姿に嘆声を漏らした。
「凄い……!」
その言葉がさらに勢いをつけたかのように、早苗の放出する力が増大した。
全身から燐光を放ち、五芒星を空に描く。
暴れ狂っていた力が、なんと同士討ちを始めた。波は光に怯えたかのように、落ち着かなく揺れて崩れ出す。
水の上に立つ風祝は、湖で暴れていた妖力と神力を、互いにぶつけ合い、相殺してしまった。
波はやがて、静かに元いた場所で眠りにつき、異変は神業、いや奇跡としか言いようがない力で、解決された。
しがみついて事態を見守っていた橙に、早苗の声が降ってくる。
「橙ちゃん! 怪我は無かった!? 平気!?」
「早苗さん……」
橙はその腰を、さらに強く抱きしめ、見上げて言った。
「まるで神様みたい!」
それは、式の式にとって、最大級の賛辞だった。
……はずなのだが、しかし早苗は、その賞賛に驚いたりせずに、さもありなんとばかりに強気な笑みを見せる。
「あら、言ってませんでした? 私、これでも神様なんです」
驚いてその顔を見つめると、風祝の頭の上から、支えきれてなかった水の塊が、落っこちてきた。
橙は小さく息を呑み、彼女の体から飛び退る。
濡れた前髪をお化けのように垂らし、早苗は憮然とした顔で、
「……まぁまだ見習いなんで、こんなものですけどね」
「橙ーー!!」
主の叫び声に、橙は振り向いた。
藍はレース後の疲労から復調したらしく、水の上を急いで飛んでくる。残りの三人も、すぐ後に続いてやってきていた。
「橙! 大丈夫だった!?」
「はい藍様! 早苗さんが助けてくれました」
慣れ親しんだ温もりに、橙の体は元気を取り戻す。
式の体をしっかり抱きしめていた藍は、早苗の方に向き、真摯な口調で、
「東風谷早苗殿。貴方に感謝しなくては。我が式の命を救ってくれたのは、まぎれもなく貴方の力だ。主として深い借りができた」
「そ、そんな。深い借りだなんて」
「そうそう。先に助けられたのはこっちだもんね」
と言ったのは、水の上を歩いてくる、蛙の神様だった。
洩矢諏訪子は、主の懐に抱かれていた橙に近づき、感心した口調で、
「まさかレースを捨てて、溺れるうちの早苗を助けてくれるとは思わなかった。それも苦手な水の中を必死に泳いでさ。猫ちゃんの実力を本気で見くびっていたよ」
「猫ちゃんじゃなくて、橙です!」
「橙か……」
諏訪子は苦笑して、手をさしのべてきた。
「ありがとう。橙は泳ぐのが好き? それとも、やっぱり水が怖い?」
「いいえ! 泳ぐのは好きです! 今日ここで好きになりました!」
「そう。いい子ね。うちの神社で泳ぐのがますます嫌いになっちゃ、神様の立つ瀬が無いところだったわ」
式の式と神様、二つの小さな手が握手する。
その行為が、両一家の今の心境を、何よりも物語っていた。
スキマ妖怪ともう一柱の神様は、四者の和気藹々とした光景を離れた場所から眺めていた。
「守矢神社の秘蔵っ子。その才能をとくと拝見させていただきましたわ」
紫が独り言のように語りかける。
彼女は今、橙があの時取った行動と勇気に驚かされ、そしてそれ以上に、あれほどの力をたった一人の信仰で打ち破ってしまった、若き逸材に、強い興味も抱いていた。
しかし、保護者である神奈子は謙遜してくる。
「なんの。まだまだ修行不足よ。私はそちらの式二人にも驚かせてもらったね。水に弱いなんて嘘なんじゃない? それともあの子達が特別なのかい?」
「ええ、どちらも自慢の式ですもの」
紫は二人の家族には聞こえない程度の小ささで、嘘のない想いを、横の存在に伝えた。
そんな二人を置いて話していた四人の中、諏訪子が橙と早苗の両肩を、後ろから乗りかかるように抱き、
「よし! 二人共! だいぶ遅くなっちゃったけど、一端休憩してお昼ご飯にしよう! その後ここで、皆でまた泳ぐわよ!」
「えー、またですか諏訪子様?」
「当然よ! あんな大きな波を克服できたんだから、早苗も自信持ちなさい! 後はあの変な泳ぎを矯正すれば、特訓はおしまいにしてあげる!」
「へ、変な泳ぎって、失礼な! 私だって必死で泳いだんですよ!」
「橙だって、まだ泳ぎたいよね?」
「はい諏訪子様! もっと泳いでみたいです!」
「あ、橙ちゃんが泳ぐなら……私も……」
「こら早苗! 下心で泳ぐんじゃなくて、もっと素直に水泳というものを……!」
「まぁまぁ、そう熱くならずに」
巫女に説教を始める諏訪子を、藍が困った笑顔でなだめる。
橙はその様子を見て吹き出し、その笑いが早苗にもうつる。
荒れ狂っていた面影はすでに無く、妖怪の山にある湖は再び、平和な笑い声を取り戻していた。
5 エピローグ
すでに幻想郷の日は沈み、空には三日月が見えている。
八雲一家の居間。茶箪笥や柱時計などが整頓されたクラシックな和室には、香辛料の効いた温かい匂いが流れていた。
中央のちゃぶ台を拭いているのは、九尾の式、八雲藍である。当然水着はすでに洗濯に回しており、今の彼女はいつもの道服の上に割烹着。
卓を拭き終わった藍は、いそいそと廊下に消え、お皿をいくつか両手に運んできた。
そこでちょうど、主人が寝所から起きてきて、廊下で鉢合わせする。
「ふわぁ……お早う藍」
「お早うございます紫様。今できましたから」
「この香り、リクエストどおりね」
と、起き抜けの紫は、スパイスの香りに目を細めて言いながら、食卓についた。
今夜の八雲一家の夕食はカレーである。献立を希望したのは、紫だった。
幻想郷の賢者である彼女曰く、「プールの後はカレーでしょう?」。
果たしてどうだろう、むしろ海じゃないか、と藍は思ったが、特に反対する理由も無いので、帰ってすぐにご飯の支度をすることにしたのであった。
しかし、今回のカレーはただのカレーではない。
藍が運んできたお皿を見て、紫はそれに気付いたようで、
「あら、あのお野菜、早速使ったのね」
「はい、サラダも福神漬けもらっきょうもそうですよ」
と、色とりどりの料理が卓上に並ぶ。
実はこのカレーの具は、守矢神社からお裾分けでもらったものなのである。。
結局あの後、水泳対決の行方はうやむやになってしまったが、心が広いと評判の諏訪子が、こころよくプラチナチケットを譲ってくれたことで、こちらからも外界の品々を提供することにした……のだけどそれで終わらず、向こうは大変喜ぶ余り、野菜や漬け物までおまけにつけてくれたのである。
豊穣の神の御利益なのか、あの神社では野菜が美味しく育つらしく、山の妖怪達の間でも評判なそうな。
「というわけで、残暑を乗り切る夏野菜カレーにしてみました。紫様に夏バテされても困りますし、橙にも野菜を食べさせないといけませんしね」
「その橙はどうしたのかしら」
「早速、お友達のところに報告しに行ったようです」
「そう。よかったわね。じゃあ、帰ってくるまで、もう少し待ってあげましょうか」
「では、その間に一つ、私からお聞きしたいことがあります」
藍は居住まいを正して、卓の向こうの主と向きあった。
「紫様。今日の貴方のねらいは、一体何だったのですか?」
「何って、橙に泳ぎを教えてあげることじゃないの」
「ではなくて、わざわざ守矢神社の私有地に出向き、あまつさえ喧嘩をお売りになったことですよ」
「『カッパピアーウー』のプラチナチケット」
「それだけの理由で動くほど、私の主は腰が軽くありません」
「まぁ、太ってると言いたいわけ?」
「気にしているのでしたらご心配なく。カレーから悪い脂は抜いておきました……ってだからそうじゃなくてですね」
藍は嘆息して、あくまではぐらかそうとする主に、自らの考えを伝えた。
「私の推測では、新たなテーマパークを作るという此度の守矢神社の動きと狙いを、直接ご自身の目で確かめるため、と思ったんですが……」
「その答えは中吉かしら。今回の目的は、『布石』だったのよ」
ようやく、紫は真相を明かすことにしたらしい。続く話に、藍は黙って耳を傾けた。
「猫の首には鈴が必要。しかし相手に鈴をつけるには、こちらも首を差し出すのがマナー。すでに守矢神社の勢力は、幻想郷のバランスを保つために、無視できないレベルに達しているわ。その力は利用するには便利だし、相手にするには厄介」
「ははぁ……」
「だからこそ、将来のため、あの一家と何らかの関係を繋いでおくことにこしたことはない。そのきっかけも、上辺だけの交流ではなく、いっそ真っ向から勝負した方が深くなることが多い。これは異変解決の度に増える、博麗神社の妖怪も同じよね」
「なるほど。それで布石、ですか……」
策謀を張り巡らせる、主らしい答えだと藍は思ったが……少し残念な気もしていた。
喧嘩を仕掛けてしまったり、水泳で競ったりするうちに、不思議とあの愉快な一家に、偽りのない親しみを持っていた自分に気付いて。
式の考えを読んだように、紫はスプーンで、カレーに福神漬けを乗せて、
「でも、なんだか美味しそうでしょ。この布石」
「え?」
「そう思わないかしら、藍」
主のいたずらっぽい微笑が、返事を求めていた。
「……そう思います」
思わず藍も苦笑して、同意した。
やはり、この御方には敵わないなぁ、と思いながら。
「あら。うちの鈴が帰ってきたみたいよ」
「ですね」
紫が遠くを向き、藍もその気配を察知する。
やがて、気配は庭までやってきて降り立ち、慌ただしく廊下を駆ける音とともに近づいてきた。
「ただいま藍様! 紫様!」
「おかえり橙」
「今夜はカレーですね!?」
「ご名答。待っててあげるから、ちゃんと手を洗ってきなさい」
「はい!」
と洗面所に走りかけた橙は、きゅっ、と足を止め、反転して戻ってきて、
「その前に聞いてください藍様! リグル達に私が泳げるようになったこと話してきたんです! そうしたら!」
「みんな驚いたでしょうきっと」
「はい! あんなに驚いたみんなを見るのって、初めてかもしれません! すごく喜んでくれました! 明後日に泳ぎに行く約束もしましたよ!」
「よかった。頑張った甲斐があったね」
「藍様と紫様のおかげです! あと、守矢神社の神様達のみんなも!」
橙は今日一日で、すっかりあの一家が好きになってしまったらしかった。
そして向こうの一家にも、特にあの風祝の少女に大層気に入られてしまったようである。
それは紫にも自分にもない、彼女ならではの力だと思うと、藍は主として誇らしかった。
策謀など巡らせなくても、これからの幻想郷においては、どの家とも仲の良いお隣さんのままで、末永く続くんじゃないか、そんなことを思わせてしまう、橙の持つ力に。
「それで、藍様、お願いがあるんです。藍様のあの泳ぎ方を、みんなに見せてくれませんか?」
「え゛っ!?」
微笑ましく式の話を聞いていた藍が、突然首を絞められたような声を上げて動揺した。
「みんなに話したら、チルノもリグルもミスチーもルーミアも興味津々で……お願いします藍様!」
「う、うーん、橙。悪いけど、あれはちょっと……その~」
「あら、見せてあげなさいよ。藍が生まれて初めて覚えた術なんだから」
「ゆかっ!?」
り様、まで言えずに、藍は主の方を向く。
二人の会話に、橙の目が丸く大きくなり、好奇心に小鼻をふくらませて、
「そうなんですか藍様!?」
「違う違う。私が初めて覚えた術はそんなんじゃなくて……」
「そうそう。初めは違ったのよねー。久しぶりに見たくなったわ。藍、ここでやってみせてくれない?」
「い、嫌に決まってるでしょうが!」
「命令しちゃおうかしら~」
「絶対に止めてください!」
「みたいみたーい!」
「こらっ、橙! 止めなさい!」
はしゃいでせがんでくる橙と、ふざけてからかう紫に、藍は行儀をかえりみずに、部屋の中を逃げ回る。
こうして、八雲一家の夕食の時間は、今夜もドタバタと平和に過ぎていった。
(おしまい)
安定した面白さ、さすがでした
貴方の描く八雲家の家族愛は見事なまでに私のツボで、ぶっちゃけマジでファンですw
文句なしで満点です、ごちそうさまでした
次回作も期待して待ってます
一人一人のキャラの味が最大限に生かされた良作だと思います。
今後も楽しみにさせて頂きます。
アポー! は反則(笑)
たぶん隠れて払ったかどっちも忘れたと脳内補完
八雲家と守矢家はもっと絡むといいと思うよ!
ひさびさのPNSさんの作品、うれしいです。
すべてのキャラが魅力的で素晴らしい。
長編なのに一挙に読めました。
後日談@カッパピアーウーが見てみたいなー
全力を挙げて祝福しましょう。
あー、私も泳げるようになっとこうっと。
相変わらずPNSさんの描く八雲家は最高です。
弱き者が勇気を奮うシーンというものは、どうしようもなく心を打ちますね。
いや、もはや橙は弱き者ではないのかもしれません。
良い作品をありがとうございました。
長い沈黙の期間にも納得。良い時間となにかを頂きました、ありがとう!
ところで天然の肌ってどういうこったw 何ゆえわざわざ天然を強調したw
今作品は橙が可愛すぎました。藍様も。いやもちろんゆかりん様も!
くすり、と笑える会話が良かったです。
PNSさんの作品は橙が成長するたび、続きを読んでみたくなります。
あなたの書くゆからんは次の行動が読めないw
予想外の展開の連続で大変楽しめました。
ただ、もう片方の作品と比べて描写がやや不十分だと感じたので、この点で。
あとがきのらんしゃまが可愛くて萌死ます。
文面から水流に身を任せ流れている流水プールの太ったおっさんのような光景が見えてくるぞww
すんばらしく和む八雲一家でした。
そしてオチの紫とチビっこ藍の可愛さがwww
もりやくもへ行ってきまっす!