私は人間という生き物の味を知らない。
食べたくないわけではないのに……
食べたことがないんだから嫌いなはずもないし、どちらかと言うと凄く興味がある。
だから毎日頑張ってるし、それで口に入らないんだから凄く不公平だと思う。
今日は私の分も残してと言っても、分け前が回ってこないんだもの。
「んぐんぐ……ねえ、りぐふ? やっぱりへんだおね?」
「私の眷属食べながら堂々と相談してくるその根性が変だと思うよ」
「仕方ないじゃん、リグルの虫活きが良いんだもん」
妖怪が多く済む森の中、その中の一番大きな木の枝に腰掛けた私ともう一人の妖怪。半分ほど欠けた月のあかりが森を照らすのを眺めらる唯一の場所で、私は夜食を要求していた。それと愚痴も聞いて貰いたかったから。
分け前が貰えない仲間として、この場所に誘ってみたのはリグルっていう虫の妖怪。この子はそもそも人間っていう食料を必要としないみたいだから、好意で狩りを手伝ってくれてるんだけどね。その代わり、あんまり虫食べないで欲しいんだって。
でも、私は食べるけど。
「さぼってたんじゃないの~? ミスティアって軽い歌好きみたいだし、性格も軽いし、虫食べるし」
「虫とか関係なくない?」
「虫食べるのは心が狭いか、悪いヤツか、馬鹿か、怠け者って相場が決まってるんだよ」
「失礼ね、私はお利口で、怠けないもの。ほらほら耳の穴かっぽじって良く聞きなさいよ! 今日の私の大活躍を」
木の枝の上にひょいっと飛び上がると枝が大きくしなり、危うくリグルが落ちそうになる。枝にしがみついて恨めしそうに睨まれても、悪気があった訳じゃないから困るなぁ。
「ごめんごめん、さぁさぁ、皆さん。今宵のミスティア、オンステージ。星空の下のライブ会場へようこそ~」
「私と虫たちぐらいしかいないけどね」
お客の冷やかしなんのその、それでくじけちゃ女が廃る。
今宵、舞い上がった夜雀の華麗なる手際を、心地よい歌に乗せてプレゼント!。
「……声は綺麗なんだけどね、唄ってるかしゃべってるかわからない歌やめない?」
『は』とは何よ失礼な。
私は今日の出来事を声に乗せながら、リグルへ睨みを利かせる。古い妖怪は私の歌を全然理解しようとしないけど、鳥目にするために歌を聴かせた人間ですら妙な顔をするけど、いいんだ、うん。
いつか絶対わかってくれる妖怪が絶対出てくるし。
「わかったから、続けて、ちゃんと聞いてあげるから」
へへん、リグルも強がっちゃって私の歌好きな癖に~、とか思うと気が楽だよね。
そのまま私は、今夜の出来事を歌で語る。
ここの縄張りを収める妖怪に命令されるまま、人間に接触し歌を聴かせて鳥目にする。その後は歌を続けて、餌の在処をみんなに知らせて。次にリグルが、目標を分かり易く光で照らす。
そして最後はトドメのがおーっと。獣っぽい妖怪さんが噛みついて終わり。はい、美味しそう。
「――どうよ!」
「……はいはい、上手上手……」
「こころがこもってな~い!」
「心を込めたら拍手もなしだよ、それがお望みならやめるけど?」
「ん~、とりあえず褒め称えて!」
「はいはい、ミスティアさいこー、すごーい」
「むぅ……なんか馬鹿にされてる気がする」
お返しにどんっと尻餅をついて枝に着席したら、油断していたリグルの体がふわっと浮いて、また慌てて枝にしがみついた。飛べばいいのに、なにしてるのやら。何もしないでよ、って目で訴えながら私の横に腰掛けて、ふぅっとため息を吐いた。
「でもさ、ミスティアって結局、歌ってただけでしょ?」
「なっ!? だけ、って! だけって言った! なにそれ、なんのつもり? 私の能力全否定ってことっ!」
「違うよ、歌をかけて鳥目にしてからそれ以外の足止めもできたんじゃないかなってことだよ。本気で逃げる人間を捕まえるのは簡単に見えるけど危ないんだから、魔物除けのお札持ってる人もいるしね。だからミスティアが確認するために襲いかかってみれば良いんじゃない? 使おうとしたらすぐ逃げればいいだけだし」
「んー、嫌だもん。痛いのとか怖いのとか」
「……それで我が侭言うのはどうかなって思うよ、私は」
「あー、リグルだって光ってるだけじゃない!」
「最初から言ってるけど、私、人間食べなくても生活できるし」
「……あーいえばこういう……私も虫がいればいいけどさ」
「だから食べるなって!」
何さ、私の能力が無ければ人間に逃げられるかも知れないのに、獲物だってほとんど私が見付けてるのに。できることだけ頑張って、無理なことはしないのはとても効率的でいいことだって。そういうこと誰か言ってた気もするから、間違ってないはずなんだけどなぁ。
あ、ほらほらこういの適材適所っていうよね、良い言葉です。
そして立派に報酬貰ってさようならなら尚良し、なんだけど……
あれ?
「そういえば、リグルさ」
「ん? なに?」
そうなると、なんか腑に落ちないのよね。
指に手を当てて考えてみても、やっぱり不自然。羽を動かしながら考えてみても、うん、変だ。
「食べ物も、それ以外の分け前もないのに、なんで狩り手伝ってるの?」
「えっ?」
私が分け前貰えない腹いせに虫を何匹か貰うみたいにさ。リグルも誰かから何か貰っても良いと思うんだよね。気の良いヤツだけど、妖怪ってそういう自己主張強いっていうし。じーって、顔を近づけて見つめてみたら、なんか顔あっち向けるし。
「み、ミスティアには関係ないよ」
「ふーん、さいですか。ま、私は虫が食べれるから大助かり~」
「……だから食べないでって」
「でも、リグルくれるし。お願いしたら」
「……だって、ほら、仲間って言うかさ、ほら……そ、そう! 友達のお願いって断りにくいじゃない!」
「んー、まあ、友達かぁ……それもそうかもね」
愚痴を言い合って、狩りが終わった後も世間話で盛り上がれる。それが友達って言うヤツなら間違いないんだろうね。
よし、友達認定、一号。リグル君。
そうやって心の日記帳に書き込んでいたら、なんだか地平線の方が明るくなってきてね。うわ、もう朝だよ。早いね一日って。ぱぁーってさ、向こうの方からどんどん木のてっぺんを照らし初めて、光が押し寄せて来るみたい。
「私たちの時間、おわっちゃったね」
「うん、戻ろうか」
「そうしよ、みんな寝ちゃっただろうから」
半分だけ顔を出した太陽にばいばいって手を振って、羽を静かに動かした。眠りかけの妖怪って口うるさくて、ちょーっと歌の練習してただけでも怒鳴ってくるからね。
「ミスティア・ローレライ! 今日も一日頑張ります!」
『うるさいっ』『うるせぇっ!』『黙って寝ろ!』
……ほらね?
心が狭いって、怖いよね。
でも、正直まだあんまりねむくないから、野ネズミでも探してみようかな。うん、虫食べたら怒られるし、違う朝食取ってから寝よう。
――と、思ってたんだけど。
自分の住処に帰る途中に、見付けちゃったんだよね。
人里のちょぉっと外で、草を摘んでる人間。
空から見たら丸わかりだっての。
えっと、あれだよね。きっとこれって……いただきますおっけーってやつだよね。ちょっと際どいグレーゾーンだけど、こう、塀とかの外だからぎりぎりってとこ?
最近じゃなんだか人里を守る妖怪とかも出るそうだけど、朝なら大丈夫でしょ。
「んふー、初体験、やっちゃいますかぁ……」
夜の狩りではまだ食べたことのない、大きな獲物。あの他の妖怪たちがむしゃぶりつく姿だけを見せつけられて、唾液を飲むしかできなかった私がたった一人で最高のチャンスを手に入れたんだもの。
風でばれるといけないから妖力飛行に切り替えて……自慢の羽は最小化。うん、可愛い大きさ。それで、そっと人里側から人間の後ろへ。こうやって草を踏む音だけ残して何かが着地したと知らせる。そして振り向けば私がいる、って寸法ね。笑顔を見せて、爪も見せて、恐怖に染まる人間を追い込むわけだよ。リグル君。見習いたまえ、ってあいつ食べないか。
「あれ? 急に足音?」
ほらほら、人間が反応したよ。
とりあえず歌ってみる? って、まあ、あれだね。あんまり明るい内だと効果がないから、手っ取り早くやっちゃおうかな。その長い黒髪をこのカチカチなる爪で引き裂いてやろうかって、髪の毛長いのにこいつ声低いな。人間の女だと思ったのに。うわ、なんか立ったら背もすっごい高いし、ちょっと怖いんだけど……いやいや、びびってない。全然びびってないし!
「よ、妖怪だぞ! 命が惜しかったら囓らせな!」
うし、完璧。
ちょっと最初詰まったけど、凄い威厳たっぷり。こう、がおーって熊を思わせるポーズで両手を上げて、爪を伸ばしてるんだもん。怖くないはずがない。ほら、人間も恐怖で言葉を失い立ち竦む状態とかそんなかんじで……
「……子供、かな? 声の出所は低い位置だから」
「おーい、こらー、こっちー! ほら、爪ピーンってなってるでしょうが!」
けど、何だろうこの人間。変だ。
こっちを見てるみたいなんだけど、反応が薄い。あれだ、私が妖怪だって事も半信半疑みたい。こう翼もばーんって広げてみる?
「ああ、ごめんごめん。なんだか普通の人よりも通りの良い声だったから、場所が掴みにくくて。それに……人間の発声方法とは少し違う気がする」
「ん、わかってるじゃない。私はミスティア、妖怪だよ。だからほら、肉だしてよ、囓るから、爪で切っても良いけど」
「いやー、不自由な身だけど、この若さで死にたくもないんだよね……とにかく、お腹が空いているって思っていいんだよね」
「人間の肉が食べたい」
「……あまり直接的なのはどうかと思うなぁ、ははは」
んー、やっぱり変だこいつ。
人間は普通視覚に頼る。耳が聞こえなくても多少問題ないはずなのに、こいつの場合は耳で私を妖怪だと言った。声が良いからだって、うん、そのとおりの美声なんだけど。すっごく顔を近づけて私と話をしてるから、もしかして私が鳥目にするまでもなく目が見えにくいヤツか。
ん、珍しい個体。
これはアレじゃない? 私の初めての食料にふさわしくない?
「……あ、そうだ! 妖怪って他の食べ物もってたら、そっちで満足したり」
「人間が良い、むしろお前が良い」
「……とんでもない告白だよ」
人間はどうにかして、食べるのを諦めてくれないかと私に交渉してきた。けれど、人間より美味いものなんてないと風の噂で聞いている私を止められるはずもない。ああ、なんだか面倒になってきたから、首とか切っちゃうか。と、私が思い始めた頃。肩を落としていた人間が、何故か元気よく上半身を起こす。
「なら、こうしよう! キミが人間より美味しいと思えるものがあれば、僕を食べない」
「……む?」
おや、おやおやおや?
聞きました奥さん。
この期に及んで命乞いですって。往生際の悪さここに極まれり。
「嘘は良くないなぁ、嘘を吐く人間は食べて良い人間!」
「ちょ、ちょっと待って! 本当だって、人間より美味しいと思えるもの準備するから! もし、もしも不味かったらそのときは甘んじて腕の一本くらいあげるから!」
「ほほぅ……」
必死に私の手を押さえて抵抗する人間の声に私は動きを止める。
普通の妖怪ならここでいただきまーす、に違いない。でも賢いミスティアさんは違うわけですよ。つまり今は人間の腕と、人間よりも美味しいかもしれない何かが手に入るかもしれない。二度とない好機を逃すほど、私は愚かじゃないわけで。
「それならすぐ出して、ほら、出して」
「いや、それがね。家に戻らないと作れないんだよ、今積んだ野草も使いたいし」
「ふーん……」
おやおや、それで逃げられるとでも?
掴み掛かった手は解いてあげるけど、絶対逃がさないんだからね。
「じゃあ、私もついてく」
「はぁ、そうしてくれ、くれぐれも面倒はおこさないでよ?」
「まっかせなさい! ほら、手を握る」
「……不安だ」
人間の男は、やっぱり目が悪いみたいで周囲の音を探りながら顔を忙しなく動かして、私の手を引いて行った。
「へぇー、ふぅーん、これが人間の巣ね」
「できれば家と言ってほしいね……」
無駄に広い、というのかな。一人で生活するには不必要なくらい大きい巣だった。靴を脱ぐ場所と、食べ物が置いてある場所が繋がってて、この草の絨毯の上で寝るんだね。まあここまで大きなのを作るってことは、ふふん、これは私の狙いまたまた大当たりじゃない。
「ほら、隠してないでさっさと出しなさいよ」
「ん? 料理はそんなすぐにはできないよ、これから下準備がいるんだ」
「違うわよ。これだけ広いんなら、いるでしょ?」
「だから、何か言ってくれないとわからないよ」
まあ、素直にならないのもわからなくはない。男は守りたがるものだって言うし、どうやって隠れさせたのかは知らないけど。
「とぼけないでよ、いるんでしょ。あんたの、『つがい』」
「……へぁっ?」
「あー、人間風に言うとどんなんだっけ、奥さん、妻、愛人?」
「最後違っ! とか、え、妻とかいきなり何を!」
「はぁ? だって、あんた。こんな広い巣持ってるってことは、つがいが居るからでしょう? 子供暖めたりとか育てるのに、これだけの広さが必要だからでしょ」
「……えーっと、人間で言うと……小さいほうなんだけど、この家。むしろ小さ過ぎるくらい」
「……ふーん、それじゃあ甲斐性ない男なんだ。じゃあ奥さん来ないわ」
「天国の父さん母さん、いきなり妖怪が家にやってきて言いたい放題です……」
さっき通ってきた場所に立ってた大きい建物も、人間の巣だって考えたら確かに小さいのかも? 人間って何にこんな広さ使うんだろう。無駄だらけじゃない。まあ、そんなことは良いとして、よくわかんないけど凄く暗い顔してるこの人間をどうにかしないとね。
「で、料理とかいつ出てくるの? それとも食べていいってこと?」
「う、く、くそぅ! わかったよ、作ればいいんだろ作れば!」
何故か自棄になってる。そういう年頃なのかな。あー、そうそう、人間には若いときに多感の時期があるって言うし、そんな状態ならしかたないね。人間の慰め方とかしらないしさ~。
「その辺で静かにしててくれ、お願いだから……」
「ん、早くしてね♪」
「くそぅ……」
でもさ、静かにしてろといわれても退屈なんだよね。退屈だから、その料理っていうやつの準備をする人間を観察することにしようかな。油断させといて、反撃とか怖いしね。あらあら、すごい。場所覚えてるのかな、ほとんど見ないで道具使ってるよ。って、何々、火つけるの! うわー、うわぁー。
「……うるさいんだけど?」
「仕方ないじゃない、火とかありえないし」
「料理に火とか、かなり必要だから……」
火をつけた瞬間、びっくりして思わず声が出た。
あんな近くでぼぅってなってるのに、なんで平気なんだろう。目が見えにくいから?
「はい、そうやって静かにしててね」
静かにしてる自覚は、たぶんなかった。
視力が弱いはずの人間の動きが、こう、無駄がないって言うのかな。私より背の高い後姿を見てたら、奇麗だなって思った。人間のかっこいいとか不細工とかよくわかんないけど、料理ってやつを出そうとしてる手の動きとか音が綺麗で。
「~~~~♪」
いつのまにか歌ってた。
包丁の小気味よい音と、ぐつぐつという声を出し始めた金属製の道具に続いて、即興の歌が口から零れてた。暖かい朝の障子ごしの日差しを受けて、体を揺らして歌う。歌詞なんてない。ラーとかアーとか、単音だけを組み合わせた原生的な音の集まり。歌というにはおこがましいものだったのかもしれないけれど、凄く気持ちよかった。
なんだか人間の男も、生意気に私の歌と料理の音を合わせてくるし。上等じゃないの。ふふん、いいじゃない。見せてあげるわよ私の全力。鳥目になってもいいなら、ついて来てみなさ――
「はい、おわり!」
「……むぅぅぅぅ」
「えっと、さっきまで楽しそうだったのに、何で不機嫌そうな声を?」
「……音止めるから」
「え?」
「知らない! もう、できたんならさっさと出しなさいよ!」
早く早くと急かしても、人間はすごくとろいの。さっきの料理の手際はどこにいったのよ、もう。ほら、この机をここに置けばいいんでしょう? まったく、こんなの片手でできるじゃないの。
その程度のことしかしてないのに、なんかありがとうとか言ってくるし、馬鹿丸出しね。
「あ、そうそう、キミは鳥の妖怪でいいんだよね、声が綺麗だから」
「……だからなに?」
「雀とか、お米粒食べるからきっと大丈夫だと思うんだけど……はーい、やきめしとスープでーす」
「ええっ! これがご飯!?」
「もちろん」
「なんか茶色多いね」
「焼いたからね」
ふーん、生で食べられないからあの田んぼに生えてるやつの中身焼いただけでしょ? そんなの人間の食べ物なだけ。絶対生のほうが美味しいはずだし。それにこっちのスープは……あ、論外、少しだけ鳥たちの匂いがする。これはあんまり期待できないかなぁ。
「さーて、じゃあ食べ比べを始めようじゃない」
「……えーっと、さ。こういうときって、料理にする? それとも僕? って聞いたほうがいいのかな」
「なんで顔赤くしてるの?」
「そうですか、妖怪様には通用しませんか……」
なんだかよくわかんないけど、選べってことかな。
机の上におかれたやきめしとスープって、料理か。
反対側に座る、弱々しい人間か。
ま、ここは一つ、念願の方を先にいただいちゃうのがいいよね。私好きなの先に食べる派だし。
「じゃあ、あんたを食べる」
「容赦ないなぁ……」
そしたらね、その人間の男がさっき料理に使ってた道具をもってきてね。とんがったほうを指先に当てたの。そしたら赤い血が、ぽたぽたって!
おお、これが人間の血! 活きのいいやつ!
「はい、どうぞ」
それを小さな皿に受け止めさせて、底が見えなくなる程度の量だけ出したら私の前に置いてきた。って、えっ?
「……これだけ? 肉は! 内臓は!」
「明らかに殺す気満々じゃないか、内臓とか! とりあえず、血と僕の料理を比べてからにしてくれないか」
ま、いいけどね。
人間、あんたわかってないみたいだけどさ。
指先傷つけて血を出してくれたときからかな? たぶん、私の瞳孔開きっぱなしなんだよね。すっごい興奮してるもん。
私の本能がね、あんたを欲してるんだよ。
「んくっ……ぷはぁっ!」
皿を見せつけるように男の目の前で一気に血を飲んでやる。一口にも満たない量だからあっという間に終わっちゃったけど。
獣とは違う、濃厚な味わいと、鼻腔に残る独特な錆くささ。さらりと下の上を過ぎていくのに、旨みが口の中から離れようとしない。こんな液体、今まで口に入れたことなんてないよ。
「うわぁ……本当に妖怪ぽーい」
こびり付いてる血を舐めてたらそんなこと言われた。私の仕草がぼんやりでも見えるんだろうか。妖怪に向かって妖怪っぽいってどういうことだろう。そう見えないってこと? ならここは失礼だって襲い掛かってもいいところだよね? あー、でも、美味しいからいいや。堪能だなぁ……
「さぁーて、じゃあ、次は料理ってやつを食べて。その後あなたを食べるとしようかな」
「公正な判断を望む次第です」
「いやだなぁ、ちゃんとやってあげるってば」
でもね、人間。今の私の本能を満たせるものはありえないよ。だって、血の美味しさを知ったら、肉に対する欲望なんて捨てられるわけがないもの。早くあなたを食べたいって思ってる私の頭を切り替えられるわけがない。
え? 何、このスプーンってやつで食べるの? 面倒だなぁ……
「はむっ……んむんむ……」
「どう? 美味しい?」
口に入れた途端ご飯がほどけて変わった食感だけど……別に大したこと……
「はむ……? あむはむっ」
……大したこと
「もぐっ」
「あの、味とか?」
……なにこれ。
ナニコレナニコレナニコレナニコレ!
美味しい! いや、美味しいとかじゃなくて、なんか噛めば噛むほど味か口の中で絡まって! 好き! もうこれ、大好き!
「おーい、こらー」
「ん゛!」
「あ、はいはい、邪魔するなってことね……」
食べたい。もっと速く食べたい。
こんな小さなスプーンってやつじゃ満足できるはずがないよ。もっと他に、何か、あ、手で食べればいいや。汚れたら後で舐めるだけだもん。はむっ! ああ、頬張れるって幸せぇ~。
「……ねえ、カチャンっとか音したんだけど、投げた? スプーン投げた?」
「ん゛っ!」
「わかったから……静かにするから」
んむんむ……え? あれ? もう空?
少なすぎでしょ!
もっと、もっと……あ、あった!
人間のやつまだ半分以上食べてないしきっといらないんだよね。さってと、じゃあ、いただきまーす。何っ! 何なの! 文句ある? ないなら黙ってなさいよ!
もう、直接口つけちゃうから!
はーむっ、もぐ、もふっ!
……ぷはーっ! 幸せぇぇ。
「…………」
「…………」
え、えーっとぉ……
「……ま、不味い!」
「うそつけぇっ! 何ですか、何なんですかその『不味い』は! 人の朝食まで奪っといてそれはないでしょう! これで食われたら化けて出てやる!」
「わかったわよ! 美味しかったわよ! 血よりも美味しかったわよ! おかげであんた食べられないじゃないどうしてくれる! 私の完璧な計画が崩れたわ!」
「逆ギレ! これが噂の逆ギレですか!」
これは問題だ。
料理という予想以上に美味しい食べ物の罠にすっかり嵌った。もういっそ無理やり襲っちゃってもいいかなぁ。あ、でもこの人間いなくなると、さっきの美味しいの食べられないし。
美味しいものも食べられて……
この人間も食べられる良い方法は……
あ、見っけ!
「それで、人間から料理を教えてもらって、覚えたら襲うってこと?」
「そうそう、完璧だよね」
ぐるぐるーと。すっかり暗くなった森の中で大きな鍋を掻き混ぜてたら、いつもどおりリグルがやってきたから語ってみた。私の恐ろしすぎる計画を。
それを聞いたせいかな、リグルが心配そうに私を見てるね。どうせまた弱いくせに変なこと考えてる、とか思ってるんでしょうけど。料理の恐ろしさを知らないからそんな顔ができるんだよね。
「……ねえ、それってさ最終的にすっごくおいしくなるんだよね?」
「うん、さっき言ったでしょ?」
「じゃあ、人間食べる必要なくない?」
「……あれ?」
えーっと、うーっと。ちょ、ちょっと待ってね。整理する。最初人間食べたいって気持があって、でもそれはきっと美味しいはずだと思ってたから。でもまだ人間を食べたことないし、興味はあるし。ん~。
「それなら、料理を覚えてから人間を食材にするってことで! リグルにもごちそうしてあげちゃうよ。私の料理のおかげでものすごく強くなっちゃうかも!」
「だから人間とか別にいらない。それに今のままで十分。私って結構負けず嫌いだと思うし、それなりに力もあるんだよ?」
「そういえば、ここの森の妖怪全員と一回は戦ったことあるんだっけ? すぐ退散したらしいけど」
「逃げたわけじゃないよ、戦略的撤退。二回目は絶対勝てるから」
「……? よくわかんないけど、とりあえずそんな強いリグルに、元気のおすそ分け、はい、どーぞ♪」
「え、え、え?」
いつか寝首を掻く予定のあいつから教わった、簡単な竈。そこに乗せた借り物の鍋から生み出した魔法の世界。
輝くべきミスティアの一作目の料理だよ。
人間が使う茶碗を渡されたリグルは真剣にその飲み物を見つめて。
「……ねえ、黒いよね」
「うん、黒いね」
「……なんで、虫入れた?」
「美味しいからね」
「それ以外の材料は」
「醤油っぽいものとか、味噌っぽいもの」
「……っぽい?」
「んふふ~、秘密♪」
どうしたのかな、リグル固まっちゃった。
料理と、私の顔を見て、何か悩んでるみたい。あー、虫だけとってあげたほうがよかったかな。
「まあ、私の初めての料理だから食べてみてよ」
「初めて?」
「うん、リグルが、一番最初♪」
「……私が、一番目……初めての相手」
とうとう意を決したみたいで、よしっと気合を入れた後、ぐいって一気に傾けたリグルは……
「ぶふぅぅぅぅぅ~~~~! けはっ……こほっ……」
なんか、盛大に吹いた。
黒い液体を夜空に向かって噴射した。
「あれ? 美味しくない?」
「……個性的過ぎる! 何入れたのさ!」
「えっとね、別に何も? 醤油っていうのを貰ってくるの忘れたから、寺子屋に立ち寄って、黒い液体ちょっと貰ってきたでしょ。それと、味噌っていうのもなかったから、竈に使った粘土とよく似てたよねって思って、どばぁ~」
「ミスティア絶対料理禁止!」
「え、えぇぇぇぇええええええっ!」
なんだか急にリグルが怒って、鍋の中身捨てろって言ってきた!
た、確かに、もったいないなって思って一口食べたらびっくりしたけどさ……
もうちょっと、優しくしてくれてもいいのに……
えっとね、あの後、リグルに聞かれたんだけど。
人里に入るとき無防備でついていってないよね? って。
人間なんて怖がらなくていいから堂々と入ればいいじゃんって言ってみたらさ、人里に妖怪退治の専門家が待ち構えてたらどうするつもりだったの? なぁ~んて。
心配性だなぁ。
大丈夫だよ、あいつ馬鹿だから。そういうとこ気が回らないみたいだし。だからいつまでたっても『つがい』がいないんだろうなぁ。
「ミスティアが出入りするようになってから余計に出会いが減ったんだけど?」
なーんて、女の人のせいにするなんて、失格。
女々しいったらありゃしないもの。
ま、あいつが女の人と出会わないおかげで、私は料理の勉強し放題なんだけどね。あのトントンって気持ちのいい音を聞きながら、鼻歌鳴らして。馬鹿みたいに楽しそうな人間の動きをじーっと見るの。
私が爪を伸ばして、こう首スパッてやっちゃえば、終わっちゃう命なのに。首を見ようと思ったらなんとなーく、そいつの横顔見てたりするんだよね。あら不思議。
「ねえ、料理勉強し始めてからどれぐらい経ったっけ?」
「……二年と三ヶ月」
「うわー、たった二年か」
「たったとか意味不明なんだけど? っていうか、一年間で野菜の皮まともに剥けなかった事実があるんだけど?」
「爪で剥けてたじゃない?」
「……爪使うたびにまな板新調するこっちの身にもなって欲しかったね! なんで板ごと斬れるんだよ」
「また、つまらぬ板を斬ってしまった……」
「はい、包丁持ってるときはふざけない」
人間だからわからないんだろうけどさ、道具に頼る必要ない身としてはだよ。不便になるとわかってるものをなんで練習しないといけないの? ってことだよね。
爪って片手に5本あるでしょ?
だから、にんじんとかだいこんとか、ぽいって放り投げてさ。えいやって両手振り下ろすだけで輪切り完成なんだよ。たまに、台ごと切れるけど。
「あのね、相手に食べて貰いたいって気持ちが大切なの。何を切ったかわからないし洗ってもいないような真っ赤な爪で料理作ったら失礼ってもんだよ。食べてもらう人の気持ちになって、嫌がることをしないのが第一。それと、友達や僕を毒見役にしないこと!」
「えー、不味かったら私損する」
「損とかじゃないでしょ、まったくもぅ……」
ここに通い始めてから準備させた私用の包丁。それを握り締めてとんとんって隣の真似をして切るのが私の日課。最初の一年間は全然だったけど、最近は味付けまでおぼえちゃいました、えっへん。
でも、たまに手元がおぼつかなるときがあって。
「ほら、ずれた。疲れたなら休むべきだよ」
そんなときは、音で教えてくる。
私の後ろにすっと近づいてきて、器用に包丁だけ奪っていくんだもの。
「それに、もうすぐ夕方だろう? お友達が待ってる時間じゃない?」
「んー、もうちょっとここに居たいというか、料理の勉強したいというか。そんな気持ちもあるんだよね」
「おやおや、やっと僕の魅力に!」
「妖怪に色目使って楽しい? ねぇ、楽しい?」
「……くそぅ、今度こっそり鶏肉料理出してやる」
んふふ、悔しそうな顔もかーわいいっ。
そうやってからかってたら無理やり背中を押して追い出そうとするんだもん、大人気ないなぁ。で、何気なく空見上げたら、確かにこいつの言うとおり、もうすぐ星も見えそうな暗さだね。それじゃ、森に戻ろうかな。
「あ、ほら、包丁。忘れるな、それと巾着も」
「はいは~い」
さってと。
今度リグルにはどんな料理作ってあげようかなぁ。
最近覚えた魚料理にでも挑戦してみるかな!
どうせ川原にでかけるし、今日は材料あつめってことで。
そんなことを考えながら空を飛んでたら、あっという間に黒い布が空に被さってくる。うわー、暗い暗い。鳥目注意だね。
「おーい、りーぐるー!」
「ミスティア! おかえり!」
でも、暗い方がいいんだよね。
実は今日、リグルの本来の眷属っていうのかな。蛍たちが成虫に変わるお祝いの日なんだって。寿命が少ないから、一日だけしかできないみたいなんだけど。
月もないから、丁度いいよね。
「さあ、いこうよ!」
いつもはそんなに積極的じゃないリグルも、今日だけはびっくりするほどの行動力。私の手をぐいぐい引っ張って、秘密の川原に連れて行ってくれる。なんで秘密なのか聞いても答えてくれないんだけど、妖怪だと私とリグルしか知らないんだって。
そういうのってさ、なんだかワクワクするよね。
時間と場所時間を二人じめできるんだよ。考えただけで嬉しくなるよね。それに、今までは楽しさを分けて貰うだけだったけど、これからは私もいろいろできちゃうんだもんね。歌でしょ、料理でしょ……それとね!
ま、まぁ、二つあれば、いいよね、うん。
「ん、あれ?」
そして暗闇の中で行き着いた場所は頼りない星だけの光に照らされた、ほとんど真っ暗な広場。たぶん明るいところからここに飛び込んだら何も見えなくなるだろうね。鳥目じゃなくても。水が穏やかに流れる音だけを頼りに、地面があると思われる場所に着地。リグルは暗闇でも周りが見えるみたいだから、それに遅れないようになんとか目を凝らす。
集中して、周囲を見渡して。
「……やっぱりわかんないや!」
はい、降参です。
リグルの話だともう集まってるって言うんだけど、ぜんぜん見えない。河原の丸い石の上にいたら、小さな模様と一緒になっちゃうもの。
「じゃあ私が声をかけるね」
リグルはちょっと男の子っぽい外見だけど、虫からみたら女王様。だからみんなその声に反応するはずなんだよ。そして……
「みんな、大人になったお祝いだよ! さあ、踊ろう!」
声が終わると同時に空に上げた両手、そこに光が集まっていく。
もちろん、魔法や、幻想じゃない。今ここにある命が光っているんだよ。
『蛍』っていうんだって。
それがリグルの命令を伝えるために、数十匹が集まったかと思ったら。まったく同じタイミングで明滅するんだよ。リグルの手から合図を送るために。
「うわぁ……」
その後はね。もう、毎年そうなるってわかってるのに、思わず声が出ちゃう。石の隙間から、周囲の茂みから、川の近くから。すべての風景から光が溢れるんだ。見渡す限り、光、光、光っ! さっきまで真っ暗だった川原が一瞬で光の玉に包まれた。いくつあるかなんて知らないよ、それに、数えるなんて勿体無いもの。星たちのお株を完全に奪って、自分たちが夜の主役だと主張する。どうどうと踊る無数の光たちは、手を振り回したら全部消えてしまいそうなのに、その一つ一つが生きてるって思えるんだ。虫は食べ物だって思ってるけど、今だけは絶対手を出しちゃいけないってわかる。だって、リグルが私を夜のパーティーに招待してくれたんだもの。
「~~~~♪」
だから、私が最初にするのは歌のお返し。
蛍たちが踊りやすいように、今日だけはゆっくりとした曲を選んだ。ありがとうって言葉を込めて、胸の中で誌を作る。
去年もきっと同じことをしてるんだけど、リグルがね最近変なことを言い出したんだ。
「ミスティア、歌、上手になってる。今までも綺麗な声だったけど、凄い……凄いよ!」
褒められると、ちょっと心が乱れるから歌いにくい。でも私の歌が凄いのはずっと前からなのにね。まあ、文句は言いっこなしにして拍手して、くれるリグルのためにも最後まで気を抜かないで……
「はい、おしまい」
「ありがとう、みんなも喜んでるよ! お祝いしてくれてくれて嬉しいって!」
「そんな、こっちこそ素敵な景色を見せてくれたお礼が言いたいのに」
リグルの声にあわせて大きく上下する光。
まるで世界全部がお辞儀しているみたい。
「ふふん、でもね。今日の私は歌だけじゃないんだよ、じゃじゃーん! はい、これ」
腰に巻きつけていた巾着袋の紐を取り、袋を投げた。私の色に合わせたちょっと濃い栗毛色のそれを慌てて受け取った後、リグルは私の声を待って開ける。そこには笹の葉っぱでくるんだ簡単なご飯が準備してあって。
「おにぎり? いいの? 食べても」
「うん、どうぞ。リグルだとお肉とかよりこっちの方が好きかなって思って、ちょっと手を抜きすぎちゃったかな」
「そ、そんなことないよ! 食べる食べる! 最近のミスティアの料理は美味しいから」
「……最近のって、どういうこと?」
「だって最初は、砂糖と塩どころか、醤油と墨汁を間違えてたよね? 料理ですらなかったよ」
「そんなことあったっけ?」
「あったよ! 私食べさせられたもん!」
嘘、本当は覚えてるんだよ。
でもね、あんな失敗するなんて今考えたら凄く恥ずかしくって、覚えてないことにしようと思った。てへへ、笑って誤魔化して、蛍たちを怖がらせないようにゆっくり川の方へと足を運ぶ。しゃがみこんで透き通った水面をじっと見つめてから、靴と靴下を岩の上へ置いた。ちょっとつま先を立てないといけないといけないくらい大きな岩、こんなのどうやって運んだんだろう。ねえ、蛍さん。
返って来ないとわかりきった問いかけで、なんとか恥ずかしい気持ちを紛らわせ。私は流れる水の中へと足を入れた。
「あ、冷たくて気持ちいいかも……」
「ミスティア、スカート!」
もうちょっと深くまで歩いていこうとしたら、リグルの声で気が付いた。川の水面に服が触れそうになってることに。しかたないから、その場で屈んでぶわってスカートの下を持ち上げて。
「う、うわぁ、ミスティアなにしてるの」
端が膝上くらいになるように腰に巻きつけてたら、急にリグルが変な声を出してきた。なんなんだろうね、恥ずかしくないのか、だってさ。秘密の場所だから私とリグルしかいない。他の人の目を気にしなくていいから、そんな過敏に反応しなくてもね。
「こほんっ……それで、ミスティアは何してるの?」
「えっとね、川まできたついでにお魚でも取ろうかなって」
「魚も好きだもんね」
手伝うよ、って、リグルも腕まくりをして川に入ってくれる。でも、あんまり魚取った経験なんてないんだろうね。蛍の明かりが便りって言っても、見難いのには変わりないし。私だと、ほらっ!
「へへーん、二匹同時」
「その爪はちょっと卑怯だよ、私だって持ってたら簡単に捕れるもの」
「ちっちっち、魚の動きに翻弄されてるうちは、いくら爪が鋭くてもうまく刺さらないんだよ。さてと、取れたしお料理でもしようか。あの人にすっごい美味しいの教えてもらったんだぁ」
「あの人? あいつ、じゃなくて?」
「ん、あの人は、あの人だよ? 変なリグル」
両手で同時に手に入れた魚、それに刺した爪を引っ込めながら川から上がったら、先回りしていたリグルの顔が少しだけ曇った気がした。でも、気のせいだよね。蛍たちのお祭りできっと嬉しいはずだから。
だから変な声を気にせずに、回りの森の中から適当に木の枝を集めた。胸に抱えられるほど集まったら一旦戻って、すぐ準備開始だよ。
「あ、そうそう、料理で思い出したんだけどね、聞いてよリグル~。あの人ってば、私が料理覚えるの遅いとか今日も文句言って、こっちは一生懸命やってるのにね。それでちょっと気晴らしに歌いながら包丁回してみたりしても危ないから駄目だって。妖怪の私にだよ? 確かにちょっと痛いかもしれないけどさ、すぐ治るのにね。綺麗な手だから駄目だって、ほとんど見えないくせに」
「へぇ、そう、なんだ」
石をちょっとどかして、円い土の面を出して。その真中に折れた枝を重ねます。そして長めのまっすぐな木の枝を加工して、箸みたいなのを作って魚にずぼって刺すの。それで一回ぐりぐりってして内臓を取り出す。で、最後に串を魚の頭から尾まで貫いて、準備完了。
「そうなんだよ、あの人、目が悪いから、奥さんもなかなか見つからないんだって。なんで? って聞いてみたら、子供も目が見えなくなりそうだから嫌がられてるって、そういうこと言われたらしいね。でね、私にどう思うって聞いてきたからこう答えてあげたんだよ。『そこであんたが諦めたんなら、しょうがない』ってね。そしたらそこは慰めるとこって、怒られちゃった」
串に刺した魚を、積み上げた薪の近くの地面に固定して。これ以上傾かないように注意しながら火が出る位置を予想する。あとは実際に火をつけてこんがり焼き色がついたところで塩を振り掛ければ、簡単で美味しい『焼き魚』の完成。
「でね、可愛そうだから帰り際にちょっとだけ慰めてあげたらさ。その気になっちゃって、私が人間の魅力に気付いたとかいうんだよ。はは、馬鹿みたい。私が興味あるのは人間の肉の方なのに、ねぇ、リグ――」
「やめてよ……」
「え?」
火をつける前に蛍たちをどかしてもらおう。そう思って薪から手を離し、顔を上げたら。リグルが太もものところの服をぎゅっと掴んで、顔をしかめてた。どうしたんだろう、急に具合でも悪くなったのかな。
暗い表情っていうのはわかるんだけど。
俯いて私を見ているから、その分だけ余計に暗く見えたのかもしれない。
「なんで、なんでこの日まであんな奴の話を聞かせるの? 今日は虫たちが主役なんだよ、私たちのお祝いでも、お祭りでもあるのに。こんなときまで聞かせないでよ……」
「え、で、でも……いつも……」
変だよ、いきなり何言うの?
昨日だって、一昨日だって、話を聞いてくれた。
一緒に笑って、人間って馬鹿だねって、頷いてくれた。なんで急に……
「そうだよ、いつも、嫌だったよ! ミスティアが楽しそうに人間の話をするとき、凄いもやもやした! でも、本当のことを言ったら絶対ミスティアが嫌な思いするってわかってたから我慢したよ! でも、今日だけは嫌!」
なんで、なんでなんで?
どうして怒ってるの?
今日あったことを話しただけなのに。
今日あったことをリグルと一緒に笑い合いたかっただけなのに。
わかんないよ、急にそんなこといわれても、何もわかんない!
「ここは私とミスティアだけの場所なのに、あんな人間のことなんて持ち込まないで!」
「ご、ごめん、そんなつもりじゃないの! 私は、リグルが嫌だったなんて知らなくて、あ、ほら仲直りの印にご飯食べ――」
「もういいよ! ミスティアの馬鹿!」
追いかけられなかった。
追いかけたら、また拒絶されそうで。
「あ……」
蛍たちも困ってるのかな、私の周りを心配そうに飛び回って『大丈夫?』って問い掛けてくれてるみたい。
でもね、ちょっと大丈夫じゃないかなぁ……
「おにぎり……」
おいてけぼりにされた、私の髪と同じ色の巾着袋。
本当に、私と一緒だね。
「一生懸命、作ったんだけどな……」
取り残された仲間を手のひらに乗せて、ぱくっと一口。
それなりにお腹が空いていたのに、なんでかな。
今まで食べた中で、一番美味しくないおにぎりだった。
◇ ◇ ◇
「ミスティア、塩とって」
「ん」
トントントン
ぐつぐつぐつ
「次は醤油」
「ん」
トントントン
ぐつぐつぐつ
「こっちはそろそろ味噌かな」
「ん」
トントントン
ぐつぐつぐつ
「…………」
「…………」
トントントン
ぐつぐつぐつ
「え、えっと、ミスティア? この前は確かに料理中はふざけるなって言ったけど。別にしゃべってもいいからね?」
「ん」
「そ、それと、もうキャベツ切らなくていいと思うんだ。千切りとか微塵切りとかいう話じゃなくて。音からしてもうシャキシャキしてないんだけど、もう粉になりかけてない?」
「ん」
「おーい、こらー」
「ん」
「……もしかして不機嫌なのは、昨日友達と喧嘩したから?」
「っ! そんなわけないでしょぉ!」
「ちょ、まっ! 包丁、包丁!」
誰のせいで喧嘩したと思うのよ。と怒鳴りたかったけど、やめた。ただの八つ当たりだったから。でも、包丁を持ったまま手を顔に突き付けたのが悪かったのか。おもいっきり身を引いて首をぶんぶん振る姿を見たら。悪い気がしたけど……胸がすっとしたのは秘密。
「どんなに怒ってても料理には出しちゃだめだよ、ほら深呼吸」
「怒ってない。まあ、例え怒ってたとしてもあんたが私の食料になってくれるなら水に流すけど、許さない場合はもちろんこのまま一思いに」
「何この致命的な選択肢、って許すって言ってる時点で怒ってるって証明じゃ」
「じゃあ、怒ってることにしてさっきの実行しようか?」
「うわー、すごーい、ミスティアさん冷戦沈着」
「……わかればよろしい、むかつくけど」
でも、黙ってるよりは確かに無駄な話をした方が楽になる。
昨日の夜からずっと、巣に戻っても何も手につかなかった。リグルに嫌われたって思ったらなんだか、見えてるもの全部が真っ黒になった気がして。なんとか仲直りする方法を考えないといけないって思うんだけど、全部空回り。
「ねえ、あんたさ、なんでこんな料理上手なの? 人間の中でも美味い方なんでしょ?」
雑談するくらいなら、と。少し前から聞いてみたかったことを口にしてみた。どうせまた、いつもどおり過去は語りにくいとか、回りくどいことを言うんだろうけれど。
ほら、悩む振りをして私の方を気にしてる。なんて気の小さいヤツ。
「昔、ちょっとした小料理屋で働いてて、目やられて退職」
「はっ?」
「そのときの貯金もあるから、今はそれをちょっとずつ使って生計立ててるかな。大家さんにもお世話になってるし」
意外だった。
絶対はぐらかすと思ったのに、素直に説明してきたから。小料理屋とかいまいちわからないけど、料理系の店ってことなんだろう。
「なーんてね、今までの僕じゃあ、考えられないくらい正直になってみた。びっくりした?」
「それが普通なんじゃない?」
「ミスティアの冷たさも戻ってきて何より……でもまぁ、吹っ切れたのはつい昨日なんだけどね」
いつ? って聞いてみたら『昨日』だって。
本当に最近でびっくりした。
たぶん、私が帰った後で何かあったんだろうって思ってたら。私が突き付けたままの包丁をどかしながら、もう片方の指で私の額を突付いてくる。
「馬鹿みたいに素直な妖怪が、『諦めたんなら仕方ない』なんて、立派なこというから。なんだかむかむかして、諦めてやらないことにした」
「ふーん、で、何を?」
「店を出そうと思う。僕の店、料理をお客に食べてもらう場所を作るんだ」
私は別に何もしなかった。
拍手をするでもなく、歌で祝うでもなく、ただじっと見ていた。なんだかいつもよりきらきらして見える。男の姿を。
「口で言うだけなら簡単ね」
「ふっふっふ、その答えも予想済みさ、ミスティア! 視界が狭いのを不利と捉えるんじゃなくて、売りにする。もちろん料理を運んでくれる人は大事だし、店の配置も手触りで大体覚える必要もあるけど、もし僕がそんなことをできたら、同じように体が不自由な人の希望になれるんじゃないかってね!」
同じように体が不自由な人、というのがどんな人間かはいまいちわからない。それに希望とか、胡散臭い言葉も出てきた。
でも、それが素直に心に響くのは……
たぶん、こいつが本気になってるからなんだろう。
「そっか、じゃあそんな店ができたらあんたを食べるのを諦めて、手伝ってあげるよ」
「おお! 人間と妖怪の共存のシンボルにもなるということか!」
「……なんかうそ臭くなってきた」
「な、なんですとっ! 本気だって! 資金少ないけど、この家改修できるくらいの前金はあるし!」
そう、じゃあ、そういうことにしてあげる。そう心の中でつぶやいたとき、私はふと思った。 私はこの人間の話を聞いていたとき、どんな顔をしていたんだろうって。確かに朝は自分でもわかるくらい怒りが溢れてたはずなのに。
「お金あるなら、まな板買って。キャベツに木が混ざってる」
「力任せに包丁使うからだよ! だから料理に感情をぶつけるなって言ってるのに……」
なんていうかな、こいつといると楽なんだ。
楽だから、いつのまにか表情が緩んでる。
頬が、柔らかくなって。
知らないうちに、たぶん、何回も笑ってるんだ。
「じゃあ、今日は練習終わり。って、大体教え終わってる気がするけど?」
「私が料理が、あんたの料理の味を超えたとき、腕噛ませてくれるって約束だもん」
「いつ約束した! それに! その条件じゃ、教えてる僕が自殺志願者みたいで嫌なんだけど?」
「そういう変態っているらしいね!」
「ちがう、絶対に違う! ま、どうせ僕の方が先に死ぬから、そのときの死体くらいならあげるよ。カサカサだろうけど」
「できれば今くらいの方が」
「帰れ! はい、また明日!」
あー、もぅ。
ちょっといじったらこれだよ。背中押して追い出してくるし。
どうせまな板も再起不能だし、日も沈みかけてるし丁度いいんだけど。さぁて、森に帰って材料集めて簡単な夕食でも、ってあれ? 包丁ないや。
……ま、いっか。
今日くらいその辺の野ウサギでも食べてから帰ろっと。
◇ ◇ ◇
彼女がそんな行動を起こしたのは、たった一人に対する罪滅ぼしのため。
「駄目だな、私。最悪だ」
彼女は嫉妬した。
歌が上手くなること。
料理が美味しくなること。
大事な友達が、新しい面を見せるたびに、嬉しいという感情と黒い感情が同時に湧きあがった。特に歌が上手くなることなんて、たった一つしか考えられなかったから。
「そんなことありえないはずなのに……」
虫でもそうだ。
自分の音を聞いてもらいたい相手がいるときは、その音に磨きがかかる。声を届けたい相手のために、心を込めて鳴らし、謳い上げるから。
だからミスティアの歌が上達しているのはきっと、見ず知らずの人間のせいだとリグルは思った。人間に親友を、ミスティアを奪われるという、強迫観念もあったのかもしれない。だから彼女は行動に出た。
謝るよりも先に、それを形で見せようとした。
「人間、出て来い……人間」
日が沈みかけ薄暗い人里を取り囲む茂みの中、リグルは待った。
自分が食べるためじゃない。
その肉の味をまだ知らない親友のため。
ミスティアのために、待ち続ける。日が暮れても、薄い闇が下りても、夜行性の獣が寝静まっても。ずっと待ち続ける覚悟で。
「っ!」
しかし、その願いが天に通じたのか。
思ったよりも早く好機は訪れた、人間が人里のほうから塀伝いに歩いてきたのだ。なんだか細い声で何かを叫んでいるが、関係ない。視界に入れば、彼女の射程だ。米粒の大きさ程度にしか見えない目標に向かってリグルは虫を飛ばす。
麻酔効果のある毒を持った、自慢の妖蜂を。
どさり、と。
程なくして、リグルの眼前で人間があっさりと前のめりに倒れ、起き上がる気配もない。即効性の毒が効果を見せたのだろう。周囲を探り、ほかの人間がないことを確認して、すぐに倒れた人間の側へ。
「うん、これなら十分!」
大きさも肉付きも、そう悪くない。
手元には……外に出るときの武器だろうか。人間がよく使う包丁が握られていたが、リグルの前では意味をなさなかった。毒にやられ、うつ伏せで寝息を立てる人間を両腕で抱えて飛ぶ。その姿はまさしく、とある蜂の母親が子供のために餌を運ぶ図式に似ていた。
そしていつもの合流地点。
森の中で一番高い木の幹に獲物の背中を預けて、はっぱで隠す。これを見せたときにミスティアの喜ぶ顔を思い浮かべて、くすくすっと微笑みながら、こんもりと草で偽物の茂みを作り出した。
あとは、じっと、親友の帰りを待つだけ。
高い木の、枝の上で。
そして『ごめんなさい』って素直に謝って、最高の食べ物をプレゼントするんだ。
「……求愛行動みたい、あはは、違うんだけどね」
自分で言ってみて、恥ずかしくなったのか。頬を赤らめて星空を見上げていたら。
「……リグル」
昨日の蛍の夜とは対照的な、戸惑う声が彼女の上から降ってきた。
どう挨拶していいのかわからない、それが如実に覗える。だから、リグルは躊躇うことなく微笑んで、斜めに頭を下げる。
「ごめん、昨日はどうかしてた。きっと蛍たちの夜だったから興奮してたんだと思う」
「あ、……う、うん! 気にしなくていいよ! きっと、私もどこか悪かったんだろうから! じゃあ、今日は何かして遊ぼうか!」
いつもなら、何も用がないときは人間の話から始める。
今日は人里で何があったとか、何が美味しかったとか。
でも、それを口に出さないということは、昨日のことを少なからず気にしてしまっているのだろう。本当なら安らぐ場所であるはずの友達という居場所。それを自分で崩してしまったとリグルは胸を痛め、それでも笑顔でミスティアに手を伸ばす。
「それよりね、ミスティア。今日はとっておきのプレゼントがあるんだ」
「え? プレゼント?」
「うん、昨日のお詫び。素敵な食べ物を準備してみたんだよ!」
「えええええっ! 本当に、何々なんだろう。蜜蜂かな、芋虫かな!」
「……あはは、虫から離れてよ」
「でも、リグルから貰うのってそういう子ばかりでしょ?」
「ふふん、でも違う。今日はね、がんばって狩ってきたんだよ。ミスティアが喜んでくれるって思って!」
「んー、じゃあ猪? 鹿?」
「正解はぁ――」
そうやって、リグルが息を吸い込み。
大きな声で答えを告げる音よりも速く――
「う、うわぁぁぁぁ、なんだ! なんだおまえら!」
「しまった! 獲物がっ!」
言葉を持つ何かの叫び声が、周囲に響き。
「――――っ!!」
「ミスティア、何をっ!」
それに遅れて、一人の夜雀が声を絞り出した。
歌を聴いたものを鳥目の能力が、森を覆い尽くす範囲で発動する。
動物や、人間、妖怪にすら影響を及ぼす力で。
初めて見た。
人間の声を聞いた瞬間、空中で動きを停止させたときのあの驚愕の表情。
口を半開きにして、不安げに視線だけを彷徨わせ、両手はあるはずのないものを探して宙を掻く。その直後に訪れた、爆発的な妖力を乗せた音の衝撃。
爆心地でそれを受けたリグルが意識を取り戻せたのは、背中が地面を打つ痛みのおかげだった。
「っ!」
いくら肉体に重きをおかない妖怪であっても、痛いものは痛い。
幻想で作られた体には呼吸器官も備わっているのだから、受身も取れずに強い圧力を受ければ無理やり機能が麻痺させられる。それはわずかな時間ではあるが、空気を奪われた体はむせ返るばかりで動くこともできない。しかもミスティアの能力を受けたおかげで、視力さえ奪われた状態だ。それでも何か確認できるものはないかと地面の上でもがいて指先で地面を引っかいたとき、異質な草木の感触がした。
手で簡単に動く、いくつもの重なり。根と茎が繋がっていればありえないはずなのに。
――間違いない。
視界が閉ざされた中で見つけた手掛かりは、さっきリグルが自分で集めたもの。人間を隠すために自分で作りあげた手作りの茂み。それが周囲に散らばっているところから判断して、誰かが崩したと判断できる。眠ったまま死なないように、手加減した毒が仇になったのだろう。そして驚いた人間が茂みを掻き分けたところで。
「……この液体は」
何かと遭遇した。
それが何かはわからないが、その直後に、この草木にこびり付いた液体が生まれた。
ただし、それが誰のものかはわからない。
「なに、これ……」
人間かミスティアか他の妖怪か。
鳥目にする能力が弱まってきたのか、段々と明瞭になる視界の中に、鮮明なる色が飛び込んでくる。
その場に相応しくない、緑と茶色の世界を覆い潰すような、鮮血。闇の中でもその色だけが、はっきりと見えた気がした。奪われていた視界が晴れていくにつれ、絶望的な世界が広がっていく。
「ミスティア……」
不安に駆られ、リグルは小さくその名を呼んだ。
たった人間一人で、これだけの量を流せるか?
木の幹、地面、落ち葉、枝、茂み――
簡単な小屋くらいなら容易に収まるこの空間を埋め尽くす真紅が、一瞬のうちに生み出せるか。この色の中に、彼女のものも――
「ミスティアっ!」
二度目に叫ぶと同時に、リグルは森の中を飛んでいた。
周囲の虫たちと意識を繋げ、鳥の妖怪が飛んでいった場所を探す。地面を見て、血痕を辿っていたんじゃ間に合わないと思ったから。ミスティアの本気の飛行速度はリグルを軽く上回るが、もし、もしもである。
手傷を負っていたり、人間を抱えていたら、その優位性は完全に消える。
獣の妖怪たちが多いこの森でその行為を実践することは、餌をゆっくり運んでいることに変わりなく。大事な人間という食料を独り占めしようとしていると受け取られかねない。人間を狩る集団の下位に位置するミスティアが、まだ分け前を与えられたことがないミスティアが、そんな裏切り行為をすればどうなるか。
想像はできるが、したくない。
そんな目には、絶対合わせられない。
そうならないために、虫を使って匂いを消しながら秘密の場所まで運んで、ゆっくり食べてもらおうと思っていたのに。
「お願い、みんな教えて、ミスティアの居場所を」
何故、ミスティアがあんな行動をとったのか。
そんなことを考えながら、リグルは虫たちの声を頼りに進行方向を割り出し、飛び続ける。ただ獲物を食べるだけなら、最初のあの能力は必要ない。あんな膨大な妖力を犠牲にする方法など取るはずがない。森に生きる動物から、いや、森の妖怪たちから何かを隠したいから取った行動にも思えた。
そしてその後の行動から推測して。
「……ありえないよ、そんなこと……」
何千? 何万?
人里には膨大な数の人間が生活している。
そんな中でたった一人を、そのたった一人を引き当てるなんてできるはずがない。もしそうだとして、その人間に何かあったら。
……どうやって、償えばいい?
絶望に似た焦燥感がリグルの心を支配する中で、何も変わらない森の風景に変化が訪れた。
目の前の茂みが、大きく揺れたのだ。
ミスティア! とは、叫ばない。
考えにくいから、虫たちの声を聞く限りミスティアは飛んで移動していたらしい。それなのに、ああやってガサガサと茂みを鳴らして移動するはずがない。ならば、アレは何だ。あの黒い群れは何だというのか。
「狼の妖獣……っ!」
ミスティアの所属する集団の上位を占める、狼の妖獣たち。
その多くがいきり立ち、唾液を撒き散らして移動しているのだ。何を追っているか想像に難しくない。だからリグルは躊躇わなかった。
空中を飛ぶ推進力に、幹を蹴ることで生まれる速度を追加。
そして、体を捻り、回転力を追加。
あとは、ただ直進し。
弾丸となって目標を穿つのみ。
「リ・グ・ルゥ、キィィィィッッック!」
「ぐほぉぁっ!」
狼人の群れの先頭、それを任され突出していた一体の脇腹に全速力の蹴りが突き刺さった。直進していた慣性を無視し、きりもみしながら真横に吹き飛ぶ巨体は杉の幹を易々と破壊して暗闇の中へと消えていく。安否など、予想するまでもない。
その予想だにしない不意打ちに群れが急停止する中。リグルは空中で蹴り足を引き戻し、進行方向に陣取った。
「ここから先は立ち入り禁止だよ」
白狼天狗の男の外見を黒くして、筋肉を付け加えた外見の狼人たち。リグルよりも頭二つ以上、横幅にいたっては二倍以上違う集団。けれどリグルは怯えも見せず、腕を組んで睨み付けた。そして同時に、その群れの頭数を冷静に数える。
「ほほぅ、ミスティアの知り合いの虫が、何の真似かな?」
「聞こえなかった? この先には進ませるつもりないって。今なら何もせず帰してあげる」
九体、それがここに存在する狼人たちの数。
それはまさしく、代表として話し掛けてきたヤツの群れの総数。周囲の虫たちに周囲を確認させても伏兵の影はない。
「それは無理だ。この先には裏切り者がいる。俺の仲間が見つけた人間を独り占めして逃げたミスティアがいる。代表としては許して置けない行為だ」
「あれは私が見つけてプレゼントした獲物だよ、群れの決まりには該当しないはずだけど?」
「それが正しいとしても、逃げたとき俺の部下の胸に傷をつけた。その見せしめも必要だ」
どちらにしろ、引く気はない。それが答えだった。
確かに、群れの中に山伏のような服の前面を切り裂かれた個体がいる。しかし驚異的な再生能力を誇る狼人の肉体ゆえ、傷などどこにも残っていない。一度彼らと戦ったことがあるリグルも、虫たちの毒に対する抵抗力の高さに目を剥いたものだ。
「だから、リグルよ。邪魔するんならこっちの流儀で相手するぜ? 一対一で戦ってやると思うなよ?」
「……虫って貶してる相手に九人がかりって、プライドはないの?」
「そんなものじゃ、飯は食えないからな!」
代表者に賛同し、下卑た笑い声を上げる狼人たち。
しかし、その目だけはすでに爛々と輝いていた。
小さな獲物であるリグルを目標とし、一人、一人と。群れから散っていく。一度勝利したことのある相手でも、容赦なく群れで包囲し片を付ける
リグルからしてみれば、巨大な塔にすら見える男たち。木々すら用意に薙ぎ払う膂力を持った腕を持つ獣に、取り囲まれるのはなんとか避けようと身を引くリグルだったが。そのときにはもう、包囲網が完成していた。
「今から謝れば、手足くらいで勘弁してやるが?」
絶対的な優位に立ち、暴力的な解決策を提示する。
命乞いをして見せろ、と。
しかし狼人たちは、あることを忘れていた。もし途中で信念を曲げるような中途半端な愚か者が、彼らの前になど立とうと思うはずがない。
「悪いね、残念だけど……私、馬鹿だから」
何故なら、彼女は正真正銘の馬鹿。
こうと決めたら、驚くほど真っ直ぐ。
「親友を売って生き残るなんて考え方できるほど、頭良くないんだよね!」
その信念を貫き通すため、リグルは合図を送る。
声と同時に、仕掛けをすべて動かした。
「ん?」
リグルが叫びを上げた途端、狼人たちが同時に首筋を押さえる。
ちくり、と何かに刺された気がしたから。
何気なくそこを叩いて見れば、何かがつぶれる感触があって一匹の蜂が地面に落ちた。
「妖蜂か、これが会話をして時間を稼いだ切り札というところかな?」
致死性のある神経毒。
人間であれば一瞬で黄泉の世界へと誘うことができる猛毒を込めた蜂だった。しかし、わずかに苦しむ個体が数体いるだけで、ほとんどの狼人は変化を見せない。普段から毒性の強い蛇などの動物を食する彼らの特性だった。
最初の一手を無効化されたリグルは、また妖力で虫を生み出し放射状に射出。牽制をばら撒いてから続いて地面を蹴って飛び上がった。
しかし、リグルの予想とはまるで違う動きを狼人たちは見せる。九人いたうちの四人が近くの四人の盾になったのである。そしてリグルの攻撃を逃れた四人は後を追って同時に飛び上がる。
四方向から一気に迫られては堪らないと、追い来る四人の迎撃のために虫を準備して。しかし、そこでリグルが気付いた。予想以上に、遅いのである。まるでリグルの反撃を誘っているかのようで……
(上だよ)
「しまっ!」
虫が、教えてくれた。
狼人たちの連携はすべてがフェイクで、本命がどこにあるかを。慌てて空を仰ぎ見たリグルの視界に映ったのは、両手を揃えて今にも振り下ろそうとする巨体。
腕の軌道を予測し、なんとか避けようとしたが遅かった。
頭を狙った両手の一撃は何とか避けたものの、追い討ちの回し蹴りを肩に受けてまともに吹き飛ばされてしまう。足先が触れる前に自分で身を引いたおかげで致命的な攻撃には至らなかったが。
「ほう、うまく受けたな」
地面に叩き付けられたあと、体が跳ねた勢いを利用して横回転。すばやく体勢を立て直すが、右腕に大きな違和感が残った。痺れて、動かないのである。
「綺麗な当たり方はしてないはずなのに、馬鹿力にもほどがあるね……」
「さて、次はその足でも動かなくしてやろうか?」
おかげで妖力から生み出した眷属たちを速射するのが難しくなった。牽制もできないまま、速さと力比べを行わなければいけない。そんな手放しで降参したくなる状況下にあっても、リグルは下がろうとはしなかった。再び包囲を作り始めた狼人を冷ややかな目で見つめ返し。
「二回目だったよね、私とあなたたちが戦うの」
再度、確認した。
「ああ、一度目は毒が効かなくて逃げたはずだ。惨めにな」
「そうだよね、一度目も間違いなく妖蜂を刺した。じゃあ、もうすぐ終わりだね。あなたたちともお別れ」
唯一動く左腕を目の前に上げ、会話を繰り返す代表格の狼人を指差す。
そんな不敵な態度を腕ごとへし折ってやろうと、一歩足を踏み出したときだった。何もないところで巨体が倒れ、土煙を上げたのだ。
立ち上がろうとしても起き上がれずない。頭を振ってから力を入れても、大きな身体は地面から離れようとせず。腕だけが震えていた。
「眩暈、意識障害、呼吸困難、さて。あなたには今どんな症状が起こっているのかな? もう動かない仲間もいるようだけど」
言葉のとおりだった。
なんとか顔を上げた狼人が見たものは、彼と同じく地に伏した仲間の姿。同じく地面の上でもがくものもいれば、微動だにしないものもいる。まるで夜の森に命を吸い尽くされたかと錯覚するほど、その光景は異様だった。
目に見えない攻撃をリグルが仕掛けたとも考えられない。
「何をしたのか、聞きたそうな顔だね。でも私は特に変わったことをしたわけじゃない。一度目と同じ毒をあなたたちに入れただけなんだよ。それでもう、勝負はついてた」
そのリグルの言葉を聞いても、彼らは理解できない。
虫程度の毒で地に伏すなど、欠片も想像していなかった。彼らが攻撃を当てるために偽装したのと同じように、リグルの行動も時間稼ぎにしか過ぎなかった。
「私の毒はね身体が警戒し、抗体を生み出しやすい仕組になっているの。だから二度目に同じ毒を入れられた場合過剰なくらい敏感に反応して、その抗体そのものが毒と自らの肉体を内面から破壊してしまう。自然界にある毒なら、あなたたちは少量ずつ摂取しているから急激な反応は起こらないはずだけど。私の妖蜂の持つ毒はこの子たちしか持っていない。つまり、急激な変化を抑えることができない」
『アナフィラスキーショック』
アレルギー症状の一種で、毒を追い出そうとする作用が肉体にも影響し、最悪、死に至る。特に再生能力が高く即座に耐性が作られる種族にとって、能力を逆手に取られた防ぎようがない凶悪な攻撃手段となる。
リグルがミスティア以外の森の妖怪に一度勝負を挑んだのは、このため。相手が一度は勝ったことのある相手だと油断し、易々と毒を受け入れられるようにすべて仕組んだ。
「……警告は、したからね」
親友の脅威となる存在が動かなくなったことを確認してから、リグルは再び夜の中を飛んだ。
彼女の無事だけを願いながら。
リグルは夜の中を進むたび、胸を締め付ける痛みが増していく。
先ほどの戦闘における傷のせいではない。
ミスティアの飛行経路を知り、目的地を把握してしまったせいで、ありえないと思っていた偶然が真実味を帯びてきたから。推測なんてする必要もないくらい。ミスティアは明らかに人里を目指していた。
人間を抱えたまま、そこにいくとすれば可能性はたった一つ。
その人間を、救うため。
「違うの……ミスティア、私そんなつもりじゃなかった……」
そして、その対象となる人物は、ミスティアに料理を教えていた人間としか考えられない。
謝罪の言葉を口の中で響かせても、結果は変わらない。
いくら妬ましいと思っても、殺してまで奪い取るなんて考えていなかったのに、この世界は残酷な事象を作り出していた。
ただ、単純に昨日のことを謝りたくて、プレゼントを準備した。
たったそれだけのことだったのに。
「どうしよう……」
時間的なことを考えて、ミスティアはもう人里に到着しているだろう。人間を送り届け、よかったと胸を撫で下ろしているんだろう。もしかしたら、涙すら流しているかもしれない。
けれど、その後。彼女にとって大切な人間を、食料にしようとして命の危険にまであわせた原因を彼女は許してくれるだろうか。
今までと同じ顔で、笑いかけてくれるだろうか。
「ごめんなさいって、言うくらいしか……もう思いつかないよ……」
もう、リグルは、泣きたかった。
その場で飛ぶのをやめて泣き喚きたかった。
でも、今なにもしなかったら、ミスティアとのつながりが全てなくなる気がして、怖かった。だから体を休めずに森の中を前だけ見て飛び続けた。
ここまでくれば人里はもう目と鼻の先。
今日はもう会えないかもしれないと速度を緩めて……
(下……)
その虫の声に反応できたのは、偶然だったのかもしれない。
声に従うまま何気なく下に顔を向けた、そのとき。
「ミス、ティア?」
後、ひと飛びすれば森を抜けるところで、地面の上に座るミスティアを見つけた。
大きく切り裂かれた傷の残る背中。
それを外気に晒した痛々しい姿の親友を。
「ミスティア! 大丈夫っ!」
さきほどまでの黒い感情を吹き飛ばし、リグルはすぐ側に着地し身を寄せる。やはり最初の広場の血はミスティアのものも混ざっていたのだ。狼人と争い、お互い傷ついた結果があの惨状。
「リグル……」
罵倒されることを覚悟してミスティアに顔を見せ、間髪おかずに自分のマントを破り捨てる。そして長い布を作って包帯にし、傷が隠れるように体へと巻きつけていった。しかしそんな簡易な治療の間、彼女はほとんどリグルを見ない。
じっと、少し先の地面を見ていた。
「ごめん、もう少ししたら、包帯巻き終わるから」
「うん、ありがと……」
傷は確かに浅いものではないが、妖怪ならば十分動き回れる部類。
ミスティアの衣服が予想以上に赤く染まって見えたから、重傷だと判断したリグルであったが、思い違いだったと息を吐く。
この程度の怪我で本当によかったと、安堵してミスティアの顔を見た。
すると、やはりミスティアはどこか一点を見つめており、何気なくリグルはその方向へと視線を合わせる。
「あのね、リグル。さっきまで、しゃべってたんだよ」
「……え?」
ミスティアがこんなところで休んでいるから。
思い込んでいた。
「私のこと見て、大丈夫? とか、言ってたんだ。馬鹿みたい、自分も私と同じくらいの傷受けてるのにさ、痛いなんて一言も伝えてくれなかった。僕のせいで怪我させたとか、うるさいくらいに言ってたんだよ」
人間を送り届けて、休憩しているんだとそう思い込んだ。
「でもね、急に、静かになったんだ……」
「ミスティア……」
「もう少しで人里だよって言っても、何も返してくれなくなった。おかしいよね? だって、私と同じくらいの傷なんだよ? ありえないって……こんなの。一日もあればすぐ治っちゃう傷なのに、あの人ね……どんどん、冷たくなってくんだ」
安らかな顔をして眠る人間。
それがリグルの第一印象だった。
妖怪の住む森に運ばれたというのに、その顔には恐怖が微塵もない。
「暖めたよ、私だって。親鳥が卵暖めるときみたいに、羽で擦ったりもした! なのに、起きてくれない! 動いてくれない!」
でも、その人間は眠っているわけでも、気絶しているわけでもない。
叫ぶミスティアの引き絞った声が、その事実を証明していた。リグルは唇を噛み、手をぎゅっと握り締めることしかできない。でもミスティアは、少しだけ顔を明るくしてリグルにしがみ付いてきた。
「そうだよ、リグルって虫で音を出せるよね。ほら、すごく煩くしたらきっとあの人も起きてくれるよ、それに私の歌も乗せれば絶対っ」
「……駄目だよ、ミスティア」
「大丈夫だよっ! あの人、私の歌綺麗って言ってくれたもの! 耳元で歌ってあげれば、きっと、起きて――」
「人間は、妖怪とは違う」
「――っ!」
すがり付いた手をミスティアは離した。
きっと、最初から彼女もわかっていたから。
妖怪とは違う生き物が、大きな傷を負い動かなくなったら、何が待っているか。
それを理解した上で、納得できなかった。
知識の上ではもうすべてが手遅れなのに、どうしてもそれを覆したくて理想だけを探した。確率がすべてゼロであっても、行動せずにはいられなかった。
「ごめん、ミスティア……ごめん」
泣きもせず、叫びもせず。
肩を落とし、地面に座り込むだけ小さな背中。
それを見ていたらもう、リグルには誤ることしかできなかった。
『許してほしい』なんて言葉は、出なかった。
許されるはずがないと、そう思ったから。
その鋭い爪で何度も切り裂かれるんだろうと、そう思っていた。
しかし、おもむろに立ち上がったミスティアは、彼女を罵倒することも攻撃することもなく。ただ、首を横に振った。
「リグルのせいじゃない。私のせい。あの人、手にね、包丁持ってた。私がいつも使ってたヤツ。私がそれを忘れたから慌てて追いかけたんだと思う。だから、人里の外まで出たんだ」
「っ! そんなことないっ! ミスティアは何も悪くない!」
「ううん、私のせい」
「なんで、なんでそんな悲しいこと……」
「だってさ、そう思ってないと……嫌だから」
動かない男へと、一歩、二歩、足を踏み出し、急に振り返って微笑んだ。弱々しい、すぐに壊れてしまいそうな笑顔で。
「大好きなリグルを、キライになりそうで……嫌だから、ね。私のせいにさせてよ……」
「ミスティ、ア……」
「もう、一緒にいてもいいかなって思える人が居なくなるのだけは、嫌なんだ」
リグルはもう何も言葉にすることができなかった。
顔を両手で抑え、髪を振り乱し。
唯一発することができたのは、ごめんっという言葉が涙で崩れた、呻き声だけ。
それを聞いたミスティアは、『大丈夫』とだけ返して、男の側へと近寄った。
「約束、だったよね?」
膝を地面に付け、少しだけ土で汚れた顔を優しく撫でる。
「あなたが死んだら、お肉、食べさせて貰うって。ごめんね、痛いかもしれないけど……他の誰にもあげたくないんだ……変かな、私」
横たわる人間に告げて、紅い爪を伸ばしたミスティアは覆い被さるように顔を近づけて――
◇ ◇ ◇
「たぶん、美味しかったんじゃないかなぁ……」
「へ? なんのこと?」
かくんっとミスティアは膝を折りかけた。
その屋台の席に座るルーミアの反応が、予想以上だったから。
「あのねぇ、ルーミアが言ったんでしょう? 私に、初めて人間食べたときどうだったかって!」
「……あー、あー、あー! そうだった! 思い出した!」
「ほんの数分前の出来事忘れないで欲しいね……」
おでん用のお玉の先を向け、ジト目で睨み付ける。
その圧力に押されたか、それとも本王に思い出したのか、ルーミアは手を叩いて騒ぎ。うんうんっと満足そうに頷いた。
「妖怪だもんね、やっぱり人間食べるよね。ミスティアってさ全然そういうとこ見せないから心配してたんだよ、ねぇ?」
同意を求め、隣に座る客に笑顔を見せるが。
「あのね、当の人間に対してその話を振るのはやめてくれない?」
「できれば食人の話も勘弁してほしいところだぜ」
もっともな理由を返し、ルーミアのおでこを指で弾くのは言わずと知れた霊夢と、その悪友。帽子を膝の上に乗せているため、普段は見せない金髪があらわになっていた。
「えー、でも気にならない? 人間だって、なんか、初めてはいつ? って盛り上がってりしてるじゃん。あ、そうだ、この前だって! 魔理沙と山の巫女がキスの初めてがどうとか――」
「ちくわーすぱーくっ!」
「あうみゅっ!」
「まったく、意外と純情なんだから……じゃあ、改めてそのときの話を」
「ほっとけ!」
いきなり立ち上がった魔理沙は、霊夢越しにルーミアの口へと狙いを定め、箸でちくわを押し込んだ。アツアツのおでんのネタを入れられたルーミアは、はふはふっと、慌てて冷たい空気を口の中へと送り込み。
霊夢はその様子を肘をついて眺めていた。
「はいはい、八目鰻の蒲焼き上がったけど、霊夢だっけ?」
「そうそう、お客様なんだから大切になさいよ」
「しょっちゅう財布持たずにやってくる癖に」
「後で払うからいいじゃないの、ほら、お酒も」
「はいは~い」
人間からはお金を、お金を持たない妖怪からは、森や山の食材をそれを御代としてミスティアは屋台を開いている。始めた動機は『鶏肉料理撲滅』のためで、もちろんおでんの中には鶏肉関係の食材は一切ない。
最近では、霊夢と一緒にやってくることの多い八雲紫によって、外界の海に関係した食材も集まるため。当初は八目鰻料理しかなかった屋台も、ほとんど人里の料理店と変わらない品揃えになってきた。
『野外での気持ちいい風を受けて、酒を飲み。
程よい料理に舌鼓』
そんな趣ある屋台に、もの好きな妖怪が集まらないわけがなく。夜ともなれば、人間も妖怪も入り混じった大宴会が気ままに開催される。今日だって例外ではなく……
カウンターにはこの3人。そして勝手に鬼が作った別テーブルには、鬼二人は言うまでもなく鴉天狗が二人、そして白狼天狗が一人、肩を狭めて座っている。さらに今日に限っては、ござを敷いてゆっくり酒を楽しんでいるペット連れの団体さんも足を運んでいた。
八雲紫を数に入れないのは、注文のときだけ現れ、またどこかに消えてしまうから。
「んぐ、うはぁ、熱かったぁ。魔理沙! 何するのよ!」
「ふふん、お前が乙女の秘密をばらそうとするからだ」
「……ふっふっふ」
「な、なんだよ」
「12歳、道具屋? 事故?」
「っ!? ちょ、お前! 逃げるなっ!」
決まりごととしては、弾幕や能力を使ったケンカや客に襲い掛かるのはご法度。
そして、埃が立つから店の近くで飛び回るのも禁止。
ゆえに、小さいルーミアと顔を真っ赤にした魔理沙の追いかけっこがスタートし、外野の鬼たちがやんややんやと囃したてる。
そうなると必然的に、カウンター席に霊夢が取り残されるわけで。
「お待たせ♪」
「待ってない」
その隙をついて、スキマから紫が現れ、堂々とルーミアの席に腰を下ろす。おそらく、ずっと霊夢の隣が空くのを狙っていたのだろう。満足そうに微笑みを浮かべると、日本酒と蒲焼きを注文し……
「ねえねえ、おねぇさん? この屋台には人間の死体料理は置いてないのかい?」
「……あー、もう、ルーミアといいこの猫といい、どうして私に話を振るのよ。そこの店主に聞きなさいよ」
と、そこでいきなり、黒猫がカウンターに上がって、人の言葉を話す。
もちろん、それが今日珍しくやってきたペット連れの団体客の一員であるのは言うまでもない。霊夢にしかめっ面で怒られたせいか、黒猫は少し頭を下げ、今度はミスティアに同じ質問を繰り返す。
「人間ねーんー、確かに最初に食べたときは、美味しいって思ったし、涙も出たけど……。まあ……うん、私の料理した鰻の方が美味しいし」
「おや、おやおや、それはいいこと聞いたねぇ! あたいにもそれを一つおくれよ!」
「出来上がったら呼ぶからちょっと待っててね」
「はいはーい、おくーぅ! このお店には人間より美味しい料理があるんだって!」
「ええっ! ホントっ!」
とんっとカウンターを降りた猫は、飼い主と友達が待つ場所へと戻り、人型へと姿を変えた。ただ、そのペットの行動があまりに傍若無人であったせいか、飼い主であるさとりが、心配そうに屋台の方へと顔を向け。
こつんっ
「にゃっ!」
無言でお燐の頭を叩いた。
何故叩かれたのかわからず、不安げにキョロキョロ周囲を見渡すお燐に向け。
「あまり、失礼なことを言うものではありません」
と、強い口調で告げる。
お燐は『何故?』と首を傾げながらもごめんなさい、と謝った。そんな珍しい行動を肴に酒を楽しんでいた一人は、ふふっと軽く吐息を漏らした。
「心を覗けるというのも気を使うものですわね。それでも誰かさんの心なら覗いて見たいけれど」
「私は仕事しない妖怪が何考えてるか死ぬまで理解したくないけど」
毒づき合いながらも、互いに注文した料理に箸を伸ばし合う。人間と妖怪が、何の気兼ねもなく料理を楽しめる店。妖怪が経営するという要素がありながら、悪意を持って接してくる人間もいない。
「次は、人里にお店を出そうかなぁ」
「ふーん、いいじゃない。あんたの料理なら食べに行ってあげるわよ? でも、妖怪たちは行き難くなるだろうけど」
「……んー、あ、昼は人里で! 夜はここなら! って……仕込がぁ、あ、霊夢! ツケなしにするから!」
「……巫女は毎日の修行が忙しくてね」
「えぇーっ! ちょっとくらい手伝ってよ。視線そらすな!」
「ほら、そういうことなら屋根の上のヤツが適任よね、ねぇ、リグル?」
霊夢が視線を上に向けると、その背後に一つ、とんっと人影が落ちた。
そして大きく背伸びをして。
「誰か、呼んだ?」
「霊夢~、リグルは材料取りや仕込みの手伝いで疲れてるから!」
「いいよいいよ、そろそろ動こうと思ってたところだし。それに、鬼がいるってことは出番も近いかなって」
紫の隣、今夜は誰も座っていない椅子に腰掛けて、頬杖を付く。
その間もミスティアは手際よくいくつもの料理を仕上げ、大食らいの妖怪たちへと配っていく。鬼のテーブルでも、地霊殿組のテーブルでも笑い声が溢れ、とうとう宴も最高潮。
と、そんなとき、暖簾を控えめに上げ、倒れてしまいそうなほど疲れた顔をした椛が入ってくる。彼女がやってきたテーブルでは相変わらず鬼が世間話で盛り上がっており、鴉天狗の二人のうち、一人はすでにダウン。唯一文だけが、まだ笑顔を絶やさずに鬼の話に相槌を打っていた。
「鬼の接待ご苦労様♪」
「がるるるるっ!」
「……ほー、へー、私に向かって吠えちゃいますか、ねぇ、すーいーかー! 椛があんたの相手するの嫌だって愚痴言ってる~っ!」
「あぁぁっ? へぇ~、椛、私の酒に付き合えないっての?」
「ち、違いますよ! こ、この人間が嘘を! 私は伊吹様とお酒飲むの大好きです!」
「そっかー♪ じゃあ、明日も飲もうね~♪」
「わぁぁぁ~~い……」
しくしくと、こっそり涙を流す椛は、本来の目的である酒の追加注文をする。そして、申し訳なさそうにリグルとミスティアを交互に見つめて。
「伊吹様と星熊様が歌はまだかと申されまして……」
要望を受けたミスティアは、どれどれと、屋台の外へ出て星や月の位置から時間を推測し、ぽんっと手を叩く。
今日は注文が多くてすっかり忘れていたらしい。
「んー、もうこんな時間か。リグル、大丈夫?」
「大丈夫だよ、ミスティアこそ無理しないでね」
「歌さえあれば、どんな疲れてても乗り切れる! さあ、準備準備!」
割烹着を脱ぎ、いつもの服装に戻し始める。忙しそうに動くミスティアに一度微笑を向けたリグルは、人間がほとんど聞き取れない音で虫たちに合図を送る。
これから始まるのは、ミスティアの屋台におけるメインイベント。虫たちの合奏と美しい声が生み出す、大自然の楽章。人が作った楽器とはまた別の響きが、一度聞いた者を虜にし、自然と足を店に運ばせてしまうほど。
少しでも聞きやすい位置へ行こうと客たちが移動するのを尻目に、リグルは静かに瞳を閉じた。そして、その横の気まぐれな妖怪も同じく。
「……ねえ、リグル? あなたはまだ前奏曲を奏でるつもりはないの?」
「曲なら、いまからはじまる」
「違うわ。あなたと、ミスティア。二人のことよ」
「……ミスティアが人里にお店を作って、満足するまで。『あいつ』の夢につき合おうかな。私たちにはまだ時間が十分あるだろうし。ミスティアはあのときのこと、きっと忘れていないだろうから。そんなこと顔色ひとつ見せないけど」
「そう……」
ミスティアが、リグルを呼ぶ声が響く。
早く早くと、観客が急かす。
その声に逆らうことができず、リグルは椅子から飛び降りた。
「でも、私はこのままで我慢できるほど物分りがよくなくて。いつか『あいつ』の願いだけじゃなく、私の夢も叶えて貰うから」
「そう上手くいくかしら?」
よし、と。気合を入れるリグルの背中に、紫は試すような視線を向けた。
「思い出というものはは、強敵ですわよ?」
「強い方が、燃えることもあるらしいよ?」
戸惑うことも、躊躇うこともなく。
彼女はあっさりと言い切って、大好きな親友の隣に立った。屋台から少し離れた、土の盛り上がった場所。それが、二人の夜のステージ。
「リグル、遅れないでよ!」
「誰に言ってるのさ!」
「ふふん、上等!」
虫の調べと、鳥の歌。
星空の下の二つの澄んだ音が重なり、観客をひと時の幻想へと誘う。
それは屋台の合間のわずかな時間でしかなかったけれど。
それでも、この時間こそが、リグルが求めた夢の形。
硝子の様に繊細なミスティアの声と、儚い命を燃やし奏でる虫たち。
いつか、二人で様々な曲を紡ぎ、幻想郷で知らぬものがいない音楽家として名を馳せる。それがリグルの本当の願い。
今夜二人が謳ったのは、恋の歌。
叶わぬと知りながら、それでも手を伸ばした、悲恋の歌。
「恋っていうのが何か私が歌うのも変だけどね……」
歌い終えたミスティアが恥ずかしそうに笑う中。
リグルも同じように笑い返し。
心の中で、強がった。
悔しいから、絶対教えてあげない。
きっとミスティアは恋をしたんだよ、なんて。
絶対教えてあげない。
私が前奏曲を弾くその日まで。
食べたくないわけではないのに……
食べたことがないんだから嫌いなはずもないし、どちらかと言うと凄く興味がある。
だから毎日頑張ってるし、それで口に入らないんだから凄く不公平だと思う。
今日は私の分も残してと言っても、分け前が回ってこないんだもの。
「んぐんぐ……ねえ、りぐふ? やっぱりへんだおね?」
「私の眷属食べながら堂々と相談してくるその根性が変だと思うよ」
「仕方ないじゃん、リグルの虫活きが良いんだもん」
妖怪が多く済む森の中、その中の一番大きな木の枝に腰掛けた私ともう一人の妖怪。半分ほど欠けた月のあかりが森を照らすのを眺めらる唯一の場所で、私は夜食を要求していた。それと愚痴も聞いて貰いたかったから。
分け前が貰えない仲間として、この場所に誘ってみたのはリグルっていう虫の妖怪。この子はそもそも人間っていう食料を必要としないみたいだから、好意で狩りを手伝ってくれてるんだけどね。その代わり、あんまり虫食べないで欲しいんだって。
でも、私は食べるけど。
「さぼってたんじゃないの~? ミスティアって軽い歌好きみたいだし、性格も軽いし、虫食べるし」
「虫とか関係なくない?」
「虫食べるのは心が狭いか、悪いヤツか、馬鹿か、怠け者って相場が決まってるんだよ」
「失礼ね、私はお利口で、怠けないもの。ほらほら耳の穴かっぽじって良く聞きなさいよ! 今日の私の大活躍を」
木の枝の上にひょいっと飛び上がると枝が大きくしなり、危うくリグルが落ちそうになる。枝にしがみついて恨めしそうに睨まれても、悪気があった訳じゃないから困るなぁ。
「ごめんごめん、さぁさぁ、皆さん。今宵のミスティア、オンステージ。星空の下のライブ会場へようこそ~」
「私と虫たちぐらいしかいないけどね」
お客の冷やかしなんのその、それでくじけちゃ女が廃る。
今宵、舞い上がった夜雀の華麗なる手際を、心地よい歌に乗せてプレゼント!。
「……声は綺麗なんだけどね、唄ってるかしゃべってるかわからない歌やめない?」
『は』とは何よ失礼な。
私は今日の出来事を声に乗せながら、リグルへ睨みを利かせる。古い妖怪は私の歌を全然理解しようとしないけど、鳥目にするために歌を聴かせた人間ですら妙な顔をするけど、いいんだ、うん。
いつか絶対わかってくれる妖怪が絶対出てくるし。
「わかったから、続けて、ちゃんと聞いてあげるから」
へへん、リグルも強がっちゃって私の歌好きな癖に~、とか思うと気が楽だよね。
そのまま私は、今夜の出来事を歌で語る。
ここの縄張りを収める妖怪に命令されるまま、人間に接触し歌を聴かせて鳥目にする。その後は歌を続けて、餌の在処をみんなに知らせて。次にリグルが、目標を分かり易く光で照らす。
そして最後はトドメのがおーっと。獣っぽい妖怪さんが噛みついて終わり。はい、美味しそう。
「――どうよ!」
「……はいはい、上手上手……」
「こころがこもってな~い!」
「心を込めたら拍手もなしだよ、それがお望みならやめるけど?」
「ん~、とりあえず褒め称えて!」
「はいはい、ミスティアさいこー、すごーい」
「むぅ……なんか馬鹿にされてる気がする」
お返しにどんっと尻餅をついて枝に着席したら、油断していたリグルの体がふわっと浮いて、また慌てて枝にしがみついた。飛べばいいのに、なにしてるのやら。何もしないでよ、って目で訴えながら私の横に腰掛けて、ふぅっとため息を吐いた。
「でもさ、ミスティアって結局、歌ってただけでしょ?」
「なっ!? だけ、って! だけって言った! なにそれ、なんのつもり? 私の能力全否定ってことっ!」
「違うよ、歌をかけて鳥目にしてからそれ以外の足止めもできたんじゃないかなってことだよ。本気で逃げる人間を捕まえるのは簡単に見えるけど危ないんだから、魔物除けのお札持ってる人もいるしね。だからミスティアが確認するために襲いかかってみれば良いんじゃない? 使おうとしたらすぐ逃げればいいだけだし」
「んー、嫌だもん。痛いのとか怖いのとか」
「……それで我が侭言うのはどうかなって思うよ、私は」
「あー、リグルだって光ってるだけじゃない!」
「最初から言ってるけど、私、人間食べなくても生活できるし」
「……あーいえばこういう……私も虫がいればいいけどさ」
「だから食べるなって!」
何さ、私の能力が無ければ人間に逃げられるかも知れないのに、獲物だってほとんど私が見付けてるのに。できることだけ頑張って、無理なことはしないのはとても効率的でいいことだって。そういうこと誰か言ってた気もするから、間違ってないはずなんだけどなぁ。
あ、ほらほらこういの適材適所っていうよね、良い言葉です。
そして立派に報酬貰ってさようならなら尚良し、なんだけど……
あれ?
「そういえば、リグルさ」
「ん? なに?」
そうなると、なんか腑に落ちないのよね。
指に手を当てて考えてみても、やっぱり不自然。羽を動かしながら考えてみても、うん、変だ。
「食べ物も、それ以外の分け前もないのに、なんで狩り手伝ってるの?」
「えっ?」
私が分け前貰えない腹いせに虫を何匹か貰うみたいにさ。リグルも誰かから何か貰っても良いと思うんだよね。気の良いヤツだけど、妖怪ってそういう自己主張強いっていうし。じーって、顔を近づけて見つめてみたら、なんか顔あっち向けるし。
「み、ミスティアには関係ないよ」
「ふーん、さいですか。ま、私は虫が食べれるから大助かり~」
「……だから食べないでって」
「でも、リグルくれるし。お願いしたら」
「……だって、ほら、仲間って言うかさ、ほら……そ、そう! 友達のお願いって断りにくいじゃない!」
「んー、まあ、友達かぁ……それもそうかもね」
愚痴を言い合って、狩りが終わった後も世間話で盛り上がれる。それが友達って言うヤツなら間違いないんだろうね。
よし、友達認定、一号。リグル君。
そうやって心の日記帳に書き込んでいたら、なんだか地平線の方が明るくなってきてね。うわ、もう朝だよ。早いね一日って。ぱぁーってさ、向こうの方からどんどん木のてっぺんを照らし初めて、光が押し寄せて来るみたい。
「私たちの時間、おわっちゃったね」
「うん、戻ろうか」
「そうしよ、みんな寝ちゃっただろうから」
半分だけ顔を出した太陽にばいばいって手を振って、羽を静かに動かした。眠りかけの妖怪って口うるさくて、ちょーっと歌の練習してただけでも怒鳴ってくるからね。
「ミスティア・ローレライ! 今日も一日頑張ります!」
『うるさいっ』『うるせぇっ!』『黙って寝ろ!』
……ほらね?
心が狭いって、怖いよね。
でも、正直まだあんまりねむくないから、野ネズミでも探してみようかな。うん、虫食べたら怒られるし、違う朝食取ってから寝よう。
――と、思ってたんだけど。
自分の住処に帰る途中に、見付けちゃったんだよね。
人里のちょぉっと外で、草を摘んでる人間。
空から見たら丸わかりだっての。
えっと、あれだよね。きっとこれって……いただきますおっけーってやつだよね。ちょっと際どいグレーゾーンだけど、こう、塀とかの外だからぎりぎりってとこ?
最近じゃなんだか人里を守る妖怪とかも出るそうだけど、朝なら大丈夫でしょ。
「んふー、初体験、やっちゃいますかぁ……」
夜の狩りではまだ食べたことのない、大きな獲物。あの他の妖怪たちがむしゃぶりつく姿だけを見せつけられて、唾液を飲むしかできなかった私がたった一人で最高のチャンスを手に入れたんだもの。
風でばれるといけないから妖力飛行に切り替えて……自慢の羽は最小化。うん、可愛い大きさ。それで、そっと人里側から人間の後ろへ。こうやって草を踏む音だけ残して何かが着地したと知らせる。そして振り向けば私がいる、って寸法ね。笑顔を見せて、爪も見せて、恐怖に染まる人間を追い込むわけだよ。リグル君。見習いたまえ、ってあいつ食べないか。
「あれ? 急に足音?」
ほらほら、人間が反応したよ。
とりあえず歌ってみる? って、まあ、あれだね。あんまり明るい内だと効果がないから、手っ取り早くやっちゃおうかな。その長い黒髪をこのカチカチなる爪で引き裂いてやろうかって、髪の毛長いのにこいつ声低いな。人間の女だと思ったのに。うわ、なんか立ったら背もすっごい高いし、ちょっと怖いんだけど……いやいや、びびってない。全然びびってないし!
「よ、妖怪だぞ! 命が惜しかったら囓らせな!」
うし、完璧。
ちょっと最初詰まったけど、凄い威厳たっぷり。こう、がおーって熊を思わせるポーズで両手を上げて、爪を伸ばしてるんだもん。怖くないはずがない。ほら、人間も恐怖で言葉を失い立ち竦む状態とかそんなかんじで……
「……子供、かな? 声の出所は低い位置だから」
「おーい、こらー、こっちー! ほら、爪ピーンってなってるでしょうが!」
けど、何だろうこの人間。変だ。
こっちを見てるみたいなんだけど、反応が薄い。あれだ、私が妖怪だって事も半信半疑みたい。こう翼もばーんって広げてみる?
「ああ、ごめんごめん。なんだか普通の人よりも通りの良い声だったから、場所が掴みにくくて。それに……人間の発声方法とは少し違う気がする」
「ん、わかってるじゃない。私はミスティア、妖怪だよ。だからほら、肉だしてよ、囓るから、爪で切っても良いけど」
「いやー、不自由な身だけど、この若さで死にたくもないんだよね……とにかく、お腹が空いているって思っていいんだよね」
「人間の肉が食べたい」
「……あまり直接的なのはどうかと思うなぁ、ははは」
んー、やっぱり変だこいつ。
人間は普通視覚に頼る。耳が聞こえなくても多少問題ないはずなのに、こいつの場合は耳で私を妖怪だと言った。声が良いからだって、うん、そのとおりの美声なんだけど。すっごく顔を近づけて私と話をしてるから、もしかして私が鳥目にするまでもなく目が見えにくいヤツか。
ん、珍しい個体。
これはアレじゃない? 私の初めての食料にふさわしくない?
「……あ、そうだ! 妖怪って他の食べ物もってたら、そっちで満足したり」
「人間が良い、むしろお前が良い」
「……とんでもない告白だよ」
人間はどうにかして、食べるのを諦めてくれないかと私に交渉してきた。けれど、人間より美味いものなんてないと風の噂で聞いている私を止められるはずもない。ああ、なんだか面倒になってきたから、首とか切っちゃうか。と、私が思い始めた頃。肩を落としていた人間が、何故か元気よく上半身を起こす。
「なら、こうしよう! キミが人間より美味しいと思えるものがあれば、僕を食べない」
「……む?」
おや、おやおやおや?
聞きました奥さん。
この期に及んで命乞いですって。往生際の悪さここに極まれり。
「嘘は良くないなぁ、嘘を吐く人間は食べて良い人間!」
「ちょ、ちょっと待って! 本当だって、人間より美味しいと思えるもの準備するから! もし、もしも不味かったらそのときは甘んじて腕の一本くらいあげるから!」
「ほほぅ……」
必死に私の手を押さえて抵抗する人間の声に私は動きを止める。
普通の妖怪ならここでいただきまーす、に違いない。でも賢いミスティアさんは違うわけですよ。つまり今は人間の腕と、人間よりも美味しいかもしれない何かが手に入るかもしれない。二度とない好機を逃すほど、私は愚かじゃないわけで。
「それならすぐ出して、ほら、出して」
「いや、それがね。家に戻らないと作れないんだよ、今積んだ野草も使いたいし」
「ふーん……」
おやおや、それで逃げられるとでも?
掴み掛かった手は解いてあげるけど、絶対逃がさないんだからね。
「じゃあ、私もついてく」
「はぁ、そうしてくれ、くれぐれも面倒はおこさないでよ?」
「まっかせなさい! ほら、手を握る」
「……不安だ」
人間の男は、やっぱり目が悪いみたいで周囲の音を探りながら顔を忙しなく動かして、私の手を引いて行った。
「へぇー、ふぅーん、これが人間の巣ね」
「できれば家と言ってほしいね……」
無駄に広い、というのかな。一人で生活するには不必要なくらい大きい巣だった。靴を脱ぐ場所と、食べ物が置いてある場所が繋がってて、この草の絨毯の上で寝るんだね。まあここまで大きなのを作るってことは、ふふん、これは私の狙いまたまた大当たりじゃない。
「ほら、隠してないでさっさと出しなさいよ」
「ん? 料理はそんなすぐにはできないよ、これから下準備がいるんだ」
「違うわよ。これだけ広いんなら、いるでしょ?」
「だから、何か言ってくれないとわからないよ」
まあ、素直にならないのもわからなくはない。男は守りたがるものだって言うし、どうやって隠れさせたのかは知らないけど。
「とぼけないでよ、いるんでしょ。あんたの、『つがい』」
「……へぁっ?」
「あー、人間風に言うとどんなんだっけ、奥さん、妻、愛人?」
「最後違っ! とか、え、妻とかいきなり何を!」
「はぁ? だって、あんた。こんな広い巣持ってるってことは、つがいが居るからでしょう? 子供暖めたりとか育てるのに、これだけの広さが必要だからでしょ」
「……えーっと、人間で言うと……小さいほうなんだけど、この家。むしろ小さ過ぎるくらい」
「……ふーん、それじゃあ甲斐性ない男なんだ。じゃあ奥さん来ないわ」
「天国の父さん母さん、いきなり妖怪が家にやってきて言いたい放題です……」
さっき通ってきた場所に立ってた大きい建物も、人間の巣だって考えたら確かに小さいのかも? 人間って何にこんな広さ使うんだろう。無駄だらけじゃない。まあ、そんなことは良いとして、よくわかんないけど凄く暗い顔してるこの人間をどうにかしないとね。
「で、料理とかいつ出てくるの? それとも食べていいってこと?」
「う、く、くそぅ! わかったよ、作ればいいんだろ作れば!」
何故か自棄になってる。そういう年頃なのかな。あー、そうそう、人間には若いときに多感の時期があるって言うし、そんな状態ならしかたないね。人間の慰め方とかしらないしさ~。
「その辺で静かにしててくれ、お願いだから……」
「ん、早くしてね♪」
「くそぅ……」
でもさ、静かにしてろといわれても退屈なんだよね。退屈だから、その料理っていうやつの準備をする人間を観察することにしようかな。油断させといて、反撃とか怖いしね。あらあら、すごい。場所覚えてるのかな、ほとんど見ないで道具使ってるよ。って、何々、火つけるの! うわー、うわぁー。
「……うるさいんだけど?」
「仕方ないじゃない、火とかありえないし」
「料理に火とか、かなり必要だから……」
火をつけた瞬間、びっくりして思わず声が出た。
あんな近くでぼぅってなってるのに、なんで平気なんだろう。目が見えにくいから?
「はい、そうやって静かにしててね」
静かにしてる自覚は、たぶんなかった。
視力が弱いはずの人間の動きが、こう、無駄がないって言うのかな。私より背の高い後姿を見てたら、奇麗だなって思った。人間のかっこいいとか不細工とかよくわかんないけど、料理ってやつを出そうとしてる手の動きとか音が綺麗で。
「~~~~♪」
いつのまにか歌ってた。
包丁の小気味よい音と、ぐつぐつという声を出し始めた金属製の道具に続いて、即興の歌が口から零れてた。暖かい朝の障子ごしの日差しを受けて、体を揺らして歌う。歌詞なんてない。ラーとかアーとか、単音だけを組み合わせた原生的な音の集まり。歌というにはおこがましいものだったのかもしれないけれど、凄く気持ちよかった。
なんだか人間の男も、生意気に私の歌と料理の音を合わせてくるし。上等じゃないの。ふふん、いいじゃない。見せてあげるわよ私の全力。鳥目になってもいいなら、ついて来てみなさ――
「はい、おわり!」
「……むぅぅぅぅ」
「えっと、さっきまで楽しそうだったのに、何で不機嫌そうな声を?」
「……音止めるから」
「え?」
「知らない! もう、できたんならさっさと出しなさいよ!」
早く早くと急かしても、人間はすごくとろいの。さっきの料理の手際はどこにいったのよ、もう。ほら、この机をここに置けばいいんでしょう? まったく、こんなの片手でできるじゃないの。
その程度のことしかしてないのに、なんかありがとうとか言ってくるし、馬鹿丸出しね。
「あ、そうそう、キミは鳥の妖怪でいいんだよね、声が綺麗だから」
「……だからなに?」
「雀とか、お米粒食べるからきっと大丈夫だと思うんだけど……はーい、やきめしとスープでーす」
「ええっ! これがご飯!?」
「もちろん」
「なんか茶色多いね」
「焼いたからね」
ふーん、生で食べられないからあの田んぼに生えてるやつの中身焼いただけでしょ? そんなの人間の食べ物なだけ。絶対生のほうが美味しいはずだし。それにこっちのスープは……あ、論外、少しだけ鳥たちの匂いがする。これはあんまり期待できないかなぁ。
「さーて、じゃあ食べ比べを始めようじゃない」
「……えーっと、さ。こういうときって、料理にする? それとも僕? って聞いたほうがいいのかな」
「なんで顔赤くしてるの?」
「そうですか、妖怪様には通用しませんか……」
なんだかよくわかんないけど、選べってことかな。
机の上におかれたやきめしとスープって、料理か。
反対側に座る、弱々しい人間か。
ま、ここは一つ、念願の方を先にいただいちゃうのがいいよね。私好きなの先に食べる派だし。
「じゃあ、あんたを食べる」
「容赦ないなぁ……」
そしたらね、その人間の男がさっき料理に使ってた道具をもってきてね。とんがったほうを指先に当てたの。そしたら赤い血が、ぽたぽたって!
おお、これが人間の血! 活きのいいやつ!
「はい、どうぞ」
それを小さな皿に受け止めさせて、底が見えなくなる程度の量だけ出したら私の前に置いてきた。って、えっ?
「……これだけ? 肉は! 内臓は!」
「明らかに殺す気満々じゃないか、内臓とか! とりあえず、血と僕の料理を比べてからにしてくれないか」
ま、いいけどね。
人間、あんたわかってないみたいだけどさ。
指先傷つけて血を出してくれたときからかな? たぶん、私の瞳孔開きっぱなしなんだよね。すっごい興奮してるもん。
私の本能がね、あんたを欲してるんだよ。
「んくっ……ぷはぁっ!」
皿を見せつけるように男の目の前で一気に血を飲んでやる。一口にも満たない量だからあっという間に終わっちゃったけど。
獣とは違う、濃厚な味わいと、鼻腔に残る独特な錆くささ。さらりと下の上を過ぎていくのに、旨みが口の中から離れようとしない。こんな液体、今まで口に入れたことなんてないよ。
「うわぁ……本当に妖怪ぽーい」
こびり付いてる血を舐めてたらそんなこと言われた。私の仕草がぼんやりでも見えるんだろうか。妖怪に向かって妖怪っぽいってどういうことだろう。そう見えないってこと? ならここは失礼だって襲い掛かってもいいところだよね? あー、でも、美味しいからいいや。堪能だなぁ……
「さぁーて、じゃあ、次は料理ってやつを食べて。その後あなたを食べるとしようかな」
「公正な判断を望む次第です」
「いやだなぁ、ちゃんとやってあげるってば」
でもね、人間。今の私の本能を満たせるものはありえないよ。だって、血の美味しさを知ったら、肉に対する欲望なんて捨てられるわけがないもの。早くあなたを食べたいって思ってる私の頭を切り替えられるわけがない。
え? 何、このスプーンってやつで食べるの? 面倒だなぁ……
「はむっ……んむんむ……」
「どう? 美味しい?」
口に入れた途端ご飯がほどけて変わった食感だけど……別に大したこと……
「はむ……? あむはむっ」
……大したこと
「もぐっ」
「あの、味とか?」
……なにこれ。
ナニコレナニコレナニコレナニコレ!
美味しい! いや、美味しいとかじゃなくて、なんか噛めば噛むほど味か口の中で絡まって! 好き! もうこれ、大好き!
「おーい、こらー」
「ん゛!」
「あ、はいはい、邪魔するなってことね……」
食べたい。もっと速く食べたい。
こんな小さなスプーンってやつじゃ満足できるはずがないよ。もっと他に、何か、あ、手で食べればいいや。汚れたら後で舐めるだけだもん。はむっ! ああ、頬張れるって幸せぇ~。
「……ねえ、カチャンっとか音したんだけど、投げた? スプーン投げた?」
「ん゛っ!」
「わかったから……静かにするから」
んむんむ……え? あれ? もう空?
少なすぎでしょ!
もっと、もっと……あ、あった!
人間のやつまだ半分以上食べてないしきっといらないんだよね。さってと、じゃあ、いただきまーす。何っ! 何なの! 文句ある? ないなら黙ってなさいよ!
もう、直接口つけちゃうから!
はーむっ、もぐ、もふっ!
……ぷはーっ! 幸せぇぇ。
「…………」
「…………」
え、えーっとぉ……
「……ま、不味い!」
「うそつけぇっ! 何ですか、何なんですかその『不味い』は! 人の朝食まで奪っといてそれはないでしょう! これで食われたら化けて出てやる!」
「わかったわよ! 美味しかったわよ! 血よりも美味しかったわよ! おかげであんた食べられないじゃないどうしてくれる! 私の完璧な計画が崩れたわ!」
「逆ギレ! これが噂の逆ギレですか!」
これは問題だ。
料理という予想以上に美味しい食べ物の罠にすっかり嵌った。もういっそ無理やり襲っちゃってもいいかなぁ。あ、でもこの人間いなくなると、さっきの美味しいの食べられないし。
美味しいものも食べられて……
この人間も食べられる良い方法は……
あ、見っけ!
「それで、人間から料理を教えてもらって、覚えたら襲うってこと?」
「そうそう、完璧だよね」
ぐるぐるーと。すっかり暗くなった森の中で大きな鍋を掻き混ぜてたら、いつもどおりリグルがやってきたから語ってみた。私の恐ろしすぎる計画を。
それを聞いたせいかな、リグルが心配そうに私を見てるね。どうせまた弱いくせに変なこと考えてる、とか思ってるんでしょうけど。料理の恐ろしさを知らないからそんな顔ができるんだよね。
「……ねえ、それってさ最終的にすっごくおいしくなるんだよね?」
「うん、さっき言ったでしょ?」
「じゃあ、人間食べる必要なくない?」
「……あれ?」
えーっと、うーっと。ちょ、ちょっと待ってね。整理する。最初人間食べたいって気持があって、でもそれはきっと美味しいはずだと思ってたから。でもまだ人間を食べたことないし、興味はあるし。ん~。
「それなら、料理を覚えてから人間を食材にするってことで! リグルにもごちそうしてあげちゃうよ。私の料理のおかげでものすごく強くなっちゃうかも!」
「だから人間とか別にいらない。それに今のままで十分。私って結構負けず嫌いだと思うし、それなりに力もあるんだよ?」
「そういえば、ここの森の妖怪全員と一回は戦ったことあるんだっけ? すぐ退散したらしいけど」
「逃げたわけじゃないよ、戦略的撤退。二回目は絶対勝てるから」
「……? よくわかんないけど、とりあえずそんな強いリグルに、元気のおすそ分け、はい、どーぞ♪」
「え、え、え?」
いつか寝首を掻く予定のあいつから教わった、簡単な竈。そこに乗せた借り物の鍋から生み出した魔法の世界。
輝くべきミスティアの一作目の料理だよ。
人間が使う茶碗を渡されたリグルは真剣にその飲み物を見つめて。
「……ねえ、黒いよね」
「うん、黒いね」
「……なんで、虫入れた?」
「美味しいからね」
「それ以外の材料は」
「醤油っぽいものとか、味噌っぽいもの」
「……っぽい?」
「んふふ~、秘密♪」
どうしたのかな、リグル固まっちゃった。
料理と、私の顔を見て、何か悩んでるみたい。あー、虫だけとってあげたほうがよかったかな。
「まあ、私の初めての料理だから食べてみてよ」
「初めて?」
「うん、リグルが、一番最初♪」
「……私が、一番目……初めての相手」
とうとう意を決したみたいで、よしっと気合を入れた後、ぐいって一気に傾けたリグルは……
「ぶふぅぅぅぅぅ~~~~! けはっ……こほっ……」
なんか、盛大に吹いた。
黒い液体を夜空に向かって噴射した。
「あれ? 美味しくない?」
「……個性的過ぎる! 何入れたのさ!」
「えっとね、別に何も? 醤油っていうのを貰ってくるの忘れたから、寺子屋に立ち寄って、黒い液体ちょっと貰ってきたでしょ。それと、味噌っていうのもなかったから、竈に使った粘土とよく似てたよねって思って、どばぁ~」
「ミスティア絶対料理禁止!」
「え、えぇぇぇぇええええええっ!」
なんだか急にリグルが怒って、鍋の中身捨てろって言ってきた!
た、確かに、もったいないなって思って一口食べたらびっくりしたけどさ……
もうちょっと、優しくしてくれてもいいのに……
えっとね、あの後、リグルに聞かれたんだけど。
人里に入るとき無防備でついていってないよね? って。
人間なんて怖がらなくていいから堂々と入ればいいじゃんって言ってみたらさ、人里に妖怪退治の専門家が待ち構えてたらどうするつもりだったの? なぁ~んて。
心配性だなぁ。
大丈夫だよ、あいつ馬鹿だから。そういうとこ気が回らないみたいだし。だからいつまでたっても『つがい』がいないんだろうなぁ。
「ミスティアが出入りするようになってから余計に出会いが減ったんだけど?」
なーんて、女の人のせいにするなんて、失格。
女々しいったらありゃしないもの。
ま、あいつが女の人と出会わないおかげで、私は料理の勉強し放題なんだけどね。あのトントンって気持ちのいい音を聞きながら、鼻歌鳴らして。馬鹿みたいに楽しそうな人間の動きをじーっと見るの。
私が爪を伸ばして、こう首スパッてやっちゃえば、終わっちゃう命なのに。首を見ようと思ったらなんとなーく、そいつの横顔見てたりするんだよね。あら不思議。
「ねえ、料理勉強し始めてからどれぐらい経ったっけ?」
「……二年と三ヶ月」
「うわー、たった二年か」
「たったとか意味不明なんだけど? っていうか、一年間で野菜の皮まともに剥けなかった事実があるんだけど?」
「爪で剥けてたじゃない?」
「……爪使うたびにまな板新調するこっちの身にもなって欲しかったね! なんで板ごと斬れるんだよ」
「また、つまらぬ板を斬ってしまった……」
「はい、包丁持ってるときはふざけない」
人間だからわからないんだろうけどさ、道具に頼る必要ない身としてはだよ。不便になるとわかってるものをなんで練習しないといけないの? ってことだよね。
爪って片手に5本あるでしょ?
だから、にんじんとかだいこんとか、ぽいって放り投げてさ。えいやって両手振り下ろすだけで輪切り完成なんだよ。たまに、台ごと切れるけど。
「あのね、相手に食べて貰いたいって気持ちが大切なの。何を切ったかわからないし洗ってもいないような真っ赤な爪で料理作ったら失礼ってもんだよ。食べてもらう人の気持ちになって、嫌がることをしないのが第一。それと、友達や僕を毒見役にしないこと!」
「えー、不味かったら私損する」
「損とかじゃないでしょ、まったくもぅ……」
ここに通い始めてから準備させた私用の包丁。それを握り締めてとんとんって隣の真似をして切るのが私の日課。最初の一年間は全然だったけど、最近は味付けまでおぼえちゃいました、えっへん。
でも、たまに手元がおぼつかなるときがあって。
「ほら、ずれた。疲れたなら休むべきだよ」
そんなときは、音で教えてくる。
私の後ろにすっと近づいてきて、器用に包丁だけ奪っていくんだもの。
「それに、もうすぐ夕方だろう? お友達が待ってる時間じゃない?」
「んー、もうちょっとここに居たいというか、料理の勉強したいというか。そんな気持ちもあるんだよね」
「おやおや、やっと僕の魅力に!」
「妖怪に色目使って楽しい? ねぇ、楽しい?」
「……くそぅ、今度こっそり鶏肉料理出してやる」
んふふ、悔しそうな顔もかーわいいっ。
そうやってからかってたら無理やり背中を押して追い出そうとするんだもん、大人気ないなぁ。で、何気なく空見上げたら、確かにこいつの言うとおり、もうすぐ星も見えそうな暗さだね。それじゃ、森に戻ろうかな。
「あ、ほら、包丁。忘れるな、それと巾着も」
「はいは~い」
さってと。
今度リグルにはどんな料理作ってあげようかなぁ。
最近覚えた魚料理にでも挑戦してみるかな!
どうせ川原にでかけるし、今日は材料あつめってことで。
そんなことを考えながら空を飛んでたら、あっという間に黒い布が空に被さってくる。うわー、暗い暗い。鳥目注意だね。
「おーい、りーぐるー!」
「ミスティア! おかえり!」
でも、暗い方がいいんだよね。
実は今日、リグルの本来の眷属っていうのかな。蛍たちが成虫に変わるお祝いの日なんだって。寿命が少ないから、一日だけしかできないみたいなんだけど。
月もないから、丁度いいよね。
「さあ、いこうよ!」
いつもはそんなに積極的じゃないリグルも、今日だけはびっくりするほどの行動力。私の手をぐいぐい引っ張って、秘密の川原に連れて行ってくれる。なんで秘密なのか聞いても答えてくれないんだけど、妖怪だと私とリグルしか知らないんだって。
そういうのってさ、なんだかワクワクするよね。
時間と場所時間を二人じめできるんだよ。考えただけで嬉しくなるよね。それに、今までは楽しさを分けて貰うだけだったけど、これからは私もいろいろできちゃうんだもんね。歌でしょ、料理でしょ……それとね!
ま、まぁ、二つあれば、いいよね、うん。
「ん、あれ?」
そして暗闇の中で行き着いた場所は頼りない星だけの光に照らされた、ほとんど真っ暗な広場。たぶん明るいところからここに飛び込んだら何も見えなくなるだろうね。鳥目じゃなくても。水が穏やかに流れる音だけを頼りに、地面があると思われる場所に着地。リグルは暗闇でも周りが見えるみたいだから、それに遅れないようになんとか目を凝らす。
集中して、周囲を見渡して。
「……やっぱりわかんないや!」
はい、降参です。
リグルの話だともう集まってるって言うんだけど、ぜんぜん見えない。河原の丸い石の上にいたら、小さな模様と一緒になっちゃうもの。
「じゃあ私が声をかけるね」
リグルはちょっと男の子っぽい外見だけど、虫からみたら女王様。だからみんなその声に反応するはずなんだよ。そして……
「みんな、大人になったお祝いだよ! さあ、踊ろう!」
声が終わると同時に空に上げた両手、そこに光が集まっていく。
もちろん、魔法や、幻想じゃない。今ここにある命が光っているんだよ。
『蛍』っていうんだって。
それがリグルの命令を伝えるために、数十匹が集まったかと思ったら。まったく同じタイミングで明滅するんだよ。リグルの手から合図を送るために。
「うわぁ……」
その後はね。もう、毎年そうなるってわかってるのに、思わず声が出ちゃう。石の隙間から、周囲の茂みから、川の近くから。すべての風景から光が溢れるんだ。見渡す限り、光、光、光っ! さっきまで真っ暗だった川原が一瞬で光の玉に包まれた。いくつあるかなんて知らないよ、それに、数えるなんて勿体無いもの。星たちのお株を完全に奪って、自分たちが夜の主役だと主張する。どうどうと踊る無数の光たちは、手を振り回したら全部消えてしまいそうなのに、その一つ一つが生きてるって思えるんだ。虫は食べ物だって思ってるけど、今だけは絶対手を出しちゃいけないってわかる。だって、リグルが私を夜のパーティーに招待してくれたんだもの。
「~~~~♪」
だから、私が最初にするのは歌のお返し。
蛍たちが踊りやすいように、今日だけはゆっくりとした曲を選んだ。ありがとうって言葉を込めて、胸の中で誌を作る。
去年もきっと同じことをしてるんだけど、リグルがね最近変なことを言い出したんだ。
「ミスティア、歌、上手になってる。今までも綺麗な声だったけど、凄い……凄いよ!」
褒められると、ちょっと心が乱れるから歌いにくい。でも私の歌が凄いのはずっと前からなのにね。まあ、文句は言いっこなしにして拍手して、くれるリグルのためにも最後まで気を抜かないで……
「はい、おしまい」
「ありがとう、みんなも喜んでるよ! お祝いしてくれてくれて嬉しいって!」
「そんな、こっちこそ素敵な景色を見せてくれたお礼が言いたいのに」
リグルの声にあわせて大きく上下する光。
まるで世界全部がお辞儀しているみたい。
「ふふん、でもね。今日の私は歌だけじゃないんだよ、じゃじゃーん! はい、これ」
腰に巻きつけていた巾着袋の紐を取り、袋を投げた。私の色に合わせたちょっと濃い栗毛色のそれを慌てて受け取った後、リグルは私の声を待って開ける。そこには笹の葉っぱでくるんだ簡単なご飯が準備してあって。
「おにぎり? いいの? 食べても」
「うん、どうぞ。リグルだとお肉とかよりこっちの方が好きかなって思って、ちょっと手を抜きすぎちゃったかな」
「そ、そんなことないよ! 食べる食べる! 最近のミスティアの料理は美味しいから」
「……最近のって、どういうこと?」
「だって最初は、砂糖と塩どころか、醤油と墨汁を間違えてたよね? 料理ですらなかったよ」
「そんなことあったっけ?」
「あったよ! 私食べさせられたもん!」
嘘、本当は覚えてるんだよ。
でもね、あんな失敗するなんて今考えたら凄く恥ずかしくって、覚えてないことにしようと思った。てへへ、笑って誤魔化して、蛍たちを怖がらせないようにゆっくり川の方へと足を運ぶ。しゃがみこんで透き通った水面をじっと見つめてから、靴と靴下を岩の上へ置いた。ちょっとつま先を立てないといけないといけないくらい大きな岩、こんなのどうやって運んだんだろう。ねえ、蛍さん。
返って来ないとわかりきった問いかけで、なんとか恥ずかしい気持ちを紛らわせ。私は流れる水の中へと足を入れた。
「あ、冷たくて気持ちいいかも……」
「ミスティア、スカート!」
もうちょっと深くまで歩いていこうとしたら、リグルの声で気が付いた。川の水面に服が触れそうになってることに。しかたないから、その場で屈んでぶわってスカートの下を持ち上げて。
「う、うわぁ、ミスティアなにしてるの」
端が膝上くらいになるように腰に巻きつけてたら、急にリグルが変な声を出してきた。なんなんだろうね、恥ずかしくないのか、だってさ。秘密の場所だから私とリグルしかいない。他の人の目を気にしなくていいから、そんな過敏に反応しなくてもね。
「こほんっ……それで、ミスティアは何してるの?」
「えっとね、川まできたついでにお魚でも取ろうかなって」
「魚も好きだもんね」
手伝うよ、って、リグルも腕まくりをして川に入ってくれる。でも、あんまり魚取った経験なんてないんだろうね。蛍の明かりが便りって言っても、見難いのには変わりないし。私だと、ほらっ!
「へへーん、二匹同時」
「その爪はちょっと卑怯だよ、私だって持ってたら簡単に捕れるもの」
「ちっちっち、魚の動きに翻弄されてるうちは、いくら爪が鋭くてもうまく刺さらないんだよ。さてと、取れたしお料理でもしようか。あの人にすっごい美味しいの教えてもらったんだぁ」
「あの人? あいつ、じゃなくて?」
「ん、あの人は、あの人だよ? 変なリグル」
両手で同時に手に入れた魚、それに刺した爪を引っ込めながら川から上がったら、先回りしていたリグルの顔が少しだけ曇った気がした。でも、気のせいだよね。蛍たちのお祭りできっと嬉しいはずだから。
だから変な声を気にせずに、回りの森の中から適当に木の枝を集めた。胸に抱えられるほど集まったら一旦戻って、すぐ準備開始だよ。
「あ、そうそう、料理で思い出したんだけどね、聞いてよリグル~。あの人ってば、私が料理覚えるの遅いとか今日も文句言って、こっちは一生懸命やってるのにね。それでちょっと気晴らしに歌いながら包丁回してみたりしても危ないから駄目だって。妖怪の私にだよ? 確かにちょっと痛いかもしれないけどさ、すぐ治るのにね。綺麗な手だから駄目だって、ほとんど見えないくせに」
「へぇ、そう、なんだ」
石をちょっとどかして、円い土の面を出して。その真中に折れた枝を重ねます。そして長めのまっすぐな木の枝を加工して、箸みたいなのを作って魚にずぼって刺すの。それで一回ぐりぐりってして内臓を取り出す。で、最後に串を魚の頭から尾まで貫いて、準備完了。
「そうなんだよ、あの人、目が悪いから、奥さんもなかなか見つからないんだって。なんで? って聞いてみたら、子供も目が見えなくなりそうだから嫌がられてるって、そういうこと言われたらしいね。でね、私にどう思うって聞いてきたからこう答えてあげたんだよ。『そこであんたが諦めたんなら、しょうがない』ってね。そしたらそこは慰めるとこって、怒られちゃった」
串に刺した魚を、積み上げた薪の近くの地面に固定して。これ以上傾かないように注意しながら火が出る位置を予想する。あとは実際に火をつけてこんがり焼き色がついたところで塩を振り掛ければ、簡単で美味しい『焼き魚』の完成。
「でね、可愛そうだから帰り際にちょっとだけ慰めてあげたらさ。その気になっちゃって、私が人間の魅力に気付いたとかいうんだよ。はは、馬鹿みたい。私が興味あるのは人間の肉の方なのに、ねぇ、リグ――」
「やめてよ……」
「え?」
火をつける前に蛍たちをどかしてもらおう。そう思って薪から手を離し、顔を上げたら。リグルが太もものところの服をぎゅっと掴んで、顔をしかめてた。どうしたんだろう、急に具合でも悪くなったのかな。
暗い表情っていうのはわかるんだけど。
俯いて私を見ているから、その分だけ余計に暗く見えたのかもしれない。
「なんで、なんでこの日まであんな奴の話を聞かせるの? 今日は虫たちが主役なんだよ、私たちのお祝いでも、お祭りでもあるのに。こんなときまで聞かせないでよ……」
「え、で、でも……いつも……」
変だよ、いきなり何言うの?
昨日だって、一昨日だって、話を聞いてくれた。
一緒に笑って、人間って馬鹿だねって、頷いてくれた。なんで急に……
「そうだよ、いつも、嫌だったよ! ミスティアが楽しそうに人間の話をするとき、凄いもやもやした! でも、本当のことを言ったら絶対ミスティアが嫌な思いするってわかってたから我慢したよ! でも、今日だけは嫌!」
なんで、なんでなんで?
どうして怒ってるの?
今日あったことを話しただけなのに。
今日あったことをリグルと一緒に笑い合いたかっただけなのに。
わかんないよ、急にそんなこといわれても、何もわかんない!
「ここは私とミスティアだけの場所なのに、あんな人間のことなんて持ち込まないで!」
「ご、ごめん、そんなつもりじゃないの! 私は、リグルが嫌だったなんて知らなくて、あ、ほら仲直りの印にご飯食べ――」
「もういいよ! ミスティアの馬鹿!」
追いかけられなかった。
追いかけたら、また拒絶されそうで。
「あ……」
蛍たちも困ってるのかな、私の周りを心配そうに飛び回って『大丈夫?』って問い掛けてくれてるみたい。
でもね、ちょっと大丈夫じゃないかなぁ……
「おにぎり……」
おいてけぼりにされた、私の髪と同じ色の巾着袋。
本当に、私と一緒だね。
「一生懸命、作ったんだけどな……」
取り残された仲間を手のひらに乗せて、ぱくっと一口。
それなりにお腹が空いていたのに、なんでかな。
今まで食べた中で、一番美味しくないおにぎりだった。
◇ ◇ ◇
「ミスティア、塩とって」
「ん」
トントントン
ぐつぐつぐつ
「次は醤油」
「ん」
トントントン
ぐつぐつぐつ
「こっちはそろそろ味噌かな」
「ん」
トントントン
ぐつぐつぐつ
「…………」
「…………」
トントントン
ぐつぐつぐつ
「え、えっと、ミスティア? この前は確かに料理中はふざけるなって言ったけど。別にしゃべってもいいからね?」
「ん」
「そ、それと、もうキャベツ切らなくていいと思うんだ。千切りとか微塵切りとかいう話じゃなくて。音からしてもうシャキシャキしてないんだけど、もう粉になりかけてない?」
「ん」
「おーい、こらー」
「ん」
「……もしかして不機嫌なのは、昨日友達と喧嘩したから?」
「っ! そんなわけないでしょぉ!」
「ちょ、まっ! 包丁、包丁!」
誰のせいで喧嘩したと思うのよ。と怒鳴りたかったけど、やめた。ただの八つ当たりだったから。でも、包丁を持ったまま手を顔に突き付けたのが悪かったのか。おもいっきり身を引いて首をぶんぶん振る姿を見たら。悪い気がしたけど……胸がすっとしたのは秘密。
「どんなに怒ってても料理には出しちゃだめだよ、ほら深呼吸」
「怒ってない。まあ、例え怒ってたとしてもあんたが私の食料になってくれるなら水に流すけど、許さない場合はもちろんこのまま一思いに」
「何この致命的な選択肢、って許すって言ってる時点で怒ってるって証明じゃ」
「じゃあ、怒ってることにしてさっきの実行しようか?」
「うわー、すごーい、ミスティアさん冷戦沈着」
「……わかればよろしい、むかつくけど」
でも、黙ってるよりは確かに無駄な話をした方が楽になる。
昨日の夜からずっと、巣に戻っても何も手につかなかった。リグルに嫌われたって思ったらなんだか、見えてるもの全部が真っ黒になった気がして。なんとか仲直りする方法を考えないといけないって思うんだけど、全部空回り。
「ねえ、あんたさ、なんでこんな料理上手なの? 人間の中でも美味い方なんでしょ?」
雑談するくらいなら、と。少し前から聞いてみたかったことを口にしてみた。どうせまた、いつもどおり過去は語りにくいとか、回りくどいことを言うんだろうけれど。
ほら、悩む振りをして私の方を気にしてる。なんて気の小さいヤツ。
「昔、ちょっとした小料理屋で働いてて、目やられて退職」
「はっ?」
「そのときの貯金もあるから、今はそれをちょっとずつ使って生計立ててるかな。大家さんにもお世話になってるし」
意外だった。
絶対はぐらかすと思ったのに、素直に説明してきたから。小料理屋とかいまいちわからないけど、料理系の店ってことなんだろう。
「なーんてね、今までの僕じゃあ、考えられないくらい正直になってみた。びっくりした?」
「それが普通なんじゃない?」
「ミスティアの冷たさも戻ってきて何より……でもまぁ、吹っ切れたのはつい昨日なんだけどね」
いつ? って聞いてみたら『昨日』だって。
本当に最近でびっくりした。
たぶん、私が帰った後で何かあったんだろうって思ってたら。私が突き付けたままの包丁をどかしながら、もう片方の指で私の額を突付いてくる。
「馬鹿みたいに素直な妖怪が、『諦めたんなら仕方ない』なんて、立派なこというから。なんだかむかむかして、諦めてやらないことにした」
「ふーん、で、何を?」
「店を出そうと思う。僕の店、料理をお客に食べてもらう場所を作るんだ」
私は別に何もしなかった。
拍手をするでもなく、歌で祝うでもなく、ただじっと見ていた。なんだかいつもよりきらきらして見える。男の姿を。
「口で言うだけなら簡単ね」
「ふっふっふ、その答えも予想済みさ、ミスティア! 視界が狭いのを不利と捉えるんじゃなくて、売りにする。もちろん料理を運んでくれる人は大事だし、店の配置も手触りで大体覚える必要もあるけど、もし僕がそんなことをできたら、同じように体が不自由な人の希望になれるんじゃないかってね!」
同じように体が不自由な人、というのがどんな人間かはいまいちわからない。それに希望とか、胡散臭い言葉も出てきた。
でも、それが素直に心に響くのは……
たぶん、こいつが本気になってるからなんだろう。
「そっか、じゃあそんな店ができたらあんたを食べるのを諦めて、手伝ってあげるよ」
「おお! 人間と妖怪の共存のシンボルにもなるということか!」
「……なんかうそ臭くなってきた」
「な、なんですとっ! 本気だって! 資金少ないけど、この家改修できるくらいの前金はあるし!」
そう、じゃあ、そういうことにしてあげる。そう心の中でつぶやいたとき、私はふと思った。 私はこの人間の話を聞いていたとき、どんな顔をしていたんだろうって。確かに朝は自分でもわかるくらい怒りが溢れてたはずなのに。
「お金あるなら、まな板買って。キャベツに木が混ざってる」
「力任せに包丁使うからだよ! だから料理に感情をぶつけるなって言ってるのに……」
なんていうかな、こいつといると楽なんだ。
楽だから、いつのまにか表情が緩んでる。
頬が、柔らかくなって。
知らないうちに、たぶん、何回も笑ってるんだ。
「じゃあ、今日は練習終わり。って、大体教え終わってる気がするけど?」
「私が料理が、あんたの料理の味を超えたとき、腕噛ませてくれるって約束だもん」
「いつ約束した! それに! その条件じゃ、教えてる僕が自殺志願者みたいで嫌なんだけど?」
「そういう変態っているらしいね!」
「ちがう、絶対に違う! ま、どうせ僕の方が先に死ぬから、そのときの死体くらいならあげるよ。カサカサだろうけど」
「できれば今くらいの方が」
「帰れ! はい、また明日!」
あー、もぅ。
ちょっといじったらこれだよ。背中押して追い出してくるし。
どうせまな板も再起不能だし、日も沈みかけてるし丁度いいんだけど。さぁて、森に帰って材料集めて簡単な夕食でも、ってあれ? 包丁ないや。
……ま、いっか。
今日くらいその辺の野ウサギでも食べてから帰ろっと。
◇ ◇ ◇
彼女がそんな行動を起こしたのは、たった一人に対する罪滅ぼしのため。
「駄目だな、私。最悪だ」
彼女は嫉妬した。
歌が上手くなること。
料理が美味しくなること。
大事な友達が、新しい面を見せるたびに、嬉しいという感情と黒い感情が同時に湧きあがった。特に歌が上手くなることなんて、たった一つしか考えられなかったから。
「そんなことありえないはずなのに……」
虫でもそうだ。
自分の音を聞いてもらいたい相手がいるときは、その音に磨きがかかる。声を届けたい相手のために、心を込めて鳴らし、謳い上げるから。
だからミスティアの歌が上達しているのはきっと、見ず知らずの人間のせいだとリグルは思った。人間に親友を、ミスティアを奪われるという、強迫観念もあったのかもしれない。だから彼女は行動に出た。
謝るよりも先に、それを形で見せようとした。
「人間、出て来い……人間」
日が沈みかけ薄暗い人里を取り囲む茂みの中、リグルは待った。
自分が食べるためじゃない。
その肉の味をまだ知らない親友のため。
ミスティアのために、待ち続ける。日が暮れても、薄い闇が下りても、夜行性の獣が寝静まっても。ずっと待ち続ける覚悟で。
「っ!」
しかし、その願いが天に通じたのか。
思ったよりも早く好機は訪れた、人間が人里のほうから塀伝いに歩いてきたのだ。なんだか細い声で何かを叫んでいるが、関係ない。視界に入れば、彼女の射程だ。米粒の大きさ程度にしか見えない目標に向かってリグルは虫を飛ばす。
麻酔効果のある毒を持った、自慢の妖蜂を。
どさり、と。
程なくして、リグルの眼前で人間があっさりと前のめりに倒れ、起き上がる気配もない。即効性の毒が効果を見せたのだろう。周囲を探り、ほかの人間がないことを確認して、すぐに倒れた人間の側へ。
「うん、これなら十分!」
大きさも肉付きも、そう悪くない。
手元には……外に出るときの武器だろうか。人間がよく使う包丁が握られていたが、リグルの前では意味をなさなかった。毒にやられ、うつ伏せで寝息を立てる人間を両腕で抱えて飛ぶ。その姿はまさしく、とある蜂の母親が子供のために餌を運ぶ図式に似ていた。
そしていつもの合流地点。
森の中で一番高い木の幹に獲物の背中を預けて、はっぱで隠す。これを見せたときにミスティアの喜ぶ顔を思い浮かべて、くすくすっと微笑みながら、こんもりと草で偽物の茂みを作り出した。
あとは、じっと、親友の帰りを待つだけ。
高い木の、枝の上で。
そして『ごめんなさい』って素直に謝って、最高の食べ物をプレゼントするんだ。
「……求愛行動みたい、あはは、違うんだけどね」
自分で言ってみて、恥ずかしくなったのか。頬を赤らめて星空を見上げていたら。
「……リグル」
昨日の蛍の夜とは対照的な、戸惑う声が彼女の上から降ってきた。
どう挨拶していいのかわからない、それが如実に覗える。だから、リグルは躊躇うことなく微笑んで、斜めに頭を下げる。
「ごめん、昨日はどうかしてた。きっと蛍たちの夜だったから興奮してたんだと思う」
「あ、……う、うん! 気にしなくていいよ! きっと、私もどこか悪かったんだろうから! じゃあ、今日は何かして遊ぼうか!」
いつもなら、何も用がないときは人間の話から始める。
今日は人里で何があったとか、何が美味しかったとか。
でも、それを口に出さないということは、昨日のことを少なからず気にしてしまっているのだろう。本当なら安らぐ場所であるはずの友達という居場所。それを自分で崩してしまったとリグルは胸を痛め、それでも笑顔でミスティアに手を伸ばす。
「それよりね、ミスティア。今日はとっておきのプレゼントがあるんだ」
「え? プレゼント?」
「うん、昨日のお詫び。素敵な食べ物を準備してみたんだよ!」
「えええええっ! 本当に、何々なんだろう。蜜蜂かな、芋虫かな!」
「……あはは、虫から離れてよ」
「でも、リグルから貰うのってそういう子ばかりでしょ?」
「ふふん、でも違う。今日はね、がんばって狩ってきたんだよ。ミスティアが喜んでくれるって思って!」
「んー、じゃあ猪? 鹿?」
「正解はぁ――」
そうやって、リグルが息を吸い込み。
大きな声で答えを告げる音よりも速く――
「う、うわぁぁぁぁ、なんだ! なんだおまえら!」
「しまった! 獲物がっ!」
言葉を持つ何かの叫び声が、周囲に響き。
「――――っ!!」
「ミスティア、何をっ!」
それに遅れて、一人の夜雀が声を絞り出した。
歌を聴いたものを鳥目の能力が、森を覆い尽くす範囲で発動する。
動物や、人間、妖怪にすら影響を及ぼす力で。
初めて見た。
人間の声を聞いた瞬間、空中で動きを停止させたときのあの驚愕の表情。
口を半開きにして、不安げに視線だけを彷徨わせ、両手はあるはずのないものを探して宙を掻く。その直後に訪れた、爆発的な妖力を乗せた音の衝撃。
爆心地でそれを受けたリグルが意識を取り戻せたのは、背中が地面を打つ痛みのおかげだった。
「っ!」
いくら肉体に重きをおかない妖怪であっても、痛いものは痛い。
幻想で作られた体には呼吸器官も備わっているのだから、受身も取れずに強い圧力を受ければ無理やり機能が麻痺させられる。それはわずかな時間ではあるが、空気を奪われた体はむせ返るばかりで動くこともできない。しかもミスティアの能力を受けたおかげで、視力さえ奪われた状態だ。それでも何か確認できるものはないかと地面の上でもがいて指先で地面を引っかいたとき、異質な草木の感触がした。
手で簡単に動く、いくつもの重なり。根と茎が繋がっていればありえないはずなのに。
――間違いない。
視界が閉ざされた中で見つけた手掛かりは、さっきリグルが自分で集めたもの。人間を隠すために自分で作りあげた手作りの茂み。それが周囲に散らばっているところから判断して、誰かが崩したと判断できる。眠ったまま死なないように、手加減した毒が仇になったのだろう。そして驚いた人間が茂みを掻き分けたところで。
「……この液体は」
何かと遭遇した。
それが何かはわからないが、その直後に、この草木にこびり付いた液体が生まれた。
ただし、それが誰のものかはわからない。
「なに、これ……」
人間かミスティアか他の妖怪か。
鳥目にする能力が弱まってきたのか、段々と明瞭になる視界の中に、鮮明なる色が飛び込んでくる。
その場に相応しくない、緑と茶色の世界を覆い潰すような、鮮血。闇の中でもその色だけが、はっきりと見えた気がした。奪われていた視界が晴れていくにつれ、絶望的な世界が広がっていく。
「ミスティア……」
不安に駆られ、リグルは小さくその名を呼んだ。
たった人間一人で、これだけの量を流せるか?
木の幹、地面、落ち葉、枝、茂み――
簡単な小屋くらいなら容易に収まるこの空間を埋め尽くす真紅が、一瞬のうちに生み出せるか。この色の中に、彼女のものも――
「ミスティアっ!」
二度目に叫ぶと同時に、リグルは森の中を飛んでいた。
周囲の虫たちと意識を繋げ、鳥の妖怪が飛んでいった場所を探す。地面を見て、血痕を辿っていたんじゃ間に合わないと思ったから。ミスティアの本気の飛行速度はリグルを軽く上回るが、もし、もしもである。
手傷を負っていたり、人間を抱えていたら、その優位性は完全に消える。
獣の妖怪たちが多いこの森でその行為を実践することは、餌をゆっくり運んでいることに変わりなく。大事な人間という食料を独り占めしようとしていると受け取られかねない。人間を狩る集団の下位に位置するミスティアが、まだ分け前を与えられたことがないミスティアが、そんな裏切り行為をすればどうなるか。
想像はできるが、したくない。
そんな目には、絶対合わせられない。
そうならないために、虫を使って匂いを消しながら秘密の場所まで運んで、ゆっくり食べてもらおうと思っていたのに。
「お願い、みんな教えて、ミスティアの居場所を」
何故、ミスティアがあんな行動をとったのか。
そんなことを考えながら、リグルは虫たちの声を頼りに進行方向を割り出し、飛び続ける。ただ獲物を食べるだけなら、最初のあの能力は必要ない。あんな膨大な妖力を犠牲にする方法など取るはずがない。森に生きる動物から、いや、森の妖怪たちから何かを隠したいから取った行動にも思えた。
そしてその後の行動から推測して。
「……ありえないよ、そんなこと……」
何千? 何万?
人里には膨大な数の人間が生活している。
そんな中でたった一人を、そのたった一人を引き当てるなんてできるはずがない。もしそうだとして、その人間に何かあったら。
……どうやって、償えばいい?
絶望に似た焦燥感がリグルの心を支配する中で、何も変わらない森の風景に変化が訪れた。
目の前の茂みが、大きく揺れたのだ。
ミスティア! とは、叫ばない。
考えにくいから、虫たちの声を聞く限りミスティアは飛んで移動していたらしい。それなのに、ああやってガサガサと茂みを鳴らして移動するはずがない。ならば、アレは何だ。あの黒い群れは何だというのか。
「狼の妖獣……っ!」
ミスティアの所属する集団の上位を占める、狼の妖獣たち。
その多くがいきり立ち、唾液を撒き散らして移動しているのだ。何を追っているか想像に難しくない。だからリグルは躊躇わなかった。
空中を飛ぶ推進力に、幹を蹴ることで生まれる速度を追加。
そして、体を捻り、回転力を追加。
あとは、ただ直進し。
弾丸となって目標を穿つのみ。
「リ・グ・ルゥ、キィィィィッッック!」
「ぐほぉぁっ!」
狼人の群れの先頭、それを任され突出していた一体の脇腹に全速力の蹴りが突き刺さった。直進していた慣性を無視し、きりもみしながら真横に吹き飛ぶ巨体は杉の幹を易々と破壊して暗闇の中へと消えていく。安否など、予想するまでもない。
その予想だにしない不意打ちに群れが急停止する中。リグルは空中で蹴り足を引き戻し、進行方向に陣取った。
「ここから先は立ち入り禁止だよ」
白狼天狗の男の外見を黒くして、筋肉を付け加えた外見の狼人たち。リグルよりも頭二つ以上、横幅にいたっては二倍以上違う集団。けれどリグルは怯えも見せず、腕を組んで睨み付けた。そして同時に、その群れの頭数を冷静に数える。
「ほほぅ、ミスティアの知り合いの虫が、何の真似かな?」
「聞こえなかった? この先には進ませるつもりないって。今なら何もせず帰してあげる」
九体、それがここに存在する狼人たちの数。
それはまさしく、代表として話し掛けてきたヤツの群れの総数。周囲の虫たちに周囲を確認させても伏兵の影はない。
「それは無理だ。この先には裏切り者がいる。俺の仲間が見つけた人間を独り占めして逃げたミスティアがいる。代表としては許して置けない行為だ」
「あれは私が見つけてプレゼントした獲物だよ、群れの決まりには該当しないはずだけど?」
「それが正しいとしても、逃げたとき俺の部下の胸に傷をつけた。その見せしめも必要だ」
どちらにしろ、引く気はない。それが答えだった。
確かに、群れの中に山伏のような服の前面を切り裂かれた個体がいる。しかし驚異的な再生能力を誇る狼人の肉体ゆえ、傷などどこにも残っていない。一度彼らと戦ったことがあるリグルも、虫たちの毒に対する抵抗力の高さに目を剥いたものだ。
「だから、リグルよ。邪魔するんならこっちの流儀で相手するぜ? 一対一で戦ってやると思うなよ?」
「……虫って貶してる相手に九人がかりって、プライドはないの?」
「そんなものじゃ、飯は食えないからな!」
代表者に賛同し、下卑た笑い声を上げる狼人たち。
しかし、その目だけはすでに爛々と輝いていた。
小さな獲物であるリグルを目標とし、一人、一人と。群れから散っていく。一度勝利したことのある相手でも、容赦なく群れで包囲し片を付ける
リグルからしてみれば、巨大な塔にすら見える男たち。木々すら用意に薙ぎ払う膂力を持った腕を持つ獣に、取り囲まれるのはなんとか避けようと身を引くリグルだったが。そのときにはもう、包囲網が完成していた。
「今から謝れば、手足くらいで勘弁してやるが?」
絶対的な優位に立ち、暴力的な解決策を提示する。
命乞いをして見せろ、と。
しかし狼人たちは、あることを忘れていた。もし途中で信念を曲げるような中途半端な愚か者が、彼らの前になど立とうと思うはずがない。
「悪いね、残念だけど……私、馬鹿だから」
何故なら、彼女は正真正銘の馬鹿。
こうと決めたら、驚くほど真っ直ぐ。
「親友を売って生き残るなんて考え方できるほど、頭良くないんだよね!」
その信念を貫き通すため、リグルは合図を送る。
声と同時に、仕掛けをすべて動かした。
「ん?」
リグルが叫びを上げた途端、狼人たちが同時に首筋を押さえる。
ちくり、と何かに刺された気がしたから。
何気なくそこを叩いて見れば、何かがつぶれる感触があって一匹の蜂が地面に落ちた。
「妖蜂か、これが会話をして時間を稼いだ切り札というところかな?」
致死性のある神経毒。
人間であれば一瞬で黄泉の世界へと誘うことができる猛毒を込めた蜂だった。しかし、わずかに苦しむ個体が数体いるだけで、ほとんどの狼人は変化を見せない。普段から毒性の強い蛇などの動物を食する彼らの特性だった。
最初の一手を無効化されたリグルは、また妖力で虫を生み出し放射状に射出。牽制をばら撒いてから続いて地面を蹴って飛び上がった。
しかし、リグルの予想とはまるで違う動きを狼人たちは見せる。九人いたうちの四人が近くの四人の盾になったのである。そしてリグルの攻撃を逃れた四人は後を追って同時に飛び上がる。
四方向から一気に迫られては堪らないと、追い来る四人の迎撃のために虫を準備して。しかし、そこでリグルが気付いた。予想以上に、遅いのである。まるでリグルの反撃を誘っているかのようで……
(上だよ)
「しまっ!」
虫が、教えてくれた。
狼人たちの連携はすべてがフェイクで、本命がどこにあるかを。慌てて空を仰ぎ見たリグルの視界に映ったのは、両手を揃えて今にも振り下ろそうとする巨体。
腕の軌道を予測し、なんとか避けようとしたが遅かった。
頭を狙った両手の一撃は何とか避けたものの、追い討ちの回し蹴りを肩に受けてまともに吹き飛ばされてしまう。足先が触れる前に自分で身を引いたおかげで致命的な攻撃には至らなかったが。
「ほう、うまく受けたな」
地面に叩き付けられたあと、体が跳ねた勢いを利用して横回転。すばやく体勢を立て直すが、右腕に大きな違和感が残った。痺れて、動かないのである。
「綺麗な当たり方はしてないはずなのに、馬鹿力にもほどがあるね……」
「さて、次はその足でも動かなくしてやろうか?」
おかげで妖力から生み出した眷属たちを速射するのが難しくなった。牽制もできないまま、速さと力比べを行わなければいけない。そんな手放しで降参したくなる状況下にあっても、リグルは下がろうとはしなかった。再び包囲を作り始めた狼人を冷ややかな目で見つめ返し。
「二回目だったよね、私とあなたたちが戦うの」
再度、確認した。
「ああ、一度目は毒が効かなくて逃げたはずだ。惨めにな」
「そうだよね、一度目も間違いなく妖蜂を刺した。じゃあ、もうすぐ終わりだね。あなたたちともお別れ」
唯一動く左腕を目の前に上げ、会話を繰り返す代表格の狼人を指差す。
そんな不敵な態度を腕ごとへし折ってやろうと、一歩足を踏み出したときだった。何もないところで巨体が倒れ、土煙を上げたのだ。
立ち上がろうとしても起き上がれずない。頭を振ってから力を入れても、大きな身体は地面から離れようとせず。腕だけが震えていた。
「眩暈、意識障害、呼吸困難、さて。あなたには今どんな症状が起こっているのかな? もう動かない仲間もいるようだけど」
言葉のとおりだった。
なんとか顔を上げた狼人が見たものは、彼と同じく地に伏した仲間の姿。同じく地面の上でもがくものもいれば、微動だにしないものもいる。まるで夜の森に命を吸い尽くされたかと錯覚するほど、その光景は異様だった。
目に見えない攻撃をリグルが仕掛けたとも考えられない。
「何をしたのか、聞きたそうな顔だね。でも私は特に変わったことをしたわけじゃない。一度目と同じ毒をあなたたちに入れただけなんだよ。それでもう、勝負はついてた」
そのリグルの言葉を聞いても、彼らは理解できない。
虫程度の毒で地に伏すなど、欠片も想像していなかった。彼らが攻撃を当てるために偽装したのと同じように、リグルの行動も時間稼ぎにしか過ぎなかった。
「私の毒はね身体が警戒し、抗体を生み出しやすい仕組になっているの。だから二度目に同じ毒を入れられた場合過剰なくらい敏感に反応して、その抗体そのものが毒と自らの肉体を内面から破壊してしまう。自然界にある毒なら、あなたたちは少量ずつ摂取しているから急激な反応は起こらないはずだけど。私の妖蜂の持つ毒はこの子たちしか持っていない。つまり、急激な変化を抑えることができない」
『アナフィラスキーショック』
アレルギー症状の一種で、毒を追い出そうとする作用が肉体にも影響し、最悪、死に至る。特に再生能力が高く即座に耐性が作られる種族にとって、能力を逆手に取られた防ぎようがない凶悪な攻撃手段となる。
リグルがミスティア以外の森の妖怪に一度勝負を挑んだのは、このため。相手が一度は勝ったことのある相手だと油断し、易々と毒を受け入れられるようにすべて仕組んだ。
「……警告は、したからね」
親友の脅威となる存在が動かなくなったことを確認してから、リグルは再び夜の中を飛んだ。
彼女の無事だけを願いながら。
リグルは夜の中を進むたび、胸を締め付ける痛みが増していく。
先ほどの戦闘における傷のせいではない。
ミスティアの飛行経路を知り、目的地を把握してしまったせいで、ありえないと思っていた偶然が真実味を帯びてきたから。推測なんてする必要もないくらい。ミスティアは明らかに人里を目指していた。
人間を抱えたまま、そこにいくとすれば可能性はたった一つ。
その人間を、救うため。
「違うの……ミスティア、私そんなつもりじゃなかった……」
そして、その対象となる人物は、ミスティアに料理を教えていた人間としか考えられない。
謝罪の言葉を口の中で響かせても、結果は変わらない。
いくら妬ましいと思っても、殺してまで奪い取るなんて考えていなかったのに、この世界は残酷な事象を作り出していた。
ただ、単純に昨日のことを謝りたくて、プレゼントを準備した。
たったそれだけのことだったのに。
「どうしよう……」
時間的なことを考えて、ミスティアはもう人里に到着しているだろう。人間を送り届け、よかったと胸を撫で下ろしているんだろう。もしかしたら、涙すら流しているかもしれない。
けれど、その後。彼女にとって大切な人間を、食料にしようとして命の危険にまであわせた原因を彼女は許してくれるだろうか。
今までと同じ顔で、笑いかけてくれるだろうか。
「ごめんなさいって、言うくらいしか……もう思いつかないよ……」
もう、リグルは、泣きたかった。
その場で飛ぶのをやめて泣き喚きたかった。
でも、今なにもしなかったら、ミスティアとのつながりが全てなくなる気がして、怖かった。だから体を休めずに森の中を前だけ見て飛び続けた。
ここまでくれば人里はもう目と鼻の先。
今日はもう会えないかもしれないと速度を緩めて……
(下……)
その虫の声に反応できたのは、偶然だったのかもしれない。
声に従うまま何気なく下に顔を向けた、そのとき。
「ミス、ティア?」
後、ひと飛びすれば森を抜けるところで、地面の上に座るミスティアを見つけた。
大きく切り裂かれた傷の残る背中。
それを外気に晒した痛々しい姿の親友を。
「ミスティア! 大丈夫っ!」
さきほどまでの黒い感情を吹き飛ばし、リグルはすぐ側に着地し身を寄せる。やはり最初の広場の血はミスティアのものも混ざっていたのだ。狼人と争い、お互い傷ついた結果があの惨状。
「リグル……」
罵倒されることを覚悟してミスティアに顔を見せ、間髪おかずに自分のマントを破り捨てる。そして長い布を作って包帯にし、傷が隠れるように体へと巻きつけていった。しかしそんな簡易な治療の間、彼女はほとんどリグルを見ない。
じっと、少し先の地面を見ていた。
「ごめん、もう少ししたら、包帯巻き終わるから」
「うん、ありがと……」
傷は確かに浅いものではないが、妖怪ならば十分動き回れる部類。
ミスティアの衣服が予想以上に赤く染まって見えたから、重傷だと判断したリグルであったが、思い違いだったと息を吐く。
この程度の怪我で本当によかったと、安堵してミスティアの顔を見た。
すると、やはりミスティアはどこか一点を見つめており、何気なくリグルはその方向へと視線を合わせる。
「あのね、リグル。さっきまで、しゃべってたんだよ」
「……え?」
ミスティアがこんなところで休んでいるから。
思い込んでいた。
「私のこと見て、大丈夫? とか、言ってたんだ。馬鹿みたい、自分も私と同じくらいの傷受けてるのにさ、痛いなんて一言も伝えてくれなかった。僕のせいで怪我させたとか、うるさいくらいに言ってたんだよ」
人間を送り届けて、休憩しているんだとそう思い込んだ。
「でもね、急に、静かになったんだ……」
「ミスティア……」
「もう少しで人里だよって言っても、何も返してくれなくなった。おかしいよね? だって、私と同じくらいの傷なんだよ? ありえないって……こんなの。一日もあればすぐ治っちゃう傷なのに、あの人ね……どんどん、冷たくなってくんだ」
安らかな顔をして眠る人間。
それがリグルの第一印象だった。
妖怪の住む森に運ばれたというのに、その顔には恐怖が微塵もない。
「暖めたよ、私だって。親鳥が卵暖めるときみたいに、羽で擦ったりもした! なのに、起きてくれない! 動いてくれない!」
でも、その人間は眠っているわけでも、気絶しているわけでもない。
叫ぶミスティアの引き絞った声が、その事実を証明していた。リグルは唇を噛み、手をぎゅっと握り締めることしかできない。でもミスティアは、少しだけ顔を明るくしてリグルにしがみ付いてきた。
「そうだよ、リグルって虫で音を出せるよね。ほら、すごく煩くしたらきっとあの人も起きてくれるよ、それに私の歌も乗せれば絶対っ」
「……駄目だよ、ミスティア」
「大丈夫だよっ! あの人、私の歌綺麗って言ってくれたもの! 耳元で歌ってあげれば、きっと、起きて――」
「人間は、妖怪とは違う」
「――っ!」
すがり付いた手をミスティアは離した。
きっと、最初から彼女もわかっていたから。
妖怪とは違う生き物が、大きな傷を負い動かなくなったら、何が待っているか。
それを理解した上で、納得できなかった。
知識の上ではもうすべてが手遅れなのに、どうしてもそれを覆したくて理想だけを探した。確率がすべてゼロであっても、行動せずにはいられなかった。
「ごめん、ミスティア……ごめん」
泣きもせず、叫びもせず。
肩を落とし、地面に座り込むだけ小さな背中。
それを見ていたらもう、リグルには誤ることしかできなかった。
『許してほしい』なんて言葉は、出なかった。
許されるはずがないと、そう思ったから。
その鋭い爪で何度も切り裂かれるんだろうと、そう思っていた。
しかし、おもむろに立ち上がったミスティアは、彼女を罵倒することも攻撃することもなく。ただ、首を横に振った。
「リグルのせいじゃない。私のせい。あの人、手にね、包丁持ってた。私がいつも使ってたヤツ。私がそれを忘れたから慌てて追いかけたんだと思う。だから、人里の外まで出たんだ」
「っ! そんなことないっ! ミスティアは何も悪くない!」
「ううん、私のせい」
「なんで、なんでそんな悲しいこと……」
「だってさ、そう思ってないと……嫌だから」
動かない男へと、一歩、二歩、足を踏み出し、急に振り返って微笑んだ。弱々しい、すぐに壊れてしまいそうな笑顔で。
「大好きなリグルを、キライになりそうで……嫌だから、ね。私のせいにさせてよ……」
「ミスティ、ア……」
「もう、一緒にいてもいいかなって思える人が居なくなるのだけは、嫌なんだ」
リグルはもう何も言葉にすることができなかった。
顔を両手で抑え、髪を振り乱し。
唯一発することができたのは、ごめんっという言葉が涙で崩れた、呻き声だけ。
それを聞いたミスティアは、『大丈夫』とだけ返して、男の側へと近寄った。
「約束、だったよね?」
膝を地面に付け、少しだけ土で汚れた顔を優しく撫でる。
「あなたが死んだら、お肉、食べさせて貰うって。ごめんね、痛いかもしれないけど……他の誰にもあげたくないんだ……変かな、私」
横たわる人間に告げて、紅い爪を伸ばしたミスティアは覆い被さるように顔を近づけて――
◇ ◇ ◇
「たぶん、美味しかったんじゃないかなぁ……」
「へ? なんのこと?」
かくんっとミスティアは膝を折りかけた。
その屋台の席に座るルーミアの反応が、予想以上だったから。
「あのねぇ、ルーミアが言ったんでしょう? 私に、初めて人間食べたときどうだったかって!」
「……あー、あー、あー! そうだった! 思い出した!」
「ほんの数分前の出来事忘れないで欲しいね……」
おでん用のお玉の先を向け、ジト目で睨み付ける。
その圧力に押されたか、それとも本王に思い出したのか、ルーミアは手を叩いて騒ぎ。うんうんっと満足そうに頷いた。
「妖怪だもんね、やっぱり人間食べるよね。ミスティアってさ全然そういうとこ見せないから心配してたんだよ、ねぇ?」
同意を求め、隣に座る客に笑顔を見せるが。
「あのね、当の人間に対してその話を振るのはやめてくれない?」
「できれば食人の話も勘弁してほしいところだぜ」
もっともな理由を返し、ルーミアのおでこを指で弾くのは言わずと知れた霊夢と、その悪友。帽子を膝の上に乗せているため、普段は見せない金髪があらわになっていた。
「えー、でも気にならない? 人間だって、なんか、初めてはいつ? って盛り上がってりしてるじゃん。あ、そうだ、この前だって! 魔理沙と山の巫女がキスの初めてがどうとか――」
「ちくわーすぱーくっ!」
「あうみゅっ!」
「まったく、意外と純情なんだから……じゃあ、改めてそのときの話を」
「ほっとけ!」
いきなり立ち上がった魔理沙は、霊夢越しにルーミアの口へと狙いを定め、箸でちくわを押し込んだ。アツアツのおでんのネタを入れられたルーミアは、はふはふっと、慌てて冷たい空気を口の中へと送り込み。
霊夢はその様子を肘をついて眺めていた。
「はいはい、八目鰻の蒲焼き上がったけど、霊夢だっけ?」
「そうそう、お客様なんだから大切になさいよ」
「しょっちゅう財布持たずにやってくる癖に」
「後で払うからいいじゃないの、ほら、お酒も」
「はいは~い」
人間からはお金を、お金を持たない妖怪からは、森や山の食材をそれを御代としてミスティアは屋台を開いている。始めた動機は『鶏肉料理撲滅』のためで、もちろんおでんの中には鶏肉関係の食材は一切ない。
最近では、霊夢と一緒にやってくることの多い八雲紫によって、外界の海に関係した食材も集まるため。当初は八目鰻料理しかなかった屋台も、ほとんど人里の料理店と変わらない品揃えになってきた。
『野外での気持ちいい風を受けて、酒を飲み。
程よい料理に舌鼓』
そんな趣ある屋台に、もの好きな妖怪が集まらないわけがなく。夜ともなれば、人間も妖怪も入り混じった大宴会が気ままに開催される。今日だって例外ではなく……
カウンターにはこの3人。そして勝手に鬼が作った別テーブルには、鬼二人は言うまでもなく鴉天狗が二人、そして白狼天狗が一人、肩を狭めて座っている。さらに今日に限っては、ござを敷いてゆっくり酒を楽しんでいるペット連れの団体さんも足を運んでいた。
八雲紫を数に入れないのは、注文のときだけ現れ、またどこかに消えてしまうから。
「んぐ、うはぁ、熱かったぁ。魔理沙! 何するのよ!」
「ふふん、お前が乙女の秘密をばらそうとするからだ」
「……ふっふっふ」
「な、なんだよ」
「12歳、道具屋? 事故?」
「っ!? ちょ、お前! 逃げるなっ!」
決まりごととしては、弾幕や能力を使ったケンカや客に襲い掛かるのはご法度。
そして、埃が立つから店の近くで飛び回るのも禁止。
ゆえに、小さいルーミアと顔を真っ赤にした魔理沙の追いかけっこがスタートし、外野の鬼たちがやんややんやと囃したてる。
そうなると必然的に、カウンター席に霊夢が取り残されるわけで。
「お待たせ♪」
「待ってない」
その隙をついて、スキマから紫が現れ、堂々とルーミアの席に腰を下ろす。おそらく、ずっと霊夢の隣が空くのを狙っていたのだろう。満足そうに微笑みを浮かべると、日本酒と蒲焼きを注文し……
「ねえねえ、おねぇさん? この屋台には人間の死体料理は置いてないのかい?」
「……あー、もう、ルーミアといいこの猫といい、どうして私に話を振るのよ。そこの店主に聞きなさいよ」
と、そこでいきなり、黒猫がカウンターに上がって、人の言葉を話す。
もちろん、それが今日珍しくやってきたペット連れの団体客の一員であるのは言うまでもない。霊夢にしかめっ面で怒られたせいか、黒猫は少し頭を下げ、今度はミスティアに同じ質問を繰り返す。
「人間ねーんー、確かに最初に食べたときは、美味しいって思ったし、涙も出たけど……。まあ……うん、私の料理した鰻の方が美味しいし」
「おや、おやおや、それはいいこと聞いたねぇ! あたいにもそれを一つおくれよ!」
「出来上がったら呼ぶからちょっと待っててね」
「はいはーい、おくーぅ! このお店には人間より美味しい料理があるんだって!」
「ええっ! ホントっ!」
とんっとカウンターを降りた猫は、飼い主と友達が待つ場所へと戻り、人型へと姿を変えた。ただ、そのペットの行動があまりに傍若無人であったせいか、飼い主であるさとりが、心配そうに屋台の方へと顔を向け。
こつんっ
「にゃっ!」
無言でお燐の頭を叩いた。
何故叩かれたのかわからず、不安げにキョロキョロ周囲を見渡すお燐に向け。
「あまり、失礼なことを言うものではありません」
と、強い口調で告げる。
お燐は『何故?』と首を傾げながらもごめんなさい、と謝った。そんな珍しい行動を肴に酒を楽しんでいた一人は、ふふっと軽く吐息を漏らした。
「心を覗けるというのも気を使うものですわね。それでも誰かさんの心なら覗いて見たいけれど」
「私は仕事しない妖怪が何考えてるか死ぬまで理解したくないけど」
毒づき合いながらも、互いに注文した料理に箸を伸ばし合う。人間と妖怪が、何の気兼ねもなく料理を楽しめる店。妖怪が経営するという要素がありながら、悪意を持って接してくる人間もいない。
「次は、人里にお店を出そうかなぁ」
「ふーん、いいじゃない。あんたの料理なら食べに行ってあげるわよ? でも、妖怪たちは行き難くなるだろうけど」
「……んー、あ、昼は人里で! 夜はここなら! って……仕込がぁ、あ、霊夢! ツケなしにするから!」
「……巫女は毎日の修行が忙しくてね」
「えぇーっ! ちょっとくらい手伝ってよ。視線そらすな!」
「ほら、そういうことなら屋根の上のヤツが適任よね、ねぇ、リグル?」
霊夢が視線を上に向けると、その背後に一つ、とんっと人影が落ちた。
そして大きく背伸びをして。
「誰か、呼んだ?」
「霊夢~、リグルは材料取りや仕込みの手伝いで疲れてるから!」
「いいよいいよ、そろそろ動こうと思ってたところだし。それに、鬼がいるってことは出番も近いかなって」
紫の隣、今夜は誰も座っていない椅子に腰掛けて、頬杖を付く。
その間もミスティアは手際よくいくつもの料理を仕上げ、大食らいの妖怪たちへと配っていく。鬼のテーブルでも、地霊殿組のテーブルでも笑い声が溢れ、とうとう宴も最高潮。
と、そんなとき、暖簾を控えめに上げ、倒れてしまいそうなほど疲れた顔をした椛が入ってくる。彼女がやってきたテーブルでは相変わらず鬼が世間話で盛り上がっており、鴉天狗の二人のうち、一人はすでにダウン。唯一文だけが、まだ笑顔を絶やさずに鬼の話に相槌を打っていた。
「鬼の接待ご苦労様♪」
「がるるるるっ!」
「……ほー、へー、私に向かって吠えちゃいますか、ねぇ、すーいーかー! 椛があんたの相手するの嫌だって愚痴言ってる~っ!」
「あぁぁっ? へぇ~、椛、私の酒に付き合えないっての?」
「ち、違いますよ! こ、この人間が嘘を! 私は伊吹様とお酒飲むの大好きです!」
「そっかー♪ じゃあ、明日も飲もうね~♪」
「わぁぁぁ~~い……」
しくしくと、こっそり涙を流す椛は、本来の目的である酒の追加注文をする。そして、申し訳なさそうにリグルとミスティアを交互に見つめて。
「伊吹様と星熊様が歌はまだかと申されまして……」
要望を受けたミスティアは、どれどれと、屋台の外へ出て星や月の位置から時間を推測し、ぽんっと手を叩く。
今日は注文が多くてすっかり忘れていたらしい。
「んー、もうこんな時間か。リグル、大丈夫?」
「大丈夫だよ、ミスティアこそ無理しないでね」
「歌さえあれば、どんな疲れてても乗り切れる! さあ、準備準備!」
割烹着を脱ぎ、いつもの服装に戻し始める。忙しそうに動くミスティアに一度微笑を向けたリグルは、人間がほとんど聞き取れない音で虫たちに合図を送る。
これから始まるのは、ミスティアの屋台におけるメインイベント。虫たちの合奏と美しい声が生み出す、大自然の楽章。人が作った楽器とはまた別の響きが、一度聞いた者を虜にし、自然と足を店に運ばせてしまうほど。
少しでも聞きやすい位置へ行こうと客たちが移動するのを尻目に、リグルは静かに瞳を閉じた。そして、その横の気まぐれな妖怪も同じく。
「……ねえ、リグル? あなたはまだ前奏曲を奏でるつもりはないの?」
「曲なら、いまからはじまる」
「違うわ。あなたと、ミスティア。二人のことよ」
「……ミスティアが人里にお店を作って、満足するまで。『あいつ』の夢につき合おうかな。私たちにはまだ時間が十分あるだろうし。ミスティアはあのときのこと、きっと忘れていないだろうから。そんなこと顔色ひとつ見せないけど」
「そう……」
ミスティアが、リグルを呼ぶ声が響く。
早く早くと、観客が急かす。
その声に逆らうことができず、リグルは椅子から飛び降りた。
「でも、私はこのままで我慢できるほど物分りがよくなくて。いつか『あいつ』の願いだけじゃなく、私の夢も叶えて貰うから」
「そう上手くいくかしら?」
よし、と。気合を入れるリグルの背中に、紫は試すような視線を向けた。
「思い出というものはは、強敵ですわよ?」
「強い方が、燃えることもあるらしいよ?」
戸惑うことも、躊躇うこともなく。
彼女はあっさりと言い切って、大好きな親友の隣に立った。屋台から少し離れた、土の盛り上がった場所。それが、二人の夜のステージ。
「リグル、遅れないでよ!」
「誰に言ってるのさ!」
「ふふん、上等!」
虫の調べと、鳥の歌。
星空の下の二つの澄んだ音が重なり、観客をひと時の幻想へと誘う。
それは屋台の合間のわずかな時間でしかなかったけれど。
それでも、この時間こそが、リグルが求めた夢の形。
硝子の様に繊細なミスティアの声と、儚い命を燃やし奏でる虫たち。
いつか、二人で様々な曲を紡ぎ、幻想郷で知らぬものがいない音楽家として名を馳せる。それがリグルの本当の願い。
今夜二人が謳ったのは、恋の歌。
叶わぬと知りながら、それでも手を伸ばした、悲恋の歌。
「恋っていうのが何か私が歌うのも変だけどね……」
歌い終えたミスティアが恥ずかしそうに笑う中。
リグルも同じように笑い返し。
心の中で、強がった。
悔しいから、絶対教えてあげない。
きっとミスティアは恋をしたんだよ、なんて。
絶対教えてあげない。
私が前奏曲を弾くその日まで。
二人と一人の関係とか
なのに人間の方のキャラクターが軽薄で、妙な違和感を感じます。
お話全体としてもよく出来ているので勿体ない。
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アナフィラスキーショック ⇒ アナフィラキシーショック