レティ・ホワイトロックが紅魔館の茶会に招待されるようになったのは、春雪異変の次の冬からであった。当主であるレミリアは幻想郷を訪れる以前から、世界の冬を渡り歩いていた彼女と僅かながらに面識があった。春を纏って白玉楼から帰ってきたメイド長から「くろまく」たるレティの話を耳にした彼女は、懐かしさも手伝って茶会に呼ぶよう言い付けたのである。以来、冬の盛りの紅魔館には小さなテーブルを囲むふたりの姿があった。
「今年は、遅かったわね。来るのが」
「たまにはそんな年だってあるわ」
カップを手にした雪女はふわりと笑った。
たまには桜ではなくて、と咲夜が庭に持ち込んだ梅の木の枝には、指三本分ほどの雪がかぶさっていた。氷の粒の下からは、うっすらと色味のある蕾が透けて見える。カレンダーは二月の半ばを指していた。
「それにしても、相変わらず出てこないのね、妹さん」
「ん、あぁ。別にもう閉じ込めてるってわけじゃないんだがな」
レミリアの目が少しばかり伏せられる。
「当然といえば当然だ。五百年も軟禁されていれば、誰だって外での羽根の伸ばし方など忘れる」
「後悔しているの?」
「…………間違ったことをしたとは思っていない」
「強情ね」
左手の指先をカップに添えながら、レティは紅茶に唇を触れた。秋摘みのキャッスルトンがするりと喉を通り過ぎていった。
「フランがな」
しばらくだんまりを決め込んでいたレミリアだったが、件の妹の名で沈黙を破った。
「最近私に聞くんだよ。『お姉様、恋ってなぁに?』って」
「はぁ」
唐突な話題に、レティは間の抜けた声で返すしかなかった。
「大方、あの黒白の影響でも受けたんだろうが……。何だよ、恋色魔法使いって。一体それは何色だ。具体的に言ってみろ」
「少女は恋に恋焦がれるものですもの。大目に見てあげなさい」
開け放たれた窓から冷たい風が吹き込んで、ふたりの間を駆け抜けた。その窓からは、どんよりとした雪雲が空を覆っているのが見える。
「最初のうちは、本でも読んで勉強しろと言っておけば足りたんだがな。紅魔館にムダにデカい図書館があるせいで、フランの方も耳ばかり年増になってきてしまって」
「恋愛小説でも読んだの? 可愛いじゃない」
「つい先日、源氏物語を読破した」
「わぁお」
しかも原典だ、とレミリアは遠い目で雪雲を眺める。
「そんな妹に、恋とは何かと尋ねられる姉の身にもなってくれ」
「貴女、恋愛経験ないでしょう」
「……………………」
「肯定と見做すわ」
脚を組んで椅子に身を預けたレティを、レミリアは恨みがましい目で睨む。
「あら怖い。吸血鬼にそんな睨まれたら、春も眠れなくなってしまうわ」
「うるさいだまれころすぞ」
気勢を削がれた悪魔が牙を剥いてみても、威嚇にすらならなかった。
「そういうお前はどうなんだ」
「私?」
「雪女といえば、悲恋話がつきものじゃないか」
肘をついて絡めた両手の上に顎を置き、余裕の笑みを何とか取り繕って、紅魔館当主は反撃を開始した。
「何だっけ? 自分好みの男だけ殺さないでおいて、正体隠しながら契りを交わして、そんでバレたら逃げるんだっけ」
「随分と語弊がない? 全然悲恋話に聞こえないんだけど」
「簡潔にまとめたと言ってくれ」
ニヤリと笑うレミリアに少し眦を上げながら、レティはカップをソーサーに置いた。
「恋ねぇ。……大昔の話でよければ」
「ほう」
さっそく食い付いたレミリアが前に身を乗り出す。
「大昔って、どのくらいの昔だ?」
「むかしむかしあるところに、って語り出しで始められるくらいには昔の話よ」
レティが目を閉じると、窓から雪が舞い込んできた。それが寒気を操る彼女の能力によるものなのか、それとも偶然降り出しただけなのか。レミリアには判断がつかなかった。
「むかしむかしあるところに、猟師の若者がおりました。山で迷ってしまった彼を殺そうと近づいた雪女は、逆に彼に恋をしてしまったのです。それ以来たびたび、雪女は人に化けて彼の住む村へ出向くようになりました」
淀みなく続くレティの語り口は、本当に童話でも暗唱しているかのようだ。
「やがて男の方も、妖怪とは知らず雪女を見初めました。ふたりは人目につかぬよう宵の口に待ち合わせ、夜も遅くまで尽きない話を続けました 。――ところでレミリア」
「うん?」
「殿方と手を繋いでみたいと思ったことは?」
「なっ、なななななべべ別に」
「うふ、あらそう」
笑みを零したレティだが、その頬をすぐに引き締めて話を続ける。
「雪女も猟師も、もちろん互いにふれていたいと望みました。ふたりがその思いを行動に移すまでに、それほど時間はかかりませんでした。でも……」
ぽたた、と重い雪がテーブルに落ちた。
「彼の身体は雪女には熱すぎて、彼女の身体は人間には冷たすぎました。指先が触れただけでも、強く刺すように痛むのです」
レミリアの鼻がすんと動いた。日光に灼かれてしまう吸血鬼には、身に覚えのある話らしかった。
「男の方は口には出しませんでしたが、そのときにはもう女が妖怪であることに勘付いていたのでしょう。ひょっとしたら、山の中で襲ってきたあの雪女なのかもしれないということにも。村人の中にさえ、いぶかしむ者がいたのですから。だけどそんなことは彼にとって、もはや些細なことでした」
俄かに風が強くなった。まるで吹雪のように雪華が舞い狂う。開け放した窓際とはいえ、仮にもここは邸内であるはずなのに。
「男は言いました。『貴女が満足してくれるまで抱き締めていたい』と。『凍え死んでしまったって構わない』と」
「……いかにも、弱い人間が言いそうな台詞よね」
「そうね、人は妖よりずっと死に易いから、簡単にそういうことを言うわ。でも雪女は、そんな彼の言葉を笑えなかった。なぜなら ――」
外耳を風が切る音が、やけに五月蝿く響いた。
「彼女もまた、彼に焼き殺されたっていいと思っていたからです」
微かな音とともにカップを手に取ったレティは、冷え切った紅茶で唇を湿らせた。レミリアもそれにつられて喉の渇きを思い出す。館の主の紅茶も、やはり凍りそうに冷えてしまっていた。
「そしてある夜、ふたりはついに決心しました。夜が明けるまで抱き合って、ふたりとも無事だったならば契りを交わそう。どこか遠くまで旅に出て、誰もふたりを知らない土地で暮らそう、と」
荒れ狂う吹雪は止む気配がなかった。カーテンは凍り付き、壁に掛けた絵はがたんと落ちた。冬が紅魔館を完全に制圧していた。
「雪女は心の底から喜びました。だから全身余すところなく釘を打たれたような痛みにも、声を噛み殺しながら耐えることができたのです。夜が明けたなら、そこには輝かしい未来が待っているのだから。何度も気を失いそうになりながら、日の出をずぅっと待ちました。そして掘っ立て小屋の窓からついに薄明が射したとき ――」
男が死んでいることに気付いたのです。
その言葉がレティの口から発せられた途端、何故か風がすっぱりと止んだ。レミリアは口を閉じることすら忘れて、ただぽかんと雪女の顔を見つめていた。
ふわり、と雪の結晶が舞い降りてきた。それをレティはてのひらで受け止めると、愛おしげに目を細める。それは多分、恋する女の目であった。その視線に見守られながら、氷の欠片はゆっくりと溶けてなくなっていく。
「めでたし、めでたし」
確かな雪女の声で、彼女はそう話を締めくくった。
◆ ◆ ◆
「あれ、帰っちゃったんだ、冬妖怪」
「えぇ。今日は一つ教訓を得たわ。冬の茶会はやっぱり締め切った温い部屋でやるべきね」
「なに頓珍漢なことを言っているの、お姉様?」
「あぁ、教訓はもう一つあったわ、フラン。貴女がいまご執心の、恋についての教訓」
「え、なになに?」
今更ながらに晴れ渡った空を、レミリアは恨めしげに眺めた。梅の枝に積もった雪は溶け崩れ、その蕾がようやっと顔を出していた。
「恋の力は強大で、妖怪すら簡単に殺すらしいわよ。熱い紅茶を涼しい顔で飲んでた雪女の言うことだから、信用はできないけれどね」
できれば最後にもうひと押し、レミリアに活躍して欲しかった。
もうちょっと着飾ってもいいかと思いますけれど。
それでも その美しさに手を延ばしたくなるものですよね。
雪のようにさらりとした掌編、これはこれでとても素敵ですが、
レティさんとお嬢様が旧知の仲という、なんだかワクワクする設定を
もっと活かしたお話も見てみたいです。
上記の通り、少しだけ文章を飾ったら、もっと綺麗な作品になったと思います。
レティレミか……流行ればいいですねぇ。
恋はほんと怖い。怖い、怖い。このへんで熱い紅茶が怖い。