愚妹がまだ手付かずだったケーキを皿ごと奪い取った。
私は殺意のままに彼女へ飛びかかった。
両人、手にもっていたフォークで二、三度刺し合いを演じ、私の一撃が妹を討ち取った。
悪いのはむこうの癖に、ぴいぴい喚きながら妖精たちへ八つ当たりをかけつつ、食堂を出て行った。そんな妹の背中を見下すのはせいせいした。
しかし空になった皿を見るのは心が傷んだ。
手馴れた様子で後片付けをする咲夜は私に呆れたような素振りをした。
咲夜のみならず妖精たちも同じ視線を送ってきたことにはびっくりする。
どうやら全面的に私が悪いという結論らしい。
そうした腹のわるい午前中を過ごし、午後になって自室でおとなしくしていた私のもとへ客がやってきた。
ドアが三回ほどノックされる。
弱々しくもごく丁寧な叩き方をする者は、この紅魔館にはパチュリーしかいない。
私が返事をするとドアが開いて、入ってきたのはやはりパチェだった。
うずうずといった感じの彼女は、さっさと私の前に空いていた椅子へ座り、挨拶も忘れて話しだした。
この調子なら、私の傾いた機嫌に気づくことはなさそうだ。
「ねえレミィ、私は図書館のことは隅々まで知っているつもりでいたの」
「うん」
「どこの本棚にどんな本が詰まっているのか、何が並んでいるのか。医学書、宗教書、魔道書、俗世的な童話までなんでもござれの大蔵書。眠れないときには、本を数えて回ったことさえあった!」
「部屋にお邪魔するときはあんなに急いていたのに、もったいぶるわね」
本に毒されすぎて詩的な前置きをせずにはいられないのかなと、私は密かに感じた。
もったいぶっていると言われたパチェは、その言葉を待っていたかのようにニヤけだした。
「私の知らない本を見つけたのよ」
「見落としていたんじゃないの」
「まさか、その程度でわざわざレミィを訪ねるわけないでしょ。知らないってのは、本はもちろん、その中身でさえ私には新鮮すぎたっていう意味よ」
私的、世紀の大発見とでも言うのか。
目を輝かせて話すパチェは活力を湧き上がらせてやまず、私は嬉しくって微笑んで耳をかたむけていた。
できるかぎり私にも分かるよう、やわらかい言葉をまぶしながら、今回見つかった本がいかに特異な内容であるかを彼女は語る。
陽にほとんど晒されていない真っ白い頬を、興奮によりわずかに紅く染めながら、ちょっと肉のついた両腕でジェスチャーを交えつつ。
ときおり飛び出てくる用語が私には分からないときがあった。
しかしパチェがアクセントを強めて発音しているあたり、きっと重要な部分に触れているのだろう。
「――と、言うわけなのよ」
おおかた語り終えて瞳をとじる彼女は、いまだ余韻にひたりながら頭に何かを思い描いているようだった。
「ごくろうさま。喉がかわいたでしょう」
既にテーブルにあった桜色のティーポットを、同じく桜色のカップへとそそいで、パチェへさし出した。
彼女は紅茶をもらうと、一息で空にしてしまった。
「その本が、パチェの言うとおり凄いものなんだとしたら、私は是非読んでみたいな」
「まだ、駄目」
椅子から立ち上がったパチェの意地悪な笑みに、私も共鳴するように笑った。
「私だって、まだ読みきっちゃいないから。じっくり読破してから、解説つきでレミィに読み聞かせてあげる」
「おもしろい?」
「いいや、つまらない!」
そう断言されたとき私はげらげら笑った。
「大概の人はアレを読んだってつまらないに決まっているわ。だから私が解説してあげるんじゃない」
いつも以上に饒舌な図書館の主は、名残惜しそうに私をチラチラ伺いながら部屋から出ていった。
その後、紅茶を替えるために咲夜が音もなく入ってきた。
咲夜なら図書館にも頻繁に出入りしているので、パチェがどんな本に目をつけたのか知っていやしないだろうかと思い尋ねてみた。
遠目にしか確認できていないが古めかしく厚いハードカバーだったと、教えてくれた。
ちょっとした好奇心からそう聞いてみたのだが、おおかた予想通りの回答をよこされたので内心首をたらす気分だった。
あの図書館に、古くて厚いハードカバー以外があるほうが珍しい。
パチュリー、彼女自身が図書館とでも言えるような賢者である。
そんな彼女をお熱にさせる本に、親友である私がどうして興味を持たずにいられようか。
思い出し笑いを自制もせずに、咲夜にいぶかしがられながら続報を期待した。
それから数日後。
パチェについては突飛な出来事で印象深かったとはいえ、あれから何の音沙汰もなかったのですっかり忘れていた。
私は自室でベッドの上に転がりつつ、咲夜からすすめられた本に目を落としていた。
咲夜は時折、図書館から読めそうな本を探してきては吟味して、これ良しと思ったら私へすすめてくるのだ。
さすが咲夜の炯眼をくぐっただけあり満足に足る内容であるが、欠点としてスパイスが弱い。
読んでいるとよくアクビを催す。
いくらか抑えていても、彼女の趣味が反映されているのは回避できそうにない。
話の種にはできそうだが。
私がそうやって読書を続けていたところ、ドアがノックされた。
いい気分転換だと入室を許してみると、小脇に重たそうな本を抱えたパチェが入ってきた。
「持ってきてあげたわよ。でも、読書中のようね」
その言葉を聞いたとき、私はようやくパチェとの約束を思い出して「あっ」と声を漏らした。
「それが例の本ね」
世話になっていた本をベッドに投げ出し、飛びつくばかりパチェのもとへ駆け寄った。
だらしないと眉をしかめてくるパチェを急き立て、本を卓上へ置けと急かす。
本は咲夜が話していたとおり、中々の頁数と歴史を重ねたハードカバーに見えた。動物の皮をなめして作られた表紙はところどころヒビ割れて、巻き上がっている場所さえあり、裏面だけがひじょうに色あせて変色している。一目で古さを判別できる。全体に黒く保存状態の悪い姿が、どこか禍々しい。
表題は金糸で “necronomicon”と刺繍されている。
私は聞いた。
「ネクロノミコン?」
「そのようね」
試しに開いて、ざっと中を確認してみたが、古臭い文体に埋めつくされていて読むのは困難に思えた。
この文字群は、長年の空気によって若干ふやけ気味のページと相まり、解読しづらいこと請け合いである。
数日もにらめっこしていたパチェには感心する。
「で、何が書いてあるの」
パチェはむずがゆそうな表情をして嘆息した。
「極めてアンダーグラウンドな魔術に関すること。それにまつわる宗教かしら……の話。濃密な内容で、だけど、稚拙な部分も見受けられて、複本かしら。魔法魔術にあまり精通していない人が書き写したのかしら」
「じゃあ、この本はすごいの?」
パチェは黙りこんでしまった。
本にやさしく手を添えて撫でるようにページを繰りながら、彼女なりの、凄いわけではないが書物としては異質である理由を、か細く告げてきた。
ただ、その解説には耳慣れない言葉が多分に含まれていて、私の理解の追いつけるところがない。
言葉を選びながらしゃべった前回とは違った。
彼女は苦い表情をしていながらも、他人へ話していることを忘れてしまうほどに興奮している。
この一抹からでさえ、本がどれだけ彼女の熱意を煽っているのか伺える。
微笑ましくはあるが、同時に不安でもある。
もういいと声をかけたが、語りに没頭してしまっていた彼女には聞こえなかったらしい、もう一度肩をゆすりながら名を呼ぶとようやく気づいてくれた。
「……レミィ、本のことは分かった?」
「ううん。それよりもパチェ、すこし休んだほうがいいんじゃないの。本の読みすぎ。どうせ寝る間も惜しんで調べてたんでしょう」
当たっているかどうかはさておいてパチェは素直にうなづいてくれた。
この陰々滅々とした本にはいずれ飽きてほしいものだが、彼女はまだ手放すつもりがないに決まっている。
あまり体にさわるような生活をしてもらいたくないが、何を忠告したところで彼女の中に燃え上がった探究心が途切れることはないだろう。
背中をおしてやるべきなのに喜べなかった。
パチェが退室したあと、私はややあってから咲夜を呼んだ。
物音一つたてず、いつの間にかそばに構えていた咲夜へ、パチェをよく見ておくように言いつけた。
あと、紅茶の茶葉に関して一つ相談をうけた。
なんでも香霖堂に紅茶缶があり、あそこの商品の割に湿気が少なく痛んでいない、保存状態が良好だという。さらに珍しい茶葉で、淹れるとどんな香りで楽しませてくれるか楽しみだと、咲夜は得意げに言った。
これを放っておかない手はない、味の分からぬ下賎の手に渡らせるくらいなら是非お嬢様へ味あわせてあげたいと言うのだ。
「好きにしなさいよ」
「ところが、あの人、茶葉の価値を知ってか知らずかバカにならない値段を提示してきましてね。さすがに、独断で購入するには気が引きまして、こうしてお嬢様へご相談を」
「なに、お金の問題? 貴方らしくないじゃない。しみったれたことで悩んでないで、さっさと買っちゃいなさいよ。私がいつ、あなたに出し惜しみしろと命令したかしら」
許しをやると咲夜は恭しい礼をした。
「ちょっと待って、冷やし紅茶とか作れないかしら」
私はわざとらしく、ドレスをつまんであおぐ素振りをみせた。
季節柄、湯気のたつ紅茶は少々酷だったので、できないものかと思った。
「風味は落ちると思われますが、お嬢様が欲しているのなら」
「たのむわよ」
最後にパチェの観察を忘れぬよう釘をさしておいて、咲夜との用は済んだ。
一人になった私はベッドの上に放置されていた本を拾って、続きを読もうとした。
ところが、スピンがページを開く前から宙ぶらりんに垂れ下がっている。
弱ったことにどこまで進んでいたのかまるで分からない。
私は数十分前のガサツな自分を呪った。
すっかり読書の熱が失せた私は、翌日になって咲夜へ本を突き返した。
そのときに咲夜はパチェの動向について話してきたが、何も一日で報告することはない。
咲夜が言うには今朝がた朝食を運びにいったところ、パチェの姿は見当たらず、図書館内をくまなく探しまわってみたが影も形も発見できなかったという。
大方、私を尋ねにこちら側に移動しているのだろうと言ったら、それも考慮して探索ずみだと返された。
パチェは今日の朝から紅魔館にいないというわけだ。
だからといって騒ぐほどではない。
彼女の交友関係が密室的でなくなっているのは咲夜も知っているはずだ、魔理沙を橋にして、細々ではあるが確実に外と繋がりを持ち始めているのは。
河童の湿った手で触られると本が痛んでしまってしょうがない、とボヤいていたのはつい先日ではないか。
「お嬢様は、パチュリー様が外出なさっているのではと仰りたいのですか」
「他に何があるってえのよ」
「何人かの妖精と美鈴に聞きました。外出した者は一人としていなかったそうです」
私がむっとしているのに比べると、咲夜は涼しそうな顔だ。
「河童。河童が連れだしたんじゃ。光学なんチャラってやつを使って」
「だといいのですが、ね」
私はふんぞりかえっていた。
咲夜はあの本が関係しているのではと疑っている。
たしかにあの汚い紙束はパチェの衝動をよく揺らすみたいだ。だとすると本について、調査の視野を外にも広げだしたに過ぎないのではないか。
例えば魔理沙に意見をもらいにいったなど。
ははあ、いくら動かない大図書館とは言え、未知との遭遇には働く頭も働かないとみた。
じきにもどってくるだろう。
心配なのは、あの貧弱な彼女が、道中でばったり倒れはしないかということだ。
何日かあとにパチェの干からびた遺骸が運ばれてきそうで、私はそれが気がかりだ。
そんな不安をよそに、陽が落ちかけた頃になってパチェは帰ってきていた。
朝と同じように、帰り際を目撃した者はおらず、何食わぬ顔で彼女は図書館に戻っていた。
今日半日の間パチェがどこにいたのかは誰も知らず、本人は口は開かないため、杳として不明だった。
これについて私がまったく言及しないので、咲夜も黙ったままパチェへ対応していた。
一週間が経った夜、およそ紅魔館で働く妖精たちが寝静まった時刻に、咲夜が私の部屋を訪れた。
外は、深い夜が覆ったなかを冴え冴えと月が照り、ずっしりと静寂している。
日中は締め切っている窓のカーテンも、このときばかりは開け放し、私は光合成をする気分で月光を浴びていた。
そこに蝋燭を掲げつつ現れた咲夜は、この幻惑にみちた室内を著しくかき乱してくれた。
私が注意すると、蝋燭の心もとない灯りも乙なものではないかと口答えしてきた。
乙だか甲だか知らないが月明かりが台なしになってしまう。
咲夜へ手招きをし、彼女が充分に近づいたところで蝋燭を吹き消してやった。
ひどく残念な顔をされた。
わざわざこんな時間を狙ってきたのだから、それなりの話を持ちこんできたであろう咲夜は、月明かりによって半面が影に埋まっている。
まあ、話すことは決まっている。
彼女によるとパチェの不審な行動は、七日のうち五日ばかりは忽然と姿を消して何時間か行方知れずになること。それ以外には特に怪しむべき点は見られなかった。
蒸発していないときの彼女は、図書館の本棚をしきりに物色しているという。
どんな本を所望しているのか、それとなく本人に聞いてみたが薄ぼけた回答しかもらえず、小悪魔を捕まえてみると、公言しづらい本が集まった棚を教えられた。
パチェは密な調べ物をしている。
「それよりも、パチェがどこに消えているのかまだ分からないの? あなたってもう少しできる子だと思っていたんだけど」
「朝焼けに霧がかすんでいくような。本当にどこに行ってしまわれたものか、とんと掴めません。いや、まったく、返す言葉もございません」
これ以上咎めるのも無益なものだ。
咲夜にだって本来やるべき仕事があるのだから、無理を強いるのは賢いとは言えない。
パチェとは、私自身がしっかり面と向かって話し合うべきだろう。
趣味に走るのは構わないがゆきすぎる姿をみるのは心が痛い。
私は咲夜へ礼を言った。
パチェへ会うために図書館へ足をはこばなければならないが、平常必ずそこに居るはずのパチェは、今はいないときのほうが多くなっている。
実際、さっそく翌日に向かってみたところ、小悪魔のみが曇った表情を浮かべながら図書館内でうろうろ、司令塔がいないから仕事のしようがないのだろう。
もうそれだけでパチェの不在を証明している。
念のため小悪魔に居所を聞いてみたが、落胆を深めるだけに終わった。
三日とも同じ結果に会い、四日後にようやくパチェと対面できた。
咲夜の報告と寸分たがわず、怪しい空気の本棚をじろっと見つめつつ右へ左へ行き来していた。
渇仰と言おうか、何かを欲する激しさが背中から垂れ出ていた彼女に、私は少し足をすくませた。
しかし気を持ち直してパチェの名を呼んだ。
振り向きざま、パチェの鈍い眼光が私の目に飛びこんできたが、彼女も私が出向いたと知ってすぐさま柔和な光を取り戻した。
「パチェ、どうしても話しておきたいことが」
「ああ、分かっているわよ。……私が勝手にいなくなってしまうのって、やっぱり心配でしょう」
肉つきのよくない腕をうごかし、白い顔にはえくぼの影が目立つ。挙動の何一つ変わらないパチュリーがそこにいるが、白々しさというものが私には透き通って見えた。
しかし、これ以上不審を煽るまいとして生まれた態度のようにも思え、触れるのがはばかられる。
「分かっているなら、せめてどこに行っているのかくらいは教えてくれないと、イヤよ」
パチェは私と目を合わせたまま「うん」などと相槌をうちながら、思案げだ。
「そうね、レミィに秘密をつくるっていうのも気が引けるし、オープンにしていたほうが色々と割り切れるはず」
これは意外な反応だった。
てっきり謝るだけはやっておいて肝心な部分はおくびにも出さないと思っていたのだが、あんがい素直だ。
パチェは、明日会いにきてくれたら研究室へ案内すると自ら約束してくれた。
その研究室とやらには今すぐ行けないのかと聞いたところ、あなた一人にしか教えたくないからと答えてきた。
今も一人のはずである。と、疑問に感じた矢先、すぐ意味を汲みとった。
私は振り返って、無数に並ぶ本棚の一部を睨みつけた、そこに一瞬だけ布がはためいたのを見逃さない。
あれは咲夜のスカートの先端に違いない。
会話を盗み聞きしていたとは呆れた従者だ。
パチェへ必ず一人で来るとかたく誓って、彼女の笑顔をじっくり見つめてから立ち去った。
図書館を出たあと、わざわざ呼ぶまでもなく咲夜が顔を出しにきた。
有無を言わさず叱りつけておいて、うなだれたところに、明日はメイド長としての仕事を全うしろと言い聞かせた。
この折、私は食堂へむかいながら咲夜へ遅めの朝食を要求していた。
時計をみれば正午をすぎている。
「パチュリー様の仰っていた研究室ですが」
「はあ、ほんとに何もかも聞いていたんだ。抜け目ないわね」
「どこにあるのでしょうか。少なくとも私は存じておりませんが」
それは妙だ。
紅魔館の全容を把握している咲夜が首をかしげているとなると、私ではお手上げもいいところだ。
やはりパチェは館外へと姿をくらまし、研究室と言い張るどこかで密かに本の解読に勤しんでいるのだろうか。
そもそも外出しているのか?
ふくらんだ疑惑のいずれかも明日になれば解決してほしいと願っていたが、蓋を開けてみると思わぬトンボ返りを見せつけられた。
翌日になって、研究室へ招待するには都合があわないと言い出した。
私の失望はひとしおでなくそれは表情にも表れていたようで、気遣われたかのように次こそは必ずと、極めて申し訳なさそうに言われた。
なんでも研究室の片付けが間に合っていない、と。
いかにも取ってつけた理由じゃないか。
それだけ慎重にならなければならない理由があるのだろうか。
パチェが何日か引き伸ばすつもりなのは目にみえていたが、私はしぶとく待つ覚悟をしていた。
見られると不都合な何かがあるという事実は残念でならないが、冷静に考えてもみろ、そんなものは誰にだってあるはずだ。
彼女の場合、それが私の要求するものと被ってしまったに過ぎない。
だが三日ほど経ったあたりから、私は甲斐性なしにも既に待ちくたびれていた。
何週だろうが何月だろうが我慢してやると決めていたのに、五日目には耐えきれずにパチェへ詰め寄っていた。
熱をもった目で本棚を見つめ続けるパチェのもとへ。
「いいかげんにしなさいよ。引っ越すんじゃないんだから何日も片付けが終わらないなんて話はないでしょう」
「ごめんなさい。取り扱いの難しいものがあって、手間どっちゃって、あと二日もすれば」
「やかましいわねッ、手間どるとか何とか言ってないでさっさと私を連れていきなさい。そんなに時間が必要なものなんだとしたら、さぞかし珍しいものなんでしょうね、貴重なものなんでしょうね。興味がわくわ。さあっ、見せないよ!」
頭を横にふりながらあと少し待ってくれと言い続けるパチェに、私は肝を煮えたぎらせて連れていけの一点張りだった。
ひどく口汚く罵っていたのが、思い返すと大人げない。
癇癪をおこした私は、とうぜん目的の達成もままならないうちに自室へもどっていた。
間をはかっていたのかと思えるほどすばやくお茶を運んできた咲夜を睨む。
「紅茶はいらないわ」
「今回は趣向をかえてコーヒーを」
ああ、どうりで、さっきから鼻をつくと思っていた。
「香りがキツいから嫌いよ」
「せっかく淹れたんですから飲んでください」
「冷たい紅茶は」
「申し訳ございません、失念しておりました」
ドリップ式だかサイフォン式だかで作り出された泥水を私に飲ませるとは、咲夜もいよいよ舐めている。
あの苦くて見た目におぞましい液体が喉を通るなんて、想像しただけで胃液がせりあがってきそうだ。なんたって泥水を体内に流しこむのだから。
咲夜は眠気をまぎらわすために嗜んでいるようだが、血が真っ黒ドロドロになってやしないか。今度たしかめてみよう。
咲夜からコーヒーの注がれたカップを取り上げると唇へあてた。
相変わらず舌がただれそうなほど苦い飲み物だ。
「そういえば例の紅茶はどうしたのよ。手に入れたの?」
「実は店の主人が今更ながら渋りだしましてね、金を提示しても振り向かない有様でございます」
「気に入らないわね。ねばりなさい」
咲夜は微動だにしなかったが、ここが話の区切りとみるやパチェの研究室はどんな様子だったかと尋ねてきた。
どうせ覗き見ていた癖にしらじらしい。
私は答えるかわりに鋭い視線を送ってやったが、咲夜は澄ました顔をしている。
ヒステリック気味だったあの一方的な口論が見られていたとは、コーヒーがますます苦みを増してくるではないか。
咲夜がもう一つ話を切りだしてきた。
最近、妖精たちの間では館内に幽霊が出るという噂がたっている。かれこれ何十人もが体験談を語っているのだから事態はなかなか膨らんでいると言える。
これを咲夜は、幽霊は侵入者ではないのかと危惧していた。
侵入者だとすれば、何も言わず掃除するのが咲夜の仕事だろうに。
そもそも侵入者とやらが幽霊そのものでないとも限らない。
あのマシュマロみたいな白い塊が館を飛び回っているのも、おかしなものだ。
「きけば、あの白玉は抱くとひんやり冷たいらしいじゃない。幽霊で納涼とは正にこれね」
「夏ですから、怪談くらいは出まわってもおかしくありませんね。やはり、ただの噂にすぎないのでしょうか」
妖精の噂好きは井戸端に群がる女共にも劣らず、広がる早さは風と形容してさしつかえない。さらに内容のゆがむ度合いは悪質ときている。
その分、彼女たちの言葉を信じる者も少ないが。
夏の、どこからともなく沸いて出た蒸し暑さが汗を呼ぶ。湿気とあいまって肌がべたつき不愉快はなはだしい。
最悪の時期でありながら、涼しい顔を崩すことなく仕事に励む咲夜は、メイド長という名をかかげるに相応しい。
しかしさすがの彼女も、幽霊を見つけるため夜毎に館内を巡回せねばならないのには、骨を折っているようだ。
それにつけても私の神経をとっておきに逆撫でしてくる出来事がある。
洋館ゆえに風の通り道が少ない紅魔館は、夏にはほぼ全ての窓を開け放す。すると遠慮のカケラもなく小さな侵入者たちが入りこんでくる。
食堂の天井の隅に貼りつく蝉がやかましい。
「ちょっと、誰か追い払いなさい」
「でも虫を触るのはちょっと」
この言葉を聞いたか。
自然そのものである妖精が虫はさわれないなどとぬかした。数人で集まって和気あいあいと触れないとか触れるとか笑いあっているのが腹立たしい。
私は妖精一同をひとしく睨みつけたのちスープをたいらげた。
なぜ虫と同席して食事をとらなければならないのだろうか。
私がナプキンを膝から取り上げた頃になって、ようやく咲夜が現れた。
蝉の駆除でもしていたのかと皮肉をぶつけるも、お話がありますなんて、おもしろい反応は何一つとってくれない。
「パチュリー様につかまりました」
「あっそう」
「研究室を見せてもらえるそうです」
思わぬ朗報に私は席から立ち上がった。
久しぶりに気分が昂揚したもので、目の前の長卓を飛び越えて食堂を出ると、咲夜でさえおいてけぼりにして図書館まで突っ走った。
図書館へ着いてみると私を待っていたかのようにパチェが本棚へもたれていた。
「ごめんなさい、待たせちゃって。てっきり、怒って取り合ってくれないものかと」
たしかにほんの数日前の私ならば、咲夜を蹴飛ばして聞く耳すらもたなかったかもしれない。
いいや、そんな取るに足らない話をしているヒマがあるなら、すぐにでも案内してもらいたい。
また、当初は私だけに見せると決めていたはずのパチェが、咲夜も一緒に来て構わないと言い出した。
その咲夜はとっくに私の後ろにいる。
待ち望んでいたパチェの秘密基地はどこにあるのだろうか、館の中か外か、しばらく背中を追いかけていた私と咲夜はそういう囁きを交わしていた。
一言だけ「着いた」とパチェが言ったので正面を見つめてみれば、ただ巨大な本棚が突き上がっているだけではないか。
「まあ、よく見なさい」
パチェは本棚から一冊の本を取り出そうとした、ように見えたところ、空中の何もない部分をくっと掴んで手首をひねった。
すると、そこから引っ張られていくように本棚であるはずの部分が長方形に切り取られていった。
ドアが開いたのだ。
巧みに本棚へ隠蔽されていたドアが軋みをあげながら開くと、そこにできた穴から冷たい空気が流れてきた。
心地良い。
「こ、こんなものが」
館の全てを知り尽くしていたはずだった咲夜には、さぞ衝撃だったのだろう。
「咲夜だって分かるわけないわ。だってこの本棚自体が隔離されたものなんだから。ごめんなさいね、勝手に空間をいじっちゃって」
紅魔館内の空間面積を広げているのは咲夜である。
パチェはその力を端から応用して人知れず部屋をこしらえていたことになる。
穴のあいた本棚は、さながら門のように私たちを迎え入れた。
そこから先は図書館とは思えないほど薄暗く、狭く、三人で一列になりながら洞窟とも屋根裏部屋ともつかぬ通路を進んでいった。
空気は外より乾いているが、陰気だ。
進んでいると暗がりから一転、目前から差しこんできた光に私は目をそばめた。
眺めると骨董品のようなランタンが、丸く小さな卓上であかあかと燃えている。
周囲は本という本が堤防を築きあげ灯りを複雑に屈折させ、壁になんとも不気味な模様を映していた。鳥が羽ばたいているのか魚が泳いでいるのか、怪物が笑っているとも見える。
怪しい器具もたくさん見受けられる。
ところで、あの錆びた天秤の皿に盛られている粉末などが、いかなる種類の薬品なのか気になりはしないだろうか。
私は好奇心から指につけて舌をのばしたところ、すかさずパチェに手を奪われ無言の圧力をかけられた。
口にいれるにはマズいものを扱っているようだ。
もう少し奥を覗いてみると立て付けの半端な棚が四つ肩を並べていて、薬か何かを納めた瓶が大量に置かれている。
瓶に直接書かれている文字は走り書きで読み取れない。
魔女の住処だと言われれば大いに納得できる粘度ある黒さ――実際その通りだが――があふれたこの空間は、良い印象ではなかった。
私はこういった第一印象にうちのめされるあまり、あることを忘れてしまっていた。
物で散らかっているせいか狭く感じられるこの部屋を、パチェは器用に歩きまわりながら「どうかしら」などと聞いてきた。
どうもこうもない。右にも書いたが好いた気分は得られない。
「あの、たしか片付けをなさっていたのではありませんでしたか」
そう切り出した咲夜に、私は思わず声をあげる勢いだった。
そうだ!
今日の今日まで片付けがあるといういけ好かない理由で、ここに入れてくれなかったではないか。
だが部屋の状態を見る限り、とても、何日もかけて片付けを行っていたようには見えない。
この整頓されていない雑然とした部屋は、むしろ放置されていたと見てしかるべきだ。
私は表情こそ引き締めていたが、心内は意気揚々としながらパチェを責めた。
パチェは何も言わずこれといった反応もせず、ただ私の目を捉えたまま憂いの含まれた顔をうごかさなかった。
「何か言いたいことでもあるの」
「ごめんなさい。片付けしているなんて嘘を、実はどうしても見られなくないものがあって、ね。それをどうしようかと」
「ははあ、へえ、そう。見られたくないものねえ。フフフフ、それって本でしょう。あの本を取り上げられたくないんでしょう」
床に転がる本を蹴り飛ばし卓に散らばる器具を肘で押しのけ、パチェへぐっと接近すると唾を飛ばして言い放ってやった。
「あの本はどこッ」
パチェはためらいこそしたが、のろりと動きだすと、山積みされた本の一つから一冊を抜き出した。
私はそれを取り上げて表紙を確認し、中身も大雑把に見回した。
まさしくネクロノミコンだった。
「パチェ、この本は処分します。これはきっと読者をたぶらかす魔性の本なのよ。何を言ったって聞かないから。灰も残さない」
「まだ試していないことが」
「ダメよ」
試す。
本の内容にそって実験していた彼女は、掃除をも忘れさせる洗脳一歩手前の心理にいるではないか。
この手のケースでは本人は気づいていない場合が多い、自分が自分でなくなっている状態に。
だいたい「死霊秘法(ネクロノミコン)」などという胡散臭い名をでかでかと飾り付けた本が、真面目な文章をともなっているとは、尻の青いガキだって考えないだろう。
パチェは恐らく、まるで暗号文のような古い文体にそそのかされ、およそ体裁だけ取り繕った知識群に目眩をおこし、あとはずるりと頭ん中を引っ張られていったのだ。
なんと哀れな私の親友か。
本を取られたパチェが悲しそうな顔をしているのも、本の魔力がそうさせているのだ。
私は、私とパチェのやり取りを神妙な顔つきで傍観していた咲夜の腰を叩いて、一緒にここを退出した。
廊下に出ると、むこうから蝉の鳴き声と妖精たちの叫び声が聴こえてきた。
もしかして噂の幽霊は蝉なのではないだろうか。
「それはどうするおつもりでしょうか」
「本? 暖炉にでも放りこんどくわ。薪がうくわね」
この時期、稼働している暖炉は数えるほどしかないが。
「あれは、強引だったのではないでしょうか」
強引さで言うなら私よりもこの紙束のほうが、よっぽど強引にパチェを引きずり落としたに違いない。
「それにしても、あっさり渡してきて、拍子抜けでしたねえ」
「あの子も素直な子なのよ。だからこそ本に魅入られてしまったんでしょう」
「本当にそうでしょうか。素直すぎるのではないか、と」
どちらにしろ本はもうパチェの元にないのだから、心配は無駄な心労を呼ぶというものだ。
咲夜には館内にはびこった蝉どもを追い払ってもらわないといけない。
自室へたどり着いた私は咲夜へ蝉の除去を言いつけ、それと今すぐ葡萄酒を一瓶とコップを二つ用意させた。
所望の品はすぐにとどいた。
「お酒を飲みたがるとは、珍しいですね」
咲夜はボトルのコルクをひねりながら言った。
「景気付けに一杯……ってやつよ。あなたも飲みなさい」
よくあるチューリップ型ワイングラスではない、マグカップ型の容器を選んできたのには拍手を贈りたい。
何も考えずに飲みたかった。
乾杯をしたあとは一時無言が続いた。
ちびちびとグラスをかたむける咲夜がまどろっこしくて、もっと豪快に飲めと、私は手本のように手を逆さまにあおった。口の端からこぼれおちる。
咲夜は飲み方を変えなかった。一口一口に時間をかけていた。味わうほど高級な銘柄ではないはずだがと、私はボトルのラベルを見やりながら思った。
やっと飲み干した咲夜が失礼しますと言って姿を消した。
止める者がいなかったので、私は結局ボトル丸々飲み干した。
ここ数日で一気に膨張した感のある黒い影の噂は、いつしか恐怖をはらみながら妖精たちの間で語られだしていた。
なぜかというと、目撃談のみならず被害に会った者がちらほら現れはじめていたからで、幽霊に触られたとか追いかけられたとかいう俗っぽい話題で、紅魔館はもちきりになっていた。
彼女たちの耳障りな雑談が満たす廊下を私は歩いていく。
こうなると妖精も蝉も変わらない、面積をとらないぶん蝉のほうがマシかもしれない。
咲夜の名を呼んでもいっこうに姿を見せないと思っていたら、彼女までもが妖精に混じって会話に興じていたではないか。
背丈の違いで一目瞭然だった。
「仕事さぼっておしゃべりとはイイご身分ね、咲夜」
「申し訳ありません。なんなら、今すぐにでも雑務を終えてしまいますが」
言えば返す刀の咲夜に、遠慮なく歯ぎしりをした。
近頃の彼女は口がすぎる。
「まあいいわ。いまだに幽霊のフリをしている変質者が捕まらないのは、折檻の覚悟をしてもらいたいけれど、蝉が減ってきていることは褒めてあげる」
時折、流れ弾のように入りこんでくるヤツ以外、館内で蝉を見かけなくなっている。
あの大合唱が遠ざかっただけでも、風が涼しく肌を駆け、冷やした飲み物が喉を潤す感触が、ぐんと強く感じられた。
「蝉ですか。たしかに減ってきていますね。館内では」
「咲夜があいつらに念入りに教えこんでやったんでしょう。館の中は危険だって」
「私は何もしていないのですが」
ハッ、謙遜とは恐れ入る。さすがは紅魔館の砦、十六夜咲夜メイド長殿だ。私もそろそろ彼女の前に跪いて、くもった革靴を舐めて綺麗にしてさしあげないと、彼女の素晴らしい態度に申し訳がないかもね。
などと、大いに毒づいてみても、咲夜は無表情に凝り固まったままで、先の発言が謙遜でなければ冗談でもないことは瞭然だった。
ならば、蝉が勝手に消えていったのだろうと結論してみても、外に出てみれば以前として幽霊三姉妹も顔負けの騒音ライブが催されている。
汗だくになりながら外に突っ立っている美鈴が、多少気の毒ではある。
飯はしっかり三食与えているはずだから死にはしないだろうが。
「咲夜」
「はい」
「みっともないから靴は磨いておきなさい」
咲夜の頬にさっと朱がさした、赤面をみせたのは貴重だ。
殊勝にも妖精が蝉を追い払ってくれたのかと思ったが、彼女らはたまに飛びこむ蝉には絶叫で歓迎しているので、ありえない。
やつらは一人でに消えたのか。
私は薄ら寒さを感じた。
それは、ワケの分からぬ奇怪事だからではなく、見え隠れする心当たりによるものだった。
パチェに疑惑の矛先が伸びるのは、妥当には違いない。
最近だと彼女がもっとも怪しい行動に終始していたのだから。
しかしこれ以上彼女を疑うのは嫌だ。
私が彼女についてまったく口に出していないことを察してか、咲夜もかぶりを振って無能のフリに徹してくれている。
蝉の件は些細なものだ、いくらでもうやむやにできる。そうだ幽霊とやらを捕まえてそいつに罪をかぶせよう。
じっくりと紅魔館を騒がす犯人に縄が回るのを待てばいい。
とっぷり夜中になってから、自室へ咲夜を呼んだ。
幽霊のよく出没する時間はもうすこしあとだと言うが、それは重要ではないだろう。
咲夜なら一秒もつかず現場へ駆けつけれるはずで、時間を止められる彼女にとってタイミングと距離は関係がない、にもかかわらず今日まで野郎をのさばらせていたのは、ひとえに彼女の怠慢が原因だ。
今宵こそはしっかり働いてもらわないと。
「さて、咲夜、一緒に見回りにいきましょうか」
「はあ、お嬢様と一緒にですか。ご冗談を」
冗談なものか。
やれるものなら咲夜に首輪をつけて引っ張りまわしながら見回りたいくらいだ。
「しかし幽霊のことなんですが、もしやフラン様が妖精にちょっかいをかけているだけではないかと、思えてきまして」
「じゃあフランに話はしたの?」
「今から話そうかと」
行動がいちいちノロマな従者でうんざりしてくる。夏になるとバテて行動力がなくなってしまうのだろうか。
だが、フランが星とは私には思えない。
なにせ騒ぎが起きる前に私と喧嘩を起こして、すっかり機嫌を損ねて部屋に閉じこもっている。
当分顔を見ていないが、せいせいする。
咲夜が呆れ返った顔をした。
「まだ仲直りしていないのですか」
「人のおやつを奪うとは曲がった根性をしているわ。こっちから謝る道理はちっともないし、近づいただけで牙を剥きやがる」
「お嬢様が激情してフォークで刺すから」
思い返すと腹が煮えてくるのを抑えながら、フランの名前は二度と出さぬよう咲夜を叱った。
しぶしぶという感じの咲夜の服を引っ張ってうながし、見回りへと連れたった。
暗い廊下に等間隔で並んでいる燭台も、深夜になればすべて消えている。
一つか二つ消し忘れている蝋燭がぼんやりと灯っているのを、遠目から見つけた瞬間は、それと分かっていなければ背筋が凍る。
あまり寄りかからないで下さいと言われた。私はいつの間にか咲夜のスカートへしがみついていたようだ。
廊下の場所によっては月明かりすら差しこまず、人の視界なら完全におジャンと化す。
私はそうはいかない。
私の瞳孔はわずかな光も摂取しようとめいいっぱい開いて、双眸は黒い塊とも言える形になっていた。
この時の私がもっとも吸血鬼らしかったことだろう。
咲夜の進みが遅いので催促すると、何も見えないので歩きようがないと言った。普段は蝋燭片手に巡回していたので、灯りがないとお手上げだと。
どうりで咲夜の割に仕事がはかどっていないわけだ。
蝋燭を揺らしながら歩いていたのでは、相手に自分がいることを明かしているに等しく、不明瞭な視界のせいで下手に動けない。
なら私がつきそった今夜は、そうまざまざ幽霊を逃すわけにはいかない。
この漆黒の目玉にはっきりと姿を焼き付けて、追いかけて、ふん縛って白日の元に晒してやる。
つまりこの異変は私でないと解決できないときた。心が踊る。
およそ館内の半分を見て回ったと思う。今は左に連なる窓から月明かりが満遍とそそがれていた。
いかにも冷たそうな青みがかった月光に、赤みがかる壁紙や赤い絨毯が照らされると、紫ともつかぬ微妙な色をうかべた。
あんまり静かでこのまま何も起きる気配がなく、意気消沈した私は青い月を睨みつけていた。
そうした中で咲夜が「あれは」と床をさしたので、喰いつくようにそちらを見張った。
とうとうお出ましたと腕をまくる勢いになるも、見れば絨毯に小さなシミが付着しているばかりじゃないか。面白さのカケラもなかった。
単に掃除しわすれたのではないか。
咲夜がそれに近づいて検分の真似事をしてみせた。
シミはこぶし大に広がっていて、光が足りないのでどんな色か分からないが私には黒く見えた。触ってみると粘度があり、生臭さと腐臭のない混ぜになった、顔をしかめずにはいられない臭いがすると咲夜は言う。
ハンカチで指先をぬぐう咲夜は、たしかに眉のよった顔をしていた。
彼女は足元を確認しながら廊下を右に曲がっていったので、私も後を追った。
目印は床を点々と伝っていくシミだ。
その規則性からして、まもなく足跡の可能性に気づいた。
となると、表面を粘液で覆われて鼻を曲げるばかりの悪臭をまとった生物が、ここを徘徊していたことになるのか。
ここから先は窓のない廊下になっているので再び視界がきかなくなる。
その向こう側でひたひたと歩く何者かを、例えば足音や臭気を、実際には感じないはずの感覚が疼いて恐怖が増す。私と咲夜の息遣いばかりでなく、別の第三者の吐息まで混じっているようで周囲が気になる。
再び足取りが重たくなった咲夜に苛立ちを感じながら、私はシミを見下ろして歩いた。
咲夜には恐らく何も見えていない。私にスカートを握り締められて誘導されていることだけを命綱としているはずだ。
「シミはどうなっていますか」としきりに聞いてくるのは、手持ち無沙汰だからなのだろう。答えてやらないのも意地悪だから、別に、と言ってやった。
足跡とおぼしきシミは廊下の途中でなくなっていた。
これが見事にぷっつりと途絶えていて、その後の消息をまったく想像させてくれなかった。
途絶えた場所から消え失せたとしか思えない。近くの部屋などを慎重に見て回ったが、収穫はなく、もしやと天井を見上げてみても、当然だがそこには赤塗の天井板しかない。
考えられるのは、相手は文字通り消えたか、浮遊していったか。
咲夜が目をこすっている。
「眠たそうね」
「いえなに、このくらい」
今日はもう引き上げたほうがよさそうだった。
翌朝になって現場へいってくると、シミはとっくに咲夜が除去したあとで、絨毯の品のある赤色には一切目立つところがなかった。
聞いたところ、シミの色は緑がかった黒だという。
いよいよ正体不明らしさが強まってきて、もともと情報の薄かったものが、シミが発見されたことでさらに漠然と広がった。
緑の液体から連想できるものは私にはあらず、咲夜にも、虫の死骸かもしれないという程度の推察しか許さずにいた。
虫の死骸だとしたら、どうして足跡のように続いているのか。虫を踏んだ何者かが、汚い靴底のまま歩き回っていたのだろうか。ありえない。
なおさら張本人を捕まえないことには話が進みそうにない。
ところであの夜、二人で館内を巡回していた間に被害をうけた妖精がいた。
気味の悪い何かに背後から抱きつかれたという妖精は、蒼白の面持ちで咲夜から事情聴取をうけていた。
真夜中に小用を足すため廊下を歩いていると突然覆いかぶさってきた者がいて、ぶよぶよと生理的嫌悪を催す弾力に包まれた彼女は、悲鳴をあげて急上昇した。残酷なほどはっきり覚えているのは、足首をつかんできた腕らしきもの。粘着して、ぬめりと肌をとらえてきたので、全身が粟立ったという。腕を振りほどいて飛びながら逃げ出したあと、後ろからカエルのケロケロという鳴き声をとびきり低くしたような、耳に残響する恐ろしい声を聞いたのだと。
既にこの話の時点で、あいてが幽霊ではなさそうな雰囲気があらわれていたので、私たちは謎の存在を「化物」と呼ぶようになっていた。
当時、妖精が着ていて、化物に抱きつかれたという服を見てみると、薄緑の粘液が背中から脇腹にかけてべっとり張り付いている。
そして吐き気を呼び起こす臭いがたちのぼっている。
紅魔館内を得体のしれぬ化物が徘徊しているのは、もはやどうしようもない事実だった。
私は咲夜へ、今日の夜こそ仕留めようともちかけ、決意させた。
これ以上私のテリトリーを害されるのは不愉快極まりなかった。
折に、妖精が泣き出しそうにしながらも話を続けているところ、何食わぬ顔でパチェが現れたのには少し驚かされた。
何日かぶりにみた彼女は少々やつれていて、まだ寝る間も惜しんで研究をしているのかと私は疑った。
「パチェ、何をしているの」
「騒がしかったから、気になって見に来たのよ。他の妖精から事情は聞いたわ」
「そうじゃなくて、どうしたのよ。ちゃんと寝てる? ご飯は?」
パチェは生気の感じられない笑顔をうかべた。
悲愴に白く簾のようになよなよしい顔が笑ったときの、花がどうにかほころんだような様に、思わずどきりとさせられた。
笑い返す気になれない。
パチェは妖精が着ていた服を興味深そうにつまみ上げ、観察でもしているのか、付着した粘液を見つめていた。
妖精が咲夜に対して語っている話を、少し盗み聞きしているようでもあった。
また、誰よりも早くその場からいなくなっていた。
なんだか明日にはこっくり死んでしまうのではと思えるほど虚弱そうで、私は彼女の背中が見えなくなるまで見送ったものだ。
日が沈んでから咲夜と、私の部屋でどのように巡回していくか打ち合わせたが、彼女には蝋燭をもたせ、私と別行動をとらせることにした。
だがこれでは人手が不足している。
咲夜が空間をいじって広げに広げた館内は、利用されていない場所がいくつかあり、たまに妖精たちが遊びに使う程度だった。
私はそういった場所を詳しく知らず、咲夜にも把握の限界があった。
よく遊びまわっている妖精あるいは人物が加勢してくれると非常に助かる。
そこで咲夜の持ち出してきた人物に、私はげえっと言いそうになった。
「妹様にも手助け願っては」
「フランを……バカ言ってんじゃない。やすやすと仲直りできるとでも」
「お嬢様が謝ればすむじゃありませんか」
「妹へ頭を下げろっていうの!」
私の声が室内に響いた。それと同時にドアが開き、誰かがくすくす笑いながら入ってきた。
密会というほどでもないが誰にも伝えていない会合だ。にもかかわらず、ノックさえせずに入室してきた不届き者へ、私は目を走らせた。
フランが肩をゆらしていた。
「姉より優れた妹は存在しないって言いたいの、お姉さま」
「フラン、その下品な笑いかたをやめなさい」
フランは私へ近づくなり、右手二の腕を私の顔へよせてきた。そこには赤い点が三つある。
「下品というのはこういうことを言うんですよ。人の柔肌に冷たいフォークを突き刺しておいてなお、頭を下げないと言い張るクソッタレのことを」
「私たちの話を聞いていたの」
「ええ、聞いていました。お姉さまも罪な人ですね、こんなに面白そうな話を私へふってくださらないなんて。化物退治をしようっていうんでしょう。ええ、それも、死ぬほど臭い化物を。お姉さまたちがコソコソしていたの、ずっと見ていましたよ」
「なによ、じゃあ参加してくれるのかしら」
「いいですよ。お姉さまが自分の落ち度を認めてくれさえすれば、いくらでも協力してあげる。自分が悪かったと明言してくれさえすれば、私だって素直についていくのに」
おかしくてたまらないといった表情をして、言葉にたっぷりと余裕を含ませて喋るフランは、とても憎たらしかった。
謙虚というものを見せてくれれば、私だって唇を噛まずにいられるのに。
「謝れと」
「さっきからそう言っているでしょう」
「イヤよ」
キスをするのかというほどフランの顔が距離を縮めてくると、私はたじろいでのけぞった。
「まあ、どうせ謝ってもらえるとは思ってなかったけど、こう断言されると熱も失せるってものね。いいですよお姉さま、今は目をつむって協力して差し上げますが、終わったあとに必ず謝ってくださいね。何かプレゼントがほしいわね。ステキなプレゼント。あと、せいぜい、おでこを床にこすりつける準備をしておいてください」
フランの極端な物言いに私は何も答えなかった。
どうせ、とびきり甘いおやつを好きなだけ食わせてやればすぐ破顔するに決まっている。
こうして私たちは三人で夜がふけるのを待った。
頃合いになると咲夜が先に出ていって、私とフランは見届けてから後に習った。
「ここから別れましょう。フランはこのまま真っ直ぐ進みなさい。私は二階に上がるから」
「どうしてお姉さまに指図されないといけないのよ」
「……分かったわ、好きなほうを選びなさい」
「じゃあ、このまま真っ直ぐいくから」
勝手にしろ。
二階へ上がった私は憤然と前進していた。曇り空のため窓側の廊下であってもほぼ暗闇だったため、しだいに孤独な気分がたかまってきた。
いや、すぐそこの部屋にでも飛びこみ横になっている妖精をたたき起こして、ついてこいと腕をとれば、私の不安もやわらぐけれど。
考えてもみろ。
妖精を襲った例の化物が気持ちの悪い音をたてながら、正面から四肢をぶらつかせながら歩いてきたら、恐ろしいに決まっているだろう。
背後から強襲されでもしたら戦慄の一言では言いつくせない。
私もきっと、ぶざまに飛び上がって夜の廊下に喚き散らすだろう。そのときこそ愚妹からあざけり笑われてしまうのだ。
フランはすぐに妖精どもに言いふらし、妖精はたまの来客へ言いふらし、魔理沙や霊夢へ伝わって私は哀れ“怖がりの吸血鬼”という称号をいただくのだ! 他人の不幸は蜜の味だと本気で思っているようなあいつらに侮辱されるなんて。
二階を周り終えれば咲夜かフランと合流するかとも思ったが、誰も見当たらなかった。
私は嘆息しながら三階へのぼろうとした。
すると、暗がりの中から人の輪郭がぼうっと浮かび上がって、私は狼狽もあらわに後ずさった。
立っていたのは咲夜だったのだが、用意していたはずの蝋燭を持たず両手にナイフを光らせていた。なにより目についたのが半身を真っ黒に染め上げる何かだ。足から腕にかけて、頬を越えて銀色の美しいおさげまでが黒くなっていた。
おかげで本人の表情を見分けるのは困難だったが、かすかに震えているのだけ見て取れる。
私が呆然として咲夜を凝視していると、ふいに喋りかけられた。
「仕留めましたよ」
咲夜とは思えないほど力ない声に、私はなんともゾッとしたものだ。
何を仕留めたのかは聞くに及ばず、咲夜にうながされるまま、暗い割にずいぶん手際よく進んでいった。
現場近くまでやってきたときにはまず臭いで分かった。生魚を扱ったあとの調理場を思い起こさせ、鼻孔をじんわりと刺激してくる臭気が勢いを削いだ。
周囲の燭台は照らされて、化物がいる一角だけが明瞭に識別できるようになっている。
ところかまわず体液の噴出した跡がついて、血溜まりの中央にぐにゃりと横たわるヤツが炎の影にゆれている。
死後まもないはずだが、臭いのおかげで腐りはじめているのかと思われた。
こんな汚物が存在していたことに、驚愕せずにはいられない。
ふと、化物とは対角の壁際を見た。
そこにも液体が溜まりこんでいたが、マーブルで、細切れの何かが混ざっている、化物から吹き出たものではなかった。
では何なのか。
私はこわごわと咲夜の顔を見やり、口元がわずかに汚れているのを確認した。
まったくひどい臭いがあたりを埋め尽くしている。蝋燭が炙っているからこんな鼻のとれそうな空気になっているのではないか。
死体に近づく気になれなかった私と咲夜が棒立ちのままでいると、どうやって探しあてたかフランが飛んできて、死体を見るなりこう言った。
「うわっ、ブサイク」
おおむね同意できる。
フランは場の惨状に顔をしかめながらも嬉しそうに死体の側へゆくと、無遠慮に足でもって体を裏返し、眺め回している様子が虫の観察をする子供のようだった。
咲夜が投擲したものだろう、突き刺さっていたナイフの柄を踏みつけながら、滲み出した血を一瞥して気持ち悪いとのたまった。
これが妖精どもに知られたらうるさくなる。
明け方も早い頃、捨てる予定だった古いシーツで化物をくるみ三人で館外まで運びだした。
地面に穴を開けたのはフラン。
一瞬とはいえ響いた轟音と地鳴りにひやりとさせられた。
シーツごと化物を放り投げると、あとは館の妖精たちが目覚めだす直前まで土をかぶせる作業となった。
その後、咲夜が化物の倒れていた場所を極めて迅速に清掃し、普段となんら見分けのつかない状態へなおした。
それでも臭いが残っていたのか、妖精たちはその周辺に近づこうとしない。
むずがゆそうな顔で別の廊下を選んでいく。
この日のうちに咲夜は不調を訴え、部屋にこもったきり出てこなくなった。
化物を殺してから数日ほど様子を見てみると、当然だが幽霊の話題はすっかり流れなくなった。かわりに咲夜が化物を打ち倒した場所が「呪いの廊下」などと呼ばれだす後遺症はのこった。
そんなことは重要ではない。
化物と対峙したショックから衰弱して使い物にならない咲夜も、いま私が頭をかかえている出来事と比べると、些細な出来事と言える。
事のはじまりは、突然私の前にとんできた泣きっ面の小悪魔がした話だ。
またパチェが行方不明になったそうだ。
私はさいしょ聞き流すつもりだったが、あんまり小悪魔がべそべそ喋るものだから黙らすつもりで見にいってやった。
図書館にいくと小悪魔の言葉どおり主は不在だった。
既に同じ経験をしていた私は、パチェに案内されたあの場所に見当をつけた。
ところが、いざ行ってみると内部はもぬけの殻ではないか。
というより、以前私が確認したときから部屋の内装がまるで変わっておらず、例えば積み上げられた本の数から無造作に並べられた器具、部屋の隅にたまりこんだ埃までがデジャブのような印象をあたえてくる。
私はこの瞬間に、やっと、図られていたことに気づいた。
この部屋はパチェが私と咲夜を納得させるためにこしらえた、偽の研究室ではないだろうか。彼女が本当に研究室として利用している空間はもっと別にあり、今まさにそこで研究の最中なのだ。
となると、パチェから取り上げたあの本も紛い物に違いない。残念ながらとっくに暖炉へくべられたであろうから確認のしようはない。
ここにきてパチェが消えてしまったのは、化物の屠殺が原因にちがいない。
目的は想像したくないが、あいつの再召喚でもしようというのか。
悲哀にくれるよりはまんまと騙されてしまったことが悔しかった。しかも親しい人が手のこんだ部屋まで作って、さも全力で嘘をついている。
怒りばかり盛り上がる一方でパチェがどこにいるのかは、これっぽっちも分かっていない。
一旦、紅魔館へひるがえす。
咲夜を連れていくかどうかで迷ったが、彼女は部屋から出てきたと思ったら目に隈をためた姿で出かけてきますと言ってきた。
きっぱりご心配には及びませんと言いながら、おぼつかない足取りをしている。
行き先を尋ねると、気分転換に外の空気を吸いたいと言い、今日こそ紅茶缶を手に入れたいと言った。道端で倒れるのだけは勘弁してもらいたい。
いちおう止めはしたが無駄だった。
こうした経緯から咲夜は使えず、いやいやながらにフランへ相談した。
「上積みね」
「何が上に積み上がるってのよ」
「お姉さまが私からいただいた借りに決まっているでしょう。フォークのぶんと、化物退治のぶんと、今回のぶん。重たいわねえ」
借りも何もあったもんじゃない、妹なのだから姉には無償で協力してほしいものだ。
フランは私の言葉にはてんで聞く耳をもたないようで、アハアハと大っぴらに笑いながら欲しいものを列挙していった。
妹の下らない欲に挟まって馬鹿げた要求があったのを、あえて知らんぷりで済ませるのも難しい。
私がそうやって無視を決めこんでやっているにも関わらず、「お願いねお姉さま」といやみったらしい猫なで声を耳元で囁く神経には付き合いきれない。
なんてひねくれた妹だろう。
手元にフォークがあれば振るっていた。
二人で図書館へゆくと、小悪魔を脅して委細を引き出した。
ほとんどフランがやってくれた。
彼女は何も知らないと言い張るがそんなはずがない。
パチェの秘書、使い走りである彼女は何も聞かされていなくとも、パチェが行なった研究に関わる作業をさせられたはずだし、パチェの行動をもっとも身近で見ている者は彼女をおいて他にいない。
ああも弱ったパチェが自ら本や器具を運べるとは考えられない。いくらかは小悪魔に手伝わせたはずである。
叩けば一抹とは言えこぼれてくる。
二人の吸血鬼から迫られた小悪魔が、涙をおとして嗚咽にまみれながら話しはじめたのは間もなく。
ついで、フランが追い打ちするように分かりやすく喋れと唾をとばしたから、青ざめた面のまま一語一句をハッキリ発音しはじめた小悪魔は、もはや愛くるしいほどかわいそうだった。
「は、はあ、パチュリー様の居場所ですか。私に心当たりがあるのは地下室くらいですが。どこにあるかって、図書館の奥へむかって禁書や密書のコーナーのさらに先にいけば埃臭い場所に着きますから、そこからいつぞやの部屋のようにパチュリー様が勝手に拡大なされた空間を探していただければ。でも、地下室ですからね、入り口は周到に隠蔽されています。私も本をもってこいと命令されましたが、入り口を見つけるのに手間取りました。あっ、実はあのネクロノミコンって本は私が見つけたんですよ。どこで出会ったかは覚えていませんが、すごく印象深い本だったので、パチュリー様へみせにいったんです。……関係ない話はするな、ですか。いや、これがあながち関係がないとも言い切れませんよ。パチュリー様はあれのせいでおかしくなってしまわれたんですから。お嬢様がたはおおかた予想がついていたんでしょうが、私は断言できます。なにせあの本、瘴気といいましょうか、邪気といいましょうか、不恰好な見た目もさることながら中身も相当な危険物ですからね。そりゃあ私だって小悪魔です、デーモンの端くれですから不気味な空気くらい感じ取れます。中身はすごかったでしょう。え、読めなかったって。そりゃあ残念。とにかくパチュリー様は本から発せられる毒気にあてられたんでしょうね。
あ、いや、研究室を作ると言い出したのはその時期からだったはずですよ。はじめはあの雑多で小さな研究室にこもっていましたが、すぐに引越してしまわれました。はい、あそこはお嬢様が推察なさったような、お嬢様を騙すための部屋ではないんですよ。パチュリー様はちゃんとあそこもつかっておられました。だ、だからその引っ越した場所がさっき申した地下室なんですよう。ああ、ちょっとお待ちください。そう焦って向かわなくともいいじゃありませんか。地下室もなかなか悪環境なものですから、それなりに心構えて。暗くて視界は最低だし、湿って気持ち悪いし、臭いなんて言葉であらわすには足りません。そりゃあもう大変な臭気で、臭いだけで吐きそうになったのは初めての経験です。思い出すだけで口のなかが酸っぱくなっちゃう。え、パチュリー様がどうしてあんなに痩せたのかって。ご飯をあまり食べておられなかったのも原因の一つでしょうが、私が思うに、一番の原因は地下室でおこなっている研究かと。何をしているのか……非常に答えづらいのですが、当初は本を片手に薬品を扱っておられました。その頃から地下室を満たす薬品独特のツンツンした臭いがひどかったですねえ。はい、途中からお嬢様の推察どおり化物を召喚しておりました。しかも、一匹や二匹でなく何十匹と。いえいえ、実際に目撃したわけではありませんが、地下室の複数ある部屋のうちひとつから、いくえにも重なったささやき声が漏れてくるんです。低くうねったイヤな声です。身の毛がよだつとはアレを言うのですね。
ほ、本当ですよう。息をこらせば部屋のなかをべたべた這い回っている音が聞こえてきます。扉はかたく閉じられていてゴキブリも侵入できそうにない作りで、さらに二重に用意されて。それでも、もし開いて、中からあいつらが出てきたら、という想像を何度したことか。あっ、紅魔館に侵入していたのも同じ化物でしょうか。まさか、一匹逃げ出していたのかも。でも、パチュリー様はまれに地下室にすらいないときがあります、恐らく本当に外出なさっていたのかな。ひどく慎重に準備をしながら、私を寄せ付けようとしません。化物を散歩にでも連れだしていたのでしょうか。あんな醜悪そうな生物とよく歩ける。餌やりが面倒とぼやいていたときもあったので、慣れたんですかねえ。何を食べさせているのか、動物の肉でもあたえていた気がします。だってあの生臭さ、他に考えられますか。はあ、化物そのものが生臭いと。気持ち悪いですねえ。だいたいこの通りでしょうか。あっ、そんなに目くじら立てないで下さい、地下室まで案内しろって? うへえ、気は進みませんがお嬢様じきじきの頼みです、いきましょうか」
どこまでも腰の低い小悪魔の背中を、フランが乱暴に押した。
小悪魔はさすがに図書館を歩き慣れているようで、迷いなく通路から通路へと進んでいった。
奥地とやらに着いてみると、床一面にそっと埃がつもっていて本棚も全体に白みがかっている。
なので、誰かが歩いた跡がくっきりと残り、小悪魔の案内がなくても地下室を見つけられそうに思えたが、ややあって足跡の線が入り乱れてきた。
これらのほとんどは小悪魔がつけたものらしい。
何の変哲もない本棚の前にきた。
そばにある本棚との微妙な距離感によって、人が一人ようやく通り抜けられる隙間ができている。
よく見ると、本棚自体が周囲の本棚によりうまく隠された位置にあって、しっかり意識していないと発見できそうにない。飛び上がって上から覗きこめばよさそうなものだが、パチェが勝手に改変した空間のため簡単にはいかないらしい。
小悪魔が先行して、埃がかぶるのを嫌がったフランを隙間にねじこみながら私は最後に通った。
そして本棚の行列をなぞっていくと、床にぽっかり穴があいていた。
木目一色の通路のど真ん中に、模様でもなさそうな黒い正方形があるという不自然な構図は、珍妙な絵画を観ている気分にさせられた。
そばに立つと足元から生ぬるい空気が這い上がってくる。
「じゃあ、私はこれで」
小悪魔が背中をむけるとフランが噛みついた。
「待ちなさいよ。ここが地下室なの? だったら下まで案内しなさい」
「し、下は勘弁してくださいよう」
フランの腕をかわした小悪魔はそそくさと消えていった。
穴を覗きこむと思いのほか深そうで、暗闇の加減が、沼の底に沈んだ泥を彷彿とさせる。
驚くべきことに、穴はどこまでも垂直につくられていて、下りるための階段はおろか梯子さえもない。
並の人間では道具をもってこない限り下りられない厄介な出来だ。
私はフランへ目をくばった。
フランは難しそうな顔のまま縦穴を見つめている。
にらめっこしていても埒があかないので、私がさきに縦穴へと歩を進めた。
ゆっくり下っていくと視界がゼロになっていったが、やがて光の存在を認めた。
ぼうっと橙色に濡れる壁面に私は安心した。はるか頭上を見上げながらフランに下りてこいと伝えた。
最下に降りたら今度、穴は横に伸びているが、やはりどこまでも暗かった。
横の壁にひとつだけ吊るされているランプがむなしい。
誰かが入ってくることを拒み、やさしく迎えるつもりの一切ない冷徹なこの場所に、私は恐怖を感じた。
なぜ、こんな伏魔殿の入り口のような作りにしたのか、パチェも妙な感性をしている。
愚痴をこぼしながらもたった一つしかないランプを手にするフランが、勇ましいと言うより馬鹿らしく見えた。
狭くて、羽の突き出た背中は、ちょっとは頼もしいかもしれない。
その背中を追いかけてさらに奥へと踏みこんでいった。
唯一の灯りであるランプの心細さにうたれている場合ではない。
進むにつれ濃くなってくる醜い臭いが、嫌悪感を高めていく。
目の前にあらわれた木板の扉を開くと、私たちのランプよりは明るいものが散在していて、広大な部屋の全体像が見渡せた。
ホールのような印象を受ける部屋の中ほどをフランがずかずか歩いて、周囲に目を走らせながら「くさいわねえ」と一言。
予想に反して物は見当たらず、内部は伽藍堂としていた。
ぽつぽつ置かれたランプがとても寂しく、剥きだした石壁とあいまって寒い。
四方に六つの扉がある。
あれのどれかが小悪魔の話していた化物収容所につながっているのか。ためしに耳をひそめてみたが、私とフランの息遣いしか拾えなかった。
六つある扉の一つからパチェがいる部屋へ向かえるのだとしたら、どの扉をくぐればよいのだろうか。
間違っても化物たちの中には紛れたくない。
フランはとことん強気であり、いちいち確かめればいいと言いながら最寄の扉へ近づいて、取っ手についた堅牢そうな錠前をむんずとつかんだが、
「あ」
という短い叫び声をあげたフランは、慌てて扉から距離をとった。
錠前が落ち、扉は軋みながらゆっくり開いていった。
つまり、フランが触る前から錠前は役割をなしていなかったのだ。
一枚目の扉が開ききると、それよりかたそうな二枚目の扉が見えるも、既に数センチばかり開いていた。
にわかにフランの顔がひきつった。錠前を拾って一枚目の扉を閉めようとするも、鍵がないのでかなわいと見るや、取っ手にひっかけた∪字の部分をねじまげて無理やり鍵にした。
ワケを聞くまでもない。
部屋の向こうにいた醜悪な肉塊どもをフランは感じとり、とっさに思いついた防衛であるのは明白だった。
その証拠に一瞬後には扉が内側からがちゃがちゃ叩き鳴らされ、何重に重なったうめきのような低くおぞましい声が垂れ流れてきたではないか。フランはさっきまで化物と扉一枚を隔てていたことになる。
また共鳴でもしているのか、各部屋からまったく同じ調子の鳴き声が溢れだし耳障りなアンサンブルとなって私たちをかこんだ。
私のもとに寄り戻ってきたフランが、扉へむかって罵声を浴びせた。
なんと恐るべき事実だろう、私たちはてっきり、化物が押しこまれている部屋は一つだけだと決めつけていた。
ところが今はどの部屋からも、扉を開けようと押すか叩くかして群がる化物どもが想像できた。
私たちを獲物とさだめてすがりつきたく迫ってこようとしている化け物どもが、咲夜が殺した死体と瓜二つの彼らが、カエルの鳴き声を何倍も濁らせた音を吐き出しながら取り囲んでいるのだ。
「待って……お姉さま、振り向いてお姉さま! 鍵がしてないわッ」
言われた通り振り向いた私は、ちょうど正面にあった扉が半分以上も開いているのを見て、喉が絞め上がる気分だった。
ランプが遠いのでうっすらとしか見えないが、中で身体をくねらす化物が光を照り返してくる。
と、そこの色見が歪んだかと思えば、黒い物体が扉をこえて倒れてきた。
それを引き金にして次々とホールに転がり出てくる彼らは、まだくんずほぐれつの状態だからいいものを、じきに立ち上がって襲いかかってくるはずだ。
首をひねることさえ忘れてしまった私は、しかし各扉が同様に開きつつ雪崩のように化物を排出している様子を感じていた。
臭いが一段ときつくなる。
「お姉さまあー」
私はフランに腕をつかまれると、とんでもない力で引っ張られながらある扉のほうへと走らされた。
その扉はひらきっぱなしであったが唯一、化物の影を匂わせていない。
二人で飛びこむと通路が一直線に舌を伸ばしていたが、後戻るわけにはいかないので全速で駆け抜けた。
もっとも幸運なのはヤツらが亀のように遅かったことか。
なのでたっぷりの余裕をもって通路を渡り終え、最後の地点にあった重たい鉄格子を――ご丁寧に太い鍵が差しこまれていた――閉めきると、私は肺につまらせていた息を吐き出した。
すると、正面から声がした。
「きたわね」
なんと壮絶にか細く、哀切を誘わずにはいわれない声だろうか。
私とフランはぎょっとして顔をあげた。
青い光を放つ、一回り大きなランプに照らされたパチェがいた。
先のホールに比べると焚かれたランプの数と質は段違いで、壁面を走る細かいひび割れまで観察できるほどだ。
どうやって運んできたかは無粋な質問だが、紅魔館にあるものと同じ長卓三つがいいかげんに配置されていて、その上では大量の本がランプの灯りに晒されている。
パチェは三つの卓の中央で、私たちに肉の削げ落ちた顔をむけた。
「臭いあいつらのいる部屋を開け放しておいたから、引き返すと思っていたのに、ここまで来るとは思わなかったわ」
そう喋ると、私たちに興味を失ったように、すぐ卓上の開いていた本へ目をおとした。
ああ、あの本、無造作に開かれた本のうちのアレは間違いなくネクロノミコンだ。
「はんっ、あの程度のバケモンで私たちがひるむなんて笑える話はないわ!」
調子のよい言葉を並べたてるフランに対しても、パチェは冷静だ。
「あいつら、見た目こそ救いようがなくグロテスクで、地獄からやってきた悪魔のような鳴き声だけど、とびきり強いってワケじゃないから。数が多いだけで、貴方たちなら全員を始末できるでしょう」
そっけなく返されて、フランは露骨に表情を歪めていた。
この二人をかちあわせると話が展開しそうになかったので、私はフランを待っていろと言いつけてから、パチェへ近づいた。
「こんなモグラしか住まなさそう場所に引きこもりっぱなしだと、からだ壊しちゃうわよ。ねえ、いっしょに帰らない?」
「レミィ、あなたやっぱり優しいわね。けどごめんなさい、もうちょっとだけ時間をちょうだい。最後にどうしてもやりたいことがあるの」
ゆったりしたパジャマを着ているからよいものを、わずかに透けて伺える身体のラインが、つつけば折れてしまいそうな形をしているのを、そんな人が振り絞って出す声をどうして平然と聞き続けていられよう。
そばで見るとパチェの損耗がよく分かって、肯定なんてできやしない。けれど、あからさまに否定するのも苦しくて、私は無言になっていた。
「クソッ、お姉さま、ちょっと優しすぎやしないかしら。パチュリーはひっぱり出してお灸をすえるくらいしないとダメよ。あんな有象無象を呼び出した罰は重くないといけない」
「やかましいわね、黙ってなさいッ!」
思いのほか自制のきかぬ張り上がった叫び声だったが、フランの口をつぐませるにはてき面だったらしい。
私は、パチェが異様で多少道徳に欠けた行いをしているのは理解している。
だが、強制したところでこのパチェの粘り強さがとどまるとは思えない。それは前回ネクロノミコンを取り上げたときに充分学習させられた。
せめてやりたいと言っているものが済んでからでもいいだろう。
「じゃあパチェ、それを最後にしてちょうだい、いいわね」
「分かってくれて助かるわ」
パチェは、誤解のないようにこの場ですぐさまやってしまおうと提案してきた。
かまわないのだが、そうあっさりできるものだろうか。例えば化物の召喚を、片手間で済ませられるものだろうか。
「本当は象牙の魔道書があれば言うことがないのだけれど、さすがに私の図書館では見つからなかった。いいえ、実はネクロノミコンですらココにあるはずのない本なのよ」
パチェは何冊かの本を片付けてしまうと、卓のかこみから抜けだして部屋の奥側へと移動した。
ついていって初めて気づいたが、そこの床には白亜で半径2メートル程度の円模様が描かれていた。直線と曲線が複雑に交じり合、いかにもな形。
俗にいう魔法陣というやつだ。
「これは力を集める集積装置、ここに魔力なり生命力なりを費やせば、やがて一時的な小宇宙となって全ての事情を巻き起こせる。例えいかなる神を冒涜するような行為でさえ私は扱えるようになる」
「冒涜? どういうこと?」
「しかし、当然のことながら宇宙を再現するのは容易ではない。実行するためにはある偉大なる神の御力を借りなければならない。けれど幻想郷の結界というやつは窮屈で、彼にむけて手紙を送ることさえ許してくれないの。何とか上手に迂回する方法はないかずっと探していたわ」
「彼って、誰よ」
「スキマのスキマのさらに奥深く、次元の密林を越えた場所にヨグ=ソトータは不安定な姿を忍ばせる。私は彼に知恵を借りるの。そうして今から執り行なう実験を成功させるの」
なんだろう、ヨグ=ソトータなる言葉の響きを耳にうけた途端に、得も言われぬざわめきが脳をじいんと痺れさせた。
どこの神様だろうか。ネクロノミコンに記された宗教が崇拝しているのだろうか。それにしても、身体の深淵まで潜ってくるこの感覚はなんだろう。
パチェとの会話は断片的すぎて理解しづらく、その感覚ばかりが余計に目立つ。
「実験は、死んでしまった者を蘇らせること。貴方たちが一匹殺してくれたから、今回はそいつに魂の回帰を経験してもらう」
「もしかして、化物をのさばらせていたのは、わざとだったの?」
「優しいレミィだから、直接お願いすればよかったかもね」
怒る気にすらなれないパチェの妄想じみた言葉を聞きながら、これは果たして見届けてよいものかと思った。
まさか死者の蘇生がなし得るとは到底思えないが、いまの静かながら狂気にとり憑かれている(ように見える)パチェが、その現象に近い何かをやらかす可能性を頭から否定するのは短絡的すぎる。
私は表ではパチェを見守る姿勢をとったが、裏では、何かあればパチェを昏倒させるのもいとわない決意をしていた。
「じゃあやってみてよ」
「レミィ、言わなくても分かるわ、貴方が私の言葉を疑っているのを。でも私はとっくに何度か試してみて成功へと導いているのよ。目にかけない羽虫やちょろちょろ目障りな鼠をつかってね。次はもっと巨大な生命力を誇った者で試したい。あいつらを蘇らせれば、恐らく人間も同じく。……レミィが心配する気持ちも分かるけど、決して危険を招いたりはしない」
パチェはいささか現実味に欠けた説明を終えると、魔法陣の前に立ち止まって何かをぼそぼそと詠唱しはじめた。
だが、詠唱と呼ぶにはごく短い文節がいくつか連なっているだけで、およそ魔法使いが唱えるものには聞こえない。もっと冗長的な詠唱がされると信じていた私は落胆した。
どの言語かも思いつかぬ音の運びと高低の具合が部屋にひろがり壁に反射する。
耳につく奇妙な音節が長ったらしく引き伸ばされながら、あたかも部屋を震わせているように粛々と響き渡る。胸中を引っ掻いてじわりと恐怖感をむしり出してくるのだ。
今更やめろと言うわけにもいかず、居心地がわるかった。
ワンセットの詠唱がおわると再び同じ調子で二度目が繰り返された。
しかし、どういうことだろう。
呪文に呼応するかのように、向こうでのたうっている化物どもがぶざまな合唱をやりはじめたではないか。二度目の詠唱が終わる頃には、合唱もいよいよ激しさを増し地下室すべてを暗黒におとしめんばかりの不気味さを演出していくではないか。
というのは単なる比喩ではなく、実際にそこらを覆った暗がりが蛇の波打つごとくにランプの灯りを侵食しだした様子を、私の優れた眼球は目撃した。
室内に滞っていた空気がランプの炎をいじめながら渦巻だしたのが、目に見えない者が呼吸をはじめたようだった。
フランも焦りを隠さずに危険だと言い出した。
「やめてっ」
私は耐えきれなくなってパチェの元へ飛びこんだ。
だが私がそうする頃には彼女は三度目の詠唱をきっかり終えていた。
突然、魔法陣は猛烈な光を発して、その幾何学的な模様を天井へ投影しだした。目の眩んだ私はまぶたを落としたままでパチェの身体をつかんで引き寄せた、彼女が光に飲みこまれてしまいそうに見えて、そうせずにいられなかった。
パチェは、きっと詠唱された言葉と同じであろう言語を、気違ったか、喉が擦り切れてしまいそうな金切り声を、彼女とは思えない声量で魔法陣にむかって吐き散らしていた。野犬の如く面を歪ませて魔法陣に吠えかかる姿は痛々しくて、恐ろしくて、見てられない。
私には意味をなしているのか判断できないが、一言二言の度に魔法陣の光が増幅したりちぢこまったり、うねったりと生物と見紛うばかりの変化を見せる。あるいは生物がそこに出現しているのか。
私はもう必死になってパチェの口をふさいだ。歯をたてられても手を決してひっこめず、拘束をより頑丈にした。犬歯が手の甲に喰いこみ皮を破る感触を味わいながら。
目がチカチカする。
視界がまともじゃない。
私だけではとても収集がつかない。
フランは何をしているのだろうか。
五感が乱れて何がなんだか分からないといった状況の中で、ふと咲夜の声が聞こえた。幻聴だろうか。
ところが、イヤに甲高い音が耳をうち、次には小さく薄っぺらいものが私の頭をかすめつつ光へ潜行していった。
たちまち光の奔流は散り散りばらばらと霧散していくと、紅茶に混ぜた砂糖が紅茶に溶けきってしまうように元の暗い風景へと戻っていった。
唖然となったのは私だけではなく、パチェでさえ騒ぐのをやめてもう暗澹たる魔法陣を見つめるばかりとなった。
魔法陣を形成していた白線はところどころ擦り切れて、部分的には模様を読み取るのが困難になっている。
「大丈夫ですか」
そうやって背中から私を気遣ってくれるのは誰でもない、咲夜しかいない。
幻聴ではなかったのか、私が涙目をまったくこらえることなく振り向いたところ、咲夜以外の背丈があったことに驚いた。
花のつぼみを想起させるゆったりした、紫色を基調とした服装を、幻想郷にいる者なら知らないはずがない。
こいつの顔を見ると胸が灼ける。
こいつ自身も好かない表情をしていない。
涙もひっこむ。
もっと後ろへ目をやると憮然として突っ立つフランがいて、彼女のそばの鉄格子は真っ二つにひしゃげている。妹が鉄格子を破壊したようだ。
とにかく、咲夜と八雲紫が助けにきてくれたようだ。
「パチュリー様を」
咲夜が私の腕から自失状態のパチュリーを引き取った。
「なんであんたがいるのよ」
私が敵意を露骨にみせびらかしながら八雲紫へなげた言葉を、かわりに答えたのは咲夜である。
「外にいた道中、つかまってしまいました。びっくりですよ。ここ最近の紅魔館で起きたアレコレを知っていたのですから」
「盗聴? 悪趣味ね」
八雲紫が傲慢そうに笑った。
「趣味が悪いのは私ではなく、その本の虫さんでしょう」
八雲紫が扇子でパチェを指したのには、何も言い返せなかった。
パチェは咲夜にかかえられた。私たちはそれぞれに飛行して地下室を脱出した。ホールに大量にわいていた化物どもは全て八雲紫の御札やクナイが仕留めていて、流れ出た血が放つ強烈な臭いは充満しきって鼻を麻痺させた。
図書館を出ると、紅魔館内にいくのでもなく外へ、その訳を八雲紫が言って私は耳を疑った。
人間の里へむかい上白沢慧音の力で、パチェのネクロノミコンに関わる記憶をすべてなかったことにするのだという。
記憶の操作なんて恐ろしい真似をなぜ私の友人がうけねばならない。こんなパッと出の妖怪のふざけた要求をなぜうけねばならない!
舐めるんじゃない。
パチェが本当に狂ってしまったとでも言うのか、それがもっとも親しい私たちにケアできないとでも。
ああ、ふざけるなッ、脳を玩具か何かと勘違いしてんじゃないの! 咲夜も咲夜で黙々とむらさきババアに従ってんじゃない。いつから妖怪の犬に成り下がった。ビッチだ、どいつもこいつもビッチだ。海馬にお花畑ができあがっているに違いないのよ! フランは眠いとかぬかしてついてこなかった、なんて使えない妹。パチェだって今すぐ目を覚まして“レイジィトリリトン”なり“シルバードラゴン”なりをぶちかましてくれればいいものを。
……。
そうとう興奮していた私をなだめたのは、咲夜と八雲紫からの哀れみを含んだ視線だった。
とくに咲夜の表情からは、お願いだから言う通りにしてほしいという切実さが、言葉にせずともひしひし伝わってきて、私はなんとも情けなくなった。
私はすごすごと彼女たちについて行き、里へいくと寺子屋を訪れた。
あまり見られない取り合わせだった私たちはさぞ珍しかろうと思ったが、事前に話を聞かされていたのか上白沢慧音は冷静に挨拶をくれた。
虚ろの気分で、上白沢慧音がパチェから記憶を抜き出して消去する作業を待った。
胸がすっかりがらんとしてしまった。
できるなら私の記憶も消してもらいたいものだ、と八雲紫に愚痴ってみると、できるなら関係者全員の記憶を切り取りたいのだけれど、と返された。
八雲紫は、ネクロノミコンや召喚された化物にパチェの語った幻想話とあの蜃気楼みたいな現象を、知っているのだろうか。
聞いてみると、知らないと言われた。
知らないほうがいい、とも言われた。
「知ったところで、貴方ごとき矮小な生物になにができることやら」
「矮小ですって、じゃあアンタならできるっていうの。例えばパチェが口にしていたヨグ=ソトータというヤツを打倒できるとでも」
「見境いなく名前を出すものじゃないわ」
「こわいの? おびえてるの?」
私がそう言うと、八雲紫は控えめながらに睨んできた。
図書館に作られた研究室と地下室は咲夜によって完全に閉鎖されて、小悪魔の奮闘によって関連した書物は元の戸棚にすっきり収まり、発端であるネクロノミコンは八雲紫が引きとっていき、死体の処理も彼女が行ってくれたおかげで形跡はまるで残らなかった。
元々こちらで見つけた本をこいつがよこせと言ってきたのは不服で、こちらで預かっておくと言いはしたが、ほぼ懇願して引き下がってくれなかったので不承不承に渡した。
翌日だったか翌々日だったか。
身体の具合を多少気にしながらも現場復帰した咲夜が、自室で本を読んでいる私の元へきた。
淹れられた紅茶がいつもと違うので、私は少し期待した。
「例の紅茶をついにいただきました。しつこく迫ったのが吉でしたね」
「私はそうしろと言ったわ」
さらに、前に私が要求した冷たい紅茶も実現されていた。
咲夜が言っていたとおり、風味はたしかに落ちている。
そのためこれが上等な茶葉をつかっているのかどうかさっぱり分からない。
私の要求に答えてくれるのは嬉しいが、なにもまとめて叶えなくてよいではないか。風味が素晴らしいという茶葉を、風味がおちる方法で淹れるとは。
どうしてこの従者という人間は、肝心なところで爪が甘いのか。
気は利くが変な失敗をよくおこす。
「その本、パチュリー様からすすめられて?」
「よくわかったじゃない」
二週間ばかりの記憶がなくなったパチェは、疑問をいだいてこそいたが私たちへ追求をせず、いつもどおり本を読みふけるばかりの不健康な日々へと帰り戻った。三食たべて睡眠も取ってくれているぶん、マシか。
パチェは本をくれる際に冗談のつもりか「空白の二週間をおしえてほしい」と真顔でよりそってきた。
私が申し訳なさと気まずさをいっぱいに感じているとパチェは大きく笑い飛ばした。どうやら辛気くさい表情になっていたらしい。
彼女に元気がもどってよかった。
いちおう全ては終わった。
ただフランが気になって仕方ないと言うから、後日、最初に埋めた化物の様子を確認しにいった。
フランの無法的な強力によって土をえぐり取り、化物がどうなっているかを恐る恐る見てみると、そこには何もない。
あの軟体の身体は欠片も見当たらず、悪臭撒き散らす体液は一滴とて土に染みこんでいない。
その悪臭ですら嗅ぎとれず、好きになれそうにない土の香りがあたりをおおった。
フランがたいそう面白がって仮説をたてた。
「パチュリーの死者蘇生の魔法は成功したんじゃないかしら。きっとあの動く光の中で、化物が身体を復元させていた。けっきょく行方知れずだけどね。ああ、横槍が入らなければ、私とお姉さまでとんでもない瞬間を目撃できたんでしょうね」
曲がりくねる光を割って現れる化物は土をかぶっていたかもしれない、傷口が癒えきっておらず血を流しほうだいかもしれない。
私は想像して、辟易した。
私は殺意のままに彼女へ飛びかかった。
両人、手にもっていたフォークで二、三度刺し合いを演じ、私の一撃が妹を討ち取った。
悪いのはむこうの癖に、ぴいぴい喚きながら妖精たちへ八つ当たりをかけつつ、食堂を出て行った。そんな妹の背中を見下すのはせいせいした。
しかし空になった皿を見るのは心が傷んだ。
手馴れた様子で後片付けをする咲夜は私に呆れたような素振りをした。
咲夜のみならず妖精たちも同じ視線を送ってきたことにはびっくりする。
どうやら全面的に私が悪いという結論らしい。
そうした腹のわるい午前中を過ごし、午後になって自室でおとなしくしていた私のもとへ客がやってきた。
ドアが三回ほどノックされる。
弱々しくもごく丁寧な叩き方をする者は、この紅魔館にはパチュリーしかいない。
私が返事をするとドアが開いて、入ってきたのはやはりパチェだった。
うずうずといった感じの彼女は、さっさと私の前に空いていた椅子へ座り、挨拶も忘れて話しだした。
この調子なら、私の傾いた機嫌に気づくことはなさそうだ。
「ねえレミィ、私は図書館のことは隅々まで知っているつもりでいたの」
「うん」
「どこの本棚にどんな本が詰まっているのか、何が並んでいるのか。医学書、宗教書、魔道書、俗世的な童話までなんでもござれの大蔵書。眠れないときには、本を数えて回ったことさえあった!」
「部屋にお邪魔するときはあんなに急いていたのに、もったいぶるわね」
本に毒されすぎて詩的な前置きをせずにはいられないのかなと、私は密かに感じた。
もったいぶっていると言われたパチェは、その言葉を待っていたかのようにニヤけだした。
「私の知らない本を見つけたのよ」
「見落としていたんじゃないの」
「まさか、その程度でわざわざレミィを訪ねるわけないでしょ。知らないってのは、本はもちろん、その中身でさえ私には新鮮すぎたっていう意味よ」
私的、世紀の大発見とでも言うのか。
目を輝かせて話すパチェは活力を湧き上がらせてやまず、私は嬉しくって微笑んで耳をかたむけていた。
できるかぎり私にも分かるよう、やわらかい言葉をまぶしながら、今回見つかった本がいかに特異な内容であるかを彼女は語る。
陽にほとんど晒されていない真っ白い頬を、興奮によりわずかに紅く染めながら、ちょっと肉のついた両腕でジェスチャーを交えつつ。
ときおり飛び出てくる用語が私には分からないときがあった。
しかしパチェがアクセントを強めて発音しているあたり、きっと重要な部分に触れているのだろう。
「――と、言うわけなのよ」
おおかた語り終えて瞳をとじる彼女は、いまだ余韻にひたりながら頭に何かを思い描いているようだった。
「ごくろうさま。喉がかわいたでしょう」
既にテーブルにあった桜色のティーポットを、同じく桜色のカップへとそそいで、パチェへさし出した。
彼女は紅茶をもらうと、一息で空にしてしまった。
「その本が、パチェの言うとおり凄いものなんだとしたら、私は是非読んでみたいな」
「まだ、駄目」
椅子から立ち上がったパチェの意地悪な笑みに、私も共鳴するように笑った。
「私だって、まだ読みきっちゃいないから。じっくり読破してから、解説つきでレミィに読み聞かせてあげる」
「おもしろい?」
「いいや、つまらない!」
そう断言されたとき私はげらげら笑った。
「大概の人はアレを読んだってつまらないに決まっているわ。だから私が解説してあげるんじゃない」
いつも以上に饒舌な図書館の主は、名残惜しそうに私をチラチラ伺いながら部屋から出ていった。
その後、紅茶を替えるために咲夜が音もなく入ってきた。
咲夜なら図書館にも頻繁に出入りしているので、パチェがどんな本に目をつけたのか知っていやしないだろうかと思い尋ねてみた。
遠目にしか確認できていないが古めかしく厚いハードカバーだったと、教えてくれた。
ちょっとした好奇心からそう聞いてみたのだが、おおかた予想通りの回答をよこされたので内心首をたらす気分だった。
あの図書館に、古くて厚いハードカバー以外があるほうが珍しい。
パチュリー、彼女自身が図書館とでも言えるような賢者である。
そんな彼女をお熱にさせる本に、親友である私がどうして興味を持たずにいられようか。
思い出し笑いを自制もせずに、咲夜にいぶかしがられながら続報を期待した。
それから数日後。
パチェについては突飛な出来事で印象深かったとはいえ、あれから何の音沙汰もなかったのですっかり忘れていた。
私は自室でベッドの上に転がりつつ、咲夜からすすめられた本に目を落としていた。
咲夜は時折、図書館から読めそうな本を探してきては吟味して、これ良しと思ったら私へすすめてくるのだ。
さすが咲夜の炯眼をくぐっただけあり満足に足る内容であるが、欠点としてスパイスが弱い。
読んでいるとよくアクビを催す。
いくらか抑えていても、彼女の趣味が反映されているのは回避できそうにない。
話の種にはできそうだが。
私がそうやって読書を続けていたところ、ドアがノックされた。
いい気分転換だと入室を許してみると、小脇に重たそうな本を抱えたパチェが入ってきた。
「持ってきてあげたわよ。でも、読書中のようね」
その言葉を聞いたとき、私はようやくパチェとの約束を思い出して「あっ」と声を漏らした。
「それが例の本ね」
世話になっていた本をベッドに投げ出し、飛びつくばかりパチェのもとへ駆け寄った。
だらしないと眉をしかめてくるパチェを急き立て、本を卓上へ置けと急かす。
本は咲夜が話していたとおり、中々の頁数と歴史を重ねたハードカバーに見えた。動物の皮をなめして作られた表紙はところどころヒビ割れて、巻き上がっている場所さえあり、裏面だけがひじょうに色あせて変色している。一目で古さを判別できる。全体に黒く保存状態の悪い姿が、どこか禍々しい。
表題は金糸で “necronomicon”と刺繍されている。
私は聞いた。
「ネクロノミコン?」
「そのようね」
試しに開いて、ざっと中を確認してみたが、古臭い文体に埋めつくされていて読むのは困難に思えた。
この文字群は、長年の空気によって若干ふやけ気味のページと相まり、解読しづらいこと請け合いである。
数日もにらめっこしていたパチェには感心する。
「で、何が書いてあるの」
パチェはむずがゆそうな表情をして嘆息した。
「極めてアンダーグラウンドな魔術に関すること。それにまつわる宗教かしら……の話。濃密な内容で、だけど、稚拙な部分も見受けられて、複本かしら。魔法魔術にあまり精通していない人が書き写したのかしら」
「じゃあ、この本はすごいの?」
パチェは黙りこんでしまった。
本にやさしく手を添えて撫でるようにページを繰りながら、彼女なりの、凄いわけではないが書物としては異質である理由を、か細く告げてきた。
ただ、その解説には耳慣れない言葉が多分に含まれていて、私の理解の追いつけるところがない。
言葉を選びながらしゃべった前回とは違った。
彼女は苦い表情をしていながらも、他人へ話していることを忘れてしまうほどに興奮している。
この一抹からでさえ、本がどれだけ彼女の熱意を煽っているのか伺える。
微笑ましくはあるが、同時に不安でもある。
もういいと声をかけたが、語りに没頭してしまっていた彼女には聞こえなかったらしい、もう一度肩をゆすりながら名を呼ぶとようやく気づいてくれた。
「……レミィ、本のことは分かった?」
「ううん。それよりもパチェ、すこし休んだほうがいいんじゃないの。本の読みすぎ。どうせ寝る間も惜しんで調べてたんでしょう」
当たっているかどうかはさておいてパチェは素直にうなづいてくれた。
この陰々滅々とした本にはいずれ飽きてほしいものだが、彼女はまだ手放すつもりがないに決まっている。
あまり体にさわるような生活をしてもらいたくないが、何を忠告したところで彼女の中に燃え上がった探究心が途切れることはないだろう。
背中をおしてやるべきなのに喜べなかった。
パチェが退室したあと、私はややあってから咲夜を呼んだ。
物音一つたてず、いつの間にかそばに構えていた咲夜へ、パチェをよく見ておくように言いつけた。
あと、紅茶の茶葉に関して一つ相談をうけた。
なんでも香霖堂に紅茶缶があり、あそこの商品の割に湿気が少なく痛んでいない、保存状態が良好だという。さらに珍しい茶葉で、淹れるとどんな香りで楽しませてくれるか楽しみだと、咲夜は得意げに言った。
これを放っておかない手はない、味の分からぬ下賎の手に渡らせるくらいなら是非お嬢様へ味あわせてあげたいと言うのだ。
「好きにしなさいよ」
「ところが、あの人、茶葉の価値を知ってか知らずかバカにならない値段を提示してきましてね。さすがに、独断で購入するには気が引きまして、こうしてお嬢様へご相談を」
「なに、お金の問題? 貴方らしくないじゃない。しみったれたことで悩んでないで、さっさと買っちゃいなさいよ。私がいつ、あなたに出し惜しみしろと命令したかしら」
許しをやると咲夜は恭しい礼をした。
「ちょっと待って、冷やし紅茶とか作れないかしら」
私はわざとらしく、ドレスをつまんであおぐ素振りをみせた。
季節柄、湯気のたつ紅茶は少々酷だったので、できないものかと思った。
「風味は落ちると思われますが、お嬢様が欲しているのなら」
「たのむわよ」
最後にパチェの観察を忘れぬよう釘をさしておいて、咲夜との用は済んだ。
一人になった私はベッドの上に放置されていた本を拾って、続きを読もうとした。
ところが、スピンがページを開く前から宙ぶらりんに垂れ下がっている。
弱ったことにどこまで進んでいたのかまるで分からない。
私は数十分前のガサツな自分を呪った。
すっかり読書の熱が失せた私は、翌日になって咲夜へ本を突き返した。
そのときに咲夜はパチェの動向について話してきたが、何も一日で報告することはない。
咲夜が言うには今朝がた朝食を運びにいったところ、パチェの姿は見当たらず、図書館内をくまなく探しまわってみたが影も形も発見できなかったという。
大方、私を尋ねにこちら側に移動しているのだろうと言ったら、それも考慮して探索ずみだと返された。
パチェは今日の朝から紅魔館にいないというわけだ。
だからといって騒ぐほどではない。
彼女の交友関係が密室的でなくなっているのは咲夜も知っているはずだ、魔理沙を橋にして、細々ではあるが確実に外と繋がりを持ち始めているのは。
河童の湿った手で触られると本が痛んでしまってしょうがない、とボヤいていたのはつい先日ではないか。
「お嬢様は、パチュリー様が外出なさっているのではと仰りたいのですか」
「他に何があるってえのよ」
「何人かの妖精と美鈴に聞きました。外出した者は一人としていなかったそうです」
私がむっとしているのに比べると、咲夜は涼しそうな顔だ。
「河童。河童が連れだしたんじゃ。光学なんチャラってやつを使って」
「だといいのですが、ね」
私はふんぞりかえっていた。
咲夜はあの本が関係しているのではと疑っている。
たしかにあの汚い紙束はパチェの衝動をよく揺らすみたいだ。だとすると本について、調査の視野を外にも広げだしたに過ぎないのではないか。
例えば魔理沙に意見をもらいにいったなど。
ははあ、いくら動かない大図書館とは言え、未知との遭遇には働く頭も働かないとみた。
じきにもどってくるだろう。
心配なのは、あの貧弱な彼女が、道中でばったり倒れはしないかということだ。
何日かあとにパチェの干からびた遺骸が運ばれてきそうで、私はそれが気がかりだ。
そんな不安をよそに、陽が落ちかけた頃になってパチェは帰ってきていた。
朝と同じように、帰り際を目撃した者はおらず、何食わぬ顔で彼女は図書館に戻っていた。
今日半日の間パチェがどこにいたのかは誰も知らず、本人は口は開かないため、杳として不明だった。
これについて私がまったく言及しないので、咲夜も黙ったままパチェへ対応していた。
一週間が経った夜、およそ紅魔館で働く妖精たちが寝静まった時刻に、咲夜が私の部屋を訪れた。
外は、深い夜が覆ったなかを冴え冴えと月が照り、ずっしりと静寂している。
日中は締め切っている窓のカーテンも、このときばかりは開け放し、私は光合成をする気分で月光を浴びていた。
そこに蝋燭を掲げつつ現れた咲夜は、この幻惑にみちた室内を著しくかき乱してくれた。
私が注意すると、蝋燭の心もとない灯りも乙なものではないかと口答えしてきた。
乙だか甲だか知らないが月明かりが台なしになってしまう。
咲夜へ手招きをし、彼女が充分に近づいたところで蝋燭を吹き消してやった。
ひどく残念な顔をされた。
わざわざこんな時間を狙ってきたのだから、それなりの話を持ちこんできたであろう咲夜は、月明かりによって半面が影に埋まっている。
まあ、話すことは決まっている。
彼女によるとパチェの不審な行動は、七日のうち五日ばかりは忽然と姿を消して何時間か行方知れずになること。それ以外には特に怪しむべき点は見られなかった。
蒸発していないときの彼女は、図書館の本棚をしきりに物色しているという。
どんな本を所望しているのか、それとなく本人に聞いてみたが薄ぼけた回答しかもらえず、小悪魔を捕まえてみると、公言しづらい本が集まった棚を教えられた。
パチェは密な調べ物をしている。
「それよりも、パチェがどこに消えているのかまだ分からないの? あなたってもう少しできる子だと思っていたんだけど」
「朝焼けに霧がかすんでいくような。本当にどこに行ってしまわれたものか、とんと掴めません。いや、まったく、返す言葉もございません」
これ以上咎めるのも無益なものだ。
咲夜にだって本来やるべき仕事があるのだから、無理を強いるのは賢いとは言えない。
パチェとは、私自身がしっかり面と向かって話し合うべきだろう。
趣味に走るのは構わないがゆきすぎる姿をみるのは心が痛い。
私は咲夜へ礼を言った。
パチェへ会うために図書館へ足をはこばなければならないが、平常必ずそこに居るはずのパチェは、今はいないときのほうが多くなっている。
実際、さっそく翌日に向かってみたところ、小悪魔のみが曇った表情を浮かべながら図書館内でうろうろ、司令塔がいないから仕事のしようがないのだろう。
もうそれだけでパチェの不在を証明している。
念のため小悪魔に居所を聞いてみたが、落胆を深めるだけに終わった。
三日とも同じ結果に会い、四日後にようやくパチェと対面できた。
咲夜の報告と寸分たがわず、怪しい空気の本棚をじろっと見つめつつ右へ左へ行き来していた。
渇仰と言おうか、何かを欲する激しさが背中から垂れ出ていた彼女に、私は少し足をすくませた。
しかし気を持ち直してパチェの名を呼んだ。
振り向きざま、パチェの鈍い眼光が私の目に飛びこんできたが、彼女も私が出向いたと知ってすぐさま柔和な光を取り戻した。
「パチェ、どうしても話しておきたいことが」
「ああ、分かっているわよ。……私が勝手にいなくなってしまうのって、やっぱり心配でしょう」
肉つきのよくない腕をうごかし、白い顔にはえくぼの影が目立つ。挙動の何一つ変わらないパチュリーがそこにいるが、白々しさというものが私には透き通って見えた。
しかし、これ以上不審を煽るまいとして生まれた態度のようにも思え、触れるのがはばかられる。
「分かっているなら、せめてどこに行っているのかくらいは教えてくれないと、イヤよ」
パチェは私と目を合わせたまま「うん」などと相槌をうちながら、思案げだ。
「そうね、レミィに秘密をつくるっていうのも気が引けるし、オープンにしていたほうが色々と割り切れるはず」
これは意外な反応だった。
てっきり謝るだけはやっておいて肝心な部分はおくびにも出さないと思っていたのだが、あんがい素直だ。
パチェは、明日会いにきてくれたら研究室へ案内すると自ら約束してくれた。
その研究室とやらには今すぐ行けないのかと聞いたところ、あなた一人にしか教えたくないからと答えてきた。
今も一人のはずである。と、疑問に感じた矢先、すぐ意味を汲みとった。
私は振り返って、無数に並ぶ本棚の一部を睨みつけた、そこに一瞬だけ布がはためいたのを見逃さない。
あれは咲夜のスカートの先端に違いない。
会話を盗み聞きしていたとは呆れた従者だ。
パチェへ必ず一人で来るとかたく誓って、彼女の笑顔をじっくり見つめてから立ち去った。
図書館を出たあと、わざわざ呼ぶまでもなく咲夜が顔を出しにきた。
有無を言わさず叱りつけておいて、うなだれたところに、明日はメイド長としての仕事を全うしろと言い聞かせた。
この折、私は食堂へむかいながら咲夜へ遅めの朝食を要求していた。
時計をみれば正午をすぎている。
「パチュリー様の仰っていた研究室ですが」
「はあ、ほんとに何もかも聞いていたんだ。抜け目ないわね」
「どこにあるのでしょうか。少なくとも私は存じておりませんが」
それは妙だ。
紅魔館の全容を把握している咲夜が首をかしげているとなると、私ではお手上げもいいところだ。
やはりパチェは館外へと姿をくらまし、研究室と言い張るどこかで密かに本の解読に勤しんでいるのだろうか。
そもそも外出しているのか?
ふくらんだ疑惑のいずれかも明日になれば解決してほしいと願っていたが、蓋を開けてみると思わぬトンボ返りを見せつけられた。
翌日になって、研究室へ招待するには都合があわないと言い出した。
私の失望はひとしおでなくそれは表情にも表れていたようで、気遣われたかのように次こそは必ずと、極めて申し訳なさそうに言われた。
なんでも研究室の片付けが間に合っていない、と。
いかにも取ってつけた理由じゃないか。
それだけ慎重にならなければならない理由があるのだろうか。
パチェが何日か引き伸ばすつもりなのは目にみえていたが、私はしぶとく待つ覚悟をしていた。
見られると不都合な何かがあるという事実は残念でならないが、冷静に考えてもみろ、そんなものは誰にだってあるはずだ。
彼女の場合、それが私の要求するものと被ってしまったに過ぎない。
だが三日ほど経ったあたりから、私は甲斐性なしにも既に待ちくたびれていた。
何週だろうが何月だろうが我慢してやると決めていたのに、五日目には耐えきれずにパチェへ詰め寄っていた。
熱をもった目で本棚を見つめ続けるパチェのもとへ。
「いいかげんにしなさいよ。引っ越すんじゃないんだから何日も片付けが終わらないなんて話はないでしょう」
「ごめんなさい。取り扱いの難しいものがあって、手間どっちゃって、あと二日もすれば」
「やかましいわねッ、手間どるとか何とか言ってないでさっさと私を連れていきなさい。そんなに時間が必要なものなんだとしたら、さぞかし珍しいものなんでしょうね、貴重なものなんでしょうね。興味がわくわ。さあっ、見せないよ!」
頭を横にふりながらあと少し待ってくれと言い続けるパチェに、私は肝を煮えたぎらせて連れていけの一点張りだった。
ひどく口汚く罵っていたのが、思い返すと大人げない。
癇癪をおこした私は、とうぜん目的の達成もままならないうちに自室へもどっていた。
間をはかっていたのかと思えるほどすばやくお茶を運んできた咲夜を睨む。
「紅茶はいらないわ」
「今回は趣向をかえてコーヒーを」
ああ、どうりで、さっきから鼻をつくと思っていた。
「香りがキツいから嫌いよ」
「せっかく淹れたんですから飲んでください」
「冷たい紅茶は」
「申し訳ございません、失念しておりました」
ドリップ式だかサイフォン式だかで作り出された泥水を私に飲ませるとは、咲夜もいよいよ舐めている。
あの苦くて見た目におぞましい液体が喉を通るなんて、想像しただけで胃液がせりあがってきそうだ。なんたって泥水を体内に流しこむのだから。
咲夜は眠気をまぎらわすために嗜んでいるようだが、血が真っ黒ドロドロになってやしないか。今度たしかめてみよう。
咲夜からコーヒーの注がれたカップを取り上げると唇へあてた。
相変わらず舌がただれそうなほど苦い飲み物だ。
「そういえば例の紅茶はどうしたのよ。手に入れたの?」
「実は店の主人が今更ながら渋りだしましてね、金を提示しても振り向かない有様でございます」
「気に入らないわね。ねばりなさい」
咲夜は微動だにしなかったが、ここが話の区切りとみるやパチェの研究室はどんな様子だったかと尋ねてきた。
どうせ覗き見ていた癖にしらじらしい。
私は答えるかわりに鋭い視線を送ってやったが、咲夜は澄ました顔をしている。
ヒステリック気味だったあの一方的な口論が見られていたとは、コーヒーがますます苦みを増してくるではないか。
咲夜がもう一つ話を切りだしてきた。
最近、妖精たちの間では館内に幽霊が出るという噂がたっている。かれこれ何十人もが体験談を語っているのだから事態はなかなか膨らんでいると言える。
これを咲夜は、幽霊は侵入者ではないのかと危惧していた。
侵入者だとすれば、何も言わず掃除するのが咲夜の仕事だろうに。
そもそも侵入者とやらが幽霊そのものでないとも限らない。
あのマシュマロみたいな白い塊が館を飛び回っているのも、おかしなものだ。
「きけば、あの白玉は抱くとひんやり冷たいらしいじゃない。幽霊で納涼とは正にこれね」
「夏ですから、怪談くらいは出まわってもおかしくありませんね。やはり、ただの噂にすぎないのでしょうか」
妖精の噂好きは井戸端に群がる女共にも劣らず、広がる早さは風と形容してさしつかえない。さらに内容のゆがむ度合いは悪質ときている。
その分、彼女たちの言葉を信じる者も少ないが。
夏の、どこからともなく沸いて出た蒸し暑さが汗を呼ぶ。湿気とあいまって肌がべたつき不愉快はなはだしい。
最悪の時期でありながら、涼しい顔を崩すことなく仕事に励む咲夜は、メイド長という名をかかげるに相応しい。
しかしさすがの彼女も、幽霊を見つけるため夜毎に館内を巡回せねばならないのには、骨を折っているようだ。
それにつけても私の神経をとっておきに逆撫でしてくる出来事がある。
洋館ゆえに風の通り道が少ない紅魔館は、夏にはほぼ全ての窓を開け放す。すると遠慮のカケラもなく小さな侵入者たちが入りこんでくる。
食堂の天井の隅に貼りつく蝉がやかましい。
「ちょっと、誰か追い払いなさい」
「でも虫を触るのはちょっと」
この言葉を聞いたか。
自然そのものである妖精が虫はさわれないなどとぬかした。数人で集まって和気あいあいと触れないとか触れるとか笑いあっているのが腹立たしい。
私は妖精一同をひとしく睨みつけたのちスープをたいらげた。
なぜ虫と同席して食事をとらなければならないのだろうか。
私がナプキンを膝から取り上げた頃になって、ようやく咲夜が現れた。
蝉の駆除でもしていたのかと皮肉をぶつけるも、お話がありますなんて、おもしろい反応は何一つとってくれない。
「パチュリー様につかまりました」
「あっそう」
「研究室を見せてもらえるそうです」
思わぬ朗報に私は席から立ち上がった。
久しぶりに気分が昂揚したもので、目の前の長卓を飛び越えて食堂を出ると、咲夜でさえおいてけぼりにして図書館まで突っ走った。
図書館へ着いてみると私を待っていたかのようにパチェが本棚へもたれていた。
「ごめんなさい、待たせちゃって。てっきり、怒って取り合ってくれないものかと」
たしかにほんの数日前の私ならば、咲夜を蹴飛ばして聞く耳すらもたなかったかもしれない。
いいや、そんな取るに足らない話をしているヒマがあるなら、すぐにでも案内してもらいたい。
また、当初は私だけに見せると決めていたはずのパチェが、咲夜も一緒に来て構わないと言い出した。
その咲夜はとっくに私の後ろにいる。
待ち望んでいたパチェの秘密基地はどこにあるのだろうか、館の中か外か、しばらく背中を追いかけていた私と咲夜はそういう囁きを交わしていた。
一言だけ「着いた」とパチェが言ったので正面を見つめてみれば、ただ巨大な本棚が突き上がっているだけではないか。
「まあ、よく見なさい」
パチェは本棚から一冊の本を取り出そうとした、ように見えたところ、空中の何もない部分をくっと掴んで手首をひねった。
すると、そこから引っ張られていくように本棚であるはずの部分が長方形に切り取られていった。
ドアが開いたのだ。
巧みに本棚へ隠蔽されていたドアが軋みをあげながら開くと、そこにできた穴から冷たい空気が流れてきた。
心地良い。
「こ、こんなものが」
館の全てを知り尽くしていたはずだった咲夜には、さぞ衝撃だったのだろう。
「咲夜だって分かるわけないわ。だってこの本棚自体が隔離されたものなんだから。ごめんなさいね、勝手に空間をいじっちゃって」
紅魔館内の空間面積を広げているのは咲夜である。
パチェはその力を端から応用して人知れず部屋をこしらえていたことになる。
穴のあいた本棚は、さながら門のように私たちを迎え入れた。
そこから先は図書館とは思えないほど薄暗く、狭く、三人で一列になりながら洞窟とも屋根裏部屋ともつかぬ通路を進んでいった。
空気は外より乾いているが、陰気だ。
進んでいると暗がりから一転、目前から差しこんできた光に私は目をそばめた。
眺めると骨董品のようなランタンが、丸く小さな卓上であかあかと燃えている。
周囲は本という本が堤防を築きあげ灯りを複雑に屈折させ、壁になんとも不気味な模様を映していた。鳥が羽ばたいているのか魚が泳いでいるのか、怪物が笑っているとも見える。
怪しい器具もたくさん見受けられる。
ところで、あの錆びた天秤の皿に盛られている粉末などが、いかなる種類の薬品なのか気になりはしないだろうか。
私は好奇心から指につけて舌をのばしたところ、すかさずパチェに手を奪われ無言の圧力をかけられた。
口にいれるにはマズいものを扱っているようだ。
もう少し奥を覗いてみると立て付けの半端な棚が四つ肩を並べていて、薬か何かを納めた瓶が大量に置かれている。
瓶に直接書かれている文字は走り書きで読み取れない。
魔女の住処だと言われれば大いに納得できる粘度ある黒さ――実際その通りだが――があふれたこの空間は、良い印象ではなかった。
私はこういった第一印象にうちのめされるあまり、あることを忘れてしまっていた。
物で散らかっているせいか狭く感じられるこの部屋を、パチェは器用に歩きまわりながら「どうかしら」などと聞いてきた。
どうもこうもない。右にも書いたが好いた気分は得られない。
「あの、たしか片付けをなさっていたのではありませんでしたか」
そう切り出した咲夜に、私は思わず声をあげる勢いだった。
そうだ!
今日の今日まで片付けがあるといういけ好かない理由で、ここに入れてくれなかったではないか。
だが部屋の状態を見る限り、とても、何日もかけて片付けを行っていたようには見えない。
この整頓されていない雑然とした部屋は、むしろ放置されていたと見てしかるべきだ。
私は表情こそ引き締めていたが、心内は意気揚々としながらパチェを責めた。
パチェは何も言わずこれといった反応もせず、ただ私の目を捉えたまま憂いの含まれた顔をうごかさなかった。
「何か言いたいことでもあるの」
「ごめんなさい。片付けしているなんて嘘を、実はどうしても見られなくないものがあって、ね。それをどうしようかと」
「ははあ、へえ、そう。見られたくないものねえ。フフフフ、それって本でしょう。あの本を取り上げられたくないんでしょう」
床に転がる本を蹴り飛ばし卓に散らばる器具を肘で押しのけ、パチェへぐっと接近すると唾を飛ばして言い放ってやった。
「あの本はどこッ」
パチェはためらいこそしたが、のろりと動きだすと、山積みされた本の一つから一冊を抜き出した。
私はそれを取り上げて表紙を確認し、中身も大雑把に見回した。
まさしくネクロノミコンだった。
「パチェ、この本は処分します。これはきっと読者をたぶらかす魔性の本なのよ。何を言ったって聞かないから。灰も残さない」
「まだ試していないことが」
「ダメよ」
試す。
本の内容にそって実験していた彼女は、掃除をも忘れさせる洗脳一歩手前の心理にいるではないか。
この手のケースでは本人は気づいていない場合が多い、自分が自分でなくなっている状態に。
だいたい「死霊秘法(ネクロノミコン)」などという胡散臭い名をでかでかと飾り付けた本が、真面目な文章をともなっているとは、尻の青いガキだって考えないだろう。
パチェは恐らく、まるで暗号文のような古い文体にそそのかされ、およそ体裁だけ取り繕った知識群に目眩をおこし、あとはずるりと頭ん中を引っ張られていったのだ。
なんと哀れな私の親友か。
本を取られたパチェが悲しそうな顔をしているのも、本の魔力がそうさせているのだ。
私は、私とパチェのやり取りを神妙な顔つきで傍観していた咲夜の腰を叩いて、一緒にここを退出した。
廊下に出ると、むこうから蝉の鳴き声と妖精たちの叫び声が聴こえてきた。
もしかして噂の幽霊は蝉なのではないだろうか。
「それはどうするおつもりでしょうか」
「本? 暖炉にでも放りこんどくわ。薪がうくわね」
この時期、稼働している暖炉は数えるほどしかないが。
「あれは、強引だったのではないでしょうか」
強引さで言うなら私よりもこの紙束のほうが、よっぽど強引にパチェを引きずり落としたに違いない。
「それにしても、あっさり渡してきて、拍子抜けでしたねえ」
「あの子も素直な子なのよ。だからこそ本に魅入られてしまったんでしょう」
「本当にそうでしょうか。素直すぎるのではないか、と」
どちらにしろ本はもうパチェの元にないのだから、心配は無駄な心労を呼ぶというものだ。
咲夜には館内にはびこった蝉どもを追い払ってもらわないといけない。
自室へたどり着いた私は咲夜へ蝉の除去を言いつけ、それと今すぐ葡萄酒を一瓶とコップを二つ用意させた。
所望の品はすぐにとどいた。
「お酒を飲みたがるとは、珍しいですね」
咲夜はボトルのコルクをひねりながら言った。
「景気付けに一杯……ってやつよ。あなたも飲みなさい」
よくあるチューリップ型ワイングラスではない、マグカップ型の容器を選んできたのには拍手を贈りたい。
何も考えずに飲みたかった。
乾杯をしたあとは一時無言が続いた。
ちびちびとグラスをかたむける咲夜がまどろっこしくて、もっと豪快に飲めと、私は手本のように手を逆さまにあおった。口の端からこぼれおちる。
咲夜は飲み方を変えなかった。一口一口に時間をかけていた。味わうほど高級な銘柄ではないはずだがと、私はボトルのラベルを見やりながら思った。
やっと飲み干した咲夜が失礼しますと言って姿を消した。
止める者がいなかったので、私は結局ボトル丸々飲み干した。
ここ数日で一気に膨張した感のある黒い影の噂は、いつしか恐怖をはらみながら妖精たちの間で語られだしていた。
なぜかというと、目撃談のみならず被害に会った者がちらほら現れはじめていたからで、幽霊に触られたとか追いかけられたとかいう俗っぽい話題で、紅魔館はもちきりになっていた。
彼女たちの耳障りな雑談が満たす廊下を私は歩いていく。
こうなると妖精も蝉も変わらない、面積をとらないぶん蝉のほうがマシかもしれない。
咲夜の名を呼んでもいっこうに姿を見せないと思っていたら、彼女までもが妖精に混じって会話に興じていたではないか。
背丈の違いで一目瞭然だった。
「仕事さぼっておしゃべりとはイイご身分ね、咲夜」
「申し訳ありません。なんなら、今すぐにでも雑務を終えてしまいますが」
言えば返す刀の咲夜に、遠慮なく歯ぎしりをした。
近頃の彼女は口がすぎる。
「まあいいわ。いまだに幽霊のフリをしている変質者が捕まらないのは、折檻の覚悟をしてもらいたいけれど、蝉が減ってきていることは褒めてあげる」
時折、流れ弾のように入りこんでくるヤツ以外、館内で蝉を見かけなくなっている。
あの大合唱が遠ざかっただけでも、風が涼しく肌を駆け、冷やした飲み物が喉を潤す感触が、ぐんと強く感じられた。
「蝉ですか。たしかに減ってきていますね。館内では」
「咲夜があいつらに念入りに教えこんでやったんでしょう。館の中は危険だって」
「私は何もしていないのですが」
ハッ、謙遜とは恐れ入る。さすがは紅魔館の砦、十六夜咲夜メイド長殿だ。私もそろそろ彼女の前に跪いて、くもった革靴を舐めて綺麗にしてさしあげないと、彼女の素晴らしい態度に申し訳がないかもね。
などと、大いに毒づいてみても、咲夜は無表情に凝り固まったままで、先の発言が謙遜でなければ冗談でもないことは瞭然だった。
ならば、蝉が勝手に消えていったのだろうと結論してみても、外に出てみれば以前として幽霊三姉妹も顔負けの騒音ライブが催されている。
汗だくになりながら外に突っ立っている美鈴が、多少気の毒ではある。
飯はしっかり三食与えているはずだから死にはしないだろうが。
「咲夜」
「はい」
「みっともないから靴は磨いておきなさい」
咲夜の頬にさっと朱がさした、赤面をみせたのは貴重だ。
殊勝にも妖精が蝉を追い払ってくれたのかと思ったが、彼女らはたまに飛びこむ蝉には絶叫で歓迎しているので、ありえない。
やつらは一人でに消えたのか。
私は薄ら寒さを感じた。
それは、ワケの分からぬ奇怪事だからではなく、見え隠れする心当たりによるものだった。
パチェに疑惑の矛先が伸びるのは、妥当には違いない。
最近だと彼女がもっとも怪しい行動に終始していたのだから。
しかしこれ以上彼女を疑うのは嫌だ。
私が彼女についてまったく口に出していないことを察してか、咲夜もかぶりを振って無能のフリに徹してくれている。
蝉の件は些細なものだ、いくらでもうやむやにできる。そうだ幽霊とやらを捕まえてそいつに罪をかぶせよう。
じっくりと紅魔館を騒がす犯人に縄が回るのを待てばいい。
とっぷり夜中になってから、自室へ咲夜を呼んだ。
幽霊のよく出没する時間はもうすこしあとだと言うが、それは重要ではないだろう。
咲夜なら一秒もつかず現場へ駆けつけれるはずで、時間を止められる彼女にとってタイミングと距離は関係がない、にもかかわらず今日まで野郎をのさばらせていたのは、ひとえに彼女の怠慢が原因だ。
今宵こそはしっかり働いてもらわないと。
「さて、咲夜、一緒に見回りにいきましょうか」
「はあ、お嬢様と一緒にですか。ご冗談を」
冗談なものか。
やれるものなら咲夜に首輪をつけて引っ張りまわしながら見回りたいくらいだ。
「しかし幽霊のことなんですが、もしやフラン様が妖精にちょっかいをかけているだけではないかと、思えてきまして」
「じゃあフランに話はしたの?」
「今から話そうかと」
行動がいちいちノロマな従者でうんざりしてくる。夏になるとバテて行動力がなくなってしまうのだろうか。
だが、フランが星とは私には思えない。
なにせ騒ぎが起きる前に私と喧嘩を起こして、すっかり機嫌を損ねて部屋に閉じこもっている。
当分顔を見ていないが、せいせいする。
咲夜が呆れ返った顔をした。
「まだ仲直りしていないのですか」
「人のおやつを奪うとは曲がった根性をしているわ。こっちから謝る道理はちっともないし、近づいただけで牙を剥きやがる」
「お嬢様が激情してフォークで刺すから」
思い返すと腹が煮えてくるのを抑えながら、フランの名前は二度と出さぬよう咲夜を叱った。
しぶしぶという感じの咲夜の服を引っ張ってうながし、見回りへと連れたった。
暗い廊下に等間隔で並んでいる燭台も、深夜になればすべて消えている。
一つか二つ消し忘れている蝋燭がぼんやりと灯っているのを、遠目から見つけた瞬間は、それと分かっていなければ背筋が凍る。
あまり寄りかからないで下さいと言われた。私はいつの間にか咲夜のスカートへしがみついていたようだ。
廊下の場所によっては月明かりすら差しこまず、人の視界なら完全におジャンと化す。
私はそうはいかない。
私の瞳孔はわずかな光も摂取しようとめいいっぱい開いて、双眸は黒い塊とも言える形になっていた。
この時の私がもっとも吸血鬼らしかったことだろう。
咲夜の進みが遅いので催促すると、何も見えないので歩きようがないと言った。普段は蝋燭片手に巡回していたので、灯りがないとお手上げだと。
どうりで咲夜の割に仕事がはかどっていないわけだ。
蝋燭を揺らしながら歩いていたのでは、相手に自分がいることを明かしているに等しく、不明瞭な視界のせいで下手に動けない。
なら私がつきそった今夜は、そうまざまざ幽霊を逃すわけにはいかない。
この漆黒の目玉にはっきりと姿を焼き付けて、追いかけて、ふん縛って白日の元に晒してやる。
つまりこの異変は私でないと解決できないときた。心が踊る。
およそ館内の半分を見て回ったと思う。今は左に連なる窓から月明かりが満遍とそそがれていた。
いかにも冷たそうな青みがかった月光に、赤みがかる壁紙や赤い絨毯が照らされると、紫ともつかぬ微妙な色をうかべた。
あんまり静かでこのまま何も起きる気配がなく、意気消沈した私は青い月を睨みつけていた。
そうした中で咲夜が「あれは」と床をさしたので、喰いつくようにそちらを見張った。
とうとうお出ましたと腕をまくる勢いになるも、見れば絨毯に小さなシミが付着しているばかりじゃないか。面白さのカケラもなかった。
単に掃除しわすれたのではないか。
咲夜がそれに近づいて検分の真似事をしてみせた。
シミはこぶし大に広がっていて、光が足りないのでどんな色か分からないが私には黒く見えた。触ってみると粘度があり、生臭さと腐臭のない混ぜになった、顔をしかめずにはいられない臭いがすると咲夜は言う。
ハンカチで指先をぬぐう咲夜は、たしかに眉のよった顔をしていた。
彼女は足元を確認しながら廊下を右に曲がっていったので、私も後を追った。
目印は床を点々と伝っていくシミだ。
その規則性からして、まもなく足跡の可能性に気づいた。
となると、表面を粘液で覆われて鼻を曲げるばかりの悪臭をまとった生物が、ここを徘徊していたことになるのか。
ここから先は窓のない廊下になっているので再び視界がきかなくなる。
その向こう側でひたひたと歩く何者かを、例えば足音や臭気を、実際には感じないはずの感覚が疼いて恐怖が増す。私と咲夜の息遣いばかりでなく、別の第三者の吐息まで混じっているようで周囲が気になる。
再び足取りが重たくなった咲夜に苛立ちを感じながら、私はシミを見下ろして歩いた。
咲夜には恐らく何も見えていない。私にスカートを握り締められて誘導されていることだけを命綱としているはずだ。
「シミはどうなっていますか」としきりに聞いてくるのは、手持ち無沙汰だからなのだろう。答えてやらないのも意地悪だから、別に、と言ってやった。
足跡とおぼしきシミは廊下の途中でなくなっていた。
これが見事にぷっつりと途絶えていて、その後の消息をまったく想像させてくれなかった。
途絶えた場所から消え失せたとしか思えない。近くの部屋などを慎重に見て回ったが、収穫はなく、もしやと天井を見上げてみても、当然だがそこには赤塗の天井板しかない。
考えられるのは、相手は文字通り消えたか、浮遊していったか。
咲夜が目をこすっている。
「眠たそうね」
「いえなに、このくらい」
今日はもう引き上げたほうがよさそうだった。
翌朝になって現場へいってくると、シミはとっくに咲夜が除去したあとで、絨毯の品のある赤色には一切目立つところがなかった。
聞いたところ、シミの色は緑がかった黒だという。
いよいよ正体不明らしさが強まってきて、もともと情報の薄かったものが、シミが発見されたことでさらに漠然と広がった。
緑の液体から連想できるものは私にはあらず、咲夜にも、虫の死骸かもしれないという程度の推察しか許さずにいた。
虫の死骸だとしたら、どうして足跡のように続いているのか。虫を踏んだ何者かが、汚い靴底のまま歩き回っていたのだろうか。ありえない。
なおさら張本人を捕まえないことには話が進みそうにない。
ところであの夜、二人で館内を巡回していた間に被害をうけた妖精がいた。
気味の悪い何かに背後から抱きつかれたという妖精は、蒼白の面持ちで咲夜から事情聴取をうけていた。
真夜中に小用を足すため廊下を歩いていると突然覆いかぶさってきた者がいて、ぶよぶよと生理的嫌悪を催す弾力に包まれた彼女は、悲鳴をあげて急上昇した。残酷なほどはっきり覚えているのは、足首をつかんできた腕らしきもの。粘着して、ぬめりと肌をとらえてきたので、全身が粟立ったという。腕を振りほどいて飛びながら逃げ出したあと、後ろからカエルのケロケロという鳴き声をとびきり低くしたような、耳に残響する恐ろしい声を聞いたのだと。
既にこの話の時点で、あいてが幽霊ではなさそうな雰囲気があらわれていたので、私たちは謎の存在を「化物」と呼ぶようになっていた。
当時、妖精が着ていて、化物に抱きつかれたという服を見てみると、薄緑の粘液が背中から脇腹にかけてべっとり張り付いている。
そして吐き気を呼び起こす臭いがたちのぼっている。
紅魔館内を得体のしれぬ化物が徘徊しているのは、もはやどうしようもない事実だった。
私は咲夜へ、今日の夜こそ仕留めようともちかけ、決意させた。
これ以上私のテリトリーを害されるのは不愉快極まりなかった。
折に、妖精が泣き出しそうにしながらも話を続けているところ、何食わぬ顔でパチェが現れたのには少し驚かされた。
何日かぶりにみた彼女は少々やつれていて、まだ寝る間も惜しんで研究をしているのかと私は疑った。
「パチェ、何をしているの」
「騒がしかったから、気になって見に来たのよ。他の妖精から事情は聞いたわ」
「そうじゃなくて、どうしたのよ。ちゃんと寝てる? ご飯は?」
パチェは生気の感じられない笑顔をうかべた。
悲愴に白く簾のようになよなよしい顔が笑ったときの、花がどうにかほころんだような様に、思わずどきりとさせられた。
笑い返す気になれない。
パチェは妖精が着ていた服を興味深そうにつまみ上げ、観察でもしているのか、付着した粘液を見つめていた。
妖精が咲夜に対して語っている話を、少し盗み聞きしているようでもあった。
また、誰よりも早くその場からいなくなっていた。
なんだか明日にはこっくり死んでしまうのではと思えるほど虚弱そうで、私は彼女の背中が見えなくなるまで見送ったものだ。
日が沈んでから咲夜と、私の部屋でどのように巡回していくか打ち合わせたが、彼女には蝋燭をもたせ、私と別行動をとらせることにした。
だがこれでは人手が不足している。
咲夜が空間をいじって広げに広げた館内は、利用されていない場所がいくつかあり、たまに妖精たちが遊びに使う程度だった。
私はそういった場所を詳しく知らず、咲夜にも把握の限界があった。
よく遊びまわっている妖精あるいは人物が加勢してくれると非常に助かる。
そこで咲夜の持ち出してきた人物に、私はげえっと言いそうになった。
「妹様にも手助け願っては」
「フランを……バカ言ってんじゃない。やすやすと仲直りできるとでも」
「お嬢様が謝ればすむじゃありませんか」
「妹へ頭を下げろっていうの!」
私の声が室内に響いた。それと同時にドアが開き、誰かがくすくす笑いながら入ってきた。
密会というほどでもないが誰にも伝えていない会合だ。にもかかわらず、ノックさえせずに入室してきた不届き者へ、私は目を走らせた。
フランが肩をゆらしていた。
「姉より優れた妹は存在しないって言いたいの、お姉さま」
「フラン、その下品な笑いかたをやめなさい」
フランは私へ近づくなり、右手二の腕を私の顔へよせてきた。そこには赤い点が三つある。
「下品というのはこういうことを言うんですよ。人の柔肌に冷たいフォークを突き刺しておいてなお、頭を下げないと言い張るクソッタレのことを」
「私たちの話を聞いていたの」
「ええ、聞いていました。お姉さまも罪な人ですね、こんなに面白そうな話を私へふってくださらないなんて。化物退治をしようっていうんでしょう。ええ、それも、死ぬほど臭い化物を。お姉さまたちがコソコソしていたの、ずっと見ていましたよ」
「なによ、じゃあ参加してくれるのかしら」
「いいですよ。お姉さまが自分の落ち度を認めてくれさえすれば、いくらでも協力してあげる。自分が悪かったと明言してくれさえすれば、私だって素直についていくのに」
おかしくてたまらないといった表情をして、言葉にたっぷりと余裕を含ませて喋るフランは、とても憎たらしかった。
謙虚というものを見せてくれれば、私だって唇を噛まずにいられるのに。
「謝れと」
「さっきからそう言っているでしょう」
「イヤよ」
キスをするのかというほどフランの顔が距離を縮めてくると、私はたじろいでのけぞった。
「まあ、どうせ謝ってもらえるとは思ってなかったけど、こう断言されると熱も失せるってものね。いいですよお姉さま、今は目をつむって協力して差し上げますが、終わったあとに必ず謝ってくださいね。何かプレゼントがほしいわね。ステキなプレゼント。あと、せいぜい、おでこを床にこすりつける準備をしておいてください」
フランの極端な物言いに私は何も答えなかった。
どうせ、とびきり甘いおやつを好きなだけ食わせてやればすぐ破顔するに決まっている。
こうして私たちは三人で夜がふけるのを待った。
頃合いになると咲夜が先に出ていって、私とフランは見届けてから後に習った。
「ここから別れましょう。フランはこのまま真っ直ぐ進みなさい。私は二階に上がるから」
「どうしてお姉さまに指図されないといけないのよ」
「……分かったわ、好きなほうを選びなさい」
「じゃあ、このまま真っ直ぐいくから」
勝手にしろ。
二階へ上がった私は憤然と前進していた。曇り空のため窓側の廊下であってもほぼ暗闇だったため、しだいに孤独な気分がたかまってきた。
いや、すぐそこの部屋にでも飛びこみ横になっている妖精をたたき起こして、ついてこいと腕をとれば、私の不安もやわらぐけれど。
考えてもみろ。
妖精を襲った例の化物が気持ちの悪い音をたてながら、正面から四肢をぶらつかせながら歩いてきたら、恐ろしいに決まっているだろう。
背後から強襲されでもしたら戦慄の一言では言いつくせない。
私もきっと、ぶざまに飛び上がって夜の廊下に喚き散らすだろう。そのときこそ愚妹からあざけり笑われてしまうのだ。
フランはすぐに妖精どもに言いふらし、妖精はたまの来客へ言いふらし、魔理沙や霊夢へ伝わって私は哀れ“怖がりの吸血鬼”という称号をいただくのだ! 他人の不幸は蜜の味だと本気で思っているようなあいつらに侮辱されるなんて。
二階を周り終えれば咲夜かフランと合流するかとも思ったが、誰も見当たらなかった。
私は嘆息しながら三階へのぼろうとした。
すると、暗がりの中から人の輪郭がぼうっと浮かび上がって、私は狼狽もあらわに後ずさった。
立っていたのは咲夜だったのだが、用意していたはずの蝋燭を持たず両手にナイフを光らせていた。なにより目についたのが半身を真っ黒に染め上げる何かだ。足から腕にかけて、頬を越えて銀色の美しいおさげまでが黒くなっていた。
おかげで本人の表情を見分けるのは困難だったが、かすかに震えているのだけ見て取れる。
私が呆然として咲夜を凝視していると、ふいに喋りかけられた。
「仕留めましたよ」
咲夜とは思えないほど力ない声に、私はなんともゾッとしたものだ。
何を仕留めたのかは聞くに及ばず、咲夜にうながされるまま、暗い割にずいぶん手際よく進んでいった。
現場近くまでやってきたときにはまず臭いで分かった。生魚を扱ったあとの調理場を思い起こさせ、鼻孔をじんわりと刺激してくる臭気が勢いを削いだ。
周囲の燭台は照らされて、化物がいる一角だけが明瞭に識別できるようになっている。
ところかまわず体液の噴出した跡がついて、血溜まりの中央にぐにゃりと横たわるヤツが炎の影にゆれている。
死後まもないはずだが、臭いのおかげで腐りはじめているのかと思われた。
こんな汚物が存在していたことに、驚愕せずにはいられない。
ふと、化物とは対角の壁際を見た。
そこにも液体が溜まりこんでいたが、マーブルで、細切れの何かが混ざっている、化物から吹き出たものではなかった。
では何なのか。
私はこわごわと咲夜の顔を見やり、口元がわずかに汚れているのを確認した。
まったくひどい臭いがあたりを埋め尽くしている。蝋燭が炙っているからこんな鼻のとれそうな空気になっているのではないか。
死体に近づく気になれなかった私と咲夜が棒立ちのままでいると、どうやって探しあてたかフランが飛んできて、死体を見るなりこう言った。
「うわっ、ブサイク」
おおむね同意できる。
フランは場の惨状に顔をしかめながらも嬉しそうに死体の側へゆくと、無遠慮に足でもって体を裏返し、眺め回している様子が虫の観察をする子供のようだった。
咲夜が投擲したものだろう、突き刺さっていたナイフの柄を踏みつけながら、滲み出した血を一瞥して気持ち悪いとのたまった。
これが妖精どもに知られたらうるさくなる。
明け方も早い頃、捨てる予定だった古いシーツで化物をくるみ三人で館外まで運びだした。
地面に穴を開けたのはフラン。
一瞬とはいえ響いた轟音と地鳴りにひやりとさせられた。
シーツごと化物を放り投げると、あとは館の妖精たちが目覚めだす直前まで土をかぶせる作業となった。
その後、咲夜が化物の倒れていた場所を極めて迅速に清掃し、普段となんら見分けのつかない状態へなおした。
それでも臭いが残っていたのか、妖精たちはその周辺に近づこうとしない。
むずがゆそうな顔で別の廊下を選んでいく。
この日のうちに咲夜は不調を訴え、部屋にこもったきり出てこなくなった。
化物を殺してから数日ほど様子を見てみると、当然だが幽霊の話題はすっかり流れなくなった。かわりに咲夜が化物を打ち倒した場所が「呪いの廊下」などと呼ばれだす後遺症はのこった。
そんなことは重要ではない。
化物と対峙したショックから衰弱して使い物にならない咲夜も、いま私が頭をかかえている出来事と比べると、些細な出来事と言える。
事のはじまりは、突然私の前にとんできた泣きっ面の小悪魔がした話だ。
またパチェが行方不明になったそうだ。
私はさいしょ聞き流すつもりだったが、あんまり小悪魔がべそべそ喋るものだから黙らすつもりで見にいってやった。
図書館にいくと小悪魔の言葉どおり主は不在だった。
既に同じ経験をしていた私は、パチェに案内されたあの場所に見当をつけた。
ところが、いざ行ってみると内部はもぬけの殻ではないか。
というより、以前私が確認したときから部屋の内装がまるで変わっておらず、例えば積み上げられた本の数から無造作に並べられた器具、部屋の隅にたまりこんだ埃までがデジャブのような印象をあたえてくる。
私はこの瞬間に、やっと、図られていたことに気づいた。
この部屋はパチェが私と咲夜を納得させるためにこしらえた、偽の研究室ではないだろうか。彼女が本当に研究室として利用している空間はもっと別にあり、今まさにそこで研究の最中なのだ。
となると、パチェから取り上げたあの本も紛い物に違いない。残念ながらとっくに暖炉へくべられたであろうから確認のしようはない。
ここにきてパチェが消えてしまったのは、化物の屠殺が原因にちがいない。
目的は想像したくないが、あいつの再召喚でもしようというのか。
悲哀にくれるよりはまんまと騙されてしまったことが悔しかった。しかも親しい人が手のこんだ部屋まで作って、さも全力で嘘をついている。
怒りばかり盛り上がる一方でパチェがどこにいるのかは、これっぽっちも分かっていない。
一旦、紅魔館へひるがえす。
咲夜を連れていくかどうかで迷ったが、彼女は部屋から出てきたと思ったら目に隈をためた姿で出かけてきますと言ってきた。
きっぱりご心配には及びませんと言いながら、おぼつかない足取りをしている。
行き先を尋ねると、気分転換に外の空気を吸いたいと言い、今日こそ紅茶缶を手に入れたいと言った。道端で倒れるのだけは勘弁してもらいたい。
いちおう止めはしたが無駄だった。
こうした経緯から咲夜は使えず、いやいやながらにフランへ相談した。
「上積みね」
「何が上に積み上がるってのよ」
「お姉さまが私からいただいた借りに決まっているでしょう。フォークのぶんと、化物退治のぶんと、今回のぶん。重たいわねえ」
借りも何もあったもんじゃない、妹なのだから姉には無償で協力してほしいものだ。
フランは私の言葉にはてんで聞く耳をもたないようで、アハアハと大っぴらに笑いながら欲しいものを列挙していった。
妹の下らない欲に挟まって馬鹿げた要求があったのを、あえて知らんぷりで済ませるのも難しい。
私がそうやって無視を決めこんでやっているにも関わらず、「お願いねお姉さま」といやみったらしい猫なで声を耳元で囁く神経には付き合いきれない。
なんてひねくれた妹だろう。
手元にフォークがあれば振るっていた。
二人で図書館へゆくと、小悪魔を脅して委細を引き出した。
ほとんどフランがやってくれた。
彼女は何も知らないと言い張るがそんなはずがない。
パチェの秘書、使い走りである彼女は何も聞かされていなくとも、パチェが行なった研究に関わる作業をさせられたはずだし、パチェの行動をもっとも身近で見ている者は彼女をおいて他にいない。
ああも弱ったパチェが自ら本や器具を運べるとは考えられない。いくらかは小悪魔に手伝わせたはずである。
叩けば一抹とは言えこぼれてくる。
二人の吸血鬼から迫られた小悪魔が、涙をおとして嗚咽にまみれながら話しはじめたのは間もなく。
ついで、フランが追い打ちするように分かりやすく喋れと唾をとばしたから、青ざめた面のまま一語一句をハッキリ発音しはじめた小悪魔は、もはや愛くるしいほどかわいそうだった。
「は、はあ、パチュリー様の居場所ですか。私に心当たりがあるのは地下室くらいですが。どこにあるかって、図書館の奥へむかって禁書や密書のコーナーのさらに先にいけば埃臭い場所に着きますから、そこからいつぞやの部屋のようにパチュリー様が勝手に拡大なされた空間を探していただければ。でも、地下室ですからね、入り口は周到に隠蔽されています。私も本をもってこいと命令されましたが、入り口を見つけるのに手間取りました。あっ、実はあのネクロノミコンって本は私が見つけたんですよ。どこで出会ったかは覚えていませんが、すごく印象深い本だったので、パチュリー様へみせにいったんです。……関係ない話はするな、ですか。いや、これがあながち関係がないとも言い切れませんよ。パチュリー様はあれのせいでおかしくなってしまわれたんですから。お嬢様がたはおおかた予想がついていたんでしょうが、私は断言できます。なにせあの本、瘴気といいましょうか、邪気といいましょうか、不恰好な見た目もさることながら中身も相当な危険物ですからね。そりゃあ私だって小悪魔です、デーモンの端くれですから不気味な空気くらい感じ取れます。中身はすごかったでしょう。え、読めなかったって。そりゃあ残念。とにかくパチュリー様は本から発せられる毒気にあてられたんでしょうね。
あ、いや、研究室を作ると言い出したのはその時期からだったはずですよ。はじめはあの雑多で小さな研究室にこもっていましたが、すぐに引越してしまわれました。はい、あそこはお嬢様が推察なさったような、お嬢様を騙すための部屋ではないんですよ。パチュリー様はちゃんとあそこもつかっておられました。だ、だからその引っ越した場所がさっき申した地下室なんですよう。ああ、ちょっとお待ちください。そう焦って向かわなくともいいじゃありませんか。地下室もなかなか悪環境なものですから、それなりに心構えて。暗くて視界は最低だし、湿って気持ち悪いし、臭いなんて言葉であらわすには足りません。そりゃあもう大変な臭気で、臭いだけで吐きそうになったのは初めての経験です。思い出すだけで口のなかが酸っぱくなっちゃう。え、パチュリー様がどうしてあんなに痩せたのかって。ご飯をあまり食べておられなかったのも原因の一つでしょうが、私が思うに、一番の原因は地下室でおこなっている研究かと。何をしているのか……非常に答えづらいのですが、当初は本を片手に薬品を扱っておられました。その頃から地下室を満たす薬品独特のツンツンした臭いがひどかったですねえ。はい、途中からお嬢様の推察どおり化物を召喚しておりました。しかも、一匹や二匹でなく何十匹と。いえいえ、実際に目撃したわけではありませんが、地下室の複数ある部屋のうちひとつから、いくえにも重なったささやき声が漏れてくるんです。低くうねったイヤな声です。身の毛がよだつとはアレを言うのですね。
ほ、本当ですよう。息をこらせば部屋のなかをべたべた這い回っている音が聞こえてきます。扉はかたく閉じられていてゴキブリも侵入できそうにない作りで、さらに二重に用意されて。それでも、もし開いて、中からあいつらが出てきたら、という想像を何度したことか。あっ、紅魔館に侵入していたのも同じ化物でしょうか。まさか、一匹逃げ出していたのかも。でも、パチュリー様はまれに地下室にすらいないときがあります、恐らく本当に外出なさっていたのかな。ひどく慎重に準備をしながら、私を寄せ付けようとしません。化物を散歩にでも連れだしていたのでしょうか。あんな醜悪そうな生物とよく歩ける。餌やりが面倒とぼやいていたときもあったので、慣れたんですかねえ。何を食べさせているのか、動物の肉でもあたえていた気がします。だってあの生臭さ、他に考えられますか。はあ、化物そのものが生臭いと。気持ち悪いですねえ。だいたいこの通りでしょうか。あっ、そんなに目くじら立てないで下さい、地下室まで案内しろって? うへえ、気は進みませんがお嬢様じきじきの頼みです、いきましょうか」
どこまでも腰の低い小悪魔の背中を、フランが乱暴に押した。
小悪魔はさすがに図書館を歩き慣れているようで、迷いなく通路から通路へと進んでいった。
奥地とやらに着いてみると、床一面にそっと埃がつもっていて本棚も全体に白みがかっている。
なので、誰かが歩いた跡がくっきりと残り、小悪魔の案内がなくても地下室を見つけられそうに思えたが、ややあって足跡の線が入り乱れてきた。
これらのほとんどは小悪魔がつけたものらしい。
何の変哲もない本棚の前にきた。
そばにある本棚との微妙な距離感によって、人が一人ようやく通り抜けられる隙間ができている。
よく見ると、本棚自体が周囲の本棚によりうまく隠された位置にあって、しっかり意識していないと発見できそうにない。飛び上がって上から覗きこめばよさそうなものだが、パチェが勝手に改変した空間のため簡単にはいかないらしい。
小悪魔が先行して、埃がかぶるのを嫌がったフランを隙間にねじこみながら私は最後に通った。
そして本棚の行列をなぞっていくと、床にぽっかり穴があいていた。
木目一色の通路のど真ん中に、模様でもなさそうな黒い正方形があるという不自然な構図は、珍妙な絵画を観ている気分にさせられた。
そばに立つと足元から生ぬるい空気が這い上がってくる。
「じゃあ、私はこれで」
小悪魔が背中をむけるとフランが噛みついた。
「待ちなさいよ。ここが地下室なの? だったら下まで案内しなさい」
「し、下は勘弁してくださいよう」
フランの腕をかわした小悪魔はそそくさと消えていった。
穴を覗きこむと思いのほか深そうで、暗闇の加減が、沼の底に沈んだ泥を彷彿とさせる。
驚くべきことに、穴はどこまでも垂直につくられていて、下りるための階段はおろか梯子さえもない。
並の人間では道具をもってこない限り下りられない厄介な出来だ。
私はフランへ目をくばった。
フランは難しそうな顔のまま縦穴を見つめている。
にらめっこしていても埒があかないので、私がさきに縦穴へと歩を進めた。
ゆっくり下っていくと視界がゼロになっていったが、やがて光の存在を認めた。
ぼうっと橙色に濡れる壁面に私は安心した。はるか頭上を見上げながらフランに下りてこいと伝えた。
最下に降りたら今度、穴は横に伸びているが、やはりどこまでも暗かった。
横の壁にひとつだけ吊るされているランプがむなしい。
誰かが入ってくることを拒み、やさしく迎えるつもりの一切ない冷徹なこの場所に、私は恐怖を感じた。
なぜ、こんな伏魔殿の入り口のような作りにしたのか、パチェも妙な感性をしている。
愚痴をこぼしながらもたった一つしかないランプを手にするフランが、勇ましいと言うより馬鹿らしく見えた。
狭くて、羽の突き出た背中は、ちょっとは頼もしいかもしれない。
その背中を追いかけてさらに奥へと踏みこんでいった。
唯一の灯りであるランプの心細さにうたれている場合ではない。
進むにつれ濃くなってくる醜い臭いが、嫌悪感を高めていく。
目の前にあらわれた木板の扉を開くと、私たちのランプよりは明るいものが散在していて、広大な部屋の全体像が見渡せた。
ホールのような印象を受ける部屋の中ほどをフランがずかずか歩いて、周囲に目を走らせながら「くさいわねえ」と一言。
予想に反して物は見当たらず、内部は伽藍堂としていた。
ぽつぽつ置かれたランプがとても寂しく、剥きだした石壁とあいまって寒い。
四方に六つの扉がある。
あれのどれかが小悪魔の話していた化物収容所につながっているのか。ためしに耳をひそめてみたが、私とフランの息遣いしか拾えなかった。
六つある扉の一つからパチェがいる部屋へ向かえるのだとしたら、どの扉をくぐればよいのだろうか。
間違っても化物たちの中には紛れたくない。
フランはとことん強気であり、いちいち確かめればいいと言いながら最寄の扉へ近づいて、取っ手についた堅牢そうな錠前をむんずとつかんだが、
「あ」
という短い叫び声をあげたフランは、慌てて扉から距離をとった。
錠前が落ち、扉は軋みながらゆっくり開いていった。
つまり、フランが触る前から錠前は役割をなしていなかったのだ。
一枚目の扉が開ききると、それよりかたそうな二枚目の扉が見えるも、既に数センチばかり開いていた。
にわかにフランの顔がひきつった。錠前を拾って一枚目の扉を閉めようとするも、鍵がないのでかなわいと見るや、取っ手にひっかけた∪字の部分をねじまげて無理やり鍵にした。
ワケを聞くまでもない。
部屋の向こうにいた醜悪な肉塊どもをフランは感じとり、とっさに思いついた防衛であるのは明白だった。
その証拠に一瞬後には扉が内側からがちゃがちゃ叩き鳴らされ、何重に重なったうめきのような低くおぞましい声が垂れ流れてきたではないか。フランはさっきまで化物と扉一枚を隔てていたことになる。
また共鳴でもしているのか、各部屋からまったく同じ調子の鳴き声が溢れだし耳障りなアンサンブルとなって私たちをかこんだ。
私のもとに寄り戻ってきたフランが、扉へむかって罵声を浴びせた。
なんと恐るべき事実だろう、私たちはてっきり、化物が押しこまれている部屋は一つだけだと決めつけていた。
ところが今はどの部屋からも、扉を開けようと押すか叩くかして群がる化物どもが想像できた。
私たちを獲物とさだめてすがりつきたく迫ってこようとしている化け物どもが、咲夜が殺した死体と瓜二つの彼らが、カエルの鳴き声を何倍も濁らせた音を吐き出しながら取り囲んでいるのだ。
「待って……お姉さま、振り向いてお姉さま! 鍵がしてないわッ」
言われた通り振り向いた私は、ちょうど正面にあった扉が半分以上も開いているのを見て、喉が絞め上がる気分だった。
ランプが遠いのでうっすらとしか見えないが、中で身体をくねらす化物が光を照り返してくる。
と、そこの色見が歪んだかと思えば、黒い物体が扉をこえて倒れてきた。
それを引き金にして次々とホールに転がり出てくる彼らは、まだくんずほぐれつの状態だからいいものを、じきに立ち上がって襲いかかってくるはずだ。
首をひねることさえ忘れてしまった私は、しかし各扉が同様に開きつつ雪崩のように化物を排出している様子を感じていた。
臭いが一段ときつくなる。
「お姉さまあー」
私はフランに腕をつかまれると、とんでもない力で引っ張られながらある扉のほうへと走らされた。
その扉はひらきっぱなしであったが唯一、化物の影を匂わせていない。
二人で飛びこむと通路が一直線に舌を伸ばしていたが、後戻るわけにはいかないので全速で駆け抜けた。
もっとも幸運なのはヤツらが亀のように遅かったことか。
なのでたっぷりの余裕をもって通路を渡り終え、最後の地点にあった重たい鉄格子を――ご丁寧に太い鍵が差しこまれていた――閉めきると、私は肺につまらせていた息を吐き出した。
すると、正面から声がした。
「きたわね」
なんと壮絶にか細く、哀切を誘わずにはいわれない声だろうか。
私とフランはぎょっとして顔をあげた。
青い光を放つ、一回り大きなランプに照らされたパチェがいた。
先のホールに比べると焚かれたランプの数と質は段違いで、壁面を走る細かいひび割れまで観察できるほどだ。
どうやって運んできたかは無粋な質問だが、紅魔館にあるものと同じ長卓三つがいいかげんに配置されていて、その上では大量の本がランプの灯りに晒されている。
パチェは三つの卓の中央で、私たちに肉の削げ落ちた顔をむけた。
「臭いあいつらのいる部屋を開け放しておいたから、引き返すと思っていたのに、ここまで来るとは思わなかったわ」
そう喋ると、私たちに興味を失ったように、すぐ卓上の開いていた本へ目をおとした。
ああ、あの本、無造作に開かれた本のうちのアレは間違いなくネクロノミコンだ。
「はんっ、あの程度のバケモンで私たちがひるむなんて笑える話はないわ!」
調子のよい言葉を並べたてるフランに対しても、パチェは冷静だ。
「あいつら、見た目こそ救いようがなくグロテスクで、地獄からやってきた悪魔のような鳴き声だけど、とびきり強いってワケじゃないから。数が多いだけで、貴方たちなら全員を始末できるでしょう」
そっけなく返されて、フランは露骨に表情を歪めていた。
この二人をかちあわせると話が展開しそうになかったので、私はフランを待っていろと言いつけてから、パチェへ近づいた。
「こんなモグラしか住まなさそう場所に引きこもりっぱなしだと、からだ壊しちゃうわよ。ねえ、いっしょに帰らない?」
「レミィ、あなたやっぱり優しいわね。けどごめんなさい、もうちょっとだけ時間をちょうだい。最後にどうしてもやりたいことがあるの」
ゆったりしたパジャマを着ているからよいものを、わずかに透けて伺える身体のラインが、つつけば折れてしまいそうな形をしているのを、そんな人が振り絞って出す声をどうして平然と聞き続けていられよう。
そばで見るとパチェの損耗がよく分かって、肯定なんてできやしない。けれど、あからさまに否定するのも苦しくて、私は無言になっていた。
「クソッ、お姉さま、ちょっと優しすぎやしないかしら。パチュリーはひっぱり出してお灸をすえるくらいしないとダメよ。あんな有象無象を呼び出した罰は重くないといけない」
「やかましいわね、黙ってなさいッ!」
思いのほか自制のきかぬ張り上がった叫び声だったが、フランの口をつぐませるにはてき面だったらしい。
私は、パチェが異様で多少道徳に欠けた行いをしているのは理解している。
だが、強制したところでこのパチェの粘り強さがとどまるとは思えない。それは前回ネクロノミコンを取り上げたときに充分学習させられた。
せめてやりたいと言っているものが済んでからでもいいだろう。
「じゃあパチェ、それを最後にしてちょうだい、いいわね」
「分かってくれて助かるわ」
パチェは、誤解のないようにこの場ですぐさまやってしまおうと提案してきた。
かまわないのだが、そうあっさりできるものだろうか。例えば化物の召喚を、片手間で済ませられるものだろうか。
「本当は象牙の魔道書があれば言うことがないのだけれど、さすがに私の図書館では見つからなかった。いいえ、実はネクロノミコンですらココにあるはずのない本なのよ」
パチェは何冊かの本を片付けてしまうと、卓のかこみから抜けだして部屋の奥側へと移動した。
ついていって初めて気づいたが、そこの床には白亜で半径2メートル程度の円模様が描かれていた。直線と曲線が複雑に交じり合、いかにもな形。
俗にいう魔法陣というやつだ。
「これは力を集める集積装置、ここに魔力なり生命力なりを費やせば、やがて一時的な小宇宙となって全ての事情を巻き起こせる。例えいかなる神を冒涜するような行為でさえ私は扱えるようになる」
「冒涜? どういうこと?」
「しかし、当然のことながら宇宙を再現するのは容易ではない。実行するためにはある偉大なる神の御力を借りなければならない。けれど幻想郷の結界というやつは窮屈で、彼にむけて手紙を送ることさえ許してくれないの。何とか上手に迂回する方法はないかずっと探していたわ」
「彼って、誰よ」
「スキマのスキマのさらに奥深く、次元の密林を越えた場所にヨグ=ソトータは不安定な姿を忍ばせる。私は彼に知恵を借りるの。そうして今から執り行なう実験を成功させるの」
なんだろう、ヨグ=ソトータなる言葉の響きを耳にうけた途端に、得も言われぬざわめきが脳をじいんと痺れさせた。
どこの神様だろうか。ネクロノミコンに記された宗教が崇拝しているのだろうか。それにしても、身体の深淵まで潜ってくるこの感覚はなんだろう。
パチェとの会話は断片的すぎて理解しづらく、その感覚ばかりが余計に目立つ。
「実験は、死んでしまった者を蘇らせること。貴方たちが一匹殺してくれたから、今回はそいつに魂の回帰を経験してもらう」
「もしかして、化物をのさばらせていたのは、わざとだったの?」
「優しいレミィだから、直接お願いすればよかったかもね」
怒る気にすらなれないパチェの妄想じみた言葉を聞きながら、これは果たして見届けてよいものかと思った。
まさか死者の蘇生がなし得るとは到底思えないが、いまの静かながら狂気にとり憑かれている(ように見える)パチェが、その現象に近い何かをやらかす可能性を頭から否定するのは短絡的すぎる。
私は表ではパチェを見守る姿勢をとったが、裏では、何かあればパチェを昏倒させるのもいとわない決意をしていた。
「じゃあやってみてよ」
「レミィ、言わなくても分かるわ、貴方が私の言葉を疑っているのを。でも私はとっくに何度か試してみて成功へと導いているのよ。目にかけない羽虫やちょろちょろ目障りな鼠をつかってね。次はもっと巨大な生命力を誇った者で試したい。あいつらを蘇らせれば、恐らく人間も同じく。……レミィが心配する気持ちも分かるけど、決して危険を招いたりはしない」
パチェはいささか現実味に欠けた説明を終えると、魔法陣の前に立ち止まって何かをぼそぼそと詠唱しはじめた。
だが、詠唱と呼ぶにはごく短い文節がいくつか連なっているだけで、およそ魔法使いが唱えるものには聞こえない。もっと冗長的な詠唱がされると信じていた私は落胆した。
どの言語かも思いつかぬ音の運びと高低の具合が部屋にひろがり壁に反射する。
耳につく奇妙な音節が長ったらしく引き伸ばされながら、あたかも部屋を震わせているように粛々と響き渡る。胸中を引っ掻いてじわりと恐怖感をむしり出してくるのだ。
今更やめろと言うわけにもいかず、居心地がわるかった。
ワンセットの詠唱がおわると再び同じ調子で二度目が繰り返された。
しかし、どういうことだろう。
呪文に呼応するかのように、向こうでのたうっている化物どもがぶざまな合唱をやりはじめたではないか。二度目の詠唱が終わる頃には、合唱もいよいよ激しさを増し地下室すべてを暗黒におとしめんばかりの不気味さを演出していくではないか。
というのは単なる比喩ではなく、実際にそこらを覆った暗がりが蛇の波打つごとくにランプの灯りを侵食しだした様子を、私の優れた眼球は目撃した。
室内に滞っていた空気がランプの炎をいじめながら渦巻だしたのが、目に見えない者が呼吸をはじめたようだった。
フランも焦りを隠さずに危険だと言い出した。
「やめてっ」
私は耐えきれなくなってパチェの元へ飛びこんだ。
だが私がそうする頃には彼女は三度目の詠唱をきっかり終えていた。
突然、魔法陣は猛烈な光を発して、その幾何学的な模様を天井へ投影しだした。目の眩んだ私はまぶたを落としたままでパチェの身体をつかんで引き寄せた、彼女が光に飲みこまれてしまいそうに見えて、そうせずにいられなかった。
パチェは、きっと詠唱された言葉と同じであろう言語を、気違ったか、喉が擦り切れてしまいそうな金切り声を、彼女とは思えない声量で魔法陣にむかって吐き散らしていた。野犬の如く面を歪ませて魔法陣に吠えかかる姿は痛々しくて、恐ろしくて、見てられない。
私には意味をなしているのか判断できないが、一言二言の度に魔法陣の光が増幅したりちぢこまったり、うねったりと生物と見紛うばかりの変化を見せる。あるいは生物がそこに出現しているのか。
私はもう必死になってパチェの口をふさいだ。歯をたてられても手を決してひっこめず、拘束をより頑丈にした。犬歯が手の甲に喰いこみ皮を破る感触を味わいながら。
目がチカチカする。
視界がまともじゃない。
私だけではとても収集がつかない。
フランは何をしているのだろうか。
五感が乱れて何がなんだか分からないといった状況の中で、ふと咲夜の声が聞こえた。幻聴だろうか。
ところが、イヤに甲高い音が耳をうち、次には小さく薄っぺらいものが私の頭をかすめつつ光へ潜行していった。
たちまち光の奔流は散り散りばらばらと霧散していくと、紅茶に混ぜた砂糖が紅茶に溶けきってしまうように元の暗い風景へと戻っていった。
唖然となったのは私だけではなく、パチェでさえ騒ぐのをやめてもう暗澹たる魔法陣を見つめるばかりとなった。
魔法陣を形成していた白線はところどころ擦り切れて、部分的には模様を読み取るのが困難になっている。
「大丈夫ですか」
そうやって背中から私を気遣ってくれるのは誰でもない、咲夜しかいない。
幻聴ではなかったのか、私が涙目をまったくこらえることなく振り向いたところ、咲夜以外の背丈があったことに驚いた。
花のつぼみを想起させるゆったりした、紫色を基調とした服装を、幻想郷にいる者なら知らないはずがない。
こいつの顔を見ると胸が灼ける。
こいつ自身も好かない表情をしていない。
涙もひっこむ。
もっと後ろへ目をやると憮然として突っ立つフランがいて、彼女のそばの鉄格子は真っ二つにひしゃげている。妹が鉄格子を破壊したようだ。
とにかく、咲夜と八雲紫が助けにきてくれたようだ。
「パチュリー様を」
咲夜が私の腕から自失状態のパチュリーを引き取った。
「なんであんたがいるのよ」
私が敵意を露骨にみせびらかしながら八雲紫へなげた言葉を、かわりに答えたのは咲夜である。
「外にいた道中、つかまってしまいました。びっくりですよ。ここ最近の紅魔館で起きたアレコレを知っていたのですから」
「盗聴? 悪趣味ね」
八雲紫が傲慢そうに笑った。
「趣味が悪いのは私ではなく、その本の虫さんでしょう」
八雲紫が扇子でパチェを指したのには、何も言い返せなかった。
パチェは咲夜にかかえられた。私たちはそれぞれに飛行して地下室を脱出した。ホールに大量にわいていた化物どもは全て八雲紫の御札やクナイが仕留めていて、流れ出た血が放つ強烈な臭いは充満しきって鼻を麻痺させた。
図書館を出ると、紅魔館内にいくのでもなく外へ、その訳を八雲紫が言って私は耳を疑った。
人間の里へむかい上白沢慧音の力で、パチェのネクロノミコンに関わる記憶をすべてなかったことにするのだという。
記憶の操作なんて恐ろしい真似をなぜ私の友人がうけねばならない。こんなパッと出の妖怪のふざけた要求をなぜうけねばならない!
舐めるんじゃない。
パチェが本当に狂ってしまったとでも言うのか、それがもっとも親しい私たちにケアできないとでも。
ああ、ふざけるなッ、脳を玩具か何かと勘違いしてんじゃないの! 咲夜も咲夜で黙々とむらさきババアに従ってんじゃない。いつから妖怪の犬に成り下がった。ビッチだ、どいつもこいつもビッチだ。海馬にお花畑ができあがっているに違いないのよ! フランは眠いとかぬかしてついてこなかった、なんて使えない妹。パチェだって今すぐ目を覚まして“レイジィトリリトン”なり“シルバードラゴン”なりをぶちかましてくれればいいものを。
……。
そうとう興奮していた私をなだめたのは、咲夜と八雲紫からの哀れみを含んだ視線だった。
とくに咲夜の表情からは、お願いだから言う通りにしてほしいという切実さが、言葉にせずともひしひし伝わってきて、私はなんとも情けなくなった。
私はすごすごと彼女たちについて行き、里へいくと寺子屋を訪れた。
あまり見られない取り合わせだった私たちはさぞ珍しかろうと思ったが、事前に話を聞かされていたのか上白沢慧音は冷静に挨拶をくれた。
虚ろの気分で、上白沢慧音がパチェから記憶を抜き出して消去する作業を待った。
胸がすっかりがらんとしてしまった。
できるなら私の記憶も消してもらいたいものだ、と八雲紫に愚痴ってみると、できるなら関係者全員の記憶を切り取りたいのだけれど、と返された。
八雲紫は、ネクロノミコンや召喚された化物にパチェの語った幻想話とあの蜃気楼みたいな現象を、知っているのだろうか。
聞いてみると、知らないと言われた。
知らないほうがいい、とも言われた。
「知ったところで、貴方ごとき矮小な生物になにができることやら」
「矮小ですって、じゃあアンタならできるっていうの。例えばパチェが口にしていたヨグ=ソトータというヤツを打倒できるとでも」
「見境いなく名前を出すものじゃないわ」
「こわいの? おびえてるの?」
私がそう言うと、八雲紫は控えめながらに睨んできた。
図書館に作られた研究室と地下室は咲夜によって完全に閉鎖されて、小悪魔の奮闘によって関連した書物は元の戸棚にすっきり収まり、発端であるネクロノミコンは八雲紫が引きとっていき、死体の処理も彼女が行ってくれたおかげで形跡はまるで残らなかった。
元々こちらで見つけた本をこいつがよこせと言ってきたのは不服で、こちらで預かっておくと言いはしたが、ほぼ懇願して引き下がってくれなかったので不承不承に渡した。
翌日だったか翌々日だったか。
身体の具合を多少気にしながらも現場復帰した咲夜が、自室で本を読んでいる私の元へきた。
淹れられた紅茶がいつもと違うので、私は少し期待した。
「例の紅茶をついにいただきました。しつこく迫ったのが吉でしたね」
「私はそうしろと言ったわ」
さらに、前に私が要求した冷たい紅茶も実現されていた。
咲夜が言っていたとおり、風味はたしかに落ちている。
そのためこれが上等な茶葉をつかっているのかどうかさっぱり分からない。
私の要求に答えてくれるのは嬉しいが、なにもまとめて叶えなくてよいではないか。風味が素晴らしいという茶葉を、風味がおちる方法で淹れるとは。
どうしてこの従者という人間は、肝心なところで爪が甘いのか。
気は利くが変な失敗をよくおこす。
「その本、パチュリー様からすすめられて?」
「よくわかったじゃない」
二週間ばかりの記憶がなくなったパチェは、疑問をいだいてこそいたが私たちへ追求をせず、いつもどおり本を読みふけるばかりの不健康な日々へと帰り戻った。三食たべて睡眠も取ってくれているぶん、マシか。
パチェは本をくれる際に冗談のつもりか「空白の二週間をおしえてほしい」と真顔でよりそってきた。
私が申し訳なさと気まずさをいっぱいに感じているとパチェは大きく笑い飛ばした。どうやら辛気くさい表情になっていたらしい。
彼女に元気がもどってよかった。
いちおう全ては終わった。
ただフランが気になって仕方ないと言うから、後日、最初に埋めた化物の様子を確認しにいった。
フランの無法的な強力によって土をえぐり取り、化物がどうなっているかを恐る恐る見てみると、そこには何もない。
あの軟体の身体は欠片も見当たらず、悪臭撒き散らす体液は一滴とて土に染みこんでいない。
その悪臭ですら嗅ぎとれず、好きになれそうにない土の香りがあたりをおおった。
フランがたいそう面白がって仮説をたてた。
「パチュリーの死者蘇生の魔法は成功したんじゃないかしら。きっとあの動く光の中で、化物が身体を復元させていた。けっきょく行方知れずだけどね。ああ、横槍が入らなければ、私とお姉さまでとんでもない瞬間を目撃できたんでしょうね」
曲がりくねる光を割って現れる化物は土をかぶっていたかもしれない、傷口が癒えきっておらず血を流しほうだいかもしれない。
私は想像して、辟易した。
地下室でネタが割れてからの展開が定型すぎるのはやや不満。
クトゥルフかな?
是非知りたい
チャールズ・ウォードの奇怪な事件あたりでしょうか。
オチは元ネタより少々弱い気がしますが面白かったです。
お嬢様と咲夜さんが疲れ切ってギスギスした関係になるシーンとか、フランちゃんの一筋縄ではいかない迫力とか、すごく新鮮に感じました。
紅魔館はお嬢様の城だと思いますが、そこで追い詰められてゆくお嬢様にドキドキしました。
すっきりしない後味も余韻があって好きです。