「ギュッ……って出来ないんだねぇ」
雲山は体内から聞こえる残念そうな声に、はっと目を覚ました。
場所は神社の境内。
篝火を焚いて、酒樽や肴を中心に人妖が輪を作って宴を開催している広場だ。
周囲の人妖達が酒を嗜む様に、雲山もまた酒を嗜んでいた。
杯に揮発性の高い酒を注いでもらい、それに覆いかぶさる様に鎮座することで蒸発した酒を摂取するのだ。
自分の体を見ると、酒が廻っているらしく仄かに朱に染まっている。
飲み過ぎたな、と反省しつつ、雲山は声がした方へと顔を向けた。
見ればそこには体を半ばまで、こちらに埋めた鬼の少女が居た。
雲山の体は雲で出来ている為、基本的に触れることが出来ない。
触れれば彼女の様にこちらの体に埋まるだけだ。
こちらに体を埋めていた彼女は一歩後ろへ引くと、露になった頬を不満そうに膨らませる。
彼女は鬼の象徴である長い角に青い布を結わえ、手首には鎖という特徴を持っていた。
周りの人妖と同じく、頬を朱に染めた鬼は雲山を指差して、
「何さー、そんなにモコモコと柔らかそうな格好している癖にーっ」
格好が不満なのだな、と雲山は理解して、彼女の不満を解消する為に能力を行使する。
形や大きさを自在に変える事が出来る程度の能力を。
瞬時に発動した能力は、雲山の体を変化させる。
曲線を描いていた輪郭は直線へ、不明瞭だった顔の形は明瞭な立方体へと変化する。
そして立方体の一面になった顔を鬼へと向けて、如何か? と体ごと顔を傾げて見せた。
鬼は呆けた顔で口を大きく開けていた。
彼女は問いの応えとして、こちらへと向けて手を伸ばしてくる。
彼女の手が雲山の顔へと触れるが、次の瞬間には何の抵抗もなく立方体となった体へとめり込んだ。
雲山の顔に手が突き刺さった状態で、彼女は再度口を開き、
「結局触れないんじゃ意味ないねぇ。せっかく変わってもらったもんだけど」
どうやら彼女の要望に応えられなかったらしいと、雲山は能力を解いて元の体へと戻す。
一般的な雲の形状に戻った雲山を、鬼は口惜しそうに親指を噛みながら見つめている。
そんな彼女を、誰だっただろう、と雲山は思う。
宴の際に何度か見かけたことがある事まで思い出せたが、酔って思考が鈍っている所為か名前までは思い出せない。
雲山が無言のままに顔を顰めて唸っていると、鬼が何かに気付いたように視線を上に上げた。
何事かと釣られて彼女が見る先に視線をやると、雲山の頭上には雲で出来た疑問符が浮かんでいた。
どうやら酔っ払っている為に能力が暴発していたらしい。
疑問符が浮かぶ理由に思い至ったのか、鬼はようやく笑みを浮かべて、
「そうだそうだ、そういえば自己紹介がまだだったね。私は萃香って言うのさ」
あんたは? と萃香と名乗った鬼は首を傾げた。
名乗りを受けて、名乗らぬは恥、と名前を伝える方法を思案する。
その方法はすぐに見つかった。
それは自分の頭上に浮かんでいる。
雲山は疑問符を形成していた雲に能力で働きかけて、『雲山』と達筆な文字へと変化させる。
萃香は宙に浮かぶ文字を見つめて、感嘆の声を漏らし、
「うんざん……て読むのかな?」
如何にも、と雲山は頷きで返す。
そっかー、と呟く萃香の顔からは、先ほどまでの険しさは消えていた。
その事に満足そうに笑みを深めると、釣られるように萃香も頬を緩めて笑みを見せた。
宴の喧騒の中、二人は笑みを交わす。
先に動いたのは萃香の方で、彼女は手を腰に回すと提げていた瓢箪を手に持ち、
「ギュッって出来なかったのは残念だけど。せっかくだし一緒に飲もないかい?」
小気味良い音と共に蓋を外した瓢箪からは、芳しい酒の匂いが漂った。
折角の宴、交流を持つのは悪くない、と雲山は判断して頷きを返す。
こちらの応答に萃香は満足そうに口端を吊り上げ、ほれっ、と瓢箪の口を向けてきた。
宴はまだ始まったばかりだ
*
宴が続く境内。
そこに居ながらも、雲山は宴の喧騒を遠くに聞いていた。
酔っているな、と更に赤みが増した体を見て思う。
眼前、地面に胡坐を書いて杯に口をつける萃香は、頬に赤みが差すものの変わった様子はない。
彼女は杯を飲み干して息をつくと、歯を見せて笑い、
「ぷはーっ……! しかし雲山は難儀な体だねぇ。物に触れないなんて」
視線はこちらの下、地面に置かれた酒で満ちた杯に向かっている。
萃香の用意した酒は味は良かったが、揮発性は高くなく、ゆっくりと吸い上げている状況だ。
それでも尚、今まで以上の酔いの回り具合であることに、雲山は思考が蕩けながらも驚嘆する。
雲山が反応を示す前に、萃香は瓢箪から酒を注ぎ、言葉を続けて、
「何かに触れたいって、思わないのかい?」
問いかけに対し、雲山の心に一人の尼僧の姿が浮かぶ。
自分が普段侍り、仕えている尼僧、雲居一輪のことを。
応えるとすれば、是であり、何をと問われていれば、彼女を、と返すだろう。
彼女が持つ『入道を使う程度の能力』によって、雲山は弾幕を放ち、敵を討つことは出来る。
しかし雲の体ゆえに彼女が辛い時に抱きしめてやることや、寂しい時に慰めてやることが出来ずに、歯がゆい思いをしてきた。
触れることが出来れば、と、その前提でしてやりたいことを雲山は思い浮かべる。
すると表情に変化が出ていたのか、萃香の口から笑い声をこぼれて、
「かかっ……! なんだ、やっぱり思う時があるんだねぇ」
彼女は口端を歪め、胡坐を組んだ足を幾度か叩く。
何を、というところまで読まれている筈はないが、雲山は恥じ入るように頬を赤らめ俯いた。
酒の肴にされてしまうだろうか、と不安に思う。
しかし萃香の笑い声も、誰何を問う言葉も続かなかった。
おや? と雲山は俯いていた顔を挙げる。
見れば萃香は叩いていた膝に手を添え、こちらの体に視線を巡らしていた。
酔いの所為で朱に染まってはいる雲状の体を。
どうかしたか、と思い浮かべて問いかけようとした時だ。
ねぇ、と前置きをして、逆に萃香から問いかけの言葉が飛んできた。
「雲山って……雲なんだよね? っていうことは実体は水っていうことなのかい?」
質問に対して雲山は頷きを返す。
それ故に夏場は涼を求めて寺の仲間達が、体内に潜り込んでくる事もある。
冬場は遠ざけられてしまう事になるのだが。
じゃあ、とこちらの返答を見た萃香は声を弾ませ、
「さっき体の形を変えたみたいに、ギュッて集まれば水の体になって、軽くなら触れるんじゃないかい」
雲山はその提案にまずは打ち震え、しかしすぐ落ち込む事になる。
あれ? とこちらの様子を見て首を傾げた萃香に対し、力なく笑みを浮かべ、応えを返す為に能力を行使する。
形や大きさを自在に変える事が出来る程度の能力を。
能力の行使により瞬時に体に変化が訪れる。
まるで風船が萎むように、雲山は自らの体を縮小していく。
そして手の平大になったこちらを見て、ああ、と萃香が零した。
「形や大きさは変えられても、雲は雲のままなんだねぇ」
然り、と小さくなった雲山は全身で頷きを表現する。
自分はあくまで雲で出来た入道であり。
能力は形や大きさを変化させるものだ。
性質を変化させるものではなく、大きくなる為には大気中の水分を取り込み、小さくなる時は排出する。
外部からの介入がない限り、性質の変化までは行う事ができない。
水分を排出した為、酒の比率が高くなった体で、ふらつきながら雲山は萃香を見上げる。
共に残念がってくれる事を期待して見上げた先。
萃香は歯を見せる笑みを浮かべていた。
何事か、と疑問符状の雲を浮かべる雲山を他所に、彼女は誇らしげに胸を張り、
「ふふん……まだ言っていなかった事があったね。私の能力の事を……!」
宣言と共にこちらと彼女との間にある地面を指差す。
指先の動きに釣られて、雲山が視線を落とせば、その先では一つの動きが起きていた。
境内の石畳の上、砂が四方から集まって積もり渦巻いている。
風もない中、まるで砂が意思を持つかのようにだ。
その光景を見て自然と頭上に疑問符状の雲だけでなく、感嘆符状の雲までが浮かぶ。
それを見て、萃香は諸手を上げ、興奮した様子で自身の能力を告げる。
「そう……! 私は密と疎を操ることができるのさ!」
飛んだ言葉に雲山の体は一部だけではなく、全身が感嘆符へと変化する。
驚愕を全身で表現する為に。
眼下、恐らくは周辺から集まってきた砂が積もった丘があり、
「こうやって砂を集めるだけじゃなく、雲山の体内にある水分を集め、密度を高めるだってできるということさっ」
彼女の能力を理解して、感嘆符状になっていた雲山は歓喜の涙を雨として降らす。
萃香の協力があれば、自分は雲という形質のしがらみから開放される。
そして水という形質を維持できれば、何かに触る事もできるだろう。
それは先程想像した行為を為せるという事だ。
歓喜の表現としての雨が豪雨となって、更に体が萎んでいく。
小石大の大きさになってようやく消失の危機に気付くと、雲山は慌てて周りの水分を吸収して元の大きさへと戻った。
雨が止んだのを見計らって、萃香がこちらに向かって身を乗り出してきて、
「一回試してみようじゃん」
ね? と同意を求めるように首を傾げ、
「形は操作できないから、雲山がなりたい形に変わっておくれよ」
さぁ、と促すように手を差し伸べてきた。
鎖が鳴る金属音と共に伸ばされた手を見つめ、雲山は能力を行使する。
理想とする逞しい体を思い浮かべ、それを模るように雲を変化させていく。
変化は瞬時に果たされる。
引き締まった長い四肢、割れた胸板、豊かな口ひげを雲が再現していく。
理想とする体型となった雲山は、差し伸べられた手に己の手を重ね、頼む、と力強く一度だけ頷いた。
こちらの意を察したらしく、萃香は歯を見せる笑みを浮かべ、空いてる手の親指を立てて拳を作り、
「よしっ、それじゃあ行くよ」
言葉と共に力が来た。
一輪が能力を行使する時と同様に、体を構成する因子へと外部から干渉が入る感覚。
自分がギュッと凝縮されていくのを雲山は感じていた。
あやふやだった輪郭は明確に。靄がかっていた肌は透明感のある瑞々しいものに。
大地についた足からは、地面を踏みしめる確かな感触が帰ってくる。
雲ではない新しい自分へと変化していくのだ。
その事に心が打ち震えた雲山は、自分の体を見回した後に顔をあげた。
するとそこには自分の体ほどの大きさの杯があった。
何事かと目を見開いた視界の中。
杯の向こうには更に大きく感じる萃香が居た。
能力が行使される前は見下ろしていたはずの彼女。
それが見上げる立場に変わっている事に雲山は戸惑いを覚える。
こちらを見下ろす彼女は、あー、と力なさげに漏らしながら頬を掻いて、
「ギュッて圧縮したもんねぇ……」
聞こえた言葉に、雲山は理解を得る。
自分の体は雲で出来ており、正体は疎らに漂う水の結晶だ。
萃香の能力は散らばっているものを、一箇所に凝縮させるものであり。
凝縮されれば小さくなるのも道理。
得た理解は雲山に落胆をもたらした。
杯ほどの体となり、更に小さな手では一輪を抱きしめる事は敵わないだろう。
崩れ落ちそうになる体を杯に預けて堪える。
水状の体は杯がめり込むものの、何とか杯に腕をつく事はできた。
触る事は出来るのだな、と雲山は現状を把握して思う。
崩れそうな足を持ち直し、雲山は杯を弄ぶように揺らしながら、目の前にいる萃香を見上げた。
見上げた彼女は笑みを浮かべていた。
はて? と違和感を覚えて雲山は首を傾げる。
嘲笑の類ではない。短い間ではあるが、時を過ごしてそんな性格ではないとも思える。
楽しみや喜びの表現でもない。先程の言葉からも、今の状況が成功ではない事を理解しているはずだ。
ならば、と呆然とする雲山と視線が合うと、萃香は浮かべた笑みを更に深めて、
「雲山」
響いた言葉はこちらの名を呼ぶものだった。
彼女は笑みを浮かべたままに、膝に置いていた手を掲げ天を指す。
「諦めるのはまだ早いんじゃないかい?」
動きに釣られて上を見上げると、既に萃香が己が指した方へと舞い上がっていた。
彼女が指差し、彼女が向かった先、彼女の姿の向こう。
そこには数多の星が煌く夜空がある。
そしてそこに無数浮かぶ白の彩りは――
*
神社の上空。
雲の状態に戻った雲山は萃香と共に飛んでいた。
元の姿に戻った理由は簡単だ。
萃香の能力による干渉が解かれたからだ。
そして解かれた理由も明白だ。
萃香が別のものへと能力を働きかけているからだ。
雲山は驚きに目を見開きながら、自分達の周囲を見回す。
そこには自分達を取り囲むように、集まり渦巻く巨大な雲の群れがいる。
萃香は集まってきた雲達に満足そうに唇を舌で濡らし、
「雲山」
こちらの名前を呼び、周囲の雲を指差した。
「足らない分は補えばいいんだよ。私なら雲を集められるし、雲山ならこいつらを支配下に入れられるんじゃないかい?」
これだけの雲があれば、普段は実現できない巨大入道への変化も可能だろう。
問いに対し、雲山は簡単に頷きで返す。
それを見て萃香が歯を見せる笑みを浮かべ、
「じゃあ見せてくれるかい? 雲山のかっこいい所を」
集めて周囲に停滞させていた雲達を、こちらへと集結させていた来た。
自分よりも大きな雲の群れに不安が無いわけではない。
しかし期待をされて、応えられなければ漢が廃る。
そう思っているうちに、雲の端がこちらの体に触れたため、雲山は能力を行使する。
形や大きさを自在に変える事が出来る程度の能力を。
雲の群に対し、触れた端から自らの支配下に置く事で、自身の大きさを拡大していく。
同時に支配下に置き、自らとした雲達には理想とする体を構成するための指令を与えた。
渦巻く周りの雲は徐々にその渦を地上の方へと下がっていく。
渦より上には徐々に巨大入道となった雲山の体が露になっていった。
豊かな口ひげを携えた頭部。筋骨逞しい上半身。すらりと長く引き締まった四肢。
理想の体型を雲で完成させた雲山は、その巨大な四肢を振り回して自身の支配が末端まで及んでいる事を確認した。
そして全てが自在に動く事を確認すると、今度は杯程の大きさに見える萃香に対して、親指を立てて右手を突き出した。
彼女もこちらに対して手を突き出したのか、僅かに動きが見えたように思えた途端。
雲山は自分の体に外部からの干渉が入った事を悟る。
それは先程も体験した能力であり、雲山は自分の視界に捉える世界がどんどん大きくなっていくのを感じる。
それが自分が小さく圧縮されていくのだと正しく理解できたのは、砂粒ほどの大きさだった萃香が、宴の際に見た大きさと同じになった時だった。
元の大きさに戻った雲山は、萃香の笑みと共に為された頷きを見て、自分の体へと視線をやる。
そこには水で構成された己の体があった。
透明感のある艶やかな肌は、大量の水分を取り入れた為に酒が薄まったのか淡い水色。
自分で自分の腕を叩いてみれば、僅かに水飛沫が上がるが、確かな手応えが返ってくる。
今度こそ、と喜びに打ち震えると、肌に波紋が立った。
「雲山」
これで何度目か、呼ばれた己の名前に顔を挙げると、自分に向けて飛来するものがあった。
反射的に手を挙げて受け止めれば、それはこちらの手に浅く埋まり、しかし握り締める事ができた。
手を開いてみれば、そこには手の平に収まる程度の杯があり、見上げれば萃香が酒の入った瓢箪を手にしている。
「景気付けに一杯。どうだい?」
断る理由など無かった。
杯を収めた手を萃香に向けて差し出すと、すぐに彼女は酒を注いでくれる。
並々と注がれた杯を引き戻し、何処から摂取するかを悩んだ後に、彼女が宴の席でしていたように口元へと運ぶ。
一息。
僅かの時間で飲み干した酒は瞬時に雲山の肌を桃色に染め上げた。
いい酒だ、と感心すると共に、強すぎはしないか、と不安になる。
酔いが回り、思考が短絡的になっていく中、雲山は飲み干した杯を萃香へ投げ返す。
杯を受け取った萃香は唇を尖らせ、甲高い音を奏でた後に、
「雲山」
こちらの名前を呼び、笑みと共に親指を立てた拳を突き出した。
言葉はもう要らないと、そう読み取れる行為だ。
彼女の行為をそう判断した雲山は、同じく拳を突き出した後。
行動で示す為に降下を開始した。
*
萃香を空に置き去り、雲山は疾駆する。
向かう先は先程まで居た宴の席、神社の境内だ。
慣れぬ体の為か、萃香の能力の効果範囲から離れていく為か、速度に乗るごとに体からは飛沫が飛ぶ。
しかしそれすらも厭わずに雲山は行く。
萃香にのせられた事がきっかけであり、酔いに任せている事がこの勢いであることは分かっていた。
それでも自分と共に生きてきた一輪を抱きしめてやりたいという思いは真実だと、そう思って。
眼前、迫ってくる大地の中心に、篝火を灯す宴の席が見えてくる。
そして数多の輪が出来ている中、目的とする尼僧の姿を瞬時に捉えた。
しかし真上からの抱擁では意味が無い、と雲山は落下する方向を僅かに変える。
曲線を描くように、垂直落下から神社の鳥居をくぐって地面に平行な軌道へと修正した。
突如飛来したこちらに気付き、宴の会場がざわめくのを感じる。
それは構わない。
目的とする彼女の姿を捉え一直線に行く。
彼女は寺では飲まぬ酒に、ほんのりと頬を朱に染め、どこか艶やかな雰囲気を漂わしていた。
周りがざわめく中、とろんとした表情の彼女は迫るこちらへと視線を向けて、表情を和らげる笑みを浮かべて。
「うんざん?」
こちらの名前を呼んでくれた。
如何にも、と雲山は頷きと共に加速する。
*
宴の席に居た面々は目撃した。
突如として雲居一輪に向けて鳥居より飛来した桃色の物体が、何かが飛沫く大きな音と共に、神社の本殿側へと突き抜けていった光景を。
*
雲山は予想していた手応えが無く、腕の中に一輪が居ない事に驚愕して立ち止まる。
目の前には、ざわめきからどよめきに移行した酔っ払いたちが居るだけだ。
彼・彼女は一様にこちらを向き、呆然と目を見開いている。
何事か、と自分の体を見下ろすと、雲山は腹部から下半身にかけて大きく抉れた跡に気付いた。
本当に何事か、と感嘆符が雲山の頭の上に生える。
外的損傷が特に意味を成さない入道だからこそ大丈夫だが、致命傷にもなりかねないほどの傷だ。
こんな傷を負ったこちらを見れば、どよめかれても仕方ないだろう。
申し訳なく思い、雲山は顔を挙げるが、そこで一つの違和感に気付く。
彼・彼女らは確かにこちらを向いているのだが、その視線はこちらを見ていない。
では何を見ているのか。
違和感から派生した疑問に、雲山は一抹の不安を感じた。
しかし立ち尽くしていてもしょうがないと、意を決して雲山は彼・彼女らの視線の行く先を見るために振り返る。
緩やかに周る視界の中、皆が皆、こちらの背後の方へと視線を向けている。
そして雲山を含め、この場に居る皆の視線の終着点。
そこにはずぶ濡れになった一輪の後姿があった。
震える彼女の肩を見てから、雲山はぽっかりと抉れた自分の体に手を添える。
自分の支配下から離れ、失われた体の一部が何処にあるのかは一目瞭然だった。
雲山は何故彼女が濡れているのかを悟り、酔いが一瞬で醒めていくのを感じる。
実際に、桃色だった肌が水色に急速に戻っていく中、雲山は何も言い出す事ができず立ち竦んでいた。
「雲山……?」
こちらの名前を呼ぶ一輪の声が聞こえるが、先程のような高揚は生まれない。
代わりに生まれたのは小さな音だ。
神社の石畳の上に疎らに小さな痕が生まれ、その度に石を打つ音が響く。
動揺から雲山の集中が乱れ、体が崩れかけているのだ。
水滴を、まるで冷や汗のように零しながら雲山は一輪にだけ聞こえる声で語りかける。
すまない、と。
謝罪の言葉が届いたのか、彼女の肩の震えは収まる。
しかし今度は震える声で、
「謝って済む問題……? 大体なんなのよ、その格好!」
言い放って濡れた膝を叩いた。
自分にとっては理想の体型なのだが、と雲山は反論しそうになるのを飲み込む。
そしてこれ以上彼女を刺激しない為に、元の姿に戻る方法を思索する。
すぐにその方法を思い出し、雲山は空を見上げ――
*
神社の上空。
光を遮る雲が無くなり、星の海となった空を背後に置いて、ただ一人、事態を面白おかしそうに眺める人影があった。
瓢箪に直に口をつけて酒を呷るのは、空に取り残されていた萃香だ。
萃香は乱入者にどよめく宴の会場を見下ろしては、口元を歪めて笑みを為す。
「やってる、やってるねぇ。やっぱり宴会は余興が無いとね」
上空からでは雲山が何をしたかまでは確認を取る事はできなかった。
恐らくは彼の為したい事を為したのだろう、と萃香は思う。
傍で見届けられなかった事は残念だったが、手助けが出来たという充足感はあった。
両腕を掲げて、体を大きく伸ばすと、その勢いのままに、まるで空に床があるかのように後ろへと倒れ込んだ。
ごろん、と四肢を放り出して寝転べば、雲一つ無い星空が目の前に広がっている。
「いい星空じゃん……ふぁーっ……あっ……」
そして呟きと共に、拳ほどの大きさに口を開いて欠伸をする。
声とも呼気とも判断つかぬ音が途絶えた頃。
萃香は静かに、しかし速やかに眠りに落ちて――
*
境内の中心。
萃香による外部からの干渉が不意に途絶えた雲山の体は、一瞬の内にはち切れる寸前の風船の様に膨らんだ。
おお? と疑問の色や驚きの色が混じる声が周囲で上がった途端。
雲山の体が破裂した。
萃香の能力によって纏められていた雲山の体は、能力が途絶えた途端に元の姿に戻った。
それは彼女が集めた雲を吸収して巨大化した雲山に他ならない。
神社のある山を覆いつくす形に膨らんだ雲山は、体内より響く悲鳴や怒号にその身をがくがくと震わせる。
ギュッとしたかっただけなのに、と嘆く心は雨として表現された。
その後雲山はこっぴどく叱られた。
雲山は体内から聞こえる残念そうな声に、はっと目を覚ました。
場所は神社の境内。
篝火を焚いて、酒樽や肴を中心に人妖が輪を作って宴を開催している広場だ。
周囲の人妖達が酒を嗜む様に、雲山もまた酒を嗜んでいた。
杯に揮発性の高い酒を注いでもらい、それに覆いかぶさる様に鎮座することで蒸発した酒を摂取するのだ。
自分の体を見ると、酒が廻っているらしく仄かに朱に染まっている。
飲み過ぎたな、と反省しつつ、雲山は声がした方へと顔を向けた。
見ればそこには体を半ばまで、こちらに埋めた鬼の少女が居た。
雲山の体は雲で出来ている為、基本的に触れることが出来ない。
触れれば彼女の様にこちらの体に埋まるだけだ。
こちらに体を埋めていた彼女は一歩後ろへ引くと、露になった頬を不満そうに膨らませる。
彼女は鬼の象徴である長い角に青い布を結わえ、手首には鎖という特徴を持っていた。
周りの人妖と同じく、頬を朱に染めた鬼は雲山を指差して、
「何さー、そんなにモコモコと柔らかそうな格好している癖にーっ」
格好が不満なのだな、と雲山は理解して、彼女の不満を解消する為に能力を行使する。
形や大きさを自在に変える事が出来る程度の能力を。
瞬時に発動した能力は、雲山の体を変化させる。
曲線を描いていた輪郭は直線へ、不明瞭だった顔の形は明瞭な立方体へと変化する。
そして立方体の一面になった顔を鬼へと向けて、如何か? と体ごと顔を傾げて見せた。
鬼は呆けた顔で口を大きく開けていた。
彼女は問いの応えとして、こちらへと向けて手を伸ばしてくる。
彼女の手が雲山の顔へと触れるが、次の瞬間には何の抵抗もなく立方体となった体へとめり込んだ。
雲山の顔に手が突き刺さった状態で、彼女は再度口を開き、
「結局触れないんじゃ意味ないねぇ。せっかく変わってもらったもんだけど」
どうやら彼女の要望に応えられなかったらしいと、雲山は能力を解いて元の体へと戻す。
一般的な雲の形状に戻った雲山を、鬼は口惜しそうに親指を噛みながら見つめている。
そんな彼女を、誰だっただろう、と雲山は思う。
宴の際に何度か見かけたことがある事まで思い出せたが、酔って思考が鈍っている所為か名前までは思い出せない。
雲山が無言のままに顔を顰めて唸っていると、鬼が何かに気付いたように視線を上に上げた。
何事かと釣られて彼女が見る先に視線をやると、雲山の頭上には雲で出来た疑問符が浮かんでいた。
どうやら酔っ払っている為に能力が暴発していたらしい。
疑問符が浮かぶ理由に思い至ったのか、鬼はようやく笑みを浮かべて、
「そうだそうだ、そういえば自己紹介がまだだったね。私は萃香って言うのさ」
あんたは? と萃香と名乗った鬼は首を傾げた。
名乗りを受けて、名乗らぬは恥、と名前を伝える方法を思案する。
その方法はすぐに見つかった。
それは自分の頭上に浮かんでいる。
雲山は疑問符を形成していた雲に能力で働きかけて、『雲山』と達筆な文字へと変化させる。
萃香は宙に浮かぶ文字を見つめて、感嘆の声を漏らし、
「うんざん……て読むのかな?」
如何にも、と雲山は頷きで返す。
そっかー、と呟く萃香の顔からは、先ほどまでの険しさは消えていた。
その事に満足そうに笑みを深めると、釣られるように萃香も頬を緩めて笑みを見せた。
宴の喧騒の中、二人は笑みを交わす。
先に動いたのは萃香の方で、彼女は手を腰に回すと提げていた瓢箪を手に持ち、
「ギュッって出来なかったのは残念だけど。せっかくだし一緒に飲もないかい?」
小気味良い音と共に蓋を外した瓢箪からは、芳しい酒の匂いが漂った。
折角の宴、交流を持つのは悪くない、と雲山は判断して頷きを返す。
こちらの応答に萃香は満足そうに口端を吊り上げ、ほれっ、と瓢箪の口を向けてきた。
宴はまだ始まったばかりだ
*
宴が続く境内。
そこに居ながらも、雲山は宴の喧騒を遠くに聞いていた。
酔っているな、と更に赤みが増した体を見て思う。
眼前、地面に胡坐を書いて杯に口をつける萃香は、頬に赤みが差すものの変わった様子はない。
彼女は杯を飲み干して息をつくと、歯を見せて笑い、
「ぷはーっ……! しかし雲山は難儀な体だねぇ。物に触れないなんて」
視線はこちらの下、地面に置かれた酒で満ちた杯に向かっている。
萃香の用意した酒は味は良かったが、揮発性は高くなく、ゆっくりと吸い上げている状況だ。
それでも尚、今まで以上の酔いの回り具合であることに、雲山は思考が蕩けながらも驚嘆する。
雲山が反応を示す前に、萃香は瓢箪から酒を注ぎ、言葉を続けて、
「何かに触れたいって、思わないのかい?」
問いかけに対し、雲山の心に一人の尼僧の姿が浮かぶ。
自分が普段侍り、仕えている尼僧、雲居一輪のことを。
応えるとすれば、是であり、何をと問われていれば、彼女を、と返すだろう。
彼女が持つ『入道を使う程度の能力』によって、雲山は弾幕を放ち、敵を討つことは出来る。
しかし雲の体ゆえに彼女が辛い時に抱きしめてやることや、寂しい時に慰めてやることが出来ずに、歯がゆい思いをしてきた。
触れることが出来れば、と、その前提でしてやりたいことを雲山は思い浮かべる。
すると表情に変化が出ていたのか、萃香の口から笑い声をこぼれて、
「かかっ……! なんだ、やっぱり思う時があるんだねぇ」
彼女は口端を歪め、胡坐を組んだ足を幾度か叩く。
何を、というところまで読まれている筈はないが、雲山は恥じ入るように頬を赤らめ俯いた。
酒の肴にされてしまうだろうか、と不安に思う。
しかし萃香の笑い声も、誰何を問う言葉も続かなかった。
おや? と雲山は俯いていた顔を挙げる。
見れば萃香は叩いていた膝に手を添え、こちらの体に視線を巡らしていた。
酔いの所為で朱に染まってはいる雲状の体を。
どうかしたか、と思い浮かべて問いかけようとした時だ。
ねぇ、と前置きをして、逆に萃香から問いかけの言葉が飛んできた。
「雲山って……雲なんだよね? っていうことは実体は水っていうことなのかい?」
質問に対して雲山は頷きを返す。
それ故に夏場は涼を求めて寺の仲間達が、体内に潜り込んでくる事もある。
冬場は遠ざけられてしまう事になるのだが。
じゃあ、とこちらの返答を見た萃香は声を弾ませ、
「さっき体の形を変えたみたいに、ギュッて集まれば水の体になって、軽くなら触れるんじゃないかい」
雲山はその提案にまずは打ち震え、しかしすぐ落ち込む事になる。
あれ? とこちらの様子を見て首を傾げた萃香に対し、力なく笑みを浮かべ、応えを返す為に能力を行使する。
形や大きさを自在に変える事が出来る程度の能力を。
能力の行使により瞬時に体に変化が訪れる。
まるで風船が萎むように、雲山は自らの体を縮小していく。
そして手の平大になったこちらを見て、ああ、と萃香が零した。
「形や大きさは変えられても、雲は雲のままなんだねぇ」
然り、と小さくなった雲山は全身で頷きを表現する。
自分はあくまで雲で出来た入道であり。
能力は形や大きさを変化させるものだ。
性質を変化させるものではなく、大きくなる為には大気中の水分を取り込み、小さくなる時は排出する。
外部からの介入がない限り、性質の変化までは行う事ができない。
水分を排出した為、酒の比率が高くなった体で、ふらつきながら雲山は萃香を見上げる。
共に残念がってくれる事を期待して見上げた先。
萃香は歯を見せる笑みを浮かべていた。
何事か、と疑問符状の雲を浮かべる雲山を他所に、彼女は誇らしげに胸を張り、
「ふふん……まだ言っていなかった事があったね。私の能力の事を……!」
宣言と共にこちらと彼女との間にある地面を指差す。
指先の動きに釣られて、雲山が視線を落とせば、その先では一つの動きが起きていた。
境内の石畳の上、砂が四方から集まって積もり渦巻いている。
風もない中、まるで砂が意思を持つかのようにだ。
その光景を見て自然と頭上に疑問符状の雲だけでなく、感嘆符状の雲までが浮かぶ。
それを見て、萃香は諸手を上げ、興奮した様子で自身の能力を告げる。
「そう……! 私は密と疎を操ることができるのさ!」
飛んだ言葉に雲山の体は一部だけではなく、全身が感嘆符へと変化する。
驚愕を全身で表現する為に。
眼下、恐らくは周辺から集まってきた砂が積もった丘があり、
「こうやって砂を集めるだけじゃなく、雲山の体内にある水分を集め、密度を高めるだってできるということさっ」
彼女の能力を理解して、感嘆符状になっていた雲山は歓喜の涙を雨として降らす。
萃香の協力があれば、自分は雲という形質のしがらみから開放される。
そして水という形質を維持できれば、何かに触る事もできるだろう。
それは先程想像した行為を為せるという事だ。
歓喜の表現としての雨が豪雨となって、更に体が萎んでいく。
小石大の大きさになってようやく消失の危機に気付くと、雲山は慌てて周りの水分を吸収して元の大きさへと戻った。
雨が止んだのを見計らって、萃香がこちらに向かって身を乗り出してきて、
「一回試してみようじゃん」
ね? と同意を求めるように首を傾げ、
「形は操作できないから、雲山がなりたい形に変わっておくれよ」
さぁ、と促すように手を差し伸べてきた。
鎖が鳴る金属音と共に伸ばされた手を見つめ、雲山は能力を行使する。
理想とする逞しい体を思い浮かべ、それを模るように雲を変化させていく。
変化は瞬時に果たされる。
引き締まった長い四肢、割れた胸板、豊かな口ひげを雲が再現していく。
理想とする体型となった雲山は、差し伸べられた手に己の手を重ね、頼む、と力強く一度だけ頷いた。
こちらの意を察したらしく、萃香は歯を見せる笑みを浮かべ、空いてる手の親指を立てて拳を作り、
「よしっ、それじゃあ行くよ」
言葉と共に力が来た。
一輪が能力を行使する時と同様に、体を構成する因子へと外部から干渉が入る感覚。
自分がギュッと凝縮されていくのを雲山は感じていた。
あやふやだった輪郭は明確に。靄がかっていた肌は透明感のある瑞々しいものに。
大地についた足からは、地面を踏みしめる確かな感触が帰ってくる。
雲ではない新しい自分へと変化していくのだ。
その事に心が打ち震えた雲山は、自分の体を見回した後に顔をあげた。
するとそこには自分の体ほどの大きさの杯があった。
何事かと目を見開いた視界の中。
杯の向こうには更に大きく感じる萃香が居た。
能力が行使される前は見下ろしていたはずの彼女。
それが見上げる立場に変わっている事に雲山は戸惑いを覚える。
こちらを見下ろす彼女は、あー、と力なさげに漏らしながら頬を掻いて、
「ギュッて圧縮したもんねぇ……」
聞こえた言葉に、雲山は理解を得る。
自分の体は雲で出来ており、正体は疎らに漂う水の結晶だ。
萃香の能力は散らばっているものを、一箇所に凝縮させるものであり。
凝縮されれば小さくなるのも道理。
得た理解は雲山に落胆をもたらした。
杯ほどの体となり、更に小さな手では一輪を抱きしめる事は敵わないだろう。
崩れ落ちそうになる体を杯に預けて堪える。
水状の体は杯がめり込むものの、何とか杯に腕をつく事はできた。
触る事は出来るのだな、と雲山は現状を把握して思う。
崩れそうな足を持ち直し、雲山は杯を弄ぶように揺らしながら、目の前にいる萃香を見上げた。
見上げた彼女は笑みを浮かべていた。
はて? と違和感を覚えて雲山は首を傾げる。
嘲笑の類ではない。短い間ではあるが、時を過ごしてそんな性格ではないとも思える。
楽しみや喜びの表現でもない。先程の言葉からも、今の状況が成功ではない事を理解しているはずだ。
ならば、と呆然とする雲山と視線が合うと、萃香は浮かべた笑みを更に深めて、
「雲山」
響いた言葉はこちらの名を呼ぶものだった。
彼女は笑みを浮かべたままに、膝に置いていた手を掲げ天を指す。
「諦めるのはまだ早いんじゃないかい?」
動きに釣られて上を見上げると、既に萃香が己が指した方へと舞い上がっていた。
彼女が指差し、彼女が向かった先、彼女の姿の向こう。
そこには数多の星が煌く夜空がある。
そしてそこに無数浮かぶ白の彩りは――
*
神社の上空。
雲の状態に戻った雲山は萃香と共に飛んでいた。
元の姿に戻った理由は簡単だ。
萃香の能力による干渉が解かれたからだ。
そして解かれた理由も明白だ。
萃香が別のものへと能力を働きかけているからだ。
雲山は驚きに目を見開きながら、自分達の周囲を見回す。
そこには自分達を取り囲むように、集まり渦巻く巨大な雲の群れがいる。
萃香は集まってきた雲達に満足そうに唇を舌で濡らし、
「雲山」
こちらの名前を呼び、周囲の雲を指差した。
「足らない分は補えばいいんだよ。私なら雲を集められるし、雲山ならこいつらを支配下に入れられるんじゃないかい?」
これだけの雲があれば、普段は実現できない巨大入道への変化も可能だろう。
問いに対し、雲山は簡単に頷きで返す。
それを見て萃香が歯を見せる笑みを浮かべ、
「じゃあ見せてくれるかい? 雲山のかっこいい所を」
集めて周囲に停滞させていた雲達を、こちらへと集結させていた来た。
自分よりも大きな雲の群れに不安が無いわけではない。
しかし期待をされて、応えられなければ漢が廃る。
そう思っているうちに、雲の端がこちらの体に触れたため、雲山は能力を行使する。
形や大きさを自在に変える事が出来る程度の能力を。
雲の群に対し、触れた端から自らの支配下に置く事で、自身の大きさを拡大していく。
同時に支配下に置き、自らとした雲達には理想とする体を構成するための指令を与えた。
渦巻く周りの雲は徐々にその渦を地上の方へと下がっていく。
渦より上には徐々に巨大入道となった雲山の体が露になっていった。
豊かな口ひげを携えた頭部。筋骨逞しい上半身。すらりと長く引き締まった四肢。
理想の体型を雲で完成させた雲山は、その巨大な四肢を振り回して自身の支配が末端まで及んでいる事を確認した。
そして全てが自在に動く事を確認すると、今度は杯程の大きさに見える萃香に対して、親指を立てて右手を突き出した。
彼女もこちらに対して手を突き出したのか、僅かに動きが見えたように思えた途端。
雲山は自分の体に外部からの干渉が入った事を悟る。
それは先程も体験した能力であり、雲山は自分の視界に捉える世界がどんどん大きくなっていくのを感じる。
それが自分が小さく圧縮されていくのだと正しく理解できたのは、砂粒ほどの大きさだった萃香が、宴の際に見た大きさと同じになった時だった。
元の大きさに戻った雲山は、萃香の笑みと共に為された頷きを見て、自分の体へと視線をやる。
そこには水で構成された己の体があった。
透明感のある艶やかな肌は、大量の水分を取り入れた為に酒が薄まったのか淡い水色。
自分で自分の腕を叩いてみれば、僅かに水飛沫が上がるが、確かな手応えが返ってくる。
今度こそ、と喜びに打ち震えると、肌に波紋が立った。
「雲山」
これで何度目か、呼ばれた己の名前に顔を挙げると、自分に向けて飛来するものがあった。
反射的に手を挙げて受け止めれば、それはこちらの手に浅く埋まり、しかし握り締める事ができた。
手を開いてみれば、そこには手の平に収まる程度の杯があり、見上げれば萃香が酒の入った瓢箪を手にしている。
「景気付けに一杯。どうだい?」
断る理由など無かった。
杯を収めた手を萃香に向けて差し出すと、すぐに彼女は酒を注いでくれる。
並々と注がれた杯を引き戻し、何処から摂取するかを悩んだ後に、彼女が宴の席でしていたように口元へと運ぶ。
一息。
僅かの時間で飲み干した酒は瞬時に雲山の肌を桃色に染め上げた。
いい酒だ、と感心すると共に、強すぎはしないか、と不安になる。
酔いが回り、思考が短絡的になっていく中、雲山は飲み干した杯を萃香へ投げ返す。
杯を受け取った萃香は唇を尖らせ、甲高い音を奏でた後に、
「雲山」
こちらの名前を呼び、笑みと共に親指を立てた拳を突き出した。
言葉はもう要らないと、そう読み取れる行為だ。
彼女の行為をそう判断した雲山は、同じく拳を突き出した後。
行動で示す為に降下を開始した。
*
萃香を空に置き去り、雲山は疾駆する。
向かう先は先程まで居た宴の席、神社の境内だ。
慣れぬ体の為か、萃香の能力の効果範囲から離れていく為か、速度に乗るごとに体からは飛沫が飛ぶ。
しかしそれすらも厭わずに雲山は行く。
萃香にのせられた事がきっかけであり、酔いに任せている事がこの勢いであることは分かっていた。
それでも自分と共に生きてきた一輪を抱きしめてやりたいという思いは真実だと、そう思って。
眼前、迫ってくる大地の中心に、篝火を灯す宴の席が見えてくる。
そして数多の輪が出来ている中、目的とする尼僧の姿を瞬時に捉えた。
しかし真上からの抱擁では意味が無い、と雲山は落下する方向を僅かに変える。
曲線を描くように、垂直落下から神社の鳥居をくぐって地面に平行な軌道へと修正した。
突如飛来したこちらに気付き、宴の会場がざわめくのを感じる。
それは構わない。
目的とする彼女の姿を捉え一直線に行く。
彼女は寺では飲まぬ酒に、ほんのりと頬を朱に染め、どこか艶やかな雰囲気を漂わしていた。
周りがざわめく中、とろんとした表情の彼女は迫るこちらへと視線を向けて、表情を和らげる笑みを浮かべて。
「うんざん?」
こちらの名前を呼んでくれた。
如何にも、と雲山は頷きと共に加速する。
*
宴の席に居た面々は目撃した。
突如として雲居一輪に向けて鳥居より飛来した桃色の物体が、何かが飛沫く大きな音と共に、神社の本殿側へと突き抜けていった光景を。
*
雲山は予想していた手応えが無く、腕の中に一輪が居ない事に驚愕して立ち止まる。
目の前には、ざわめきからどよめきに移行した酔っ払いたちが居るだけだ。
彼・彼女は一様にこちらを向き、呆然と目を見開いている。
何事か、と自分の体を見下ろすと、雲山は腹部から下半身にかけて大きく抉れた跡に気付いた。
本当に何事か、と感嘆符が雲山の頭の上に生える。
外的損傷が特に意味を成さない入道だからこそ大丈夫だが、致命傷にもなりかねないほどの傷だ。
こんな傷を負ったこちらを見れば、どよめかれても仕方ないだろう。
申し訳なく思い、雲山は顔を挙げるが、そこで一つの違和感に気付く。
彼・彼女らは確かにこちらを向いているのだが、その視線はこちらを見ていない。
では何を見ているのか。
違和感から派生した疑問に、雲山は一抹の不安を感じた。
しかし立ち尽くしていてもしょうがないと、意を決して雲山は彼・彼女らの視線の行く先を見るために振り返る。
緩やかに周る視界の中、皆が皆、こちらの背後の方へと視線を向けている。
そして雲山を含め、この場に居る皆の視線の終着点。
そこにはずぶ濡れになった一輪の後姿があった。
震える彼女の肩を見てから、雲山はぽっかりと抉れた自分の体に手を添える。
自分の支配下から離れ、失われた体の一部が何処にあるのかは一目瞭然だった。
雲山は何故彼女が濡れているのかを悟り、酔いが一瞬で醒めていくのを感じる。
実際に、桃色だった肌が水色に急速に戻っていく中、雲山は何も言い出す事ができず立ち竦んでいた。
「雲山……?」
こちらの名前を呼ぶ一輪の声が聞こえるが、先程のような高揚は生まれない。
代わりに生まれたのは小さな音だ。
神社の石畳の上に疎らに小さな痕が生まれ、その度に石を打つ音が響く。
動揺から雲山の集中が乱れ、体が崩れかけているのだ。
水滴を、まるで冷や汗のように零しながら雲山は一輪にだけ聞こえる声で語りかける。
すまない、と。
謝罪の言葉が届いたのか、彼女の肩の震えは収まる。
しかし今度は震える声で、
「謝って済む問題……? 大体なんなのよ、その格好!」
言い放って濡れた膝を叩いた。
自分にとっては理想の体型なのだが、と雲山は反論しそうになるのを飲み込む。
そしてこれ以上彼女を刺激しない為に、元の姿に戻る方法を思索する。
すぐにその方法を思い出し、雲山は空を見上げ――
*
神社の上空。
光を遮る雲が無くなり、星の海となった空を背後に置いて、ただ一人、事態を面白おかしそうに眺める人影があった。
瓢箪に直に口をつけて酒を呷るのは、空に取り残されていた萃香だ。
萃香は乱入者にどよめく宴の会場を見下ろしては、口元を歪めて笑みを為す。
「やってる、やってるねぇ。やっぱり宴会は余興が無いとね」
上空からでは雲山が何をしたかまでは確認を取る事はできなかった。
恐らくは彼の為したい事を為したのだろう、と萃香は思う。
傍で見届けられなかった事は残念だったが、手助けが出来たという充足感はあった。
両腕を掲げて、体を大きく伸ばすと、その勢いのままに、まるで空に床があるかのように後ろへと倒れ込んだ。
ごろん、と四肢を放り出して寝転べば、雲一つ無い星空が目の前に広がっている。
「いい星空じゃん……ふぁーっ……あっ……」
そして呟きと共に、拳ほどの大きさに口を開いて欠伸をする。
声とも呼気とも判断つかぬ音が途絶えた頃。
萃香は静かに、しかし速やかに眠りに落ちて――
*
境内の中心。
萃香による外部からの干渉が不意に途絶えた雲山の体は、一瞬の内にはち切れる寸前の風船の様に膨らんだ。
おお? と疑問の色や驚きの色が混じる声が周囲で上がった途端。
雲山の体が破裂した。
萃香の能力によって纏められていた雲山の体は、能力が途絶えた途端に元の姿に戻った。
それは彼女が集めた雲を吸収して巨大化した雲山に他ならない。
神社のある山を覆いつくす形に膨らんだ雲山は、体内より響く悲鳴や怒号にその身をがくがくと震わせる。
ギュッとしたかっただけなのに、と嘆く心は雨として表現された。
その後雲山はこっぴどく叱られた。
しかし雲山はかなり自由に動けるんだな!
俺は用意したティッシュで涙を拭いた。