人間とは奇妙なものでどれほど自暴自棄や自堕落的な状態に陥っても生存本能というものはある程度残るらしく、自分はまだ生温い血を流す足を地面に擦り付けながら歩いていた。絶望しか感じさせてくれない痛みが私がまだ生存していることを訴えかけ、カサカサになった口内が実に不愉快で、止まれば楽になれると分かりつつも私は歩き続けていた。
沸々と後悔だの疑念だの表現しがたい感情が浮かび上がっては消えていく、ああ、これが死ぬということなのだろうと客観的に感じさせてくれる程度にいい具合にぼんやりとかすみ続ける視界と思考回路に語り続ける。
ヒタヒタと後ろから相手が追跡しているのは知っている。私をいつでも殺すことができるが実行せずになぶり殺しにするつもりであることも十分把握している。しかし、私には歩き続けるという選択肢以外なかった。だから、歩く。
ボキリ背後で木の枝が踏み抜かれる音がして、私は地面に崩れ落ちた。足の筋肉が動くことを拒み、私の身体機能の大半が停止した。それでも私は死を何故か拒み続け、懐から小刀を取出し、相手の首に向かって振り抜いた。
「先ほどの一撃といい。なかなかの腕ね」
銀色の刀身が肌色の皮膚に突き刺さり、プツリと赤い血玉が浮かび上がった。それだけだった。最高級の業物でもこの相手にはかすり傷した与えることができない。その事実が酷く悲しく思えた。
「で、見たのね? 」
刃を食い込ませようと踠私を見て相手は目を細めて嘲笑った。その隙に私は返す刃で相手の眼球を狙った。いくら人外といえども眼球の強度は低いはずと条件反射的に脳が判断し、突いたしかし直前で黄緑色の紐に阻まれていた。産毛と側面に生えた小さな葉がそれが植物だと伝えてきた。
ズブリ
そんな音が耳の奥で聞こえ、私の視界は土で埋め尽くされ、その後、暗転した。ヒタヒタと足音が遠ざかっていくのが聞こえる。体の芯から温もりが失われていくのが感じられる。混濁した思考では何らかの答えを見出すことはできず。ただ、理不尽だと感じた。
「ええ、実に理不尽ね」
誰かの声が聞こえる。私に危害を加えた相手と異なりまるで深淵の底から響いてくるような声。女性なのか、男性なのかも判断しがたい。ただ、胡散臭いと私は何故か思った。
「あなたはただ、山籠りの最中に偶然に見つけた店に立ち寄っただけ」
その通りだ。私は人里で最高位の剣士と呼ばれながらもさらなる高みを目指したいと感じ、日々鍛錬を続けていた。山の厳しい環境に身を置こうと山で日々を過ごしているうちに奇妙な古道具屋を見つけ、そこに立ち寄ったのだ。
店内では人が捕食されていた。
私は戸惑うことなく、その魔窟から飛び出した。本能が勝てる相手ではないと激しく警鐘を鳴らしており、振り返りつつ居合を放ち自分の首に目掛けて伸びてきた緑色の物体を断ち切った。
「見たわね」
淡々と事実の確認をする声だった。その人物はそれなりの人里では有名な妖怪だった。名を確か風見何某という妖怪であり、時折花の種や園芸用の道具を人里で購入しており、妖怪にしては紳士的な態度であることで知られていた。
「見たのね? 」
もはや逃げられまいと悟った私にできることはただ一つであり、突きだされた日傘を受け流し、私は自分の鍛錬の全てを込めて刀を振るった。生涯の中で恐らく最も洗練された一撃は相手の右腕を若干切り裂くに終わった。
「そう、見たのね」
横薙ぎに振るわれた一撃を刀で受け止めたその瞬間に刀身はへし折れ、私の体はまるで鞠のように後方の森林の飛ばされたのだ。
そして、足を負傷した私は逃げ切ることができず、最後の一撃も無駄に終わり、現在に至る。私の回想が終わったのを察したのか再びどこか胡散臭い響きの声が聞こえた。
「遺言がありましたらどうぞ」
生憎と剣にこの身をささげた時から他人との関係は断ち切っている。ただ、あの妖怪が私を追いかけている間にあの店内にいた青年が生きており、運良く逃げ出せたかどうか分からないのが心残りだと私は告げた。
「…その愚直な姿勢。気に入ったわ。少しだけ見せてあげましょう」
ゾブリと泥を吸い上げるような音がした。既に感覚が失われた私の体から、また失われていく感触がした。
ゾブリ
ゾブリ
ゾブリ
ゾブリ
「幽香は不器用なの。とても、とても、不器用なの。だから、あんな形でしか人を愛せないの」
あの光景のどこに愛情があったのだろうか。私が見たのは店内に咲き乱れる数々の花、そして、天井から伸びた緑色の蔦のようなモノに絡み取られ、天井から吊るされた銀髪の青年。
まるで、美しい花を愛でる様にその頬を撫でる緑の髪を持つ女性
端的に表現するならば絶対の支配者が儚い命を圧倒的な独占欲で包み込んでいるような光景だった。
「アレが幽香なりの愛情表現。深すぎて、愚かすぎる愛情表現」
ゾブリ
ゾブリ
また、何か無くなっていく。
「店内で咲き乱れていた花は催眠効果を発し、その付近にいる生物を昏睡させる」
まるで植物のようにただ、生命活動を繰り返すだけの状態を愛でるのは愛情表現なのだろうかと私は訊ねた。
「もちろんそうですわ。あのように月に一度愛する男性である森近霖之助を拘束し、昏睡させ、愛で、舐り、貪り、愛す。片方のみが知る歪な愛情表現」
景色が移ろい、風景が変わっていく、地上が遥か下方に見え、私は空を飛んでいる。つまり、もうすぐ成仏するのだろうと見えるようになった視界で最後の光景を記憶に留めながら背後からの胡散臭い声を黙って聞き続けた。
「着きましたわ。快適な空の旅でしたでしょう? 」
おどける様な声に促され視線を移せば先ほどまで私が走っていた山道があり、件の店が見えた。扉が勝手に開き、中の状況が鮮明になった。相変わらず、店内の床と壁は薄紅色の花で覆われており、黄色い花粉が充満している。店内の奥で銀髪の青年が天井から吊るされており、近くの台の上にメガネが置かれている。
そして、風見幽香が優しく、ゆっくりと彼の頬を撫でていた。
まるで、花弁に触れるかのように。
ゆっくりと唇が近づき、軽く触れ、離れる。その繰り返し。
髪に触れ、手に触れ、胸に触れ、足に触れ、瞼に触れ
その表情は慈愛に満ちていた。
その静かすぎる光景を見て私は一枚の絵画のようだと思ってしまった。
それは確かに拙く歪ながらも美しい光景であり、一枚の大きな絵画の中に無数の絵画を詰め込んだ。多彩な情景に富む内容だった。
「最強であるが故に素直になれない。とても不器用な恋愛劇」
胡散臭い声は相変わらず解説を続ける。少し、煩わしかった。
「愛する者を独占している最中に邪魔をされれば誰であろうとも滅する残虐性とあの表情の対象性」
運の悪い私はそうやってこの一見に巻き込まれたのだろう。ようやく自分の身に起きた出来事を把握することができた。未だにこの至福の表情を浮かべている妖怪の女性に自分が殺害されたことが信じ難い。こんなにも優しい顔をしているのにという疑念が消えない。
そして、初めから何もなかったように蔦も花も皆消え、後には汚れた店内と青年と妖怪だけが残された。そこから私の視界は遠ざかり始めた。ここで終わりらしい。
「ほら、起きなさい店主。この私が入れたハーブティーが冷めてもいいのかしら? 」
青年の傘を揺さぶりながら風見幽香という女性はそう語りかけているのが最後に聞こえた。 店の窓辺付近に咲いていたひまわりが何故か太陽の方角ではなく、店内に向かって咲いている奇妙な現象が何故か気にかかった。それはまるで…
ズット ミテ メデテ アゲル イツモ イツモ
そう語っているように私には思えた。
沸々と後悔だの疑念だの表現しがたい感情が浮かび上がっては消えていく、ああ、これが死ぬということなのだろうと客観的に感じさせてくれる程度にいい具合にぼんやりとかすみ続ける視界と思考回路に語り続ける。
ヒタヒタと後ろから相手が追跡しているのは知っている。私をいつでも殺すことができるが実行せずになぶり殺しにするつもりであることも十分把握している。しかし、私には歩き続けるという選択肢以外なかった。だから、歩く。
ボキリ背後で木の枝が踏み抜かれる音がして、私は地面に崩れ落ちた。足の筋肉が動くことを拒み、私の身体機能の大半が停止した。それでも私は死を何故か拒み続け、懐から小刀を取出し、相手の首に向かって振り抜いた。
「先ほどの一撃といい。なかなかの腕ね」
銀色の刀身が肌色の皮膚に突き刺さり、プツリと赤い血玉が浮かび上がった。それだけだった。最高級の業物でもこの相手にはかすり傷した与えることができない。その事実が酷く悲しく思えた。
「で、見たのね? 」
刃を食い込ませようと踠私を見て相手は目を細めて嘲笑った。その隙に私は返す刃で相手の眼球を狙った。いくら人外といえども眼球の強度は低いはずと条件反射的に脳が判断し、突いたしかし直前で黄緑色の紐に阻まれていた。産毛と側面に生えた小さな葉がそれが植物だと伝えてきた。
ズブリ
そんな音が耳の奥で聞こえ、私の視界は土で埋め尽くされ、その後、暗転した。ヒタヒタと足音が遠ざかっていくのが聞こえる。体の芯から温もりが失われていくのが感じられる。混濁した思考では何らかの答えを見出すことはできず。ただ、理不尽だと感じた。
「ええ、実に理不尽ね」
誰かの声が聞こえる。私に危害を加えた相手と異なりまるで深淵の底から響いてくるような声。女性なのか、男性なのかも判断しがたい。ただ、胡散臭いと私は何故か思った。
「あなたはただ、山籠りの最中に偶然に見つけた店に立ち寄っただけ」
その通りだ。私は人里で最高位の剣士と呼ばれながらもさらなる高みを目指したいと感じ、日々鍛錬を続けていた。山の厳しい環境に身を置こうと山で日々を過ごしているうちに奇妙な古道具屋を見つけ、そこに立ち寄ったのだ。
店内では人が捕食されていた。
私は戸惑うことなく、その魔窟から飛び出した。本能が勝てる相手ではないと激しく警鐘を鳴らしており、振り返りつつ居合を放ち自分の首に目掛けて伸びてきた緑色の物体を断ち切った。
「見たわね」
淡々と事実の確認をする声だった。その人物はそれなりの人里では有名な妖怪だった。名を確か風見何某という妖怪であり、時折花の種や園芸用の道具を人里で購入しており、妖怪にしては紳士的な態度であることで知られていた。
「見たのね? 」
もはや逃げられまいと悟った私にできることはただ一つであり、突きだされた日傘を受け流し、私は自分の鍛錬の全てを込めて刀を振るった。生涯の中で恐らく最も洗練された一撃は相手の右腕を若干切り裂くに終わった。
「そう、見たのね」
横薙ぎに振るわれた一撃を刀で受け止めたその瞬間に刀身はへし折れ、私の体はまるで鞠のように後方の森林の飛ばされたのだ。
そして、足を負傷した私は逃げ切ることができず、最後の一撃も無駄に終わり、現在に至る。私の回想が終わったのを察したのか再びどこか胡散臭い響きの声が聞こえた。
「遺言がありましたらどうぞ」
生憎と剣にこの身をささげた時から他人との関係は断ち切っている。ただ、あの妖怪が私を追いかけている間にあの店内にいた青年が生きており、運良く逃げ出せたかどうか分からないのが心残りだと私は告げた。
「…その愚直な姿勢。気に入ったわ。少しだけ見せてあげましょう」
ゾブリと泥を吸い上げるような音がした。既に感覚が失われた私の体から、また失われていく感触がした。
ゾブリ
ゾブリ
ゾブリ
ゾブリ
「幽香は不器用なの。とても、とても、不器用なの。だから、あんな形でしか人を愛せないの」
あの光景のどこに愛情があったのだろうか。私が見たのは店内に咲き乱れる数々の花、そして、天井から伸びた緑色の蔦のようなモノに絡み取られ、天井から吊るされた銀髪の青年。
まるで、美しい花を愛でる様にその頬を撫でる緑の髪を持つ女性
端的に表現するならば絶対の支配者が儚い命を圧倒的な独占欲で包み込んでいるような光景だった。
「アレが幽香なりの愛情表現。深すぎて、愚かすぎる愛情表現」
ゾブリ
ゾブリ
また、何か無くなっていく。
「店内で咲き乱れていた花は催眠効果を発し、その付近にいる生物を昏睡させる」
まるで植物のようにただ、生命活動を繰り返すだけの状態を愛でるのは愛情表現なのだろうかと私は訊ねた。
「もちろんそうですわ。あのように月に一度愛する男性である森近霖之助を拘束し、昏睡させ、愛で、舐り、貪り、愛す。片方のみが知る歪な愛情表現」
景色が移ろい、風景が変わっていく、地上が遥か下方に見え、私は空を飛んでいる。つまり、もうすぐ成仏するのだろうと見えるようになった視界で最後の光景を記憶に留めながら背後からの胡散臭い声を黙って聞き続けた。
「着きましたわ。快適な空の旅でしたでしょう? 」
おどける様な声に促され視線を移せば先ほどまで私が走っていた山道があり、件の店が見えた。扉が勝手に開き、中の状況が鮮明になった。相変わらず、店内の床と壁は薄紅色の花で覆われており、黄色い花粉が充満している。店内の奥で銀髪の青年が天井から吊るされており、近くの台の上にメガネが置かれている。
そして、風見幽香が優しく、ゆっくりと彼の頬を撫でていた。
まるで、花弁に触れるかのように。
ゆっくりと唇が近づき、軽く触れ、離れる。その繰り返し。
髪に触れ、手に触れ、胸に触れ、足に触れ、瞼に触れ
その表情は慈愛に満ちていた。
その静かすぎる光景を見て私は一枚の絵画のようだと思ってしまった。
それは確かに拙く歪ながらも美しい光景であり、一枚の大きな絵画の中に無数の絵画を詰め込んだ。多彩な情景に富む内容だった。
「最強であるが故に素直になれない。とても不器用な恋愛劇」
胡散臭い声は相変わらず解説を続ける。少し、煩わしかった。
「愛する者を独占している最中に邪魔をされれば誰であろうとも滅する残虐性とあの表情の対象性」
運の悪い私はそうやってこの一見に巻き込まれたのだろう。ようやく自分の身に起きた出来事を把握することができた。未だにこの至福の表情を浮かべている妖怪の女性に自分が殺害されたことが信じ難い。こんなにも優しい顔をしているのにという疑念が消えない。
そして、初めから何もなかったように蔦も花も皆消え、後には汚れた店内と青年と妖怪だけが残された。そこから私の視界は遠ざかり始めた。ここで終わりらしい。
「ほら、起きなさい店主。この私が入れたハーブティーが冷めてもいいのかしら? 」
青年の傘を揺さぶりながら風見幽香という女性はそう語りかけているのが最後に聞こえた。 店の窓辺付近に咲いていたひまわりが何故か太陽の方角ではなく、店内に向かって咲いている奇妙な現象が何故か気にかかった。それはまるで…
ズット ミテ メデテ アゲル イツモ イツモ
そう語っているように私には思えた。
霖之介の今後がきになるます。
読んでて心臓の辺りにザワザワしたものを感じました。
斜め上に狂った愛もまた、純粋なり。