「永江様になら、天子様をおいさめする事もかないましょう」
比那名居家の侍女は、深いお辞儀をしつつそう述べた。対面する衣玖にその脳天のつむじがありありと見えるほどの、作法もまた完成された礼だった。
衣玖は侍女の言葉とその態度、両方に面食らった。
比那名居邸の廊下、天子の私室の前での事である。
「お待ちください。頼みますから、頭をお上げになってください。私のような一介の竜宮の使いごときにそんな」
人間で言えば4、50歳ほどの容姿をしたこの和装束の侍女は、衣玖の懇願に応えていくらかは上体を起立に戻したが、会釈程度にはまだ頭がかしいでいるし、着物手はまだ丹田の前でゆるりと交差されている。
「恥ずかしながら力足らずで、私どもの言葉は天子様には届いておりません。ですが永江様の言葉にならば天子様もお耳をよせられるでしょう」
妙な勘違いをされたものだ、と衣玖は呻いた。
お昼を食べたら地上に遊びに行くので迎えに来て、昨日そう言ったのは天子だった。だがいざ衣玖が比那名居邸に迎えにくると、天子はまだ布団の中にいた。衣玖を接待した侍女は、主人の非礼を申し訳なさそうに謝り、そしてその後に放ったのが、先の陳情まがいである。
「私の事をかいかぶっておられますよ。私だって総領娘様に振り回されてばかりです。それに……こう言っては失礼ですが、総領娘様は稀に見るご気性の激しい令嬢ですから、貴方様の力不足などではありませんよ」
「天子様の母君もまたご気性の激しい御方であらせられました。けれども奥方様にはその母君がお側にあって、いきすぎた時にはお叱りくださいました。お可哀想に、天子様にはお側にいてくださる方がいないのです。その役目を果たせないのは、どう言いつくろってもやはり私どもの不徳なのです。ですが、永江様なら……。天子様も、永江様の事を好いております」
衣玖は恐縮した様子でいながらも、内心ではうんざりしていた。
天子の父もそうであるが、どうも比那名居家の面々は衣玖に天子の母役を着せようとするきらいがある。不服、というのではない。衣玖自身かつては天子の保護者を気取っていた時期があったから(作品集124『搾乳の天子』)、その役目を任されるのは誇らしくもある。では何が衣玖の心をうんざりさせるのかと言うと、どうもそれは自分自身の抱える後ろめたさの為であるらしかった。
つまりは、比那名居家の者は天子と衣玖の実情を知らない、という事である。誰かに罪がある事柄ではないのだが、衣玖の心中でのみ方々の認識のズレが具体的になってしまうのである。
「ここのところ、天子様は連日遅寝朝寝坊していらっしゃいます。永江様から一言、おいさめくだいませんか」
「はぁ」
「私どものお小言では何の効果もなく……情けないものです」
「私の言葉に特別耳を貸すとも、思えませんが」
「今すぐには変わらずとも、永江様のお言葉はきっと天子様の心に残ります」
「うむむ」
侍女の態度がとても誠実であるから、衣玖は結局断る事ができずに、首を縦に振ってしまうのだ。
シズシズと去っていく侍女の背中を見送りながら、衣玖は呻いた。
「総領娘様にはもったいない人達ですね……。が、真面目すぎるのやもしれません」
寝顔だけは相変わらずまことに可愛らしいのだ。土台が一級品である証明だろう。
仰向けに眠る天子は、掛け布団の端から、首から上だけをさらしている。衣玖は布団の脇に腰を下ろして、その顔を覗き込んだ。
眠っているだけあって全体的に力が抜けており、唇はだらしなく半開き。頬には涎の後がある。閉じた瞳はいつもよりまつげが強調されていて、整った配置の目鼻のおかげもあり、造型の良いお人形さんの寝顔にも見えた。すぅすぅと寝息が鼻から漏れている。
「総領娘様」
ぷに。と頬をつつく。
「んに……」
と天子は呻いて、一文字になった唇がしばらく蠢いた。
朝ぼらけの中でそんな表情を見たならば、この上なく愛らしいと感じられるのだろうが、今はあいにく昼の一時である。おまけに、衣玖は待ちぼうけを食らわされている身なのだ。
「総領娘様。ねぼすけ様。起きてください。こら。起きなさい」
ぷにぷにぷにぷに。今度は連続で、それもつつくといわずに、突く。
うざったそうに、天子は衣玖の手を払った。目は閉じたままである。
「やめろぉ……」
その掠れた声はまるで、素人の奏でるスカスカの尺八。
「もうお昼ですよ。起きてください」
「……衣玖ぅ?」
「そうですよ。目を開けて、しかと御覧なさい。衣玖です」
「なんで私の部屋にいるのぉ……?」
「なんで、とおっしゃいますか」
衣玖の鼻の穴から、ムフゥと荒い溜め息が噴出するが、この程度で怒っていては、素人である。
「今日の昼。地上に遊びに行くから迎えに来いとおっしゃったのは、総領娘様ですよ」
熟練の余裕を感じさせる落ち着いた声色で衣玖は言った。
「……ふぇ?」
一方、天子の鳴き声は、ただのふ抜けである。
「あー……」
天子はもぞもぞと姿勢を横向きに変え、今だ目の開かない赤子の面を衣玖に見せつけながら、気持ちよさそうに枕に頬擦りをした。
「寝る前に読書をと思っていたら、朝になってたの……だからまだ眠い」
「なるほど。で、地上行きはどうするのです。私は迎えにきたのですが」
「だからぁ。眠い。中止」
「……そうですか」
This is it. である。
衣玖の脳裏に、先ほどドアの前で話した侍女の、困り果てた顔が浮かんだ。「おいさめください」、申し訳なさそうにその侍女の口元が言った。
ぬぬぬ、と呻いた後、衣玖はいさめた。
「……夜更かしはいけませんよ」
ほとんど棒読みである。
その衣玖の忠告にうなずいたのか、あるいは枕に頬擦りをしただけなのか、どちらかはわからぬが、天子は僅かに頭をもたげさせ、
「うぃ」
と呟いた。いや、たんなる寝言だったのかもしれない。とにかく、真面目に話を聞いた様子は一切なかった。
ほらやっぱり駄目だったでしょう……
そんな気持ちで衣玖は肩をすくめた。
馬の耳に念仏。このじゃじゃ馬には何を言っても無駄なのだ。突き放した言い方だが、良くも悪くも天子の我の力強さは凡人のそれとは質が違うのである。天子の心のあり方には、大妖の素質が見受けられる。贔屓目かもしれないが、衣玖はそう見ていた。もっとも霊夢などに言わせると、ただの親ばからしいのだが。
さておき、ではこんな時に衣玖がどうするかと言うと……改めて言うほどの事でもない。素直に、自分のしたいように行動するだけである。天子の我侭に引きづられる必要はないのだ。
つまり今の場合――さも当然のごとく、衣玖は服を脱ぎ始めた。上着とスカートを脱いで、自宅で一人くつろぐ時のだらしのない格好になる。そして天子の背中側から、衣玖はもそもそと布団に潜り込んだ。
「んぅ……?」
後頭部の向こうで天子が何かうなったが、知った事ではない。
衣玖は天子の背中に擦り寄る。
「……? なに……?」
安眠を邪魔されて、天子が不機嫌そうにうめく。
「お気になさらず」
衣玖は肘を突いて上体を起こし、もう一方の手を天子の脇腹からヘソに回して、きゅっと抱き寄せた。天子の背中と衣玖のお腹が、ぴっとりとくっつく。
そしてそのまま、天子のつむじにちゅっちゅっと唇をあてたり、すべすべとした首筋に鼻を埋めて、ふとんの香りと混ざってふんわりとなった天子の体臭を香る。天子の腹をパジャマの上からゆっくりと愛撫すると、さわり心地の良い生地の感触に、天子の肉の柔らかさが加わり、なんとも気持ちの良い撫で心地であった。
こんなところを比那名居家の者に見られたら、という危惧が一瞬頭に浮かぶ。だが、見るなら見なさい、という反抗心もある。そうなれば、この家に者が衣玖と天子の間柄を清く誤解する事も無くなるだろう。
もっとも誰かが勝手に天子の部屋の襖を開けることなど、まず無い事ではあるが。
「ひゃあ。もうっ。何なのよぉ」
こそばゆいのだろう。身体をくの字に縮ませながら、天子が文句を言った。
天子の耳の付け根を甘舐めしつつ、衣玖は極さりげなく答えた。
「私の事は気にせず、総領娘様はお休みくださいな。夜更かしで眠いのでしょう」
「ぺたぺた身体を触られて眠れるわけないでしょっ」
「そうですか?」
「そうですかじゃなくて、止めてよっ」
「それはお断りします」
「は!?」
「暇なんですもの。今日は総領娘様と地上に行くつもりでおりましたのに、総領娘様は寝るとおっしゃいますから、私はもうすることが無いのです。ですから急遽予定を変更し、今日は総領娘様の眠るお姿を可愛がることにしました」
「する事が無いなら家に帰りなさいよ!」
天子の身勝手な物言いに、衣玖の目が据わった。
パジャマのすそから手を入れて、天子のへその窪みに指を潜り込ませ、くりくりと奥を弄る。
「あひぃ」
「呼びつけおいて、眠いから帰れですか。さすがにちょっと勝手がすぎますね」
指先にゴマの感触を探り当て、衣玖は爪を立てて、さらゴリゴリと天子のヘソの奥を削った。
「あへっ。ひゃっ。はふぅっ」
ヘソから股間にかけての体内を痛こそばゆい電撃が貫通する、あの独特の刺激を味わったのだろう。天子は転がるように布団から這い出た。
「何すんのよ衣玖の馬鹿! 起きればいんでしょ起きれば!!」
こそばゆいのかそれとも痛いのか、複雑な歪みを顔に浮かべた天子は悲鳴交じりに怒鳴った。
「いえそんな。寝ていてくださってかまいませんが……」
「寝れるか阿呆!! 朝風呂してくるからまってなさい!!」
肩を怒らせながら天子は部屋をでて行った。
「朝風呂というより昼風呂でしょう」
寝ていて構わない、という言葉は本心である。衣玖は天子を愛でる事ができるのならば、約束をむげにされても別によかったのだが。
衣玖は応接室で茶菓子を振舞われつつ、天子の支度が整うのを待っていた。そこに先ほどの侍女が、上品な笑みをたたえつつ現れた。
「私が何度声を掛けても駄目でしたのに、永江様がお諌めになると、天子様はとたんにご起床になるのですね。ふふ。やはり天子様は永江様を好いておられるようで」
言っている事のすべてが間違っているわけではないが、やはり勘違いをしている。
「私は何もしていませんよ。総領娘様を起こしただけで、諌めてなど……」
起こしたというのもまた、結果的にそうなったにすぎない。
「ご起床いただくだけということすら、私にはできぬのです」
侍女はそう言って、力なく笑った。己の無力さを心から悔やむ姿が、その奥に感じて取れた。
「ご自分を卑下なさらないでください。貴方様は私などよりもよほど礼節を心えたお方に違いありませんのに……。総領娘様がオテンバすぎるのです」
「私は天子様の守役。その役目を果たせなければ、他にどんな技能があっても無意味なのです」
自嘲気味に笑う姿に、衣玖は胸が痛んだ。
「私は、天子様の身の回りのお世話に全力を尽くす事にしています。ですから永江様は」
また侍女は深々と頭を下げた。
「天子様のお心の支えであってくださいませ。それは私には願いかなわぬことです」
「は……。承りますから、どうか、頭をお挙げになって」
「なにとぞ……」
総領娘様が必要としているのは心の支えなどではありません。誰かに支えてもらわねばならないほど、あの娘の心は弱くない。総領娘様が望むのは、自分の側に取り繕いのない姿でいてくれる人なのです。
そういう思いが、衣玖の胸にある。
けれども、侍女に伝えたりはしなかった。ただの自分の思いこみかもしれないし、よしんばそれが真実であったなら、なおさら人に伝える気は無い。
衣玖は天子の隣に立つその場所を、他人に譲る気などさらさらないのだ。
衣玖のことを、天子の優れた守役と見ている比那名居家の、大きな思い違いである。
その日、二人が下界から天界に戻ったのは太陽が地平に沈みきった頃である。夏空はすでに、大半が赤から藍に変わりつつあった。出発が遅かったため、二人が地上に降りていたのは5、6時間程度に留まった。
一度目が覚めてしまえば、早く地上に行こうと逆に衣玖せかす現金な天子である。最初は博麗神社に降り、暑さにうだる霊夢と冷茶を飲み、その後神社に訪れた元気娘魔理沙と地上式の弾幕戦を楽しみ、夕刻になると人里に下り、近頃天子が読み進めている恋愛絵巻の続刊を購入した。
惰眠をむさぼるよりもよほど生き生きした表情で、天子は天界に戻った。
「ねぇ衣玖。これ何?」
風呂から出てきた衣玖に対し、天子が小さな小瓶を片手にそう問うた。
衣玖の家の居間である。天子は比那名居邸には直帰せずに一度永江邸によった。地上でかいた汗を流すため、衣玖だけ一足先に風呂に入っていたのだ。天子は自宅に帰ってから身体を清める。
「それは……」
見覚えのある白亜の小瓶である。親指ほどの小ささで、小口には申し訳程度の装飾に赤紐が巻いてある。しっかりとコルク栓がしてあり中身は伺えない。天子がそれを振ると、カロカロと小石が跳ねる乾いた音がした。
見覚えがあって当然であった。衣玖の机の引き出しにしまわれていたものなのだから。
「こら!」
衣玖は軽く声を荒げて、天子の手からそれを奪った。
「何するのよ」
「私の机をあけたのですね。人の机の中を勝手に触っては駄目でしょう」
幼子の悪戯をしかる口調で衣玖はいさめた。
その声に僅かながらこめられている確かな怒気を感じ取ったのだろう。天子はむぅっと頬を膨らませた。
「何がしまってあるのか気になったんだもの」
「そんな事は理由にはなりませんっ。私の机なのです。総領娘様と言えども私に断り無く覗き見するのは止めてください」
「な、何よ。隠しごとするの? 何かやましい事でもあるの」
「だからそんな事は関係ありません! 人の机の引き出しを開けるのはいけないことだと言っているのです」
道徳を説く衣玖の脳裏に、比那名居家の侍女の生真面目そうな顔が浮かんだ。急に、自分の言い方が全く効果無いように思えて、衣玖は言い方をかえた。
「私は、誰であろうと自分の机を触られるのは嫌なのです。だから私の机を盗み見するのは止めてください」
天子はまだ不満言いたげな顔をしていたが、しぶしぶイヤイヤという感じで、頷いた。
「わかったわよ……怒らなくてもいいじゃない」
それから捨て台詞のようにボソっと呟いた。
「次からはこっそりばれないように見るから」
「総領娘様っ!」
「ふん! ……で、何が入ってるの。あの小瓶」
「魔理沙みたいなネズミ娘には、教えてあげませんね!」
「ちょっ……教えなさいよ!」
瓶をめぐってとっくみ合いにまでなったが、衣玖はとうとう天子にその中身を教えなかった。天子は機嫌悪そうにして、家に帰っていたのである。
静かになった家中で、衣玖はやれやれと溜め息を吐いた。またあの侍女の顔が頭に浮かんだ。諌めてくれ、そう言いたくなる気持ちがよく分かった。
「それができれば苦労はしません」
あきらめ声で、独り言を言う。
小瓶を治すために、衣玖は部屋の隅にある机の引き出しを開けた。
中には小物の類が綺麗に整頓されている。荒らされた様子は無かったので、ひとまずは安心した。
引き出しをめいいっぱい引くと、一番奥に、小物の下に潜むように、日記帳が隠されている。それも天子に触れられた様子はない。衣玖はようやく心から安堵した。
日記帳を取り出し表紙を捲る。そこに一枚の写真が挟んである。
天子と衣玖が、博麗神社と桜を背景にして並んで写っていた。撮影される事に慣れていなかったから、二人とも少しぎこちない様子で笑っている。春の宴会の最中、文々。新聞掲載様にと文が撮ったものである。衣玖は天子に内緒でその写真の焼き増しをこっそり注文していたのだ。
衣玖が所持している唯一の写真である。この幻想郷においては、写真はなかなか手に入れられない嗜好品なのだ。
ひと時その写真を眺め、衣玖は日記帳をしまった。
この写真を見られたくないから天子に怒った……という訳ではない。先ほど天子に怒ったのは、無論、引き出しを勝手に開けられたからである。とは言え、もしこの写真を見られていたら……という気恥ずかしさがその怒りを後押ししていたという側面は、否定できなかった。
翌朝、衣玖の家の玄関を誰かがとノックした。衣玖が戸を開けると、そこには仏頂面の天子がいた。
「あら。おはようございます」
「おはよ」
昨日のことをまだ引きずっているのか、天子にはどこか固い雰囲気があった。妙にすました顔であるとか、微妙に目を合わせない、とかである。
あの程度のこと衣玖はたいして気にしていないのだが。
「本当にお早いですね。まだ九時を回ったところなのに」
合う約束をしていたわけでもないのだ。
朝の遅い天子がこんな時間に訪ねてくるのは、本当に珍しい事だった。
「また、誰かさんが布団に潜り込んでくると嫌だし」
「あはは」
「まぁそんな事はどうでもいいわ。ちょっと、家にきてよ」
「え。今からですか?」
「うん」
「構いませんが……」
丁度、朝食を片付けて一息ついていた所であった。他に用事も無い。衣玖は衣を羽織って、玄関を出る。
「何か御用ですか?」
「いいから黙ってついてきなさい」
首を傾げながら、衣玖は天子の後に続いた。
比那名居邸に付くと、衣玖はそのまま天子の部屋に連れて行かれた。途中、廊下ですれ違う何人かの侍女に頭を下げられて、衣玖は恐縮する。先日の侍女もいた。
二人が部屋に入ると、天子は入り口の襖をぴしゃりと閉じて、強い口調で衣玖に言った。
「さぁ。机の引き出しを覗きなさい」
「は?」
「私は今から朝食を食べに行くから。その間存分に私の机の中を見ていいわよ。見たけりゃ、机の上や周りもね」
「いやあの……どういう事ですか?」
天子は腕を組んでふん反りかえり、やたらにいかめしい顔で言った。
「衣玖はどうだかしらないけど、私は衣玖に隠し事をする気もないし、机を見られても嫌じゃないわ。だから見なさい」
最後の言葉はどうやら命令であるらしい。
衣玖はいまだに天子の真意は分からなかった。だが、天子の思い違いにはやはり溜め息がでる。
「天子様。何度も言いますが、私は隠し事がどうだとか言っているのではありません」
自分の胸に手を当てて、強調して言った。
「わ、た、し、は、机の中を見られるのが、い、や、だ、と言ったのです。人の机の中を見る気もありませんよ」
天子はいらだたしげに口をすぼめた。
「私の机の中に興味ないの?」
「あったとしても、覗いたりしません」
「あーもー!」
衣玖がそうきっぱりと断ると、天子は頭をがしがしとかきむしりながら地団駄を踏んだ。
「勝手に衣玖の机を見たんだからこっちも見せてやるって言ってるのよ。見れ!」
「やられたらやり返すという考え方はあまり好みません」
「うるさーい!」
天子は衣玖を睨みつけながら、ビシッと指を刺して宣言した。
「私が戻ってくるまでに、見ておくこと! いいわね!」
天子はそう言い捨てて、衣玖の返事もまたずに部屋から出て行った。怒った足音がドスドスと床を叩きながらが遠ざかる。
「何を考えているのやら……」
天子なりの罪滅ぼしなのかもしれないが、こんな形では嬉しくもない。
呆れを顔で、衣玖は部屋を見回す。
天界には和式家屋と洋式家屋が混在している。永江邸は洋式家屋であり、一方比那名居邸は純粋な和式家屋である。名居家であったころの家屋をそのまま天界入りさせたのだ。当然天子の部屋も和室で、十畳の広い角部屋である。二方にはそれぞれ廊下と隣部屋を隔てる障子があり、二つの壁にはそれぞれ押入れと小窓がある。畳にはほこり一つ無く、備え付けられた箪笥にも綺麗な花が飾ってあり、物いれや化粧鏡も清潔に整理されている。まこと綺麗な部屋である。
――その整った部屋の一角に少しばかり乱れた空間がある。天子の和机だ。目立った装飾のない、質素な木机である。壁ぎわの、小窓を見上げる位置に備え付けてある。机の上とその周辺にだけは、物が無秩序に転がっていた。読みかけの本だとか、書きもの道具、ブローチなどの装飾品、用途のよく分からない小箱、手まりやけんだまなど……あと中身の残った湯飲み茶碗にはさすがに衣玖も顔をしかめた。
天子曰く、掃除女が部屋のをかたずけをしてくれるけど机とその周りにだけは絶対に触らせない、との事。秩序ある空間の片隅に取り残された、無法地帯である。
「覗くよりも、掃除をしたくなりますねぇ」
世話好きの血が騒ぐ。
「まぁ。ああまで言うのなら覗いてさしあげますが……」
天子が先のような無理やりな態度をとる時は、たいてい何か目論見――おおむね稚拙な――があるのだ。おそらくは今回も、何か仕込みがあるのだろう。
小物につまずかぬよう、衣玖はそろそろとすり足で机に近づいた。
「机の中を見ろ、と言っていましたね」
衣玖は机の前に正座し、一瞬躊躇してから、引き出しの取っ手を引いた。たくさん物が詰まっているのか、引く手が重い。
開けてみるとやはり、引き出しの中は玩具箱をひっくり返して流し込んだかのような有様だった。
大小色とりどりの小物――お手玉・耳飾・首飾り・指輪・数珠?・押し花・筆・硯・しぼんだ紙風船・折り紙・爪きり・櫛・またまたカンザシ・手紙?・ただの小石・琥珀・セミの抜け殻・文々。新聞の切れ端・博麗神社の札・花札・昔衣玖が折った鶴の折り紙(まだ持ってたの!)――が乱雑に押し詰められていた。
だが、引き出しを開けた時に衣玖がまず目にしたのは一枚の白紙である。小物をふたするように、これ見よがしに、しいてある。手のひらほどの大きさのその紙には、天子の筆字で次のように記されていた。
『 ご め ん 』
衣玖の右肩が、天狗の飛行速度でずり下がった。拍子抜けして、心がずっこけたのだ。
「く……くだらない」
衣玖は呻きながら、天井を仰いだ。
もし衣玖が優れた教育者か先日の侍女であったなら、天子がおずおずと示した謝罪に喜びもしたかもしれない。だが衣玖はそのどちらでもないのだ。
直接言ってくださいよ! 恥ずかしげに俯く天子の顔に、そう突っ込みをいれて、呆れた。
そりゃあ手紙の大切さぐらいは衣玖だって知っている。一言では言い表せない事や、なかなか落着いて伝えられない事柄を相手に伝えたい時には、とても良い手段だ。けれど昨夜のようなごく軽い言い争いのどこにそうする必要があるのか。
衣玖にとって、この手紙は天子の怠慢だと感じられた。
まして自分と天子の仲なのだから、このくらいのことで気後れされては嫌なのだ。
天子は昨日の件で謝るべき、とも思っていないが、天子にそういう気持ちがあるのなら、謝ってもらおう。
天子が戻ってきたら、もう一度面と向かってこの言葉を言ってもらおう。衣玖は拳を握り鼻息を荒くした。
その紙を机の上に置き、引き出しを閉めた時である。
偶然に。
本当に偶然に。
一冊の本が衣玖の目にとまった。
たまたま、移動する目の焦点がその本を通過したというだけである。そうでなければ気づかなったろう。
それは天子が最近はまっている恋愛絵巻本であった。衣玖が気になったのは、本の紙の間に隙間ができていた事である。ペーシの間に何かが厚手のものが挟まっているらしい。栞がはさんであるとかそういうレベルの隙間では到底無かった。
それが気になるのは衣玖もまた、そういう状態になった本を持っているからである。
本に書いてあることから何がしかの思索行った時に、紙にそれを書いて、折りたたんで思索の源になったペーシに挟んでおく。読書における衣玖のクセである。
天子もそうなのだろうか、と気になったのである。もしそうだとしたら、天子が本を読んで何か思考をするというのは、失礼ではあるがちょっと意外で、どんな事がかいてあるのかとまた気になった。
本を手に取り隙間を開くと、折りたたまれた何枚かの紙が挟まれていた。
「これは……原稿用紙?」
挟まれていたのは、ただのメモ紙ではなかった。等間隔の升目が橙色の線で印刷された、原稿用紙。それが何枚か折り重ねられている。
開いてみると、そこに、天子の字で何事か書かれていた。
衣玖は読む――
『わたしこと天花(てんか)の隣では、衣子(いこ)がスヤスヤと眠っている。』
「……」
『……衣子とお喋りしたいな。唐突にわたしはそう思った。』
「……何これ」
僅かに眉を寄せながら、文字を追っていく。
『「衣子。衣子。ねぇ衣子」
衣子の暖かくて柔らかい背中を軽くゆすりながら、私は子猫のおねだりみたいな声をだした。子猫のおねだりは、無視しちゃいけないと思うの。
「んぅ……なんですか……」
眠気にすり潰されたようなかすれ声で衣子が喘いだ。私の好きな声。普段はハキハキしている衣子の、私だけが知ってる秘密の声。
「衣子って……好きな人いるの?」』
「これって……」
これはおそらく、いやほぼ間違いないであろうが、天子が書いたオリジナルの小説のようなものであるらしかった。(作品集124『深夜考』)
それを理解した衣玖の顔に、歪んだ笑みがにじみでる。その表情の変化はまだ大人しいほうで、脳内ではテンションがぐわんぐわん音をたててうなぎのぼりに上昇していった。
知人の書いた小説なんてものを突然目の当たりにすれば、誰でもそうなるだろう。
しかもそこに登場するキャラクターの天花と衣子は明らかに天子と衣玖をもした……というよりそのまま流用している。ベットで一緒に寝ているシーンだとか、天花が衣子に我侭を言うあたりだとか、衣子が天花に総領娘様と呼びかけるシーンだとか、もはや言い訳ご無用である。
『衣子は、なんだかんだで私の言う事を聞いてくれる、素敵な王子様。私は女性ですからお姫様でしょ、って衣子は文句を言うかもしれないけれど、それでも、私がお姫様をやりたいといったら、衣子はしかたないですねと私の好きな笑い方で微笑んで、きっと王子様をやってくれる。だから衣子って好き好きすー。』
「ぶふぅぅぅぅ!」
衣玖は飲んでもいない茶を盛大に吹いた。
『好き好きすー』って、やばいこれあの娘なに書いちゃってんの。てか私のこと王子様とかそんな風に思ってたのか。どうしようこれちょっと可愛すぎなんですけど……。
衣玖は床に倒れこんで身もだえした。自分が書いたわけでもないのになぜか、喉をかきむしりたくなるような気恥ずかしさが、足元から駆け上ってくる。
衣玖はそれでもけして読む事をやめず、笑いをこらえながら最後までむさぼり通した。あまり騒ぐと、女中が様子を伺いにくるかもしれない。
ぐひっ、ぐひっ、と変な笑い声が断続的に漏れる。読み終るころには衣玖の腹筋は崩壊寸前であった。
ストーリ自体は他愛無いものだった。天花が衣子に、好きな人いるの?と聞く。すると衣子は、天花の名前を挙げる。最初天花はその意味を理解していなかった。普段衣子は天花の事を『総領娘様』と呼ぶらしく、天花は最初突然名前を呼ばれた事に戸惑うのだが……よく考えるとまぁそういうわけであった、という事だ。それだけの話である。しかしそれが逆にムズガユい。
「あー……どうしましょうこれ」
衣玖は床に仰向けに倒れこんで、ぴらぴらと原稿用紙を弄んだ。まだ少し顔がヒクついている。
「総領娘様。時々名前で呼んでくれと私にせがみますねぇ……この話にはそういう願望が表れているのでしょうか」
それを思い返すと小説の内容と現実がますます密接に絡んでくる。この話の中で天花が衣子に向ける思いは、現実世界で天子が衣玖に向けるものを100%ではないにせよ、かなり反映しているのではないか。そう期待できるくらいの関係が、衣玖と天子の間にはある。
終盤の衣子のセリフ「好きですよ。私の可愛い総領娘様」などに、衣玖はもう無性に叫びだしそうになった。それは、かつて衣玖が考え、天子自身が禁止したあだ名である。(作品集120『ファル・フィア・クフェーナ』) それを呼ばせた上に『好きですよ』と言わせるなんて。
「何を思ってこんな話をかいたのやら……」
原稿用紙が挟んであった本を手に取る。天子お気に入りの恋愛絵巻物。まぁ、影響されて自分も書いてみたというところだろうか。それにしても……。
「総領娘様。私を特別に思っていてくださるようですねぇ」
それくらいは分かっていたつもりではあるが、改めて目にすると、照れる。
「総領娘様はそこらへんをあまり積極的には示してくださいませんからね」
一人言がとまらないのは、こんなものを見せられて衣玖の気が変に高ぶっている証だろう。
「抱きつくのも、ちゅうを迫るのも、たいてい私からですし。総領娘様は少し照れながらそれに答えてくれるだけ……。普段はあんなに偉そうなのに、そういうところは妙にウブで……もどかしくもあるけれど、お可愛らしい方です」
衣玖はいつも気持ちを隠さず天子に示している。だが天子は、そういう所だけはそうとうに淑女なのだ。天子からのアプローチといえば、それこそ名前で呼んでくれと迫ってきたり、お風呂やベットで、おずおずと身を寄せてくるとかそういう事だけである。天子にとってみれば衣玖のいつも側にいたがるという事が、精一杯の表現なのかもしれない。
「あーもう。どうしてやりましょう、どうしてやりましょう」
原稿用紙をどうしようという事ではない。そんな可愛い天子をどうしてやろうか、という事である。
『 ご め ん 』と書かれた紙の事などは、とうに衣玖の心の引き出しから滑り落ちてゴミ箱に入れられていた。もし衣玖が守役であったならば、この原稿用紙を利用して、『人の私的な空間を勝手に覗いてはいけません!身をもってそれを理解したでしょう!』などと諌めるのかもしれないが、何度も言うように衣玖は守役でも教育者でもないのだ。
考えている事はといえば、この原稿用紙を利用してどうやって天子をより可愛いがってやろうか、などという事である。
「衣玖。戻ったわよ」
のこのこと天子が部屋に帰ってきた。発情した虎が涎をたらしてまっているとは露知らず。
天子が襖を開けると同時に、衣玖は持っていた原稿用紙を懐に隠した。
「お帰りなさいませ。総領娘様」
「……見た?机の中」
そっけない口調で、しかし衣玖とは目を合わせずに、天子が言った。
「ええ。まぁ」
「ふぅん……」
沈黙。
天子はどこか居心地悪そうに部屋の中央に腰をおろす。
衣玖は何食わぬ顔で小窓をカラカラと開ける。天子に見えぬよう窓に顔を向け、ほくそえんでもいる。
夏とは言え、窓から吹く天界の風は涼しい。
「……なんで黙ってんのよ」
天子が恨めしそうにじと目で衣玖を睨んだ。机の中のあの伝言を見たならそれについて何かコメントを言いなさいよ、という心の声が表情に表れている。
衣玖は窓際にたって、ツンとした顔をする。
「言う事はありませんね」
「……は?」
「総領娘様のお気持ちは、私にはこれっぽっちも伝わっておりませんもの」
「何よそれ」
「私に伝えたい事があるのなら、紙に書くのではなく口で直接言ってください」
「……この私がせっかく謝ったのに。不満だっていうの」
「不満ですね」
衣玖がきっぱりと断言する。
天子は不機嫌そうに頬を膨らませ、膝を抱えた。
ところで二人の会話は一見噛み合っているように見えて、実は歯車がずれている。天子は引き出しの紙について話をしているけれど、衣玖はひそめてあった原稿用紙について話をしている。衣玖だけはそのすれ違いを知っているから、ズレた会話をむしろ楽しんでさえいたのだが――
「そもそも……私は謝らなきゃいけないとは思ってないし」
天子のその言葉は、聞き捨てならなかった。
「……は?」
今度は衣玖が眉を寄せる。
「総領娘様は『 ご め ん 』と紙にお書きになったではないですか」
口元を膝に隠したまま、天子はぼそぼそと心うちをもらした。
「私は衣玖の机の中を見たこと悪いと思ってないもん。……衣玖が嫌そうにしてたから、謝ってあげただけよ」
「……なんですって?」
「ふん。だって私は衣玖の机の中に何があるのかすごく気になるんだもん。知りたかったんだもん。でも衣玖はそういうの嫌なんでしょ? だから、衣玖の嫌なことして悪かったと思ったから、納得いかないけどとりあえず謝ったのよっ。面と向かって言うのはなんだか尺だったから、紙に書いたの! 悪い!?」
途中から、天子はなかば逆ギレの様相になった。座り方も、縮こまった体育すわりから股を開いて胡坐に変わり、口を尖らせながら唾を飛ばす。
けれど衣玖は動じる事なく、むしろ逆切れに逆切れで返すかのごとく、肩を怒らせた。窓辺から離れ、ドスドスと足音をたてて天子に近づく。互いにの足がくっつかんばかりの距離で、衣玖は膝を床に突き天子と顔を付き合わせた。ついさっきまで寄っていた衣玖の眉が、今は急角度でつりあがっている。
「お馬鹿! ……総領娘様の!」
衣玖はカッとなって本当に天子を罵倒してしまい、慌てて倒置法で敬称を繋ぎ合わせた。
「な、なによっ」
突然の衣玖の剣幕に天子がたじろぐ。
「謝る気もないのに、なぜ謝るのですか」
「……え。そこなんだ」
「あそこもどこまありませんっ。肝心なところでは素直じゃないくせに、なんでどうでもいいところだけそのように気を使うのですか!」
「な、なによぉっ。衣玖が怒ってるから謝ってあげたっつってんでしょ!?」
一時は押さていた天子だが、すぐにいつもの負けん気が顔をだして、やれ押し返せと顔面を突き出し返す。二人はお互い床に手をついて、鼻先で睨みあった。まるで猫の喧嘩の激突数秒前。まさにキャットファイト。
「だからっ、悪いとも思ってないのに謝って欲しくないといってるんです! 謝ったふりなんかしないでください! よけに腹が立ちます! 総領娘様はご自分のお心に素直にあらさればよいのです」
「じゃあなによ、私は衣玖の机の中を自由に見ていいって言うの? 机の中だけじゃないわ。お化粧棚の中だってみてみたいし、箪笥の中だって見るわよ!」
「私は机の中を見られるのは嫌だっていってるじゃないですか! やめてください!」
「はぁ!? やっぱり嫌なんでしょ? 嫌だったのよね!? だったらなんで謝っちゃだめなのよっ」
「私がどうだろうが、総領娘様が悪いと思っていないのなら謝らないでください!」
「あーもう衣玖わけわかんない! 気をつかって謝ってあげたのに!」
「だから私に気なんて使わなくていいんです!」
「いいことないでしょ!? だって、だって――――少しは気ぃ使ってあげないと、皆から、鬱陶しいって思われるかもしれないし……」
唐突な失速。
天子の、しゅんとした顔と、おそらくは本音の言葉。
「そ……」
それは、衣玖にとっても予想外の不意打ちだった。
「総領娘様……」
「……」
二人の気勢があっという間に収束した。窓から、風が流れる。畳の匂いが二人の鼻にそっと香る。
恥ずかしそうに口をすぼめて、そっぽを向く天子。
目をみはる衣玖。
衣玖は驚いていた。天子がそんな世渡り事を言い出す日が来るとは露ほども考えていなかった。地上にできた友人達のおかげなのだろうか。彼らとの交友の中で、天子も思うところがあったのだろうか。
このましい変化なのだろう、と衣玖も思う。我侭でオテンバな天子が、他人の事を思いやって、そしてその思いやりに基づいた行動をとるようになるのなら、それは成長と言ってよいはず。
なのに――
「総領娘様はそんな小さな事を気にしてはいけません」
衣玖は、ドンと畳を拳でうち、そのチャンスを叩き潰した。
四つんばいになって身体を突き出した衣玖と、気押されて、後ろでに手をついてのけぞる天子。半ば、衣玖が天子に覆いかぶさっている。
「誰に疎まれようが嫌われようが怒られようが、総領娘様は思うままに生きてゆけばよいのです」
「な、何なのよ急に……」
「そういう処世術は人間達や私のような力弱き者達にこそ必要とされるもの。総領娘様はお強き大妖になれるお方なのですから、そのような些事に囚われる事はないのです。今まで通り、我侭に、自由に生きてくださいませ」
「・・・普段と言ってる事が違うじゃないっ。いつも私が身勝手だとかあーだこーだ渋い顔するくせにっ」
「たしかにその通りですが。私はそう思いますですが総領娘様が下手に気を使うのは、やっぱりらしくないなと思ったのです。素直が一番です。皆があきれるほどの自由奔放さは誰が認めずともそれは総領娘様の美徳なのです」
天子は不機嫌さの中に照れを混ぜた顔で、むぐっと口をつぐんだ。
いつになく褒められると、誰しもつい心の蓋が軽くなってしまうもの。珍しく衣玖に褒められて、天子の心も少し浮ついたのだろう。ぽろりと、隠れていたものが口から漏れた。
「でも私――衣玖には嫌われたくない」
衣玖は天子の言葉を、一度頭の中で租借してから、ゆっくりと理解した。
最初、衣玖は顔はきょとんとしていて、天子の言葉を理解した後はその顔がゆっくりと微笑んだ。
「それもまた、無用の気遣いです」
「……なんで?」
「私は、気ままで自由でおてんばな総領娘様が好きなのです。今のままでいてくだされば嫌いになる事なんてありえません」
「……」
「それにもし私が総領娘様を本当に嫌いになりそうにな時には、はっきりとそう申し上げます。だから常日頃は私の機嫌など気にせずに、思うままに生きてくださいませ。私ごときにはできない生き方です」
衣玖は、ぽふり、と天子の胸に顔を寄せた。そのまま体重を天子の身体に預け、両手を天子の背中に回して、身体を寄せる。
「……重いわよ」
「ふふふ」
言葉では表現しにくい、不思議な気持ちの共有感が二人の間に漂った。自分の心のうちをさらけ出したせいでいくらかの緊張と気分の高揚を感じているのに、同時に深い安心感をもまた感じている。自分の心の底を覗いた相手が側にいるのだという、嬉しさのような、恥ずかしさのような、むずがゆい気持ち。それは常には経験する事ができない、得がたい感覚である。
「うふふ。じゃあ総領娘様。キスしましょう」
衣玖がごく自然に言った。
天子は一瞬の間の後、間抜けな声をあげた。
「はい?」
「キスですよ。キス」
衣玖はニヨニヨとほくそえむ。それまで頬を預けていた天子の乳房から顔を離し、いざ接吻、唇を目指して天子の体をにじり昇る。
「なんでそうなるのよ! ……うわっ」
天子は動揺して、上体を支えていた後ろ手のバランスを失った。そのまま背中から畳に倒れこむ。したたかに背中を打ち付けた。
衣玖はこれ幸いとばかり、仰向けに倒れた天子に四つんばい覆いかぶさった。目を白黒させている天子の可愛い顔が、衣玖の顔の真下にある。このまま唇にダイブできそうだ。
「何すんのよ! どどどどきなさい!」
「総領娘様ったら、恥ずかしいだのなんだのいつもいつも理由をつけてキスを嫌がるけれど、本当はしたかったのでしょ? うふふふふふ」
「したくないわよ! いやらしい!」
「あらあらうふふ。衣玖は知っているのですよ。素直になってくださいな。私は素直な総領娘様が好きだと、先ほど言ったでしょう」
「勝手に決め付けるな! そんな風に言うなら私の気持ちは衣玖の言いたいほうだいじゃない! 私が都合の悪い意見を言ったら、何でもかんでも素直じゃない、とか言い張って! 何よ! 素直な私が好きだとか言って、衣玖は私を言いなりにさせたかっただけなんじゃないの!?」
「それは邪推です! あと決め付けではありません。事実です」
「だからそれが決め付けでしょーがっ!」
「あらあら。じゃあこれは何ですか」
んっふっふー、と鼻息で笑い、衣玖はふところに手を入れた。
とうとう衣玖は懐刀を抜いたのだ。原稿用紙の束を胸元からとりだし、ドヤ顔でそれを見せ付けた。
天子は、それが自分の書いた小説だとはまさかとも思っていないのだろう。怪訝な顔をして衣玖の手にある紙を伺っている。
衣玖はそんな天子の様子すらも楽しむように、やりとイヤラシイ笑みを見せた。
そして、勅旨とばかりに原稿用紙の中身を読み上げたのである。
「えー、こほん。『わたしこと天花(てんか)の隣では、衣子(いこ)がスヤスヤと眠っている』」
少しの間は、天子は衣玖が何を言っているのか分からない様子でキョトンとしていた。が、ほどなくして天子の体に小さな地震が始まり、そう思った次の瞬間には火山が大噴火していた。
「あ、あ、あああー!!ちょっとぉ!! なんで衣玖がそれもってるのよぉー!?」
天子の顔はまたたく間に灼熱の溶岩に覆われた。原稿用紙を奪おうとがむしゃらに手を振り回す天子の表情は、衣玖も初めて見るような必死の形相である。半ば泣いているような、怒りくるっているような、そして恥辱で真っ赤に燃えた表情。
衣玖が天子に対して半ば馬乗りになっている態勢である。原稿用紙を握っている手を衣玖がひょいとかかげれば、天子がどれだけ手をのばそうと、原稿用紙には届かなかった。
「ふぎゃぁぁぁ!! それをよこせぇぇぇ!!!」
「『衣子はしかたないですねと私の好きな笑い方で微笑んで、きっと王子様をやってくれる。だから衣子って好き好きすー。「キス……」』……これ、キスしたいってことですよね。違いました?」
衣玖は、「君の好きな微笑みかたっていうのはこれかい?」と小ばかにしたようなわざとらしい微笑みを浮かべて、天子を見下ろした。
「ぎゃぁぁぁ! 読むなぁぁぁ!」
「どうせとっくに全部読みましたし」
「なぁ゛っ!!!」
天子の顔が崩壊して、今度こそ衣玖が絶対にこれまで見た事の無い表情になった。今まで生きてきて一度も見た事のない表情であるから、もう例えようがない。顔面のあらゆる表情筋がすべて別個の方向に動いたとしか思えなかった。
「ぬ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!!!!」
天子は暴れ牛も顔負けというくらいに腰を捻ってのた打ち回る。衣玖はこらえきれずに振り落とされてしまった。
「おっとっと……」
衣玖がよろめいた隙を天子は見逃してはくれなかった。ネズミ捕りもかくやという瞬速力で飛び起き、原稿用紙を奪った。
「あらら」
「どっ、どこでこれを見つけたのよぉ!」
「そこの本に挟んでありましたが」
天子は衣玖の指差す本を一瞥し、ほんの一瞬「しまった!」という目をした。けれどすぐにまた、あらゆるものを責めたてる癇癪童女の瞳で衣玖を睨んだ。
「何で勝手に見たのよ!!」
「答えるのが馬鹿らしいくらいなのですが……。部屋を見ろといったのはそちらでしょう」
「うるさいうるさい! 本の中身までみるなんて思ってなかったわよ! どこまで細かく見てんのよ! 衣玖の変質者! 粘着質!」
「そんなに見られたくないならもっとしっかり隠してください」
「本に挟んだの忘れてたのよっ」
「自業自得じゃないですか」
「ああもぅ最悪……」
天子は頭を抱えてその場にへたり込んだ。縮こまってメソメソと涙する子供にしか見えなかった。
衣玖はおやおやと苦笑しながら、その天子の隣に腰を下ろす。天子の肩を抱き寄せながら、言った。
「まぁ見られたものはしかたないではありませんか。もうぶっちゃけましょうよ。その小説はあれですか。私への恋文ですか」
「違うわっ!」
天子は金切り声を上げながら、衣玖を突き飛ばした。その顔は赤線と赤外線をサンサンと放射し、目じりには涙がたまっている。
「ち、ち、ちょっと小説を書いてみたくなって、ためし書きしただけ! 勘違いしないでよ!」
「でも『衣子』って私の事でしょう」
「名前を言うな! 恥ずかしいから! モデルにしただけ!」
「総領娘様。もういいではないですか。素直になりましょうよ。照れずともよいのですよ」
「その全部わかってますよーって顔をやめなさい! ほんと腹立つ!」
「だって分かってるんですもの。総領娘様は私の事を考えながらあの小説を書いたのでしょう。それは立派な恋文なのです」
衣玖はぽっと頬を染めながら、夢見る乙女の溜め息を吐いた。それからいそいそと、隣にいる絶望まみれた乙女を抱きよせる。
「離せ!!」
「離しませんよ。私の可愛い天花様」
「がぁーーー!!」
天子が衣玖に頬擦りをされつつ雄たけびをあげたその時。
コンコン
と誰かが襖の端を叩いた。
ビクン!と天子と衣玖が固まる。
やましい事をしているとはいえないのだが、まっとうな事をしているともいえないのだ。
「あのう、大丈夫ですか? 先ほどからお騒がしいようですが……」
廊下から呼びかけられた、そっと伺うようなその声は、あの侍女のものであった。
これだけ騒げば、人に聞かれようというものだ。ここは天子と衣玖が二人きりになれる衣玖の家ではなく、使用人のたむろする比那名居家なのである。
「な、なんでもない! 去ね!」
棘のある声で、天子が命令する。
「左様ですか……」
まだいくぶん心配そうな声を残して、侍女は去っていった。
「……」
「……」
二人の心臓が、抱き合いながらドッドッドッドッっと手を繋いで駆け足で走る。
「……総領娘様。もう少しお優しい言葉をかけてあげたらいかがです。あの方だって、総領娘様の事を案じておられるのですよ」
「ふんっ!」
衣玖の胸の中で、天子がいらだたしげにそっぽを向いた。むにゅり、と衣玖の乳房の形が歪む。
「誰が衣玖の言う事など聞くものですか!」
「あらあら……」
どうやらかつてないほど天子の自尊心を傷つけてしまったようだ。おまけに天子に重大なトラウマを植えつけもしたのだ。しばらくはまともに口を聞いてくれないかもしれない。
「衣玖なんて大っ嫌い!!」
けれどうそうは言いつつも、天子は衣玖の腕の中から抜け出そうとはしないのだ。ぶすぅっと頬を膨らませながら、衣玖の胸に顔を埋めている。
そういう構図は、世界のそこここに時折あらわれる。
「嘘つきは嫌いですよ。早く素直になりなさい」
娘を諌める母。あるいは、意地っ張りな連れ合いをなだめるちょっと意地悪なパートナー。
衣玖は天子の柔らかい前髪を優しく撫であげて、唇でそっとおでこに触れた。
比那名居家は衣玖と天子の関係を長い間誤解したままでいた。自分達の認識が間違っていた事に気づくのはまだずっと遠い未来の事である。
そして――気づいた時にはすでに手遅れであった。
比那名居家は永江衣玖にのっとられてしまったのだ。
ただ誰もその事に不満を感じていなかったため、結局何の問題にもならなかった。比那名居家は今も比那名居家として、たしかに存在している。
『比那名居家当主は、癇癪玉に羽が生えた、と揶揄される天人である。感情豊かで、気性が激しく、気分屋。ちょっとした事でコロコロとその気分が変わる。怒りにとらわれた際の激しさは古今比類なく、あの風見幽香の激怒を凌駕するとさえ言われる。けれどその性分は裏表のない素直な性格で、強力な妖のたいていがどこか胡散臭げな気を有している事に比べると幾分かは付き合いが易い。またその行動は自由奔放でありその姿は幻想境のあちらこちらでうかがえる。人里で人間の子供と一緒に蹴鞠をしている事もあれば、命蓮寺や博麗・守矢神社でこっそりお供え物をつまみ食いしている事や、永遠亭の診察室のベットで寝ている事もあれば、紅魔館や地霊殿、白玉楼で主人と一緒に茶を飲んでいる事もある。街道をぷらぷら歩いているなんて姿もよく見受けられるし、雪山で遭難した村人を助けた、などという話も聞かれる。賽の河原で死神と一緒に昼寝をしている姿は生者にはあまり知られていないだろう。人間社会への露出度の高さやその裏のない性格のためかなり友好的と言える妖である。だがかといって気安く仕事の注文をするのはやめておいたほうが吉。たしかに比那名居家は代々要石と縁の深い家柄であるから、たとえば秋神姉妹がよく豊穣祭に参加するように、鎮震儀の礼祭に比那名居家の当主を招きたくなるのは分かる。だが残念ながら、当主は大仕事嫌いである。周りから強制される物事を大変嫌う。仕事の注文などは当主の癇癪玉を火に投げ入れるがごとくと心えるべし。一度機嫌を崩すと当主本来のものであるらしい我侭で自分勝手な気性が表にでる。そちらによほどの悪意が無い限り危害を加えられる事はないと思われるが、それでも大変に肝を冷やす事になるだろう。また人と妖は、どこまでいっても人と妖であるのだから、ゆめ、油断は禁物。
どうしても比那名居家に祭事を依頼したいとあれば、永江衣玖を頼るとよいであろう。比那名居家の実務を実質取り計らっている元竜宮の使いの現天人である。幻想境で唯一比那名居家当主を手なずけられる人物として名高い。かつて竜宮の使いであったため人との関わり方をそれなりに心得ている点も安心である。当主と違っていたって真面目な性格であるため祭事の依頼などにも易く快諾してくれよう。また永江衣玖と比那名居天子の間に生まれた比那名居家の総領娘は、性格的に永江側の血をよく受け継いでおり大変穏やかな性格である。近頃元服も果たしたゆえ、祭事では当主に代わりを良く勤めてくれるであろう。加えて、総領娘は現博麗、守矢の両巫女との交友が深い。運がよければ二人の巫女も祭事に駆けつけ、華やかここに極まれりと言った素晴らしい祭事になるかもしれない』――稗田家覚書
二人は幸せに暮らしましたとさ…GOOD
秘封ちゅっちゅも待ってます
次シリーズに期待大です.
すばらしい衣玖天でした
このシリーズもひと段落ですか…寂しくなりますが次回作も楽しみにしています
長い文も読む気にさせてくれるKASAさんの技術に脱帽です。
次回も別の話でKASAさんのssを楽しませてもらいますね。
>突然のいくの剣幕に天子がたじろぐ。
漢字変換があああああああ・・・とり、報告です。
もっとこの二人が見たかった。